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よい子のみんなは、もうわかってると思うけど・・

最近のチ●ーリップ企画の更新は、だいたい5日に一回ペースなんで、
明日がとっても楽しみです♪

今日は、更新直前の意地悪企画だよ~(笑)。

よい子のみんなは、もうわかってると思うけど、

「若不生者不取正覚」の「生」は
「死んで極楽に生まれる」ことではなく、
「平生に信楽に生まれる」ことである、
と教えられているのが親鸞聖人であることは明らかであろう。


このチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマの根拠として、
以下のものが挙げられても騙されちゃだめだよん。
だって、もう既に論破されてるんだも~ん♪


 ↓ ↓ ↓

1)「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」『浄土和讚』

【チ●ーリップ企画の解釈】

当方が先のメールで申しあげたのは、良く読んで頂けば分かると思いますが、『その「信楽をえる」には、「若不生者」の誓いなくしては絶対にできないと教えられたのが親鸞聖人』と申しあげたはずです。

 それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。

 ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。


【親●会公式HPより】

大宇宙最高の仏であり、十方諸仏の指導者であられる阿弥陀如来は、その本願に、「若不生者不取正覚」(若し生まれずは、正覚を取らじ)と誓われている。もし苦悩の根元の無明の闇をぶち破り、晴れて大満足の「信楽(しんぎょう)」の身に生まれさせることができなければ、この弥陀は、正覚(仏の命)を捨てましょう、とのお約束なのだ。

本師本仏が命を懸けた「若不生者の誓い」があるから、この世で、「信楽」と一念慶喜する時が、必ずある。同時に、いつ死んでも浄土往生間違いない身にハッキリ定まるのである。


【田中さんの反論】

>それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。


 少しでも古文の知識があれば、読み間違えるはずのない文章だと思いますが、なぜ間違われたか不思議です。


 これは、阿弥陀仏が「若不生者」と誓われているから、「信楽まことにときいたり、一念慶喜する」人は、「(死んで)往生かならず定まりぬ」ということです。信楽になる時が至り、一念で慶喜する身になった人は、死んで必ず極楽に往生させると誓われたのが、弥陀の十八願だという意味です。

 貴方は「ときいたり」で文章を切って理解しておられるようですが、ここで切るならば、終止形の「いたる」(過去形なら「いたりき」)とならねばなりません。親鸞聖人が、こんな文法のミスをされるはずが無いと思います。

 また、これは十八願の解説ですから、親鸞聖人の解釈を元に読まねばなりません。

 尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。


 つまり、文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。



>ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。


「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。


【清森さんの補足説明】

 「若不生者のちかいゆえ」の御和讃については、「時至り」の解釈が問題になると思いますが、古文の文法については、詳しく知りませんので、古文を教えている知り合いに、文法的な意味を教えてもらいました。

 以下に引用させて頂きましたが、やはり、「若不生者と誓われているから、信楽がまことに時至るのだ」とは読めないようです。

        *      *      *

>  さて、ご質問の件ですが、“至り”という単語は、古語ではラ行四段活用になり、
>
> 語幹 -至
> 未然形-ら
> 連用形-り
> 終止形-る
> 連体形-る
> 已然形-れ
> 命令形-れ
>
>  このように活用します。“至り”は連用形ということです。
>  連用形には、4通りの使い方があります。
>
> 1、用言が続く(連用法)
> 2、文を一旦区切って、そのまま次に続ける(中止法)
> 3、名詞に転じる
> 4、助動詞、助詞が付く
>
>  ご質問の文章では、“至り”で止めてありますので、2か3の用法です。
>
> 2は、現代語で分かりやすく言えば、“酒を飲み(連用形)、酔っぱらって帰った”というような使い方です。
> 3は、例えば“遊び”という“遊ぶ”の連用形が、名詞のように使われている場合です。(ちなみに古語では“演奏”という意味です)
>
>  ご質問の文章では、名詞的に使われていませんので、2の用法になります。
>  ですから、御返答としましては、
>
> “信楽まことに時至り”で切ることはできませんので、“信楽まことに時至り、一念慶喜する人”を、一つの言葉として、訳してください。
>
        *      *      *

 上記の説明からも、この御和讃は、

阿弥陀仏が、若不生者と誓われているから、
『信楽にさせていただける時がまこと至って、一念慶喜する身になった人』は、
必ず浄土往生できると定まるのだ。

と理解するのが正しいと思います。



→古典文法&親鸞聖人の教えがわかれば騙されません!!


