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本当の善知識は無条件服従を強要せえへんのや!!

本当の善知識は無条件服従を強要せえへんのや!!

いい年した大人が、「腕の一本や二本へし折る!」とか脅されて、
間違った教えを説いてる、自称善知識に無条件服従してんじゃね~よ!!

暴力を振るわれても、毅然と師匠の誤りを正した法然上人を見習えよ!!
 ↓ ↓ ↓

清森問答 親鸞会教義の相対化・83 より

 以前、親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠としてあげているものが、何れも根拠になっていないことを解説しましたが、(*1)
最近、別のサイトでも親鸞会のこの教義への批判がなされています。(*2)

 よい機会ですので、法然上人が師弟関係をどのように捉えておられていたか、法然上人の言葉に基づいて解説しておきたいと思います。

 法然上人には師である叡空上人と教義論争を行い一歩も譲らず、最終的には叡空上人が誤りを認めたというエピソードがあり、(*3)

 また、この論争は口論にとどまらず、叡空上人による暴力沙汰にまで発展しましたが、法然上人は一歩も讓っておりません。(*4)

 ここで、法然上人が叡空上人と論争された際に、阿弥陀仏の化身であり、釈尊の言葉と同じ価値のある、(*5)「善導大師の言葉」という「聖教」に基づいて経典解釈を行い、
たとえ師匠であっても「さきにこそむまれ給たれ」だけであり、「師匠が仰せになっていたから」ということが、経典解釈の上で全く根拠にならないということを、
法然上人が明確にされていることを、きちんと押さえておく必要があるでしょう。

 ご存じのように、『大乗涅槃経』において釈尊は、
「依法不依人(法に依りて人に依らざれ)」と仰になりました。

 仏教徒は、釈尊のお説きになられた「法(教え)」に基づいて仏教を学ぶべきであり、
法然上人の教えに従う者は、更に善導大師の言葉を仏説と同じように尊び、(*5)
そこに個人的な見解を勝手に混入することは避けなければなりません。

 ところで、親鸞会では以下の『歎異抄』における言葉を拡大解釈することにより、高森先生に対する無条件服従が強要されているようです。(*6)


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、
また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからず候ふ。
(『歎異抄』二章)


しかし、この親鸞聖人の言葉は、

★親鸞聖人の法然上人に対する姿勢

を表明したものあって、先に述べたように、

★法然上人に親鸞聖人が強要された

ものではありません。

親鸞聖人が法然上人に絶対の信頼を置かれたのは、
あくまで、法然上人が釈尊や善導大師の言葉という「聖教」に基づいて、
教えを説かれた方だからこそであり、絶対の信頼を置く根拠が存在します。

しかし、高森先生の教えが、釈尊や善導大師の「聖教」や、
それらに基づくことによって根拠を持つ法然上人や親鸞聖人の「教え」に抵触した場合は、高森先生の教えを信頼することの根拠は全くありません。(*7)

講師の方や熱心な会員さんが、
「高森先生にならだまされて地獄に堕ちてもかまわない!」
という姿勢を貫かれるであれば、
その方に対して、私から申し上げることは何もありませんが、
このことは、はっきりさせておく必要があるでしょう。

以上


*1 以下の記事参照

1,「琵琶湖を一人で埋めなさい」と仰せになって「かしこまりました」と言う態度を蓮如上人が要求してはいない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-240.html

2,『法華経』の「善知識者是大因縁」という言葉は、親鸞会で使われるような意味では使われていない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-106.html

3,釈尊と阿弥陀仏という二尊の御心を無視し、浄土門の教えを求める者に、「求法太子の求道姿勢」を強要する人物は、法然上人の教えを受け継ぐ者ではい。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-107.html

4,親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠として挙げる『般舟三昧経』に記述は、「現在諸佛の面前に立つ三昧」(=般舟三昧)に至るために不可欠なプロセスであり、浄土門における信心獲得のためのプロセスではない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-108.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-119.html

*2 以下の記事参照

親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか1
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-15.html

同 善知識には無条件服従しなければならないのか2
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-16.html

