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Q&A(21)人間界<修羅界<畜生界<地獄界と衆生の数が増えるのか?

Q。
親●会理論で、

人間界<<<修羅界<<<畜生界<<<地獄界

という風に衆生の数が増えると聞きますが、
これに関してお釈迦様はどのように言われているのでしょうか?


A。
その「親●会理論」が、何に基づく説か存じませんが、
『涅槃経』に基づく以下ものであれば、既にツッコミが入っております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
教学聖典(2)

問(1)地獄へ堕つる者は多く、人間に生まれる者は極めて少ないことを教えられた経文と根拠を示せ。

答(1)

○地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
 人間に生れる者は爪の上の土の如し
 (涅槃経)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


※高森先生の親鸞会教学を検証する 「高森先生ほどの方が、涅槃経を読まれたことがなかったのでしょうか」 
※苦笑の独り言 『涅槃経』なんて読んでるわけないじゃん(苦笑)。

~~以下引用~~

(涅槃経巻第三十三・迦葉菩薩品第十二の一)

爾の時に世尊、地の少土を取りて之を爪上に置き、迦葉に告げて言はく、
「是の土多きや、十方世界の地の土多きや。」
迦葉菩薩、佛に白して言さく、
「世尊、爪上の土は十方の所有の土に比せざるなり。」
「善男子、人の身を捨てて還て人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くるを得、
諸根完具して中國に生れ、正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已りて能く解脱を得、
解脱を得已りて能く涅槃に入る有るは、爪上の土の如く、
人身を捨て已りて三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、
諸根具せず、辺地に生じ、邪倒の見を信じ、邪道を修習し、解脱、常・楽・涅槃を得ざるは、
十方界の所有の地土の如し。
善男子、禁戒を護持して精勤して惰らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧祇物を用ひず、
一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは、爪上の土の如し。
毀戒懈怠、四重禁を犯し、五逆罪作り、僧祇物を用ひ、一闡提と作り、諸の善根を断じ、
是の経を信ぜざるは、十方界の所有の地土の如し。
善男子、如来は善く衆生の是の如き上・中・下根を知りたまふ。
是の故に佛は知根力を具すと称す。」

(口語訳)

その時に釈尊が大地の少しの砂を取って、これを爪の上に置いて、迦葉菩薩に告げて、
「この土が多いか、十方世界の地の土が多いか」と言った。
迦葉菩薩は釈尊に「世尊よ、爪の上の土の少なさは十方にある土の多さに比べられません」と申し上げた。
「善男子よ、人が死んだ後、再び人身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、人身を受けることを得て、
もろもろの感覚器官が完全に具わって、仏法の中心地に生まれ、正しい信心を具足して、
道を習得し、道を習得しおわって、なかでも正しい道を修行し、正しい道を修行しおわって解脱を得て、
解脱を得おわって涅槃に入ることは爪上の土のように少ないのである。
人が死んで後、三悪道の身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、再び三悪道の身を得て、
もろもろの感覚器官が具わらず、仏法の中心地から遠い辺地に生まれ、邪(よこしま)で傾倒した思想を信じ、
邪な道を修得し、解脱を得ず常楽の涅槃を得ないことは十方世界にある地上の土のように多いのである。
善男子よ、戒律を護り、精進し、四重の罪を犯さず、五逆罪を犯さず、教団に属する財物・物資を勝手に使わず、
闡提とならず、善根を断たずに、経典を信じる者は、爪の上の土のようなものである。
懈怠であり、四重の罪を犯し、五逆罪を犯し、教団の財物を用い、闡提となり、善根を断じて、
経典を信じない者は、十方世界の土のようなものである。
善男子よ、如来はよく衆生にこのように上・中・下があることを知っている。
だからこそ仏は知根力を具えていると言うのだ」

~~以上引用~~

●解脱を得おわって涅槃に入る→爪上の土のように少ない
○解脱を得ず常楽の涅槃を得ない→十方世界にある地上の土のように多い

●戒律を護り、精進し、四重の罪を犯さず、五逆罪を犯さず、教団に属する財物・物資を勝手に使わず、闡提とならず、善根を断たずに、経典を信じる者→爪上の土のように少ない
○懈怠であり、四重の罪を犯し、五逆罪を犯し、教団の財物を用い、闡提となり、善根を断じて、経典を信じない者→十方世界の土のように多い

ということは「釈尊の言葉」と言えますが、
親●会の教えのように、

・地獄に堕ちる者→十方世界の土のように多い
・人間に生れる者→爪の上の土のように少ない

を「釈尊の言葉」と言うことはできません(苦笑)。



一応、元・浄土真宗親●会西学友部関西ブロック所属学友部員君が挙げてくれてた、
『往生要集』の記述に基づいて、

●ゆゑに『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、
「人趣に生るるものは爪の上の土のごとし。 三途に堕つるものは十方の土のごとし」と。
(『往生要集 巻上』)

「源信僧都が受け取った釈尊の教え」として、

 人間界<<<三途(地獄+餓鬼+畜生)

ということは可能ですが、これにしても親●会の教えとは異なりますね。
親●会は、どちらの『涅槃経』に基づいて教えを説いているんでしょうかね(苦笑)。



まあ、「一切衆生必墮無間」が親●会ドグマであり、

★時間の経過とともに「地獄」の衆生の人数のみ増加する!!

というのが、親●会における当然の論理的帰結でござりますから、
「地獄」の衆生の人数が、他に比べて圧倒的に多くなきゃ困るんですよ。

親●会ではね(苦笑)。
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やさしい浄土真宗の教え §ラスト まとめ

§ラスト まとめ

これまでのまとめを掲載して、「やさしい浄土真宗の教え」を一区切りさせとくよん。
レクチャーをしっかり吸収して、「浄土真宗の教え」をちゃんと理解してね。


【浄土真宗の基本的システムに関する話】

§1 「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」
 1、「仏教の目的」は「成仏」である。
 2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
  「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
 3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
 4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
 「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。

§2 極楽浄土に生まれるためのシステム
 1、阿弥陀仏がマニフェスト(48項目)の第十八番目(第十八願文)は、「本願を信じた人を極楽浄土に生まれさせる」システムを作ることである。
 2、阿弥陀仏はマニフェストを実現したから、西方極楽浄土で仏様になっている。
 3、阿弥陀仏がマニフェストを実現して完成してくれたシステムによって、衆生は極楽浄土に往生することができる。

§3 阿弥陀仏の救いは平生から
 1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムで救われるのは「平生」である。
 2、そのことは法然上人が明かにしてくださった。
 3、親鸞聖人は「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見ることにより、
  「信楽」を得たその瞬間に、「往生」が確定して「成仏」も確定することを明かにした。
 4、浄土真宗では、このことを「不体失往生」と言う。
 5、したがって、「不体失往生」の根拠は「願成就文」の「即得往生住不退転」でなければならない。

§4 「信楽」と「正定聚」の関係
 1、「信楽」は「阿弥陀仏の本願に対する信心」、「正定聚」は「完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地」である。
 2、この二つは、因果関係にあって密接に関係している。
 3、しかし、この二つをイコールにしてしまうと、親●会のヘンテコドグマのように、様々な問題が発生してしまう。
 4、「信楽」は「プラサーダ」であって、「バクティ」や「思考停止」ではない。
 5、 極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」ではなく「プラサーダ」を目指さなければならない。

§5 何の力によって信心を得るか?
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じなければ衆生は救われない。
 2、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに必要なのは、「信心」(=信楽、プラサーダ)である。
 3、本願の解釈を「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている」としたら、事実上「十劫安心」を肯定することになる。

§6 「名号」と「光明」
 1、阿弥陀仏が作ってくださった、「名号」が因、「光明」が縁となって私達は「信心」を得ることができる。
 2、「信心を得た!」ということは、阿弥陀仏が与えてくれる「信心」の体である「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」ということである。
 3、「名号」を受け取らなかったら「信心」とはならない。
 4、私達が「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は「光明」で働きかけてくれている。
 5、しかし、私達が「名号」を受け取って「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。


【浄土真宗の「聴聞」に関する話】

§7 聴聞(何を「聞く」のか?)
 1、浄土真宗の「信心」は、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
  疑いが完全に晴れた「信心」である。
 2、その「信心」になることによって、
  阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗ずることができる。
 3、「聴聞」によって、その「信心」は得られる。
 4、その「信心」は「一念」で得られるものであるが、
  それを獲得するまでの期間は、人によって様々である。

§8 なかなか信心獲得できない人のために・・
 1、なかなか「信心」を得られない人も、
  時間がかかっても、必ず「信心」を得られる時は来る。
 2、その時まで諦めずに「聴聞」を続けることが大事である。
 3、「聴聞」で「信心」を得られるように、
  自ら積極的に環境を整えていくことが大事である。
 4、それができなくなるような教えを説く、
  自称「善知識」から「聴聞」をしてはいけない。


【「南無阿弥陀仏」と信心に関する話】

§9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
 1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
 2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
 3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
 「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
 ★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」という【勅命】、
 ★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
 ★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」という【選択本願】、
  として解釈されている。
 4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
  衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
  人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
 5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
 「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
 【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。

§10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ
 1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
 「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
 ★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
  【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
 ★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
  【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
 ★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
  【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
  として解釈されている。
 2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
  善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
 3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
  永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
 4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。

補講
Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について
Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因


§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)
 1、様々な「信心」の中でも特別な、
  「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
 2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」
  になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、
  二つの角度から明らかにしたものである。
 3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
 4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
 5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
 6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
  いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
  「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。

§12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン
 1、「異安心」は浄土真宗の異端思想である。
 2、「異安心」は法然上人や親鸞聖人と異なる信心であり、
   この信心では法然上人や親鸞聖人と同じ浄土へ往生できない。
 3、他人の心の中が「真実信心」であるかどうかを判定することはできない。
 4、しかし、「教え」が明かに善知識方に反する場合は、
  「異安心」である可能性も濃厚である。
 4、「異安心」認定は慎重なプロセスを踏まなければならず、
   無責任な「異安心」認定を行った者は言語空間から抹殺される。

§13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル
 1、古来より現代まで様々な「異安心」があるが、
  いずれも浄土真宗の信心である「二種深信」と異なった信心である。
 2、「特殊文化」でもって「異安心」を認定することはできない。
 3、「特殊文化」でもって「異安心」認定を行って憚らない人の「信心」は、
  「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の「異安心」の可能性が高い。


【浄土真宗における「念仏」の位置づけに関する話】

§14 「信心」と「念仏」
 1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
 2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
 3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
 4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
 5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
 6、上記は法然上人のみならず、 親鸞聖人も教えておられることである。
 7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、
  このコンテキストで解釈していかなければならない。
 8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、
 「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。

