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ツッコミ!【第11回】覚如・蓮如上人の信楽の教え

第11回がアップされました。
 ↓↓↓
【第11回】覚如・蓮如上人の信楽の教え
http://shinjin.info/2008/09/211210149.html

あいかわらず議論の本質に迫ら(れ)ない内容ですな(苦笑)。
懇切丁寧に教えてあげたのに、理解が追いついてないですね(苦笑)。

破闇満願の働きのある南無阿弥陀仏の『名号』を阿弥陀仏から頂いて、無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされたことを、『本願文』では「信楽」と説かれ、『成就文』では「信心歓喜」と言われている。


あ~ん?←いきなりだよ(苦笑)。

「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)


このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。
 ↑
せっかく教えてあげてるんだから、そろそろ理解してよね(苦笑)。

★しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。『教行信証』証巻

「往相回向の心行を獲れば」→「即のときに大乗正定聚の数に入るなり」

 ↑
これも理解できなかったかのかな?(苦笑)
「往相回向の心行を獲れば(=信楽になったならば)」→「即のときに大乗正定聚の数に入るなり」
ですから、

「無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされたこと」=「信楽」
というチ●ーリップ企画の主張がどんだけおかしい理解であるかってのは、
日本語読解力に致命的な問題がない限り理解できると思いますけど(苦笑)。

ここまで書いてあげないとわからないのですかね~。
ちょっと基礎学力に問題があるのではないかと心配になります(苦笑)。

その「信楽」(信心歓喜)の身になるとは、どんなことか、前回、親鸞聖人のお言葉で一端を明らかにした。

親鸞聖人のお聖教は、すべて『本願文』では「信楽」、『成就文』では「信心歓喜」と説かれている世界のことばかりであるから、一々提示する暇がないが、身近な『正信偈』のお言葉で一つ「信心歓喜」の世界を挙げておこう。

「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」

分かり易く言えば『名号』のお力によって「信心歓喜」の身になった者(廻入)は、万川(衆水)が海に流れ込むと塩辛い一味の水になるように、凡夫も聖者も五逆の罪人も仏法を謗っている大罪人も、平等一味になる世界が「信楽」であると明示されているご教示である。


あ~ん?
前回わかったことは、チ●ーリップ企画が、
1)「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠は出せなかった。
2)根拠を出さ(せ)ずに、関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってゴマカシをしようとしていた。
ということだけですがね(苦笑)。

そんでもって、

あくまでも、「信楽」=「信心歓喜」の身になった者が、
【万川(衆水)が海に流れ込むと塩辛い一味の水になるように、凡夫も聖者も五逆の罪人も仏法を謗っている大罪人も、平等一味になる】
ということを理解しなきゃだめだよん。

間違っても、【】にくくった境地を「信楽」と言っちゃだめだよん(苦笑)。
上であんだけ丁寧に教えてあげたんだから、そろそろもうわかってよね(苦笑)。

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」



だから何?(苦笑)

★根機つたなしとて卑下すべからず、仏に下根をすくふ大悲あり。行業おろそかなりとて疑ふべからず、『経』(大経・下)に「乃至一念」の文あり。仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし。『執持抄』五

これは、仏に「下根をすくふ大悲」があり、阿弥陀仏の本願が間違いないものであるから、
阿弥陀仏の「不思議力」によって「名号」が、
「正定業」=「往生の業まさしく定まる」ものになるから、
「根機つたなしとて卑下すべからず」「行業おろそかなりとて疑ふべからず」であり、
「すでに本願の名号を持念す」る人は、「往生の業すでに成弁することをよろこぶべし」
と言っているだけのことであって、

「阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり」ということは書かれてないし、
ましてや「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓っている」という根拠にはなりませんな。

ほんまに「だから何?」って感じですな(苦笑)。


ただ、「いつでも弥陀の浄土へ往ける身になった」と、
僕に教えてもらったことを反映して取って付けたように書いたことだけは、
ほんのちょっぴりの成長と言えるかもね。
ちゃんとお礼が言えないのはあいかわらずだけど(苦笑)。


続いて、このように弥陀に救われた身は、阿弥陀仏の本願に相応し、『本願文』三十六字全体が誠であったと体で知らされ、南無阿弥陀仏の名号と一体となり、私が南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏が私となるから、

『「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」という』  (執持抄)

と「信楽」の世界を喝破されている。


あ~ん?

