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ツッコミ!【第4回】田中氏の主張メール(1)

第4回がアップされました。

 ↓↓↓

【第4回】田中氏の主張メール(1)
http://shinjin.info/2008/08/150830139.html

双方、それなりに時間と体力を費やして、阿弥陀仏の『本願』や釈迦の『本願成就文』、親鸞聖人の『教え』に就いての、田中氏の領解が明らかになった。以下、田中氏のメールを紹介することにする。

・・・

(次回に続く)




どうやら、意図的に操作した内容を「田中氏の主張」ということにして、

★田中さんの主張で的を得ている部分をなかったことにする。
★山田さんがボコボコに論破された部分をなかったことにする。

という、僕(苦笑)の予想通りの作戦のようですね(苦笑)。

でも、そういうことは頭の●い人や特殊な思考回路の人にしか通容しませんで~(笑)。
以下、チ●ーリップ企画がどういう卑劣な作業を行っているかを晒しますです



◆平成19年10月20日のメール
尊号真像銘文には
『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり』
と記述されています。
いずれも、「至心信楽をえた」者が極楽に生まれなければ仏に成らないという意味ですから、「若不生者」は、極楽に生まれなければ、という意味になります。
◆平成19年10月20日
また、唯信鈔文意には、
『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり』
と記述されています。
これも同様に、親鸞聖人は、若不生者を真実報土に生まれることと解釈されています。
本願についての解釈が親鸞聖人と異なってはならないと考えます。

親鸞聖人が不体失往生を主張されたことは口伝抄に明らかです。しかしながら、不体失往生とは、「至心信楽をえた」ということであって、「極楽に往生した」という意味ではありません

尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。

いずれも、「至心信楽をえた」者が極楽に生まれなければ仏に成らないという意味ですから、「若不生者」は、極楽に生まれなければ、という意味になります。

また、唯信鈔文意には『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』と記述されています。

これも、同様に、親鸞聖人は、若不生者を真実報土に生まれることと解釈されています。

ビデオにおける件の部分は、現生での救いを強調するための表現だと拝察しておりますが、本願についての解釈が親鸞聖人と異なってはならないと考えます。



「信楽」=「絶対の幸福」というヘンテコドグマを指摘されるのは都合が悪いのかな(苦笑)。
あと「死後の往生を否定する」もツッコマレルと困りますか(苦笑)。


◆平成19年12月2日
私が、いつ(「若不生者」の「生」を)、「死後、極楽へ生まれることだけ」と断定しましたでしょうか?

> 当方が何を聞いているのか、サッパリ分かりません、と仰いますので、いま一度申し上げます。
> 田中様が、「若不生者」の「生」は、死んで極楽に「生まれる」ことだと、死後、極楽へ生まれることだけに断定されていますので、「死んで、極楽へ生まれることのみのことでしょうか」、とお尋ねしたのです。
> まだ、ご理解頂けなければ、何度でも説明させて頂きます。


 相変わらず、こちらからの問いかけには無視でしょうか?
 立派なビデオを作っておられながら、担当の方がこのような非常識な態度を取り続けられることに、少々失望しております。


 上記のご質問については、最初に差し上げたメールに、以下のようにお書きした通りです。


>不勉強のためか、この若不生者の『生』を、この世で生まれると解釈している学説を聞いたことがございません。どのような根拠に基づいて、このような解釈をされたのか、お示し頂きたく思います。


 私が、いつ「死後、極楽へ生まれることだけ」と断定しましたでしょうか?

 少なくとも私は「生は極楽に生まれる」という学説しか聞いたことがありません。私が不勉強で知らないだけかもしれませんから、それ以外の学説なり根拠が存在するなら、お示し頂きたいと最初からお書きしている通りです

 失礼ですが、私の文章は、きちんと読んでいらっしゃるのでしょうか?
 無視されることが多すぎて、お返事を差し上げる気も失せて参ります。



山田さんの質問無視を指摘してる内容ですやん(苦笑)。
へんな所で文章を切らないでくださいよ(苦笑)。



◆平成19年12月4日のメール
貴社の一番の問題は、浄土真宗で「生まれる」といっても二通りの意味があることを理解しておらず、混同しておられることです。ここで「生」と「往生」は、ほぼ同じ意味と受け取って頂いて結構です。
一つ目の「生」は、ビデオの内容で言えば「不体失往生」であり、生きている時に「信楽をえる」ことを「生」と言います。十八願では、「至心信楽欲生我国」に当たります。
二つ目の「生」は、死んで真実報土に生まれることを言います。十八願では、「若不生者」に当たります。
同じ「生」の字を使っていても、意味は全く違います。

