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だれでもお浄土へ往けるのか どうか 明確にしましょう(追記)

辛口!真宗時評
だれでもお浄土へ往けるのか どうか 明確にしましょう より


今、本派が力を入れているビハーラ活動の理念について、以下の
ように書かれています。
本願寺社会部 ビハーラ活動の理念

<親鸞聖人における死の受けとめ方

  親鸞聖人のみ教えは、浄土教の伝統を受け継いでいますが、
 阿弥陀仏の臨終来迎を期待するものではありません。ご消息
 には、次のように記されています。

 「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。
  このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
  信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまた
  ず。」(『注釈版聖典』七三五頁)

  ここに親鸞聖人は、臨終の瞬間にみ仏の救いを待つ必要は
 なく、平生においてすでにみ仏に摂取不捨されているという
 救いを明らかにされています。それは、死に直面している人々
 の寂しさや不安を軽視したのではなく、いまここで、すでに
 み仏に抱きとられ護られていることを明らかにすることによ
 って、どのような最期を迎えても、必ずお浄土に往生すると
 いうことを説かれたのです。>

 さてここで、重大な一文が抜け落ちていることに、賢明な皆さんは
お気づきでしょう。
 宗祖は、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚に住す」
とおっしゃっているのであって、上記の解説文では「真実信心の行人
は」という部分が、抜けています。あたかも、真実信心の人も、未信
の人も、すべて死ねばお浄土に往ける、と言われていませんか。
 
 これは、この部分だけでなく、あらゆる法座、文書伝道、ラジオ、
ネット上で、発信されていることにも、共通しています。
 「あなたは、すでに救われているのですよ」と言っても、「えっ?
私が・・・。ホントですか?信じられないなあ」「いや、気づいて
いないだけで、救われているんですよ」「ふーん?」で、終わりに
なってしまう、これじゃ話が進みません。

 真実信心の人は、お浄土へ行けるのですよ
 じゃあ、どうすれば、その身になれるのですか

というところから、聞法が始まるのではないしょうか。
そこを説くのが布教であり、そこを聞くのが聞法ではないでしょうか。
そうなってこそ、宗門が、活発化すると思います。いかがでしょう。



その通り!!ナイスツッコミ!!

これは、阿弥陀仏の本願の解釈を、

 阿弥陀仏が信心を与えてくれる
 =衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている

なんてことにしちゃって、
事実上、所謂「十劫安心」を肯定しちゃってる、
某浄土真宗系新宗教団体を、
批判してはるんですよね!!


全く仰る通り!!ナイスツッコミ!!
これからも親●会批判頑張ってね�j�R���




おまけ 

やさしい浄土真宗の教え §5 何の力によって信心を得るか? より

注3 以下のCさんのツッコミが素晴らしい。

かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(後半) より

もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!




追記

上記の記事にコメントを入れてみました。
さて、このコメントは承認してもらえますかね~♪
 ↓

その通り!!
全く仰る通りです!!

勝手ながら、私のブログでこちらの記事を紹介させて頂きました。
 ↓
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-276.html

ありがとうございました。


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やさしい浄土真宗の教え §8 なかなか信心獲得できない人のために・・

§8 なかなか信心獲得できない人のために・・

歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、

この人はどうしたらええのか?

苦笑ちゃんはこの疑問を、
親鸞聖人の師匠である法然上人に尋ねてみました!!


法然上人は、

「時間がかかっても、必ず喜べる時が来るから、
それまで習いなさい!」

と教えてくださってはります。

歓喜する心、
「極楽浄土への往生は間違いない」の確信、
「自分の死後がどうなるか」の不安の解決、

これを求めて焦る人も、
必ず喜べる時は来るから、

★念仏申すことを続けることができるようになった人

を目指して、

それまで習うことが大事だし、
そのために「聴聞」し続けなアカンのよね。(注1)


なんちゅうか、

★他力の救いは一念
★阿弥陀仏の慈悲が時間をかけて浸透してくる人もいる

この二つは全然矛盾してないのに、
思考がデジタルで、これがわかんない人が多いのよ(苦笑)。


「疑いがバッチリ晴れる」なんちゅうことは、
確かに簡単にできないかもしれへんけど、

水がずっとずっと流れ続けていけば石ですら穴があくように、
石のように固く固くなった心にも、
阿弥陀仏の本願がいかなるものかを繰り返し聞くことによって、
少しずつ少しずつ、阿弥陀仏の慈悲が浸透していって、
やがて貫通して本願に対する疑いが晴れる時がくる!

ちゅうことは、蓮如上人も仰っておられるわけやから、
そういう考え方を否定して、変な脊髄反射しちゃダメよん。 (注2)


いずれにしても、
「聴聞」で「信心」が得られるように、
自ら積極的に環境を整えていくことが、
とっても大事なことですわ。(注3)


「そもそも善知識の能といふは、
 一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、
 ひとをすすむべきばかりなり。」
by.蓮如上人(『御文章』2帖11「五重義章」)


間違っても、これに反すること教えている、
「自称善知識」から「聴聞」したらアカンで!!(注4)(注5)(注6)


【今日のまとめ】
 1、なかなか「信心」を得られない人も、
  時間がかかっても、必ず「信心」を得られる時は来る。
 2、その時まで諦めずに「聴聞」を続けることが大事である。
 3、「聴聞」で「信心」を得られるように、
  自ら積極的に環境を整えていくことが大事である。
 4、それができなくなるような教えを説く、
  自称「善知識」から「聴聞」をしてはいけない。

※次回はいよいよ、「南無阿弥陀仏」の六字の名号に、
 どんな意味があるか解説するよ~。超大切やし、絶対読んでや�O�[�I

――――――――――――――――――――――――――――――――――


注1 以下の禅勝房が伝える法然上人の言葉を参照。

禅勝房のいわく、上人仰せられていわく、
今度の生に念仏して来迎に預からん嬉しさよと思いて、
踊躍歓喜の心の発りたらん人は、
自然に三心具足したりと知るべし。
念仏申しながら後世を嘆く程の人は三心不具の人なり。
もし歓喜する心いまだ起らずば漸漸(ぜんぜん)に喜び習うべし。
また念仏の相続せられん人は我三心具足したりと知るべし。
『諸人伝説のことば』(浄土宗聖典 vol.4 pp.485-486)

(訳)
禅勝房が伝え聞くところを言った、
「法然上人が仰ることには、
今この度の生涯において、念仏を申していて、
『阿弥陀仏に迎え取って頂くことができるのはんと嬉しいことだ』
と思うような、踊躍歓喜の心が起こった人は、
おのずから、三心(極楽浄土に往生する人が持つ三つの心)
を具えた人であると知るべきである。

念仏を申していながら、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人は、
三心をそなえていない人である。

もしも歓喜する心がまだ起きていないのであれば、
時間がかかっても必ず喜べる時が来るからそれまで習いなさい。

また念仏申すことを続けることができるようになった人は、
『私は三心を具えた』ということを知りなさい。


注2 以下の蓮如上人の言葉に基づく。

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、
心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、
御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。
ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。
『蓮如上人御一代記聞書』(193)

(訳)
「極めて固いものは石であり、極めて柔らかいものは水である。
しかしその柔らかい水が石に穴をあけることができるのである。
もしも心の底を徹していったならば、仏の覚りすら、
どうして成就することができないことがあろうか(いや絶対に成就する)」
という古い言葉すらある。

どれほど信心のないものであっても、聴聞を心に入れていくならば、
阿弥陀仏の慈悲が我が身に伝えられていくのであるから、
必ず信心を得ることができるのである。
ただひたすらに仏法は聴聞することに尽きるのである。


注3 以下の蓮如上人の言葉を参照。

一 人のこころえのとほり申されけるに、
わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、
仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、
やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、
前々住上人(蓮如)仰せられ 候ふ。
その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。

(訳)
ある人が自分の思いをありのままに語って、
「私の心は篭に水を入れるようなもので、
仏法のことを聞いている座ではありがたくも尊くも感じるのですが、
その場を離れると、すぐにもとの心に戻ってしまいます」と申し上げたところ、

蓮如上人は、
「その篭を水につけよ!篭である我が身を仏法の水にひたしておくのがよい!」
と仰せになられた。


注4 例えば以下のような記述参照。

こんなことでは後生の解決どころか、この世の事すら解決出来ないではないか、情けない。それどころか又、会費があがったとか、又お金を集めるとか、思ってはならぬ心がムクムクと出て来ます。財施をすれば凡て自分の宿善になるのだと知りながら悲しい心が出て来ます。
【顕正新聞昭和44年5月】

思えば我々親鸞会々員が今日こうして生まれ難き人間界に生を受け、聞き難き仏法を聞かせて頂いているのも阿弥陀仏、そして高森顕徹会長先生ましませばこそである。いわば世界中で最高の洪恩を蒙っている幸せ者である。ところが我々は、受けた恩徳は無量であるのに返す財施は限りあるどころか雀の涙ほども出来ない横着者であるこれでは助かりようがない。
【同紙昭和45年5月】

どうせくだらんところにしか使わない金だ。それらの金銭を真実の仏法を弘める為に布施をさせるのが仏法の重さを知らされた者の責任ではないか。酔生夢死の人生を過ごそうとしている人々に尊い仏縁を与える為に金の使い方を教えてあげる、これが真の仏法者の務めである。何不自由もない釈尊が一生涯托鉢乞食行をなされた精神は、くだらんところへ散在する金品を吸い上げ、召し上げて彼らに仏縁を結ばせる為ではなかったか。(中略)親鸞会に布施せられた財施のみが十方衆生を生かし末代の宝として生きかえるであろう。
【同紙昭和53年10月】

「もういい加減な求道はできません。何としても今生で信心決定するため、新本部財施に命をかけます」
【同紙昭和61年6月】

財施をするのは損をするということではなく、自分が徳をすることです。家や田んぼを売っても損はしないのです。計算して財施するというのは嫌々ながらやることです。そうではなく、喜んでお金を出す。それが喜捨なのです。家を売っても、アパートで生活すればいいのです。喜捨をしないのは親鸞学徒ではありません。(本部報恩講での高森顕徹会長の説法)
【米本和広著教祖逮捕p165】

