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メモ「自業自得の救済論」

用管窺天記 「自業自得の救済論」 より無断転載
 ↓ ↓ ↓ ↓

高森親鸞会という浄土真宗を名乗る新興宗教の団体がある。
この団体は、かって本願寺派紅楳英顕氏との間で宿善について論争したことがある。
紅楳氏の「破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示して欲しいとの主張を、「真宗に善をすすめる文証などあろうはずがない」と、紅楳氏の主張を歪曲し非難した過去がある。

その論争の中で真宗における善の勧めの根拠として高森親鸞会から提示されたのが「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」という七仏通誠偈であった。

この、七仏通誠偈をもって真宗に善の勧めがある、と高森親鸞会は主張するのである。
本願寺派では、あまりにも浄土真宗の基礎を知らない幼稚な主張にあきれはてて放置しておいたのだろうが、これをもって高森親鸞会内部では本願寺を論破した稀代の善知識として会員獲得のスローガンになっているらしい。

また、
「善因善果 悪因悪果 自因自果」の厳然たる因果の道理を知らされた者は、必ず「廃悪修善」の心が起きる。
高森親鸞会HP

と、主張し、「廃悪修善」を勧めていることは周知の事実である。
同様に、高森親鸞会では「善の勧めはなぜなのか」と自問し、

「十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。
要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。
実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。」
同上

と主張している。

親鸞聖人には「願界真仮論」があるが、高森親鸞会では、この三願転入の論理を聖道門の自業自得の因果論によって解釈し、会員に善を勧め(主として人集め金集め)十八願直入の道を遮蔽しているのである。

十八願は阿弥陀如来の本意の願であり、十九願二十願は不本意の願である事は親鸞聖人の「願界真仮論」によって顕かである。何故に会員に阿弥陀如来の不本意の十九願二十願を勧め、ましてや六度万行(六波羅蜜)という法蔵菩薩の五劫兆歳永劫の修行を会員に奨励するのであろうか。

本願寺派勧学梯實圓和上は自著『顕浄土方便化身土文類講讃』で以下のように述べられている。

真仮論の救済論的意義ー自業自得の救済論
阿弥陀仏の本願のなかに真実と方便を分判し、浄土三部経にも真実教と方便教があるといわれた親鸞聖人は、そのように真仮を分判しなければならないのは「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」るからであるといわれていた。逆にいえば、真仮を分判することによって、はじめて如来の救いの真相が明らかになるというのであった。その意味で真仮論は、聖人の救済論の根幹にかかわることがらだったのである。

真仮論とは、浄土教を、さらに広くいえば仏教を、二つのタイブの救済観に分けることであった。第一は、自業自得の因果論に立った救済観であり、それは論功行賞的な発想による救済観であった。
第二は、大悲の必然として救いが恵まれるとする自然法爾の救済観であって、それは医療に似た救済観であった。
自業自得の因果論に立脚した救済観というのは「誠疑讃」に

自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける

といわれているような、自力の行信因果をもって救済を考えていく思想をいう。
それは浄土教というよりも、むしろ仏教に一般的に共通した思考形態であったといえよう.
有名な七仏通誠の偈とよばれる詩句がある。

諸悪莫作(もろもろの悪は作すことなかれ)
衆善奉行(もろもろの善は奉行せよ)
自浄其意(自らその意を浄くす)
是諸仏教(これ諸仏の教えなり)

というのである。悪を廃して善を行じ、無明煩悩を断じて、自心を浄化し、安らかな涅槃の境地に至ることを教えるのが、すべての仏陀の教えであるというのである。

このように廃悪修善によって涅槃の果徳を実現しようとする自業自得の修道の因果論が、七仏通誠といわれるように、仏教理解の基本的な枠組みであった。
このような自業自得の因果論の延長線上に浄土教の救済を見るのが第一の立場であった。

法然聖人を論難した『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」によれば、諸行往生を認めない法然は『観経』等の浄土経典や、曇鸞、道綽、善導にも背く妄説をもって人々を誤るものであるといっている。
すなわち『観経』には、三福九品の諸行による凡聖の往生が説かれているが、彼等が往生するとき、仏はその先世の徳行の高下に応じて上々から下々に至る九品の階級を授けられていく、それが自業自得の道理の必然だからである。
たとえば帝王が天に代わって官を授くるのに賢愚の品に随い、功績に応ずるようなものである。しかるに専修のものは、下々の悪人が、上々の賢善者と倶に生ずるように主張しているが、「偏へに仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚痴の過」を犯していると非難している。

これは明らかに自業自得、廃悪修善の因果論をもって、法然教学を批判しているもので、『興福寺奏状』の起草者、解脱上人貞慶からみれば法然聖人の浄土教は、仏教の基本的な枠をはみ出した異端でしかなかったのである。
『顕浄土方便化身土文類講讃』(梯實圓著)P61~

高森親鸞会のHP「承元の法難」には何故か『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」が意図的に省かれている。同上

参考の為に意図的に省略された『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」の部分を提示しておく。興福寺奏状

これは、前掲の梯實圓和上の説にもあるように、高森親鸞会の主張する「廃悪修善」「自業自得の因果論」にとって都合の悪いものであるから意図的に省いたのであろう。

承元の法難では『興福寺奏状』に説かれる論理によって、法然聖人の門弟四人の死罪、法然聖人と親鸞聖人など中心的な門弟七人が流罪に処さるという未曾有の念仏弾圧が行われた。

高森親鸞会では、同じような廃悪修善の因果論の論理によって、まさに法然・親鸞という両聖人が説かれた選択本願念仏という宗義を破壊し毀損しているとしか思えないのである。

親鸞聖人は、

西路を指授せしかども
 自障障他せしほどに
 曠劫以来もいたづらに
 むなしくこそはすぎにけれ

と、自らが迷い人を惑わせることを自障障他と言われているが、高森親鸞会の講師の方々に言いたい。
自らが迷うなら、それこそ自らの属する高森親鸞会の信条である「自因自果」であるが、どうか他者である会員を惑わせないで頂きたい。


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ものすごく納得がいく、スマナサーラ長老の因果論

テーラワーダ仏教ゴータミー精舎日記より
http://gotami.j-theravada.net/

質問者への長老の回答
 ↓ ↓ ↓

質問3 結局のところ、お釈迦様が説かれた「自業自得」とは、(1)「自分に起る幸不幸の出来事は"すべて"自分の責任である」ということなのでしょうか? あるいは、(2)「自分に起る幸不幸の出来事は自分"にも"責任がある」ということなのでしょうか? あるいはもっと適切な理解の仕方があるのでしょうか? 個人的には、(2)ならば、まぁ納得できます。だって「全部社会や周りのせい」も極端ですし、「全部自分のせい」も極端じゃないですか? 同じ境遇でも幸福に感じるか、不幸に感じるかは人によって違います。そういうところは「自業自得(自分で何とかできることだから)」かもしれませんけど、「これは自分の責任ではない、社会の問題だから、社会で解決してもらわなくては」と、社会を変えるように頑張ったほうが、公共の福祉(たくさんの人の幸福)に繋がる場合 だってあると思います。

