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ツッコミ!【第6回】かくて判明した根本的相異点

第6回がアップされました。
 ↓↓↓
【第6回】かくて判明した根本的相異点
http://shinjin.info/2008/08/250830141.html

予想はできてましたが、悪質な論点スライド&問題隠蔽ですね(苦笑)。

その間、約十ヵ月、メール交換120通余、明らかになったことは種々あるが、田中氏とチューリップ企画の見解に根本的な相異点が判明したことが何よりの収穫であったと思われる。それは肝心の『弥陀の本願』と『本願成就文』についての見解が、全く異るところにあったのである。



「田中氏にチューリップ企画のアニメの問題を指摘されたけど、
論点スライド&問題隠蔽する糸口が見つかった
のが何よりの収穫であったと思われる。」

と書くべきなんじゃないですかね~(苦笑)。

チューリップ企画の『本願成就文』は、『本願文』のすべての解説である、という領解に対して、田中氏は全く異なっていた。
『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではないというのが田中氏の見解であった。



「『本願成就文』は、『本願文』のすべての解説である」とチューリップ企画が考えるのは勝手だけど、
田中さんは「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という位置づけにはしてないんですけどね~(苦笑)。

そういう枠組みに田中さんを当てはめて、ぐちゃぐちゃ攻撃するつもりなんだろうけど、
まともに文章を読んでる人には通容せ~へんし(苦笑)。

以下、チューリップ企画の印象操作を破折しま~す♪


◆平成20年3月24日
本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

これがどうして、「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」になるねん(苦笑)。

>その肝心の「信楽を獲る」ことが、「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(正信偈)と、これ以上難しいことはないと、釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も教えられている文証は、すでに挙げてある通りです。そんな「信楽」が、どうして獲られるのでしょうか。「本願文」で示して下さい。

上記の質問は、2月2日に、以下のように返答済みです。

>>「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
>> だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

>当方は幾度も、我々に「信楽が獲られる」のは、「本願文」では「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってであり、「本願成就文」では「名号」の「破闇満願」の働きであり、親鸞聖人は、それを「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」で詳説されていることを繰り返し述べてきたことは、過去のメールを見れば明白です。

貴方の出された根拠は、「若不生者」が「信楽が獲られる」という意味となるという根拠にならないことは、すでに論証してきた通りです。

しかし、今は、双方の主張を確認する作業をしているわけですから、その妥当性を議論するのは、後まわしでしたね。

上記の文章では、どの部分が主張で、どの根拠が対応しているのか判りません。明確にして頂きたく思います。

>無論、弥陀の十八願の「若不生者不取正覚」の約束が「誠だった」と「仏願の生起本末に疑心あることなし」となるのは、「信楽をえた時」ですよ。

質問をすり替えないで頂きたく思います。

これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?

異論がなければ、上記の意味だと判断します。

>ところが貴方は今度の返信でも、『「即得往生住不退転」は不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです』と仰った。
>それでは「本願成就文」は「弥陀の本願」の開闡ではないのですか。お尋ね致します。

貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。

そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
その点、貴方の主張を確認いたします。

あと「開闡」を、どのような意味で使っておられますか?
一般公開しているのですから、現代語で質問して頂くようお願いします。

>弥陀は「極楽浄土に生まれさせる」ために、難中之難無過斯の「信楽に生まれさせる」ことに、「若不生者」と「正覚」を懸けられているのではありませんか。
>その「若不生者不取正覚」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』でしょう。だから親鸞聖人は『本願成就文』を「一実・円満の真教、真宗これなり」と言われているのです。

本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

>親鸞聖人の何処に「若不生者は、極楽に生まれることだけ」という教えがありますか、あれば根拠を教えて下さい。

すでに提示してあります文章は、すべて上記の根拠です。

親鸞聖人が「若不生者」を説明された文章は、すべて「極楽往生」の意味で教えられています。それを、不体失往生で教えられた文章は、一つもないことは、貴方も認められた通りです。

極楽に生まれる以外の意味があるのなら、「極楽に生まれるという意味もある」と書かれるはずでしょう。

貴方は、部下にボールペンを買いに行かせるときに、「ボールペンだけ買ってこい」と言われるのですか?

貴方の会社では、「ボールペンを買ってこい」と言われたら、肉まんも買ってよいという意味になるのですか?

