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ツッコミ番外編(4)名義詐称野郎は答えられるかな?

あんだけボッコボコにされたのに、
名義詐称野郎がまだぐちゃぐちゃ言ってるらしいですね(苦笑)。

たぶん、「読みにくい」とかなんとか言って、
都合の悪い記述は見なかったことにしてるんでしょうな?(苦笑)

以下、名義詐称野郎が見なかったことにすると思う論点。


【その1】五願開示の場合、「若不生者」が十一願に対応するっちゅうことは、親●会でも教えてますよね?

~親●会 平成4年度後期・講師試験問題より~

問4 十八願の心は五つの願にあらわすことができるが、その五つの願を
   示し、その五願を本願文と対比せよ。

答4 ◎十一願・十二願・十三願・十七願・十八願

   ○十一願……若不生者
   ○十二願……至心信
   ○十三願……楽欲生我国
   ○十七願……乃至十念

~親●会 平成4年度後期・講師試験 11月22日実施 問題 より~


【その2】どうして赤字の所は省略したのですか?親鸞会教義に都合が悪いからわざと省略したのではありませんか?

心の善悪をも顧みず罪の軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば仏の誓によりて必ず往生するぞと決定の心を起こすべきなり。
その決定の心によりて往生の業は定まるなり。往生は不定に思えば不定なり、一定と思えば一定する亊なり。
せんじては仏の誓を憑みていかなるところをも嫌わず、一定迎えたまうぞと信じて疑う心のなきを深心とは申しそうろうなり。


いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、
善の三業をば真実心の中になすべし」 とこそは釈し給ひたれ。
また「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、
心のおよばん程はつみをもおそれ、善にもすすむべき事とこそは心えられたれ。

ただ弥陀の本誓の善悪をも嫌わず名号を称うれば必ず迎えたまうと信じ、
名号の功徳のいかなる過をも除滅して一念十念も必ず往生を得る亊のめでたき事を、
深く信じて疑う心一念もなかれという意なり。
『浄土宗略抄』

(苦笑ちゃん訳)
心の善悪を問題とせず罪の軽重いも問題にせず、「ただ口で南無阿弥陀仏と申したならば仏の誓によって必ず往生するのだ」という「決定の心」を起こすべきである。
その「決定の心」によって往生することができる行為(往生の業)が定まるのである。往生が定まっていない(不定)と思うならば往生は定まっていない。間違いなく確定している(一定)と思うならば間違いなく確定している。
結局は、仏の誓を憑んで、阿弥陀仏はどのような場所であっても嫌わずに間違いなく迎えてくださると信じて、疑う心がないことを「深心」と言うのである。

阿弥陀仏がどんな過ちを犯した人をも嫌わないからと言って、その教え(法)を自分の都合に合わせて受け取り勝手気ままに振る舞うべきではない。
それ故に善導大師も「善くない三業が起きた時は、真実心を持ちながらそれを捨てるべきである。善い三業は、真実心を持ちながらそれをなしていくべきである」と解釈されているのである。
また、「善い行い(善業)でなければ、敬ってこれから遠ざかるべきであり、それに随喜してはいけない」と解釈されているのだから、心の及ぶ限りは罪を犯すことを恐れ、善にすすむべきであると心得なさい。

ただ、阿弥陀仏の本来の誓願が人が善であろうと悪であろうと嫌わず、名号を称えれば必ず迎え取ってくださると信じ、
名号の功徳があらゆる過ちをも除き滅ぼして、一念でも十念でも必ず往生することができることの素晴らしいことを深く信じて、疑う心は一瞬もあってもならない、という意味である。



【その3】上記の『浄土宗略抄』の記述と、親●会における金集め&人集めの活動とに何の関係があるのですか?というか、貴方のやっていること(名義詐称etc.)は上記の『浄土宗略抄』に抵触しませんか?


【その4】どうして『選択集』を、ヘンテコな形に省略したのですか?

念仏の行者四修の法を行用すべきの文

善導の『往生礼讃』に云く、また勧めて四修の法を行ぜしむ。何者をか四とす。一には恭敬修。いわゆる彼の仏、および彼の一切の聖衆等を恭敬礼拝す。故に恭敬修と名づく。畢命を期として、誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。
二には無余修。いわゆる専ら彼の仏名を称して、彼の仏および一切の聖衆等を、専念し、専想し、専礼し、専讃して、余業を雑えず。故に無余修と名づく、畢命を期とし誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。
三には無間修。いわゆる相続して、恭敬礼拝し、称名讃歎し、憶念観察し、回向発願し、心心に相続して、余業を以て来し間えず、故に無間修と名づく。また貧瞋煩悩を以て来し間えず、隨犯隨懺して、念を隔て、時を隔て、日を隔てしめず。常に清浄ならしめるをまた無間修と名づく。畢命を期として、誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。

『西方要決』に云く、ただ四修を修するを以て正業とす。一には長時修。初発心より乃至菩提まで、恒に浄因を作して、ついに退転ずること無し。二には恭敬修。これにまた五有り。一には有縁の聖人を敬う。謂く行住坐臥、西方に背かず、涕唾便痢、西方に向わず。二には有縁の像教を敬う。謂く西方の弥陀の像変を造る。広く作ること能はざれば、ただ一仏二菩薩を作るもまた得たり。
教とは『弥陀経』等を、五色の袋に盛れて、自ら読み他を教えてこの経像を室中に安置して、六時に礼懺し、香華供養して、特に尊重を生せ。三には有縁の善知識を敬う。謂く浄土の教を宣べる者は、もしは千由旬十由旬より巳来、ならびにすべからく敬重し親近し供養すべし。別学の者にも、すべて敬心を起し、己と同じからざるをも、ただ深く敬うことを知れ。もし軽慢を生ずれば、罪を得ること窮まり無し。故にすべからくすべて敬うべし。すなわち行障を除く。四には同縁の伴を敬う。謂く同修業の者なり。自ら障重くして、独業成ぜずといえども、要ず良朋に藉って、まさに能く行を作す。危うきを扶け厄を救い、力を助けて相い資く。同伴の善縁、深く相い保重せよ。五には三宝を敬う。同体別相、ならびに深く敬うべし。つぶさに録すること能わず。浅行の者の、依修することを果さざるに為ってなり。住持三宝とは、今の浅識の与に大因縁と作る。今ほぼ料簡せば、仏宝と言うは、謂く檀を雕り。綺に繍い。素質金容、玉を鏤め、(カトリ=糸+曾)に図し、石を磨き、土を削る、この霊像特に尊承すべし。暫爾、形を観れば、罪消じ福を増す。もし少慢を生ずれば、悪を長じ善亡ず。ただし尊容を想うこと、まさに真仏を見るがごとくすべし。法宝と言うは、三乗の教旨、法界所流の名句の所詮なり。能く解を生ずるの縁なり。故にすべからく珍仰すべし。慧を発するの基なるを以てなり。尊経を鈔写して、恒に浄室に安じ。箱篋に盛れ貯えて、ならびに厳敬すべし。読誦の時は、身手清潔にせよ。僧宝と言うは、聖僧と菩薩と破戒との流、等心に敬を起せ。慢想を生ずること勿れ。三には無間修。謂く常に念仏して、往生の心を作す。一切の時において、心に常に想巧すべし。譬えばもし人有って、他に抄掠せられて、身下賤と為って、つぶさに艱辛を受く。たちまち父母を思って、走って国に帰らんと欲すれども、行装いまだ弁ぜず。なお他郷に在って、日夜に思惟して、苦しみ堪え忍びず。時として暫くも捨てて、耶嬢を念ぜざること無し。計を為すことすでに成って、すなわち帰って達することを得て、父母に親近し、縦任に歓娯す。行者もまた然なり。往し煩悩に因って、善心を壊乱し、福智の珍財ならびに皆散失す。久しく生死に流れて、制するに自由ならず。恒に魔王の与に、僕使と作って、六道に駈馳せられて、身心を苦切す。今善縁に遇って、たちまち弥陀慈父の弘願に違せず。群生を済抜したまうを聞いて、日夜に驚忙し、発心して往くことを願ず。所以に精勤して倦まず、まさに仏恩を念じて、報の尽きるを期と為して、心に恒に計念すべし。四には無余修。謂く専ら極楽を求めて、弥陀を礼念す。ただ諸余の業行雑起せしめざれ。所作の業には、日別にすべからく念仏誦経を修して、余課を留めざるべし。『選択集』


【その5】善導大師の『往生礼讚』の四修解釈と、親●会における金集め&人集めの活動とに何の関係があるのですか?

恭敬修・・阿弥陀仏および聖衆を恭敬礼拝する
無余修・・專ら阿弥陀仏の名を称え、仏および聖衆等を想い礼讚して他の行を交えない
無間修・・恭敬礼拝・称名等を絶え間なく行う
     煩悩を交えないようして、罪を造るごとに懺悔して間を置かない
長時修・・上の三つを、一生涯続ける


【その6】「横超」に「無上正真道を超証す」意味があるのは明かですが、これが本願成就文とイコールだとすると、「本願成就文には、死後のことは一切説かれていない」と親鸞会で教わってきたことが、間違いだということになりませんか?

●「横超」とは、即ち願成就一実円満之真教・真宗是れなり。亦復「横出」有り、即ち三輩・九品・定散之教、化土・懈慢、迂廻之善なり。大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の傾、速やかに疾く無上正真道を超証す、故に「横超」と曰うなり。『教行信証』信巻



根拠も現代語訳もいらない簡単な質問だから、
すぐに答えられるでしょ?
出血大サービスで、
現代語訳までしてあげたんだから、
これぐらいは、答えてくれるよね?
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ツッコミ!【第36回】「若不生者の誓、まことだった」の表明

第36回が更新されました。
 ↓
【第36回】「若不生者の誓、まことだった」の表明

田中氏は、また次のようにも言われている。

◆平成20年2月15日のメール
親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と親鸞聖人が『教行信証』の冒頭に仰っているのは、当然ながら生きているときである。
「摂取不捨の真言」も、「超世希有の正法」も、「弥陀の本願」すなわち「若不生者の誓」であるから、「若不生者の誓、まことだった」と親鸞聖人はここで仰っているのである。

ところが、「若不生者不取正覚」の「生」は、死んで極楽(本願の実報土)に生まれることだけだ、と思い込んでおられる田中氏は、親鸞聖人の「必ず生まれさせる、弥陀の本願まことだった」という感動的なお叫びも、その真意が正しく読めないのであろう。
「『若不生者不取正覚』という力によって『生まれさせられた』慶喜ではない」と平然と言い放たれる。

では、親鸞聖人の「弥陀の本願まことだった」の表明は、一体なんなのか。弥陀の本願三十六文字から、「若不生者不取正覚」の八文字だけを抜いた「残りの二十八文字だけがまことだった」という意味だとでも言われるのであろうか。
そんな田中氏は、こうも言われているではないか。

◆平成19年12月17日のメール
本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思います。

そのとおりである。
本願文の一部「若不生者不取正覚」を疑い、残りを信じるということはありえないのだ。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」は、明らかに、弥陀の本願三十六文字すべてが「まことだった」という表明であり、それは「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」からに他ならない。それは、「死んで本願の実報土に生まれさせられた」慶喜ではもちろん無く、「生きているときに、信楽に生まれさせられた」慶喜であることも明白である。