答え  正確に言えば、「起こる出来事」は自業自得ではないのです。純粋な出来事、という意味では自業自得の面もあり、他業自得の面もあり、まとめて言えば多業多得です。自分、他人、社会情勢、自然環境といったさまざまな因縁が重なり合って複雜な現象が成り立つのです。唯識思想ではあるまいし、初期仏教では現象としての外界の存在をきちんと認めています。それをすべて無視して自業自得というのは、極論であり邪見です。

  社会というのは単なる現象ですから、無常・苦・無我であって、因縁関係の流れであって、それ自体は究極的には無価値なのです。無知な人間が作った社会で、仮に作られた約束事にもとづいて、争って苦しんでいます。人間の身体とおなじく、国家も社会もメンテナンスしなければおかしくなってしまう。だから、構成員一人ひとりが、社会をよりましな現象の流れに変えていくように頑張るしかないのです。しかし、そこに完璧な正解というものも成り立たない。つねに試行錯誤しながら、社会を構成している生命が幸せでありますように、という慈しみの動機付けをもって、理性的に社会と関わる中道的な生き方をするということが答えなのです。

 多くの因縁で構成された「出来事」を個人レベルの自業自得に還元することは行き過ぎです。ましてや他人を差別したり不正を正当化したりするために使うなどもっての外です。しかし、個人が出来事に直面した時に成り立つ「幸不幸」は主観的なものですから、あくまで自業自得なのです。ある「出来事」を幸福と感じるのも自分、不幸と感じるものも自分、だからです。同じ現象の流れに対して、自分がどう向き合うか、どうはたらきかけるか、というのは自分で決めるしかありません。また過去においても自分で決めてきたのです。このように、複雜な因縁の絡まりあいである現象に対する反応がすなわち自業であって、その自業が次の自分をつくっていく(自得)という意味で、自業自得です。先ほど述べたように、現象に対する反応(感受=心)の流れが輪廻であって、輪廻の見方からすれば、自業自得しか成り立たないのです。そのように厳密な真理として自業自得を認めることで、人は向上への道を歩むことができるようになります。(終わり)




上記に対する、オイラのお友達(♀)の感想
 ↓ ↓ ↓

ものすごく明晰。
「出来事」と「出来事の結果おのおのが抱く心情」をごちゃまぜのままに、他人に対して「あんたの業のせいである~。」などと言ってはいけないのだ。
とってもスッキリした。

嫁いだ家のお寺にお上人がおらず、仏縁の薄いところへ嫁いだのが私の業なのではなく、その状況を幸せに思うか不幸せに思うかということが私の業に左右されるのである。
高校を出た若者は進学するにも就職するにも地元をはなれて都市部に出て行かなければどうしようもない田舎で、若者はどんどんへり、年寄りばかりが取り残されている。親が死んだって、葬式のためにちょこっともどってくるだけだ。年寄りが死んでしまうとそれで地元のその家は絶えてしまい、門徒の数はどんどん減って行く。お寺さんだって、そんな田舎に常住の人員を配置するより、都市部に手厚く配置しておいた方がお金的に有効性を生むので、そうするのである。
業の深い人間が田舎に生まれて仏縁から遠のくのではない。
田舎がさびれゆくのは、田舎の事をかえりみず、どんどん切り捨てて行った国政の責任によるところが大きい。
個人の業のせいならば、業の深いモンがじゃかすか田舎に生まれ落ちて、今頃田舎は大盛況であるだろう。






流石や~。 この「業」理解が仏教の正統やね。

「環境」に基づいて「楽」「苦」を感じる「オレ」と、
それ自体は「楽」でも「苦」でもない「環境」をごっちゃにして、
それにまで「オレ」の責任を当てはめると、
とんでもない差別思想になっちゃうねん!!
 
ヘンテコドグマ野郎(※)は、これは最低四十八回熟読せよ!!

※こいつ。
 ↓
静かな劇場 因と縁
http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/d05e56dce8576055cd0c909f00bd3ac6

【お知らせ】Hiroshi Makino氏が淀川コナン氏からトンズラしました。

「苦笑の独り言」をご覧の皆様へ

Hiroshi Makino氏が、今度は淀川コナン氏からトンズラしました。

以下、淀川コナン氏からの投稿です。
 ↓ ↓ ↓

管理人様へ。
宣言通りコメントします。
管理人様が噂通りのMさんならば残念です。
Mさんには大変お世話になり、尊敬をしておりました。
私とのやり取り(改変されていますが)を削除されたので、このコメントも不掲載にせざるを得ないでしょう。
管理人様から頂いた質問には以下のブログに回答しました。

「苦笑の独り言」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

その中の10月13日の記事
「今度もショウモナイ言い訳でトンズラですか(苦笑)」

のコメント欄10月14日「淀川コナン」で回答しております。
是非とも返答お願い致します。(苦笑氏のコメント欄で結構です)
HNは「TAXI」でも「ちび丸」でも、なんでも構いません。
お忙しいでしょうから一週間以内(10月24日AM8:00まで)にご返答願います。
もしもご返答なければ、このコメントを公表します。

以上の内容を「辛口!真宗時評」に10月16日夜にコメントしましたが、管理人からは返答がありません。
予告通り公表します。

淀川コナン。


メモ「仏教における善悪」

用管窺天記 「仏教における善悪」 より無断転載
 ↓ ↓ ↓

仏教における善悪

10 月 20th, 2008
講義録から引文

仏教で善悪と言うのはどういう事かと言うと、善悪というのは行為の倫理的な価値判断の言葉です。
その行為が良い行為であるか悪い行為であるかというので善悪という言葉を使う訳です。

行いの倫理的な価値判断を善悪と言う訳です。行いの事を仏教ではカルマンとかカルマという言葉を使います。翻訳して業と言います。それは行いという事です。自らの自由な意志によって決断をして身体で口で心である行為を行う。そういう行為を業という言葉で顕わしております。

その行為の倫理的な価値判断の言葉が善悪という言葉です。精密に言いますともう一つあります。善・悪・無記というのです。無記というのは善とも悪とも判定できない行為の事を無記という言葉で言います。そこで正確に言いますと善・悪・無記という三つの倫理的な性質というので、これを三性という言葉で顕わします。行為の倫理的性質の事です。

