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「罪悪を観ていく」んじゃなくて、「南無阿弥陀仏」した人の信心が「真実信心」やで。(「内観」と「真実信心」は違うで。補足)

【「内観」と「真実信心」は違うで。】の補足。

このブログを見ている皆さんはわかっていると思うけど、

「罪悪を観ていく」んじゃなくて、
「南無阿弥陀仏」した人の信心が「真実信心」やで。


これは、【やさしい浄土真宗の教え】§9-11で詳しく解説した所やから、
まだ読んでない&忘れた人は、ちゃんと読んで勉強してや。
 ↓ ↓ ↓ ↓

【「南無阿弥陀仏」と信心に関する話】

§9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
 1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
 2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
 3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
 「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
 ★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」という【勅命】、
 ★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
 ★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」という【選択本願】、
  として解釈されている。
 4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
  衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
  人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
 5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
 「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
 【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。

§10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ
 1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
 「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
 ★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
  【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
 ★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
  【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
 ★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
  【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
  として解釈されている。
 2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
  善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
 3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
  永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
 4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。

補講
Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について
Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因


§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)
 1、様々な「信心」の中でも特別な、
  「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
 2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」
  になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、
  二つの角度から明らかにしたものである。
 3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
 4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
 5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
 6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
  いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
  「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。



メモ「自業自得の救済論」

用管窺天記 「自業自得の救済論」 より無断転載
 ↓ ↓ ↓ ↓

高森親鸞会という浄土真宗を名乗る新興宗教の団体がある。
この団体は、かって本願寺派紅楳英顕氏との間で宿善について論争したことがある。
紅楳氏の「破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示して欲しいとの主張を、「真宗に善をすすめる文証などあろうはずがない」と、紅楳氏の主張を歪曲し非難した過去がある。

その論争の中で真宗における善の勧めの根拠として高森親鸞会から提示されたのが「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」という七仏通誠偈であった。

この、七仏通誠偈をもって真宗に善の勧めがある、と高森親鸞会は主張するのである。
本願寺派では、あまりにも浄土真宗の基礎を知らない幼稚な主張にあきれはてて放置しておいたのだろうが、これをもって高森親鸞会内部では本願寺を論破した稀代の善知識として会員獲得のスローガンになっているらしい。

また、
「善因善果 悪因悪果 自因自果」の厳然たる因果の道理を知らされた者は、必ず「廃悪修善」の心が起きる。
高森親鸞会HP

と、主張し、「廃悪修善」を勧めていることは周知の事実である。
同様に、高森親鸞会では「善の勧めはなぜなのか」と自問し、

「十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。
要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。
実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。」
同上

と主張している。

親鸞聖人には「願界真仮論」があるが、高森親鸞会では、この三願転入の論理を聖道門の自業自得の因果論によって解釈し、会員に善を勧め(主として人集め金集め)十八願直入の道を遮蔽しているのである。

十八願は阿弥陀如来の本意の願であり、十九願二十願は不本意の願である事は親鸞聖人の「願界真仮論」によって顕かである。何故に会員に阿弥陀如来の不本意の十九願二十願を勧め、ましてや六度万行(六波羅蜜)という法蔵菩薩の五劫兆歳永劫の修行を会員に奨励するのであろうか。

本願寺派勧学梯實圓和上は自著『顕浄土方便化身土文類講讃』で以下のように述べられている。

真仮論の救済論的意義ー自業自得の救済論
阿弥陀仏の本願のなかに真実と方便を分判し、浄土三部経にも真実教と方便教があるといわれた親鸞聖人は、そのように真仮を分判しなければならないのは「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」るからであるといわれていた。逆にいえば、真仮を分判することによって、はじめて如来の救いの真相が明らかになるというのであった。その意味で真仮論は、聖人の救済論の根幹にかかわることがらだったのである。

真仮論とは、浄土教を、さらに広くいえば仏教を、二つのタイブの救済観に分けることであった。第一は、自業自得の因果論に立った救済観であり、それは論功行賞的な発想による救済観であった。
第二は、大悲の必然として救いが恵まれるとする自然法爾の救済観であって、それは医療に似た救済観であった。
自業自得の因果論に立脚した救済観というのは「誠疑讃」に

自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける

といわれているような、自力の行信因果をもって救済を考えていく思想をいう。
それは浄土教というよりも、むしろ仏教に一般的に共通した思考形態であったといえよう.
有名な七仏通誠の偈とよばれる詩句がある。

諸悪莫作(もろもろの悪は作すことなかれ)
衆善奉行(もろもろの善は奉行せよ)
自浄其意(自らその意を浄くす)
是諸仏教(これ諸仏の教えなり)

というのである。悪を廃して善を行じ、無明煩悩を断じて、自心を浄化し、安らかな涅槃の境地に至ることを教えるのが、すべての仏陀の教えであるというのである。

このように廃悪修善によって涅槃の果徳を実現しようとする自業自得の修道の因果論が、七仏通誠といわれるように、仏教理解の基本的な枠組みであった。
このような自業自得の因果論の延長線上に浄土教の救済を見るのが第一の立場であった。

法然聖人を論難した『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」によれば、諸行往生を認めない法然は『観経』等の浄土経典や、曇鸞、道綽、善導にも背く妄説をもって人々を誤るものであるといっている。
すなわち『観経』には、三福九品の諸行による凡聖の往生が説かれているが、彼等が往生するとき、仏はその先世の徳行の高下に応じて上々から下々に至る九品の階級を授けられていく、それが自業自得の道理の必然だからである。
たとえば帝王が天に代わって官を授くるのに賢愚の品に随い、功績に応ずるようなものである。しかるに専修のものは、下々の悪人が、上々の賢善者と倶に生ずるように主張しているが、「偏へに仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚痴の過」を犯していると非難している。

これは明らかに自業自得、廃悪修善の因果論をもって、法然教学を批判しているもので、『興福寺奏状』の起草者、解脱上人貞慶からみれば法然聖人の浄土教は、仏教の基本的な枠をはみ出した異端でしかなかったのである。
『顕浄土方便化身土文類講讃』(梯實圓著)P61~

高森親鸞会のHP「承元の法難」には何故か『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」が意図的に省かれている。同上

参考の為に意図的に省略された『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」の部分を提示しておく。興福寺奏状

これは、前掲の梯實圓和上の説にもあるように、高森親鸞会の主張する「廃悪修善」「自業自得の因果論」にとって都合の悪いものであるから意図的に省いたのであろう。

承元の法難では『興福寺奏状』に説かれる論理によって、法然聖人の門弟四人の死罪、法然聖人と親鸞聖人など中心的な門弟七人が流罪に処さるという未曾有の念仏弾圧が行われた。

高森親鸞会では、同じような廃悪修善の因果論の論理によって、まさに法然・親鸞という両聖人が説かれた選択本願念仏という宗義を破壊し毀損しているとしか思えないのである。

親鸞聖人は、

西路を指授せしかども
 自障障他せしほどに
 曠劫以来もいたづらに
 むなしくこそはすぎにけれ

と、自らが迷い人を惑わせることを自障障他と言われているが、高森親鸞会の講師の方々に言いたい。
自らが迷うなら、それこそ自らの属する高森親鸞会の信条である「自因自果」であるが、どうか他者である会員を惑わせないで頂きたい。


ものすごく納得がいく、スマナサーラ長老の因果論

テーラワーダ仏教ゴータミー精舎日記より
http://gotami.j-theravada.net/

質問者への長老の回答
 ↓ ↓ ↓

質問3 結局のところ、お釈迦様が説かれた「自業自得」とは、(1)「自分に起る幸不幸の出来事は"すべて"自分の責任である」ということなのでしょうか? あるいは、(2)「自分に起る幸不幸の出来事は自分"にも"責任がある」ということなのでしょうか? あるいはもっと適切な理解の仕方があるのでしょうか? 個人的には、(2)ならば、まぁ納得できます。だって「全部社会や周りのせい」も極端ですし、「全部自分のせい」も極端じゃないですか? 同じ境遇でも幸福に感じるか、不幸に感じるかは人によって違います。そういうところは「自業自得(自分で何とかできることだから)」かもしれませんけど、「これは自分の責任ではない、社会の問題だから、社会で解決してもらわなくては」と、社会を変えるように頑張ったほうが、公共の福祉(たくさんの人の幸福)に繋がる場合 だってあると思います。

答え  正確に言えば、「起こる出来事」は自業自得ではないのです。純粋な出来事、という意味では自業自得の面もあり、他業自得の面もあり、まとめて言えば多業多得です。自分、他人、社会情勢、自然環境といったさまざまな因縁が重なり合って複雜な現象が成り立つのです。唯識思想ではあるまいし、初期仏教では現象としての外界の存在をきちんと認めています。それをすべて無視して自業自得というのは、極論であり邪見です。

  社会というのは単なる現象ですから、無常・苦・無我であって、因縁関係の流れであって、それ自体は究極的には無価値なのです。無知な人間が作った社会で、仮に作られた約束事にもとづいて、争って苦しんでいます。人間の身体とおなじく、国家も社会もメンテナンスしなければおかしくなってしまう。だから、構成員一人ひとりが、社会をよりましな現象の流れに変えていくように頑張るしかないのです。しかし、そこに完璧な正解というものも成り立たない。つねに試行錯誤しながら、社会を構成している生命が幸せでありますように、という慈しみの動機付けをもって、理性的に社会と関わる中道的な生き方をするということが答えなのです。

 多くの因縁で構成された「出来事」を個人レベルの自業自得に還元することは行き過ぎです。ましてや他人を差別したり不正を正当化したりするために使うなどもっての外です。しかし、個人が出来事に直面した時に成り立つ「幸不幸」は主観的なものですから、あくまで自業自得なのです。ある「出来事」を幸福と感じるのも自分、不幸と感じるものも自分、だからです。同じ現象の流れに対して、自分がどう向き合うか、どうはたらきかけるか、というのは自分で決めるしかありません。また過去においても自分で決めてきたのです。このように、複雜な因縁の絡まりあいである現象に対する反応がすなわち自業であって、その自業が次の自分をつくっていく(自得)という意味で、自業自得です。先ほど述べたように、現象に対する反応(感受=心)の流れが輪廻であって、輪廻の見方からすれば、自業自得しか成り立たないのです。そのように厳密な真理として自業自得を認めることで、人は向上への道を歩むことができるようになります。(終わり)




上記に対する、オイラのお友達(♀)の感想
 ↓ ↓ ↓

ものすごく明晰。
「出来事」と「出来事の結果おのおのが抱く心情」をごちゃまぜのままに、他人に対して「あんたの業のせいである~。」などと言ってはいけないのだ。
とってもスッキリした。

嫁いだ家のお寺にお上人がおらず、仏縁の薄いところへ嫁いだのが私の業なのではなく、その状況を幸せに思うか不幸せに思うかということが私の業に左右されるのである。
高校を出た若者は進学するにも就職するにも地元をはなれて都市部に出て行かなければどうしようもない田舎で、若者はどんどんへり、年寄りばかりが取り残されている。親が死んだって、葬式のためにちょこっともどってくるだけだ。年寄りが死んでしまうとそれで地元のその家は絶えてしまい、門徒の数はどんどん減って行く。お寺さんだって、そんな田舎に常住の人員を配置するより、都市部に手厚く配置しておいた方がお金的に有効性を生むので、そうするのである。
業の深い人間が田舎に生まれて仏縁から遠のくのではない。
田舎がさびれゆくのは、田舎の事をかえりみず、どんどん切り捨てて行った国政の責任によるところが大きい。
個人の業のせいならば、業の深いモンがじゃかすか田舎に生まれ落ちて、今頃田舎は大盛況であるだろう。






流石や~。 この「業」理解が仏教の正統やね。

「環境」に基づいて「楽」「苦」を感じる「オレ」と、
それ自体は「楽」でも「苦」でもない「環境」をごっちゃにして、
それにまで「オレ」の責任を当てはめると、
とんでもない差別思想になっちゃうねん!!
 
ヘンテコドグマ野郎(※)は、これは最低四十八回熟読せよ!!

※こいつ。
 ↓
静かな劇場 因と縁
http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/d05e56dce8576055cd0c909f00bd3ac6

【お知らせ】Hiroshi Makino氏が淀川コナン氏からトンズラしました。

「苦笑の独り言」をご覧の皆様へ

Hiroshi Makino氏が、今度は淀川コナン氏からトンズラしました。

以下、淀川コナン氏からの投稿です。
 ↓ ↓ ↓

管理人様へ。
宣言通りコメントします。
管理人様が噂通りのMさんならば残念です。
Mさんには大変お世話になり、尊敬をしておりました。
私とのやり取り(改変されていますが)を削除されたので、このコメントも不掲載にせざるを得ないでしょう。
管理人様から頂いた質問には以下のブログに回答しました。

「苦笑の独り言」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

その中の10月13日の記事
「今度もショウモナイ言い訳でトンズラですか(苦笑)」

のコメント欄10月14日「淀川コナン」で回答しております。
是非とも返答お願い致します。(苦笑氏のコメント欄で結構です)
HNは「TAXI」でも「ちび丸」でも、なんでも構いません。
お忙しいでしょうから一週間以内(10月24日AM8:00まで)にご返答願います。
もしもご返答なければ、このコメントを公表します。

以上の内容を「辛口!真宗時評」に10月16日夜にコメントしましたが、管理人からは返答がありません。
予告通り公表します。

淀川コナン。


メモ「仏教における善悪」

用管窺天記 「仏教における善悪」 より無断転載
 ↓ ↓ ↓

仏教における善悪

10 月 20th, 2008
講義録から引文

仏教で善悪と言うのはどういう事かと言うと、善悪というのは行為の倫理的な価値判断の言葉です。
その行為が良い行為であるか悪い行為であるかというので善悪という言葉を使う訳です。

行いの倫理的な価値判断を善悪と言う訳です。行いの事を仏教ではカルマンとかカルマという言葉を使います。翻訳して業と言います。それは行いという事です。自らの自由な意志によって決断をして身体で口で心である行為を行う。そういう行為を業という言葉で顕わしております。

その行為の倫理的な価値判断の言葉が善悪という言葉です。精密に言いますともう一つあります。善・悪・無記というのです。無記というのは善とも悪とも判定できない行為の事を無記という言葉で言います。そこで正確に言いますと善・悪・無記という三つの倫理的な性質というので、これを三性という言葉で顕わします。行為の倫理的性質の事です。

善というのは何かと言ったら、その行いによって自他の上に安らかな状況を作り上げていくような行いを善と言うのだ。善というのは安穏なる結果をもたらす行為です。安穏というのは安らかな穏やかなという事で、その行為の結果、自分も人も安らかな穏やかな生き方ができるような行為の事を善と呼ぶのです。

それに対して悪というのは非安穏なる結果です。この非安穏なる結果とは何かと言ったら苦悩です。安穏なる結果というのは苦悩に対して楽です。だから非安穏なる結果、つまり苦悩を生み出していくような行為を悪と呼ぶ訳です。だから悪というのは苦果を招くもの、善というのは楽果を招くものと昔から言うのです。

苦とか楽というのは結果なのです。行いによってもたらされる結果なのです。苦とか楽というのは善でも悪でもないのです。苦楽は善でも悪でもありません。苦は悪ではありません。楽は善ではありません。善・悪というのはそういう状況を造り出していく行いの事に名付けるのです。これは非常に精密な言葉です。

例えば地獄というのは苦しみの一番最たるものですが、地獄は悪ではないのです。あれは悪によって造り出していく結果であって地獄そのものは無記なのです。善でも悪でもない。幸せな状況というものも善でも悪でもない。それも無記な状況です。

だから地獄においては善を造る事もできる。天上界という楽なる所において悪を造る事もできる訳です。ですから善悪というのは私達の行為に対して倫理的に判断した言葉が善悪という言葉で、これは精密に言葉を使わないと意味をなしません。

この行為の事を仏教では業と言います、業という言葉はどうも誤解がありますので使いません。誤解する言葉は使わない方が良いのです。だから行為としておきます。それで良いのです。カルマという事は行為という事です。行為というのは何かと言うと、先ず行為の主体は自由な意志を持った者です。自由な意志を持った者でなかったら行為はできません。物が動いてるという事と行為とは別です。行為というのは必ず自由な意志によって決断して行っていく事です。意志によって決断して行っていく事を行為と言う訳です。意志的なはたらきの事です。従ってそういう意志的な決断によって行った行為の結果についての責任は自分が持たねばならないという事です。反対に自分の行為によって行った結果でないものに対しては責任を持つ必要はありません。これはハッキリしております。何に対して責任を持つか、何に対して責任を持たなくて良いのか、これは仏教はハッキリさせています。郵便ポストが赤いのも私のせいでございます。そんな事を言いはしません。

自分が自由なる意志の決断によって行った結果、その結果に対して自分が責任を持つのです。ただし自分が決断すべき事を決断しなかったという事も勿論自分の責任になります。だけど責任というのは意志的な決断によって行為をし、それによって受ける結果に対して責任を持つという事です。全く自由な意志がはたらかない状況において生み出していった結果に対しては責任を持つ必要はないのです。だから例えば心身喪失の状態で行った犯罪に対しては、その責任は問わないという事です。これは当然です。それは自由なる意志によって決断した行為ではないのですから。逆に意志的に決断して行った行為に対する責任は絶対逃れてはいけない、逃げようとしてはいけないという事です。そういう点が非常にキッチリした事を語る訳です。

・・善=安穏なる結果(楽)をもたらす行為
三性・・悪=非安穏なる結果(苦悩)をもたらす行為
・・無記=善とも悪とも判定できない行為

そこで話を元へ戻しますが、善と悪と無記というのはこういう事です。自分と及び人に対して安穏なる結果をもたらすような行為を善と言い、自分と人に対して非安穏なる結果をもたらすような、苦しみの結果をもたらすような行為を悪と言うのだという風に定義をしております。

そうしますと悪い事をするという事は何かと言うと、自分と人と苦しめるという事です。自他を苦しめていく、そういう状況を悪と言う訳です。だから悪をなす者というのは一番惨めな者だという事です。憐れむべき存在であるという事です。善なる行為を行っておるという事は、それは称讃されるべき者である。自分自身ものびのびとした安らかな生き方ができるし、また称讃に値する人である。

だけど自ら悪を造って苦しみの中に沈んでいく人は当然非難されるべき存在です。これは当然の事です。これが善悪という言葉の持つ意味です。だから仏様が悪人を救うと言ったら。この悪人をどうする事なのかと言いますと、ちょうどお医者さんが病人の病気を治して健康にしていくように、もう悪に染まる事のない者に仕上げていくという事が救いなのです。

ダンマパタ
67 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
68 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。  

【ツッコミ依頼】「 M野氏ではないyo」をシメテください。

【依頼者】

いつもお世話になっております。
既にご存じかもしれませんが、以下のブログのコメント覧で、
「 M野氏ではないyo」を名乗る人物が、不当なアラシ行為を行っております。

スルーしてもいいのですが、鬱陶しいので一発ガツンとシメテください。

親鸞会教義の誤り 2009-10-09 お知らせ
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-24.html



【苦笑】

おお!
卑怯・卑劣・インチキ・ヘタレ・捏造・論点スライド野郎が、そちらに現れましたか!

