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Q&A(23)親●会のコラージュ本尊をどう思うか?

Q。(真偽検証さんの質問)
ご存知のように、親鸞会の本尊は南無阿弥陀仏の左に「親鸞」と合成複写してあります。これは改邪鈔本の【七・本尊聖教に知識と号する者の名を記すまじき事】に反するように思います。しかし、親鸞会では
・改邪鈔のお言葉は悪知識について言われたもの(つまり親鸞会には当たらないというのでしょう)
・親鸞聖人ご真筆の名号ということで「親鸞」と載せているだけ
だといいます。

そこで上の改邪鈔の意味と、この件に関する苦笑さんの見解を教えて頂ければと思います。既に示されている所がありましたらリンク先を教えて下さい。よろしくお願いします。


一 本尊ならびに聖教の外題のしたに、願主の名字をさしおきて、知識と号 するやからの名字をのせおく、しかるべからざる事。
 この条、おなじく前段の篇目にあひおなじきものか。大師聖人(親鸞)の御自筆をもつて諸人に書き与へわたしまします聖教をみたてまつるに、みな願主の名をあそばされたり。いまの新義のごとくならば、もつとも聖人の御名をのせらるべきか。しかるにその義なきうへは、これまた非義たるべし。これを案ずるに、知識の所存に同行あひそむかんとき、「わが名字をのせたれば」とて、せめかへさん料のはかりごとか。世間の財宝を沙汰するに似たり。もつとも停止すべし。
(『改邪鈔』)




A。
コラージュ本尊そのものより、
コラージュ本尊を作ろうとする心根が問題やと思いますな(苦笑)。


このようなコラージュ本尊を作ってしまう根底には、

「親●聖人のお名前をコラージュして付加価値を付ける」

ちゅう思考回路があって、

そういう考えでもって、本尊を見ているちゅうのが、
一番大きな問題やと思いますな(苦笑)。



阿弥陀仏がお作りになられた「南無阿弥陀仏」を、
受け取るか受け取らないかで、我々の後生が確定するっちゅうのが、
浄土真宗の御法義であり、

その「南無阿弥陀仏」に、
我々が常に親しみ近づくことができるように、
具体化されたものが「南無阿弥陀仏」の名号本尊なわけですわ。

せやから、そこに何かでもって付加価値を付けようとするような、
「南無阿弥陀仏」がわかってないくせに、金儲けに長けた、
インチキ宗教ビジネス野郎の発想に踊らされてはあきません。


※参考

やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因
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【ツッコミ依頼】嘘情報をグローバルに発信してんじゃね~よ!!

飲み会が忙しくて、ツッコミ依頼が入ってるのを忘れてました。汗

【依頼者】

こんばんは。いつもお世話になります。
S会講師のblogですが、法然聖人までは、自力の念仏と他力の念仏を区別されてなかったそうです…(;´Д`)

浄土真宗親鸞会 宇治金時にあこがれて 2009-11-09 電話座談会で報恩講
http://d.hatena.ne.jp/masatomo18/mobile?date=20091109#1257744492


>・念仏に3通り有り、それを自力の念仏と他力の念仏に分けられる、
法然上人までは分けられて居なかったのを、親鸞聖人が分けられたとお聴きしました。
>同時にこの聞法をグローバルで聞けるってすごいなと思いました。

お互い突撃して、シメてやりませんか??(´∀`)


【苦笑】

あ~ん?(苦笑)

●念仏の数を多く申す者をば自力を励むといふ事、これ又ものも覚えあさましきひが事なり。
ただ一念二念を唱ふとも、自力の心ならん人は、自力の念仏とすべし。
千遍万遍を唱え、百日千日夜昼励み努むとも、ひとへに願力を頼み他力を仰ぎたらん人の念仏は、声々念々、しかしながら他力の念仏にてあるべし。
されば三心をおこしたる人の念仏は、日々夜々、時々刻々に、唱ふれども、しかしながら願力を仰ぎ、他力を頼みたる心にて唱え居たれば、かけてもふれても、自力の念仏とはいふべからず。
『勅伝』巻二十一、「七箇條の起請文」(昭法p.811)

★自力の心ならん人の念仏=自力の念仏
★ひとへに願力を頼み他力を仰ぎたらん人の念仏=三心をおこしたる人の念仏=他力の念仏


法然上人は、「自力の念仏」と「他力の念仏」を、
しっかり区別されてるんだよ!!


法然上人の言葉を勉強したこともないくせに、
偉そうに法然上人について語るから、大恥ぶっこくんだよ。


嘘情報をグローバルに発信してんじゃね~よ!!

「二種深信」(灘本愛慈著『やさしい安心論題の話』 より)←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(9)

メル友からお知らせ頂きました。
ちょっと親●会に呆れてはったで(苦笑)。


【メル友からのメール】

●●です。

灘本和上の『やさしい安心論題の話』をUPしておきました。
それにしても高●親●会の会員って自分で用語の概念定義を調べる事はないんで
しょうかね。

●●のような田舎のじじいでも自分で調べるんだがなあ。

http://wikidharma.org/4afeca5fbdef4




~以下、無断転載~

二種深信


およそ、どのような宗教であっても、「信心」ということを重要としない宗教はないと思います。 しかし、言葉は同じ「信心」でも、その意味内容はそれぞれの宗教によって、一様ではありません。
 浄土真宗は、南無阿弥陀仏の名号のいわれをお聞かせいただくことによっておこさしめられる信心一つで救われるのであって、他の宗教や宗派でいわれている「信仰」や「信心」と、その性格が異なります。このよう真宗の信心の特異性を明確にあらわされるのが「二種深信」であるといえましょう。
 それだけに、またこの二種深信の理解ついては、さまざまな問題をはらんでいます。古来、信心に関する異解・異安心といわれるものの多くは、この二種深信の理解の相違から生じたものであるといっても過言ではありません。


『観無量寿経』に(真聖全一ー六○]、
一つには至誠心、二つには深心、三つには廻向発願心なり。三心を具する者は必ず彼の国に生ず。
と説かれています。この三心について、善導大師は『散善義』にくわしい解釈をされています。その「深心」の解釈に(真聖全]ー五三四)、
深心というはすなわちこれ深信の心なり。また二種あり。
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなく、かの願力に乗じて、定んで往生をうと信ず。
とあります。はじめに、「深心というは深信(深く信ずる)の心なり」というのは、『大無量寿経』の第十八願成就文に、「聞其名号信心歓喜」とある「信心」をもって、『観経』の「深信」を解釈されたものであります。したがって、次に示される二種深信は、他力真実の信心のすがたを機と法の二種に開いてあらわされたものとしられます。ゆえに宗祖聖人は『二巻鈔』に、右の二種深信の文をあげられて(真聖全ニーー四六七)、
いまこの深信は、他力至極の金剛心、一乗旡上の真実信海なり。
と仰せられています。
 「一つには自身は現にこれ」等というのは、救われる私ども(機)について示されますから機の深信、略して信機といわれ、「二つにはかの阿弥陀仏の四十八願は」等というのは、その機を救う法について示されますから法の深信略して信法といわれます。そしてこの機と法について、それぞれ「決定して深く……信ず」とありますから、二種深信といわれます。


 機の深信の中、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」というのは現在の私のすがたで、罪悪(迷いの因)生死(迷いの果)の凡夫であるという。「曠劫よりこのかた」等とは私の過去のすがたで、始めなき大昔から、いつも悪道に沈み(常没)、迷界をへめぐってきた(常流転)という。「出離の縁あることなし」とは、迷界を出る手がかりがないという。前に現在と過去のすがたを示されていますから、この文は将来にむかって、今後も迷界を出る手がかりがないという意味と受けとることができます。
 そうしますと、私はいま罪悪生死の凡夫であるばかりでなく、これまでも、これから後も、迷界を出ることのできない身である、とはっきり知らせていただくのが機の深信であります。


法の深信の中、「かの阿弥陀仏の四十八願は」というのは、意は第十八願を指しています。四十八願全体が衆生を救わずにはおかぬという第十八願に総摂されますから、今は第十八願のことを四十八願と仰せられたのです。「衆生を摂受して」というのは、「衆生」とは前の機の深信で示された衆生、すなわち迷界を出る手がかりのない私で、その私をお救いくださるのが阿弥陀仏の願力であるという。
 「疑いなく慮りなく」というのは、上の文に属して「衆生を摂受したもうこと、疑いなく慮りなし」というふうに見れぱ、阿弥陀仏が衆生を救いたもうことに一点の危ぶみもないという意になります。下の文に属して「疑いなく慮りなく彼の願力に乗じて」と見れば、願力に乗ずる私の心相が一点の危ぶみもないという意になります。機を救う法の側に危ぶみがないから、この法に救われる機の側に危ぶみがないのです。今の文は下の文に属して、衆生が一点の危ぶみもなく願力にお任せする意と見るのが文の当分でありましょう。
 「かの願力に乗じて」というのは、「乗」は船に乗るとか車に乗るというように乗託する(任せる)ことであって、阿弥陀仏の願力にお任せすること。「定んで往生をう」とは、まちがいなく真実報土に往き生まれることができるということであります。
 そうしますと、阿弥陀仏の願力は迷界を出る手がかりのない私どもをお救いくださる法である、とはっきり信知させていただくのが法の深信であります。


 この機法二種の深信は別々の二つの信心ではありません。前述のように、名号のおいわれを聞くことによっておこさしめられた他力の信心を機の側と法の側とに分けて示されたものであります。すでに(1)「聞信義相」の論題でうかがった通り、宗祖聖人は第十八願成就文の「聞其名号」を解釈されて(真聖全ニー七二)、
聞というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。
と示されています。「仏願の生起」は出離の縁あることなき私どもであり、「本末」とは、そのような私どものために願をおこし行をはげんで(本)、現在果成の阿弥陀仏となり、私どもに救いをよびかけていてくださること(末)であります。この仏願の生起本末を聞いて、その通りに領解できたのが「疑心あることなし」の信心ですから、常に没し常に流転して出離の縁あることなき私(機)をお救いくださるのが阿弥陀仏の願力(法)である、と信知せしめられます。ゆえに信機と信法とは二種一具であるといわれます。


 機の深信とは、機実すなわち私の本当のすがたを知らされることであり、法の深信とは、法実すなわち如来の願力の本当のすがたを知らされることであります。
 機実を知らされるということは、罪悪生死の凡夫で出離の縁あることなき私であると知らされることであり、出離の縁あることなき私であると知らされることは、私のカが出離のために役に立たないと知らされることであり、私の力が役に立たないと知らされることは、私のはからいを捨てるということであります。ですから、信機は捨機であるといわれます。
 法実を知らされるということは、如来の願力のひとりばたらきで救われると知らされることであり、願力のひとりばたらきで救われると知らされることは、すっかり願力にお任せするということであります。ですから、信法は託法であるといわれるのであります。
 わがはからいを捨てたのでなければ、如来の願力にお任せしたとはいえませんし、如来の願力にお任せしたのでなければ、わがはからいを捨てたとはいえません。いいかえますと、白力を捨てたのでなければ他力に帰したとはいえませんし、他力に帰したのでなげれば自力を捨てたとはいえません。こういう意味において、捨機即託法であり、捨自即帰他であります。


 善導大師の『往生礼讃』前序の安心を示されるところにも、『観経』の三心を示されてあって、その深心の解釈に(真聖全一ー六四九)、
二つには深心。すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、乃(いま)し一念に至るまで疑心あることなし。かるが中えに深心と名つく。
と述べられています。この『礼讃』では「一つには……二つには」と二種を分けず、「深く信ず」の代わりに「信知す」となっていますが、『散善義』の二種深信と同じで、信機と信法が示されています。
 信機について見ますと、『散善義』はくわしくて「『礼讃』は簡略であり、『散善義』は罪悪のみを示すのに対して『礼讃』は「善根薄少」と善も示されていますが、所詮「出離の縁あることなし」と「三界を出でず」と同じ意味であります。
 信法について見ますと、『散善義』では文面に称名が出ていませんが、『礼讃』には称名が出ています。しかし、『散善義』にあっては、ひろく七深信が述べられていて、その第七深信の就行立信の釈(真聖全一ー五三八)には、「一心専念弥陀名号」の称名が第十八願に順ずる正定の業として示されています。
 こういうわけで、『散善義』の釈と『礼讃』の釈とは異なるものではありません。


 二種深信の信機は、いわゆる三定死とは異なります。三定死というのは、『散善義』の三心釈に示された二河白道の譬喩の中(真聖全一ー五四○)に、かえるも死、とどまるも死、ゆくも死とあるもので、それはみずからの罪業におそれおののく絶望のすがたです。これはまだ釈迦のお勧め、弥陀のよぴ声が聞こえない時の心相です。機の深信は名号を聞信した心相であって、己の罪におののく恐怖の心相ではありません。
 二種深信は、機の深信が前で法の深信が後におこるのでもなく、同時に並び起こる別個の心相でもなく、また信後には信機がなくなるのでもありません。初後一貫する他力信心のすがたであります。
『やさしい安心論題の話』灘本愛慈 p66~

メモ「二種深信・聞かない姿」

真宗とカウンセリング 「二種深信・聞かない姿」 より無断転載

今日は華光の京都支部法座。
増井悟朗師をお招きして、「二種深信」のお話をしていただいた。
このテーマは、3月にあった講習会で1泊2日で話されたテーマだったが、「最後のほうが時間が無かったのでぜひもう一度」という世話役さんの希望で実現した集まり。
世間の法座は良く知らないが、講師の先生にテーマを指定してお願いするって言うのは、そうそう無いんじゃないだろうか。
それが出来る華光のよさと、受けてくださる先生の深さが身に染みる。

「二種深信」の中身についてはここでは述べないが、その渦中で「二種深信」に対する異安心・邪義を話してくださった上で、もう一度そういう間違いを超えた領解を示してくださった気がする。

そのあとの質疑・座談で話す方の姿を通して、まさに今話していただいた「聞きそこね」ということを感じた。

「機の深信」をたずねいていく過程で、「まだ罪悪”感”がたりません、もっと深めないといけないのか」という人がよくいる。
自分で機を深めようとするのは、自力の所作で、「機法一具」ではない。
法に照らされるからこそ、自分で都合よく見つめる「罪悪」ではなく、本当に流転し続けている我が身の本当の姿がわかるというのに。

また、「地獄行きだという事がわかりました」とそれで一丁上がりだと喜ぶ人もよくいる。
確かに、罪悪観を突きつけられても「自分のこととは思えない」という人よりは一歩進んでいるようにも思える。
しかし、そんな軽い地獄行きで知ったつもりになっているのは、「なんのために、これほどまでの願を立てられたのか」というところも軽くしてしまい、「救うとおっしゃってるんだから、任せとけば大丈夫ですわ、わっはっは」と、阿弥陀様を尻にいしいて高上がりしている姿でしかない。

そしてもうひとつ、「もう阿弥陀様にお任せです」と頭を下げておきながら、「これで安心、後生は任せたのだから、自分の機様(きざま)はどうでも問題ない」と済ましにかかってしまう姿。
これだけの仏願にであったならば、どこまでも「救われようの無い身」ということがますますはっきりしてくるのに、「一念」を過去のものとして、今・今を問わない。
「今、ここ、わたし」というのは信前の人のためではなく、”つねに没しつねに流転し出離の縁が無し”のままの私のためのことなのに。
そう、救うというのは阿弥陀様だが、私の機様は変わってはいないのだ。
ちょっと心境の変化があったくらいで、終わったこととする姿…恐ろしいことだ。

このようなことを「異安心・邪義」をいわれると、大事で遠い話(思いっきり間違っている人たち)のような気がしてしまうが、そうではなく、もっと身近な”わたし”の揺れる心境の様ではないだろうか。

ここを、自分のこととして聞かずに、「理屈では判る」とか「理解できる・できない」などとしてしまう姿こそ、「自分で機様を探る姿」じゃないだろうか。
「罪悪観・無常観」だけの話じゃない、「自分を頼りにする」ことが、「機を深く観る」ことを遠ざけてしまう。

「これは予定概念じゃないか」と自分の心ばかり探ったり、「これはどういう心境のお念仏だろうか」と六字を量りにかかる姿。
そこをめがけてただ「南無阿弥陀仏」が仕上がっているんだ、と。
帰ってからの心境を心配するのではなく、今目の前で先生の姿を通して「お聞かせに預かっている」のに、「聞くだけだとはわかるのですが」と耳を閉じている姿…いや、これは人ごとじゃない。

最後に、先生がやかんを手に持って一人一人についで回られた。
なんと申し訳ないことか。
先生にお茶を注がせることが申し訳ないんじゃない。
法が、一人一人めがけて飛び込んできている姿じゃないか。
目の前の出来事に恐縮している場合じゃない。
いったい、何人がそのことを感じたのか…

そのことを感じさせてもらっている我が身が、どれだけお手間をかけてきたかを省みずにいられない。
そこには勿体無いだとか、申し訳ないだとかはいらない。
そのお手間と、飛び込んできた中身に向かって、ただただお念仏申すだけだ。
南無阿弥陀仏

一つには決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に 没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じ て、定んで往生を得と信ず。

「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してるから、『歎異抄』が普通に読めなくなるんだよ!!

