スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ツッコミ!【第19回】『成就文』の即得往生の正意

第19回がアップされました。
 ↓↓↓
【第19回】『成就文』の即得往生の正意
http://shinjin.info/2008/10/311211157.html

いや~。今日はなぜか更新早かったですね~。
夕方だと思って油断してたよ(笑)。

前回、親鸞聖人が「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち、正定聚の数に入る) 即得往生は、後念即生なり(即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くる也)」と説かれている意味を明らかにした。


は~ん(苦笑)。

前回明かになったのは、以下の三点ね。

★親鸞聖人の言葉に基く限り、「即得往生 住不退転」と「若不生者 不取正覚」は時間軸上別の時点に配置されるものであり、「即得往生 住不退転」=「若不生者 不取正覚」はチ●ーリップ企画(=親●会)だけのヘンテコドグマであるということ。

★親鸞聖人の言葉に基づく限り、「信受本願」と「即得往生 住不退転」は時間的には同時であるが、明確に因果関係にあるために、「信楽」=「即得往生 住不退転」はチ●ーリップ企画(=親●会)だけのヘンテコドグマであるということ。

★上記ヘンテコドグマを前提に行う解説はヘンテコ解説であり、ヘンテコ解説によって導き出された、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】という結論はヘンテコドグマであること。


つまりチ●ーリップ企画(=親●会)は、
ヘンテコドグマを前提に論を構築しているわけで、
以下の解説も、ヘンテコドグマを前提にしますので、
当然ヘンテコ解説ということになります(苦笑)。
 ↓

「弥陀の本願を信受した」一念に、心が「死んで、生まれる」という、「信受本願・前念命終 即得往生・後念即生」の親鸞聖人の教えを、次に覚如上人から聞いてみることにしよう。

「平生のとき、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」 (執持抄)

「平生のとき」とは「死んでからではない」ということ。「帰命の一念を発得せば」とは
「本願を信受した」ときのことである。
「娑婆のおわり臨終とおもうべし」とは、この世の終わりで、それまで存在していた心が死ぬ。まさに『愚禿抄』の「前念命終」のことである。


だから何?(苦笑)。

これは別に、
【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、
「平生に信楽に生まれる」ことである】
というチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマの根拠にはなりませんね~(苦笑)。

それより問題なのは、
チ●ーリップ企画が挙げている『執持抄』の前後を見ると、

★平生のとき期するところの約束、もしたがはば、往生ののぞみむなしかるべし。しかれば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、かなふべからず。平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、そのときをもつて娑婆のをはり、臨終とおもふべし。
そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分)と釈したまへり。また殺生罪をつくるとき、地獄の定業を結ぶも、臨終にかさねてつくらざれども、平生の業にひかれて地獄にかならずおつべし。念仏もまたかくのごとし。本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まるなりとしるべし。『執持抄』


「平生の一念によりて往生の得否は定まれる」
「本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まる」

と書いてありまっせ。

「往生の得否が定まる」「往生は定まる」ということは、
その時点では「往生することが確定した」ということであって、
「往生した」ということではありませんわね。

つまり、この『執持抄』の文において「往生」は、
「死後に極楽浄土に往生すること」を意味していているのよね。

そんでもって、「娑婆のおわり臨終とおもうべし」というのは、
「死後に極楽浄土に往生する」という時点ではなくて、
「往生の得が定まる」「かならず往生は定まる」という時点なわけよ。

これを前回の時間軸に配置すると、

=前念(因) 介在時間0  =後念(果)     
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」    「若不生者 不取正覚」
    ↓          ↓                ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
    |          |                |      
   平生の一念 →  往生の得が定まる  →・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
   本願を信じる→  かならず往生は定まる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
  (名号をとなふ)
 帰命の一念を発得→ 「娑婆のおわり臨終」 →・・・・→極楽浄土へ往生→成仏

となるわけで、

チューリップ企画の挙げた根拠が、
「若不生者 不取正覚」の時点の話でないことは明かですね~。
ドグマに都合のよい形に途中で切断しちゃだめよん(苦笑)。

というわけで、

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。


また『改邪鈔』には、こうも詳説されている。
『この娑婆生死の五蘊所成の肉身、未だやぶれずといえども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力を捨てて他力に帰する」とも名け、また「即得往生」ともならいはんべれ』

「娑婆生死の五蘊所成の肉身、未だやぶれずといえども」とは、「肉体は健全で、まだ死んではいないが」ということである。
「共発金剛心の一念にやぶれて」とは、「本願を信受した一念に死ぬ(命終)」ということだ。
その「死ぬ心」を、「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情(迷いの心)」といわれている。

