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ツッコミ番外編!みんなまとめて・・だから何?(苦笑)

ちび●ちゃんが頑張って書いてくれてます。
 ↓
浄土真宗と浄土宗の違い1
浄土真宗と浄土宗の違い2
浄土真宗と浄土宗の違い3
浄土真宗と浄土宗の違い4
浄土真宗と浄土宗の違い5
念仏は信楽を獲るための条件ではない
 ↑
みんなまとめて・・だから何?(苦笑)


「念仏」と「信心」を切り離して考えるのが、
親●会クオリティーなんだよ(苦笑)。

浄土真宗の親鸞聖人だけじゃなくて、
親鸞聖人の師匠の法然上人も、浄土宗二祖の聖光上人も、
「信心を伴った念仏」を奨めてまっせ。
不勉強なちび●ちゃんが知らないだけで、
清森問答を読んでるお友達はみんな知っているのよ(苦笑)。
 ↓

親鸞会教義の相対化・3(質疑応答44)



「念仏を奨める」=「信心を奨めない」
       ↑↑↑
これが、親●会が捏造したヘンテコドグマやねん~(苦笑)。

せっかくいろいろ教えてあげてるんだから、
親●会頭をちょっとは相対化して書かなきゃダメよん(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

質疑応答164
親鸞会教義の相対化・76(投稿)
親鸞会教義の相対化・26


あと、こんなことをいくら頑張って書いても、
親●会が念仏よりも財施を強烈に奨めて無駄遣いしたり、
クリーニング屋を造ることの根拠にはなりまへん~(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

次はクリーニング屋かよ。。
大切な浄財を無駄遣いしてんじゃね~よ!




あ!あとこれなんだけど、
 ↓

念仏は信楽を獲るための条件ではない

『十二箇条問答』における「三心を獲れば往生できる」云々の話は、前提として「極楽浄土に往生することを願う人も多く、念仏する人も多いなかで」という条件が入っている。

とは言ったけど、

「念仏は信楽を獲るための条件」なんて言ってないよ。

またまた得意のワラ人形論法で、
捏造した意見に反論しちゃダメよ(苦笑)。

あと、親●会に財施することもクリーニング屋を作ることも、
信楽を獲るための条件じゃないことも、
ちゃんと言っておいた方がエエよね(苦笑)。
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へ~違うんや~!

今朝の記事に、
 ↓
なんや!意見が一致してたんかいな!

ちび●ちゃんが早速コメントしてくれました。
 ↓
生きる意味を知ってー仏教を知りたいひとのために ゲストブック


ikiruimiwositte
2009/2/19(木) 午後 7:39
>意見が一致してたんですね

ありがちな浄土宗的解釈ですが的外れですね。
では記事のところで浄土真宗と浄土宗の違いでもやりましょうか。

へ~違うんや~!

まあ、お互いの意見を確認するために確認したわけだから、
違うなら違うでいいだけどね~。

というわけで、二人の意見は以下のようになりました。。
 ↓ ↓ ↓ ↓

【1】釈尊が『観無量寿経』をお説きになった意図
【1-1】苦笑の見解
阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が『観無量寿経』をお説きになった意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにある、と善導大師は解釈しており、法然上人もそれをうけておられる。
(根拠)
●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。(善導大師『観経疏』法然上人『選択集』第12章)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-191.html

【1-2】ちび●の見解
上記の見解はありがちな浄土宗的解釈だが的外れ
(根拠)
 不明


【2】『十二箇条問答』における「三心を獲れば往生できる」云々の話
【2-1】苦笑の見解
『十二箇条問答』における「三心を獲れば往生できる」云々の話は、前提として「極楽浄土に往生することを願う人も多く、念仏する人も多いなかで」という条件が入っている。
(根拠)
●問いていわく、これ程に易く往生せば念仏する程の人はみな往生すべきに、願う者も多く念ずる者も多き中に、往生する者の希なるは何の故とか思いそうろうべき。
答えていわく、人の心は、ほかにはあらわるることなければ、その邪正さだめがたしといえども、経には「三心を具して往生す」と見えて候めり。この心を具せざるが故に、念仏すれども往生をえざる也。三心と申すは、(中略)
次に廻向発願心というは、わが修するところの行を廻向して、極楽にうまれんとねがう心なり。わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとは思わず、ほとけの願力のいみじくおわしますによりて、うまるべくもなき者もうまるべしと信じて
いのちおわらば仏かならず来りて迎えたまえと思う心を、金剛の一切のものにやぶられざるがごとく、この心深く信じて、臨終までもとおりぬれば、十人は十人ながらうまれ百人は百人ながら生まるるなり。(十二箇条問答)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-194.html

【2-2】ちび●の見解
上記はありがちな浄土宗的解釈だが的外れ
(根拠)
 不明


【3】「持戒の行」「孝養の行」と「念仏の行」の位置づけ
【3-1】苦笑の見解
「持戒の行」「孝養の行」は「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、「念仏の行」は「阿弥陀仏の本願の行」なので最優先に勤めるべきものである、と法然上人は教えておられる。
(根拠)
●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
  女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-191.html

【3-2】ちび●の見解
上記はありがちな浄土宗的解釈だが的外れ
(根拠)
 不明
 ↑ ↑ ↑ ↑
ちび●さんご自身の見解の確認と、
挙げれるなら根拠の提示もよろしくね♪





以下、ちび●ちゃんのご意見&質問に対する解答
 ↓ 

苦笑氏のブログは読みにくい。
わざと読み間違いをさそっているようで.....


【苦笑の解答】
ごめんね~。
あと、ひょっとして携帯で見てる?
パソコンだと、引用の部分が線で囲んであったり、
文字のでかさが変えてあって、ちょっとは読みやすいんだけど、
携帯からだと囲み線も文字のでかさの違いもなくなっちゃうのよ。

できたらパソコンから見てね。お願い


私がどの発言を削除したのか、お答え願えますか?

>やっぱ速攻で削除されるかな?


【苦笑の解答】
いや~。ごめん!ごめん!

結論出てるやん!(追記あり)
こんなサイト見つけました!!(追記あり)
 ↑
親●会関係者がやってはる(と思われる)
これらのサイトにコメントしたら、
他の人のコメントは掲載されるのに、
オイラのコメントだけ掲載されないのよね。

だから、てっきりちび●ちゃんも削除すると思ったわけですわ。

いや~削除されなくてすげ~嬉しかったですよ~。
気分を悪くさせちゃってごめんなさいね~。




追記

ちび●ちゃんに報告しました!!

苦笑(本人)
2009/2/19(木) 午後 9:42
コメントありがとうございます!
いや~見解は一致してなかったんですね~。
確認してよかったですよ。

お互いの意見をまとめ直しましたので、
再確認よろしくお願いしま~す。
 ↓
へ~違うんや~!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-197.html


あと、いろいろ気分を害させてごめんね~。
なるべく気をつけるよ。俺も。うん。


なんや!意見が一致してたんかいな!

先日の記事に、
 ↓
ちび●ちゃん!またまた「断章取義」っすね。(追記あり)

ちび●ちゃんがコメントくれました。
 ↓
生きる意味を知ってー仏教を知りたいひとのために ゲストブック

> 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
> 念仏する人も多いなかで、

「念仏しても」って書きましたが、何か。
よく読んでくださいね。
隠顕がわからないと行信論は無理ですよ。

なんや!意見が一致してたんかいな!

