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「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)の関係

清森問答 親鸞会教義の相対化・78(投稿)より

 今回は「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)について、通仏教的な立場から解説してみたいと思います。(※注)


【1】「プラサーダ」(信楽)の対象は様々

●SraddhA cetasaH prasAdaH. (AKBh 55, 6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

と世親菩薩が『倶舎論』で定義されているように、「プラサーダ」は仏教における代表的な「信」であり、阿弥陀仏信仰に限定されたものではありません。

その証拠に、

●athi kho no Avuso satthari pasAdo, atthi dhamme pasAdo. (MN. I.
11)
(訳)友よ、我々には師に対するプラサーダ、法に対するプラサーダがある。

というように、パーリのマッジマ・ニカーヤ(中部)のような所謂「小乘経典」にも「プラサーダ」は説かれていますし、同じくパーリのサムユッタ・ニカーヤ(相応部)には、

●pasAdehi KokAlika SAriputta-MogggallAnesu cittaM. (SN. VI, 9)
(訳)コーカーリカよ、サーリプッタとモッガーラーナに対してお前は心をプラサーダにせよ。

というように、サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラーナ(目連)に対する心の「プラサーダ」が勧められています。

 したがって、仏教において「プラサーダ」の対象は一様ではありません。したがって、ある人が「プラサーダ」を起こした際に、その「プラサーダ」が何を対象とした「プラサーダ」であるが問題となるのです。



【2】「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)


 これに関連して、サンスクリット文『無量寿経』願成就文を見ますと、

※親鸞会教義の相対化・21(投稿3)参照
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-76.html

●ye kecit sattvAs tasya 'mitAbhasya tathAgatasya nAmadheyaM
Sr.n.vanti,
SrutvA cAntaSa ekacittotpAdam apy adhyASayena prasAdasahagatam
utpAdayanti,
sarve te 'vaivarttikatAyAM saMtis.t.hante 'nuttarAyAH samyaksaMbodheH.

(訳)およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

というように、

★「浄らかな信」(プラサーダ、信楽)を伴った心を起こした人が、
             ↓
★「完全な正覚より後退しない境地」(住不退転・正定聚)になる。

ということが述べられています。

ここで大切はポイントとなるのは、

★「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。

★阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。

ということです。

 既に述べたように、プラサーダの対象は様々であり、舎利弗や目連に対してプラサーダを起こしても、「住不退転」(正定聚)になることはありません。あくまでも阿弥陀仏の本願に対してプラサーダを起こした人が「住不退転」(正定聚)になるのです。


【3】阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こした人が、どうして「住不退転」(正定聚)になるのか?

 これはもちろん阿弥陀仏の力によってですが、

★「プラサーダ」(信楽)を起こした人が、極楽浄土に往生することが確定することによって、現世で「住不退転」(正定聚)になる。

ということが非常に大切なポイントになります。

●「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。『尊号真像銘文』(1)

●「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。『尊号真像銘文』(10)

と親鸞聖人が述べられているように、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」ということが、阿弥陀仏の本願によって誓われています。

 この阿弥陀仏の本願が実現しているから、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」というシステムが完成しており、阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こした人が極楽浄土に往生することができます。

 そして、このようなシステムが阿弥陀仏によって完成されているので、

●必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。『教行信証』行巻

●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。『教行信証』信巻

というように、「仏願の生起本末」つまり阿弥陀仏が衆生救済の願を起こされた由来と、その願が成就して現に衆生を救済しているということを、「聞きて疑心あることなし」になり「本願力回向の信心」(プラサーダ)を起こしたならば、極楽浄土に往生することが確定します。
 そして、将来間違いなく極楽浄土に往生することができるから、現在この身に「正定聚に入る益」があるのです。


【4】まとめ

いろいろ述べましたので、まとめておきます。

1,「プラサーダ」(信楽)の対象は様々である。
2,「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。
3,阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。
4,阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になるのは、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」ということが、阿弥陀仏の本願によって誓われ、そのシステムが完成しているからである。
5,つまり現在この身に「正定聚に入る益」があるのは、阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こし、将来間違いなく極楽浄土に往生することが確定するからである。


※注

「プラサーダ」に関しては、清森問答においても何度か取り上げられております。

~~おうさんのコメントより~~
中村元著「東洋人の思惟方法」第一部一八九頁

「仏教における信仰の観念は、また極めて古い時代からprasadaと云う語を以て表示される。それはまた「澄浄」とも「喜」とも訳された。すなわち仏教における信仰は、仏の法を信じて、心がすっかりしづまり澄み切って、しづかな喜びの感ぜられる心境をいうのである。従ってちょうどprasadaに相当する語を、西洋の言語のうちに見出すことは困難である。仏教の信の心境は、しづかな、おちついたものであって、熱狂的、狂信的な信仰からは、およそかけはなれたものである。……」


~~親鸞会教義の相対化・24~~
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-83.html
 先日、清森さんの依頼で『無量寿経』本願成就文のサンスクリット文を紹介させて頂きましたが、

