スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ツッコミ!【第17回】若不生者は、死後か平生か

第17回がアップされました。
 ↓↓↓
【第17回】若不生者は、死後か平生か

前回までで、田中と名乗る人の問題提起で、弥陀の本願文の「信楽」について、釈迦や親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉で明らかにしてきた。

だが、最初に記したように、そもそも田中氏との論戦の発端は、弥陀の「本願文」に誓われている「若不生者不取正覚」(若し、生まれずは正覚を取らぬ)の八文字の「生」が、「死んで極楽に生まれる」ことか、「いま信楽に生まれる」ことかの違いであった。

田中氏は始終「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれる」ことだと言い張り、チューリップ企画は「信楽に生まれる」ことだとその主張は一貫している。どちらが弥陀の仏意か、これからが本論検証の本番なのである。

なにしろ、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(正信偈)と親鸞聖人が、釈迦の出世の本懐は弥陀の本願唯一を説くためであったと断言されている。その本願文の「若不生者」のことである。

中でも「若し、生まれずは、私は正覚を取らぬ」と弥陀が命(正覚)を懸けて誓われている、他に見られぬ「若不生者不取正覚」の八文字についてのことだ。
親鸞聖人が特に「若不生者のちかい」(和讃)とまで仰っている本願のことである。決してウヤムヤにしておけることではない。

果たして「若不生者」の「生」は、田中氏の言うように「死んで極楽へ生まれる」ことなのか、チューリップ企画の主張するように「平生に信楽に生まれる」ことなのか、先ず釈尊のご教導を聞いてみよう。


あ~ん?

「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」と解釈する、
チ●ーリップ企画の解釈が親鸞聖人と異なっている!!
ということをが晒し者にされるのは、
これからが本番だったんですか?(苦笑)

 ↓
====ちゃんと読んでよね====
31 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:22:19 ID:yFGdPQfg
『尊号真像銘文』から抜粋:

----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

----------------------------------------------------------------------
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
----------------------------------------------------------------------
※さすがに「平生業成」「現生不退」の意味を補っておられることに注目!
本願成就文の内容もちゃんと踏まえて本願文を解釈されていることが拝察されます。

----------------------------------------------------------------------
「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
----------------------------------------------------------------------
※それでもなお、「若不生者」を「【わが浄土に】もし生まれずは」としか解釈されていません。

232 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:23:58 ID:yFGdPQfg
>>231の続き

『尊号真像銘文』は親鸞聖人83歳の時の著作ですから『教行信証』よりも後であり、
当然、主著である『教行信証』の内容を十分に踏まえた上で書かれたはずです。
何もかも承知の上で親鸞聖人自身が本願文36字を全部解釈されたこの文章のどこにも、
「信楽に生まれさせる」とは書かれていません。この事実だけで十分すぎるほど十分です。
議論する余地など初めから何もないのです。

もし「信楽に生まれさせる」という意味も本当はあるのに親鸞聖人が書き忘れた
とでも言うのなら、それは親鸞聖人に対する冒涜以外の何物でもなく、
そんな暴言を吐く輩は断じて「親鸞学徒」ではなく、「高森学徒」です!

====ちゃんと読んでよね====

ちゃんと読んだ?(苦笑)
「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」と解釈する、
チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、
どう考えても親鸞聖人の解釈とは違うよね(苦笑)。


というわけで。
 ↓
11,「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。


阿弥陀仏の本願の「若不生者不取正覚」を、釈迦は『成就文』で、どう解説されているかというと、『本願文』の「若不生者不取正覚」の八文字を、『成就文』の中では「即得往生、住不退転」の八文字で解明されている。

「即得往生、住不退転」とは、「即ち往生をさせ、不退転の身にする」と言うことだ。
即ち、「南無阿弥陀仏の名号を頂いた、聞即信の一念に、往生をさせ、不退転の身にする」というのが、弥陀の「若不生者不取正覚」のお誓いであると、『成就文』に鮮明に説かれているのである。

もっとわかり易く言えば、
弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、「死んで極楽へ生まれずは」ではなく、「いま往生させ、弥勒菩薩と同等の正定聚不退転の身に、生まれずは」の、不体失往生させることに正覚を懸けていられる弥陀の本願を『成就文』に鮮明になされているのである。

阿弥陀仏が「若不生者不取正覚」(必ず生まれさせる)と誓われているのは、死んでから「極楽に生まれさせる」ということではなく、「平生、信心歓喜する一念に往生させ、正定聚不退転の身に必ず生まれさせる。若し、生まれさせることが出来なければ、私は正覚を取らない」という弥陀のお約束であると、釈迦は明示なされているのだ。


あ~ん?