*3
ある時上人往生の業には、称名にすぎたる行、あるべからずと申さるるを、
慈眼房は、観佛すぐれたるよしをの給ければ、
称名は、本願の行なるゆへに、まさるべきよしをたて申たまふに、
慈眼房又先師良忍上人も、観佛すぐれたりとこそおほせられしか、
との給けるに、
上人、良忍上人も、さきにこそむまれ給たれ、と申されけるとき、
慈眼房腹立したまひければ、
善導和尚も、上来雖説定散両門之益望佛本願意在衆生一向専称彌陀佛名、と釈したまへり、
称名すぐれたりといふこと、あきらかなり。
聖教をば、よくよく御覧じ給はでとぞ申されける。
(『四十八巻伝』巻6)

*4
弥陀如来、称名を本願とたて給へる上には、往生の業におきては、
称名にすぐるる行あるべからずと、上人たて給う時、
師範叡空上人、観仏はすぐれ称名はおとれる也との給ふを、
上人、なほ念仏勝たる義をたて給うに、
叡空上人立腹して、こぶしをにぎりて上人のせなかをうちて、
先師良忍上人もさきにこそ生まれ給ひたれと、上人申されける時、
叡空上人いよいよ腹をたてて沓ぬぎにおりて、あしだを取りて又うち給へば、
聖教をよくよく御覧候はでとぞ申されける哀れなりし亊なり。
(『九巻伝』巻第一下)

*5
静かにおもんみれば、善導の観経の疏は、是れ西方の指南、行者の目足なり。
しかればすなはち、西方の行人、かならず、すべからく珍敬すべし。
就中(なかんづく)毎夜(まいや)の夢の中(うち)に、僧ありて玄義を指授せり。
僧といふは、おそらくはこれ彌陀の応現なり。
しからばいふべし、この疏は彌陀の伝説なりと。
いかにいはんや、大唐に相伝していはく、善導はこれ彌陀の化身なりと。
しからばいふべし、この文はこれ彌陀の直説(ぢきせつ)なりと。
すでに、写さんとおもはんものは、もはら経法のごとくせよといへり。
此のことば、まことなるかな。
仰ぎて本地(ほんぢ)をたづぬれば、四十八願の法王なり。
十劫正覚のとなへ、念佛にたのみあり。
ふして垂迹(すいじゃく)をと訪(とぶら)へば、専修念佛の導師なり。
三昧正受のことば、往生に疑いなし。
本迹(ほんじゃく)ことなりといへども化導これ一(いつ)なり。
(『選択集』第十六章)

*6
 親鸞会の我々には今、二つの目的がある。一つには自身の信心決定であり、二つには真宗の流れを変えることの二つである。いずれも世間のどんな難事業よりも至難な大事業であり、どれだけ心身を砕いて精進してもし足りないが、二大目的の達成は、善知識に無条件服従できるか否かにかかっているといえよう。
 このことは歴代の善知識が明らかにしておられることだが、事実我々はどうであろうか。
 自己の理性を基に正邪を判断し、愛憎違順する我々に、無条件服従は極めて難しい事である。
 理性が満足せねば、善知識の仰せに対し、本会の種々の指示に対し、「なぜですか」「どうしてですか」「納得できないからやれません」等々疑い、不信、反抗の鎌首をところかまわずもちあげる始末、
 それでもまだ足りず、自らの怠惰な求道を棚に上げ、「もう少し早く進める方法はないか」と善知識の御指導に不平を漏らし、法謗の徒と化す根性。この心こそが曠劫流転の親玉であり、正しい判断できると自惚れている心が仏心を受けつけぬ元凶であることを知らねばならない。
 仏法に対しては全く狂った考えしかないから無条件服従が必要なのであり、善知識は信心決定への全因縁といわれる理由があるのである。
 蓮如上人が親鸞聖人のことをある人に尋ねられた時、「我も知らぬことなり。何事も何事も知らぬことも開山のめされ候ように御沙汰候」と仰せになっている。これは「私も判らぬ、しかし何事も何事も親鸞聖人のなされたようにするのがよろしい」という意味で蓮如上人の親鸞聖人に対する無条件服従の姿勢を明らかになされたものである。
 我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。
 この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。
(「顕正新聞」昭和54年8月)

*7 親鸞会の教義上の誤りを指摘しているサイトには、以下のもの等がある。

清森問答
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/

苦笑の独り言
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/

高森先生の親鸞会教学を検証する
http://atamagaokasiku.blog34.fc2.com/

21世紀の浄土真宗を考える会
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/

親鸞会教義の誤り
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/

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昔は「不得外現賢善精進之相」をこのように解釈してたのにね。。(『こ●なことが知りたい』より)

