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『涅槃経』なんて読んでるわけないじゃん(苦笑)。

高森先生の親鸞会教学を検証する 「高森先生ほどの方が、涅槃経を読まれたことがなかったのでしょうか」 より

教学聖典(2)

問(1)地獄へ堕つる者は多く、人間に生まれる者は極めて少ないことを教えられた経文と根拠を示せ。

答(1)

○地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
 人間に生れる者は爪の上の土の如し
 (涅槃経)


はぁ。涅槃経のどこにそんな御文があるのでしょうか?
ぜひとも涅槃経の現物を持ってきて、示して頂きたいのですが。
あるいは大きな図書館に行って、涅槃経の何品にこの御文があるのか教えてください。

これは涅槃経を根拠としたものではないでしょうね。
おそらく高森先生は、源信僧都の往生要集のお言葉を勝手に改変して使ったのだと思います。

源信僧都は、往生要集の中で、涅槃経を意趣を汲み取って書き換えて使っておられます。
それが、以下のお言葉です。

ゆゑに『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、
「人趣に生るるものは爪の上の土のごとし。 三途に堕つるものは十方の土のごとし」と。
(『往生要集 巻上』)


はい、ここでしっかり、『涅槃経・意』とありますね。
ちなみに教学聖典には、根拠は『涅槃経』とありますが、ほんと涅槃経のどこにあるんですか、そんな言葉。

しかも、源信僧都のお言葉は、三途(三悪道)に堕ちる者はたくさんいる、ということであって、
地獄へ堕ちる者は十方世界の土の如しとはおっしゃっていません。
この時点で、悪質な改変が既にあります。

さらに、源信僧都が参考にされた涅槃経の原文を、私も市で一番大きな資料館に行って、
一切経のコーナーから探してきましたよ。
結果見つかりました。コピーが手元にありますから、欲しい人は言ってください。
かくして私は次のように思いました。

「高森先生、高森先生まで、そんな悲しいことを仰有るのですか。
高森先生ほどの方が、涅槃経を読まれたことがなかったのでしょうか」(声:玉日姫)

なぜか。ここから先を読んでもらえば判ります。

↓以下、涅槃経の御文

(涅槃経巻第三十三・迦葉菩薩品第十二の一)

爾の時に世尊、地の少土を取りて之を爪上に置き、迦葉に告げて言はく、
「是の土多きや、十方世界の地の土多きや。」
迦葉菩薩、佛に白して言さく、
「世尊、爪上の土は十方の所有の土に比せざるなり。」
「善男子、人の身を捨てて還て人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くるを得、
諸根完具して中國に生れ、正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已りて能く解脱を得、
解脱を得已りて能く涅槃に入る有るは、爪上の土の如く、
人身を捨て已りて三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、
諸根具せず、辺地に生じ、邪倒の見を信じ、邪道を修習し、解脱、常・楽・涅槃を得ざるは、
十方界の所有の地土の如し。
善男子、禁戒を護持して精勤して惰らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧祇物を用ひず、
一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは、爪上の土の如し。
毀戒懈怠、四重禁を犯し、五逆罪作り、僧祇物を用ひ、一闡提と作り、諸の善根を断じ、
是の経を信ぜざるは、十方界の所有の地土の如し。
善男子、如来は善く衆生の是の如き上・中・下根を知りたまふ。
是の故に佛は知根力を具すと称す。」

(口語訳)

その時に釈尊が大地の少しの砂を取って、これを爪の上に置いて、迦葉菩薩に告げて、
「この土が多いか、十方世界の地の土が多いか」と言った。
迦葉菩薩は釈尊に「世尊よ、爪の上の土の少なさは十方にある土の多さに比べられません」と申し上げた。
「善男子よ、人が死んだ後、再び人身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、人身を受けることを得て、
もろもろの感覚器官が完全に具わって、仏法の中心地に生まれ、正しい信心を具足して、
道を習得し、道を習得しおわって、なかでも正しい道を修行し、正しい道を修行しおわって解脱を得て、
解脱を得おわって涅槃に入ることは爪上の土のように少ないのである。
人が死んで後、三悪道の身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、再び三悪道の身を得て、
もろもろの感覚器官が具わらず、仏法の中心地から遠い辺地に生まれ、邪(よこしま)で傾倒した思想を信じ、
邪な道を修得し、解脱を得ず常楽の涅槃を得ないことは十方世界にある地上の土のように多いのである。
善男子よ、戒律を護り、精進し、四重の罪を犯さず、五逆罪を犯さず、教団に属する財物・物資を勝手に使わず、
闡提とならず、善根を断たずに、経典を信じる者は、爪の上の土のようなものである。
懈怠であり、四重の罪を犯し、五逆罪を犯し、教団の財物を用い、闡提となり、善根を断じて、
経典を信じない者は、十方世界の土のようなものである。
善男子よ、如来はよく衆生にこのように上・中・下があることを知っている。
だからこそ仏は知根力を具えていると言うのだ」


全然違うじゃないか~!!

涅槃に入る者は爪の上の土の如く、
涅槃に入れない者は十方世界の土の如し

が原文の意味じゃありませんか!


仏法を、親鸞聖人の教えを正しく伝えるのが使命といいつつ、
全然如来の教法と違うじゃありませんか。

高森先生!一体どこまでこんな悲しいことを仰有れば気が済むのですか!?

