スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(7)「雨垂れの説法」が教えていること

【依頼者】

そこで蓮如上人がそういう事を仰有っているお言葉が「至りて堅きは石なり、至りて柔らかなるは水なり~」です。


と会長は話をしました。


そして、音羽の明栓の雨垂れの説法の話が出てきました。


この話で、だいたい午前中は終わりました。


続きは、また明日お送りします。よろしくお願いします。


【苦笑追記】

「雨垂れの説法」が以下の親●会関係サイトに書かれてましたので、
引用しておきます。
 ↓
浄土真宗親●会 射水市周辺地区の紹介 雨垂れの説法

>>>
2009年06月28日 | Weblog
今日は、高森顕徹先生から「本願成就文」についての講義を聞かせて頂きました。

今日のブログは、皆さんの予想通り、今回の講義でとりあげられました、「雨垂れの説法」です(^^)

昔、明詮という僧が真剣に仏道修行をやっていたが、三年たっても一向に魂の解決のメドがつかなかったので、
「オレは駄目な人間なのかも知れない。無宿善力及ばずといわれる。今はこれまで」
と、決心して善知識に永遠のおいとまを願って出た。
師僧は残念に思ったが、余りにも明詮の決意の程が堅いので慰留をあきらめ、それを許した。
しかしさすが永年苦楽を共に修行した師や法友と別れるのはつらかった。明詮は泣きながら寺を出た。
ところがその時、俄かに大雨が降って来たので、止むなく山門の下に腰を下し、雨の晴れるのを待っていた。その時、何気なく山門の屋根から落ちる雨脚を見ていた明詮は、雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がついた。
 こんな堅い石に、どうして、こんな穴があいたのだろう。まぎれもない。それは雨滴の仕業ではないか。このやわらかい水滴が、この堅い石に穴をうがったのか。何という驚くべき事実であろう。
そうだ、自分は二年や三年の修行努力でへこたれて断念したが、この水にも恥ずべき横着者であった。仏法の重さを知らなかった。後生の一大事を軽くみていたのだ。たとえ、水のような力のない自分でも、根気よく求めてゆけば必ず魂の解決が出来るに違いない。
と奮然として、その場を立った明詮は、水から受けた大説法を師匠に話し、深く前非をわびて努力精進して、後に音羽の明詮といわれる大徳になったのである。

 私達も、雨垂れに負けず、聞法を重ね、信を獲るところまで進ませて頂きたいですね(^^)
>>>


【苦笑】

結局この説法は、

★他力の救いは一念
★阿弥陀仏の慈悲が時間をかけて浸透してくる人もいる

この二つが全然矛盾してないことを示した「説法」なんですわ。



※以下の蓮如上人の言葉参照。

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、
心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、
御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。
ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。
『蓮如上人御一代記聞書』(193)

(訳)
「極めて固いものは石であり、極めて柔らかいものは水である。
しかしその柔らかい水が石に穴をあけることができるのである。
もしも心の底を徹していったならば、仏の覚りすら、
どうして成就することができないことがあろうか(いや絶対に成就する)」
という古い言葉すらある。

どれほど信心のないものであっても、聴聞を心に入れていくならば、
阿弥陀仏の慈悲が我が身に伝えられていくのであるから、
必ず信心を得ることができるのである。
ただひたすらに仏法は聴聞することに尽きるのである。


せやから、「聴聞」で「信心」が得られるように、
自ら積極的に環境を整えていくことが、
とっても大事で、


「そもそも善知識の能といふは、
 一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、
 ひとをすすむべきばかりなり。」
by.蓮如上人(『御文章』2帖11「五重義章」)


間違っても、これに反すること教えている、
「自称善知識」から「聴聞」したらダメよん。


やさしい浄土真宗の教え §8 なかなか信心獲得できない人のために・・(特に注3~6) を最低3回は読もう!


ではまた明日!!
スポンサーサイト

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(6)つまり「自他力廃立」に「この活動」はいらね~ということね(苦笑)。

【依頼者】

会長の話は続きます。

「聞」で私達救われるんです。聞いた一念で阿弥陀仏に救われるんです。


きいてさえしまえば、そのうちに(救われる)、そんなものではないんです。


「聞」は一念なんです。


親鸞聖人の教行信証の「一念というは時刻の~」が提示され、説明がありました。



其の名号を聞くというのは、一念です。

そういう一念こそが決勝点であり、すべての人が生まれてきた目的がここであり、すべての人が生きているのもここに向かってなんです。


政治、経済、医学も存在するのも、こけまで生かすため、この二千畳で話するのもここまで押し出すためであり、全人類のすべての営みは、ここを目指しておるんです。ここが「聞」です。(注:こことは、会長がよく書いている、縦と横の線の縦の線の部分を指します)


では、ここまで(縦の線)の道程があります。この道を「聴」と言われた。この道(横の線)を通ってあの世界(縦の線の向こう)にいくんですから、すぐのんで(南無阿弥陀仏の名号を飲む、一体になるという意味での発言)あそこには行けないんです。


初めから「聞」という人はいないんです。

「聞」ときかせるには、必ず「聴」がないといけないんです。これは阿弥陀仏のお計らいです。これを、仮より真というんです。


ここまでが自力です。ここで自力が廃って他力に入るんです。仮よりしか真に入れないんです。


生まれた時から、「真」という人はいないんです。


お釈迦様も七高僧方も、親鸞聖人も、みんな仮から真に入ったんです。これを自他力廃立というんです、と会長は話をしました。



自他力廃立の説明が少しありました。



ここに(縦の線の向こう)入ったら、ず~っと他力です。で、すぐさま「聞」に入れないんです。それを阿弥陀仏はわかっておられるんです。


如何に名号を「聞」ときかせるか、で阿弥陀仏のお力で「聴」をして「聞」と助けて下されるんです。これは阿弥陀仏のお仕事なんです。


「聴」も「聞」も同じきくだけれど、全然違うんです。仏法をきこうという気持ちが出てくるのは、阿弥陀仏のお力なんです。それで「聞」から「聴」が出てくるんです。




【苦笑注】

以下の親●会講師の方のブログに件の「図」がありましたので、引用しておきます。
 ↓ ↓ ↓
【朝のエクササイズ】仏教講師の千一夜(朝?)物語 [その394] 下の心に仏教を聞かせる より

昨日は「聴聞」の「聴」と「聞」は違うということだけを、最後に述べましたが、どのように違うのかと言いますと、

・「聴」は体の耳で、人(善知識…仏教を正しく教える先生)の言葉をキク
・「聞」は心の耳で、仏様の言葉(阿弥陀仏の呼び声)を「ハイ」とキク

ことなのです。

言葉を換えれば、耳できいて上の心が納得するのが「聴」。腹底に仏教をウンときかせたのが「聞」であります。

「聴」は重ねて重ねて何回もきかせて頂くことですが、「聞」は腹底できいた一念(アッと言う間もない時間の極まり)の早わざです。これを「聞即信の一念」(「信」とは“まことの心”を頂くこと)と言われ、このときに人生の目的が完成する(「平生業成」の「業成」)、達成するということなのです。


人 │聞     聴
生 │即
の法│信    ←私
目 ├───────
的鏡│の
達 │一
成 │念

(携帯で見ている人のために、昨日より横の線が短くてアンバランスですがお許し下さい)


ところが、下の心にウンと聞かせるのは、大変なことです。
そもそも、下の心があること自体、私たちにはなかなか分かりません。
ちょうど、何枚も布団をかぶってしまっているようなものだとたとえられます。
これは、仏教を真面目に聴かないと、見えてこない心なのです。

重ねて聴聞をしていきますと、無常(主には死の問題)と罪悪(自分の心にある欲・怒り・愚痴など)が知らされてきます。
「人間の実相」のたとえ話で述べたようなことが、“なるほどなるほど、言われてみればその通りだなぁ”と知らされてくるということです。

ところが、そのように知らされてくると、同時に「ああは言われるけど、頭では一応納得できるけど、ホントかなぁ」と疑う心や、「そんなはずはない」と反発する心。無常を無常と思わず、罪悪を罪悪と思わない心が見えてきます。
これが下の心と言われるものです。

その心が、「仏説まことでございました」と聞くのは、本当に大変なことです。




【苦笑】

つまり「自他力廃立」に「この活動」はいらね~ということね(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓
「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


「聞即信の一念」めざして、
これを読んで「南無阿弥陀仏」の意味を知った上で、
聴聞&念仏してね♪
 ↓ ↓ ↓
やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ


※聴聞、信前の念仏については、それぞれ以下の記事を参照。

・聴聞について・・
 §7 聴聞(何を「聞く」のか?)
 §8 なかなか信心獲得できない人のために・・

・信前の念仏について・・
 §15 所謂「信前の念仏」について


あと、「こういう話」は「聴聞」になりませんから~。
 ↓ ↓

【悲願の法城(親鸞会の集金ビデオ)再掲】より

~~~~以下引用~~~~
それねぇ、人にこう、あの、お金でもモノでもあげると、
人のもんになる風に思うでしょ?
これ全然違うんです。
あげた者のモノになるんですよ。
だから絶対損にならないんです。
ドンッ、ドン、あげたらいいんですよ。
ゼッッタイに、あの、損しないから。
だから喜んで捨てなさい、喜んであげなさいちゅうことで
喜捨と言われるんですよ。
喜ばにゃならんのですよ?
人に物をあげる。特に仏法に布施をする。
これはもう、イッチバンの善ですから、
だからその、もう喜ばにゃならんことなんですよ。

あの人は、あんだけしか出されんのに、私あの人よりも
何で余計出さにゃならんやろ、って
トンデモない話ですよ!そりゃ
喜んで・・・・出さなければならない。
みんな自分の物になるんですよ?
絶対、人のモンにならないんですよ。
で、それが自因自果ということですから、その、やはり
自因自果という因果の道理がワカランところから
食堂なんか行ったらね、千円でも二千円でも、安いね
ここの店は、って出しても、仏法のためになら
千円出すときに、あの人、五百しか出してらんのに、
私、ナンデ千円出さんな・・・
まるで損するように思うでしょ?
これ、ゼンッゼン因果の道理がワカッテナイ
っちゅうことですよ、仏法ワカッテナイっていうことですよ。
その人の信仰はその程度や、っちゅうことですよ。
絶・・・対、損にならないですよ。
その喜捨した、何ジュウ倍戻ってくるからっ。
私なんか、何百倍戻ってくるとりますよ。
そんなちょっとやそっとじゃないですよ。だから、
ヨロコンデ・・・あげればいいんですよ。
ヨロコンデあげなきゃならんことですよ。
ヨロコンデ捨てる・・・仏法のために
これが中々ワカランのやね。因果の道理が、
あの、ワカラナイ、ワカッテないから。
絶・・・対に損しないんですよ。布施をして。

もちろん、その布施をする相手ぇ間違ったらダメですよ。
これ、いつも、皆さん、あの、お聞きのとおり。
ちゃんとお釈迦様は、どーゆう相手に布施を、せよ
と教えておられるから。
こりゃいつも聞いておられるとおりですから。

だから・・・そのうえでですよ、布施をして施して
損ということは、絶対ないですよ。

家も田んぼも畑もゼンブ売って、仏法に布施してでも、
絶対に損はないです。
明日からどこで住めば、
そりゃアパートへ入りゃいいんです。
絶対に損はないです。

だから喜んでさせてもらわなければならないこと
なんですから、喜捨と言われるんですが
まるでね、税金かなんかとられるようなこと思っとったらね、
ゼンゼンそりゃ布施と違うんですよ。
これは、あの、喜捨でないんですよ。
税金ちゅうのは国家権力が、ね、無理やりに・・・・
奪い取っていくんですから、もし税金払わんものあったら
こりゃもう、酷い目に会わんにゃならんのやから、
それが嫌ややで、仕方っ無しに出しとんのが税金なんだで。
布施というのは喜捨というのはそんなもんでないんですよ
・・・・・・・・・なっ、国家権力っというもの、そういうものに
恐れて出すんのと違うんだから。わが身のために出すんですから
自分が、けっ、自分がよい結果を得るために
種を蒔くんですから・・・・種蒔くところが無かったらね、
大根もニンジンもできてこないんやからね、
畑へ感謝しなきゃならないですよ?
いくら大根の種持っとったってね
蒔く畑が無かったらね、大根とれねぇんだから・・・・・
私たちは最高の仏法という宝も、タカッ、
仏法というハタケ持っとるんでしょ?
その仏法というハタケに種を蒔くんですよ。
・・・・そしてそのハタケからできてきたものゼンンンブ、
自分のもんになるでしょ
ハタケのもんにならないんですよ
・・・・・・・・・・ここがまるでね、ハタケへ種蒔くと、
その、種も、その種からできてくる大根もニンジンも
みんなハタケのもんになるように思っ、思うからね。
・・・こりゃ、全く間違いで、因果の道理、いわゆる自因自果
・・・これがゼンゼンわかってない、信じられてない、ということですよ。
・・・絶対損はないですから
・・・・ドンドン、ドンドン、仏法のために財施、喜捨すれば
するっ、ほどいいんです。大変に幸せなことなんです。
得するヒトは、ね、幸せになるヒトは、そうするヒトなんです。
これが善因善果自因自果。
その逆が悪因悪果自因自果ですよ。
欲ばっかりして、ね、出すのは、仏法のために・・・
舌出すのもイヤやと。そんんなことしとるから
ダンダン、ダンダンお金も来ないし、物にも恵まれないし、
全部詰まってくるんですよ。
お金にも物にも恵まれたかったならば・・・ドンッドンッ、
喜捨をすることです。布施をすることです。
そうすれば全てに恵まれるから。
それをね、もう、出来るっだけ仏法のために
出さんように、出さんように、ね
それで、なにもかも恵まれないんですよ。・・・・・・・・・・・・・
その考え方を、ね、ヒックリ返さなかったらっ。
・・・・・・・・・それがそのね、仏法の根幹である
因果の道理をどれだけ、あの、わかっているか、
信じているか、ということなんですよ。
だから信仰が進めば、必ず、進めば進むほどそうなるんですよ。


まぁ、この方だけのあれに答えておられませんから。
「御喜捨の心掛けと因果の道理について、聞きたい、今一度聞きたい」
ということで、今こう話しとるんですよ。

「収入に対して計画を立てなかなか喜び喜びさせていただくことが」
これね、計算しとったらもう絶対出せないですよ、仏法に。
・・・・これだけ出したら、あとこうなってこうなって、こりゃ足らんぞ。
これだけ余ると、余っただけで大体こうかと

そんんなの、アカンですよ。

何しろね、そういう計算を捨てるの!
計算を捨てさせんの。
そして、因果の道理のみを信じるわけ。

こんな計算しとるからね、絶対ダメなんだ。
余って出るはずねぇもん。
余ったら全部銀行やっちょる。(聴衆笑い)
銀行はこれで持ってくるならもういわんからね集めたろうかね。
んなもん、どうして仏法出すカネが出てくるんや
計算しとったら。
そんなことないドンドン、御喜捨しなさい。ドンドン、
あの、布施をしなさい。
それはだぁ~れのモノにもならないんです。
アンタのモンになるんです。結果は。

あのぉ~、みなさんが財施をせられたのは
ワタシのもんになるなんかってね、
クダラン心配しなさんな。(聴衆笑い)
私は倍にして出しとるから。
みん~な、出したアンタのモノになります。
私が布施をしたらワタシのモノになるんです。結果は。
アンタらの布施したモノを私が拾ったれっていうたら、
私がね、ヒン、貧乏になるだけです。
出す人が豊かになるんです。
出せば出すっほど豊かになっていくんです、し、
幸福になるんです。
そこ入れりゃ、入れるっほど不幸になるんです。
そういうことです因果の道理ってのは。

だから「収入に対して計画を立てる」

立てなさんなこんなモン(聴衆爆笑)

なにしろ、喜んで出しなさいっ、ねっ。アンタね、
幸せを欲しかったら出しなさいっ
ということです。

私はね、世間のヒト見とっと、ほんとにね、
なんと気の毒というか、ね、ちょっ、大根が出ん大根が出んっちゅうに。おい、蒔いたか種?(聴衆笑い)
ゼンッゼン、大根の種、蒔いた、蒔かんとって、
大根が出ん、大根が出ん、言うとんねん

キチガイかい!ってオマエ

畑行ってね、まだ大根が出ん、まだ大根が出ん、
言うとんねん
何時タネ蒔いたんやオマエ、何も蒔いとらん
蒔かんモンが出るかっちゅうの!
蒔きなさい、必ず出てくるから。人に施しなさい。
人に親切しなさい、必ず恵まれるから。
逆にはならんのだから。アンタのために蒔くんだで。
アンタのため、自身のために出すんだて。
そういうことがね。あの因果の道理ということです。

いくらそういうてもね、ん~、なこと言うたって中々ちょっ、
計画を立てんとおれるかとそん~なこと言う、思っとる
もんバッカリだから、貧乏なもんバッカリなんだわ。
苦しんどるもんバッカリなんだわ。
私の言うとぉ~りにやってごらん。
因果の道理に・・・従ってやっててごらん。
みんな幸福になるんです。
それ、やるかやらんかダケです。
信ずるか信じないかのダケです
信じて実行するかしないかダケです。
私はやっただけっす。そら私のためです。ね
~~~~以上引用~~~~