まさに、「若不生者不取正覚」の八文字は、弥陀が「不体失往生」に正覚(仏のさとり)をかけておられるのだということを、親鸞聖人が自ら信知されて叫ばれたのが、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」ではないか。

まちがった思い込みから、田中氏がお聖教のお言葉も正しく読めなくなっておられる、これは一つの例証であろう。

あ~ん?(苦笑)

~~2008 2/15(金) 21:51 田中さんのメールより~~
 唯信鈔文意に『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』とあるように、「若不生者の誓」の「生」は「真実報土へ生まれる」の意味だということが記述されています。
 
 
 
>その、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」慶喜を親鸞聖人は、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのではないですか。死んで極楽に生まれてから仰ったことではないでしょう。(※苦笑注 これは山田さんの主張を引用している部分ねw)
 
 
 親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
 
 つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。
 
 親鸞聖人が、尊号真像銘文に『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されている通りです。 
~~2008 2/15(金) 21:51 田中さんのメールより~~

田中さんは、親鸞聖人がお書きになられた、
『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』
に基づいて語っているわけだけど、
親●会ドグマにとって都合が悪いから、
カットしちゃうんですかいな(苦笑)。

あるいは、『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』の文章が、
書かれていても見えなくなっちゃうフィルターかなんかが、
親●会の人にはかかっているのかもね(苦笑)。

でもそのような姿勢を、

●ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。『唯信鈔文意』

と、八十五歳の時にお書きになられた親鸞聖人は、
どのように思われるでしょうね~。

「やすくこころえさせんとて、
 おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり」

してくださってるんでっせ~。

この言葉よりチ●ーリップ企画(=親●会)が
壞れたテープレコーダの如く繰り返す、
ドグマの方が大事なんですか?(苦笑)


というわけで、

79,親鸞聖人がお書きになられた『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』に基づいて語ってい自説を主張している田中氏のメールから、親●会ドグマにとって都合が悪い『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』の記述を意図的にカットしている。

80,あるいは、親●会ドグマにとって都合が悪い『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』の文章は、書かれても見えなくなるフィルターか何かが親●会の人にはかかっているのかもしれない。



チ●ーリップ企画に、
いちおう言っておいてあげるけど、
オイラが呆れてツッコミいれなくなるまで
だらだら更新する作戦なら、
逆効果だしやめといた方がええで。
あんたらがヘンテコ更新をする限り、
ず~とツッコミ続けるますからね(苦笑)。




追記

たしか清森さんが親●会を除名された理由に、
「七高祖の文献を読んだ」ちゅうのがあったけど、
今後は『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』を読んだら、
親●会を除名されるかもしれませんな。
だって、親●会ドグマに都合が悪いんだもん(苦笑)。
 ↓
除名の理由

 ある責任ある立場の講師部員から、清森さん除名の理由が明らかにされました。

(1)華光会の本を読んでいた。
(2)七祖聖教を読んでいた。
(3)西堀咲枝さんの話を聞いていた。
(4)上田祥広さんの味方をした。

高●先生の言う通りだ!メールのやり取り続けろよ!!

清森問答 質疑応答168 より

【質問】


 すでにご存知かとは思いますが、学生さんが、児玉氏を相手に法論をしているようです。


若不生者の「生」は、なぜ「信楽に生まれる」なのか
http://nyakufushouja.blog115.fc2.com/


 この中で、児玉氏は、

>仏法の質問に答えるのには

>信心沙汰といって

>蓮如上人も直接ひざをつきあわせて

>面とむかって話しをなされました。


このように言って、メールでの返答を拒否しているようですが、このような児玉氏の態度について、清森先生は、どのように思われますでしょうか?



【回答】


 この点につきましては、高森先生が、以下のように書かれています。


(以下、引用)

 最後に「お互い書面では一方通行になると思いますから、今後は面接の上、口頭でお問い願います」と仰有っていられますが、貴殿の御意の理解に苦しみます。
 言葉で話せることが文章に出来ない道理がないからです。言葉で話したことは「言うた」「言わない」という水かけ論になったり、「そんな風に言った覚えはありません」などと逃口上を作るのには重宝ですが、文書だとそのような無責任なことは許されないばかりでなく、何時何時までも、多くの人々に真実を知って頂ける勝縁になりますから、仏意を開顕する為には文書交換が最良の方法だと考えます。逃げることだけに懸命な人を相手に諍論する時などは、特に大切なことだと思いますが如何なものでありましょうか。
 故に、「返事をこれで打ち切らせて頂きます」などと仰有らずに貴殿と私との見解に相異があればある程、仏の正意を開闡する為にお互い微力を捧げようではありせんか。貴殿の奮起を期待して止みません。
 御自愛を念じ上げます。
合掌

昭和四十七年二月九日
高森顕徹
J・A殿

(法戦�、p123~p124)


 この高森先生の教えを基準に考えるならば、児玉さんは、「逃げることだけに懸命な人」ということになるでしょう。
 上記のサイトは、私も読ませて頂きましたが、肝心な質問には一切答えず、返答をはぐらかしてばかりという印象を受けました。

 児玉さん自らが、ブログを作って仏意を開顕しなければならないのに、それもせず、学生がせっかくお膳立てをしてくれたのに、そこからも逃げ出す。
 正直なところ、児玉さんに失望しました。非常に残念です。



高●先生の言う通りだ!
メールのやり取り続けろよ!!

ちび●墓穴!(再掲)

うだうだ言ってるおじさんがいるので、再掲載しておきますわ。
おじさんは、みんなにボコボコにされたことを忘れている上に、
名義詐称をしてるみたいだけどね(苦笑)


以前ボコボコにされたことは、なかったことにして、
某巨大掲示板に、ちび●が登場しましたね。


636 :ちび丸:2008/09/06(土) 08:42:10 ID:QrmaZT+1
>若不生者の「生」に、現益やまして信楽の身に生まれるの意味があると書かれた聖人の著書はない。

親鸞聖人の著書には十八願全部を解説されたところはない?

でたらめ教学では、結局そう言うしかないよね。
その結果
「覚如上人、存覚上人、蓮如上人の三師は祖師に背いた解釈をした」
「祖師聖人の解釈に七高僧からの相伝はない」
「十八願は成就してない」
という結論になるのはFWM氏とのやりとり以降であきらかにした通り。
「若不生者」と書かれてなければ根拠にならないという
ばかな不勉強教学の結論だよ。

「生」は往生。
それ以外の解釈はない。



でも、速攻で潰されてるし(苦笑)。

654 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 11:19:18 ID:SSHL9SRG
>>636

> 親鸞聖人の著書には十八願全部を解説されたところはない?

唯一あるのが、尊号真像銘文です。その中で、現益の意味を補っておられながらも、
「若不生者」に関してはあくまでも当益で解釈しておられます。
何度も同じことを言わせないで下さい。

>「十八願は成就してない」

そんなこと誰が言いましたか? 十八願はもちろん成就しています。
(成就しなければ正覚を取らじと誓われて、法蔵菩薩は阿弥陀仏と成られたのですから、
もし成就していなければ、阿弥陀仏は嘘つきということになってしまいますよ。
そもそも、本願が成就したからこそ釈尊が「本願成就文」を説かれたんじゃないですか。)

ちび丸や、清森問答のコメント欄にヒステリックなカキコをしている人物は、
第18願に「全ての人を信楽にする」と誓われている、と言いたいがために、
あの手この手で強引にいろんな文章を引用していますが、
では、仮にその主張が正しいとした場合、
十方衆生は十劫の昔に信楽の身になっているはずですね?
「本願が成就した」とは「約束が果たされた」ということです。
「全ての人を信楽にする」が約束の内容であるならば、
その約束が十劫の昔に果たされたということは
「全ての人が信楽になった」ということでなければなりません。
これは事実に反します。

この矛盾を私は今までに何度も指摘していますが、
この点に関してはまだ誰からも反論がありません。
この矛盾点をクリアーしないままで、
第18願は「全ての人を信楽にする」という約束だ、
と主張すればするほど、矛盾点が鮮明になって墓穴を掘るだけだということに
気付かないのだろうか?



そんでもって、ぐちゃぐちゃ余計ないいわけしてもんだから・・。

673 :ちび丸:2008/09/06(土) 16:46:05 ID:drVEm3vB
>>654

>何度も同じことを言わせないで下さい。

こっちが言いたい。
お気に召さねば「御本典に十八願全文の解説はない」と言い換えましょうか。

>尊号真像銘文

一願該摂の御文ですが、何の根拠なんですか?
何度も言わせないでください。


674 :ちび丸:2008/09/06(土) 16:50:13 ID:drVEm3vB
>>654
>そんなこと誰が言いましたか?

成就文がなければ成就してないのです。
王本願が成就していれば欣慕の願の成就は問題ではありませんが
その反対は言えません。
田中氏は「若不生者」の成就はない、という立場でしたね。
名無しさん。

675 :ちび丸:2008/09/06(土) 16:59:34 ID:drVEm3vB
>その約束が十劫の昔に果たされたということは
「全ての人が信楽になった」ということでなければなりません。
これは事実に反します。

(笑)
ほんとに幼稚園児だったんですね。

阿弥陀仏の本願は「すべてのひとを救う」という本願ではなかったという主張らしい。

>十八願はもちろん成就しています。

それとも十劫安心か。
お相手はごめん被ります。

では今日はここまで。


678 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:21:20 ID:/nmFEKvb
ちょっと時間が余った。よく読め。

>一願該摂と五願開示

一願該摂というのは四十八願の解釈の方法で
法然上人が主にされたんですが親鸞聖人も書かれています。
十八願が選択本願で他の四十七願は欣慕の願という扱いですね。

しかし親鸞聖人は十八願を開いて五願に配当されて意を明らかに
されたんです。これが五願開示。

どちらが正しいということでなく、開合の違いといいます。

679 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:23:15 ID:/nmFEKvb
>一願該摂というのは四十八願の解釈の方法で
法然上人が主にされたんですが親鸞聖人も書かれています。
十八願が選択本願で他の四十七願は欣慕の願という扱いですね。

正信偈や田中氏が根拠に出した唯信鈔文意の「選択本願」は十八願を指しているから
この一願該摂の法門に当たる。

本師源空は、仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
  真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。(正信偈)


 「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。
  (唯信鈔文意)


だが祖師聖人はこれだけではないんだよ。


680 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:24:21 ID:/nmFEKvb
如来二種回向文には十七、十八、十一願をあげて
「これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。」と
十七願、十一願も選択本願とされている。

往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 
称我名者 不取正覚」

 真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

 真実証果といふは、必至滅度の悲願にあらはれたり。証果の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」

 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。

この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)


681 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:26:37 ID:qtbNF16F
十八願の信楽によって十一願の証果を得るのが難思議往生。

分相になったときには十八願は純粋に「信楽を与える」という願になって

「滅度を得る」という意味は無くなるから、信巻の最初は[正定聚の機] になる。

「念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。」

分相の法門において滅度は十八願の結果ではない。


これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。
現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土にいたる。
これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。
これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、
また難思議往生と申すなり。(浄土三経往生文類)

