スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

とりあえず、これは読んでおいてね!!(再掲載)

せっかくちび●さんが解説してくれたので、
これは読んでおいてね!!
 ↓ ↓ ↓


五願開示とは(そんなにわかりにくいかね?)

「たとひわれ仏を得たらんに、

十方の衆生、至心に信楽してわが国に生れんと欲ひて、

乃至十念せん。

もし生れざれば、正覚を取らじと。

ただ五逆と誹謗正法を除く」(十八願)

これに五願の意があると開かれたのが教行信証の「五願開示」といいます。

行巻に「乃至十念」......十七願

信巻に「至心信楽欲生我国」......十八願

証巻に「若不生者」.......十一願

真仏土巻に「(不取)正覚」......十二、十三願


>信巻に「至心信楽欲生我国」......『十八願』→ここに明らかにされた十八願がある。

これが親鸞聖人の御己証。

往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あ
り。乃至。
真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
 若不生者(→この『生』には「浄土に生まれさせる」という意味がない)
 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

>若不生者(→この『生』には「浄土に生まれさせる」という意味がない)

なぜなら「正定と滅度」は11願に誓われているから。
またこの11願を「難思議往生」と証巻に表されています。

以下文証。

 往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あ
り。
 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無
量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」
 真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲
生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」
 真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果
の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必
至滅度者 不取正覚」
 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。
 この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。 (如来二種回向文)



五願開示(まだわからない人のために)

尊号真像銘文の本願文の解釈を一願該摂といいます。

十八願のそれぞれの御文が11、12、13、17、18願のそれぞれの願意を表している、

という解釈です。

「十八願の『至心信楽欲生我国」が18願の意を表している」とはどういうことでしょうか。

十八願と18願が同じものなら、意味のないことになってしまいます。

>18願の意を表している

この18願が親鸞聖人が教行信証信巻に明らかにされた「(純粋な)18願」の意味です。

「(純粋な)18願」は「信心を廻向する」という意味であり

「死んで浄土に生まれさせる」という意味はありません。

「尊号真像銘文」と「如来二種回向文」を読み比べればよくわかります。



「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを
至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見の
ゆゑなり。「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなく
ふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち
十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひ
の至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」といふは、他力
の至心信楽のこころをもつて、安楽浄土に生れんとおもへとなり。(18願意)

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の
定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼし
めして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。如来より御ち
かひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。(17願意)

この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。
「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり。
「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころは、すなはち至心
信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは、仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
(11、12、13願意)

(尊号真像銘文)


 往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第17願)にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏
 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」

 真実信心といふは、念仏往生の悲願(第18願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲
生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

 真実証果といふは、必至滅度の悲願(第11願)にあらはれたり。証果
の悲願、『大経』にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」
 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。
 この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。 (如来二種回向文)




ちなみに、以上の文章を書いた方は、
某チャンネルに「デカ丸」を名乗って書き込みしてた人です。
 ↓ ↓ ↓
【本人の証言】

ikiruimiwositte
2009/2/2(月) 午後 6:48

デカ丸名で書いたのは私ですから、書いてもらって結構ですよ。
2chはあまり雑な議論が続いたので失礼させていただきました。




そんでもって、この人は名義詐称野郎で、
以前は「ちび丸」を名乗って書き込みしてました。
 ↓ ↓ ↓

【本人の証言&周囲のツッコミ】

685 :神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 23:32:15 ID:AClwmmwV
>>678,681,684
苦笑のコメント覧に書けよ。

687 :神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 23:37:10 ID:AClwmmwV
というか、

チビ丸法戦記
浄土真宗における「でたらめ教学」との論議を残しておきます。
http://tibimaru7.blog7.fc2.com/
 ↑
このブログに書き込みしろよw
全く更新してないじゃんww

689 :デカ丸:2009/01/30(金) 23:50:36 ID:OSG5RnqU
>チビ丸法戦記

よく見つけたね。
あんまり相手の言ってることがくだらんのでやめたんだよ。
パスワード忘れて削除できん。

690 :神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 23:51:08 ID:tQ6inL9b
やっぱ本人wwwwww

694 :神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 23:59:47 ID:hfUafQ2C
>>689
チビ丸君のウソがまた一つ明らかになりました。


  294 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2009/01/27(火) 20:13:09 ID:q8L+czKh
  実はちび丸って聖道門と浄土門を完全に混同しているな(笑)

  297 名前:デカ丸[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 20:21:55 ID:pWSouuOz
  >実はちび丸って

  私はデカ丸だよ。チビ丸に勝ったんだよ。私はえらい。

  392 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2009/01/28(水) 17:51:47 ID:Sfbl+zqP
  チビ丸君へ

  君は反論できなくなると、その度にコピペで荒らして逃げる悪癖があります。
  そして他人には謝罪を要求しますが、自分のウソがバレ、
  間違っていたときはダンマリで逃げてしまいます。
  どうか今回はそんなことが無いようお願いいたします。

  396 名前:デカ丸[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 18:00:39 ID:f5W9NqTP
  >君は反論できなくなると

  チビ丸っていうのは悪いやつだね。
  私はちゃんと答えたよ。
  じゃね。


 ↑ ↑ ↑
とりあえず、これは読んでおいてね。



これを読んだから、必ずこれも読んでね。
 ↓ ↓ ↓
ちび●のおかげでわかりました!!結局これもパクリだったのだ!!
スポンサーサイト

やさしい浄土真宗の教え §13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル

§13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル

ほんじゃ~前回の「ガイドライン」を踏まえて、
今日は具体的に「異安心」のサンプルを見ておこうね。

まず浄土真宗の伝統的な「異安心」に関して、
山も山さんがサクッと解説してくれてたのを、
以下に引用しておくよん。
 ↓ ↓ ↓
~~2008-08-28 弥陀に救われたら何がハッキリするか2より引用~~

異安心と言ってもいろいろありますが、長くなるので、代表的なものを今回は書きます。

土蔵秘事→これは有名ですが、親鸞聖人の長子善鸞がはじめたものと言われていますが、儀式によって信心を授けるものをいいます。知識がそれでよいと認定したり、信心をいただいた年月日時を覚えていなければならないというものです。

十劫安心→阿弥陀仏が十劫の昔、本願を建てられたときに、すでに私たちは助かってしまっている、だから今は分からないだけで死んだら極楽なのだというものです。

地獄秘事→地獄行き間違いないと(自分で)ハッキリしたのが救われたことだと思っているもの

機決定→自分でこれでよいと決めた異安心

またおいおい書いていきますが、いづれも特長は、「自分でこれで間違いないと決めている信心」が、すべて異安心です。

また、「こうしておけばいつかは助かるだろう」と思っているのも異安心です。

親鸞聖人が

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証総序)

と仰有り、蓮如上人が

「他力の信心ということをば、今既に獲たり。」
「弥陀如来他力の大信心ということは、今こそ明かに知られたり。」(御文章2帖目13通)

と言われたのと異なり、「いつかは」とか「○○だから大丈夫だろう」「○○だから間違いない」という安心は、すべて異安心です。(真実信心ではないという意味で)

~~2008-08-28 弥陀に救われたら何がハッキリするか2より引用~~


「異安心」はこれだけじゃなくて、
「現代の新しい異安心」もあるんで、
こういう「異安心」にもならへんように気をつけてね♪
 ↓ ↓ ↓
~~現代の新しい「異安心」より~~

某所より

510 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 03:33:48 ID:t6+HHvif
浄土真宗親鸞真会 狂学性典(7)

問(32)

異安心の名を十あげよ。

答(32)

○十講安心
○十燈正因
○不倫秘事
○盗作づのり
○断章決定
○タイヤキ覚知
○脱税邪義
○華光秘事
○高森だのみ
○ドメイン往生

511 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 03:42:14 ID:t6+HHvif
問(33)

十講安心とはどんな異安心か。
何をどう間違ったものか、喩えで示せ。

答(33)

○十講制度が出来た昔にすでに我々は保身できてしまっているのだから、
今さら謝罪することも釈明することもいらぬという人達のこと。

○組織のでき上がったのを、免罪符をもらったことと早合点した間違い。
局長になっていても不倫すれば組織のガンは治らない。
(こんなことさえ判らぬ人達)

512 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 03:45:49 ID:t6+HHvif
問(37)

十燈正因の異安心とは、どんなことか。

答(37)

○高額財施さえしていれば助かる、と信じている人達。

513 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 03:53:54 ID:t6+HHvif
問(38)

不倫秘事の異安心の特色を六つあげよ。

答(38)

○絶対に秘密を守れと言う。
○夜中に秘事を授ける。
○本会の二代目善知識から「気持ちよい」と具合が認可される。
○不倫によって地位を貰う。
○証拠写真を撮った年月日時に覚えがなければならぬ、とやかましく言う。
○証拠ビデオがアップされた後は、会員がいなくなる。

518 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 04:27:39 ID:t6+HHvif
問(39)

断章決定とは、どんな異安心か。

答(39)

前後を無視し、自分でここがよいと思った部分の言葉だけを使う。

519 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 04:31:35 ID:t6+HHvif
問(40)

タイヤキ覚知とは、どんな異安心か。

答(40)

○おごられたタイヤキのことを覚えておらねばならぬ、
覚えておらねば生かしてはおかぬ、という異安心

520 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 04:33:04 ID:t6+HHvif
問(42)

ドメイン往生とは、どんな異安心か。

答(42)

阿弥陀如来の本願はさておきドメインに御報謝しているままで助かる、という異安心。

~~現代の新しい「異安心」より~~


いずれにしても、

★浄土真宗の信心である、「二種深信」と異なった信心

は「異安心」や。(注1)


そして、

>「必堕無間の後生の一大事」がわからないと、
>阿弥陀仏の本願はわからないのでございます!

と言うような「特殊文化」でもって、
「異安心」を認定することはでけへんで(苦笑)。(注2)

このように不当な「異安心」認定をするような人の「信心」は、
「プラサーダ」(信楽)=「二種深信」とはほど遠い、
「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の、(注3)(注4)
一種の「異安心」のようなものの可能性高いと思うで(苦笑)。


【今日のまとめ】
 1、古来より現代まで様々な「異安心」があるが、
  いずれも浄土真宗の信心である「二種深信」と異なった信心である。
 2、「特殊文化」でもって「異安心」を認定することはできない。
 3、「特殊文化」でもって「異安心」認定を行って憚らない人の「信心」は、
  「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の「異安心」の可能性が高い。


※次回は、「信心」と「念仏」の関係についてレクチャーするで~。
親●会ドグマは「念仏」を軽視する方向性があるから、修正せなアカン!(苦笑)

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 詳しくは、§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)参照。

注2 詳しくは、【地球人にガミラス星人の「文化」は適応されない】参照。

~~以下引用~~
>必堕無間の後生の一大事

これって、清森氏や浄土宗の人によって、限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」であることが既に証明済みなんだよね(苦笑)。

【質疑応答82】

「化土往生する人」を親鸞聖人がお説きになられていますが、
獲信した人以外は無間地獄なんでしょうかね~?(苦笑)

それから「昿劫を逕歴」=「無間地獄に堕在」とする根拠ってないよね(苦笑)。

【質疑応答83】

>親鸞聖人が「全人類は逆謗である」という説き方をされていませんので、必堕無間の根拠には、ならないと思います。

>五悪段につきましても、必堕無間とは、どこにも説かれていません。すべて三悪道として教えられています。無間地獄ならば、寿命が短いということはありません。

>つまり、五悪段で説かれていることは、悪人は三悪道に堕ちる、ということであって、「一切衆生必堕無間」の根拠にはなりません。

だそうです。

「一切衆生必堕無間」というドグマはどっから導き出されるんでしょうかね~(苦笑)。

【質疑応答84】

>まして、化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説くことを否定するのは、善知識方の説き方を否定することになるので、間違いだと思います。

だそうです。

それでも「一切衆生必堕無間」というドグマを優先するのは勝手だけど、
化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説いている善知識とは、
別の「文化」であることは自覚する必要がありますな(苦笑)。

【親鸞会教義の相対化・28】

「一切衆生必堕無間」は、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとも抵触するドグマのようですね。

私は、親鸞聖人も蓮如上人も、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えを受け継いだ方だと思っておりますが、
「一切衆生必堕無間」をドグマとする「文化」は、
そのドグマと曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとの間に、
どのように整合性を付けるつもりなのでしょうかね~(苦笑)。

日蓮聖人の思想との整合性は、なんとかつきそうな気がしますけどね(苦笑)。


あと、こんなのもありましたね。

「地獄に堕ちるわよ~!」は、
仏様でもない人が他人に対して言っちゃダメみたいですよ(苦笑)。

【親鸞会教義の相対化・26】
まず、以下の記述を見ていただきたいと思います。

若佛子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪過。教人説罪過。
罪過因罪過縁罪過法罪過業。
而菩薩聞外道惡人及二乘惡人説佛法中非法非律。常生悲心教化是惡人輩。
令生大乘善信。
而菩薩反更自説佛法中罪過者。是菩薩波羅夷罪
(『梵網経』大正蔵経vol.24.p.1004c.)

(訳)
仏の子よ。
もしも出家や在家の菩薩や、比丘・比丘尼の罪過を自ら説き、他の人に教えて罪過を説かせたならば、それは罪過の原因となり、罪過の条件となり、罪過の法(教え)となり、罪過の業となる。

だから、菩薩は外道である悪人、さらに二乗である悪人が、仏法の中において法でないものや律でないものを説いているのを聞いたならば、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化して、大乗の善なる信心を生じさせなさい。

それなのに、菩薩がかえって更に自ら仏法の中における罪過を説いたならば、これは菩薩としては教団追放に値する罪なのである。

これは、釈尊が「仏の子」すなわち仏弟子に仰った言葉です。

釈尊は、出家者・在家者を問わず、仏弟子が他の人の罪過を、自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることは、

それはその行為が、新たな罪過の原因となり条件となり、罪過となる教えとなり、罪過となる行為になるのでしてはいけない。

そのように禁じておられます。


つまり仏教者は、他の人に

「地獄に堕ちるわよ!」

と言ってはいけないのです。

それはなぜでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得が仏教の業報思想ですが、現在行った行為の果報が、必ず来世に得られるものであるかどうかは、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないし、その行為が、本当に地獄に堕ちるような果報をもたらすものであるかどうかも、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないからです。

それなのに、他の人に「地獄に堕ちるわよ!」と言って、その人が地獄に堕ちることがなかったらどうなるでしょうか?