> このたび、「若不生者」の「生」が、「この世で生まれる」と説かれる根拠があれば示せ、と言われていますが、一例を挙げれば、「本願の不思議をもって、生るべからざるものを、生れさせたればこそ、〝超世の悲願〟とも名け、〝横超の直道〟とも聞えはんべれ」と「改邪鈔」にありますが、この「生まるべからざるもの」を「生まれさせた」とは、これは「真実報土に生まれさせた」ということでしょうか。死後のことでしょうか。お聞かせ頂きたく思います。どうぞよろしくお願い致します。


「生るべからざるものを、生れさせたればこそ」の「生まれる」の意味が分かられないというご質問ですが、このご質問を読ませて頂いて、貴社の間違いの原因が判明した気が致します。

 貴社の一番の問題は、浄土真宗で「生まれる」といっても二通りの意味があることを理解しておらず、混同しておられることです。ここで「生」と「往生」は、ほぼ同じ意味と受け取って頂いて結構です。

 一つ目の「生」は、ビデオの内容で言えば「不体失往生」であり、生きている時に「信楽をえる」ことを「生」と言います。十八願では、「至心信楽欲生我国」に当たります。

 二つ目の「生」は、死んで真実報土に生まれることを言います。十八願では、「若不生者」に当たります。
 同じ「生」の字を使っていても、意味は全く違います。

 お尋ねの「生れさせたればこそ」の「生」は、「信楽をえる」ことであり、「不体失往生」のことですから、「若不生者」の「生」とは異なります。

 貴社では、これを「若不生者」の「生」と混同してしまわれたのではないでしょうか?

 「生まれる」の二通りの意味を知らねば、「若不生者」の「生」なのか、「不体失往生」の「生」なのか、間違えてしまいます。

 おそらく、「生まれる」という言葉にとらわれて、「生」と書いてあるものは、すべて「若不生者」の「生」と同じなのだと勘違いしてしまわれたのでしょう。それで、「若不生者」を、「不体失往生」の根拠として挙げてしまうという間違いを犯してしまわれたのだと拝察致します。

 これで、ご理解いただけましたでしょうか?



間違いを指摘してもらったことはなかったことにしますね(苦笑)。


◆平成19年12月15日のメール
「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。
しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。
◆平成19年12月15日のメール
文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章(「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は
往生必ず定まりぬ」『浄土和讃』)は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。

>『その「信楽をえる」には、「若不生者」の誓いなくしては絶対にできないと教えられたのが親鸞聖人』と申しあげたはずです。


「若不生者」の誓い、すなわち十八願の中で「信楽をえる」に対応するのは「至心信楽欲生我国乃至十念」です。「若不生者」は「死んで極楽に生まれる」に対応します。



>それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。


 少しでも古文の知識があれば、読み間違えるはずのない文章だと思いますが、なぜ間違われたか不思議です。


 これは、阿弥陀仏が「若不生者」と誓われているから、「信楽まことにときいたり、一念慶喜する」人は、「(死んで)往生かならず定まりぬ」ということです。信楽になる時が至り、一念で慶喜する身になった人は、死んで必ず極楽に往生させると誓われたのが、弥陀の十八願だという意味です。

 貴方は「ときいたり」で文章を切って理解しておられるようですが、ここで切るならば、終止形の「いたる」(過去形なら「いたりき」)とならねばなりません。親鸞聖人が、こんな文法のミスをされるはずが無いと思います。

 また、これは十八願の解説ですから、親鸞聖人の解釈を元に読まねばなりません。

 尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています


 つまり、文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。



>ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。


「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。



> 次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。


 貴社のビデオの解説書に書いてありました。しかし、貴方の疑問を読ませて頂くと、自分達でも疑問に思うことを、解説書に書かれていたことになります。

 私は、貴社の解説書は、御指摘した部分以外は、正しく記述されていると思っておりましたので、先便のメールのように書きましたが、実は何の根拠もなく書かれていたのでしょうか?



