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やさしい浄土真宗の教え §11 浄土真宗の「信心」(二種深信)

§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)

「南無阿弥陀仏」の「名号」にどんな意味があるか?
前回までのレクチャーで、ちょっと詳しく解説しました。
今回は、これを踏まえて浄土真宗の「信心」についてレクチャーするで。

一口に「信心」と言っても、
いろんな「信心」があるわけやけど、(注1)

浄土真宗の「信心」は他の「信心」とは全く異なる特別なもんで、
「南無阿弥陀仏」の「名号」を受け取って、
阿弥陀仏がお作りになられたシステムに乗した人の「信心」だけが、
浄土真宗の「信心」になりますねん。(注2)

この様々な「信心」の中で特別な、
浄土真宗の「信心」の内容を明確に表したのが、
所謂「二種深信」ということになるわけですわ。(注3)



「二種深信」の内容に関しては、みんな知ってると思うけど、
一応、簡単におさらいしとくで。
   ↓
 深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。
 一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
 曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。
 二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、
 衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。

(訳)
 深心というのは、とりもなおさず深く信ずる心である。 これに二種ある。
1)一つには、自分は罪深い迷える凡夫であり、 はかり知れない昔から今にいたるまで、
 常に迷いの世界に沈み、常に流転して、 迷いから離れでる機会がないものである、
 と心に決めて深く信じたということである。
2)二つには、かの阿弥陀仏は、
 四十八願をもって衆生をおさめとって救われるのであるから、
 疑いなくためらうことなくかの本願の力に乗じて、
 まちがいなく浄土へ生まれることができる、 と心に決めて深く信じたということである。
 (『観経疏』散善義)

1)・・機の深信
2)・・法の深信

ちゅうことになるわけやけど、

ポイントは、

阿弥陀仏が、どのような衆生を対象にして、
救済するためのシステムを構築したか?
(本願の生起本末)

を聞いて、それがホンマのことやったと、
明らかに「知らされた」「わかった」になると、
(聞きて疑心あることなし)

この「オレ」っちゅうもんは、
はかり知れない昔から今にいたるまで、
自分の力じゃ絶対に迷いの世界から離れることができない、
どうしようもないカス野郎だ!・・1)機の深信

だっちゃうことと、

阿弥陀仏が、そんなカス野郎をお目当てに、
とんでもないご苦労をしてシステムを作り、
それを完成させてくれているから、
そのシステムに乗じることによって、
この「オレ」が絶対間違いなく極楽浄土に往生して、
迷いのない存在になれる(成仏できる)!!・・2)法の深信(注4)


ちゅうことが同時に「知らされた」「わかった」ことになるのよね。

これは、一つの「信心」を二つの角度から見たものだから、
どっちが先っちゅうことじゃなくて、
二つ同時に「知らされた」「わかった」になるもんやねん。


自分が絶対に救われないカス野郎だということが、
「知らされた」「わかった」から、(注5)
それを救うために阿弥陀仏が作ったシステムの凄さも、
同時に「知らされた」「わかった」わけやし、

阿弥陀仏の作ったシステムの凄さが「知らされた」「わかった」ら、
そこまでのシステムがなければ救われなかった、
自分のカス野郎加減も明らかに「知らされた」「わかった」になるわけや。


そういうわけで、
「南無阿弥陀仏」した人に、
「知らされた」「わかった」信心が「二種深信」やから、

「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
いつまでも「南無阿弥陀仏」せ~へん人(無帰命の人)には、
「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にあらへんで(苦笑)。

これは超大切なことやから、
ヘンテコドグマを注入されてる諸君に、
アドバイスしといたるで。

十分、気~つけてや!!(注6)


【今日のまとめ】
 1、様々な「信心」の中でも特別な、
  「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
 2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」
  になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、
  二つの角度から明らかにしたものである。
 3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
 4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
 5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
 6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
  いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
  「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。

※次回は、所謂「異安心」についてやで。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 「信心」(=プラサーダ、信楽)の対象は様々である。

●SraddhA cetasaH prasAdaH. (AKBh 55, 6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

と世親菩薩が『倶舎論』で定義されているように、「プラサーダ」は仏教における代表的な「信」であり、阿弥陀仏信仰に限定されたものではない。

 その証拠に、

●athi kho no Avuso satthari pasAdo, atthi dhamme pasAdo. (MN. I.
11)
(訳)友よ、我々には師に対するプラサーダ、法に対するプラサーダがある。