親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されているということは、それ以外の意味ではないのは明白です。



◆平成20年4月2日のメール
もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。

これも、チューリップ企画が田中さんにボコボコにされて抗議された部分ですが、
「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という主張を田中さんがしたことにはなりませんやん(苦笑)。


>『本願成就文』で開顕されているのは、本願文の「至心信楽欲生我国」の八字だけのことですか。それとも『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ですか。お尋ね致します。
 
 
 もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。
 
 貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?
 異論がなければ、そのように受け取ります。
 
 
 
>また貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と仰っていますが、その文証を示して下さい。
>今まで貴方の挙げられた文証は、『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない』という根拠にはならないことは、先便で縷々明らかにした通りです。
 
 
 すみませんが、どこの部分のことでしょうか?
 そのような文章は、どこにも見当たりませんでした。
 
 前回のメールで、極楽浄土に生まれる以外の意味がないことは、誰にでも分かるように明らかにしました。それに対する、何の反論もありません。
 
 すでに貴方は、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない』と認められたのですから、今さら何を仰るのかと思います。
 
 
 
>また返答がないと言われているが、当方は「若不生者不取正覚」の「生」に不体失往生の意味もあることを、「本願文」では「若不生者不取正覚」にあり、「本願成就文」では「名号」の働き「即得往生住不退転」で示し、だから『願成就』には、死後のことは説かれてないことや、その外「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」など、親鸞聖人のお言葉ばかりを提示してきたのに、なにを今更おっしゃるのだと言いたいことです。
 
 
 私は3月16日に以下のように書きました。
 
>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>> 
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>> 
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。
 
 
 これに対して、「有る」とも「無い」とも、まったく返答がありませんでした。
 つまり、これは「無い」という返答です。
 こんな最近のやりとりを、もう忘れられたのですか?
 
 もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
 議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
 仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?
 
 
 
>だが貴方は、それらの根拠は「若不生者」が「信楽を獲られる」という意味となるという根拠にならないと、論証してきたと仰った。いつ何処で、どのように論証されたのでしょうか。大切なところですから愚鈍な者にも分かるように、もう一度お手間かけたいと思います。論証して下さい。
 
 
 何回でも論証いたしましょう。
 
 しかし、貴方も同意された通り、今は双方の主張を確認する作業を優先して進めております。
 
 まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?
 
 貴方の主張が明らかになりましたら、一つ一つ、改めて論証いたしましょう。
 
 
 
>いまだに貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と主張されますが、
>「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証)
>「真に知らされた! いま弥勒菩薩と同格(信楽)になれたのは、弥陀の誓願不思議によってのほかはない。弥勒は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりが得られぬのに、私は死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」と、親鸞聖人は慶喜されていますが、「真に知んぬ」と知らされたのは、「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってではありませんか。これを弥陀の本願の現益というのでしょう。
 
 
 親鸞聖人が「まこと」と知らされた「本願」の内容は、まさに「私が死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」という内容です。
 
 つまり、これは、「若不生者不取正覚」によって、死ぬと同時に仏のさとりが得られるということであって、私の主張を裏付ける根拠です。
 
 
 
>「今生は、正定聚に生まれさせ」「死んでは、極楽に生まれさせる」のが、「若不生者」の誓いではありませんか。「死んで極楽に往生させる」ことのできるものが、なぜ「今生で往生させる」ことができないのか。「死んで極楽に生まれさせる」ことができるのなら、「今生で生まれさせる」ことができるのが当然でしょう。
> 
>「若不生者のちかい」によって、浄土へ生まれる(体失往生)は結果です。信楽に生まれる(不体失往生)という原因なくして、浄土往生という結果は絶対にないのです。
>「若不生者不取正覚」の本願力が、「信楽に生まれさせる」ことに懸かっていないという主張は、浄土往生の正因が「信楽」であると言う、親鸞聖人の「信心正因」の教えを否定することになるのです。
 
 
 「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?
 
 あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?
 
 
 
>> これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
>> 
>> 異論がなければ、上記の意味だと判断します。
 
 
 なお、上記については、異論がありませんでしたので、貴方の主張は、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」だと明確になりました。
 
 
 
>> 貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
>> 
>> そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
>> その点、貴方の主張を確認いたします。
 
 
 これも異論がありませんでしたので、貴方の主張では、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだということが明確になりました。



◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとは、どういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。

田中さんの文を変な所で分断して、ヘンテコなものに印象操作しようとする気持ちはよくわかりますが、
「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という主張を田中さんがしたことにはなりませんな~(苦笑)。


>(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
>   かれている処」がありますか。
 
 名号に、死後、極楽に生まれさせる働きがありますので、無関係ではありませんが、『本願成就文』そのものには、死後のことは説かれていないと考えて良いと思います。
 
 
 
>(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
>   の主張の文証を挙げて下さい。
 
 
「私の主張」は、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証は存在しない、という主張です。
 
 まず、私の主張をよく理解してください。
 
 それ以外のことを、私の主張だと思っておられるなら、上記が私の主張ですので、よくよく覚えておいて頂きたく思います。
 
 私が「若不生者」の「生」を「極楽往生のみ」と言っているのは、親鸞聖人が解釈されている文章が、「極楽浄土」しか見当たらないという意味です。
 
 ですから、教行信証のどこにも、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証が存在しないということが、私の主張を裏付ける文証です。
 
 
 