682 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:27:32 ID:qtbNF16F
往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 
称我名者 不取正覚」

 真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

 真実証果といふは、必至滅度の悲願にあらはれたり。証果の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」

 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。

この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)

さきに出した回向文。回向とは「与える」ということ。

他力の行を与えるという誓願が十七願。

他力の信を与えるのが十八願。

他力の証果を与えるのが十一願。

ちゃんと書いてあるだろ。


683 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:28:35 ID:wp+JR0yG
この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)

正定聚の位につくのも十一願による。
十八願で信楽を獲たひとは正定聚の機になるのと
十七願の名号をいただいたひとがつく位だから
本来は十一願で獲る位だが
十一願と共通するので信巻巻頭に書かれている。

成等覚証大涅槃(正信偈)も意は同じ。

純粋な意味で十八願は「信楽を与える」という意味になる。

相伝義書で「若し信心生まれずは」という口伝になっているのは
少なくともその部分は相伝義書は正しいということ。

684 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:32:57 ID:wp+JR0yG
学者の解説がほしければまた後日。



見事に墓穴を掘って、
・田中氏の主張が正しいこと。
・親鸞会の主張が誤っていること。
を証明してしまいましたとさ(苦笑)。


688 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 18:21:22 ID:SSHL9SRG

●●● 墓穴を掘ったちび丸 ●●●

 ちび丸の説によると…

    ┌至心信楽 ─ 18願 ─ 信楽を与える
18願─┼若不生者 ─ 11願 ─ 信楽の者を、浄土往生させる
    └その他

> 分相になったときには十八願は純粋に「信楽を与える」という願になって

分相の18願は、「信楽を与える」という約束
分相の11願は、「信楽の者を、浄土往生させる」という約束

だから、18願は「信楽を与える」という約束、とは一応言える。

しかし!!

分相の18願に対応するのは、「至心信楽」
分相の11願に対応するのは、「若不生者」

なので、一願該摂で「信楽を与える」に対応するのは「至心信楽」でなければならない!!!

田中氏の「不体失往生の根拠は、至心信楽だ」という主張を、全面的に認めたわけだ。


689 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 18:31:11 ID:SSHL9SRG

ちび丸も元会員を自称するからには、

五願開示で、

分相の18願→至心信楽
分相の11願→若不生者

だということは、知っているだろうな。

親鸞会の教学解説書(かなり古いものだが…)にも載っていたし、
講師試験に出たこともある。

というより、浄土真宗の常識だ。



分相の18願が「必ず信楽にさせる」と認めたということは、
  「必ず信楽にさせる根拠」は「至心信楽」だと認めたわけだ。

分相の11願が「必ず浄土往生させる」と認めたということは、
  「必ず浄土往生させる根拠」は「若不生者」だと認めたわけだ。

 チューリップの間違いと、田中氏の主張の根拠を、同時に教えてくれて有難う。




690 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 19:44:01 ID:GFgl1Rj+
>689

田中さんが、不体失往生の根拠は「信楽」だと言われていましたが、理由が分かりました。
ありがとうございました。


692 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 20:19:28 ID:lrMY6LrS
>>688

ちび丸涙目w



結局、証拠十分で有罪が確定している人の弁護
みたいなことをすると、喋れば喋る程ぼろが出ちゃうのよね(苦笑)。


ところで、この議論はこれだけで終わんなくて、
もっとおもろい論点が出されました。

とてもおもろいネタなので、次回に続く!

※続きはこちら

「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う(再掲)

みんながこれを理解できたのは、
忘れっぽいおじさんのおかげなんだよね~。
本人はまだわかってない(わかってはいけない?)みたいだけど(苦笑)。


ちび●墓穴!の副産物で、
「信楽=正定聚」という親●会ドグマの誤りが明確になりました。

693 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:37:18 ID:SSHL9SRG

(補足)

> この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
> すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
>  (如来二種回向文)


このように、11願は、「真実信楽をえたらん人」は「すなはち正定聚の位に住せしめん」とも解釈できる。

しかし、決して「信楽をえさせる」誓いでないことは明らか。

「信楽をえさせる」のは分相の18願のみ。

「正定聚の位に住せしめん」というのは、仏になる身にさせるということ。
必ず浄土に生まれさせる、というのを、正定聚になると解釈されたのであろう。


つまり

分相の18願= 至心信楽 =信楽をえさせる
分相の11願= 若不生者 =信楽の者を、(正定聚にさせ)浄土往生させる

チューリップ山田氏が、「若不生者」を、

信楽に「生」まれさせ、浄土に「生」まれさせる

と解釈したのは、明らかに誤り。



694 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:42:14 ID:SSHL9SRG
しかし…
「不体失往生」=「正定聚」と取るならば、

若不生者は、「信楽の者を、必ず不体失往生させる」と読める。

不体失往生の根拠として、「若不生者」の挙げることも出来る。

アニメ2部だけなら、問題なかったかも。

その後の、山田氏のフォロウがまずかった。


本願成就文の「信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」

ここに教えられているのも、「信心歓喜(信楽)した者が、即得往生(入正定聚)できる」と説かれている。

本願成就文を基準に読むなら、「信楽のものを、正定聚に生まれさせる」のが、「若不生者」の意味。

親鸞会の人は、最初から「信楽」=「正定聚」と勘違いしているから、間違えるんだよ。


信楽した者に、現益(正定聚)と、当益(成仏)の、両方を与えるのが弥陀の本願。

間違っても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」などと読んではならない。

本願成就文の破壊だよ。これは。

695 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:46:39 ID:SSHL9SRG

分相の18願は、「弥陀のお力によって、信楽になれる」とは説かれているが、

「若不生者」の生は、「正定聚」と「成仏」のみなので、

「信楽に生まれさせる」という表現は、絶対に出てこない。

「もし信楽に生まれさせずば、正覚を取らじ」などとは誓われていない。

親鸞聖人は、そのような書き方はされていない。



表現には、気をつけるべし。

教行信証信巻を、よく読まれたらよい。



696 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:56:58 ID:mBCVh9VS
>695

高森先生は、信楽と正定聚の関係が分かっておられないのでしょうか?



697 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:58:38 ID:L/AgIQqE
>>693-695
ありがとうございます。
とてもわかりやすい説明で、納得できました。

そういえば最近、親鸞会の会員の財施や活動に対するモチベーションが、
非常に低下しているというようなことを聞いているのですが、
その辺の背景にはやはりこの法論の結果や、
脱税疑惑なんかが影を落としているのでしょうね。

698 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:07:29 ID:SSHL9SRG
>>695
>
> 高森先生は、信楽と正定聚の関係が分かっておられないのでしょうか?


そういうこと。
全然分かってない。

本願は  「信楽した者を、浄土往生させる」
本願成就文「信心歓喜(信楽)した者を、正定聚にさせる」

この関係だよ。


親鸞聖人は、「浄土往生できる」ことを、「正定聚になれる」と言い換えられた。
どちらも、「信楽すれば…、という条件つき」

信楽すれば、正定聚になれる。だから「信楽」=「正定聚」だと思ったのだろうか?

だから、正定聚を信楽と言い換えて、「信楽すれば、信楽になれる」となった。

これでは訳わからないから、「信楽すれば」を削っちゃったんだろう。

そうだとすれば、頭わるすぎ…


だいたい、「信楽」と「正定聚」は違う意味なんだから、普通に仏教の勉強をしていれば、こんな間違いはしないんだよ。

同じなら、「信楽の者を正定聚にする」などと、無意味なことは言われない。



699 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:12:53 ID:SSHL9SRG

>
> 若不生者は、「信楽の者を、必ず不体失往生させる」と読める。
>
> 不体失往生の根拠として、「若不生者」の挙げることも出来る。
>
> アニメ2部だけなら、問題なかったかも。


このように一応書いたが、

親鸞聖人が弥陀の本願を、現当二益と解釈されたのは、あくまで本願成就文が根拠。

本願文には、直接的には現益は示されていない。


だから、親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、本願成就文。

やはりアニメに描くのは「即得往生 住不退転」が適当であった。


親鸞聖人が、何を根拠に不体失往生を論じられたか、分かっていないから、このようなミスをするんだろう。



「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は明らかに違います。
親●会ドグマが注入された人には、なかなかわかりにくいことだけどね(苦笑)。


そして、解説は更に進わけでございます。

701 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:16:43 ID:iBZWtYDV
>>698
なるほど。ということは、十八願を

どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に

と言い換えるのは間違い、ということ?

702 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:29:04 ID:SSHL9SRG
>>701
> なるほど。ということは、十八願を
>
> どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に
>
> と言い換えるのは間違い、ということ?


「どんな人も 信楽すれば 必ず助ける 絶対の幸福(正定聚という意味なら)に」なら、いいんじゃないの?


問題は、必ず信楽になれると言ってよいか。

> 分相の18願は、「信楽を与える」という約束

と、ちび丸に合わせて、このように書いたが、聖教には、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」としか書かれていない。


これを、「どんな人でも かならず信楽にする」と書き換えて良いか?

どこかに親鸞聖人が「必ず信楽にする約束」と書かれていれば分かり易いが、今のところ私は、見つけていない。

間違い無いのは、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」。これだけ。


誰か、「どんな人も、必ず信楽にさせると 約束されている」と書かれている根拠があれば教えてください。

それが見つかれば、「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」もOKだと思う。

703 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:39:13 ID:NEkveLHU
なるほど。
弥陀の十八願はそういう約束だったのか。

704 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:50:55 ID:T0XwJH3K
どんな人でもっていうのは、十方衆生のことだとは聞いたな。

705 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:52:38 ID:SSHL9SRG

アニメは高森氏の製作では無いと言い出す人がいそうだから、
高森氏の著作から、間違いを指摘する。


もとよりこれは阿弥陀佛の本願に「十方の衆生を信楽の一心に救わずば吾れ正覚を取らじ」と約束なされた通りになった相であるから、まさに本願に相応したわけである。【会報2集・信の一念5】


「十方の衆生が、信楽の一心を得たのに、浄土往生せずば吾れ正覚を取らじ」と書くのが正しい。

現益で解釈しても、

「十方の衆生が、信楽の一心を得たのに、正定聚に救わずば吾れ正覚を取らじ」と書くのが正しい。

と書くのが限界。


「信楽の一心に救う」というのは、18願が全然分かってないから、こんな表現になる。




706 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:54:34 ID:SSHL9SRG

> 「十方の衆生が、信楽の一心を得たのに、正定聚に救わずば吾れ正覚を取らじ」と書くのが正しい。

失礼。

「と書くのが正しい」は余計。



「どうしたら信楽になれるか?」に関する解説もありましたね。

707 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:10:30 ID:NEkveLHU
信楽にはどうしたらなれますか?