~高●顕徹著『こ●なことが知りたい』vol. 3 より~

(22)誰もなされなかった親鸞聖人の読み方や、解釈はどんなものか(二)

(中略)

 また『観無量寿経』の中で善導大師が、
「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」(外に賢善精進の相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ)
と記されている文章を親鸞聖人は、
「外に現賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」(教行信証信巻)と読み替えられ、これまた意味をひっくり返しておられます。
 善導大師の仰っているのは、
「外面は賢善精進の立派な相をしておっても、内心にうそ偽りの醜い心を持っていてはなりませんよ」
と、外と内の不一致をいましめられたお言葉です。
 ところがそれを、
「外に現賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」
と読み替えられて、
「どうせみんな内心は、うそ偽りばかりしか懐いてはいないのだから、賢そうな善人らしい精進の見せかけなんかするな」
と、親鸞聖人は意味を逆転してしまわれました。
「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もされになし」
「外義のすがたはひとごとに、賢善精進現ぜしむ、貪瞋邪偽おおきゆえ奸詐ももはし身にみてり」
「悪性されにやめがたし、心は蛇蝎のごとくなり、修善も雑毒なるゆえに、虚仮の行とぞなづけたる」
「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもうまじ、如来の願舩いまさずは、苦海をいかでかわたるべき」
「蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなふまじ 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん」(以上悲歎述懐和讚)
 あますところなく自己の実相を、弥陀の心光に照破された親鸞聖人は、善導大師の文章をこのように色読せずにはおられなかったのでしょう。

( pp.107-109)



昔は「不得外現賢善精進之相」をこのように解釈してたのにね。。
今はなかったことになってるのかな?(苦笑)

【再掲載】「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に(「不得外現賢善精進之相」の解釈)

元親●会講師の清森さんが親●会ドグマにツッコミいれてたのを、
以前紹介してたのを思い出したので再掲載しときます。
(2008.10.09.)

元弟子にツッコミ入れられてるのに、
平気でHPに掲載してる厚かましさだけはすげ~ですわ(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

~~ここから~~

そうそう!
煩雑になるから、前回のツッコミでは言わなかったんだけど、
チ●ーリップ企画以下の文は、親鸞聖人の言葉を、
明かにヘンテコな所で切断していますね~。
 ↓

また『唯信鈔文意』には、
『しかれば善人にもあらず、賢人にもあらず、精進の心もなし。懈怠の心のみにして内は空しくいつわりへつらう心のみ常にして、まことなる心なき身と知るべし』

「このような親鸞だから、善人でもなければ賢人でもない。怠け心一杯で立派な人になろうと努める心もない。心は空虚で常に他人の評価ばかりを気にしている、ウソ偽りの名人である。まことの心のない永久に救われぬ身であることだけが知らされる」


●「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆゑは「内懐虚仮」なればなり。「内」はうちといふ、こころのうちに煩悩を具せるゆゑに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならぬなり、「仮」はかりにして真ならぬなり。このこころは上にあらはせり。この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつはらず、へつらはず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし、懈怠のこころのみにして、うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみつねにして、まことなるこころなき身なりとしるべしとなり。「斟酌すべし」(唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがうて、はからふべしといふことばなり。『唯信鈔文意』


おまけに親鸞聖人が「知るべし!」と仰っているのを、
「知らされる」に書き換えるのは、なんでかね~。

と思ってたら、清森問答で解説されてました。
 ↓ ↓ ↓
清森問答 質疑応答101

『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』という言葉についての解釈は、浄土宗と浄土真宗で異なります。

 文法的には、浄土宗の解釈の方が常識的な読み方ですが、親鸞聖人は、あえて別の読み方をされていますので、その両方を説明いたします。


 まず、浄土宗の読み方ですと、

「外に賢善精進之相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ」となります。

 これは、「外」と「内」の不一致を戒められたお言葉です。

 外の姿だけ賢善精進の格好をして、内に虚仮を懐いていてはいけませんよ、ということです。

 この人は、内が虚仮ですから、外の「賢善精進」は格好だけです。だから「相を現じる」という表現を取られていると考えられます。

 ここで問題にされているのは、内の虚仮であって、結論としては「心を真実にしなさい」ということになります。

 このお言葉は、外は「賢善精進」の格好だけやっている人に対して言われているお言葉ですから、その人に「もっと賢善精進の格好をしなさい」と教えられるはずがありません。

 そんなことをすれば、内と外の不一致が、ますます大きくなります。あくまで、内の虚仮を戒め、心を真実にしなさいということです。

 なお、文法的に考えても、「外には賢善精進の相を現じなさい」という読み方は出来ません。この読み方は、とりあえず外を一生懸命やればよい、という誤解を招く、危険な解釈です。