既にいろんな方のコメントでフルぼっこになってますので、
私がさらに付け加える必要はありませんが、
オシオキの意味で、過去に掲載されたいくつかの記事を再掲載しておきますね。
 ↓
(再掲載)Q&A(10)ネット対策員にどう対処するか?
(再・再掲載)ちび●さんのおかげでわかりました!!五願開示もパクってた?!
(再掲載)【お知らせ】「辛口!真宗時評」管理人様とのやりとり終了のお知らせ
(再掲載)Q&A(9)これが「伝統と己証」と言えるのでしょうか?

自身のエラーで親●会の誤りが浮き彫りになったやり取りを晒されるのが、
件の輩には、一番大きなダメージになりますからね(笑)。

まあ、腐海の蟲みたいなものですから、また忘れたころに現れるでしょうけど(苦笑)。


というか、
五願開示ネタのパクリを晒されて、


ikiruimiwositte  2009/2/5(木) 午前 0:55

大沼氏は学者ですから、そういう説があるということで勉強になりました。
祖師聖人は御文と願を対比されてませんからそういう解釈もあるのでしょうね。

 ↑
こ~んな苦しいことを言ってたのは、
どこの誰だったんでしょうかね~?(苦笑)




参考

卑怯・卑劣・インチキ・ヘタレ・捏造・論点スライド野郎が触れて欲しくない話題?!
 ↓
辛口!真宗時評での断章事件を追う(1) 管理者の正体を隠した布教と勧誘
辛口!真宗時評での断章事件を追う(2) 論点はどこか?
辛口!真宗時評での断章事件を追う(3) 不誠実な対応その1

(再掲載)Q&A(10)ネット対策員にどう対処するか?

腐海の蟲への制裁処置につき再掲載(笑)。



Q。
某巨大掲示板に、苦笑さんを名指しで批判する書き込みがされていますが、
苦笑さんはご覧になられましたでしょうか?

親●会の教義や反社会的行為を取り上げる掲示板に、
そのような書き込みをするのは不適切であると思いますが、
繰り返し書き込みがされるので非常に迷惑しております。

そのようなネット対策員に、どのように対処したら良いか?
何かよいアイデアがあればアドバイスよろしくお願いします。



A。
全く迷惑な話ですよね(苦笑)。

私に意見があるなら、このブログのコメント覧やメールで、
直接私に言ってくればいいのに、沢山の方が利用する掲示板に書き込みするのは、
全く、自己中で非常識で迷惑千万な話だと思いますよ(苦笑)。

そのような輩は基本的に「シカト」するのが一番だと思いますが、
放置しておくと、また勝手に勝利宣言して超ウザイので、
話題にしてほしくないであろう、過去の失態を晒し者にして、
黙らせるのも有効かと思います。

教義上の話をしても、どうせまたぐちゃぐちゃ言ってきますので、
彼の書き込みが、高●先生のパクリ損ないを暴くことになってしまった、
親●会のネット対策員として蒸し返してほしくないような以下の話題を、
もう一回蒸し返してあげちゃうってのが、有効なんじゃないかと思います。
 ↓
とりあえず、これは読んでおいてね!!
ちび●さんのおかげでわかりました!!五願開示もパクってた?!

私のブログでも再掲載しておきましたので、
またぐちゃぐちゃウザかったら、蒸し返して黙らせてください。

(再・再掲載)ちび●さんのおかげでわかりました!!五願開示もパクってた?!

腐海の蟲への制裁処置につき再・再掲載(笑)。



※とりあえず、これは読んでおいてね!!

以下、ちび●さんのおかげでわかりました!!

この親●会講師試験の問題&解答は、
元親●会講師部のメル友からもらったものなんですが、

 ↓ ↓ ↓

~親●会 平成4年度後期・講師試験問題より~

問4 十八願の心は五つの願にあらわすことができるが、その五つの願を
   示し、その五願を本願文と対比せよ。

答4 ◎十一願・十二願・十三願・十七願・十八願

   ○十一願……若不生者
   ○十二願……至心信
   ○十三願……楽欲生我国
   ○十七願……乃至十念

~親●会 平成4年度後期・講師試験 11月22日実施 問題 より~



親切なちび●さんが、上記の解答の間違いを指摘して、
丁寧に五願開示を解説してくれました~。
 ↓ ↓ ↓

生きる意味を知って幸せな人生を ゲストブック

ikiruimiwositte 2009/2/2(月) 午後 7:05
(略)
 それと、この答え違ってません?
 十二、十三願が「至心信楽欲生我国」?

五願開示をもう一度勉強されたほうがよろしいかと思います。



五願開示とは(そんなにわかりにくいかね?)

「たとひわれ仏を得たらんに、

十方の衆生、至心に信楽してわが国に生れんと欲ひて、

乃至十念せん。

もし生れざれば、正覚を取らじと。

ただ五逆と誹謗正法を除く」(十八願)

これに五願の意があると開かれたのが教行信証の「五願開示」といいます。

行巻に「乃至十念」......十七願

信巻に「至心信楽欲生我国」......十八願

証巻に「若不生者」.......十一願

真仏土巻に「(不取)正覚」......十二、十三願


>信巻に「至心信楽欲生我国」......『十八願』→ここに明らかにされた十八願がある。

これが親鸞聖人の御己証。

往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あ
り。乃至。
真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
 若不生者(→この『生』には「浄土に生まれさせる」という意味がない)
 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

>若不生者(→この『生』には「浄土に生まれさせる」という意味がない)

なぜなら「正定と滅度」は11願に誓われているから。
またこの11願を「難思議往生」と証巻に表されています。

以下文証。

 往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あ
り。
 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無
量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」
 真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲
生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」
 真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果
の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必
至滅度者 不取正覚」
 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。
 この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。 (如来二種回向文)




なんで親●会の模範解答が間違ってるんだろ~?
というわけで・・

元親●会講師のメル友に聞いてみました~♪
 ↓ ↓ ↓

苦笑ちゃんが貰ったメール

頂きましたご質問についてですが、講師試験の答えが発表の後、確か平成4年の教学講義で、ある人の質問で五願開示について、18願との対応関係が、なぜそうなるかを聞かれた人がありましたが、その時の高●先生(※注 苦笑が伏せ字にしました)の答えは、知らなくてもいい、というような答えで、誤魔化された感じがしました。

12願が至心信、13願が楽欲生我国に当てはめるのは、一般の真宗の学者では、大沼法龍氏しか私は知りません。何冊かの真宗学者の書いた本では、12願、13願は、正覚に対応する、とあったのを読んだことがあります。




というわけで、大沼先生の本から引用~!!
 ↓ ↓ ↓ 

●『法界』(昭和36年)p.344 
 その名号を領受した相を第十八願では信楽と言い、成就の文では信心歓喜と仰せられたのである。光明無量の智慧が届けば疑いの雲は晴れるから信、寿命無量の慈悲が届けば往生の願いが満足するから楽、衆生は疑いの惑いの為に業を造り、業を造るから苦しむ、苦しむから増々惑うのであるが、我等の疑いの惑いも光明に照らされ、仏智満入すれば疑雲は消除されるけれども貪愛の煩悩はよく見える、見えるから機の懺悔となり、慎みとなり俗諦の形儀となるのである。(以下略)

●『法界』(昭和36年)p.367
 その光明無量寿命無量の念力が私に届けば信楽の二文字となり、開けば信心歓喜となり、曇鸞大師は破闇満願と教え、道綽禅師は罪悪観と無常観で説き、善導大師は信機信法で示して居られるのだ。(以下略)

●『八万の法蔵は聞の一字に摂まる』(昭和50年)p.240

         ┌光明無量─空間的無辺─十方─智慧──信心
宇宙の真理─名号─│                     (中略)
         └寿命無量─時間的無辺─三世─慈悲──歓喜

 弥陀の名号を称え、真理と一体になれば、光明無量の智慧によって疑いが晴れたから信となり、信心となる。寿命無量の慈悲を頂くから楽となり、歓喜となる。(以下略)




これを高●先生はそのまんまパクってま~す!!
 ↓ ↓ ↓ 

●『会報』vol.2 p.185 信忍(10) 昭和58年
 阿弥陀佛の名号には光明無量と寿命无量の全徳がある。
 その光明無量の智慧が我々衆生に届けばツユチリ程の疑心も晴れ亘るから、本願の文では信となり、成就の文では信心と教えられた。
 寿命无量の慈悲が衆生に届けば无量永劫生きぬく力が与えられるから本願の文では楽となり、成就文では歓喜と説かれている。

●『顕真』昭和59年5月・6月号
 邪見驕慢の極悪人が、自分であることに驚き、必死に聞法求道さされた人が、助かる望みが絶ちきられたときと、仏智の不思議に助けられたときとは同時であって、まさに不可称・不可説・不可思議の境地です。(これを信楽という)
 光明無量で、無明の闇が晴れた相が「信」。
 寿命無量で、志願が満足できた相が「楽」。
 盲人の眼が開けたときの慶び。心眼の開かれたこの境地は、「心も言葉も絶えたれば……」と、聖人も、ご述懐の通り、驚天動地、人知の想像のつくものではありません。



なるほど!!これで、

 光明無量(十二願)→信
 寿命無量(十三願)→楽

となるわけね~。


そんでもって、聞くところによると親●会では、

 至心  =大安心=信
 欲生我国=大満足=楽

と教えられてるみたいだから、


  ○十一願……若不生者
  ○十二願……至心信
  ○十三願……楽欲生我国
  ○十七願……乃至十念

   ↑
五願開示がこういう解答になって、
ちび●さんに「違う!」と叱られちゃうわけだ!

お~!
なんで講師試験の解答が間違えたのかわかったぞ!!(笑)




ちび●さんのおかげでわかりました!!
結局これもパクリだったのだ!!

これに触れて欲しくなかったから、
高●先生は五願開示を使わなかったのね(笑)。

ありがと~!
名義詐称野郎とか言ってごめんね~!




追記1

 以下、ちび●さんにお知らせし、お礼を申し上げておきました♪

生きる意味を知ってー仏教を知りたいひとのために ゲストブック

苦笑(本人) 削除 2009/2/4(水) 午後 9:19

ikiruimiwositte様へ

先日は私の質問に回答&丁寧な解説を頂きありがとうございました。
おかげで高●先生のパクリに基づく間違いがハッキリわかりました。
 ↓↓↓
ちび●のおかげでわかりました!!結局これもパクリだったのだ!!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-181.html

これに触れて欲しくなかったから、チ●ーリップ企画(=高●先生)は、
五願開示を使わなかったのかもしれませんが、
貴方のおかげで、高●先生のパクリに基づく間違いを明らかにすることができました。

ありがとうございます。心から感謝いたします。
今まで「名義詐称野郎」とか罵倒して申し訳ありませんでした。

勝手ながら、こちらのサイトへのリンクを貼らせて頂きます。
よろしければ相互リンクで、今後もよろしくお願い申し上げます。

苦笑拝




追記2

喜んで頂けたようで、嬉しいですね~。
 ↓

ikiruimiwositte  2009/2/5(木) 午前 0:55

大沼氏は学者ですから、そういう説があるということで勉強になりました。
祖師聖人は御文と願を対比されてませんからそういう解釈もあるのでしょうね。


苦笑(本人)   2009/2/5(木) 午前 9:10
喜んで頂けたようで私も嬉しいです。
今回は、私にとってもよい勉強の機会になりました。
今後もよろしくお願いします。

相互リンク方もご検討頂けたら幸いです。

(再掲載)【お知らせ】「辛口!真宗時評」管理人様とのやりとり終了のお知らせ

腐海の蟲への制裁処置につき再掲載(笑)。


「苦笑の独り言」をご覧の皆様へ

先日、「辛口!真宗時評」管理人のHiroshi Makino氏からメールで質問を頂きました。

私(苦笑)とHiroshi Makino氏とは「辛口!真宗時評」のコメント覧で議論中でしたので(※)(※※)、
私への質問は「辛口!真宗時評」のコメントに書いて頂くか、
あるいは、私とHiroshi Makino氏とのメールでのやり取りを私のブログに公開するかして、
議論をあくまで公開の場で行うことを、私は強く希望しましたが、
Hiroshi Makino氏がいずれの方法も拒否されましたので、
しばらくメールで非公開のやり取りをさせて頂きました。

  ※またも「誰でもお浄土」と説く これが真宗?コメント覧
   http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/483/

  ※※ただし、苦笑の二番目からのコメントは承認されていない。

しかし、Hiroshi Makino氏は私にメールで質問しておきながら、
「初めから」「やりとりはお断り」とのことでしたので、
極めて遺憾ではありますが、メールでのやり取りも終了となりました。

皆様の中には、「辛口!真宗時評」のコメント覧での議論が中断されていることを、
不審に思っておられる方も沢山いらっしゃることと思います。
以下に、「著作権問題」に抵触しないように、
私からHiroshi Makino氏へのメールのみ公開させて頂きます。

Hiroshi Makino氏から私へのメールの内容は、
皆様のご想像にお任せいたします。

苦笑
 

~~以下、苦笑からHiroshi Makino氏へのメール~~


【【その1】】

MaKinoさんへ

メールありがとうございます。

今後も公開の場でのやり取りを希望しておりますので、
今回の質問メールをblogに書いて頂くか、
MaKinoさんとのやり取りを私のblogで公開することを許可頂くか、
いずれかの方法のチョイスをまずお願いします。


苦笑



【【その2】】

Makinoさんへ

せっかくのやり取りが「なかったこと」になってしまってはもったいないので、
Makinoさんとのやり取りは公開で行いと思います。
教義上のやり取りであれば何も不都合はありませんよね?

それとも私(苦笑)とのやり取りを公開されると何か問題がありますか?


苦笑



【【その3】】

Hiroshi Makino様

あくまで公開でのやり取りを拒否されるのですね。
大変残念です。



【【その4】】

Hiroshi Makino様

貴方が私宛に送ったメールを、勝手に公開しないことは了解しました。

なお、私は貴方の質問に以下のようにきちんと答えておりますが、
何をもって「私の尋ねていることには答えて頂いておりません」と仰るのでしょうか?
根拠を挙げて具体的に述べてください。


以下、私の解答を再掲載します。

Q&A(5)「成就」とは?
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-290.html

Q(5)。
「成就」を、どういう意味で使っておられますか?

A(5)。
親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も、「成就」という言葉は、阿弥陀仏の本願に関しては「完成」という意味で使っておられますので、私もその意味で使っております。

(根拠は省略)

Q&A(6)「名号を受持」とは?
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-291.html

Q(6)。
「名号を受持」を、どういう意味で使っておられますか?