「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してるから、
『歎異抄』が普通に読めなくなるんだよ!!
 ↓ ↓ ↓
21世紀の浄土真宗を考える会 歎異抄第1章を読む 二種深信について

歎異抄第1章を読むのですが、書き出しについては以前少し書きましたので、今日は他の文について考えたいと思います。(書き出しの文については、あらためて書きたいと思っております)

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。

「往生極楽の一段」であるということをはずさなければ、難しい文章ではありません。
しかし、第3章や第13章と同様、読み間違えて「造悪無碍」になる危険性はあります。
その点は注意したいものです。

一方、「ただ信心を要とすとしるべし」という文をもって、「称名正因」を否定されたものであるという人もいますが、この文はそのようなことを言わんとしてのものではありません。あくまでも「老少善悪」などの差別はないということを示されたものです。ここでは「老少」と「善悪」とあげられていますが、「出家在家」「男女」「賢愚」・・・など一切の差別のない救いです。世の中のこのような差別はいろいろあるのですが、それらは「善悪」におさまるでしょう。それで、この後の文には、善悪に左右されないということが書かれているのであり、歎異抄全体を通して善悪の問題に多く言及されています。
「ただ信心を要とすとしるべし」は「善悪」が問題ではなく「信疑」が問題なのだということをおっしゃったもので、称名念仏と比較してのことではありません。

このような流れの中で、「信」とは疑いのなくなった「二種深信」であると説明するのならいいのですが、「二種深信」だから「悪をもおそるべからず」というのは、二種深信(特に機の深信)の正しい理解とは言えません。

二種深信については、私の「ともだち」の運営している「安心問答」でも議論されていました。
そこで「あほうどり」のハンドルネームでコメントしていたのが私ですので、そのコメントをまとめて、若干手直しして再掲したいと思います。(主に機の深信について述べています)

二種深信は、善導大師が観無量寿経の「深心」を表されたものです。
善導大師の「二種深信」のお言葉と言われるものは次の2つです。

「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 (観無量寿経疏 散善義)

二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、いまし一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃 前序)

この場合、観無量寿経の「深心」と言っても、隠彰弘願の意味ですので、大無量寿経の「信楽」のことであり、真実信心のことです。
従いまして、二つの心があるのではありません。
真宗学の学者や哲学者の表現の中に「矛盾的」とか「矛盾性」とか「矛盾のように感じる」というものはあっても、それがそのまま矛盾であると言うのは間違いです。

上にあげた善導大師の2つのご文を読んで分かることは何でしょうか?
何を深く信ずるのか、何が信知させられるのでしょうか?
散善義のご文を使って縮めて言いますと、
「自身は無有出離之縁の者なり」
となります。
では「現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転」は何を表しておられるのかというと、「自身」の様を表して、「無有出離之縁」の理由を示されたものです。
往生礼讃はその部分が、「善根薄少」となっています。
極悪最下とは書かれていません。
ところが、「散善義」のご文で「無有出離之縁」よりも「現是罪悪生死凡夫曠劫已来常没常流転」に重点を置いた読み方をしますと、罪悪観の極まりが機の深信であると誤解するのです。
重点は「無有出離之縁」にあります。

機の深信についてのよくある間違いは、「自己の罪悪を掘り下げていき、徹し切ったところに、いわゆる機の深信が立ち、救いがある」といった類のものです。
簡単に言えば罪悪観と機の深信との混同です。
浄土真宗の異安心の歴史で言いますと、江戸時代、近江(滋賀県)の光常寺で起きた「地獄秘事」などはその典型です。

機の深信とは
煩悩具足・罪悪深重の私は、迷いの世界から出離するのに間に合うものは一つも持ってはおらず、過去も現在も未来も、生死流転から抜け出せる自分でない、と信知する。
となります。
機の深信とは極悪最下の者とすべての人が知らされることではありません。

「二つの正反対のことが一念同時に知らされる」という人がいますが、二種深信は二つの心ではなく一つの心であり、前後があるのでも、並んで起きるのでも、いずれか一方が他方の条件であるのでもありません。

二種深信は機法二種一具の深信であり、図示しますと
 機の深信=自力無功=捨自
 法の深信=他力全託=帰他
となります。
そして、初起の一念より臨終まで一貫します。

親鸞聖人の正信偈の源空章の四句を読まれると、二種深信の意(こころ)がお分かりになると思います。
 還来生死輪転家
 決以疑情為所止
 速入寂静無為楽
 必以信心為能入
この前二句が機の深信の意、後二句が法の深信の意と思われたらよいでしょう。





参考 S会会員 2009/07/10 23:11 さんコメントより

(中略)

この機の深信に関しては、「えっ、そうなの、知らんかった。」と内心会長は思う
のではないかと思います。なにしろいたるところに機の深信を
こうした解釈で書いてありますので。
 思うに昔、会長の話を真剣に求めていたころ、自分は
罪悪深重のものと思おう、思おうとしていたことを思い出します。
無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの
極悪人と知らされる。これが「機の深信」である、といわれ
るとそのように思おうとし、そのように知らされたいそのよ
うに思いたいとずーっと考えていました。
こうした思いにとらわれている会員さんは非常に多いのではない
かと思います。法に対する疑いであると同時に機に対する疑いで
すから、当然一念で知らされる自己の姿が罪悪深重の無間地獄行き
間違い無しのものと聞くと自分はその自己の姿を本当と思えない、
これも疑情だからこの心をなんとかしたいと思うのは自然
な気持ちではないかと思います。
(私だけだったかもしれませんが)
ちなみに『歎異抄をひらく』にもこれに関連する記述がありま
した。
・弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の
自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、
不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされるから、「悪を
もおそるべからず」の告白は当然である。悪を恐れ不安になるの
は、地獄一定の悪人と知らされていないからだ。
                (159ページ)

(以下略)

絶対わからないものではありません、疑心有ることないのです←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(8)

「絶対に理解できない」とか、
「絶望への挑戦」とか言うから、
わけがわかんなくなるんだよ!!

わかってもいないくせに、
ショウモナイこと言ってんじゃね~よ!!
↓ ↓ ↓

安心問答 2009-07-07 絶対わからないものではありません、疑心有ることないのです より無断転載

機の深心とは『阿弥陀仏のお力によらなければ絶対に流転輪廻から抜け出せる自分でなかった』と知らされるというようなことを言われているんでしょうか?
もしそうなら二種の深心とは絶対矛盾するようなこころではないような気がします。二つの正反対のことが一念同時に知らされるとか、絶対に理解できないとか、絶望への挑戦とか大仰なことをいう人は間違っているということでしょうか?(S会会員さんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090706/1246861493#c1246893797
回答します。

コメントで書かれていることは、機の深信ではありません。

どちらかといわれれば、法の深信です。

機の深信とは、前回のエントリーにも書きましたが、

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)
という善導大師のお言葉です。書かれているように「昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信させられます。

遙か過去から現在まで、出離の縁有ることのない自分であると知らされるのです。

法の深信は、阿弥陀仏の本願に疑い晴れるのですから、阿弥陀仏の願力によって往生するに間違いないと知らされることを言います。

二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す。(法の深信)
正確に言えば、阿弥陀仏が私たちを助けて下される本願を建てられたことと、その願力によって往生できることが知らされます。

「絶対に矛盾」かといわれれば、「疑心有ること無し」は共通しているので、何もことさら不思議に思うことはありません。

「矛盾」と感じるのも、一つの疑心の現れなので、矛盾するかしないかの判断は人間の知恵でしていることです。阿弥陀仏の智慧からいえば、何の矛盾もありません。

罪悪生死の凡夫であり、出離の縁あることのない私がいるからこそ、阿弥陀仏は本願を建てられました。

出離の縁あることのない、罪悪生死の凡夫のままで、そのまま救うという本願力乗ずれば、かならず浄土往生させていただけるのですから、私の計らいではありません。

二つの正反対のことが一念同時に知らされるとか、絶対に理解できないとか、絶望への挑戦(S会会員さんのコメント)
このようにことさら強調するのは、阿弥陀仏の智慧を「人間の知恵では計れないもの」と計っているように聞こえます。

言葉そのもの、一つ一つは確かにその通りです。親鸞聖人が「不可称不可説不可思議」と言われているのですから。

しかし、「絶対理解できない」が、どうも「絶対に救われる事はない」、「滅多に救われることは無い」とことさらいっているように思えます。聞いている人が「自分は今生では助からないのではないか」、「助かる人はあっても、よほどの人でないと無理だ」と、ただ今救う本願を、ただ今救う本願と思えなくなるのではないでしょうか。

「(君たちには)絶対にわからない」というのは、「自分だけはわかっている」と相手に思わせる言い方です。

阿弥陀仏の作られた本願、名号を、ことさら自分の専有物のように思わせるのは歎異抄6章に書かれているところと同様のものと思います。

如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんと申すにや。かえすがえすも あるべからざることなり。(歎異抄6章)
如来よりたまわる信心なのですから、聞いた相手に「わがもの」と思わせることは、あってはならないことなのです。

心常念悪と疑い晴れるのではなく、出離の縁あることなしと深信します←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(7)

親●会ドグマは、条件つけまくりやねん!!

一切衆生を救おうとする阿弥陀仏の本願に、
勝手にショウモナイ条件をつけてんじゃね~よ!!
↓ ↓ ↓

安心問答 2009-07-06 心常念悪と疑い晴れるのではなく、出離の縁あることなしと深信します より無断転載

あるブログをみていると
心常念悪を心常念悪と疑い晴れたいうことは、はるかに人智を超えている。ちょっと聞いて分かることではありえない。
http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/f6a21f4d71ec1e93bd2f869df9d32798
とありました、私もそのように考えていたのですが、阿弥陀仏に救われ、無明の闇が晴れると、心常念悪に疑いが晴れるということなのでしょうか(メールで頂いた質問)
メールの文中に、掲載されたブログのURLが書いてあったので、このエントリーをトラックバックしてみました。

回答します。

結論から言いますと、阿弥陀仏に救われて知らされる姿は、機の深信であって心常念悪ではありません。

機の深信とは、以下のお言葉です。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)
ここにあるように、はるか過去から現在も、出離の縁があることの無かった自分であると、深信したことをいいます。深信とは、深く信ずると言うことですが、露チリの疑心が無くなったと言うことです。

ここで、疑心という言葉は、疑情であり、自力の心のことなのですが、疑煩悩とイメージが重なりやすいので、別の言葉で「条件をつける心」とします。

機の深信が立つまえ、阿弥陀仏に救われる前は、「出離の縁あることなし」ということにも「条件をつける心」で条件をつけます。

たとえば「極悪の自己が知らされねば」出離の縁はあることなしである。

「心常念悪と知らされねば」出離の縁あることなしである。

「心常念悪だから」出離の縁有ること無しである。

「聞法心が弱いから」出離の縁あることなしである。

救われない自分に条件をつける心が、自力の心です。条件があると思うから、自分の心にいろいろと条件をつけ、勝手にコーチをする心です。

「もっと自己を見つめよ」

「もっと悪を見つめよ」

「もっと強い聞法心を起こせ」

「もっと命がけになれ」

そうならないと、助からないぞ、救われないぞという心が条件をつける心であり、自力と言うのです。阿弥陀仏にかわって、かってに条件をつけ自分をコーチするのです。

阿弥陀仏に救われれば、条件をつける心がなくなるのですから、無条件に助からないと知らされるのが、機の深信です。

無条件に救うのが、阿弥陀仏の本願です。本願について条件をつける心がなくなるので、これを法の深信といいます。

無条件に救われない自己の姿が知らされるのが、機の深信です。

ですから、心常念悪だからと条件をつけるのは、自己の姿に条件をつけているので、救われて出てくる言葉ではありません。

比叡山の修行で罪悪観が深まって救われたということはありません←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(6)

自分は比叡山に行ってないくせに、
勝手なこと言ってんじゃね~よ!!