 今の親鸞会の目標制度は、参詣者数、入会者数という、まさに形を問題にし、内の虚仮が殆ど問題にされていないように思います。

 善導大師のお言葉を、正しく読めば、このような弊害を防ぐことが出来たのではないかと思われてなりません。



 次に親鸞聖人の解釈ですが、聖人はこの善導大師のお言葉を、「外に賢善精進之相を現じることを得ざれ。内に虚仮を懐けばなり。」と読まれています。

 文法的には、このように読めないのですが、親鸞会のような誤りを防ぐために、このように読まれたのではないかと、拝察せずにおれません。

 これは、「外に賢善精進の格好をするな。内は虚仮なのだから」ということになります。意訳すれば、「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」とも読めるかも知れません。


 まず気をつけて頂きたいのは、「身業・口業の善をするな」という意味ではない、ということです。


●外儀のすがたは、ひとごとに 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪義おおきゆえ 奸詐ももはし身にみてり(悲嘆述懐和讃)


 親鸞聖人は、賢善精進を現じている人を、悲嘆されています。貪瞋邪義が多く、奸詐が身に満ちている人が、身業口業の善に励んでいるとは考えられません。


●賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(愚禿抄)


 賢者(仏様)は、内は賢であるが、外は愚かである。私は内は愚なのに、外は賢である、と仰っています。仏様でさえ、外に賢善精進の相を現じてはおられないようです。


 このようなことから、親鸞聖人は、「賢善精進之相を現じる」という言葉を、「身業口業の善に励む」という意味で使っておられないことが分かります。

 ですから、「内は虚仮ばかりなのに、外を取り繕って、賢善精進の格好をするな」という意味になります。



 ところが親鸞会では、これは信後のことを仰ったお言葉で、信前のことではない、とお聞きしたように記憶しています。

 これについては、具体的に、親鸞聖人がどのように教えられているか、根拠を示したいと思います。



 まず、親鸞聖人が、拝読を勧められていた「唯信抄」には、以下のように書かれています。


●その三心というは、ひとつには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おおよそ、仏道にいるには、まずまことのこころをおこすべし。そのこころまことならずは、そのみちすすみがたし。
(乃至)
まことにふかく浄土をねがうこころなきを、人におうては、ふかくねがうよしをいい、内心にはふかく今生の名利に着しながら、外相にはよをいとうよしをもてなし、ほかには善心あり、とうときよしをあらわして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。
(乃至)
善導の釈にいわく、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」といえり。


 そして、この唯信抄を解説された「唯信抄文意」には、以下のように教えられています。


●『観経』の三心は、定散二機の心なり。定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心としるべし。
(乃至)
「不得外現 賢善精進之相」というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。



 唯信抄では、「仏道に入るには、まず、まことのこころをおこすべし。」と教えられ、その「まことのこころ」=「至誠心」を起こすために、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」と、教えられています。

 仏道のスタートですから、信後の世界のことではありません。

 さらに、その解説の「唯信抄文意」では、「『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心」だと書かれています。

 ここに「方便の至誠心」とありますから、信前であることは明らかです。

 その至誠心の解説の中で、「かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」と仰っているのですから、当然、信前の人に対して説かれた言葉、ということになります。



 私には、御報謝の額で表彰状をもらったり、活動の成果で講師部のランクが上がったりする、今の親鸞会のあり方を批判されたお言葉のように思えるのですが、如何でしょうか?

 そんなに、立派な求道者と思われることが大事なのでしょうか?

