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ツッコミ!【第22回】「若不生者」で「生まれさせられる」もの

第22回がアップされました。
 ↓↓↓
【第22回】「若不生者」で「生まれさせられる」もの
http://shinjin.info/2008/11/171401160.html

我々を、今までも、今も、今からも苦しめ続ける最も怖ろしい、親鸞聖人の「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とは何か。また「疑情」と言われているものは如何なるものか。それが「信受本願」の一念に死ぬと言われているものとは一体、どんな心であろうか。

世間では我々を苦しめているものは、欲や怒りや愚痴の煩悩だと思われているが、親鸞聖人は三世を貫いての苦悩の元凶は、そんな煩悩ではないことを教えられている。ではその元凶はなにか。

お聖教には種々の言葉で説かれている。已に挙げたように親鸞聖人は「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とも「疑情」とも言われている。また「本願疑惑心」とか、「仏智疑う心」とか、「無明長夜の闇」とも仰っている。

覚如上人は「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情」とか、「生まるべからざる心」と言い、蓮如上人は「往生不定の心」とか「二心」とか「雑行雑修自力の心」など種々教導なされているものである。

一言で言えば、「弥陀の本願」を疑っている心であり「死んだらどうなるかハッキリしない心」だ。いざ真面目に自分の死を凝視すると、「若存若亡」(ある時は助かるように思い、ある時は助からぬのではなかろうかと危ぶむ心)「往生不定の心」(浄土へゆけるかどうか、ハッキリしない心)「死んだらどうなるのだろう」「ひょっとしたら悪い処へゆくのでなかろうか」「このままでよいのだろうか」

「弥陀は本当に助けてくださるのだろうか」「俺の信心これでよいのであろうか」「ひょっとしたら間違っているのでなかろうか」などの心、総べてを言う。


だから何?(苦笑)

以上の解説は、以下のヘンテコドグマを誤魔化すための、
ブレンド隠蔽工作ですね(苦笑)。


この三世を徹して苦しめる元凶(三世の業障)を「必ず、一念で晴らし大安心の心(信楽)に生まれさせる。若し、生まれさせることができなかったら、正覚を取らぬ」と誓われているのが、「若不生者不取正覚」の弥陀の八文字なのである。


おいおい。。(苦笑)

このように主張することの根拠がないから、
ツッコミをボコボコ入れられているのに、
論拠に基づか(け)ないまま、
このドグマを前提に議論するのはおかしいって、
何度教えてあげたら、わかるんですかね~(苦笑)。

どんだけ誤魔化そうとしても、
論拠に基づか(け)ないことは明々白々でっせ(苦笑)。


この弥陀の誓い通り、本願を信受した一念に三世の業障が死(命終)んで、弥陀の浄土へ往生間違いなし(即生)と、本願に疑い晴れて大満足の心に生まれられた(不体失往生)のを親鸞聖人は、「まことなるかなや、攝取不捨の真言、超世希有の正法」と慶喜なされ、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことに時いたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」
と和讃なされているのである。


あ~ん?(苦笑)

この和讚に対する、チ●ーリップ企画(=親●会)の解釈が、
古典文法&親鸞聖人の教えがわかってないことに起因する、
とんでもヘンテコ解釈であることは、
既に晒し者にされてるんですけど、もうお忘れですか?(苦笑)


===古典文法&親鸞聖人の教えをもう一回勉強してね♪===
【田中さんの反論】
>それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。


 少しでも古文の知識があれば、読み間違えるはずのない文章だと思いますが、なぜ間違われたか不思議です。


 これは、阿弥陀仏が「若不生者」と誓われているから、「信楽まことにときいたり、一念慶喜する」人は、「(死んで)往生かならず定まりぬ」ということです。信楽になる時が至り、一念で慶喜する身になった人は、死んで必ず極楽に往生させると誓われたのが、弥陀の十八願だという意味です。

 貴方は「ときいたり」で文章を切って理解しておられるようですが、ここで切るならば、終止形の「いたる」(過去形なら「いたりき」)とならねばなりません。親鸞聖人が、こんな文法のミスをされるはずが無いと思います。

 また、これは十八願の解説ですから、親鸞聖人の解釈を元に読まねばなりません。

 尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。


 つまり、文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。



>ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。


「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。

【清森さんの補足説明】
「若不生者のちかいゆえ」の御和讃については、「時至り」の解釈が問題になると思いますが、古文の文法については、詳しく知りませんので、古文を教えている知り合いに、文法的な意味を教えてもらいました。