ショウモナイ話をしている暇があるなら、
お前ら全員比叡山で修行してこい!!
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安心問答 2009-07-09 比叡山の修行で罪悪観が深まって救われたということはありません より 無断転載

前述のエントリーで議論がされている中のコメントについて、エントリーします。

S会会員さんのコメントに対する、papaさんのコメントです。

「罪悪感を掘り下げていった先に機の深信があるとは会長が言ったことはないと思います。」と書かれてありますが、6月21日の降誕会ではっきりと、「親鸞聖人は20年間の比叡山でのご修行をされたから、いずれの行も及びがたき身、と知らされ、すべての人を極悪人と誓われた本願と相応した」と
言い切られました。
機の深信との言葉こそ出てきませんでしたが、「極悪人と誓われた本願と相応」=「機の深信」ではないでしょうか?
本願と相応する罪悪感など、それこそ何十年、聞いたことがありません。
願力によってのみ本願と相応すると、ずっとT先生が説かれていたからこそ、降誕会の発言にはびっくり仰天した次第です。
(驚いている人があまりいないのもまた驚きですが・・今までどのように聞いてこられているのかと。)(papaさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090706/1246861493#c1246976166

このコメントについて、思ったことをエントリーします。

上記のような話があったということですが、言葉通りとすれば、これは浄土真宗ではありません。

papaさんが「びっくり仰天」されるのは当然です。

それについて言い間違えというコメントもありました。では、正確にはどういうべきであったのかということを考えます。

結論から書きますと、以下のようになります。

親鸞聖人は20年間の比叡山でご修行をされた後、聖道仏教では助からないと山を下りられた。
その後、法然上人に巡り会い、阿弥陀仏の本願を聞かれ、阿弥陀仏の本願に相応し、いずれの行も及びがたき身、と知らされた。
もちろん、(1)と(2)の間には、因果関係はありません。時系列上のことを並べただけです。

比叡山の修行、自力聖道仏教について親鸞聖人は阿弥陀仏の救いと関係有るか、ないかということについては、全く関係がないといわれています。

末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも
ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまえ(高僧和讃)
末法の世では、聖道仏教の修行をしても一人もさとることはできないとお釈迦様は言われていると親鸞聖人はご和讃に書かれています。

救いと関係があるのならば、このようには言われていません。

また、罪悪観が深まるために修行が必要だったという意見もあるようですが、阿弥陀仏に救われるための必要条件として罪悪観が深まらなければならないということはありません。

阿弥陀仏の救いにあうための必要条件はありません。「こうしなければならない」「こうならなければならない」というものはありません。

「善をする(すすめる)ことは、よいことである」は、倫理の問題です。

よって、「悪を知らせるためには善をするしかない」というのも倫理の問題です。それ自体は、倫理的に多くの人が反論できないことです。反論できないことと知りながら声高に叫ぶのは、一向専念無量寿仏を叫んで流刑にあわれた親鸞聖人の精神とは著しく異なります。親鸞聖人というより捕鯨反対運動家に近いのではないでしょうか。

「鯨の命を守れ」ということ自体は、倫理的に正しいことです。正面切ってそれは間違いとは言えません。しかし、日本の食文化という観点から日本政府は反対を表明しています。それは文化的な意味での反対で、「鯨を殺すこと=善」といっているのではありませんが、捕鯨反対の人には通じないようです。

上記にあげた、捕鯨反対の人のように「善をすすめることは善いこと」という、それ単独では否定できない意見を声高に叫んでも、相手は強く反論できません。しかし、それは主張していることが倫理問題なので、念仏に対する疑謗もおきないでしょう。

しかし、阿弥陀仏の本願は倫理の問題ではありません。浄土真宗は、真実の宗教であって、最高の倫理ではありません。善をしなければ救われないのでもなければ、(倫理的)悪人と知らされなければ救われないのでもありません。

弥陀の浄土に往生出来るかどうかは、阿弥陀仏の願力一つによるのであり、南無阿弥陀仏の名号一つなのです。

「罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし」by.蓮如上人←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(5)

昨日紹介した法然上人の言葉でわかったと思うけど、

>弥陀に救われ機の深信がたつまでは、罪悪を
>観ていくのが大事なので、「罪の有る無しの沙汰をせんよりは~」
>と教えて下さっていることが分かりました。
by.親●会の人

 ↑
上のヘンテコドグマと、下の善知識の教えとの違いに気づいてや(苦笑)。
 ↓

一 順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、御文にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあ ひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。御文と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、されば無き分なり。命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや。聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず。ただ信心肝要なり と、くれぐれ仰せられ候ふなり。
by.蓮如上人(『蓮如上人御一代記聞書』35)

現代語訳:
順誓が蓮如上人に、「信心がおこったそのとき、罪がすべて消えて往生成仏すべき身に定まると、上人は御文章にお示しになっておられます。けれども、ただいま上人は、命のある限り罪はなくならないと仰せになりました。
御文章のお示しとは違うように聞こえますが、どのように受けとめたらよいのでしょうか」と申しあげました。

すると上人は、「信心がおこったそのとき、罪がすべてみな消えるというのは、信心の力によって、往生が定まったときには罪があっても往生のさまたげとならないのであり、だから、罪はないのと同じだという意味である。

しかし、この世に命のある限り、罪は尽きない。
順誓は、すでにさとりを開いて罪というものはないのか。そんなことはないだろう。
こういうわけだから、お聖教には、<信心がおこったそのとき、罪が消える>とあるのである」
とお答えになりました。

そして、「罪があるかないかを論じるよりは、信心を得ているか得ていないかを何度でも問題にするがよい。
罪が消えてお救いくださるのであろうとも、罪が消えないままでお救いくださのであろうとも、それは弥陀のおはからいであって、わたしたちが思いはからうべきことではない。
ただ信心をいただくことこそが大切なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

「ただ心の善悪をもかえりみず、罪の軽ろき重きをも沙汰せず」「心に往生せんと思いて、口に南無阿彌陀佛と称えては、 声につきて決定往生の思をなすべし」「決定心によりて、すなわち往生の業はさだまるなり」by.法然上人←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(4)

今日は、超重要やで!!絶対読んでや!!
 ↓ ↓ ↓

ただ心の善悪をもかえりみず、罪の軽ろき重きをも沙汰せず、
心に往生せんと思いて、口に南無阿彌陀佛と称えては、
声につきて決定往生の思をなすべし。

その決定心によりて、すなわち往生の業はさだまるなり。
かく心えねば、往生は不定なり。

by.法然上人(『勅伝』巻二十二、「御消息」昭法全p.581)

(訳)
ひたすら自らの心が善いか悪いかを問題にせず、
自らが犯してきた罪が軽いか悪いかを論じ定めることをせず、
心では「極楽浄土に往生したい」と思い、口では「南無阿弥陀仏」とお称えして、
そのお念仏の一声ごとに、「間違いなく往生する」(決定往生)という思いを起こしなさい。

その決定心によって、まさしく往生するための行いが定まる。
そのように心得なければ、極楽浄土に往生できるかどうかは定まらない。


 ↑ ↑ ↑
親鸞聖人の師匠の法然上人が、

「ただ心の善悪をもかえりみず、罪の軽ろき重きをも沙汰せず」

と言ってはります。

そんでもって、私達がすべきことが、

「に往生せんと思いて、口に南無阿彌陀佛と称えては、
 声につきて決定往生の思をなすべし。 」

であると「ビシッ!」っと教えてくださっております。

「決定心によりて、すなわち往生の業はさだまるなり」
  ↑
これが、ほんまにめちゃめちゃ大事なのよん。
親●会関係者諸君は、わかってますか?(苦笑)

「信疑決判」とセットで覚えておいてね。


今日は法然上人のおかげで、親●会の人が、どんだけ頑張っても、
「往生不定」(往生できるかどうかは定まらない)な原因が、
鮮やかにわかりましたね。

本当によかったですね(笑)。

安心論題「信疑決判」←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(3)

坊さんの小箱 安心論題「信疑決判」より無断転載

信疑決判

〔題意〕
信疑決判の釈を窺い、本願を信受するか否かによって迷悟が分かれる、というけじめを明らかにする。
〔出拠〕
『選択集』第八、三心章に、「深心者、謂深信之心。当知、生死之家以疑為所止涅槃之城以信為能入故今建立二種信心決定九品往生者也・深心とは、謂はく深信の心なり。当に知るべし、生死の家には疑を以て所止と為、涅槃の城には信を以て能入と為。故に今二種の信心を建立して、九品の往生を決定する者なり。」とあり、
宗祖はこれを承けて、『正信掲』に、「還来生死輪転家決以疑情為所止速入寂静无為楽必以信心為能入生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。」という。
〔釈名〕
「信」とは本願名号の法を信受すること、「疑」とはこれを信受しないことである。そこで、「信疑決判」とは、本願名号の法を信ずると否とによって迷悟が分かれることをいう。
〔義相〕
「生死之家」とは三界の迷いの果を言い、「以疑為二所止」とは本願疑惑によって迷界に止まることをいう。「涅槃之城」とは生死の迷いを断滅した寂静の悟りの境界を言い、「以信為能入」とは本願の信を獲ることによって涅槃界に入ることをいう。ここにいう所止・能入とは、いわゆる能所の関係を示すのではない。三界六道に輪回するのは本願を信受しないからであり、報土に往生するのは本願名号の法を信受することによるという意味である。
この信疑決判は善導大師が深心を二種深信に開いて示された義意を顕わす。すなわち、無有出難の機を摂受する本願であるから、悪業煩悩はあれども往生の障りとならず、また善根はあれども功なく、往生成仏の因はひとえに仏願力に乗託するほかはない。そこで、すぺて機の善悪をいわず、信ずれば往生、信ぜざれば迷いに止まるという義を成ずる。法然上人が信疑を決判して「故に今二種信心を建立して九品の往生を決定するものなり」と言われたのは、この意である。
なお、「以疑為所止」といっても、本願疑惑が生死流転の因であるというのではない。生死輪回の因はもとより我等の無明煩悩である。然るに、既に救済の法たる本願が成就しているにもかかわらず、これを信受しないから、またもとの如く生死に止まるというのである。
また、同じく信疑の別をいうても、今の信疑決判と、『大経』の胎化段や、『易行品』の弥陀章の偈に示される信疑得失(胎化得失)とは、所顕が異なる。信疑得失の場合は、信とは明信仏智であるのに対して、疑とは不了仏智を指し、本願他力の信を獲た者は化生(報土往生)を得るのに対して、自力修善の願生者は胎生(化土に止まる)の厄を受げると、その得失を示して真仮廃立せられるのである。したがって、信疑決判の場合の疑が不信であるのに対し、信疑得失の場合の疑は自力の修善願生を意味する。しかしながら、信疑決判も信疑の得失も、共に本願の信を報土の因として、勧信・誠疑せられるということは同じである。
〔結び〕
本願を信ずれば浄土に往生して涅槃のさとりを得、これを信受しなければ迷界に止まって悟りを開くことができない。


わかりやすい宗義問答「二種深信」←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(2)

坊さんの小箱 わかりやすい宗義問答「二種深信」より無断転載

わかりやすい 宗義問答

(第2集)


(1) 真宗の信心とは

(2) 二種深信の意味

(3) 機の深信について

(4) 法の深信について

(5) 二種の関係について

宗義研究の会
(一)真宗の信心とは


問. どのような宗教においても「信心」は大切なこととされていますが、浄土真宗の信心は、他の教えでいわれるような信心とちがうのでしょうか。

答. 信心という言葉は同じでも、その意味内容は一つであるとは申せません。なぜかといいますと、それは信ずる法がちがうからであります。

問. どのように信心の意味内容がちがうのですか。

答.一くちに宗教といいましてもいろんな教えがありますから、それらの教えでいわれる信心の意味を一々とりあげて論ずることはできません。一応てもとにある辞書で「信心」の項をひらいてみますと、「神仏を信仰して祈念すること」と説明されてあります。これが普通にいわれる信心の意味であると考えてよいでしょう。 ところが、真宗の信心は阿弥陀如来の名号のいわれを聞いて、その救いの力にお任せすることであります。つまり、わたくしが仏に対して祈念するのではなくて、仏の尊い願いのお心がわたくしに届いて信心となってくださるのです。 「他力の信心」とか「御廻向の信心」とかいわれるのがその意味であります。したがって、〈信心する〉というような表現をしないで、 「ご信心をいただく」というふうに申すのであります。

問. 真宗の信心が他の教えでいわれる信心と異なることはわかりました。しかし、 「他力の信心」とはいわれましても、本当にこれをいただくためには命がけの真剣な聞法求道がなければならぬと思います。そういう意味で、単に頭で理解することは易いかも知れないけれども、わが身にかけてご信心を味わうということは至難のことだと思いますが、いかがでしょうか。

答. おっしゃるとおり、聞法はあくまで真剣でなければなりません。けれども、命がけの苦労をしなければご信心はいただけないというふうに決めてかかることは、他力真宗のご法義を誤るおそれがありますから、気をつけなければなりません。

問. でも、『大無量寿経』には、「もしこの経を聞きて信楽受持することは、難中の難、この難にすぎたるはなし」と説かれ、親鸞聖人も「真実の信楽まことにうること難し」とおっしゃっているではありませんか。
答. それは聖人が『正信偈』に「邪見キョウ慢の悪衆生、信楽受持すること甚だもって難し」とおっしゃるように、如来より廻向される純粋な他力の信心ですから、自力の心をまじえて得ようとするならば、これほどむつかしい信心はないという意味であります。

問. 親鸞聖人も比叡山で二十年間、血みどろになって求めぬかれ、三願転入してやっと他力の信に到達せられたのですから、わたくしたちもやはり祖師の歩まれたように、三願転入の経路をたどって、命がけで求めぬくところに、はじめて第十八願の他力の世界がひらけてくると思うのですが。

答. 三願転入は、自力を捨てて他力に帰入すべき旨をわたくしたちにお示しくださったのです。それを、わたくしたちも聖人と同じように、第十九願の諸行を修め、それから第二十願の自力念仏を励むというふうにせねばならないと考えるならば、かえって聖人のご苦労を無にし、聖人のお勧めにしたがわないことになりましょう。

問. わたくしがいいたいのは、なにも自力から他力へと順次にたどらねばならぬというのではありません。ただ第十八願の他力のお救いを客観的に聞いているだけでは駄目だと申すのであります。現にこのわたくしが出る息は入るを待たず、ただいまも無常の風にさそわれたならば永劫に苦界に沈まねばなりません。わたくしのこの現実が鬼であり、地獄である、と徹底して内観してゆくところに、はじめて泉が湧きでるように、 「われよく汝を救う」という如来のお慈悲にあわせていただくことができると思うのですが。

答. 他力のお救いを客観的に聞いているだけでは駄目だといわれることは、その通りにちがいあかません。しかし、お慈悲にあうためには、まず内観によって自己の罪悪を徹底的に掘りさげねばならぬといわれるならば、それは正しくありません。

問. でも、風呂に入るとき、着物をきたままで入る人がないように、お慈悲を聞かせていただくのに、心に着物をきて飾りたてていては、ご信心の味はいつまでたっても得られないのではありますまいか。つけてもらった教育も、おしえてもらった道徳も、ききおぼえた聴聞も、そのほかわたしの心を飾るあらゆるものをすっかり脱ぎすてたとき、いったい何が残るでしょう。お救いは如来のおはからいだと仰せられるのですから、如来にお任せしておけばよいので、わたくしたちは一切の飾りを捨てて、罪悪深重の愚か者である、と身を投げだすことによって、はじめて如来の真実の救いに遇えるのだと受けとめるのではいけないのでしょうか。

答. あなたは風呂に入るときのたとえを出して、わたくしの飾りをすっかり捨てて、如来の前に身を投げださねばならぬといわれますが、その飾りを捨てて身を投げだすことが、聞法の前提条件となり、わたくしの方からはからいをとってゆかねばならないと考えるならば、他力の信心とはちがうことにたりましょう。はからい多きわたくしが、聞法することによって、往生浄土についてのはからいがとれ、仏の仰せに信順する心がひらけるのであります。 真宗の信心のすがたは、機の深信と法の深信との二種に開いて明らかにされております。これを古来、二種深信と申します。この二種の深信を別々のように考えたり、機の深信が法の深信の前提であるかのように理解するのは誤りであります。


(二) 二種深信の意味


問. ソクラテスも「汝自身を知れ」といっています。親鸞聖人は「煩悩具足と信知して、本願力に乗ずれば……」とおおせられ、蓮如上人も「わがみはわろきいたずらものなりとおもいつめて、ふかく如来に帰入するこころをもつぺし」とおっしゃっています。「地獄一定」とわが身を見限ってこそ、はじめてそこに「かかる者が弥陀にたすけられる」という法の喜びが与えられるものと思います。これが善導大師のおっしゃる「二種深信」の領解であると思うのですが、いかがでしょう。