§15 所謂「信前の念仏」について
 1、法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人(=信前の人)に対し、「念仏」を勧めておられる。
 2、同じく法然上人は、信前の人が「我が心をも護り信心をも催す」ために、「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられる。
 3、親鸞聖人も、「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
 「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」(信後の人)におとらないように、
「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる。
 4、親鸞聖人は法然上人の教えを忠実に継承された弟子であり、
 「法然上人の教え」に抵触する「親鸞聖人の教え」の解釈は、親鸞聖人ご自身の御心に反する。
 5、したがって、「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」という教えは、
  法然上人や親鸞聖人の教えとは異なる教えである。


【「三願転入」の位置づけに関する話】

§16 所謂「三願転入」について
 1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
 2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
 3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。

§17 阿弥陀仏の本願の行
 1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
   阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
   阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
   親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。
 2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
   この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。
 3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である
   十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。
 4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
  「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。
 5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
   それができなくなるような環境からは脱出すべきである。

§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義
 1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
   阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
   セーフティーとして立てられたのが十九願である。
 2、極楽浄土に往生しようと思っている人
  (=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
   極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
   阿弥陀仏の本願を無視することになる。
 3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
  「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。
 4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
  (=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
  この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。
 5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
  「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。
 6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
  「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
  「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。

§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?
 1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、
  「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。
 2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」
  というのが本音である。
 3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
  「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。
 4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
  などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。

補講
Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?
 1、「三願転入」を「教え」として「全員がやらなきゃダメ!」というのは、間違い。
 2、「三願転入」を、過去世も含めて「全員がそういう道を通ってきた」というのはOK。
 3、既に阿弥陀仏の本願に出会っている人に対して、
 「宿善ポイントを貯めないとだめ!」みたいなことを言うのはおかしい。
 4、宿善ポイントを貯めるようなことができない私逹のために、
  阿弥陀仏が本願を立て、釈尊が教えを説いている。


【「浄土真宗」以外の教えの位置づけ】

§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ
 1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
  能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。
 2、それを否定するのは、
  法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。
 3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。
 4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
  悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
  仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。

阿弥陀仏は、「神社に行ったら一発アウト」のような、けちくさい仏様じゃありません。

阿弥陀仏は、「神社に行ったら一発アウト」のような、
けちくさい仏様じゃありません。

「ショウモナイ人間の価値判断を阿弥陀仏に投影するなよ!」
と言ってやりたくなりますな(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

安心問答 2009-07-21 子供が神社の祭りに行かねばならないときはどうするか? より

フーテンの虎さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

実はわたしには小学一年の息子がいます。
年一回、地元で神社主催の祭りがあり、それに出なければ友達からいじめにあうかも知れません。どうすればいいでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090719/1248003174#c1248060401

結論からいいますと、行事に参加するかしないかは、自由です。

理由は、平太郎の熊野参りと同じです。

一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり(御伝鈔)
と、親鸞聖人は、熊野へ行くかどうかを訪ねた平太郎にいわれました。

あくまでも私たちが、阿弥陀仏に救われ、浄土に往生するかどうかは、一向専念無量寿仏以外にはありません。外の諸仏や菩薩や諸神の力によって、浄土往生できるのではありません。

小学一年生の息子さんですから、どこまで仏法のことを理解されているかわかりませんが、今回のことをご縁に、阿弥陀仏と、神社の神の違いを話されたらよいのではないかと思います。

問題は心のことです。体が一度でも、地元の祭りに参加したら阿弥陀仏に救われる事はないというのであれば、仏法とご縁がある前に地元の祭りで御輿を担いだり、初詣で神社に賽銭を投げたことのある人は二度と助からないということになります。

地元の子供がみな参加する行事ならば、その地域の子供はみな今後も阿弥陀仏に救われる事はないということになります。しかし、そういうことは阿弥陀仏の救いには関係ありません。

助ける力が阿弥陀仏以外にない、ということと、阿弥陀仏以外に向いたことの有る者を阿弥陀仏は助けてくれないということとは違います。

自身も知人も、ご利益があるから神社へ行け、諸仏に参ってこいと勧めているのではありません。神社や、諸仏に参拝することは、阿弥陀仏の救いと無関係なので、積極的に勧める必要はありません。

阿弥陀仏の救いの足しにしようという心で、祭りに出たり、賽銭をなげるということならば、これは雑行でありますから、やってはならないことです。

私たちを助ける働きがあるのは、阿弥陀仏以外にないのですから、一向専念無量寿仏は往生の肝腑であることを、親子で話をするご縁にすればよいのではないかと思います。

体が神社の祭りに参加したら、息子さんが阿弥陀仏に助けてもらえなくなると思われての心配ならご無用です。そんな阿弥陀仏なら、十方衆生は救えませんし、親鸞聖人も平太郎に熊野行きを許可されません。

大事なのは心です。一向専念無量寿仏が親鸞聖人の教えですから、阿弥陀仏一仏に向かって下さい。


やさしい浄土真宗の教え §20 「浄土門以外の教え」の位置づけ

§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ

※今回も、ダチ(元親●会講師)との質疑応答形式です。


【ダチ】(その1)

とりあえず分かりました。

 とりあえず、と言いますのは、諸善を実際やらないと心から納得できないよ~という人は、浄土門以外の教えを聞かねばならないのか。

 つまり、浄土門以外の教えを説く人も、(機によっては)必要ということになるのでしょうか。

 まあ、必要だから釈尊が浄土門以外の教えも説かれたのかも知れませんが。


【苦笑】(その1)

必要な人がいるから、やっぱそういう教えを説く人もいるんでしょうね~。

成仏したくなくて、天国に行きたい人(他宗教の人)とか、
極楽浄土に往生したくない人とか、自分でこの世で成仏したいと思う人(他宗の人)とか、
極楽浄土に往生したいけど、そのために念仏以外の行をしたいと思う人(往生浄土を求める異解異修の人)もいるから、

そういう人のために、そういう人にあった教えを説く人ちゅうものやっぱ必要だし、
それはそれで意味があるから、存在してるんだと思いますよ。

限りなく可能性は少ないけど、能力さえあれば救われる可能性は0じゃないわけですからね~。(注1)

それを否定するのは、法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてもアウトでしょうし、(注2)(注3)
「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトやと思います。(注4)


【ダチ】(その2)

私としても、他宗を謗るという考えは、仏教に合わないと思います。
機に応じて、必要があって説かれたものですから。

だけど、親●会は仏教でもないし、常識の範囲で許される宗教でもないから、容認は出来ませんね…
カテゴリーとしては、悪徳商法か暴力団に近いように思っています。


【苦笑】(その2)

全く同感です(苦笑)。

親●会独自のヘンテコドグマを、
「ドグマ」として説くのであれば別にとやかく言うつもりはありませんが、
それを「仏教」とか「親鸞聖人の教え」と詐称するならば、
「違うよ!」と言うしかないでしょうね~。

ダンマパダ所収の以下の釈尊の言葉を読んだら、
「一刻も早く、親●会から脱出してもらわな」と思ってしまいますよ(苦笑)。
↓ ↓ ↓
116 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。
善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。
悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。

118 人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。
善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。

119 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。
しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。

120 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。
しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。

121 「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。
水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でももたされるのである。
愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、
やがてわざわいに満たされる。

122 「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、善を軽んじるな。
水が一滴じつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。
気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、
やがて福徳に満たされる。

123 同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、
また生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。

124 もしも手に傷がないならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。
傷のない人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪が及ぶことがない。

125 汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、
そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。
風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

126 ある人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墮ち、
行いの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎ(=涅槃)に入る。

127 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、
およそ世界のどこにいても、悪業から逃れることのできる場所は無い。

128 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、
およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所はない。

(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば 』(岩波文庫) より)



【今日のまとめ】
 1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
  能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。
 2、それを否定するのは、
  法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。
 3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。
 4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
  悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
  仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。

※次回は、これまでの「まとめ」だよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 『選択集』八章、『観経疏』散善義に以下の記述がある。

●諸仏の教行、数、塵沙に越え、稟識の機縁、隨情一に非ず。
譬えば世間の人の、眼に見つべく信ずべきごときは、
明能く闇を破し、空能く有を含み、地は能く載養し、
水は能く生潤し、火は能く成壊するがごとし。
かくのごとき等の事、ことごとく待対の法と名づく。
目に即して見つべし。千差万別なり。
何にいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。
隨って一門を出ずれば、すなわち一煩悩門を出ず。
随って一門に入れば、すなわち一解脱智慧門に入る。
これに為って縁に随って行を起して、各解脱を求む。
汝何を以てか、すなわち有縁に非ざる要行を将て、我を障惑するや。
然るに我が愛する所は、すなわちこれ我が有縁の行なり。
すなわち汝が求むる所に非ず。
汝が愛する所は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。
また我求める所に非ず。
この故に各楽う所に随って、その行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり。
行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、
凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切無礙に、皆学することを得よ。
もし行を学せんと欲せば、必ず有縁の法に籍れ。
少し功労を用いるに、多く益を得るなり。

(訳)
多くの仏の教えと修業の方法は、塵や砂の数ほどに多く、
それを受ける人たちの素質も能力もさまざまで、
それぞれの心にふさわしい教えも、また多い。
たとえば、光が闇を照らし、大空が何ものをも受け入れ、
大地が草木を育て、水がうるおって生長をうながし、
火がものをつくったり焼いて破壞したりすることは、
誰もが自分の目で見て確め信じることができる。
これは光と闇、空と有、水と火というように
相対的にはたらく不思議な作用をもっているので
待対の法と名付けなれているが、いずれも目で見て確かめることのできるもので、
その現象はさまざまである。
ましてや、仏法の考えもおよばない力にどうしてさまざまな利益がないのだろうか。
そのようなはずはあるまい。
仏の教えは八万四千もあるといわれ、煩悩も限りなくある。
したがって教えの一つの門を出れば迷いの一つの門を出ることになり、
教えの一つの門を入れば迷いや苦しみを離れた智恵の門に入ることになる。
いずれにせよ、縁のあるままにつとめ、
自分に最も適した教えによって、悟りを求めるようにせよ。
それにもかかわらず、そなたたちは、たとえそれが重要な修業の一つであっても、
縁遠いものをもってきて修業をすすめ、我われをまどわしさまたげようとするのか。
今、我われが願い求めているのは、我われに最もふさわしい修業法であり、
そなたたちが求めようとしているものではない。
そなたが願い求めているのは、そなたにとって最もふさわしいものであろうが、
我々が求めているものではない。
誰もが、それぞれ願うところにしたがい、最も自分にふさわしい修業をすれば、
必ず早く迷いの世界を出て、悟りを得ることができる。
仏の道を歩もうとする修業者は、このことをよく知ってほしい。
もし、教えを学ぼうとするならば、凡夫の立場から聖者の境地に至り、
さらに悟りを得て仏になるまで、自由自在に誰にもさまたげられることなく学ぶように。
また修業したいと思うなら、あれもこれもと試みることなく、
最もふさわしいものを一つ選んで修業せよ。
こうした方法をとれば、多少の苦労はあっても、大きな利益を得ることができよう。