 以下に引用させて頂きましたが、やはり、「若不生者と誓われているから、信楽がまことに時至るのだ」とは読めないようです。

        *      *      *

>  さて、ご質問の件ですが、“至り”という単語は、古語ではラ行四段活用になり、
>
> 語幹 -至
> 未然形-ら
> 連用形-り
> 終止形-る
> 連体形-る
> 已然形-れ
> 命令形-れ
>
>  このように活用します。“至り”は連用形ということです。
>  連用形には、4通りの使い方があります。
>
> 1、用言が続く(連用法)
> 2、文を一旦区切って、そのまま次に続ける(中止法)
> 3、名詞に転じる
> 4、助動詞、助詞が付く
>
>  ご質問の文章では、“至り”で止めてありますので、2か3の用法です。
>
> 2は、現代語で分かりやすく言えば、“酒を飲み(連用形)、酔っぱらって帰った”というような使い方です。
> 3は、例えば“遊び”という“遊ぶ”の連用形が、名詞のように使われている場合です。(ちなみに古語では“演奏”という意味です)
>
>  ご質問の文章では、名詞的に使われていませんので、2の用法になります。
>  ですから、御返答としましては、
>
> “信楽まことに時至り”で切ることはできませんので、“信楽まことに時至り、一念慶喜する人”を、一つの言葉として、訳してください。
>
        *      *      *

 上記の説明からも、この御和讃は、

阿弥陀仏が、若不生者と誓われているから、
『信楽にさせていただける時がまこと至って、一念慶喜する身になった人』は、
必ず浄土往生できると定まるのだ。

と理解するのが正しいと思います。

「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。
貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。

 ↑
もちろんこれもアウトね(苦笑)。

親鸞会教義の相対化・73(投稿)より
(89)
一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。

===古典文法&親鸞聖人の教えをもう一回勉強してね♪===

というわけで、

22,古典文法&親鸞聖人の教えがわかっていないから、親鸞聖人の和讚をまともに解釈することができない。しかも文法上の誤りを指摘されても「間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と居直り、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」という蓮如上人の教えに反している。


覚如上人は、この弥陀の本願の救いを『改邪鈔』に、『本願の不思議をもって、生るべからざるものを生れさせたればこそ、「超世の悲願」とも名け、「横超の直道」とも聞えはんべれ』
と教導なされている。

この「生るべからざるもの」が「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情」であり、「生まれさせた」が「信楽に生まれた」ことである。こんな不思議な弥陀の本願だから「本願の不思議をもって」と覚如上人は言われて、だからこそ弥陀の本願を「超世の悲願」とも「横超の直道」とも教示なされているのだ、と仰っているのである。


あ~ん?(苦笑)

覚如上人『改邪鈔』のこの「生るべからざるものを生れさせたれば」に対する、
チ●ーリップ企画(=親●会)の解釈に関しては、
現益と解釈した上で「信楽に生まれた」と解釈しない田中さんと、
当益にも解釈することができるため「信楽に生まれた」と解釈しないBさんの、
二つの反論が出されていますが、
チ●ーリップ企画(=親●会)は、何れに対しても答えていませんね~。

===これが目に入らぬか!!===
【田中さんの解説】
この改邪抄の記述は、少し前の部分の「仏、願力の不思議をもって無善造悪の凡夫を摂取不捨したまう時は」の解説です。つまり、「生まるべからざるもの」とは「無善造悪の凡夫」のことであり、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のことを表しています。

「摂取不捨したまう時」とは、歎異抄一章に『「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめ給ふなり。』と記述されている通りです。

この 「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、という部分は、本願文の「至心信楽欲生我国」に当たります。根拠は既出ですが、

『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。』

さらに、この摂取不捨の利益にあづかった人が、極楽浄土に生まれなければ仏にならないと誓われたのが「若不生者」だと、記述されています。

『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

このように、親鸞聖人の記述から、改邪抄の「生まれさせた」は、生きている間であり、「若不生者」の「生」は死後であることが明らかです。

【チ●ーリップ企画の解釈に対する田中さんのツッコミ】
>「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。

貴方の主張は、「阿弥陀仏が、必ず極楽に生まれさせると誓われなくても、信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」ということですか?

>それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。

『その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。』

上記は、貴方の言葉ですが、何に全力を尽くすのですか?

>「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。

「阿弥陀仏が、必ず信楽に生まれさせると誓っておられるから、必然的に信楽になれる」と主張されているのは、貴方ではありませんか?

必然的に信楽になれるのなら、なぜ「難し」と言われるのでしょう。

上記の根拠は、貴方の主張が間違っている証拠です。

>「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」いう可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。

つまり、「若不生者」は「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」という意味だと、認めたということですか?

※苦笑注 次ぎのメールで田中さんの質問をチ●ーリップ企画はオール無視!!(苦笑)


→「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら、
 「生まるべからざるもの」になりましぇ~ん(苦笑)。


【Bさんの解説】
今、一番の問題となっているのは覚如上人の
「生るべからざるものを生れさせたればこそ」
というお言葉が現益・当益のどちらを言われたものか、という点です。あの後、調べてみたら、その文の前にある「往生浄土の器もの」という言葉を受けて、実際に当益と解釈している本が見つかりました。私はその説を支持します。あなたが「現益だ」と主張されるのであれば、その理由を明確に述べてください。

>「生まれさせたればこそ」が当益ならば「生まるべからざるもの」とは何ですか。
> 正定衆の菩薩が死んで仏に生まれても、何の不思議ですか?