残念!!

つづく

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(5)仏教では「聞」と「信」は違う意味です。

昨日のつづき

【依頼者】

苦笑さん

こんばんは、昨日の続きです。


蓮如上人御一代記書の「至りて堅きは石なり、至りて柔らかなるは水なり。水よく石を穿つ。

途中省略します。

只仏法は聴聞に極まるものなり。」

のお言葉が根拠に出て来て、会長の話は続きました。



只仏法は聴聞に極まるこれは、親鸞聖人も教えておられますし、遡れば、お釈迦様の其の名号を聞いて、が根拠です。


聞く一つだ、「聞」の一字、聞くという一字でハッキリ教えられているんです。


正信偈でいうんなら親鸞聖人どこに仰っているか。

聞信如来弘誓願、ここに仰っています。

説明がありましたが、会長の特に怪しい発言が出てきました、以下です。

仏教では「聞」も「信」も同じ意味です。




【苦笑】

あ~ん?(苦笑)

仏教では「聞」と「信」は違う意味です。
(もちろん密接な関係はあるけどね)

 ↓ ↓ ↓

●サンスクリット文『無量寿経』願成就文

ye kecit sattvAs tasya 'mitAbhasya tathAgatasya nAmadheyaM
Sr.n.vanti,

SrutvA cAntaSa ekacittotpAdam apy adhyASayena prasAdasahagatam
utpAdayanti,

sarve te 'vaivarttikatAyAM saMtis.t.hante 'nuttarAyAH samyaksaMbodheH.

(訳)およそいかなる衆生であっても、彼のアミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。


●『無量寿経』の願成就文

本願成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。 かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。
(『教行信証』信巻に引用された『無量寿経』の願成就文)


●『無量寿如来会』の願成就文

『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志訳]「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。
(『教行信証』信巻に引用された『無量寿如来会』の願成就文)


これを、親鸞聖人は【「聞」→「信心」】と解説されてます

●経に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは本願力廻向の信心なり
『教行信証』信巻

「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり、また「きく」というは、信心をあらわす御法なり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。
『一念多念証文』


「信受本願(信楽を獲る)」【因】と 「即得往生(不体失往生)」【果】の関係と同じで、
親●会は時間を介在しない因果関係を勝手にイコールにする傾向があるのよね(苦笑)。

ちゃんと【「聞」→「信心」】なってるものは、
勝手に【「聞」=「信心」】にしちゃだ~め(苦笑)。



つづく

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(4)だから聴聞&念仏しろよ!!

【依頼者】

南無阿弥陀仏についての説明が続きました。


大宇宙の数えきれない仏様がいや~すごい南無阿弥陀仏だと誉められる、南無阿弥陀仏であったな、と聞いた時です。そう聞いた時を「其名号」というんです。本当だったなぁと聞いた名号。それを「其名号」というんです。

と会長は言いました。


今度は「聞」という事をよく知らねばならないんです、と話は続きます。


この、其名号を聞けという「聞く」というところから聴聞に極るという教えが出てくるんだというのは、この前お話したんです。



まだまだ続きますが、続きは明日お送りします。


【苦笑】

だから聴聞&念仏しろよ!!

そんでもって、やっぱこういう活動は特にせんでもエエね(苦笑)。
 ↓
「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


あと、日々の「南無阿弥陀仏」のお念仏一つをとってみても、
単に「お礼」といわれるだけで、
「お礼」でもないのに、毎日漫然と称えていたものと、

「南無阿弥陀仏」を口にする、一声一声に、
阿弥陀仏に帰依していこうとする「私」と、
私に常に働きかけてくださっている阿弥陀仏を感じていこうとするお念仏では、
同じ「南無阿弥陀仏」の一声でも、大きな違いがあるんやから、

これを読んで「南無阿弥陀仏」の意味を知った上で、
聴聞&念仏してよね。
 ↓ ↓ ↓
やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ





※聴聞、信前の念仏については、それぞれ以下の記事を参照。

・聴聞について・・
 §7 聴聞(何を「聞く」のか?)
 §8 なかなか信心獲得できない人のために・・

・信前の念仏について・・
 §15 所謂「信前の念仏」について



では、また明日!!

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(3)だから宿善ポイントはいらね~んだろ!!

【依頼者】

そこから、阿弥陀仏の本願の説明になりました。

すべての人は極悪人だけれど、必ず絶対の幸福に助けるというお言葉です。ところが、どうしたら助かるのか?がどこ読んでもわからんのです。

阿弥陀仏がどうしたら助かると仰っているのかがハッキリわからない。その事について、お釈迦様が、こうすれば助かるよ、と仰っているよ、と私達に教えておられるのが、本願成就文なんです。

と会長は言いました。


そこから、お釈迦様が阿弥陀仏がどうすれば助けると言われているのかについて教えられたのが「聞其名号」です、という話になりました。


「其名号」とはいいますのは、南無阿弥陀仏の事です。漢字六字ですから、六字の名号と言われます。

御文章の5帖目13通の根拠が出てきて、そんな尊い素晴らしい宝と思えないだろう。お釈迦様が一生涯教えられた素晴らしいものだとは思えんだろう。

実は、南無阿弥陀仏の素晴らしさ一つを解かれたのがお釈迦様なんです。


あれっ、さっきは阿弥陀仏の本願一つを教えられたと言わなかったかと思うかもしれません。

実はイコールなんです。阿弥陀仏の本願=南無阿弥陀仏なんです。

唯説弥陀本願海と、唯説南無阿弥陀仏と書かれても意味は全く一緒なんです。これ一つ覚えて下さい。




【苦笑】

だから宿善ポイントはいらね~んだろ!!

オイラが解説した通りでOKなわけや!!
 ↓ ↓ ↓
やさしい浄土真宗の教え §17 阿弥陀仏の本願の行
Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?


これを読んで「南無阿弥陀仏」が何かを勉強して、聴聞&念仏してね。
 ↓ ↓ ↓
やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ


そんでもって、こういう活動は特にせんでもエエで(苦笑)。
 ↓
「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


つづく

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(2)それは、『正信偈』からは言えませ~ん(苦笑)。

【依頼者】

ここで阿弥陀仏とお釈迦様の違いの説明がありました。


その中で、会長は、お釈迦様が阿弥陀仏の弟子であるとわかる親鸞聖人のお言葉を提示しました。

正信偈の「如実所以興出世唯説弥陀本願海」です。

そして、お釈迦様が弟子でなければ、阿弥陀仏の本願一つ教え続けられる事は考えられない事ですから。

弟子は先生の心を伝える事が仕事ですから、ハッキリて釈迦は阿弥陀仏の弟子だったとわかります。

と会長は言いました。


【苦笑】

あ~ん?(苦笑)

●「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」といふは、釈尊出世の元意は、ただ弥陀の本願を説きましまさんがために世に出でたまへり。五濁悪世界の衆生、一向に弥陀の本願を信じたてまつれといへるこころなり。
『正信偈大意』

と蓮如上人が解説してくださっているように、
挙げてくれた『正信偈』の言葉は、
釈尊の出世の本懐が「阿弥陀仏の本願を説くこと」であったことはわかるけど、


>お釈迦様が阿弥陀仏の弟子であるとわかる親鸞聖人のお言葉

わかりませ~ん(苦笑)。


つづく

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(1)本願成就文は本願文の解説じゃね~よ!!

【依頼者】

苦笑さん

こんばんは。今日の教学講義は、以下の質問についてでした。

前回の教学講義で、本願成就文の「聞其名号」の「聞」から聴聞がでてくると教えて頂きました。これは、「聴」は「聞」からでてくるということは、どうしたら救われるのか教えられた三願転入の教えは「聞」から出てくる、という事で宜しいでしょうか?

という質問からでした。

これ一つに1日話がありました。

会長は以下のように始めました。

質問がわからなければ、答えてもわかるはずがありませんので、まず、この人はどんな事を尋ねていますか?

ここで、会長は弘宣部長に話をふり、少しイジメていました(笑)


聞其名号は、本願成就文というものの中に出ています。本願成就文といったら何?阿弥陀仏の本願のわからない事を解説されたのが、本願成就文のお釈迦様のお言葉です。



【苦笑】

>阿弥陀仏の本願のわからない事を解説されたのが、本願成就文のお釈迦様のお言葉です。

でた~!
親●会でしか通容しない、ヘンテコドグマ~!!(苦笑)

もう何回もレクチャーしてることやから、改めて繰り返さへんけど、
元親鸞会西学友部員君(飮み友達)がツッコミ入れてくれてるから、
これを読んで勉強して、二度と寝ぼけたヘンテコドグマをまき散らさないでね(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓
十八願成就文は十八願の解説?(1)やさしい浄土真宗の教え §2 極楽浄土に生まれるためのシステム(特に注3)
→基本、「願成就文・・・仏の本願の成就したことを説いている経文」だよね(苦笑)。

十八願成就文は十八願の解説?(2)やさしい浄土真宗の教え §1 「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」(特に注3)
→得意の断章取義で「横超」の意味を捏造しちゃダメよん(苦笑)。

十八願成就文は十八願の解説?(3)
→「どうすれば助かるのか?」は、本願文でわかるっちゅうねん!!(苦笑)

十八願成就文は十八願の解説?(4)「本願成就文」で「わかる?」「わからない?」(苦笑)
→「至心に廻向したまへり」と読まはったのは、親鸞聖人からですから、
 『こんなことが知りたい3』に基づいて、『教学聖典』を修正してよね(苦笑)。

十八願成就文は十八願の解説?(5)
→「至極」が「解説」って意味にはならじゃん!!

十八願成就文は十八願の解説?(6)
→「信心」と「名号」を切り離して考えちゃダメなんだよ!!

十八願成就文は十八願の解説?(7)
→「若不生者不取正覚」の「生」が「浄土に生まれる」ちゅうのは、
 もうわかってくれたよね(苦笑)。



あと、『尊号真像銘文』を読みますと、
「本願成就文は本願文の解説」というヘンテコドグマに基づく、
親●会の更なるヘンテコドグマの大間違いが一発でわかります(笑)。
 ↓ ↓ ↓
~~十八願成就文は十八願の解説?(7)コメント覧より~~
4つのことは、全部、「尊号真像銘文」の親鸞聖人の解説を読めば、分かると思います。

○どうすれば助かるのか判らぬ。
→この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。

○自分でおこす信心か、他力より賜るものか判らぬ。
→この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。

○信心が正因か念仏が正因か判らぬ。或いはその二つか。
→如来より御ちかひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。

○若不生者の「生れる」の意味がわからぬ。
→「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
~~十八願成就文は十八願の解説?(7)コメント覧より~~


とりあえず『尊号真像銘文』は読んでよね(苦笑)。


つづく

Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?

Q。
結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教える、
親●会は間違いということでしょうか?