答. たくさんの文を引いて二種深信の解釈を述べられましたが、あなたは罪悪観と機の深信とを混同し ていられるようです。それでは深信ではなしに、自力の浅信になりましょう。罪悪観が獲信のための必然的な過程であるとはいえません。無常観より入信する人もありましょう。また人生の苦悩に泣いてそれから聞法する人もありましょう。善導大師の二種深信は、名号のいわれを聞いて疑いのとれた心相を、機と法との二面から示されましたので、機の深信から法の深信に入るとか、機の深信が法の深信の前提条件であるといったものではありません。

問. それでは、二種深信とはどのような意味なのか、説明してください。

答. 善導大師の『散善義』に、『観経』の三心についてくわしく解釈されてありますが、その深心の解釈に、
深心というはすなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種あり。
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、噴劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したもう。疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、定んで往生をうと信ず。
と示されてあります。はじめの深信は、救われるわたくし、すなわち機についてあらわされますから、「機の深信」とか「信機」とかいわれます。あとの深信は、救う如来の法について示されますから、「法の深信」とか「信法」とかいわれます。この二種は名号のいわれをお聞かせいただいて疑いの晴れた心相、すなわちわたくしのはからい心がとれて如来のお救いにうちまかせたすがたをあらわされるのです。

問. 「一つには」「二つには」と分けて、信機と信法とを示されているのですから、わたくしは地獄ゆきであると知らせてもらうことと、仏はそのようなわたくしをお救いくださるのであると知らせてもらうことと、明らかに二種の思いをおこすのではありませんか。

答. 二種にひらいてお示しくださってありますけれども、名号のいわれを聞いておこさしめられた他力信心のすがたを機と法との両面からあらわされたので、二種は別々の思いではありません。

問. 一つの信心のすがたであるならば、なぜ二種というのですか。

答. 真宗の信心は、わたくしの力はまにあわないと知らせていただいて、如来の願力におまかせすることであります。そこでこの信心を機のがわからいえば、自力がまにあわない(自力無功)と知って、わがはからいがすっかりとれることであり、法のがわについていえば、まったく仏にうちまかせ、仏にもたれきったということになります。わがはからいがすっかりとれることが、そのまま仏にすっかりうちまかせたことであり、仏にうちまかせたことが、そのままわがはからいのとれたことであって、この二種は別箇の心相ではありません。 このことは、二種深信の一々についてさらによくうかがえば、おわかりいただけるでしょう。


(三) 機の深信について


問. 機の深信の意味をお示しください。

答. 機の深信のご文は前にあげたとおりで、これは救われるわたくしのありのままのすがた、すなわち機の真実(機実)を知らされることであります。 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」というのはわたくしの現在のすがたです。この罪悪は単に世間の法律や倫理などでいう悪だけではなく、如来の光によって照らし出されたわたくしの本性であります。うわべは善人らしくよそおい、人前ではりっばなことを言っていても、所詮は我利我欲にまどう罪深い凡夫であるといわれるのです。 「噴劫よりこのかた」等とは無限の過去からのすがたです。この世に人と生まれてから罪を造って迷うているだけではたくて、始めなき大昔から、いつも悪道に沈み迷界をさまよいつづけてきたというのであります。「出離の縁あることなし」とは、迷界を出るてがかりがないということです。これは前に示された現在と過去のすがたに対して、未来永遠にみずからの力では迷界を出ることができないわたくしである、という意味をあらわします。 そうしますと、機の深信とは、わたくしは現に罪深い迷いの凡夫であって、無限の大昔から迷いつづけ、今後も永遠に迷界を離れることのできない者である、と決定して深く信知することであります。

問. いまの「機の深信」の解釈によりますと、やはりわたくしの罪悪性を徹底的に見つめること、つまり曾無一善、唯知作悪、地獄一定の極悪人であるという自覚に徹することであると受けとれるのですが、そうではないのでしょうか。

答. 機の深信は、要するに自力無功と知らせていただくこと、つまり、迷界を出るためには わたくしの力はまにあわないと知らせていただいて、わがはからいを離れることであります。単に、自己の罪悪を徹底的に追究するということではありません。 『往生礼讃』の前序には、「深心」の意味を示して、
二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。 自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して火宅を出でずと信知す(信機)。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等におよぶまで定んで往生をえしむと信知して、いまし一念にいたるまで疑心あることなし(信法)。
とあらわされてあります。これは『散善義』のように、「一つには」「二つには」と分けてありませんけれども、やはり第十八願の真実信心のすがたを機と法との両面から示されたものであります。 『散善義』では「罪悪生死」と示されているのに対して、いまの『往生礼讃』では「善根薄少にして」と述べられてあって、『往生礼讃』の方が『散善義』よりも罪悪性の表現がゆるやかであります。けれども、わが力では迷界を出ることができないと知らせていただくという点では、両者は全く同一であります。

問. 同じ善導大師の著作でも、「善根薄少」といわれる『往生礼讃』は、『散善義』よりも前の著作で、思想的にはなお浅く、『散善義』に示された三世にわたる深刻な罪悪感こそ徹底した深い思想であると考えられないでしょうか。

答. 思想的に浅深の別があるなどと軽率にいうことは、つつしまねばなりません。善導大師の解釈によれば、『観経』の九品はすべて凡夫であって、上三品は大乗の善に遇った凡夫、中三品は小乗の善に遇った凡夫と世俗の善人、下三品は造悪の凡夫で、罪の軽重によって三品を分けられています。この善悪の凡夫が本願によって救われるのであります。ゆえに法然上人は『選択集』の第八の三心章に、いわゆる信疑決判の釈を示され、
まさに知るべし、生死の家には疑いをもって所止とし、涅槃のみやこには信をもって能入とす。ゆえにいま二種信心を建立して、九品の往生を決定するものたり。
と述べられてあります。上品や中品の善凡夫も己の善が浄土往生にまにあわず、下品の悪凡夫もその悪が往生のさわりにならず、善悪の凡夫がすべて己のはからいを離れて願力にうちまかせる信楽一心で往生させていただくのであります。 親鸞聖人は「その機は、すなわち一切善悪大小凡愚なり」と仰せられ、また「願力成就の報土には 自力の心行いたらねば 大小聖人みたながら、如来の弘誓に乗ずなり」と讃ぜられています。凡夫も聖者もすべてこの二種深信で報土の往生が決定するのであります。 これによって、単に罪悪感が深いとか浅いとかいうことで、機の深信が徹底しているか未徹底であるかを論ずることは、誤りであると知るべきでありましょう。

問. 凡夫も聖者も善人も悪人も、本願の信心をうれば浄土に往生し、本願を疑えば往生できないということは、よくわかります。その善人も聖者も、如来の前には極重の悪人であると知らしめられて、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と気づかせていただくのが機の深信だと思いますが、いかがでしょう。

答. 善導大師は「自身は罪悪生死の凡夫」と仰せられ、わたくしどもも罪悪生死の凡夫であることは勿論であります。しかし、菩薩・聖者といわれるような方々を罪悪生死の凡夫とはいえません。そのような聖者がたのいただかれるご信心も、われわれ罪業の凡夫のいただくご信心も、一つであります。たとい聖者善人であっても、その善根や知恵では報土往生にはまにあいません。したがって、下品下生の悪機と同じく、自力を離れて他力に乗ずるのであります。存覚聖人の『六要鈔』に二種深信の意味を示されて、
「無有」等とは、まさしく有善無善を論ぜず、自功をからず、出離ひとえに他力にあることを明かす。……自力功なきを知るによって、ひとえに仏力に帰す。
等と解釈されてあります。自力がまにあわないと知らせていただいて、他力に帰することが肝要であって、すべての者が罪悪感に徹底せねばならぬなどとはおっしゃっていません。

問. 自己の罪悪感に徹しなくて、どうして他力の法水が入りましょうか。自分こそ下品下生の悪人であって地獄ゆきであると気づかしめられて、はじめてこれをお救いくださる法がいたたせかれるのではないでしょうか。

答. お救いにあずかるためには、どうしても自己の罪悪感に徹しなければならぬようにお考えのようですが、ほんとうに自己の罪悪のすべてを知りつくすことができるでしょうか。この世に生をうけて今日まで、罪でないと思ってしていることが実は罪であるという場合もありましょう。まして無始よりこのかた生々世々に造ってきた罪業、また未来に造るであろうところの罪業、それらの全体は到底はかり知ることができないでありましょう。 〈ほんとうに自己の罪悪感に徹した〉などと考えることは、ひとりよがりのうぬぽれではないでしょうか。あるいはまた、一時的な罪悪意識の高まりにすぎないのではないでしょうか。

問. 三世にわたる己の罪業をすべて知りつくすことはできないでしょう。けれども、現にわたくしは恐ろしい根性をかかえた極悪人であるということは、法を聞くことによって知らせていただけます。〈自分はそれほど悪人ではない〉というような不徹底な罪悪感でどうして他力のお救いがわかりましょうか。まして、〈自分にもなにがしかの善根はある〉というような考え方では到底他力に帰することはできないと思います。この点いかがでしょうか。

答. 〈自分はそれほど悪人ではない〉とか、〈自分にも善根はある〉などと思えというのではありません。わたくしは勿論罪業深重の凡夫であり、悪人であります。 しかし、罪悪感に徹することがお救いの必須条件のように考えることは誤りである、というのであります。人はそれぞれ性格が異なり、環境もちがいます。内向的な人もあれば外向的な人もいます。また凡夫と聖者との別があり、凡夫の中にも善悪の不同があり、悪にも軽重があります。したがって、その罪悪感も百人百様であります。そのような罪悪感を機の深信と考えるならば、機の深信は人によって千差万別とたります。それでは自力各別の信となりましょう。 『御伝紗』に、
信心のかわるともうすは自力の信にとりてのことなり。すなわち智慧各別なるがゆえに信また各別なり。
と仰せられ、
他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかわるべからず。ただひとつなり。
と示されています。みずからの罪業を問いつめて、身をふめわせて号泣したからといって、必ずしも機の深信が徹底したとはかぎりません。また罪深いわたしであるとお聞かせいただき、事実そのとおりであると気づかせていただいていても、いっこうに深刻な罪悪感におののくことなく、ケロリとしているからといって、その人は機の深信がない、と一概に断定することはできません。
要は自力無功と知らせていただいて如来にうちまかせた心相、これが真宗の信心であります。

問. いまのお答えの中に、「みずからの罪業を問いつめて泣いたからといって、機の深信が徹底したとはかぎらない」とか、「深刻な罪悪感におののかないからといって、機の深信がないと一概に断定はできない」といわれますが、どうしてそんなことがいえるのですか。

答. みずからの罪業に気づいて号泣したとしても、それは一時の感情の高まりであって、それだけでは本物とはいえません。時がたてば泣いたことが嘘のように平気になり、またまた三毒の煩悩に身を焼くのが凡夫ではないでしょうか。ですから、そんな一時的な感情の高まりだけで、機の深信が徹底したなどと考えることは早計であります。 これは法の深信についても、同様のことがいえましょう。尊いお慈悲をお聞かせいただいて、感激にむせぶほどの喜びを味わったとしても、その感激の時に法の深信がいただけたとか、そんな経験がなければご信心をいただいたとはいえないなどと、一概にいうことはできません。
これはみずからの罪業を問いつめて泣くことがいけないとか、感激にむせぶことがいけないなどと申しているのではありません。ただそうした一時的な感動をもって獲信の確証であるかのように誤認し、そのような体験をあてにすることは、気をつけねばならないというのであります。 おのれの罪に泣くもよし、また泣けなくてもよし、感激にむせぶもよし、むせぶことができなくてもよしであります。要は、自分の機ざまを眺めて、それをあてたよりにすることなく、あてたよりになってくださる如来の願力にうちまかせた心相、それが他力の信心であります。

問. 自分を罪深いとも思わず、お慈悲を有難いとも思わなくても、ご信心がいただけるといわれるのですか。

答. そのようなことを言っているのではありません。仏願の生起本末を聞いて、わが身の罪深いことを知らせていただき、このようなわたくしをお救いくださる仏の慈悲をよろこばせていただくことは、いうまでもありません。 ただ、おのれの罪業を問いつめて泣くほど徹底せねばならぬとか、躍りあがるほどに喜びが満ちあふれねばならぬとか、そういう規格をつくって、それにあてはまらねば本当のご信心ではないというふうに考えることが、誤りであるというのであります。

問. 蓮如上人の御文章には、
ただわが身はつみふかきあさましきものなりとおもいとりて、かかる機までもたすけたま えるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、 (五帖十二通)
とか、
ひとしれずつみのふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもうべし。 (五帖十四通)
等と示されてあります。これらのご文は罪深い身であると思わねばならぬというお勧めだと思いますが、いかがでしょう。

答. 御文章の一部分だけをつかまえないで、よく全体の思召しを味わわねばなりません。五帖第十二通の御文章は、そのつぎに、
なにのようもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖に、ひしとすがりまいらするおもいをなして、
等とおっしゃってあり、五帖第十四通の御文章も、そのつぎに、
それにつきては、なにとように弥陀を信ずべきぞというに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまいらせて、……さて、わが身のつみふかきことをばうちすてて弥陀にまかせまいらせて、
等と示されています。そのほかに「一心一向に阿弥陀如来たすけ給えとふかく心にうたがいなく信じて、我身の罪のふかぎ事をばうちすて、仏にまかせまいらせて」(五帖四通)とか、 「機をいえば十悪五逆の罪人たりとも、五障三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重に こころをばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて真実の極楽往生をとぐべぎものなり」(五帖十五通)
等と示されてあります。 機実(わたくしの本当のすがた)をいえば、罪業深重のいたずら者でありますが、その罪業を徹底的に問いつめねばならぬとおっしゃるのではありません。 「罪のふかきことをばうちすてて」とか「罪業の深重にこころをばかくべからず」とおっしゃるのであります。罪業はどれほど深くても、それを気にかけずともよい。かかる罪深き私をたすけんという本願を起こしてこれを成就せられた阿弥陀仏の法であるから、はからい離れて弥陀にまかせよ、とお勧めくださるのであります。

問. 「なにのようもたく弥陀にまかす」については、その前に自分の罪業を徹底して知らねばならないでしょう。自己の罪業の深さに徹しなくては、本当に弥陀にまかすことはできないと思いますが。

答. あなたは、どこまでも、みずからの罪悪感の徹底ということを獲信の必須条件のように考えていられますね。罪業深重のわたくしであるということは、如来の智慧によって見通されたわたくしの本当のすがたであります。勿論、法をお聞かせいただくことによってそれが知らしめられるのでありますが、その罪業の深さに徹するとはどういうことでしょうか。何か己の罪を徹底的に問いつめて、どうにもこうにもならぬと絶望の極に達するといった体験をすることを指すのであれば、それは思い誤りであります。 親鸞聖人は「無漸無愧のこの身」とおっしゃっています。 〈自分は本当に罪業の深さに徹することができた〉と思うたらば、それこそ大きなうぬぽれでありキョウ慢でありましょう。罪深い身であると知らせていただきながら、けっこう人なみ以上の善い人間であるようなつもりでいることよ、と反省慚愧せしめられるのが、本当にご法義が聞こえたすがたではたいでしょうか。