A(6)。
「名号を受持」という言葉は貴方がお使いになっている言葉をそのまま使用しただけですので、釈尊や親鸞聖人や蓮如上人がこの言葉をどのような意味でお使いになられているかは知りません。
しかし、以下の親鸞聖人や蓮如上人の言葉から、【衆生が阿弥陀仏が与えてくださった「名号」を受け取って「真実信心=信楽=プラサーダ」になること】だろうと思われます。
貴方は違うのですか?

(根拠は省略)


Q&A(7)「易往而無人」とは?
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-292.html

Q(7)。
「易往而無人」は、どういうことだと理解しておられますか?

A(7)。
以下の親鸞聖人の理解と同じ理解です。

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。
『尊号真像銘文』

阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、衆生がそれを受け取らないために、残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるのです。

この理解は、『無量寿経』をまともにと読んでいれば当然の理解です。

Q&A(2)『無量寿経』所説の「易往而無人」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-252.html

どなたかのように「お釈迦様、貴方どうかされたんじゃないですか?」「頭、変になられたんじゃないですか?」と思う必要は全くありませんね。

おお!高●先生に「近づくな」だったのか!!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-251.html#cm



なお、私は貴方のリクエストにお応えして、「成就」「名号を受持」「易往而無人」をどのように考えているか解答したのですから、
貴方が「成就」「名号を受持」「易往而無人」をどのように考えているかもお示しください。


苦笑



【【その5】】

Hiroshi Makino様

「一点だけ」ではなく、「その他の点」に関しても具体的にお書き下さい。

貴方が私の解答の何に不満なのか、私には全く想像もできせん。

苦笑



【【その6】】

Hiroshi Makino様

ダメです。
私は一度、貴方の要請に応じて貴方の質問に回答しました。

貴方がそれに「不満」と仰るのならば、
何が「不満」なのかきちんと説明するのが礼儀です。

繰り返します。
「一点だけ」ではなく、「その他の点」に関しても具体的にお書き下さい。

後出しジャンケンの如く、後からぐちゃぐちゃ言われては困りますので、
具体的にお書きになら(れ)ないのならば、きちんと「異議なし」と仰ってください。


苦笑



【【その7】】

Hiroshi Makino様

貴方から私への質問から始まった、メールのやり取りでしたが、
私とは「初めから」「やりとりはお断り」だっとは驚きです。

私と議論するつもりなど「初めから」全くないのに、
私に複数の質問の解答を求めていたのですね。
「業務」で貴方とやり取りしているわけでもない私が、
無い智慧を搾って、精一杯お答えしたのに心外です。

しかし、貴方が「やりとりはお断り」と仰るなら仕方ありません。
貴方とのメールでのやり取りは、これにて終了とさせて頂きます。


なお、貴方からのメールを勝手に公開したら、
「強要罪となるやも知れぬ」とのご忠告ですが、
貴方に公開を強要したら、「強要罪」になるやも知れませんが、
私が公開しても「強要罪」にはなりません。全く理解に苦しみます。

もちろん、貴方からのメールを勝手に公開したら、
「著作権法違反」になるかもしれませんが、
そのようなことをしないことは、既に申し上げているはずです。
さすがに「初めから」「やりとりはお断り」と仰るだけあって、
私からのメールは、まともにご覧になっていないのですね。

それから、私が貴方にメールを送ることが、
どうして「業務妨害罪」になるのでしょうか?

私が貴方を、「サイトを閉鎖しないと殺すぞ」などと脅迫したら、
「業務妨害罪」になりますし、
貴方が拒否しているのに、私がメールを送り続ければ、
「ストーカー規制法違反」になるかもしれませんが、
貴方のメールに対して、私が「返信」する行為が、それらに該当しないことは、
どなたがご覧になられても明白でしょう。


いずれにしても、もう貴方とお話しすることはありませんので、
このメールに対する返信は不要です。
貴方からメールがなければ、私から貴方へ「返信」が届くこともありません。

短い間でしたが、お疲れ様でした。


苦笑

(再掲載)Q&A(9)これが「伝統と己証」と言えるのでしょうか?

腐海の蟲への制裁処置につき再掲載(笑)。

Q。
いつもお世話になっております。
先日の「異安心」を認定する際のガイドラインをお示し頂きましたが、同じ日に、以下のような記事を拝見しました。

伝統と己証
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/27193249.html

_______________________________________
親鸞聖人は、伝統的に「念仏往生の願」と言われていた阿弥陀仏の王本願である十八願を

「本願三心の願」「至心信楽の願」「往相信心の願」と言われて

死後の浄土往生を十一願に配当し、

「十八願は、『信心を与える』というお約束である」と仏意を明らかにされた。

これが親鸞聖人の御己証、教行信証の五願開示の真髄である。

伝統的解釈の真意を開き、表されたから一願該摂と五願開示は開合の関係であり

伝統と親鸞聖人の御己証には全く違いはない。

「親鸞、私無し」の常の仰せのとおり。



若不生者のちかひゆゑ (わがちかいをしんぜんもの、もしうまれずは、ほとけにならじと
            ちかいたまえるなり)

信楽まことにときいたり(ねがう。こんごうのしんじんなり。このたりきこんごうのしんじんさだまる
            とき、あみだ仏のおんこころにかなうとしるべし。)

一念慶喜するひとは(しんをえてのちよろこぶとなり。)

往生かならずさだまりぬ


「若不生者」等の左訓「もしうまれずば」というは、第十八の願一願にかぎる。

余の願は「若不爾者」「若不如是者」等とあり。

「生者」とは十八の一願のみなり。

「不生者」、これ極楽に生まれずばというにはあらず、

もし信心が生ぜずばと誓いたもうことなり、故に左訓も云々。

そのちかいゆえに信楽のときいたり一念慶喜のありさまとなるなり。(相伝義書浄土和讃分科)
_______________________________________

このように、例えば『相伝義書浄土和讃分科』に基づいた見解を、
「伝統と己証」と言うことは可能なのでしょうか?



A。
だめですね(苦笑)。
「いつからの伝統やねん!」「だれの己証やねん!」と言ってやりたくなります(苦笑)。

繰り返しますが、正しい「安心」の基準となるテキストは以下の通りです。
 ↓ ↓ ↓
b)正しい「安心」の基準となるテキスト

「異安心」であることを認定するためには、
正しい「安心」がいかなるものであるかを知らなければなりません。
これらの資料が浄土真宗における正しい「信心」の判定基準になりますので、
必ず用意しましょう。

ただしこのテキストは、a)の立ち位置に応じて、
以下のように使い分けられます。

(b-1)浄土真宗内で、異安心を論じる場合は、
   「浄土三部経・七高祖・親鸞聖人」までを基準にする。
(b-2)東西本願寺派における覚如上人・蓮如上人、高田派における真慧上人など、
   浄土真宗でも、特定の派にのみ権威を認められている文献は、
   判定基準としては、参照程度の扱いであり、(b-1)に抵触しない場合のみ、
   参照することができる。
(b-3)親鸞聖人を宗祖と仰ぐ「浄土真宗」以外の、
   法然上人を宗祖と仰ぐ浄土門の教義を判定する際は、
  「浄土三部経・善導大師・法然上人」を基準とする。
    cf. 法然上人の「偏依善導一師」の立場に関しては『選択集』16章参照
 ↑ ↑ ↑


『相伝義書浄土和讃分科』を基準に、
「伝統」とか「己証」とか言えちゃうって言うなら、
自分の都合の良い資料をどっかから持ってきたりして、
結局なんでもありになっちゃいますよ(苦笑)。

というかこの方は、
自分の脳内にある「ドグマ」に都合のいい資料なら、
今まで批判していた団体の資料でも「伝統」とか「己証」で、
「ドグマ」に都合の悪い資料は、例えば存覚上人のお書きになられたものでも、
「これは違う!」と言い出す人ですから、
あんまり言うことを真剣に考える必要はないと思いますよ~。

以下の記事を最低十回ぐらい熟読するようにお伝えください。
 ↓
やさしい浄土真宗の教え §12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン

韋提希夫人は散善もやってへんし、やろうともしてへんぞ!!

韋提希夫人は散善もやってへんし、やろうともしてへんぞ!!
 ↓ ↓ ↓
21世紀の浄土真宗を考える会 観無量寿経のこころ その2 散善 より

定善と散善について、善導大師は『観経疏 玄義分』に
定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。
と書かれています。
定善は韋提希の請によって説かれましたが、散善は釈尊の自説です。
(唯請定善・自開散善、散善は不請の法)
定善ができる人となると限られていますので、凡夫のために自ら説かれたのが散善なのです。
その散善も
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
と観無量寿経に書かれていますように、成仏の行であり、基本的には聖道門の行なのです。
観無量寿経の真意は、定善どころか散善さえもできない悪人のために本願力回向の念仏・信心をあきらかにすることであったのです。
ですから、定善と同様、韋提希は散善をやってはいませんし、やろうともしていません。




やっぱし、『観無量寿経』を読んでみた方がええで(苦笑)。
思考停止してても、現代語訳ならなんとか読めるでしょ(笑)。
 ↓ ↓ ↓
WikiArc 現代語 観無量寿経

韋提希夫人は定善をやってへんし、やろうともしてへんぞ!!

韋提希夫人は定善をやってへんし、やろうともしてへんぞ!!
 ↓ ↓ ↓

21世紀の浄土真宗を考える会 観無量寿経のこころ その1 より

さて、
「韋提希夫人は定善をやった」
あるいは
「韋提希夫人は定善をやろうとした」
と思っている人がいますが、
韋提希夫人は定善をやってもいませんし、やろうともしていません。

【理由】
1.韋提希夫人は釈尊に「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」とお願いして、その答えとして釈尊は定善を説かれました。
 つまり「私はお釈迦様のおかげで浄土を見ることができましが、未来の衆生はどうすれば見ることができるのでしょうか」と質問しているのですから、既に浄土を見た韋提希夫人にとって、定善をする必要はありません。
2.そもそも、韋提希夫人には定善はできません。
 日想観をやろうとしてできなかった韋提希夫人に水想観、地想観・・・と順番に易しくして導かれたと勘違いしている人がいますが、上に述べたように、定善十三観の中心は第九真身観です。
 日想観は雑想観とともに一番易しい方に入ります。
 もし韋提希夫人がやろうとしてできないために、他の定善をすすめられたとするならば、それはちょうど、4段の跳び箱を飛べない子供に、「では5段をやってみなさい」「そうかできないか、では6段をやってみなさい」「では7段」「8段」・・・と言う体育の先生のようなもので、いるはずがないのです。

 世の中にはやってみなけらば分からないことと、やらなくても分かることがあります。
 たとえば、ハーバード大学に入学するということはやってみなければ分からないとも言えます。
 しかし、国際宇宙ステーションに歩いて行くことは、それがどこにあるかを聞けば、やってみなくてもできないことは分かります。
 定善がどういうものか聞けば、できないことは分かります。



同 コメント覧 より

獲信したら定善が出来るようになる
という人がいましたが本当でしょうか?
[2009/10/13 18:36] URL | ヒロ

ということは、親鸞会が作成した王舎城の悲劇のアニメの内容は間違っているということでしょうか。
高森会長は知らずに作ってしまったのでしょうか。それとも、あえて何かを意図して、誤った内容を作製したのでしょうか。もし、そうだとすると、何を伝えたかったのでしょうか。
[2009/10/13 21:48] URL | 元会員A

親鸞会発行のアニメって、買ったんですけど、やっぱり間違ってる?と思います。どうみても、イダイケ夫人は「やったから」救われた、と描かれています。やっぱり、おかしいですね。
やったから、なんて。
[2009/10/13 23:10] URL | 明石

>ヒロ様
出鱈目ですね。
また、そのようなことは聞いたことがありません。

>元会員A様
はい。間違っています。
製作意図などについては、申し訳ありませんが、私は高森氏ではありませんので分かりません。
[2009/10/13 23:12] URL | 近藤智史



バイアスがたっぷりかかった、
ヘンテコドグマ注入アニメだけじゃなく、
最低一回は、現代語訳でもいいので、
『観無量寿経』を読んでみた方がええと思いますな(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

WikiArc 現代語 観無量寿経

コメントまで捏造してんじゃね~よ!!

Hiroshi Makino氏には、以前のやり取りでめちゃガッカリさせられましたが、
ここまで卑怯・卑劣な野郎とはびっくら仰天ですな(苦笑)。

この野郎!!コメントまで捏造してんじゃね~よ!!
 ↓ ↓ ↓

清森問答 投稿:「辛口!真宗時評」管理人様 より

 ある方から、投稿を頂きました。

 以下のサイトの管理人はmakino hiroshi氏だと聞いていますが、もしこれが親鸞会の牧野講師であったら、非常に残念なことだと思います。

 他人のコメントを勝手に改変して、都合の悪いところを削除して掲載するなどということは、管理人としてやってはならないことです。

 親鸞会では、お聖教の言葉の一部を改変したり、削除するということがよく行われていましたから、それを真似てしまったのかも知れません。

 もし、makino氏がこのサイトを読んでおられるなら、コメントを改変したり、隠したりせずに、正々堂々と議論することを、強くお勧めします。


        *        *        *

 辛口!真宗時評(10月5日)
 http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/577/
 
 
 [こういう自己流の解釈を説法と呼べるのか]
 ラジオ法話「みほとけとともに 西本願寺の時間」では、
 登尾唯信氏の「挫折もまた人生」でした。
 
 (中略)
 
 上記のラジオ法話は、とても、その御一流からは大きくかけ
 はなれたと、言わざるを得ません。

        *        *        *

 この記事に対して10月7日、淀川コナンのHNで以下のコメントをしました。


私も、自己流の解釈をする布教師を知っています。
例えば、親鸞聖人のご和讃の
若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生かならずさだまりぬ
の解釈を
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心になれる時が必ず来るんだ
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈しています。
管理人様ならご存知だと思いますが、このご和讃は
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈されます。
ご自分の味わいとしてならば、宜しいとはおもいますが....。 


 それに対して管理人(M氏)は以下の返信がありました。


コメント有り難うございます。
お尋ねしますが、
A「若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
 信楽の心になれる時が必ず来るんだ
 一念の信心を喜んでいる人は
 死ねば極楽往生間違いないんだ」
B「若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
 信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
 一念の信心を喜んでいる人は
 死ねば極楽往生間違いないんだ」
AとBとは、どこが違うのでしょうか。
誰が聞いても分かるような、決定的な違いを、聞かせてください。
 

 それに対して私は10月9日夜に、


管理人様。返信遅くなりました。
聡明な管理人様ならばお解りだと思ったのですが…。
Aの解釈ならば、「若不生者のちかいゆえ」は「信楽まことにときいたり」に係ります。つまり「若不生者」の生は「信楽」の心に生まれさせる、という解釈ですね。
Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は「往生かならずさだまりぬ」に係ります。つまり「若不生者」の生は「極楽」に生まれさせる、という解釈です。
また、その布教師は「一切衆生必堕無間と経典に書かれています」と言っていますが私はそんな経典を知りません。
管理人様はご存知ですか?


 というコメントを「管理人様」というタイトルでしました。
 しかし、タイトルは「無題」に変えられ内容は削られました。
 以下が、実際にブログに掲載されたコメントです。


管理人様。返信遅くなりました。
Aの解釈ならば、「若不生者のちかいゆえ」は「信楽まことにときいたり」に係ります。つまり「若不生者」の生は「信楽」の心に生まれさせる、という解釈ですね。

Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は「往生かならずさだまりぬ」に係ります。つまり「若不生者」の生は「極楽」に生まれさせる、という解釈です。


 そして、その改変されたコメントに対する管理人のコメントが以下の通りです。


>「Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は
>「往生かならずさだまりぬ」に係ります。
>つまり「若不生者」の生は「極楽」に生ま
>れさせる、という解釈です。」
では、信楽に生まれさせるのは何の力ですか?