A。
「三願転入」は、あくまでも親鸞聖人における「個人の体験」ですので、
「教え」として「全員がやらなきゃダメ!」というのは、間違いですね。

ただし、

「過去世の善行の結果として、現在人間とし生まれ、
更には、仏法に出会え、阿弥陀仏の本願にも出会えた!」

という意味で、過去世も含めて「全員がそういう道を通ってきた」
というのは言ってもOKだと思います。(注1)

でも、既に阿弥陀仏の本願に出会っている人に対して、
「宿善ポイントをためないと阿弥陀仏の本願に出会えない!」とか、
「宿善ポイントをためないと阿弥陀仏の本願を信じることはできない!」
みたいなことを言うのはおかしいですね。

私達が、宿善ポイントを貯めるようなことができないことをご存じで、
阿弥陀仏は本願をお立てになられて、釈尊が教えを説いているわけであり、
だからこそ、阿弥陀仏の本願のままにお念仏申す人になることが、
勧められているわけですからね。(注2)

【まとめ】
 1、「三願転入」を「教え」として「全員がやらなきゃダメ!」というのは、間違い。
 2、「三願転入」を、過去世も含めて「全員がそういう道を通ってきた」というのはOK。
 3、既に阿弥陀仏の本願に出会っている人に対して、
 「宿善ポイントを貯めないとだめ!」みたいなことを言うのはおかしい。
 4、善ポイントを貯めるようなことができない私逹のために、
  阿弥陀仏が本願を立て、釈尊が教えを説いている。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 法然上人「登山状」

我が朝に、仏法の流布せし事も、欽明天皇、雨の下をしろしめて十三年、
みづのえ申の歳、冬十月一日初めて仏法渡り給いし。
其れより先には、如来の教法も流布せざりしかば、菩提の覚路、未だ聞かず。
ここに我ら、いかなる宿縁にこたえ、いかなる善業によりてか、
仏法流布の時に生まれて、生死解脱の道を、聞くことを得たる。
しかるを今、会いがたくして、会うことを得たり。

(訳)
わが国に仏法が普及したのは、欽明天皇が統治されて十三年目、
みずのえさるの年、冬の十月一日に仏法が初めて伝来したからである。
それ以前には、釈尊の教えも布教していなかったので、
覚りを開くための道というのは、いまだに開かれていなかった。
今ここに私達は、どのような過去世からの因縁によって、
またどのような過去世における善い行いによって、
仏法が普及している時代に生まれて、
苦しみの世界から解脱することができる教えを、
聞くことができたのであろうか。
今、会いがたい仏法に会うことができた。


注2 法然上人「念仏往生義」

善根なければ、此の念仏を修して、無上の功徳を得んとす。
余の善根多くば、たとひ念仏せずとも、頼む方も有るべし。

しかれば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、
本願をたのみ、念仏せよと、勧め給ヘリ。

経に、一たび名号を称ふるに、大利を得とす。
又すなわち、無上の功徳を得と、とけり。

いかにいわんや、念々相続せんをや。
しかれば善根なければとて、念仏往生を疑うべからず。

(訳)
これまで様々な善根を積んでこなかったならば、
このお念仏を申して、この上ない功徳を得るべきなのである。
それに対して、お念仏以外の善根を沢山積んで来た人々は、
たとえお念仏を申さなくても極楽浄土へ往生できると、
自分の力で行った念仏以外の善根をあてにしてしまうものなのである。

だから善導大師は『往生礼讚』において、
「自分はこれまで善根をわずかしか積んでこなかった者であると信じて、
阿弥陀仏の本願を信じ念仏申しなさい」
とお勧めになられたのである。(※)

『無量寿経』には、
「ひとたび阿弥陀仏の名号を称えたならば、大いなる功徳を得る。
すなわち、この上ない功徳を得る」(※※)
と説かれている。

まして、一声一声のお念仏を絶やすことなく続けたならば、
その功徳がこの上ないものであることは言うまでもない。

だから、これまで善根を積んでこなかったからといって、
お念仏申した者が極楽浄土へ往生することができることを疑ってはならない。


※ 『往生礼讚』所説の「二種深信」を述べられたものである。

二には深心、すなわちこれ真実の信心なり。
自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知し、
今弥陀の本弘誓願、名号を称すこと、下、十声一声等に至るに及ぶまで、
定んで往生を得と信知して、乃至一念も疑心有ること無し。故に深心と名づく。

※※『無量寿経』流通分を述べられたものである。

やさしい浄土真宗の教え §17 阿弥陀仏の本願の行

§17 阿弥陀仏の本願の行

ここで大切なことを確認しておくけど、

親鸞聖人の所謂「三願転入」のうちで、
「万行諸善」「要門」に当たる『観無量寿経』において、
最終的に釈尊がお勧めになられたのが「念仏」で、(注1)

されにそれを善導大師が解釈されて、

 阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、
 釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、
 衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。

と述べられ、(注2)

その教えを法然上人も受け継いでおられるちゅうことは、
忘れてもらっちゃアキマヘンね~。(注3)

そして、法然上人が『選択集』最後の十六章に書かれた、
実践的結論と言える、

 速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば・・

1)「聖道門」「浄土門」という二種の優れた法門の中で、「浄土門」を選んで入る。
2)「正行」と「雑行」の二行の中で、「正行」を選んで実践していく。
3)「正定の業」と「助業」の中で、「正定の業」(阿弥陀仏の名号を称えること)を專らに実践していく。

という言葉は、(注4)
親鸞聖人も主著『教行信証』の行文類に引用され、

  あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。
  大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

とコメントされておりまっから、
浄土真宗においても従わなきゃアキマヘンわね。(注5)


そんじゃあ、
なんで阿弥陀仏は十九願&二十願を立てられたのか?
ってことになるんやけど、

★阿弥陀仏の十八願を信じようとしない人を導いて、
 十八願の世界に入れるため。

に決まってますわね。

いかなる行も及ばない末代の衆生のために、
阿弥陀仏が名号を作ってくださって、
それを受け取った人を必ず救うと言ってくださっているのに、(注6)
それを信用しないで、

「何かせなアカンやろ!」

と思ってしまう、阿弥陀仏の御心がわからない衆生・・。

そんな衆生にも心を向けて、なんとか十八願の世界に導きいれようとした、
「巧みな手段」(方便)の願が、十九願&二十願なわけですわ!!(注7)

せやから「本意の願」である十八願の世界に、
一刻も早く入れるようにせなアカンのですよん。(注8)

そのために善知識がお勧めになられているのは、
聴聞&信前の念仏なわけやから、
それを最優先にしてよね。(注9)

それが、できなくなるような環境なら、
速攻で脱出せなアキマヘンで~!(注10)(注11)


【今日のまとめ】
 1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
   阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
   阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
   親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。
 2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
   この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。
 3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である
   十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。
 4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
  「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。
 5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
   それができなくなるような環境からは脱出すべきである。


※次回から、「まだ納得できない人」のために、
 質疑応答形式で更に掘り下げた解説しちゃうよん。
 脊髄反射でショウモナイコメントしたら、恥ずかしいことになるで~(笑)。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 詳しくは以下参照。

『観無量寿経』において、釈尊は定散二善を述べた終わった後、流通分において阿難に、

●汝好く是の語を持て、是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。

(訳)
あなたはこの語をよくたもちなさい。
「この語をたもて」というのは、無量寿仏の名号をたもてということである。

と仰っている。


注2 詳しくは以下参照。

 善導大師は『観経疏』において、上記の釈尊の教えを以下のように解釈されている。

●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
 確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)


注3 法然上人は上記の善導大師の言葉を『選択集』(第12章)に引用され、また同じく『選択集』で以下のように述べておられる。

 もし仏像を造ることや堂塔を建立することを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 お金のない貧しい者は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、裕福な人は少なく、貧しい人は甚だ多い。

 もし智慧にすぐれ才能に溢れていることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 愚かで智慧のない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、智慧のある人は少なく、愚かな人は甚だ多い。

 もしお経に書かれた教えを、沢山見たり聞いたりすることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 少ししか見たり聞いたりしていない人は、
 きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、沢山聞いた人は少なく、
 少ししか聞いていない人は甚だ多い。

 もし戒や律をきちんと守ることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 戒を破ってしまったり、もともと戒のない人は、
 きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、戒を守れる人は少なく、戒を破ってしまう人は甚だ多い。

 この他の念仏以外の諸行に関しても、これに準じて知るべきである。
 以上のことから、これらの念仏以外の諸行をすることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 往生できる人は少なく、往生できない人は多いだろう。

 だからこそ、阿弥陀仏は過去において法蔵比丘であった時に、
 平等の慈悲にうながされて、あまねく全ての人々を救うために、
 仏像を造り堂塔を建立する等の念仏以外の諸行を、
 極楽浄土に往生するための本願にせずに、
 ただ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す一行だけを本願とされたのである。
(第三章)


注4 『選択集』十六章

1)
 それ速やかに生死を離れんと思わば、
 二種の勝法の中に、
 しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選びて、淨土門に入(い)れ。

(訳)
 速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば、
 二種の優れた法門の中で、
 しばらく聖道門をとどめておいて、浄土門を選んでそれに入りなさい。

2)
 浄土門に入(い)らんと思わば、
 正雑二行の中に、
 しばらく諸々の雑行を抛(なげす)てて、選びて正行に帰すべし。

(訳)
 浄土門に入ろうと思うのであれば、
 正行と雑行の二行の中で、
 しばらくさまざまな雑行をなげうって、正行を選んでそれに帰しなさい。

3)
 正行を修せんと思わば、
 正助二業の中に、なお助業を傍(かたわら)にして、選びて正定を專(もっぱら)にすべし。

 正定の業というは、すなはち、これ佛の御名(みな)を称するなり。
 名を称すれば必ず生まるることを得(う)。
 佛の本願によるが故に。
『勅伝』巻十八、「選択集」第十六章(昭法全三四七頁)

(訳)
 正行を行おうと思うならば、
 正定の業と助業の中で、さらに助業をわきにおいて、正定の業を選んで專らに行うべきである。

 正定の業とは、すなわち阿弥陀仏の名号を称えることである。
 阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず極楽浄土に往生することができる。
 それは、阿弥陀仏の本願によるからである。


注5 親鸞聖人は、「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。

 三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。
 ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。
 いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。
 真心はすなはちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。
 なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、
 仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、
 願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。
 いままさに一心一異の義を談ぜんとす、まさにこの意なるべしと。
 三経一心の義、答へをはんぬ。
(『教行信証』化身土巻)

しかし、この「他力の信心」と善導大師・法然上人・親鸞聖人がお説きになられている「念仏」が切り離して考えられないものであることは、既に述べた通りである。

詳しくは、§14「信心」と「念仏」参照。


注6 例えば以下の法然上人の言葉を参照。
 
 酬因感果(しゅういんかんか)の理(ことわり)を、
 大慈大悲の御心のうちに思惟して、
 年序そらにつもりて、星霜五劫におよべり。
 しかるに善巧方便(ぜんぎょうほうべん)を巡らして、思惟し給えり。
 しかも、我別願をもて浄土に居(こ)して、
 薄地低下(はくじていげ)の、衆生を引導すべし。
 その衆生の業力によりて生まるるといわば、かたかるべし。
 我、すべからく、衆生のために永劫(ようごう)の修行をおくり、
 僧祇(そうぎ)の苦行を巡らして、万行万善の果徳円満し、
 自覚覚他の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、
 その成就せんところの、万徳無漏の一切の功徳をもて、
 我が名号として、衆生に称えしめん。
 衆生もしこれにおいて、信をいたして称念せば、
 我が願にこたえて、生まるる事を得べし。
『勅伝』巻三十二、「登山状」(昭法全四二七頁)

(訳)
 阿弥陀仏は、「どうすれば仏になることができるだろうか」という理論を、
 大いなる慈悲の御心でもって考えているうちに、
 年月はいつの間にか過ぎていき、五劫という途方もない時間が過ぎた。
 そして衆生の能力や理解を判断して、巧みに教え導こうとお考えになられた。
「この私は、私だけの特別の願を立てて浄土に住して、
 何の取り柄もなくもがき苦しんでいる衆生を、導いていこう。
 もしも、そのような愚かな衆生が、自分で行ったよい行いの力によって、
 極楽浄土に生まれるというのであれば、それは難しいであろう。
 だからこそ私は、当然のこととして衆生のために、
 果てしない時間修行を行い、無数の苦行を積んで、
 ありとあらゆる修行・善行の結果として得られる功徳を獲得し、
 自ら覚り、他を覚らせるための仏道を極めて、
 その結果完成した、ありとあらゆるけがれなき全ての功徳を、
 私の名号に込めて、衆生に称えさせよう。
 だからもしも衆生が、私のこの本願を信じて、私の名号を称えたならば、
 私の誓願の通りに、極楽浄土に生まれることができるであろう。 」


注7 「方便」(UpAya.ウパーヤ)は、「近づく」「到達する」という意味の動詞から派生した名詞で、「仏の覚った真理に近づく手段・方法」のことである。
 仏の覚ったものは「真理」であるが、その真理に人々を導こうとして説かれる教えや方法は、それ自体「真理」そのものではない。
 なお、「自分の目的実現のためには他人にうそをつくことも仕方ない」という意味で、「うそも方便」という言葉があるが、「方便」は本来、仏教語であり、そこには「嘘」とか「虚妄」という意味は存在しない。


注8 親鸞聖人が編纂された法然上人の遺文集である『西方指南抄』所収の法語である「十七箇条御法語」には、以下の記述がある。

●第十九の願は諸行之人を引入して念仏之願に帰せしめむとなり。
『昭法全』 p.470

また、『安心決定鈔』の冒頭に以下の記述がある。

●浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。
 弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。
 余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。

この書物は著者は不明であるが、第8代宗主蓮如上人の指南によって本願寺派では聖教とみなされている。


注9 聴聞、信前の念仏については、それぞれ以下の記事を参照。

・聴聞について・・
 §7 聴聞(何を「聞く」のか?)
 §8 なかなか信心獲得できない人のために・・

・信前の念仏について・・
 §15 所謂「信前の念仏」について


注10 以下の法然上人の言葉を、勝手に改変しないでそのまま受け取るべきである。

 現世を過ぐべき様は、念仏の申されんかたによりてすぐべし。
 念仏の障りになりぬべからん亊をば、厭い捨つべし。
 一所にて申されずば、修行して申すべし。
 修行して申されずば、一所に住して申すべし。
 ひじりて申しされずば、在家になりて申すべし。
 在家にて申されされずば、遁世して申すべし。
 ひとり籠もり居て申されずば、同行と共行(ぐぎょう)して申すべし。
 共行して申すされずば、ひとり籠もり居て申すべし。
 衣食(えじき)適(かな)わずして申されずば、他人に助けられて申すべし。
 他人の助けにて申されずば、自力にて申すべし。
 妻子も従類も、自身助けられて念仏申さん為なり。
 念仏の障りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。
 所知所領(しょちしょりょう)も、念仏の助業ならば大切なり。
 妨げにならば、持つべからず。
『勅伝』巻四十五、「十二問答」


(訳)
 この世を生きていく方法は、お念仏が申せるように過ごしなさい。
 お念仏の妨げになると思われることは、やめなさい。

 一カ所に定住しながらでは念仏が申せないのであれば、諸国を行脚しながら申しなさい。
 諸国を行脚しながらでは念仏が申せないのであれば、一カ所に定住して申しなさい。

 出家者だから念仏が申せないというのであれば、在家者になって申しなさい。
 在家者だから念仏が申せないというのであれば、世俗を離れて申しなさい。

 一人でひきこもってでは念仏が申せないというのであれば、
 志を同じにする仲間(同行)と一緒に申しなさい。
 人と一緒では念仏が申せないというのであれば、一人でひきこもって申しなさい。

 衣食などの生計が立ちゆかなくなって念仏が申せないというのであれば、
 他の人に助けてもらいながら申しなさい。
 他の人に助けてもらっていては念仏が申せないというのであれば、
 自分で生計を立てて申しなさい。

 妻や子がいることも、一族や家来、付き従う者がいるということも、
 自分がその人たちに支えられながら、念仏を申すためなのである。
 それが念仏申すことの妨げになるのであれば、決して持ってはいけない。

 領地を修めるということも、それが念仏申すことの助けになるのであれば大切である。
 念仏を申すことの妨げになるのであれば、領地を持つべきではない。


この御法語は、

「死後、極楽浄土に往生することに関しては、
 阿弥陀様の本願を信じてお念仏申せば、間違いなく往生できるとわかりましたが、
 この世で生きている間はどのように生きたらよろしいのでしょうか?」

という質問に法然上人がお答えになったものである。


注11 なお、法然上人が「持戒の行」「孝養の行」を勧めておられる言葉があるが、「持戒の行」「孝養の行」は「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、「念仏の行」は「阿弥陀仏の本願の行」なので最優先に勤めるべきものである、と教えておられていることに注意しなければならない。