問. 善導大師の示された二河白道のたとえは、信心のすがたをあらわされたものと聞いております。あのたとえの中に、
時にあたりて惶怖すること、また言うべからず。すなわちみずから思念すらく。われいまかえらばまた死せん。とどまらばまた死せん。ゆかばまた死せん。一種として死をまぬがれず。
等と、いわゆる三定死が示されています。これは自分の煩悩悪業を知って、どうにもこうに
もならぬと、心の底からおそれおののく心境だと思います。これが二種深信の機の深信にあたるのではないでしょうか。

答. 二河白道のたとえは、おっしゃるように信心のすがたをあらわされたものであります。しかし、その中に示されてある三定死を機の深信であると考えるのは、大きな誤りです。 三定死は、まだ釈迦・弥陀二尊の発遣・招喚の声を聞かない前の状態であります。いいかえますと、まだお名号のおいわれが信受されていない時の行者の心相であります。だから、「惶怖すること、また言うべからず」と、おのれの罪におそれおののいているのです。 二種深信の信機は二尊の遣喚のお声が聞こえた心相、いいかえますと、お慈悲が届いたところにおこる心相であります。これは、あとに、
あおいで釈迦発遣しておしえて西方に向かわしめたもうことをこうむり、また弥陀の悲心 招喚したもうによりて、いま二尊のおんこころに信順して、水火二河を顧みず、念々にわ するることなく、かの願力の道に乗じて、
等とおっしゃってあります。この「水火二河を顧みず」というのは、己の罪に恐れおののくことではありません。前にあげた蓮如上人の御文章に、 「わが身のつみのふかきことをばうちすてて」とか、 「罪業の深重にこころをばかくべからず」とありましたとおり、罪はいかほど深くてもそれを心にかけることなく、はからい離れて仏願力にまかせきったすがたであります。

問. 三定死はまだ垂木の信を得る以前の心相であり、二種深信の信機は如来の喚び声が届いたところに起こさしめられる心相であることは、よくわかりました。けれども、他力の信を得るについては、必ず三定死の境地を経がければならないのではないのでしょうか。

答. 二河白道のたとえでは、三定死の次に二尊の遣喚を聞いて、そして願力の道に乗るという順序で示されてありますが、入信の経路も必ずそのとおりでなければならぬと考えることは正しくないでしよう。遣喚を聞く前と聞いた後とでは、自力と他力との相違があって、それは要門と弘願とのちがいをあらわされたものと窺われるのであります。たぜならば、善導のご解釈の上に、弘願に入るためには必ず要門を経なければならぬというお示しはなく、要門を廃して弘願他力を勧められるからであります。親鸞聖人の三願転入(第十九願の諸行の法から、第二十願の自力念仏に入り、更に第十八願の他力念仏に入る)のご解釈も、すべての人がこのような経路をたどらねばならぬといわれるのではありません。方便の法を捨てて真実の法に帰すべき旨をあらわされるのであります。


(四) 法の深信について


問. つぎに、法の深信について解説して下さい。

答. 法の深信というのは、救いの法の真実(法実)を知らせていただくことであります。その文は前にかかげたとおりです。 「かの阿弥陀仏の四十八願は」と申しますのは、ことばは総じて阿弥陀仏の四十八願全体をあげていられますけれども、別しては第十八願の意味であります。第十八願には、衆生に名号を信じさせ称えさせて、もし往生させることができなければ仏にならぬ、とお誓いになってあります。そのお誓いのとおりに成就されたのが阿弥陀仏でありますから、衆生に信じさせ称えさせて往生させてくださるのは、この第十八願の成就したすがたであります。四十八願はそれぞれに仏の願いが誓われてありますけれども、要は衆生を救わねばおかぬという願いのほかはありません、ですから四十八願の全体が第十八願の一つにおさまってしまうのであります。言い換えますと、第十八願をひろげたものが四十八願ということになります。そこで、今は第十八願の意味を示すのに、「四十八願は」と総じてお出しになったのであります。
「衆生を摂受して」とは、わたくしどもをお救いくださることであって、その「衆生」というのは、まえの機の深信に示された罪悪生死で迷界を出ることのできないわれわれ凡夫であります。 「疑いなく慮りなく、かの願力に乗じて」等というのは、うたがいためらうことなく如来のお救いにうちまかせることであって、「かの願力」とは衆生を摂受したもう阿弥陀仏のお力であり、「乗じて」とは乗託(おまかせ)することであります。 そこで法の深信とは、阿弥陀仏は必ずわたくしをお救いくださるから、わたくしのはからいを去って如来の願力におまかせして、まちがいなく往生させていただく、と明らかに信知することであります。

問. 疑いぶかいわたくしどもは、「疑いなく慮りたく」といわれましても、到底ほんとうに疑慮不安から解放されることは不可能だと思います。このような心のままで救われるのである、と考えてよろしいのでしょうか。

答. 疑慮不安と決定深信とは、ま反対であります。疑慮不安のとれたのが真実信心であります。ですから、疑いの心があるかぎりは真実信心ではありません。したがって真実報土の往生はえられません。

問. それではどのようにして「疑いなく慮りなく」という心相になることができるのでしょうか。

答. 願力をお聞かせいただいて無疑無慮の心相になるのです。衆生を救うことにおいてまちがいのない法でありますから、これを聞いたわたくしの心相も、まちがいなく救われることよと無疑無慮にならせていただけるのです。
法の深信の「無疑無慮」は、下の文をつけて、「疑いなく慮りなくかの願力に乗じて」と読むときは、願力に乗託するわたくしの信じぶりに不安がないこと、何の綾府蝉もなくおまかせできたことをあらわします。これを上の文につけて、「衆生を摂受したまうこと疑いなく慮りなし。」と読みますと、衆生を救う願力の法に不安がないこと、法のお救いにまちがいたいことをあらわします。救う法が無疑無慮の法だから、これを知らせていただいた衆生の信じぶりも無疑無慮にならせていただけるのです。それが願力の聞ごえたすがたであります。

問. まちがいのない救いの法を聞くといわれましても、これを聞くわたくしに智慧の眼がないのですから、どれほど確かであると思い定めても、やはり何らかの不安は残りましょう。それがわたくしども凡夫の心情ではありませんか。

答. どれほど確かであると思い定めても何らかの不安は残るというのは、わたくしの思慮分別であるかぎり、当然でありましょう。しかし真宗の信心は、わたくしの思慮分別で思い定めるものではありません。 あすはよいお天気にちがいないとどれほど確信しても、それはあくまで自分の判断であって、天気そのものはあてになりませんから、ひょっとしたら雨が降るかも知れないという不安は残ります。しかし、明日は夜があけないかも知れないと心配する人はありますまい。なぜなら、時がくれば必ず夜はあけることにきまっているからであります。 まちがいなく救うの法を聞かせていただきながら、なお不安が残るということは、救いの法をあるがままに受取っていないことであります。まちがうことのない確かな法を知らせていただけば、おのずから自力疑心はとれてしまいます。それがおまかせできたすがたであります。

問. まちがいのない法を聞いてすっかりおまかせするか、おまかせしないかは、ぎりぎりのところでわたくしの宗教的決断であるといえましょうか。

答. その宗教的決断ということが、やはりわたくしの思慮分別でありましょう。口では「まちがいのない法を聞いて」といわれますが、ひょっとしたらという不安が残っているから、決断をせねばならないのです。そのような決断は他力の信心とは申せません。

問. 要するに、信仰はわたくしの知識の延長線上にあるのではなく、そこには飛躍がある。知識を越えたところに信仰があるということでしょう。信仰は一種の「かけ」(賭)であって、本願を信じて救われるか救われないか、そんなことはわたくしにはわからない。だが、自分は本願を信じて救われるという方にかけるのである。こう理解してよいでしょうか。
答. それはたいへんな誤りであります。信仰はたしかに単なる知識の延長ではありません。けれども、あなたがいまいわれるような「かけ」ではありません。はっきりと信知させていただくのであります。

問. でも、『歎異抄』の第二節に、 念仏はまことに浄土に生まるるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるたり。たとい法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
等と示されてあります。これは〈往生できるかどうか知らないけれども、自分は法然のいうことを信ずる方に賭ける、それでもし地獄におちても悔いはない。どうせ地獄ゆきの身なのだから〉という意味にとれます。それが「疑いなく慮りなくかの願力に乗じた」心持ちではないでしょうか。

答. 『歎異抄』のその部分だけ読みますと、あるいはあなたの考えるようにも見えましょう。しかしよく全体の意味を考えて、何を言おうとされているのかを、あやまりなく受けとらねばなりません。 いったい、どのような相手に対して、どのような問題について、どのような意図で聖人がそういわれるのであるか。その背景を心得てうかがう必要があります。ここでくわしく解説することはさしひかえますが、要を申しますと、「総じてもって存知せざるなり」といわれるのは、往生できるかどうかわからないという不安を述べられたのではありません。人に言いまどわされて、念仏往生について不審をいだいたお同行がたずねてきたのに対し、聖人はそのようなことは如来のしろしめすところであって、わたしの関知するところでない、学問沙汰は要らぬ、はからいは無用だ、ということをおっしゃるのでありませす。また〈法然上人にだまされて地獄におちても後悔はない〉といわれるのも、地獄におちるかも知れぬという心配があるということではなくて、わたくしの本来もっている性質が地獄ゆきであって、わが力では絶対に助かる見込みがない身であることをいわれるのであります。ですから、つぎに「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と仰せられるのです。これは二種深信の機の深信にあたります。つまり、自力はまにあわないと知らせていただくことであります。 ゆえに、あとの文に「弥陀の本願まことにおわしまさば」等といって「親鸞が申す旨またもってむなしかるべからずそうろうか」といわれる。ここには人間のはからいのむなしいことと、如来の救いのむなしくないこととが、聖人の信の内容としてあざやかに示されていることを知るべきであります。

問. 機(わたくし)のすがたをながめれば、真実信心などさらになく、あるものは妄念煩悩ばかりで、往生いかがの不安もいっこうに消えぬ。しかし、法のお手元をながめれば助くるにまちがいない。このように心得て溢りますが、これで宜しいでしょうか。

答. それでは機と法とが別々であって、一信心の内容となっていません。助くるにまちがいないという法が聞こえたならば、往生いかがの不安はとれます。往生いかがの不安があるということは、助くるにまちがいない法が本当に聞こえていないこと、法がいただかれていないことであります。もちろん信後にも妄念煩悩は依然としてあり、地獄ゆきの自性に変わりはありませんが、信後に真実信心がないというのは、わけのわからぬことになります。

問. そうはいわれましても、わたしの心の中には真実心はありません。親鸞聖人も『悲歎述懐和讃』に、「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」とおおせられています。真実信心がいただけたと思うのは、自力の信になると思いますが。

答. それはちがいます。あなたは真実心と真実信心とを混同していられます。この真実心というのは真実清浄の心のことで、妄念煩悩の反対であります。そのような真実心がわれらの上にあるとは申されません。真実信心というのは妄念煩悩の身のままで願力にうちまかせた心相であります。そのうちまかせる以外に別に真実なるものが、わたくしの心の中にできるのではありません。 『悲歎述懐和讃』の「浄土真宗に帰すれども」等といわれるのは、本願を信受してはいるけれども清浄真実の心はないという意味であって、真実信心がないということではありません。これは救われた者の反省であり慚愧であって、そのままが法悦の中にあります。


(五)二種の関係について


問. 機の深信と法の深信とについて、それぞれの意味は、おおむね理解することができました。 しかし、自分が罪悪生死の凡夫で迷界を出ることができないと信知することと、如来の願力はこのようなわたくしを必ずお救いくださると信知することと、信知の内容が二つあるように思われます。しかも、法の深信の方は如来の願力におまかせするのですから他力ということはよくわかりますが、機の深信の方は自分の罪深いことを知ることですから、これは他力とはいえないと思いますが、いかがでしょう。

答. おたずねは二つですね。一つは信知の内容は二つであろうということ、もう一つは機の深信は自力であろうという疑問です。 はじめに信知の内容が二つあるのでないことを明らかにしましょう。機の深信はわたしの力がまにあわないと知らされることですから、往生成仏についてのわたくしのはからいがすっかり取れたこ之であります。ゆえに、信機(機の真実を信知すること)は、そのまま捨機(わたくしのはからいを捨て離れた)ということであります。法の深信はわたしをお救いくださる如来の願力を知らせていただくことですから、往生成仏についてすっかり願力におまかせできたことであります。そこで、信法(法の真実を信知すること)は、そのまま託法(願力の法にまかせた)ということであります。 このように信機は捨機であり、信法は託法でありますから、捨機即託法であって、別々の心相でないことがおわかりいただけるでしょう。わたくしのはからいがすっかりとれたのでなければ、如来にすっかりおまかせできたとはいえません。また如来にすっかりおまかせできたのでなければ、わたくしのはからいがすっかりとれたとはいえないのであります。したがって、信機の方は他力ではなかろうという疑問も、おのずから解消するでしょう。

問. 二種ともに他力の信心であることはわかりました。しかし機の深信は自己の罪悪性の問題で、自分が地獄ゆきの悪人であると知らしめられることでありましょう。これを知らされることが先決問題で、これが知られてはじめてお救いの法を受け入れることができると思われます。こういう意味で、信機が前で信法が後であるといえるのでは加いでしょうか。

答. それは誤りであります。信機信法の二種は阿弥陀仏の名号のいわれを聞かせていただくことによっておこさしめられた一信心の内容にほかなりません。前にお答えしたとおり、捨機即託法であって、捨機が前で託法が後であるというのはまちがっています。

問. 機法二種の深信は名号のいわれを聞くことによっておこさしめられる一信心の内容であるということを、もっとわかるように説明してください。

答. 第十八願成就文に「その名号を聞いて信心歓喜し」等と説かれてありますのを、親鸞聖人が解釈せられまして、
経に「聞」というは、衆生仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。これを聞というなり。 「信心」というは、すなわち本願力廻向の信心なり。
等とおおせられてあります。これによりますと、「名号を聞く」とは「仏願の生起本末を聞く」ということであります。「仏願の生起本末」というのは、これを「仏願の生起」と「本」と「末」とに分けてうかがうことができます。 まず「仏願の生起」というのは、本願のおこりということであります。掃除器のおこりはゴミであり、電灯のおこりは夜の闇であります。ゴミがあるからこれを掃除する器具が考案せられ、夜は暗いからそのために電灯が発明せられました。阿弥陀仏の本願は迷いの衆生がいるためにおこされたので、本願のおこりは迷いの衆生であります。その迷いの衆生とは、ほかならぬこのわたくしであります。聖人の常のおおせとして、 『歎異抄』に、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
といわれるのは、この意味であります。 「本」とは因本の義で、阿弥陀仏が因位のとき、衆生を救うための願をおこし、行を修せられたことであります。 「末」とは果末の義で、因位の願行が成就して阿弥陀仏となられ、因位の願いのとおりに現に衆生を救いつつある果上の力をいいます。 この中で、仏願の「生起」は機であり、「本末」は法であります。この仏願の生起本末を聞いて、その通りに領解されたのが信心でありますから、おちるわたし(機)をお救いくださる願力(法)であることよ、と知らされます。この機と法とは切り離して考えることはできません。そのような名号のいわれを聞くことによっておこさしめられる信心ですから、信機と信法とは二種一具であって、前後はないのあります。 もし、信機が前で信法が後であるならば、信法の前の信機は真実信心でないことになりましょう。また、それでは二種は別々であって、一具とはいえません。