オイラの文章読解力に問題が有るのか、
ちび●ちゃんの表現様式に難点が有るのか、
オイラの読解力とちび●ちゃんの表現様式の相性が悪いのか、
いずれかの原因で、
ちび●ちゃんの文章がオイラの意見と違うものに感じたんでしょうね~。

とりあえず、これまでのやり取りで
意見が一致した所を整理しておくんで、
確認よろしくお願いしま~す!
 ↓

~ちび●ちゃんと苦笑ちゃんで意見が一致したもの~

【1】阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が『観無量寿経』をお説きになった意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにある、と善導大師は解釈しており、法然上人もそれをうけておられる。

(根拠)
●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。(善導大師『観経疏』法然上人『選択集』第12章)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-191.html


【2】『十二箇条問答』における「三心を獲れば往生できる」云々の話は、前提として「極楽浄土に往生することを願う人も多く、念仏する人も多いなかで」という条件が入っている。

(根拠)
●問いていわく、これ程に易く往生せば念仏する程の人はみな往生すべきに、願う者も多く念ずる者も多き中に、往生する者の希なるは何の故とか思いそうろうべき。
答えていわく、人の心は、ほかにはあらわるることなければ、その邪正さだめがたしといえども、経には「三心を具して往生す」と見えて候めり。この心を具せざるが故に、念仏すれども往生をえざる也。三心と申すは、(中略)
次に廻向発願心というは、わが修するところの行を廻向して、極楽にうまれんとねがう心なり。わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとは思わず、ほとけの願力のいみじくおわしますによりて、うまるべくもなき者もうまるべしと信じて
いのちおわらば仏かならず来りて迎えたまえと思う心を、金剛の一切のものにやぶられざるがごとく、この心深く信じて、臨終までもとおりぬれば、十人は十人ながらうまれ百人は百人ながら生まるるなり。(十二箇条問答)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-194.html


【3】「持戒の行」「孝養の行」は「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、「念仏の行」は「阿弥陀仏の本願の行」なので最優先に勤めるべきものである、と法然上人は教えておられる。

(根拠)
●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
  女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-191.html
~ちび●ちゃんと苦笑ちゃんで意見が一致したもの~
 ↑
とりあえず、この三点は意見が一致したということでいいですよね?


以下に関しては、上記三点を確認頂いてからやね~。
 ↓

ikiruimiwositte
2009/2/18(水) 午後 11:24

「善にもすすむべき」が「善をすすめられた根拠ではない」という
苦笑氏の話も、よくある間違いですね。
観経疏にある隠顕の扱いとか勉強されたらいかがでしょうか?
ずいぶんわかりやすく書いたつもりですが。
手取り足取りというわけにもいきません。

http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23493928.html

http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23499023.html





もちろんこれも、ちび●ちゃんに報告したよん。
 ↓

苦笑(本人)
2009/2/19(木) 午前 8:43
コメントありがとうございます!
なんや!意見が一致してたんですね(笑)。

これまで意見が一致した所を三点まとめてみたんで確認お願いします。
 ↓
なんや!意見が一致してたんかいな!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-196.html





追記

某巨大掲示板に紹介されました♪

93 :神も仏も名無しさん:2009/02/18(水) 23:09:48 ID:WILhEaT6
>>91
ID:FwCNgjXt=ちび丸=偽デカ丸なら、
こんなとこ荒らしてないで、自分のブログを更新しろよ。

ツッコミ入ってるぞw
ちび●ちゃん!またまた「断章取義」っすね。(追記あり)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-194.html

103 :神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 01:54:28 ID:k1rOw/KA
苦笑すげえ。オレは苦笑シンパだ。

116 :神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 10:02:24 ID:EzZ1E/Nq
「苦笑の独り言」がまた更新されていましたよ。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

M野子牛、ちゃんと答えてよ。あなたは、いつも相手の意見に対して捏造、改竄、
断章取義のオンパレードだからね。すぐにわかるのよ。

ビルでしっかりカキコしてね。



壞れたテレコみたいに同じことばっか言ってる、
チ●ーリップ企画より話しててオモロイし、

ちび●ちゃんが何か書いてくれる度に、
こうやって紹介してもらえてアクセス数もガンガン上がるから、
ホンマニ感謝してまっせ~。

Q&A(1)『十二箇条問答』の現代語訳

頂いた質問に解答したものを、他の人にもお裾分けしま~す。
ひょっとしたら同じ疑問を持っている人もいるかもしれないしね。


Q。以下の部分の意味を教えてください。難しくてわかんないです。

●わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとは思わず、ほとけの願力のいみじくおわしますによりて、うまるべくもなき者もうまるべしと信じて
いのちおわらば仏かならず来りて迎えたまえと思う心を、金剛の一切のものにやぶられざるがごとく、この心深く信じて、臨終までもとおりぬれば、十人は十人ながらうまれ百人は百人ながら生まるるなり。 『十二箇条問答』


A。以下のように訳してみました。

【自分の行の力、自分の心が素晴らしくて極楽浄土に往生できるとは思わないで、仏の本願力が素晴らしいから、自分の力では極楽浄土に往生できることがない者であっても極楽浄土に往生できると信じて、この命が終わる時には阿弥陀仏に必ず迎え取ってくださいと思う心を、ダイヤモンドのようにどんなものにも破られないようにして】、この心を深く信じて死の瞬間まで継続したならば、十人中十人が極楽浄土に生まれ、百人中百人が極楽浄土に生まれることができるのである。

こういう意味になります。
【】で括った部分が所謂「他力の信心」なわけですが、
これを死の瞬間まで継続したら百パーセント往生できる、ってことを言った文章ですね。


しつこいようですが、この法然上人の言葉は、

「これほどに容易に往生するのであれば、
 念仏するような人はみな往生すべきなのに、
 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
 念仏する人も多いなかで、
 往生する者がまれなのはどうしてだと思うべきでしょうか?」

という質問に対するものですから、
極楽浄土に往生することを願わないで、念仏も申さない人には、
この言葉は適応されません。

ちび●ちゃん!またまた「断章取義」っすね。(追記あり)

ちび●ちゃんのブログ 念仏しても往生を遂げず(法然上人) より

法然上人のほうが「善のすすめ」は多いことをご存知ないようですね。


「人間の心は外から判断できないので邪正を決めることは難しいが

経典には「三心を獲れば往生できる」とある。

この心を獲ていないから「念仏しても往生することができない」のである。

三心のひとつ、廻向発願心というのは自分の修めた善根を廻向して

極楽浄土に生まれたいと願う心である。」


人の心は、ほかにはあらわるることなければ、その邪正さだめがたしといえども
経には「三心を具して往生す」と見えて候めり。この心を具せざるが故に、
念仏すれども往生をえざる也。乃至。
次に廻向発願心というは、わが修するところの行を廻向して、極楽にうまれんとねがう心なり。わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとは思わず、ほとけの願力のいみじくおわしますによりて、うまるべくもなき者もうまるべしと信じて
いのちおわらば仏かならず来りて迎えたまえと思う心を、金剛の一切のものにやぶられざるがごとく、この心深く信じて、臨終までもとおりぬれば、十人は十人ながらうまれ百人は百人ながら生まるるなり。(十二箇条問答)

あ~ん?(苦笑)

問いていわく、これ程に易く往生せば念仏する程の人はみな往生すべきに、願う者も多く念ずる者も多き中に、往生する者の希なるは何の故とか思いそうろうべき。
答えていわく、人の心は、ほかにはあらわるることなければ、その邪正さだめがたしといえども、経には「三心を具して往生す」と見えて候めり。この心を具せざるが故に、念仏すれども往生をえざる也。三心と申すは、(中略)
次に廻向発願心というは、わが修するところの行を廻向して、極楽にうまれんとねがう心なり。わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとは思わず、ほとけの願力のいみじくおわしますによりて、うまるべくもなき者もうまるべしと信じて
いのちおわらば仏かならず来りて迎えたまえと思う心を、金剛の一切のものにやぶられざるがごとく、この心深く信じて、臨終までもとおりぬれば、十人は十人ながらうまれ百人は百人ながら生まるるなり。(十二箇条問答)


「これほどに容易に往生するのであれば、
 念仏するような人はみな往生すべきなのに、
 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
 念仏する人も多いなかで、
 往生する者がまれなのはどうしてだと思うべきでしょうか?」
  ↑
ちび●ちゃんが挙げてくれた法然上人のこの言葉は、
こういう質問に対して法然上人がお答えになったものだよん。



ちび●ちゃんはなぜか無視しているけど、
「三心を獲れば往生できる」云々の前提として、


 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
 念仏する人も多いなかで、
   ↑
こういう条件が入ってますね~。

はいはい。
またバレバレの「断章取義」でした(苦笑)。
ちゃんちゃん。




追記

例によって、ちび●ちゃんご本人に報告して来ました~。
 ↓
生きる意味を知ってー仏教を知りたいひとのために ゲストブック

苦笑(本人)
2009/2/17(火) 午後 7:25
こんにちは!