 そのコメントに対して10月10日の夜に以下のコメントをしました。(ネットカフェでコメントしたのでテキストが残っていないので正確ではありませんが内容はこんな内容です)


タイトル「断章しないで下さい」

管理人様へ
私のコメントを断章しないで下さい。
承認制なので不掲載は仕方ないですが、断章されたら私の意見が読む人に伝わりません。
あなたの行為は仏法者としてというよりも人間として恥ずべき行為です。
私の知っている布教師も断章が得意ですが。
また勝手にタイトルを無題にしないで下さい。
お尋ねの件ですが、私が問題にしているのは若不生者の生が何をどう生まれさせるか、その事を親鸞聖人はどう仰っているか、です。
何の力で信楽に生まれさせるか、は別の問題です。
親鸞聖人のみ教えを学ぶ者として、誠意ある回答をお願いします。


 その私のコメントを掲載せずに、管理人が10月11日夜中に以下のコメントがありました。


> Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は
>「往生かならずさだまりぬ」に係ります。
>つまり「若不生者」の生は「極楽」に
>生まれさせる、という解釈です。
「往生かならずさだまりぬ」にも係っていて、
これは「報土往生が定まる」ことですが、では、
「報土往生定まる」のは、平生ですか。死後ですか。
「報土往生する(極楽に生まれる)」のは、平生ですか。死後ですか。
(先の「信楽に生まれさせるのは何の力ですか」にもまだお答えを頂いていません)


 ここまでが、現時点での経緯です。


「阿弥陀仏の本願」も勉強し直した方がいいんじゃね?(苦笑)

親●会ドグマに染まっている諸君は、
「阿弥陀仏の本願」も勉強し直した方がいいんじゃね?(苦笑)
 ↓ ↓ ↓

清森問答 質疑応答180 より

【質問】


 清森問答で、以下のように教えていただきましたが、親鸞聖人の教えは三願転入ですから、十九願の善として財施も勧められているのではないでしょうか。よろしくお願いします。


> また、親鸞会に対する「財施」を、信心決定と結びつけて教えられることも問題だと思います。親鸞聖人は、「信心決定のために、財施に励め」などとは、どこにも教えられていません。



【回答】


 結論から言いますと、親鸞会では十九願の善は勧められていません。親鸞聖人は、十八願に入るために十九願の善を実践せよとは仰っていないからです。

 十九願では、諸々の功徳を修めた者を、臨終に救う(化土往生させる)と誓われています。臨終の救い(化土往生)を求めて、善を修めることを十九願の善というのです。信心決定を求めて、善を修めることを十九願の善とは言いません。

 十八願では、信楽の者を必ず浄土往生させると誓われています。信楽になるのは聞即信の一念であって、そのために善を修めなければならないとは教えられていません。

 つまり、十九願と十八願では、まったく方向性が違うのです。親鸞会の教え方では、十九願を進んだ先に十八願があるように誤解させます。

 親鸞聖人の三願転入の御文も、十九願ではダメだった、二十願でもダメだった、十八願では救われた、ということであって、十九願を進んだ先に二十願があり、二十願を進んだ先に十八願がある、という意味ではありません。

 今の親鸞会は、十九願の理解も、十八願の理解も間違っています。

 信心決定を求めて善を修めるのは十九願だと思っているのも間違いならば、十八願の救いに遇うために善に励むのも間違いです。

 このように書くと、「親鸞会で、『善をすれば信心決定できる』などと言ったことは無い」と反論が来るでしょう。

 しかし、親鸞会の会員さんに、「何のために活動に頑張っているのか?」「何のために御報謝を出しているのか?」と尋ねたら、どう答えるでしょう。

 当然、「信心決定のため」と答えるでしょうね。講師部員でも同じだと思います。

 この現状が、何よりも親鸞会の間違いを物語っています。





初心者のためのとってもよいサイトが出来たから、
ドグマを注入された諸君もこれを読んで勉強してね。
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やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

【再掲載】勝手に西阿を破門すんなよ!

いまだに、おマヌケなこと言ってる野郎がいるので、
再掲載しておきますわ。

もう、二度とマヌケなこと言っちゃだめよん(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

親●会は、別の問題で盛り上がっているようですが、
オイラは引き続きヘンテコ教義を晒してみましょうかね~。


親鸞会教義の相対化・16(質疑応答70)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-71.html

【2】流刑と西阿の破門

ビデオ三巻に、法然上人・親鸞聖人の流刑と、それに伴って、西阿が法然上人に説法を控えるように進言して、破門されるエピソードが書かれています。

ところで、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1,
門弟等なげきあへる中に、法蓮房申されけるは、住蓮安楽はすでに罪科せられぬ。
上人の流罪はたゞ一向専修興行の故と(云云)
しかるに老邁の御身、遼遠の海波におもむきましまさば、御命安全ならじ。
我等恩顔を拝し厳旨をうけ給ことあるべからず。
又師匠流刑の罪にふしたまはゞ、のこりとゞまる門弟面目あらんや。
かつは勅命なり、一向専修の興行とゞむべきよしを奏したまひて、内々御化導有べくや侍らんと申されけるに、一座の門弟おほくこの義に同じけるに、

上人の給はく、流刑さらにうらみとすべからず、そのゆへは、齢すでに八旬にせまりぬ。
たとひ師弟おなじみやこに住すとも、娑婆の離別ちかきにあるべし。
たとひ山海をへだつとも、浄土の再会なんぞうたがはん。
又いとふといへども存するは人の身なり。なんぞかならずしもところによらんや。
しかのみならず念佛の興行、洛陽にして年ひさし、辺鄙におもむきて、田夫野人をすゝめん事年来の本意なり。
しかれども時いたずらして、素意いまだはたさず、いま事の縁によりて、年来の本意をとげん事、すこぶる朝恩ともいふべし。
此法の弘通は、人をとゞめんとすとも、法さらにとゞまるべからず。
諸佛済度のちかひふかく、冥衆護持の約ねんごろなり。
しかればなんぞ世間の機嫌をはゞかりて、経釈の素意をかくすべきや。
たゞしいたむところは、源空が興ずる浄土の法門は、濁世末代の衆生の決定出離の要道なるがゆゑに、常随守護の神祇冥道、さだめて無道の障難をとがめ給はんか、命あらんともがら、因果のむなしからざる事をおもひあはすべし。
因縁つきずば、なんぞ今生の再会なからんやとぞおほせられける。


2,
まだ一人の弟子に対して、一向専修の義をのべ給に、御弟子西阿彌陀佛推参して、かくのごとくの御義ゆめゆめ有べからず候、をのをの御返事を申給べからずと申ければ、

上人のたまはく、汝経釈の文を見ずやと、

西阿申さく、経釈の文はしかりといへども、世間の機嫌を存するばかりなりと、

上人又の給はく、われたとひ死刑にをこなはるとも、この事いはずばあるべからずと、
至誠のいろもとも切なり。見たてまつる人、みな涙をぞおとしける。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


以上が、法然上人の伝記でも一番代表的な『四十八巻伝』の三十三巻で、住蓮・安楽が死罪になった際のエピソードです。

專修念仏の布教を控えるように進言する西阿に対し、
「我、たとい死刑に行なわるとも、この事いわずばあるべからず」
とお答えになられ、專修念仏を広めるためには、自らの命をも惜しまなかった法然上人ですが(2)、

専修念仏を控えるように進言したのは、西阿だけに限らず法蓮房も進言されています(1)。
そして、それに対してその苦難さえも、喜びにかえられ、浄土での再会が間違いのないものであることを弟子逹に説いて、力強くも優しさに溢れた法然上人がそこにいます。

この『四十八巻伝』の伝承のうち、法蓮房のエピソードは『琳阿本』『古徳伝』『九巻伝』『十六門記』といった、別の法然上人の伝記にも共通部分が存在しますし、西阿のエピソードは上記の諸伝記に加え『醍醐本』にも存在しています。

しかし、これらの伝記類のどこを見ても、法然上人が西阿を「立ち去れ!」と破門したというエピソードは存在しません。

いったい、このエピソードの典拠はどこにあるのでしょうか?

親鸞会の教義に会わせて、新しく作ったエピソードを、歴史的事実のように語っているとしたら、非常に問題があるのではないかと思います。

私は部外者なので、率直に申し上げますが、高森先生を法然上人に投影して頂くのは別にかまいませんが、高森先生の人柄を法然上人に投影し、法然上人を不寛容で排他的な人物像にするのは、私のように、日頃より法然上人の言葉にも伝記にも親しんでいる者から言わせれば、はなはだ迷惑であり、絶対に許し難いものがあります。

信憑性のある資料に基づいて語られる、より史実に近い法然上人は、親鸞会の映画のような不寛容で排他的な人物でないことは、この機会に、はっきりお断りしておきたいと思います。



親鸞会教義の相対化・24
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-83.html

常識的に考えて、AさんがBさんを泥棒の罪で訴えた場合、Aさんに「Bさんが泥棒をした」ことを証明する義務があります。
立証責任を果たさないままAさんが、「Bさんが泥棒をした」と主張するならば、Aさんは、「虚偽・捏造を行った人物である」と言われても反論できません。

同様に、「西阿が法然上人に破門された」ことを裏付ける資料がないにも関わらず、ある人物や団体が、「西阿が法然上人に破門された」と主張した場合は、その人物や団体は、「虚偽・捏造を行った」と言われても反論できませんね。



親鸞会教義の相対化・32
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-104.html

【4】『会報』vol.4p.79~善知識(17)

>>>

上人流刑の命を受けて、まさに京都を出発される際も、一人の門弟に対して一向専念の説法を諄々となされていた。
その時、西阿という弟子が、おこしにとりすがって「もしお師匠さま、この際のことでございますから、たヾ一言雑行を許すと仰有って下さることは出来ますまいか」と申し上げると上人は、「汝、経釈を見ずや」と叱りとばされている。重ねて西阿が「なる程、経釈はその通りでございますが、世間の機嫌を思うばかりでございます。」と申し上げると上人は何時になく激怒なされて「われ、たとい死刑になるとも更に変わるべからず、若し雑行を許すならば、法然一身の安楽の為に如来大悲の御苦労を水の泡には出来ぬ。釈尊の一切経を反古にはせぬぞ。駛路はこれ聖者の行くところなり。謫所はまた権化の住処なり。愁とするに及ばず。辺鄙の群衆を化せんこと莫大の利生なり」と喝破なされ、遠流に処せられたという。

>>>

これはちょっと細かいことなのですが、『会報』では法然上人が西阿を厳しく叱ってはいますが、「立ち去れ!」と破門したとは書かれていませんね。これなら問題はありません。

ただその場合は、「親鸞会教義の相対化・16(質疑応答70)」で指摘したようなエピソードが、なぜアニメ製作の段階で捏造されたのかが、問題になります。

高森先生がアニメの脚本を書かれたのであれば、高森先生の中に何らかの思想変遷があったことになりますし、別の方によって脚本が書かれたのであれば、高森先生の『会報』にもないエピソードを、その方が新たに捏造したことになりますね。

この謎の解明は門外漢の私では不可能ですので、何かご存じの方がいれば、ぜひ教えて頂きたいと思いますね。




親鸞会教義の相対化・41
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-156.html

【上巻p.113~】西阿の破門

 高森先生の『会報』では法然上人が西阿を厳しく叱ってはいますが、「立ち去れ!」と破門したとは書かれていないにも関わらず、アニメでは西阿が破門されたことになっていることは、既に述べた通りです。

※「親鸞会教義の相対化・16(質疑応答70)」「親鸞会教義の相対化32」参照

 本書では、本文中には西阿が破門されたことを裏付けるような記述はありませんが、なぜか「◆西阿の破門◆」という見出しが書かれております。非常に不自然です。





これもひどい捏造だよね(苦笑)。

私見ですが、

1,会報の段階ではきちんと資料に基づいて記述。
2,アニメ製作で親●会らしいエピソード挿入
3,それがそのままドグマ化

というプロセスを踏まえて、「破門(=除名)」を正当化・肯定してしまうような、
新しい法然上人のエピソードが誕生したんでしょうかね~(苦笑)。

親●会文化がどんなものであっても、それは自由なんで別にどうこういわないけど、
法然上人のヘンテコなエピソードを捏造
するのはやめてよね(苦笑)。



あと、この問題に関連して、こういう逆ギレ思考停止ロボコンが、
次々と生産されてしまうという弊害も指摘しとくね(苦笑)。

一例は文末の西阿の件ですが、「西阿が破門された根拠が無いではないか?捏造だ」等と仰っておられるようですが、本来貴方が「西阿が破門されていない事」をあなたが証明するべきではないでしょうか。
門外漢と仰っているのにその件に関して「捏造」等と記載するのはいかがなものでしょう。



この人は、例えば「親●会に百万円だまし取られた!」とオイラが訴えた時に、
「だまし取っていない」ことの論証責任が親●会にあるとでも言うんでしょうかね~。

そんな馬鹿な話ありませんやんね~(苦笑)。

しかしながら、こうも思うのです。ここで西阿が破門されたかどうか自体重要な問題でしょうか?
我々の救いと何か関係がありますでしょうか?



関係ないなら、そんなエピソード作らんでえんやんけ!!(苦笑)

むしろ法然上人が死刑になっても曲げてはいけない事が仏法であると
ハッキリ仰っている事の方がより重要に思われますが・・・?



それだけでエエはずなのに、新しいエピソードを捏造したわけですね(苦笑)。

西阿が破門されたかどうかはそこまで重要な問題でしょうか。
それよりも「救われる為の教え」が正しいか否かが重要ではないですか!



法然上人にも西阿にも不名誉なエピソードを捏造しておいて、
この言い方ってないんじゃない?(苦笑)

法然上人よりも親●会で捏造されたドグマの方が重要なんですわ。

結局、この人逹はね(苦笑)。

本当の善知識は無条件服従を強要せえへんのや!!

本当の善知識は無条件服従を強要せえへんのや!!

いい年した大人が、「腕の一本や二本へし折る!」とか脅されて、
間違った教えを説いてる、自称善知識に無条件服従してんじゃね~よ!!

暴力を振るわれても、毅然と師匠の誤りを正した法然上人を見習えよ!!
 ↓ ↓ ↓

清森問答 親鸞会教義の相対化・83 より

 以前、親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠としてあげているものが、何れも根拠になっていないことを解説しましたが、(*1)
最近、別のサイトでも親鸞会のこの教義への批判がなされています。(*2)

 よい機会ですので、法然上人が師弟関係をどのように捉えておられていたか、法然上人の言葉に基づいて解説しておきたいと思います。

 法然上人には師である叡空上人と教義論争を行い一歩も譲らず、最終的には叡空上人が誤りを認めたというエピソードがあり、(*3)

 また、この論争は口論にとどまらず、叡空上人による暴力沙汰にまで発展しましたが、法然上人は一歩も讓っておりません。(*4)

 ここで、法然上人が叡空上人と論争された際に、阿弥陀仏の化身であり、釈尊の言葉と同じ価値のある、(*5)「善導大師の言葉」という「聖教」に基づいて経典解釈を行い、
たとえ師匠であっても「さきにこそむまれ給たれ」だけであり、「師匠が仰せになっていたから」ということが、経典解釈の上で全く根拠にならないということを、
法然上人が明確にされていることを、きちんと押さえておく必要があるでしょう。

 ご存じのように、『大乗涅槃経』において釈尊は、
「依法不依人(法に依りて人に依らざれ)」と仰になりました。

 仏教徒は、釈尊のお説きになられた「法(教え)」に基づいて仏教を学ぶべきであり、
法然上人の教えに従う者は、更に善導大師の言葉を仏説と同じように尊び、(*5)
そこに個人的な見解を勝手に混入することは避けなければなりません。

 ところで、親鸞会では以下の『歎異抄』における言葉を拡大解釈することにより、高森先生に対する無条件服従が強要されているようです。(*6)


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、
また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからず候ふ。
(『歎異抄』二章)


しかし、この親鸞聖人の言葉は、

★親鸞聖人の法然上人に対する姿勢

を表明したものあって、先に述べたように、

★法然上人に親鸞聖人が強要された

ものではありません。

親鸞聖人が法然上人に絶対の信頼を置かれたのは、
あくまで、法然上人が釈尊や善導大師の言葉という「聖教」に基づいて、
教えを説かれた方だからこそであり、絶対の信頼を置く根拠が存在します。

しかし、高森先生の教えが、釈尊や善導大師の「聖教」や、
それらに基づくことによって根拠を持つ法然上人や親鸞聖人の「教え」に抵触した場合は、高森先生の教えを信頼することの根拠は全くありません。(*7)

講師の方や熱心な会員さんが、
「高森先生にならだまされて地獄に堕ちてもかまわない!」
という姿勢を貫かれるであれば、
その方に対して、私から申し上げることは何もありませんが、
このことは、はっきりさせておく必要があるでしょう。

以上


*1 以下の記事参照

1,「琵琶湖を一人で埋めなさい」と仰せになって「かしこまりました」と言う態度を蓮如上人が要求してはいない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-240.html

2,『法華経』の「善知識者是大因縁」という言葉は、親鸞会で使われるような意味では使われていない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-106.html

3,釈尊と阿弥陀仏という二尊の御心を無視し、浄土門の教えを求める者に、「求法太子の求道姿勢」を強要する人物は、法然上人の教えを受け継ぐ者ではい。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-107.html

4,親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠として挙げる『般舟三昧経』に記述は、「現在諸佛の面前に立つ三昧」(=般舟三昧)に至るために不可欠なプロセスであり、浄土門における信心獲得のためのプロセスではない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-108.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-119.html

*2 以下の記事参照

親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか1
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-15.html

同 善知識には無条件服従しなければならないのか2
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-16.html

*3
ある時上人往生の業には、称名にすぎたる行、あるべからずと申さるるを、
慈眼房は、観佛すぐれたるよしをの給ければ、
称名は、本願の行なるゆへに、まさるべきよしをたて申たまふに、
慈眼房又先師良忍上人も、観佛すぐれたりとこそおほせられしか、
との給けるに、
上人、良忍上人も、さきにこそむまれ給たれ、と申されけるとき、
慈眼房腹立したまひければ、
善導和尚も、上来雖説定散両門之益望佛本願意在衆生一向専称彌陀佛名、と釈したまへり、
称名すぐれたりといふこと、あきらかなり。
聖教をば、よくよく御覧じ給はでとぞ申されける。
(『四十八巻伝』巻6)