文法説明も親鸞聖人の言葉も説明してはるのに、そこは都合が悪いので削除ですね(苦笑)。


◆平成19年12月17日のメール
本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思います。

>「本願に、ツユチリほどの疑いがあっても、往生できない」と教えられていますが、この度、田中様は、私はまだ「信楽をえた身ではありません」と言われ、弥陀の本願に疑いがある身とおっしゃいました。
>「本願文」のどこに疑心があるのでしょうか。お尋ね致します。


 信楽をえていない人は、本願文の一部分に疑いが有り、残りの部分には疑いが無いと解釈しておられるのですね。そうでなければ、「どこに疑心があるのでしょうか?」という質問が出てくるはずがありません。

 本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思いますが、いかがでしょう。



>「信楽をえて」いない、「本願」に疑いのある方ならば、『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」も分からないし、「生まれさせた」と言われているものも分からない、と言うことになりますが、そのように理解してもよろしいでしょうか。お尋ねします。


 分からないからこそ、親鸞聖人のお言葉に従わねばならないと思います。親鸞聖人が、「若不生者」の「生」は、極楽浄土に生まれることだと、何回も明記されていますので、私は親鸞聖人のお言葉に従います。



>「信楽をえて」いない者が、「若不生者」は「死んで極楽に生まれると言うことだけでしょうか」などと、田中様にお聞きすることは、おそらくないのではないでしょうか。


 「信楽をえて」いる方が、「若不生者」は「死んで極楽に生まれると言うことだけでしょうか」などと、聞いてこられるはずがないと思います。

 親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を、「死んで極楽に生まれる」という意味以外に解釈されていません。少なくとも、親鸞聖人と違う信心の方だと思います。



山田さんのミステイクに対するツッコミは、しっかり削除しておられますね(苦笑)。

平成19年12月22日のメール
「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者の誓」の「至心信楽欲生我国」の部分に当たります。「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です。

>前回、田中様が提示された親鸞聖人のお言葉は、「若不生者は、死後のみのことである」という御文になっていません。
>それよりも、「若不生者」のちかい、がなければ「信楽」は「生まれず」、「信楽」が「生まれる」のは「若不生者」の誓によるのだと言う、「信楽」と「若不生者」の関係を教えられているお言葉です。よくお読み下さい。


『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』


 この記述を、どのように解釈したら、山田様のような理解になるのでしょうか?
「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者の誓」の「至心信楽欲生我国」の部分に当たります。「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です。

「信楽」に「生まれる」ことと、「浄土に生まれる」ことは、違います。何度も説明している通りです。古文法も余り知られないようですし、ご自身も「教えに昏いところがある」と書かれているので、仕方ないことかも知れませんが。



ここでも根拠は削除ですね(苦笑)。

◆平成19年12月26日のメール
十八願の「至心信楽」の誓いによって、信楽がえらえるのです。そして十八願の「若不生者」の誓いによって、極楽浄土に生まれられるのです。

>その「信楽」がえられるのは、どうしてえられるのですか。「若不生者の念力」によるのではありませんか、と山田は言っているのです。「そうでない」、と言われるのならば、どうして「信楽」をえられるのか。その根拠を、親鸞聖人のお言葉で示して下さい。


 何度も示しましたように、『この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。』と記述されています。十八願の「至心信楽」の誓いによって、信楽がえらえるのです。

 そして、『「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』と、十八願の「若不生者」の誓いによって、極楽浄土に生まれられるのです



根拠を挙げている通り、「わが真実なる誓願を信楽すべしすすめたまへる御ちかひ」ですやん(苦笑)。

何を操作してようとしてるねん!!(苦笑)

◆平成19年12月27日のメール
「信楽」に生まれた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」なのです。

>われわれを「浄土に生まれさせるために」弥陀が正覚をかけてのお誓いなのです。だからこそ「至心信楽の願」と言われるのです。


「至心信楽」に生まれた人を、「浄土に生まれさせる」が「若不生者」なので、この「生」は死後に限られるのです。



田中さんの見解を捏造してもらっては困りますね~。
山田さんの見解にスライドするための準備ですかいな(苦笑)。


◆平成20年1月8日のメール
親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

 話を戻しますが、貴方は、私が「不体失往生」を否定しているかのような書き方ばかりされますね。

 私は最初から、この世で「信楽」に「生まれた」者だけが、死んで「極楽浄土」に「生まれる」ことが出来ると主張し続けております。

 そのことを、親鸞聖人は

「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。

 このように記述されています。他にも、何箇所も「若不生者の生は、極楽浄土に生まれることだ」と書かれています。

 逆に、貴方のように「若不生者の生は、信楽に生まれることだ」と書かれているところは一箇所もありません。

 親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

 もし、「極楽浄土に生まれる」という意味だけしかない、ということに異論があるのであれば、親鸞聖人の御言葉を示してください。

 私は何回も根拠を示していますが、貴社からは、いまだに一つの根拠も出てきません。



親鸞聖人の言葉に従って解釈しているだけですやん(苦笑)。


◆平成20年1月14日のメール
私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありません。

>ところが、その「真実信心(信楽)に生まるる人は稀である」と、極難信の「信楽」と教えられています。そんな極難の真実信心(信楽)が、私たちにどうして「生まれる」のでしょう。貴方も仰っている通り、全く、弥陀の本願力(若不生者の念力)によるしかないと教えられています。