信楽を獲た人は、法徳から言えば「正定衆の菩薩」ですが、機相から言えば「煩悩具足の凡夫」のままですから、「生まるべからざるもの」であることに変わりはありません。「生まれさせたればこそ」が当益であると仮定しても何も矛盾しませんよ。

(略)

その進道の階次をいうとき、ただおなじき座席なり。しかるうえは、かならずしも俗の二種をしりぞけて、道の二種をすすましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちいる条、本形としては、往生浄土のうつわものにきらわれたるににたり。ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。


『浄土に生まれ、順序を言う時は、いずれも同じ座席についているのである。こうした訳だから、俗の二種を低く押し退けて、僧の二種を高く押し進ませる必要はないのに、婦人や在俗のものが、強いて法名を用いるのは、いかにもそのままの形では、浄土に生まれる器ではないと、嫌われているかのようである。ただ男女・善悪の愚かな人に、さかしらな才能を働かせない生地のままの姿において、本願の不思議な働きによって、浄土に生まれることが出来ないものをも生まれさせたからこそ、「いつの世にも超え勝れた願」と名づけたり、「一足とびにさとることの出来る捷径」ともいわれる訳である。この一章は、ことに曾祖師、並びに祖師以来、相伝え、受け継いできた眼目であって、強いてかりそめに扱ってはならないものである。』

(【改邪抄】親鸞述 石田瑞磨訳 平凡社)
===これが目に入らぬか!!===

というか、
「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が、
違うものであることがわかっていれば、

この「生るべからざるものを生れさせたれば」を、
現益に解釈したとしても当益に解釈したとしても、
チ●ーリップ企画(=親●会)のように、
「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する、
根拠にしちゃうのがおかしいことは、
一発でわかるんだけどね(苦笑)。


というわけで、

23,「生るべからざるものを生れさせたれば」を現益に解釈しても当益に解釈しても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する根拠とはならない。しかし「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、そのことが理解できていない。

24,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら「生まるべからざるもの」ならないという当然の論理的思考ができてない。


蓮如上人は『御文章』に、
『「不可称・不可説・不可思議の功徳」ということは、数限りもなき大功徳のことなり。この大功徳を、一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に廻向しまします故に、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり』 と詳述される。


あ~ん(苦笑)

一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、『和讃』(正像末和讃・三一)に聖人(親鸞)のいはく、「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」。この和讃の心は、「五濁悪世の衆生」といふは一切われら女人悪人のことなり。さればかかるあさましき一生造悪の凡夫なれども、弥陀如来を一心一向にたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんものをば、かならずすくひましますべきこと、さらに疑ふべからず。かやうに弥陀をたのみまうすものには、不可称不可説不可思議の大功徳をあたへましますなり。「不可称不可説不可思議の功徳」といふことは、かずかぎりもなき大功徳のことなり。
この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。このこころをまた『和讃』(正像末和讃・一)にいはく、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり」(意)といへり。「摂取不捨」といふは、これも、一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を光明のなかにをさめとりて、信ずるこころだにもかはらねば、すてたまはずといふこころなり。
このほかにいろいろの法門どもありといへども、ただ一念に弥陀をたのむ衆生はみなことごとく報土に往生すべきこと、ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。『御文章』5ー6


赤字に注目!!

「一念に弥陀をたのみたてまつる」
「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば」
「弥陀如来を一心一向にたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さん」

これらは私達がしなけりゃいけないことで、
衆生がこれをすることによって、
「一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しまします」
「不可称・不可説・不可思議の功徳」を頂いて、
「過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり」
になるんでっせ~。

言い換えると、
「一念に弥陀をたのみまうす」でない「衆生」だったら、
「不可称・不可説・不可思議の功徳」は頂けないし、
「過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり」
にはなりませんってことですがな(苦笑)。

だからこそ、

「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな」

と善知識は教えておられるわけですよ(苦笑)。

ぶっちゃけ、親●会って、
「弥陀如来を一心一向にたのみまゐらせて、
後生たすけたまへと申さん」
ことの大切さをちゃんと教えてます??(苦笑)

高●先生に無条件服従して、
高●先生の話を聞いて親●会に財施するだけじゃ、
「不可称・不可説・不可思議の功徳」は頂けないし、
「過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり」
には絶対なれへんで!(苦笑)

「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」
を本当に目指してます?どう?大丈夫??(苦笑)


25,チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマに抵触しないように、『御文章』の文章を恣意的な形に省略して加工している。そのため「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」になるために、善知識が「弥陀の本願信ずべし」と教えられている部分も省略されている。



これら善知識方が揃って『本願文』の「若不生者」の「生」は、釈迦の『成就文』の「即得往生」であり、親鸞聖人の仰せの通り「信受本願・前念命終・即得往生・後念即生」であることを、重ね重ね鮮明になされていることが知らされる。


そうですか~?

善知識方がそろって、チ●ーリップ企画(=親●会)ドグマのヘンテコさを、
重ね重ね鮮明になされていることが知らさせる。

の書き間違えだと思いますけどね~(苦笑)。

今後も見苦しい更新は続けるんですか?


ますます醜態を晒すことになりますけど、
本当にいいんですかね~?

ボコボコにしている僕が言うのも何ですが、
シャレになりませんで。もう(苦笑)。
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苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
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※私にメールで質問してもエエけど、
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