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ツッコミ!【第5回】田中氏の主張メール(2)

第5回がアップされました。
 ↓↓↓
【第5回】田中氏の主張メール(2)
http://shinjin.info/2008/08/180830140.html

・・・。

まあ、あいかわらずですね(苦笑)。

正直、いい加減めんどくさいんだけど、
放置しておくといろいろ害があるんで、
ボコボコいきまっせ(笑)。


◆平成20年4月2日のメール
もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。

やっぱ、田中さんにボコボコにされた部分は削除ですな(苦笑)。
というか、あんたは田中さんに抗議されてるんでっせ(苦笑)。


>『本願成就文』で開顕されているのは、本願文の「至心信楽欲生我国」の八字だけのことですか。それとも『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ですか。お尋ね致します。
 
 
 もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。
 
 貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?
 異論がなければ、そのように受け取ります。
 
 
 
>また貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と仰っていますが、その文証を示して下さい。
>今まで貴方の挙げられた文証は、『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない』という根拠にはならないことは、先便で縷々明らかにした通りです。
 
 
 すみませんが、どこの部分のことでしょうか?
 そのような文章は、どこにも見当たりませんでした。
 
 前回のメールで、極楽浄土に生まれる以外の意味がないことは、誰にでも分かるように明らかにしました。それに対する、何の反論もありません。
 
 すでに貴方は、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない』と認められたのですから、今さら何を仰るのかと思います。
 
 
 
>また返答がないと言われているが、当方は「若不生者不取正覚」の「生」に不体失往生の意味もあることを、「本願文」では「若不生者不取正覚」にあり、「本願成就文」では「名号」の働き「即得往生住不退転」で示し、だから『願成就』には、死後のことは説かれてないことや、その外「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」など、親鸞聖人のお言葉ばかりを提示してきたのに、なにを今更おっしゃるのだと言いたいことです。
 
 
 私は3月16日に以下のように書きました。
 
>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>> 
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>> 
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。
 
 
 これに対して、「有る」とも「無い」とも、まったく返答がありませんでした。
 つまり、これは「無い」という返答です。
 こんな最近のやりとりを、もう忘れられたのですか?
 
 もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
 議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
 仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?
 
 
 
>だが貴方は、それらの根拠は「若不生者」が「信楽を獲られる」という意味となるという根拠にならないと、論証してきたと仰った。いつ何処で、どのように論証されたのでしょうか。大切なところですから愚鈍な者にも分かるように、もう一度お手間かけたいと思います。論証して下さい。
 
 
 何回でも論証いたしましょう。
 
 しかし、貴方も同意された通り、今は双方の主張を確認する作業を優先して進めております。
 
 まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?
 
 貴方の主張が明らかになりましたら、一つ一つ、改めて論証いたしましょう。
 
 
 
>いまだに貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と主張されますが、
>「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証)
>「真に知らされた! いま弥勒菩薩と同格(信楽)になれたのは、弥陀の誓願不思議によってのほかはない。弥勒は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりが得られぬのに、私は死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」と、親鸞聖人は慶喜されていますが、「真に知んぬ」と知らされたのは、「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってではありませんか。これを弥陀の本願の現益というのでしょう。
 
 
 親鸞聖人が「まこと」と知らされた「本願」の内容は、まさに「私が死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」という内容です。
 
 つまり、これは、「若不生者不取正覚」によって、死ぬと同時に仏のさとりが得られるということであって、私の主張を裏付ける根拠です。
 
 
 
>「今生は、正定聚に生まれさせ」「死んでは、極楽に生まれさせる」のが、「若不生者」の誓いではありませんか。「死んで極楽に往生させる」ことのできるものが、なぜ「今生で往生させる」ことができないのか。「死んで極楽に生まれさせる」ことができるのなら、「今生で生まれさせる」ことができるのが当然でしょう。
> 
>「若不生者のちかい」によって、浄土へ生まれる(体失往生)は結果です。信楽に生まれる(不体失往生)という原因なくして、浄土往生という結果は絶対にないのです。
>「若不生者不取正覚」の本願力が、「信楽に生まれさせる」ことに懸かっていないという主張は、浄土往生の正因が「信楽」であると言う、親鸞聖人の「信心正因」の教えを否定することになるのです。
 
 
 「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?
 
 あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?
 
 
 
>> これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
>> 
>> 異論がなければ、上記の意味だと判断します。
 
 
 なお、上記については、異論がありませんでしたので、貴方の主張は、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」だと明確になりました。
 
 
 
>> 貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
>> 
>> そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
>> その点、貴方の主張を確認いたします。
 
 
 これも異論がありませんでしたので、貴方の主張では、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだということが明確になりました。




◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
◆平成20年4月17日のメール
教行信証のどこにも、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証が存在しないということが、私の主張を裏付ける文証です。
◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとはどういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。
◆平成20年4月17日のメール
『本願成就文』そのものには、死後のことは説かれていないと考えて良いと思います。
◆平成20年4月17日のメール
名号に、死後、極楽に生まれさせる働きがあります。

田中さんの文を変な所で分断するのやめてくれません(苦笑)。
田中さんの発言をヘンテコなものに印象操作するつもりやろ!こら!(苦笑)


>(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
>   かれている処」がありますか。
 
 名号に、死後、極楽に生まれさせる働きがありますので、無関係ではありませんが、『本願成就文』そのものには、死後のことは説かれていないと考えて良いと思います。
 
 
 
>(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
>   の主張の文証を挙げて下さい。
 
 
「私の主張」は、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証は存在しない、という主張です。
 
 まず、私の主張をよく理解してください。
 
 それ以外のことを、私の主張だと思っておられるなら、上記が私の主張ですので、よくよく覚えておいて頂きたく思います。
 
 私が「若不生者」の「生」を「極楽往生のみ」と言っているのは、親鸞聖人が解釈されている文章が、「極楽浄土」しか見当たらないという意味です。
 
 ですから、教行信証のどこにも、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証が存在しないということが、私の主張を裏付ける文証です。
 
 
 
>(3)先便で貴方は、『「本願成就文」を、
>   「本願文」三十六文字の総てを解説さ
>   れたものという考えには反対です』
>   と仰った。
>   それでは『本願成就文』は、「本願
>   文」のどこまでの解説で、「本願文」の
>   どの部分が解説に入らないのか、とお
>   尋ねしています。
 
 
 何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
 
 本願成就文は、信心をえるとはどういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対だという意味です。



というか、あらためて無視された質問を列挙した所は、
最初からなかったことにしてますな(苦笑)。


>貴方の質問には、総てお答えしてきたはずです。なのに、何一つ質問に答えず無視していると貴方が仰るのは極めて心外です。どんな質問に答えていないのでしょうか、箇条書きにしてお知らせ下さい。重ねてお答え致します。
 
 
 本気で仰っておられるのでしょうか?
 殆どの質問を無視しておられながら、本当に自覚が無いのでしょうか?
 
 ついでですが、「何一つ」とは書いていません。
「メンタルテストです」という返答を頂いたことは、よく覚えています。
 
 私の書いたことを勝手に書き変えることも、何度も抗議しましたが、それも無視されているようです。
 
 
 
 貴方が箇条書きにせよと仰いますから、今まで無視された質問を列記しておきます。
 
 これは、直後の返信において無視されたものを列記しましたので、その後、催促して返答を頂いたものも、一部ですが含まれています。
 
 日付も明記してありますから、詳しい質問内容は、過去のメールで確認して頂ければと思います。
 
 これには、きちんと返答したと言われるなら、返信メールの何行目に書かれているか、明記してください。
 
 
 
 重複する質問もありますし、あまりに数が多いですから、1つずつ、お尋ねしたいと思います。

(中略)

※以下、過去のメールの引用
 
(11月21日)
すみませんが、このビデオは素人の集まりで作ったものなのでしょうか?私には、そのように思えませんが。
 
 
(11月24日)
1.不体失往生とは、至心信楽を「えた」ことである。
2.「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということである。
 上記2点については、異論が無いということで宜しいでしょうか?
 
 
(11月27日)
 「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということに異論は無いということで宜しいでしょうか?
 
 
(11月28日)
「前提とされても結構です」と仰るのは、貴方としては認められないという意味にも取れますよ。なぜ「異論はありません」と書けないのですか?
 
 
(12月6日)
 つまり、貴社の見解は「若不生者の『生』には、生きている時に『信楽をえる』という意味もある」ということでしょうか?
 