問. 信機と信法とが二種一具ということは、救われない者が救われるということで、〈救われない〉と〈救われる〉とは相反する内容であり、矛盾である。けれどもその矛盾のままが一信心として成り立つところに、真宗の救済の特異性があると考えて宜しいでしょうか。

答. それもまちがっております。救われない者が救われるといえば矛盾のように聞こえますが、実は矛盾ではありません。機の深信における無有出離之縁(迷界を出ることができぬ)ということは、わたくしの自性を示したものであって、他力によっても迷界を出ることができぬという意味ではありません。阿弥陀仏の願力によっても絶対に救われない者が阿弥陀仏の願力によって救われるというのであれば、矛盾でありましょう。しかし今はそういうことではありません。わたくしの自性をいえば罪悪生死の凡夫で、わが力では迷界を出ることができぬ。そのわが力で迷界を出ることのできないわたくしを救うのが、阿弥陀仏の法であります。 ゆえに、機と法とは矛盾するのではなくて、この機のためにこの法が成就せられ、この法はこの機を救うためにある。救われる機と救う法とは切り離すことのできない関係にあるのであります。

問. 二種深信は一具であって、前後もなく、また矛盾でもないとすれば、この二種は同時に並んで起こるのですか。

答. 同時に並んで起きるのであれば、二種は別々の心相にたります。二種深信はそのような別々の心相ではありません。名号のいわれを聞いて、おちるわたくしがお救いにあずかると知らせていただく、つまり信機信法の二種は一具であります。信機は捨機であり信法は託法でありますから捨機即託法といわれることは、すでにくりかえし述べたとおりであります。

問. 一枚の紙に裏表があるように、信機と信法との二種は一つの信心の表と裏とであると考えてよろしいでしょうか。

答. 表裏というと、どちらが表でどちらが裏かということになって誤解されるおそれがあります。往生についてすっかりわたくしのはからいがとれたということと、往生についてはすっかり如来さまにおまかせできたということとは、同一のことであります。

問. 同一のことであれば、二種といわずにどちらか一種だけでもよいのですか。

答. 信機か信法のいずれか一種だけならば、他力の信心ということは明らかにならないでしょう。わたくしのはからいがすっかりとれたことが、そのまま、如来さまにおまかせできたことであり、如来におまかせできたことが、そのまま、わたくしのはからいがすっかりとれたことである。こういう信心でなければ、他力真実の信心ではありません。

問. 最近、二種深信の解釈として、信機のところでは浄土は無限に遠い未来のものど感じ、信法のところでは浄土は今ここにあってふれるものである、という人がいるようです。こういう理解のしかたはいかがでしょうか。

答. 今のおことばだけでは、そのいわんとする意味がよくわかりませんが、信機と信法とを相反する二つの心相として見ていられるようですね。もしそうだとすれば、それは二種深信の正しい解釈とはいえないでしょう。また二種深信は信心の相状の問題であって、浄土が遠いとか近いとかいうような問題ではありません。

問. 「松影の暗きは月の光かな」という歌でたとえられますように、月の光に照らされて、はじめて松影の暗いことがわかる。松影の暗いことが知れたのは月の光に照らされたことにほかならぬ。みずからの罪業の重いことを知らされたときが、すなわち他力のお救いがいただけたときである。わが身の罪深きことが本当に知られないで、お救いをいただいたというのは、それは本当のお救いではないと思いますが、どうでしょうか。

答. その歌そのものは、法の光りに照らされて自分の罪深いことが知らされるという意味に味わってよいと思われます。けれども、「みずからの罪業の重いことを知らされたときがすたわち他力のお救いがいただけたときである」というのは、誤解を生ずるおそれがあります。なぜかと申しますと、罪の重いことを知ることが、お救いにあずかるための条件となって、いわゆる機責めということが行われたり、自己反省の内観を強制して、一種の秘事法門のようたかたちにおちいる危険があるからです。

問. おちるわたくしをお救いくださる法であると知られたのが他力の信心であるたらば、初起一念はたしかにおちるわたくしがお救いにあずかることになりましょうが、第二念以後の相続の上は、もはやお救いにあずかった身ですから、おちるわたしではない。したがって二種深信は初起一念の心相であって、信後にはもはや信機はないと考えてよいでしょうか。

答. それはとんでもない考えちがいであります。信後といえどもわたくしの自性は変わりません。依然として煩悩具足の凡夫であって、わが力では迷いを出られないわたくしであります。その自性のままで摂取の益をいただき、正定聚不退の身にならせていただくのです。ですから、
二種深信は初後一貫、臨終の一念にいたるまで同じ心相であります。

問. 信心をいただいてお救いにあずかれば、もはや地獄に落ちられない身となるのでありましょう。それに依然として罪悪生死の凡夫で迷いを出ることのできないわたくしであるというのは、矛盾ではありませんか。

答. 矛盾ではありません。石は沈むのが自性であります。その石が船に乗せられたならば、沈む自性のままで沈まずに川を渡ります。船に乗せられた石は沈まない石に変わったのではたく、目方も変わりませんが、船に乗せられたために沈まないだけであります。わたくしどもも、この肉体がなくなるまでは地獄ゆきの自性は変わりません。それが変わるのは臨終一念のときで、浄土に生まれて、さとりの仏と変わるのであります。

問. でも、ご法義を聞かせていただいてお救いにあずかれば、やはり信前に比べて大きなちがいがあるのではないでしょうか。信前も信後もちっとも変わらないのであれば、平生業成とか信益同時とかいわれることが無意味なものになると思われますが、この点はいかがでしょうか。

答. それはたしかに信前と信後と大きなちがいがありましょう。信後には、まず第一にお救いにあずかった大きな喜びがあります。それから日常の生活においてもいろいろと変わる面がありましょう。みずからを省みてたしなみ、またすこしでも如来の思召しにそうように、よりよき生活を心がけることもできましょう。しかし、煩悩具足の凡夫でなくたるわけではなく、地獄ゆきのお粗末な自性が変わるわけではありません。聖人が、
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわがみにて 清浄の心もさらになし
とおおせられ、また、 悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを 喜ばず、真証のさとりに近づくことをたのしまざることを、恥づべし、いたむべし。
とおおせられるのは、この性得本来の機の相が変わらぬことを省みて悲傷せられたおことばであります。もちろん、それは単なる罪悪感による畏怖(おそれ)ではなく、如来のお慈悲にいだきとられた己のすがたを恥じていられるのであって、その恥じられるままが広大な法の喜びの中にあります。この点は信前の無漸無悦とは大がわりであります。

問. 二種深信というのは、とても複雑微妙なもので、容易には理解し得ないむつかしいものですね。

答. いいえ、決してそんなにむつかしいものではありません。一文不知の尼入道でもお聞かせにあずかれば必ずいただける、「こころえやすの安心」であります。聖人のお勧めを謙虚にお聞かせいただけば、ほんにやさしいおみのりであったことよと、心から喜んで受けいれることのできる尊いお味わいであります。よくよく聞かせていただいて、まちがいのないように領解させていただきましょう。



あとがき 浄土真宗の安心は、わたくしの往生成仏については、一切のはからいを捨て去って、如来の願力に任せきることであります。善導大師はこれを二種深信として示され、宗祖親鸞聖人はそれを承けて、『教行信証』の信文類に詳しく解明せられています。 しかるに、この二種深信について、いろいろの誤った受取りかたがなされているようであります。たとえば、深刻な自己内省による罪悪感を機の深信であると考え、あるいは、激しい情緒的な感動の体験をもって法の深信であると見なし、そのほか機法二種の深信について、二心に前後の別があるとし、また二心が並び起こると思い、さらには、二心は矛盾した心相であると考える、等々であります。 そこで、今回は機の深信・法の深信とはいかなる心相であるか、また二種の関係はどのようであるか、といったことについて、さまざまの問題を提起して、これをできるだけ平易に解説した。 もとより、平易に解説するとはいっても、内容が宗意安心の大切な問題でありますから、一読しただけではすぐにおわかりいただくことができないかも知れませんが、二度・三度と読みかえしていただいて、正しい領解を得てくださる一助ともなれば幸いであります。
昭和四十九年八月 宗義研究の会
編集者 宗義研究の会 伝道振興部


安心論題「二種深信」←「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人は、これを読んで勉強してね。(1)

坊さんの小箱 安心論題「二種深信」より無断転載

二種深信

〔題意〕
二種深信の釈義を窺い、信機信法は二種一具であって、信機は捨機の義であり、信法は託法の義であって、捨機即託法の他力の信の相状を二種深信とする旨を明らかにする。
〔出拠〕
『散善義』の深心釈に、「深心と言ふは即ち是深く信ずる心なり。亦二種有り。一には決定して深く、自身は現に是罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して深く、彼の阿弥陀佛の四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑無く慮り無く彼の願力に乗じて定めて往生を得と信ず。」
「往生礼讃」前序に「二には深心。即ち是真実の信心なり。自身は是煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、今弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声一声等に至るに及ぶまで、定めて往生を得と信知して、乃ち一念に至るまで疑心有ること無し。故に深心と名づく。」とある。
〔釈名〕
「二種」とは機法の二種で、機とは性得の機(衆生本分の機)、法とは摂受衆生の法を指す。「深信」とは『観経』に説くご三心の中の第二の「深心」を本願成就文の「信心歓喜」を以て釈されたもので、本願の信楽にあたる。
〔義粗〕
宗祖の釈義によれば、『観経』の三心には顕説要門の義と隠彰弘願の義とがある。今は弘願の深心の義、すなわち本願の信を機法の二種に開いて二種深信とされるのである。
機の深信とは、性得の機のありのまま(機実)を知ることで、無有出離之縁と知らせていただくことである。無有出離と知らされるから自力の功なきことを知り、自力無功を知るから己のはからいを捨て離れる。故に信機は即捨機である。
法の深信とは、摂受の法のあるがまま(法実)を知ることで、如来の願力はよく無有出離の機を摂受したもうと知らせていただくことである。願力の摂受を知るから法体の独用なることを知り、法体の独用と知るから願力に乗託する。故に信法は即託法である。
法体の摂受に全託する故に己のはからいが悉くとれ、己のはからいがとれるから法体に全託する。
他力に一任するのでなければ自力を離れたといえず、自力を離れたのでなければ他力に任せたとはいえぬ。よって二種深信は捨機即託法・捨自即帰他であって、法体他力を仰ぐ疑蓋無雑の一心(信楽)のほかはない。それを機法両面より顕わされたのが二種深信である。故に宗祖は『二巻鈔』に、二種深信の文を挙げて、「今斯深信者、他力至極之金剛心、一乗无上之真実信海也」と明示されている。
したがって、二種の中の機の深信を自力とすることは宗義に違する。『二巻鈔』の七深信を並ペられるところに、第一の深信を「自利の信心也」としてあるのは、第二の法の深信と一具でないものを自力なりとされるのである。二種深信は一具であって、前後起でもなく、二心並起でもない。また、信後も性得の機相は変わらぬから二種深信は初後一貫する。
〔結び〕
二種深信は本願の信楽を二種に開いて示されたもので、機実・法実を信知することは、捨機即託法であって、この信は初後一貫する。




親●会の人には会の電話・ビデオ・書物でなくて御文章をもっともっと読んでもらいたいですね。

親●会における「二種深信の機の深信」と「罪悪観」との混同は、
大昔にツッコミいれられ、いまだにまちがってるわけやけど、

その間違いに気づか(け)ないまま、
親鸞聖人や蓮如上人のような善知識の言葉じゃなくて、
ショウモナイドグマたっぷりのビデオとか本とかしか読んでないから、
こんな残念なことになるんですわ(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓
21世紀の浄土真宗を考える会 それほど重要なことではないのですが、恥ずかしいです。 コメント覧 より

例のブログの『因果の道理を説くと、救いから遠ざかる??(2)』を
『親鸞会講師の”仏法の救い”の疑問と蓮如上人の成仏のための教え』
というように思いながら以下のように読むと
親鸞会講師が御文章を読んでいるのか非常に疑わしく思えます。


●親鸞会講師の”仏法の救い”の疑問(99パーセントは廃悪修善)

>「仏教とは一言で言えばどんな教えか?」という白楽天の問いに対する鳥彙禅師の答えが、
>「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」でした。
>この話からも分かりますように、釈尊45年間の教えの99パーセントは廃悪修善なのです。
>もし、仏法の救いと善の勧め(廃悪修善)が無関係、あるいは反って遠ざけるものだとするならば、
>なぜ釈尊は45年間の大半かけて、このことを説かれたのか?という素朴な疑問が残ります。


●蓮如上人(如説修行・成仏)の回答(いづれも釈迦一代の説教)

それ、諸宗のこころまちまちにして、いづれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。
もつとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑なし。

※(神明三か条)当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。
いづれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。
さりながら末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。


●親鸞会講師の自問自答(無善造悪の者)

>さらに鳥彙禅師は
>「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」と言っています。
>これは、いくら頭で納得していても、納得した通り実行できない。つまり、悪を止めようとしても止められず、善を行おうとしても行えないということでしょう。
>なぜそういうことになるのか?
>それは私たちの本性が、無善造悪だからではありませんか。
>無善造悪の者に、廃悪修善を説いて、それが簡単に実行できる道理もありません。
>「八十の翁も行うこと難し」とは、そのことを意味しているのでしょう。


●蓮如上人(如説修行・成仏)の回答(末代このごろの衆生は、機根最劣)

しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。
ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。
末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。


●親鸞会講師の自問自答

>(中略)
>だから、仏教における廃悪修善の教え導きがあってこそ、はじめて己の心に目が向くのではありませんか。
>このほかに、己の心に目を向けさせるどんな方法があるというのでしょう。
>(中略)
>もしこれ以上の方法があると言うなら、きっとその人は釈尊以上の先生なのでしょう。それこそ〃珍しき法門〃と思われます。

●蓮如上人のご忠告(それ当流門徒中)

このうへには後生のためになにをしりても所用なきところに、ちかごろもつてのほか、みな人のなにの不足ありてか、相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


親鸞会の人には会の電話・ビデオ・書物でなくて御文章をもっともっと読んでもらいたいですね。
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2009.11.02 20:15 * 編集 *

まだなおってません→親●会における「二種深信の機の深信」と「罪悪観」との混同(現代版!)