善というのは何かと言ったら、その行いによって自他の上に安らかな状況を作り上げていくような行いを善と言うのだ。善というのは安穏なる結果をもたらす行為です。安穏というのは安らかな穏やかなという事で、その行為の結果、自分も人も安らかな穏やかな生き方ができるような行為の事を善と呼ぶのです。

それに対して悪というのは非安穏なる結果です。この非安穏なる結果とは何かと言ったら苦悩です。安穏なる結果というのは苦悩に対して楽です。だから非安穏なる結果、つまり苦悩を生み出していくような行為を悪と呼ぶ訳です。だから悪というのは苦果を招くもの、善というのは楽果を招くものと昔から言うのです。

苦とか楽というのは結果なのです。行いによってもたらされる結果なのです。苦とか楽というのは善でも悪でもないのです。苦楽は善でも悪でもありません。苦は悪ではありません。楽は善ではありません。善・悪というのはそういう状況を造り出していく行いの事に名付けるのです。これは非常に精密な言葉です。

例えば地獄というのは苦しみの一番最たるものですが、地獄は悪ではないのです。あれは悪によって造り出していく結果であって地獄そのものは無記なのです。善でも悪でもない。幸せな状況というものも善でも悪でもない。それも無記な状況です。

だから地獄においては善を造る事もできる。天上界という楽なる所において悪を造る事もできる訳です。ですから善悪というのは私達の行為に対して倫理的に判断した言葉が善悪という言葉で、これは精密に言葉を使わないと意味をなしません。

この行為の事を仏教では業と言います、業という言葉はどうも誤解がありますので使いません。誤解する言葉は使わない方が良いのです。だから行為としておきます。それで良いのです。カルマという事は行為という事です。行為というのは何かと言うと、先ず行為の主体は自由な意志を持った者です。自由な意志を持った者でなかったら行為はできません。物が動いてるという事と行為とは別です。行為というのは必ず自由な意志によって決断して行っていく事です。意志によって決断して行っていく事を行為と言う訳です。意志的なはたらきの事です。従ってそういう意志的な決断によって行った行為の結果についての責任は自分が持たねばならないという事です。反対に自分の行為によって行った結果でないものに対しては責任を持つ必要はありません。これはハッキリしております。何に対して責任を持つか、何に対して責任を持たなくて良いのか、これは仏教はハッキリさせています。郵便ポストが赤いのも私のせいでございます。そんな事を言いはしません。

自分が自由なる意志の決断によって行った結果、その結果に対して自分が責任を持つのです。ただし自分が決断すべき事を決断しなかったという事も勿論自分の責任になります。だけど責任というのは意志的な決断によって行為をし、それによって受ける結果に対して責任を持つという事です。全く自由な意志がはたらかない状況において生み出していった結果に対しては責任を持つ必要はないのです。だから例えば心身喪失の状態で行った犯罪に対しては、その責任は問わないという事です。これは当然です。それは自由なる意志によって決断した行為ではないのですから。逆に意志的に決断して行った行為に対する責任は絶対逃れてはいけない、逃げようとしてはいけないという事です。そういう点が非常にキッチリした事を語る訳です。

・・善=安穏なる結果(楽)をもたらす行為
三性・・悪=非安穏なる結果(苦悩)をもたらす行為
・・無記=善とも悪とも判定できない行為

そこで話を元へ戻しますが、善と悪と無記というのはこういう事です。自分と及び人に対して安穏なる結果をもたらすような行為を善と言い、自分と人に対して非安穏なる結果をもたらすような、苦しみの結果をもたらすような行為を悪と言うのだという風に定義をしております。

そうしますと悪い事をするという事は何かと言うと、自分と人と苦しめるという事です。自他を苦しめていく、そういう状況を悪と言う訳です。だから悪をなす者というのは一番惨めな者だという事です。憐れむべき存在であるという事です。善なる行為を行っておるという事は、それは称讃されるべき者である。自分自身ものびのびとした安らかな生き方ができるし、また称讃に値する人である。

だけど自ら悪を造って苦しみの中に沈んでいく人は当然非難されるべき存在です。これは当然の事です。これが善悪という言葉の持つ意味です。だから仏様が悪人を救うと言ったら。この悪人をどうする事なのかと言いますと、ちょうどお医者さんが病人の病気を治して健康にしていくように、もう悪に染まる事のない者に仕上げていくという事が救いなのです。

ダンマパタ
67 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
68 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。  

【ツッコミ依頼】「 M野氏ではないyo」をシメテください。

【依頼者】

いつもお世話になっております。
既にご存じかもしれませんが、以下のブログのコメント覧で、
「 M野氏ではないyo」を名乗る人物が、不当なアラシ行為を行っております。

スルーしてもいいのですが、鬱陶しいので一発ガツンとシメテください。

親鸞会教義の誤り 2009-10-09 お知らせ
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-24.html



【苦笑】

おお!
卑怯・卑劣・インチキ・ヘタレ・捏造・論点スライド野郎が、そちらに現れましたか!

既にいろんな方のコメントでフルぼっこになってますので、
私がさらに付け加える必要はありませんが、
オシオキの意味で、過去に掲載されたいくつかの記事を再掲載しておきますね。
 ↓
(再掲載)Q&A(10)ネット対策員にどう対処するか?
(再・再掲載)ちび●さんのおかげでわかりました!!五願開示もパクってた?!
(再掲載)【お知らせ】「辛口!真宗時評」管理人様とのやりとり終了のお知らせ
(再掲載)Q&A(9)これが「伝統と己証」と言えるのでしょうか?

自身のエラーで親●会の誤りが浮き彫りになったやり取りを晒されるのが、
件の輩には、一番大きなダメージになりますからね(笑)。

まあ、腐海の蟲みたいなものですから、また忘れたころに現れるでしょうけど(苦笑)。


というか、
五願開示ネタのパクリを晒されて、


ikiruimiwositte  2009/2/5(木) 午前 0:55

大沼氏は学者ですから、そういう説があるということで勉強になりました。
祖師聖人は御文と願を対比されてませんからそういう解釈もあるのでしょうね。

 ↑
こ~んな苦しいことを言ってたのは、
どこの誰だったんでしょうかね~?(苦笑)




参考

卑怯・卑劣・インチキ・ヘタレ・捏造・論点スライド野郎が触れて欲しくない話題?!
 ↓
辛口!真宗時評での断章事件を追う(1) 管理者の正体を隠した布教と勧誘
辛口!真宗時評での断章事件を追う(2) 論点はどこか?
辛口!真宗時評での断章事件を追う(3) 不誠実な対応その1

(再掲載)Q&A(10)ネット対策員にどう対処するか?