708 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:18:25 ID:SSHL9SRG
>>707


誰かが書いていたが、光明の働きだからね。
我々がどうかした結果、信楽になれるわけではない


光明名号の因縁ということあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきわなからん」とちかいたまえり。これすなわち念仏の衆生を摂取のためなり。
かの願、すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって、十方微塵世界をてらしたまいて、衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあう衆生、
ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき、まさしく報土にうまるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。
しかれば、名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとえに光明にもよおさるるによりてなり。


信楽になる = 名号を頂く

1.無明の昏闇うすくなり
2.宿善のたね萌す

これが必要なようだ。



得意の後出しジャンケンも、ボコボコいかれましたな(苦笑)。

709 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:24:15 ID:NEkveLHU
>>699
アニメで願成就文を出すと、難しくなりすぎて、縁の浅い人は分かりにくいから…
という説明は当時からなされていましたよ。

配慮であって、間違われたわけではありません。

710 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:25:12 ID:L/AgIQqE
>>709
それなら田中氏との法論でも最初からそういうべきだったのではないかと思いました。

711 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:37:09 ID:SSHL9SRG
>>709

> アニメで願成就文を出すと、難しくなりすぎて、縁の浅い人は分かりにくいから…
> という説明は当時からなされていましたよ。


僕は、アニメより、高森氏が自著で「十方の衆生を信楽の一心に救わずば吾れ正覚を取らじ」と教えていることが、もっと問題だと思う。

アニメは言い訳のしようもあるが、この文章は言い訳の余地がない。



712 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:42:50 ID:SSHL9SRG
>>709

そもそも、弥陀の救いが、現在か、死後かの論争だったんでしょ。

要するに、「若不生者」の「生」が、現在か、死後かという論争。

だから「若不生者」の「生」を現益と解釈できる、お経の根拠は何か、が問題になってるわけ。



ここに「若不生者 不取正覚」を出してどうするの??

理屈から考えてもおかしい。




親鸞聖人が「生」を現益と解釈された根拠は「即得往生 住不退転」しか有り得ない。

分かりやすいとか、分かりにくい、の問題ではない。

根本的に、アニメ製作者が、教えを分かっていないのが問題なんだよ。



713 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:50:59 ID:DdIlnfvT
>>711

貴方のお陰で、高森会長がなぜ本願の解釈を間違えたか、よく分かりました。
感謝いたします。



714 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:52:19 ID:plsqetV/

ちび丸にも感謝w



みんなが納得できる見解が出されてよかったですね

715 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 00:06:21 ID:LmZCYc0B
>>712
本当に分かっていなかったか、
あるいは分かっていながらわざとそういう教義にしたかったのかもね。

「阿弥陀仏は命掛けなのに、お前たち会員はそうなってない」

「情けない・恥ずかしいと思わないのか」

「だったらお前たちも命掛けで組織に布施をして貢げ」

こうやって罪悪感を植えつけて組織の奴隷を作り上げる。
そういう構造を作り上げたかったんだろうね。

そもそも親鸞聖人の教えは人々の心を解き放つものだったのに、
親鸞会では恐怖と罪の意識で縛り付けることしかしない。
この歴然として差は、まさにこの本願の読み違いに起因しているように思う。

716 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 00:08:59 ID:0j2TvL7h
失礼、訂正。
この歴然として差は→この歴然とした差は

717 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 00:21:03 ID:zsT20bKo

今回の議論で、色々な疑問が解けた。
ちび丸氏の「若不生者」が現益というのも、間違いではなかったわけだ。
しかし、現益が信楽だと思い込んでいたから、しっくり来なかったんだ。



718 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 00:37:49 ID:/lPljhF1
なるほど、現益とは正定聚になることか。「信楽を得たら」「必ず」「正定聚」になると読むわけか。

結局、この「必ず」は「信楽を得る」にはかからないということ・・・凄い分かりやすかった。


723 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 08:02:22 ID:mr53OP0P
>>698
なるほど。とても解りやすかったです。ありがとうございます。
そういえば「入正定聚の益」ですものね。

>だいたい、「信楽」と「正定聚」は違う意味なんだから、普通に仏教の勉強をしていれば、こんな間違いはしないんだよ。

普通に仏教の勉強をしないで親鸞会の教学を学んでしまった自分は、
ほかにもたくさん間違った理解をしてるんだろうな。恐ろしいことです。



予防線も張られたし、準備も万端ですな(苦笑)。

737 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 16:13:05 ID:ODO4NQvv
>SSHL9SRG

とりあえず、ちび丸の反論を予測して前もって書いておくけど
真宗相伝義書の論註講記には、三心生ぜずばとよむ相伝があると書かれている。自分も調べてみた。
本願寺東西分裂後すぐの人物から聞いたことをまとめた書のようで怪しさがただようとすればそこだが
ちび丸は正統な相伝だと証明しようと今必死にほかの根拠も探していると思う。
まあ、そこにしか根拠がなかったとしても、一応は本願寺の中に若不生者を信楽生まれずばと
解釈する人がいたということからすれば、私的にはこの解釈もありだとは思う。
しかし、親鸞聖人の著作に忠実であろうとすれば認めるべきでないし、
真宗の一般的な解釈からほどとおいものとして、秘密の法門めいて教えるべき教義ではないという意見。

ちび丸は相伝義書と銘うたれた書籍の一引用文献という理由で、
これが親鸞聖人の密かに伝えられてきた真実で、信心決定者なら感得できる本願解釈だと論陣を
はってくるだろうが、惑わされる人がいないことを願います。


742 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 18:31:42 ID:5XAn0pfb
>>712
> 親鸞聖人が「生」を現益と解釈された根拠は「即得往生 住不退転」しか有り得ない。

というか、
「【信楽を獲た人は現益も獲られる】ということの根拠は
「即得往生住不退転」しか有り得ない。」
と言うほうが、より正確な表現ですね。
あくまで「若不生者」の「生」は「わが浄土に…」です。

阿弥陀仏が直接誓われたのは、
「信楽を獲た人に当益を与える」です。
そして、この本願が成就したことにより、
「信楽を獲た瞬間に、当益が保障される」というシステムができあがりました。
そして「当益が保障される」のは現世においてですから、
「当益が保障されること(入正定聚)」を「現益」と定義したわけです。ゆえに、
「信楽を獲た一念で、現益が獲られる」ことになったのであり、それを釈尊は成就文に、
「信心歓喜乃至一念…即得往生住不退転」と説かれたわけです。
ですから、本願が成就した現段階においては、本願の内容は
「信楽を獲た人に現当二益を与える」だと見なしても差し支えありません。
(実際、親鸞聖人は現益の意味を補って本願文を解釈されています。)

このように、当益である「若不生者」から副産物として現益が派生したのは確かです。
だからといって、
「「若不生者」を親鸞聖人が現益と解釈された」とまで言うのは言いすぎだと思います。
(当益と解釈されたからこそ現益が派生したのであって、その逆はありえません。)

いずれにせよ、これらのことは全て、「信楽を獲れば」という前提の上での話であって、
「信楽を獲させる」とはどこにも誓われていません。
もちろん、四十八願が成就した時から今もなお、
【光明】を十方衆生に降り注いでくださっていて、
信楽を獲させよう(名号を受け取らせよう)と働きかけておられるのは事実です。




まあ、この問題はこのブログでも述べていることなのですが、
論拠もしっかりして、わっかりやすい解説ですので最後に挙げておきますね~(苦笑)。


653 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:00:34 ID:eu09B6u2
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に極楽に生まれること」』
> これと
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に必ず
> 極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」』
> この2つには区別が立つというのが本稿での主張です。

> 後者の表現の場合、この「生」は極楽ではなく、

いや、あくまで「生」を「極楽に生まれる」と解釈するからこそ、
前者から後者の意味が派生するのです。

>「死んでから後に必ず極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」とは
> 法の深信で、機の深信の同時に立たない二種一具の深信はないのだから、
> 正にこれこそが、「信楽」の一心の相状を顕すのです。

そもそも「信楽を獲た人は」という大前提があるのを忘れています。
この人の主張によれば、本願の内容は
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
となります。これでは同義語反復であって、何も誓われていないのと同じことになります。

本願の内容はあくまで
「信楽を獲た人を極楽に生まれさせる」
です。(親鸞聖人自身が、あちこちで何度も仰っていますから間違いありません。)
そして、この意味から
「信楽を獲た人は極楽往生が確定する」
という意味が派生し、さらに「極楽往生が確定する」ことを「不体失往生」と定義することにより、
「信楽を獲た人は、その一念で不体失往生する」
という意味も出てきます。(実際、成就文はそういう内容になっています。)
ですから、本願文を深読みすれば、ここまでの意味を導くのはセ-フです。


656 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:13:05 ID:eu09B6u2
>>653の続き

しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、
あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
という同義語反復になってしまいます。
ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。



658 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:28:21 ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。

なお、田中氏は「即得往生」に該当する箇所を本願文では「至心信楽」だと言いましたが、
それは時間的に同じ部分はそこしかないという意味で言ったのだと拝察します。
実際、田中氏は、「即得往生」と「至心信楽」が「同じ意味だ」という言い方はどこにもしていません。




ちび●君の墓穴で、いろいろわかってよかったね

「どこに「死後」って書いてあるの?」→ちび●ボコボコ!!(再掲)

これもついでに再掲載しておきます。
「来週」はまだ来てないけど(苦笑)。


山田さんが「無視」し続けている『尊号真像銘文』に、
代わりにちび●さんが、コメントしてくれてました。

↓↓↓

379 名前:ちび丸:2008/07/11(金) 15:46:13 ID:nvyQRXVb
>まじめな話、ちび丸さんのせいでご縁の遠のいた学徒がいるのでいい加減にしてほしいです。

ではアンチ諸君に歓迎されてるということなので書き込みを続けます。

再掲
>『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。
このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、
仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

死後の報土往生は当然。誰も否定してない。
現益と当益の関係を聞いてるんだよ。

これのどこに「死後」って書いてあるの?
お答え願えますか?