金のある者には、大法の為にどんどん使うように勧めたらよい。
自損損他のアブクゼニを、大法の為に活かすよう仕向けるのは、大慈大悲である。
この精神を恥ずかしく思うのは、仏法の尊さがまだ分かっていないのだ。
法もまた財なり、財もまた法である。(巻頭言・高森顕徹会長の言葉として)
【顕真平成15年9月】

【悲願の法城(親鸞会の集金ビデオ)再掲】より

~~~~以下引用~~~~
それねぇ、人にこう、あの、お金でもモノでもあげると、
人のもんになる風に思うでしょ?
これ全然違うんです。
あげた者のモノになるんですよ。
だから絶対損にならないんです。
ドンッ、ドン、あげたらいいんですよ。
ゼッッタイに、あの、損しないから。
だから喜んで捨てなさい、喜んであげなさいちゅうことで
喜捨と言われるんですよ。
喜ばにゃならんのですよ?
人に物をあげる。特に仏法に布施をする。
これはもう、イッチバンの善ですから、
だからその、もう喜ばにゃならんことなんですよ。

あの人は、あんだけしか出されんのに、私あの人よりも
何で余計出さにゃならんやろ、って
トンデモない話ですよ!そりゃ
喜んで・・・・出さなければならない。
みんな自分の物になるんですよ?
絶対、人のモンにならないんですよ。
で、それが自因自果ということですから、その、やはり
自因自果という因果の道理がワカランところから
食堂なんか行ったらね、千円でも二千円でも、安いね
ここの店は、って出しても、仏法のためになら
千円出すときに、あの人、五百しか出してらんのに、
私、ナンデ千円出さんな・・・
まるで損するように思うでしょ?
これ、ゼンッゼン因果の道理がワカッテナイ
っちゅうことですよ、仏法ワカッテナイっていうことですよ。
その人の信仰はその程度や、っちゅうことですよ。
絶・・・対、損にならないですよ。
その喜捨した、何ジュウ倍戻ってくるからっ。
私なんか、何百倍戻ってくるとりますよ。
そんなちょっとやそっとじゃないですよ。だから、
ヨロコンデ・・・あげればいいんですよ。
ヨロコンデあげなきゃならんことですよ。
ヨロコンデ捨てる・・・仏法のために
これが中々ワカランのやね。因果の道理が、
あの、ワカラナイ、ワカッテないから。
絶・・・対に損しないんですよ。布施をして。

もちろん、その布施をする相手ぇ間違ったらダメですよ。
これ、いつも、皆さん、あの、お聞きのとおり。
ちゃんとお釈迦様は、どーゆう相手に布施を、せよ
と教えておられるから。
こりゃいつも聞いておられるとおりですから。

だから・・・そのうえでですよ、布施をして施して
損ということは、絶対ないですよ。

家も田んぼも畑もゼンブ売って、仏法に布施してでも、
絶対に損はないです。
明日からどこで住めば、
そりゃアパートへ入りゃいいんです。
絶対に損はないです。

だから喜んでさせてもらわなければならないこと
なんですから、喜捨と言われるんですが
まるでね、税金かなんかとられるようなこと思っとったらね、
ゼンゼンそりゃ布施と違うんですよ。
これは、あの、喜捨でないんですよ。
税金ちゅうのは国家権力が、ね、無理やりに・・・・
奪い取っていくんですから、もし税金払わんものあったら
こりゃもう、酷い目に会わんにゃならんのやから、
それが嫌ややで、仕方っ無しに出しとんのが税金なんだで。
布施というのは喜捨というのはそんなもんでないんですよ
・・・・・・・・・なっ、国家権力っというもの、そういうものに
恐れて出すんのと違うんだから。わが身のために出すんですから
自分が、けっ、自分がよい結果を得るために
種を蒔くんですから・・・・種蒔くところが無かったらね、
大根もニンジンもできてこないんやからね、
畑へ感謝しなきゃならないですよ?
いくら大根の種持っとったってね
蒔く畑が無かったらね、大根とれねぇんだから・・・・・
私たちは最高の仏法という宝も、タカッ、
仏法というハタケ持っとるんでしょ?
その仏法というハタケに種を蒔くんですよ。
・・・・そしてそのハタケからできてきたものゼンンンブ、
自分のもんになるでしょ
ハタケのもんにならないんですよ
・・・・・・・・・・ここがまるでね、ハタケへ種蒔くと、
その、種も、その種からできてくる大根もニンジンも
みんなハタケのもんになるように思っ、思うからね。
・・・こりゃ、全く間違いで、因果の道理、いわゆる自因自果
・・・これがゼンゼンわかってない、信じられてない、ということですよ。
・・・絶対損はないですから
・・・・ドンドン、ドンドン、仏法のために財施、喜捨すれば
するっ、ほどいいんです。大変に幸せなことなんです。
得するヒトは、ね、幸せになるヒトは、そうするヒトなんです。
これが善因善果自因自果。
その逆が悪因悪果自因自果ですよ。
欲ばっかりして、ね、出すのは、仏法のために・・・
舌出すのもイヤやと。そんんなことしとるから
ダンダン、ダンダンお金も来ないし、物にも恵まれないし、
全部詰まってくるんですよ。
お金にも物にも恵まれたかったならば・・・ドンッドンッ、
喜捨をすることです。布施をすることです。
そうすれば全てに恵まれるから。
それをね、もう、出来るっだけ仏法のために
出さんように、出さんように、ね
それで、なにもかも恵まれないんですよ。・・・・・・・・・・・・・
その考え方を、ね、ヒックリ返さなかったらっ。
・・・・・・・・・それがそのね、仏法の根幹である
因果の道理をどれだけ、あの、わかっているか、
信じているか、ということなんですよ。
だから信仰が進めば、必ず、進めば進むほどそうなるんですよ。


まぁ、この方だけのあれに答えておられませんから。
「御喜捨の心掛けと因果の道理について、聞きたい、今一度聞きたい」
ということで、今こう話しとるんですよ。

「収入に対して計画を立てなかなか喜び喜びさせていただくことが」
これね、計算しとったらもう絶対出せないですよ、仏法に。
・・・・これだけ出したら、あとこうなってこうなって、こりゃ足らんぞ。
これだけ余ると、余っただけで大体こうかと

そんんなの、アカンですよ。

何しろね、そういう計算を捨てるの!
計算を捨てさせんの。
そして、因果の道理のみを信じるわけ。

こんな計算しとるからね、絶対ダメなんだ。
余って出るはずねぇもん。
余ったら全部銀行やっちょる。(聴衆笑い)
銀行はこれで持ってくるならもういわんからね集めたろうかね。
んなもん、どうして仏法出すカネが出てくるんや
計算しとったら。
そんなことないドンドン、御喜捨しなさい。ドンドン、
あの、布施をしなさい。
それはだぁ~れのモノにもならないんです。
アンタのモンになるんです。結果は。

あのぉ~、みなさんが財施をせられたのは
ワタシのもんになるなんかってね、
クダラン心配しなさんな。(聴衆笑い)
私は倍にして出しとるから。
みん~な、出したアンタのモノになります。
私が布施をしたらワタシのモノになるんです。結果は。
アンタらの布施したモノを私が拾ったれっていうたら、
私がね、ヒン、貧乏になるだけです。
出す人が豊かになるんです。
出せば出すっほど豊かになっていくんです、し、
幸福になるんです。
そこ入れりゃ、入れるっほど不幸になるんです。
そういうことです因果の道理ってのは。

だから「収入に対して計画を立てる」

立てなさんなこんなモン(聴衆爆笑)

なにしろ、喜んで出しなさいっ、ねっ。アンタね、
幸せを欲しかったら出しなさいっ
ということです。

私はね、世間のヒト見とっと、ほんとにね、
なんと気の毒というか、ね、ちょっ、大根が出ん大根が出んっちゅうに。おい、蒔いたか種?(聴衆笑い)
ゼンッゼン、大根の種、蒔いた、蒔かんとって、
大根が出ん、大根が出ん、言うとんねん

キチガイかい!ってオマエ

畑行ってね、まだ大根が出ん、まだ大根が出ん、
言うとんねん
何時タネ蒔いたんやオマエ、何も蒔いとらん
蒔かんモンが出るかっちゅうの!
蒔きなさい、必ず出てくるから。人に施しなさい。
人に親切しなさい、必ず恵まれるから。
逆にはならんのだから。アンタのために蒔くんだで。
アンタのため、自身のために出すんだて。
そういうことがね。あの因果の道理ということです。

いくらそういうてもね、ん~、なこと言うたって中々ちょっ、
計画を立てんとおれるかとそん~なこと言う、思っとる
もんバッカリだから、貧乏なもんバッカリなんだわ。
苦しんどるもんバッカリなんだわ。
私の言うとぉ~りにやってごらん。
因果の道理に・・・従ってやっててごらん。
みんな幸福になるんです。
それ、やるかやらんかダケです。
信ずるか信じないかのダケです
信じて実行するかしないかダケです。
私はやっただけっす。そら私のためです。ね
~~~~以上引用~~~~


注5 『歎異抄』第18章には、施入物の大小を云々することが誤りであり、宝物を仏前になげたり、師匠にものを施したりすることによって救いが決まることはないということが述べられている。

一 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。
かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


また、蓮如上人も、財施によって救いがあるかのように教えることの間違いを指摘しておられる。

●これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
『御文章』1帖11通


注6 このことに関連して親鸞聖人は以下のように仰っておられる。

●善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。『親鸞聖人御消息』

この言葉が「全人類が五逆謗法だから、それを避けて無人島で暮らしなさい」という意味ではなく、「五逆謗法の人と、そうでない人がいるから、五逆謗法の人に近づくな」という意味であることは、既に清森氏が指摘済みである。

清森問答質疑応答143

もしも、「頭、変になられたんじゃないですか?」というように、釈尊を謗るような教えを説く自称「善知識」がいたならば、そのような「謗法の人」からは離れ、「同座」しないことが「親鸞聖人の教えに従う」ことになる。

清森問答 親鸞会教義の相対化・82

【三乘=声聞乘+縁覚乘+菩薩乘(=大乘)】やぞ!!