腐海の蟲への制裁処置につき再掲載(笑)。



Q。
某巨大掲示板に、苦笑さんを名指しで批判する書き込みがされていますが、
苦笑さんはご覧になられましたでしょうか?

親●会の教義や反社会的行為を取り上げる掲示板に、
そのような書き込みをするのは不適切であると思いますが、
繰り返し書き込みがされるので非常に迷惑しております。

そのようなネット対策員に、どのように対処したら良いか?
何かよいアイデアがあればアドバイスよろしくお願いします。



A。
全く迷惑な話ですよね(苦笑)。

私に意見があるなら、このブログのコメント覧やメールで、
直接私に言ってくればいいのに、沢山の方が利用する掲示板に書き込みするのは、
全く、自己中で非常識で迷惑千万な話だと思いますよ(苦笑)。

そのような輩は基本的に「シカト」するのが一番だと思いますが、
放置しておくと、また勝手に勝利宣言して超ウザイので、
話題にしてほしくないであろう、過去の失態を晒し者にして、
黙らせるのも有効かと思います。

教義上の話をしても、どうせまたぐちゃぐちゃ言ってきますので、
彼の書き込みが、高●先生のパクリ損ないを暴くことになってしまった、
親●会のネット対策員として蒸し返してほしくないような以下の話題を、
もう一回蒸し返してあげちゃうってのが、有効なんじゃないかと思います。
 ↓
とりあえず、これは読んでおいてね!!
ちび●さんのおかげでわかりました!!五願開示もパクってた?!

私のブログでも再掲載しておきましたので、
またぐちゃぐちゃウザかったら、蒸し返して黙らせてください。

(再・再掲載)ちび●さんのおかげでわかりました!!五願開示もパクってた?!

腐海の蟲への制裁処置につき再・再掲載(笑)。



※とりあえず、これは読んでおいてね!!

以下、ちび●さんのおかげでわかりました!!

この親●会講師試験の問題&解答は、
元親●会講師部のメル友からもらったものなんですが、

 ↓ ↓ ↓

~親●会 平成4年度後期・講師試験問題より~

問4 十八願の心は五つの願にあらわすことができるが、その五つの願を
   示し、その五願を本願文と対比せよ。

答4 ◎十一願・十二願・十三願・十七願・十八願

   ○十一願……若不生者
   ○十二願……至心信
   ○十三願……楽欲生我国
   ○十七願……乃至十念

~親●会 平成4年度後期・講師試験 11月22日実施 問題 より~



親切なちび●さんが、上記の解答の間違いを指摘して、
丁寧に五願開示を解説してくれました~。
 ↓ ↓ ↓

生きる意味を知って幸せな人生を ゲストブック

ikiruimiwositte 2009/2/2(月) 午後 7:05
(略)
 それと、この答え違ってません?
 十二、十三願が「至心信楽欲生我国」?

五願開示をもう一度勉強されたほうがよろしいかと思います。



五願開示とは(そんなにわかりにくいかね?)

「たとひわれ仏を得たらんに、

十方の衆生、至心に信楽してわが国に生れんと欲ひて、

乃至十念せん。

もし生れざれば、正覚を取らじと。

ただ五逆と誹謗正法を除く」(十八願)

これに五願の意があると開かれたのが教行信証の「五願開示」といいます。

行巻に「乃至十念」......十七願

信巻に「至心信楽欲生我国」......十八願

証巻に「若不生者」.......十一願

真仏土巻に「(不取)正覚」......十二、十三願


>信巻に「至心信楽欲生我国」......『十八願』→ここに明らかにされた十八願がある。

これが親鸞聖人の御己証。

往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あ
り。乃至。
真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
 若不生者(→この『生』には「浄土に生まれさせる」という意味がない)
 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

>若不生者(→この『生』には「浄土に生まれさせる」という意味がない)

なぜなら「正定と滅度」は11願に誓われているから。
またこの11願を「難思議往生」と証巻に表されています。

以下文証。

 往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あ
り。
 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無
量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」
 真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲
生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」
 真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果
の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必
至滅度者 不取正覚」
 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。
 この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。 (如来二種回向文)




なんで親●会の模範解答が間違ってるんだろ~?
というわけで・・

元親●会講師のメル友に聞いてみました~♪
 ↓ ↓ ↓

苦笑ちゃんが貰ったメール

頂きましたご質問についてですが、講師試験の答えが発表の後、確か平成4年の教学講義で、ある人の質問で五願開示について、18願との対応関係が、なぜそうなるかを聞かれた人がありましたが、その時の高●先生(※注 苦笑が伏せ字にしました)の答えは、知らなくてもいい、というような答えで、誤魔化された感じがしました。

12願が至心信、13願が楽欲生我国に当てはめるのは、一般の真宗の学者では、大沼法龍氏しか私は知りません。何冊かの真宗学者の書いた本では、12願、13願は、正覚に対応する、とあったのを読んだことがあります。




というわけで、大沼先生の本から引用~!!
 ↓ ↓ ↓ 

●『法界』(昭和36年)p.344 
 その名号を領受した相を第十八願では信楽と言い、成就の文では信心歓喜と仰せられたのである。光明無量の智慧が届けば疑いの雲は晴れるから信、寿命無量の慈悲が届けば往生の願いが満足するから楽、衆生は疑いの惑いの為に業を造り、業を造るから苦しむ、苦しむから増々惑うのであるが、我等の疑いの惑いも光明に照らされ、仏智満入すれば疑雲は消除されるけれども貪愛の煩悩はよく見える、見えるから機の懺悔となり、慎みとなり俗諦の形儀となるのである。(以下略)

●『法界』(昭和36年)p.367
 その光明無量寿命無量の念力が私に届けば信楽の二文字となり、開けば信心歓喜となり、曇鸞大師は破闇満願と教え、道綽禅師は罪悪観と無常観で説き、善導大師は信機信法で示して居られるのだ。(以下略)

●『八万の法蔵は聞の一字に摂まる』(昭和50年)p.240

         ┌光明無量─空間的無辺─十方─智慧──信心
宇宙の真理─名号─│                     (中略)
         └寿命無量─時間的無辺─三世─慈悲──歓喜

 弥陀の名号を称え、真理と一体になれば、光明無量の智慧によって疑いが晴れたから信となり、信心となる。寿命無量の慈悲を頂くから楽となり、歓喜となる。(以下略)