「知識伝持の仏語に帰属する」とは、「本願を信受した」ことの換言である。「自力を捨てて他力に帰する」とは、『愚禿抄』に「前念命終なり、後念即生なり」と言われている聞即信の一念のことで、「信楽」(不体失往生)に生まれることである。

「信楽」に「生まれる」ことを、「自力を捨てて他力に帰する」とも、また「即得往生」とも言うのである、と仰っているお言葉である。



だから何?(苦笑)。

これも別に、
【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、
「平生に信楽に生まれる」ことである】
というチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマの根拠にはなりませんね~(苦笑)。

それより問題なのは、
チ●ーリップ企画が挙げている『改邪鈔』の前後を見ると、

★しかれば、凡夫不成の迷情に令諸衆生の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、願入弥陀界の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」(正信偈)とも、「不断煩悩得涅槃」(同)とも、「入正定聚之数」とも、「住不退転」とも、聖人釈しましませり。これすなはち「即得往生」の時分なり。この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」ともならひはんべれ。『改邪鈔』

とありまっせ~。

「願入弥陀界の往生の正業成ずるとき」というのは、
極楽浄土に往生するための正しい行為が完成し、
極楽浄土に往生することが確定したということだよね。

だからこの時点が、
「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」
という時点で、
「入正定聚之数」=「住不退転」=「即得往生」の時分(←これ大事!!)なわけ。

そんでもってこの「時分」は、
「自力をすてて他力に帰する」「即得往生」の「時分」なわけだけど、
「極楽浄土に往生」する「時分」とは異なっていて、
ここに「若不生者不取正覚」を配当する根拠はどこにもありゃしませんね(苦笑)。

またまたこれも、さっきの図に配置すると、

=前念(因) 介在時間0  =後念(果)     
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」    「若不生者 不取正覚」
    ↓          ↓                ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
    |          |                |      
   平生の一念 →  往生の得が定まる  →・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
   本願を信じる→  かならず往生は定まる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
  (名号をとなふ)
 帰命の一念を発得→ 「娑婆のおわり臨終」 →・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
      ↓       ↓ 
    【時間的に同時の「時分」】
「願入弥陀界の往生の正業成ずる」の「時分」
 =「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」の「時分」
 =「自力をすてて他力に帰する」の「時分」
 (「この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれず」の「時分」)
 (「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、
  知識伝持の仏語に帰属する」の「時分」)
 =「即得往生」になった「時分」


となるわけですわ。

「自力をすてて他力に帰する」の「時分」が、
「若不生者 不取正覚」と異なるのわかったかな~?(苦笑)

というわけで、

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。



というわけで、

以下は根拠に基づか(け)ない解説~(苦笑)。
 ↓

『成就文』に「即得往生」と説かれている正意を、「平生のときーー娑婆のおわり臨終(死ぬ)」とか、「肉身はやぶれない(平生)でーー自力の心は一念にやぶれてーー信楽(不体失往生)の身に生まれることである」と、親鸞聖人の教えを覚如上人は明快に喝破されている。

いずれもいずれも、「死ぬ」のも「生まれる」のも、肉体のことではなく心のことであり、弥陀の本願の救いは、死後ではなく平生のことであることを懇ろに覚如上人も徹底される。無論これみな『成就文』の開顕であり、これ以外に、一実・円満の真教、真宗の教えはないからである。



以下は、根拠に基づか(け)ない解説によって導き出された、
ヘンテコドグマ~(苦笑)。
 ↓

あくまでも釈迦の『成就文』の「即得往生、住不退転」を根拠として、弥陀の『本願文』の「若不生者」の「生」は、「死んで極楽へ生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことであることを明らかにするために、法友と体失不体失往生の大諍論までなされ、弥陀の本願真実の開闡に、九十年の生涯を捧げられたのが親鸞聖人であったのである。



\( ̄ー ̄#)なんでやねん!

★「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、 至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
by.親鸞聖人『尊号真像銘文』


★「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。
by.親鸞聖人『尊号真像銘文』


★「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。
by.親鸞聖人『唯信鈔文意』



親鸞聖人が『本願文』の「若不生者」の「生」を、
「わが浄土にもし生まれずは」
「本願の実報土に生れずは」
「穢土をすてて真実報土にきたらしむ」
と解釈されてるのに、

それを完全に無視して、
「若不生者」の「生」を「平生に信楽に生まれること」
とヘンテコ解釈しちゃうのが、
チ●ーリップ企画(=親●会)ドグマなわけで、
そんなの「親鸞聖人の教え」とは言えませんよ(苦笑)。

スポンサーサイト

comment

Secre

プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
FC2ブログランキング

FC2Blog Ranking

検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。