高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?
【番外編】大乗と三乗の関係も知らないの【ある書込みより】 より

とある書き込みより。

「大乗の五逆は三乗の五逆を含みます。」

と言っておられる方がありました。

はい?親鸞会教学を擁護し過ぎて頭がおかしくなったんじゃないですか?

なぜ、大乗の五逆が、三乗の五逆を含むことになるのでしょうか?

そのように言える論拠はあるのでしょうか?

まず、正確な親鸞聖人のお言葉をあげた上で検証しましょう。


顕浄土真実教行証文類 信文類三(末) 逆謗摂取釈

「五逆」と言ふは、若し淄州に依らば、五逆に二つ有り。
一つには三乗の五逆なり。
いはく、一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するを以てのゆゑに、これを名づけて「逆」と為す。
此の逆を犯す者は、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕し、
一大劫のうちに無間の苦を受くれば、「無間業」と名づく。

また『倶舎論』の中に、五無間の同類の業有り。
かの頌にいはく、
母と無学尼とを汚す、母を殺す罪の同類、
住定の菩薩、父を殺す罪の同類、
及び有学聖者を殺す、羅漢を殺す同類、
僧の和合縁を奪ふ、僧を破する罪の同類、
卒都波を破壊す、仏身より血を出す、と。

二つには大乗の五逆なり。
『薩遮尼乾子経(さっしゃにけんじきょう)』に説くが如し。
「一つには塔寺を破壊し、経蔵を焚焼し、及び三宝の財物を盗用す。
二つには、三乗の法を謗りて「聖教に非ず」と言ひて、障破留難し、隠蔽覆蔵す。
三つには、一切の出家の人、若しは有戒・無戒・持戒・破戒に於いて、打罵し呵責し、
とがを説きて禁閉し、還俗せしめて駈使し、債調断命せしむ。
四つには、父を殺し、母を害し、佛身より血を出し、和合僧を破し、阿羅漢を殺す。
五つには、謗して因果を無みし、長夜に常に十不善業を行ず」と。

彼の『経』(『十輪経』)にいはく、
「一つには不善心を起して独覚を殺害する、是れ殺生なり。
二つには羅漢尼を婬する、是れ欲邪行なり。
三つには所施の三宝財物を侵損する、是れ不与取なり。
四つには倒見して和合僧衆を破する、是れ虚誑語なり」と。
略出す。

以上が、教行信証信巻末にある、五逆罪についての親鸞聖人の記述です。
簡単に分類すると、以下のようになります。


教行信証 信文類三(末) 逆謗摂取釈

淄州(ししゅう・中国法相宗第二祖慧沼のこと)によれば五逆罪に二種類ある。

《第一》三乗のすべての教えに通ずる五逆罪
 一.故思殺父: 故意に父を殺すこと
 二.故思殺母: 故意に母を殺すこと
 三.故思殺羅漢: 故意に阿羅漢を殺すこと
 四.倒見破和合僧: 間違った考えを起こして(倒見して)教団を乱すこと
 五.悪心出佛身血: 悪い心を抱いて佛身を傷つけて血を流すこと
これらは父母や仏や僧などから受けた恩にそむくから逆罪という。
この逆罪を犯したものは命終すれば無間地獄に堕ち、果てしない長い間、間断なく苦しみを受ける故、無間業という。

また、天親菩薩は「倶舎論」に無間地獄に墮ちる五逆罪と同類の行いをあげている。
すなはちその偈の文に
 一. 母や無学果の比丘尼を汚すことは母を殺すと同罪
  (無学果とは阿羅漢果と同じで煩悩を断じ尽くし、もはや学ぶべきものを遺していない境地のこと)
 二.無漏定に住する菩薩を殺すことは父を殺す罪と同罪
 三.有学果・無学果の聖者を殺すことは阿羅漢を殺す罪と同罪
 四.教団の和の縁となるものを奪うことは教団の和を乱す罪と同罪
 五.仏塔を壊すことは仏のからだを傷つけて血を流すことと同罪
といっている。

《第二》大乗の五逆罪(大薩遮尼乾子所説経にいう)
 一. 仏塔を壊し、経典を焼き、三宝を盗むこと
 二.声聞・縁覚・菩薩の教えを謗って仏教でないといい、仏教の流布を妨げ、危難を加え、仏法の光を覆い隠し広まらないようにする
 三.持戒・無戒・破戒にかかわらず、すべての出家した人に対して、ののしり打って苦しめ、過失を並べ立てて閉じ込め、還俗させて、かりたてて使い、重税を課してついには命を絶つまで追い込むこと
 四.父を殺し、母を害し、仏のからだを傷つけて血を流し、教団の和を乱し、阿羅漢を殺すこと
 五.因果の道理を否定して、常に十悪の罪を犯すこと
と説かれている。

《大方広十輪経》にはこのように説かれている。
 一.善くない心を起こして縁覚をころすこと。これは殺生である。
 二.阿羅漢のさとりを得た比丘尼を犯すこと。これは邪婬である.
 三.施された三宝の財物を横領すること.これは偸盗である。
 四.間違った考えを起こして教団の和を乱すこと。これは妄語である。

ここまで、わかっていただけましたでしょうか。

どうやら、高級スタジオ持ちのどこぞの年収何千万の経営者さんは、
「手取り足取り教える気はありません」だそうですから、
ちょっと解説を加えて見ました。

では、肝心な話にうつりますね。

大乗の五逆が、三乗の五逆を含むことになるのか?

いいえ、違います。その反対です。

三乗が大乗を含みます。

なぜか?

三乗の意味が判れば、自明です。

三乗とは・・・

三乗(yana-traya):三種の乗り物の意。
乗は衆生をさとりに導く教えをたとえて言う。
声聞乗・縁覚乗・菩薩乗をいい、
声聞乗・縁覚乗は小乗を、菩薩乗は大乗である。

わかります?

三乗の三つの中の一つが、大乗なんですよ。

だから、図にするとこんな感じ。

三乗───声聞乗
    ├─縁覚乗
    └─菩薩乗(=大乗)

ですから、三乗の五逆が先にあって、それを前提として示されているのが、
大乗の五逆です。

一部の人は認めたくないでしょうが、一般のみなさんはわかりますよね。



その通り!!

【三乘=声聞乘+縁覚乘+菩薩乘(=大乘)】

やね



いや、もしもさ、大乗の五逆の方を重要視するなら、
それなら余計に親鸞会は五逆をやりまくっている団体だと思うんですが・・・

だって、大乗の五逆は、
 一. 仏塔を壊し、経典を焼き、三宝を盗むこと
→はい。本願寺に放火しようとした高森先生はこれに当たります。

 二.声聞・縁覚・菩薩の教えを謗って仏教でないといい、仏教の流布を妨げ、危難を加え、仏法の光を覆い隠し広まらないようにする
→自分たち親鸞会以外の団体が仏教を広めようとすると、それらを仏教でないと言い、
外道邪教よばわりするか、挙句の果てには土蔵秘事の者扱いにする、
そして本願寺に座り込んだり、ネットで除名された布教使の悪口を言い、仏教の布教を妨げる、
おもいっきり該当します。

 三.持戒・無戒・破戒にかかわらず、すべての出家した人に対して、ののしり打って苦しめ、過失を並べ立てて閉じ込め、還俗させて、かりたてて使い、重税を課してついには命を絶つまで追い込むこと
→一般会員から講師部員になった人に対して、ののしり苦しめ、指摘会合で過失を並べ立てて、
本部会館に監禁し、除名し、貯金も強制的に御報謝させて、命を奪う寸前まで追い込むのは、
親鸞会の輝かしい異安心破邪の歴史ですよね。

 四.父を殺し、母を害し、仏のからだを傷つけて血を流し、教団の和を乱し、阿羅漢を殺すこと
→親鸞会の会員さんの親御さんは死ぬほどつらい思いをされてますが何か。
そういえば遠景寺の阿弥陀如来像の腕を折ったのは高森先生でしたか。
あと講師部員には和なんてないですよね。密告組織ですもんね。

 五.因果の道理を否定して、常に十悪の罪を犯すこと
→会員が減ったら、自分のせいじゃなくてネットのせいにする、
嘘や二枚舌は平気でするのが親鸞会クオリティです。

そんなわけだから、五逆に関しては、大乗の五逆でも、親鸞会は守れないし、
ましてや大乗の五逆は三乗の五逆を含みません。
よって三乗の五逆で理解しても、親鸞会は守れません。

三乗の五逆が大乗の五逆を含むわけですから、
高森先生も、その高森学徒のみなさんも、
六要とかも読んでから話に参加してください。

それから、

「苦笑氏は・・・」

と、無関係の苦笑さんを中傷しているのもやめてくださいね。
見苦しいですよ。

あの先生にしてこの弟子ありですね、
ほんと、頭がおかしくなったんじゃないですか?



またまたナイスツッコミ

超頼もしいぜ

勝手に「謗法罪」を拡大すんな!!

高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?
「謗法罪、ちゃんと意味分かってます?」より

教学聖典(1)

問(35)善知識をおろそかに思うことが謗法罪になる、と仰有った親鸞聖人のお言葉と根拠を示せ。

答(35)

○善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。(末灯抄)



あのー高森先生、このお言葉、どのような意味でご使用されていますか。

もちろん、このお言葉は親鸞聖人のお言葉です。

しかし、このお言葉に出てくる「善知識」とは、誰を指して言われているのか、
親鸞会ではどのように教えていますか?

どこぞのそらごとやたわごとしか書けない完全になめられとるブログでは、
親鸞聖人をカルト呼ばわりしていましたが、あれも謗法罪ですかねぇ?

で、このお言葉の「善知識」とは、まさか「親鸞聖人がご自身のことをこう言われた」と
思っておられるわけではないですよね?ね?

