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やさしい浄土真宗の教え §17 阿弥陀仏の本願の行

§17 阿弥陀仏の本願の行

ここで大切なことを確認しておくけど、

親鸞聖人の所謂「三願転入」のうちで、
「万行諸善」「要門」に当たる『観無量寿経』において、
最終的に釈尊がお勧めになられたのが「念仏」で、(注1)

されにそれを善導大師が解釈されて、

 阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、
 釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、
 衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。

と述べられ、(注2)

その教えを法然上人も受け継いでおられるちゅうことは、
忘れてもらっちゃアキマヘンね~。(注3)

そして、法然上人が『選択集』最後の十六章に書かれた、
実践的結論と言える、

 速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば・・

1)「聖道門」「浄土門」という二種の優れた法門の中で、「浄土門」を選んで入る。
2)「正行」と「雑行」の二行の中で、「正行」を選んで実践していく。
3)「正定の業」と「助業」の中で、「正定の業」(阿弥陀仏の名号を称えること)を專らに実践していく。

という言葉は、(注4)
親鸞聖人も主著『教行信証』の行文類に引用され、

  あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。
  大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

とコメントされておりまっから、
浄土真宗においても従わなきゃアキマヘンわね。(注5)


そんじゃあ、
なんで阿弥陀仏は十九願&二十願を立てられたのか?
ってことになるんやけど、

★阿弥陀仏の十八願を信じようとしない人を導いて、
 十八願の世界に入れるため。

に決まってますわね。

いかなる行も及ばない末代の衆生のために、
阿弥陀仏が名号を作ってくださって、
それを受け取った人を必ず救うと言ってくださっているのに、(注6)
それを信用しないで、

「何かせなアカンやろ!」

と思ってしまう、阿弥陀仏の御心がわからない衆生・・。

そんな衆生にも心を向けて、なんとか十八願の世界に導きいれようとした、
「巧みな手段」(方便)の願が、十九願&二十願なわけですわ!!(注7)

せやから「本意の願」である十八願の世界に、
一刻も早く入れるようにせなアカンのですよん。(注8)

そのために善知識がお勧めになられているのは、
聴聞&信前の念仏なわけやから、
それを最優先にしてよね。(注9)

それが、できなくなるような環境なら、
速攻で脱出せなアキマヘンで~!(注10)(注11)


【今日のまとめ】
 1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
   阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
   阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
   親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。
 2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
   この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。
 3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である
   十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。
 4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
  「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。
 5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
   それができなくなるような環境からは脱出すべきである。


※次回から、「まだ納得できない人」のために、
 質疑応答形式で更に掘り下げた解説しちゃうよん。
 脊髄反射でショウモナイコメントしたら、恥ずかしいことになるで~(笑)。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 詳しくは以下参照。

『観無量寿経』において、釈尊は定散二善を述べた終わった後、流通分において阿難に、

●汝好く是の語を持て、是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。

(訳)
あなたはこの語をよくたもちなさい。
「この語をたもて」というのは、無量寿仏の名号をたもてということである。

と仰っている。


注2 詳しくは以下参照。

 善導大師は『観経疏』において、上記の釈尊の教えを以下のように解釈されている。

●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
 確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)


注3 法然上人は上記の善導大師の言葉を『選択集』(第12章)に引用され、また同じく『選択集』で以下のように述べておられる。

 もし仏像を造ることや堂塔を建立することを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 お金のない貧しい者は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、裕福な人は少なく、貧しい人は甚だ多い。

 もし智慧にすぐれ才能に溢れていることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 愚かで智慧のない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、智慧のある人は少なく、愚かな人は甚だ多い。

 もしお経に書かれた教えを、沢山見たり聞いたりすることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 少ししか見たり聞いたりしていない人は、
 きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、沢山聞いた人は少なく、
 少ししか聞いていない人は甚だ多い。

 もし戒や律をきちんと守ることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 戒を破ってしまったり、もともと戒のない人は、
 きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、戒を守れる人は少なく、戒を破ってしまう人は甚だ多い。

 この他の念仏以外の諸行に関しても、これに準じて知るべきである。
 以上のことから、これらの念仏以外の諸行をすることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 往生できる人は少なく、往生できない人は多いだろう。

 だからこそ、阿弥陀仏は過去において法蔵比丘であった時に、
 平等の慈悲にうながされて、あまねく全ての人々を救うために、
 仏像を造り堂塔を建立する等の念仏以外の諸行を、
 極楽浄土に往生するための本願にせずに、
 ただ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す一行だけを本願とされたのである。
(第三章)


注4 『選択集』十六章

1)
 それ速やかに生死を離れんと思わば、
 二種の勝法の中に、
 しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選びて、淨土門に入(い)れ。

(訳)
 速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば、
 二種の優れた法門の中で、
 しばらく聖道門をとどめておいて、浄土門を選んでそれに入りなさい。