そうです。

「地獄に堕ちるわよ!」と言った人こそが、妄語の罪を犯し、その罪過をうけなければならなくなるのです。

だから釈尊は、仏弟子が、他の人の罪過を自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることを禁じられたのです。

仏弟子が、罪過を犯した人に対する時は、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化し、大乗の善なる信心を生じさせるように、ひたすら導いていかなければならないのです。

それでは多くの仏典で、地獄や地獄行きの業が説かれているのはなぜでしょうか?

それは、釈尊が三明・六神通(※)という仏智でもって、どのような悪業を作った人が地獄に行くかを知り、そのような悪業を犯さないように、仏弟子逹に教えてくださっているからなのです。


一方、私達は三明・六神通からはほど遠い罪悪生死の凡夫です。

その私達が、罪業とその業果を論じる場合は、釈尊が、三明・六神通でご覧になったものをお説きになった経典に基き、「釈尊が『こういう業にはこういう果報がある』と仰っていた」という形でしか論じることはできないのです。


三明六神通を獲得してもいないのにも関わらず、凡夫のはからいで、

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

と言う人は、仏教徒でも仏弟子ではありません。


【親鸞会教義の相対化・30】
>これは私あてではないが真宗の同行として納得できない。

私の言葉足らずで、納得していだけなかったのではないかと思います。
若干でありますが、補足説明をさせて頂きます。


>親鸞会は(一切衆生)必墮無間だけしか言わんのでおかしいのです。
>必墮無間と叱りつける人が仏弟子ではないとは私は思わない。
>(「一切衆生必墮無間」という言葉や概念はおかしいでしょう。)

Nobodyさんの仰りたいこと、よくわかっているつもりです。

創造主である神の、絶対的な「神の律法」が人間の倫理を支えている、キリスト教などを代表するセム系一神教に対して、仏教では、「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」の業思想=「因果の道理」が人間の倫理を支えているわけですから、人間のどのような行為が原因になって、どのような結果を受けることになるのか、それを説かなければ、仏弟子は倫理を説くことができないことになります。


そのために、仏教では古来より、

★過去世でどのような行為をした人が、現世でどのような果報を受けたのか?
★現世でどのような行為をした人が、来世でどのような果報を受けるのか?

これを、釈尊が仏智でもってご覧になったことをお話しになった話を経典や律典から抜粋して、業報の実例集、業報説話集と言える、“アヴァダーナ文献”というものが編纂されたのです。
これに基づいて仏弟子逹は、釈尊の言葉に基づき、どのような業因によって、いかなる果報を受けるかを話していったのです。

したがってNobodyさんの以下の言葉は、

>理解した上で、他の人に必墮無間と叱りつけることが
>あってもよいのではないのかな。

正確には、

==========================
仏弟子は、三明六神通を獲得した仏の言葉に基づいて、
必墮無間の人を「必墮無間」と叱りつけなければならない。
==========================

ということになると思います。

蓮如上人に関しては、恐らく上記の範囲内での発言であり、「一切衆生必墮無間」という経典にない言葉を捏造したわけではありませんし、kkhate(=kkk)さんのように、「私の後生は必定地獄らしい」という自分の問題を、根拠もなく「全ての人」に一方的に当てはめ、「そうだろうなあ」と仰っているわけではないので、仏弟子であると言えます。


最後に、“アヴァダーナ文献”の代表的なものである“ディヴィヤ・アヴァダーナ”が、この度、世界で初めて全訳されましたので紹介させて頂きます。

平岡聡『ブッダが謎解く三世の物語』上下(大蔵出版)

これなどを読んで頂いて、釈尊がお説きになった業報の実例に基づいて、必墮無間の人に対して「必墮無間」と叱りつけるならば、何の問題もありません。

凡夫のはからいで、仏弟子にあるまじき行為をすることもなくなります。



強い放射線の中でしか生きられないガミラス星人
がその「文化」を地球人に押しつけて、
地球人に「放射線は必要だよね!」と言うのはおかしいでしょ?(苦笑)

限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」を、
議論の前提にするなんてのは全くもって不当ですわ(苦笑)。


>分かってない

特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
まあ納得ですけどね(笑)。
~~以上引用~~


(注3)「プラサーダ」と「バクティ」と「思考停止」の違いに関しては、§4の注4参照。

(注4)「分かってない安心」を、元親●会講師のメル友が以下のように解説くださった。

~~以下、メル友の解説~~

> >分かってない
> ↑
> 特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
> まあ納得ですけどね(笑)。

この「分かってない」「わかっとらん」は、親鸞会ではよく使われる言葉です。
いわゆる「親鸞会定義の異安心者」に対して、会の講師が、会員にいうとき使われます。

【用例】
会員「○○さんって、最近みないけどどうしたのでしょうか?」
講師「○○さんは、親鸞会をやめてしまった。彼は分かってなかった。」
「○○さんも、わかってなかったということです」
「あんな者のいうことを信じるなんて、わかってない」
「彼らは異安心だからわかってないんです」

会員「なぜこんな建物が必要なのですか?」「なぜ○○(会の財施や、人集めなどの方針」なのですか?」
講師「そんなことをいうものは、わかっていない」

というように、「わかっていない」の主語がハッキリしないために、聞かされた方は、自分で起こした疑問について全否定されるので、「自分は分かってない→自分では理解できない→自分は考える力がない→考えないでおこう」とだんだんと、思考停止のスパイラルに陥っていきます。

この「分かってない」も、いってみれば異安心といってもいいでしょう。

・分かってない安心→会員に「わかってない」「全然わかってない」ということによって、会員を思考停止にして安心する異安心

~~以上、メル友の解説~~

「本願成就文」で「わかる?」「わからない?」

高森先生の親鸞会教義を検証する 十八願成就文は十八願の解説?(4)より

教学聖典(3)

問(34)

阿弥陀如来の本願よりも、『本願成就文』を至極とするのは何故か。
そのお聖教上の根拠を示せ。

答(34)

◎本願で判らぬことが成就文でハッキリするから。

○「横超」とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり。
                     (教行信証信巻)

○それについて三経の安心あり。その中に『大経』をもって
真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。
十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす。
                        (改邪抄)

問(31)

凡夫の智恵では、阿弥陀如来の本願でハッキリ判らぬところが四つあるのを示せ。

答(31)

○どうすれば助かるのか判らぬ。
○自分でおこす信心か、他力より賜るものか判らぬ。
○信心が正因か念仏が正因か判らぬ。或いはその二つか。
○若不生者の「生れる」の意味がわからぬ。

問(33)

阿弥陀如来の本願でハッキリせぬ四つのことが、釈尊の『本願成就文』で
どのようにハッキリするかを示せ。

答(33)

○どうすれば助かるのか判らぬ―其の名号を聞きて
○自力か、他力か判らぬ―至心に廻向せしめたまえり
○信心が正因か念仏が正因か判らぬ―念仏がないから信心一つ
○若不生者の「生れる」の意味がわからぬ―その時往生を得て不退転に住す

【中略】

では、この「自分でおこす信心か、他力より賜るものか判らぬ」という疑問は、
本願成就文を読めばわかるのでしょうか?

結論:釈尊の本願成就文ではわかりません。

理由:高森先生著「こんなことが知りたい3」

二一 誰もなされなかった親鸞聖人の読み方や、解釈はどんなものか(一)

問 親鸞聖人の教えには、お聖教の読み方や解釈に、いままでの誰もなされなかった独
断的とも思われるようなものが、幾つかあると聞かされていますが、どんなところで
しょうか。お教え下されば幸甚と思います。(その一)

答 貴方の仰言る通り親鸞聖人にはいままで何人もなされなかった経典や、お聖教の読
み方や解釈をなされているところが幾つかあります。
「更に親鸞、珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ、人にも教へ聞かしむ
るばかりなり」
と常に仰言っておられた親鸞聖人ですが、仏意をより鮮明にするために一見、独断的、
違反的とも思われるような経典やお聖教の読み方や解釈が幾度かなされています。
少々煩瑣になるかも知れませんが、お尋ねに応じて、二、三を挙げて聖人の御意を
明らかにしたいと思います。
『大無量寿経』の下巻に、
「本願成就文」
といわれている大変重要な御文があります。
「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心廻向、願生彼国、即得往生、住不
退転」
この御文は、従来、
「あらゆる衆生、其の名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん。至心に廻向して、彼
の国に生まれんと願ずれば、即ち、往生を得て不退転に住せん」
と、読まれ、
「あらゆる衆生が、阿弥陀仏の名号を聞き、その本願を信じ喜ぶ心をただの一念でも
まことの心で阿弥陀仏にさしむけて、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願うならば、必
ず不退転になれる」
と、解釈されていました。
ところが親鸞聖人は『教行信証』信巻末には、次のような読み方をなされ、解釈も
全く変えてしまっておられます。
「あらゆる衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん、至心に廻向せ
しめたまへり。彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん」
ここで最も指摘しておかねばならないことは、いままで誰もが、
「至心廻向」

「至心に廻向して」
と、読んで疑わなかったところを、敢て親鸞聖人は、
「至心に廻向せしめたまへり」
と読み変えて全く異なった解釈をなされているという点であります。
「至心」
とは
「まことの心」
と、いうことであり、
「廻向」
とは
「さしむける」「ささげる」
と、言うことです。
されば、
「至心廻向」
とは
「まことの心をさしむける」
と、いう意味になりますから、
「私達が私達の心をまことの心に磨きあげ、その心をまことの心で阿弥陀仏にささげ
る」
こととして
「至心に廻向して」
と、読まれておりました。
ところが親鸞聖人は、
「至心」
は、私達の心ではなく阿弥陀仏の御心である、だから
「至心廻向」
というのは、阿弥陀仏が御自身のまことの心を、まことの心で私達にさしむけてくだ
さるということなのだから、
「至心に廻向せしめたまへり」
と、読むべきであるとして、いままでの読み方も解釈もかえてしまわれました。
(中略)
親鸞聖人は、これらの文証や体験をふまえて、
「至心廻向」
の御文を
「至心に廻向して」
と、読まれるどころか、
「至心に廻向したまへり」
とも読まれずに
「至心に廻向せしめたまへり」
と、最も重い敬語を使用なされて、阿弥陀仏が、まことの心で私達に、まことの心を
さしむけておられるのだという、他力廻向の仏の正意を開闡して下されたのでありま
す。
「本願成就文」
を、このように色読し、このような解釈は親鸞聖人ならでは開顕することの出来なか
った一大達見であります。
私達が親鸞聖人を阿弥陀仏の化身と拝さずにおれぬ所以であります。



ということでして・・・つまり、釈尊の成就文では、自力か他力かわかりません。

親鸞聖人によって初めて、他力とハッキリする
、と高森先生は教えておられますが何か?



「本願成就文」で「わかる?」「わからない?」
結局どっちやねん?(苦笑)



そう言えば、前に以下のツッコミが入ってたんやけど、
『こんなことが知りたい3』って、
このツッコミの後で書いたわけじゃないよね?(苦笑)
 ↓

清森問答 親鸞会教義の相対化・31 より

【3】『会報』vol.2p.23~阿弥陀仏の本願(1)

>>>
第二にこの願成就の文によって、弥陀の本願の真意が信心正因、称名報恩なることが明らかになったが、その正因たる信心は自分で起こすものなのか、他力の賜りものであるのかが、本願のみでは我々にはハッキリしないが、成就文では「至心に廻向せしめたまへり」と説かれてあることから、この信心は佛の方より授けまします、他力廻向の大信心であることが明らかである。
>>>


はたして「明か」でしょうか?

この部分の直前に高森先生自身が引用されていますが、本願成就の文の原文は、

諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念至心廻向願生彼国即得往生住不退転唯除五逆誹謗正法

です。

通常の漢文のワードオーダーから考えると、「至心廻向」の主語は基本的には「諸有衆生」であり、

「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜して、ないし一念し、至心に廻向して彼の国に生まれんと願えば、すなわち往生を得・・」

と読むべきものです。これはサンスクリット文の本願成就文でも共通しております(※)。

※それはなぜであるかというと、およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。


親鸞聖人は、「至心廻向」を「至心に廻向せしめたまへり」と読み主語を置き換え、阿弥陀仏から賜る信心というものを明かにされたわけですが、それは親鸞聖人が受け取られた信心に基づき経文を読んだ結果得られた解釈です。

『無量寿経』から言えないことを、『無量寿経』から言えるかのように語るべきではないと思います。

もっと厳しいことを言うならば、高森先生が漢訳原文を引用していながら、実際には漢訳原文は読んでおらず、親鸞聖人の読み方を採用している浄土真宗系の「書き下し」に基づいて論じているから、このような初歩的な誤りをしてしまうのではないかと思います。



これはオイラの私見やけど、

1),『無量寿経』をちゃんと読ま(め)ないのに、『会報』を執筆!
2),1)に基づいて『教学聖典』を作成!
3),『無量寿経』をちゃんと読んでいる人の説に基づいて、『こんなことが知りたい3』を執筆!
4),1)&2)と3)は明らかに矛盾しているが、『無量寿経』をちゃんと読ま(め)ないまま記事を書いているので、御本人は矛盾に未だ気づかず!!
5),ひょっとすると矛盾に気づいた会員がいたかもしれないけど、「裸の王様」なので誰も忠告できず!!
6),遂にツッコミ入れられちゃいました!
 ↑
こういうプロセスで、イタイことになったんじゃないかな?(苦笑)


高●先生!
『無量寿経』を読ま(め)ないのも、
『無量寿経』を読ま(め)ないまま、
他の誰かの説を引っ張ってくるのも、
まあもうシャアナイからとやかく言わへんけど、

せめて、自分の書いた文章ぐらい、
整合性をちゃんと考えておいてよね(苦笑)。


まあ、『会報』は絶版で誤魔化せるやろうから、
とりあえず今からでも、『こんなことが知りたい3』に基づいて、
『教学聖典』を修正した方がええと思うで(苦笑)。

やさしい浄土真宗の教え §12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン

§12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン

浄土真宗の信心が「二種深信」であるというお話をしたんで、
所謂「異安心」についても、ちょっと触れとくね。

「異安心」っちゅうのは、
浄土真宗の異端思想のことなんやけど、

法然上人とも親鸞聖人とも異なる信心じゃ、
法然上人や親鸞聖人と同じ極楽浄土に行けへんわけやから、(注1)
自分の信心が「異安心」にならないためにも、
「異安心」について知っておく必要がありますねん。

ところで、浄土真宗において「異安心」であることは、
その人やその「教え」に従う団体にとっても致命的なことやから、
「異安心」かどうかを認定するためには、
慎重に検証を加えならなければなりまへん。