いやぁ、偉大なる無二の大善知識高森先生ですから、このお言葉は、もしかして、

「高森先生をおろそかに思い、先生をそしる者をば、無間地獄なり」

と大胆な読み替えをされているのでしょうか。

そんなことだから、十分説法でも、高森先生の法話で居眠りしたら謗法罪!
とか言っているんですか?
居眠りして当たり前だと思いますが、毎回同じ話ばかりで。
だから謗法罪を造らないためにあんなにリポビタンDの自販機の前に行列ができるんでしょう?

そして、高森先生の話を難しいとか長いとか評価したらまた謗法罪!
とか言っているんですよね。
「日本一親鸞聖人の教えを分かりやすくお話して下さる先生」、っていう、
講師部員の説明も謗法ですかねぇ?
そう言うように布教講義で指示した先生も、人に謗法罪を造らせたドエライ方ですね。

話を本題に戻しましょう。

末灯抄で、親鸞聖人が善知識と言われているのは、「三毒を慎め」と教えられた方、です。

ゆえんはいかに?前後の文脈を読めばわかります。

まずこの末灯抄の題は、「三毒を慎むべき事」です。

そして、以下のような流れです。

善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。
おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。
されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信(親鸞)をやうやうに
そしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。
明法御房の往生のことをききながら、あとをおろかにせんひとびとは、
その同朋にあらず候ふべし。無明の酒に酔ひたる人にいよいよ酔ひをすすめ、
三毒をひさしく好みくらふひとにいよいよ毒をゆるして好めと申しあうて候ふらん、
不便のことに候ふ。無明の酒に酔ひたることをかなしみ、三毒を好みくうて、
いまだ毒も失せはてず、無明の酔ひもいまださめやらぬにおはしましあうて候ふぞかし。
よくよく御こころえ候ふべし。

つまりは善乗(善証)という門弟が、造悪無碍を主張して、聞かなかったわけです。
それで親鸞聖人は何度もお手紙でそれを戒められた。
だから三毒を好むことはあってはならないと教えておられます。
その教えは、「三毒を慎め」と教えられた、釈尊以下の善知識の教えです。
それを無視することが、謗法になるから、
親鸞聖人は冒頭のように仰っているわけです。

ここがわからないと、本当に仏教を誤解しますから、大事ですよ。
ていうか、ここがわかってない親鸞会のみなさんは、仏教を誤解していることになります。

そもそも謗法罪とはどういうことか、知ってるんですか、高森先生?

誤りを認めて正してもらえるなら一体謗法罪とはどういうことか、
教えますけれども・・・

教行信証に以下の記述があります。

問うて曰く、「なんらの相か是れ誹謗正法なるや」
答へて曰く、「『若し佛も無く佛の法も無し、菩薩も無く菩薩の法も無し』と言はん。
是の如き等の見をもって、若しは心に自らさとり、若しは他に従って受け、
其の心決定するを、皆『誹謗正法』と名づく。」
(教行信証信巻)

高森先生は教行信証をもう一度よく読んで勉強してね!

誰かが、御本典もろくに読んでないとか、不勉強で話にならないとか、言ってたけど
それって、自分の崇拝する善知識様に対してだったんだね☆

ほんとに高森先生は浄土三部経や教行信証など仏教の基礎からもう一度よく勉強してね。

なーんて、若造に言われてしまう程度の理解しかないのに、
自分のことを無二の善知識と呼ばせて御殿に住んでるなんて、

高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?




同 コメント覧より

No title
> で、このお言葉の「善知識」とは、まさか「親鸞聖人がご自身の
> ことをこう言われた」と思っておられるわけではないですよね?

親鸞聖人が善知識と言われる時は、常に釈尊と七高僧、特に法然上人ですね。

ただ、ここで「師をそしる者」と言われている「師」は、

> 善信(親鸞)をやうやうにそしり候ひしかば、

とあるので、親鸞聖人ご自身のことでしょう。

謗法罪の意味は教え(仏法)を謗る者、という意味ですが、
親鸞聖人は教えを説く人を謗る者も、仏法を謗ることになるから
謗法罪だと言われているのではないでしょうか。

問題は「仏法を謗るかどうか」であって、仏法と関係ないところで
謗っても、それは謗法罪にはならないと思います。

師匠である高森氏が会員に会計報告をしないのはいけない!と謗る
ことは、教えそのものを謗ってないので謗法罪ではないですね。
話が分かりにくいと言うのも、教えそのものを謗ってなければ
謗法罪にはならないと思います。また、内容に関して疑問を抱いたり
質問をしたりすることは、謗るわけではないので謗法罪ではない
でしょう。それができなければ「信心の沙汰」もできませんね。

そんな解釈でいかがでしょう。
2009-04-22 : URL : edit
名前無しさんへ
名前無しのコメント下さった方へ

なるほど、そのように解釈するとすっきりしますね。
とても適切な解釈だと思います。勉強になりました。
ありがとうございます。
2009-04-22 : くりいむれもん URL : edit




スッキリ「謗法罪」の意味がわかったぞ!!
親●会は勝手に「謗法罪」を拡大すんな!!

そんなに全人類を「謗法罪」にしたいなら、
お前ら全員、親鸞聖人の言葉に従って、
無人島でひっそり暮らせ!

その方が社会の皆様のためや。



 善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。
 おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、
 同座せざれと候ふなり。←ここポイント���ӏ���

by.親鸞聖人

「殺人」と「過失致死」は違うんだよ!!

清森問答 親鸞会教義の相対化・31より

『会報』vol.1p.89~真実の自己とは(5)

>>>
仏教では殺し方によって、自殺、他殺、随喜同業の三種に分けるが・・
(中略)
第三の随喜同業とは自分に関係のない人が殺生しているのを眺めて楽しみ、殺された生物の肉を食べて喜ぶ時は自殺、他殺と同様の殺生罪を造るといわれる。
>>>

私の知る限り、釈尊はこのようなことは仰っていません。
どなたがこのようなことを仰っているのでしょうか?

佛言。佛子。若自殺教人殺方便讃歎殺見作隨喜。乃至呪殺。殺因殺縁殺法殺業。乃至一切有命者不得故殺。
『梵網経』大正蔵経vol.24p.1004b

自分自身で殺すこと、人をそそのかして殺すこと、巧みな方法で殺すことを誉め讃えること、自分で手はくださなくても呪い殺すこと。
これらとともに「見作随喜」(殺生を作るのを見て随喜すること)がありますが、釈尊は、「殺された生物の肉を食べて喜ぶ時は自殺、他殺と同様の殺生罪を造る」とは仰っておられません。

これに関しては、仏教と仏教の「兄弟宗教」ともされるジャイナ教とを比較するとよくわかるのですが、「殺生」という悪業に関して、ジャイナ教は事実を重視して、仏教は動機を重視します。
ジャイナ教でも仏教でも殺生は戒められますが、その意味する内容はかなり違います。
ジャイナ教では、水中の小虫を吸わないように水を濾過して飲み、道を歩いて小虫を踏まないように掃きながら歩みます。
一方仏教は道ばたの虫を見て「踏み殺してやろう」と足を上げることがなくなり、虫を踏みそうな場所を避けてとおったり、足元の見えない状況での外出をひかえたりといったこころがけの改善がなされます。

これは人間の身業(身体的行為)・口業(言語的行為)・意業(精神活動の行為)のうち、ジャイナ教が身業を最も重んじたのに対し、仏教が意業を重要視したことに由来するのですが、「殺そう」とする意業(精神活動の行為)に通じるから「見作随喜」は「殺生」になるのであって、「殺された生物の肉を食べて喜ぶ時は自殺、他殺と同様の殺生罪を造る」とは言えません。

もちろん、私達が多くの命を頂いて生きていることは事実であり、私達が多くの殺生の上で生きていることは紛れもない事実です。
だから、食べ物を粗末にしていけないし、心して頂かないといけないと思います。

しかしながら、美味しい食べ物を喜ぶことは「殺生」とは言えませんね。



「殺人」と「過失致死」は違うんだよ!!

このように、仏教は「心のあり方」「動機」を問題にするわけやけど、
この「間違い」が「五逆」の解釈にも影響して、
(というか、この「間違い」を故意に適応して、)
更なるヘンテコドグマが出来上がっていることを、
くりいむれもんさんがツッコミ入れてくださいました。
 ↓ ↓ ↓
仏教の基礎も知らぬ高森先生

教学聖典(1)

問(33)五逆罪を列記せよ。

答(33)

(1)父殺し
(2)母殺し
(3)羅漢殺し
(4)和合僧を破る
(5)仏身より血を出す


はぁ?高森先生、これが五逆罪だとおっしゃるんですか?

あの~、教行信証読んでます??

親鸞聖人はこのようなことが五逆罪だとは教えておられませんよ!

たとえば、母を憎み呪って包丁で刺して殺したならば、
これは確かに親を殺した五逆罪です。

しかし、意図せず過失により親を死なせてしまった者は、どうなりますか?
親鸞会ではそのような人に対して、「お前は五逆罪だ!無間業だ!」
と言う訳ですか?

親鸞聖人のみ教えでは、以下のように五逆罪を定義しておりますが、
高森先生はいかがお考えでしょうか?

「『五逆』と言ふは、若し淄州に依らば、五逆に二有り。
一には三乗の五逆なり。
いはく、一には故(ことさら)に思うて父を殺す。
二には故(ことさら)に思うて母を殺す。
三には故(ことさら)に思うて羅漢を殺す。
四には倒見して和合僧を破す。
五には悪心をもつて佛身より血を出す。」
(教行信証信巻)←信巻の最後です、みなさん読んでね。

よーく読んでください。「ことさらに思うて」殺すのが、五逆ですよ。
つまり、故意に、意図的に、なのです。

高森先生はこのお言葉を抜かしてよく説法しておられるようですが、
それは親鸞聖人のみ教えではありません。

ましてや、「生まれて来なければ良かった」と思うことが、
なんで五逆罪になるわけ??

教行信証も適当にしか読んでない上に(若しくは悪意を持って都合よく利用?)、
五逆罪でもない人を、五逆罪と言って脅している善知識さま。

ほんと高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?



「故意に」「意図的に」が悪いのに、
それを抜かして説法するのは、
なんでやねん!!(苦笑)

事実無根の「五逆罪」の恐怖で、
純真な会員さんを脅かすなよ!こら!!