念仏しても往生を遂げず(法然上人)
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23820250.html
 ↑
ツッコミいれました!!

★ちび●ちゃん!またまた「断章取義」っすね。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-194.html

「これほどに容易に往生するのであれば、
 念仏するような人はみな往生すべきなのに、
 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
 念仏する人も多いなかで、
 往生する者がまれなのはどうしてだと思うべきでしょうか?」
  ↑
挙げてくれた法然上人のこの言葉は、
こういう質問に対して法然上人がお答えになったものです。

なぜか無視しているけど、
「三心を獲れば往生できる」云々の前提として、

 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
 念仏する人も多いなかで、
   ↑
こういう条件が入っておりますね。

これも、お得意の「断章取義」ではないかと思いますが、
ぶっちゃけ、ツッコミ入れ



上記のコメント覧

すみません。汗
文章途中で切れました。。

「ぶっちゃけ、ツッコミ入れ・・」

最後のこいつに以下追加です。

「ぶっちゃけ、ツッコミ入れられるのも計算済みですよね?」
2009/2/17(火) 午後 7:29 [ 苦笑(本人) ]




一言メッセージ 親鸞会の人は読まないほうがいいだろ

 ↑
こんなこと書いてるけど、
本当は僕にツッコミを入れさせながら、
親●会の間違いを浮き彫りにしようとしてるんだよね?

オッケー!オッケー!これからも協力するよん!!

ツッコミ!【第39回】行の一念と信の一念

第39回が更新されました。
 ↓
【第39回】行の一念と信の一念

「弥陀の本願の『若不生者』の『生』は、この世のことではなく、死んでからの極楽往生のこと」と言う田中氏の見解が、いかに親鸞聖人のみ教えと異なるものであるかを、種々明らかにしてきた。

そもそも往生といえば死んでから、というのが仏教の常識であったが、「この世の往生がある」と明らかにされたのが親鸞聖人である。「不体失往生」「平生業成」「現生不退」こそが弥陀の救いであることを、生涯叫び続けられたのが親鸞聖人であり、当時の常識を覆す驚くべき聖人の教えの根拠は、釈迦の「本願成就文」であった。「成就文」の教え以外に親鸞聖人の教えはないのだから、「本願成就文」に反する田中氏の主張は、まったく親鸞聖人の教えではないのである。

はいはい(苦笑)。

根拠に基づか(け)ないドグマを垂れ流して、
これまでに85項目もツッコミいれられてますけどね(苦笑)。



そして、ついに垂れ流すネタもなくなって、
全く論点と関係ない話をブレンドね(苦笑)。
 ↓

親鸞聖人が、釈迦の「成就文」をもって弥陀の「本願文」を領解されたということが、いかに重大な意味を持つか。一つの例を示そう。
「本願成就文」には、弥陀の救いは「一念」であると説かれているのを、法然上人は「行の一念(念仏)」とされているが、親鸞聖人は「信の一念(信心)」と教えられている。
「本願成就文」の「一念」は「念仏」か「信心」か、両聖人の教えの違いはどこにあったのか、簡単に触れておきたい。

法然上人が『本願成就文』の「一念」を「念仏」とされたのは、『本願文』の「十念」の解説として領解されたからである。
『大無量寿経』の「成就文」には、ただ「一念」とあるので、「本願文」の「乃至十念」と同じように領解して「念仏」とも見ることができる。

それを親鸞聖人は「信心」と教えられたのは、異訳の『無量壽如来会』の十八願成就文をもって、『大無量寿経』の十八願成就文を見られたからである。
『大無量寿経』の「乃至一念」とあるところを異訳の『無量壽如来会』には、「一念の浄信」とあるから、凡夫に無い「如来から賜る清浄心(信心)」であることが明らかになる。

また『大無量寿経』の「成就文」の「一念」の文字は「信心」の下にあるが、『無量壽如来会』の「成就文」には「一念の浄信」と説き、「一念」の文字が「信心(浄信)」の上にあることにも親鸞聖人は着目なされた。そして『本願成就文』の「一念」を信心であることを明らかになされている。

だから何?(苦笑)

どんだけ論点に関係ない話を挿入しても、
チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマのヘンテコさは、
全く揺るぎませ~ん(苦笑)。


かくて「若不生者 不取正覚」(必ず生まれさせる)と誓われた「弥陀の本願」の真意を、「成就文」から親鸞聖人は「一念で不体失往生できる」と説かれたのである。
親鸞聖人の大著『教行信証』六巻は、まさにこのこと一つを明らかにされたものであり、『教行信証』が「本願成就文」の解説書とも言われる所以だ。

「三経の安心あり。その中に大経をもって真実とせらる。大経の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた、願成就をもって至極とす。『信心歓喜 乃至一念』をもって、他力の安心と思召めさるる故なり」
(改邪鈔)
覚如上人の仰せである。
仏教の至極(最も大事な御文)である「本願成就文」が分からずしては、親鸞聖人のみ教えは全く分からなくなることが、この一事からも知られよう。

はいはい(苦笑)。

もうハッキリ言うけど、
壞れたテープレコーダーのように同じ話ばっかで、
ツッコミいれても全然おもんないで。

まあ、こんな話を富山まで行って聞かされる人は、
もっと苦痛だろうけどね(苦笑)。

毎回、新しい角度からのツッコミネタを提供してくれる、
ちび●さんをちょっとは見習ってや(苦笑)。






おまけ1

★願成就文に対応するサンスクリット
ye 
kecit sattvās tasya 'mitābhasya tathāgatasya nāmadheyaṁ 
śṛṇvanti, śrutvā cāntaśa ekacittotpādam apy adhyāśayena 
prasādasahagatam utpādayanti, sarve te 'vaivarttikatāyāṁ 
saṁtiṣṭhante 'nuttarāyāḥ samyaksaṁbodheḥ.
およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。(親鸞会教義の相対化21より)

●信受本願(真実信心を得る)
 →アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば

●即得往生 住不退転(正定聚のくらいにさだまる)
 →この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまる

★『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志訳]「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。(『教行信証』信巻に引用された『無量寿如来会』の願成就文)

●信受本願(真実信心を得る)
 →無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば

●即得往生 住不退転(正定聚のくらいにさだまる)
 →願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと


ご覧のように『無量寿如来会』の「願成就文」は、
サンスクリット文にめちゃ一致するんやけど、
「信楽に生まれる」なんて解釈がヘンテコなのは、
これを見ても明々白々ですわね(苦笑)。

『無量寿如来会』の「願成就文」を読まれると、
都合が悪いからあえて挙げなかったんだと思うけど、
そういうやり方が余計怪しまれるんでっせ(苦笑)。


というわけで、

86,『無量寿如来会』の「願成就文」は、サンスクリット文に極めて似た内容になっているが、これを見ても「信楽に生まれる」という解釈がヘンテコなのは明々白々である。

87,しかしチ●ーリップ企画(=親●会)は『無量寿如来会』の「願成就文」に触れたら当然おきるその疑問に対する説明を行っておらず、重要な文にも関わらず本文引用すらしておらず、意図的に引用しなかった可能性すら疑われる。




おまけ2

●信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
 そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。『親鸞聖人御消息』(7)