というように、パーリのマッジマ・ニカーヤ(中部)のような所謂「小乘経典」にも「プラサーダ」は説かれているし、同じくパーリのサムユッタ・ニカーヤ(相応部)には、

●pasAdehi KokAlika SAriputta-MogggallAnesu cittaM. (SN. VI, 9)
(訳)コーカーリカよ、サーリプッタとモッガーラーナに対してお前は心をプラサーダにせよ。

というように、サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラーナ(目連)に対する心の「プラサーダ」が勧められている。

 したがって、仏教において「プラサーダ」の対象は一様ではなく、ある人が「プラサーダ」を起こした際には、その「プラサーダ」が何を対象とした「プラサーダ」であるが問題となる。


注2 「信心」(=信楽、プラサーダ)を得たことが、イコール「南無阿弥陀仏」の六字の「名号」を受け取ったことであることは、§6において、『御文章』5帖13通に基づいて述べた。


注3 「真実の信心」=「二種深信」に関しては以下参照。

『教行信証』信巻の「三心一心問答」には、 第十八願の「至心・信楽・欲生我国」が「信楽」におさまり、それが「一心」であり「真実の信心」であると述べられている。

 ●今三心の字訓を按ずるに、
  真実の心にして虚仮雑ること無し、
  正直の心にして邪偽雑ること無し、
  真に知んぬ、
  疑蓋間雑無きが故に、是を「信楽」と名く。
  信楽は即ち是れ一心なり。
  一心は即ち是れ真実信心なり。

『教行信証』信巻「一心轉釈」には、「真実信心」=「深心」=「深信」=「金剛心」であることが述べられている。
 
 ●然れば、願成就の一念は即ち是れ専心なり。
  専心は即ち是れ深心なり。
  深心は即ち是れ深信なり、
  深信は即ち是れ堅固深信なり、
  堅固深信は即ち是れ決定心なり、
  決定心は即ち是れ無上上心なり、
  無上上心は即ち是れ真心なり、
  真心は即ち是れ相続心なり、
  相続心は即ち是れ淳心なり、
  淳心は即ち是れ憶念なり、
  憶念は即ち是れ真実の一心なり、
  真実の一心は即ち是れ大慶喜心なり、
  大慶喜心は即ち是れ真実信心なり、
  真実信心は即ち是れ金剛心なり、
  金剛心は即ち是れ願作仏心なり、
  願作仏心は即ち是れ度衆生心なり、
  度衆生心は即ち是れ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり、
  是の心は即ち是れ大菩提心なり、
  是の心は即ち是れ大慈悲心なり、
  是の心は即ち是れ無量光明慧に由りて生ずるが故に。
  願海平等なるが故に発心等し、発心等しきが故に道等し、
  道等しきが故に大慈悲等し、大慈悲は是れ仏道の正因なるが故なり。

『愚禿鈔』の「深心」にも、「深心」=「深信の心」=二種の深信=「他力の金剛心」であると述べられている。

  深心と言ふは即ち是れ深信之心なり。
  亦二種有り。
  『一には決定して、
   「自身は、現に是罪悪生死の凡夫、
    曠劫より已来常に没し常に流転して、
    出離の縁有る事無し」
   と深信す。
   二には決定して、
   「彼の阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまふこと、
    疑無く慮無く、彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」
   と深信す』と。
  今斯の深信は、他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

これらによって、「真実の信心」=「一心」=「信楽」=「二種の深信」であることは明らかであり、

「真実の信心かどうか?」 =「一心かどうか?」=「信楽かどうか?」=「二種の深信どうか?」

ということになる。


注4 親●会では、「救われる」という言葉は「信楽になる」という意味だけに使われているようである。
 しかし「法の深信」で知らされるのは、自らが阿弥陀仏のシステムに乗ずることによって間違いなく極楽浄土に往生して、迷いの世界から解放されるということである。
 これは、『観経疏』散善義の本文を読めば明かであり、そのようなシステム全体を、親鸞聖人が「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」と呼ばれたことは§1で既に述べた通りである。


注5 「凡夫」(プリタグ・ジャナ、異生)という言葉は、「輪廻を繰り返して種々の世界に生まれてしまうもの」という意味であり、単なる「愚かな者」「無知な者」ではない。自力では絶対に救われない存在を表す言葉である。


注6 この「ヘンテコドグマ」に関しては§10注4、並びに以下のQ&A参照。

Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」について

Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ

Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」
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