これを高●先生はそのまんまパクってま~す!!
 ↓ ↓ ↓ 

●『会報』vol.2 p.185 信忍(10) 昭和58年
 阿弥陀佛の名号には光明無量と寿命无量の全徳がある。
 その光明無量の智慧が我々衆生に届けばツユチリ程の疑心も晴れ亘るから、本願の文では信となり、成就の文では信心と教えられた。
 寿命无量の慈悲が衆生に届けば无量永劫生きぬく力が与えられるから本願の文では楽となり、成就文では歓喜と説かれている。

●『顕真』昭和59年5月・6月号
 邪見驕慢の極悪人が、自分であることに驚き、必死に聞法求道さされた人が、助かる望みが絶ちきられたときと、仏智の不思議に助けられたときとは同時であって、まさに不可称・不可説・不可思議の境地です。(これを信楽という)
 光明無量で、無明の闇が晴れた相が「信」。
 寿命無量で、志願が満足できた相が「楽」。
 盲人の眼が開けたときの慶び。心眼の開かれたこの境地は、「心も言葉も絶えたれば……」と、聖人も、ご述懐の通り、驚天動地、人知の想像のつくものではありません。



なるほど!!これで、

 光明無量(十二願)→信
 寿命無量(十三願)→楽

となるわけね~。


そんでもって、聞くところによると親●会では、

 至心  =大安心=信
 欲生我国=大満足=楽

と教えられてるみたいだから、


  ○十一願……若不生者
  ○十二願……至心信
  ○十三願……楽欲生我国
  ○十七願……乃至十念

   ↑
五願開示がこういう解答になって、
ちび●さんに「違う!」と叱られちゃうわけだ!

お~!
なんで講師試験の解答が間違えたのかわかったぞ!!(笑)




ちび●さんのおかげでわかりました!!
結局これもパクリだったのだ!!

これに触れて欲しくなかったから、
高●先生は五願開示を使わなかったのね(笑)。

ありがと~!
名義詐称野郎とか言ってごめんね~!




追記1

 以下、ちび●さんにお知らせし、お礼を申し上げておきました♪

生きる意味を知ってー仏教を知りたいひとのために ゲストブック

苦笑(本人) 削除 2009/2/4(水) 午後 9:19

ikiruimiwositte様へ

先日は私の質問に回答&丁寧な解説を頂きありがとうございました。
おかげで高●先生のパクリに基づく間違いがハッキリわかりました。
 ↓↓↓
ちび●のおかげでわかりました!!結局これもパクリだったのだ!!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-181.html

これに触れて欲しくなかったから、チ●ーリップ企画(=高●先生)は、
五願開示を使わなかったのかもしれませんが、
貴方のおかげで、高●先生のパクリに基づく間違いを明らかにすることができました。

ありがとうございます。心から感謝いたします。
今まで「名義詐称野郎」とか罵倒して申し訳ありませんでした。

勝手ながら、こちらのサイトへのリンクを貼らせて頂きます。
よろしければ相互リンクで、今後もよろしくお願い申し上げます。

苦笑拝




追記2

喜んで頂けたようで、嬉しいですね~。
 ↓

ikiruimiwositte  2009/2/5(木) 午前 0:55

大沼氏は学者ですから、そういう説があるということで勉強になりました。
祖師聖人は御文と願を対比されてませんからそういう解釈もあるのでしょうね。


苦笑(本人)   2009/2/5(木) 午前 9:10
喜んで頂けたようで私も嬉しいです。
今回は、私にとってもよい勉強の機会になりました。
今後もよろしくお願いします。

相互リンク方もご検討頂けたら幸いです。

(再掲載)【お知らせ】「辛口!真宗時評」管理人様とのやりとり終了のお知らせ

腐海の蟲への制裁処置につき再掲載(笑)。


「苦笑の独り言」をご覧の皆様へ

先日、「辛口!真宗時評」管理人のHiroshi Makino氏からメールで質問を頂きました。

私(苦笑)とHiroshi Makino氏とは「辛口!真宗時評」のコメント覧で議論中でしたので(※)(※※)、
私への質問は「辛口!真宗時評」のコメントに書いて頂くか、
あるいは、私とHiroshi Makino氏とのメールでのやり取りを私のブログに公開するかして、
議論をあくまで公開の場で行うことを、私は強く希望しましたが、
Hiroshi Makino氏がいずれの方法も拒否されましたので、
しばらくメールで非公開のやり取りをさせて頂きました。

  ※またも「誰でもお浄土」と説く これが真宗?コメント覧
   http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/483/

  ※※ただし、苦笑の二番目からのコメントは承認されていない。

しかし、Hiroshi Makino氏は私にメールで質問しておきながら、
「初めから」「やりとりはお断り」とのことでしたので、
極めて遺憾ではありますが、メールでのやり取りも終了となりました。

皆様の中には、「辛口!真宗時評」のコメント覧での議論が中断されていることを、
不審に思っておられる方も沢山いらっしゃることと思います。
以下に、「著作権問題」に抵触しないように、
私からHiroshi Makino氏へのメールのみ公開させて頂きます。

Hiroshi Makino氏から私へのメールの内容は、
皆様のご想像にお任せいたします。

苦笑
 

~~以下、苦笑からHiroshi Makino氏へのメール~~


【【その1】】

MaKinoさんへ

メールありがとうございます。

今後も公開の場でのやり取りを希望しておりますので、
今回の質問メールをblogに書いて頂くか、
MaKinoさんとのやり取りを私のblogで公開することを許可頂くか、
いずれかの方法のチョイスをまずお願いします。


苦笑



【【その2】】

Makinoさんへ

せっかくのやり取りが「なかったこと」になってしまってはもったいないので、
Makinoさんとのやり取りは公開で行いと思います。
教義上のやり取りであれば何も不都合はありませんよね?

それとも私(苦笑)とのやり取りを公開されると何か問題がありますか?


苦笑



【【その3】】

Hiroshi Makino様

あくまで公開でのやり取りを拒否されるのですね。
大変残念です。



【【その4】】

Hiroshi Makino様

貴方が私宛に送ったメールを、勝手に公開しないことは了解しました。

なお、私は貴方の質問に以下のようにきちんと答えておりますが、
何をもって「私の尋ねていることには答えて頂いておりません」と仰るのでしょうか?
根拠を挙げて具体的に述べてください。


以下、私の解答を再掲載します。

Q&A(5)「成就」とは?
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-290.html

Q(5)。
「成就」を、どういう意味で使っておられますか?

A(5)。
親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も、「成就」という言葉は、阿弥陀仏の本願に関しては「完成」という意味で使っておられますので、私もその意味で使っております。

(根拠は省略)

Q&A(6)「名号を受持」とは?
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-291.html

Q(6)。
「名号を受持」を、どういう意味で使っておられますか?