「信の一念」と「行の一念」は切り離しちゃダメよん。
切り離して考える思考回路自体が、
全くもって親●会クオリティーで、
親鸞聖人の教えから離れてるもんやからね~(苦笑)。

これでも読んで勉強しなおしてや。
 ↓

清森問答 質疑応答164
親鸞会教義の相対化・76(投稿)

というわけで、

88,「信の一念」と「行の一念」を切り離して考える思考回路自体が、全くもって親●会クオリティーで、親鸞聖人の教えから離れたものである。

念仏より諸行を強調しちゃダメよ!!―自称デカ丸(実際はちび丸)の「断章取義」にツッコミ

清森問答 親鸞会教義の相対化・80(投稿)より

 前回、私が書いた文章を読まれた自称デカ丸(ご本人も認められているように、実際はちび丸)氏が、以下の記事をお書きになっておりました。


※前回の私の文章
親鸞会教義の相対化・79(投稿)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-280.html

※自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事
法然上人の善のすすめ(これが断章主義?)
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23340202.html



====以下、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事からの引用====
「法然上人の善のすすめ」を書きましたところ
『善にもすすむべき事』というお言葉だけでは断章主義であるとのお叱りを受けました。
理由はわかりませんが、一緒にあげた御文はあえて無視されたようですので再掲しておきます。
どのお言葉も全文をアップはできませんので御不審な方は原書をお読みください。
====以上、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事からの引用====

 とのことですので、以下、自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた文章にコメントを加えさせて頂きます。


※自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた文章は、読みにくい改行を消去した以外は原則そのまま掲載しております。


【1】

「いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、善の三業をば真実心の中になすべし」
とこそは釈し給ひたれ。
又「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、心のおよばん程はつみをもおそれ、『善にもすすむべき事』とこそは心えられたれ。」(浄土宗略抄)


★コメント★

 この引用では、この文章がいかなるコンテキスト(文脈)で語られたものであるかがわからないために、この文章の持つ意味を誤って受け取る可能性があります。
 既に述べたことなので繰り返しませんが、前回の私の文章をもう一度読んで頂きたいものです。

親鸞会教義の相対化・79(投稿)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-280.html



【2】
「持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、たへたらんにしたがいてたもち候べく候。孝養の行も仏の本願にあらず。たへんにしたがいて、つとめさせおはしますべく候。」
(熊谷直実入道蓮生へつかわすお返事)


★コメント★

●また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

(訳)
 女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。

・持戒の行=阿弥陀仏の本願でない行→自分の能力でできる限り守るべき
・孝養の行=阿弥陀仏の本願でない行→自分の能力でできる限り勤めるべき

という意味ですね。

それはそれでいいのですが、この文章の直前に書かれている部分がもっと重要です。


●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。


「持戒の行」「孝養の行」が、「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、極楽浄土へ往生することを欣求する人にとって「念仏」が最優先に行わなければならないことであることは明かです。

 法然上人が極楽浄土へ往生することを欣求する人に最優先で「念仏」を勧められたことが、自称デカ丸(実際はちび丸)氏にとって都合が悪いのかどうかは不明ですが、この引用でもコンテキスト(文脈)を無視した「断章主義」が行われていると私は思います。

 ちなみにこのお手紙は、嵯峨清涼寺に法然上人の真筆が残されております。文献学的な見地からもこの資料の持つ意義は非常に高いものとなっております。



【3】

念仏の行者四修の法を行用すべき文。
善導の『往生礼讃』にいはく、「また四修の法を勧行す。何者をか四となす。
一には恭敬修。乃至。
教とは『弥陀経』等を五色の袋に盛れて、みづから読み他を教へよ。(選択集)


★コメント★

これに関しては、以下の記事を読んで頂けば十分だと思います。

ツッコミ番外編(3)名義詐称野郎にツッコミ!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-169.html

~~上記から引用~~
四修の解釈は第一に善導大師の『往生礼讚』に従うべきだと思うけど、

恭敬修・・阿弥陀仏および聖衆を恭敬礼拝する
無余修・・專ら阿弥陀仏の名を称え、仏および聖衆等を想い礼讚して他の行を交えない
無間修・・恭敬礼拝・称名等を絶え間なく行う
煩悩を交えないようして、罪を造るごとに懺悔して間を置かない
長時修・・上の三つを、一生涯続ける
~~上記から引用~~

これも『選択集』のコンテキストを無視した「断章取義」であると言わざるを得ませんね。



【4】

いま『観経』の定散二善を説きたまふことは、
ただ韋提および仏滅後の五濁・五苦等の一切凡夫のために、
証して〈生ずることを得〉とのたまふ。(観経疏)


★コメント★

『観無量寿経』において、釈尊は定散二善を述べた終わった後、流通分において阿難に、

●汝好く是の語を持て、是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。

(訳)
あなたはこの語をよくたもちなさい。
「この語をたもて」というのは、無量寿仏の名号をたもてということである。

と仰っています。


 そして、善導大師『観経疏』において、この言葉を以下のように解釈され、その解釈を法然上人は『選択集』(第12章)に引用され継承されています。


●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
 確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)


 素朴な疑問ですが、自称デカ丸(実際はちび丸)氏は、本当に『観経疏』読んでいるのでしょうか?
 もしも読んだ上で、『観経疏』のこの箇所を意図的に挙げないというのであれば、やはりこれも『観経疏』が伝えようとしている内容を故意に歪曲している「断章取義」と言わざるを得ません。



 以上、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事に若干のコメントを加えさせて頂きました。

 自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた資料の「原典」が、皆一様に最も強調して勧めているのが「念仏」であることは明かです。
 それを、自称デカ丸(実際はちび丸)氏は「断章取義」し「原典」のコンテキストから離れた意味を導き出そうとしました。

 私見ですが、今回のように、親鸞会関係者の挙げる「論拠」は露骨な「断章取義」が行われている危険があります。
 自称デカ丸(実際はちび丸)氏自身も「御不審な方は原書をお読みください」と仰っておられますので、親鸞会関係者の言葉は安易に信用しないで、各自が必ず「原典」に当たって再確認していく必要があるでしょう。


以上



ちび●さんのナイスボケのおかげで、
いろんなことがわかって良かったね♪



追記

今回も、ちび●さんに報告しました。

苦笑(本人) 削除
2009/2/14(土) 午前 11:55
ご無沙汰しております。先日はありがとうございました。

念仏より諸行を強調しちゃダメよ!!―自称デカ丸(実際はちび丸)の「断章取義」にツッコミ
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-191.html

ちび丸さんのナイスボケのおかげで、いろんなことがわかって良かったです。
感謝しています。ありがとうございました。

苦笑拝



五願開示に関する真宗学者の説

メル友が教えてくれました。
 ↓ ↓ ↓

五願開示について、資料が見つかりましたので、お知らせします。


【古来の五願開示】

 古来の学者は、どういう風に第十八願を五願に開いて、文字を配当せられたかというと、

「至心信楽」-より-第十八願(至心信楽の願)を開き、
「乃至十念」-より-第十七願(諸仏称名の願)を開き、
「若不生者」-より-第十一願(必至滅度の願)を開き、
「不取正覚」-より-第十二願(光明無量の願)第十三願(寿命無量の願)を開くのであるという。これが一般の定説になっております。

        【教行信証大系・第一巻 教の巻・稲垣瑞剣氏 p131】



やっぱ、ちび●さんの教えてくれた通りでした。
いや~ちび●さんはよく勉強しているよ。うんうん。

今度は高●先生にも教えてあげてね��-��
 ↓
ちび●さんのおかげでわかりました!!五願開示もパクってた?!