「立派な求道者と思われる必要は無い、心が大事だ」というのであれば、表彰状もランク分けも要らないはずです。

 そういうやり方で、仮に親鸞会の皆さんが頑張られたとしても、親鸞聖人は決して喜ばれないと思います。


どうやら、親●会ドグマに都合の良い形に、
「仏道のスタート」「方便の至誠心」を、
「信後の世界」にしちゃったようですね(苦笑)。



というわけで、チ●ーリップ企画のエラーは更に一項目プラスですね。
 ↓
6,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。

「阿弥陀如来の本願」がわかってなかったのね。。

高森先生の親鸞会教学を検証する 阿弥陀如来の本願 より

教学聖典(2)

問(16)『阿弥陀如来の本願(誓願)』を記せ。
また、この願を何と言うか。

答(16)

設我得仏十方衆生 設い我仏を得んに、十方の衆生、
至心信楽欲生我国 至心に信楽して我が国に生れん
乃至十念     と欲うて乃至十念せん。
若不生者不取正覚 若し生れずば、正覚を取らじ
唯除五逆誹謗正法 唯五逆と正法を誹謗せんことを除かん。

○また、至心信楽の願とも言う。



はいはい。
間違いだらけですね~、親鸞会の説明は。
なんでかわかります?
高森先生の18願の説明聞いて、
明らかに総ておかしいと今ならわかりますよね。
ね、高森先生!

今回は指摘する箇所が多すぎるのでかなり手抜きです。

それじゃあ一つ一つ、簡単に説明しましょうか?
いちいち長文で解説してたらきりがないので、
わからないところがあったら、質問してください。


設我得仏十方衆生 設い我仏を得んに、十方の衆生、

→親鸞会の法話では、
「阿弥陀仏は既に仏になったので、これは関係ありません」
と言われますが、違います。
阿弥陀仏は現に法蔵菩薩の姿をとって、
私達に働きかけておられます。
くわしくは教行信証証巻を参照。

→親鸞会は口では十方の衆生を対象と言っていますが
口先だけですね。
ではなぜ退会者・除名者を口汚く罵り、
あいつは地獄行きだ、とか言うんですか?
(例)支部長「U田の話を聞くと地獄行きですよ!!!」
これは例ですが、実際に言われたことだと聞きました。
本当に十方衆生が救済の対象なら、そんなこと言い切れないはず。
どうしてそんなこと言うのでしょう?


至心信楽欲生我国 至心に信楽して我が国に生れん
乃至十念     と欲うて乃至十念せん。

→はい、親鸞会の説明では全然意味が説明されていません。
だいたい、「大安心大満足の境地になれる」って、
仏法をこの世を明るく楽しく渡る道具程度にしか思ってないの?
ていうか、説く高森先生にも至心なんてカケラもないし、
聞く親鸞会会員にも欲生我国の心なんて微塵もないよね。
乃至十念の解釈も適当すぎるし。


若不生者不取正覚 若し生れずば、正覚を取らじ

→出ました。「生まれるに当益の意味は全く無い」ですか?
親鸞聖人のお言葉をあげておきます。

「若不生者 不取正覚」というは、
若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。
このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、
わが浄土にもしうまれずは、仏にならじと
ちかいたまえる御のりなり。


唯除五逆誹謗正法 唯五逆と正法を誹謗せんことを除かん。

→「全人類は逆謗と見抜かれた」ですか?
んなわけねーじゃん!
高森先生、本当に真宗学を勉強したの?
抑止門と摂取門を知らないわけじゃないよね?

以下、教行信証信巻より。

光明寺の和尚(善導)いはく(散善義)、
「問うていはく、四十八願のなかのごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて、往生を得しめず。いまこの『観経』の下品下生のなかには、誹謗を簡ひて五逆を摂せるは、なんの意かあるやと。
 答へていはく、この義、仰いで抑止門のなかについて解す。四十八願のなかのごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、ただちに阿鼻に入りて歴劫周章して、出づべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。またこれ摂せざるにはあらざるなり。
また下品下生のなかに五逆を取りて謗法を除くとは、それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は、いまだ為らざれば、また止めて〈もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得じ〉とのたまふ。これは未造業について解するなり。もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。