まだ教学聖典は、1号と本願成就文がやっと終わったばかりなのに・・・




『涅槃経』なんて読んでるわけないじゃん(苦笑)。

ついでに『般舟三昧経』も絶対に読んでません。
 ↓ ↓ ↓

親鸞会教義の相対化・31 より

【5】『会報』vol.2p.161~信忍(4)

>>>
釈迦一代四十五年間の教えは、阿弥陀佛の本願を説くにあったことは、前号に於いてほぼ明らかにした。
故に、一切経は弥陀の本願におさまり、弥陀の本願によらねば一切の人々は救われることは絶対にないのだ。
釈迦はこのことを『般舟経』に於て、「三世諸佛、念弥陀三昧成等正覚」(三世の諸佛は弥陀三昧を念じて等正覚になる)と説いている。
三世の諸佛というのは一切の佛をいい、弥陀三昧を念じてとは、阿弥陀佛の御力によってということである。
等正覚に成るとは、佛になれたということだ。
つまり三世の諸佛でさえ弥陀三昧によって始めて成佛するのだから、一切の人々は阿弥陀佛の本願によらねば、絶対に助からんのは勿論である、と仰言るのである。
釈迦も三世の諸佛の中の一人であるから、釈迦の本意は弥陀の本願を説くにあったこともまた当然である。
>>>


残念ながら「三世諸佛、念弥陀三昧成等正覚」という言葉は、『般舟三昧経』にはありません。

おそらく、

また『般舟経』にのたまはく、「三世諸仏念弥陀三昧成等正覚」とも説けり。
『口伝鈔』浄土真宗聖典p.899

という覚如上人の言葉に基づいて、典拠を確認しないまま引用してしまったのではないかと思います。

余談ですが、西本願寺で出されている浄土真宗聖典では、「『般舟経』(意)」と書かれていて、覚如上人の引用の誤りがきちんと踏まえられています。


最後に、『般舟三昧経』の古層部分と言われている行品に対応するチベット訳の和訳を紹介させて頂きます。

バドラパーラよ、現在諸仏面前立三昧(般舟三昧)とは何であるか。
バドラパーラよ、比丘であれ、比丘尼であれ、優婆塞(在家の男信徒)、優婆夷(在家の女信徒)であれ、戒を完全に行じている者は、一人で閑静な所に行って座って、
「世に尊き(世尊)、如来、供養にあたいする(応供・阿羅漢)、正しく完全にさとられた(等正覚)かの阿弥陀(無量寿)仏はどの方向に住み、時を過ごし、とどまり、教えを説いておられるのか」
という思いを起こさねばならない。
彼はいままでに教えられたように、「この仏国土より西の方角に、百千コーティの仏国土を経たところにある、スカーヴァティー(極楽)という世界にかの世尊・如来・応供・等正覚なる阿弥陀仏が現在、菩薩たちの集まりに囲まれ、仕えられ、時を過ごし、とどまり、教えを説いておられる」と億念し、そして散乱しない心を如来に集中する。

バドラパーラよ、たとえば、男にせよ女にせよ、誰かが眠っている夢のなかで、物の形を見るとしよう、銀とか金とか、友人、同族、親戚、仲間、快いもの、愛ししもの、愉快なものなどを見て、彼は夢で彼らとともに遊び、喜び、娯楽し、話し、雑談する。
夢から覚めて、彼は[夢で]見たり、聞いたり、考えたり、知ったり、語ったり、雑談したりしたことを、他の人たちに告げる。
彼は夢の有り様を思いだして涙を流すであろう。

ちょうどそのように、バドラパーラよ、在家であれ出家であれ、菩薩は、ひとりで、閑静なところに行って座り、教えられたように、如来・応供・等正覚なる阿弥陀仏に心を集中する。
戒律の諸要素において過失なく、億念に乱れなく、一日一夜、二、三、四、五、六、七日七夜、心を注ぐ。
もし彼が七日七夜、心に散乱なく、阿弥陀仏を億念するならば、七日七夜を満たしたのちに世に尊き阿弥陀仏を見るのである。
たとえ彼が世尊を昼間に見ないとしても、眠って夢を見ているあいだに、世に尊き阿弥陀仏はその顔を彼に示すのである。
(浄土仏教の思想二pp.269-270)


「般舟三昧」の原サンスクリットは、『般舟三昧経』のチベット訳に記されている梵名から、

pratyutpanna(現在)-buddha(仏)-saMmukha(面前)-avasthita(立つ)-samAdhi(三昧)

であることがわかり、このサンスクリット複合語は、

1)「現在諸仏の面前に立つひと(行者・菩薩)の三昧」
2)「(菩薩あるいは行者の)面前に現在諸仏が立つ三昧」

という二つの読みができますが、いずれにしても、諸仏を面前にする三昧で所謂「見仏」であり、これによって「空」を感得し、最終的に覚りに至るのが『般舟三昧経』の中心テーマです。

高森先生がお書きになられたようなことは、『般舟三昧経』には書かれていません。



西本●寺の『浄土真宗聖典』は典拠を確認してるから、

「『大経』(大般涅槃経・意)」
「『般舟経』(意)」

って、丁寧に書いてあるのよね。

これを確認してれば、ツッコミいれられずにすんだのに、
残念やったね(笑)。



今からでも遅くないから、
西本●寺の『浄土真宗聖典』をチェックして、
間違いを訂正した方がええで(苦笑)。

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Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
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※私にメールで質問してもエエけど、
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