ツッコミ!!【第38回】「死後の往生を否定するのか」の疑難に答える

第38回が更新されました。
 ↓
【第38回】「死後の往生を否定するのか」の疑難に答える
http://shinjin.info/2009/02/100755176.html

田中氏は、「チューリップ企画は『死後の往生』を否定した」と以下のようにくり返し非難して幕引きを計られた。

◆平成20年6月23日のメール
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
チューリップ企画が、『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』と、死後の往生を否定したことは明白です。

当方は「死後の往生」を否定したことなど一度もない。それどころか、「現在の往生」した人だけが「死後の往生」を得るのだから、「現在の往生(不体失往生)」を急げ、と力説されている親鸞聖人の教えを、開顕してきたのである。120通のメールのやり取りをご覧になれば、明白であろう。

では、「本願文」総ての解説である「成就文」に、「死後のことが一切説かれていない」のなら、「死後の往生」は何処に誓われているのだろうか。
親鸞聖人はこの問いに、「十一願」とその「成就文」を挙げておられる。
「十一願」(必至滅度の願)には、
「設い我仏を得んに、国中の人天、定聚にも住し、必ず滅度に至らずば、正覚を取らじ」
と誓われている。その「成就文」には、
「其れ衆生有りて、彼の国に生まるる者は、皆悉く正定之聚に住す。所以は何ん、彼の仏国の中には、諸の邪聚及び不定聚無ければなり」
と説かれている。
十一願に「国中の人天」とあるのは、「この世で信の一念に国中の人天になる」と親鸞聖人は教えられる。

あ~ん?(苦笑)

前にレクチャーしてあげたことは、
ちゃんと押さえておかなダメだよん(苦笑)。

 ↓ ↓ ↓
●浄土文類聚鈔
証といふは、すなはち利他円満の妙果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づけ、また往相証果の願と名づくべし。すなはちこれ清浄真実・至極畢竟無生なり。
無上涅槃の願(第十一願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「それ衆生ありてかの国に生ずるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん、かの仏国中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり」と。
 またのたまはく(同・上)、「ただ余方に因順するがゆゑに、人・天の名あり。顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と。


釈尊は、極楽には「人・天」という名称はあるけど、
その「人・天」は、「顔貌端正にして超世希有なり」で、
「容色微妙にして、天にあらず人にあらず」で、
「みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と仰っていて、
親鸞聖人もそれを受けておられます。

>十一願に「国中の人天」とあるのは、「この世で信の一念に国中の人天になる」と親鸞聖人は教えられる。
 ↑
こんなこと教えてません(苦笑)。


というわけで、

86,釈尊は、極楽には「人・天」という名称はあるが、その「人・天」は「顔貌端正にして超世希有なり」で「容色微妙にして、天にあらず人にあらず」で「みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と仰っていて(『無量寿経』)、親鸞聖人もその教えを受けておられる(『浄土文類聚鈔』)。
 しかし、チ●ーリップ企画は(=親●会)は、『無量寿経』も親鸞聖人の言葉も読んでないので、【十一願に「国中の人天」とあるのは、「この世で信の一念に国中の人天になる」と親鸞聖人は教えられる。】などと、親鸞聖人が教えられていないことを教えられたかのように虚偽の発言をしている。




これらを、あと三回ぐらい読んで勉強しておいて欲しいですね~(苦笑)。
 ↓
「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)の関係
「どこに「死後」って書いてあるの?」→ちび●ボコボコ!!(再掲)

特に今日は、こいつを更に2回読んでおいてね。
よい子のみんなには、もう当たり前のことなんだけどね(苦笑)。
 ↓ ↓
ーーーーー エエこと書いてまっせ~ ーーーーー
396 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 21:53:42 ID:gLkvGm/1
そもそもなんで現益がでてくるのかと言えば、
信楽をえたら、摂取してはなさないからだよな
若不生者と誓ってるから。
だから、死後往生すると誓われたことについて
その前の段階として、往生するに定まった状態が生じてくるわけ。
これを正定聚の位に住すと言って、不退転に住すとも、即得往生とも言う。
当益がないと現益が出てこないのよ。

なのに親鸞会は、現益ということがないと当益がでてこないという顛倒した論理を唱えている。
アニメが得にそう。
生まれるということについて、
「死んだら助けるということはありえない」
だから、生まれるということは今世からのことであるっていうすり替えを行っている。

助けるっていう状態がなんなのかっていうと現世での小さな苦しみからの解放ではないよね
生死の苦しみからの解放なのに、
現世利益と同列に問題を論じるから、現益から当益への逆転が生まれる。
まるで、今世おもしろおかしく暮らせれば、来世も安泰だという思考をしている。
しかし、今が明るいからと言って、死も明るくなるとは限らない。

後生の一大事とは、流転への不安だし、死ぬことへの不安。
広義には、解決しなければ生きていても意味がないと思えるものの解決のことでもある。
そういう問題に対して、もし自分で解決することができない人が
来世の生が明るくなると誓ってくださる方に出会えば喜ぶ
来世極楽に生まれると信じて、死の問題を明るくするから、今世も明るくなる。
それは自明の論理であって証明はいらない。


399 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 22:49:36 ID:gLkvGm/1
当益がでてくれば、現益は必ずある。
二益と言われるから。
だから、逆説的に現益がない人間は、当益もないと判断できるわけ。
つまり、それはあなた、阿弥陀仏の死後往生を実は信じていないよ?と言われているわけです。
疑情が晴れないから、現益がでてこない。

しかし、現益欲しさに阿弥陀仏を拝んでる人がいればそれはちがう。
現益を解決すれば、死後がはっきりとするという人がいればそれはちがう。

「死んだら助ける」ということではない。
「死ぬまで助かるかどうか分からない」ということがないのです。
なぜなら、真実の信心は、破れることがないのだから
弥陀の言葉を疑うことがない、助かるに決まっているといただくからです。


402 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 00:30:27 ID:xF5TMITZ
至心信楽は現益ではないよ
信心うるから、現益、当益にあずかる

親鸞会の人は信心決定(=信心が一つに定まること=弥陀の真実信心をいただくこと)と
信心によって往生が決定すること(=正定聚に入ること=即得往生)
をごっちゃにしている人多いかもね。

なんせ人生の目的が信心決定だからねw
弥陀が聞いてくれと頭下げてるのに
財施すれば間に合うと思う心を捨てるには徹底的に財施するしかないという会の論理に動員されて
自分の信心をどうにかして、決定させようと日夜努力しているんだろうね。
そういう人には往生ということが分からなくてもしかたないかも
死後がハッキリすると言われ、信心決定したらそういう世界が開けるんだから
今は考えないでおこうと思っているんじゃないかしら
往生のぬけた信心をめざしているから、よく分からない信心というものにふりまわされているんじゃない?


409 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:29:17 ID:xF5TMITZ
まとめ

不体失往生て往生が決定している状態のことでしょ。ということは現益だよねぇ

なら、若不生者で現益「往生定まる位に生ぜずば」を誓われるのは
信楽を獲た衆生に対してのみということなら、問題はないことになるね。十劫安心にはならない。
でも、当益が前提でなければ現益もくずれる。
なぜなら、現益は、当益を約束された本願文を信じた人の心(信楽)が死を前にしても崩れないことを表しているから。
そういう意味では、当益に生まれるという意味でだけでうけとってても、現益がないとはならない。
祖師は本願文を死後だけの意味にしてて、成就文で現益を顕彰している。
宗学的に現益の根拠とするには弱いのでは?
でも異端でもない。

また若不生者で「信楽生ぜずば」と誓われるのは
信楽を獲た衆生に対して二度手間であり、意味不明。
さらに信楽を今えていない衆生がいれば正覚をえている事実に反している。
これこそ十劫安心と言える。
また、至心信楽には信楽をうけとりなさいという意味があると宗祖は説いてるので、
ここで信楽を与えると弥陀が約束していると言える。
でも、ちび丸の根拠によれば、三信生せずばという相伝があるらしいから、
これもひとりよがりの異端解釈とはいえなさそう。


410 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:30:41 ID:WAfdhZt6
>>396
> そもそもなんで現益がでてくるのかと言えば、
> 信楽をえたら、摂取してはなさないからだよな
> 若不生者と誓ってるから。
> だから、死後往生すると誓われたことについて
> その前の段階として、往生するに定まった状態が生じてくるわけ。
> これを正定聚の位に住すと言って、不退転に住すとも、即得往生とも言う。
> 当益がないと現益が出てこないのよ。