これに関しては「書いてないから根拠にならない」ということで決定しました。
以後話しを蒸し返さないでください。

380 名前:ちび丸:2008/07/11(金) 15:49:21 ID:nvyQRXVb
「現益」をあげて「難思議往生」と言われているところは多い。

また『論』にいはく、「〈荘厳清浄功徳成就は、偈に
《観彼世界相 勝過三界道》とのたまへるがゆゑに〉と。これいかんぞ不思議なる
や。凡夫人の煩悩成就せるあつて、またかの浄土に生を得るに、三界の繋業
畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃の分を得。いづくんぞ
思議すべきや」。
 この阿弥陀如来の往相回向の選択本願をみたてまつるなり。これを難思
議往生と申す。これをこころえて、他力には義なきを義とすとしるべし。

如来の二種の回向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚
の位に住するがゆゑに他力と申すなり。しかれば、『無量寿経優婆提舎願生
偈』にいはく、「いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずし
て、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たま
へるがゆゑに」とのたまへり。
 これは『大無量寿経』の宗致としたまへり。これを難思議往生と申すなり。
(浄土三経往生文類)

現益をあげて難思議往生と言われていることも確認しておいてください。
ではまた来週。





総攻撃を受けてボコボコにされて、
「来週」は未だに来てませんけど(笑)。

↓↓↓

393 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 19:17:09 ID:7w5a+IHU
>>379

>これのどこに「死後」って書いてあるの

「死後」という語が書いてあるかどうかを尋ねるのはナンセンス。
だって与えられたご文には「死後」って語が出てこないのは明白なのだから。

要は、ちび丸氏は、「このご文は彼土滅度という意味に解することができるの?」
という意味で尋ねている、ということになる。

>『このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、
仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

命題「(現在において)至心信楽をえたるひとが、わが浄土にもしうまれなかったならば
仏にならじとちかいたまえる」
 つまり、「人が至心信楽を獲る(現生正定聚)→わが浄土に生まれる(彼土滅度)」
という現当二益が説かれていると解すべき。

この浄土は彼土滅度、つまり当益(ちび丸氏のことばでいえば「死後」)
を意味すると理解するべきであって、両者を現益と理解することは文脈的に無理。


394 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 19:33:08 ID:7w5a+IHU
>>393
続き

「この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず、待ちまいらせ候べし」(末灯鈔十二)

今はどうか知らないが、以前は、末灯鈔十二における「浄土」は彼土滅度のことを
意味すると、親鸞会では解釈していたはず。
因みに「定めて先立ちて往生し候わんずれば」は必至滅度の願を意識して書かれたのは
明白であり、彼土滅度の当益を意味する。

蓮如上人でいえば、「このこころは」以下は、ほとんど下記と同義になる。
「問うていわく、正定と滅度とは、一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。
答えていわく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもうべきものなり。 」
『御文章』二ノ四通

存覚師の『六要鈔』にも、
「問、定聚。滅度是二益歟、又一益歟。答、是二益也。」 とあり、
真宗では此土において滅度の果を証得するとは解しない。

396 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 21:53:42 ID:gLkvGm/1
そもそもなんで現益がでてくるのかと言えば、
信楽をえたら、摂取してはなさないからだよな
若不生者と誓ってるから。
だから、死後往生すると誓われたことについて
その前の段階として、往生するに定まった状態が生じてくるわけ。
これを正定聚の位に住すと言って、不退転に住すとも、即得往生とも言う。
当益がないと現益が出てこないのよ。

なのに親鸞会は、現益ということがないと当益がでてこないという顛倒した論理を唱えている。
アニメが得にそう。
生まれるということについて、
「死んだら助けるということはありえない」
だから、生まれるということは今世からのことであるっていうすり替えを行っている。

助けるっていう状態がなんなのかっていうと現世での小さな苦しみからの解放ではないよね
生死の苦しみからの解放なのに、
現世利益と同列に問題を論じるから、現益から当益への逆転が生まれる。
まるで、今世おもしろおかしく暮らせれば、来世も安泰だという思考をしている。
しかし、今が明るいからと言って、死も明るくなるとは限らない。

後生の一大事とは、流転への不安だし、死ぬことへの不安。
広義には、解決しなければ生きていても意味がないと思えるものの解決のことでもある。
そういう問題に対して、もし自分で解決することができない人が
来世の生が明るくなると誓ってくださる方に出会えば喜ぶ
来世極楽に生まれると信じて、死の問題を明るくするから、今世も明るくなる。
それは自明の論理であって証明はいらない。


399 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 22:49:36 ID:gLkvGm/1
当益がでてくれば、現益は必ずある。
二益と言われるから。
だから、逆説的に現益がない人間は、当益もないと判断できるわけ。
つまり、それはあなた、阿弥陀仏の死後往生を実は信じていないよ?と言われているわけです。
疑情が晴れないから、現益がでてこない。

しかし、現益欲しさに阿弥陀仏を拝んでる人がいればそれはちがう。
現益を解決すれば、死後がはっきりとするという人がいればそれはちがう。

「死んだら助ける」ということではない。
「死ぬまで助かるかどうか分からない」ということがないのです。
なぜなら、真実の信心は、破れることがないのだから
弥陀の言葉を疑うことがない、助かるに決まっているといただくからです。


402 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 00:30:27 ID:xF5TMITZ
至心信楽は現益ではないよ
信心うるから、現益、当益にあずかる

親鸞会の人は信心決定(=信心が一つに定まること=弥陀の真実信心をいただくこと)と
信心によって往生が決定すること(=正定聚に入ること=即得往生)
をごっちゃにしている人多いかもね。

なんせ人生の目的が信心決定だからねw
弥陀が聞いてくれと頭下げてるのに
財施すれば間に合うと思う心を捨てるには徹底的に財施するしかないという会の論理に動員されて
自分の信心をどうにかして、決定させようと日夜努力しているんだろうね。
そういう人には往生ということが分からなくてもしかたないかも
死後がハッキリすると言われ、信心決定したらそういう世界が開けるんだから
今は考えないでおこうと思っているんじゃないかしら
往生のぬけた信心をめざしているから、よく分からない信心というものにふりまわされているんじゃない?


409 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:29:17 ID:xF5TMITZ
まとめ

不体失往生て往生が決定している状態のことでしょ。ということは現益だよねぇ

なら、若不生者で現益「往生定まる位に生ぜずば」を誓われるのは
信楽を獲た衆生に対してのみということなら、問題はないことになるね。十劫安心にはならない。
でも、当益が前提でなければ現益もくずれる。
なぜなら、現益は、当益を約束された本願文を信じた人の心(信楽)が死を前にしても崩れないことを表しているから。
そういう意味では、当益に生まれるという意味でだけでうけとってても、現益がないとはならない。
祖師は本願文を死後だけの意味にしてて、成就文で現益を顕彰している。
宗学的に現益の根拠とするには弱いのでは?
でも異端でもない。

また若不生者で「信楽生ぜずば」と誓われるのは
信楽を獲た衆生に対して二度手間であり、意味不明。
さらに信楽を今えていない衆生がいれば正覚をえている事実に反している。
これこそ十劫安心と言える。
また、至心信楽には信楽をうけとりなさいという意味があると宗祖は説いてるので、
ここで信楽を与えると弥陀が約束していると言える。
でも、ちび丸の根拠によれば、三信生せずばという相伝があるらしいから、
これもひとりよがりの異端解釈とはいえなさそう。


410 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:30:41 ID:WAfdhZt6
>>396
> そもそもなんで現益がでてくるのかと言えば、
> 信楽をえたら、摂取してはなさないからだよな
> 若不生者と誓ってるから。
> だから、死後往生すると誓われたことについて
> その前の段階として、往生するに定まった状態が生じてくるわけ。
> これを正定聚の位に住すと言って、不退転に住すとも、即得往生とも言う。
> 当益がないと現益が出てこないのよ。

>>402
> 至心信楽は現益ではないよ
> 信心うるから、現益、当益にあずかる

以上2つの発言に激しく同意。

つまり、尊号真像銘文のお言葉の通り、本願文に誓われているのは、
「信心(信楽)を獲た人に当益を与える」が根本的な意味であり、そこから、
「信心を獲た時、現益(入正定聚)を獲る」という意味も派生し、実際、
尊号真像銘文で親鸞聖人はその意味も補って本願文を解釈されている。

411 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:44:50 ID:WAfdhZt6
>>410
では、その「信心(信楽)」を獲させることまでも、
第18願文に誓われているかというと「NO」である。
48願は全て十劫の昔に成就して、それ故、法蔵菩薩は阿弥陀仏と成られたのだから、
もし、信心を獲させることまでも第18願文に誓われているなら、
十劫の昔に十方衆生は信心獲得したはずであり、十劫安心を肯定することになってしまう。

以上のことを踏まえた上で、再度 >>231(私のカキコ)を読んで頂きたい。
これで完全に筋が通ります。

412 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 03:15:01 ID:WAfdhZt6
>>231より再掲
----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

ただし、上のお言葉の直後に親鸞聖人は
「凡夫自力のこころにはあらず。」と仰っています。
つまり、自力で起こす信心ではないが、第18願で「与える」と誓われたわけでもない
というのが実状です。
要するに「自力の信心」も「十劫安心」も共に間違いです。
では真実はどうかというと、それを明らかにされたのが善導大師の「両重の因縁」です。

http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/2008_625_0047_a8bd.html
------------------------------------
両重の因縁とは、

(因)名号(法体成就の機法一体)
(縁)光明(調熟の光明+破闇の光明)
(果)信心

(因)信心
(縁)名号(信念冥合の機法一体)
   +光明(摂護の光明)
(果)極楽往生

このような関係になっています。
------------------------------------
これは親鸞会の教学解説書にあった内容をどなたかが載せて下さったものですが、
これについては、全く問題ありません。

413 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 03:29:53 ID:WAfdhZt6
なお、名号は第17願で誓われ(その内容を第18願で誓われ)、
光明は第12願で誓われています。

48願がセットになっていて、それらが全て成就したことによって、
十方衆生を成仏まで導くシステムが完成したのです。
その内容を全て第18願に無理に収めようとするから話がおかしくなるのです。


415 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 04:03:55 ID:WAfdhZt6
>>380
ひょっとして、
「煩悩を断ぜずして涅槃の分を得」=難思議往生、
「正定聚の位に住する」=難思議往生、
と仰りたいのでしょうか?
あなたがイコールで結び付けたいと思っている言葉がたまたま近くにあるのは事実ですが、
かなり強引で無理のある解釈(要するに「思想先行型」)ではないでしょうか?

そもそも、『浄土三経往生文類』は、
「双樹林下往生」と「難思往生」がともに化土往生であることと対比して、
「難思議往生」の特長を明らかにされた文章ですから、
むしろ報土往生のことを言われているはずです。
三願転入のお言葉でも「難思議往生を【遂げんと欲す】」ですから、
親鸞聖人は「選択の願海に転入」した時点ではまだ「難思議往生」を遂げておられません。

ツッコミ番外編(2)某ちゃんねるより

某ちゃんねるより

272 :デカ丸:2009/01/27(火) 12:58:25 ID:O2kZwcAX
埋もれそうだからあげとくね。


>親鸞会では往生のために難行であるところの六度万行の実践を勧めているんですよね?

えー。法然上人のお話じゃなかったんですか?
親鸞会でどう教えられてるか知りませんよ。

>>262
>>264

これは何の根拠なんですか?

日本語読めるんなら以下の法然上人のお言葉を訳してみてください。
「心のおよばん程はつみをもおそれ、『善にもすすむべき事』とこそは心えられたれ。」とは
どういう意味か御教示願います。


「いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。

されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、善の三業をば真実心の中になすべし」

とこそは釈し給ひたれ。

又「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、

心のおよばん程はつみをもおそれ、『善にもすすむべき事』とこそは心えられたれ。」(浄土宗略抄)

あ~ん?(苦笑)

親●会が、往生のために金集め&人集めを勧めている根拠として、
法然上人の言葉を挙げてるみたいだけど、
実際に法然上人の言葉を見てみると。。
 ↓

●いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、善の三業をば真実心の中になすべし」 とこそは釈し給ひたれ。
また「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、 心のおよばん程はつみをもおそれ、「善にもすすむべき事」とこそは心えられたれ。
ただ弥陀の本誓の誓願をも嫌わぬ名号を称うれば必ず迎えたまうと信じ、名号の功徳のいかなる過をも除滅して一念十念も必ず往生を得る亊のめでたき事を、深く信じて疑う心もなかれという意なり。『浄土宗略抄』


やっぱりいつもの如く、
都合の悪い部分は意図的に削除されてるのよね(苦笑)。

★わざわざ悪いことはすんなよ!
★阿弥陀仏の本願に基づく名号の功徳を信じろ!