ところが、きちんとした検証を加えることもなく、
特定の個人や団体を一方的に「異安心」呼ばわりする野郎がいるのは、
とても危険で嘆かわしいことやね。 (注2)

・・というわけで、今日は「異安心」と認定するために、
最低限どのような手続きを踏まなけりゃならんかっちゅう、
ガイドラインを作ってみたんで、よく読んでおいてね~♪

↓ ↓ ↓ ↓

▽ ▽ ▽ ▽ ▽

【「異安心」を認定する際のガイドライン 】

★はじめに

いかなる人にも、他人の心の中は見えません。
したがって、ある人の信心が「真実信心」かどうかは、
本人と阿弥陀仏にしかわかるものではありません。

しかし、ある人によって説かれている「教え」が、
善知識方の「教え」に明らかに反するものの場合、
その人の信心は「異安心」である可能性が極めて濃厚です。

したがって、このガイドラインは、
ある人によって説かれている「教え」を検討することによって、
その人の信心が「異安心」であるかどうかを認定するためのものです。


★事前に準備するもの

ある特定の個人や団体を「異安心」と認定するために、
事前に準備しておかなければならないものを、
列挙しておきますので、まずはこれを入手しましょう。

a)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料

どのような「信心」であるかを知らなければ、
「異安心」かどうかは、わかりませんので、
必ずきちんとした資料を収集しましょう。

所謂「うわさ話」や、批判サイトや批判書での発言等は、
事実誤認があったり、捏造された資料である可能性がありますので、
資料としては認められません。

b)正しい「安心」の基準となるテキスト

「異安心」であることを認定するためには、
正しい「安心」がいかなるものであるかを知らなければなりません。
これらの資料が浄土真宗における正しい「信心」の判定基準になりますので、
必ず用意しましょう。

ただしこのテキストは、a)の立ち位置に応じて、
以下のように使い分けられます。

(b-1)浄土真宗内で、異安心を論じる場合は、
   「浄土三部経・七高祖・親鸞聖人」までを基準にする。
(b-2)東西本願寺派における覚如上人・蓮如上人、高田派における真慧上人など、
   浄土真宗でも、特定の派にのみ権威を認められている文献は、
   判定基準としては、参照程度の扱いであり、(b-1)に抵触しない場合のみ、
   参照することができる。
(b-3)親鸞聖人を宗祖と仰ぐ「浄土真宗」以外の、
   法然上人を宗祖と仰ぐ浄土門の教義を判定する際は、
  「浄土三部経・善導大師・法然上人」を基準とする。
    cf. 法然上人の「偏依善導一師」の立場に関しては『選択集』16章参照

c)浄土真宗で、正しい「信心」がいかなるものであるかを説明したテキスト。

  例・・灘本愛慈『やさしい安心論題の話』(西本願寺)
     山田行雄『やさしい真宗信心のQ&A』(西本願寺)

上記b)に基づいて、浄土真宗でいかなる「信心」が正しいものであるか、
解説したテキストは、「異安心」を認定するのに参考になります。

ただし、このテキストは特定の「文化」の影響を受けている恐れがありますので、
必ず同時にb)を参照して、b)と抵触していなことを確認した上で、
使用していかなければなりません。

d)過去にどういう信心が「異安心」と認定されたかがわかる資料。

  例・・中島覚亮『異安心史』(平楽寺書店)
     続真宗体系第18巻「異安心御教誡集」(真宗典籍刊行会)

過去の「異安心」の判例を知っておくと、
「異安心」認定が容易にできるようになります。

但し、これだけでは「異安心」認定はできません。
必ずb)を参照する必要があります。


★「異安心」認定までの手続き

準備ができたら、以下のプロセスで「異安心」を認定しましょう。

1)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料(a)から、
 「異安心」と思われる発言を典拠を挙げて抽出する。

2)上記の発言が、発言者の立ち位置に応じて、
 該当する(b)とどのような点で抵触するかを、典拠を挙げて説明する。

3)上記の説明が、自分独自の解釈や、
 自分の「文化」のみに固有の解釈でないことを、
 他の「文化」に属するテキスト(c)などからも証明できる場合は、
 それを指摘する。

4)さらにその発言が過去に「異安心」と認定されている場合は、
 それがわかる資料から(d)その判例を挙げておくのもいいでしょう。

だだし、その判例自体が誤っている可能性もありますので、
必ず、(b)を参照する必要があります。

そしてその判例が、(b)に抵触する場合は、
判例よりも、(b)を優先することは言うまでもありません。


★おわりに

カルトとは、

「誤謬・虚偽、詭弁・詭弁詐術満載の虚言・妄説を垂れ流した上、
その挙証・論証責任すら果たさ(せ)ず居直って憚らぬドグマ体系とその信奉者」

のことである。

と以前「カルト」を分かりやすく定義いたしましたが、

きちんとした「異安心」認定プロセスを踏まえず、
無責任に「異安心」というレッテルを貼って、
挙証・論証責任すら果たさ(せ)ず居直って憚らぬ輩は、
「カルト」と言われても仕方ありませんので、
「カルト」と言われないように、 気をつけましょう。

さもないと、良識を疑われて、誰にも相手にされなくなり、
やがては言語空間から抹殺されてしまうことになるでしょう。

△ △ △ △ △


どう?わかった?
来週までに、これを最低三回ぐらい読んでおいてや。


【今日のまとめ】
 1、「異安心」は浄土真宗の異端思想である。
 2、「異安心」は法然上人や親鸞聖人と異なる信心であり、
   この信心では法然上人や親鸞聖人と同じ浄土へ往生できない。
 3、他人の心の中が「真実信心」であるかどうかを判定することはできない。
 4、しかし、「教え」が明かに善知識方に反する場合は、
  「異安心」である可能性も濃厚である。
 4、「異安心」認定は慎重なプロセスを踏まなければならず、
   無責任な「異安心」認定を行った者は言語空間から抹殺される。

次回は、どんな「異安心」があるか具体的に紹介するよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 『御伝鈔』第七段 参照

上人[親鸞]のたまはく、いにしへわが大師聖人[源空]の御前に、正信房・勢観房・念仏房以下のひとびとおほかりしとき、はかりなき諍論をしはんべることありき。そのゆゑは、「聖人の御信心と善信(親鸞)が信心と、いささかもかはるところあるべからず、ただひとつなり」と申したりしに、このひとびととがめていはく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし、いかでかひとしかるべき」と。
善信申していはく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と申しはんべりしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。ここに面面舌をまき、口を閉ぢてやみにけり。

 なお、『御伝鈔』に書かれていることを「史実」として扱ってよいかどうかに関しては、検討を要する。
  ただし、この「伝承」が伝えようとしている内容は浄土真宗の教義上、非常に重要である。


注2 例えば、以下のような論拠に基づか(け)ない異安心認定は極めて不当であり、このような不当な「異安心」認定を行って憚らない団体がどのように扱いを受けるかは、「ガイドライン」に述べた通りである。

~~某チャンネルより~~

見えぬ自惚れ

ちょっと変わったことが起きると、「これが獲信」と思い込み、信心という
極めて大切なことについて何の自制心もなく、「オレは信心獲得したぞ」と
触れ回る者がいる。自分の体験に合わせて親鸞聖人の教えを聞くようになり、
機に合わないところは聞かず、己の教学の不徹底に気づこうともしないから
反省もない。
そんな自分の実態が分からないから、「こんな獲信の近道、なぜ教えて
くれなかった」と大恩ある善知識にさえも謗法の刃を向ける。
自惚れの果ては、「こうすれば獲信できる」と、他人の信仰相談までやって
自他ともに信仰の奇形児になり果てているのだ。
親鸞聖人のみ教えを破壊している大罪の自覚など、全くないのである。

自惚れは 他人(ひと)に見えても 身に見えぬ

以上、顕正新聞 平成21年3月1日 三面「大喝」より引用
~~某チャンネルより~~


~~清森問答 投稿(親鸞会の不誠実な対応)その2より~~

(M支部長からBさんへのメールより抜粋)

 大沼法竜は「化土往生の安楽椅子」、Iは「三業安心の安楽椅子」を説いた親玉です。聞法者に安楽椅子を与えることは、仏法を説く知識の絶対に犯してはならない大罪ですよ。彼らは、親鸞聖人の本当の教えを、そのまま伝える人ではなかったのです。

 だから、IのつくったK会で救われたといっている人も、あの体たらくなのです。

 親鸞聖人や覚如上人や蓮如上人が、一切語られなかったようなことを、平気で放言し、書きまくり、ネットに流し、自分の体験を自慢しているのです。そして、親鸞会に対するうらみ、つらみ、のろいの言葉を撒き散らして、多くの人を惑わしているのです。

 あれが、まともな人の文章でしょうか。

 ある学徒の方は、「気持ち悪いですね。信心決定してあんなふうになるのなら、しないほうがいい」とまで言われました。

 本当に恐ろしいことです。

 慢心のかたまりとなって、自分がどんな大罪を犯しているか、まったく気づいてもいないのでしょう。

 可哀相な人だと思います。
~~清森問答 投稿(親鸞会の不誠実な対応)その2より~~

Q&A(8)「易往而無人」とは?

Q。
「易往而無人」は、どういうことだと理解しておられますか?

A。
以下の親鸞聖人の理解と同じ理解です。

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。
『尊号真像銘文』

阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、衆生がそれを受け取らないために、残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるのです。

この理解は、『無量寿経』をまともにと読んでいれば当然の理解です。
 ↓
Q&A(2)『無量寿経』所説の「易往而無人」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-252.html

どなたかのように「お釈迦様、貴方どうかされたんじゃないですか?」「頭、変になられたんじゃないですか?」と思う必要は全くありませんね。
 ↓
おお!高●先生に「近づくな」だったのか!!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-251.html#cm

Q&A(7)「名号を受持」とは?

Q。
「名号を受持」を、どういう意味で使っておられますか?

A。
「名号を受持」という言葉は貴方がお使いになっている言葉をそのまま使用しただけですので、釈尊や親鸞聖人や蓮如上人がこの言葉をどのような意味でお使いになられているかは知りません。
しかし、以下の親鸞聖人や蓮如上人の言葉から、【衆生が阿弥陀仏が与えてくださった「名号」を受け取って「真実信心=信楽=プラサーダ」になること】だろうと思われます。
貴方は違うのですか?

●弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。
『教行信証』行巻 正信偈

●あきらかに知んぬ、二尊の大悲によりて、一心の仏因を獲たり。まさに知るべし、この人は希有人なり、最勝人なりと。しかるに流転の愚夫、輪廻の群生、信心起ることなし。真心起ることなし。
 ここをもつて『経』(大経・下)にのたまはく、「もしこの経を聞きて、信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎたる難なし」と。また「一切世間極難信法」(称讃浄土経)と説きたまへり。
『浄土文類聚鈔』

●この信心をえがたきことを、『経』(称讃浄土経)には、「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』(下)には、「若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難」とをしへたまへり。この文のこころは、「もしこの『経』を聞きて信ずること、難きがなかに難し、これにすぎて難きことなし」とのたまへる御のりなり。釈迦牟尼如来は、五濁悪世に出でてこの難信の法を行じて無上涅槃にいたると説きたまふ。さて、この智慧の名号を濁悪の衆生にあたへたまふとのたまへり。十方諸仏の証誠、恒沙如来の護念、ひとへに真実信心のひとのためなり。釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。
『唯信鈔文意』

● 「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」といふは、弥陀如来の本願の念仏をば、邪見のものと驕慢のものと悪人とは、真実に信じたてまつること難きがなかに難きこと、これに過ぎたるはなしといへるこころなり。
『正信偈大意』

Q&A(6)「成就」とは?

Q。
「成就」を、どういう意味で使っておられますか?

A。
親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も、「成就」という言葉は、阿弥陀仏の本願に関しては「完成」という意味で使っておられますので、私もその意味で使っております。

●〈成就〉とは、いはく自利満足せるなり。
『教行信証』行巻(『往生論註』引用文)

●〈成就〉とは、いはく回向の因をもつて教化地の果を証す。もしは因、もしは
果、一事として利他にあたはざることあることなきなり。
同上

●〈不虚作住持功徳成就〉とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。いままさに略して虚作の相の住持にあたはざるを示して、もつてかの不虚作住持の義を顕す。{乃至}いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ。
同上

●弘誓一乗海は、無碍無辺最勝深妙不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。なにをもつてのゆゑに。誓願不可思議なるがゆゑに。
『教行信証』行巻

●しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。
『教行信証』信巻

●ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。
同上

●次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。
すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。
しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
同上

●それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。
『教行信証』証巻

●選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。
『教行信証』真仏土巻

●「証大涅槃」と申すは、必至滅度の願(第十一願)成就のゆゑにかならず大般涅槃をさとるとしるべし。「滅度」と申すは、大涅槃なり。
『尊号真像銘文』

● おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり。
『唯信鈔文意』

●第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。このゆゑに、よきあしき人をきらはず、煩悩のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。
『親鸞聖人御消息』

●弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。
『執持鈔』

● 「本願名号正定業」といふは、第十七の願のこころなり。十方の諸仏にわが名をほめられんと誓ひましまして、すでにその願成就したまへるすがたは、すなはちいまの本願の名号の体なり。これすなはち、われらが往生をとぐべき行体なりとしるべし。
『正信偈大意』

● 「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。
同上

●「光明名号顕因縁」といふは、弥陀如来の四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり、これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就してあまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。
同上

●この阿弥陀仏と申すは、いかやうなるほとけぞ、またいかやうなる機の衆生をすくひたまふぞといふに、三世の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくはんといふ大願をおこしたまひて、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、それ衆生の罪においては、いかなる十悪・五逆、謗法・闡提の輩なりといふとも、すくはんと誓ひましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまひて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまへるを、すなはち阿弥陀仏とは申すなり。
『御文章』3-1

●ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。
『御文章』3-2

●阿弥陀如来の因中においてわれら凡夫の往生の行を定めたまふとき、凡夫のなすところの回向は自力なるがゆゑに成就しがたきによりて、阿弥陀如来の凡夫のために御身労ありて、この回向をわれらにあたへんがために回向成就したまひて、一念南無と帰命するところにて、この回向をわれら凡夫にあたへましますなり。かるがゆゑに、凡夫の方よりなさぬ回向なるがゆゑに、これをもつて如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。このいはれあるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり、また発願回向のこころなり。
『御文章』3-8

久々に「若不生者」関連議論 その2

 ※前回→久々に「若不生者」関連議論(追記あり)

まだ議論は続いております。
 ↓ ↓
またも「誰でもお浄土」と説く これが真宗? より


●(管理人→さぶろう氏)