>>402
> 至心信楽は現益ではないよ
> 信心うるから、現益、当益にあずかる

以上2つの発言に激しく同意。

つまり、尊号真像銘文のお言葉の通り、本願文に誓われているのは、
「信心(信楽)を獲た人に当益を与える」が根本的な意味であり、そこから、
「信心を獲た時、現益(入正定聚)を獲る」という意味も派生し、実際、
尊号真像銘文で親鸞聖人はその意味も補って本願文を解釈されている。

411 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:44:50 ID:WAfdhZt6
>>410
では、その「信心(信楽)」を獲させることまでも、
第18願文に誓われているかというと「NO」である。
48願は全て十劫の昔に成就して、それ故、法蔵菩薩は阿弥陀仏と成られたのだから、
もし、信心を獲させることまでも第18願文に誓われているなら、
十劫の昔に十方衆生は信心獲得したはずであり、十劫安心を肯定することになってしまう。

以上のことを踏まえた上で、再度 >>231(私のカキコ)を読んで頂きたい。
これで完全に筋が通ります。

412 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 03:15:01 ID:WAfdhZt6
>>231より再掲
----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

ただし、上のお言葉の直後に親鸞聖人は
「凡夫自力のこころにはあらず。」と仰っています。
つまり、自力で起こす信心ではないが、第18願で「与える」と誓われたわけでもない
というのが実状です。
要するに「自力の信心」も「十劫安心」も共に間違いです。
では真実はどうかというと、それを明らかにされたのが善導大師の「両重の因縁」です。

http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/2008_625_0047_a8bd.html
------------------------------------
両重の因縁とは、

(因)名号(法体成就の機法一体)
(縁)光明(調熟の光明+破闇の光明)
(果)信心

(因)信心
(縁)名号(信念冥合の機法一体)
   +光明(摂護の光明)
(果)極楽往生

このような関係になっています。
------------------------------------
これは親鸞会の教学解説書にあった内容をどなたかが載せて下さったものですが、
これについては、全く問題ありません。

413 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 03:29:53 ID:WAfdhZt6
なお、名号は第17願で誓われ(その内容を第18願で誓われ)、
光明は第12願で誓われています。

48願がセットになっていて、それらが全て成就したことによって、
十方衆生を成仏まで導くシステムが完成したのです。
その内容を全て第18願に無理に収めようとするから話がおかしくなるのです。
ーーーーー エエこと書いてまっせ~ ーーーーー



そんでもって、以下が
ドグマに合わせて捏造されたドグマ~(苦笑)。
 ↓

その根拠は、「十八願成就文」の、
「即得往生住不退転」
である。聖人はこの「即」を、平生の聞信の一念だとされ、「時を隔てず処を隔てず即座に往生し正定聚に住するのだ」と教えていられる。
この「十八願成就文」に腰を据えて親鸞聖人は、十一願成就文の「生彼国者」を、「彼の国に生まるる者は」と読まれ、
「彼の国に生まるる者は、皆悉く正定之聚に住す」
の御文を、
「弥陀の浄土に生まるる者は、この娑婆世界で正定聚になっている者だけである」
と領解された。ゆえに「十一願」の「定聚」は「現生正定聚」である、と断定され、弥陀の「十一願」は、
「現生正定聚の人を、死後、必ず浄土で仏覚を開かせる」誓いである、と聖人は説示されたのである。

このように、「死後の往生」を誓われた十一願(必至滅度の願)意を、「十八願成就文」を依憑として鮮明にされ、現当二益の弥陀の救いを開顕された方が親鸞聖人であった。

親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にないことが、いよいよ明らかに知られるではないか。

ははは(苦笑)。

宿題28,「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」という「正信偈」の言葉を、「この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである」と訳し、勝手に「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という新しいドグマを捏造している。しかもこのドグマを根拠に自説の正しさを証明しようとしている。もちろん勝手に捏造したドグマは根拠にはならない。
 ↑
こいつにツッコミを入れられたから、
微妙にドグマを修正して、
十一願に「極楽浄土に生まれさせる」意味を当てはめるのは、
流石にやめたみたいだけど、

【「若不生者不取正覚」には
「極楽浄土に生まれさせる」という意味は無い】

という、最近のドグマから考えると、
「極楽浄土に生まれさせる」のは、
結局、何の力によるんでしょうかね~(苦笑)。


というわけで、

87,「正信偈」の言葉を勝手に解釈して捏造したドグマにツッコミを入れられたので、微妙にドグマを修正して、十一願に「極楽浄土に生まれさせる」意味を当てはめるのをやめたが、【「若不生者不取正覚」には「極楽浄土に生まれさせる」という意味は無い】という最近のドグマから考えると、「極楽浄土に生まれさせる」のが何の力によるのかが不明である。



最後に、田中さんがツッコミいれた、
チ●ーリップ企画(=親●会)が
死後の往生を否定している根拠は、
今日、言い訳したものだけじゃありまへんで~。
まあ、言い訳になってない言い訳だったけど(笑)。

 ↓ ↓ ↓
~ ★「死後の往生」を否定するチューリップ企画 ~

★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。(6月19日)
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
 
 
『親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
 
 
 
『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)
 
 
『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)
 
 
『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
~ ★「死後の往生」を否定するチューリップ企画 ~



ふう。。

ず~と根拠に基づか(け)ない
ヘンテコドグマの誤魔化しの話ばっかで、
ツッコミいれるのも、かなり飽き飽きなんだけど、

こんな話を毎回聞かされる教学教義や御法話は、
もっとウンザリなんやろうね~(苦笑)。

こんな話しか聞けないなら、オイラは楽勝でいかへんで(苦笑)。

ツッコミ!【第37回】「若不生者」と「即得往生」の関係

第37回が更新されました。
 ↓
【第37回】「若不生者」と「即得往生」の関係

弥陀が「若不生者」と命を懸けられたのは、信楽に生まれる不体失往生だと、釈迦は成就文で「即得往生」と教えられている。これはこの世の救い(現益)である。

あ~ん?(苦笑)