やさしい浄土真宗の教え §7 聴聞(何を「聞く」のか?)

§7 聴聞(何を「聞く」のか?)

これまでのレクチャーで、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じるのに、
「信心」(=信楽、プラサーダ)が必要なことも、
それが何の力によって得られるかも明かになりました~。

ところで、浄土真宗においては、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
疑いがバッチリ晴れた「信心」が、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに
乗ずるための「信心」ということになりますな。

そんでもって、その「信心」を獲得するために、
「聴聞」が勧められるわけですわ。(注1)


ところでこの「信心」は、
超ウルトラ速やかに「あっ」という間もないままに獲得できるから、
「時尅の一念」と言われるわけやね。(注2)

でも、その「信心」を獲得するまでの期間ちゅうものは、
人によっていろいろで、
みんな一緒っちゅうわけじゃないのよね。(注3)


もちろん「あっ」という間に、
信心獲得できるまでの期間が短い方がええんやけど、
全ての人がそういう人というわけじゃなくて、

頑張って聴聞もしてるんだけど

歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、

そんな人はどうしたらよいか?

という疑問も出てくるわけですわ。普通。


どう?親●会でこんなこと他の人に相談できました?
「後ろ向き発言禁止!」とかじゃ無理だったんじゃありまへんか?(注4)
あるいは、「宿善が足りない!」とか怒られてたんちゃう?(苦笑)

苦笑ちゃんは、そういう人の悩みにも、
ちゃんと向き合っていきまっせ!!

というか、そういう相談ができる雰囲気は超大切やで。(注5)


【今日のまとめ】
 1、浄土真宗の「信心」は、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
 疑いが完全に晴れた「信心」である。
 2、その「信心」になることによって、
 阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗ずることができる。
 3、「聴聞」によって、その「信心」は得られる。
 4、その「信心」は「一念」で得られるものであるが、
 それを獲得するまでの期間は、人によって様々である。


※次回は、

歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、
 ↑
この人がどうしたらええか解説するで!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 願成就文を親鸞聖人は以下のように解説されている。

・経に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは本願力廻向の信心なり
『教行信証』信巻

・「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり、また「きく」というは、信心をあらわす御法なり。
『一念多念証文』


また、親鸞聖人の教えを受けて蓮如上人は以下のように述べておられる。

・かるが故に、阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき「衆生、仏に成らずば我も正覚ならじ」と誓いまします時、その正覚已に成じたまいしすがたこそ、今の南无阿弥陀仏なりと心得べし。
これ即ち、我らが往生の定まりたる証拠なり。されば、他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
『御文章』4帖8通


・他力の信心を獲るというも、これしかしながら、南无阿弥陀仏の六字のこころなり。この故に一切の聖教というも、ただ南无阿弥陀仏の六字を信じせしめんがためなり
『御文章』5帖

・阿弥陀如来の仰せられけるようは、「末代の凡夫、罪悪の我らたらん者、罪はいかほど深くとも、我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし」と仰せられたり。
『御文章』4帖

・されば、「南无阿弥陀仏と申す六字の体はいかなる意ぞ」というに、「阿弥陀如来を一向にたのめば、仏その衆生をよく知ろしめして、救いたまえる御すがたを、この南无阿弥陀仏の六字に現したまうまり」と思うべきなり。
しかれば「この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をば助かるべきぞ」なれば、何の煩いもなく、もろもろの雑行、雑善をなげ棄てて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、二心なく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明を放ちて、その光の中に摂め入れ置きたまうなり。
これを即ち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとは申すなり、また不捨の誓約ともこれを名くるなり。
『御文章』3帖4通

・それ、当流の安心のすがたは如何ぞなれば、先ず「我が身は十悪五逆五障三従のいたずらものなり」と深く思いつめて、その上に思ふべきやうは、「かかる浅ましき機を、本と助けたまへる弥陀如来の不思議の本願力なり」と深く信じ奉りてすこしも疑心なければ、必ず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなわち他力真実の信心を得たすがたと云うべきなり。
『御文章』2帖15通


注2 このことの解説に関しては、以下の記述に問題はない。

チ●ーリップ企画 【第12回】信楽は一念で獲得 より

~~以下引用~~
次に第二の、その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる”ということに就いて明らかにしよう。
釈迦は『成就文』に「信楽を獲る」のは、「信心歓喜せんこと乃至一念せん」と、「一念」であると鮮明に説かれている。では「一念」とは何か、親鸞聖人にお聞きしたいと思う。

この『成就文』の「一念」を、法然上人は「行の一念」とされているのに、親鸞聖人は「信の一念」と説き、それを「時尅の一念」と「信相の一念」で教えられている。(両聖人の違いについては後日、述べよう)

先ず、「時尅の一念」に就いてであるが、聖人はこう仰っている。

「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり、一念とは信楽開発の時尅之極促を顕はし、広大難思の慶心を彰すなり」 (教行信証)

ここで親鸞聖人の仰せになっていることを、易しく言うと次のようなことだ。

「阿弥陀仏の本願の『信楽』を、釈迦は成就文に『信心歓喜せんこと乃至一念せん』と説かれているのは、本師本仏と仰ぐ弥陀の本願の最も尊く優れているのは、一念の救いである」と言われているのである。

「一念の救い」とは、先ず、弥陀の救いは極めて速いということ。「名号」を聞即信と頂き破闇満願し、広大難思の慶心の身に救われるのは、分秒にかからぬ速さである。
だから聖人は「極速円融の真詮」とも弥陀の救いを言い、聞即信の一念だから「極速」、一念で大満足させられるから「円融の真詮」と仰っている。

なぜ、弥陀の救いは、こんなに速いのか。覚如上人は『口伝抄』に、その訳をこう記される。

「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」

平易に言うと、常に阿弥陀仏の救いの相手は、直前に死が迫っている無常迅速の人(十方衆生)だからである。もし三刹那かかる弥陀の救いだとすれば、一刹那後に死ぬ人を救うことはできないだろう。
だから阿弥陀仏の本願の最も優れて尊く大切なのは、「一念の救い」であり、「一念の救い」こそが、弥陀の本願の肝要であり至極の教えであると、釈迦や親鸞聖人は言われているのだと、覚如上人は仰っているのである。

中国の曇鸞大師という人は『浄土論註』に、
「譬えば、千歳の闇室に光もし暫く至れば、すなわち明朗なるが如し。闇あに室に在ること千歳にして去らず、と言うことを得んや」
と、例えで明来闇去 闇去明来、明かりが来たのが先か、闇が晴れたのが先か、弥陀の一念の救いの速さを教えていられる。

だから真実の信心(一念の救い)には、信楽開発した一念がある。信楽が開発したとは、一念で弥陀の本願に疑い晴れ、往生一定と極楽往き間違いなしと、大安心大満足の心になったことをいう。
例えれば、生来、目が見えなかった人が名医の手術で開眼した一刹那とでもいうか、地獄より行き場のない者と知らされたと同時に、私一人を助けんがための弥陀のご本願でありましたと驚天動地する、不可称不可説不可思議の一念である。
~~以上引用~~


注3 法然上人には、以下の言葉がある。

人の心は頓機漸機とて二品に候なり。
頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。
物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、
足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、
まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように、
ねごう御心だにわたらせ給い候わねば、
年月をかさねても御信心もふかくならせおわしますべきにて候。
『往生浄土用心』昭法全p.562

(訳)
人の心には頓機、漸機という二つがある。
頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、
漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。
たとえば神社仏閣へ参詣するにしても、
足の速い人は、わずかな時間でそこまでたどりつくことができるのに、
足の遅い人は一日かけても着くことができないようなものである。
しかし、そこに行こうという心があれば、
最後には必ずお参りすることができるのと同じように、
浄土に往生したいと願う気持ちさえあるならば、
時間はかかっても御信心は深くなっていくに違いない。

ところで『会報』vol.3p.55~宿善(2)には、

~~以下引用~~
よって宿善の厚薄は、また聞法心の強弱によって知ることが出来る。仏教では宿善深厚の人を頓機といい、宿善薄弱な人を漸機といわれる。頓機の者は一度の法筵に遇っても信を獲るが、漸機の人は法筵を重ねて、漸く信を獲得するのである。丁度、枯松葉と青松葉のようなものである。枯松葉はマッチ一本ですぐに火がつくけれども、青松葉に火をつけようとしても、プスープスー水をはじいて、中々火はつきにくい。それと同様に頓機は御慈悲の火がつきやすい状態になっている人だから、すぐにも仏凡一体と燃え上るが、漸機は今日もカラボコ、今日も落第どう聞けばよいのか、どれだけ聞けばわかるのかと、ブスブス小言ばかりいって、流転しているのである。しかも漸機の者は圧倒的に多く、頓機は稀なのである。
記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子の中では、わが親鸞聖人と蓮生房と耳四郎の三人のみが頓機である。
聖人の門下では明法房、ただ一人である。その外にもあったであろうが甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に頓機の者は少なく、漸機の者は多しと仰せられている。
~~以上引用~~

とあるが、この解説は、『和語灯録』所収の上記の法然上人の言葉には基づいていないようである。


注4 親鸞会教義の相対化・46参照

<禁止事項>
【後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章】

【発言】
※自分だけでなく、周囲の人のやる気を削ぐような発言はしない。
1)できません。
2)無理です。
3)わたしのような者はダメです。
4)感謝の心がでてきません。
5)こんなやり方にはついてゆけません。
6)そんなことを言われても困ります。
7)少しも悪いと思えません。
8)辛いです。苦しいです。

【顔(表情)】
※額にシワをよせた表情はしない。
1)泣くと、その涙でなお悲しくなる。
※『ベッピンも 笑顔忘れりゃ 五割引き』

【姿勢】
※腰を押されるようにして、堂々と歩く。

【文章】
※後ろ向き発言と同じ文章は書かない。


注5 『蓮如上人御一代記聞書』(86)に以下の記述がある。

一 蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。

(訳)
蓮如上人は「素直に自分の心の中にあるものを言いなさい。ものを言わないで黙っているものは恐ろしいことである」と仰った。
「信心のある者も、信心のない者も、包み隠さず心の中にあるものを言いなさい。心の中にあるものを言うからこそ、他の人に心の奥底で思っていることがわかり、人に直してもらうこともできるのである。だから包み隠さずにものを言いなさい」と仰った。

『無量寿経』を断章取義してドグマ捏造!!

