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ツッコミ!【第10回】名号を頂けばどうなるか

第10回がアップされましたね~。
 ↓↓↓
【第10回】名号を頂けばどうなるか
http://shinjin.info/2008/09/161303145.html

いや~「徹底予測」見事にハズされましたね~。
というか、僕に先に言われたので、軌道修正したんでしょう(笑)。

でも、この程度の小手先の軌道修正では、
この苦笑さんを誤魔化すことはできませんよ(苦笑)。
 ↓↓↓

では、『名号』の働きによって「無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされ」て、破闇満願の身になると私たちは、一体どう変わるのであろうか。まず、親鸞聖人の教えをお聞きしよう。
「難思の弘誓は、難度海を度する大船。無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」
(教行信証)
阿弥陀仏の本願によって造られた「破闇満願」の働きのある『名号』は、苦しみ悩みの波の絶えない人生の難度海を、明るく楽しく渡す大きな船である。



どか~ん!
「難度海」って「苦しみ悩みの波の絶えない人生」って程度のものじゃないんですけど(苦笑)。

★一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。『教行信証』信巻


というように、親鸞聖人は煩悩に穢れて清らかな心がなく、いつわりへつらう心ばかりで真実の心がない、
「一切苦悩の衆生」を「海」に喩えていて、それは、
はかりしれない昔から現在に至るまで(無始よりこのかた)
という問題なんだけど、
チ●ーリップ企画の理解している阿弥陀仏は、
今現在の人生の処世術程度しか考えないような、
親鸞聖人と比べるとスケールが小さい
感じですなあ(苦笑)。

それは、弥陀の光明(お力)は我々の苦しみ悩みの元凶である「無明の闇」の心を破る智慧の太陽であるからだと仰って、こう記されている。


どか~ん!
本願という設計図に基づいて作られた「船」である「名号」と、
その「船」に乘るのを妨げている「無明の闇」を破る働きを持つ、
「光明」の関係が全然わかってないんじゃないかな(苦笑)。


親切に教えてあげているんだから、ちゃんと読んで勉強してね。

>>>
「信楽の身」になるための働き

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』 【四・光明名号因縁の事】 (p.685) に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。

しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、
明確に区別しなければなりません。

第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、
全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。

これでは十劫安心になってしまいます
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。

>>>

名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、
名号だけでOKみたいに印象操作しても無駄だよん(苦笑)。


「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。ー乃至ー 誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」
(教行信証)

ああ親鸞はいま、多生にも遇えない弥陀の本願に遇うことができて、億劫にも獲難い真実の浄信を獲ることが出来た。どんなにこそ阿弥陀さまの、遠い過去からのお手回しがあったことやら。ただ感泣するばかりである。
誠であった、誠であった、「必ず、無明長夜の闇を破り衆生の志願を満たし、絶対の幸福に救うという阿弥陀仏のお約束、ウソではなかった。この唯一無二の弥陀の本願、みなみな聞き開いてもらいたい。
まさに親鸞聖人、魂の絶叫である。



どか~ん!
親鸞聖人の「摂取不捨の真言」という言葉が、
どうして「必ず、無明長夜の闇を破り衆生の志願を満たし、絶対の幸福に救うという親●会臭のする「お約束」になっちゃうんですかね~(苦笑)。

その親●会臭のする解釈の根拠こそが、この法論の一番大事な論点なのに、
その根拠を出さ(せ)ずに、関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってゴマカシをしようとしてますね~(苦笑)。

もうバレバレですから、これ以上怪しいドグマをまき散らさないでよね(苦笑)。


ちなみに『教行信証』にも以下の言葉がありまっせ

★またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。『教行信証』化身土巻

阿弥陀仏の「摂取不捨」の働きっちゅうのは、
「信楽」を得た人を報土(極楽浄土)に往生させる働きなわけだから、
「信楽」が「報土の真因」と言われてる
のよね~(苦笑)。


また、こうも言われている。
「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静に、衆禍の波転ず」
(教行信証)
「罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし」
(高僧和讃)

「大悲の願船に乗じて」とは、名号を頂いて破闇満願し人界受生の本懐を果したことである。名号を頂けば暗く沈んでいた苦しみ悩みの人生が、明るい歓喜の人生に変わるから「光明の広海に浮びぬれば」と言われている。辛くとも、なぜ生きるのか。もっとも大事なことがわからず苦しんでいた暗い心が、「名号」を頂いて「破闇満願」と大安心・大満足の心になられた聖人の告白である。
『本願文』では「信楽」であり、『成就文』では「信心歓喜」のことである。



どか~ん!
★しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。『教行信証』行巻

「すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」という、
仏教としても浄土門としても、すげ~大事な部分が抜けてるじゃあ~りませんか~!!

しつこいようだけど、「往生」そしてその後の「成仏」があるから、
「信楽」になることに宗教的意味があるんだよん。
「成仏」に至らない「信楽」を目指しているんですかいな(苦笑)。


次の「至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず」
とは、『名号』によって「無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされる」と、喜びみなぎる明るい人生と変わり、変わらず押し寄せる千波万波の苦難の波も、みなみな懺悔と感謝の波と転化するから不思議だ。



どか~ん!
前々回、チ●ーリップ企画に以下のことを教えてあげました

>>>>

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、「我々を絶対の幸福にして下さるのである」と親鸞聖人は仰っているのである。正に弥陀の本願成就の証言なのだ。



「衆生の志願をみてたまう」って・・。
衆生が志願するのを阿弥陀仏がみてたまう・・だよね?(苦笑)
そんでもって、名号&光明で衆生に働きかけてくれてるんだよ!

