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かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(前半)

チューリップ企画が主張する「かくて判明した根本的相異点」が、
悪質な論点スライド&問題隠蔽であることが明かになったので、

代わりに、これまでに明らかになった「根本的相違点」を挙げておきたいと思います。

ちなみにこの「根本的相違点」は、
「(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相違点」です。

親鸞会教義の相対化・40

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「善恵房殿、それは、『若不生者不取正覚』の御文で明かです」
「親鸞殿、何か勘違いされておられぬか。その御文は、『若し生まれずば正覚を取らじ』と弥陀が誓われたお言葉です。一度死なねば生まれることはできませんから、それこそ、『死んだら助ける』の証ではありませんか」
勝ち誇ったように叫ぶ善恵房。
 しかしその時、すかさず聖人の言葉が四方を圧した。
「善恵房殿、あなたの誤りは実にそこにあるのです。『若不生者』の生まれさせると誓われたのは、この肉体ではないのです。魂なのです。心なのです。暗い心を明るい心に、不安な心を大安心に、苦悩渦巻く心を歓喜の泉に生まれさせると誓っておられるのです。人間でさえ、腹痛で苦しんでいる人に、『この世では止められるが死んだら治してやろう』という医者はありません。濁流に溺れて苦しんでいる人に、『今は救ってやれないが土左衛門になったら助けてやる』という人がありましょうか。まして況や、大慈大悲の阿弥陀仏が、『この世の苦悩はどうにもできぬ。苦しくても我慢しなさい。死んだら助けてやる』と誓われる道理がないじゃありませんか」
鋭い聖人の追求に善恵房すでに顔色なく、一言の返答もできなかった。これを、「体失不体失往生の諍論」という。
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 チューリップ企画と田中さんの法論で話題の「体失不体失往生の諍論」の話題です。本書も、チューリップ企画のビデオと同内容であり、いずれも高森先生の『こんなことが知りたい』(2)pp.74-78「(21)親鸞聖人の三大諍論とは、どんなことか」から受け継いだ内容であると思われます。

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*不体失往生の根拠として「若不生者」を出したことがそもそも口伝抄の記述と異なる。
*親鸞聖人自身、「若不生者」を明確に当益で解釈されたのに、当益で解釈するのを「誤りだ」と親鸞聖人自身に言わせているのは矛盾している。
*百歩譲って、仮に「若不生者」に現益・当益の両方の意味があるとしても、その場合、体失往生か不体失往生かの決着を付ける言葉としては用をなさないので、やはり不適切。
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 これはチューリップ企画と田中さんの法論を掲載したブログで、親鸞会員と思われるAさんと場外乱闘をしていたBさんがまとめておられたことですが、高森先生の『こんなことが知りたい』、アニメ、そして本書は、共通して上記三点の批判を避けることはできません。



*不体失往生の根拠として「若不生者」を出したことがそもそも口伝抄の記述と異なる。
*親鸞聖人自身、「若不生者」を明確に当益で解釈されたのに、当益で解釈するのを「誤りだ」と親鸞聖人自身に言わせているのは矛盾している。
*百歩譲って、仮に「若不生者」に現益・当益の両方の意味があるとしても、その場合、体失往生か不体失往生かの決着を付ける言葉としては用をなさないので、やはり不適切。


チ●ーリップ企画の山田さんの発言をずっと読んでますが、
この指摘に対して答えられるような発言は全然出てきてません。

それがつまり、「(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相違点」ということになるわけですね~。

ちなみに、この問題に関してBさんと場外乱闘してたAさんは、
いつのまにかフェードアウトしてしまいました。
いちおう会話が成立する人なので応援してたんですけどね~(苦笑)。