ということを言っている文章なのに、
これがどうして金集め&人集めの根拠になりますねん(苦笑)。

インチキ論客は、相手の根拠を読み直すと、
それだけで反論になるから、ほんま楽勝ですわ(苦笑)。

ツッコミ番外編(1)2009.01.25.教学講議より

最近メル友になった方から、メールを頂きました。
 ↓↓

こんばんは。

昨日の教学講義より、T氏の発言録です。ぜひBlogで突っ込んで下さい(笑)

本願成就文はよく願成就と言われます。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の書かれたものの中に、よく願成就と出て来ます。これは本願成就文のことです。これがわからないと読めませんから、よく知ってもらいたいと思います。


阿弥陀仏の十一願の、「国中の人天」は、それだけではこの世か極楽の人かわからない。十一願成就文によって、現世この世の人、娑婆の人のことだとわかる。

十一願成就文より
彼の仏国には邪定聚、不定聚はいない、この世にしかいないのです。

怪しい発言だけですが、よろしくお願いします。



了解です!!ボコボコいきます!!(笑)
 ↓↓

> 本願成就文はよく願成就と言われます。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の書かれたものの中に、よく願成就と出て来ます。これは本願成就文のことです。これがわからないと読めませんから、よく知ってもらいたいと思います。

あ~ん?(苦笑)

>>横超(=弥陀の本願)=願成就(=願成就文)??
  ↑
これが、親●会でしか通容しない超局地的なドグマで、
これに基づく親●会ドグマには、


73,『教行信証』信巻において親鸞聖人が「横超」と仰っているのは、「本願力によって、仏のさとりを開くこと」という意味であり、「信楽にしてみせる」という意味がないことは明白である。

74,さらに「横超」(本願力によって、仏のさとりを開くこと)が、本願成就文とイコールだとすると、「本願成就文には、死後のことは一切説かれていない」という親●会ドグマが間違いということになってしまう。

75,したがって、【横超(=弥陀の本願)=願成就(=願成就文)】という主張は、親鸞聖人の教えとは全く関係のない、チ●ーリップ企画(=親●会)に限定されたヘンテコドグマである。
 ↑
こんだけの、問題が出てくるっちゅうことを、
学生さんが児●さんに教えてあげたわけですけど、
児●さんは、T先生に教えてないんかいな?(苦笑)。

ホンマニ親鸞聖人の教えに従う気があるなら、
T先生にもちゃんと教えてあげるっちゅうのが、
児●さんの役目じゃないかと思いますけどね?(苦笑)





> 阿弥陀仏の十一願の、「国中の人天」は、それだけではこの世か極楽の人かわからない。十一願成就文によって、現世この世の人、娑婆の人のことだとわかる。
>
> 十一願成就文より
> 彼の仏国には邪定聚、不定聚はいない、この世にしかいないのです。

\( ̄ー ̄#)なんでやねん!

へ~。

●それ衆生ありて、かの国に生るれば、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑんはいかん。かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。『無量寿経』第十一願成就の文

というように、「極楽には邪定聚が不定聚がいない」と成就文に書かれているから、

●たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。『無量寿経』第十一願、必至滅度の願文

この「国のうちの人」を「現世この世の人、娑婆の人のこと」と解釈しちゃうんだ~?

それちょっと、キツイんじゃね?(苦笑)

●浄土文類聚鈔
証といふは、すなはち利他円満の妙果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づけ、また往相証果の願と名づくべし。すなはちこれ清浄真実・至極畢竟無生なり。
無上涅槃の願(第十一願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「それ衆生ありてかの国に生ずるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん、かの仏国中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり」と。
 またのたまはく(同・上)、「ただ余方に因順するがゆゑに、人・天の名あり。顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と。


釈尊は、極楽には「人・天」という名称はあるけど、
その「人・天」は、「顔貌端正にして超世希有なり」で、
「容色微妙にして、天にあらず人にあらず」で、
「みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と仰っていて、
親鸞聖人も、それを受けておられるわけやけど、

『無量寿経』も親鸞聖人の言葉も読んでないから、

「極楽には「邪定聚、不定聚」がいないのに、
 「人・天」とあるからこの世のことなんだ~!」

と思っちゃったんでしょうね~(苦笑)。



====エエ加減にせえや!!====
親鸞会教義の相対化・73より
一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。
====エエ加減にせえや!!====

何度も言うけど、蓮如上人が、
「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」
「自分勝手な解釈をすることは決してしてはならない」
と教えてくださっているんだから、
「浄土真宗」を名乗るなら、その通りにしてちょうだいね。

もしもそうでないなら、
「浄土真宗」とか詐称せんといてや(苦笑)。



追記1

メル友が以下の文を追記してくれたんだけど、
 ↓↓
>親鸞聖人は教行信証に、十一願成就文の 生まるれば を 生まるるに と書かれていて、 生まるる、は未だ生まれてないという事だから、国は娑婆になるというような事も出て来ていました。

これってどこに書いてあるんでしょうね~?
『教行信証』読んだんですけど、どこにも書いてないんですけど。。

知ってる人だれか教えて!!


追記2

メル友が更にメールくれました。
 ↓↓

苦笑さんへ

講義録を確認せず、慌ててメールしたため、少し訂正して送り直します。

親鸞聖人までは、彼の国に生まるれば、と読まれていた。

親鸞聖人は、彼の国に生まるる者は と読まれた。(法蔵館の真宗聖典、教行信証証巻には、こう出ていました)

生まるる は、文法上、未だ極楽に生まれていない、これから生まれる、という意味になるから、国中の人天の国は娑婆のことを指す。

というような内容でした。ただ、前回の文章は、約9割発言通り、今回の文章は、講義中の発言をまとめた形になります。(集中力が持たなかったためです)

今回と前回のメールは、一人でも多くの会員に目を覚ましてもらうため苦笑さんにツッコミをお願いしました。

前回の内容だと、私の言葉足らずで苦笑さんが付け込まれてしまうと思いまして、メールしましたので、追記の判断はおまかせします。



う~ん。

>生まるる は、文法上、未だ極楽に生まれていない、これから生まれる、という意味になるから、国中の人天の国は娑婆のことを指す。
 ↑
こんな文法ってあるの?
古典文法の専門家じゃないからあんまり自信ないけど、

「生まるる者」・・「生まるる」(ら行下二段活用「生まる」の連体形)+「者」(名詞=体言)

だよね?

それに、オイラの手元にある西本願寺の『浄土真宗聖典第二版』では、
「生まるれば」になってるんだよね~(p.308)。

まあ、『教行信証』の現物を見てないので断言はできないけど、
校訂本としては新しいものを使うのが定石なんじゃないかな。

いずれにしても、文法上も『浄土文類聚鈔』との関係から考えても、
この「法蔵館の真宗聖典の読み」を根拠にした、
T先生の解釈を支持することはできないと思いますな。


追記3

さっきわかったんだけど、親鸞聖人は『教行信証』の証巻で、

●「かの国の衆生、もし【まさに生れんもの】、みなことごとく無上菩提を究竟し、涅槃の処に到らしめん。なにをもつてのゆゑに。もし邪定聚および不定聚は、かの因を建立せることを了知することあたはざるがゆゑなり」『如来会』(『無量寿経』の異訳)
 ↑
これを引用しているんだけど、

この「まさに生れんもの」の「生まれん」は、

「生まれ」(ら行下二段活用「生まる」の未然形)+「ん」(推量の助動詞「む」の連体形)+「者」(名詞=体言)

なわけで、「生まれるであろう者」と訳せるんだよね。

そして、その「まさに生まれるであろう者」は、
「まだ浄土に往生してない者」だけど「間違いなく浄土に往生する者」で、
浄土に往生したら、
「みなことごとく無上菩提を究竟し」「涅槃の処に到る」わけですわ。

そんでもって、「邪定聚および不定聚」は、
「かの因を建立せることを了知することあたはざる」
つまり、阿弥陀仏が浄土に往生するためのシステムを作ってくれたということを、
明らかに知ってないもんだから、
「間違いなく浄土に往生する者」じゃないっちゅうことなんですよ~。

というわけで、

★『無量寿経』十一願の【国のうちの人・天】は、極楽浄土で「自然虚無の身、無極の体を受けた」者
★『如来会』成就文の【まさに生れんもの】は、「まだ浄土に往生してない者」だけど「間違いなく浄土に往生する者」で、浄土に往生したら「みなことごとく無上菩提を究竟し」「涅槃の処に到る」者

ということになるんですね~。

ちなみに本●寺で出している『教行信証』の現代語訳でも、
ちゃんと、そんな感じに訳してます(p.332)。
流石やね~!

いや~勉強になった♪
T先生の解釈は違ってたみたいだけど(苦笑)。

ツッコミ!【第35回】「信楽」になる「本願文」の根拠

第35回が更新されました。
 ↓ ↓ ↓
【第35回】「信楽」になる「本願文」の根拠

今日も復習からいくよ~。
まずは、以下の記事を各自三回づつ読んでね。
 ↓↓↓

★「信楽の身」になるための働き
★阿弥陀仏のマニフェストが四十八項目あるって知ってる??

特に今回はこれが大事だから、これは更に二回読んでね。
 ↓↓↓

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
355 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/12(土) 12:39:48 ID:YYE+p5fC
>>350
現益も本願力(願力自然)でいただくのは、その通りです。
「現益をいただく」=「名号をいただく」です。
名号を与える働きが「光明」です。
光明無量を誓われたのが第十二願です。
ですから、「第十二願力によって名号が与えられ、現益が獲られる」という言い方もできます。
また、「三願転入で、第十八願の世界=当益が確約された世界=現益が獲られる」
という言い方もできます。(この場合、第十九願力と第二十願力で現益をいただく、
ということになります。)
つまり、「本願力」=「四十八願全体の力」と考えるのが自然であり、
なにも「第十八願力」に限ったことではありませんし、まして
「本願力」=「若不生者の念力」などど勝手な造語と結び付けるのは単なるこじつけです。
「本願力」=「四十八願全体の力」という意味で言うなら、
現益も当益も本願力でいただくというのは、まさしくその通りです。


376 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/12(土) 13:44:11 ID:YYE+p5fC
第十八願が四十八願の一番のメインであるのは確かですが、
本願力(阿弥陀仏のお力)を「第十八願力」に限定し、さらにそれを
「若不生者の願力」と勝手に言い換え、それを根拠に
「若不生者には現益の意味もある」と主張したい気持ちはよく分かりますが、
かなり論理に飛躍があり、やはり「初めに結論ありき」の「こじつけ」でしかないと感じます。
もっと明確に「若不生者には現益の意味もある」と仰った親鸞聖人のお言葉を
出してみなさいよ。明確に当益で解釈されたお言葉は複数あるのに、
それと同じくらい明確に現益で解釈されたお言葉が一つも出せないというのは
やっぱりおかしいですよ。

あと、素朴な疑問ですが、「若不生者」の「生」に
「信楽に生まれる」と「報土に生まれる」の2つの意味がもしあるなら、
それを補った上で、本願文をどのように書き下して読むのですか?