 
(12月10日)
「死んで極楽に生まれることのみ」ということに異論があるということは、それ以外の解釈があるという御意見ですが、どんな解釈でしょうか?
 
 
(12月15日)
 私は、貴社の解説書は、御指摘した部分以外は、正しく記述されていると思っておりましたので、先便のメールのように書きましたが、実は何の根拠もなく書かれていたのでしょうか?
 
 
(12月15日)
 一度も尋ねられた覚えはありませんが、私は「信楽をえた」身ではありません。山田様は、いかがですか?私はお答えしましたから、山田様もお答えください。
 
 
(12月20日)
 しかし、私は、貴社から「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、という根拠を、いただいておりません。親鸞聖人の御言葉でお示しください。
 
 
 
(12月21日)
>次に、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のこと、と言われている「摂取不捨したもう」とは、「無善造悪の凡夫」の、どこが、どう変わるのか、何も変わらないのでしょうか、お尋ね致します。
 
 これは、「信楽をえた」山田様が、「信楽をえていない」私に教授しなければならない内容と思います。どうぞ御解説ください。
 
 
(12月21日)
「若不生者」は、「死んで極楽に生まれるということだけのことである」という記述が無ければ、「死んで極楽に生まれるという以外の解釈がある」という意味になるのですか?
 
 親鸞聖人が「強盗をしてはならない」と書かれていなければ、強盗をしても構わない、という意味になるのですか?
 
「リンゴ」と書かれたダンボールを見て、「リンゴだけ」と書いていないから、ミカンも入っていると考えるのでしょうか?
 
 
(12月21日)
>「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、親鸞聖人のお言葉を、まだいただいておりません、と田中様は言われていますが、既に、提示してはいるのですが、本願を疑っていられる方には届かないのかもしれません。しかし、その内、必ず分かって頂けるものと強く期待しています。
 
 再度、貴社からのメールを読み直しましたが、どこにも見当たりませんでした。申し訳ありませんが、親鸞聖人のお言葉の部分だけを、再度、ご提示ください。
 
 
(12月24日)
 貴社からのメールは、私の書いたものを全く無視しておられるから、返信する気が失せると、再三、申し上げていますが、わざと無視しておられるのですか?
 
 
(12月24日)
 親鸞聖人は、信楽をえた人が、極楽浄土に生まれることが「若不生者」の「生」だと教えられています。「若不生者」の「生」に、それ以外の意味があると主張されたいなら、その根拠をお示しください。
 
 
(12月24日)
 再三再四、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」以外に解釈された根拠をお尋ねしているのに、無視ではないということは、「根拠が無いので答えられない」ということですね?
 
 
(12月26日)
>次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。
 
 つまり、上記のような疑問を起こされている山田様の心を、自力の心と言うのですね。
 
 
(12月26日)
>『「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれる」ことだけだと思っている心』も、みな「自力の心」というのですよ。分からなければ最も大事なことですから何度でも答えましょう。
 
 このようなことを親鸞聖人が、どこに教えられているでしょうか?
 根拠を示してください。
 
 
(12月27日)
>「至心信楽の誓」とは、「雑行雑修自力の心」を切り捨てて、「至心信楽」に生まれさせることができなければ、この弥陀は正覚を取らぬ、という誓です。
 
 根拠の無い、独自の解釈ですね。そんなことを、親鸞聖人がどこに書かれていますか?
 
 
(1月8日)
 もし、「極楽浄土に生まれる」という意味だけしかない、ということに異論があるのであれば、親鸞聖人の御言葉を示してください。
 
 
(1月14日)
「若不生者の念力」という言葉は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?貴方の作った言葉でしょうか?
 
 
(1月14日)
「死んで極楽に生まれる」ことができるのは、「信楽をえた人だけ」でしょうか?
 それとも、「信楽をえていない人も含めて全員」でしょうか?
 
 
(1月17日)
>「若不生者の念力」によってのみ「信楽」が「生まれ」、「信楽」が「生まれた人のみ」が「死んで極楽に生まれる」ことが出来る。これが親鸞聖人の教えではありませんか。
 
 そんなことを、親鸞聖人が、どこに書かれていますか?
 
 
(1月19日)
あなたは、必然的に極楽に生まれられるから、正覚をかける必要は無いと言いたいのですか?
 