*4
弥陀如来、称名を本願とたて給へる上には、往生の業におきては、
称名にすぐるる行あるべからずと、上人たて給う時、
師範叡空上人、観仏はすぐれ称名はおとれる也との給ふを、
上人、なほ念仏勝たる義をたて給うに、
叡空上人立腹して、こぶしをにぎりて上人のせなかをうちて、
先師良忍上人もさきにこそ生まれ給ひたれと、上人申されける時、
叡空上人いよいよ腹をたてて沓ぬぎにおりて、あしだを取りて又うち給へば、
聖教をよくよく御覧候はでとぞ申されける哀れなりし亊なり。
(『九巻伝』巻第一下)

*5
静かにおもんみれば、善導の観経の疏は、是れ西方の指南、行者の目足なり。
しかればすなはち、西方の行人、かならず、すべからく珍敬すべし。
就中(なかんづく)毎夜(まいや)の夢の中(うち)に、僧ありて玄義を指授せり。
僧といふは、おそらくはこれ彌陀の応現なり。
しからばいふべし、この疏は彌陀の伝説なりと。
いかにいはんや、大唐に相伝していはく、善導はこれ彌陀の化身なりと。
しからばいふべし、この文はこれ彌陀の直説(ぢきせつ)なりと。
すでに、写さんとおもはんものは、もはら経法のごとくせよといへり。
此のことば、まことなるかな。
仰ぎて本地(ほんぢ)をたづぬれば、四十八願の法王なり。
十劫正覚のとなへ、念佛にたのみあり。
ふして垂迹(すいじゃく)をと訪(とぶら)へば、専修念佛の導師なり。
三昧正受のことば、往生に疑いなし。
本迹(ほんじゃく)ことなりといへども化導これ一(いつ)なり。
(『選択集』第十六章)

*6
 親鸞会の我々には今、二つの目的がある。一つには自身の信心決定であり、二つには真宗の流れを変えることの二つである。いずれも世間のどんな難事業よりも至難な大事業であり、どれだけ心身を砕いて精進してもし足りないが、二大目的の達成は、善知識に無条件服従できるか否かにかかっているといえよう。
 このことは歴代の善知識が明らかにしておられることだが、事実我々はどうであろうか。
 自己の理性を基に正邪を判断し、愛憎違順する我々に、無条件服従は極めて難しい事である。
 理性が満足せねば、善知識の仰せに対し、本会の種々の指示に対し、「なぜですか」「どうしてですか」「納得できないからやれません」等々疑い、不信、反抗の鎌首をところかまわずもちあげる始末、
 それでもまだ足りず、自らの怠惰な求道を棚に上げ、「もう少し早く進める方法はないか」と善知識の御指導に不平を漏らし、法謗の徒と化す根性。この心こそが曠劫流転の親玉であり、正しい判断できると自惚れている心が仏心を受けつけぬ元凶であることを知らねばならない。
 仏法に対しては全く狂った考えしかないから無条件服従が必要なのであり、善知識は信心決定への全因縁といわれる理由があるのである。
 蓮如上人が親鸞聖人のことをある人に尋ねられた時、「我も知らぬことなり。何事も何事も知らぬことも開山のめされ候ように御沙汰候」と仰せになっている。これは「私も判らぬ、しかし何事も何事も親鸞聖人のなされたようにするのがよろしい」という意味で蓮如上人の親鸞聖人に対する無条件服従の姿勢を明らかになされたものである。
 我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。
 この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。
(「顕正新聞」昭和54年8月)

*7 親鸞会の教義上の誤りを指摘しているサイトには、以下のもの等がある。

清森問答
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/

苦笑の独り言
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/

高森先生の親鸞会教学を検証する
http://atamagaokasiku.blog34.fc2.com/

21世紀の浄土真宗を考える会
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/

親鸞会教義の誤り
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/

昔は「不得外現賢善精進之相」をこのように解釈してたのにね。。(『こ●なことが知りたい』より)

~高●顕徹著『こ●なことが知りたい』vol. 3 より~

(22)誰もなされなかった親鸞聖人の読み方や、解釈はどんなものか(二)

(中略)

 また『観無量寿経』の中で善導大師が、
「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」(外に賢善精進の相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ)
と記されている文章を親鸞聖人は、
「外に現賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」(教行信証信巻)と読み替えられ、これまた意味をひっくり返しておられます。
 善導大師の仰っているのは、
「外面は賢善精進の立派な相をしておっても、内心にうそ偽りの醜い心を持っていてはなりませんよ」
と、外と内の不一致をいましめられたお言葉です。
 ところがそれを、
「外に現賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」
と読み替えられて、
「どうせみんな内心は、うそ偽りばかりしか懐いてはいないのだから、賢そうな善人らしい精進の見せかけなんかするな」
と、親鸞聖人は意味を逆転してしまわれました。
「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もされになし」
「外義のすがたはひとごとに、賢善精進現ぜしむ、貪瞋邪偽おおきゆえ奸詐ももはし身にみてり」
「悪性されにやめがたし、心は蛇蝎のごとくなり、修善も雑毒なるゆえに、虚仮の行とぞなづけたる」
「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもうまじ、如来の願舩いまさずは、苦海をいかでかわたるべき」
「蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなふまじ 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん」(以上悲歎述懐和讚)
 あますところなく自己の実相を、弥陀の心光に照破された親鸞聖人は、善導大師の文章をこのように色読せずにはおられなかったのでしょう。

( pp.107-109)



昔は「不得外現賢善精進之相」をこのように解釈してたのにね。。
今はなかったことになってるのかな?(苦笑)

【再掲載】「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に(「不得外現賢善精進之相」の解釈)

元親●会講師の清森さんが親●会ドグマにツッコミいれてたのを、
以前紹介してたのを思い出したので再掲載しときます。
(2008.10.09.)

元弟子にツッコミ入れられてるのに、
平気でHPに掲載してる厚かましさだけはすげ~ですわ(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

~~ここから~~

そうそう!
煩雑になるから、前回のツッコミでは言わなかったんだけど、
チ●ーリップ企画以下の文は、親鸞聖人の言葉を、
明かにヘンテコな所で切断していますね~。
 ↓

また『唯信鈔文意』には、
『しかれば善人にもあらず、賢人にもあらず、精進の心もなし。懈怠の心のみにして内は空しくいつわりへつらう心のみ常にして、まことなる心なき身と知るべし』

「このような親鸞だから、善人でもなければ賢人でもない。怠け心一杯で立派な人になろうと努める心もない。心は空虚で常に他人の評価ばかりを気にしている、ウソ偽りの名人である。まことの心のない永久に救われぬ身であることだけが知らされる」


●「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆゑは「内懐虚仮」なればなり。「内」はうちといふ、こころのうちに煩悩を具せるゆゑに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならぬなり、「仮」はかりにして真ならぬなり。このこころは上にあらはせり。この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつはらず、へつらはず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし、懈怠のこころのみにして、うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみつねにして、まことなるこころなき身なりとしるべしとなり。「斟酌すべし」(唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがうて、はからふべしといふことばなり。『唯信鈔文意』


おまけに親鸞聖人が「知るべし!」と仰っているのを、
「知らされる」に書き換えるのは、なんでかね~。

と思ってたら、清森問答で解説されてました。
 ↓ ↓ ↓
清森問答 質疑応答101

『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』という言葉についての解釈は、浄土宗と浄土真宗で異なります。

 文法的には、浄土宗の解釈の方が常識的な読み方ですが、親鸞聖人は、あえて別の読み方をされていますので、その両方を説明いたします。


 まず、浄土宗の読み方ですと、

「外に賢善精進之相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ」となります。

 これは、「外」と「内」の不一致を戒められたお言葉です。

 外の姿だけ賢善精進の格好をして、内に虚仮を懐いていてはいけませんよ、ということです。

 この人は、内が虚仮ですから、外の「賢善精進」は格好だけです。だから「相を現じる」という表現を取られていると考えられます。

 ここで問題にされているのは、内の虚仮であって、結論としては「心を真実にしなさい」ということになります。

 このお言葉は、外は「賢善精進」の格好だけやっている人に対して言われているお言葉ですから、その人に「もっと賢善精進の格好をしなさい」と教えられるはずがありません。

 そんなことをすれば、内と外の不一致が、ますます大きくなります。あくまで、内の虚仮を戒め、心を真実にしなさいということです。

 なお、文法的に考えても、「外には賢善精進の相を現じなさい」という読み方は出来ません。この読み方は、とりあえず外を一生懸命やればよい、という誤解を招く、危険な解釈です。

 今の親鸞会の目標制度は、参詣者数、入会者数という、まさに形を問題にし、内の虚仮が殆ど問題にされていないように思います。

 善導大師のお言葉を、正しく読めば、このような弊害を防ぐことが出来たのではないかと思われてなりません。



 次に親鸞聖人の解釈ですが、聖人はこの善導大師のお言葉を、「外に賢善精進之相を現じることを得ざれ。内に虚仮を懐けばなり。」と読まれています。

 文法的には、このように読めないのですが、親鸞会のような誤りを防ぐために、このように読まれたのではないかと、拝察せずにおれません。

 これは、「外に賢善精進の格好をするな。内は虚仮なのだから」ということになります。意訳すれば、「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」とも読めるかも知れません。


 まず気をつけて頂きたいのは、「身業・口業の善をするな」という意味ではない、ということです。


●外儀のすがたは、ひとごとに 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪義おおきゆえ 奸詐ももはし身にみてり(悲嘆述懐和讃)


 親鸞聖人は、賢善精進を現じている人を、悲嘆されています。貪瞋邪義が多く、奸詐が身に満ちている人が、身業口業の善に励んでいるとは考えられません。


●賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(愚禿抄)


 賢者(仏様)は、内は賢であるが、外は愚かである。私は内は愚なのに、外は賢である、と仰っています。仏様でさえ、外に賢善精進の相を現じてはおられないようです。


 このようなことから、親鸞聖人は、「賢善精進之相を現じる」という言葉を、「身業口業の善に励む」という意味で使っておられないことが分かります。

 ですから、「内は虚仮ばかりなのに、外を取り繕って、賢善精進の格好をするな」という意味になります。



 ところが親鸞会では、これは信後のことを仰ったお言葉で、信前のことではない、とお聞きしたように記憶しています。

 これについては、具体的に、親鸞聖人がどのように教えられているか、根拠を示したいと思います。



 まず、親鸞聖人が、拝読を勧められていた「唯信抄」には、以下のように書かれています。


●その三心というは、ひとつには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おおよそ、仏道にいるには、まずまことのこころをおこすべし。そのこころまことならずは、そのみちすすみがたし。
(乃至)
まことにふかく浄土をねがうこころなきを、人におうては、ふかくねがうよしをいい、内心にはふかく今生の名利に着しながら、外相にはよをいとうよしをもてなし、ほかには善心あり、とうときよしをあらわして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。
(乃至)
善導の釈にいわく、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」といえり。


 そして、この唯信抄を解説された「唯信抄文意」には、以下のように教えられています。


●『観経』の三心は、定散二機の心なり。定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心としるべし。
(乃至)
「不得外現 賢善精進之相」というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。



 唯信抄では、「仏道に入るには、まず、まことのこころをおこすべし。」と教えられ、その「まことのこころ」=「至誠心」を起こすために、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」と、教えられています。

 仏道のスタートですから、信後の世界のことではありません。

 さらに、その解説の「唯信抄文意」では、「『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心」だと書かれています。

 ここに「方便の至誠心」とありますから、信前であることは明らかです。

 その至誠心の解説の中で、「かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」と仰っているのですから、当然、信前の人に対して説かれた言葉、ということになります。



 私には、御報謝の額で表彰状をもらったり、活動の成果で講師部のランクが上がったりする、今の親鸞会のあり方を批判されたお言葉のように思えるのですが、如何でしょうか?

 そんなに、立派な求道者と思われることが大事なのでしょうか?

「立派な求道者と思われる必要は無い、心が大事だ」というのであれば、表彰状もランク分けも要らないはずです。

 そういうやり方で、仮に親鸞会の皆さんが頑張られたとしても、親鸞聖人は決して喜ばれないと思います。


どうやら、親●会ドグマに都合の良い形に、
「仏道のスタート」「方便の至誠心」を、
「信後の世界」にしちゃったようですね(苦笑)。



というわけで、チ●ーリップ企画のエラーは更に一項目プラスですね。
 ↓
6,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。

「阿弥陀如来の本願」がわかってなかったのね。。

高森先生の親鸞会教学を検証する 阿弥陀如来の本願 より

教学聖典(2)

問(16)『阿弥陀如来の本願(誓願)』を記せ。
また、この願を何と言うか。

答(16)

設我得仏十方衆生 設い我仏を得んに、十方の衆生、
至心信楽欲生我国 至心に信楽して我が国に生れん
乃至十念     と欲うて乃至十念せん。
若不生者不取正覚 若し生れずば、正覚を取らじ
唯除五逆誹謗正法 唯五逆と正法を誹謗せんことを除かん。

○また、至心信楽の願とも言う。



はいはい。
間違いだらけですね~、親鸞会の説明は。
なんでかわかります?
高森先生の18願の説明聞いて、
明らかに総ておかしいと今ならわかりますよね。
ね、高森先生!

今回は指摘する箇所が多すぎるのでかなり手抜きです。

それじゃあ一つ一つ、簡単に説明しましょうか?
いちいち長文で解説してたらきりがないので、
わからないところがあったら、質問してください。


設我得仏十方衆生 設い我仏を得んに、十方の衆生、

→親鸞会の法話では、
「阿弥陀仏は既に仏になったので、これは関係ありません」
と言われますが、違います。
阿弥陀仏は現に法蔵菩薩の姿をとって、
私達に働きかけておられます。
くわしくは教行信証証巻を参照。

→親鸞会は口では十方の衆生を対象と言っていますが
口先だけですね。
ではなぜ退会者・除名者を口汚く罵り、
あいつは地獄行きだ、とか言うんですか?
(例)支部長「U田の話を聞くと地獄行きですよ!!!」
これは例ですが、実際に言われたことだと聞きました。
本当に十方衆生が救済の対象なら、そんなこと言い切れないはず。
どうしてそんなこと言うのでしょう?


至心信楽欲生我国 至心に信楽して我が国に生れん
乃至十念     と欲うて乃至十念せん。

→はい、親鸞会の説明では全然意味が説明されていません。
だいたい、「大安心大満足の境地になれる」って、
仏法をこの世を明るく楽しく渡る道具程度にしか思ってないの?
ていうか、説く高森先生にも至心なんてカケラもないし、
聞く親鸞会会員にも欲生我国の心なんて微塵もないよね。
乃至十念の解釈も適当すぎるし。


若不生者不取正覚 若し生れずば、正覚を取らじ

→出ました。「生まれるに当益の意味は全く無い」ですか?
親鸞聖人のお言葉をあげておきます。

「若不生者 不取正覚」というは、
若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。
このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、
わが浄土にもしうまれずは、仏にならじと
ちかいたまえる御のりなり。


唯除五逆誹謗正法 唯五逆と正法を誹謗せんことを除かん。

→「全人類は逆謗と見抜かれた」ですか?
んなわけねーじゃん!
高森先生、本当に真宗学を勉強したの?
抑止門と摂取門を知らないわけじゃないよね?