602 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/18(金) 21:09:37 ID:HA1V4xsT
本願文は「…欲生我国(乃至十念)若不生者…」ですから、
普通に読めば「若不生【我国】者」のはずです。つまり当益です。
成就文も「…願生彼国 即得往生…」ですから、
普通に読めば「即得往生【彼国】」のはずであり、「往生」の部分はやはり当益です。
この意味で、本願文と成就文はちゃんと対応していますよ。
しかし、当益を約束する本願が成就した結果、
名号を頂いた平生の一念ですぐに「彼国に往生できるという確約(保障)」が「得られる」のですから、
それはもう「往生したも同然」という意味で、
そのことを親鸞聖人が大胆に「不体失往生」と名付けたのではないでしょうか?
つまり、「当益を得ることが保障された状態になること」が現益なのですから、
当益と現益とは相反するものではありません。
(もちろん親鸞聖人は「背師自立」ではありません。)
おそらくこのような背景があって、親鸞聖人は「即得往生」を現益で解釈されたのだろうと
拝察されます。
しかし、その親鸞聖人が「若不生者」までも現益に読み替えられたお言葉は見つかりません。
(理由はともかく、この事実をまずは謙虚に厳粛に受け止めるべきです。)
成就文は本願が成就したという前提がある故に現益に読み替えることが可能だったのでしょうが、
もし本願の「若不生者」までも現益に読み替えてしまったら、
究極の目的である当益がどこにも誓われていないことになり、その結果、
「現益」もなくなり、「無益」になってしまうんです。
「現当ニ益」の教えの「本」は本願であることを忘れてはなりません。


605 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/18(金) 21:28:18 ID:HA1V4xsT
(602のつづき)
ただし、本願が成就したという前提の上で、成就文の立場から再び本願文を眺めれば、
「若不生者」も現益で「味わう」ことができるのかもしれません。
実際、大沼氏はそのように味わいました。
しかし、それはあくまで当益が本義であることを十分に踏まえた上でのことです。
ところが、高森氏は、その大沼氏の「味わい」を本義だと思い込み、
逆に、当益で解釈するのを「間違いだ」と主張し、
アニメでも親鸞聖人自身にそう言わせています。
これでは本末転倒でしょう。
「大沼氏のパクリ損ない」と言われる所以です。
(もっとも、田中氏から、親鸞聖人が当益で解釈された根拠を突き付けられた結果、
当益で解釈するのを「間違いだ」という主張は撤回し、
「現益と当益の2通りの意味がある」という主張に修正しましたが…。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

結局、高●先生個人の「味わい」を硬直してドグマ化するから、
「味わい」に合わせて聖教を、
「初めに結論ありき」の「こじつけ」で、
強引に読まなアカンようになるのよね(苦笑)。


とりあえず、何をぐちゃぐちゃ言っても、

★本願文=本願成就文
★「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」
★「信楽」=「正定聚・不退転」

これらの主張は根拠に基づか(け)ない、
親●会でしか通じないヘンテコドグマですわね(苦笑)。



さて、以上を踏まえてこいつを読んでやってくださいね~。
 ↓

この論戦の争点は、一貫している。
私達を「信楽」にするのは、「何の力」か、ただ一つである。

あ~ん?(苦笑)

【第1回】論戦の発端

共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。

 ↑
このように言ってたのはどこの誰でしたかね(苦笑)。

ぶっちゃけ、ボロボロなことがわかっているから、
論点スライドしようとしてるんだよね?(苦笑)

その魂胆は、田中さんにも見破られていたわけだけど、
 ↓

~~2008 7/1(火) 23:19 田中さんのメール~~
 信楽をえさせるのは、何方のどんなお力かとお尋ねですが、阿弥陀仏の調熟・破闇光明の働きです。
 
 この程度のことも、ご存知ないのでしょうか?
 
 本題と関係ないことを、質問しないで頂きたく思います。
~~2008 7/1(火) 23:19 田中さんのメール~~

ほとぼりが冷めたと思っているわけ?(苦笑)
全く呆れたもんですな(苦笑)。


というわけで、

76,流石にこのままだと法論に敗北することがわかってきたので、それまで【共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。】と言っていたのに、【この論戦の争点は、一貫している。
私達を「信楽」にするのは、「何の力」か、ただ一つである。】と露骨な論点スライドを行っている。


77,そのような論点スライドが不当なことは既に田中氏によって指摘されている。しかし田中氏からの反論がないことをいいことに、平気で露骨な論点スライドを行っている。


それについての田中氏の見解は、こうである。

◆平成20年1月14日のメール
私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありません。

「信楽が生まれる」のは「弥陀の本願力」によることを、認めておられる。
ところが、同じ田中氏が、次のようにも言われるのである。

◆平成20年2月2日のメール
「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。

「信楽が生まれる」根拠は、「弥陀の本願文にない」、との断言である。
こうも言われている。

◆平成20年2月8日のメール
(「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、)私は「本願文での根拠」は知りません。

本願の肝要をお尋ねしているのに、「本願文での根拠は知りません」。

これが田中氏の、「本願」の領解なのである。

「信楽にする」と誓われていない本願に、どうして我々を「信楽にする」力があろうか。
「根拠を知らない」田中氏が、どうして「『信楽が生まれる』のは『弥陀の本願力』による」と、明言できたのだろうか。

先の「平成20年2月2日のメール」では、

だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

と、田中氏は続けられる。では尋ねたい。
弥陀が「本願文」に誓われていないことを、釈迦は「成就文」に説かれた、とでも言われるのだろうか。釈迦が説かれたことは、「本願文」に「根拠のない」ことなのだろうか。そんな「成就文」を、親鸞聖人が「横超とは即ち願成就」とか、「一実円満の真教真宗」と仰る筈がないではないか。

この点を糾したのが、当方の次の質問である。
◇平成20年6月29日
貴方は、平成20年2月2日のメールで、
『「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「本願文」には明示されておりません』
と言われています。
「本願文に明示されていない」と言うことは、弥陀が説かれていないと言うことですか。弥陀が説かれてないことを、釈迦は説かれたのですか。

これも、未だにお答え頂いていない。
「本願文」と「成就文」の関係を、正しく知られないからであろう。

弥陀が「本願文」に「若不生者」と明示されている「生」の願意を、「死後ではない、現在、信楽に生まれさせる」「不体失往生」と、鮮明に説かれたのが、釈迦の「成就文」であり、親鸞聖人なのである。

はいはい(苦笑)。

★本願文=本願成就文
★「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」
★「信楽」=「正定聚・不退転」

これらの主張が、根拠に基づか(け)ない、
親●会でしか通じない「ヘンテコドグマ」なことが、
よいこのみんなにはバレバレなわけですが、

こんな「ヘンテコドグマ」を前提に、
何をぐちゃぐちゃ言ってもらっても、
そんなのは「ヘンテコ解説」以外の何者でもありまへんで(苦笑)。



論点スライド目的の記事にツッコムのは、
流石にめんどくさ過ぎるから、
もう繰り返さないけど、
今日の復習を読んでもらったら、
論点スライドしてもヘンテコドグマなのが
本当によ~わかりますわ(苦笑)。


というわけで、

78,【本願文=本願成就文】【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】【「信楽」=「正定聚・不退転」】という「ヘンテコドグマ」を前提に、「ヘンテコ解説」をおこなっているので、論点スライドした内容まで「ヘンテコドグマ」である。



はあ・・めんどくせえ(苦笑)。

宿題チェック!!【第34回】「若不生者」の『成就文』による解釈

ツッコミ!!【第34回】「若不生者」の『成就文』による解釈

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
※更にまた間違える!※またまた間違える!!※懲りずに間違える!
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。
※更にまた間違える!
※またまた間違える!!※懲りずに間違える!
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

21,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」という善知識の教えに抵触している。しかもそのことをチ●ーリップ企画(=親●会)が自分で論証してしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

22,古典文法&親鸞聖人の教えがわかっていないから、親鸞聖人の和讚をまともに解釈することができない。しかも文法上の誤りを指摘されても「間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と居直り、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」という蓮如上人の教えに反している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

23,「生るべからざるものを生れさせたれば」を現益に解釈しても当益に解釈しても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する根拠とはならない。しかし「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、そのことが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

24,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら「生まるべからざるもの」ならないという当然の論理的思考ができてない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

25,チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマに抵触しないように、『御文章』の文章を恣意的な形に省略して加工している。そのため「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」になるために、善知識が「弥陀の本願信ずべし」と教えられている部分も省略されている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

26,苦笑に詳細な解説をしてもらったにも関わらず、未だに「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を正確に理解していないため、田中氏が指摘する問題点の重大さが未だにわかっていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

27,「浄土真宗・親鸞聖人の教えは現当二益の法門であることは明々白々」ことを解説することによって、「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を理解していないチ●ーリップ企画(親●会)ドグマの誤りを自ら証明している。ただし「正定聚不退転の身(信楽)」という記述は、論拠に基づか(け)ないドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

28,「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」という「正信偈」の言葉を、「この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである」と訳し、勝手に「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という新しいドグマを捏造している。しかもこのドグマを根拠に自説の正しさを証明しようとしている。もちろん勝手に捏造したドグマは根拠にはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

29,「往生」と「成仏」の間に時間を介在しないとしても、両者は全く別の概念である。したがって、【十一願の「必至滅度の願」が成就しているから極楽浄土に往生した人が間違いなく成仏できる】ということが、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張が正しいことの根拠とはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

30,「等覚を成り大涅槃を証する」と、明らかに「死後のこと」が書かれている『教行信証』の一文を引用し、【『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても】という以前の自説が誤りであることを自ら証明していながら、自説の撤回も謝罪もない。あるいは「正信偈」が『教行信証』に収録されていることを知らないで引用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

31,サンスクリット文を読むように勧める進言を無視したため、「本願の解釈を誤る」という教義上致命的な誤りに気づけなかった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

32,ヘンテコドグマに矛盾しない、新たに捏造したヘンテコドグマを「親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方のご教示」と詐称する虚偽の発言をしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

33,田中氏が言っていないことを言ったかのように捏造している。更にそのことは既に論拠に基づき指摘されているにも関わらず、無視している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

34,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、親鸞聖人が時間軸上の別の時点に配置されている「この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり」と「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり」を、勝手に同時点に配置している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

35,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、「信楽すべしとすすめたまえる御ちかい」と親鸞聖人が解釈しているものを、【弥陀の正覚は「この世、信楽に生まれさせる」ことに懸けられている】と解釈している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

36,苦笑に詳細に解説してもらっているにも関わらず、「信楽」と「極楽浄土への往生」と「正定聚に入る益」の関係が未だにわかっておらず、「信楽」=「二種深信」がわかっていないので、親鸞聖人のお書きになられた『唯信鈔文意』を正確に読むことができていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

37,蓮如上人が、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」「自分勝手な解釈をすることは決してしてはならない」と教えられているのを無視して、自分勝手な解釈を行っている。それにも関わらず、その勝手な解釈に基づいて、親鸞聖人の言葉に基づいて語っている田中氏の解釈を批判するという暴挙を行っていることに気づいていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

38,田中氏の【チ●ーリップ企画(=親●会)の論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに真っ向から反する主張】を、【『成就文』に、真っ向から反する主張】というように虚偽の主張をしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