さぶろう様へ 語句の意味の確認
さぶろう様へ
 どうも今一つしっくりしないので、最初から往復のコメントを読み直し、
分かりました。
 あなたは「本願が成就した」ということを、
「本願に、十方衆生が一人残らず救われたこと」だとお考えのようですが、
そうではありません。
「十方衆生を一人残らず救うために、受け取る一つで信楽に救われる、
名号を完成されたこと」です。

 この間の消息を親鸞聖人は『教行信証』信巻に「一切の羣生海、
無始より已来乃至今日今時に至るまで穢悪汚染にして清浄の心なく、
虚仮諂偽にして真実の心無し、是を以って如来、一切苦悩の衆生海を
悲憫して不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、
三業の所修、一念一刹那も清浄ならざる無く真心ならざる無し。
 如来清浄の真心を以て円融、無碍、不可思議、不可称、不可説の
至徳を成就したまえり。如来の至心を以って諸有の一切煩悩、
悪業邪智の群生海に廻施したまえり」と讃嘆なされています。

 譬えて言えば、全人類のかかっている重い病を「必ず治す」と
崇高な願いを立てた医師があったとします。
その医師が、長年の
苦心の末、飲めば病が全快する妙薬を完成させました。
 これで、医師は、自らの立てた願いを成就しました。医師として
為すべきことは、成したわけです。
 あとは、全人類がその薬を飲むか、どうかです。

 ところが、薬の効能を信じない者、疑う者、飲ませようとしても
嫌がる者など、全人類の反応はさまざまです。そこで、医師は、
その薬の効能を説明し、納得を得られるように、説得をします。
 しかし、あくまで、自因自果は、因果の道理であり、宇宙の真理です。
患者本人が、薬を飲まねば、病気は治りません。いくらなんでも、
患者の首根っこ抑えて、無理やり口を開けて、薬をねじ込むような
ことはできません。
 されば、その説得には、時間がかかるでしょう。一朝一夕には
いきません。しかし、それは医師の責任だとは言えないでしょう。
 薬を飲むか、飲まぬかは、あくまで患者自身だからです。

 譬えが長くなりましたが、法蔵菩薩は崇高な四十八願を立て、
兆載永劫のご修行の末、本願を成就せられ、
十劫の昔に、すでに
阿弥陀仏となられました。
 救いの法は、すでに完成しているのです。
 しかし、その本願を疑い、名号を信受しないから、助からない。
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」(正信偈)
(生死輪転の家に還来することは、決するに疑情をもって止まる所と為す)

 ゆえに「仏智疑う罪深し」と親鸞聖人は仰せであります。
 いよいよ「一日も片時も急ぎて信心決定して」と仰せられた御心を
かみ締めたいと思います。
管理人 2009/05/16(Sat)01:46:45 編集


●●(さぶろう氏→管理人)

今は矛盾は感じていません
ご丁寧に補足していただいて、ありがとうございます。

> これで、医師は、自らの立てた願いを成就しました。医師として
>為すべきことは、成したわけです。
> あとは、全人類がその薬を飲むか、どうかです。

前回も確認させて頂きましたが、

18願は、「受持すれば信楽になれる名号を成就する」という誓いであって、「名号を受持させる(信心決定させる)」という誓いではないと教えて頂きました。

だから、何の矛盾も感じておりません。

ところが、18願を「信心決定させる(信楽にさせる)」誓いだと間違って教えている人もあるので、私もそのように勘違いしておりました。

そのため、成就していないのではないかという疑問が起きたのです。
お陰様で疑問が晴れました。ありがとうございました。
さぶろう 2009/05/16(Sat)11:52:11 編集


●(管理人→さぶろう氏)

結びに
さぶろう様

 長い間、おつきあいくださり、有り難うございました。
 結びとして、確認しておきます。

★阿弥陀如来の名号には、私たちを一念で信楽に救う力がある。

★その名号は十劫の昔、既に完成しており、私たちが受け取る一つで、
 正定聚不退転、即ち死ぬと同時に浄土へ往生できる身になれる。

★本願を疑い、計らって、今生で名号を受持せぬまま終われば、
 浄土往生はできない。永く苦患に沈むことになる。

★そこで、一日も片時も急いで、信心決定(信心獲得、名号を受持
 すること)を急ぎなさい、と教えられる。

★だから「もう既にみんな助かっているんだから、死ねば皆、浄土に
 往生できるんだよ」と教えているのは、間違いである。

以上です。
管理人 2009/05/16(Sat)20:05:53 編集


●●(さぶろう氏→管理人)

これもお願いいたします
分かりやすいまとめ、ありがとうございました。

何回も確認させていただいた、肝心なところが抜けていたと思いますので、以下の内容も追加してください。

どうぞよろしくお願いいたします。

★18願は、「受持すれば信楽になれる名号を成就する」という誓いであって、「名号を受持させる(信心決定させる)」という誓いではない。
さぶろう 2009/05/16(Sat)20:50:09 編集


●(管理人→さぶろう氏)

結び(追加あり)
さぶろう様

 その件を追加調整して、再掲します。

 結びとして、確認です。

★王本願といわれる十八願は「すべての人を一念で信楽、即ち
正定聚不退転の身に必ず救う」というお約束です。

★その約束を果たすため、信楽即ち正定聚に救う力のある名号を
作ると約束されたのが、十七願です。

★阿弥陀如来の名号には、私たちを一念で信楽に救う力があります。
 即ち無明の闇を破し、願いを満たすはたらきがあります。これを
 称名破満といわれます。

★その名号は十劫の昔、既に完成しており、私たちが受け取る一つで、
 正定聚不退転、即ち死ぬと同時に浄土へ往生できる身になれます。

★本願を疑い、計らって、今生で名号を受持せぬまま終われば、
 浄土往生はできません。永く苦患に沈むことになります。

★そこで、一日も片時も急いで、信心決定(信心獲得、名号を受持
 すること)を急ぎなさい、と教えられています。

★だから「もう既にみんな助かっているんだから、死ねば皆、浄土に
 往生できるんだよ」と教えているのは、間違いであります。

以上です。
管理人 2009/05/16(Sat)23:21:46 編集


●●(さぶろう氏→管理人)
誤解を招かぬよう
文章を直されているようでしたが、

★18願は、「受持すれば信楽になれる名号を成就する」という誓いであって、「名号を受持させる(信心決定させる)」という誓いではない。

この文章の、どこか間違いがありましたでしょうか?

何回も管理人様に確認させて頂いた内容です。
今さら間違っていると言われても困りますが…


>★王本願といわれる十八願は「すべての人を一念で信楽、即ち
>正定聚不退転の身に必ず救う」というお約束です。

このように書くと、18願は「名号を受持させる」という意味になってしまうので誤解を与えると思います。書き間違いでしょうか?

もし、仮に

17願…薬を作る
18願…薬を飲ませる

こういう本願だとすると、17願は成就しているが、18願は成就していない、ということになります。
だから、18願を「薬を飲ませる」と解釈するのは間違いです。(このように今まで管理人様から教わってきました)

今回のように、「信楽に必ず救う」と書いてしまうと、信楽になるのは薬を飲んだ時ですから、薬を飲ませる本願になってしまいます。


管理人様は、「おくりびと」に対して、「この文脈だと、重要なところがハッキリしないのです。」と批判されています。
しかし、管理人様の18願の説明では、重要なところを、大変誤解する書き方になっていると思います。

曖昧ではいけませんので、ハッキリとさせて頂けないでしょうか?

1、18願は、名号を作るという約束であり、名号を受持(信心決定)させるという約束ではない。
2、18願は、名号を作るだけでなく、名号を受持(信心決定)させることまで約束されている。

どちらでしょうか?
さぶろう 2009/05/17(Sun)10:16:00 編集


●(管理人→さぶろう氏)

再掲します
さぶろう様へ
 今回急に直したのではなく、貴方の文章の中で不適切なところは
「それは間違い」と指摘するかわりに、正しく書き直して、当方の
返信の中にその都度書いておきました。
 それでもなお、今回のお尋ねですので、再掲します。なお、余りに
長文ですので、手短にいたします。

>★18願は、「受持すれば信楽になれる名号を成就する」という
>誓いであって、「名号を受持させる(信心決定させる)」という
>誓いではない。
>
>この文章の、どこか間違いがありましたでしょうか?

「名号を成就する」は十七願です。

>★王本願といわれる十八願は「すべての人を一念で信楽、即ち
>正定聚不退転の身に必ず救う」というお約束です。

>このように書くと、18願は「名号を受持させる」という意味に
>なってしまうので誤解を与えると思います。書き間違いでしょうか?

 本願成就文に「至心に廻向せしめたまえり」とおっしゃっています。
 阿弥陀如来が作られた南無阿弥陀仏を、十方衆生に廻向して助けて
くだされると、釈尊は教えておられます。
 この廻向について、親鸞聖人は『証文』に
「廻向は本願の名号をもって十方衆生に
あたへたまう御のりなり」
と説かれ、蓮如上人は『御文章』三帖目第八通に、
「阿弥陀如来の凡夫の為に御身労ありて此の廻向(名号)を我らに
与えんが為に廻向成就したまいて」
とあるように阿弥陀仏の本願は、成就完成した名号を一切衆生に
与えて救わんとせられたこと以外にはなかったのであります。
だから、名号を受持させる、で、誤解ではありません。

 ところが、与えようとしておられるのに、疑って受け取らない、
だから、救われないのです。その疑いを「疑情」とか「疑網」と
言われるのです。

>もし、仮に
>
>17願…薬を作る
>18願…薬を飲ませる
>
>こういう本願だとすると、17願は成就しているが、18願は
>成就していない、ということになります。

「成就」の誤解、語用については、前に書いた通りです。
 本願が成就した、とは、十方衆生が一人残らず救われた、という
ことではありません。詳しくは、三つ前のもの「語句の意味を確認」
を、再読してください。

 それ以下の部分は、この「成就」の誤解に由来していますので、
省略します。
管理人 2009/05/17(Sun)23:24:19 編集




あ~ん?(苦笑)←久々w


阿弥陀仏が「名号」を「至心に廻向せしめたまえり」してくれてるのに、「聞」せ~へん人がいるから、「易往而無人」なんでっせ。

それなのに、「十八願」の内容が「名号を受持させる、で、誤解ではありません。」やったら、
「名号を受持してへん人がいるから、極楽は易往而無人」っちゅう、
『無量寿経』の記述に矛盾してしまいますやん(苦笑)。

 ↑
これを、件のサイトのコメント覧に投稿してみましたけど、
どういうリアクションがあるか楽しみ♪

やさしい浄土真宗の教え §11 浄土真宗の「信心」(二種深信)

§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)

「南無阿弥陀仏」の「名号」にどんな意味があるか?
前回までのレクチャーで、ちょっと詳しく解説しました。
今回は、これを踏まえて浄土真宗の「信心」についてレクチャーするで。

一口に「信心」と言っても、
いろんな「信心」があるわけやけど、(注1)

浄土真宗の「信心」は他の「信心」とは全く異なる特別なもんで、
「南無阿弥陀仏」の「名号」を受け取って、
阿弥陀仏がお作りになられたシステムに乗した人の「信心」だけが、
浄土真宗の「信心」になりますねん。(注2)

この様々な「信心」の中で特別な、
浄土真宗の「信心」の内容を明確に表したのが、
所謂「二種深信」ということになるわけですわ。(注3)



「二種深信」の内容に関しては、みんな知ってると思うけど、
一応、簡単におさらいしとくで。
   ↓
 深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。
 一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
 曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。
 二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、
 衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。

(訳)
 深心というのは、とりもなおさず深く信ずる心である。 これに二種ある。
1)一つには、自分は罪深い迷える凡夫であり、 はかり知れない昔から今にいたるまで、
 常に迷いの世界に沈み、常に流転して、 迷いから離れでる機会がないものである、
 と心に決めて深く信じたということである。
2)二つには、かの阿弥陀仏は、
 四十八願をもって衆生をおさめとって救われるのであるから、
 疑いなくためらうことなくかの本願の力に乗じて、
 まちがいなく浄土へ生まれることができる、 と心に決めて深く信じたということである。
 (『観経疏』散善義)

1)・・機の深信
2)・・法の深信

ちゅうことになるわけやけど、

ポイントは、

阿弥陀仏が、どのような衆生を対象にして、
救済するためのシステムを構築したか?
(本願の生起本末)

を聞いて、それがホンマのことやったと、
明らかに「知らされた」「わかった」になると、
(聞きて疑心あることなし)

この「オレ」っちゅうもんは、
はかり知れない昔から今にいたるまで、
自分の力じゃ絶対に迷いの世界から離れることができない、
どうしようもないカス野郎だ!・・1)機の深信

だっちゃうことと、

阿弥陀仏が、そんなカス野郎をお目当てに、
とんでもないご苦労をしてシステムを作り、
それを完成させてくれているから、
そのシステムに乗じることによって、
この「オレ」が絶対間違いなく極楽浄土に往生して、
迷いのない存在になれる(成仏できる)!!・・2)法の深信(注4)


ちゅうことが同時に「知らされた」「わかった」ことになるのよね。

これは、一つの「信心」を二つの角度から見たものだから、
どっちが先っちゅうことじゃなくて、
二つ同時に「知らされた」「わかった」になるもんやねん。


自分が絶対に救われないカス野郎だということが、
「知らされた」「わかった」から、(注5)
それを救うために阿弥陀仏が作ったシステムの凄さも、
同時に「知らされた」「わかった」わけやし、

阿弥陀仏の作ったシステムの凄さが「知らされた」「わかった」ら、
そこまでのシステムがなければ救われなかった、
自分のカス野郎加減も明らかに「知らされた」「わかった」になるわけや。


そういうわけで、
「南無阿弥陀仏」した人に、
「知らされた」「わかった」信心が「二種深信」やから、

「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
いつまでも「南無阿弥陀仏」せ~へん人(無帰命の人)には、
「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にあらへんで(苦笑)。

これは超大切なことやから、
ヘンテコドグマを注入されてる諸君に、
アドバイスしといたるで。

十分、気~つけてや!!(注6)


【今日のまとめ】
 1、様々な「信心」の中でも特別な、
  「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
 2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」
  になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、
  二つの角度から明らかにしたものである。
 3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
 4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
 5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
 6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
  いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
  「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。

※次回は、所謂「異安心」についてやで。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 「信心」(=プラサーダ、信楽)の対象は様々である。

●SraddhA cetasaH prasAdaH. (AKBh 55, 6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