 現世で不退転に達する(=信心決定する)ためには、阿弥陀仏の名号を聞いた後、最低一度、浄らかな信を伴った(prasAdasahagata)心(citta)を起こす必要があります。

「浄らかな信」(prasAda、プラサーダ)は、「しずめる」「浄化する」「喜悦する」「滿足する」という意味をあらわす動詞、pra-√sadから作られた名詞であり、「心が澄みきって清らかとなり、静かな喜びや滿足の感じられる心境」のことであって、

「誰かに教えられたことを無条件に信じ込む」ような、「思考停止」とは全く異なります。


~~親鸞会教義の相対化・30~~
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-97.html

ちなみに私は、

●本人がプラサーダ(浄らかな信)を伴った心を起こしたかどうか?
=本人が三心を具足したことを自覚したかどうか?

によってしか、信心を判定することはできないと思っています。

一方「思考停止しているかどうか?」は、その人の言動から、ある程度推測することが可能なのではないかと思います。


===================================
※参考思考停止とは(はてなダイアリー)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%D7%B9%CD%C4%E4%BB%DF

【意味】
考えるのをやめること。あるいは、あることに対する判断を放棄して、既成の判断を無批判に受け入れること。

「短絡的な反応」「脊髄反射」「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのまま当てはめる」状態を指し、議論において極めて批判的に用いられる。

【使われる場面】
 基本的に、きちんと論証する手間を省いて「自分は正しく、相手は間違っている」ということを簡潔に訴えるために使われる手抜きのための用語。「相手の異論は絶対、間違いであるのに対して、自分は絶対、正論である。つまり自分や相手が、一般常識と世間から見て論理的で無く矛盾した発言をしているのに、ただ感情的に正論と、物事をきちんと判断できない人達を指す時に使用する」
 簡単に言えば「ダメ。ゼッタイ」「絶対、儲かる」「絶対、崇拝しろ」と主張したい人が使う。

 また、左翼・右翼・保守・革新・革命・ネットワークビジネス・法令順守などの立場からの発言ばかりだ、とレッテルを貼って反対意見を馬鹿にするためにも駆使される。

 この言葉を使うこと自体、往々にして、相手の発言を読み取らずに「反~何とか」というレッテルを貼るだけに終わってしまう。すなわち「思考停止」という絶対主義の論理である。
===================================

 なお、kkhate(=kkk)さんご自身が、プラサーダ(浄らかな信)を得ていないと仰っておられたので、

>今後は、「思考停止」ではなく「プラサーダ(浄信)」を求めて頂きたいと思います。

とアドバイスさせて頂きました。


以上



参考1 「若不生者」の「生」は、「極楽に生まれる」じゃなきゃだめ!!
参考2 「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う より

653 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:00:34 ID:eu09B6u2
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に極楽に生まれること」』
> これと
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に必ず
> 極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」』
> この2つには区別が立つというのが本稿での主張です。

> 後者の表現の場合、この「生」は極楽ではなく、

いや、あくまで「生」を「極楽に生まれる」と解釈するからこそ、
前者から後者の意味が派生するのです。

>「死んでから後に必ず極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」とは
> 法の深信で、機の深信の同時に立たない二種一具の深信はないのだから、
> 正にこれこそが、「信楽」の一心の相状を顕すのです。

そもそも「信楽を獲た人は」という大前提があるのを忘れています。
この人の主張によれば、本願の内容は
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
となります。これでは同義語反復であって、何も誓われていないのと同じことになります。

本願の内容はあくまで
「信楽を獲た人を極楽に生まれさせる」
です。(親鸞聖人自身が、あちこちで何度も仰っていますから間違いありません。)
そして、この意味から
「信楽を獲た人は極楽往生が確定する」
という意味が派生し、さらに「極楽往生が確定する」ことを「不体失往生」と定義することにより、
「信楽を獲た人は、その一念で不体失往生する」
という意味も出てきます。(実際、成就文はそういう内容になっています。)
ですから、本願文を深読みすれば、ここまでの意味を導くのはセ-フです。


656 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:13:05 ID:eu09B6u2
>>653の続き

しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、
あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
という同義語反復になってしまいます。
ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。



658 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:28:21 ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。

なお、田中氏は「即得往生」に該当する箇所を本願文では「至心信楽」だと言いましたが、
それは時間的に同じ部分はそこしかないという意味で言ったのだと拝察します。
実際、田中氏は、「即得往生」と「至心信楽」が「同じ意味だ」という言い方はどこにもしていません。




そろそろ、これも浸透してきたんじゃないかな~(苦笑)。
 ↓↓↓
ツッコミ!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する より~
★親鸞聖人の言葉に基づき「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることを証明し、【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを論証しました。

★親鸞聖人の言葉に基づき「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであることを証明し、「信楽=正定聚」とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、「信楽の者→正定聚」とお説きになられている親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを証明しました。

ツッコミ!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する より~


これまで注入されたものが強固だから、
解除するにも相当時間がかかるのね(苦笑)。
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「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
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