高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?
大無量寿経の仏意を捻じ曲げた高森先生 より

教学聖典(1)

問(26)人間の身口意の三業の実相を説かれた『大無量寿経』の仏語を書け。

答(26)

心常念悪 心常に悪を念じ
口常言悪 口常に悪を言い
身常行悪 身常に悪を行じ
曽無一善 曽て一善無し



え~、あの、このテキストを作った高森先生は、
本当に大無量寿経を読んだことがあるのでしょうか?

いや、こういうお言葉を発見したので使ったということでなく、
ちゃんと通読しましたか?

このお言葉、大無量寿経下巻の五悪段の第五悪ですよね。
それはもちろんご存知ですよねぇ?

この仏語の前後、ちゃんと読みました?

大無量寿経には以下のように説かれています。

まず、五悪段(五悪訓戒)のはじめには、

(大無量寿経原文)

仏、弥勒に告げたまはく、
「なんぢらよくこの世にして、心を端しくし意を正しくして衆悪をなさざれば、
はなはだ至徳なりとす。十方世界にもつとも倫匹なけん。
ゆゑはいかん。諸仏の国土の天・人の類は、自然に善をなして大きに悪をなさざれば、
開化すべきこと易し。いまわれこの世間において仏になりて五悪・五痛・五焼のなかに
処すること、もつとも劇苦なりとす。
群生を教化して五悪を捨てしめ、五痛を去らしめ、五焼を離れしめ、
その意を降化して五善を持たしめて、その福徳・度世・長寿・泥?の道を獲しめん」と。
仏のたまはく、「なんらか五悪、なんらか五痛、なんらか五焼なる。
なんらか五悪を消化して五善を持たしめて、その福徳・度世・長寿・泥の道を獲しむる」と。

(口語訳)

師はマイトレ-ヤ(弥勒菩薩)にいわれた、
この世において心を正しくし、さまざまな悪をなさないのはきわめてよいことだ。
十方の世界に比類がないであろう。
それはなぜかというと、諸仏国土の天人や人間たちは自然に善をなして、
大きな悪事は決して犯さない。〔それゆえ、かれらを〕覚りに導くことは容易なのだ。
今、わたしはこの世間において〈目ざめた人〉となり、
五つの悪(五悪)、五つの現世の罪報(五痛)、五つの未来の悪報(五焼)の
ただ中に生きていることは最もひどい苦痛なのだ。
わたしは生きている者どもを教化して、五つの悪を捨てさせ、
五つの現世の罪報と五つの未来の悪報から離れさせ、かれらのこころを変えさせて、
五つの善を保持し、それによって、福徳や、完成や、長寿や、永遠の平安に
到達できるようにしてやりたいのだ。」と。
師はさらに言われた―「五つの悪とは何か、五つの現世の罪報とは何か、
五つの未来の悪報とは何か。五つの悪をなくし、五つの善を保持して、
福徳や、完成や、長寿や、永遠の平安に到達するとはどういうことなのか」と。

と、言われております。ここでもう気付いた方もあるでしょうが、
五悪を犯す人間、というのは、全人類のことではないわけですよ!
この世において心を正しくし、悪をなさない人もいるけれど、
五つの悪を犯している人々が多いので、まずそれらを捨てさせ、善をすすめて、
そののちに、覚りに導こうというのが、釈尊の導き方なのです。

だから、阿弥陀仏の極楽浄土へ行こうと思ったなら、
まず心を正しくしていくこと(廃悪修善)がファーストステップであり、
それを実践した人に初めて、覚りの道を説いて意味があるわけです。

親鸞会の教学では、「全人類は曽無一善」、みたいな言い方をされていますけど、
実際は全人類ではないわけです。
それは、大無量寿経の、第五悪を読めば、よりいっそう分かります。

(大無量寿経原文)

仏のたまはく、「その五つの悪とは、世間の人民、徙倚懈惰にして、
あへて善をなし身を治め業を修せずして、家室・眷属、飢寒困苦す。
父母、教誨すれば、目を瞋らし怒りてふ。

言令和らかならず。違戻し反逆すること、たとへば怨家のごとし。
子なきにしかず。取与に節なくして、衆ともに患ひ厭ふ。
恩に負き義に違して報償の心あることなし。貧窮困乏にしてまた得ることあたはず。
辜較縦奪してほしいままに遊散す。しばしばいたづらに得るに串ひて、
もつてみづから賑給す。酒に耽り、美きを嗜みて、飲食、度なし。

心をほしいままに蕩逸して魯扈牴突す。人の情を識らず、しひて抑制せんと欲ふ。
人の善あるを見て、憎嫉してこれを悪む。
義なく礼なくして〔わが身を〕顧み難るところなし。
みづからもつて職当して諫暁すべからず。
六親・眷属の所資の有無、憂念することあたはず。
父母の恩を惟はず、師友の義を存せず。
心につねに悪を念ひ、口につねに悪をいひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。
先聖・諸仏の経法を信ぜず、道を行じて度世を得べきことを信ぜず、
死してのちに神明さらに生ずることを信ぜず。
善をなせば善を得、悪をなせば悪を得ることを信ぜず。
真人を殺し、衆僧を闘乱せんと欲ひ、父母・兄弟・眷属を害せんと欲ふ。

六親、憎悪してそれをして死せしめんと願ふ。
かくのごときの世人、心意ともにしかなり。
愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、
死の趣向するところを知らず。
仁ならず、順ならず、天地に悪逆してそのなかにおいて僥倖を?望し、
長生を求めんと欲すれども、かならずまさに死に帰すべし。

(乃至)

人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端し、念を正しくして、
言行あひ副ひ、なすところ誠を至し、語るところ語のごとく、心口転ぜずして、
独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、
その福徳・度世・上天・泥?の道を獲ん。これを五つの大善とす」と。

(口語訳)

さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「第五の悪とは次のようである。世間の人々は、おこたりなまけてばかりいて、
善い行いをし、身をつつしみ、自分の仕事に励もうとはいっこうにせず、
一家は飢えと寒さに困り果てる。親が諭しても、かえって目を怒らせ、
言葉も荒く口答えをする。その逆らう様子はまるでかたきを相手にするようであって、
こんな子ならむしろいない方がいいと思われるくらいである。
また物のやりとりにしまりがなくて、多くの人々に迷惑をかけ、恩義を忘れ、
報いる心がない。そのためますます貧困に陥って、取り返しのつかないようになる。
そこで、自分の得だけを考えて、他人のものまで奪い取り、好き放題に使ってしまう。
それが習慣となって、ひとり贅沢な生活をし、むやみに美食を好み美酒にふける。

そうして勝手気ままに振舞い、自分の愚かさは省みずに人と衝突する。相手の気持ちを
考えることなく、無理に人を押さえつけようとし、人が善いことをするのを見ては
ねたんで憎み、義理もなければ礼儀もなく、わが身を省みず、人にはばかるところがない。
それでいて自分は正しいものとうぬぼれているのであるから、戒め諭すこともできない。
親兄弟や妻子など、一家の暮らし向きがどうあろうと、そんなことには少しも気を配らない。
親の恩を思わず、師や友への義理もわきまえない。
心にはいつも悪い思いを抱き、口にはいつも悪い言葉をいい、
身にはいつも悪い行いをして、今まで何一つ善い行いをしたことがないのである。

またいにしえの聖者たちや仏がたの教えを信じない。修行により迷いの世界を離れて
さとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生まれ変わることを信じない。
善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果を招くことを信じない。
さらに心の中では、聖者を殺し、教団の和を乱し、親兄弟など一家の者を傷つけようとさえ
思っている。そのために身内のものから憎みきらわれて、そんな者は早く死ねばいいと
思われるほどである。

このような世間の人々の心はみな同じである。道理がわからず愚かでありながら、
自分は智慧があると思っているのであって、人がどこからこの世に生まれてきたか、
死ねばどこへ行くかということを知らない。また思いやりに欠け、人の言うことにも
耳を貸さない。このように道にはずれたものでありながら、得られるはずもない幸福を望み、
長生きしたいと思っている。しかし、やがては必ず死ぬのである。

もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、
身も心も正しくし、言行を一致させ、行いも言葉もすべて誠実で、思いと言葉が相違せず、
さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、
迷いの世界を離れて浄土に生まれ、さとりを得ることができるであろう。
これを第五の大善というのである」

以上でお分かりの通り、全人類の中には、悪を犯してばかりの者も居れば、
身も心も正しく努めている人もいる、そういうことが可能だという前提で、
釈尊は大無量寿経のこの部分を説かれているのです。
つまり全人類はどう頑張ってみても本質的に悪しかできない、
というのは親鸞会の高森先生だけでの解釈で、
「弥勒たちよ、きみたちは本来は、こんな悪人であっちゃいけませんよ」と、
悪い世間の人の例、反面教師を出されて、清らかな仏道に入ることを
勧められたお言葉なのです。
それを、
「会員たちよ、きみたちは悪しかできないんだぁー、助かりたければF館に御報謝せよ!」
と大無量寿経をねじまげて自分の都合よく解釈しているんですよね、高森先生?

それを、曽無一善の部分だけ切り取って、全人類はかつて一善無し、と言ったら、
仏説に反することになるんですよ、高森先生。

それ真実の教をあらわさば、大無量寿経これなり。(親鸞聖人)

高森先生は、大無量寿経もろくに読めないんですかね。

そんないい加減な断章主義の教学テキストを作っちゃうなんて、

高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?




『無量寿経』を断章取義してドグマ捏造!!
・・ですね(苦笑)。

自称「善知識」の高●先生も、
高●ドグマコピーの講師諸君も、
恥をかきたくなかったら、

とりあえず『無量寿経』は、
読んだ方が、エエと思うで(苦笑)。

やさしい浄土真宗の教え §6 「名号」と「光明」

§6 「名号」と「光明」

前回の続き!