と世親菩薩が『倶舎論』で定義されているように、「プラサーダ」は仏教における代表的な「信」であり、阿弥陀仏信仰に限定されたものではない。

 その証拠に、

●athi kho no Avuso satthari pasAdo, atthi dhamme pasAdo. (MN. I.
11)
(訳)友よ、我々には師に対するプラサーダ、法に対するプラサーダがある。

というように、パーリのマッジマ・ニカーヤ(中部)のような所謂「小乘経典」にも「プラサーダ」は説かれているし、同じくパーリのサムユッタ・ニカーヤ(相応部)には、

●pasAdehi KokAlika SAriputta-MogggallAnesu cittaM. (SN. VI, 9)
(訳)コーカーリカよ、サーリプッタとモッガーラーナに対してお前は心をプラサーダにせよ。

というように、サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラーナ(目連)に対する心の「プラサーダ」が勧められている。

 したがって、仏教において「プラサーダ」の対象は一様ではなく、ある人が「プラサーダ」を起こした際には、その「プラサーダ」が何を対象とした「プラサーダ」であるが問題となる。


注2 「信心」(=信楽、プラサーダ)を得たことが、イコール「南無阿弥陀仏」の六字の「名号」を受け取ったことであることは、§6において、『御文章』5帖13通に基づいて述べた。


注3 「真実の信心」=「二種深信」に関しては以下参照。

『教行信証』信巻の「三心一心問答」には、 第十八願の「至心・信楽・欲生我国」が「信楽」におさまり、それが「一心」であり「真実の信心」であると述べられている。

 ●今三心の字訓を按ずるに、
  真実の心にして虚仮雑ること無し、
  正直の心にして邪偽雑ること無し、
  真に知んぬ、
  疑蓋間雑無きが故に、是を「信楽」と名く。
  信楽は即ち是れ一心なり。
  一心は即ち是れ真実信心なり。

『教行信証』信巻「一心轉釈」には、「真実信心」=「深心」=「深信」=「金剛心」であることが述べられている。
 
 ●然れば、願成就の一念は即ち是れ専心なり。
  専心は即ち是れ深心なり。
  深心は即ち是れ深信なり、
  深信は即ち是れ堅固深信なり、
  堅固深信は即ち是れ決定心なり、
  決定心は即ち是れ無上上心なり、
  無上上心は即ち是れ真心なり、
  真心は即ち是れ相続心なり、
  相続心は即ち是れ淳心なり、
  淳心は即ち是れ憶念なり、
  憶念は即ち是れ真実の一心なり、
  真実の一心は即ち是れ大慶喜心なり、
  大慶喜心は即ち是れ真実信心なり、
  真実信心は即ち是れ金剛心なり、
  金剛心は即ち是れ願作仏心なり、
  願作仏心は即ち是れ度衆生心なり、
  度衆生心は即ち是れ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり、
  是の心は即ち是れ大菩提心なり、
  是の心は即ち是れ大慈悲心なり、
  是の心は即ち是れ無量光明慧に由りて生ずるが故に。
  願海平等なるが故に発心等し、発心等しきが故に道等し、
  道等しきが故に大慈悲等し、大慈悲は是れ仏道の正因なるが故なり。

『愚禿鈔』の「深心」にも、「深心」=「深信の心」=二種の深信=「他力の金剛心」であると述べられている。

  深心と言ふは即ち是れ深信之心なり。
  亦二種有り。
  『一には決定して、
   「自身は、現に是罪悪生死の凡夫、
    曠劫より已来常に没し常に流転して、
    出離の縁有る事無し」
   と深信す。
   二には決定して、
   「彼の阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまふこと、
    疑無く慮無く、彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」
   と深信す』と。
  今斯の深信は、他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

これらによって、「真実の信心」=「一心」=「信楽」=「二種の深信」であることは明らかであり、

「真実の信心かどうか?」 =「一心かどうか?」=「信楽かどうか?」=「二種の深信どうか?」

ということになる。


注4 親●会では、「救われる」という言葉は「信楽になる」という意味だけに使われているようである。
 しかし「法の深信」で知らされるのは、自らが阿弥陀仏のシステムに乗ずることによって間違いなく極楽浄土に往生して、迷いの世界から解放されるということである。
 これは、『観経疏』散善義の本文を読めば明かであり、そのようなシステム全体を、親鸞聖人が「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」と呼ばれたことは§1で既に述べた通りである。


注5 「凡夫」(プリタグ・ジャナ、異生)という言葉は、「輪廻を繰り返して種々の世界に生まれてしまうもの」という意味であり、単なる「愚かな者」「無知な者」ではない。自力では絶対に救われない存在を表す言葉である。


注6 この「ヘンテコドグマ」に関しては§10注4、並びに以下のQ&A参照。

Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」について

Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ

Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」

久々に「若不生者」関連議論(追記あり)

久々に「若不生者」関連議論がありました。
 ↓↓↓
辛口!真宗時評
またも「誰でもお浄土」と説く これが真宗
?  より

【本文】

 「みほとけとともに ~西本願寺の時間~」で、藤 大慶氏
が『「おくりびと」が教えてくれたもの』と題して、次のように
話をされていました。

「おくりびとは、亡くなった人の最期を、心をこめてお送りする
 と言っているのです。これは、どんな人も阿弥陀如来の本願に
 抱き取られて、間違いなくお浄土に参らせていただくというこ
 とが大前提となっています」

 さて、この文脈だと、重要なところがハッキリしないのです。

まず、
(1)どんな人でも、お浄土に参らせていただける
(2)阿弥陀如来の本願に抱き取られた人だけが、間違いなく
   お浄土へ参らせていただける

この二つでいえば、(1)ではないのは、明らかです。(2)こそ
が、宗祖の教えになります。

では、
(3)すべての人は、既に阿弥陀如来の本願に抱き取られている
(4)阿弥陀如来の本願に既に抱きとられた人と、未だ抱きとら
   れていない人とがある
そのいずれなのでしょう。

前述の藤氏の文章では、「どんな人も」と最初にあるものだから、
(3)の意味にとられかねません。(違うならば、そうコメント
をいただきたく思います)
 しかし、親鸞聖人や、覚如上人、蓮如上人のお言葉を拝読する
と、(4)であることは、明らかです。

 蓮如上人は、有名な御正忌の御文に、
「この御正忌のうちに、参詣をいたし、志をはこび、報恩謝徳を
 なさんと思いて、聖人の御前に参らん人のなかにおいて、信心
 を獲得せしめたる人もあるべし、また不信心のともがらもある
 べし。もってのほかの大事なり。その故は、信心を決定せずば、
 今度の報土の往生は不定なり」
と仰せです。
 親鸞聖人報恩講に参詣された方の中に、弥陀の本願に抱き取ら
れた(信心を獲得した)人と、そうでない(不信心の)人とがある。
 「もってのほかの大事だ」と言われています。
 なぜなら、信心獲得(信心決定)していない人、即ち弥陀の本願
に抱き取られていない人は、お浄土には往生できないからだ、と
いうことです。

 その「もってのほかの大事」といわれる部分が、藤氏のお話では、
ボンヤリとしたまま、もしかしたら、そういうところは曖昧にした
ままで、何しろ「死ねば、誰でも、お浄土だ」という(1)の意味
のままで、聞いてもらえたらいいな、という意図なのか、とさえ
思えるのです。

 蓮如上人が「もってのほかの大事」といわれたところを、あえて
ボンヤリと、曖昧にしてしまうのは、なぜなのか。
 「信」「不信」の違い目を、明らかにすることが、できないから
ではなかろうかと、勘ぐりたくもなるのです。
 いかがですか。

【コメント欄】

●(さぶろう氏→管理人)

素朴な疑問

阿弥陀如来は、全ての人を必ず抱き取ると約束されているのですから、未だ抱き取られていない人がいるとすれば、本願が成就していないことになります。

ですから、(3)は正しいのではないでしょうか?

さぶろう 2009/05/09(Sat)19:40:50


●(管理人→さぶろう氏)

薬は完成しても飲まなけりゃ・・・

さぶろう様、コメント有り難うございます。
親鸞聖人は、
「本願名号正定業 至心信楽願為因」(正信偈)
  本願の名号は正定の業なり 至心信楽の願を因と為す
 すべての人を、この世で「正定聚」に救う力のある本願の名号、
即ち「南無阿弥陀仏」は、十劫の昔に、すでに完成している。
 これは、至心信楽の願が因となって出来たものだ、と仰せです。
 すなわち、私たちを救う力のある名号は、すでに成就しているのです。

 そして覚如上人が、
「我すでに本願の名号を持念す。
 往生の業すでに成弁することを喜ぶ」(執持抄)
とおっしゃっていますように、名号を受持すれば、報土往生できるのです。
 問題は、名号を受持したか、どうかです。

 たとえて申せば、薬は完成していても、それを飲めば病は完治しますが、
薬の効能を疑って服用しなければ、病気は治りません。
 大切なのは、薬を飲むか、どうかです。

 すでに成就された本願の名号を、受持したかどうか。そこが、最も
大切なのです。

 ということをふまえて、本文を再読していただけば、問題点が
お分かりいただけるのではないかと思います。

管理人 2009/05/10(Sun)23:58:46


●(さぶろう氏→管理人)

無題

お返事ありがとうございます。

「我すでに本願の名号を持念す。
 往生の業すでに成弁することを喜ぶ」(執持抄)
とおっしゃっていますように、名号を受持すれば、報土往生できるのです。

これを読むと、名号の働きは、報土往生させることのようですね。


至心信楽の願が因となって出来たのが名号ですから、
至心信楽の願というのは、「報土往生させる」という願なのですね。

今まで勘違いしておりました。
どうも有難うございました。

さぶろう 2009/05/11(Mon)00:32:00


●(管理人→さぶろう氏)

この世で正定聚 死ねば報土往生

さぶろう様へ
さっそく御覧いただき、有り難うございます。
「本願の名号は正定の業なり」(正信偈)
名号には、私たちをこの世で正定聚不退転に救うはたらきがあります。
 それは、全ての人をこの世で正定聚に救う、と誓われている弥陀の
十八願(至心信楽の願)が、因であります。
 そのために、十七願には、全ての人をこの世で正定聚に救う力のある
南無阿弥陀仏の名号を成就すると誓われています。
 その名号は既に完成していますから、これを受持すれば、この世で
正定聚になれます。
 さらに、
「成等覚証大涅槃
 必至滅度願成就」(正信偈)
この世で等覚(正定聚)になった者を必ず極楽に生まれさせる、と
誓われた十一願(必至滅度の願)が成就していますから、この世で
正定聚に救われた人は、死ぬと同時に報土往生できるのです。
つまり
 ・十七願で、名号を成就された
 ・十八願で、名号を受持する一つでこの世で正定聚に生まれる、
そうなった人は、
 ・十一願で、死ぬと同時に報土往生できる、
そして
 ・その名号を受持するところまで、私たちを導かれるための方便に
  建てられたのが、十九願と二十願である

親鸞聖人は、これを教行信証に、詳しく明らかにしてくださっています。

短いコメント欄では、説明が尽くせませんが以上、補足しておきます。
管理人 2009/05/11(Mon)07:01:06
たびたびすみません
すみませんが、理解が混乱しております。

>「本願名号正定業 至心信楽願為因」(正信偈)
>  本願の名号は正定の業なり 至心信楽の願を因と為す
> すべての人を、この世で「正定聚」に救う力のある本願の名号、
>即ち「南無阿弥陀仏」は、十劫の昔に、すでに完成している。
> これは、至心信楽の願が因となって出来たものだ、と仰せです。
> すなわち、私たちを救う力のある名号は、すでに成就しているのです。

前回は、このように教えて頂きましたが、
これを読みますと、十八願が因となって、名号が成就したことになります。

>・十七願で、名号を成就された
>・十八願で、名号を受持する一つでこの世で正定聚に生まれる、

今回は、名号を成就するのは十七願だと教えていただきました。

十八願は、「名号を成就する」という本願でしょうか?
それとも、「名号を受持させる」という本願でしょうか?

たびたび申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

さぶろう 2009/05/12(Tue)13:25:30


●(管理人→さぶろう氏)

病を治したい それには薬を作らねば

さぶろう様

 書き方が悪くて、分かりにくくなり、すみません。整理して書きましょう。

 弥陀の18願は「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と誓われました。

 譬えて言えば、「全人類の病を治してみせる」とのお約束です。

 しかし、それには、病を治す力のある薬を作らねばなりません。
「そういう薬を、作ってみせる」と誓われたのが弥陀の17願です。

 その17願によって、名号は成就しました。
 あとは、それを受け取る一つで、つまり薬を飲む一つで、病は
全快します。

 これでお分かりのように、「薬を作るぞ」という17願は、「病を
治すぞ」という18願が因となっております。

 逆にいえば、「病を治すぞ」という18願がなければ、「そのための
薬を作るぞ」いう17願も、出てこなかったのです。

 これを、
「本願の名号は、正定の業なり
 至心信楽の願を因と為す」
といわれているのです。

 名号には、どんな力があるのかを、親鸞聖人は、
「無碍光如来の名号と
   かの光明智相とは
   無明長夜の闇を破し
   衆生の志願をみてたもう」
南無阿弥陀仏には、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破るはたらきがある
全人類を永遠の幸福に救うという弥陀の願いが、私たちの上に満たされるのだ
と言われています。

 これを、名号には、「破闇満願」のはたらきがある、と言われるのです。 
 ゆえに、これを受持する一念で、全人類は救われるのです。

 くれぐれも間違ってはならないのは、阿弥陀如来のお手元に、十劫の昔に
南無阿弥陀仏が完成していても、それを私たちが受け取らなければ、助から
ない、ということです。
 名号が成就したこと、つまり薬が完成したことと、病が治ったこととは、
全く違うのです。
 薬が出来たことと、病が治ったことを勘違いした誤りが、十劫安心の
異安心といわれ、厳しく戒められていますから、よくよく注意したいと思います。

 それを戒められた蓮如上人のお言葉を、最後に挙げておきます。

◆『十劫正覚の初めより、我らが往生を定めたまえる、弥陀の御恩を
 忘れぬが信心ぞ』といえり、これ大いなる過なり、そも弥陀如来の
 正覚を成りたまえる謂を、知りたるというとも、我らが往生すべき
 他力の信心という謂を知らずば徒事なり」     (『御文章』一帖十三通)

◆『十劫正覚の初より、我らが往生を弥陀如来の、定めましまし
 たまえることを、忘れぬが即ち信心のすがたなり。』といえり。
 これさらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分なし、されば、
 いかに十劫正覚の初より、われらが往生を定めたまえることを知り
 たりというとも、われらが往生すべき他力の信心の謂をよく知らず
 ば、極楽には往生すべからざるなり」     (『御文章』二帖十一通)

◆『夫れ弥陀如来は、すでに十劫正覚の初より我らが往生を定め
 たまえる事を、今に忘れず疑わざるが即ち信心なり』とばかり
 心得て、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくば、報土往生
 すべからず、されば、そばさまなる悪き心得なり」     
           (『御文章』三帖八通)

管理人 2009/05/12(Tue)14:28:19


●(さぶろう氏→管理人)

ありがとうございました。

ご解答ありがとうございました。

>弥陀の18願は「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と誓われました。

この18願が成就しているのであれば、全ての人がこの世で信楽の身に救われますから、浄土往生できない人は存在しないことになります。


>これでお分かりのように、「薬を作るぞ」という17願は、「病を
>治すぞ」という18願が因となっております。

「薬を作るぞ」という17願が成就していることは分かりましたが、
「病を治すぞ」という18願は、成就しているのでしょうか?