こういう発言は、せめて以下の内容に反論してからね~(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

~~~ツッコミ!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する の復習~~~
復習だけど、苦笑ちゃんはこれまでに、

★親鸞聖人の言葉に基づき「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることを証明し、【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを論証しました。

★親鸞聖人の言葉に基づき「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであることを証明し、「信楽=正定聚」とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、「信楽の者→正定聚」とお説きになられている親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを証明しました。

★その成果が、この図になるわけですわ。
 ↓ ↓ ↓
                                  第十一の願の
=前念(因) 介在時間0  =後念(果)              必至滅度の願
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」「若不生者 不取正覚」成就
    ↓           ↓            ↓       ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・→極楽浄土へ往生→成 仏
    |           |           |      |
  十八願の真実の       |           |     等正覚にいたり
   信心をうれば→すなはち正定聚に住す        |     大涅槃を証する
           (この土の益)          |     (かの土の益)
      ↓       ↓              ↓      ↓ 
    【時間的に同時の「時分」】          【一念須臾のあひだ】
     【1】         【2】

★これは、「結論出てるやん!」を紹介した時から一貫してますわね。
 ↓ ↓ ↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
31 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:22:19 ID:yFGdPQfg
『尊号真像銘文』から抜粋:

----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

----------------------------------------------------------------------
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
----------------------------------------------------------------------
※さすがに「平生業成」「現生不退」の意味を補っておられることに注目!
本願成就文の内容もちゃんと踏まえて本願文を解釈されていることが拝察されます。【1】

----------------------------------------------------------------------
「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
----------------------------------------------------------------------
※それでもなお、「若不生者」を「【わが浄土に】もし生まれずは」としか解釈されていません。【2】

232 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:23:58 ID:yFGdPQfg
>>231の続き

『尊号真像銘文』は親鸞聖人83歳の時の著作ですから『教行信証』よりも後であり、
当然、主著である『教行信証』の内容を十分に踏まえた上で書かれたはずです。
何もかも承知の上で親鸞聖人自身が本願文36字を全部解釈されたこの文章のどこにも、
「信楽に生まれさせる」とは書かれていません。この事実だけで十分すぎるほど十分です。
議論する余地など初めから何もないのです。

もし「信楽に生まれさせる」という意味も本当はあるのに親鸞聖人が書き忘れた
とでも言うのなら、それは親鸞聖人に対する冒涜以外の何物でもなく、
そんな暴言を吐く輩は断じて「親鸞学徒」ではなく、「高森学徒」です!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


というわけで、

81,苦笑が、親鸞聖人の言葉に基づき「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることを証明し、【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを論証しているにも関わらず、それに何等反論することもないまま(できないまま)【弥陀が「若不生者」と命を懸けられたのは、信楽に生まれる不体失往生だと、釈迦は成就文で「即得往生」と教えられている。これはこの世の救い(現益)である。】というヘンテコドグマを壞れたテープレコーダの如く繰り返している。

82,苦笑が、親鸞聖人の言葉に基づき「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであることを証明し、「信楽=正定聚」とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、「信楽の者→正定聚」とお説きになられている親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを証明していいるにも関わらず、それに何等反論することもないまま(できないまま)【弥陀が「若不生者」と命を懸けられたのは、信楽に生まれる不体失往生だと、釈迦は成就文で「即得往生」と教えられている。これはこの世の救い(現益)である。】というヘンテコドグマを壞れたテープレコーダの如く繰り返している。

 ↑ ↑ ↑
これをちゃ~んと読んだ人には、
以下の書き込みは噴飯ものでっせ~(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓


だが田中氏は、「若不生者」は死後、極楽に生まれる当益だから、「即得往生」とは異なると主張される。

◆平成20年5月25日のメール
親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

「若不生者」と「即得往生」はイコールでない、これが田中氏の持論である。

おっと!!いけないっ!!

根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマをまき散らすだけでも、
十分害毒があるわけやけど、
読まれて困る田中さんの挙げた親鸞聖人の根拠を、
バッチリ抹消している、
卑劣なやり方もみんなに見てもらわないとね~(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

~~2008 5/25(日) 22:09 田中さんのメール~~
そもそも貴社の誤りは、不体失往生の根拠として、「若不生者不取正覚」の八字を使ったことでした。

親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは本願成就文の「即得往生住不退転」の八字です。

ビデオの製作者は、本願成就文も、本願文も同じようなものだから、どちらでも良いだろうと思われたのかも知れません。

もし私が製作者だったら、迷わず「即得往生住不退転」を使ったでしょう。

親鸞聖人が、不体失往生の根拠として、「若不生者」ではなく、「即得往生」を使われた文章を紹介します。

「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。→唯信抄文意

即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。→愚禿抄

当然ながら、体失不体失往生の根拠とされる、口伝抄に描かれている法然上人のお言葉も「即得往生住不退転」の八字を出されており、「若不生者不取正覚」はどこにもありません。

親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。

ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。


親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

確認事項に答えるまでもなく、貴方の返答から、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ということが、自ずと明らかになりました。

しかし、仮に、「若不生者不取正覚」に不体失往生の意味があると誤解していたとしても、親鸞聖人の説き方を理解されていれば、迷わず、「即得往生住不退転」の八字をビデオで描いていたでしょう。

親鸞聖人が不体失往生を論じられる時は、常に「即得往生住不退転」を根拠とされたのですから。

~~2008 5/25(日) 22:09 田中さんのメール~~

田中さんに、気持ちいいぐらいボコボコにされているけど、
なかったことにするのは、ちょっと無理だと思うで(苦笑)。


というわけで、

83,不体失往生の根拠として「若不生者不取正覚」を用いたチ●ーリップ企画のアニメの誤りを指摘し、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ことを証明した田中氏のメールから、根拠となる親鸞聖人の言葉やチ●ーリップ企画にとって都合の悪い発言を削除している。


◆平成20年6月18日のメール
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。

成就文には不体失往生しか説かれていないから、田中氏の主張通りなら、成就文は「若不生者」抜きの不完全な解説になってしまう。たしかに田中氏の理解では、成就文は本願文すべての説明ではない。

あ~ん?(苦笑)

~~2008 6/18(水) 23:03 田中さんのメール~~
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。
 
 貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。
~~2008 6/18(水) 23:03 田中さんのメール~~

ははは(笑)。

★「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」
   ↑
これを証明する親鸞聖人の言葉が挙げれないから、
田中さんのメールを意図的に削除したわけね。

ちょっと、確認したらバレバレでっせ(苦笑)。


というわけで、

84,【「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」】というドグマを証明するための親鸞聖人の言葉を挙げることができないので、田中氏のメールから都合の悪い質問は意図的に削除している。



◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとは、どういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。

では、本願のどこの解説か確認したところ、全く分からないと告白されている。

◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。

これでは、「若不生者」と「即得往生」はイコールでないの断言は何だったのか危ぶまれる。根拠を示せないことは、本人も認められている。

◆平成20年6月21日のメール
「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った親鸞聖人の根拠があるかどうか、私は分かりません。

そんな田中氏が、本願で不体失往生を誓われたのは「若不生者」でないと言い張り、「至心信楽」と〝考えるべきでしょう〟と推測されるのだ。

あ~ん?

既に親鸞聖人の言葉に基づいて、
【「若不生者不取正覚」≠「即得往生住不退転」】
は証明済みだよ~ん。(ちゃんと復習してるのかな~?)

そんでもって、チ●ーリップ企画が主張する、
【「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」】
が根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマなことは、
田中氏の発言を削除して、根拠を挙げれないことを、
おもいっきり誤魔化していることからも明かですな(苦笑)。


というわけで、

85,既に親鸞聖人の言葉に基づいて、【「若不生者不取正覚」≠「即得往生住不退転」】
は証明済みである。一方で、チ●ーリップ企画が主張する【「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」】が根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマなことは、田中氏の発言を削除して、根拠を挙げれないことをおもいっきり誤魔化していることからも明かである。それにも関わらず、田中氏の主張に問題があるかのような書き方をするのは、全く不当でマヌケな発言である。