>されば、「信楽」が私たちに「生まれる」のは、偏に、「若し、生まれずは、正覚をとらぬ」と、弥陀が生命をかけて誓われている、「若不生者の念力」によることは明白です。

>『「若不生者の念力」なくして、「信楽」が私たちに「生まれる」ことがあるのか、ないのか』が、いま問われていることなのです。

 私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありませんが、「若不生者の念力」という言葉は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?貴方の作った言葉でしょうか?



ポイントは、「若不生者の念力」という怪しい言葉にツッコミ入れることですよ(苦笑)。

◆平成20年2月2日のメール
「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

>貴方が、今まで挙げられた根拠の総ては、「信楽に生まれたら、極楽に生まれる」ことの根拠ばかりです。それは充分、了解のこと。その「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、答えて頂きたいと思います。
 
 
 
「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
 
 だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。
 
「どうして生まれるのか」 →「聞其名号」
「なんの力で生まれるのか」→「名号」
「いつ生まれるのか」   →「乃至一念即得往生」
 
 
「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています。



田中さんの解説は無視ですか(苦笑)。


◆平成20年2月8日のメール
(「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、)私は「本願文での根拠」は知りません。

>今度のメールで貴方が言われた、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』と、『「若不生者不取正覚」という力』とは、どこが違うのでしょうか。明示して頂きたい。

>また、『「若不生者不取正覚」という力』とか、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』とか、そんな言葉は、「浄土真宗のデータベース」にありませんが、そんな言葉を根拠にして、議論を進めてはならないと言われているのは貴方です。親鸞聖人、どこに仰っているお言葉でしょうか。根拠を教えて下さい。

『「若不生者不取正覚」という力』とか、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』などという言葉を、私がいつ、使いましたでしょうか?

確かに、『必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています。』とは、書きました。

「必ず極楽浄土に往生させる」の部分を削除し、さらに括弧も外して作った言葉でしょうか?

一字一句違わず引用して欲しいとは言いませんが、これは常識の範囲外だと思います。

私が(若不生者不取正覚)と付け加えたのは、「必ず極楽浄土に往生させる」という誓いの根拠を示すためです。

貴方は、「若不生者不取正覚」を「極楽浄土に生まれる意味だけ」ということには同意されていませんが、「極楽浄土に生まれる」と親鸞聖人が教えられていることには同意されているはずです。

だから、「必ず極楽浄土に往生させる」という誓いの根拠として、(若不生者不取正覚)と付け加えることに、問題はないだろうと思って書いただけです。

括弧内だけを抜き出されて、新しい言葉を作り、私が書いたかのように議論を進められるのは、やめて頂きたく思います。

>「親鸞聖人のお言葉に従う」とは言ったが、「親鸞聖人の教えに信順する」とは言ったことがない、と不満を漏らされている。それでは貴方にとって、「親鸞聖人のお言葉に従う」ということと、「親鸞聖人の教えに信順する」とは、どこがどう違うのですか。

貴方が「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだと主張されるなら、その違いを説明しましょう。

その前に、貴方の立場を確認させて頂きますが、貴方は「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだという主張で宜しいですね?

>またまた、何度、「本願力」と「若不生者の念力」との違いを聞かれても、「同じ」とも「違う」とも言えない、とおっしゃった。その理由は、「説明のしようがない」からだと。

私は、『そもそも「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから、「同じ」とも「違う」とも、説明のしようがありません。』と書きました。

「同じ」とも「違う」とも言えない理由は、誰が読んでも、『「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから』です。

私の主張を、勝手に変更しないで頂きたく思います。

>最近どうしてか、意味が同じでも言葉を変えると、貴方はごねられる。当方は意味が変わらない限り、自由な表現を受け入れます。

「意味が同じでも」という点に、異論を申しております。

>特に「若不生者の念力」について貴方は、恥も外聞もお構いなしで、「データベース」まで持ち出し滑稽なほどに必死である。

貴方が「若不生者の念力」という言葉を、無理やりに私に認めさせようとしました。

>貴方の言った「本願力」に関することなのだから、「意味が違うから」、「嫌いな言葉だから」、「どちらか言えば後で困るから」とか、なんとか言って然るべきと思うのだが、その拒みようは尋常ではありません。

ところが、「根拠を示してほしい」と尋ねたところ、造語であることが分かりました。今度は、まるで私が好き嫌いで拒んだように書かれます。
造語を根拠に、議論を進めようとするのを拒むのは、当然ではないでしょうか?