 
(1月19日)
 弥陀が「信楽に生まれられる」と正覚をかけておられるなら、「必然的に信楽に生まれられる」ことになりますが、必然的に信楽になれるのに、なぜ「獲ること難し」を言われているのですか?
 
 
(1月20日)
 私が、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違うと、いつ書きましたか?
 貴方の作った言葉の意味など、私が知るはずもありません。
 ですから、同じとも、違うとも書いた覚えはありませんが、何月何日のメールのことか、お示しください。
 
 
(1月22日)
 貴方の主張は、「阿弥陀仏が、必ず極楽に生まれさせると誓われなくても、信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」ということですか?
 
 
(1月22日)
『その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。』
 上記は、貴方の言葉ですが、何に全力を尽くすのですか?
 
 
(1月22日) 
「阿弥陀仏が、必ず信楽に生まれさせると誓っておられるから、必然的に信楽になれる」と主張されているのは、貴方ではありませんか?
 
 必然的に信楽になれるのなら、なぜ「難し」と言われるのでしょう。
 
 
(1月22日)
 つまり、「若不生者」は「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」という意味だと、認めたということですか?
 
 
(1月22日)
 私が、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言ったという根拠を、早く示してください。
 
 
(1月25日)
親鸞聖人が、「若不生者」の「生」は「信楽をえる」ことだと言われた文章を示してください。
 
 
(1月29日)
 貴方は「信楽をえた」と自称されますが、仮にそうだとすれば、信楽を得られるまでは、弥陀の本願を疑っていたはずです。貴方は、信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従っていなかったのでしょうか?
 
(1月29日)
 信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従う必要がないのなら、誰に対して、親鸞聖人は教えを説かれたのでしょうか?
 
 
(1月29日)
 親鸞聖人の書かれた文章に対して、「間違った文法も、へちまもあるはずない」と仰るのですか?

(1月29日)
貴方が、「若不生者の念力」という単語を知っておられるなら、どの聖教に書かれている言葉か、教えて下さい。

(2月2日)
「若不生者」の「生まれる」の解釈について、「親鸞聖人のお言葉に従う」と書いたのが、いつの間に「親鸞聖人の教えに信順する」に変わったのですか?
 
 
(2月2日)
 つまり、貴方の意見だと、信楽をえた人以外は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と言ってはならないということですね。
 
 
(2月8日)
 その前に、貴方の立場を確認させて頂きますが、貴方は「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだという主張で宜しいですね?
 
 
(2月8日)
>「本願文」に「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だとハッキリ誓われているではありませんか。
 どこにハッキリと誓われていますか?
 
 
(2月8日)
 私が、いつ『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と書いたでしょうか?
 
 
(2月8日)
 この文章を、どのように理解したら、『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』に、なるのでしょうか?
 
 
(2月8日)
「本願文での根拠」についても、わざわざ尋ねられる程ですから、根拠をお持ちのはずです。
 特に、私は「本願文での根拠」は知りませんので、あるなら教えて頂きたく思います。
 
 
(2月15日)
 貴方は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と「親鸞聖人の教えに信順する」は違うという認識なのですね。
 
 
(2月15日)
 私の主張を、勝手に変更したことは認められたようですが、何の反省も、謝罪も無いのでしょうか?
 
 
(2月15日)
 親鸞聖人が、どこに「我々が不体失往生できるのも、現生に不退転の身になれるのも、平生に業事成弁できるのも」、「若不生者という力」であると記述されているでしょうか?
 
 
(2月15日)
 私が『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』と何月何日に書いたか、根拠を挙げて頂きたく思います。
 
 
(2月15日)
 また、「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、貴方の返答を頂いておりません。
  
 なぜ、無視し続けられるのですか?
 貴方が作った質問ですよ?
 分からないのなら、「分かりません」と答えるべきだと思います。
 
 
(3月8日)
このように、相手の主張を摩り替えるやり方にも、何回も抗議してきたと思いますが、改善するお気持ちはないのでしょうか?
 
 
(3月8日)
『「若不生者不取正覚」の「生」の意味は、』という主語を、何のために削除されたのでしょうか。この部分があると、何か都合が悪いのでしょうか?
 
 
(3月8日)
「若不生者不取正覚」の「生」に、「信楽」に「生まれさせる」という意味があるのですか?
 