◆平成20年6月18日のメール
本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、この言葉(至心信楽)と考えるべきでしょう。

「でしょう」と憶測している人に、「若不生者」は不体失往生でないと断定できようか。これも、根拠無き発言が真相だった。

◆平成20年6月21日のメール
『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。

「若不生者」が不体失往生を誓われた根拠は、釈迦の成就文に聞くべきであろう。

\( ̄ー ̄#)なんでやねん!

もうわけわからん説明はエエし、
【「若不生者不取正覚」≠「即得往生住不退転」】
になにか反論してみてね(苦笑)。

ま、でけへんと思うけどね(苦笑)。




大沼法龍先生の教えは忠実にパクルくせに、
親鸞聖人の言葉には忠実じゃないし、
田中さんの言葉はバリバリ捏造するんやね(苦笑)。

あ!違うか?
「パクリ損ない」やったね(苦笑)。






おまけ

>◆平成20年6月18日のメール
>本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、
>この言葉(至心信楽)と考えるべきでしょう。
 ↑
これが正しいことは、優秀なちび●さんが証明してくれてますよ~。
 ↓
ちび●墓穴!(再掲)
「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う(再掲)

僕の解説や上のちび●さんの解説を読んでもわからなかったら、
この清森さんの解説も読んでね~。
 ↓
清森問答 質疑応答144

そんでもわかんなかったら、
ちび●さんにちゃんと教えてもらうしかないね(苦笑)。


更にコメント!

コメントに反応して頂けましたので、更にコメント入れます!!

>これも「間違い」でしょうか?

六要の扱いは、2chにも書きましたが
「前々住上人、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の
候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ
候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと
仰せられ候ふなり。」(御一代記聞書158)
のお言葉に従うのがよろしいかと思います。
六要全体を認めておられるわけでもなさそうです。
御一代記聞書の意味がわからないようであれば勉強してみてください。



勉強してみました!

(訳)
蓮如上人の隠居所である南殿で、兼縁が、存覚上人のお作りになられた聖教に不審な所があるのを「これはどうでしょうか?」と蓮如上人にお見せになられたところ、蓮如上人が仰いました。
「名人がお作りになられたものであるから、そのまま理解しておくべきである。(不審がある所も)それがかえって名誉なことになるのである」と仰になられました。

という意味ですね。また、同じく『御一代記聞書』の89には、

(89)
一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。

とありますので、存覚上人の解釈をそのまま受け取る態度が、浄土真宗のあるべき姿勢なのではありませんか?


>この二つの益が得られるシステムが「横超」ということですよね?

一念の信心の所得として二益が獲られる、ということです。
「横超とは2」に御和讃もあげましたが、往還二回向をいただくのは一念です。
>これを回向となづけたり
と仰っている通り。



●問ていはく、正定と滅度とは一益とこゝろうぺきか、また二益とこゝろうぺきや。答ていはく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこゝろうぺきなり。されば二益なりとおもふぺきものなり。『御文章』1-4

この蓮如上人の言葉が間違いということでしょうか?


>・五願開示の場合、「若不生者」が十一願に対応する。

これは五願開示の場合、一願該摂の御文の「若不生者」が十一願に対応する、
という意味です。

それと、この答え違ってません?
 十二、十三願が「至心信楽欲生我国」?

五願開示をもう一度勉強されたほうがよろしいかと思います。



つまり、

 ・五願開示の場合でも一願該摂の場合でも、
 「若不生者」が「信楽に生まれる」と意味はない。

ということですね。

あと、私の手元の解答例が間違いということでしょうかね~。


※文字数の関係であのページのコメント覧に書くのが苦しいので、
この記事のリンクを張るので許してもらいました。
 ↓

苦笑(本人) 削除
2009/2/2(月) 午後 7:44
コメントありがとうございます!
更にコメントをいれましたので、よろしければご一読ください!
(文字数の関係で苦しいので私のブログのリンクを張ります。
簡潔な文章が書けなくてごめんなさい。汗)

更にコメント!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-179.html
コメント(0)


ん?!こ・これは?!

こんなサイトを見つけました。
 ↓
生きる意味を知ってー仏教を知りたいひとのために

ん?!こ・これは?!

どっかで見たようなことを仰っておられましたので、
【ツッコミ】じゃなくて、【コメント】を入れてみました♪

※記事に直接コメントを入れられないので、ゲストブックにコメントしました。

 ▽ ▽ ▽
横超とは1

「横超とは,すなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。

大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、

すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり。」(教行信証信巻)


「横超の中に、願成就とは、叡云く、本願及び成就なり、

『御鈔』には則ち『選択本願即得往生』と云うと、

珠云く、願成就とは次上の所釈の成就文を指す、

願成就をもって一経の至極と為すが故にと、

私に謂く、前説の相違釈と為すは穏かならず

後説の次上を指すと言うは好し」(教行信証摘解)


「阿弥陀仏の一念の救いは、イコール本願成就文

唯一の真実であり、完全無欠のまことの教え、これが真宗である」との仰せです。

「願成就」を「本願が成就したところの」と動詞的に訳しているものは間違い。

祖師聖人は送り仮名をつけておられません。

「願成就」とは「十八願成就文」のことです。


それについて三経の安心あり。そのなかに『大経』をもつて真実とせらる。

『大経』のなかには第十八の願をもつて本とす。

十八の願にとりては、また『願成就』をもつて至極とす。(改邪鈔)


苦笑ちゃんコメント

苦笑(本人) 削除
2009/2/2(月) 午後 1:49
横超とは1
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23050192.html

【コメント】
こんにちは。(^-^)

蓮如上人が高く評価されている存覚上人の『六要鈔』では、

●(御自釈)横超断四流と言うは、横超は、横とは竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。
竪超とは、大乗真実の教なり。竪出は大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。
横超とは、すなわち願成就したまえる一実円満の真教なり、真宗これなり。
また横出あり、すなわち三輩・九品・定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の頃に速やかに疾く無上正真道を超証す、かるがゆえに横超と曰うなり。

と書き下されていますが、これも「間違い」でしょうか?



横超とは2

「横超とは,すなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。乃至。

大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、

すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり。」(教行信証信巻)


「一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり」

とは、「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」と同意。


「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、

竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」(教行信証信巻)



なぜ、まだ死んで極楽往生してないのに「まことに知んぬ」と言われているのか。

往相回向と還相回向を一緒にいただいてしまっているからです。


弥陀の回向成就して 往相・還相ふたつなり

 これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ(高僧和讃)


「無上正真道を超証す」るのは一念の信心の所得として書かれているので

横超は、信の一念に51段高飛びして正定聚になったことを言います。


苦笑ちゃんコメント

苦笑(本人) 削除
2009/2/2(月) 午後 1:51
横超とは2
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23211088.html

【コメント】
こんにちは。(^-^)

 「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。『和讃』(高僧和讃・二〇)にいはく、「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり」といへり。これをもつてこころうべし。
『正信偈大意』

正定聚=不退の位なり・・この土の益
滅度=涅槃の位なり・・かの土の益

この二つの益が得られるシステムが「横超」ということですよね?



必至滅度の願

「証文類四
     必至滅度の願
     『難思議往生』

   顕浄土真実証文類 四

                           愚禿釈親鸞集

  つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。

  すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。

  しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、

  即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。」


五願開示された十八願は「信楽のこころに生まれさせる」というお約束であり

「死後、浄土へ生まれさせる」というお約束はありません。ではどこにあるのか。

親鸞聖人は

「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり」と仰っています。

必至滅度の願とは

「十八願で信楽を獲たひとは、 正定聚にしてみせる。

正定聚になった人は『死ねば浄土へ往生させて』滅度に至らせてみせる」というお約束で

あると『難思議往生』と証巻の表題に書かれています。

あくまで、純粋な十八願には「死後の往生」は誓われていない、というのが

親鸞聖人の五願開示です。


苦笑ちゃんコメント

必至滅度の願
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23211875.html

【コメント】
こんにちは。(^-^)

以前、五願開示の場合、「若不生者」が十一願に対応するって教えてもらったんですが、

~親●会 平成4年度後期・講師試験問題より~

問4 十八願の心は五つの願にあらわすことができるが、その五つの願を
   示し、その五願を本願文と対比せよ。

答4 ◎十一願・十二願・十三願・十七願・十八願

   ○十一願……若不生者
   ○十二願……至心信
   ○十三願……楽欲生我国
   ○十七願……乃至十念

~親●会 平成4年度後期・講師試験 11月22日実施 問題 より~

そうなると、

 ・五願開示の場合、「若不生者」が十一願に対応する。
 ・一願該摂の場合は「生」は正定と滅度。これが対応する。

ということになりますよね?
そうすると、

 ・五願開示の場合でも一願該摂の場合でも、
 「若不生者」が「信楽に生まれる」という意味はない。

とい

【コメント覧】

とい→ということでOKですよね。

でお願いします。文字数の関係で切れました。汗
2009/2/2(月) 午後 2:00 [ 苦笑(本人) ]



苦笑ちゃんコメント

苦笑(本人) 削除
2009/2/2(月) 午後 1:55
挨拶がおくれましたが、疑問に思うことをコメントさせて頂きました。
以前同じことを書いている方がおられたのですが、
その方が行方不明になりましたので、代わりに解答いただけたら幸いです。


 △ △ △


やっぱ速攻で削除されるかな?(苦笑)
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「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

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※私にメールで質問してもエエけど、
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