>しかもだ、己の都合の悪い返答を求めるのは「法論と、かけ離れたやり方」と言われては、またなにをか言わんや、と言わざるをえません。

私が「法論と、かけ離れたやり方」と書いたのは、造語を根拠に議論を進めるやり方のことです。よく読んでください。

>「若不生者不取正覚」という力によって成就した「名号」に、「若不生者不取正覚」という力が納まっているのは当然です。

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』という意味で仰っておられるならば同意です。

>だから「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者」の力ではありませんかと言っているのです。

このように主張するためには、「若不生者」の「生」が「信楽が生まれる」という意味だ、という根拠が必要です。その根拠が、まだ示されていません。

>「本願文」に「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だとハッキリ誓われているではありませんか。

どこにハッキリと誓われていますか?
何回も同じことをお尋ねしています。

>『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と貴方は仰った。
>「思います」では貴方の説です。「法論において、己の思いや造語は根拠とならない」「根拠のない説は親鸞聖人の教えとは言えない」と言ったのも貴方です。もっと自己の発言には自覚を持って頂きたいものである。『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だ』の、「根拠」を明示して下さい。

私が、いつ『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と書いたでしょうか?

前回の貴方の質問と、私の返答は、以下の通りです。

『その「願成就」の教えに「若不生者は、極楽浄土に生まれることだ」と、どこに説かれていますか。「本願成就文」のお言葉で示して下さい。』

『先に示したように「名号」が、それに当たると思います。』

この文章を、どのように理解したら、『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』に、なるのでしょうか?

相手の主張を捏造して、議論を進めるということは、法論では以ての外と思います。

>その「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、答えて頂きたいと思います。

この質問について、私は返答しましたが、貴方の答えを頂いておりません。
「本願文での根拠」についても、わざわざ尋ねられる程ですから、根拠をお持ちのはずです。
特に、私は「本願文での根拠」は知りませんので、あるなら教えて頂きたく思います。



田中さんの抗議は全文カット・・(苦笑)。
さらに不当質問に対する解答なのに、文章を改変して印象操作ですか(苦笑)。

●平成20年2月15日のメール
親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。

>その、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」慶喜を親鸞聖人は、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのではないですか。死んで極楽に生まれてから仰ったことではないでしょう。
 
 
 親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
 
 つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。
 
 親鸞聖人が、尊号真像銘文に『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されている通りです。



またまた根拠はバッサリカットですね(苦笑)。

◆平成20年3月16日のメール
「即得往生住不退転」は、不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです。
◆平成20年3月16日のメール
「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていないから、「若不生者」は生きている間だと言われたいのでしょうか?
だとすれば、「若不生者」の「生」には、死後のことは一切含まれないということになりますが、そういう主張ですか?

今回も、私の問いかけに対しては、殆ど無視されました。私のメールを、本当に読まれているのか、甚だ疑問です。

>(1)
>「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」という当方>の質問に、
>貴方は、「本願文には明示されていない」と答えられています(2月2日のメール)。今回も、繰返されています。

>当方は初めから、「若不生者不取正覚」の念力で「信楽は生まれる」と主張してきたことは過去のメールで明らかです。それを貴方の文章を読んで気づいたかのように勘違いされていますが、全くの誤解です。

私の文章を読めば分かられると思いますが、「私が貴方に教えた内容」というのは、「信楽」は「どうして生まれるのか」に就いて「願成就文での御文」は何か、という貴方の質問に対して、「聞其名号」と答えたことです。

このことは、貴方が、それまで一度も書かれていない内容です。

「若不生者不取正覚」の念力で「信楽は生まれる」というようなことは、私は一度も申したことがございませんので、そもそも「私が貴方に教えた内容」のはずがありません。

私の文章を、しっかり読んでいれば、貴方のような返答にならないと思います。

>しかも貴方は、
>『「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、
>「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています』と明言されています(同じく2月2日のメール)。

>ところが今回「若不生者不取正覚という力」という言葉は使っていない、と言われるのは事実に反します。

私は2月15日に、「若不生者不取正覚という力」と書き換えることを、明確に否定しました(以下に引用)。にも関わらず、何度も「若不生者不取正覚という力」と、こだわるのは何故でしょう。私の文章を、読んでおられないのでしょうか?