●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
  女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。

Q&A(12)後生のー大事について

※質問者の立場を考え、一部を伏せ字にしました。


Q。
拝啓
突然のメールを失礼します。私は浄土真宗親●会の●●●●●●●と申します。苦笑いの独り言を大変興味深く拝見しました。高●顕徹先生は後生のー大事を無間地獄に墜ちるとおっしゃっています。ところが、清●元講師や近●元講師は、後生のー大事を無間地獄に墜ちるとは、間違いとおっしゃっています。私もご文章を拝読すると、後生のー大事を無間地獄に墜ちると書かれてはいないです。苦笑いさんは後生のー大事について何が正しいと思いますか。

A。
●●●●●●●さん

その問題に関する私の理解は、以下の記事に尽きます。

地球人にガミラス星人の「文化」は適応されない
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-41.html

親●会に限定されたドグマは、完全に特殊文化ですから、
「仏教徒」や「浄土真宗の門徒」がその影響を受ける必要は全くありません。




追記

というか、高●先生自身が既に教義をシフトしてるかもね(苦笑)。
 ↓
~~清森問答 親鸞会教義の相対化・38 より~~

【上巻p.66~】「後生の一大事」=「必墮無間」
親鸞聖人が、六角堂に百日間もこもられた目的は、「後世を祈る」ためであったと記されている。「後世を祈る」とは、「後生の一大事の解決の道を求めて」ということである。
「後生の一大事」とは、死後、無間地獄へ墮ちて、八万劫という長期間、苦しみ続けなければならぬ大事件をいう。釈尊は経典に「必墮無間」、すべての人間は、一息切れたら必ず無間地獄に墮つる、と説かれている。

★改めて「後生の一大事」=「必墮無間」というのは、高森先生に限らず、高森先生の影響を受けている方に共通する文化なんだと思いました。これが親鸞会という特殊な組織でしか通容しない「文化」であることは、既に私や清森さんによって証明済みです。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-91.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-92.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-93.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

一点追記しておくと、最新の高森先生の本では「後生の一大亊」の定義が異なっていますね。

>*生死の一大事
>永久に苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。
>高森顕徹著『歎異抄をひらく』(一万年堂出版)、P.53、P.163、P.225

>*後生の一大事
>永久に苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。
>同書、P.221

この定義であれば、問題はないと思います。誰かに誤りを指摘されることによって、正式に高森先生が自らの誤りを訂正されたのであれば、自浄作用が働いているということで、とても良いことであると思います。
そうではなく、「後生の一大亊」という重要な術語の意味が、一般向けの出版物と会員向けの出版物で異なるというのであれば、非常に悪質な二枚舌であり、卑劣なダブルスタンダードであると思います。

~~清森問答 親鸞会教義の相対化・38 より~~

【ツッコミ依頼】降誕会2日目にツッコミ!(4)「本願招喚の勅命」に従おうよ・・。

【依頼者】

最後に会長は以下のように言いました。


阿弥陀仏がすべての人を極悪人と見抜いて、それを助けると誓われている。ところが私はそう思えないから、「願」に相応しないんです。

それでお釈迦様は廃悪修善を勧められる、これは出来ないと知らされて教に従うんです。


最後に「仏語」ですが、これは諸仏が私達に、阿弥陀仏の本願まことだぞ~、聞けよ、それだけです。阿弥陀仏に間違いないぞ、と言われている、諸仏方の仰るのはこれしかないんです。


会長の説法はこんな流れでした。

今回は依頼したい部分が長いです。会長の発言をなぞらえて書いていますが、もし昨日のように記録・タイプミス等を気付かれた方がありましたら、訂正のコメントをお願いします。

その際には、苦笑さんにはご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。



【苦笑】

こんな話はもうエエし、
ぐちゃぐちゃ言わんと、
「本願招喚の勅命」に従おうよ・・。
 ↓

やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ


どんだけ、「廃悪修善」に励んでも、
それは絶対に「本願の行」じゃありまへん。

「南無阿弥陀仏」せえへんかったら、
「本願招喚の勅命」に従うことになりませんから、
どんだけ「聞けよ!」と言われてもアキマヘン。

しつこく繰り返すけど、
「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」せ~へんかったら、
永久に「南無阿弥陀仏」せえへんようになっちゃうからね(苦笑)。


というか、会長先生が、
「本願招喚の勅命」に従うように、
ちゃんと仰ったことってあります?

こんなことばっかお勧めしてはりません?(苦笑)
 ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


蓮如上人のお言葉にしたがって、
善知識はシッカリ選んだ方がエエで(苦笑)。
 ↓

●そもそも、善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、
ひとをすすむべきばかりなり。『御文章』2-11



おしまい�O�[�I

【ツッコミ依頼】降誕会2日目にツッコミ!(3)釈尊の出世の本懐は・・。

【依頼者】

また、この後、教とはお釈迦様の教え、お釈迦様が仏の覚りを開かれてそれを説かれたのが仏教、というような話の流れがはいり、以下のような会長の発言が出てきました。


お釈迦様が仏の覚りを開かれてから亡くなられるまで、45年間説かれたことを書き残されたもの、全部記録されたものが一切経となって今日残っています

その仏教の根幹、それは因果の通理です。一切経を貫いている仏教の根幹、これを因果の通理といいます。因果の通理を知らなければ、教えに従うこては出来ません。


ここで因果の通理の説明が入ります。


そして、以下また会長の発言です。


ここから(因果の通理から)出てくるのは、どういう教えかというと廃悪修善という教えです。

この仏教の廃悪修善の教えは、「白道燃ゆ」という本にこういう話がのっています。読んでください。


鳥の巣禅師と白楽天のはなしが入ります。そこから、以下のような会長の発言になります。


さっき因果の通理の話終わっていったら、みんな思っとったやろ。結局は廃悪修善、仏教はそんなもんか、倫理道徳に毛が生えたようなものか。わしゃよく知っとる。一回聞いたら、もう(聞き)に来んでもいいや。

三歳の子供でもこれを知るが百歳の翁でも行うことは難し。

みんな聞けゃわかる。けど、知ってはおるけれども出来るか?

そんな事(廃悪修善)くらい出来るわ、とみんな思っとるんです。

自分の事馬鹿や思って、自分で口に出して馬鹿と言っとっても、人から言われると腹が立つ。

実際悪が止まるのか。本当に今まで仏の眼にあったような真の善をした事があったのか?これを実際やった親鸞聖人が、歎異抄に「いづれの行も及ばなき身なれば、とても地獄は一定すみかぜかし」と言われているんです。教行信証にも至るところに言われておるんですけれど。これは、歎異抄のお言葉です。

親鸞聖人の地毛国堕ちるに間違いない親鸞だったという告白ですよ。

すべての人は、悪人だ。どれだけ悪を止めよと言われても、悪の止まない、善い結果が来るからと、どれだけ善を勧めても善の出来ないもの。


弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人を助けんがためなりけり(歎異抄)

阿弥陀仏の本願が、すべての人間は悪人だぞ、親鸞お前は悪人だぞ、と阿弥陀仏が見抜いて約束されているのに、親鸞しらなんだ。それが知らされて、こう言われているんです。

私達1人1人が私1人の本願でしたとなった時が願に相応したときなんです。

助かる縁手がかりがないものが、私でした、と如何に知らせるか?これがお釈迦様の教えなんです。

一度聞いたら、あ~わかったというものでは絶対にないんです。

すべての人の本願の姿を知らせるために、お釈迦様は廃悪修善を徹底的に教えておられるんです。

「教」に従うとは、廃悪修善をやってみて知らされるのは、出来ない自分。極悪人であったと知らせるかために、お釈迦様の教えがあるんですよ。


だから、悪人正機とこの言葉の説明がありました。



【苦笑】

はいはい(苦笑)。

●「与仏教相応」といふは、この『浄土論』のこころは、
釈尊の教勅、弥陀の誓願にあひかなへりとなり。『尊号真像銘文』

と親鸞聖人が仰っておられるように、

★「釈尊の教勅、弥陀の誓願にあひかなへり」=「与仏教相応」

なわけやけど、

★釈尊の教勅=弥陀の誓願に「あひかなへり」

でなければ、浄土真宗においては「与仏教相応」とは言えまへ~ん。


そんでもって、釈尊が一番お説きになりたかった、
「出世の本懐」は何かっちゅうことに関して、
法然上人は以下のように仰っておられます。
 ↓

●釈迦も、世に出で給ふ事は、弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。 佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。 『津戸三郎へつかはす御返事』

(訳)
釈尊がこの世に現れたというのは、阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
しかしそれは人々の能力に応じたのであって、 決して釈尊の本心によるものではなかった。 
だから念仏は、 阿弥陀仏にとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
釈尊にとっては、それをひろめることがこの世にお出ましになられた真の目的だったのである。
他の念仏以外の行とは、全く違うのである。


釈尊がこの世にあらわれて「仏教」をお説きになられたのは、
「弥陀の本願を、説かんと思しめす御心」のためであって、

「廃悪修善」の「余の種々の行」は「随機の法」で、
「自らの御心の底には候はず」でござりまする~。

せやから、

「弥陀にも利生の本願」「釈迦にも出世の本懐」である「念仏」を申して、
「釈尊の教勅、弥陀の誓願にあひかなへり」=「与仏教相応」になろうね。


しつこいようやけど、これは阿弥陀仏の「本願の行」じゃないから、
無理してしなくてもええよん(苦笑)。
 ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


つづく

【ツッコミ依頼】降誕会2日目にツッコミ!(2)これも昨日教えてあげたよね?(苦笑)

【依頼者】

以下からは今日の突っ込み依頼の内容です。

利他の信楽うるひとは~の御和讃より、願・教・仏語の3つの言葉を黒板に書きました。以下は会長の発言です。



「願」というのは、阿弥陀仏の本願、阿弥陀仏の願い、お約束です。「教」とはお釈迦様の教えをいうんです。

(少し間があります)

阿弥陀仏、釈迦、諸仏のは3仏に従って初めて「外の雑縁さらになし」という身になれるんです。

相応とは、一つになるという事です。阿弥陀仏の救いの通りになるという事です。

その阿弥陀仏の本願とは、「すべての人は悪人である、必ず絶対の幸福に救いとる」(←黒板に書いた言葉です)これを願と親鸞聖人言われているんです。

すべての人は極悪人と見抜いておられるんです。その極悪人を絶対の幸福に救いとる、と言われているんです。

相応するというのは、絶対の幸福になったことをいうんです。

時間ないんで、申し訳ないが急ぎます。



以上は、会長の発言の流れです。



【苦笑】

これも昨日教えてあげたよね?(苦笑)

会員さんが「苦笑の独り言」を読むのは、
しっかり禁止しておきながら、
自分はちゃっかり読んでくれてるんでしょ?
 ↓

【ツッコミ依頼】降誕会2日目にツッコミ!(1)苦笑の独り言は読んでくれてるんだね♪


だったら、僕が昨日教えてあげたことは、
翌日の御法話にちゃんと反映してよね。
 ↓

【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(3)「願に相応して教と仏語にしたがう身」になろう!!


根拠となる法然上人の言葉は繰り返さないけど、
「願に相応して教と仏語にしたがう身」になるために、
阿弥陀仏の「本願の行」である、「念仏の行」を行いましょうね♪

そんでもって、これは阿弥陀仏の「本願の行」じゃないから、
無理してしなくてもええよん(苦笑)。
 ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


つづく

【ツッコミ依頼】降誕会2日目にツッコミ!(1)苦笑の独り言は読んでくれてるんだね♪

【依頼者】

苦笑さん

昨日は、最速の突っ込みありがとうございました。

今日の会長の発言で、突っ込みを反映したような話し方がありました。

まず「利他の信楽うるひとは」の御和讃についての発言です。

皆さん先程勤行されたと思いますが、勤行の本にも載っている、「利他の信楽うるひとは~」を通して話をしております。

というような会長の発言です、早速訂正されましたね、さすがです。


つぎに「あはれあはれ存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕おもいはんべり」という蓮如上人のお言葉に関して、会長は以下のような感じに触れました。

生きておる間に、みなみな信心決定あれかしと言われ、お亡くなりになったお言葉を私は讃題にしてきました。


あやふやに誤魔化されています。さすが会長ですね。



【苦笑】
おお!
苦笑の独り言は読んでくれてるんだね♪
 ↓

【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(1)『正信偈』≠『高僧和讚』
【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(2)「あはれ、あはれ、存命のうちに・・」


でも、(1)はともかく、
(2)は誤魔化しきれたないと思うよ(苦笑)。

今日は【投稿】&【投稿追記】も入ったしね。
 ↓

【投稿】4ヶ月以上の期間があるのに「遺言」と言えるのか?
【投稿追記】「亡くなる直前に仰った」とか「この世の最後のお言葉」とは言えない。


つづく

【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(3)「願に相応して教と仏語にしたがう身」になろう!!

【ツッコミ依頼】(3)

三つ目は、今日の最後の会長の言葉です。

利他の信楽うるには、どうしたらなれるのか聞きたいでしょ。それが朝晩の勤行の最後にあるんです。

願に相応して教と仏語にしたがう身となれば、外の雑縁さらになくなります。


以上会長の言葉です。

ぶつ切りですが、 よろしくお願いします。



【ツッコミ】(3)

はい!その通り!

いいこと言いますね~!

「願に相応して教と仏語にしたがう身」になるために、
阿弥陀仏の「本願の行」である、「念仏の行」を行いましょう!!
 ↓ ↓ ↓

念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。


ちなみにこんなのは、阿弥陀仏の「本願の行」じゃないから、
無理してしなくてもええよん(苦笑)。
 ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.

【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(2)「あはれ、あはれ、存命のうちに・・」

【ツッコミ依頼】(2)

次にこれは、午前中、中休み後に会長は、阿弥陀仏に救われたという意味の親鸞聖人のお言葉(信心獲得、獲信等)の説明後に以下のように言いました。

これを信心決定ともいいます。「あわれあわれ存命のうちに、皆々信心決定朝夕おもいはんべり、誠に述懐のこころ、しばらくも止むことなし」蓮如上人の、このお言葉の中に出てきます。

このお言葉は、蓮如上人がなくなる直前に仰られた御遺言です。この世の最後のお言葉です。

これを私は60年間、話をする前に、讚題としてあげてきた訳です。

あわれだなぁ、あわれだなぁ、皆さん信心決定してもらいたい、これ一つ、これが御遺言です。

生きとる間に、死んでから間に合わんだ、みんなの人信心決定してもらいたい。朝から晩、晩から朝まで、1日中思い続けている。

私達朝から晩、晩から朝まで思い続けていることありますか?


以上が会長の言葉、こういう流れでした。この蓮如上人のお言葉の説明は正しいのでしょうか?