 
(3月8日)
「若不生者不取正覚」の「生」は、「極楽浄土」であって、「極楽浄土」に生まれさせるためには、信楽をえる必要があるから、結果的に、信楽にも生まれられると仰いたいのですか?
 
 
(3月8日)
『「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だ』という意味の内容を明言された親鸞聖人のお言葉は…

(3月16日)
 私は2月15日に、「若不生者不取正覚という力」と書き換えることを、明確に否定しました(以下に引用)。にも関わらず、何度も「若不生者不取正覚という力」と、こだわるのは何故でしょう。私の文章を、読んでおられないのでしょうか?
 
 
(3月16日)
「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていないから、「若不生者」は生きている間だと言われたいのでしょうか?
 だとすれば、「若不生者」の「生」には、死後のことは一切含まれないということになりますが、そういう主張ですか?
 
 
(3月16日)
「若不生者」は「信楽に生まれさせる」という意味だと、どこにも説かれていないからです。あったらお示し下さい。
 
 
(3月16日)
 弥陀の十八願の約束が果されるのは、「信楽をえた時」ですか?「極楽往生した時」ですか?
 
 
(3月16日)
 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
 有るのか、無いのかだけで結構です。
 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
 
 
(3月24日)
 上記の文章では、どの部分が主張で、どの根拠が対応しているのか判りません。明確にして頂きたく思います。
 
 
(3月24日)
 これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
 
 
(3月24日)
 貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
 
 
(3月24日)
 あと「開闡」を、どのような意味で使っておられますか?
 
 
(3月24日)
 貴方は、部下にボールペンを買いに行かせるときに、「ボールペンだけ買ってこい」と言われるのですか?
 貴方の会社では、「ボールペンを買ってこい」と言われたら、肉まんも買ってよいという意味になるのですか?
 
 
(4月2日)
 貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?
 
 
(4月2日)
 もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
 議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
 仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?
 
 
(4月2日)
 まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?
 
 
(4月2日)
 「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?
 
 
(4月2日)
 あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?



◆平成20年5月25日のメール
親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

田中さんが親鸞聖人の言葉を根拠に挙げて論証している部分は、
しっかり削除してますね(苦笑)。
よほど都合が悪いんでしょうね~(苦笑)。


 そもそも貴社の誤りは、不体失往生の根拠として、「若不生者不取正覚」の八字を使ったことでした。
 
 親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは本願成就文の「即得往生住不退転」の八字です。
 
 ビデオの製作者は、本願成就文も、本願文も同じようなものだから、どちらでも良いだろうと思われたのかも知れません。
 
 もし私が製作者だったら、迷わず「即得往生住不退転」を使ったでしょう。
 
 
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠として、「若不生者」ではなく、「即得往生」を使われた文章を紹介します。
 
 
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。→唯信抄文意
 
 即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。→愚禿抄
 
 
 
 当然ながら、体失不体失往生の根拠とされる、口伝抄に描かれている法然上人のお言葉も「即得往生住不退転」の八字を出されており、「若不生者不取正覚」はどこにもありません。
 
 親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
 
 ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。
 
 
 
 確認事項に答えるまでもなく、貴方の返答から、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ということが、自ずと明らかになりました。
 
 しかし、仮に、「若不生者不取正覚」に不体失往生の意味があると誤解していたとしても、親鸞聖人の説き方を理解されていれば、迷わず、「即得往生住不退転」の八字をビデオで描いていたでしょう。
 
 親鸞聖人が不体失往生を論じられる時は、常に「即得往生住不退転」を根拠とされたのですから。
 
 
 
 この場面で、「即得往生住不退転」ではなく、「若不生者不取正覚」を思いついたというのは、ビデオ製作者の勉強不足であって、貴方の責任では無かったのかも知れません。
 
 貴方は、本願成就文の重要性は理解されているようですので、ビデオ製作者に伝えておいていただきたく思います。




◆平成20年6月4日のメール
私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。
◆平成20年6月4日のメール
浄土真宗で「至極」と言われる教えは本願成就文しかありません。それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです。

「というわけで、チューリップ企画は間違いである」
と言われている部分は削除ですね(苦笑)