今後、『「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力』と、正確に引用されることを要請します。

(2月15日メール)
>> 貴方は、その私の言葉のメインの部分を削り、括弧まで外して、「若不生者不取正覚という力」という単語を作り、「そんな言葉を、親鸞聖人がどこに仰っているか」と尋ねてこられました。
>>
「必ず極楽浄土に往生させる」というのは現代語ですから、そのまま聖教に無いのは当然ですし、その根拠として(若不生者不取正覚)と書いたことは、前回述べた通りです。
>>
>> 他人の言葉を改変し、その改変した言葉を根拠に非難されても困ると、申し上げているのです。

>本願を詳説された「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。あったら教えて下さい。

「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていないから、「若不生者」は生きている間だと言われたいのでしょうか?

だとすれば、「若不生者」の「生」には、死後のことは一切含まれないということになりますが、そういう主張ですか?

>当然ながら、「若不生者」は「死後、極楽に生まれさせる」だけという教えなど全くありません。これもあったらお示し下さい。

「若不生者」は「信楽に生まれさせる」という意味だと、どこにも説かれていないからです。あったらお示し下さい。

>何度も心を鎮めて、ご自分の書かれたものをよくよくお読みになれば、お分かりになるはずです。当方には、貴方の主張を故意に曲げて論じたことは一度たりともありません。

既に示した通り、今回の貴方のメールも、私の主張を歪曲したものでした。

>「若不生者不取正覚」の誓いが、死んでからだけのことではなく、この世で「信楽に生まれさせ」、死んで「極楽に生まれさせる」ことであることも、浄土和讃でお示ししました。

貴方の解釈は、文法的に誤っていることは、既に示した通りです。

>仏教の至極であり、弥陀の願意を釈尊が明らかにされた「本願成就文」には、弥陀の本願の「若不生者」の真意が、「即得往生住不退転」と明らかにされています。

「即得往生住不退転」は、不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです。

>この親鸞聖人の教えを知れば、「弥陀が命をかけられているのは、死後だけのこと」というような主張は、絶対に出てこないのです。重ねて申しますが、この世で「信楽に生まれ」なければ、死後、「極楽に生まれる」ことは絶対に不可能なのですから「信楽に生まれさせる」ことにこそ、弥陀の命がかかるのは当然のことでしょう。そうでなければ、弥陀は「若不生者の誓い」を果たせないからです。

弥陀の十八願の約束が果されるのは、「信楽をえた時」ですか?「極楽往生した時」ですか?
お答え頂きたく思います。

>お互い忙しい中、論じ合っているのは、阿弥陀仏の本願の「若不生者不取正覚」の「生」の仏意一つでしょう。

私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。

有るのか、無いのかだけで結構です。
他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。

明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。

なお、重ねて申し上げますが、「その外に親鸞聖人の教えはない」では返答になっていません。このような返答を認めていては、「親鸞聖人は念仏無間と教えた方だ。根拠はその外に親鸞聖人の教えはないからだ」という滅茶苦茶な理論も通ってしまいます。

「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを明確に仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかということです。

無ければ無いとして、なぜ、そのように解釈されたかは、改めてお尋ねしますので、ご心配なくお答え下さい。これは、貴方の主張を正しく知るための質問ですので。



ボコボコに論破されている部分は、やっぱり全文カットですね(苦笑)。

◆平成20年3月24日
本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>>
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>>
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。

前回、このように質問しましたが、ご返答がありませんでしたので、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない、ということが明確になりました。

後になって、そんなつもりは無かったと言い訳をされないよう、くれぐれもお願いいたします。

>その肝心の「信楽を獲る」ことが、「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(正信偈)と、これ以上難しいことはないと、釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も教えられている文証は、すでに挙げてある通りです。そんな「信楽」が、どうして獲られるのでしょうか。「本願文」で示して下さい。

上記の質問は、2月2日に、以下のように返答済みです。

>>「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
>> だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