>(3)先便で貴方は、『「本願成就文」を、
>   「本願文」三十六文字の総てを解説さ
>   れたものという考えには反対です』
>   と仰った。
>   それでは『本願成就文』は、「本願
>   文」のどこまでの解説で、「本願文」の
>   どの部分が解説に入らないのか、とお
>   尋ねしています。
 
 
 何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
 
 本願成就文は、信心をえるとはどういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対だという意味です。




◆平成20年5月25日のメール
親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

都合が悪いから、田中さんが親鸞聖人の言葉を根拠に挙げてチューリップ企画の誤りを論証している部分は、
しっかり削除してることはよくわかりましたが、
「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という主張を田中さんがしたことにはなりませんな~(苦笑)。


 そもそも貴社の誤りは、不体失往生の根拠として、「若不生者不取正覚」の八字を使ったことでした。
 
 親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは本願成就文の「即得往生住不退転」の八字です。
 
 ビデオの製作者は、本願成就文も、本願文も同じようなものだから、どちらでも良いだろうと思われたのかも知れません。
 
 もし私が製作者だったら、迷わず「即得往生住不退転」を使ったでしょう。
 
 
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠として、「若不生者」ではなく、「即得往生」を使われた文章を紹介します。
 
 
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。→唯信抄文意
 
 即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。→愚禿抄
 
 
 
 当然ながら、体失不体失往生の根拠とされる、口伝抄に描かれている法然上人のお言葉も「即得往生住不退転」の八字を出されており、「若不生者不取正覚」はどこにもありません。
 
 親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
 
 ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。
 
 
 
 確認事項に答えるまでもなく、貴方の返答から、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ということが、自ずと明らかになりました。
 
 しかし、仮に、「若不生者不取正覚」に不体失往生の意味があると誤解していたとしても、親鸞聖人の説き方を理解されていれば、迷わず、「即得往生住不退転」の八字をビデオで描いていたでしょう。
 
 親鸞聖人が不体失往生を論じられる時は、常に「即得往生住不退転」を根拠とされたのですから。
 
 
 
 この場面で、「即得往生住不退転」ではなく、「若不生者不取正覚」を思いついたというのは、ビデオ製作者の勉強不足であって、貴方の責任では無かったのかも知れません。
 
 貴方は、本願成就文の重要性は理解されているようですので、ビデオ製作者に伝えておいていただきたく思います。



◆平成20年6月4日のメール
私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。
◆平成20年年6月4日のメール
「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総べてを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。

前回のツッコミで、田中さんの主張をバラシテ分断して配置することに何らかの作為があるだろうと予測しましたが、予想がピッタリ当たりましたね(苦笑)。

「というわけで、チューリップ企画は間違いである」という部分を恣意的に削除したのはわかりましたが、
この文で、「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という主張を田中さんがしたことにはなりませんな~(苦笑)。


前回のメールで、私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。
 
 貴方の返信は、私の主張を全面的に支持する内容でしたので、ようやく結論が出たものと思います。
 
 
 
 貴方も認められたように、浄土真宗で「至極」と言われる教えは本願成就文しかありません。
 
 それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです。
 
 だから親鸞聖人は、不体失往生を語るとき、常に「本願成就文」を根拠とされ、「本願文」を根拠とされたことはありませんでした。
 
 
 
 ビデオ製作者の方は、その浄土真宗の常識を知らず、「若不生者不取正覚」を不体失往生の根拠としてしまうという誤りを犯されました。
 
 浄土宗の開祖を間違えられるような方ですから、不勉強だったのかも知れません。ビデオ製作のプロでも、仏教のプロとは限りませんから仕方ないことだと思います。
 
 貴方から、本願成就文の重要性を、そのビデオ担当者に、よくよくお伝え頂きたく思います。
 
 
 
 親鸞聖人は、「若不生者不取正覚」を当益として解釈されています。これは貴方も認められたことです。
 
 その、「若不生者不取正覚」に誓われた当益が、本願成就文のどこに説かれているかという御質問ですが、本願成就文に死後のこと(当益)が説かれているかという御質問には、4月17日に既にお答え致しました。
 
 
 
「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総てを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
 
 ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。
 
 
 
 いずれにしましても、私のお尋ねしたかったことには結論が出ましたので、この件は終わりにさせて頂きたいと思います。




というわけで、

×田中氏の主張は、一貫して『本願成就文』は『本願文』の一部「至心信楽欲生我国」の釈尊の解説であって、『本願文』すべての解説ではない、という理解であることが明白である。

田中氏の主張を
「一貫して『本願成就文』は『本願文』の一部「至心信楽欲生我国」の釈尊の解説であって、『本願文』すべての解説ではない、という理解である」
ということにして
教義上の誤りを隠蔽することにチューリップ企画の意図があることは、明白である。

ですね(苦笑)。

ホンマニいい加減にせんと、温厚な僕ちゃんでもしまいに怒りまっせ(苦笑)。
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Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
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