A(6)。
「名号を受持」という言葉は貴方がお使いになっている言葉をそのまま使用しただけですので、釈尊や親鸞聖人や蓮如上人がこの言葉をどのような意味でお使いになられているかは知りません。
しかし、以下の親鸞聖人や蓮如上人の言葉から、【衆生が阿弥陀仏が与えてくださった「名号」を受け取って「真実信心=信楽=プラサーダ」になること】だろうと思われます。
貴方は違うのですか?

(根拠は省略)


Q&A(7)「易往而無人」とは?
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-292.html

Q(7)。
「易往而無人」は、どういうことだと理解しておられますか?

A(7)。
以下の親鸞聖人の理解と同じ理解です。

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。
『尊号真像銘文』

阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、衆生がそれを受け取らないために、残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるのです。

この理解は、『無量寿経』をまともにと読んでいれば当然の理解です。

Q&A(2)『無量寿経』所説の「易往而無人」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-252.html

どなたかのように「お釈迦様、貴方どうかされたんじゃないですか?」「頭、変になられたんじゃないですか?」と思う必要は全くありませんね。

おお!高●先生に「近づくな」だったのか!!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-251.html#cm



なお、私は貴方のリクエストにお応えして、「成就」「名号を受持」「易往而無人」をどのように考えているか解答したのですから、
貴方が「成就」「名号を受持」「易往而無人」をどのように考えているかもお示しください。


苦笑



【【その5】】

Hiroshi Makino様

「一点だけ」ではなく、「その他の点」に関しても具体的にお書き下さい。

貴方が私の解答の何に不満なのか、私には全く想像もできせん。

苦笑



【【その6】】

Hiroshi Makino様

ダメです。
私は一度、貴方の要請に応じて貴方の質問に回答しました。

貴方がそれに「不満」と仰るのならば、
何が「不満」なのかきちんと説明するのが礼儀です。

繰り返します。
「一点だけ」ではなく、「その他の点」に関しても具体的にお書き下さい。

後出しジャンケンの如く、後からぐちゃぐちゃ言われては困りますので、
具体的にお書きになら(れ)ないのならば、きちんと「異議なし」と仰ってください。


苦笑



【【その7】】

Hiroshi Makino様

貴方から私への質問から始まった、メールのやり取りでしたが、
私とは「初めから」「やりとりはお断り」だっとは驚きです。

私と議論するつもりなど「初めから」全くないのに、
私に複数の質問の解答を求めていたのですね。
「業務」で貴方とやり取りしているわけでもない私が、
無い智慧を搾って、精一杯お答えしたのに心外です。

しかし、貴方が「やりとりはお断り」と仰るなら仕方ありません。
貴方とのメールでのやり取りは、これにて終了とさせて頂きます。


なお、貴方からのメールを勝手に公開したら、
「強要罪となるやも知れぬ」とのご忠告ですが、
貴方に公開を強要したら、「強要罪」になるやも知れませんが、
私が公開しても「強要罪」にはなりません。全く理解に苦しみます。

もちろん、貴方からのメールを勝手に公開したら、
「著作権法違反」になるかもしれませんが、
そのようなことをしないことは、既に申し上げているはずです。
さすがに「初めから」「やりとりはお断り」と仰るだけあって、
私からのメールは、まともにご覧になっていないのですね。

それから、私が貴方にメールを送ることが、
どうして「業務妨害罪」になるのでしょうか?

私が貴方を、「サイトを閉鎖しないと殺すぞ」などと脅迫したら、
「業務妨害罪」になりますし、
貴方が拒否しているのに、私がメールを送り続ければ、
「ストーカー規制法違反」になるかもしれませんが、
貴方のメールに対して、私が「返信」する行為が、それらに該当しないことは、
どなたがご覧になられても明白でしょう。


いずれにしても、もう貴方とお話しすることはありませんので、
このメールに対する返信は不要です。
貴方からメールがなければ、私から貴方へ「返信」が届くこともありません。

短い間でしたが、お疲れ様でした。


苦笑

(再掲載)Q&A(9)これが「伝統と己証」と言えるのでしょうか?

腐海の蟲への制裁処置につき再掲載(笑)。

Q。
いつもお世話になっております。
先日の「異安心」を認定する際のガイドラインをお示し頂きましたが、同じ日に、以下のような記事を拝見しました。

伝統と己証
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/27193249.html

_______________________________________
親鸞聖人は、伝統的に「念仏往生の願」と言われていた阿弥陀仏の王本願である十八願を

「本願三心の願」「至心信楽の願」「往相信心の願」と言われて

死後の浄土往生を十一願に配当し、

「十八願は、『信心を与える』というお約束である」と仏意を明らかにされた。

これが親鸞聖人の御己証、教行信証の五願開示の真髄である。

伝統的解釈の真意を開き、表されたから一願該摂と五願開示は開合の関係であり

伝統と親鸞聖人の御己証には全く違いはない。

「親鸞、私無し」の常の仰せのとおり。



若不生者のちかひゆゑ (わがちかいをしんぜんもの、もしうまれずは、ほとけにならじと
            ちかいたまえるなり)

信楽まことにときいたり(ねがう。こんごうのしんじんなり。このたりきこんごうのしんじんさだまる
            とき、あみだ仏のおんこころにかなうとしるべし。)

一念慶喜するひとは(しんをえてのちよろこぶとなり。)

往生かならずさだまりぬ


「若不生者」等の左訓「もしうまれずば」というは、第十八の願一願にかぎる。

余の願は「若不爾者」「若不如是者」等とあり。

「生者」とは十八の一願のみなり。

「不生者」、これ極楽に生まれずばというにはあらず、

もし信心が生ぜずばと誓いたもうことなり、故に左訓も云々。

そのちかいゆえに信楽のときいたり一念慶喜のありさまとなるなり。(相伝義書浄土和讃分科)
_______________________________________

このように、例えば『相伝義書浄土和讃分科』に基づいた見解を、
「伝統と己証」と言うことは可能なのでしょうか?