注2 以下参照

●法然上人『七箇条起請文』

一、別解別行の人に対して、愚痴偏執の心をもて、本業を棄置せよと称して、あながちにこれをきらひわらふ事を停止すべき事。」(学問及び修行の違っている人に向かって、愚かにして偏屈な心で、『自分自身の宗の教えに勤めているのを捨てよ』と言って、むやみに馬鹿にしたり、あざわらったりすることをやめなさい。)

 しかもこれは「起請文」であり、仏に対する誓いであり、仏に対する誓いと異なる真意などというものが法然上人には断じて存在しない。


●親鸞聖人は『御消息』6(『末灯鈔』2)

 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。

●蓮如上人『御文章』

 以下のように、他宗や他の宗教への誹謗や批判を厳重に戒められている。

 そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。
 まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。

 そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まづ八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「自法愛染故毀呰他人法雖持戒行人不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(1帖14通、※以下1-14と表記)

 あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、身中にふかくをさめおきて、他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。
(2-1)

 他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。
(2-3)

 それ、当流に定むるところの掟をよく守るといふは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもって本意とするなり。しかりにちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもってわが宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人(親鸞)の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。
(2-13)

 そもそも、当流門徒中において、この六箇条の篇目のむねをよく存知して、仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。しかればこのごろ当流念仏者において、わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらはすこと、もつてのほかのあやまりなり。所詮向後この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかん輩は、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。
一、神社をかろしむることあるべからず。
一、諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。
一、諸宗・諸法を誹謗すべからず。
一、守護・地頭を疎略にすべからず。
一、国の仏法の次第非義たるあひだ、正義におもむくべき事。
一、当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。

 一つには、一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。これすなはち「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはり」(止観)といへるはこのこころなり。されば今の世の衆生、仏法を信じ念仏をも申さん人をば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆゑに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆゑなり。

 二つには、諸仏・菩薩と申すは、神明の本地なれば、今の時の衆生は阿弥陀如来を信じ念仏申せば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいはれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆゑに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀仏一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆゑに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も弥陀一体に帰せずといふことなきいはれなればなりとしるべし。

 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。そのいはれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。

 四つには、守護・地頭においてはかぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもつて本とすべし。

 五つには、国の仏法の次第当流の正義にあらざるあひだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今以後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがへして、善心におもむくべきものなり。

 六つには、当流真実の念仏者といふは、開山(親鸞)の定めおきたまへる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。それ一流の安心の正義のおもむきといふは、なにのやうもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。
(3-10)

 しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。
 ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。
(4-1)

※なお、高森氏が所謂「思想先行型」の解釈を行い、これらの教えを意図的に無視していることに関しては、以下参照。

「文献学」と「思想先行型文献学」


注3 特に親鸞聖人が、聖道門を修している方を、「既に覚って仏になられた仏や菩薩が、
私達を導くために現れてくださった方」と位置づけられていることは注目に値する。

● 聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、
 われらがこころをすすめんがために、
 仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。
 仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。
 これみな聖道門なり。
 権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、
 かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
『親鸞聖人御消息』(1)

(訳)
「聖道門」の教えというのは、すでに仏になられた方が、
 私達を導くために示してくださった、
 仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗の至極の教である。
 仏心宗とっは、世間に広まっている禅宗のことである。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教や、小乗等の教も、
 これらは全て「聖道門」の教えである。
「権教」というのは、既に覚って仏になられた仏や菩薩が、
 仮にさまざまな姿を現して私達を導いてくださっているから、
「権」というのである。


注4 最古の仏典と言われているスッタニパータに以下の記述がある。

 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、
 これらに依存して他の説を蔑視し、
 自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、
「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。(887)

 かれは過った妄見を以てみたされ、
 驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、
 みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。(889)

 自分の道を堅くたもって論じているが、
 ここに他の何びとを愚者であるとみることができようぞ
 他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、
 かれはみずから確執をもたらすであろう。(893)

 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、
 さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
 一切の哲学的断定を捨てたならば、
 人は世の中で確執を起こすことがない。(894)

 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、
 ―かれらはすべて他人からの非難を招く。
 また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。(895)

 たとい称賛を得たとしてもそれは僅かなものであって、
 平安を得ることはできない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、
 とわたしは説く。
 この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、
 論争をしてはならない。(896)

(中村元訳『ブッタのことば』岩波文庫)

Q&A(20)「回向」について、通仏教的な意味を教えてください。

Q。
「回向」について、通仏教的な意味を教えてください。


A。
「回向」(「廻向」)を理解するには、「業の理論」からお話する必要があります。

業の理論は、「善因楽果・悪因苦果」と「自業自得」という原則で成り立っていますが、
善因から楽果が生じ、悪因から苦果が生じるまでには、ある時間が介在します。

「盗みをして速攻で逮捕されてしまった」というように、
この介在する時間は、一瞬後かもしれないし、
あるいは時間がとても長く介在して、業の結果が及ぼされるのが現世ではなくて、
来世かもしれないし、次の次の生涯かもしれません。
そして前世やあるいはもっと前からの業の影響が現世に及んだ場合もあり、
その場合は「宿業」と言われます。


この善因が楽果に、悪因が苦果に、異熟して結果を出すまでのあいだ、
善因・悪因ともに、影響力を残します。

善因、すなわち善業(善い行為)が後に残す影響力を、プンニャ(功徳・福徳)といいます。
悪因、わなわち悪業(悪い行為)が後に残す影響力を、パーパ(罪)といいます。

善因=善業 → 功徳・福徳(時間の介在) ⇒ (異熟) ⇒ 楽果
悪因=悪業 → 罪    (時間の介在) ⇒ (異熟) ⇒ 苦果


「善因楽果・悪因苦果」と「自業自得」という業の原則は絶対ですから、
例外はないのですが、 仏教においては「これを超越できる」としています。

それが「廻向」です。

仏教においては、悪業をやっての「罪」は、廻し向けることはできません。
他人に自分の罪をもらってくれということはできないんですが、
功徳の方は、他人に向けることができます。

それを「廻向」と言います。

この「廻向」という考え方は、先祖供養という形で、
『増支部』「ジャーヌッソーニ章」(アングッタラニカーヤ、V269)にも存在しますから、
なにも大乗仏教に限らず存在した考え方です。
(藤本晃『功徳はなぜ廻向できるの?』国書刊行会参照)

ちなみに、阿弥陀仏の本願力は、阿弥陀仏から衆生に対する「廻向」なわけですが、
「廻向」を、この「他力廻向」だけに限定するのは浄土真宗だけに限定された文化です。

これをまず押さえておく必要があるでしょう。

Q&A(19)「悪人正機」は「全人類が五逆罪法謗罪」だからなのか?

Q。
苦笑さん

こんにちは。親鸞聖人が悪人正機といわれたことについて、私は以下のように理解していますが、間違っているでしょうか?


悪人といっても、仏様の眼で見られているものなので、無間業を作ったもの、十悪をつくったもの、仏様から見られたら偽善だけれども仏道修行をしているもの、と様々ある。

阿弥陀仏は、あくまで真実の修善が出来ない人を救うために誓われているのであって、全人類が極悪人だなんて決めつけられていない。

親鸞聖人も、全人類が五逆罪法謗罪のものなんて言われていない。


このように理解していますが、間違っているでしょうか?



親●会のある人からは、そんな解釈をしている善知識は誰もいないと言われました。

よろしくお願いします。



A。
はい。その解釈でOKです。

以前、教学講議にツッコミいれた時にも述べましたが、

●仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
 ゆゑに光明師(善導)のいはく(般舟讃)、「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」と。
『教行信証』信巻

「衆生の機」が「不同」であるために、「仏教多門にして八万四」であることは、
善導大師が仰っておられることで、親鸞聖人もそれを引用されています。


それに、これは以前清森さんが仰っておられたことですが、
「全人類が五逆罪法謗罪」だとしたら、

●善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。『親鸞聖人御消息』

という言葉に基づいて、無人島で暮らさなアカンようになってしまいますよ(苦笑)。

※清森問答質疑応答143


『歎異抄』の三章の文章は、
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」だけを読んで、
脳内のドグマに基づいた勝手な解釈してはいけません。

この後に続く文を読めば、
 ↓
______________________________________
 自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたる間、弥陀の本願にあらず。
 しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、
 真実報土の往生をとぐるなり。

 煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを、
 あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、
 他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。

 よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候ひき。
______________________________________


1)善人=自力作善の人=他力をたのむこころの欠けたる善人
2)悪人=煩悩具足で、いずれの行にも及ばない「我ら」=他力をたのみたてまつる悪人

ということであり、

1)「善人」とは、阿弥陀仏の救いに身を任せずに、自分の力で善を積んで往生しようとしている、 自力作善の人という意味の「善人」のこと。

2)「悪人」とは、煩悩具足であり自分の力では輪廻を離れることができないと自覚し、
阿弥陀仏の本願力をたのむことしかないと自覚した「悪人」のこと。

という意味で定義されていて、

阿弥陀仏の本願を頼むかどうかで「善人」「悪人」が定義されてはおりますが、
「全人類が五逆罪法謗罪」である必要は全くありません(苦笑)。



「そんな解釈をしている善知識は誰もいない」などと言ってる野郎に、
今度会った時に、以上のことをレクチャーしてあげてください。

Q&A(18)親●会は「諸行往生」にも値しません。

Q。
いつもお世話になっています。

>私に言わせれば、
>親●会教義は「諸行往生」でないのはもちろん、
>「善の勧め」でもなんでもない、
>カルト悪徳宗教ビジネス以外の何ものでもありませんけど(苦笑)。

と苦笑さんはコメントされていましたが、
親●会が「諸行往生」にも値しない理由を解説頂けないでしょうか?