以下、教行信証信巻より。

光明寺の和尚(善導)いはく(散善義)、
「問うていはく、四十八願のなかのごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて、往生を得しめず。いまこの『観経』の下品下生のなかには、誹謗を簡ひて五逆を摂せるは、なんの意かあるやと。
 答へていはく、この義、仰いで抑止門のなかについて解す。四十八願のなかのごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、ただちに阿鼻に入りて歴劫周章して、出づべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。またこれ摂せざるにはあらざるなり。
また下品下生のなかに五逆を取りて謗法を除くとは、それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は、いまだ為らざれば、また止めて〈もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得じ〉とのたまふ。これは未造業について解するなり。もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。


うん、18願の解説すべてが、親鸞会はおかしいんだね。
よーくわかりました。
50年聞いても、18願の説明が狂っていては、
誰も救われないわけです。




そっか。。
「阿弥陀如来の本願」がわかってなかったのね。。

聖道門の理論を無理やり浄土門にあてはめちゃだめよ。

メル友が絶賛してたので、このブログでも以下の記事を紹介しておきます。
 ↓ ↓ ↓
21世紀の浄土真宗を考える会 歎異抄第2章を読む その2

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

関東から命がけで京都まで訪ねてきた門弟たちに親鸞聖人がおっしゃったと言われる言葉です。
ここで、「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」とはどういうことなのでしょうか。
考えてみましょう。
ここでは
「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し」と
「また法文等をもしりたるらん」の
2つのことについて門弟たちが疑問を持っていたということが分かります。
2つ目の「また法文等をもしりたるらん」は、親鸞聖人御消息集の「さては慈信が法文のやうゆゑに、常陸・下野の人々、念仏申させたまひ候ふことの、としごろうけたまはりたるやうには、みなかはりあうておはしますときこえ候ふ。かへすがへすこころうくあさましくおぼえ候ふ。」などからも分かりますように、慈信房善鸞の言いだした法文を指しています。
では、1つ目の「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し」はどういったことを表しているのでしょうか。
この主語は親鸞聖人ですから、「この親鸞が念仏以外の道を知っており・・・」と親鸞聖人がおっしゃったのですが、なぜ親鸞聖人がこのようにおっしゃったのかということです。
この親鸞聖人の言葉から類推できることは、誰かが「念仏以外に往生の道があるぞ」と言い出したというものでしょう。
その「誰か」とは誰なのか?
念仏以外の往生の道とは何なのか?
題目を唱えて極楽往生できると教えた人はいませんので、これは違います。
すると、この1つ目もやはり慈信房善鸞のことを指していると考えるのが自然です。
御消息には
「第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり。 」
と善鸞の行状について書いておられますように、善鸞は念仏(第十八願)だけでは助からないと言いだしたのではないかと思います。
このことは同じく御消息の「笠間の念仏者の疑ひとはれたる事」の内容とも関連します。

このように読むと、次の「南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば・・・」と続く文も意味が分かります。
ここからは、承元の法難の直接のきっかけとなった興福寺奏状、また、少し前の延暦寺奏状(延暦寺大衆解)が思い出されます。

興福寺奏状は下記のものです。

元久2年(1205年)、南都の興福寺の僧徒から、吉水教団に対する九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴える。
「興福寺奏状」
興福寺僧網大法師等誠惶誠恐謹言
殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。
九箇条の失の事
第一新宗を立つる失
第ニ新像を図する失
第三釋尊を軽んずる失
第四不善を妨ぐる失
第五霊神に背く失
第六浄土に暗き失
第七念仏を誤る失
第八釋衆を損ずる失
第九国土を乱る失

この中の第6の「浄土に暗き失」とは何でしょうか。
他の8項目は理解しやすいですが、この6番目の非難はどういうことでしょうか。
私がかつて読んだことのある本を調べてみましたが、どういうわけか、この6番目だけが抜けていました。
なぜでしょうか?
それにしても、聖道門の人が浄土門の人を非難するのに、「浄土に暗き失=浄土の教えを知らない」とは奇異な感じです。
これはどういうことかというと、
法然上人が諸行往生(観無量寿経に説かれてある定善、散善による往生)を否定され、下品下生の悪人に教えられた念仏一行をとって、念仏往生を勧められたからです。
それは、聖道門の人たちからは、観無量寿経そのもの、ひいては大無量寿経の三輩の往生までをも否定しているように見えたのです。

そして、法然たちの説いていることは、廃悪修善、自業自得の因果の道理を無視し、仏法を破壊するものだと言っているのです。
その根拠としているのが、
 諸悪莫作
 諸善奉行
 自淨其意
 是諸仏教
の七仏通戒偈だったのです。

つまり、解脱貞慶上人たちは、聖道門の理論を無理やり浄土門にあてはめようとしたことが分かります。
これではすべての人を平等に救うという阿弥陀仏の本願を理解できるはずがありません。

法然上人は西方指南鈔(親鸞聖人筆)に次のように仰っています。
問。極楽ニ九品ノ差別ノ候事ハ。阿彌陀佛ノカマヘタマヘル事ニテ候ヤラム
答。極楽ノ九品ハ。彌陀ノ本願ニアラス。四十八願ノ中ニナシ。コレハ釋尊ノ巧言ナリ。善人悪人一處ニムマルトイハハ。悪業ノモノトモ慢心ヲオコスヘキカユヘニ。品位差別ヲアラセテ。善人ハ上品ニススミ。悪人ハ下品ニクタルナリト。トキタマフナリ。イソキマカリテシルヘシ云云

話を元に戻しましょう。
慈信房善鸞は何を唱えたのでしょうか?
それは
「第十八の願に説かれている念仏の救いだけではいけない。諸善万行もしなければならない。」
といったようなものであったのでしょう。
そうすれば、歎異抄第2章の前半は無理なく理解できます。

もちろん、善鸞は、
・余の人々を利用しようとした
・神に仕える者ののまねをした
などもしていますが、関東の門弟たちが命がけで聞きに行かねば、分からないことではありません。
また、歎異抄第2章には「念仏無間」を唱えた日蓮宗を意識しての言葉もないことはないですが、長い人で20年以上親鸞聖人から教えを受けていた門弟たちが迷うようなことでもないと思います。
(日蓮が鎌倉で念仏無間を唱えたのは親鸞聖人が80歳を過ぎてからで、それがそんな短期間に関東一円まで広まり、門弟たちを動揺させたとも考えにくいことです)




聖道門の理論を無理やり浄土門にあてはめちゃだめよ。

「一切衆生必墮無間」ドグマの不当な罪業観で人々を苦しめ、
念仏を否定することにより浄土門の宗教的平等性を破壞しやがる、
「なんちゃって諸行往生」な某会の皆様は、
以下の記事と合わせて、よ~く勉強しておいてね。
 ↓ ↓ ↓ 

親鸞会教義の相対化・66
親鸞会教義の相対化・67
親鸞会教義の相対化・68

Q&A(18)親●会は「諸行往生」にも値しません。

Q&A(22)「衆生」の意味と親●会ドグマの関係

Q。
苦笑さん、質問お願いします。
親○会さんドグマの『一切衆生必墮無間』ですが、
『衆生』の仏教での本来の意味は『生きとし生けるものすべて』ですから、
『一切衆生必墮無間』はおかしいのではないでしょうか?

この言葉どおりなら『六道』や『極楽浄土』は存在せず、
『無間地獄』だけの世界観になってしまうと思います。
もし、これからも親○会さんがこのドグマにこだわるなら、
今後は『一切凡夫必墮無間』または『一切人間必墮無間』がまだ意味が通ずると思います。

そうじゃないと親○会ドグマだけでは、
『無間地獄』だけの世界観になって、
『六道』や『極楽浄土』は存在せず、
浄土真宗どころか仏教でもない高森○徹教になってしまうと思います。
苦笑いさんはどのように考察されますか?


A。
まず衆生(Skt. sattva, Pali. satta )の基本的な意味ですが、

●衆生(satta)と言われるのは、なぜ衆生と言われるのか?
色(受・想・行・識)において、欲望があり、貪りがあり、喜びがあり、渇愛があり、執著し、とらわれているが故に、衆生と言われる。
(SN. XXIII-2)

と釈尊が定義されているように、

物質(色)・感受作用(受)・表象作用(想)・意志・形成作用(行)・認識作用(識)の「五蘊」に対して、
「欲望があり、貪りがあり、喜びがあり、渇愛があり、執著し、とらわれている」存在は全て「衆生」ですので、
「人間」のみならず、「六道」全ての生物が「衆生」の範疇に入ります。
(インドでは「植物」は「衆生」の範疇に含まれません。)

この「衆生」には、「凡夫」(プリタック・ジャナ、輪廻するもの)のみならず、「菩薩」も含まれることになります。

「菩薩」(Skt. bodhi-sattva, Pali. bodhi-satta )という名称は、
後に、覚りを求めて修行し最終的に成仏を目指す人を「菩薩」と呼ぶようになりましたが、
元々は覚って仏になる前の釈尊に対する名称で、「覚りを獲得する衆生」の意味です。

したがって、「覚って仏になる前の釈尊」=「覚りを獲得する衆生」=「菩薩」も、
もちろん「衆生」の範疇なわけですから、
「一切衆生必墮無間」という親●会ドグマでは、
この「覚って仏になる前の釈尊」=「覚りを獲得する衆生」=「菩薩」も、
当然「必墮無間」ということになってしまいます。

仏教のことを何も知らない人物が捏造した、
呆れるほどとんでもない、ヘンテコドグマですね(苦笑)。

Q&A(21)人間界<修羅界<畜生界<地獄界と衆生の数が増えるのか?

Q。
親●会理論で、

人間界<<<修羅界<<<畜生界<<<地獄界

という風に衆生の数が増えると聞きますが、
これに関してお釈迦様はどのように言われているのでしょうか?


A。
その「親●会理論」が、何に基づく説か存じませんが、
『涅槃経』に基づく以下ものであれば、既にツッコミが入っております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
教学聖典(2)

問(1)地獄へ堕つる者は多く、人間に生まれる者は極めて少ないことを教えられた経文と根拠を示せ。

答(1)

○地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
 人間に生れる者は爪の上の土の如し
 (涅槃経)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


※高森先生の親鸞会教学を検証する 「高森先生ほどの方が、涅槃経を読まれたことがなかったのでしょうか」 
※苦笑の独り言 『涅槃経』なんて読んでるわけないじゃん(苦笑)。

~~以下引用~~

(涅槃経巻第三十三・迦葉菩薩品第十二の一)

爾の時に世尊、地の少土を取りて之を爪上に置き、迦葉に告げて言はく、
「是の土多きや、十方世界の地の土多きや。」
迦葉菩薩、佛に白して言さく、
「世尊、爪上の土は十方の所有の土に比せざるなり。」
「善男子、人の身を捨てて還て人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くるを得、
諸根完具して中國に生れ、正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已りて能く解脱を得、
解脱を得已りて能く涅槃に入る有るは、爪上の土の如く、
人身を捨て已りて三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、
諸根具せず、辺地に生じ、邪倒の見を信じ、邪道を修習し、解脱、常・楽・涅槃を得ざるは、
十方界の所有の地土の如し。
善男子、禁戒を護持して精勤して惰らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧祇物を用ひず、
一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは、爪上の土の如し。
毀戒懈怠、四重禁を犯し、五逆罪作り、僧祇物を用ひ、一闡提と作り、諸の善根を断じ、
是の経を信ぜざるは、十方界の所有の地土の如し。
善男子、如来は善く衆生の是の如き上・中・下根を知りたまふ。
是の故に佛は知根力を具すと称す。」

(口語訳)

その時に釈尊が大地の少しの砂を取って、これを爪の上に置いて、迦葉菩薩に告げて、
「この土が多いか、十方世界の地の土が多いか」と言った。
迦葉菩薩は釈尊に「世尊よ、爪の上の土の少なさは十方にある土の多さに比べられません」と申し上げた。
「善男子よ、人が死んだ後、再び人身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、人身を受けることを得て、
もろもろの感覚器官が完全に具わって、仏法の中心地に生まれ、正しい信心を具足して、
道を習得し、道を習得しおわって、なかでも正しい道を修行し、正しい道を修行しおわって解脱を得て、
解脱を得おわって涅槃に入ることは爪上の土のように少ないのである。
人が死んで後、三悪道の身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、再び三悪道の身を得て、
もろもろの感覚器官が具わらず、仏法の中心地から遠い辺地に生まれ、邪(よこしま)で傾倒した思想を信じ、
邪な道を修得し、解脱を得ず常楽の涅槃を得ないことは十方世界にある地上の土のように多いのである。
善男子よ、戒律を護り、精進し、四重の罪を犯さず、五逆罪を犯さず、教団に属する財物・物資を勝手に使わず、
闡提とならず、善根を断たずに、経典を信じる者は、爪の上の土のようなものである。
懈怠であり、四重の罪を犯し、五逆罪を犯し、教団の財物を用い、闡提となり、善根を断じて、
経典を信じない者は、十方世界の土のようなものである。
善男子よ、如来はよく衆生にこのように上・中・下があることを知っている。
だからこそ仏は知根力を具えていると言うのだ」

~~以上引用~~

●解脱を得おわって涅槃に入る→爪上の土のように少ない
○解脱を得ず常楽の涅槃を得ない→十方世界にある地上の土のように多い

●戒律を護り、精進し、四重の罪を犯さず、五逆罪を犯さず、教団に属する財物・物資を勝手に使わず、闡提とならず、善根を断たずに、経典を信じる者→爪上の土のように少ない
○懈怠であり、四重の罪を犯し、五逆罪を犯し、教団の財物を用い、闡提となり、善根を断じて、経典を信じない者→十方世界の土のように多い

ということは「釈尊の言葉」と言えますが、
親●会の教えのように、

・地獄に堕ちる者→十方世界の土のように多い
・人間に生れる者→爪の上の土のように少ない

を「釈尊の言葉」と言うことはできません(苦笑)。



一応、元・浄土真宗親●会西学友部関西ブロック所属学友部員君が挙げてくれてた、
『往生要集』の記述に基づいて、

●ゆゑに『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、
「人趣に生るるものは爪の上の土のごとし。 三途に堕つるものは十方の土のごとし」と。
(『往生要集 巻上』)

「源信僧都が受け取った釈尊の教え」として、

 人間界<<<三途(地獄+餓鬼+畜生)

ということは可能ですが、これにしても親●会の教えとは異なりますね。
親●会は、どちらの『涅槃経』に基づいて教えを説いているんでしょうかね(苦笑)。



まあ、「一切衆生必墮無間」が親●会ドグマであり、

★時間の経過とともに「地獄」の衆生の人数のみ増加する!!

というのが、親●会における当然の論理的帰結でござりますから、
「地獄」の衆生の人数が、他に比べて圧倒的に多くなきゃ困るんですよ。

親●会ではね(苦笑)。

やさしい浄土真宗の教え §ラスト まとめ

§ラスト まとめ

これまでのまとめを掲載して、「やさしい浄土真宗の教え」を一区切りさせとくよん。
レクチャーをしっかり吸収して、「浄土真宗の教え」をちゃんと理解してね。


【浄土真宗の基本的システムに関する話】

§1 「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」
 1、「仏教の目的」は「成仏」である。
 2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
  「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
 3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
 4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
 「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。

§2 極楽浄土に生まれるためのシステム
 1、阿弥陀仏がマニフェスト(48項目)の第十八番目(第十八願文)は、「本願を信じた人を極楽浄土に生まれさせる」システムを作ることである。
 2、阿弥陀仏はマニフェストを実現したから、西方極楽浄土で仏様になっている。
 3、阿弥陀仏がマニフェストを実現して完成してくれたシステムによって、衆生は極楽浄土に往生することができる。

§3 阿弥陀仏の救いは平生から
 1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムで救われるのは「平生」である。
 2、そのことは法然上人が明かにしてくださった。
 3、親鸞聖人は「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見ることにより、
  「信楽」を得たその瞬間に、「往生」が確定して「成仏」も確定することを明かにした。
 4、浄土真宗では、このことを「不体失往生」と言う。
 5、したがって、「不体失往生」の根拠は「願成就文」の「即得往生住不退転」でなければならない。

§4 「信楽」と「正定聚」の関係
 1、「信楽」は「阿弥陀仏の本願に対する信心」、「正定聚」は「完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地」である。
 2、この二つは、因果関係にあって密接に関係している。
 3、しかし、この二つをイコールにしてしまうと、親●会のヘンテコドグマのように、様々な問題が発生してしまう。
 4、「信楽」は「プラサーダ」であって、「バクティ」や「思考停止」ではない。
 5、 極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」ではなく「プラサーダ」を目指さなければならない。

§5 何の力によって信心を得るか?
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じなければ衆生は救われない。
 2、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに必要なのは、「信心」(=信楽、プラサーダ)である。
 3、本願の解釈を「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている」としたら、事実上「十劫安心」を肯定することになる。

§6 「名号」と「光明」
 1、阿弥陀仏が作ってくださった、「名号」が因、「光明」が縁となって私達は「信心」を得ることができる。
 2、「信心を得た!」ということは、阿弥陀仏が与えてくれる「信心」の体である「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」ということである。
 3、「名号」を受け取らなかったら「信心」とはならない。
 4、私達が「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は「光明」で働きかけてくれている。
 5、しかし、私達が「名号」を受け取って「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。


【浄土真宗の「聴聞」に関する話】

§7 聴聞(何を「聞く」のか?)
 1、浄土真宗の「信心」は、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
  疑いが完全に晴れた「信心」である。
 2、その「信心」になることによって、
  阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗ずることができる。
 3、「聴聞」によって、その「信心」は得られる。
 4、その「信心」は「一念」で得られるものであるが、
  それを獲得するまでの期間は、人によって様々である。

§8 なかなか信心獲得できない人のために・・
 1、なかなか「信心」を得られない人も、
  時間がかかっても、必ず「信心」を得られる時は来る。
 2、その時まで諦めずに「聴聞」を続けることが大事である。
 3、「聴聞」で「信心」を得られるように、
  自ら積極的に環境を整えていくことが大事である。
 4、それができなくなるような教えを説く、
  自称「善知識」から「聴聞」をしてはいけない。