A。
だめですね(苦笑)。
「いつからの伝統やねん!」「だれの己証やねん!」と言ってやりたくなります(苦笑)。

繰り返しますが、正しい「安心」の基準となるテキストは以下の通りです。
 ↓ ↓ ↓
b)正しい「安心」の基準となるテキスト

「異安心」であることを認定するためには、
正しい「安心」がいかなるものであるかを知らなければなりません。
これらの資料が浄土真宗における正しい「信心」の判定基準になりますので、
必ず用意しましょう。

ただしこのテキストは、a)の立ち位置に応じて、
以下のように使い分けられます。

(b-1)浄土真宗内で、異安心を論じる場合は、
   「浄土三部経・七高祖・親鸞聖人」までを基準にする。
(b-2)東西本願寺派における覚如上人・蓮如上人、高田派における真慧上人など、
   浄土真宗でも、特定の派にのみ権威を認められている文献は、
   判定基準としては、参照程度の扱いであり、(b-1)に抵触しない場合のみ、
   参照することができる。
(b-3)親鸞聖人を宗祖と仰ぐ「浄土真宗」以外の、
   法然上人を宗祖と仰ぐ浄土門の教義を判定する際は、
  「浄土三部経・善導大師・法然上人」を基準とする。
    cf. 法然上人の「偏依善導一師」の立場に関しては『選択集』16章参照
 ↑ ↑ ↑


『相伝義書浄土和讃分科』を基準に、
「伝統」とか「己証」とか言えちゃうって言うなら、
自分の都合の良い資料をどっかから持ってきたりして、
結局なんでもありになっちゃいますよ(苦笑)。

というかこの方は、
自分の脳内にある「ドグマ」に都合のいい資料なら、
今まで批判していた団体の資料でも「伝統」とか「己証」で、
「ドグマ」に都合の悪い資料は、例えば存覚上人のお書きになられたものでも、
「これは違う!」と言い出す人ですから、
あんまり言うことを真剣に考える必要はないと思いますよ~。

以下の記事を最低十回ぐらい熟読するようにお伝えください。
 ↓
やさしい浄土真宗の教え §12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン

韋提希夫人は散善もやってへんし、やろうともしてへんぞ!!

韋提希夫人は散善もやってへんし、やろうともしてへんぞ!!
 ↓ ↓ ↓
21世紀の浄土真宗を考える会 観無量寿経のこころ その2 散善 より

定善と散善について、善導大師は『観経疏 玄義分』に
定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。
と書かれています。
定善は韋提希の請によって説かれましたが、散善は釈尊の自説です。
(唯請定善・自開散善、散善は不請の法)
定善ができる人となると限られていますので、凡夫のために自ら説かれたのが散善なのです。
その散善も
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
と観無量寿経に書かれていますように、成仏の行であり、基本的には聖道門の行なのです。
観無量寿経の真意は、定善どころか散善さえもできない悪人のために本願力回向の念仏・信心をあきらかにすることであったのです。
ですから、定善と同様、韋提希は散善をやってはいませんし、やろうともしていません。




やっぱし、『観無量寿経』を読んでみた方がええで(苦笑)。
思考停止してても、現代語訳ならなんとか読めるでしょ(笑)。
 ↓ ↓ ↓
WikiArc 現代語 観無量寿経

韋提希夫人は定善をやってへんし、やろうともしてへんぞ!!

韋提希夫人は定善をやってへんし、やろうともしてへんぞ!!
 ↓ ↓ ↓

21世紀の浄土真宗を考える会 観無量寿経のこころ その1 より

さて、
「韋提希夫人は定善をやった」
あるいは
「韋提希夫人は定善をやろうとした」
と思っている人がいますが、
韋提希夫人は定善をやってもいませんし、やろうともしていません。

【理由】
1.韋提希夫人は釈尊に「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」とお願いして、その答えとして釈尊は定善を説かれました。
 つまり「私はお釈迦様のおかげで浄土を見ることができましが、未来の衆生はどうすれば見ることができるのでしょうか」と質問しているのですから、既に浄土を見た韋提希夫人にとって、定善をする必要はありません。
2.そもそも、韋提希夫人には定善はできません。
 日想観をやろうとしてできなかった韋提希夫人に水想観、地想観・・・と順番に易しくして導かれたと勘違いしている人がいますが、上に述べたように、定善十三観の中心は第九真身観です。
 日想観は雑想観とともに一番易しい方に入ります。
 もし韋提希夫人がやろうとしてできないために、他の定善をすすめられたとするならば、それはちょうど、4段の跳び箱を飛べない子供に、「では5段をやってみなさい」「そうかできないか、では6段をやってみなさい」「では7段」「8段」・・・と言う体育の先生のようなもので、いるはずがないのです。

 世の中にはやってみなけらば分からないことと、やらなくても分かることがあります。
 たとえば、ハーバード大学に入学するということはやってみなければ分からないとも言えます。
 しかし、国際宇宙ステーションに歩いて行くことは、それがどこにあるかを聞けば、やってみなくてもできないことは分かります。
 定善がどういうものか聞けば、できないことは分かります。



同 コメント覧 より

獲信したら定善が出来るようになる
という人がいましたが本当でしょうか?
[2009/10/13 18:36] URL | ヒロ

ということは、親鸞会が作成した王舎城の悲劇のアニメの内容は間違っているということでしょうか。
高森会長は知らずに作ってしまったのでしょうか。それとも、あえて何かを意図して、誤った内容を作製したのでしょうか。もし、そうだとすると、何を伝えたかったのでしょうか。
[2009/10/13 21:48] URL | 元会員A

親鸞会発行のアニメって、買ったんですけど、やっぱり間違ってる?と思います。どうみても、イダイケ夫人は「やったから」救われた、と描かれています。やっぱり、おかしいですね。
やったから、なんて。
[2009/10/13 23:10] URL | 明石

>ヒロ様
出鱈目ですね。
また、そのようなことは聞いたことがありません。

>元会員A様
はい。間違っています。
製作意図などについては、申し訳ありませんが、私は高森氏ではありませんので分かりません。
[2009/10/13 23:12] URL | 近藤智史



バイアスがたっぷりかかった、
ヘンテコドグマ注入アニメだけじゃなく、
最低一回は、現代語訳でもいいので、
『観無量寿経』を読んでみた方がええと思いますな(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

WikiArc 現代語 観無量寿経

コメントまで捏造してんじゃね~よ!!

Hiroshi Makino氏には、以前のやり取りでめちゃガッカリさせられましたが、
ここまで卑怯・卑劣な野郎とはびっくら仰天ですな(苦笑)。

この野郎!!コメントまで捏造してんじゃね~よ!!
 ↓ ↓ ↓

清森問答 投稿:「辛口!真宗時評」管理人様 より

 ある方から、投稿を頂きました。

 以下のサイトの管理人はmakino hiroshi氏だと聞いていますが、もしこれが親鸞会の牧野講師であったら、非常に残念なことだと思います。

 他人のコメントを勝手に改変して、都合の悪いところを削除して掲載するなどということは、管理人としてやってはならないことです。

 親鸞会では、お聖教の言葉の一部を改変したり、削除するということがよく行われていましたから、それを真似てしまったのかも知れません。

 もし、makino氏がこのサイトを読んでおられるなら、コメントを改変したり、隠したりせずに、正々堂々と議論することを、強くお勧めします。


        *        *        *

 辛口!真宗時評(10月5日)
 http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/577/
 
 
 [こういう自己流の解釈を説法と呼べるのか]
 ラジオ法話「みほとけとともに 西本願寺の時間」では、
 登尾唯信氏の「挫折もまた人生」でした。
 
 (中略)
 