あと、チューリップ企画は、以下の文章を、
上記と離した場所(下から二番目)に配置していました。
田中さんは一つの論理展開として文章を書いているのに、
それをぶつ切りにしたものを「田中氏の主張」として挙げるのって、
何か作為があるとしか思えないんですけどね~(苦笑)。


◆平成20年6月4日のメール
「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総べてを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。

前回のメールで、私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。
 
 貴方の返信は、私の主張を全面的に支持する内容でしたので、ようやく結論が出たものと思います。
 
 
 
 貴方も認められたように、浄土真宗で「至極」と言われる教えは本願成就文しかありません。
 
 それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです。
 
 だから親鸞聖人は、不体失往生を語るとき、常に「本願成就文」を根拠とされ、「本願文」を根拠とされたことはありませんでした。
 
 
 
 ビデオ製作者の方は、その浄土真宗の常識を知らず、「若不生者不取正覚」を不体失往生の根拠としてしまうという誤りを犯されました。
 
 浄土宗の開祖を間違えられるような方ですから、不勉強だったのかも知れません。ビデオ製作のプロでも、仏教のプロとは限りませんから仕方ないことだと思います。
 
 貴方から、本願成就文の重要性を、そのビデオ担当者に、よくよくお伝え頂きたく思います。
 
 
 
 親鸞聖人は、「若不生者不取正覚」を当益として解釈されています。これは貴方も認められたことです。
 
 その、「若不生者不取正覚」に誓われた当益が、本願成就文のどこに説かれているかという御質問ですが、本願成就文に死後のこと(当益)が説かれているかという御質問には、4月17日に既にお答え致しました。
 
 
 
「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総てを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
 
 ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。
 
 
 
 いずれにしましても、私のお尋ねしたかったことには結論が出ましたので、この件は終わりにさせて頂きたいと思います。




◆平成20年6月18日のメール
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。
◆平成20年6月18日のメール
なお、口伝抄では、不体失往生の根拠として「至心信楽」が使われています。本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、この言葉と考えるべきでしょう。

田中さんに「すり替え」を見破られてボコボコにいかれた部分はカットですね(苦笑)。
結局根拠を挙げれなかった部分もカットですね(苦笑)。


★すり替えですか?
 
 
>「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と、貴方は仰った。
>では、「不体失往生」の根拠は「本願文」にはないのですか。親鸞聖人の教えは「本願文」に根拠はないのですか。
 
 
☆不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではない。
 
 これがどうして、
 
☆親鸞聖人の教えは「本願文」に根拠はない
 
 
 このように変わってしまうのでしょうか?
 
---------------------------------------------------------- 
★以下は、反論がありませんでしたので、認められたのですね?
 
 
>>「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総てを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
 
>> ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。
  
----------------------------------------------------------
★以下は、返答がありませんでしたので、根拠なしと判断します。
 
 
>> 次に、善慧房証空が、「念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていく」と説いていた根拠についてもお聞きしたく思いますが、仕事は忙しさを増すばかりで、今までのように長々と議論をするつもりはありません。
 
>> 根拠があるなら、その根拠をストレートに挙げてください、無いなら無いと答えて下さい。曖昧な返答や、質問を質問で返すような返答の場合は、「無い」という返答だと判断して、それ以上議論するつもりはありませんので、悪しからずご了承ください。
 
----------------------------------------------------------
★以下は本文
 
 
>「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と、貴方は仰った。
>では、「不体失往生」の根拠は「本願文」にはないのですか。親鸞聖人の教えは「本願文」に根拠はないのですか。
 
 
 これは私が貴方に、何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、質問しても、貴方が最後の最後まで返答を断固として拒絶し、無視し続けられた質問です。
 
 親鸞聖人が『即得往生住不退転』を不体失往生の根拠とされたことは、反論の余地がないでしょう。
 
 では、『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
 
 
 まず、「ある」「ない」の2字で答えて下さい。
 あるならば、その文章も挙げて下さい。
 
 
 なお、口伝抄では、不体失往生の根拠として「至心信楽」が使われています。本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、この言葉と考えるべきでしょう。
 
 
 
>一体、『本願文』の「若不生者不取正覚」と、『本願成就文』の「即得往生住不退転」とは、どんな関係ですか、違った意味ですか。お尋ね致します。
 
 
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。
 
 貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。



◆平成20年6月20日のメール
不体失往生の根拠は「即得往生住不退転」と答えるのが適当ですが、あえて「本願文」で挙げよと言われた場合、「至心信楽」以外の言葉は見当たりません。

例によって、田中さんが『口伝抄』を根拠に発言していることはカットですね(苦笑)。

>この度、貴方は、
>『親鸞聖人の不体失往生の根拠を「本願文」で、あえて挙げよと言われるのであれば、口伝抄に、不体失往生の根拠として「至心信楽」が使われています。このお言葉と考えるべきでしょう』
>と答えられた。口伝抄の根拠を示して下さい。
 
 
 ビデオを製作する際に、口伝抄は読まれなかったのでしょうか?
 