【ツッコミ】(2)
う~ん。そうですね~。

この言葉は、自分の死期を感じられた蓮如上人が、

 「自分が存命中に、なんとか皆さんに信心決定してもらいたい!
  私は、そのことを朝から夕方まで思っている」

ということで残された言葉ですね。
 ↓
●しかれば愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本復のすがたこれなし。
つひには当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。
あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。
『御文章』5-15

(訳)
しかし、私も今年の夏ごろから病気になり、今にいたっても回復する兆しがない。
とうとう今年の寒い間には、必ず極楽浄土へ往生するという本来の志を遂げることになるのは、間違いないと思われる。
ああ、ああ、私が存命である間に、みんながみんな信心決定してほしいものだと、朝から夕まで思っている。

※あはれ・・感動詞、感嘆・嘆美・悲哀・哀愍・同情・愛着・驚嘆などの感動を表す。「ああ」「ほんとうに」


会長先生の解釈は、「あはれ、あはれ、存命のうちに・・」
の文法&コンテキスト(文脈)が、
めちゃくちゃじゃありません?(苦笑)

【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(1)『正信偈』≠『高僧和讚』

【ツッコミ依頼】(1)

苦笑さん

今日は降誕会1日目でした。私の最後の聴聞になる可能性が高いですので、気になった点に関して質問の意味も込めて、会長の説法内容を送ります。

今日は、「利他の信楽うるひとは願に相応するゆえに教と仏語にしたがえば外の雑縁さらになし」が演題でした。


親鸞会の勤行の本は、最初が真宗宗歌、次に親鸞聖人の書かれた正信偈、その後に、親鸞聖人の書かれた御和讃から高森会長が選んだものが6首あり、この順番で勤行になります。


会長は、午後の最初の方に以下のように言いました。

皆さんは先ほど勤行をせられたと思いますが、その勤行の最後のお言葉、正信偈の親鸞聖人の教えの最後のお言葉について話をしています。



以上、を言ったあとに、「利他の信楽うるひとは~」のお言葉について、話が始まりました。

また、午前説法開始すぐにも、似たような発言がありましたが、正確にはわかりません。


会長先生は、ボケてきていらっしゃるのかもしれません。軽~くジャブをお願いします。



【ツッコミ】(1)

あ~ん?(苦笑)

 利他の信楽うるひとは
 願に相応するゆえに
 教と仏語にしたがえば
 外の雑縁さらになし
『高僧和讚』善導讚

これは、『正信偈』の言葉じゃありまへんね(苦笑)。


『正信偈』≠『高僧和讚』です。
はいはい。

やさしい浄土真宗の教え §16 所謂「三願転入」について

§16 所謂「三願転入」について

前回のレクチャーで「信前の念仏」を、
親鸞聖人も勧めておられることを証明したわけやけど、

  親鸞聖人は「三願転入」をお説きになっておられるから、
 「信前の念仏」は二十願のプロセスの人に説かれたもので、
  十九願のプロセスにある人には「諸行」が勧められているんじゃい!!

と反論される方もいるやろうと思います。(注1)

今回は、そういう人のためのレクチャーでござりまする。


そういう人は、親鸞聖人が『教行信証』化土巻で、
「以下の道程を歩まれた!」とお話されていることを、
根拠にしてはりますわね~。(注2)
 
1)【万行諸善の仮門】を出て、【双樹林下の往生】から離れた。
2)【善本徳本の真門】に入って、【難思往生】を願う心を起こした。
3)【選択本願の大海】に転入して、【難思議往生】を遂げようと欲する。

そんでもって、1)2)3)が、
本願で言うと、それぞれ十九願・二十願・十八願に対応して、
浄土三部経で言うと、それぞれ
『観経』『阿弥陀経』『大無量寿経』に対応するから、

         [三願] [三経][三門] [三往生]   
1)万行諸善   =十九願 =観経 =要門 →双樹林下の往生
2)善本徳本   =二十願 =小経 =真門 →難思往生
3)選択本願の大海=十八願 =大経 =弘願門→難思議往生

こういう構造になって、

「とりあえず1)からスタートせなアカン!」

ちゅうことで、

「お金を持ってきなさい!ただ働きしなさい!
 お友達を連れてきなさい!サークルを作って学生を誘いなさい!
 アニメを売りなさい!」

ちゅう「善(?)」に励んでいるわけですわね。(注3)

さてさて、このような「活動」が、
「万行諸善」と言えるかとりあえず置いておいて、
(オレ的には、言えないと思うけどw)


これが、親鸞聖人の「体験告白」であって、
親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。

ちゅうことは、きちんと踏まえておかなアキマヘンね~。(注4) (注5)


【今日のまとめ】
 1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
 2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
 3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。


とりあえず今日はここまで確認しておいて、
話が長くなるので、また来週にしときますわ。

★仏が衆生に何を求めているか?←これが次回のポイントよw

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 例えば以下のような解説をしている「文化」に属する皆様が、このような反論をするのではないかと思われる。

~~以下引用~~
高森顕徹著『こんなことが知りたい』vol.4 pp.106-110

  二〇 三願転入とはどんなことか
 
問 三願転入と、よくききますが、三願転入とは、どんなことでしょうか。
 
答 大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、四十八のお約束があり
 ます。
 弥陀の四十八願といいます。
  その中で
 「あらゆる人を救う」
 と誓われた願が三つあります。十八、十九、二十願がそれです。
  十八願は、卒直に阿弥陀仏が
 「どんな人をも、必ず、絶対の幸福に救う」
 と、本心を誓われたものですから、王本願といいます。
  ところが、自惚れ強く、相対の幸福しか知らない私達を、絶対の幸福にまで導くこ
 とは大変で、種々の方便が必要だったのです。
  十九、二十の願は、その為に誓われたものです。
  十九願には、
 「十方の人々が、人生の苦しみの連続に驚いて、どうしたら平和な安楽な世界に生ま
 れることが出来るのか。
 それには、悪を慎み、善を励まなければならないと奮発心をおこし、あらゆる善を一
 生懸命実行して、その力で我国(浄土)に生まれたいと願う者は、臨終に諸仏菩薩に
 とりまかれて迎えにゆこう」
 と、約束なされています。
  因果の道理は宇宙の真理、善因善果、悪因悪果、自因自果には寸分の狂いもない。
 知っただけでは観念の遊戯に終わり、実行しなければ善果は得られない、と真面目に
 全力尽してやってみると、悪はやみ難く善は成し難い悪性ばかりが知らされて泣かざ
 るを得ません。
  二十願はそんな人に誓われた弥陀のお約束です。
 「十方の人々が、南無阿弥陀仏の名号を聞いて、念仏を称え、その功徳の力で、我国
 (浄土)に生まれたいと願う者は、必ず、思いを遂げさせてあげよう」
 と。
  そこで誠心誠意、一心不乱に念仏を称えようと、つとめればつとめる程、散乱粗動
 の心ばかりが見えて来て、こんな雑念で称えていてもよいのだろうか、こんな乱れた
 心で称えていても本当に助かるのだろうか、と不安な心が出て来ます。
  また悪い心や、悪い行為をしながら称えていても、功徳にならぬように思えるので、
 悪を慎み善を励んで、念仏しようとするのですが、見えて来るのは悪ばかり。
  励めば励むだけ、乱れる心はやまず、悪しか造れない自己が知らされ不安で苦しい
 から、こんな者でも死んだらお助け、と安心し喜ぼうとしますが、助かっていないか
 ら喜ばれる筈がありません。
  法の尊さに感激した時は、助かるようにも思いますが、悪性が現れると、こんあこ
 とでは助からんのではなかろうかと、堕ちるような気がする。
 念仏は称えているが、自分の心の善し悪しで、参ってみたり堕ちてみたり、つねに不
 安動乱がやまないのです。
  十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、次の十八願で絶対の
 幸福へ転入させようとするのが、弥陀の狙いなのです。
  後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、後生の一大事と聞いても驚かず、
 絶対の幸福といっても、ウンともスンともこたえず何のことかい、とせせら笑ってい
 るのが私達の本性です。
  親鸞聖人は、逆謗の屍といわれました。
  この屍を、絶対の幸福に生かし切らねば、命を投げ出すとお約束なされているのが
 弥陀の十八の誓願です。
  こうまできかされても、聞き切らぬ渋太い私であったのかと照らし出され、進むに
 進まれず、やめるにやめられず、にっちもさっちもならぬところを三定死といいます。
  一切の助かる望みが切れた時と、大慈悲心が徹到した時とは同時で、まことなるか
 な、弥陀の本願、己れ忘れて踊り上がり、ようこそ、ようこそ南無阿弥陀仏と噴き出
 るお念仏を仏恩報尽の念仏というのです。
  無辺の智恵と、無限の慈悲を体得しますから、底の知れない懺悔、高さの知れない
 歓喜、広さの知れない苦悩の晴れた味に、遠く宿縁を喜ばずにおれないのです。
  この十八願に誓われた絶対の幸福、無碍の一道に出るには、十九、二十願の道程を
 通らなければならないことを発見し、教導なされたのが親鸞聖人です。
  その体験を三願転入というのです。
~~以上引用~~


注2 『教行信証』化土巻より

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。

善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。

しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。

果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。

ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。


(苦笑ちゃん訳)
このようなわけで、愚禿釈の親鸞は、龍樹菩薩や天親菩薩のような論主の解釈を仰ぎ、曇鸞大師や善導大師のような祖師方の教えを受けることによって、久しくさまざまな行や諸善を修行する方便の要門【万行諸善の仮門】を出て、永く【双樹林下の往生】から離れた。

そして、自力の念仏の功徳を積む方便の真門【善本徳本の真門】に入って、ひとすじに【難思往生】を願う心を起こした。

しかしいまや、その方便の真門からも出て、【選択本願の大海】に転入した。速やかに難思往生
を願う心を離れて、【難思議往生】を遂げようと欲するのである。

阿弥陀仏が、必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をお立てになったのは、まことに意義深いことである。

ここに久しく、阿弥陀仏の本願の海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い御恩に報い感謝するために、真宗の教えの要となる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称えるのである。いよいよこれを喜び、つつしんでいただくのである。


注3 某巨大掲示板に、注1で紹介した「文化」の主張を端的にまとめた記述が掲載されていたが、非常に的を得ているのではないかと思う。

~~以下引用~~
400 :神も仏も名無しさん:2009/03/11(水) 20:58:36 ID:d3pLMFdy
親鸞会で言う「善」の基準ってなんだろうか?
彼らの主張によれば「極楽に行くための縁、手がかりになるもの」ということらしいが

・「阿弥陀仏は全人類を極楽に往生させるために18願をたてられた」
      ↓
・「18願まで導くための方便として19、20願を建立した」
      ↓
・「19願のこころを釈尊は一切経において廃悪修善として教えられた」
      ↓
・「廃悪修善を六度万行として要約された」
      ↓
・「六度万行の第一が布施である」
      ↓
・「布施とは、財施・法施である」
      ↓
・「財施とは真実の仏法、善知識のためにお金や労働力を提供することである。法施とは真実の仏法を人々に伝えることである」
      ↓
・「真実の仏法は親鸞会でしか教えていない。よって親鸞会にお金や労働力を提供し、親鸞会に多くの人を勧誘しなければならない」

結局、お金を持ってきなさい、ただ働きしなさい、お友達を連れてきなさい、サークルを作って学生を誘いなさい、アニメを売りなさい、それが「善」ですよ、ということ。
~~以上引用~~


注4 投稿文・三願転入「しなければ」助からないという、言い方の影響を考える 参照

~~以下引用~~
■三願転入の御文は、親鸞聖人の「体験告白」

親鸞聖人ご自身が阿弥陀仏に救われた体験告白をされたのが、三願転入の御文です。
三願転入の御文は、親鸞聖人の教行信証全6巻の化土巻に書かれているものです。

「ここを以て、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く雙樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に廻入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻)」

最初に「愚禿釈の鸞」とありますから、間違いなく「親鸞は」という、親鸞聖人ご自身の体験告白文です。親鸞聖人ご自身は、自身の救われた具体的な体験告白というものはほとんどされていません。ご自身の名前を出して「このようにして弥陀に救われた」と告白されている部分は、これ以外には

「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証)」

の他にはありません。

■「体験告白」は重視されなかった親鸞聖人

このことから分かることは、親鸞聖人ご自身が、救われた人の具体的な体験を書くことを重要視されていなかったと言うことです。「このようにして救われた」と書くと、それは「救われる方法」ということになり、「このようにすれば救われる」と聞く人が多いからです。

親鸞聖人の書かれた浄土真宗の根本聖典である教行信証は、阿弥陀仏の教、阿弥陀仏の行、阿弥陀仏の信、阿弥陀仏の証について書かれたものです。「私たちの」教・行・信・証を書かれたものではありません。親鸞聖人がもっとも力を入れて書かれたのは、教行信証の信巻です、その信巻とは、阿弥陀仏の本願に誓われた信心について書かれている者です。ですから、浄土真宗は「信心為本」の教えと言われ、阿弥陀仏から賜る信心一つで救われる教えです。

親鸞聖人の教えを、そのまま伝えられた蓮如上人は、親鸞聖人の教えについて、「聖人一流の章」では、一言で

「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候(御文章5帖目10通・聖人一流)」

と言われています。

阿弥陀仏から賜る他力の信心一つで救われるのが浄土真宗ですから、「私がこうしたから助かる」という言い方はできません。個人的な体験談を語るということは、聞いた人が、「私がこうしたら助かる」という方法(自力の行で助かる)があるように思ってしまうからです。

ご自身の体験談を書かれた「三願転入の御文」が、教行信証の化土巻末に書かれているのはそのためです。ことさら重要視されていなかったことは明確です。覚如上人や、蓮如上人が、ご自身が「このようにして救われた」という体験談を書かれなかったのも、自身の体験談を語ることの危険性を考えられた上でのことです。

「三願転入の御文」は体験談である以上、このような道を通って救われたとは書かれていますが、救われた後振り返って「すべて阿弥陀仏の願力の働きによって救われたのであって、自分の教、行、信、証は一つもなかった」ということを書かれたものです。

■三願転入「しなければ」救われない?

そのように書かれている三願転入の御文であっても、真実信心を獲得していない人にことさら強調して説けばどうなるでしょうか。まして三願転入「しなければ」救われないと言えば聞いた人はどう思うでしょうか?