 上記のラジオ法話は、とても、その御一流からは大きくかけ
 はなれたと、言わざるを得ません。

        *        *        *

 この記事に対して10月7日、淀川コナンのHNで以下のコメントをしました。


私も、自己流の解釈をする布教師を知っています。
例えば、親鸞聖人のご和讃の
若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生かならずさだまりぬ
の解釈を
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心になれる時が必ず来るんだ
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈しています。
管理人様ならご存知だと思いますが、このご和讃は
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈されます。
ご自分の味わいとしてならば、宜しいとはおもいますが....。 


 それに対して管理人(M氏)は以下の返信がありました。


コメント有り難うございます。
お尋ねしますが、
A「若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
 信楽の心になれる時が必ず来るんだ
 一念の信心を喜んでいる人は
 死ねば極楽往生間違いないんだ」
B「若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
 信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
 一念の信心を喜んでいる人は
 死ねば極楽往生間違いないんだ」
AとBとは、どこが違うのでしょうか。
誰が聞いても分かるような、決定的な違いを、聞かせてください。
 

 それに対して私は10月9日夜に、


管理人様。返信遅くなりました。
聡明な管理人様ならばお解りだと思ったのですが…。
Aの解釈ならば、「若不生者のちかいゆえ」は「信楽まことにときいたり」に係ります。つまり「若不生者」の生は「信楽」の心に生まれさせる、という解釈ですね。
Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は「往生かならずさだまりぬ」に係ります。つまり「若不生者」の生は「極楽」に生まれさせる、という解釈です。
また、その布教師は「一切衆生必堕無間と経典に書かれています」と言っていますが私はそんな経典を知りません。
管理人様はご存知ですか?


 というコメントを「管理人様」というタイトルでしました。
 しかし、タイトルは「無題」に変えられ内容は削られました。
 以下が、実際にブログに掲載されたコメントです。


管理人様。返信遅くなりました。
Aの解釈ならば、「若不生者のちかいゆえ」は「信楽まことにときいたり」に係ります。つまり「若不生者」の生は「信楽」の心に生まれさせる、という解釈ですね。

Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は「往生かならずさだまりぬ」に係ります。つまり「若不生者」の生は「極楽」に生まれさせる、という解釈です。


 そして、その改変されたコメントに対する管理人のコメントが以下の通りです。


>「Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は
>「往生かならずさだまりぬ」に係ります。
>つまり「若不生者」の生は「極楽」に生ま
>れさせる、という解釈です。」
では、信楽に生まれさせるのは何の力ですか?

 そのコメントに対して10月10日の夜に以下のコメントをしました。(ネットカフェでコメントしたのでテキストが残っていないので正確ではありませんが内容はこんな内容です)


タイトル「断章しないで下さい」

管理人様へ
私のコメントを断章しないで下さい。
承認制なので不掲載は仕方ないですが、断章されたら私の意見が読む人に伝わりません。
あなたの行為は仏法者としてというよりも人間として恥ずべき行為です。
私の知っている布教師も断章が得意ですが。
また勝手にタイトルを無題にしないで下さい。
お尋ねの件ですが、私が問題にしているのは若不生者の生が何をどう生まれさせるか、その事を親鸞聖人はどう仰っているか、です。
何の力で信楽に生まれさせるか、は別の問題です。
親鸞聖人のみ教えを学ぶ者として、誠意ある回答をお願いします。


 その私のコメントを掲載せずに、管理人が10月11日夜中に以下のコメントがありました。


> Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は
>「往生かならずさだまりぬ」に係ります。
>つまり「若不生者」の生は「極楽」に
>生まれさせる、という解釈です。
「往生かならずさだまりぬ」にも係っていて、
これは「報土往生が定まる」ことですが、では、
「報土往生定まる」のは、平生ですか。死後ですか。
「報土往生する(極楽に生まれる)」のは、平生ですか。死後ですか。
(先の「信楽に生まれさせるのは何の力ですか」にもまだお答えを頂いていません)


 ここまでが、現時点での経緯です。


「阿弥陀仏の本願」も勉強し直した方がいいんじゃね?(苦笑)

親●会ドグマに染まっている諸君は、
「阿弥陀仏の本願」も勉強し直した方がいいんじゃね?(苦笑)
 ↓ ↓ ↓

清森問答 質疑応答180 より

【質問】


 清森問答で、以下のように教えていただきましたが、親鸞聖人の教えは三願転入ですから、十九願の善として財施も勧められているのではないでしょうか。よろしくお願いします。


> また、親鸞会に対する「財施」を、信心決定と結びつけて教えられることも問題だと思います。親鸞聖人は、「信心決定のために、財施に励め」などとは、どこにも教えられていません。



【回答】


 結論から言いますと、親鸞会では十九願の善は勧められていません。親鸞聖人は、十八願に入るために十九願の善を実践せよとは仰っていないからです。

 十九願では、諸々の功徳を修めた者を、臨終に救う(化土往生させる)と誓われています。臨終の救い(化土往生)を求めて、善を修めることを十九願の善というのです。信心決定を求めて、善を修めることを十九願の善とは言いません。

 十八願では、信楽の者を必ず浄土往生させると誓われています。信楽になるのは聞即信の一念であって、そのために善を修めなければならないとは教えられていません。

 つまり、十九願と十八願では、まったく方向性が違うのです。親鸞会の教え方では、十九願を進んだ先に十八願があるように誤解させます。

 親鸞聖人の三願転入の御文も、十九願ではダメだった、二十願でもダメだった、十八願では救われた、ということであって、十九願を進んだ先に二十願があり、二十願を進んだ先に十八願がある、という意味ではありません。

 今の親鸞会は、十九願の理解も、十八願の理解も間違っています。

 信心決定を求めて善を修めるのは十九願だと思っているのも間違いならば、十八願の救いに遇うために善に励むのも間違いです。

 このように書くと、「親鸞会で、『善をすれば信心決定できる』などと言ったことは無い」と反論が来るでしょう。

 しかし、親鸞会の会員さんに、「何のために活動に頑張っているのか?」「何のために御報謝を出しているのか?」と尋ねたら、どう答えるでしょう。

 当然、「信心決定のため」と答えるでしょうね。講師部員でも同じだと思います。

 この現状が、何よりも親鸞会の間違いを物語っています。





初心者のためのとってもよいサイトが出来たから、
ドグマを注入された諸君もこれを読んで勉強してね。
 ↓ ↓ ↓

やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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