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阿弥陀仏のマニフェストが四十八項目あるって知ってる??

これは昨日の続きね。

阿弥陀仏は「このマニフェストが実現しなければ仏にならない」という、
マニフェストを実現して、法蔵菩薩から阿弥陀仏になったわけだけど、
そのマニフェストに四十八項目あるって知ってる??

もちろん、マニフェストの十八番目が一番大事なんだけど、
他のマニフェストも不必要なもんじゃないのよね。
そういうことが、なんかイマイチわかってないんじゃないかな~(苦笑)。

「一番大事」っていうのを、「全部それに收められる」みたいな感じに、
「味わう」ぐらいならいいんだけど、それを固定的にドグマ化してしまったから、
こういうややこしい問題が出てきちゃったんじゃないかな~。

なんかよくわかんないけど、「味わい」まで硬直させてドグマ化しちゃう教義ってのは、
ちょっと、揺さぶられるとこんなにも脆いものなのよね(苦笑)。

というか、親●会の「阿弥陀仏」っていうのは、
「信楽に生まれさせるというマニフェストが実現しなかったら辞任する!」
というマニフェストを立てている「阿弥陀仏」だから、
ひょっとして、僕ちゃんが思っているのと別の阿弥陀仏なのかもしれないけどね(苦笑)。

「正覚を取らじ」は「命を捨てる」?

某巨大掲示板サイトより

355 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/12(土) 12:39:48 ID:YYE+p5fC
>>350
現益も本願力(願力自然)でいただくのは、その通りです。
「現益をいただく」=「名号をいただく」です。
名号を与える働きが「光明」です。
光明無量を誓われたのが第十二願です。
ですから、「第十二願力によって名号が与えられ、現益が獲られる」という言い方もできます。
また、「三願転入で、第十八願の世界=当益が確約された世界=現益が獲られる」
という言い方もできます。(この場合、第十九願力と第二十願力で現益をいただく、
ということになります。)
つまり、「本願力」=「四十八願全体の力」と考えるのが自然であり、
なにも「第十八願力」に限ったことではありませんし、まして
「本願力」=「若不生者の念力」などど勝手な造語と結び付けるのは単なるこじつけです。
「本願力」=「四十八願全体の力」という意味で言うなら、
現益も当益も本願力でいただくというのは、まさしくその通りです。


376 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/12(土) 13:44:11 ID:YYE+p5fC
第十八願が四十八願の一番のメインであるのは確かですが、
本願力(阿弥陀仏のお力)を「第十八願力」に限定し、さらにそれを
「若不生者の願力」と勝手に言い換え、それを根拠に
「若不生者には現益の意味もある」と主張したい気持ちはよく分かりますが、
かなり論理に飛躍があり、やはり「初めに結論ありき」の「こじつけ」でしかないと感じます。
もっと明確に「若不生者には現益の意味もある」と仰った親鸞聖人のお言葉を
出してみなさいよ。明確に当益で解釈されたお言葉は複数あるのに、
それと同じくらい明確に現益で解釈されたお言葉が一つも出せないというのは
やっぱりおかしいですよ。

あと、素朴な疑問ですが、「若不生者」の「生」に
「信楽に生まれる」と「報土に生まれる」の2つの意味がもしあるなら、
それを補った上で、本願文をどのように書き下して読むのですか?

602 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/18(金) 21:09:37 ID:HA1V4xsT
本願文は「…欲生我国(乃至十念)若不生者…」ですから、
普通に読めば「若不生【我国】者」のはずです。つまり当益です。
成就文も「…願生彼国 即得往生…」ですから、
普通に読めば「即得往生【彼国】」のはずであり、「往生」の部分はやはり当益です。
この意味で、本願文と成就文はちゃんと対応していますよ。
しかし、当益を約束する本願が成就した結果、
名号を頂いた平生の一念ですぐに「彼国に往生できるという確約(保障)」が「得られる」のですから、
それはもう「往生したも同然」という意味で、
そのことを親鸞聖人が大胆に「不体失往生」と名付けたのではないでしょうか?
つまり、「当益を得ることが保障された状態になること」が現益なのですから、
当益と現益とは相反するものではありません。
(もちろん親鸞聖人は「背師自立」ではありません。)
おそらくこのような背景があって、親鸞聖人は「即得往生」を現益で解釈されたのだろうと
拝察されます。
しかし、その親鸞聖人が「若不生者」までも現益に読み替えられたお言葉は見つかりません。
(理由はともかく、この事実をまずは謙虚に厳粛に受け止めるべきです。)
成就文は本願が成就したという前提がある故に現益に読み替えることが可能だったのでしょうが、
もし本願の「若不生者」までも現益に読み替えてしまったら、
究極の目的である当益がどこにも誓われていないことになり、その結果、
「現益」もなくなり、「無益」になってしまうんです。
「現当ニ益」の教えの「本」は本願であることを忘れてはなりません。


605 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/18(金) 21:28:18 ID:HA1V4xsT
(602のつづき)
ただし、本願が成就したという前提の上で、成就文の立場から再び本願文を眺めれば、
「若不生者」も現益で「味わう」ことができるのかもしれません。
実際、大沼氏はそのように味わいました。
しかし、それはあくまで当益が本義であることを十分に踏まえた上でのことです。
ところが、高森氏は、その大沼氏の「味わい」を本義だと思い込み、
逆に、当益で解釈するのを「間違いだ」と主張し、
アニメでも親鸞聖人自身にそう言わせています。
これでは本末転倒でしょう。
「大沼氏のパクリ損ない」と言われる所以です。
(もっとも、田中氏から、親鸞聖人が当益で解釈された根拠を突き付けられた結果、
当益で解釈するのを「間違いだ」という主張は撤回し、
「現益と当益の2通りの意味がある」という主張に修正しましたが…。)




清森問答 質疑応答139コメント覧より

Bさんの解説

> ここは12願ではなく18願の「信楽」の解釈ですよ。

(17願で誓われた【名号】を)12願で誓われた【光明】によって阿弥陀仏が「回施」することで、18願の「信楽」が発起するということです。それで何か問題ありますか?