親●会における「二種深信の機の深信」と「罪悪観」との混同は、
まだなおってません(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

安心問答 なぜ生きるの本にある「機の深信」は罪悪観と混同しているのか?について(S会会員さんのコメント) より無断転載~

S会会員さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

『なぜ生きる』という本に、
・無明の闇が晴れると、自己の姿がハッキリ見える。
これを「機の深信」といわれる。聖人には、自己の告白が多いが、みな機の深信である。いくつかを紹介しよう。
悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し~
                (221ページ)とか
・無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの極悪人と知らされる。これを「機の深信」と説かれている。
 煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし~
                (260ページ)
と書いてありますが、こうした部分も機の深信と罪悪観?と混同して書いてあるということでしょうか?
またこの本の記述が仮に間違っているとしたら、他力の信心を得ているひとでもこの辺を混同することはありうるのでしょうか?(S会会員さんのコメント)


回答します。

著者が機の深信と信後の罪悪観を混同して書いているのか、わかっていてあえて書いているのかはわかりませんが、本の構成自体は、混同して書いてあります。

「機の深信」については、あほうどりさんがコメントされている通りです。

二種深信=信楽=真実信心
です。
機の深信はその一つの相です。
少し難しく言いますと、自力無功を表します。(あほうどりさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090706/1246861493#c1247063685
しかし、「なぜ生きる」では、機の深信がこのような定義で書かれていません。別の意味で書かれています。別の言葉で言えば、「真実信心を獲得して知らされた罪悪観も含めて知らされる自己の姿=機の深信」と定義されていると思われます。

例:なぜ生きる 第2章17 善いことをすると腹が立つ
・わずかなクッキーを隣家にプレゼントしても、「ありがとう」の一言がなかったらおもしろくない
・偽善者とは「人の為と言って善をするもの」。しかし、まわりの人のためだとわかっていても、タバコすらやめられない
上記は、罪悪観について書かれている章ですが、第2部14の機の深信とはなにかという流れで書かれているので、読んだ人は、「これも機の深信なのか」と思います。

親鸞聖人のお言葉に関しては、「機の深信(真実信心)から出たお言葉(信後の懴悔・罪悪観)」と、「機の深信(真実信心)」が同じ「機の深信である」と定義して書かれているからです。どちらも真実信心(機の深信)があった上での聖人の著作ですから、おおざっぱにいえば同じと言うことで書いているのかもしれません。

コメントで書かれた部分につきましては

・無明の闇が晴れると、自己の姿がハッキリ見える。
これだけでは、機の深信と罪悪観が混同しているとはいえません。

無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの極悪人と知らされる。これを「機の深信」と説かれている。
これに関しては、「すべてが永久に救われぬ」が機の深信とすれば、「無慚無愧の極悪人と知らされる」は罪悪観です。この二つを「機の深信」と定義しています。この定義でなぜ生きるという本は書かれています。「なぜ生きるという本のなかでの機の深信」で書かれているのです。

真実信心の人でも混同するのですかという点ですが、真実信心を間違えることはありませんが、教義を解説するということでは間違えることはあるでしょう。

別の言葉で言えば、自身が阿弥陀仏に救われ、弥陀の浄土に往生するという点、自らの力で往生することはできない点については阿弥陀仏の願力によるので間違えることはありません。真実信心については間違わないというのはそのことです。機と法に疑心有ること無しは、どんな人も変わりません。

人に説明する段では、混同することはあると思います。これは「機の深信という言葉の意味は?」「罪悪観とは違うのか?」というのは、言葉の定義であり、学問です。学問をしなければ、「自分が知らされた自分の姿」を全部機の深信のお言葉「罪悪生死の凡夫」と結びつけて考える人もあるでしょう。

自らの信仰を求める際には、親鸞聖人のどのお言葉が機の深信か、どれが罪悪観かを知らねば助からないということはありません。

ひらたくいえば深信ですから、疑心有ることないことです。問題になるのは、疑心(自力)であって、どのお言葉が機の深信かということではありません。

結果どういう自己の姿を知らされるのかという感じ方には、個人差はあります。

小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ(悲歎述懐和讃)
このようなお言葉は、身を粉にしてのご布教があったからこそのお言葉であって、真実信心を獲得したすべての人が、平等に、救われたらすぐに思うことではありません。

真実信心を獲得しなさい、阿弥陀仏に救われなさいと、親鸞聖人は勧められました。悪人と知らされなさいとはいわれていません。

ただ今救う本願があり、南無阿弥陀仏を与えようと阿弥陀仏は働いておられます。ただ今阿弥陀仏に救われる事が有ります。ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。



S会会員 2009/07/10 23:11
ご回答ありがとうございます。思うに諸善云々に関しては
確信犯的なところがあったと思いますが、この機の深信に関し
ては、「えっ、そうなの、知らんかった。」と内心会長は思う
のではないかと思います。なにしろいたるところに機の深信を
こうした解釈で書いてありますので。
 思うに昔、会長の話を真剣に求めていたころ、自分は
罪悪深重のものと思おう、思おうとしていたことを思い出します。
無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの
極悪人と知らされる。これが「機の深信」である、といわれ
るとそのように思おうとし、そのように知らされたいそのよ
うに思いたいとずーっと考えていました。
こうした思いにとらわれている会員さんは非常に多いのではない
かと思います。法に対する疑いであると同時に機に対する疑いで
すから、当然一念で知らされる自己の姿が罪悪深重の無間地獄行き
間違い無しのものと聞くと自分はその自己の姿を本当と思えない、
これも疑情だからこの心をなんとかしたいと思うのは自然
な気持ちではないかと思います。
(私だけだったかもしれませんが)
ちなみに『歎異抄をひらく』にもこれに関連する記述がありま
した。
・弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の
自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、
不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされるから、「悪を
もおそるべからず」の告白は当然である。悪を恐れ不安になるの
は、地獄一定の悪人と知らされていないからだ。
                (159ページ)
とあります。もしこのテーマでS会が法論して負けるようなことが
あればすごいことになると思うので誰か偽名で一万年堂に法論を
申し込んで頂きたいものです。


大昔からツッコミ入ってます→親●会における「二種深信の機の深信」と「罪悪観」との混同

親●会における「二種深信の機の深信」と「罪悪観」との混同は、
大昔からツッコミ入ってます(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

~以下、親●会でも超有名な、『現代の教学問題――派外からの論議について――』(宗義問題研究会)所収の稲城選恵「二種深信について」より無断転載~



一、浄土真宗親鸞会(高森親鸞会)の主張

(1)『白道燃ゆ』-高森顕徹著-によると、
 弥陀の五劫思准の願をよくよく案ずれば偏に我一人のためであったの大歓喜はこの
地獄の釜底でなければ体験できない。(一五〇頁)
(2)『顕正』-高森顕徹著-にも、
 すべてにゆき詰られた聖人が、吉水の法然上人にめぐりあわれ、「いづれの行も及
び難ければ、とても地獄は一定すみかぞかし」と出離の縁が絶えはてたと同時に、
弥陀五劫思惟の願をよくよて案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり」と知らされ
て、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、凡夫直入の信心を決定なされたのだ…
 …(八四-八五頁)
(3)『こんなことが知りたい』①-高森顕徹著-
 そして聞けば聞くだけ、求めれば求めるだけ、聞ききらない必堕無間の自己に驚き、
 火の中つきぬけても、ここ一つはと思わずにおれなくなるのです。
 そして自力まに合わなかったと、助かる望みが断ち切られて、無間のドン底へ叩き
 おとされた時、十劫以来、呼び続けて下されていた阿弥陀の み声が、五臓六腑を
 つらぬくのです。
 「ただのただもいらんただであったか、他力とはこんな楽な世界とは知らなんだ知
 らなんだ」とおどり上るのです。自力一杯求めたことのないものに自力無効と知ら
 される筈がありません。どうにもなれない自分だと頭で合点しているのと、自力ま
 に合わなかったと知らされて地獄へ叩きおとされたのとは天地の違いであります。
 (一一六~七頁)
次に親鸞会の信者の例からのものをみると、  
(4)『絶対の幸福』(上)-谷口春子書翰集-
 鳴呼、地獄より他に行く処のなき我身であったと地獄へ堕ち切った処まで行かなく
 ては助けられた味合いは判りません。
(5)『絶対の幸福』(下)-同右-
 「アア、自分のような者は絶対助からん」と、もうこれ以上、堕ちるところがない
 というところまで堕ちてゆきました。その地獄の底で生きた阿弥陀仏とお値いする
 ことができたのです。」(一〇四頁)
また、   
 極重の悪人、自己とは何であるかを、善知識先生より真剣必死に聴聞を重ねさせて
 預けば、法の御力によって自己が知らされ、地獄一定住み家と堕ち切らせて項き、
 その時、始めて魂に御六字の光が届いて下さるのです。
とある。
これらの文によると、二種深信の機の深信と罪悪観との混同が明らかに知られる。            

 二、二種深信ということ       

 二種深信という言葉は存覚上人の「三心三信同一之事」にはじめて出づるもので、内容は善導大師の『散善義』ならびに『往生礼讃』に示されている。特に『散善義』では『観経』三心釈中の深心の釈に、「亦二種あり、一つには決定して深信、……二つには決定して深信」とあるから二種深信という立名をされたものである。今、『散善義』の疏文を出すと、
  二つには深心、深心と言ふは即ちこれ深信の心なり。亦二種あり。 一には決定
  して散善て深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より己来、常に没し、常に
  流転して出離の縁あることなしと信ず。二には決定して深く彼の阿弥陀仏の四十
  八願は衆生を摂受して疑なく、慮なく、彼の願力に乗じて定んで往生を得と信ず。
  (『真聖全』一-五三四)
とある。更に『往生礼讃』前序の安心の内容を明かす三心釈の深心釈にも、
  二つには深心、即ちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、
  善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。今、弥陀の本弘誓
  願は名号を称すること、下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむ
  と信知して乃し一念に至るまで疑心あることなし。故に深心と名く。
  (『真聖全』一-六四九)
とある。『散善義』には「深信の心」とあるのが、『礼讃』では「真実の信心」とあ
り、「一者、二者」が略されている。
 更に宗祖の『愚禿鈔』の釈によると、前に二種深信の『散善義』の文を出され、次に、
 今この深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。 
とあり、一他力の信心の内容を二種に開いたものであることが知られる。それ故、法の深信釈では「摂受衆生」を「衆生を拝受たまふ」と訓まれていることは注意すべきである。
 二種深信の二種は、一つには機の深信であり、二つには法の深信をいう。機の深信-信機-は性得の機の内容をあらわすもので、法の深信-信法-は願力の法をいうのである。この機法の真実を信知することである。しかるにこの二種は一具として真実の信心の内容を開いたものである。
 元来、善導大師の上では諸師の『観経疏』の誤解に対し、「深く本願に籍りて真宗を興す」(『浄土文類聚鈔』)とあるごとく、仏の本願によって解釈されたのである。それ故、『観経』の深心を本願の「信楽」、成就文の「信心歓喜」の信に換えられ、深信とされているのである。しかも深信の深は「化身土巻」によると、
  是を以て大経には信楽と言へり。如来の誓願疑蓋雑ることなきが故に信と
  言へるなり。観経には深心と説けり。諸機の浅信に対せるが故に深と言へ
  るなり。‥‥‥‥復一心に就いて深あり、浅あり。深とは利他真実の心是なり。
  浅とは定散自利の心これなり。
とあり、深信の深は他力をあらわすものといわれる。それ故、二種深信の深信は他力の信心を意味し、『往生礼讃』でも「真実の信心」といわれる所以である。この他力の信心に機法別なる二種の信心が存する筈はあり得ない。
 本来、一他力の信心の内容を二種に開いたので、機法の異なれる深信が一つになったのではない。それ故、『六要鈔』第三にも、 
  深等と言ふは能信の相を明す。亦有等とは所信の事を顕す。これ則ち機法
  二種の信心なり。
とあり、深信は能信の相を明すといわれ、「亦二種有り」という機法二種の深信は「所信の事を顕す」とある。これによると、明らかに一他力の信心の心相を二種に開いたものであることが明らかである。この他力の信心の心相を二種に開いた理由は先哲も種々あげられているが、『六要鈔』の釈の如く、対外的には聖道門の生仏一如の理によるさとりと浄土門の立場のすくいの立場の相違を明らかにせんがためといわれる。また内に向かうと『選択集』や『和語灯』の釈の如く、信罪福心の自力疑心の虜となるものに対し、他力の信相を明らかにせんがためといわれる。即ち『選択集』三心章には、
  次に深心とは謂く深信之心なり。当に知るべし。生死の家には疑を以て所
  止となし、涅槃の城には信を以て能入となす、故に今、二種の信心を建立
  して九品の往生を決定するなり。
とあり、上六品の善機の信海(己の功徳をあてにする)の心に固執するものには法の深信を開き、下三品の悪機の信罪(己の罪をおそれる)の心に固執するものには機の深信を開いて、「有善無善を論ぜず、自らの功をからず、、出離偏えに他力にあることを明かす」と、他力平等の信なることを明らかにされている。
また『和語灯録』巻一にも、  
  これは善導和尚は未来の衆生のこのうたがひをおこさん事をかへりみて、
  この二種の信心をあげて、われらがごとき煩悩をも断ぜず、罪悪をもつく
  れる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願を信じて念仏すれば、十声一声にい
  たるまで決定して往生するむねをば釈し給へる也。かくだに釈し給はざら
  ましかば、われらが往生は不定にぞおぼへまし。あやうくおぼゆるにつけ
  ても、この釈のことに心にそみておぼへはんべる也。さればこの義を心え
  わかぬ人にこそあるめれ。ほとけの本願をばうたがはねども、わが心のわ
  去ければ往生はかなはじと申しあひたるが、やがて本願をうたがふにて侍
  る也。(『聖教全』四-五七八~九) 
 また、同巻二にも、
  はじめにわが身の程を信じて、のちにはほとけのちかひを信ずる也。のち
  の信心のために、はじめの信をばあぐる也。そのゆへは住生をねがはんも
  ろもろの人、弥陀の本願の念仏を申しながら、わが身、貪欲瞋恚の煩悩を
  もおこし、十悪破戒の罪悪をもつくるにおそれて、みだりにわが身をかろ
  しめて、かえりてほとけの本願をうたがふ。善導はかねてこのうたがひを
  かがみて、二つの信心のやうをあげて、われらがごときの煩悩をもおこし、
  罪をもつくる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願をあふぎて念仏すれば‥‥
                 (『聖教全』四-六一四)