重ね重ね申し訳ありませんが、お願いいたします。

さぶろう 2009/05/13(Wed)18:17:17


●(管理人→さぶろう氏)

十八願成就文

さぶろう様
 さっそく見ていただけたようで、有り難うございます。
 お尋ねの内容は、まさに浄土真宗、親鸞聖人の教えの核心に、
迫りつつあります。

 親鸞聖人は、
「横超とは即ち願成就一実円満の真教真宗これなり」(教行信証)
とおっしゃって、願成就の教えこそ、唯一の真実であり、完全無欠
の教えであり、真実の教えであり、真実の宗教であって、真宗とは
まさにこれである、と教えられています。
 三代目の覚如上人は、
「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の信心歓喜乃至一念
等の文をもって依?とす。このほかいまだ聞かず」
とおっしゃって、願成就の教え以外、親鸞聖人からお聞きしたこと
はない、と断言されています。
 つまり、願成就の教えに反するものは、親鸞聖人の教えではないし、
願成就の教えに反する信心は、真実の信心でもない、ということです。

 これで明らかなように、願成就の教え以外に、親鸞聖人の教えは
ありません。
 それほど重要な、十八願成就文とは、何か。それは、弥陀の
十八願を、釈尊が私たちに解説してくだされたお言葉です。
 そこには、こう教えておられます。

「諸有衆生 聞其名号
 信心歓喜 乃至一念
 至心回向 願生彼国
 即得往生 住不退転
 唯除五逆 誹謗正法」

その名号を聞く、即ち名号を受持する一念で、信心歓喜と救われる
のだ、と釈尊は、教えておられます。
 これが、十八願成就文の教えです。

ですから、成就しているというのは、決して「既にみな救われている」
ということではないのです。

「金剛堅固の信心の
 さだまるときをまちえてぞ
 弥陀の心光摂護して
 ながく生死をへだてける」(親鸞聖人)
 信心さだまる時(一念)、即ち名号を受持した一念で、弥陀の
心光に摂取されて、永遠に生死をはなれることができる、すなわち、
救われると仰せです。

 ですから、再三申しますように、あとは私たちが名号を受持する
一つにかかっているのです。

 もし、十八願は成就しているから、既にみな報土往生が決定して
いるのだ、ということになれば、願成就文に、
「その名号を聞いて救われるのだ」
と教えられた釈尊のご教導に反します。

 ここから先は、十八願成就文の、極めて重要な内容になりますので、
どうぞ善き師を求めて、直接、ご教導を仰いでくださいますよう、
お願いします。

管理人 2009/05/13(Wed)21:46:08


●(さぶろう氏→管理人)

たびたびありがとうございます

何度もありがとうございます。

> もし、十八願は成就しているから、既にみな報土往生が決定して
>いるのだ、ということになれば、願成就文に、
>「その名号を聞いて救われるのだ」
>と教えられた釈尊のご教導に反します。


もし十八願が、「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」という誓いであるならば、信楽の人は、必ず報土往生できるのですから、すべての人の報土往生が決定していることになります。

十八願を「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と解釈することは、願成就文に反すると思いますが、どうでしょうか?


さぶろう 2009/05/13(Wed)22:40:41

●(管理人→さぶろう氏)

本願の名号を受持する一つ

さぶろう様
 さっそく見ていただいたようで有り難うございます。
「名号を受け取る一つで救われる」ように、成就している、ということです。
 そこまでは、阿弥陀如来が成就してくだされました。
 あとは私たちが、その名号を、受持する一つなのです。

 ところが、親鸞聖人が
「生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしずめるわれら」
と仰せのように、なぜ私たちに苦しみ悩みが絶えないかといえば、
いまだ本願の名号を受持していないからなのです。
 つまり、この世でまだ信楽の身に救われていないからです。
 だからこそ、
「あわれあわれ、存命のうちに、みなみな信心決定あれかしと
 朝夕思いはんべり」(ご遺言)
とおっしゃって、一日も早く、本願の名号を受持(信心決定)せよと、
すすめていかれたのでした。

 繰り返しになりますが、十八願がどのように成就されているかといえば、
「本願の名号を受け取る一つで救われる」ようになされているのです。
 あとは、あなたが受け取る一つなのです。

 本願の名号を受持した一念で、弥陀のご苦労が知らされ、親鸞聖人は
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
 されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんとおぼしめしたちける、
本願のかたじけなさよ」(歎異抄)
と、五劫兆載永劫のご苦労に感泣し、そのご恩を感謝なされて、
「如来大悲の恩徳は
   身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
   骨を砕きても謝すべし」(恩徳讃)
と、命がけのご恩報謝に突き進まれたのです。
 どうか、一日も早く、本願の名号を信受させていただきましょう。

管理人 2009/05/14(Thu)10:17:12


●(さぶろう氏→管理人)

確認です

読解力が乏しいようで、肝心なところが不明なので、確認させてください。

>「名号を受け取る一つで救われる」ように、成就している、ということです。
> そこまでは、阿弥陀如来が成就してくだされました。
> あとは私たちが、その名号を、受持する一つなのです。

つまり、十八願では、「受け取る一つで救われる働きのある名号を作る」ということが誓われているのであって、「その名号を受持させる」ということは誓われていない、ということですね。

誤解があってはいけませんので、よろしくお願い致します。

さぶろう 2009/05/14(Thu)10:26:49


●(管理人→さぶろう氏)

繰り返しますが

さぶろう様へ

 繰り返しになりますが
十七願に「名号を完成させる」と誓われ、
十八願に「その名号を受け取る一つで信楽に救う」と誓われています。
(このことは、もう幾たびも書いてきたことですので、よろしく)

 親鸞聖人は、こう書かれています。

「もしこのたび、疑網に覆蔽せられなば
 かえりてまた曠劫を逕歴せん」(教行信証)

 残念ながら、今生で本願に疑いが晴れぬ(名号を受持せぬ)まま、
ということは、救われぬまま終わる人もありましょう。そうなれば、
曠劫を逕歴せねば(永く苦患に沈まねば)なりません。
 これを後生の一大事といわれます。

 しかし、阿弥陀如来のご念力は、十方衆生が救われるまで、休まれる
ことはありません。
 未来、再び人間に生まれたときに、何とか名号を受け取らせようと、
全力あげてくださっています。その時でもだめならば、その次、三度、
人間界に生を受けたときにでも、と。

「三恒河沙の諸仏の
   出世のみもとにありしとき
   大菩提心おこせども
   自力かなわで流転せり」(親鸞聖人)

 私たちは、過去幾億兆の生死を繰り返し、何度も仏縁にあい、仏法を
聞き求めてきながら、名号を受持するところまで求めきれないで、迷い
を繰り返してきたのです。
 親鸞聖人も、自分もそうだったと、述懐なされたお言葉です。

 果てしなく六道を回り続けてきた私たち。
 今生こそは、本願の名号を受持(信心獲得)するところまで、
聞きぬかせていただきましょう。

管理人 2009/05/14(Thu)13:27:06


●(さぶろう氏→管理人)

誤解が解けました
誤解の余地の無いよう、明快にご解答いただき、ありがとうございました。

>十八願に「その名号を受け取る一つで信楽に救う」と誓われています。

十八願は、無条件で信楽に救うのではなく、「名号を受け取った人だけを信楽に救う」と誓われているのですね。よく分かりました。


> 残念ながら、今生で本願に疑いが晴れぬ(名号を受持せぬ)まま、
>ということは、救われぬまま終わる人もありましょう。そうなれば、
>曠劫を逕歴せねば(永く苦患に沈まねば)なりません。

十八願は、「名号を受持させる」とは誓われていないので、名号を受持せぬまま死ぬ人もあるのですね。よく分かりました。

結論としては、

「名号を受持すれば信楽に救われるが、名号を受持させるとは誓われていないので、信楽に救われずに死ぬ人もある。
 だから、すべての人が浄土に参らせていただけるのではない。」

これでよろしいですね。
間違いがあればご指摘ください。
さぶろう 2009/05/14(Thu)13:53:10 編集


●(管理人→さぶろう氏)

果遂の誓い

さぶろう様へ

「誤解がとけました」とのコメント、有り難うございました。
 一点だけ、誤解を解いておきます。

>「名号を受持すれば信楽に救われるが、名号を受持させるとは
>誓われていないので、信楽に救われずに死ぬ人もある。
> だから、すべての人が浄土に参らせていただけるのではない。」

「誤解」といったのは、十方衆生が名号を受持するところまで、即ち
信心決定するまで、阿弥陀如来は何もなされていない、何も誓って
おられない、というのは、誤りだということです。

 何とか、信楽の身に救われるところまで、即ち十八願の救いにあう
ところまで、十方衆生を導こうとしておられるのが、弥陀の十九願と
二十願の、方便の二願なのです。

 名号を受けとる一つで救う、しかし、そこまではお前たちの力で
求めて来い、と言われても、私たちには、求める手立てがありません。
 そこで、阿弥陀如来は、聞く一つで救われるところまで、どのように
求めていけばよいのか、その道程も教えてくださっています。
 それが、十九願と二十願です。
 よって、十八願を真実(真)の願といい、十九願と二十願を方便(仮)の願といいます。
「願海につきて、真あり、仮あり」(教行信証)
とは、そのことを言われているのです。
 「従仮入真」といわれるように、仮よりしか真には入れません。
 方便がなければ、一人として、真実の世界には入れないのです。
 宗祖親鸞聖人は、『教行信証』に、この親鸞も、十九願、二十願の
弥陀のお力によって、十八願の世界、即ち、選択の願海に入ったぞ、
と仰せです。
 長くなりますが、その有名な三願転入のお言葉を挙げておきましょう。

「ここをもって愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、
久しく、万行諸善の仮門(十九願)を出でて、永く雙樹林下の往生を
離れ、善本徳本の真門(二十願)に廻入して、偏に、難思往生の心を
発しき。
 然るに今、特に、方便の真門(二十願)を出でて、選択の願海(十八願)
に転入し、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。
果遂の誓、良に由あるかな。
 ここに久しく願海(十八願)に入りて、深く仏恩を知れり。」(教行信証)
 
 まず、阿弥陀仏の本願に、真実(真)と、方便(仮)のあることを
判定し、十八願を真実、十九・二十の二願を、方便と断定されています。
 真実とは、本心のこと。
 十八願には、弥陀の本心(どんな人をも、必ず信楽=絶対の幸福
に救いとる)が、誓われているから、真実といわれます。
 方便は、方法便宜の省略で、目的を果たす、方法手段をいいます。

「十九・二十の二願は、弥陀が目的(十八願)を果たす、方法手段に
誓われたもの。
 従って、三願は、無関係に孤立したものではない」

 これが、親鸞聖人の見解であり、宣言であります。

「十九・二十の二願は、弥陀が
目的(十八願)を果たす、方法手段に誓われたもの」なのです。
 この点を、よくよく知っていただきたいと思います。

 余りに長くなりましたので、これまでと致します。
管理人 2009/05/14(Thu)17:25:32 編集


●(さぶろう氏→管理人)

そうしますと…

ご丁寧な解説、ありがとうございました。

十九願、二十願のお導きはありますが、
十八願において、「今生で名号を受持させる」と誓われているわけではないことが、明らかになりました。

だから、力及ばずで、信楽に救われずに死ぬ人があることも分かりました。


そうなりますと、以前に教えていただいた、

>弥陀の18願は「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と誓われました。

というのは不適切ということでしょうか?
さぶろう 2009/05/14(Thu)22:38:58 編集


 ↑↑↑
これで、親●会ドグマの論理崩壊で、
完全にチェックメイトですわね(苦笑)。

なんかぐちゃぐちゃ言い訳してるけど、
親●会ドグマのヘンテコさは誤魔化せてまへんな(笑)。
 ↓↓↓

●(管理人→さぶろう氏)

願わくは深く無常を念じ

さぶろう様
 だからこそ、親鸞聖人は、『教行信証行巻』に、
「呼吸のあいだ即ちこれ来生なり。
 ひとたび人身を失いぬれば万劫にもかえらず。
 この時さとらざれば、仏、衆生をいかがしたまわん。
 願わくは深く無常を念じ、いたずらに後悔を残すことなかれ」
と、ご教導くださり、蓮如上人も『御文章一帖』に、
「命のうちに、不審(本願を疑う心)もとくとく晴れられ候わでは、
 定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候」
と、教誨くださっているのです。
 一日も片時も急いで、信心決定せよと、両聖人はお勧めになっているのです。

 とはいえ、蓮如上人もご遺言に仰せの通り、すべては、
「まことに宿善まかせ」(御文章五帖)
であります。救われるかどうか、宿善まかせとまでおっしゃっています。
 それは、両聖人の独断ではなく、
「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れり」(御文章三帖)
あらゆる経典やお聖教に、明らかなことなのです。
 さらに、
「無宿善の機にいたりては、力及ばず」(御文章四帖)
「無宿善の機は、信心をとり難し」(御文章三帖)
宿善の無い人は助からないのだ、と仰せです。
 宿善がいかに重要な問題か、お分かりでしょう。
 だからこそ、親鸞聖人は、
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証)
とおっしゃり、信心獲得(名号を受持)したならば、遠く宿縁を慶ばずには
おれない、と述懐しておられるのです。
 蓮如上人も
「宿善有り難し」(御一代記聞書)
とおっしゃっています。


 さて、最初のさぶろうさんの疑問に戻るならば、
「すでに救われている人と、いまだ救われていない人がいる」のは、なぜか。
それは、ひとえに宿善の相違によるのです。
 最後に、それを教えられた蓮如上人のお言葉をお示ししましょう。

「陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は早く開くなり。
 陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。
 かように宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。
 弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もある。
 とにかくに信・不信ともに、仏法に心を入れて聴聞すべきなり」
(蓮如上人御一代記聞書309)

管理人 2009/05/15(Fri)11:05:22 編集




追記

ぐちゃぐちゃした言い訳は全く通用せず、
親●会ドグマのヘンテコさは、
管理人氏によって見事に証明してくれました。
 ↓↓↓

●(さぶろう氏→管理人)

感謝です

毎回、懇切丁寧なお返事、ありがとうございます。
管理人様の誠実で真摯なお人柄が、文章を通して伝わってくるようです。

弥陀の18願を「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と解釈するのは不適切であり、だからこそ、両聖人が「一日も片時も急いで信心決定せよ」とお勧めになっているのだと分かりました。

確かに、この世で信心決定させることまで誓われていて、それが成就しているならば、急いで信心決定を求める必要はないですからね。

非常に納得しました。

ところが、世の中には、「すべての人を信楽に救う」という願が成就していると、間違って教えている人もあります。私もそれを聞いて信じていました。

管理人様のお陰で、間違いが分かりました。心から感謝を申し上げます。
さぶろう 2009/05/15(Fri)13:42:57 編集




管理人氏のおかげで、
親●会ドグマの間違いがわかってよかったね。

Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」

Q。
いつもありがとうございます。
今回はちょっと内容が難しく、特に親●会で長年聴聞している人にはわかりにくい気がしました。
もうすこしわかりやすく、浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」の違いについてまとめて頂けませんか?