あと、

「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。
貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。

 ↑
もちろんこれもアウトね(苦笑)。

親鸞会教義の相対化・73(投稿)より
(89)
一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。

(中略)

 また、親鸞会ドグマに基づく親鸞聖人の言葉の解釈を、田中氏に古典文法の間違いや親鸞聖人の言葉との矛盾から指摘されたにも関わらず、

>>>
「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。
貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。
>>>

などと居直るチューリップ企画の山田氏も、明かにこの蓮如上人の教えに反していると思います。



『蓮如上人御一代記聞書』所収の蓮如上人の言葉だったら、
流石に親●会関係者にも権威があるでしょう(苦笑)。


2)『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」

【チ●ーリップ企画の解釈】

「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。

だが、その「信楽」という高校に合格するのは、大変難しいと親鸞聖人は「信楽受持すること甚だ以て難し」(正信偈)と教えられています。それは、釈尊も、親鸞聖人も、蓮如上人も同じです。そのように「信楽をえる」ことが難しいから、「浄土」に生まれる人は少ない、と、善知識方は仰っているのです。そんな難しい「高校」に、どうして我々は合格できるのか。本願力(若不生者の念力)によってか、どうか、が今論じられているのです。

それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。

「本願力」(若不生者の念力)によらねば、絶対に「信楽をうる」ことはできないことは、貴方も認めていることですが、「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。

「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」という可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。



【田中さんの解説】

この改邪抄の記述は、少し前の部分の「仏、願力の不思議をもって無善造悪の凡夫を摂取不捨したまう時は」の解説です。つまり、「生まるべからざるもの」とは「無善造悪の凡夫」のことであり、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のことを表しています。

「摂取不捨したまう時」とは、歎異抄一章に『「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめ給ふなり。』と記述されている通りです。

この 「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、という部分は、本願文の「至心信楽欲生我国」に当たります。根拠は既出ですが、

『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。』

さらに、この摂取不捨の利益にあづかった人が、極楽浄土に生まれなければ仏にならないと誓われたのが「若不生者」だと、記述されています。

『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

このように、親鸞聖人の記述から、改邪抄の「生まれさせた」は、生きている間であり、「若不生者」の「生」は死後であることが明らかです。



【上記チ●ーリップ企画の解釈に対する田中さんのツッコミ】

>「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。

貴方の主張は、「阿弥陀仏が、必ず極楽に生まれさせると誓われなくても、信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」ということですか?

>それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。

『その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。』

上記は、貴方の言葉ですが、何に全力を尽くすのですか?

>「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。

「阿弥陀仏が、必ず信楽に生まれさせると誓っておられるから、必然的に信楽になれる」と主張されているのは、貴方ではありませんか?

必然的に信楽になれるのなら、なぜ「難し」と言われるのでしょう。

上記の根拠は、貴方の主張が間違っている証拠です。

>「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」いう可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。

つまり、「若不生者」は「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」という意味だと、認めたということですか?

※苦笑注 次ぎのメールで田中さんの質問をチ●ーリップ企画はオール無視!!(苦笑)



→「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら、
 「生まるべからざるもの」になりましぇ~ん(苦笑)。


【Bさんの解説】

今、一番の問題となっているのは覚如上人の
「生るべからざるものを生れさせたればこそ」
というお言葉が現益・当益のどちらを言われたものか、という点です。あの後、調べてみたら、その文の前にある「往生浄土の器もの」という言葉を受けて、実際に当益と解釈している本が見つかりました。私はその説を支持します。あなたが「現益だ」と主張されるのであれば、その理由を明確に述べてください。

>「生まれさせたればこそ」が当益ならば「生まるべからざるもの」とは何ですか。
> 正定衆の菩薩が死んで仏に生まれても、何の不思議ですか?

信楽を獲た人は、法徳から言えば「正定衆の菩薩」ですが、機相から言えば「煩悩具足の凡夫」のままですから、「生まるべからざるもの」であることに変わりはありません。「生まれさせたればこそ」が当益であると仮定しても何も矛盾しませんよ。

(略)

その進道の階次をいうとき、ただおなじき座席なり。しかるうえは、かならずしも俗の二種をしりぞけて、道の二種をすすましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちいる条、本形としては、往生浄土のうつわものにきらわれたるににたり。ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。


『浄土に生まれ、順序を言う時は、いずれも同じ座席についているのである。こうした訳だから、俗の二種を低く押し退けて、僧の二種を高く押し進ませる必要はないのに、婦人や在俗のものが、強いて法名を用いるのは、いかにもそのままの形では、浄土に生まれる器ではないと、嫌われているかのようである。ただ男女・善悪の愚かな人に、さかしらな才能を働かせない生地のままの姿において、本願の不思議な働きによって、浄土に生まれることが出来ないものをも生まれさせたからこそ、「いつの世にも超え勝れた願」と名づけたり、「一足とびにさとることの出来る捷径」ともいわれる訳である。この一章は、ことに曾祖師、並びに祖師以来、相伝え、受け継いできた眼目であって、強いてかりそめに扱ってはならないものである。』

(【改邪抄】親鸞述 石田瑞磨訳 平凡社)




3)「「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)」『愚禿抄』

これはもういいよね?(苦笑)

ツッコミ!【第18回】親鸞聖人の即得往生の解説


既に論破されているものを、
忘れた頃にまた出すのはインチキですから、
それが二度とできないように、
晒しものにしておきますよん(苦笑)。
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苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
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※私にメールで質問してもエエけど、
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