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ツッコミ!【第3回】覚如・蓮如上人のお言葉で

第3回がアップされてましたね。

 ↓↓↓

【第3回】覚如・蓮如上人のお言葉で
http://shinjin.info/2008/08/090805138.html

覚如上人は『改邪鈔』に、こう述べていられる。
「それについて三経の安心あり。その中に『大経』をもって真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」

阿弥陀仏の救いは、浄土三部経(『観無量壽経』『阿弥陀経』『大無量寿経』)ともに説かれてはいるが、中でも親鸞聖人は『大無量寿経』のみを真実の教と言われ、その『大無量寿経』でも弥陀の四十八願中、特に第十八の願を根本とせられた。更に、この十八願の真意を開顕せられた、釈迦の『本願成就文』をもって『至極』の教えである、と親鸞聖人は御教示くだされた。

親鸞聖人は、『本願』は『根本』ではあるが『至極』ではない。『至極』は『本願成就文』の教えであると言われている。
「至極」とは、「一実であり、円満であり、真の教であり、真宗であり、これ以上、肝要な教えはない」ということである。

また、覚如上人はこうも言われている。
「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず」

親鸞聖人は、「信心歓喜乃至一念」と説かれている『本願成就文』四十字の教えを、浄土真宗の安心であると断定し、真実の信心(心行)獲得したか、どうかの物差しとされた。
今まで『本願成就文』以外の教えを聖人から、この覚如はお聞きしたことがない。

いかに親鸞聖人が『本願成就文』の教え以外に教えられなかったか。覚如上人の「このほか未だ聞かず」とまで言われていることでも明らかであろう。

蓮如上人の『御文章』もまた同じである。
『これによりて、「南無阿弥陀仏」という六字は、偏に我等が往生すべき他力信心の謂をあらわしたまえる御名なりと見えたり。この故に、願成就の文には、「聞其名号・信心歓喜」と説かれたり。
この文の意は「其の名号を聞きて信心歓喜す」といえり。「其の名号を聞く」というは、ただおおように聞くにあらず。善知識にあいて、南無阿弥陀仏の六の字の謂をよく聞き開きぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりと心得られたり』 (三帖目六通)

『そもそも、当流に立つる所の他力の三信というは、第十八の願に「至心・信楽・欲生我国」といえり。これ即ち三信とはいえども、唯弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。その故は如何というに、宿善開発の行者、一念弥陀に帰命せんと思う心の一念発るきざみ、仏の心光、かの一念帰命の行者を摂取したまう。その時節を指して、「至心・信楽・欲生」の三信とも言い、又この意を願成就の文には「即得往生・住不退転」と説けり』 (四帖目一通)

『願成就の文には、「聞其名号・信心歓喜」と説かれたり。この文の意は「其の名号を聞きて信心歓喜す」といえり』(三帖目六通)『この意を願成就の文には「即得往生・住不退転」と説けり』 (四帖目一通)。
など、蓮如上人も『弥陀の本願』を常に『本願成就文』の教えで、一貫して説かれていることが知られる。

これらの親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人のお言葉など、『本願成就文』以外に親鸞聖人の教えのないことが明示されている。






もう見え見えだと思うんだけど、チューリップ企画がやろうとしているのは、

とりあえず、【本願成就文=親鸞聖人の教えの全て】を印象づけて、
「本願文」も、当然その「親鸞聖人の教え」の中に当然含まれるということから、
【本願成就文=本願文】を主張しておいて、

そのままどさくさにまぎれて

【「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」】
を認めさせようとしてるんでしょうね~(苦笑)。

でも、チューリップ企画が提示している資料は、

【本願成就文≠本願文】
【「若不生者不取正覚」≠「即得往生住不退転」】

を証明する
要素しかないんちゃいますかね~(苦笑)。



覚如上人は『改邪鈔』に、こう述べていられる。
「それについて三経の安心あり。その中に『大経』をもって真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」


 ↓
「本」=「至極」
「十八の願」=願成就

じゃなくて、

「本」<「至極」
「十八の願」<願成就

でしょ?(笑)


「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず」

親鸞聖人は、「信心歓喜乃至一念」と説かれている『本願成就文』四十字の教えを、浄土真宗の安心であると断定し、真実の信心(心行)獲得したか、どうかの物差しとされた。


 ↓
じゃあ、「本願文」の「若不生者不取正覚」で決着はおかしいよね?(苦笑)



もっと言わせもらうと、以下の文とかって、
明らかに蓮如上人の言葉を都合に合わせて途中で切ってるよね?

『願成就の文には、「聞其名号・信心歓喜」と説かれたり。この文の意は「其の名号を聞きて信心歓喜す」といえり』(三帖目六通)『この意を願成就の文には「即得往生・住不退転」と説けり』 (四帖目一通)。
など、蓮如上人も『弥陀の本願』を常に『本願成就文』の教えで、一貫して説かれていることが知られる。



これによりて「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。かるがゆゑに、「信心歓喜」といふは、すなはち信心定まりぬれば、浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころなり。このゆゑに弥陀如来の五劫兆載永劫の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまふことのありがたさ、たふとさをおもへばなかなか申すもおろかなり。
(三帖目六通)

善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば
 ↓
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり
 ↓
かるがゆゑに
 ↓
「浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころ」=「信心歓喜」

でっせ。

報土に往生することが確定する→浄土の往生が疑いなく思う→不体失往生

ちゃいますか~??(笑)


そもそも当流にたつるところの他力の三信といふは、第十八の願「至心信楽欲生我国」といへり。これすなはち三信とはいへども、ただ弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。
そのゆゑはいかんといふに、宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。
(四帖目一通)

まず、【「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」】ではないよね?(笑)


そんでもって、

宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、
 ↓
仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。
 ↓
その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、

ということであって、
この「摂取」を受けた=至心・信楽・欲生の三信を持った人が、
「即得往生住不退転」という境地に達するということで、
その人が、「真実信心の行人」=「宿因深厚の行者」=「平生業成の人」なわけだよね?

ほんなら、「真実信心の行人」=「宿因深厚の行者」=「平生業成の人」とイコールな、
「即得往生住不退転」という境地に達した人=不体失往生した人
の根拠として、「本願文」の「若不生者不取正覚」じゃおかしいですよ(苦笑)。


チューリップ企画さん!
自分の都合に合わせて資料を変な所で裁断せんといてね~!
それでなくても「断章取義」とか「捏造」とかの評判(?)が高いんですからね~!
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「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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