『至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか。』
 
 
 何度も申し上げましたように、不体失往生の根拠は「即得往生住不退転」と答えるのが適当ですが、あえて「本願文」で挙げよと言われた場合、「至心信楽」以外の言葉は見当たりません。



◆平成20年6月28日のメール
「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。
◆平成20年6月28日のメール
貴方の根拠(「信受本願 前念命終(即入正定聚之数)即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)」『愚禿鈔』)は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません。

田中さんは『尊号真像銘文』を根拠に挙げて、ボコボコに論破してますやん(苦笑)。
これって、それがわからないようにする、せこい印象操作ですかいな(苦笑)。
やるなら、もうちょい上手にしてよ。バレバレでっせ(笑)。


★「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。
 
 
 尊号真像銘文には、以下のように記述されています。
 
『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。』
 
 
 つまり、「本願を信受する」=「至心信楽をえる」ということです。
 
 貴方の根拠は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません。
 
 
 さらに、尊号真像銘文は、以下のように続きます。
 
『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』
 
 
 至心信楽をえた人、イコール「即得往生」した人が、死んで極楽浄土に生まれるのが、「若不生者」の「生」だと断定されています。
 
 当然、「即得往生」=「若不生者」は成り立ちません。
 
 
 貴方が主張するように、「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになり、上記の親鸞聖人の記述は間違いということになります。
 
 
 つまり、貴方の提示された根拠では、「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈することは出来ません。




◆平成20年7月1日のメール
信楽をえさせるのは、何方のどんなお力かとお尋ねですが、阿弥陀仏の調熟・破闇光明の働きです。
◆平成20年7月1日のメール
親鸞聖人は、上記(「若不生者 不取正覚」というは、…」『尊号真像銘文』)のように、至心信楽をえた人(即得往生した人)が、死んで極楽往生するのが「若不生者」だと断定されています。

田中さんがチューリップ企画のロジックの矛盾をついた発言は、
当然ながらしっかりカットですね(苦笑)。

 

★今回いただいたメールでも、貴方の提示された根拠が「若不生者」を解説されたものではない、とお認めになられましたね。
 
 つまり、根拠は無かったと、お認めになったということです。
 
 
 
『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』
 
 
 貴方は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」することも、お認めになられました。
 
 親鸞聖人は、上記のように、至心信楽をえた人(即得往生した人)が、死んで極楽往生するのが「若不生者」だと断定されています。
 
★つまり、「即得往生」と「若不生者」はイコールでないことも、お認めになったということです。
 
★「本願文」は、「本願成就文」とイコールであり、死後のことは一切説かれていないという貴方の主張が、いかに間違っているか、この親鸞聖人の記述からも明白です。
 
 
 
 信楽をえさせるのは、何方のどんなお力かとお尋ねですが、阿弥陀仏の調熟・破闇光明の働きです。
 
 この程度のことも、ご存知ないのでしょうか?
 
 本題と関係ないことを、質問しないで頂きたく思います。




◆平成20年6月23日のメール
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
チューリップ企画が、『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』と、死後の往生を否定したことは明白です。

田中さんが、『「死後の往生」を否定するチューリップ企画』を論証したものなら、
更にいろんな根拠が挙げられている、6月28日のメールの方が適当ですよ(笑)。

というか、ボロボロですやん(苦笑)。


★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。(6月19日)
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
 
 
『親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
 
 
 
『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)
 
 
『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)
 
 
『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。





×以上、田中氏のメールである。

○以上、チューリップ企画が都合のいいように操作した、田中氏のメールである。

ですよね?(笑)

チューリップ企画さん!
言葉は正確に使わなアキマヘンで~(苦笑)。
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「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
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