>当方は幾度も、我々に「信楽が獲られる」のは、「本願文」では「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってであり、「本願成就文」では「名号」の「破闇満願」の働きであり、親鸞聖人は、それを「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」で詳説されていることを繰り返し述べてきたことは、過去のメールを見れば明白です。

貴方の出された根拠は、「若不生者」が「信楽が獲られる」という意味となるという根拠にならないことは、すでに論証してきた通りです。

しかし、今は、双方の主張を確認する作業をしているわけですから、その妥当性を議論するのは、後まわしでしたね。

上記の文章では、どの部分が主張で、どの根拠が対応しているのか判りません。明確にして頂きたく思います。

>無論、弥陀の十八願の「若不生者不取正覚」の約束が「誠だった」と「仏願の生起本末に疑心あることなし」となるのは、「信楽をえた時」ですよ。

質問をすり替えないで頂きたく思います。

これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?

異論がなければ、上記の意味だと判断します。

>ところが貴方は今度の返信でも、『「即得往生住不退転」は不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです』と仰った。
>それでは「本願成就文」は「弥陀の本願」の開闡ではないのですか。お尋ね致します。

貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。

そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
その点、貴方の主張を確認いたします。

あと「開闡」を、どのような意味で使っておられますか?
一般公開しているのですから、現代語で質問して頂くようお願いします。

>弥陀は「極楽浄土に生まれさせる」ために、難中之難無過斯の「信楽に生まれさせる」ことに、「若不生者」と「正覚」を懸けられているのではありませんか。
>その「若不生者不取正覚」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』でしょう。だから親鸞聖人は『本願成就文』を「一実・円満の真教、真宗これなり」と言われているのです。

本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

>親鸞聖人の何処に「若不生者は、極楽に生まれることだけ」という教えがありますか、あれば根拠を教えて下さい。

すでに提示してあります文章は、すべて上記の根拠です。

親鸞聖人が「若不生者」を説明された文章は、すべて「極楽往生」の意味で教えられています。それを、不体失往生で教えられた文章は、一つもないことは、貴方も認められた通りです。

極楽に生まれる以外の意味があるのなら、「極楽に生まれるという意味もある」と書かれるはずでしょう。

貴方は、部下にボールペンを買いに行かせるときに、「ボールペンだけ買ってこい」と言われるのですか?

貴方の会社では、「ボールペンを買ってこい」と言われたら、肉まんも買ってよいという意味になるのですか?

親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されているということは、それ以外の意味ではないのは明白です。



ははは(笑)。
田中さんにも、僕とツッコミを入れられておりましたね(苦笑)。

◆平成20年3月25日のメール
『親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されている。それ以外の意味ではないのは明白です』

田中氏からチューリップ企画へ送った「平成20年3月25日のメール」は存在せず!!(苦笑)


まあ、こんだけツッコミ所がたっぷりだったんだけど、
さらにチューリップ企画は、「田中氏の主張メール」で都合の特に都合の悪いヤツは、
なかったことにしているようですね(苦笑)。

でももう、そのせこい手口はバレバレでっせ(苦笑)。

「なかったこと」になっている「田中氏の主張」(苦笑)
↓↓

2007 12/20(木) 00:16

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様


>「本願文の一部を疑い、残りは信ずる、ということは絶対にありません」
>田中様の仰る通りです。絶対にあり得ないことです。

 この点は、分かって頂けたようですね。
「本願文」のどこに疑心があるのでしょうか、という質問が出てくること自体、教えが分かっていないということなのです。



>『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」とは「何を」言われたのでしょうか。「生るべからざるもの」の正体はなんでしょうか。
>また、その後の、「生まれさせた」と言われているのは、何を、どのように「生まれさせた」と言うことでしょうか。お尋ね致します。


 この改邪抄の記述は、少し前の部分の「仏、願力の不思議をもって無善造悪の凡夫を摂取不捨したまう時は」の解説です。つまり、「生まるべからざるもの」とは「無善造悪の凡夫」のことであり、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のことを表しています。

「摂取不捨したまう時」とは、歎異抄一章に『「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめ給ふなり。』と記述されている通りです。


 この 「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、という部分は、本願文の「至心信楽欲生我国」に当たります。根拠は既出ですが、

『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。』


 さらに、この摂取不捨の利益にあづかった人が、極楽浄土に生まれなければ仏にならないと誓われたのが「若不生者」だと、記述されています。

『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

 このように、親鸞聖人の記述から、改邪抄の「生まれさせた」は、生きている間であり、「若不生者」の「生」は死後であることが明らかです。



>もし、田中様が、そんな生きている時のことではない、そんなこととは無関係だよ、と仰るのなら、「若不生者」は、そんなことではない、そんなこととは無関係だ、と言われている親鸞聖人でも覚如上人でも結構です、そのお言葉をお聞かせ下さい。


 私は、最初から「生まれさせた」は、生きている時であると主張し続けてきました。「良く読まれて文章の理解力を取り戻して下さい。」と私をお叱りになる前に、山田様こそ、良く読まれて文章の理解力を取り戻したほうが、良いのではないでしょうか?