場外乱闘現場より

Bさんは他にも鋭いツッコミを入れてましたので、
以下にまとめておきますね。

「現益(信楽)を獲た人に必ず当益を与える」と誓われたのが本願文です。それが成就したのですから、あとは「現益を獲させる事」に焦点が移るのは当然です。そしてその部分を明らかにされたのが成就文です。ですから、本願文と成就文の内容は同一ではありません。本願文の内容をそのまま解釈されたのが成就文、という認識を改めるべきです。親鸞聖人は、
「若不生者」を当益のみで解釈され、
「即得往生」を現益のみで解釈されました。
これは紛れもない事実です。歴史上いろいろな解釈はあったでしょうが、親鸞聖人のなされた解釈に忠実でなければ「親鸞学徒」とは言えません。親鸞聖人の解釈に従うならば、
「即得往生」≠「若不生者」は明らかです。それなのに勝手に
「即得往生」=「若不生者」だろうと計らって、
「若不生者」に現益の意味もあると主張するのは親鸞聖人の教えに反しています。(あなたがそう「味わう」だけなら自由ですが。)



親鸞聖人以前は「不体失往生」という概念はなく、
「往生」と言えばいわゆる「体失往生」に決まっていました。
その意味で、「即得往生」と「若不生者」とが対応していました。ところが、親鸞聖人が初めて「即得往生」を現益に読み替えられたのです。その結果、「若不生者」は当益なのに「即得往生」は現益ということで、「即得往生」≠「若不生者」という恰好になりました。だから私はわざわざ「親鸞聖人の解釈に従うならば」と前置きをしたのです。
では、「若不生者」も現益に読み替え可能ではないかと思うかもしれませんが、成就文の「即得往生」を現益に読み替えることができたのは、あくまで当益を誓われた本願が土台にあるからです。もしその本願文の「若不生者」までも現益に読み替えてしまったら、当益がどこにも誓われていないことになります。しかも、「当益が得られることが現世において確定したこと」を「現益」というのですから、当益が無いならば現益も無くなって、結局「無益」になってしまうのです。ですから「若不生者」を現益に読み替えることは原理的に不可能です。
まあ、理屈はどうであれ、「若不生者」を明確に現益で解釈された親鸞聖人のお言葉を未だに山田氏は出すことができないでいます。この事実だけで山田氏の敗北を結論付けるのに十分です。議論がいろいろな方向に拡散していますが、この法論は本質的に終わっています。



仏教の目的は成仏です。阿弥陀仏のお力によって、凡夫が仏覚に到達するまでの全行程を「横超の直道」と言います。「本願を信受した一念で51段高飛びして、凡夫が正定聚」も素晴らしいことですが、それはまだ通過点であって、一番すごいのは、正定聚になった人が阿弥陀仏の本願力によって仏覚に到達することです。
「51段から52段へはあと1段だから簡単なこと」と思っていませんか?
---------------------------------
弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるが故に、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大槃涅槃を超証す(教行信証)
---------------------------------
この親鸞聖人のお言葉から分かるとおり、弥勒菩薩が自力で51段から52段に到達するのに56億7千万年かかるのですから、「あと1段」がいかに大変なことか分かるでしょう。「大関になるのも大変だけど、大関が横綱になるのはもっと大変。(魁皇を見なさい。)」という喩えを聞いたことはありませんか? それに対し、【横超】の金剛心を窮めた人は、次の生ですぐに仏覚に到達するのですから、これは大変なことです。ゆえに、当益にこそ【横超】の真価があると言えます。まずは現益を獲ることが先決ですから私達が現益を重視するのは当然ですが、仏教の究極の目的は何かという、大局的観点を見失ってはなりません。



「横超」とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
(教行信証信巻)

「横超」とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなわち真宗なり。
(教行信証化土巻)

これらは、当益と対比して「【横超】とは現益だ」と言われたわけではありません。(そういう意図でここだけをピックアップするとそう思えるでしょうが、これっていわゆる「断章主義」ですね。)
「竪超」「竪出」「横出」と対比して「横超」の特徴を言われたものです。「願力廻向の信楽」を獲ること、「本願を憶念して自力の心を離る」ことは、いずれも「横超」を特徴付ける重要なプロセスですからね。