A。
ご存じの通り、「諸行往生」は阿弥陀仏の第十九願に基づくものです。

●『大経』(上)の願(第十九願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、わが国に生ぜんと欲はん。寿終のときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」と。
(『教行信証』化身土巻所説の『無量寿経』十九願引用)

上記の文をご覧頂けば明かなように、

1)菩提心を発し
2)もろもろの功徳を修し
3)心を至し発願して
4)わが国に生ぜんと欲はん

上記の条件を満たした「十方の衆生」が、「寿終のとき」に阿弥陀仏の来迎によって、
「寿終のとき」に極楽浄土への往生が確定するのが、「諸行往生」です。

したがって、上記1)~4)を満たしてなければ、
「諸行往生」することはできません。

1)菩提心を発し
  ↓
「菩提心」とは、基本的に「覚りを求める心」ですが、
「仏教の目的は信心決定」と教えされている親●会会員の皆様は、
「覚りを求める心」を起こして、
「成仏したい!」と思ったことあるんでしょうか?

ぶっちゃけ、「信心決定したい!」だけで、
「成仏したい」なんて思ってないでしょ?(苦笑)

2)もろもろの功徳を修し
  ↓
親●会得意の「宿善ポイントシステム」が、
「もろもろの功徳を修し」に該当してるんでしょうかね~(苦笑)。

清森さんがこんなこと言ってはりましたよ(苦笑)。
 ↓
~~質疑応答17~~

どんなに頑張っても「間違った心がけ」じゃ、
「宿善ポイント」すらたまりまへん(苦笑)。

3)心を至し発願して
4)わが国に生ぜんと欲はん
  ↓
これは素朴な疑問なんやけど、
親●会の人って「極楽浄土へ往生したい!」って思ってます?

どんだけ「信心決定したい!」と思っても、
この条件を満たすことはできません。

本気で「諸行往生」したいなら、
「極楽浄土へ往生したい!」と思わないとダメなんですよ(苦笑)。


以上で、親●会が「諸行往生」にも値しないのが、
十二分におわかり頂けたと思います。

「諸行往生は本願にあらず」(親●会HPより)

「諸行往生は本願にあらず」(親●会HPより)

光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ。

 光に向かって善を勧める親鸞会に、「諸行往生ではないか」と非難する声があるらしい。諸行往生とはどういうことか、分かってのことなのだろうか。



ふ~ん。
どれどれ解説頂こうか~。
 


 諸行往生とは、「諸善をしたら助かる」ということ、これは間違いである。それでは、自力の善の積み重ねで助かることになるからだ。
「一切の自力を捨てて、他力に帰せよ」これ以外に親鸞聖人の教えはないことを、覚如上人は次のように断言されている。

「今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」(改邪鈔)

 親鸞聖人の、この捨自帰他のみ教えの徹底に専心する親鸞会は、未だかつて、「諸善をすれば助かる」などと主張したことは一度もない。
 当然である。

 また諸行往生は、死ぬまで助かったということがない。
 体失不体失往生の諍論で、親鸞聖人に論破された法友・善慧房証空の主張を、法然上人はこう評されている。

「善慧房の体失して往生するよし述ぶるは、諸行往生の機なればなり」(口伝鈔)

 肉体を失わなければ(体失)助からぬという善慧房の主張は諸行往生であり、「諸行往生は本願にあらず」とまで言い切られている。

 阿弥陀仏が本心を誓われた十八願には、平生の一念にいつ死んでも極楽往生間違いない身に救い摂る、と約束されているからだ。

 だから親鸞聖人のみ教えは、平生業成、現生不退。現在ただ今、肉体あるままの不体失往生を90年間、強調されたのである。

 ↑
これはまあ、ええね~。
そんで結論は、これなのね(苦笑)。
 ↓

善の勧めはなぜなのか

 高森先生もまた、この信仰の決勝点、一念の弥陀の救いを、常に黒板に縦の線で示され、親鸞聖人の平生業成のみ教えを一貫して説き続けられているのは世間周知のこと。
 その親鸞会に対する「諸行往生」の非難が、いかに的外れであるかは明らかであろう。

 では、善の勧めはなぜなのか。
 阿弥陀仏が、本心を誓われた十八願に導くために、十九の願(修諸功徳の願)で、諸善を勧めていられるからである。

 十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。

 要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。
 実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。



\( ̄ー ̄#)なんでやねん!

上の文と下の文が、全然関係ないやん(苦笑)。

メンドクサイから、もう繰り返さないけど、
以下のレクチャーを最低五回は読み直して、
浄土真宗を一から勉強し直してくださいませ(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

§17 阿弥陀仏の本願の行
§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義 
§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?


あと、シツコイようだけど、
「この活動」が「光に向かう」根拠はないんじゃね?(苦笑)

「この活動」
 ↓ ↓ ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.

やさしい浄土真宗の教え §19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?

§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?

※今回も「ダチ」との質疑応答形式です。


【ダチ】
セーフティーネットというのは分かりやすいですね。
最終的には、自力修善では仏になれない、弥陀の願力によらねばならないというのが結論になると思います。

阿弥陀仏のお仕事というのは、よく分かるのですが、浄土門の教えを説く人の仕事ではないというのは、「説く必要が無い」ということになるのでしょうか?

教行信証の化身土巻は、19願の解説であり、聖教の引用の多くは観無量寿経疏であり、特に散善義は多いです。

観無量寿経の中には定散善が説かれていますが、特に散善については一般的な仏教で言う修善に当たると思います。

これは、念仏に導く方便とは思いますが、方便である修善についても浄土三部経で触れられているということは、浄土門に19願の教えもあると解釈はできないでしょうか?

もし浄土門で説かないなら、教行信証化身土巻は書く必要がなかったという気がしますし…

もちろん、某会のように「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」などという意味ではなく、対機として、有りうるのではないかという疑問です。


【苦笑】
う~ん。
『教行信証』化身土巻は、

「これじゃあアカンよ」
「こういう思いで浄土往生を求めていたら、それは自力の信心だよ」
「これは法然上人や私と同じ信心じゃないから、気をつけなさいよ」

という位置づけで書かれたものであり、
実際、十八願に基づいて往生しようとしている人の中に、
そういう人がいっぱいいるから、気をつけましょうね。

という位置づけで書かれたものであって、
確かにそこにいる人にとってはプロセスなわけだけど、

それは、一刻もはやく「抜けなきゃいけないプロセス」なわけですから、
「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で、
説いていかなければならないものだと思います。(注1)

『選択集』の四章で説かれる、廃・助・傍の三義も最終的に、
善導大師解釈=法然上人の本音でいうと、
「諸行は廃のために説く!」なわけですし、 (注2)
第十二章でも、念仏は立てるために説いて、定散は廃するために説く。
というのが結論になってますしね。 (注3)(注4)

そういうことを「説く」のであれば、大いに説いたらいいと思います。
ただ、そういう見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
「諸行に励め!!」と説いてしまうのは、少なくとも、
法然上人や親鸞聖人の門下の教えではないと思います。


>「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
 ↑
まあ、これは論外ですけどね(苦笑)。(注5)


【今日のまとめ】
 1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、
  「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。
 2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」
  というのが本音である。
 3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
  「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。
 4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
  などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。

※次回は、「浄土門以外の教え」の位置づけに関して説明するよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 「それをせえ!」ではなく「それじゃだめよ!」という意味であることは、以下の親鸞聖人の言葉を読めば明白である。 

●まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
 悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。
 みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。
 おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。
 かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
『教行信証』化身土巻

(訳)
 いま、まことに知ることができた。念仏を専ら修していても、雑心(自力が混じった心)なものには大きな喜びの心を得ることができない。だから善導大師は『往生礼讃』で、「
(雑心の者は)仏の恩に報いようという思いがなく、行を修めても驕慢の心がおきる。いつも名誉や利益を求めているために、その人は「私」というとらわれの心に(自力)に覆われて、同行の人や善知識に親しみ近づくことがなく、進んで雑縁に近いて、極楽浄土に往生するための行を自ら妨げ、人を妨げるのである」と仰った。
 悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、他力の信心を伴った念仏を自力の行でもって補い助けようという気持ちが混入し(助正間雑し)、自力の定散の行でもって極楽浄土に往生しようという心が起きるため(定散心雑する)、迷いの世界から離れることができないのである。
 自分の力で流転輪廻を渡ろうとするならば、どれほど限りなく長い時を経ても、阿弥陀仏の本願力に帰して、信心の大海に入ることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。
 大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人と呼ばれる人逹も、阿弥陀仏が与えてくださった本願の名号を自分の力で作った功徳として称えてしまうために、他力の信心を生ずることができず、阿弥陀仏の仏智を知ることができないのである。
 阿弥陀仏が衆生が極楽浄土に往生するための因をお作りになられたことを知ることができないので、真実報土に往生することができないのである。

注2 §18の注2参照。

注3 善導大師は『観経疏』において以下のように述べておらえる。

●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
 確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)

 法然上人は上記の善導大師の言葉を『選択集』(第12章)に引用されている。

注4 さらに法然上人には、以下のような言葉もある。

 念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住して発し給ひたる事なれば、
 人を、きらうことは、候(そうら)はぬなり。
 佛の御心は、慈悲をもて体とすることにて候ふなり。
 されば『観無量寿経』には、
「仏心というは、大慈悲これなり」と説かれて候。

 善導和尚この文を受けて、
「この平等の慈悲をもっては、普く一切を摂す」と釈し給へり。
 一切の言、広くして、もるる人候ふべからず。
 されば、念仏往生の願は、これ弥陀如来の本地の誓願なり。
 世の種々の行は本地の誓いにあらず。

 釈迦も、世に出で給ふ事は、
 弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
 衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
 これ随機の法なり。 佛の、自らの御心の底には候はず。
 されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
 余の種々の行には、似ず候うなり。

『勅伝』巻二十八、「津戸三郎へつかはす御返事」(昭法全五七二頁)

(訳)
 念仏を申すことによって極楽浄土に往生することができるという、
 阿弥陀仏の誓願は、
 全ての人を平等に救うという慈悲の心から起こされたものであるから、
「あの人は救わない」というように人を選んだりするものではない。
 仏の御心というものは、慈悲がその中心となるものなのである。
 だから『観無量寿経』には、
「仏の心というのは、大きな慈悲のことなのである」と説かれているのである。

 善導大師は、この文を受けて、
「この平等である慈悲をもって、普く全ての人々を救い取る」と解釈している。
「一切」という言葉は、広くという意味であって、
 この救いにもれる人がいるはずがない。
 だから、念仏を申すことによって極楽浄土に往生することができるという、
 阿弥陀仏の誓願は、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、
 お建てになられた誓願なのである。
 念仏以外の行は、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、
 お誓いになられた行ではないのである。
 釈尊がこの世に現れたというのは、
 阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
 人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
 しかしそれは人々の能力に応じたのであって、
 決して釈尊の本心によるものではなかった。

 だから念仏は、
 阿弥陀仏のとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
 お釈迦様にとっては、それをひろめることが
 この世にお出ましになられた真の目的だったのである。
 それが、念仏以外の行との違いなのである。


注5 これに関しては§8の注5で述べたが、再掲載しておく。

『歎異抄』第18章には、施入物の大小を云々することが誤りであり、宝物を仏前になげたり、師匠にものを施したりすることによって救いが決まることはないということが述べられている。

一 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。
かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


また、蓮如上人も、財施によって救いがあるかのように教えることの間違いを指摘しておられる。

●これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
『御文章』1帖11通

Q&A(17)財施の解説をお願いします。(その3)「餓死事件」が起きるような「財施」を勧める野郎は「本願の宮仕い」じゃね~んだよ!!