【「南無阿弥陀仏」と信心に関する話】

§9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
 1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
 2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
 3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
 「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
 ★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」という【勅命】、
 ★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
 ★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」という【選択本願】、
  として解釈されている。
 4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
  衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
  人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
 5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
 「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
 【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。

§10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ
 1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
 「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
 ★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
  【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
 ★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
  【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
 ★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
  【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
  として解釈されている。
 2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
  善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
 3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
  永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
 4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。

補講
Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について
Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因


§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)
 1、様々な「信心」の中でも特別な、
  「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
 2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」
  になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、
  二つの角度から明らかにしたものである。
 3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
 4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
 5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
 6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
  いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
  「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。

§12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン
 1、「異安心」は浄土真宗の異端思想である。
 2、「異安心」は法然上人や親鸞聖人と異なる信心であり、
   この信心では法然上人や親鸞聖人と同じ浄土へ往生できない。
 3、他人の心の中が「真実信心」であるかどうかを判定することはできない。
 4、しかし、「教え」が明かに善知識方に反する場合は、
  「異安心」である可能性も濃厚である。
 4、「異安心」認定は慎重なプロセスを踏まなければならず、
   無責任な「異安心」認定を行った者は言語空間から抹殺される。

§13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル
 1、古来より現代まで様々な「異安心」があるが、
  いずれも浄土真宗の信心である「二種深信」と異なった信心である。
 2、「特殊文化」でもって「異安心」を認定することはできない。
 3、「特殊文化」でもって「異安心」認定を行って憚らない人の「信心」は、
  「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の「異安心」の可能性が高い。


【浄土真宗における「念仏」の位置づけに関する話】

§14 「信心」と「念仏」
 1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
 2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
 3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
 4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
 5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
 6、上記は法然上人のみならず、 親鸞聖人も教えておられることである。
 7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、
  このコンテキストで解釈していかなければならない。
 8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、
 「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。

§15 所謂「信前の念仏」について
 1、法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人(=信前の人)に対し、「念仏」を勧めておられる。
 2、同じく法然上人は、信前の人が「我が心をも護り信心をも催す」ために、「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられる。
 3、親鸞聖人も、「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
 「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」(信後の人)におとらないように、
「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる。
 4、親鸞聖人は法然上人の教えを忠実に継承された弟子であり、
 「法然上人の教え」に抵触する「親鸞聖人の教え」の解釈は、親鸞聖人ご自身の御心に反する。
 5、したがって、「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」という教えは、
  法然上人や親鸞聖人の教えとは異なる教えである。


【「三願転入」の位置づけに関する話】

§16 所謂「三願転入」について
 1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
 2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
 3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。

§17 阿弥陀仏の本願の行
 1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
   阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
   阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
   親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。
 2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
   この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。
 3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である
   十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。
 4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
  「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。
 5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
   それができなくなるような環境からは脱出すべきである。

§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義
 1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
   阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
   セーフティーとして立てられたのが十九願である。
 2、極楽浄土に往生しようと思っている人
  (=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
   極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
   阿弥陀仏の本願を無視することになる。
 3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
  「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。
 4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
  (=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
  この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。
 5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
  「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。
 6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
  「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
  「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。

§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?
 1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、
  「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。
 2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」
  というのが本音である。
 3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
  「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。
 4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
  などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。

補講
Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?
 1、「三願転入」を「教え」として「全員がやらなきゃダメ!」というのは、間違い。
 2、「三願転入」を、過去世も含めて「全員がそういう道を通ってきた」というのはOK。
 3、既に阿弥陀仏の本願に出会っている人に対して、
 「宿善ポイントを貯めないとだめ!」みたいなことを言うのはおかしい。
 4、宿善ポイントを貯めるようなことができない私逹のために、
  阿弥陀仏が本願を立て、釈尊が教えを説いている。


【「浄土真宗」以外の教えの位置づけ】

§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ
 1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
  能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。
 2、それを否定するのは、
  法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。
 3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。
 4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
  悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
  仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。

阿弥陀仏は、「神社に行ったら一発アウト」のような、けちくさい仏様じゃありません。

阿弥陀仏は、「神社に行ったら一発アウト」のような、
けちくさい仏様じゃありません。

「ショウモナイ人間の価値判断を阿弥陀仏に投影するなよ!」
と言ってやりたくなりますな(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

安心問答 2009-07-21 子供が神社の祭りに行かねばならないときはどうするか? より

フーテンの虎さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

実はわたしには小学一年の息子がいます。
年一回、地元で神社主催の祭りがあり、それに出なければ友達からいじめにあうかも知れません。どうすればいいでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090719/1248003174#c1248060401

結論からいいますと、行事に参加するかしないかは、自由です。

理由は、平太郎の熊野参りと同じです。

一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり(御伝鈔)
と、親鸞聖人は、熊野へ行くかどうかを訪ねた平太郎にいわれました。

あくまでも私たちが、阿弥陀仏に救われ、浄土に往生するかどうかは、一向専念無量寿仏以外にはありません。外の諸仏や菩薩や諸神の力によって、浄土往生できるのではありません。

小学一年生の息子さんですから、どこまで仏法のことを理解されているかわかりませんが、今回のことをご縁に、阿弥陀仏と、神社の神の違いを話されたらよいのではないかと思います。

問題は心のことです。体が一度でも、地元の祭りに参加したら阿弥陀仏に救われる事はないというのであれば、仏法とご縁がある前に地元の祭りで御輿を担いだり、初詣で神社に賽銭を投げたことのある人は二度と助からないということになります。

地元の子供がみな参加する行事ならば、その地域の子供はみな今後も阿弥陀仏に救われる事はないということになります。しかし、そういうことは阿弥陀仏の救いには関係ありません。

助ける力が阿弥陀仏以外にない、ということと、阿弥陀仏以外に向いたことの有る者を阿弥陀仏は助けてくれないということとは違います。

自身も知人も、ご利益があるから神社へ行け、諸仏に参ってこいと勧めているのではありません。神社や、諸仏に参拝することは、阿弥陀仏の救いと無関係なので、積極的に勧める必要はありません。

阿弥陀仏の救いの足しにしようという心で、祭りに出たり、賽銭をなげるということならば、これは雑行でありますから、やってはならないことです。

私たちを助ける働きがあるのは、阿弥陀仏以外にないのですから、一向専念無量寿仏は往生の肝腑であることを、親子で話をするご縁にすればよいのではないかと思います。

体が神社の祭りに参加したら、息子さんが阿弥陀仏に助けてもらえなくなると思われての心配ならご無用です。そんな阿弥陀仏なら、十方衆生は救えませんし、親鸞聖人も平太郎に熊野行きを許可されません。

大事なのは心です。一向専念無量寿仏が親鸞聖人の教えですから、阿弥陀仏一仏に向かって下さい。


やさしい浄土真宗の教え §20 「浄土門以外の教え」の位置づけ

§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ

※今回も、ダチ(元親●会講師)との質疑応答形式です。


【ダチ】(その1)

とりあえず分かりました。

 とりあえず、と言いますのは、諸善を実際やらないと心から納得できないよ~という人は、浄土門以外の教えを聞かねばならないのか。

 つまり、浄土門以外の教えを説く人も、(機によっては)必要ということになるのでしょうか。

 まあ、必要だから釈尊が浄土門以外の教えも説かれたのかも知れませんが。


【苦笑】(その1)

必要な人がいるから、やっぱそういう教えを説く人もいるんでしょうね~。

成仏したくなくて、天国に行きたい人(他宗教の人)とか、
極楽浄土に往生したくない人とか、自分でこの世で成仏したいと思う人(他宗の人)とか、
極楽浄土に往生したいけど、そのために念仏以外の行をしたいと思う人(往生浄土を求める異解異修の人)もいるから、

そういう人のために、そういう人にあった教えを説く人ちゅうものやっぱ必要だし、
それはそれで意味があるから、存在してるんだと思いますよ。

限りなく可能性は少ないけど、能力さえあれば救われる可能性は0じゃないわけですからね~。(注1)

それを否定するのは、法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてもアウトでしょうし、(注2)(注3)
「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトやと思います。(注4)


【ダチ】(その2)

私としても、他宗を謗るという考えは、仏教に合わないと思います。
機に応じて、必要があって説かれたものですから。

だけど、親●会は仏教でもないし、常識の範囲で許される宗教でもないから、容認は出来ませんね…
カテゴリーとしては、悪徳商法か暴力団に近いように思っています。


【苦笑】(その2)

全く同感です(苦笑)。

親●会独自のヘンテコドグマを、
「ドグマ」として説くのであれば別にとやかく言うつもりはありませんが、
それを「仏教」とか「親鸞聖人の教え」と詐称するならば、
「違うよ!」と言うしかないでしょうね~。

ダンマパダ所収の以下の釈尊の言葉を読んだら、
「一刻も早く、親●会から脱出してもらわな」と思ってしまいますよ(苦笑)。
↓ ↓ ↓
116 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。
善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。
悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。

118 人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。
善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。

119 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。
しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。

120 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。
しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。

121 「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。
水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でももたされるのである。
愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、
やがてわざわいに満たされる。

122 「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、善を軽んじるな。
水が一滴じつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。
気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、
やがて福徳に満たされる。

123 同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、
また生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。

124 もしも手に傷がないならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。
傷のない人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪が及ぶことがない。

125 汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、
そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。
風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

126 ある人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墮ち、
行いの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎ(=涅槃)に入る。

127 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、
およそ世界のどこにいても、悪業から逃れることのできる場所は無い。

128 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、
およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所はない。

(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば 』(岩波文庫) より)



【今日のまとめ】
 1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
  能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。
 2、それを否定するのは、
  法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。
 3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。
 4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
  悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
  仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。

※次回は、これまでの「まとめ」だよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 『選択集』八章、『観経疏』散善義に以下の記述がある。

●諸仏の教行、数、塵沙に越え、稟識の機縁、隨情一に非ず。
譬えば世間の人の、眼に見つべく信ずべきごときは、
明能く闇を破し、空能く有を含み、地は能く載養し、
水は能く生潤し、火は能く成壊するがごとし。
かくのごとき等の事、ことごとく待対の法と名づく。
目に即して見つべし。千差万別なり。
何にいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。
隨って一門を出ずれば、すなわち一煩悩門を出ず。
随って一門に入れば、すなわち一解脱智慧門に入る。
これに為って縁に随って行を起して、各解脱を求む。
汝何を以てか、すなわち有縁に非ざる要行を将て、我を障惑するや。
然るに我が愛する所は、すなわちこれ我が有縁の行なり。
すなわち汝が求むる所に非ず。
汝が愛する所は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。
また我求める所に非ず。
この故に各楽う所に随って、その行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり。
行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、
凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切無礙に、皆学することを得よ。
もし行を学せんと欲せば、必ず有縁の法に籍れ。
少し功労を用いるに、多く益を得るなり。

(訳)
多くの仏の教えと修業の方法は、塵や砂の数ほどに多く、
それを受ける人たちの素質も能力もさまざまで、
それぞれの心にふさわしい教えも、また多い。
たとえば、光が闇を照らし、大空が何ものをも受け入れ、
大地が草木を育て、水がうるおって生長をうながし、
火がものをつくったり焼いて破壞したりすることは、
誰もが自分の目で見て確め信じることができる。
これは光と闇、空と有、水と火というように
相対的にはたらく不思議な作用をもっているので
待対の法と名付けなれているが、いずれも目で見て確かめることのできるもので、
その現象はさまざまである。
ましてや、仏法の考えもおよばない力にどうしてさまざまな利益がないのだろうか。
そのようなはずはあるまい。
仏の教えは八万四千もあるといわれ、煩悩も限りなくある。
したがって教えの一つの門を出れば迷いの一つの門を出ることになり、
教えの一つの門を入れば迷いや苦しみを離れた智恵の門に入ることになる。
いずれにせよ、縁のあるままにつとめ、
自分に最も適した教えによって、悟りを求めるようにせよ。
それにもかかわらず、そなたたちは、たとえそれが重要な修業の一つであっても、
縁遠いものをもってきて修業をすすめ、我われをまどわしさまたげようとするのか。
今、我われが願い求めているのは、我われに最もふさわしい修業法であり、
そなたたちが求めようとしているものではない。
そなたが願い求めているのは、そなたにとって最もふさわしいものであろうが、
我々が求めているものではない。
誰もが、それぞれ願うところにしたがい、最も自分にふさわしい修業をすれば、
必ず早く迷いの世界を出て、悟りを得ることができる。
仏の道を歩もうとする修業者は、このことをよく知ってほしい。
もし、教えを学ぼうとするならば、凡夫の立場から聖者の境地に至り、
さらに悟りを得て仏になるまで、自由自在に誰にもさまたげられることなく学ぶように。
また修業したいと思うなら、あれもこれもと試みることなく、
最もふさわしいものを一つ選んで修業せよ。
こうした方法をとれば、多少の苦労はあっても、大きな利益を得ることができよう。


注2 以下参照

●法然上人『七箇条起請文』

一、別解別行の人に対して、愚痴偏執の心をもて、本業を棄置せよと称して、あながちにこれをきらひわらふ事を停止すべき事。」(学問及び修行の違っている人に向かって、愚かにして偏屈な心で、『自分自身の宗の教えに勤めているのを捨てよ』と言って、むやみに馬鹿にしたり、あざわらったりすることをやめなさい。)

 しかもこれは「起請文」であり、仏に対する誓いであり、仏に対する誓いと異なる真意などというものが法然上人には断じて存在しない。


●親鸞聖人は『御消息』6(『末灯鈔』2)

 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。

●蓮如上人『御文章』

 以下のように、他宗や他の宗教への誹謗や批判を厳重に戒められている。

 そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。
 まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。

 そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まづ八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「自法愛染故毀呰他人法雖持戒行人不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(1帖14通、※以下1-14と表記)

 あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、身中にふかくをさめおきて、他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。
(2-1)

 他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。
(2-3)

 それ、当流に定むるところの掟をよく守るといふは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもって本意とするなり。しかりにちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもってわが宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人(親鸞)の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。
(2-13)

 そもそも、当流門徒中において、この六箇条の篇目のむねをよく存知して、仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。しかればこのごろ当流念仏者において、わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらはすこと、もつてのほかのあやまりなり。所詮向後この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかん輩は、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。
一、神社をかろしむることあるべからず。
一、諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。
一、諸宗・諸法を誹謗すべからず。
一、守護・地頭を疎略にすべからず。
一、国の仏法の次第非義たるあひだ、正義におもむくべき事。
一、当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。

 一つには、一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。これすなはち「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはり」(止観)といへるはこのこころなり。されば今の世の衆生、仏法を信じ念仏をも申さん人をば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆゑに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆゑなり。

 二つには、諸仏・菩薩と申すは、神明の本地なれば、今の時の衆生は阿弥陀如来を信じ念仏申せば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいはれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆゑに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀仏一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆゑに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も弥陀一体に帰せずといふことなきいはれなればなりとしるべし。

 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。そのいはれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。

 四つには、守護・地頭においてはかぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもつて本とすべし。

 五つには、国の仏法の次第当流の正義にあらざるあひだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今以後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがへして、善心におもむくべきものなり。

 六つには、当流真実の念仏者といふは、開山(親鸞)の定めおきたまへる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。それ一流の安心の正義のおもむきといふは、なにのやうもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。
(3-10)

 しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。
 ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。
(4-1)

※なお、高森氏が所謂「思想先行型」の解釈を行い、これらの教えを意図的に無視していることに関しては、以下参照。

「文献学」と「思想先行型文献学」


注3 特に親鸞聖人が、聖道門を修している方を、「既に覚って仏になられた仏や菩薩が、
私達を導くために現れてくださった方」と位置づけられていることは注目に値する。

● 聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、
 われらがこころをすすめんがために、
 仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。
 仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。
 これみな聖道門なり。
 権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、
 かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
『親鸞聖人御消息』(1)

(訳)
「聖道門」の教えというのは、すでに仏になられた方が、
 私達を導くために示してくださった、
 仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗の至極の教である。
 仏心宗とっは、世間に広まっている禅宗のことである。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教や、小乗等の教も、
 これらは全て「聖道門」の教えである。
「権教」というのは、既に覚って仏になられた仏や菩薩が、
 仮にさまざまな姿を現して私達を導いてくださっているから、
「権」というのである。


注4 最古の仏典と言われているスッタニパータに以下の記述がある。

 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、
 これらに依存して他の説を蔑視し、
 自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、
「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。(887)

 かれは過った妄見を以てみたされ、
 驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、
 みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。(889)

 自分の道を堅くたもって論じているが、
 ここに他の何びとを愚者であるとみることができようぞ
 他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、
 かれはみずから確執をもたらすであろう。(893)

 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、
 さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
 一切の哲学的断定を捨てたならば、
 人は世の中で確執を起こすことがない。(894)

 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、
 ―かれらはすべて他人からの非難を招く。
 また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。(895)

 たとい称賛を得たとしてもそれは僅かなものであって、
 平安を得ることはできない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、
 とわたしは説く。
 この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、
 論争をしてはならない。(896)

(中村元訳『ブッタのことば』岩波文庫)

Q&A(20)「回向」について、通仏教的な意味を教えてください。

Q。
「回向」について、通仏教的な意味を教えてください。


A。
「回向」(「廻向」)を理解するには、「業の理論」からお話する必要があります。

業の理論は、「善因楽果・悪因苦果」と「自業自得」という原則で成り立っていますが、
善因から楽果が生じ、悪因から苦果が生じるまでには、ある時間が介在します。

「盗みをして速攻で逮捕されてしまった」というように、
この介在する時間は、一瞬後かもしれないし、
あるいは時間がとても長く介在して、業の結果が及ぼされるのが現世ではなくて、
来世かもしれないし、次の次の生涯かもしれません。
そして前世やあるいはもっと前からの業の影響が現世に及んだ場合もあり、
その場合は「宿業」と言われます。


この善因が楽果に、悪因が苦果に、異熟して結果を出すまでのあいだ、
善因・悪因ともに、影響力を残します。

善因、すなわち善業(善い行為)が後に残す影響力を、プンニャ(功徳・福徳)といいます。
悪因、わなわち悪業(悪い行為)が後に残す影響力を、パーパ(罪)といいます。

善因=善業 → 功徳・福徳(時間の介在) ⇒ (異熟) ⇒ 楽果
悪因=悪業 → 罪    (時間の介在) ⇒ (異熟) ⇒ 苦果


「善因楽果・悪因苦果」と「自業自得」という業の原則は絶対ですから、
例外はないのですが、 仏教においては「これを超越できる」としています。

それが「廻向」です。

仏教においては、悪業をやっての「罪」は、廻し向けることはできません。
他人に自分の罪をもらってくれということはできないんですが、
功徳の方は、他人に向けることができます。

それを「廻向」と言います。

この「廻向」という考え方は、先祖供養という形で、
『増支部』「ジャーヌッソーニ章」(アングッタラニカーヤ、V269)にも存在しますから、
なにも大乗仏教に限らず存在した考え方です。
(藤本晃『功徳はなぜ廻向できるの?』国書刊行会参照)

ちなみに、阿弥陀仏の本願力は、阿弥陀仏から衆生に対する「廻向」なわけですが、
「廻向」を、この「他力廻向」だけに限定するのは浄土真宗だけに限定された文化です。

これをまず押さえておく必要があるでしょう。

Q&A(19)「悪人正機」は「全人類が五逆罪法謗罪」だからなのか?