繰り返しますが、仏教の目的は成仏です。凡夫が仏覚に到達するまでの道程を大きく4つに分けられた中の1つが「横超」です。ですから、「横超」が仏覚への途中の段階までを意味するということはありえません。ただ、例えば4通りの登山道がある場合に、その中の1つを他の道と区別しようとしたら、通過点を指定するしかありません。(スタートとゴールは同じなのですから。)信楽を獲て正定聚に住するという段階を経ることが、「横超」が他の3つの道程と決定的に異なる点ですから、それによって「横超」の特徴づけをなされたのは当然です。


「超世の悲願」を聞けば現益を獲るというのは、その通りです。
だからといって、なぜ「超世の悲願」の内容が「全ての人を信楽に生まれさせる」ということになるんですか?

「薬を飲めば病気が治る」ということから、なぜ、「薬の中に『全ての患者に必ずその薬を飲ませてみせる』という働きが込められている」という命題が導けるのですか?



> 若不生者の「生」は不体失往生であることを、聖人は
>「即得往生は後念即生なり」(一念で、信楽に生まれるのだ)と
> おっしゃり

「即得往生は後念即生なり」は「即得往生」の解釈なのに、
なぜそれが「若不生者」の解釈になるんですか?
「若不生者」と「即得往生」がイコールかどうかを問題にしているのに、それを前提として話を進めるのは循環論法ですよ。

> 覚如上人は「本願の不思議をもって生るべからざるものを
> (信楽に)生れさせたればこそ、(18願を)超世の悲願というのだ」
>とおっしゃっています。

勝手に「(信楽に)」と補っていますが、その理由は何ですか?

(略)

今、一番の問題となっているのは覚如上人の
「生るべからざるものを生れさせたればこそ」
というお言葉が現益・当益のどちらを言われたものか、という点です。あの後、調べてみたら、その文の前にある「往生浄土の器もの」という言葉を受けて、実際に当益と解釈している本が見つかりました。私はその説を支持します。あなたが「現益だ」と主張されるのであれば、その理由を明確に述べてください。

>「生まれさせたればこそ」が当益ならば「生まるべからざるもの」とは何ですか。
> 正定衆の菩薩が死んで仏に生まれても、何の不思議ですか?

信楽を獲た人は、法徳から言えば「正定衆の菩薩」ですが、機相から言えば「煩悩具足の凡夫」のままですから、「生まるべからざるもの」であることに変わりはありません。「生まれさせたればこそ」が当益であると仮定しても何も矛盾しませんよ。

(略)

その進道の階次をいうとき、ただおなじき座席なり。しかるうえは、かならずしも俗の二種をしりぞけて、道の二種をすすましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちいる条、本形としては、往生浄土のうつわものにきらわれたるににたり。ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。


『浄土に生まれ、順序を言う時は、いずれも同じ座席についているのである。こうした訳だから、俗の二種を低く押し退けて、僧の二種を高く押し進ませる必要はないのに、婦人や在俗のものが、強いて法名を用いるのは、いかにもそのままの形では、浄土に生まれる器ではないと、嫌われているかのようである。ただ男女・善悪の愚かな人に、さかしらな才能を働かせない生地のままの姿において、本願の不思議な働きによって、浄土に生まれることが出来ないものをも生まれさせたからこそ、「いつの世にも超え勝れた願」と名づけたり、「一足とびにさとることの出来る捷径」ともいわれる訳である。この一章は、ことに曾祖師、並びに祖師以来、相伝え、受け継いできた眼目であって、強いてかりそめに扱ってはならないものである。』

(【改邪抄】親鸞述 石田瑞磨訳 平凡社)



CMに続く!
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Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
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※私にメールで質問してもエエけど、
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