私達が何の力によって信心を得るか?

それは、「名号」が因、「光明」が縁となって、
私達は阿弥陀仏の本願に対する「信心」が獲られますのや。
これも私逹を救うために、
阿弥陀仏が作ってくださったシステムであることは、
言うまでもありまへん。(注1)

阿弥陀仏によって与えられる「信心」は、
阿弥陀仏が作った名号(至徳の尊号)を「体」としてます。(注2)

そんでもって、
「南無阿弥陀仏」という「名号」ちゅうものは、
「悪を転じて徳を成す正智」そのもので、(注3)
すげ~すげ~広大な海に喩えられるぐらい、
ありとあらゆる善根功徳が詰め込まれてるから、
それを受け取って「信ずる」人になったら、
阿弥陀仏のシステムに乗じて、
絶対に生死を繰り返す輪廻の世界にはとどまらへんのよね。(注4)

せやから、

★「信心(=信楽、プラサーダ)を得た!」

っちゅうことは、

★「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」

ちゅうことになりますねん。(注5)


せやけど、阿弥陀仏が「名号」を完成させてくれたからって、
この「オレ」が、その「名号」を受け取らなかったら、
「信心」とはならへんし、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムも作動せんちゅうことは、
本願の解釈を間違って「十劫安心」っぽい信心に陥っている(?)、(注6)
「あの」高●先生でも言っておられることです。(注7)


しつこいようやけど、
私達が、信心の体である「名号」を受け取るために、
阿弥陀仏は、「光明」でもって働きかけてくれてるわけやけど、
私達が「名号」を受け取って、
「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っておりまへん。(注8)

ほっといても「信心」が得られるなら、
何のために「聴聞」するかわからへんようになりまっせ。(注9)


【今日のまとめ】
 1、阿弥陀仏が作ってくださった、「名号」が因、「光明」が縁となって私達は「信心」を得ることができる。
 2、「信心を得た!」ということは、阿弥陀仏が与えてくれる「信心」の体である「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」ということである。
 3、「名号」を受け取らなかったら「信心」とはならない。
 4、私達が「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は「光明」で働きかけてくれている。
 5、しかし、私達が「名号」を受け取って「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。

※次回は、「聴聞」についてやで!!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 詳しくは、以下の解説参照。

「信楽の身」になるための働き より

清森問答 質疑応答138コメント覧より

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』 【四・光明名号因縁の事】 (p.685) に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。

しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、
明確に区別しなければなりません。
第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、
全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。
これでは十劫安心になってしまいます。
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。


清森問答 質疑応答139コメント覧より

B(本物)さんの解説

第18願の内容は、直接的には
「信心を獲た人に当益を与える」ですが、この願が成就したことによって、
信心を獲た一念で、当益が得られることが確定し、副産物として現益も獲られます。
ですから、成就文には現益が説かれていますし、親鸞聖人も『尊号真像銘文』(p.586)に、「乃至十念」と「若不生者」の解釈の間に現益の意味を挿入しておられます:
「この真実信心を得む時、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まると見えたり。」
ですから、結果的には現当二益が誓われていると理解できます。

ただし、その「現益」も、真実信心を獲得することによって獲られるものであって、
「信心」と「現益」とは因果関係にあります。
一念同時ではありますが、決して同じ概念ではありません。

「信心を獲た人に現当二益を与える」と誓われた、という理解は正しいですが、
「全ての人に信心を与える」と第18願で誓われた、ということにはなりません。


●光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。
しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(礼讃)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず。
しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。
本願寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。これをたとふるに、日輪、須弥の半ばにめぐりて他州を照らすとき、このさかひ闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでに明くるがごとし。しかれば日輪の出づるによりて夜は明くるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜の明けて日輪出づと。いまいふところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて無明長夜の闇すでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなりとしるべし。『執持抄』四

注2 以下の記述に基づく。

●如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無礙・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心を以て、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に廻施したまえり。
 すなわちこれ利他の真心をあらわすが故に、疑蓋まじわること無し。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体と為せるなり。
『教行信証』信巻

注3 以下の資料に基づく。

●円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なり。『教行信証』総序


注4 以下の資料に基づく。

● 『浄土論』にいはく、「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とのたまへり。
この文のこころは、「仏の本願力を観ずるに、まうあうてむなしくすぐるひとなし、よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」とのたまへり。「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり。
「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり。「無」はなしといふ、「空」はむなしくといふ、「過」はすぐるといふ、「者」はひとといふ。むなしくすぐるひとなしといふは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。
「能」はよくといふ、「令」はせしむといふ、よしといふ、「速」はすみやかにといふ、疾きことといふなり、「満」はみつといふ、「足」はたりぬといふ。「功徳」と申すは名号なり、「大宝海」はよろづの善根功徳満ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらずもとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに大宝海とたとへたるなり。
『一念多念証文』


注5 以下の資料に基づく。

●それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
 そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。
この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。かかる殊勝の道理あるがゆゑに、ふかく信じたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
『御文章』5帖13通


注6 前回の§5参照。


注7 以下参照。

 真宗の骨格
                                
 阿弥陀佛によって完成された南無阿弥陀佛の名号には一切衆生の苦悩を抜き、無上の安楽を与える働きがあることは、すでに述べて来た通りであるが、これは、丁度肉体の病苦を癒し健康の慶びを与えてくれる良薬のようなものであるから、法然上人も、この阿弥陀佛の名号を妙薬に喩えわが親鸞聖人もまた、「如来誓願の薬は能く智愚の毒を滅す」と弥陀の尊号を良薬に喩えていわれるのはまことに適切な譬喩といわねばならぬ。
 このように味ってみれば薬の調合はすでに了ったわけである。
 今や正しく病人がこの薬を呑む場合に臨んでいる。
 浄土真宗、親鸞聖人の御教では、六字が阿弥陀佛の手元にある時は、名号といい、その名号が吾々の心中に与えられ佛心と凡心が一体となったところを信心といい、六字が口に声となって称えられた時は、有難うございましたという佛恩報謝の念佛というのが定判である。
 蓮如上人は、これを
「この佛心(名号)を凡夫の方に授けましますとき信心とは名づくるなり」
「されば南無阿弥陀佛と称ふる心は如何ぞなれば、阿弥陀如来の御助ありつることの有難さ尊さよと思ひて、それを慶び申すこころなり」と教えていられるのでも明らかである。 薬はいくら完成されていても、また如何にそも薬に特効があろうとも吾々が呑まなければ、何んにもならないように、十劫の昔から名号は成就していても吾々が受け取らなければ、何んにもならない。
 誠に呑む人がなければ折角調合せられた薬も、その甲斐がない。
 単に甲斐がないというよりも薬そのものの存在意義がないからである。
 吾々がこの名号、大功徳を受けとらねば弥陀の五劫の思惟も永劫の苦行も水泡に帰し名号は画餅に等しくなってしまう。
 故に、如来が我々凡夫にこの大功徳宝を与えてやりたいとの真心を名号の南無の二字にこめてあるからこれを発願廻向という。
 『証文』には
「廻向は本願の名号をもって十方衆生にあたへたまう御のりなり」と説き、蓮如上人は御文章三帖八通に
 「阿弥陀如来の凡夫の為に御身労ありて此の廻向(名号)を我らに与へんが為に廻向成就したまいて」、とあるように阿弥陀佛の本願は成就完成した名号を一切衆生に与えて救わんとせられたこと以外にはなかったのである。
 吾々がこの弥陀の本願を聞信し名号を受領し佛凡一体となった時を信心決定というので、この時に名号大功徳が我ものとなり佛智全領するから破闇満願、抜苦与楽に救われるのである。
 故にいくら名号が成就されていても吾々が受け取って吾らの信心とならねば救われない。真宗は信心正因であって名号正因といわないのは、その為である。
 『正信偈』に「本願名号正定業」とは仰有ってあるが如来の手元にある名号では吾々は救われないから正因とはいわれないのだ。
 吾々が名号を受けとれば破闇満願、抜苦与楽の力有のあることを正定之業といわれたのだが受け取らずに向うに眺めているだけでは、出来上がった話をきいているだけでは、出来上った話をきいているだけでは、救われないから正因とはいわれないのである。
 御馳走が出来ていても食べねば、腹はふくれません。
 御飯の室に入っていても食べねば餓死します。
 御馳走は名号であり食べて満腹したのが信心である。
 隣にどんな美人が居ても結婚するまでは関係がない。
 結婚するまでは隣の娘といい、一緒になれば妻と変るように、娘は名号であり、妻となったのが信心である。
 故に信心獲得したか、どうかが真宗の眼目であり肝要なのだ。
 これを蓮如上人は、御文章のいたるところに強調なされているが、二帖二通には
「開山聖人の御一流には、それ信心ということをもって先とせられたり。
 この信心を獲得せずば極楽には、往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」とか二帖、三通には
「然れば祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一つに限れり、これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす」とか、五帖十一通には
 「当流には信心の方をもって先とせられたる。その故をよく知らずば徒事なり」等、とあるは、このことである。
 『法事讃』上に有名な「謗法闡提廻心皆往」とあるのは、廻心されたものは謗法も闡提もみな救われるが廻心されねば必堕無間なのだ。
 廻心されたかどうか、名号を受けとったかどうかが皆往となるか必堕となるかの分岐点となるのだ。
 にもかかわらず、真宗の布教師の中には「囮事の一声自己を識得す」という禅宗の言葉で真宗の信心を語る者があるが、これは絶対間違いである。
 囮事の一声とは、たとえば、お婆さんが財布を自分が持ちながら忘れて財布を探している時「あんたの手にもっているじゃないか」と注意されて「ハー」と気のついた時発する声であるが真宗の信心も丁度このように吾々にはもとより助かっているのだがそれを知らないだけで迷うているのだから、それを知ったのが信心だというのである。
 こんな説教が実に多いが十劫安心の親玉である。
 これは「本来もっていたものに自覚する」という考え方が基礎になっているから、真宗の絶対他力廻向の弥陀の本願に反する邪義である。
 親鸞聖人は「教行信証」信巻に
「真実信心は、我ら凡夫には本来法爾として所有していないから如来が円成して我ら煩悩悪業邪智の心中に廻施して下さるものだ」と述べ、いたるところに「真実信心をうる」とか、「獲得すれば」とか、「和讃」には、「真実報土の正因を二尊のみことにたまわりて」とか、あくまでも如来よりたまわる信心であることを明示され、覚如上人も
「三経の中に観経の至誠心、深心等の三心をば凡夫のおこすところの自力の三心ぞと定め大経所説の至心、信楽欲生等の三心をば他力よりさずけらるるところの佛智とわけられたり」と邪義のつけいる余地のない明説がなされているのだから充分注意せねばならない。
(『会報』vol.2 pp. 64-68)


注8 これに関しては、§5で詳しく述べた通りである。


注9 これに関しては、次回詳しく述べる予定である。

Q&A(2)『無量寿経』所説の「易往而無人」

Q。
釈尊のたった五文字だけを取り出して、頭おかしくなったんじゃないですか?と思えと会長から言われて大変な違和感がありました。

しっかり大無量寿経を読むと釈尊は、易徃而無人の前に、どうしてそうなるか解説して下さっているように読めました。

苦笑さん時間があれば、その意訳をお願いします。

※ おお!高●先生に「近づくな」だったのか!! より


A。
了解です!