★光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。
しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(礼讃)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず。
しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。
本願寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。これをたとふるに、日輪、須弥の半ばにめぐりて他州を照らすとき、このさかひ闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでに明くるがごとし。しかれば日輪の出づるによりて夜は明くるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜の明けて日輪出づと。いまいふところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて無明長夜の闇すでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなりとしるべし。『執持抄』四


僕が何度も教えてあげている『執持抄』の超重要な箇所を、
ヘンテコな形で切り取って引用するやめてくれません?(苦笑)

覚如上人に失礼だと思いませんか?(苦笑)

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』 【四・光明名号因縁の事】 (p.685) に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。

しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、
明確に区別しなければなりません。
第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、
全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。
これでは十劫安心になってしまいます。
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。
>>>

名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、
名号だけでOKみたいに印象操作しても無駄だよん(苦笑)。


 ↑
このツッコミを誤魔化すためにあわてて挿入した
のはバレバレですが、
笑っちゃうぐらい見事に墓穴を掘りましたね(苦笑)。

もっと言うと、
「報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり」
「報土にまさしく生るべき信心」
「行者の往生浄土のねがひ」
という、田中さんの主張の論拠を補強する言葉もありますな(苦笑)。

これを「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主になるというは、信心を獲る事なり」と教えられたのは蓮如上人である。



その蓮如上人はまた、『御文章』に古歌を引用されて、「信楽」(信心歓喜)の身になるとは、どんなことか、弥陀の救いを次のように詳述されている。

『「うれしさを昔はそでにつつみけり、こよいは身にも余りぬるかな」。「嬉しさを昔は袖に包む」といえる意は、昔は雑行・正行の分別もなく、「念仏だにも申せば往生する」とばかり思いつるこころなり。
「今宵は身にも余る」といえるは、正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定の上に、仏恩報尽の為に念仏申すこころは、おおきに各別なり。かるがゆえに、身の置きどころもなく、躍り上るほどに思うあいだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬると言えるこころなり』



『「嬉しさを昔は袖に包む」といえる意は、昔は雑行・正行の分別もなく、「念仏だにも申せば往生する」とばかり思いつるこころなり』

「昔」とは、『本願文』で「信楽」、『成就文』では「信心歓喜」の身になっていなかった、弥陀の救いにまだ遇っていない時のことである。

それが弥陀より名号を賜り、破闇満願の「信楽」(信心歓喜)の身になると、どうなるのか、を明らかに教えられているのが以下のお言葉である。

『「今宵は身にも余る」といえるは、正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定の上に、仏恩報尽の為に念仏申すこころは、おおきに各別なり。

かるがゆえに、身の置きどころもなく、躍り上るほどに思うあいだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬると言えるこころなり』

「今宵」とは、『本願文』の「信楽」、『成就文』の「信心歓喜」の世界に出てからのことを明らかになされた教述であるが、いずれの善知識も「信楽」(信心歓喜)の世界一つを開顕せられていることが解るのである。



だから何?(苦笑)
どんだけぐちゃぐちゃと書き込みをしても、
「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるし、
チ●ーリップ企画がそれを理解できてないのは、ゴマカシきれてません(苦笑)。

この文は、
「正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定」した人(=信楽になった人)が、
「身の置きどころもなく、躍り上るほどに思うあいだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬる」
という境地に達するということであって、
その「境地」そのものを「信楽」とは言わないわけですよ。

これまで「苦笑の独り言」を読んでくれたお友達はみ~んな理解しておりますよ。
チ●ーリップ企画は理解できてなさそうですけど(苦笑)。

というか、『教行信証』を読んだことないのですか?(苦笑)

★必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。『教行信証』行巻


★しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。『教行信証』信巻


「仏願の生起本末」、つまり阿弥陀仏が衆生救済の願を起こされた由来と、
その願が成就して現に衆生を救済しているということを、
「聞きて疑心あることなし」になったら、「本願力回向の信心」を獲得するから、
極楽浄土に往生することが確定する。

そんでもって、将来間違いなく極楽浄土に往生することができるから、
現在この身に「正定聚に入る益」があるのよね。


逆に言えば、「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、
極楽浄土に往生することは確定しないのよ。

それなのに、
「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が誓ったのであれば、
全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定しちゃいますから、
こりゃ~十劫安心と言うしかないですわね(苦笑)。

この致命的な欠陥に対するツッコミに、納得のいく説明は未だに頂けておりませんね~

今後も根拠を出さ(せ)ずに、怪しいドグマをまき散らすことと思いますが、
もう少し『教行信証』を丁寧に読んで、せめて『教行信証』に抵触しない範囲の発言してくれません?
(苦笑)

というか、

共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。

http://shinjin.info/2008/08/010830131.html
 ↑
と言ってたのはどこの誰でしたかね(苦笑)。

僕のツッコミをゴマカスのに精一杯なのはすげ~わかりますが、
議論の本質を見失わないでね(苦笑)。
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comment

Secre

No title

苦笑さん。若干頭の弱い私には議論が難しいけど、チューリップの矛盾はよくわかります。ありがとうございます。

難しいことはないんですよ~!

>こまめさん
私のツッコミがちゃんと理解できているんですから、「若干頭の弱い」なんてことないですよ。

というか、親鸞聖人や覚如上人の言葉を挙げてコメントしただけで、
ボッコボコにされちゃうようなヘンテコドグマがおかしいだけなんです。
高●先生の「深い御心」でもって、文献を恣意的に読んでるから、
善知識方が平易にわかりやすくお説きくださったものが、まともに読めなくなるんです。

親●会で聞いてわかんなかった人っていうのは、実はまともな知性を持っていたために思考停止できなかった極めてまともな人なんじゃないかと思います。
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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