うん、18願の解説すべてが、親鸞会はおかしいんだね。
よーくわかりました。
50年聞いても、18願の説明が狂っていては、
誰も救われないわけです。




そっか。。
「阿弥陀如来の本願」がわかってなかったのね。。

聖道門の理論を無理やり浄土門にあてはめちゃだめよ。

メル友が絶賛してたので、このブログでも以下の記事を紹介しておきます。
 ↓ ↓ ↓
21世紀の浄土真宗を考える会 歎異抄第2章を読む その2

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

関東から命がけで京都まで訪ねてきた門弟たちに親鸞聖人がおっしゃったと言われる言葉です。
ここで、「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」とはどういうことなのでしょうか。
考えてみましょう。
ここでは
「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し」と
「また法文等をもしりたるらん」の
2つのことについて門弟たちが疑問を持っていたということが分かります。
2つ目の「また法文等をもしりたるらん」は、親鸞聖人御消息集の「さては慈信が法文のやうゆゑに、常陸・下野の人々、念仏申させたまひ候ふことの、としごろうけたまはりたるやうには、みなかはりあうておはしますときこえ候ふ。かへすがへすこころうくあさましくおぼえ候ふ。」などからも分かりますように、慈信房善鸞の言いだした法文を指しています。
では、1つ目の「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し」はどういったことを表しているのでしょうか。
この主語は親鸞聖人ですから、「この親鸞が念仏以外の道を知っており・・・」と親鸞聖人がおっしゃったのですが、なぜ親鸞聖人がこのようにおっしゃったのかということです。
この親鸞聖人の言葉から類推できることは、誰かが「念仏以外に往生の道があるぞ」と言い出したというものでしょう。
その「誰か」とは誰なのか?
念仏以外の往生の道とは何なのか?
題目を唱えて極楽往生できると教えた人はいませんので、これは違います。
すると、この1つ目もやはり慈信房善鸞のことを指していると考えるのが自然です。
御消息には
「第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり。 」
と善鸞の行状について書いておられますように、善鸞は念仏(第十八願)だけでは助からないと言いだしたのではないかと思います。
このことは同じく御消息の「笠間の念仏者の疑ひとはれたる事」の内容とも関連します。

このように読むと、次の「南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば・・・」と続く文も意味が分かります。
ここからは、承元の法難の直接のきっかけとなった興福寺奏状、また、少し前の延暦寺奏状(延暦寺大衆解)が思い出されます。

興福寺奏状は下記のものです。

元久2年(1205年)、南都の興福寺の僧徒から、吉水教団に対する九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴える。
「興福寺奏状」
興福寺僧網大法師等誠惶誠恐謹言
殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。
九箇条の失の事
第一新宗を立つる失
第ニ新像を図する失
第三釋尊を軽んずる失
第四不善を妨ぐる失
第五霊神に背く失
第六浄土に暗き失
第七念仏を誤る失
第八釋衆を損ずる失
第九国土を乱る失

この中の第6の「浄土に暗き失」とは何でしょうか。
他の8項目は理解しやすいですが、この6番目の非難はどういうことでしょうか。
私がかつて読んだことのある本を調べてみましたが、どういうわけか、この6番目だけが抜けていました。
なぜでしょうか?
それにしても、聖道門の人が浄土門の人を非難するのに、「浄土に暗き失=浄土の教えを知らない」とは奇異な感じです。
これはどういうことかというと、
法然上人が諸行往生(観無量寿経に説かれてある定善、散善による往生)を否定され、下品下生の悪人に教えられた念仏一行をとって、念仏往生を勧められたからです。
それは、聖道門の人たちからは、観無量寿経そのもの、ひいては大無量寿経の三輩の往生までをも否定しているように見えたのです。

そして、法然たちの説いていることは、廃悪修善、自業自得の因果の道理を無視し、仏法を破壊するものだと言っているのです。
その根拠としているのが、
 諸悪莫作
 諸善奉行
 自淨其意
 是諸仏教
の七仏通戒偈だったのです。

つまり、解脱貞慶上人たちは、聖道門の理論を無理やり浄土門にあてはめようとしたことが分かります。
これではすべての人を平等に救うという阿弥陀仏の本願を理解できるはずがありません。

法然上人は西方指南鈔(親鸞聖人筆)に次のように仰っています。
問。極楽ニ九品ノ差別ノ候事ハ。阿彌陀佛ノカマヘタマヘル事ニテ候ヤラム
答。極楽ノ九品ハ。彌陀ノ本願ニアラス。四十八願ノ中ニナシ。コレハ釋尊ノ巧言ナリ。善人悪人一處ニムマルトイハハ。悪業ノモノトモ慢心ヲオコスヘキカユヘニ。品位差別ヲアラセテ。善人ハ上品ニススミ。悪人ハ下品ニクタルナリト。トキタマフナリ。イソキマカリテシルヘシ云云