2)
 浄土門に入(い)らんと思わば、
 正雑二行の中に、
 しばらく諸々の雑行を抛(なげす)てて、選びて正行に帰すべし。

(訳)
 浄土門に入ろうと思うのであれば、
 正行と雑行の二行の中で、
 しばらくさまざまな雑行をなげうって、正行を選んでそれに帰しなさい。

3)
 正行を修せんと思わば、
 正助二業の中に、なお助業を傍(かたわら)にして、選びて正定を專(もっぱら)にすべし。

 正定の業というは、すなはち、これ佛の御名(みな)を称するなり。
 名を称すれば必ず生まるることを得(う)。
 佛の本願によるが故に。
『勅伝』巻十八、「選択集」第十六章(昭法全三四七頁)

(訳)
 正行を行おうと思うならば、
 正定の業と助業の中で、さらに助業をわきにおいて、正定の業を選んで專らに行うべきである。

 正定の業とは、すなわち阿弥陀仏の名号を称えることである。
 阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず極楽浄土に往生することができる。
 それは、阿弥陀仏の本願によるからである。


注5 親鸞聖人は、「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。

 三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。
 ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。
 いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。
 真心はすなはちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。
 なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、
 仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、
 願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。
 いままさに一心一異の義を談ぜんとす、まさにこの意なるべしと。
 三経一心の義、答へをはんぬ。
(『教行信証』化身土巻)

しかし、この「他力の信心」と善導大師・法然上人・親鸞聖人がお説きになられている「念仏」が切り離して考えられないものであることは、既に述べた通りである。

詳しくは、§14「信心」と「念仏」参照。


注6 例えば以下の法然上人の言葉を参照。
 
 酬因感果(しゅういんかんか)の理(ことわり)を、
 大慈大悲の御心のうちに思惟して、
 年序そらにつもりて、星霜五劫におよべり。
 しかるに善巧方便(ぜんぎょうほうべん)を巡らして、思惟し給えり。
 しかも、我別願をもて浄土に居(こ)して、
 薄地低下(はくじていげ)の、衆生を引導すべし。
 その衆生の業力によりて生まるるといわば、かたかるべし。
 我、すべからく、衆生のために永劫(ようごう)の修行をおくり、
 僧祇(そうぎ)の苦行を巡らして、万行万善の果徳円満し、
 自覚覚他の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、
 その成就せんところの、万徳無漏の一切の功徳をもて、
 我が名号として、衆生に称えしめん。
 衆生もしこれにおいて、信をいたして称念せば、
 我が願にこたえて、生まるる事を得べし。
『勅伝』巻三十二、「登山状」(昭法全四二七頁)

(訳)
 阿弥陀仏は、「どうすれば仏になることができるだろうか」という理論を、
 大いなる慈悲の御心でもって考えているうちに、
 年月はいつの間にか過ぎていき、五劫という途方もない時間が過ぎた。
 そして衆生の能力や理解を判断して、巧みに教え導こうとお考えになられた。
「この私は、私だけの特別の願を立てて浄土に住して、
 何の取り柄もなくもがき苦しんでいる衆生を、導いていこう。
 もしも、そのような愚かな衆生が、自分で行ったよい行いの力によって、
 極楽浄土に生まれるというのであれば、それは難しいであろう。
 だからこそ私は、当然のこととして衆生のために、
 果てしない時間修行を行い、無数の苦行を積んで、
 ありとあらゆる修行・善行の結果として得られる功徳を獲得し、
 自ら覚り、他を覚らせるための仏道を極めて、
 その結果完成した、ありとあらゆるけがれなき全ての功徳を、
 私の名号に込めて、衆生に称えさせよう。
 だからもしも衆生が、私のこの本願を信じて、私の名号を称えたならば、
 私の誓願の通りに、極楽浄土に生まれることができるであろう。 」


注7 「方便」(UpAya.ウパーヤ)は、「近づく」「到達する」という意味の動詞から派生した名詞で、「仏の覚った真理に近づく手段・方法」のことである。
 仏の覚ったものは「真理」であるが、その真理に人々を導こうとして説かれる教えや方法は、それ自体「真理」そのものではない。
 なお、「自分の目的実現のためには他人にうそをつくことも仕方ない」という意味で、「うそも方便」という言葉があるが、「方便」は本来、仏教語であり、そこには「嘘」とか「虚妄」という意味は存在しない。


注8 親鸞聖人が編纂された法然上人の遺文集である『西方指南抄』所収の法語である「十七箇条御法語」には、以下の記述がある。

●第十九の願は諸行之人を引入して念仏之願に帰せしめむとなり。
『昭法全』 p.470

また、『安心決定鈔』の冒頭に以下の記述がある。

●浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。
 弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。
 余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。