 私が、改邪抄の「生まれさせた」は、死後だと主張した文章があれば、指摘してください。



>聖人が「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っているか、否かは、いま問われていることです。田中様の、これについての意見は充分に受け賜って存知していますのでご心配なさらないで下さい。


 しかし、私は、貴社から「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、という根拠を、いただいておりません。親鸞聖人の御言葉でお示しください。



>「信楽をえて」いないものが、山田のようなことを聞けるはずもないし、聞く筈がないじゃないか、とお答えしたのです。
>これでも答えていないと仰るなら、何度でもお答え致します。良く読まれて文章
の理解力を取り戻して下さい。


 では、もう一度お願いします。「信楽をえた」「信楽をえていない」の、どちらかでお答えください。それ以外の説明は書かないでください。




2007 12/21(金) 00:14

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様


> 私は「信楽をえて」いますが、今度、田中様にお叱りをうけたように、教えに昏いところがあるかもしれませんが、その点は、宜しくご教授ください。


 山田様は「信楽をえた」おつもりかも知れませんが、親鸞聖人の御信心とは、異なる方のようです。例えば、山田様は、以下のような疑問を尋ねてこられました。


> 次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。


 今さら、これは本心では無かったと言い訳しても、通じないと思います。あなたは、疑いが晴れていない信心なのです。



>「願力の不思議をもって」「生まれさせた」と言われる、「生まるべからざる、無善造悪の凡夫」とは、いかなる者でしょうか。田中様に「生まるべからざる者」の自覚がおありですか。願力の不思議を疑っていられる田中様にお聞きするのは、無理なことでしょうが、できたらお示し下さい。

>次に、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のこと、と言われている「摂取不捨したもう」とは、「無善造悪の凡夫」の、どこが、どう変わるのか、何も変わらないのでしょうか、お尋ね致します。


 これは、「信楽をえた」山田様が、「信楽をえていない」私に教授しなければならない内容と思います。どうぞ御解説ください。



>どこにも、「若不生者」は、「死んで極楽に生まれるということだけのことである」と、仰せになっていると思われるご文は見あたりません。文章の理解力が無いためかもしれませんので、具体的に、そのご文を提示して頂きたくお願いします。


「若不生者」は、「死んで極楽に生まれるということだけのことである」という記述が無ければ、「死んで極楽に生まれるという以外の解釈がある」という意味になるのですか?

 親鸞聖人が「強盗をしてはならない」と書かれていなければ、強盗をしても構わない、という意味になるのですか?

「リンゴ」と書かれたダンボールを見て、「リンゴだけ」と書いていないから、ミカンも入っていると考えるのでしょうか?

 貴社のような誤解をする人は、まず有り得ないことですので、親鸞聖人は、わざわざ「極楽に生まれることだけ」と、念を押す必要が無かったのだと拝察いたします。親鸞聖人としては、想定外の誤解だったのでしょう。

 貴社の理屈から言えば、「死んで地獄へ生まれること」とも解釈できるかも知れませんね。どこにも「地獄ではない」と書かれていませんから。



>「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、親鸞聖人のお言葉を、まだいただいておりません、と田中様は言われていますが、既に、提示してはいるのですが、本願を疑っていられる方には届かないのかもしれません。しかし、その内、必ず分かって頂けるものと強く期待しています。


 再度、貴社からのメールを読み直しましたが、どこにも見当たりませんでした。申し訳ありませんが、親鸞聖人のお言葉の部分だけを、再度、ご提示ください。





以上、とても卑劣な手口を使っていることを晒しものにしたわけですが、
次は、どんな手口を使ってくるんでしょうかね~(苦笑)。

チ●ーリップ企画に羞恥心ちょうもんが少しでも残っていて、
次は、卑劣な手口を使わないことを期待したいと思います。

というか、「前回は失礼しました」をまず言うべきですね(苦笑)。
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苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
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※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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