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「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してるから、『歎異抄』が普通に読めなくなるんだよ!!

「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してるから、
『歎異抄』が普通に読めなくなるんだよ!!
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21世紀の浄土真宗を考える会 歎異抄第1章を読む 二種深信について

歎異抄第1章を読むのですが、書き出しについては以前少し書きましたので、今日は他の文について考えたいと思います。(書き出しの文については、あらためて書きたいと思っております)

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。

「往生極楽の一段」であるということをはずさなければ、難しい文章ではありません。
しかし、第3章や第13章と同様、読み間違えて「造悪無碍」になる危険性はあります。
その点は注意したいものです。

一方、「ただ信心を要とすとしるべし」という文をもって、「称名正因」を否定されたものであるという人もいますが、この文はそのようなことを言わんとしてのものではありません。あくまでも「老少善悪」などの差別はないということを示されたものです。ここでは「老少」と「善悪」とあげられていますが、「出家在家」「男女」「賢愚」・・・など一切の差別のない救いです。世の中のこのような差別はいろいろあるのですが、それらは「善悪」におさまるでしょう。それで、この後の文には、善悪に左右されないということが書かれているのであり、歎異抄全体を通して善悪の問題に多く言及されています。
「ただ信心を要とすとしるべし」は「善悪」が問題ではなく「信疑」が問題なのだということをおっしゃったもので、称名念仏と比較してのことではありません。

このような流れの中で、「信」とは疑いのなくなった「二種深信」であると説明するのならいいのですが、「二種深信」だから「悪をもおそるべからず」というのは、二種深信(特に機の深信)の正しい理解とは言えません。

二種深信については、私の「ともだち」の運営している「安心問答」でも議論されていました。
そこで「あほうどり」のハンドルネームでコメントしていたのが私ですので、そのコメントをまとめて、若干手直しして再掲したいと思います。(主に機の深信について述べています)

二種深信は、善導大師が観無量寿経の「深心」を表されたものです。
善導大師の「二種深信」のお言葉と言われるものは次の2つです。

「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 (観無量寿経疏 散善義)

二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、いまし一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃 前序)

この場合、観無量寿経の「深心」と言っても、隠彰弘願の意味ですので、大無量寿経の「信楽」のことであり、真実信心のことです。
従いまして、二つの心があるのではありません。
真宗学の学者や哲学者の表現の中に「矛盾的」とか「矛盾性」とか「矛盾のように感じる」というものはあっても、それがそのまま矛盾であると言うのは間違いです。

上にあげた善導大師の2つのご文を読んで分かることは何でしょうか?
何を深く信ずるのか、何が信知させられるのでしょうか?
散善義のご文を使って縮めて言いますと、
「自身は無有出離之縁の者なり」
となります。
では「現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転」は何を表しておられるのかというと、「自身」の様を表して、「無有出離之縁」の理由を示されたものです。
往生礼讃はその部分が、「善根薄少」となっています。
極悪最下とは書かれていません。
ところが、「散善義」のご文で「無有出離之縁」よりも「現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転」に重点を置いた読み方をしますと、罪悪観の極まりが機の深信であると誤解するのです。
重点は「無有出離之縁」にあります。

機の深信についてのよくある間違いは、「自己の罪悪を掘り下げていき、徹し切ったところに、いわゆる機の深信が立ち、救いがある」といった類のものです。
簡単に言えば罪悪観と機の深信との混同です。
浄土真宗の異安心の歴史で言いますと、江戸時代、近江(滋賀県)の光常寺で起きた「地獄秘事」などはその典型です。

機の深信とは
煩悩具足・罪悪深重の私は、迷いの世界から出離するのに間に合うものは一つも持ってはおらず、過去も現在も未来も、生死流転から抜け出せる自分でない、と信知する。
となります。
機の深信とは極悪最下の者とすべての人が知らされることではありません。

「二つの正反対のことが一念同時に知らされる」という人がいますが、二種深信は二つの心ではなく一つの心であり、前後があるのでも、並んで起きるのでも、いずれか一方が他方の条件であるのでもありません。

二種深信は機法二種一具の深信であり、図示しますと
 機の深信=自力無功=捨自
 法の深信=他力全託=帰他
となります。
そして、初起の一念より臨終まで一貫します。

親鸞聖人の正信偈の源空章の四句を読まれると、二種深信の意(こころ)がお分かりになると思います。
 還来生死輪転家
 決以疑情為所止
 速入寂静無為楽
 必以信心為能入
この前二句が機の深信の意、後二句が法の深信の意と思われたらよいでしょう。





参考 S会会員 2009/07/10 23:11 さんコメントより

(中略)

この機の深信に関しては、「えっ、そうなの、知らんかった。」と内心会長は思う
のではないかと思います。なにしろいたるところに機の深信を
こうした解釈で書いてありますので。
 思うに昔、会長の話を真剣に求めていたころ、自分は
罪悪深重のものと思おう、思おうとしていたことを思い出します。
無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの
極悪人と知らされる。これが「機の深信」である、といわれ
るとそのように思おうとし、そのように知らされたいそのよ
うに思いたいとずーっと考えていました。
こうした思いにとらわれている会員さんは非常に多いのではない
かと思います。法に対する疑いであると同時に機に対する疑いで
すから、当然一念で知らされる自己の姿が罪悪深重の無間地獄行き
間違い無しのものと聞くと自分はその自己の姿を本当と思えない、
これも疑情だからこの心をなんとかしたいと思うのは自然
な気持ちではないかと思います。
(私だけだったかもしれませんが)
ちなみに『歎異抄をひらく』にもこれに関連する記述がありま
した。
・弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の
自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、
不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされるから、「悪を
もおそるべからず」の告白は当然である。悪を恐れ不安になるの
は、地獄一定の悪人と知らされていないからだ。
                (159ページ)

(以下略)

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