つづき~。

これまでの解答

  Q&A(15)財施の解説をお願いします。(その1)「三輪清浄」
  Q&A(16)財施の解説をお願いします。(その2)宿善ポイントを貯めるために財施を勧める野郎は要注意!!
  

A。(その3)

最後に、浄土真宗において「財施」がどのように位置づけられ、
どのように教えられるべきであるかを、
親鸞聖人のお師匠様である法然上人からレクチャー頂こうと思います。
  ↓ ↓ ↓
 極楽を願い、念仏を申さん人をば、
 塵刹の外なりとも、父母の慈悲に、おとらず思し食(め)すべきなり。
 今生の財宝ともしからん人をば、力をくわえさせ給うべし。
 もし少しも、念仏に心をかけ候はん人をば、いよいよ御すすめ候うべし。
 これも彌陀如来の、本願の宮仕い(みやづかい)と思し食し候ふべし。
『勅伝』巻二十五、「鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事」

(訳)
 極楽に生まれたいと願ってお念仏を申す人に対しては、
 たとえ遠い外国の人であろうとも、父母の慈悲にもおとらないほど、
 いとおしく思わなくてならない。
 また、今現在貧しくて困っている人がいたならば、
 力をかしてあげるべきである。

 もしも少しでも念仏を申そうとする人がいたならば、
 いっそう念仏を申すように勧めるべきである。
 これも阿弥陀如来の本願に対する宮仕えと思わなくてはならない。


これは、法然上人が「鎌倉の二位の禅尼」=北条政子(源頼朝の奥さん)
に送った手紙の一節なんやけど、浄土真宗における「財施」は、
こういう気持ちでの「財施」じゃなきゃアカンと思います。

せやから、

~~心よりお悔やみ申し上げます。より~~

>・激しい募財活動のため、餓死した母子
 
これも今から14年程前、京都の会員さんですね。
母子家庭で娘さんは障害があったと聞いています。
アニメ頒布の報奨金を当てにして、担当講師から無理やり莫大なご報謝を予約させられた、と聞いています。

~~心よりお悔やみ申し上げます。より~~
 ↑
このような方にも、「財施」はせなアカンと思うし、

「餓死事件」が起きるような「財施」の勧めなんて、言語道断ですわね。
 ↓
苦笑できません。。参照


機会があれば、私のレクチャーに基づいて、

★「餓死事件」が起きるような「財施」を勧める野郎は、
 「本願の宮仕い」じゃね~んだよ!!

と、件の野郎どもに言ってやってください。


以上です。

Q&A(16)財施の解説をお願いします。(その2)宿善ポイントを貯めるために財施を勧める野郎は要注意!!

つづき~。

 その1 Q&A(15)財施の解説をお願いします。(その1)「三輪清浄」


A。(その2)
次に、このブログで何度も申し上げているように、

浄土真宗は、宿善ポイントをためないと救われない教えではありませ~ん!!

これはOKですよね?


したがって浄土真宗において、

★宿善ポイントを貯めるための財施を勧める!

なんてことは、絶対にあってはいけないわけですわ(苦笑)。

これに関しては、前に紹介した『歎異抄』や『御文章』の言葉を見ても明かですわね。
 ↓ ↓ ↓
~~§8 なかなか信心獲得できない人のために・・ 注5より~~

 『歎異抄』第18章には、施入物の大小を云々することが誤りであり、宝物を仏前になげたり、師匠にものを施したりすることによって救いが決まることはないということが述べられている。

一 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。
かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


また、蓮如上人も、財施によって救いがあるかのように教えることの間違いを指摘しておられる。

●これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
『御文章』1帖11通

~~§8 なかなか信心獲得できない人のために・・ 注5より~~

まあ、これらの「浄土真宗の教え」に反することを教えているような、
自称「浄土真宗の善知識」や自称「浄土真宗の団体」は、
「浄土真宗の善知識」でも「浄土真宗の団体」でもなんでもない、
「なんちゃって善知識」「インチキ浄土真宗団体」ですから、

そんなもんが、「福田」としての機能を持たないのは、明かですわね(苦笑)。


★宿善ポイントを貯めるために財施を勧める野郎は要注意!!
 ↑
これ超大事ですよ!!

つづく

Q&A(15)財施の解説をお願いします。(その1)「三輪清浄」

Q。
いつもお世話になります。
以前、壁画の財施に参加しなかった人に対して、
教学講義の受講資格を失う、と脅されたことがありました。
現在はF館の財施について、親●会では推進されています。

本来の財施について教えてください。

親●会では、財施について以下のように教えています。
まず、財施をする相手としていわれるのが、三田です。
三田とは、
・敬田
・恩田
・悲田
です。
これらの人に対しての財施は、功徳があるというのです。

財施の心構えとして、三輪空といわれます。
三輪空とは、
・私が
・誰誰に
・何々を
この三つを忘れなさいといいます。

また、人それぞれ精一杯の財施をしなさい、と勧めます。
財施は、したくない私たちに善をさせるための勝縁であると親●会ではいいます。

カルダイ尊者と欲深ばあさんの話を通して、私たちに精一杯の財施をしなければならないと教えています。

だから、親●会で勧める募財にはすべて参加して当然というのです。
これが親●会の教える財施です。

そもそも会長や親●会が三田にあたるかどうかも大いなる疑問です。
また財施は喜捨といわれますが、親●会では喜捨になっていません。
度重なる訳の分からない”勝縁”に無理やり参加を迫ります。
だから悲捨、怒捨になる場合も多いです。

仏教で教えられる財施とはどういうものでしょうか。


A。(その1)
まず「布施」をする際の基本的な心構えである、「三輪清浄」から説明します。

「三輪清浄」は以下のような心構えです。

※以前、ちょっと残念な人にレクチャーしたものを転載します。
 ↓ ↓ ↓
●『大乘本生心地觀經』「三輪清浄偈」(T. vol.3 p296b)
 能施所施及施物  能施と所施及び施物は
 於三世中無所得  三世の中において無所得なり
 我等安住最勝心  我等、最勝心に安住して
 供養一切十方佛  一切の十方の仏を供養したてまつる

(訳)
 与える者(能施)・与えられる者(所施)・与えられる物」(施物)は、
 過去・現在・未来の三世を通して、
 とらわれのないもの(無所得=空)である。
 私達は、このような最も優れた心に達しながら、
 ありとあらゆる十方の諸仏を供養したてまつる。


このように、

 ●与える者(能施)
 ●与えられる者(所施)
 ●与えられる物(施物)

これらが、「とらわれのないもの(無所得=空)」
という思いじゃなきゃだめなんです。

だから、布施をする時に、布施をする人の心の中に、
「こんないいものをあげる」とか「こんなにしてあげる」とかいう、
施物とか、行為に対する執着が取れない状態で布施をしても、
布施をしたことになりません。

まして、布施を受けた側が、心の中が施物に対する執着で汚れた状態で、
布施を受けたら、布施を受けたことにならないのは当然ですわね(苦笑)。

それに、施物が不正な手段で手に入れた物である場合も、
布施が成立しません。

せやから、

「マネーロンダリング(資金洗浄)」と「三輪清浄」は違います(苦笑)。
「欲にまみれた金」という気持ちでの布施は「三輪清浄」になりません(苦笑)。

ということになるわけですわね(苦笑)。

というか、「財施」に関して、蓮如上人と違う認識をしている、
自称「浄土真宗の善知識」が、「福田」としての機能を持つかどうか、
甚だ疑問ですけどね(苦笑)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私は今はちょっとなまくら(怠け)しておりますが、昔は何か人から頂くと、葉書を送っていました。

その葉書の最後に、有難く思います、有難く存じます、と書いていました。

これはハッキリ申しますと、あなたみたいな欲深い、出すのはイヤ、出すのは主人を刑務所から出すのも嫌というぐらい欲深いあなたが、私にこんなものを下さるなんて、有難いことだ、という意味で書いてたんですね。

葉書を受け取られた方が、どう思われていたかわかりませんが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ↑
スタンスが違い過ぎでしょ?(苦笑)
  ↓

●『蓮如上人御一代記聞書』(297)
一 前々住上人(蓮如)は御門徒の進上物をば、御衣のしたにて御拝み候ふ。また仏の物と思し召し候へば、御自身の召し物までも、御足にあたり候へば、御いただき候ふ。御門徒の進上物、すなはち聖人(親鸞)よりの御あたへと思し召し候ふと仰せられ候ふと[云々]。

(訳)
蓮如上人は、ご門徒からの進物をお衣の下で手を合わせて拝まれた。
また、頂いた進物は全て仏様から頂いた物と思っておられたので、
ご自身がお召しになったお着物までも、万一踏みつけてしまわないように押し戴かれた。
「ご門徒からの進上の物は、そのまま親鸞聖人がお与えくださったものと思われる」
と仰せになられたのことである。


つづく

Q&A(15)なぜ親●会は『法蔵館』の『浄土真宗聖典』を使うのか?

更に質問を頂いたので、解答しました~。
 ↓ ↓ ↓

Q。
有難うございます。

質問した者です。丁寧な解説有難うございました。苦笑いさんのお墨付きを頂けたので、さらに自信がつきました。ちなみに、まだ読まれてない方は『本願寺出版社』の『浄土真宗聖典‐注釈版 第二版‐』は、ジュンク堂やブックファースト等の大型書店で売ってあるので、立ち読みでもいいので『法蔵館』の『真宗聖典』と読み比べてみて下さい。読みやすさ、分かりやすさがハッキリすると思います。苦笑いさん、もう一つ質問よろしいでしょうか?親鸞会が『法蔵館』のにこだわるのは、メンツもあると思いますが、『本願寺出版社』のは読みやすいので、自分で勉強してしまって、自分の頭で思考する、または教義の矛盾を知られるのが恐ろしいのではないでしょうか?苦笑いさんはどう思われますか?