『「三願転入の御文」にあるように私が行動しないと救われない』としか思えなくなるでしょう。
ここで大事なのは、三願とは、「阿弥陀仏の」18願、19願、20願の三願ですから、「阿弥陀仏の三願」の願力によって救われたと親鸞聖人が告白されているのであって、「親鸞が」こうして、こうして、こうなったから救われたと言われているのではないということです。

三願転入「しなければ」と聞けば、「私が」三願転入の御文の通りに行動しなければと大半の人が思うのではないでしょうか。
親鸞聖人が三願転入の御文で、告白されたのは、「阿弥陀仏の願力によって三願転入させられたから、現在弥陀に救われる事ができたのだ」と、救われた後振り返って知らされたことを、阿弥陀仏の願力からいわれたものです。ということは、阿弥陀仏に救われるまでは、阿弥陀仏の18願の願心も、19願の願力も、20願の果遂の誓いもハッキリ分かるものではないということです。

三願転入の御文の最後に言われているのはそのことです。

「選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の 誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻・三願転入の御文)」

阿弥陀仏の18願の救いに一念で救われ、20願の往生の心を離れて、18願で誓われた報土往生を死ねば遂げる身になることができました。18願の世界に必ず出させてみせるという果遂の誓い(20願)は本当であった、といわれています。
18願の救いに救われて、20願は本当であったと振り返って言われいるのであって、救われる前に、自分は19願の願力に引っ張られているとか、20願の願力に引っ張られていると明確に分かるものではありません。

まして、「自分で」19願の行をして、20願の念仏を称えたから出られたとは言われていないのが、親鸞聖人の三願転入の体験告白なのです。

すべて阿弥陀仏の働きによって救われるのでありますから、「私が」三願転入(でいわれようなことを実行)しなければ助からないと思うのは間違いです。
~~以上引用~~


注5 近年は、親●会も個人の「体験告白」を「教え」として語ってはいけない教義にシフトしている。

~~清森問答 質疑応答162 より~~
機相…(語られていない)とは、

★何時、何処で、どのように獲信した、というような各人各様、違うことは、説かれていないと言うことです。

★また、あの人は獲信している、あれはしていないなどと言われていないことを言うのです。
~~清森問答 質疑応答162 より~~

【コメントに反論6】「欲にまみれた金」という気持ちでの布施は「三輪清浄」になりません(苦笑)。

【コメントに反論5】「マネーロンダリング(資金洗浄)」と「三輪清浄」は違います(苦笑)。コメント覧より

あほくさ

欲にまみれた金ってこと!
2009-06-19 : 帝王 URL : edit

 ↑
「欲にまみれた金」という気持ちでの布施は
「三輪清浄」になりません(苦笑)。


★三輪清浄
→与えられる物(施物)が「とらわれのないもの(無所得=空)」である。

●『大乘本生心地觀經』「三輪清浄偈」(T. vol.3 p296b)
 能施所施及施物  能施と所施及び施物は
 於三世中無所得  三世の中において無所得なり
 我等安住最勝心  我等、最勝心に安住して
 供養一切十方佛  一切の十方の仏を供養したてまつる

(訳)
 与える者(能施)・与えられる者(所施)・与えられる物(施物)は、
 過去・現在・未来の三世を通して、
 とらわれのないもの(無所得=空)である。
 私達は、このような最も優れた心に達しながら、
 ありとあらゆる十方の諸仏を供養したてまつる。


★欲にまみれた金
→与えられる物(施物)が「欲にまみれている」
→「とらわれのないもの(無所得=空)」でない。

【コメントに反論5】「マネーロンダリング(資金洗浄)」と「三輪清浄」は違います(苦笑)。

どんだけ金集めするんだよ(苦笑)。 コメント覧より

お金の洗濯に

財施させていただくとするか
2009-06-18 : 帝王 URL : edit

 ↑
「マネーロンダリング(資金洗浄)」と
「三輪清浄」は違います(苦笑)。


★三輪清浄
→与える者(能施)・与えられる者(所施)・与えられる物(施物)が
「とらわれのないもの(無所得=空)」である。

●『大乘本生心地觀經』「三輪清浄偈」(T. vol.3 p296b)
 能施所施及施物  能施と所施及び施物は
 於三世中無所得  三世の中において無所得なり
 我等安住最勝心  我等、最勝心に安住して
 供養一切十方佛  一切の十方の仏を供養したてまつる

(訳)
 与える者(能施)・与えられる者(所施)・与えられる物(施物)は、
 過去・現在・未来の三世を通して、
 とらわれのないもの(無所得=空)である。
 私達は、このような最も優れた心に達しながら、
 ありとあらゆる十方の諸仏を供養したてまつる。


★マネーロンダリング(資金洗浄)
→与える者(能施)・与えられる者(所施)・与えられる物(施物)が
 犯罪に関わっている。

~ウィキペディア(Wikipedia)より~
資金洗浄(しきんせんじょう)とは、犯罪によって得られた収益金の出所などを隠蔽して、一般市場で使っても身元がばれないようにする行為である。「マネー・ローンダリング」(money laundering)の訳語。「ロンダリング」と伸ばさずとも間違いではないが、金融庁などの公的文書では「マネー・ローンダリング」で統一されている。マイヤー・ランスキーがマネーロンダリングの創設者といわれる。略称は、「マネロン」。

概説

汚れた金(=規制薬物取引、盗品などの贓物(ぞうぶつ)取引、詐欺、脱税、粉飾決算、裏金などによって得られた収益)を、捜査機関による差押え・摘発を受けたりすることなどを逃れたり、新たな犯罪の資金源として利用したりする目的で、架空人または他人名義の金融機関口座などを利用して転々と送金を繰り返したり、または会社の債券や株式の購入、古典的な方法としては大口寄付など、その他合法的な財産と混和させるなどの方法が採られる。また、最近ではオンラインゲームでゲーム内経済を混乱させるとして問題になっているリアルマネートレーディング(RMT)行為なども、これに悪用されているのではないかという懸念が根強く指摘されている。
~ウィキペディア(Wikipedia)より~

【コメントに反論4】「三輪清浄」

「三輪清浄」の典拠
 ↓ ↓ ↓
●『大乘本生心地觀經』「三輪清浄偈」(T. vol.3 p296b)
 能施所施及施物  能施と所施及び施物は
 於三世中無所得  三世の中において無所得なり
 我等安住最勝心  我等、最勝心に安住して
 供養一切十方佛  一切の十方の仏を供養したてまつる

(訳)
 与える者(能施)・与えられる者(所施)・与えられる物」(施物)は、
 過去・現在・未来の三世を通して、
 とらわれのないもの(無所得=空)である。
 私達は、このような最も優れた心に達しながら、
 ありとあらゆる十方の諸仏を供養したてまつる。



「とらわれのないもの(無所得=空)」ちゅうのがポイントね。
ちなみに以下が「三輪清浄」がわかってない発言のサンプル。
    ↓

三輪清浄

貴方様のような
清浄の心をお持ちの貴方様に
私のような下世話な人間が発言いたしましたことを
深く反省しております。
どうぞその清らかな心で
仏法のなんたるかを
世の人々におひろめください。

2009-06-18 : ●● URL : edit


【コメントに反論3】帝王学ですか(笑)。

先ほど、クラクラするようなイカシ(レ?)たコメントに反論しました。
せっかくなので、記事にして永代晒し者にしたいと思います(笑)。
 ↓ ↓ ↓
【ツッコミ依頼】青年大会にツッコミ!! より

【コメント】
分からん奴には一生わからん

言葉の表面しか見えん奴には、一生わからんやろうな
仏法分からん人が聞いても何を言わんとしているのかは分かる
帝王学も必要なんだよ、人を導くには

欲が深いと言われて
怒るのは自分の欲深さに気付いてない証拠やろ?

財施は出した者の功徳、そこで終わり。
出した後の使い道までクドクド言うのは
下世話すぎ、苦毒やな
2009-06-17 : 帝王 URL : edit


【反論】
No title

>帝王さん
その言葉は、誰に向かって仰っておられるのでしょうか?
必死に財施をされている会員さんにですか?

だとしたら、私はどんでもない話だと思いますけどね(苦笑)。

貴方が高●先生に大金をつぎ込むのは勝手です。
どうぞ、好きにしてください。

ただし、高●先生は貴方から頂いたお金を、
蓮如上人が門徒から頂いたお金とは、
全く異なった感覚で受け取っておられます。

そんな気持ちで受け取る野郎に布施しても、
功徳にはならないと思いますけどね。私は。

「三輪清浄」ってご存じですか?

思考停止も結構ですが、たまにはご自分で調べてみてはいかがでしょうかね~。
2009-06-17 : 苦笑(本人) URL : edit


『涅槃経』なんて読んでるわけないじゃん(苦笑)。

高森先生の親鸞会教学を検証する 「高森先生ほどの方が、涅槃経を読まれたことがなかったのでしょうか」 より

教学聖典(2)

問(1)地獄へ堕つる者は多く、人間に生まれる者は極めて少ないことを教えられた経文と根拠を示せ。

答(1)

○地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
 人間に生れる者は爪の上の土の如し
 (涅槃経)


はぁ。涅槃経のどこにそんな御文があるのでしょうか?
ぜひとも涅槃経の現物を持ってきて、示して頂きたいのですが。
あるいは大きな図書館に行って、涅槃経の何品にこの御文があるのか教えてください。

これは涅槃経を根拠としたものではないでしょうね。
おそらく高森先生は、源信僧都の往生要集のお言葉を勝手に改変して使ったのだと思います。

源信僧都は、往生要集の中で、涅槃経を意趣を汲み取って書き換えて使っておられます。
それが、以下のお言葉です。

ゆゑに『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、
「人趣に生るるものは爪の上の土のごとし。 三途に堕つるものは十方の土のごとし」と。
(『往生要集 巻上』)


はい、ここでしっかり、『涅槃経・意』とありますね。
ちなみに教学聖典には、根拠は『涅槃経』とありますが、ほんと涅槃経のどこにあるんですか、そんな言葉。

しかも、源信僧都のお言葉は、三途(三悪道)に堕ちる者はたくさんいる、ということであって、
地獄へ堕ちる者は十方世界の土の如しとはおっしゃっていません。
この時点で、悪質な改変が既にあります。

さらに、源信僧都が参考にされた涅槃経の原文を、私も市で一番大きな資料館に行って、
一切経のコーナーから探してきましたよ。
結果見つかりました。コピーが手元にありますから、欲しい人は言ってください。
かくして私は次のように思いました。

「高森先生、高森先生まで、そんな悲しいことを仰有るのですか。
高森先生ほどの方が、涅槃経を読まれたことがなかったのでしょうか」(声:玉日姫)

なぜか。ここから先を読んでもらえば判ります。

↓以下、涅槃経の御文

(涅槃経巻第三十三・迦葉菩薩品第十二の一)

爾の時に世尊、地の少土を取りて之を爪上に置き、迦葉に告げて言はく、
「是の土多きや、十方世界の地の土多きや。」
迦葉菩薩、佛に白して言さく、
「世尊、爪上の土は十方の所有の土に比せざるなり。」
「善男子、人の身を捨てて還て人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くるを得、
諸根完具して中國に生れ、正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已りて能く解脱を得、
解脱を得已りて能く涅槃に入る有るは、爪上の土の如く、
人身を捨て已りて三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、
諸根具せず、辺地に生じ、邪倒の見を信じ、邪道を修習し、解脱、常・楽・涅槃を得ざるは、
十方界の所有の地土の如し。
善男子、禁戒を護持して精勤して惰らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧祇物を用ひず、
一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは、爪上の土の如し。
毀戒懈怠、四重禁を犯し、五逆罪作り、僧祇物を用ひ、一闡提と作り、諸の善根を断じ、
是の経を信ぜざるは、十方界の所有の地土の如し。
善男子、如来は善く衆生の是の如き上・中・下根を知りたまふ。
是の故に佛は知根力を具すと称す。」

(口語訳)

その時に釈尊が大地の少しの砂を取って、これを爪の上に置いて、迦葉菩薩に告げて、
「この土が多いか、十方世界の地の土が多いか」と言った。
迦葉菩薩は釈尊に「世尊よ、爪の上の土の少なさは十方にある土の多さに比べられません」と申し上げた。
「善男子よ、人が死んだ後、再び人身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、人身を受けることを得て、
もろもろの感覚器官が完全に具わって、仏法の中心地に生まれ、正しい信心を具足して、
道を習得し、道を習得しおわって、なかでも正しい道を修行し、正しい道を修行しおわって解脱を得て、
解脱を得おわって涅槃に入ることは爪上の土のように少ないのである。
人が死んで後、三悪道の身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、再び三悪道の身を得て、
もろもろの感覚器官が具わらず、仏法の中心地から遠い辺地に生まれ、邪(よこしま)で傾倒した思想を信じ、
邪な道を修得し、解脱を得ず常楽の涅槃を得ないことは十方世界にある地上の土のように多いのである。
善男子よ、戒律を護り、精進し、四重の罪を犯さず、五逆罪を犯さず、教団に属する財物・物資を勝手に使わず、
闡提とならず、善根を断たずに、経典を信じる者は、爪の上の土のようなものである。
懈怠であり、四重の罪を犯し、五逆罪を犯し、教団の財物を用い、闡提となり、善根を断じて、
経典を信じない者は、十方世界の土のようなものである。
善男子よ、如来はよく衆生にこのように上・中・下があることを知っている。
だからこそ仏は知根力を具えていると言うのだ」


全然違うじゃないか~!!

涅槃に入る者は爪の上の土の如く、
涅槃に入れない者は十方世界の土の如し

が原文の意味じゃありませんか!


仏法を、親鸞聖人の教えを正しく伝えるのが使命といいつつ、
全然如来の教法と違うじゃありませんか。

高森先生!一体どこまでこんな悲しいことを仰有れば気が済むのですか!?