A。
そんなに難しかったですか?
親●会関係者じゃない方には、
すんなりわかってもらえたんですけどね~(苦笑)。

繰り返しになりますが、
浄土真宗の「南無阿弥陀仏」は、
この身を阿弥陀仏におまかせして「南無」し、
阿弥陀仏の「本願招喚の勅命」に「したがひて召しにかなふ」ものであり、
衆生が、阿弥陀仏が与えてくださった行を受け取り、
阿弥陀仏の「召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう」ものであり、
阿弥陀仏の「選択本願」であり、
衆生が間違いなく、極楽浄土に往生する「正定の業因」です。

「帰命無量寿如来」も、「阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり」
と蓮如上人が解釈されていますから、全く同じ意味です。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。


わかりやすく図にしてみました。
    ↓


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因



一方、親●会の「南無阿弥陀仏」は、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」を、
「親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ」
と解釈していることから明かなように、
「救われた」「助けられた」後に限定されたものです。

したがって、「救われた」「助けられた」状態になるまで、
「南無阿弥陀仏」しませんので、
衆生が、「本願招喚の勅命」に「したがひて召しにかなふ」こともなく、
阿弥陀仏が与えてくださった行を受け取り、
阿弥陀仏の「召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう」こともありません。

そして、そのような衆生が、阿弥陀仏の「選択本願」によって、
極楽浄土に往生することはありませんので、
親●会の「南無阿弥陀仏」は、
衆生が永久に「救われた」「助けられた」にはなれない「南無阿弥陀仏」です。

これは、明らかに善導大師や親鸞聖人や蓮如上人と異なった「南無阿弥陀仏」であり、
浄土真宗の「南無阿弥陀仏」ではありません。


こんなもんで、よろしゅうございますでしょうか?

Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ

Q。
今回は根拠が豊富で、壮観ですね。反論の余地のない論文という感想です。
今回のところは、会員にとって、耳にたこができる程、聞かされた内容で、根拠も
知っているものが多いのですが、『教行信証』『尊号真像銘文』については、知らず、
目から鱗の感じになると思います。

ただ、「南無」を「助かった」「救われた」と直訳するのはおかしいことはわかりますが、
「意訳であっても間違いだろうか?」という疑問は残るのではと思います。

いかがでしょうか?


A。
間違いです(苦笑)。

「南無」の元になるサンスクリット語“namas”は、
「腰をかがめる」「おじぎをする」という意味の動詞“√nam”から派生した言葉で、
そこから相手に対して自分を「お任せする」「帰依する」という意味が出てきます。

浄土真宗では所謂「報恩感謝の念仏」が言われていますが、
これを阿弥陀仏に対する「お礼」などと言うのは全くおこがましい話です。

この身を阿弥陀仏におまかせして「南無」し続け、
自らの口から出る「本願招喚の勅命」の念仏を聞きながら、
「勅命にしたがひて召しにかなふ」生き方をし、
間違いなく極楽浄土に往生し成仏することこそが、
何もすることができない私達が、
阿弥陀仏の御恩に報いる最高の「報恩感謝」です。

阿弥陀仏の本願を無駄にしないこと以上の、
「報恩感謝」は存在しません。

§10の注3であげた蓮如上人『御文章』の言葉は、
全てそのような意味の言葉です。

既に、親●会における念仏不要論に対する批判がなされていますが(※)、
そういう点でも、親●会ドグマは二重三重に複雑に、
沢山の間違いを積み重ねているような気がします。

また後で、浄土真宗の大行論、念仏の位置づけの話で、
このことに関しては詳しく解説する予定ですが、
§10の注3で挙げた蓮如上人の言葉は、
とても大切ですので、しっかり何度も読んでください。


※以下の記事を参照

 清森問答 質疑応答164

 同 親鸞会教義の相対化・76(投稿)

Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について

Q。
いつもありがとうございます。

「南無阿弥陀仏」の意味について教えて頂きましたが、
結局、高●先生の「南無阿弥陀仏」の理解が、間違っていたのでしょうか?


A。
高●先生の話を直接聞いておりませんし、直接確認をしたわけではありませんが、
少なくとも、公式HPやその記事の元になる「顕正新聞」に書かれた、
「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」を、
「親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ」
と解釈する理解は、明かに親鸞聖人や蓮如上人とは異なったものです。

繰り返しますが、蓮如上人著『正信偈大意』を読めば、
「阿弥陀如来に南無したてまつれ」と書かれております。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。

高●先生のような解釈は、どこまでも個人的な「味わい」なわけであり、
「あじわい」と断った上で述べるのであればギリギリセーフですが、
この「味わい」は既にドグマ化され、会員さんに徹底されてしまってますので、
問題は大変深刻だと思います。

やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ

§10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ

『教行信証』の「南無阿弥陀仏」の解説が、

 ★「帰命」→「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」
  という【勅命】

 ★「発願回向」→「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
  という【発願・回向】

 ★「即是其行」→「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」
  という【選択本願】

という【阿弥陀仏が】を主語にしたもので、
全~部【阿弥陀仏が】作って与えてくださったものであることを、
前回ちょっと詳しく解説しました。


そんでもって、これを衆生の立場から言うと、
この【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、

すなわち、【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を、
【衆生が】獲得するということになる。

・・ちゅうことも、既に述べてきた通りでござりまする。(注1)


今回は、親鸞聖人のもう一つの「南無阿弥陀仏」の解釈を読むと、
このことが、超ウルトラスッキリよくわかるという話や。


さっそく、『尊号真像銘文』を読んでみましょう!!(注2)

 ★「帰命」  →【衆生が】勅命にしたがひて召しにかなふ    
 ★「発願回向」→【衆生が】召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう
 ★「即是其行」→【衆生が】安養浄土(へ往生すること)の正定の業因

ちゅうことで、
主語が【阿弥陀仏が】じゃなくて、
【衆生が】になっているちゅうことに注目!


★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》となり、

★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》となり、

★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
【衆生が】極楽浄土に百パーセント往生するための業因(正定の業因)にすると、
《即是其行》になるわけや。


というわけで、「南無阿弥陀仏」の働き一つで、
【阿弥陀仏が】構築してくれたシステムは完全に作動して、
オイラのような【衆生が】、
間違いなく極楽浄土に往生し最終的に成仏できるわけやね。

せやから「南無阿弥陀仏」が超大事なんやで!(注3)


これからは、阿弥陀仏のシステムに乗ずるために、
阿弥陀仏に関係のないようなショウモナイ話はエエし、
「南無阿弥陀仏」の「名号」を「聞」する、
浄土真宗の「聴聞」をしてや。


間違ってもどっかの親●会のように、
「南無」を「救われた」「助けられた」とか、
勝手にヘンテコな解釈しちゃだめよ(苦笑)。(注4)(注5)

「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」せ~へんかったら、
永久に「南無阿弥陀仏」せえへんようになるで(苦笑)。
こんなヘンテコドグマに従ったら、絶対アカンで!


【今日のまとめ】
 1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
 「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
 ★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
  【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
 ★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
  【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
 ★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
  【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
  として解釈されている。
 2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
  善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
 3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
  永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
 4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。


次回は、「南無阿弥陀仏」になった人の信心である、二種深信についてやで!!


――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 これに関しては§7で詳しく述べた。


注2 『尊号真像銘文』

●「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。
「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。

(訳)
「言南無者」というのは、すなわち「帰命」と言う言葉である。
「帰命」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の勅命にしたがって、招きに従って二尊の御心に適う」という言葉である。このようなわけで「即是帰命」と善導大師は仰っておられる。
「亦是発願回向之義」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の招きに従って、極楽浄土へと生まれようと願う心」であると善導大師は仰っておられる。
「言阿弥陀仏者」というのは、「即是其行」と言われている。即是其行とは、阿弥陀仏の選択本願であると知るべきであり、これこそが衆生が極楽浄土へ間違いなく往生することが定まる業因(正定の業因)なのである。


注3 以下の『御文章』の言葉は、これまでに述べてきた内容を蓮如上人がわかりやすく解説したものばかりである。

●3帖2通(以下、3-2のように省略する)
さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。
されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。
かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。


●3-4
しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。
されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。

●3-5 全文

●3-6 全文

●3-7
そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。
しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。

●3-8 全文

●4-6
それ南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なりとおもふべし。そのゆゑは、「南無」といふは帰命なり。「即是帰命」といふは、われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。そのたのむこころといふは、すなはちこれ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して往還二種の回向を衆生にあたへましますこころなり。されば信心といふも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。ちかごろは、人の別のことのやうにおもへり。

●4-8
一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

●4-11 全文

●4-14 全文

●5-8
それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。
されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。

●5-9
当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。

●5-11
他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。

●5-13 全文

●5-22
されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。
さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。


注4 例えば『正信偈』冒頭を以下のサイトのように解釈するのは誤りである。

浄土真宗親鸞会 公式ホームページ 伝えたいことがある


「帰命無量寿如来
 南無不可思議光」

 無量寿如来も不可思議光も、本師本仏の阿弥陀如来の別名であるから、〝親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ〟と、これは叫ばれているのである。

※「このサイト文章は2008年の顕正新聞上に掲載されたものですが、高森会長の作文ではありません」(某メル友氏談)

親鸞会広島

親鸞会岩手

親鸞会三河

※この解釈に関する、某メル友A氏談(元親●会講師)
高森会長自身の名前が入った著作にはこの正信偈の表現はあえて書かないようです。
というのは、会長自身が以前講師部対象の講義で
「正信偈の最初の2行を、親鸞は救われたぞというのは、あれはわざといっているのだ。だから文章で書いてはならない」と言っていました。
そのため、10分間説法という原稿には記載はされていますが、これは一般の人が手に入らないものです。しかし、高森会長が常にそうやって話をしているので、親鸞会関係のサイトにはこの記述が多くあります。

※この解釈に関する、某メル友B氏談(元親●会講師)
あの解釈は毎月の法話で必ず高森会長もしくは
アシスタント(かつては私もしましたが)がする説明です。
高森会長は「南無や帰命をこのように説明するのは自分だけ」
と言っています。
六字釈そのものはほぼ間違いなく説明するのですが、
おもしろいことです。

※この解釈に関する、某メル友C氏談(元親●会講師)
これについては高森先生も、自分しか言わないことだと自覚しており、
突っ込まれることは極力、欠かない性格ですので、
説法では、何百回と聞いてきましたが、
直接、筆を持って書いたものはないと思います。


注5 蓮如上人著『正信偈大意』を読めば「阿弥陀如来に南無したてまつれ」と書かれており、注4で紹介したような解釈が浄土真宗から逸脱したものであることは明かである。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。

「親鸞会は『後生の一大事を知る』どころか正反対の解釈ですよ」だそうです。

高森先生の親鸞会教学を検証する
親鸞会は「後生の一大事を知る」どころか正反対の解釈ですよ より



教学聖典(1)

問(44)吸う息吐く息と触れ合っているのが「後生の一大事」だ、と教えられている『教行信証』のお言葉を記せ。

答(44)

○呼吸の頃すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ。



ついにでました、「後生の一大事」!

うん、これを特に検証したかったんですよ。
親鸞会の教えでもっとも重大でクリティカルな問題だから。
ここ一つで親鸞会に束縛されている人も多いと聞きますから。

で、「人身を失いぬれば万劫にも復らぬ」ことが「後生の一大事」だとおっしゃるわけですか?

ところで高森先生、この後生の一大事について、かつて本願寺と論争されましたね。
で、私は親鸞会の講師から、本願寺は後生の一大事を説いていないとか聞かされたんですが。

ちなみに、私の手元に、その本願寺の司教が出版した、親鸞会に対する論文があります。
そこでは、後生の一大事について、経典や善知識方のお聖教の根拠を出して、述べられておりますよ。

その中の後生の一大事に関する部分を、一部引用させて頂きましょう。

親鸞会の会員さんには(都合が悪いから)隠されている論文です。

※ちなみにこの論文を書いた紅楳英顕先生からは、引用の許可をちゃんと得ています。
(大沼さんからの引用を隠してる高森先生とは違います)

紅楳英顕さんは、ご自身も信心決定されて、教学力もあり、大変ご立派な方です。
親鸞会の人は、知らないだけですね。
どうして会った事も無い人を、あれだけ批判できるんでしょうか?