A。
いや~。
私の「お墨付き」なんて、何の権威もありませんよ(笑)。

ご質問の件ですが、ご指摘の、

 ★読みやすく自分で勉強しやすいので、自分で思考し教義の矛盾がバレないように。

という要素も、ひょっとするとあるのかもしれませんが、

私はもっと単純に、

 ★高●先生が、使っているのが、法●館のだから。

という理由だけだと思いますよ(苦笑)。


そんでもって、

 ★高●先生が教学講議や法話で使う場所は、いつも決まっているから、
  改めて勉強する必要なし!
    ↓
 ★だから、もっと読みやすいものが出ても切り替える必要がないので、
  高●先生はず~っと法●館のを使い続ける。
    ↓
 ★高●先生にしたがって、親●会もず~っと法●館のを使い続ける。

ということになるんだと思います(苦笑)。

どうです?わかりやすいでしょ?(笑)

Q&A(14)『法蔵館』の『浄土真宗聖典』はどうよ?

元会員さんの質問にお答えしま~す。

Q。
質問お願いします。

聖教を読むについてですが、親鸞会では『法蔵館』の『浄土真宗聖典』を用いられていますが、私は断然『本願寺出版社』の『浄土真宗聖典‐注釈版 第二版‐』の方が読みやすくて優れていると思います。私は親鸞会をやめた後、読み比べて驚きました。苦笑いさんはどう思われますか?


A。
私も断然、本願寺出版社の『浄土真宗聖典‐注釈版 第二版』です。
というか、法蔵館のヤツを持ってません(笑)。

お勧めポイントは沢山ありますが、

1)最新の書籍で、テキストの校訂がしっかりしている。

2)詳細な注釈が備わっており、辞書をほとんど使わないで読むことができる。

3)祖師方が経典を引用している場合、しっかり典拠を調査しているので、
 本当は『般舟三昧経』に書いてないものを、「般舟三昧経には~」と喋って、
 赤っ恥をかく心配がなくなる。

 ※『涅槃経』なんて読んでるわけないじゃん(苦笑)。 参照

4)『浄土真宗聖典』オンライン検索に対応しているので、
 祖師方の言葉を簡単に検索できるので、速攻で用例を調べることができる。
 断章取義野郎も秒殺できちゃう。

 ※『浄土真宗聖典』オンライン検索 参照

これらの、素晴らしいメリットがあります。はい。



一方、法●館のヤツを使うメリットは、

あ)高●先生が使っているから、親●会員もほとんどの人が持っている。

い)元親●会講師の人は、使いなれた法●館のヤツを使って話をするので、
 その話を聞く時に便利である。

う)高●先生の御法話&教学講議で挙げられた言葉の部分に線が引いてあるから、
 持ってるだけで、なんか勉強しているような気になれる。

ということぐらいなのかなと思いますね(苦笑)。



私の所に話を聞きに来る方には、
元講師の方にでも元一般会員の方にでも、
使いなれた法●館のヤツではなく、
本願寺出版社のヤツを使うように激しくお勧めしております。

これは上記1)~4)の理由もあるんですが、
それ以上に、高●先生の御法話&教学講議で線を引いた部分しか読ま(め)ず、
無意識に資料を断章取義して、
バイアスのかかった思考をする「クセ」がついてますので、
まずは、それをやめて頂くことからスタートする必要があるんですよ。


あと、「お!」と思った箇所には、
付せんをペタペタ貼る勉強法をお勧めしております。

むやみやたらに線を引くと、
断章取義&バイアス思考の原因になっちゃいますので、
やめた方がええと思います。

「お!」と思った箇所も、前後もちゃんと読んで、
コンテキストを理解した上で理解せなあきませんからね。



やっぱし、親●会思考から完全に脱却するには、
親●会の手垢のついたテキストや、勉強方から脱却するのが、
すっごい近道やと思いますね~。

やさしい浄土真宗の教え §18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義

§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義

※原稿を読んでくれたダチ(元親●会講師)との質疑応答形式になってます。


【ダチ】

19願とか修善は方便なのだから、対機なのであって、すべての人に勧められたとは思わないのですが、少なくとも必要な人に対しては、修善の勧めがあったわけで、それは否定されるべきものなのでしょうか?(苦笑さんが否定しているという意味ではなくて、一般論的にどうなんでしょう)

 つまり、19願の教えが必要な機に対して、そこで知らされるべきものを、まだ得ていない人に対しても、「一刻も早くそこから出るべき」と言えるのかどうかが疑問です。

「一刻も早く出ろ」と言っても出られない機だから、方便としての修善が勧められているのであって、そういう機に対しては、修善を勧めることが結果的に「一刻も早くそこから出よ」と言うことになると思うのですが、どう思われますか?


【苦笑】

いい質問ですね。

「修善をしなきゃアカン!」という人に対して・・

★阿弥陀仏が修善を勧めた。

ということじゃなくて、

★その人がシステムから外れないように、
 セーフティーネットとして、十九願を立てた。

ということがポイントになると思います。


「修善をしなきゃアカン!」というのは、カス野郎な自分の力が、
極楽浄土に往生するのに何か役立つかのように思う「自力」の心であり、
こんなものがいくらあって頑張っても、
極楽浄土に往生することには役にも立ちません。

それでも、そういう人もいずれそういう思いからリタイヤして、
十八願の世界に入るようにセーフティーをかけているのが、
十九願の意義ということになります。(注1)

これは阿弥陀仏の仕事であって、浄土門の教えを説く人の仕事ではありません。


したがって、極楽浄土に往生しようと思っている人
(=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
阿弥陀仏の本願を無視することになりますので、
法然上人や親鸞聖人の流れを汲む浄土門の教えとしてはアウトです。 (注2)

ましてや、どっかの親●会のように、
「極楽浄土への往生」目的でもなく、
「信心決定」目的で「諸善」を勧めちゃうのは、
「諸行往生」にすらならない、完全にセーフティーのかからない、
「ヘンテコドグマ」ということになりますね(苦笑)。 (注3)

ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
(=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
極楽浄土に往生する目的ではなく、この世で成仏する目的で諸善を勧め、
そこからリタイヤして、「極楽浄土に往生しよう」と思ってもらう。
というのは「あり」です。(注4)


あと、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」生きる努力をするものですから、
できる限り頑張ってしたらいいと思いますし、(注5)

阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことですが、
「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰ってませんね。(注6)


【今日のまとめ】
 1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
   阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
   セーフティーとして立てられたのが十九願である。
 2、極楽浄土に往生しようと思っている人
  (=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
   極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
   阿弥陀仏の本願を無視することになる。
 3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
  「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。
 4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
  (=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
  この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。
 5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
  「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。
 6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
  「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
  「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。

※次回は、「『教行信証』化身土巻の内容はプロセスだからやらなきゃダメ!」
 という考え方について考察するで!!   

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 親鸞聖人が編纂された法然上人の遺文集である『西方指南抄』所収の法語、「十七箇条御法語」には、

「第十九の願は諸行之人を引入して念仏之願に帰せしめむと也」(昭法全 p.470)

とある。


注2 『無量寿経』において釈尊は、極楽浄土へ往生するための行として、念仏と諸行の両方をお説きになっておられる(三輩段)。
 この念仏と諸行の関係について法然上人は『選択集』四章において、

・廃立・・衆生に諸行を廃して念仏を拠り所とさせるため。
・助正・・諸行を念仏の助けにするため。
・傍正・・念仏にも諸行にも上中下三段階を立てるため。

この三つの解釈が可能であると述べ、

 ただしこれ等の三義、殿最知り難し。
 請う、諸の学者、取捨心に在るべし。

(和訳) 
 ただしこれらの三義の、優劣は知りがたいものである。
 どうか、これを学ぶ多くの人たちは、
 自分自身の判断で、取捨しなさい。

と述べた上で、

 今もし善導に依らば、初めを以って正と為すのみ。

(和訳)
 ただし、今もし善導大師の教えに依ってあえて言うならば、
 初めの廃立を正しい解釈とするのみである。

と述べておられるので、これが法然上人の本音であると言える。


注3 某所に、とてもよい問題が掲載されていた。

~~以下引用~~

535 :神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 12:21:35 ID:aFbNIyl5
今回の講師試験の問題

Q、「諸行往生」とはどんなことか、一言で書け。また、それは正しいか、間違いか、答えよ。

A、諸善をすれば善のできない自分が知らされて救われるということで、間違い。
  例として、
  親鸞聖人の20年間の比叡山での御修行で、機の深信が知らされたという邪義。
  19願の入り口にも入っていない講師部員や、30年、40年求めたくらいでは分からないと教えられ、
  親●会の会員は、この世では救われないから、親●会の求道は遠生の結縁と考えている邪義など。

  この世で救うという18願ではないので、明らかな間違い。

  参考までに、
  精一杯の財施をしなければならない、とか、善知識に絶対服従せよなどは、諸行往生でもない、カルトの教え。

~~以上引用~~

また、以下のコメントも秀逸だった。

~~以下引用~~

569 :神も仏も名無しさん:2009/07/01(水) 07:06:46 ID:y/2OT4/i
>>535

(中略)

親鸞会は体失往生ですから、諸行往生なのですね。
19願の善を実践して、善のできない自分であったと知らされることがいつあるのか?
19願の善を実践させるということは、長い長い時間が当然必要ですので、不体失往生ではないですよ。

諸行往生は間違い、と教えながら、諸行往生を目指していることを、会員は知るべきでしょう。

会長のトリックは巧妙なのです。

570 :神も仏も名無しさん:2009/07/01(水) 07:16:09 ID:y/2OT4/i

(中略)

これは、諸行往生の教えから派生した会長独自の教えです。

善のできない自分であったと知らされる財施とは、全財産を親鸞会に差し出せ、ということです。しかし、全財産を差し出して
善のできない自分であると知らされると思いますか?