しかも親鸞会ドグマでは、「信楽=絶対の幸福」なもんだから、

>「我々を絶対の幸福にして下さるのである」と親鸞聖人は仰っている

とか言うと、ドグマを注入された人は、「コロッ」と印象操作に引っ張られてしまう(苦笑)。

ヘンテコドグマを優先して、なんでもかんでもそれの都合に合わせて読むから、
こんなおかしなことになるんだよね~(苦笑)。
>>>

これを踏まえて、「衆生の志願を満たされる」とあわてて入れたんだと思うけど、
別に何かお礼とかしてもらわなくていいけど、
今まで間違ってたくせに、断りもなくコソコソ間違いを訂正するのは、
ちょっと見ていて気持ちのいいもんじゃないですわね(苦笑)。



その不思議さを、『高僧和讃』に聖人は、次のように教えられている。
「五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり」

阿弥陀仏のお誓い通り、無明の闇が破れて広大難思の慶心の「信楽」の身になれば、煩悩具足の身は微塵も変わらないけれども、焼けもせず流されもせず、盗まれもしない無上の幸せが、いつも全身に溢れる不思議さを、「不可称・不可説・不可思議の功徳は行者の身にみてり」と言われているのである。



どか~ん!
う~ん(苦笑)。
前回あんだけ丁寧に教えてあげたのに、
「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」との違いがまだわかってないですね~。

これがわかってないのは、もうチ●ーリップ企画さんだけかもよ(苦笑)。


もうシャアナイし、もうちょっと僕が教えてあげようかな(苦笑)。

★しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。『教行信証』証巻

「往相回向の心行を獲れば」→「即のときに大乗正定聚の数に入るなり」でっせ。
そんでもって、
最終的に「かならず滅度に至る」わけですよ。←これポイントよ!!

★「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。『教行信証』行巻

というように、めちゃめっちゃ早い時間だから「即」なわけだけど、
「信楽」と「正定聚」には「→(やじるし)」の関係があるわけで、
それはどう考えてもイコールじゃないのよね(苦笑)。

『本願文』では「信楽」と誓われ、『成就文』では「信心歓喜」と説かれている身になるとは、どんなことか、聖人の教えでその一端なりとも窺うことができよう。



まあ、今回も「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、
本願文の根拠は出せなかったですな(笑)。

むしろ「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば」「選択本願信ずれば」という言葉は、
「信楽をえれば」という前提条件付きだという、田中さんの主張を裏付けるものですな(苦笑)。


今回は僕が挙げたポイントを外して
ツッコミを防いで読者の印象を良くしようと思ったのかもしれないけど、
僕が教えてあげたことをちゃんと理解してないし、
全然基本がわかってないから、ツッコミ所満載でしたよん(苦笑)。


あと、人に何かを教えてもらった時はちゃんとお礼が言えるようになろうね!(苦笑)
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comment

Secre

名前変わっている

苦笑(本物)さん

親鸞聖人のような尊い御方の真実信心の境地は、計り知ること出来ませんが、
私は、信心決定して思う事は、
全て、阿弥陀様から廻向された真実信心より、罪悪凡夫だと知らされるのだと思います。
私は、極悪人と書いていますが、極悪人なんて思っていません。
私が考える以上に、もっと私はきっと極悪人だと思います。
でも、阿弥陀様は、私が考える以上に極悪人の私を助けるための御修行をされたのですから、私は、ただ弥陀を頼むだけでいいのだと思います。
これ以上の何を、阿弥陀様は望むというのでしょう?
阿弥陀様は仏様です。自分で計らった善など、全く必要ないのだと思います。
自分の計らった善を差し向けることこそ、阿弥陀様の願力を疑っている証拠だと思います。
全部、任せたのです。
だからこそ、助ける縁手がかりがないと思っていた私が救われて、懺悔の心もおき、御恩報謝の御念仏も出てくるのだと思います。(偉そうでごめんなさい)

苦笑(本物)さん、
字も大小、色分けもしてあったりで、とても楽しんで読んでいます。
私は、勉強は嫌いです。
勉強して、極楽へ行く訳じゃないので、今はのんびり、仏法書を読んでいます。
友達は、趣味だと言います。
有り難い趣味が持てて、良かったです。
それでは、又・・・。




No title

>極悪人さん
阿弥陀仏に真実信心を頂いてお念仏申し、極楽浄土に往生するのに、
高い教学力が必要であるとは、私も全く思っておりません。

ただ、間違った教義を指摘されても反省せず、
それを何とかして誤魔化そうとしている人に間違いを認めさせるのには、
ご覧のように、ある程度の教学力が必要になるようです。

楽しく読んでいただけて幸いです!
いろんな人が一緒に苦笑しながら、
楽しく効果的に教義を学ぶきっかけになればと思っています。
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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