-------------------------------------------------------------------------------------


『派外からの異説について』(紅楳英顕氏・著)

(P36~)

 二、後生の一大事の問題

次に、後生の一大事の問題についてであるが、これについて、高森親鸞会は、

後生の一大事とは何か。人間は必ず一度は死なねばならない。では人間は死んだらどうなるのか。
釈尊は必堕無間と、四十五年間叫びつづけられた。「一切の人は死んだら必ず無間地獄におち
八万劫年の間大苦悩をうけねばならない」これを後生の一大事という。(『顕正新聞』第205号)

仏法を聞く目的は後生の一大事の解決に極まる…一大事というは取り返しのつかないことを言うが、
それは無間地獄に堕在するということである。曽無一善・一生造悪が我々の実相であるから、
因果の道理に順じて、必ず無間地獄へ堕ちる、これを経典には必堕無間と説かれている。(『白道燃ゆ』137頁)

親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示下された生死の一大事とは、どんなことかといいますと、
これは後生の一大事ともいわれていますように、総ての人間はやがて死んでゆきますが、
一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。
(『こんなことが知りたい1』6頁)

等と主張している。後生の一大事を「必ず無間地獄に堕ちる」という意に取り切り、しかも、
これによって恐怖心をあおり「非泣悶絶」の苦しみを経ねばならぬという、いわゆる機責めの傾向がうかがえるのである。
これに対して、私は疑義を呈し、論文で「後生の一大事ということは、往生浄土(極楽)の一大事、
あるいは往生浄土(極楽)出来るかどうかの一大事、という程度の意味」であるとの見解を示したわけである。
『本願寺の体質を問う』では、こうした私の見解に対する反論非難が行われているのであるが、これについても、
前の宿善論と同様、宗祖聖人や蓮如上人の上ではっきりした文証を挙げての反論ではないから、
私は反論とは認められないと考えている。
「後生」とは、文字通りの意味は「今生」に対する「後生」であろうから、必ずしも往生の意味だけではない。
しかし、論文や、高森親鸞会に対する返信(八月三日)で述べたように、『大経』に、

 後生無量寿仏国

とあって、後生の一大事の「後生」という語は、この「後に無量寿仏国に生まれる」が出拠と考えられる。
蓮如上人も、

されば、死出の山路のすえ三塗の大河を唯一人こそ行きなんずれ、これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、
またたのむべきは弥陀如来なり。(『御文章』1の11)
しかれば阿弥陀如来を何とようにたのみ、後生をばねがふべきぞというに…(『御文章』5の10)

等と教示されているように「後生」を往生浄土の意味で語られているのである。
また「一大事」についてであるが、「一大事」とか「大事」とかは、本来「転迷開悟」「生死出離」について
いわれるものである。したがって『法華経』出世本懐の文には、

 一大事因縁(『大正大蔵経』)

とあり、『称讃浄土経』には、

 利益安楽の大事因縁

とある。また、法然上人は、

往生程の大事をはげみて念仏申さん身をば、いかにもいかにもはぐくみたすくべし(『和語灯録』)

といわれ、宗祖聖人は、

 往生極楽の大事(『拾遺真蹟御消息』)

と仰せられており、さらに覚如上人も、

往生ほどの一大事をば如来にまかせたてまつり…(『口伝抄』)
往生ほどの一大事凡夫のはからうべきことにはあらず…(『執持抄』)

等と述べられている。いずれも「一大事(大事)」を往生にかけて語られている。
さらに蓮如上人も、

もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(『御文章』1の11)
この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽はまことにもてかなふべからず。(『御文章』2の10)
いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはなし。(帖外御文章50)

等と示されている。往生にかけて「一大事」を語っておられるのである。
高森親鸞会は、後に至って、後生の一大事に二つがあるといいだし、信後の後生の一大事は「往生浄土(極楽)の
一大事」のことであるが、信前の後生の一大事は「必ず無間地獄に堕ちる」ということであると、
あくまでも自説に固執するのである。

-------------------------------------------------------------------------------------

…と、まあここまで紅楳先生に教えていただきましたので、
私から言うことはもはや何もないでしょう。

仏教は後生の一大事を知るところから始まる、と言いながら、
後生の一大事の意味さえ知らない親鸞会の会長、幹部、講師たち…
そんなむちゃくちゃな教義を教え続けて50年とか、
自慢できるどころか、恥さらし以外の何者でもないですよ。




・・だそうです。

高●先生&親●会講師君!
何か反論できることあります?

というか、親●会講師諸君は、
紅●先生の論文を読んだことないんちゃう?

オイラのダチの元講師さんは、みんな読んだことなくて、
オイラに借りてはじめて読まはったんやけど、
みんな「目から鱗」状態やったで(苦笑)。

やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命

§9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命

ここらで、「南無阿弥陀仏」の六字の名号に、
どんな意味があるかを解説しとくで。(注1)

ちょっと長いし難しいけど、超ウルトラ大事な所やから、
頑張ってしっかり読んでおいてや!!

「南無阿弥陀仏」の六字の意味を、
はじめて明かにしたのは善導大師で、
以下のように解釈してはります。(注2)(注3)


  ★「南無」  →「帰命」
         →「発願回向」
  ★「阿弥陀仏」→「即是其行」



これを、親鸞聖人は『教行信証』で次のように解釈してはるわけやね。(注4)

  ★「帰命」  →「本願招喚の勅命」
  ★「発願回向」→「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」
  ★「即是其行」→「選択本願」

ここでポイントになるのは、

この『教行信証』の解釈が、「南無阿弥陀仏」の中身である、
「帰命」も「発願回向」も「即是」も、
その主語が全部【阿弥陀仏が】になってるちゅうことやね。


★「本願招喚の勅命」とは、
【阿弥陀仏が】オイラ逹に、
「ワシを信じるのじゃ!」と命令しているっちゅうことや。

オイラが極楽浄土に往生して最終的に成仏するためのシステムは、
【阿弥陀仏が】既に完成させてくださってて、
あとはオイラがそれを信じてシステムに乗ずるだけの段階になってる。

せやから【阿弥陀仏が】、
「ワシを信じて、このシステムに飛び込んでこい!!」
と「招き」「喚んで」「命令」してはるわけやね。


★「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」とは、
オイラが極楽浄土に往生して最終的に成仏するための「働き」である、
「行」ちゅうもんは、
全部【阿弥陀仏が】与えてくださったものである。
ちゅうことや。

【阿弥陀仏が】作ってくれた「働き」が、
オイラの所に届くことによって、オイラは極楽浄土に往生することができる。
でも、それが届かなかったら、往生することはでけへん。

せやから、【阿弥陀仏が】、
なんとかしてその「働き」をオイラに与えようとしているちゅうのが、
この「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」なるんですわ。


★「選択本願」ちゅうのは、
オイラを極楽浄土に往生させて成仏させるために、
【阿弥陀仏が】、与えてくださった「働き」が、
他の誰でもなく、【阿弥陀仏が】自ら選びとってくださったもので(「選択」)、
【阿弥陀仏が】過去に誓った誓願を実現されて完成された(「本願」)ものである。
っちゅうことや。



このように、「南無阿弥陀仏」ちゅうものは、
オイラのような衆生の勝手な計らいでなされたものじゃなくて、

★「ワシを信じてワシが作ったシステムに乗っかれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【勅命】で、

★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】で、

★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!」
ちゅう【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】なわけや。

このように「南無阿弥陀仏」は、
全て【阿弥陀仏が】作ったものやから、

「南無阿弥陀仏」の六字の「名号」に、
オイラのようなカス野郎を極楽浄土に往生させて、
最終的に成仏までさせるような、
人間の常識を遥かに超えた、
阿弥陀仏の力(=「本願力」)が備わっているわけや。(注5)



せやから、
【阿弥陀仏が】作った、この「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
【衆生が】「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)
するちゅうことが、

即ち、【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる、
「信心」を【衆生が】獲得するちゅうことになるんやね。(注6)



このことは、『尊号真像銘文』における解釈を読むと、
ものすご~くよくわかるやけど、
ちょっと解説がちょっと長くなってきたんで、
また来週や!!


【今日のまとめ】
 1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
 2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
 3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
 「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
 ★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」という【勅命】、
 ★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
 ★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」という【選択本願】、
  として解釈されている。
 4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
  衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
  人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
 5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
 「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
 【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。

※来週も大切やから、見逃しちゃダメよ!!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 このことは、「六字釈義」として所謂「安心論題」でも取り扱われている。

 浄土真宗教学の「伝統」として蓄積されたものであり、非常によくまとまっているので、以下に参考までに挙げておく。

~~以下引用~~
六字釈義

〔題意〕
名号六字の義を窺い、名号は願行・悲智を円具して、よく衆生を往生成仏せしむる行体なることを明らかにする。
〔出拠〕
「玄義分」「今此の観経の中の十声の称佛は、即ち十願・十行有りて具足す。云何が具足する。南無と言ふは即ち是帰命なり、亦是発願回向の義なり。阿弥陀佛と言ふは即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得。」
「行文類」の六字釈に「しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、至なり、また帰説(よりたのむ)なり、説の字は、悦の音なり。また帰説(よりかかるなり)なり、説の字は、税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。ここをもつて帰命は本願招喚(まねくよばう) の勅命なり。発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。」
「尊号真像銘文」に「善導和尚云 「言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者 即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)文 「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。」「執持鈔」
「そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分)と釈したまへり。」とあり。御文章四帖目十通・四帖目十四通などある。
〔釈名〕
「六字」とは南無阿弥陀仏のことで、今はこの名号に願行具足せる義を釈する。
〔義相〕
摂論家の人々が、『観経』下々品の十声の称名は唯願無行であって、往生別時意であるというのに対し、善導大師は、この称名には願行を具足しているから、順次の往生を得るのである旨を明らかにされた。すなわち、「南无」というのは帰命であるが、また発願回向の義もあり、「阿弥陀仏」というのはその行である。このように所称の名号に願行を具足しているから必ず往生を得るという。
宗祖はこの善導の釈を承けて、行文類には、名号六字の本質を「帰命」と「発願回向」と「即是其行」の三義で解釈され、三義をいずれも仏に約して、「発願回向」は能回の悲心(願)、「即是其行」は所回の智徳(行)とし、「帰命」をその回施の相状(本願招喚の勅命)とされる。そしてかかる悲智円具の名号を聞信する故、即時に仏因円満して正定聚に入る(「必得往生」の釈)と示されたのである。
『銘文』にあっては、六字の三義を衆生に約して、「帰命」を機受の心相、「発願回向」をその義別とし、「即是其行」を体徳とされている。
その他、『執持鈔』、『御文章』などそれぞれ釈相は異なるが、いずれも名号六字に衆生を往生成仏せしめる悲智、願行の徳が其足していることを明らかにされるのである。
〔結び〕
名号は、衆生の造作をからず、法体の独用をもってよく衆生を証果に到らしむる行体である。
~~以上引用~~

注2 『観経疏』玄義分

●いまこの観経の中の十声の称仏は、即ち十願十行ありて具足す。いかんが具足する。南無といふは、すなわちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなわちこれその行なり。この義をもっての故に必ず往生を得。

注3 この部分の解釈に関しては、以下の記述に問題はない。

~~以下 『会報』vol2.  南無阿弥陀佛とは(一)より~~

この尊高無比の名号、尊号、嘉号を善導大師は
『南無というは帰命、亦是、発願廻向の義なり、阿弥陀佛というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生することを得るといえり』と教えて、南無とはタノム機の方であり、阿弥陀佛とは助くる法の方である。
 タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。
 善導大師が出世せられた時代は、各宗に高徳名僧が踵を接して輩出せられた中国佛教の全盛時代であった。
 当時、有名な天台、嘉祥淨影等の諸大師が競うて『観無量寿経』の講釈を試みていた時である。
 所謂、淨影の義疏、天台疏、嘉祥疏である。
 これらの方々にはともに観経の下三品に具足十念で即得往生すると説かれているが実際は、そんなウマイことはないのだ。
 何故かといえばいやしくも浄土に往生するには必ず願と行の二つの条件が具備せねばならない。
 然るに、この下々品の人間は無善造悪で、業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。
 南無は帰命、帰命とは身命をなげ出して佛にお願いすることだから南無阿弥陀佛ということは阿弥陀佛さま、私をどうか助けて下さいと口でいって往生を願求するのみだから行はない。
 唯願無行だ。
 だから十念の称名念佛は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。
 今はただ遠生の結縁になるだけである。
 にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。
 別時意趣とは、無著菩薩の書かれた『攝大朱論』の中に、佛の説法に四悪趣といって、四通りの説き方があるとして、その一つに別時意趣というのがある。
 これは、勇猛精進に勤められぬ怠惰なものに対する説法に仕方である。
 諭えば一日一円の貯蓄で億万長者になれるぞと云えば、如何なる怠惰な者でも、その身になりたいと思って精進する心をおこすだろう。
 しかしこれは一日一円の始末で長者になるのではなく所謂、塵も積れば山となると言うのと同じで大変な長期間かかるわけである。
 それをあからさまに云うてしまえば怠惰なものは近づかないから、恰も即時に長者になれるように説法せられたのだ。
 だから南無阿弥陀佛だけで直に助かるのではなく、ただ遠生の結縁となって何れの時にか浮かぶ縁になるということである。
 しかし、これをあからさまにいうては近づかないから直ちに救われるように説かれたので別時意趣の方便説であるときめつけたのである。
 この様な別時意趣説は、ただに天台嘉祥、浄影のみではなく、それ以前にも多くあったのであるが、かかるさ中に善導大師が現われ、                   これらの迷妄誤解をゲキ破する為に
「今、我が延ぶるところ、佛の願意に叶いませば夢中に霊相を示し玉え」と日々、阿弥陀経を誦すること三遍、念佛三万遍相続され十方諸佛に証明を乞われたという。
 かくて夜毎に化佛来りて一々佛に指図のままに観経を解釈せられたのが有名な『観無量寿経疏』であり、「一字一句加減すべからず写さんと欲する者、一に経法の如くせよ」とまで仰せられている。
 この観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して
「大体、観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。
 定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀佛の目的でないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修行が出来ようか、佛の慈悲は苦なるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。
 だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。
 しかもその南無阿弥陀佛の名号は諸師の言われるような唯願無行では絶対にない。
 何故なら、南無というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀佛というは即ち是その行なり、如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。
 願と行とが六字の中に、ととのえて有るから必ず往生が出来るのだ。
 願行具足といっても凡夫が願を起し、凡夫が行を修して行くのなら、凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。
 仏の願行を機無、円成するが故に佛の世界に、行かれるのだ。
 だから遠生の結縁では絶対にない。
 帰命の一念に必得往生出来るのだ。」
 大信海化現の善導でなければ出来ない妙釈に、諸師は黙し、ここに十方衆生の救われる無碍の大道は開かれたのだ。 
~~以上 『会報』vol2.  南無阿弥陀佛とは(一)より~~


注4 『教行信証』行巻

●ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。

(訳)
こういうわけで「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願による勅命なのである。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って久遠の昔に、衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる心を言うのである。
「即是其行」とは、阿弥陀仏が発願し回向されたその行が、選択本願による行であることを表している。


注5 詳しくは§6で述べた通りである。

また『無量寿経』巻下 東方偈には、以下の記述がある。

●その阿弥陀仏の本願力によって、阿弥陀仏の名を聞いて極楽に往生しようと欲すれば、皆ことごとく彼の国に至って、自然と不退転に至る。


注6 これに関しては§7で詳しく述べた。
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
FC2ブログランキング

FC2Blog Ranking

検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。