会長に絶対服従するには、人間をやめなければなりません。余りにも理不尽で、方向が頻繁に変更されますので、どの
指示に服従するのでしょうか?犯罪も厭わない指示がこれまでいくつもありました。
全ての指示に服従するには、人間をやめるか、超人にでもならなければ無理です。

金集めと会長への絶対服従が、会員を苦しめ、不体失往生を妨げている最大の原因です。

~~以上引用~~


注4 以下の法然上人の言葉を参照。

●釈迦も、世に出で給ふ事は、弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。 佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。 『津戸三郎へつかはす御返事』

(訳)
釈尊がこの世に現れたというのは、阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
しかしそれは人々の能力に応じたのであって、 決して釈尊の本心によるものではなかった。
だから念仏は、 阿弥陀仏にとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
釈尊にとっては、それをひろめることがこの世にお出ましになられた真の目的だったのである。
他の念仏以外の行とは、全く違うのである。


注5 以下の法然上人の言葉を参照。

●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
  女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。


注6 以下の法然上人の言葉を参照。

●念仏して往生するに不足無しといいて、悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。
 例えば、父母の慈悲は、良き子をも悪しき子をも育むめども、よき子をば喜び悪しき子をば嘆くが如し。
 仏は一切衆生を哀れみて、良きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。
 良き地に、良き種を、まくかんが如し。構えて、善人にして、しかも念仏を修すべし。これを真実に、仏教に従うものという也。
「念佛往生義」

(訳)
念仏申せば極楽浄土に往生できる!ということで、
やってはいけない悪いことを平気でやって、
やらなくてはならないことをまったくやらないで、
念仏も頑張って申さないというのは、
仏教のあるべき掟に反することなのである。

たとえば、父母が子どもにかける慈悲の気持ちというのは、
よい子であっても悪い子であっても、
あたたかく見守ってなんとか育てようとするものであるが、
我が子がよりよく育ってくれたら喜ぶし、
我が子が悪いことをするようなら嘆いてしまうようなものである。

ちょうどそのように、阿弥陀仏は一切衆生を憐れんで、
よい人であっても、悪い人であっても、
へだてなく極楽浄土へと救いとるが、
衆生がよい人になってくれたら喜ぶし、
悪い人になってしまったら悲しんでしまうものである。

だから、よい土地によい種をまくように、
しっかり心に決めてぜひとも、よい人になろうとして、
さらに念仏申すべきである。

それが、本当に、仏の教にしたがう者と言えるのである。

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(ラスト)浄土真宗は、宿善ポイントをためないと救われない教えではありませ~ん!!

今回のシリーズのラストで~す。

【依頼者】

苦笑さん

こんにちは。続きです。


午後の休憩後からです。

至って堅きはという、固い石に、水で穴があく、そんな事は考えられない、だけれども、穴があいている石があるではないか。


そして蓮如上人の「如何に不信なりとも」の部分の話になりました。


不信の人とは、まだ方便が方便とわからない人、真仮を知らない人、これをいかに不信なりとも、と言われているんです。「聞其名号」の「聞」ときけない人も、ということです。

だから、蓮如上人も方便より真実、自力より他力にはいると言われているんです。

如何にまだ、強情我慢な石のような、すべてを撥ね付ける心を持っていても、どうすればいいって言われているのか?

「聴聞を心に入れて申さば」と言われています。

聴聞を心に入れてききなさい。

どうして聞けるのか?「御慈悲にて候間信をうべきなり」と言われています。

御慈悲とは、阿弥陀仏の慈悲、御慈悲によって信を獲られるんですよ。

阿弥陀仏のお慈悲とは何か?

この世界(縦の線の向こう)に出させてみせる。あの願いは18願ですよ。仏願とも言われていますけれど。

阿弥陀仏は48願をたてられているんですけれど、その中からただ一つ選びとられた目的の願、それが18願ですね。まず目的を明らかにせられたのが18願です。

その次に19の願を建てられ、20の願を建てられた。


この3つの願を衆生摂生の願と言われるんですね。

それで親鸞聖人は常に3願を教えておられるんですね。

その3つの願でも、まず18願にすべての人を絶対の幸福に助けると、約束されているんですね。


18願は「真」の世界、ここへ出してみせると約束されているのが18願なんですね。

死んだ方がましやと思うても生きなければならないのは、この世界に出る為なんです。

何の為に生まれてきたのか、何の為に生きているのか、まず目的をハッキリさせないといけない。

どんな手段があっつも、まず目的がわからなければならない。


阿弥陀仏が、オレが本願建てた目的は、すべての人を、十方諸仏が見捨てた極悪人を、絶対の幸福に助けるのが18願だ。

じゃあ、次にどうしたら絶対の幸福になれますか?と聞かれて勝手にお前行け、というんなら無責任ですよね。


諸仏の中の本師である阿弥陀仏がすべての人を絶対の幸福に救うといわれて、後はお前ら勝手にやれ。そんな目的出されて勝手に進めじゃぁ、どうしようもないでしょう。

そのお慈悲を蓮如上人あそこで、「如何に不信なりとも御慈悲にて候間」といわれているんです。あの「御慈悲」の中に、19願、20願となって現れとるんです。

阿弥陀仏のお慈悲わかってますか?阿弥陀仏のお慈悲があるから信が獲られるんです。


勝手にその道を行けといわれて、自力しか金輪際知らないものが他力世界に出ろといわれて、どうして出れますか?信を獲られるのは、阿弥陀仏のお慈悲によるんです。

そのお慈悲は何ですか?19願、20願となっているんです。


それで親鸞聖人は19願、20願を通って救われたと言われているんじゃないですか。教行信証には、3願転入以外説かれていないんです。


何で19願で善をやれと言われるのか?極悪人だとおっしゃっている阿弥陀仏が何で善をやれと仰るのか。

阿弥陀仏が本心で誓われている18願で、極悪人を救うと言われているから、あー悪いことやったら余計救ってくださるんだ、良いことせんでいいんや。2000畳いくと、良いことせーと余計に言うから行きたくないんや、という人もいる。そんな人どう思いますか?


私程悪いものいないんだ、といいながら腹底では全然思っていない。私は、そういう人には、極悪人と知らせる方法、他にあると思いますか?善を勧める他に、他に道ありますか?極悪人と知らせるのに、ある?ある?皆さん。そこがわかっていない。善を勧める他に、極悪人と知らせる方法ないんですよ。


仏願の生起を知らせる仕方は、善をやらせるしかないんです。一本道です。


阿弥陀仏が極悪人と十方衆生に知らせる方法、他にあるか、というんです。阿弥陀仏が19願建てられたのは本願の生起を知らせる為ですよ。20願を建てられたのも、本願の生起を知らせる為ですよ。目的は他にないんです。


19願、これは釈迦一代の教えです。20願、これは十方諸仏のお言葉、仏語ですよ。これは仏願の生起を知らせる為です。

それで、阿弥陀仏は勧めておられているんですよ。他に方法があれば、他(の願)を建てられているんですよ。

諸の善を真剣にやりなさい、これしか極悪人と知らせる方法ないんです。19願、20願は光に向かえという願でしょう。


教えに従わないというのは、19願20願に従わないからでしょう。

教えに従えば、外の雑縁さらになし、と親鸞聖人教えておられる。

「聞其名号」これは、1番話さなければならないことなんです。



最後はこんな風に終わりました。これで会長の誰でも参加出来た教学講義の内容は以上です。


よろしくお願いします。




【苦笑】

はいはい(苦笑)。

●一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、
心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、
御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。
ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。
『蓮如上人御一代記聞書』(193)

(訳)
「極めて固いものは石であり、極めて柔らかいものは水である。
しかしその柔らかい水が石に穴をあけることができるのである。
もしも心の底を徹していったならば、仏の覚りすら、
どうして成就することができないことがあろうか(いや絶対に成就する)」
という古い言葉すらある。

どれほど信心のないものであっても、聴聞を心に入れていくならば、
阿弥陀仏の慈悲が我が身に伝えられていくのであるから、
必ず信心を得ることができるのである。
ただひたすらに仏法は聴聞することに尽きるのである。
 
繰り返しになるけど、この言葉は、

★他力の救いは一念
★阿弥陀仏の慈悲が時間をかけて浸透してくる人もいる

この二つが全然矛盾してないことを示したものやで。



宿善ポイントをためないと救われない教えなら、

★他力の救いは一念
  ↑
こっちの方の教えとは、どのように整合性を取ればいいんですかいな(苦笑)。



~~~高●顕徹著『会●』第二集「信の一念(一)」より~~~

 先ず時尅の一念については『教行信証』信巻下の巻頭に
「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり。
 一念とは信楽開発の時尅の極促を顕わし、広大難思の慶心を彰すなり」即ち、真実の信仰には必ず一念がある。
 一念とは疑晴れて大満足の境地に開発したひとおもいをいい、盲者の開眼の一刹那地獄一定が極楽一定と転じた瞬間、煩悩具足が至徳具足と転じた一念、明来闇去闇去明来の一刹那、いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ亘った一念言説や思惟の及ぶところでない驚天動地、六種震動の一刹那をいう。
 しかし思慮分別を越えるといっても疑蓋無雑の信楽の開発する初起の信であるから無念無想なら開発とはいわれない。
 その自覚の初刹那を一念と説かれる。
 「本願一乗は頓極、頓速、円融、円満の教えなれば、絶対不二の教、一実真如の道なりとしるべし。
 専がなかの専なり、頓がなかの頓なり、真の中の真なり、円のなかの円なり」(『愚禿鈔』)頓ははやいこと、円は完全ということである。
 本願を信受した。
 とたんに完全に救われるということである。
 抜苦与楽、破闇満願は一念の信楽でたりるのだ。
 故にまた聖人は「極速円融の真詮」とも仰言って長い間かかって少しづつ諦得する信仰なら極速とはいわれないが聞即信の一念のはやわざだから極速といい、その一念で微盡の不足もなく大満足させられるから円融の真詮という。
 曇鸞大師は『論註』にこれを
「譬えば千歳の闇室に光若し暫らく至れば即ち明朗なるが如し。
 闇豈室になること千歳にして去らずと言うことを得ん耶」と教えている。
~~~高●顕徹著『会●』第二集「信の一念(一)」より~~~


~~~チ●ーリップ企画 【第12回】信楽は一念で獲得 より~~~
先ず、「時尅の一念」に就いてであるが、聖人はこう仰っている。

「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり、一念とは信楽開発の時尅之極促を顕はし、広大難思の慶心を彰すなり」 (教行信証)

ここで親鸞聖人の仰せになっていることを、易しく言うと次のようなことだ。

「阿弥陀仏の本願の『信楽』を、釈迦は成就文に『信心歓喜せんこと乃至一念せん』と説かれているのは、本師本仏と仰ぐ弥陀の本願の最も尊く優れているのは、一念の救いである」と言われているのである。

「一念の救い」とは、先ず、弥陀の救いは極めて速いということ。「名号」を聞即信と頂き破闇満願し、広大難思の慶心の身に救われるのは、分秒にかからぬ速さである。
だから聖人は「極速円融の真詮」とも弥陀の救いを言い、聞即信の一念だから「極速」、一念で大満足させられるから「円融の真詮」と仰っている。

なぜ、弥陀の救いは、こんなに速いのか。覚如上人は『口伝抄』に、その訳をこう記される。

「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」

平易に言うと、常に阿弥陀仏の救いの相手は、直前に死が迫っている無常迅速の人(十方衆生)だからである。もし三刹那かかる弥陀の救いだとすれば、一刹那後に死ぬ人を救うことはできないだろう。
だから阿弥陀仏の本願の最も優れて尊く大切なのは、「一念の救い」であり、「一念の救い」こそが、弥陀の本願の肝要であり至極の教えであると、釈迦や親鸞聖人は言われているのだと、覚如上人は仰っているのである。

中国の曇鸞大師という人は『浄土論註』に、
「譬えば、千歳の闇室に光もし暫く至れば、すなわち明朗なるが如し。闇あに室に在ること千歳にして去らず、と言うことを得んや」
と、例えで明来闇去 闇去明来、明かりが来たのが先か、闇が晴れたのが先か、弥陀の一念の救いの速さを教えていられる。
~~~チ●ーリップ企画 【第12回】信楽は一念で獲得 より~~~
 ↑ ↑ ↑
せっかく、昔は正しいこと【も】説いていたのに、
「宿善ポイントをためる」という「新教義」の導入で、
それも全く台無しになってしちゃいましたな(苦笑)。



浄土真宗は、宿善ポイントをためないと救われない教えではありませ~ん!!