『教行信証』を読んだことないの?(苦笑)

★必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。『教行信証』行巻


★しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。『教行信証』信巻


「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。

つまり「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」になった衆生が、
「報土の真因決定」(極楽浄土に往生するのが決定)するのが、
「即」ということですよん。

そんでもって、極楽浄土に往生するのが決定しているから、
その人が「正定聚」になるということですやん(苦笑)。

このことは『唯信抄文意』でも、

★「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。『唯信抄文意』

信心をうれば→すなわち往生す=不退転に住す=正定聚の位に定まる=成等正覚=即得往生

と簡潔に解説されてるよ。

あ!もちろん「信心をうれば」という条件があるわけで、
「信心に生まれさせて」という、オートマチックじゃないんで、
間違えないようにしてよね。

ここ、すっごい大切だからちゃんと覚えておいてね(苦笑)。


ちなみにこの親鸞聖人の解釈は、
サンスクリット文の本願成就文とも一致するから、
これもちゃんと読んでおいてちょ~よ(苦笑)。
 ↓
====親鸞会教義の相対化・21(投稿3)====
tasyakhalupunarAnandabhagavato'mitAbhasyatathAgatasyadaSasudiks.
vekaikasyAMdiSigaNgAnadIvAlukAsames.ubuddhaks.etres.
ugaNgAnadIvAlukAsamAbuddhAbhagavantonAmadheyaMparikIrtayante,
varNaMbhAs.ante,yaSaHprakASayanti,guNamudIrayanti.

tatkasyaheto.yekecitsattvAstasya'mitAbhasyatathAgatasyanAmadheyaMSr.n.vanti,
SrutvAcAntaSaekacittotpAdamapyadhyASayenaprasAdasahagatamutpAdayanti,
sarvete'vaivarttikatAyAMsaMtis.t.hante'nuttarAyAHsamyaksaMbodheH.


(試訳)

実にまた、アーナンダよ、十方のそれぞれの方角にあるガンジス河の砂の数に等しい諸々の仏国土において、ガンジス河の砂の数に等しい諸仏・世尊逹は、かの世尊アミターバ如来の名前をほめ讚え、性質を語り、名声を説き、優れた特性を宣言する。

それはなぜであるかというと、およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。



サンスクリット文を読む限り、以下のことが言えます。

1)願成就文は、衆生が極楽浄土に生まれた後ではなく、現世で「この上ない完全な正覚より後退しない境地(不退転)」に達することができることを示した文である。

2)不退転に達するためには、アミターバ如来の名前を聞いた後、最低一度、浄らかな信を伴った(prasAdasahagata)心(citta)を起こす必要がある。

3)浄らかな信を伴った心は、名号を聞いた後、深い志(adhyASaya)によって起きる。

つまり、現世で不退転に達するためには、名号を聞いた後、「深い志」によって「浄らかな信を伴った心」を最低一度起こす必要があります。

====親鸞会教義の相対化・21(投稿3)====

というか、こんなことをいくら言っても、
「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈する、
根拠には全然ならないんだけどね(苦笑)。


というわけで、
 ↓
12,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。

あと、忘れてもらっちゃ困るんだけど、
田中さんは不体失往生を否定してないし、
チ●ーリップ企画が、不体失往生の根拠として出してのは、
「即得往生、住不退転」じゃなく「若不生者不取正覚」です。

せこい印象操作で、錯乱させようとしても無~駄!!(苦笑)

 ↓
====誤魔化しちゃ嫌よ====
 そもそも貴社の誤りは、不体失往生の根拠として、「若不生者不取正覚」の八字を使ったことでした。
 
 親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは本願成就文の「即得往生住不退転」の八字です。
 
 ビデオの製作者は、本願成就文も、本願文も同じようなものだから、どちらでも良いだろうと思われたのかも知れません。
 
 もし私が製作者だったら、迷わず「即得往生住不退転」を使ったでしょう。
 
 
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠として、「若不生者」ではなく、「即得往生」を使われた文章を紹介します。
 