まだ教学聖典は、1号と本願成就文がやっと終わったばかりなのに・・・




『涅槃経』なんて読んでるわけないじゃん(苦笑)。

ついでに『般舟三昧経』も絶対に読んでません。
 ↓ ↓ ↓

親鸞会教義の相対化・31 より

【5】『会報』vol.2p.161~信忍(4)

>>>
釈迦一代四十五年間の教えは、阿弥陀佛の本願を説くにあったことは、前号に於いてほぼ明らかにした。
故に、一切経は弥陀の本願におさまり、弥陀の本願によらねば一切の人々は救われることは絶対にないのだ。
釈迦はこのことを『般舟経』に於て、「三世諸佛、念弥陀三昧成等正覚」(三世の諸佛は弥陀三昧を念じて等正覚になる)と説いている。
三世の諸佛というのは一切の佛をいい、弥陀三昧を念じてとは、阿弥陀佛の御力によってということである。
等正覚に成るとは、佛になれたということだ。
つまり三世の諸佛でさえ弥陀三昧によって始めて成佛するのだから、一切の人々は阿弥陀佛の本願によらねば、絶対に助からんのは勿論である、と仰言るのである。
釈迦も三世の諸佛の中の一人であるから、釈迦の本意は弥陀の本願を説くにあったこともまた当然である。
>>>


残念ながら「三世諸佛、念弥陀三昧成等正覚」という言葉は、『般舟三昧経』にはありません。

おそらく、

また『般舟経』にのたまはく、「三世諸仏念弥陀三昧成等正覚」とも説けり。
『口伝鈔』浄土真宗聖典p.899

という覚如上人の言葉に基づいて、典拠を確認しないまま引用してしまったのではないかと思います。

余談ですが、西本願寺で出されている浄土真宗聖典では、「『般舟経』(意)」と書かれていて、覚如上人の引用の誤りがきちんと踏まえられています。


最後に、『般舟三昧経』の古層部分と言われている行品に対応するチベット訳の和訳を紹介させて頂きます。

バドラパーラよ、現在諸仏面前立三昧(般舟三昧)とは何であるか。
バドラパーラよ、比丘であれ、比丘尼であれ、優婆塞(在家の男信徒)、優婆夷(在家の女信徒)であれ、戒を完全に行じている者は、一人で閑静な所に行って座って、
「世に尊き(世尊)、如来、供養にあたいする(応供・阿羅漢)、正しく完全にさとられた(等正覚)かの阿弥陀(無量寿)仏はどの方向に住み、時を過ごし、とどまり、教えを説いておられるのか」
という思いを起こさねばならない。
彼はいままでに教えられたように、「この仏国土より西の方角に、百千コーティの仏国土を経たところにある、スカーヴァティー(極楽)という世界にかの世尊・如来・応供・等正覚なる阿弥陀仏が現在、菩薩たちの集まりに囲まれ、仕えられ、時を過ごし、とどまり、教えを説いておられる」と億念し、そして散乱しない心を如来に集中する。

バドラパーラよ、たとえば、男にせよ女にせよ、誰かが眠っている夢のなかで、物の形を見るとしよう、銀とか金とか、友人、同族、親戚、仲間、快いもの、愛ししもの、愉快なものなどを見て、彼は夢で彼らとともに遊び、喜び、娯楽し、話し、雑談する。
夢から覚めて、彼は[夢で]見たり、聞いたり、考えたり、知ったり、語ったり、雑談したりしたことを、他の人たちに告げる。
彼は夢の有り様を思いだして涙を流すであろう。

ちょうどそのように、バドラパーラよ、在家であれ出家であれ、菩薩は、ひとりで、閑静なところに行って座り、教えられたように、如来・応供・等正覚なる阿弥陀仏に心を集中する。
戒律の諸要素において過失なく、億念に乱れなく、一日一夜、二、三、四、五、六、七日七夜、心を注ぐ。
もし彼が七日七夜、心に散乱なく、阿弥陀仏を億念するならば、七日七夜を満たしたのちに世に尊き阿弥陀仏を見るのである。
たとえ彼が世尊を昼間に見ないとしても、眠って夢を見ているあいだに、世に尊き阿弥陀仏はその顔を彼に示すのである。
(浄土仏教の思想二pp.269-270)


「般舟三昧」の原サンスクリットは、『般舟三昧経』のチベット訳に記されている梵名から、

pratyutpanna(現在)-buddha(仏)-saMmukha(面前)-avasthita(立つ)-samAdhi(三昧)

であることがわかり、このサンスクリット複合語は、

1)「現在諸仏の面前に立つひと(行者・菩薩)の三昧」
2)「(菩薩あるいは行者の)面前に現在諸仏が立つ三昧」

という二つの読みができますが、いずれにしても、諸仏を面前にする三昧で所謂「見仏」であり、これによって「空」を感得し、最終的に覚りに至るのが『般舟三昧経』の中心テーマです。

高森先生がお書きになられたようなことは、『般舟三昧経』には書かれていません。



西本●寺の『浄土真宗聖典』は典拠を確認してるから、

「『大経』(大般涅槃経・意)」
「『般舟経』(意)」

って、丁寧に書いてあるのよね。

これを確認してれば、ツッコミいれられずにすんだのに、
残念やったね(笑)。



今からでも遅くないから、
西本●寺の『浄土真宗聖典』をチェックして、
間違いを訂正した方がええで(苦笑)。

【コメントに反論2】『正像末和讃』66の解釈について

つづき

やさしい浄土真宗の教え §15所謂「信前の念仏」について より

~~苦笑の本文~~
そんでもって親鸞聖人は、

 信心のひとにおとらじと
 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり
 称名念仏はげむべし
(『正像末和讃』66)

と仰っておられまする。(注4)

「往生を不定におぼしめさん人」
 =「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」
 =「信心の人」(信後の人)におとらないように、

「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」
と仰っておられるわけやから、

親鸞聖人が「信前の人」に、「称名念仏はげむべし」
と勧めておられることは絶対に否定できまへんな~。
~~苦笑の本文~~

~~コメント~~
「如来大悲の恩を知り」→信心決定して
「如来大悲の恩を知り称名念仏はげむべし」→信心決定して報恩感謝の念仏(信後の念仏)を称えなさい
~~コメント~~

あの・・。

まず、貴方が法然上人の教えをちゃんと理解してないから、
こういう解釈になるのよ。

法然上人の教えを基準に、親鸞聖人の教えはそれに抵触しない形で解釈してね。
 ↓
【コメントに反論1】『念仏往生義』の解釈に関して

それに、

阿弥陀仏が、どれほど途方もないご苦労をされて、
本願を実現して「南無阿弥陀仏」の名号を作られたか?
釈尊がどれほど私逹のことを思って教えをお説きになられたか?

その「恩」に「報いる」ことができるのは、「信心決定」した「後」ですが、
その「恩」を「知る」のは、「信心決定」する「前」でも、
「聴聞」を重ねることによって、ちょっとずつ「知る」ことはあるのよ。

★他力の救いは一念
★阿弥陀仏の慈悲が時間をかけて浸透してくる人もいる

この二つは全然矛盾してないのに、
思考がデジタルで、これがわかんない人が多いから、
蓮如上人の言葉も挙げながら、
丁寧にレクチャーしてあげたんやけど、読んでないのでしょうかね?(苦笑)
 ↓
~~§8 なかなか信心獲得できない人のために・・~~

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、
心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、
御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。
ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。
『蓮如上人御一代記聞書』(193)

(訳)
「極めて固いものは石であり、極めて柔らかいものは水である。
しかしその柔らかい水が石に穴をあけることができるのである。
もしも心の底を徹していったならば、仏の覚りすら、
どうして成就することができないことがあろうか(いや絶対に成就する)」
という古い言葉すらある。

どれほど信心のないものであっても、聴聞を心に入れていくならば、
阿弥陀仏の慈悲が我が身に伝えられていくのであるから、
必ず信心を得ることができるのである。
ただひたすらに仏法は聴聞することに尽きるのである。
~~§8 なかなか信心獲得できない人のために・・~~

まあ、ちゃんとした「聴聞」ができる環境じゃないのかもしれませんから、
今からでも遅くないし、これぐらいは読んでくださいね。
 ↓ ↓ ↓
苦笑の独り言 やさしい浄土真宗の教え

というか、私が執筆している「やさしい浄土真宗の教え」は、
「信前」の方が、浄土真宗の教えを「知る」ことにより、
阿弥陀仏の本願に乗じて「信心決定」して頂く目的で書いております。

貴方がお聞きになっている組織では、そうでないのでしょうかね~。
私には全く理解不能な、「先生の御恩」はよくご存じなのにね(苦笑)。

【コメントに反論1】『念仏往生義』の解釈に関して

以下、「§15所謂「信前の念仏」について」に頂いたコメントへの反論です。

~~苦笑の本文~~
法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、
心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人に対し、
「功を積み徳を累ぬれば時々猛利の心も出で来るなり」と、
いずれの行よりも優れた功徳のある「念仏」を勧めてはります。(注2)

注2 『念仏往生義』浄土宗聖典 vol.4. pp.524-525

また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。
その心の内にまた弥陀を憑(たの)む心のなきにしもあらず。
譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。
いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、こころざしの験(しるし)なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。
始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒(いたずら)に暮れなん事、後悔先に立つべからず。
~~苦笑の本文~~


~~コメント~~
「なき」→ない
「なきにしもあらず」→ある
「弥陀を憑む心のなきにしもあらず→弥陀を憑む心のある→信後
~~コメント~~

あの・・。

自分の脳内の思想の都合のいいように、
私の解説&法然上人のお言葉の原文から、
「念仏すれども心の猛利ならざる」人にお説きになられた、
という部分を故意に削除してません?(苦笑)

それに、法然上人のお言葉の原文には、

「始めより、その心(=猛利の心)なければとて空しく過ぎば、
生涯徒(いたずら)に暮れなん事、後悔先に立つべからず。」

という部分がありますが、貴方の解釈は、
それも楽勝ですっ飛ばしてまっせ(苦笑)。

脊髄反射で反論したくなったのかもしれませんが、
法然上人の教えを捏造するのはやめてください(苦笑)。


というか、貴方(方?)の「信心」は「信後」でも、
「猛利の心」がないまま、空しく過ごして、生涯を徒(いたずら)に暮らして、
「後悔」しまくる「信心」でござりまするか?

そのような「信後」しかないような教えを、
ずっとお聞きになっている貴方が心配です(苦笑)。



ついでに言っておくけど、私の解釈に反論するなら、
「いかなる方法をもてか我が心をも護り信心をも催すべきや」
という質問に、

「常に念仏してその心を励ませ」とお答えになられた、
『十二箇条問答』の解釈にも反論しなけりゃあきませんな~(苦笑)。

つづく

やさしい浄土真宗の教え §15所謂「信前の念仏」について

§15所謂「信前の念仏」について

前回のレクチャーで、
「真実の信心」と「念仏」は切り離したらアカンことも、
「念仏はお礼だから、してもしなくてもいい」と絶対に言えへんことも、
流石にわかってもらったと思うけど、

こういう話をしても、
「念仏は信後に限る」ちゅう人が、
必ず出てくるのよね(苦笑)。 (注1)

今日は、ホンマニ「念仏は信後に限る」と言えるかどうか、
親鸞聖人の師匠の法然上人にお聞きしまっせ。


法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、
心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人に対し、
「功を積み徳を累ぬれば時々猛利の心も出で来るなり」と、
いずれの行よりも優れた功徳のある「念仏」を勧めてはります。(注2)

「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」の人は、もちろん「信前」です。

その「信前」の人に「念仏」を法然上人がお勧めになられているのに、
「念仏は信後に限る」とは口が裂けても言えまへんね~。


それに、「我が心をも護り信心をも催す(うながす、引き起こす)」ために、
「常に念仏してその心を励ませ」と仰ってはりますから、(注3)

「念仏は信後に限る」と言ったら、絶対にあきまへんわね~。



そんでもって親鸞聖人は、

 信心のひとにおとらじと
 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり
 称名念仏はげむべし
(『正像末和讃』66)

と仰っておられまする。(注4)

「往生を不定におぼしめさん人」
 =「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」
 =「信心の人」(信後の人)におとらないように、

「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」
と仰っておられるわけやから、

親鸞聖人が「信前の人」に、「称名念仏はげむべし」
と勧めておられることは絶対に否定できまへんな~。


あと、一応言っておくけど、
親鸞聖人は法然上人の教えを受け継がれた方なんやから、
当たり前の話やけど、親鸞聖人の言葉は、
法然上人の教えに抵触しない解釈をせなアキマヘンで。(注5)


【今日のまとめ】
 1、法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人(=信前の人)に対し、「念仏」を勧めておられる。
 2、同じく法然上人は、信前の人が「我が心をも護り信心をも催す」ために、「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられる。
 3、親鸞聖人も、「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
 「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」(信後の人)におとらないように、
「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる。
 4、親鸞聖人は法然上人の教えを忠実に継承された弟子であり、
 「法然上人の教え」に抵触する「親鸞聖人の教え」の解釈は、親鸞聖人ご自身の御心に反する。
 5、したがって、「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」という教えは、
  法然上人や親鸞聖人の教えとは異なる教えである。

※「親鸞聖人は教え方が違うのや!」「親鸞聖人の教えは三願転入や!」と反論したくなった人は、脊髄反射しないで、次回の「三願転入の話」をじっくり読んでから反論してね♪



――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 例えば、以下のような発言。

真宗の教義の骨格は、「信心正因、称名報恩」であり、信心一つで助かるのであって、称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです。
(『こんなことが知りたい』1p.126-127)


注2 『念仏往生義』浄土宗聖典 vol.4. pp.524-525

また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。
その心の内にまた弥陀を憑(たの)む心のなきにしもあらず。
譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。
いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、こころざしの験(しるし)なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。
始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒(いたずら)に暮れなん事、後悔先に立つべからず。


注3 『十二箇条問答』浄土宗聖典 vol.4. pp.445-446

問うていわく、かようの愚痴の身には聖教をも見ず悪縁のみ多し。
いかなる方法をもてか我が心をも護り信心をも催すべきや。

答えていわく、その様一つにあらず。
あるいは人の苦に遇うを見て三途の苦を思いやれ。
あるいは人の死ぬるを見て無常の理を解れ。
あるいは常に念仏してその心を励ませ。
あるいは常に善き友に遇いて心を恥しめられよ。
人の心は多く悪縁によりて悪しき心の起るなり。
されば悪縁をば去り、善縁には近づけなりといえり。
これらの方法一品ならず。時に随いて計らうべし。

つまり、

「我が心をも護り信心をも催す」ために、
1)人が苦しんでいる姿を見て、他人事と思わず、現世や来世で自らがやがて苦しむかもしれないこととして受けとめていく。
2)人が亡くなっていくのを見て、他人事と思わず、無常の空しさや恐ろしさと真正面から向き合って、後生の一大事の解決に取り組むきっかけとしていく。
3)常に念仏をお称えして、阿弥陀仏との関係を深めて、自らの心を勵ましていく。
4)善い法の友を持ち、互いに勵ましあいながら、その人たちに負けないように、その人たちの友として恥ずかしくないように、精一杯努力していく。

普段からこれを一つ一つ心がけていくことが、大切であると法然上人は仰っておられる。


注4 以下の言葉も信前の念仏を勧めたものである可能性がある。

往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼしめして、御念仏そうろうべし。
(『親鸞聖人御消息』25)

しかし、「往生を不定におぼしめさん人」(=信前の人)に対して、「まずわが身の往生をおぼしめして」とあるので、あくまでも「信後の念仏」のみを勧めた言葉である。と解釈することも不可能ではない。


注5 以下の親鸞聖人の言葉等に基づき、親●会においても「法然上人の教え=親鸞聖人の教え」という立場を取っている。この点に関しては素晴らしいことであると考える。
 親鸞聖人の言葉を法然上人の教えに抵触する意味に解釈し、「親鸞聖人の教えは法然上人の教えと異なる」「親鸞聖人の教えは法然上人の教えを超越している」と主張する態度は、親鸞聖人ご自身の御心を裏切る行為である。

●『高祖和讃』源空讃

 曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし

 阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ
 化縁すでにつきぬれば 浄土にかえりたまひにき

●『歎異抄』二章

 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
 よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
 念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、
 また地獄におつべき業にてやはんべるらん、
 総じてもって存知せざるなり。
 たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
 さらに後悔すべからず候ふ。

【ツッコミ依頼】青年大会にツッコミ!!