とあり、信罪福心の虜となる自力疑心の機に対し、二種の信心を開かれたことが明らかに知られる。 
 元来、他力の信心はその体は名号法そのものである。名号の内容は「信巻」における成就文の釈の如く「仏願の生起本末」である。この仏願の「生起」を聞いたのが機の深信の内容であり、また仏願の「本末」を聞いたのが法の深信の内容といわれる。この仏願の生起本末の内容を自らの側の仕事とするのが信罪福心の自力心である。それ故、一深心を二種に開かれた理由はこの信罪福心を否定せんがためといわれる。即ち仏願の生起を聞くことによって信罪の心が否定され、仏願の本末を聞くことによって信福の自力心が否定されるのである。
 特に機の深信と罪悪観とを混同する人は、この仏願の生起の機の深信を信罪の心によってとらえているのである。この仏願の生起の内容と機の深信の関連は『歎異抄』後序の文によっても明らかに知られる。即ち、
  聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに
  親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありける
  をたすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと、御述懐候ひし
  ことをいままた案ずるに、善導の「自身は現に罪悪生死の凡夫、曠劫より
  このかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身とし
  れ」といふ金言にすこしもたがはせおはしまさず。……
                      (『真聖全』二-七九二)
とある。この弥陀の五劫思惟の願は親鸞一人を除いては成立しない。しかも蓮如本の『歎異抄』だけは「そくばくの業」が「それほどの業」となっている。このそれほどは勿論前の句の「五劫思惟の願」をうけている。また次の機の深信の内容に接続していることが考えられる。『維摩経』問疾品「衆生病むが故に菩薩病む」とあるように、「弥陀五劫思惟の願」はそのまま「無有出離之縁」の機の深信の衆生の病によることが明らかに知られる。この場合、機の深信の内容はそのまま仏願の上の問題となっている。ここに仏願の生起の存在理由があるのである。『歎異抄』第九章にも、 
  仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、
  他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、……(『真聖全』
  二―七七~八)
とあるように、煩悩具足の身であることは仏の側にかねて問題にされた内容である。更に『論註』の上でみると、総説分の三厳二十九種の総相といわれる
清浄功徳の釈には、  
  仏本この荘厳清浄功徳を起し玉ふ所以は三界はこれ虚偽の相、これ輪転の
  相、これ无窮の相にして択(虫ヘン)蜂の循環するが如く、蚕繭の自縛するが如し。
  哀れなる哉、衆生この三界顛倒の不浄に締るを見そなはし、衆生を不虚偽
  の処に、不輪転の処に、不无窮処に置て畢竟安楽大清浄処を得しめんと欲
  めす。(『真聖全』一-二八五)
とあり、虚偽の相、輪転の相、無窮の相は正しく二種深信の機の深信の内容と同義である。しかも三厳二十九種の釈の初めには等しく「仏本」とあり、生起本末があげられている。この「本」は私が問題にする以前を意味する。それ故、本は宿とも訳されている。この私の問題にするに先行して、仏の側に既に問題にされているのである。 
 それ故、機の深信の内容そのものは自らが問題にした自己でなく、既に仏の側から問題にされた私そのものの内容であることが明らかに知られる。
 特に善導教学の根底なるものは機根論にある。
 諸師が韋提希を権人とみるに対し、貪瞋具足の凡夫とみる。しかも顛倒倒見の凡夫といわれる。それ故、華座観の立撮即行の説明にある如く、
  六賊常に随ひて、三悪の火抗臨々として入りなんと欲す。
                     (『真聖全』一-五一四)
とある火急に臨む衆生は「詐り親しみて笑を含む」とある顛倒倒見の凡夫である。ここに生起本末すべて仏願の内容とならざるを得ない理由が存するのである。この生起本末の仏願の内容を自らの仕事とするのが信罪福心である。
 故に信罪の心には信機を、信福の心に固執するものには信法を開き、疑心自力心を否定せんがために二種を開かれたのである。
 それ故、機の探信の内容は仏の側から見られた自己そのものの内容であるから、おちるものが、おちるそののまま、おちる心配は無用となる。ゆえに信機は即捨機であるといわれる。しかるに罪悪観は自らがおちる自己を見いだすので、自らが問題にした自己である。ここにはおちることの自覚は、そのまま救いを求める要求が、背後に手を出していることに注意しなければならない。信罪と信機とは全く質的に異なるのである。地獄一定といわれる『歎異抄』の自己の内容は、自らが問題にするに先行して、既に仏願の上に問題にされている自己そのものである。そこには地獄一定のそのまま往生一定である。罪悪観と機の深信とは、自力と他力の根本的相違がある。
 このような機の深信と罪悪観との混同は、二種一具の、一具の内容の誤解から生ずるものである。二種一具は一他力の信心の内容を二種に開いたものであるが、機法各別の深信が一つになったのではない。多くの異解者は、全く相反するものの機法二種が一つになるように解釈し、あるいは機の深信が前で、法の深信が後のように考えるところから間違いを生ずるのである。


 三 親鸞会の問題点

 高森氏の問題となる根底は二種深信の解釈の誤解より生ずるものである。特に機の深信と罪悪観との混同である、既述の如く、「弥陀の五劫思惟の願が我一人のためであったということは地獄の釜底でなければ体験できない」とあり、「助かる望みが断ち切られで無間のどん底にたたきおとされた時、阿弥陀仏の招喚の勅命が聞こえる」といい、「地獄へ堕ち切った処まで行かなくては助けられた味合いは判りません」とあり、「地獄一定住み家と堕ちきらせて頂き、その時はじめて魂に御六字の光がとどいて下さる」とある。いずれも自らが絶対に「救われない存在」であるという自覚を前提にしなければ阿弥陀仏の救いは成立しない。このような罪悪観を救いの前提とし条件とする人は、必ず求道、三定死、信決定、体験、大歓喜等と入信の順序が定式化している。信一念の覚不を強調せざるを得ない理由も、二種深信の誤解より生ずるのである。まず求道の前提として、地獄におちるという恐怖心をあおる事から始まるわけである。
 勿論、後生の一大事を問題にしない限り、救いの法に遇う御縁は恵まれない。現代人の如く、この問題から背を向けているものには法義に通ずる門は開かれない。しかし、この問題はすべての人に共通するものであるが、私一人の問題である。それは人間であること、生きていることそのことの問題である。しかも火急な問題で明日に譲ることが出来得ない、「今ここ」にある人間存在の根底に横たわっている問題である。蓮師の「仏法には明日と申すことあるまじく侯」とある所以である。この問題の前には地上のすべての価値は否定され、虚無の深淵に立たされる。ここに全存在をあげての求道がはじまる。外に向いた眼が一度内に向かうと、当為と現実、理想と現実は恒に背を向けている。罪悪の自覚は内に向かった時、はじめて問題となる。良心がめざめるからである。倫理学者のいう道徳的良心の覚醒は、逆に背を向ける罪障の自覚となる。良心の活動を無限に高めると罪障の自覚も正比例して無限に深化し、無限の暗黒の世界に堕ち入る。その極限を一念覚知者等は善導大師の二河譬の「ゆくも死、かえるも死、とどまるも死」という三定死といわれ、キュルケゴールは絶望といっている。
 真剣に求める者にのみこの自己に遭遇する。一歩上昇せんとすればより深く無底の深淵に堕ちこんでいく。この絶対に救われ難い存在にかけられたのが弥陀の本願であり、名号法であると聞かされた時、誰しも歓喜の感激に酔いしびれないものがいるであろうか。罪悪観はこのように道徳的良心の覚醒によって展開するのである。よく知識人の言葉に、人間の限界の発見によって宗教の世界は開かれるといわれるのも、このような立場において理解されるであろう。しかし、この場合いかに深刻に自らの罪障を悩んでも人間理性を場としているのであるのである。
 元来、悪の自覚は善を要求するのである。絶対悪の自覚は絶対善の要求なくしては成立しない。救われたい要求と救われない自らの悩みは永劫に表裏関係の上に立つ。生きんとする意欲が燃焼するほど、自ら沈んでいかねばならない立場はそのまま放置できない。
 この自己矛盾はそのまま裏面にかくされた信罪福の自力心が絶対者にのびているのである。善本徳本の名号の功徳に目をつける。悪の自覚、罪障の深き疵を癒すものは善本徳本の絶対善以外にはないからである。絶対悪は絶対者によって満たされ、不完全の自覚は完全の要求を必然ならしめる。この絶対善である名号の発見は実に表現し難い喜悦をもつことであろう。一般に欲しいものが与えられると誰しも喜びをもつ。たすかりたいものにたすかる法が与えられると誰しも喜ばざるを得ない。むしろ一般の救いの概念の中にはこのような対応的呼応関係において考えられている。
 しかし、このような罪悪観は道徳的理性を場とするもので、自らによって問題にされている罪悪であり、第十八願の宗教的立場とは次元を異にするのである。
 宗教的罪悪観は、道徳や倫理的立場の人が人に対するに反し、人間が絶対者に対することによって生起するのである。そこには見る側の自己から見られた側の自己に転換するのである。自力無功ということも、みずからによって知ることはみずからの眼によって眼をみんとするがごとくである。というのは無功を問題にする自己が残され、救いを求める自己がかくされているからである。自力無功とはこの見られた側の自己の内容をいうのである。自らが問題にするに先行して「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫」といわれる仏願の生起の自己の内容である。仏願の上で既にみられた側の自己は、救われないものが救われないもののままで、自らのおののきや不安もなく、救いを求める要求もあり得ない。そこには信罪福心は否定される。前者の罪悪観は自らの信罪福心の虜となっているのに反し、見られた側の罪悪観は信罪福心の否定を場としている。全く質的な相違があるのである。機の深信とは既述の如く、仏願の生起本末の生起の内容であるから一般に自らを問題としている罪悪観の否定である。
 それ故、一般に考えられる罪悪観と機の深信との混同によって正しく信罪福心の虜となり、救いも自らの信罪福心の要求に応ずるものとなる。ここに二十願的立場に通ずることとなる。既述の如く、『教行信証』一部六巻は十八願と二十願の立場の真仮廃立にその中心が考えられる。二十願は折角名号法を聞きながら信罪福心の自力心の虜となるため、真実弘願の法に遇うことが出来ない聞損の機である。それ故、「真門釈」の結歎の文には、
  悲しき哉、垢障の凡愚、無際より已来、助正間雑し、定散心雑するが故に、
  出離その期なし、自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども仏願力に
  帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟す可し、深く悲歎すべし。凡
  そ大小聖人、一切の善人、本願の嘉号を以て、己が善根とするが故に信を
  生ずること能はず、仏智を了らず。彼の因を建立することを了知すること
  能はざる故に報土に入ることなきなり。(『真聖全』二-一六五)
とあり、助正間雑の心や定散心の自力心にとらわれている限り、永劫に仏願力に遇うことは不可能であると厳しく誡められている。 
 宗祖の生涯かけて最も問題にされているのは十八願と二十願の真仮の廃立にある。それは既述の如く、『教行信証』一部六巻のみならず、和讃をはじめ、他の著作の上にもみられるのである。二十願も「聞我名号」と願文にあり、本願の成就丈にも「聞其名号」とある。双方ともに名号を所聞の体とし、所信の体とするのである。しかるに二十願は折角名号法を聞きながら信罪福心の自力疑心にとらわれているから真実の法にあうことが出来ないのである。それ故、浄土真宗で最も問題となるのは自力疑心である。蓮師の宗名の御文章にもあるように、浄土真宗の「真」の一字を加えたことは自力疑心を認めるか否かにあるといわれる。自力心を認める限り、真宗とはいわれないのである。この自力心はみずからによっては征服することは不可能である。他力の法によってのみ否定されるのである。しかも自らが求めるに先行して既に与えられている名号法を聞信するから自力心を否定されざるを得ないのである。
 この順序が逆になり、自らが先行すると、折角、生涯をかけて開法しても永遠に本願にあうことは出来ない。真剣な聞法者ほど、この順序が逆になっている場合が多いのである。ここに聞法に苦労しなければならないのである。聞くこと以外に本願に遇う道は開かれていないが、聞いて信じなければならぬと己の側に力をいれるほど、逆に救いから遠ざかるのである。かつての妙好人の跡をみると明らかである。それは否定媒介としては重要な意味をもっているが、救いには直接しないのである。ここに聞法の厳しさがあるのである。

 浄土真宗の第一前提は本願成就である。「信巻」末の横超の釈に、
  横超とは即ち願成就一実円満の真教、真宗是なり。(『聖教全』二-七三)
とあり、本願成就を前提とするから平生業成の教義が成立するのである。それは救いの法がこちらが求めるに先行して、既に与えられているのである。それ故、聞信と同時に即得往生の益をうるのである。『教行信証』の「教巻」の初めの文は二相四法から始まっている。このこともまさしくかかる立場を明らかにしたものである。
 この自らが求めるに先行して既に与えられている法を、逆に自らが先行するのが二十願、真門の機である。それは逆に救いの法をはねつけることとなるのである。それ故、二十願から十八願へは転入といわれる「転」の言葉が用いられている。直入や趣入の直通でなく、否定媒介を意味すろものである。
 親鸞会の立場は折角聞法に力をいれながら、順序が逆になるから、信心獲不に力が入り、信罪福心の虜となっているのである。

「地獄秘事」ってこんなのよ。

21世紀の浄土真宗を考える会 地獄秘事ってどんなのでしょう?  より無断転載

『真宗大辞典』 第三巻 1528頁(永田文昌堂刊 ISBN4-8162-0101-7 C1515)より
(改行、かなづかい、数字表記などは少し変えてあります。ボールド体の強調は私がしました。)

真宗の異安心の一種。
我が身は地獄必定なりと思いつめるを信心なりと主張するを以て、この名を得たのである。
寛政の頃近江国(滋賀県)に東本願寺末寺なる光常寺(同県坂田郡息長村大字新庄に在り)、その外、春道、兵左衛門、次右衛門、彌惣治、丹蔵の5人が主として之を唱え、寛政11年(1799)2月彼等は本山に招致せられて、嗣講鳳嶺の調査を受け、遂にその教諭に服従して局を結びしと云う。
この秘事の徒の主張せし要点は、

一に二種深信は謂ゆる信機と信法との二種にして、二種は同時に起こるに非ず、前後に起こるのであって信機は前なり、信法は後なり。故にまず機を信ぜねばならぬ。既に蓮如上人の御文に「我が身はわろきいたづらものなりと思ひつめて」とあるによりて、我が身はいよいよ地獄ゆきに必定の者なりと落ちきらねばならぬ。かく落ちきれば助くる法は仏の手許に存するを以て、之を眺むるに及ばない。若し誤って法を眺めんとすれば、是れ本願に手をかくるものにして自力である。眺めざるは是れ実に深く法を信じたるなりとして、地獄必定の者なりと信ずるのみを以て信心となした。

二に南無阿弥陀仏の六字の意は機と法の二である。若し阿弥陀仏のみを信ずるときは、遂に南無の二字を信ぜざることゝなる。然るに南無の機を深く信ずるときは、自ら法にもとづくなりとなした。是れ南無の二字と阿弥陀仏の四字とを引き離して、機のみを信ずる説を助成せんとしたのである。

又彼の徒は、御文は一往の説にて月を指す所の指の如くなれば、深く拘泥すべきにあらずと云い、

又、決定心は行者に求むべからず、然るに今時決定したと思い、或いは頼みしと思い、或いは信じたと思うは悉く自力心にして、本願に手をかけたのであると云い、

又絵像木像は虚仮にして、実の仏体は名号なりとして、仏像を軽視したと云う。

江州異安心御教誡と題する調査書に出づ。







「罪悪を観ていく」んじゃなくて、「南無阿弥陀仏」した人の信心が「真実信心」やで。(「内観」と「真実信心」は違うで。補足)

【「内観」と「真実信心」は違うで。】の補足。

このブログを見ている皆さんはわかっていると思うけど、

「罪悪を観ていく」んじゃなくて、
「南無阿弥陀仏」した人の信心が「真実信心」やで。


これは、【やさしい浄土真宗の教え】§9-11で詳しく解説した所やから、
まだ読んでない&忘れた人は、ちゃんと読んで勉強してや。
 ↓ ↓ ↓ ↓

【「南無阿弥陀仏」と信心に関する話】

§9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
 1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
 2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
 3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
 「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
 ★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」という【勅命】、
 ★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
 ★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」という【選択本願】、
  として解釈されている。
 4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
  衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
  人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
 5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
 「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
 【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。

§10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ
 1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
 「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
 ★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
  【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
 ★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
  【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
 ★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
  【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
  として解釈されている。
 2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
  善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
 3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
  永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
 4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。

補講
Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について
Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因


§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)
 1、様々な「信心」の中でも特別な、
  「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
 2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」
  になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、
  二つの角度から明らかにしたものである。
 3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
 4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
 5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
 6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
  いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
  「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。



プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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