 
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。→唯信抄文意
 
 即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。→愚禿抄
 
 
 
 当然ながら、体失不体失往生の根拠とされる、口伝抄に描かれている法然上人のお言葉も「即得往生住不退転」の八字を出されており、「若不生者不取正覚」はどこにもありません。
 
 親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
 
 ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。
 
 
 
 確認事項に答えるまでもなく、貴方の返答から、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ということが、自ずと明らかになりました。
 
 しかし、仮に、「若不生者不取正覚」に不体失往生の意味があると誤解していたとしても、親鸞聖人の説き方を理解されていれば、迷わず、「即得往生住不退転」の八字をビデオで描いていたでしょう。
 
 親鸞聖人が不体失往生を論じられる時は、常に「即得往生住不退転」を根拠とされたのですから。
 
 
 
 この場面で、「即得往生住不退転」ではなく、「若不生者不取正覚」を思いついたというのは、ビデオ製作者の勉強不足であって、貴方の責任では無かったのかも知れません。
 
 貴方は、本願成就文の重要性は理解されているようですので、ビデオ製作者に伝えておいていただきたく思います。

====誤魔化しちゃ嫌よ====

というわけで、
 ↓
13,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。


親鸞聖人は、釈迦のこの「即得往生、住不退転」の八文字の教えをもって、弥陀の「若不生者不取正覚」の誓いを、『愚禿抄』に次のように教述されている。

『本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又、必定の菩薩と名くる也)
他力金剛心也と、応に知るべし。
便ち弥勒菩薩に同じ、自力金剛心也と、応に知るべし。「大経」には次如弥勒と言へり』


ふ~ん?

田中さんに言われたことを忘れないでね(苦笑)。
 ↓
====あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。====
>『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
>即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
 
 
 この返答で、貴方の主張には、結局、根拠が無いことが、明白になりました。
 
----------------------------------------------------------
 
★「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。
 
 
 尊号真像銘文には、以下のように記述されています。
 
『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。』
 
 
 つまり、「本願を信受する」=「至心信楽をえる」ということです。
 
 貴方の根拠は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません。
 
 
 さらに、尊号真像銘文は、以下のように続きます。
 
『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』
 
 
 至心信楽をえた人、イコール「即得往生」した人が、死んで極楽浄土に生まれるのが、「若不生者」の「生」だと断定されています。
 
 当然、「即得往生」=「若不生者」は成り立ちません。
 
 
 貴方が主張するように、「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになり、上記の親鸞聖人の記述は間違いということになります。
 
 
 つまり、貴方の提示された根拠では、「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈することは出来ません。

====あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。====

あと、

!!「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。!!

これがまだ全然治ってないよ(苦笑)。

====そろそろわかってよね====
「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)


このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。
 ↑
せっかく教えてあげてるんだから、そろそろ理解してよね(苦笑)。

★しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。『教行信証』証巻

「往相回向の心行を獲れば」→「即のときに大乗正定聚の数に入るなり」

 ↑
これも理解できなかったかのかな?(苦笑)
「往相回向の心行を獲れば(=信楽になったならば)」→「即のときに大乗正定聚の数に入るなり」
ですから、

「無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされたこと」=「信楽」
というチ●ーリップ企画の主張がどんだけおかしい理解であるかってのは、
日本語読解力に致命的な問題がない限り理解できると思いますけど(苦笑)。

ここまで書いてあげないとわからないのですかね~。
ちょっと基礎学力に問題があるのではないかと心配になります(苦笑)。
====そろそろわかってよね====


というわけで、
今回もボッコボッコになりましたね(笑)。

ここで親鸞聖人が、「若不生者のちかい」をどのように明らかにされているか。次回から詳説したいと思う。

 
でも、性懲りもなく頑張るみたいですから、
次回も楽しみに待ってま~す(笑)。


今回は長くなったので、宿題チェックは次回にしときますわ(苦笑)。

スポンサーサイト

comment

Secre

プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
FC2ブログランキング

FC2Blog Ranking

検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。