話を元に戻しましょう。
慈信房善鸞は何を唱えたのでしょうか?
それは
「第十八の願に説かれている念仏の救いだけではいけない。諸善万行もしなければならない。」
といったようなものであったのでしょう。
そうすれば、歎異抄第2章の前半は無理なく理解できます。

もちろん、善鸞は、
・余の人々を利用しようとした
・神に仕える者ののまねをした
などもしていますが、関東の門弟たちが命がけで聞きに行かねば、分からないことではありません。
また、歎異抄第2章には「念仏無間」を唱えた日蓮宗を意識しての言葉もないことはないですが、長い人で20年以上親鸞聖人から教えを受けていた門弟たちが迷うようなことでもないと思います。
(日蓮が鎌倉で念仏無間を唱えたのは親鸞聖人が80歳を過ぎてからで、それがそんな短期間に関東一円まで広まり、門弟たちを動揺させたとも考えにくいことです)




聖道門の理論を無理やり浄土門にあてはめちゃだめよ。

「一切衆生必墮無間」ドグマの不当な罪業観で人々を苦しめ、
念仏を否定することにより浄土門の宗教的平等性を破壞しやがる、
「なんちゃって諸行往生」な某会の皆様は、
以下の記事と合わせて、よ~く勉強しておいてね。
 ↓ ↓ ↓ 

親鸞会教義の相対化・66
親鸞会教義の相対化・67
親鸞会教義の相対化・68

Q&A(18)親●会は「諸行往生」にも値しません。

Q&A(22)「衆生」の意味と親●会ドグマの関係

Q。
苦笑さん、質問お願いします。
親○会さんドグマの『一切衆生必墮無間』ですが、
『衆生』の仏教での本来の意味は『生きとし生けるものすべて』ですから、
『一切衆生必墮無間』はおかしいのではないでしょうか?

この言葉どおりなら『六道』や『極楽浄土』は存在せず、
『無間地獄』だけの世界観になってしまうと思います。
もし、これからも親○会さんがこのドグマにこだわるなら、
今後は『一切凡夫必墮無間』または『一切人間必墮無間』がまだ意味が通ずると思います。

そうじゃないと親○会ドグマだけでは、
『無間地獄』だけの世界観になって、
『六道』や『極楽浄土』は存在せず、
浄土真宗どころか仏教でもない高森○徹教になってしまうと思います。
苦笑いさんはどのように考察されますか?


A。
まず衆生(Skt. sattva, Pali. satta )の基本的な意味ですが、

●衆生(satta)と言われるのは、なぜ衆生と言われるのか?
色(受・想・行・識)において、欲望があり、貪りがあり、喜びがあり、渇愛があり、執著し、とらわれているが故に、衆生と言われる。
(SN. XXIII-2)

と釈尊が定義されているように、

物質(色)・感受作用(受)・表象作用(想)・意志・形成作用(行)・認識作用(識)の「五蘊」に対して、
「欲望があり、貪りがあり、喜びがあり、渇愛があり、執著し、とらわれている」存在は全て「衆生」ですので、
「人間」のみならず、「六道」全ての生物が「衆生」の範疇に入ります。
(インドでは「植物」は「衆生」の範疇に含まれません。)

この「衆生」には、「凡夫」(プリタック・ジャナ、輪廻するもの)のみならず、「菩薩」も含まれることになります。

「菩薩」(Skt. bodhi-sattva, Pali. bodhi-satta )という名称は、
後に、覚りを求めて修行し最終的に成仏を目指す人を「菩薩」と呼ぶようになりましたが、
元々は覚って仏になる前の釈尊に対する名称で、「覚りを獲得する衆生」の意味です。

したがって、「覚って仏になる前の釈尊」=「覚りを獲得する衆生」=「菩薩」も、
もちろん「衆生」の範疇なわけですから、
「一切衆生必墮無間」という親●会ドグマでは、
この「覚って仏になる前の釈尊」=「覚りを獲得する衆生」=「菩薩」も、
当然「必墮無間」ということになってしまいます。

仏教のことを何も知らない人物が捏造した、
呆れるほどとんでもない、ヘンテコドグマですね(苦笑)。
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

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※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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