メル友(現役会員)からツッコミの依頼がありました。


【ツッコミ依頼】

こんばんは。先日の青年大会における、会長のお言葉を送らせて頂きます。

「 人身受け難し今已に受く」に関して、人間に生まれることは有難いことであり、
「ありがとう」というのは、「有ることが難しい」というところから来ている、
という話から、以下のお言葉を仰せになられました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私は今はちょっとなまくら(怠け)しておりますが、昔は何か人から頂くと、葉書を送っていました。

その葉書の最後に、有難く思います、有難く存じます、と書いていました。

これはハッキリ申しますと、あなたみたいな欲深い、出すのはイヤ、出すのは主人を刑務所から出すのも嫌というぐらい欲深いあなたが、私にこんなものを下さるなんて、有難いことだ、という意味で書いてたんですね。

葉書を受け取られた方が、どう思われていたかわかりませんが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

すべて、会員のことを一番に考える、偉大なる会長先生のお言葉です。
さすが善知識、仰ることが、一味も二味も違いますね。
ぜひツッコミをお願いします。



【ツッコミ!】

あ~ん?(苦笑)

『蓮如上人御一代記聞書』を読んだことがないのか?


●『蓮如上人御一代記聞書』(297)
一 前々住上人(蓮如)は御門徒の進上物をば、御衣のしたにて御拝み候ふ。また仏の物と思し召し候へば、御自身の召し物までも、御足にあたり候へば、御いただき候ふ。御門徒の進上物、すなはち聖人(親鸞)よりの御あたへと思し召し候ふと仰せられ候ふと[云々]。

(訳)
蓮如上人は、ご門徒からの進物をお衣の下で手を合わせて拝まれた。
また、頂いた進物は全て仏様から頂いた物と思っておられたので、
ご自身がお召しになったお着物までも、万一踏みつけてしまわないように押し戴かれた。
「ご門徒からの進上の物は、そのまま親鸞聖人がお与えくださったものと思われる」
と仰せになられたのことである。



蓮如上人が、「全て仏様から頂いた物」
「親鸞聖人がお与えくださったもの」
とお思いになって手を合わせて拝まれた、
「ご門徒から頂いたもの」を、

「主人を刑務所から出すのも嫌というぐらい欲深いあなた」
がくれたもの・・ぐらいに思ってやがったのか!

会員の皆さんが爪に火を灯す思いで、
精一杯「喜んで頂こう」と思ってくださったものを、
なんだと思ってるんだ!

こんな気持ちだから、平気で無駄遣いするんだよ!



この野郎!なめんじゃねえ!!(怒)

やさしい浄土真宗の教え §14「信心」と「念仏」(追記あり)

§14 「信心」と「念仏」

そんじゃ~約束通り、ここらで、
「信心」と「念仏」の関係について述べとくで。

これは、結論から先に言っちゃうけど、

★「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えちゃダメ!

これ超重要やで。

法然上人は、

「名号を聞いても、信じなければ聞いてないのと同じや!
信じたっちゅうても、念仏申さなかったら信じたことにならへん!
念仏せえ!」

と仰ってはって、(注1)
その教えを受け継いでいる親鸞聖人も、
ちゃ~んと、信じることと念仏申すことをセットにしてはります。(注2)(注3)

「親鸞聖人の教えで大事なのは信の一念だけや!」
とか言って、

「行の一念」を軽んじる輩もいるようやけど、

親鸞聖人が、

「信を離れた行はあらへん!
行の一念を離れた信の一念もあらへん!」

と仰っておられるんやから、(注4)
そんなんじゃ~あきまへんで。

そして、所謂「信行両座の法論」も、
「真実の信心」と「念仏」を分離しないという、
法然上人や親鸞聖人の教えに、
抵触しない解釈じゃなきゃアカンわけね。(注5)


それと、「信」の立場からは、

★「一念」で往生できると「信じる」。

わけやけど、

「行」の立場からは、

★生涯できる限り念仏申していく。

ことが大切でっせ~。

これは法然上人が仰っておられることやけど、(注6)
親鸞聖人もちゃ~んと受け継いでおられます。(注7)(注8)

覚如上人や蓮如上人の言葉も、
このコンテクストで読まないと、

「お礼だから、してもしなくてもいい」

みたいな、念仏申すことを軽視する、
ヘンテコドグマになっちゃいまっせ(苦笑)。(注9)(注10)

まあ、「南無阿弥陀仏」についてかなり詳細にレクチャーしたから、
そんなヘンテコドグマ野郎は、もうおらへんと思うけどね(苦笑)。(注11)


【今日のまとめ】
 1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
 2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
 3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
 4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
 5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
 6、上記は法然上人のみならず、 親鸞聖人も教えておられることである。
 7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、
  このコンテキストで解釈していかなければならない。
 8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、
 「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。

※次回は、「信前の念仏」のお話をするで。
「念仏は総て信後、報謝の念仏に限る」ドグマと対決や!!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 法然上人には以下の言葉がある。

名号を聞くといえども、これを信ぜずば、これを聞かざるがごとし。
これを信ずといえども、これを唱えずば、これを信ぜざるがごとし。
ただつねに念仏すべし。
(「四巻伝」三、「九巻伝」二)


注2 親鸞聖人はお手紙の中で、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、
ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。
また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。
されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、
疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。
本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。
このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
『親鸞聖人御消息』

とお答えになられていて、「本願を信じて念仏申す」がきちんとセットになっている。


注3 上記の親鸞聖人の立場は、主著『教行信証』においても同様である。

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、
その意これ一つなり。なにをもつてのゆえに、
三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。
これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。
(『教行信証』信巻)

というように、疑う心のまったく混ざらないのが、 「真実の一心」=「金剛の信心」=「真実の信心」であるとした上で、

真実の信心はかならず名号を具す。
名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。

と述べて、必ずその「真実の信心」が「名号(=念仏)」を具えていることが明らかにされている。

そして同じく『教行信証』の行巻に、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。

とあり、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、
よく衆生の一切の志願を満てたまふ。
称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。
正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

とあるように、この「真実の信心」が具えている「名号(=念仏)」が、「衆生の一切の無明を破し」「よく衆生の一切の志願を満てたまふ」「最勝真妙の正業」であると明らかにされている。


注4 以下参照。

信の一念・行の一念ふたつなれども、
信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、
ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。
この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、
信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、
行をはなれたる信はなしとききて候ふ。
また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
『親鸞聖人御消息』(7)


注5 したがって「信行両座の法論」の意義は以下のように解釈できる。

この法論を「信心 vs 念仏」と解釈してしまうと、「真実の信心」と「念仏」を分離してしまう、法然上人や親鸞聖人の教えに抵触した解釈になってしまう。
したがって、「真実の信心」が「念仏」を具すものとした上で、「どのタイミングで阿弥陀仏の救いを得るか?」という法論であったと解釈すべきである。
例えば『歎異抄』の第一条には、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

とあり、「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」に、 阿弥陀仏の「摂取不捨の利益」を受けるとある。

これはつまり、

「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」

の時点で、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になったということであり、 この瞬間に信心決定した人となり、間違いなく極楽浄土に往生する人になるということである。

もちろん「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」わけであるから、この後にこの人は、まもなくお念仏を申すわけであるが、
その最初の一声が出る前に、地球が滅びる等の何らかアクシデントがあったとしても、この人は阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になっていて、間違いなく極楽浄土に往生できるわけである。

その阿弥陀仏の摂取を受ける瞬間が「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」か、その後に出される一声の念仏の後かという問題が、
この「信行両座の法論」で問題になるべきポイントであると、解釈すべきなのではないかと思われる。


注6 法然上人には以下のような言葉がある。

●行は一念十念なお虚しからずと信じて、無間に修すべし。
一念なお生る、況や多念をや。
(『一紙小消息』)

(訳)
行に関して言うならば、「一回の念仏、十回の念仏でも往生のためになる」と信じて、
間を置かずに申し続けるべきである。
一回の念仏でも往生できる。まして多くの念仏で往生できることはいうまでもない。


●一念十念に往生をすといへばとて、念佛を疎相に申すは、
信が行をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定におもふは、行が信をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定に思ふは、念々の念佛ごとに不信の念佛になるなり。
其故は、阿彌陀佛は、一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、
念ごとに往生の業となるなり。
(「勅伝」21、「つねに仰せられける御詞」)

(訳)
一念十念の念仏だけでも往生できるからと言って、
念仏をいい加減に申すならば、それは信が行を妨げることになる。
逆に「一瞬一瞬、常にこれを続けるということ」と述べられているからと言って、
一念では往生できるかどうかわからないと思うならば、それは行が信を妨げることになる。
また「一念の念仏で往生できるかどうかわからない」と思うのであれば、
一念一念繰り返し念仏申すごとに、往生できるかどうか疑う念仏になってしまう。
そのわけは、阿弥陀仏は、一念のお念仏によって、一度極楽浄土へ往生ができることを、
本願で定めておられるのであるから、
一念一念お念仏を申すごとに、それが極楽浄土に往生することができる行為になるのである。


注7 親鸞聖人の『一念多念証文』は、上記の法然上人の教えを詳しく述べたものである。詳しくは以下の全文を参照。

親鸞聖人『一念多念証文』全文


注8 これは参考までにであるが、聖覚法印の『唯信鈔』にも以下の言葉があり、上記の法然上人の教えは、法然門下に共通したものであることは明かである。

つぎに念仏を信ずる人のいはく、
「往生浄土のみちは、信心をさきとす。
信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。
『経』(大経・下)にすでに〈乃至一念〉と説けり。
このゆゑに一念にてたれりとす。遍数をかさねんとするは、
かへりて仏の願を信ぜざるなり。念仏を信ぜざる人とて
おほきにあざけりふかくそしる」と。

まづ専修念仏というて、もろもろの大乗の修行をすてて、
つぎに一念の義をたてて、みづから念仏の行をやめつ。
まことにこれ魔界たよりを得て、末世の衆生をたぶろかすなり。

この説ともに得失あり。往生の業、一念にたれりといふは、
その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりといふ、
すこぶるそのことばすぎたりとす。
一念をすくなしとおもひて、遍数をかさねずは往生しがたしとおもはば、
まことに不信なりといふべし。往生の業は一念にたれりといへども、
いたづらにあかし、いたづらにくらすに、
いよいよ功をかさねんこと要にあらずやとおもうて、
これをとなへば、終日にとなへ、よもすがらとなふとも、
いよいよ功徳をそへ、ますます業因決定すべし。

善導和尚は、「ちからの尽きざるほどはつねに称念す」といへり。
これを不信の人とやはせん。ひとへにこれをあざけるも、
またしかるべからず。一念といへるは、すでに『経』(大経・下)の文なり。
これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。このゆゑに、一念決定しぬと信じて、
しかも一生おこたりなく申すべきなり。これ正義とすべし。
念仏の要義おほしといへども、略してのぶることかくのごとし。


注9 覚如上人の『口伝鈔』には、以下の言葉がある。

一 一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事。
このこと、多念も一念もともに本願の文なり。
いはゆる、「上尽 一形下至一念」(礼讃・意)と等釈せらる、これその文なり。
しかれども、「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、
「上尽一形」は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。
そのこころ、経釈顕然なるを、
一念も多念もともに往生のための正因たるやうにこころえみだす条、
すこぶる経釈に違せるものか。
さればいくたびも先達よりうけたまはり伝へしがごとくに、
他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、
そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし。
これすなはち「上尽一形」の釈にかなへり。


注10 蓮如上人の『御文章』二帖三通には、以下の言葉がある。

一 開山親鸞聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、
もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、
本願を信楽する体とす。
されば先達より承りつたへしがごとく、弥陀如来の真実信心をば、
いくたびも他力よりさづけらるるところの仏智の不思議なりとこころえて、
一念をもつては往生治定の時剋と定めて、
そのときの命のぶれば自然と多念におよぶ道理なり。
これによりて、平生のとき一念往生治定のうへの
仏恩報尽の多念の称名とならふところなり。
しかれば祖師聖人(親鸞)御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。
これをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて真宗のしるしとす。


注11 以下の記事参照。

§9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
§10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ
§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)
Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について
Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」




追記

以下の法論は、今回の内容を理解するのに有効です。

 ★【幻の法論!】渡海さんvsM.H氏

 ★渡海さんvsM.H氏を全部読みたい方はこちら!

Q&A(11)これは不当ではありませんか?

Q。
先日紹介したサイトに、今度は以下のような記事が投稿されていました。

「華光会が正しい信心を説いてる」って?
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/27535244.html

_______________________________________

過去に華光会の複数の人とお話したことがありますが

一番の問題点は

「信心を獲てもハッキリする人とハッキリしない人がいる」という点でしょうね。

私が話した方々が、どの程度の責任ある人かは知りませんから

「それは華光会の見解ではない」と言われるなら訂正陳謝いたしますが

たぶんその必要はないでしょう。

私自身は華光会には何の恩義もありませんので

あえて御名前をあげて立場を異にする者だということを明らかにしておきます。



「いまこそあきらかにしられたり。」(御文章)
_______________________________________

ある団体の「一番の問題点」などというものを、
このような不確かな情報に基づき指摘するのは、不当ではありませんか?


A。
はい。私もそう思います。
実名を挙げて特定の団体を語るには、あまりにも準備不足です。

私が作成したガイドラインを、しっかり学んで頂く必要がありますね。

 ↓ ↓ ↓
★事前に準備するもの

ある特定の個人や団体を「異安心」と認定するために、
事前に準備しておかなければならないものを、
列挙しておきますので、まずはこれを入手しましょう。

a)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料

どのような「信心」であるかを知らなければ、
「異安心」かどうかは、わかりませんので、
必ずきちんとした資料を収集しましょう。

所謂「うわさ話」や、批判サイトや批判書での発言等は、
事実誤認があったり、捏造された資料である可能性がありますので、
資料としては認められません。
 ↑ ↑ ↑


なお、今回、華●会という団体が取り扱われていましたので、
「高●顕徹」という方が、その団体の創始者の方と、
非常によく似た文章をお書きになられていることを、
紹介頂いたサイトの管理人様にお知らせしておきました。
 ↓
~~~コメント覧に投稿した文章~~~
ご無沙汰しております。
この記事で扱っておられる団体の創始者がお書きになった文章と、
非常によく似た文章をお書きになられている方がいますが、
貴方はその方とも「立場を異にする」のでしょうか?

仏教は結果よりも原因をやかましくいう。於因説果といって、原因の中に結果を論ずる。
無常の嵐が吹いて、後生の一大事という結果が現れてしまっては万事休するのである。
未来の結果は、現在に作りつゝあるのだから、この現在当体の一念に、後生の大事いかんと反省していくのである。
(伊藤康善著『死を凝視して』 p45より)

仏法は結果よりも、原因をやかましくいう。於因説果といい、原因の中に結果をみる。
無常の嵐が吹いて、後生の一大事の結果が現れてしまっては、万事休すである。
早く、魂の解決を急がねばならぬ。
(結成三十五周年記念 顕真巻頭言集 p33より)

2009/6/4(木) 午前 1:20[ 苦笑(本物) ]
~~~コメント覧に投稿した文章~~~

※他の記事はコメントを受け付けていませんが、
 なぜかこの記事はコメントを受け付けているようです。
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
FC2ブログランキング

FC2Blog Ranking

検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。