宿善ポイントをためれない私達のために、阿弥陀仏が本願をお立てになられ、
「南無阿弥陀仏」のお念仏を与えてくださっているんやから、
 ↓

●善根なければ、此の念仏を修して、無上の功徳を得んとす。
余の善根多くば、たとひ念仏せずとも、頼む方も有るべし。
しかれば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、
本願をたのみ、念仏せよと、勧め給ヘリ。
経に、一たび名号を称ふるに、大利を得とす。
又すなわち、無上の功徳を得と、とけり。
いかにいわんや、念々相続せんをや。
しかれば善根なければとて、念仏往生を疑うべからず。
法然上人『念仏往生義』

※現代語訳は、Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?参照


その「本願の生起本末」を「聞」しなきゃダメだよん(苦笑)。
 ↓

●経に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは本願力廻向の信心なり
『教行信証』信巻

●「南无阿弥陀仏と申す六字の体はいかなる意ぞ」というに、「阿弥陀如来を一向にたのめば、仏その衆生をよく知ろしめして、救いたまえる御すがたを、この南无阿弥陀仏の六字に現したまうまり」と思うべきなり。
しかれば「この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をば助かるべきぞ」なれば、何の煩いもなく、もろもろの雑行、雑善をなげ棄てて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、二心なく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明を放ちて、その光の中に摂め入れ置きたまうなり。
これを即ち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとは申すなり、また不捨の誓約ともこれを名くるなり。
『御文章』3帖4通



最後にもう一度・・

浄土真宗は、宿善ポイントをためないと救われない教えではありませ~ん!!


以上

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(10)どの「阿弥陀仏」がこんな活動を強要するんや??

【依頼者】

ここで、御文章2帖目8通が提示され、説明がありました。


苦しんでおる人みて、そのまま見過ごせないのが仏という存在なんです。可哀想やな何とかしてみたいけど何とかならんなぁと見過ごせないのが仏なんです。その仏様、大宇宙にたくさんおられるんです。それがみんな一度助けようとされて、あんまりにも私達の悪が強くって、それで諸仏は泣き泣き見捨てざるを得なかった。これお釈迦様が至るところに説いておられるんです。

それを蓮如上人が「諸仏に捨て果てられたる~」と言われているんです。

全力出されたけれど、手におえなかった。私達の自力で何とかなるなら、諸仏の力で何とかなる、見捨てられませんよ。

これが仏願の生起を疑っておる心なんです。

だけど私達の心は至りて堅きは石で、どれだけ聞いても聞いても石に水かけとるようなもの、こんな石に穴があくかと思うんです。


本人が自分の事わからないんだから、三世の諸仏に見捨てられたって蚊に刺された程にも感じない。これが仏願の生起を疑っておる心というんです。


ここまでが、午後の休憩までの会長の話です。


よろしくお願いします。




【苦笑】

●この阿弥陀仏と申すは、いかやうなるほとけぞ、またいかやうなる機の衆生をすくひたまふぞといふに、三世の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくはんといふ大願をおこしたまひて、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、それ衆生の罪においては、いかなる十悪・五逆、謗法・闡提の輩なりといふとも、すくはんと誓ひましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまひて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまへるを、すなはち阿弥陀仏とは申すなり。
『御文章』3-1

つまり、阿弥陀仏はこういう活動を強要しませ~ん(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.
 ↑ ↑ ↑
こ~んな活動を強要する「阿弥陀仏」は、
名称は同じなんだけど、
親鸞聖人や蓮如上人が帰依した「阿弥陀仏」とは、
全く別の「阿弥陀仏」なのかもね(苦笑)。



では、また明日!!

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(9)「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」ですわ~。

【依頼者】

うまれた時から真実の人、一人もいないんです。みんな方便から真実に入るんです。その自力から他力に入ったのを、其の名号を聞いたとき、と言われているんです。

釈尊が本願成就文で教えられているのが、こう教えられているから、親鸞聖人は「聞というは衆生仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし」と言われているんです。


どこまで聞けば助かるのか?きけ、きけ、と仰るが、どこまできけば聞いた事になるんですか?

どこまでいったら聞いたという事になるんですか?その決勝点はあるんですか?

そのために親鸞聖人は、これを「聞」というと決勝点をハッキリと仰っているんです。疑いの心あることなし、と。

だから、どこで終わるんやと、ハッキリここで終わると、親鸞聖人言われている。疑いの心がなくなったときと。


何に対するどんな疑いですか?

何に対するどんな疑いの心か、といったら、仏願の生起本末と言われている。仏願の生起本末をきいて、これを疑う心がなくなったら。

仏願の生起本末とは何か、わかりやすい言葉でいうと、すべての人は極悪人である、だから必ず助けるというお約束です。
阿弥陀仏の本願、約束とはどんなことか、それについて仏願の生起本末とは何ですか?

「生起」とは誰のためにどんなものの為に本願を建てられたのかという事です。

善人なら仏願はいらなかった。絶対に助からない極悪人だった、だから本願を建てられたんです。これが本願の「生起」です。

すべての人は極悪人で、もし私が助けなかったら永久に苦しまなければならない者達だった。

もし歯が悪い人67億の全人類に1人もいなかったら歯医者はいないですよ。1人として歯が悪い人いないなら、歯医者さんはいならいでしょ。

すべての人は極悪人、因果の道理で必ず地獄いき。これが阿弥陀仏の本願の「生起」「本(もと)」です。

阿弥陀仏の本願はなぜ起こされたのか?「生起」があるんです。「本」があるんです。




【苦笑】

あ~ん?(苦笑)

●仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
 ゆゑに光明師(善導)のいはく(般舟讃)、「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」と。
『教行信証』信巻

「衆生の機」が「不同」であるために、
「仏教多門にして八万四」なんですけどね(苦笑)。



すべての人は極悪人である、だから必ず助けるというお約束
 ↑
これが「仏願の生起本末」ですか・・(苦笑)。



●それ、当流の安心のすがたは如何ぞなれば、先ず「我が身は十悪五逆五障三従のいたずらものなり」と深く思いつめて、その上に思ふべきやうは、「かかる浅ましき機を、本と助けたまへる弥陀如来の不思議の本願力なり」と深く信じ奉りてすこしも疑心なければ、必ず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなわち他力真実の信心を得たすがたと云うべきなり。
『御文章』2帖15通

と蓮如上人も仰っておられるわけやから、
「すべての人は」じゃなくて、
「我が身は」にした方がええと思うで。



つづく

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(8)「仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり」ですよん。

ブレイクも終わって、昨日の続き!

【依頼者】

苦笑さん

こんばんは。以下は午後からの内容です。


少し前置きがあり、会長は以下のように言いました。


午前中申した通り、阿弥陀仏に救われるにはどうすればいいか、という事について、こうすればいいとお釈迦様が言われたのが「聞其名号」というお言葉です。

聞く一つで救うと教えられているので、蓮如上人はただ仏法は聴聞に極まると言われています。

「聴」という字、これはきくという字、「聞」という字これもきくという字ですけれど全く違うんですね。

この「聞」は一念で阿弥陀仏の呼び声をきいたときに、救われるんですよ、という「聞」です。

それで「聴」、阿弥陀仏に救われるまで、これを「仮(け)」というんですね。救われるまでは何をしていても「自力」というんですね。

そして、ここまで(救われるまで)は、すべて方便と言われるんですね。そして、一念突破した時に、「真(しん)」「他力」「真実」というんですね。


ここまでが方便です。ここで他力になる。ここまでは、方便なんです。

ここで真実になるんです。

自力と他力、方便と真実の水際、これを真仮の水際といわれるんです。


会長はこのような話をしました。

そして、親鸞聖人の「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」を提示しました。

真仮を知らない、わからない、何が真やら何が仮やらわからない、この「聞」で、この一念で「仮」はどういうものであるか、「真」はどういうものであるか、ここでわかるんです。

真を知らない人は自分は仮だということもわからない、夢見とるときに、自分が夢みとるとわからない。あーっ、夢やったな、とわかるのは夢覚めたときです。「真」がわかったときです。

だから、「仮」におる時は真がわからないんですから、他力はわからないんです、自力もわからないんです。

いや、私は自力は自力だとわかりますよ、と思うでしょ?

あなたが思っている事は自力じゃないんです。この一念で自力がわかるんです。

他力をわからんとって、自力わかるん?だから、わからんのです。自力も他力もわからない。

それをわかったような気になっとるでしょ、私自力くらいはわかっとるよ、と。他力わかって初めてわかるんです。


真実わかってないものが、初めてわかるんです。方便が方便と知らされるのは真実が知らされたとき。

方便なんかいらんとか、あれは方便だとか、何が真実で何が方便か、真仮がわからないからわからない。両方わからないんです。


だから、恩徳讃の気持ちもわからないんだよ、と親鸞聖人が仰っているんです。

阿弥陀仏に救われるのに、方便なんていらない、方便なしにどうやって真実に入るんです。

「従仮入真」と教えられとるんです。




【苦笑】

ふ~ん。

●今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする。
覚如上人『改邪鈔』

というように教えられているものが、

どうして、

>「従仮入真」と教えられとるんです。

になるのかわかりませんけど、

まあ、それはともかく、

●仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
『教行信証』信巻

と親鸞聖人が仰っておられますから、

「『従仮入真』と教えられとるん」人は、

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.
 ↑ ↑ ↑
こういう活動をしてる人が、
「聖道の諸機」「浄土の定散の機」なのかどうか、

たまには、ちょっと冷静に考えた方がええと思うで(苦笑)。



つづく
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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