まず、『無量寿経』において「易往而無人」が説かれている箇所を、
前後のコンテクストがわかる範囲で抜き出してみます。
 ↓
●仏、弥勒菩薩ともろもろの天・人等に告げたまはく、「無量寿国の声聞・菩薩の功徳・智慧は、称説すべからず。またその国土は、微妙安楽にして清浄なることかくのごとし。なんぞつとめて善をなして、道の自然なるを念じて、上下なく洞達して辺際なきことを著さざらん。よろしくおのおのつとめて精進して、つとめてみづからこれを求むべし。かならず〔迷ひの世界を〕超絶して去つることを得て安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ、道に昇るに窮極なからん。
〔安養国は〕往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり。なんぞ世事を棄てて勤行して道徳を求めざらん。極長の生を獲て、寿の楽しみ極まりあることなかるべし。 しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ。この劇悪極苦のなかにして、身の営務を勤めてもつてみづから給済す。尊となく卑となく、貧となく富となく、少長・男女ともに銭財を憂ふ。有無同然にして憂思まさに等し。屏営として愁苦し、念を累ね、慮りを積みて、〔欲〕心のために走り使はれて、安きときあることなし。
田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。(以下略)
(『無量寿経』巻下)

 
私が訳してもOKですが、
本●寺出版の現代語訳がありますので、
紹介も兼ねて、それを挙げてみましょう。
 ↓
釈尊は弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになった。
  「 無量寿仏の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧がすぐれていることは、言葉に表し尽せない。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。
 それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。
 ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。
 田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。(以下略)
(『浄土三部経(現代語版)初版』本●寺出版社発行)


仰るように、釈尊はちゃ~んと解説してくださってますね。
はい。

ここまで書いたら、これ以上の解説はいいですよね?(苦笑)

そうです。
「易往而無人」を、釈尊はちゃんと根拠も挙げて解説しているのに、
高●先生は、その釈尊の言葉を断章取義して捏造し、

「頭、変になられたんじゃないですか?」

などと誹謗されたんです。
全く、とんでもないことです(怒)。

もし、「そうでない」と言うならば、
『無量寿経』をまともに読ま(め)ないまま、
「易往而無人」という一部だけ取り出して、
いい加減な思いつきの解説をされたっちゅうことになります(苦笑)。

いずれにしても、どうしようもないですね(苦笑)。

こんな人物に従って、
「聖者」であり「善知識」釈尊を誹謗してはいけませんよ!

どうぞ、親鸞聖人に従って、
こんな人物が教えを説いている親●会からは、
速攻で脱出してください!

悪いことはいいませんから、さっさと脱出しちゃってください!




追記

なお、親●会では本●寺を悪く言うのが習慣化されているようですが、
『無量寿経』をちゃんと読んで、きちんと現代語訳して出版していますし、
釈尊に対して「頭、変になられたんじゃないですか?」などと言う方もいなそうですし、

少なくとも、『無量寿経』をまともに読んでおらず、
親鸞聖人に「遠ざかれ!」と言われるようなことを教えている、
自称「善知識」よりは、遥かにちゃんとしていると思います。

おお!高●先生に「近づくな」だったのか!!

清森問答 親鸞会教義の相対化・82 より


●驚愕講義H21.3.15
http://kyougaku.at.webry.info/200903/article_1.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私たち。
えー!どうして!
おかしいじゃないのそれは。

お釈迦様、貴方どうかされたんじゃないですか?
頭、変になられたんじゃないですか?

という心が、グーッと出てくるでしょ。
これが出てこなかったら、始まらんのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 このサイトの音声は、以下のサイトから高森先生の教学講議のものであると思われます。

※苦笑の独り言ツッコミ番外編!2009.03.15.教学講議より
(追記あり)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-238.html



 ところで、最古の仏教経典と言われている『スッタニパータ』において、釈尊は以下のように述べておられます。

●悪口を言いまた悪意を起こして聖者をそしる者は、10万ニラッブッダと36ニラッブッダの間、また5アッブッダの間、地獄に堕ちる。(Sn.660)

※「ニラッブダ」「アッブッダ」とは何れも巨大な時間の単位であり、途方もなく長い期間地獄にいなければならないことを表しています。


 「一切衆生必墮無間」という言葉は釈尊の教えにはありませんが、釈尊の悪口を言い謗ったものが地獄に堕ちることは、『スッタニパータ』の記述から明かです。
 高森先生がどのような意図で上記のような発言をされたのかは、この録音だけではわかりませんが、もしも釈尊の悪口を言い、聖者である釈尊を謗ったのであれば、間違いなく地獄に堕ちてしまうことになります。

 以下、改めて申し上げるまでもありませんが、一応念のために申し上げておきます。


 清森問答をご覧の皆様は、釈尊の教えを信じ「地獄に堕ちたくない」と思っているならば、高森先生の言葉を鵜呑みにして「頭、変になられたんじゃないですか?」などと、釈尊を謗るようなことは絶対に思わないでください。ましてそのように思ったことを口に出して言うなど言語道断です。


 また親鸞聖人は以下のように仰っておられます。

●善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。『親鸞聖人御消息』


 この言葉が「全人類が五逆謗法だから、それを避けて無人島で暮らしなさい」という意味ではなく、「五逆謗法の人と、そうでない人がいるから、五逆謗法の人に近づくな」という意味であることは、既に清森さんがご指摘のことでありますが、

※清森問答質疑応答143
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-225.html

 もしも親鸞会で高森先生の仰ったように、「頭、変になられたんじゃないですか?」などと、釈尊を謗るようなこと他の方にも説くことを強制されるのであれば、それは「謗法」に当たる行為ですので、親鸞聖人の教えに従い一刻も早くそのような団体から遠ざかり、「地獄に堕ちる」リスクを回避してください。


 以上、老婆心ながら、清森問答をご覧の皆様(特に現在も親鸞会に留まっている方)に忠告させて頂きました。



おお!
親鸞聖人が「近づくな」と仰ったのは、
高●先生のことだったのか!!

やさしい浄土真宗の教え §5 何の力によって信心を得るか?

§5 何の力によって信心を得るか?

ここまでレクチャーしてきたように、
衆生が極楽浄土に往生し、最終的に成仏するためのシステムを
阿弥陀仏が作ってくださったわけやけど、
衆生がそのシステムに乗じなきゃ、
その阿弥陀仏のシステムは作動することができまへん。(注1)

そんでもって、このシステムの乗ずるのに必要なのが、
「信心」(=信楽、プラサーダ)だっちゅうことは、
よい子のみんなは、わかっているよね?(注2)

それなのに、どっかの親●会ドグマは、
本願の解釈を、

 阿弥陀仏が信心を与えてくれる=衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている

なんてことにしちゃっているから、

事実上、所謂「十劫安心」を肯定しちゃうことになるんですわ(苦笑)。(注3)

これがどんだけヘンテコドグマかっちゅうことは、
これまでのツッコミを読んでくれたお友達は、
よ~わかってくれてると思います(苦笑)。(注4)


それでは、私達が何の力によって信心を得るか?

これは、ちょっと話が長くなりそうだし来週につ・づ・く♪



【今日のまとめ】
 1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じなければ衆生は救われない。
 2、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに必要なのは、「信心」(=信楽、プラサーダ)である。
 3、本願の解釈を「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている」としたら、事実上「十劫安心」を肯定することになる。



※次回、「何の力によって信心を得るか?」をレクチャーするで!!



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 以下のエピソードが、このことを端的に表しているであろう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ある時、一休禅師が蓮如上人に歌を送った。


 阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり
 たのむ衆生を のみぞたすくる 

(訳)
 阿弥陀仏には、本当の慈悲がないのではないか?
 阿弥陀仏をたのむ衆生だけを救うと言っているではないか!


これに対し、蓮如上人は以下のような歌を返されたそうである。


 阿弥陀には 隔つる心はなけれども
 蓋ある水に 月は宿らじ

(訳)
 阿弥陀仏には、衆生を別け隔てするような心はないが、
 蓋をしてしまった水面に月を写すことができないように、
 阿弥陀仏の本願を疑い阿弥陀仏の救いを拒む人を、
 阿弥陀仏は救うことができないのである!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


注2 以下の親鸞聖人の言葉を参照。

●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。『教行信証』信巻

 これは、「仏願の生起本末」を衆生が「聞きて疑心あることなし」になれば、「本願力回向の信心」を獲得するので、極楽浄土に往生することが確定するということである。
 逆に言えば、衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなければ、「本願力回向の信心」を獲得することができず、極楽浄土に往生することも確定しないということである。

 そして、

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。『尊号真像銘文』

 とあるように、阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、衆生がそれを受け取らないために、残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるのである。


注3 以下のCさんのツッコミが素晴らしい。

かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(後半) より

もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!


注4 ツッコミ!参照
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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