この書物は著者は不明であるが、第8代宗主蓮如上人の指南によって本願寺派では聖教とみなされている。


注9 聴聞、信前の念仏については、それぞれ以下の記事を参照。

・聴聞について・・
 §7 聴聞(何を「聞く」のか?)
 §8 なかなか信心獲得できない人のために・・

・信前の念仏について・・
 §15 所謂「信前の念仏」について


注10 以下の法然上人の言葉を、勝手に改変しないでそのまま受け取るべきである。

 現世を過ぐべき様は、念仏の申されんかたによりてすぐべし。
 念仏の障りになりぬべからん亊をば、厭い捨つべし。
 一所にて申されずば、修行して申すべし。
 修行して申されずば、一所に住して申すべし。
 ひじりて申しされずば、在家になりて申すべし。
 在家にて申されされずば、遁世して申すべし。
 ひとり籠もり居て申されずば、同行と共行(ぐぎょう)して申すべし。
 共行して申すされずば、ひとり籠もり居て申すべし。
 衣食(えじき)適(かな)わずして申されずば、他人に助けられて申すべし。
 他人の助けにて申されずば、自力にて申すべし。
 妻子も従類も、自身助けられて念仏申さん為なり。
 念仏の障りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。
 所知所領(しょちしょりょう)も、念仏の助業ならば大切なり。
 妨げにならば、持つべからず。
『勅伝』巻四十五、「十二問答」


(訳)
 この世を生きていく方法は、お念仏が申せるように過ごしなさい。
 お念仏の妨げになると思われることは、やめなさい。

 一カ所に定住しながらでは念仏が申せないのであれば、諸国を行脚しながら申しなさい。
 諸国を行脚しながらでは念仏が申せないのであれば、一カ所に定住して申しなさい。

 出家者だから念仏が申せないというのであれば、在家者になって申しなさい。
 在家者だから念仏が申せないというのであれば、世俗を離れて申しなさい。

 一人でひきこもってでは念仏が申せないというのであれば、
 志を同じにする仲間(同行)と一緒に申しなさい。
 人と一緒では念仏が申せないというのであれば、一人でひきこもって申しなさい。

 衣食などの生計が立ちゆかなくなって念仏が申せないというのであれば、
 他の人に助けてもらいながら申しなさい。
 他の人に助けてもらっていては念仏が申せないというのであれば、
 自分で生計を立てて申しなさい。

 妻や子がいることも、一族や家来、付き従う者がいるということも、
 自分がその人たちに支えられながら、念仏を申すためなのである。
 それが念仏申すことの妨げになるのであれば、決して持ってはいけない。

 領地を修めるということも、それが念仏申すことの助けになるのであれば大切である。
 念仏を申すことの妨げになるのであれば、領地を持つべきではない。


この御法語は、

「死後、極楽浄土に往生することに関しては、
 阿弥陀様の本願を信じてお念仏申せば、間違いなく往生できるとわかりましたが、
 この世で生きている間はどのように生きたらよろしいのでしょうか?」

という質問に法然上人がお答えになったものである。


注11 なお、法然上人が「持戒の行」「孝養の行」を勧めておられる言葉があるが、「持戒の行」「孝養の行」は「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、「念仏の行」は「阿弥陀仏の本願の行」なので最優先に勤めるべきものである、と教えておられていることに注意しなければならない。

●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
  女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。
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comment

Secre

親鸞会のネット対策員様へ

親鸞会のネット対策員様、お仕事ご苦労さまです。『清森問答』のコメントにも書かせて頂きましたが、下ネタで荒らすのは、もう止めてください。お願いします。

No title

>黒田君(ipbf003-065.kcn.ne.jp)
下劣極まりないゴミのような書き込みなので、
ブラックリスト登録&削除&ID晒し者の刑に処す。

今回は「清森問答」にも同文の書き込みのようであるが、
そのような行為をすることが、
ますます某会の品性が疑われる結果を招くことは、
「親鸞会のネット対策員様へ」さんのコメントからも明かである。

No title

>親鸞会のネット対策員様へさん
「指示があった」との証言など、確たる証拠はありませんので、
現時点では「疑惑」なのですが、まあ、九十九%以上の確立で「対策員」の仕業でしょうな(苦笑)。

黙って削除するのもつまらないので、
毎回気の利いたコメントをつけて晒し者にするつもりです。

それにしても品性も知性も、全くかけらもあったもんじゃありませんよね(苦笑)。

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

No title

>管理人のみ閲覧できますさん
ご指摘のミスタイプ直しておきました。汗

毎回、一気呵成に書きますもんで、
見直ししてても、ミスタイプがあるんですよ~。

退会後も親●会の後遺症は深刻で、
ものすごい大変なんやろうなと思いますが、

親●会をご縁にして、親鸞聖人と出会い、
更にはこうして法然上人にも出会えたことを、
嫌な思いを吹っ飛ばすぐらい、
喜べる人になって頂けたらと思っております。

それが、本当の意味での「親●会卒業」に、
なるんじゃないかなと思っております。
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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