Q。
苦笑さん

こんにちは。親鸞聖人が悪人正機といわれたことについて、私は以下のように理解していますが、間違っているでしょうか?


悪人といっても、仏様の眼で見られているものなので、無間業を作ったもの、十悪をつくったもの、仏様から見られたら偽善だけれども仏道修行をしているもの、と様々ある。

阿弥陀仏は、あくまで真実の修善が出来ない人を救うために誓われているのであって、全人類が極悪人だなんて決めつけられていない。

親鸞聖人も、全人類が五逆罪法謗罪のものなんて言われていない。


このように理解していますが、間違っているでしょうか?



親●会のある人からは、そんな解釈をしている善知識は誰もいないと言われました。

よろしくお願いします。



A。
はい。その解釈でOKです。

以前、教学講議にツッコミいれた時にも述べましたが、

●仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
 ゆゑに光明師(善導)のいはく(般舟讃)、「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」と。
『教行信証』信巻

「衆生の機」が「不同」であるために、「仏教多門にして八万四」であることは、
善導大師が仰っておられることで、親鸞聖人もそれを引用されています。


それに、これは以前清森さんが仰っておられたことですが、
「全人類が五逆罪法謗罪」だとしたら、

●善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。『親鸞聖人御消息』

という言葉に基づいて、無人島で暮らさなアカンようになってしまいますよ(苦笑)。

※清森問答質疑応答143


『歎異抄』の三章の文章は、
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」だけを読んで、
脳内のドグマに基づいた勝手な解釈してはいけません。

この後に続く文を読めば、
 ↓
______________________________________
 自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたる間、弥陀の本願にあらず。
 しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、
 真実報土の往生をとぐるなり。

 煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを、
 あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、
 他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。

 よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候ひき。
______________________________________


1)善人=自力作善の人=他力をたのむこころの欠けたる善人
2)悪人=煩悩具足で、いずれの行にも及ばない「我ら」=他力をたのみたてまつる悪人

ということであり、

1)「善人」とは、阿弥陀仏の救いに身を任せずに、自分の力で善を積んで往生しようとしている、 自力作善の人という意味の「善人」のこと。

2)「悪人」とは、煩悩具足であり自分の力では輪廻を離れることができないと自覚し、
阿弥陀仏の本願力をたのむことしかないと自覚した「悪人」のこと。

という意味で定義されていて、

阿弥陀仏の本願を頼むかどうかで「善人」「悪人」が定義されてはおりますが、
「全人類が五逆罪法謗罪」である必要は全くありません(苦笑)。



「そんな解釈をしている善知識は誰もいない」などと言ってる野郎に、
今度会った時に、以上のことをレクチャーしてあげてください。

Q&A(18)親●会は「諸行往生」にも値しません。

Q。
いつもお世話になっています。

>私に言わせれば、
>親●会教義は「諸行往生」でないのはもちろん、
>「善の勧め」でもなんでもない、
>カルト悪徳宗教ビジネス以外の何ものでもありませんけど(苦笑)。

と苦笑さんはコメントされていましたが、
親●会が「諸行往生」にも値しない理由を解説頂けないでしょうか?


A。
ご存じの通り、「諸行往生」は阿弥陀仏の第十九願に基づくものです。

●『大経』(上)の願(第十九願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、わが国に生ぜんと欲はん。寿終のときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」と。
(『教行信証』化身土巻所説の『無量寿経』十九願引用)

上記の文をご覧頂けば明かなように、

1)菩提心を発し
2)もろもろの功徳を修し
3)心を至し発願して
4)わが国に生ぜんと欲はん

上記の条件を満たした「十方の衆生」が、「寿終のとき」に阿弥陀仏の来迎によって、
「寿終のとき」に極楽浄土への往生が確定するのが、「諸行往生」です。

したがって、上記1)~4)を満たしてなければ、
「諸行往生」することはできません。

1)菩提心を発し
  ↓
「菩提心」とは、基本的に「覚りを求める心」ですが、
「仏教の目的は信心決定」と教えされている親●会会員の皆様は、
「覚りを求める心」を起こして、
「成仏したい!」と思ったことあるんでしょうか?

ぶっちゃけ、「信心決定したい!」だけで、
「成仏したい」なんて思ってないでしょ?(苦笑)

2)もろもろの功徳を修し
  ↓
親●会得意の「宿善ポイントシステム」が、
「もろもろの功徳を修し」に該当してるんでしょうかね~(苦笑)。

清森さんがこんなこと言ってはりましたよ(苦笑)。
 ↓
~~質疑応答17~~

どんなに頑張っても「間違った心がけ」じゃ、
「宿善ポイント」すらたまりまへん(苦笑)。

3)心を至し発願して
4)わが国に生ぜんと欲はん
  ↓
これは素朴な疑問なんやけど、
親●会の人って「極楽浄土へ往生したい!」って思ってます?

どんだけ「信心決定したい!」と思っても、
この条件を満たすことはできません。

本気で「諸行往生」したいなら、
「極楽浄土へ往生したい!」と思わないとダメなんですよ(苦笑)。


以上で、親●会が「諸行往生」にも値しないのが、
十二分におわかり頂けたと思います。

「諸行往生は本願にあらず」(親●会HPより)

「諸行往生は本願にあらず」(親●会HPより)

光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ。

 光に向かって善を勧める親鸞会に、「諸行往生ではないか」と非難する声があるらしい。諸行往生とはどういうことか、分かってのことなのだろうか。



ふ~ん。
どれどれ解説頂こうか~。
 


 諸行往生とは、「諸善をしたら助かる」ということ、これは間違いである。それでは、自力の善の積み重ねで助かることになるからだ。
「一切の自力を捨てて、他力に帰せよ」これ以外に親鸞聖人の教えはないことを、覚如上人は次のように断言されている。

「今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」(改邪鈔)

 親鸞聖人の、この捨自帰他のみ教えの徹底に専心する親鸞会は、未だかつて、「諸善をすれば助かる」などと主張したことは一度もない。
 当然である。

 また諸行往生は、死ぬまで助かったということがない。
 体失不体失往生の諍論で、親鸞聖人に論破された法友・善慧房証空の主張を、法然上人はこう評されている。

「善慧房の体失して往生するよし述ぶるは、諸行往生の機なればなり」(口伝鈔)

 肉体を失わなければ(体失)助からぬという善慧房の主張は諸行往生であり、「諸行往生は本願にあらず」とまで言い切られている。

 阿弥陀仏が本心を誓われた十八願には、平生の一念にいつ死んでも極楽往生間違いない身に救い摂る、と約束されているからだ。

 だから親鸞聖人のみ教えは、平生業成、現生不退。現在ただ今、肉体あるままの不体失往生を90年間、強調されたのである。

 ↑
これはまあ、ええね~。
そんで結論は、これなのね(苦笑)。
 ↓

善の勧めはなぜなのか

 高森先生もまた、この信仰の決勝点、一念の弥陀の救いを、常に黒板に縦の線で示され、親鸞聖人の平生業成のみ教えを一貫して説き続けられているのは世間周知のこと。
 その親鸞会に対する「諸行往生」の非難が、いかに的外れであるかは明らかであろう。

 では、善の勧めはなぜなのか。
 阿弥陀仏が、本心を誓われた十八願に導くために、十九の願(修諸功徳の願)で、諸善を勧めていられるからである。

 十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。

 要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。
 実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。



\( ̄ー ̄#)なんでやねん!

上の文と下の文が、全然関係ないやん(苦笑)。

メンドクサイから、もう繰り返さないけど、
以下のレクチャーを最低五回は読み直して、
浄土真宗を一から勉強し直してくださいませ(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

§17 阿弥陀仏の本願の行
§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義 
§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?


あと、シツコイようだけど、
「この活動」が「光に向かう」根拠はないんじゃね?(苦笑)

「この活動」
 ↓ ↓ ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.

やさしい浄土真宗の教え §19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?

§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?

※今回も「ダチ」との質疑応答形式です。


【ダチ】
セーフティーネットというのは分かりやすいですね。
最終的には、自力修善では仏になれない、弥陀の願力によらねばならないというのが結論になると思います。

阿弥陀仏のお仕事というのは、よく分かるのですが、浄土門の教えを説く人の仕事ではないというのは、「説く必要が無い」ということになるのでしょうか?

教行信証の化身土巻は、19願の解説であり、聖教の引用の多くは観無量寿経疏であり、特に散善義は多いです。

観無量寿経の中には定散善が説かれていますが、特に散善については一般的な仏教で言う修善に当たると思います。

これは、念仏に導く方便とは思いますが、方便である修善についても浄土三部経で触れられているということは、浄土門に19願の教えもあると解釈はできないでしょうか?

もし浄土門で説かないなら、教行信証化身土巻は書く必要がなかったという気がしますし…

もちろん、某会のように「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」などという意味ではなく、対機として、有りうるのではないかという疑問です。


【苦笑】
う~ん。
『教行信証』化身土巻は、

「これじゃあアカンよ」
「こういう思いで浄土往生を求めていたら、それは自力の信心だよ」
「これは法然上人や私と同じ信心じゃないから、気をつけなさいよ」

という位置づけで書かれたものであり、
実際、十八願に基づいて往生しようとしている人の中に、
そういう人がいっぱいいるから、気をつけましょうね。

という位置づけで書かれたものであって、
確かにそこにいる人にとってはプロセスなわけだけど、

それは、一刻もはやく「抜けなきゃいけないプロセス」なわけですから、
「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で、
説いていかなければならないものだと思います。(注1)

『選択集』の四章で説かれる、廃・助・傍の三義も最終的に、
善導大師解釈=法然上人の本音でいうと、
「諸行は廃のために説く!」なわけですし、 (注2)
第十二章でも、念仏は立てるために説いて、定散は廃するために説く。
というのが結論になってますしね。 (注3)(注4)

そういうことを「説く」のであれば、大いに説いたらいいと思います。
ただ、そういう見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
「諸行に励め!!」と説いてしまうのは、少なくとも、
法然上人や親鸞聖人の門下の教えではないと思います。


>「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
 ↑
まあ、これは論外ですけどね(苦笑)。(注5)


【今日のまとめ】
 1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、
  「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。
 2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」
  というのが本音である。
 3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
  「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。
 4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
  などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。

※次回は、「浄土門以外の教え」の位置づけに関して説明するよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 「それをせえ!」ではなく「それじゃだめよ!」という意味であることは、以下の親鸞聖人の言葉を読めば明白である。 

●まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
 悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。
 みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。
 おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。
 かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
『教行信証』化身土巻

(訳)
 いま、まことに知ることができた。念仏を専ら修していても、雑心(自力が混じった心)なものには大きな喜びの心を得ることができない。だから善導大師は『往生礼讃』で、「
(雑心の者は)仏の恩に報いようという思いがなく、行を修めても驕慢の心がおきる。いつも名誉や利益を求めているために、その人は「私」というとらわれの心に(自力)に覆われて、同行の人や善知識に親しみ近づくことがなく、進んで雑縁に近いて、極楽浄土に往生するための行を自ら妨げ、人を妨げるのである」と仰った。
 悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、他力の信心を伴った念仏を自力の行でもって補い助けようという気持ちが混入し(助正間雑し)、自力の定散の行でもって極楽浄土に往生しようという心が起きるため(定散心雑する)、迷いの世界から離れることができないのである。
 自分の力で流転輪廻を渡ろうとするならば、どれほど限りなく長い時を経ても、阿弥陀仏の本願力に帰して、信心の大海に入ることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。
 大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人と呼ばれる人逹も、阿弥陀仏が与えてくださった本願の名号を自分の力で作った功徳として称えてしまうために、他力の信心を生ずることができず、阿弥陀仏の仏智を知ることができないのである。
 阿弥陀仏が衆生が極楽浄土に往生するための因をお作りになられたことを知ることができないので、真実報土に往生することができないのである。

注2 §18の注2参照。

注3 善導大師は『観経疏』において以下のように述べておらえる。

●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
 確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)

 法然上人は上記の善導大師の言葉を『選択集』(第12章)に引用されている。

注4 さらに法然上人には、以下のような言葉もある。

 念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住して発し給ひたる事なれば、
 人を、きらうことは、候(そうら)はぬなり。
 佛の御心は、慈悲をもて体とすることにて候ふなり。
 されば『観無量寿経』には、
「仏心というは、大慈悲これなり」と説かれて候。

 善導和尚この文を受けて、
「この平等の慈悲をもっては、普く一切を摂す」と釈し給へり。
 一切の言、広くして、もるる人候ふべからず。
 されば、念仏往生の願は、これ弥陀如来の本地の誓願なり。
 世の種々の行は本地の誓いにあらず。

 釈迦も、世に出で給ふ事は、
 弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
 衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
 これ随機の法なり。 佛の、自らの御心の底には候はず。
 されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
 余の種々の行には、似ず候うなり。

『勅伝』巻二十八、「津戸三郎へつかはす御返事」(昭法全五七二頁)

(訳)
 念仏を申すことによって極楽浄土に往生することができるという、
 阿弥陀仏の誓願は、
 全ての人を平等に救うという慈悲の心から起こされたものであるから、
「あの人は救わない」というように人を選んだりするものではない。
 仏の御心というものは、慈悲がその中心となるものなのである。
 だから『観無量寿経』には、
「仏の心というのは、大きな慈悲のことなのである」と説かれているのである。

 善導大師は、この文を受けて、
「この平等である慈悲をもって、普く全ての人々を救い取る」と解釈している。
「一切」という言葉は、広くという意味であって、
 この救いにもれる人がいるはずがない。
 だから、念仏を申すことによって極楽浄土に往生することができるという、
 阿弥陀仏の誓願は、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、
 お建てになられた誓願なのである。
 念仏以外の行は、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、
 お誓いになられた行ではないのである。
 釈尊がこの世に現れたというのは、
 阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
 人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
 しかしそれは人々の能力に応じたのであって、
 決して釈尊の本心によるものではなかった。

 だから念仏は、
 阿弥陀仏のとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
 お釈迦様にとっては、それをひろめることが
 この世にお出ましになられた真の目的だったのである。
 それが、念仏以外の行との違いなのである。


注5 これに関しては§8の注5で述べたが、再掲載しておく。

『歎異抄』第18章には、施入物の大小を云々することが誤りであり、宝物を仏前になげたり、師匠にものを施したりすることによって救いが決まることはないということが述べられている。

一 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。
かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


また、蓮如上人も、財施によって救いがあるかのように教えることの間違いを指摘しておられる。

●これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
『御文章』1帖11通
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