> 至心信楽の願を説明するのに「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせる
> というお約束だ」と言ってはなぜいけないのか。

それなら、
「至心発願の願」(19願)は「発願の心にしてみせるというお約束だ」、
「至心回向の願」(20願)は「回向の心にしてみせるというお約束だ」、
と言っていいんですか?
あなたの論法をそのまま応用すると、そういうことになりますよ。

・・・

質疑応答136より再掲。
-------------------------------------------------------------------------------------

19願「至心発願の願」
   =至心発願した人を、浄土往生させるという誓い

20願「至心回向の願」
   =至心回向した人を、浄土往生させるという誓い

ということを考えても、

18願「至心信楽の願」
   =至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い

であることは明白であり、『至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじ』と、親鸞聖人が仰った通りです。

・・・

「全ての人を信楽に生まれさせる」という約束が十劫の昔に成就した、というのが本当なら、いわゆる「十劫安心」を肯定するものであり、決して「枝葉末節」ではなく、重大な誤りですよ。

「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじ」という親鸞聖人のお言葉で初めから結論が出ているのに「重箱の隅をつつく」ようなことを言っているのはむしろ親鸞会側ですよ。(言われれば無視するわけにはいかないので応じているだけです。)

・・・

> 質疑応答141で結局、清森氏も『「信楽にする力」については、
> 光明が12願なので、18願だと断定するのには不安がありますが、
> 五願は18願に納まるという考え方からは、そのようにも言えると思います。』
> とお認めになりましたよ。

清森氏は、
「断定するのには不安がありますが」と前置きした上で、
「五願は18願に納まるという考え方からは」という条件付きで、
「そのように【も】言えると【思います】。」と言っているだけです。
「信楽にする力」は調熟・破闇の光明で、
「信楽になった人を浄土に往生させる力」は摂護の光明ですから、
ともに「阿弥陀仏のお力」であり、密接な関係にあることは私も否定しませんよ。
しかし、清森氏は、
----------------------------------------------
> お聖教には「十八願=信楽にする誓い」と直接的に書かれているところが無い以上は、
> 「十八願は信楽にしてみせるという誓い」という表現はすべきではない、ということで宜しいでしょうか。

そうですね。
----------------------------------------------
というように釘を刺しています。ここを無視して都合のいい部分だけを引用するのはやめていただきたいものです。

> 宗学の定規を当てないで字面だけを見て勝手なことをおっしゃられては困ります。
> 十九願は自力で二十願は半自半他、十八願は絶対他力です。

そんなことはもちろん分かっています。私はあくまで、
「あなたの論法をそのまま応用すると」と言ったじゃないですか。

> 至心信楽の願を説明するのに
>「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」
> と言ってはなぜいけないのか。
> 親鸞聖人は第十八願の主眼は信楽とみぬいて
> 『至心信楽の願』ともおっしゃっておられるのですよ。
というように、18願が「至心信楽の願」と名付けられていることを根拠に
「信楽の心にしてみせるというお約束だ」と、あなた自身が
「字面だけを見て勝手なことをおっしゃ」たわけですから、
仮にそういう論法が通用するなら19願・20願についても同じことが言えてしまうではないか、と言ったまでです。つまり、そういう論法は通用しないのです。

> 親鸞聖人が名付けられた『至心信楽の願』に
> 『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
> 諸有海に回施したまへり。』
> (顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)
> の定規を当てて
> 「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」
> と言ったのですよ。

第18願の「信楽」の心になれるのは阿弥陀仏のお力によってであることは誰も否定していませんよ。しかし、そのことと「第18願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」という主張には隔たりがあることが分かりませんか?

繰り返しますが、48願は全て十劫の昔に既に成就したのですよ。だからこそ、法蔵菩薩は正覚を取られたのだし、釈尊は「成就文」を説かれたんですよ。
もし、第18願に「全ての人を信楽に生まれさせる」と誓われていたとするならば、
十劫の昔に全ての人は信心獲得しているはずなんですよ。これは「十劫安心」以外の何物でもなく、とんでもない邪義です。
「十劫の昔に薬は完成したけれども、それを飲まなければ病気は治らない」
と、親鸞会でも説きますよね。それはその通りです。ところが、
「薬を飲む」=「名号を聞く」=「信心(信楽)を獲る」ですから、
「信楽の心にしてみせる」ことまで約束されてそれが成就したというのであれば、
「薬を作るだけでなく、薬を飲ませることまで約束して、それを果たした」ということと同じですから、これが「十劫安心」でなくて何でしょう。あくまで、
「薬が完成している」ということと「その薬を全ての人に飲ませようと阿弥陀仏は常に働きかけておられる」という事実があるのみです。これなら筋が通ります。

・・・

> B(本物)氏や清森氏は
> 「全ての人を信楽の心にさせ必ず報土往生させるシステムが十八願のお約束」
> と主張しているのですか?

私は「全ての人を信楽の心にさせ」なんて主張していません。
とんでもない読み間違い(意図的な曲解?)ですね。
私が質疑応答138で書いたのは以下の通りです。
----------------------------------------------
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。


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「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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