39,「信楽をえた」ことと「極楽に生まれる」ことが「不離の関係」であると断った上で、両者が異なった概念であるとしている田中氏の主張を、「不体失往生」と「体失往生」が「全く無関係の別物」であるかのように印象操作を行い、反論しやすい形に捏造した主張に対して反論するワラ人形論法を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

40,ドグマの都合に合わせて『教行信証』の言葉をヘンテコな形でカットして引用し新たなドグマを捏造し、それを親鸞聖人の言葉と詐称して使用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

41,ドグマの都合に合わせて『口伝鈔』の言葉をヘンテコな形でカットして引用し新たなドグマを捏造し、それを覚如上人の言葉と詐称して使用している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

42,【はたして「若不生者」と「信楽」は、全く関係ない、切り離せるものなのか。】という問題設定が不当であることは、既に、田中氏の言葉に基づいて指摘済みである。それにも関わらず、同じ発言を繰り返し捏造した田中氏の主張に反論し、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張のヘンテコさを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

43,田中氏のメールから【「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。】という言葉を意図的に省略して、田中氏の主張を反論しやすい形に捏造して議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

44,田中氏が親鸞聖人の言葉に基づいて自説を述べている部分を無視して、【「若不生者」から、密接不離な「信楽」を切り離して、「死んで極楽に生まれることだけ」と繰り返す】と田中氏の主張を繰り返し捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

45,宿題28で、チ●ーリップ企画(=親●会)が新しいドグマを捏造したことを突っ込んだが、これに関してチ●ーリップ企画(=親●会)は、「混乱や誤解は全くない」完全な「確信犯」であった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

46,何度も懇切丁寧なレクチャーを受けていながら、信楽と不体失往生、体失往生の関係がいまだにわかってないから、いまだに【この世で信楽に生まれる「不体失往生」】というヘンテコ主張に基づいてヘンテコ問題設定をして、ヘンテコ議論を懲りずに展開している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

47,親鸞聖人が「かならず定まりぬ」とお書きになられたのは、まだ極楽浄土に往生していないからである。また、「一念慶喜する」人が必ず極楽浄土に往生できるのは、阿弥陀仏が「若不生者不取正覚」と誓われているからだ、と解説されている。そのことが田中氏によって指摘されているにも関わらず、チ●ーリップ企画(=親●会)はその部分を意図的に削除し、田中氏の主張のみならず親鸞聖人の教えをも捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

48,間違って【高●先生が長年教えてこられてきた親●会ドグマに立って拝読すれば、】と書くべき部分に、【『成就文』の教導に立って拝読すれば、】と書いている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

49,チ●ーリップ企画(=親●会)が田中さんの主張を捏造し、捏造した見解に基づき、田中さんを批判していることは既に証明済みであるにも関わらず、反論(言い訳?)もなく同じ主著を壞れたテープレコーダの如く繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

50,チ●ーリップ企画(親●会)が、独自のヘンテコドグマを「親鸞聖人の教え」と詐称した結果、四十八項目のツッコミを入れられたにも関わらず、そのツッコミに一切解答しないまま、詐称行為を繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

51,チ●ーリップ企画(=親●会)が主張するように「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになるが、これは親鸞聖人の『尊号真像銘文』の記述に反するヘンテコドグマである。ということが既に田中氏に指摘されている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

52,捏造した田中氏の主張に反論することによって、親●会独自のドグマを親鸞聖人の教えであると印象付けようとしている。またチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、田中氏にボコボコに論破されていることを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

53,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

54,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマであるが、「かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず」という善導大師の『観経疏』所説の「二種深信」の記述に抵触する。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

55,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマであるが、「阿弥陀仏の本願」によって「すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」ことを明かにしている親鸞聖人の『教行信証』の記述にも抵触する。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

56,親●会では、「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」の「三十六文字」が、「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」の「十六文字」に言い換えて教えられているようだが、これも根拠に基づか(け)ない、独自のドグマである。しかもこのことは既に指摘済みである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

57,自分にとって都合の悪い田中氏や苦笑のツッコミも無視しながら、矛盾していない田中氏の主張に矛盾があるかのように虚偽の主張を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

58,親鸞聖人の教えに基づいて語る田中氏のメールから、故意に親鸞聖人の教えの部分を削除して田中氏の主張を捏造し、田中氏が間違っているかのように印象操作を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

59,チ●ーリップ企画のサイトには、過去のメールのやり取りも掲載され読者が読めるのにも関わらず、露骨な捏造行為を行うのは読者を愚弄する行為である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

60,親鸞聖人は『尊号真像銘文』において、「至心信楽」を「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、 「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」と解釈されている。しかし、その解釈はチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマにとって都合が悪いので、親鸞聖人の言葉を故意に削除した形に田中氏のメールを捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

61,証空上人の教義を全く知らないまま、証空上人の思想を語っているため、浄土真宗(それも覚如上人~蓮如上人の系列)に限定された「伝承」と理解すべき法論を「歴史的事実」として、間違った情報をまき散らしてしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

62,間違った情報を指摘してくれた相手に対して誠実に対応すべきにも関わらず、全く論証責任を果たさ(せ)ないままに間違った情報に基づいて相手の方を侮辱している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

63,「浄土宗を立てたのが、法然上人でなく、証空上人であると、間違っています」と十年以上も前に指摘されているにも関わらず、間違いを認めず恥知らずにも自分たちの著書にそれが指摘されたビラを紹介している。その間違いは未だに認めておらず、田中氏によって再び指摘されているが、全く間違いを改めようとしていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

64,親鸞聖人の言葉に基づいて「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることが証明されているのに、チ●ーリップ企画(=親●会)はあいかわらず【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】という親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマを主張している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

65,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであり、親鸞聖人は「信楽の者→正定聚」とお説きになられていることが証明されているのに、チ●ーリップ企画(=親●会)はあいかわらず「信楽=正定聚」という親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマを主張している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

66,チ●ーリップ企画(=親●会)は、かつて【「弥陀の若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽」に「生まれさせ」「極楽浄土」に「生まれさせる」というのが、親鸞聖人の教えです。】というヘンテコドグマを主張していたが、いつのまにか【「若不生者不取正覚」には「極楽浄土に生まれさせる」という意味は無い】というヘンテコドグマに変更されている。どちらもヘンテコドグマなのであるが、主張を変更したのだから、そのことをきちんと報告する義務がある。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

67,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作しようとしているチ●ーリップ企画(=親●会)は、覚如上人の『執持抄』をヘンテコな形で切り取って引用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

68,覚如上人の『執持抄』に書かれている「報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり」「報土にまさしく生るべき信心」「行者の往生浄土のねがひ」という言葉は、田中氏の主張を裏付けるものである。しかし、チ●ーリップ企画(=親●会)はこの部分は引用せず、この言葉に対する解釈を述べていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】

弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、【第20回】他



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

69,チ●ーリップ企画(=親●会)のヘンテコドグマが、親鸞聖人の言葉に抵触することが田中氏によって既に指摘されていることは明かである。(2008 1/8(火) 20:18 田中さんのメール)

70,しかしチ●ーリップ企画(=親●会)は、根拠となる親鸞聖人の言葉の部分を削除することによって、田中氏の主張を反論しやすい形に捏造し、捏造した意見に反論することによって、反論ができているかのような印象操作を行っている。

71,チ●ーリップ企画(=親●会)のヘンテコドグマの根拠としてあげた親鸞聖人の言葉が、全く根拠になっていないことは、既に田中氏によって証明されている。(2008 6/28(土) 20:40 田中さんのメール)

72,しかしチ●ーリップ企画(=親●会)は、根拠となる親鸞聖人の言葉の部分も田中氏の解説もほとんど全て削除することによって、田中氏の主張を反論しやすい形に捏造し、捏造した意見に反論することによって、反論ができているかのような印象操作を行っている。

73,『教行信証』信巻において親鸞聖人が「横超」と仰っているのは、「本願力によって、仏のさとりを開くこと」という意味であり、「信楽にしてみせる」という意味がないことは明白である。

74,さらに「横超」(本願力によって、仏のさとりを開くこと)が、本願成就文とイコールだとすると、「本願成就文には、死後のことは一切説かれていない」という親●会ドグマが間違いということになってしまう。

75,したがって、【横超(=弥陀の本願)=願成就(=願成就文)】という主張は、親鸞聖人の教えとは全く関係のない、チ●ーリップ企画(=親●会)に限定されたヘンテコドグマである。


こんだけツッコミが多くなるとは、
流石に予想できませんでしたね(苦笑)。

横超(=弥陀の本願)=願成就(=願成就文)??

援護射撃シリーズ第1弾は、やっぱこれだよね~。

まずは、児●さんが親●聖人より大切にしている、
チ●ーリップ企画様の解説~!
 ↓

親鸞聖人は、「本願」と「成就文」の関係を、「横超とは即ち願成就」(教行信証信巻)と言われている。「弥陀の『本願文』三十六字は、イコール釈迦の『成就文』四十字の教えである」と断言されているお言葉である。
「成就文」は「本願文」総ての解説であるからこそ、「即ち(イコール)」と言われ、「一実円満の真教」と讃嘆され、「真宗是れなり」〝浄土真宗は『成就文』の教え以外にない〟と明言されているのである。



つまり、

 ★横超(=弥陀の本願)=願成就(=願成就文)

というになりますね。はい。

でも、こ~んなヘンテコドグマを主張してるのって、親●会だけじゃない?(苦笑)

少なくとも親鸞聖人の『教行信証』からこんな解釈ができないことは、
既に僕もツッコミ済みですわ。
 ↓ ↓ ↓
~~ツッコミ!【第27回】田中氏の「往生」の誤解~~
●横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。『教行信証』信巻

ここに書かれている内容を簡単にまとめると、

【聖道門】【方便】「竪出」・・大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教
     【真実】「竪超」・・大乗真実の教
【浄土門】【方便】「横出」・・三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善
     【真実】「横超」・・願成就一実円満の真教、真宗

ということで、

【聖道門】【方便】である「竪出」、【聖道門】【真実】である「竪超」、
【浄土門】の中でも【方便】である「横出」、これらに対して、

【浄土門】【真実】である「横超」の教は、
阿弥陀仏の本願が成就してシステムが完成しているから、
そのシステムに乗じたら全ての衆生が救済されるということで、
「一実円満の真教」と言われていて、
それこそが「真宗これなり」ということを言ってるんでっせ~。


それをチ●ーリップ企画(=親●会)が解釈すると・・
 ↓ ↓ ↓
>「弥陀の『本願文』三十六字は、イコール釈迦の『成就文』四十字の教えである」と断言されているお言葉である。

・・苦笑・・

こりゃ『教行信証』を読んでないか、
読者を舐めてるかどっちかやね(苦笑)。

自分のドグマの都合に合わせて、
『教行信証』を変な所でカットして、
親鸞聖人が言っていない新しいドグマを作るの、
もうやめにしてくれまへんかね~?(苦笑)

田中さんの主張を捏造するにもヒドイけど、
親鸞聖人の言葉を捏造するのは、
ちょっとアカンでしょ?(苦笑)
~~ツッコミ!【第27回】田中氏の「往生」の誤解~~


そんでもって、チ●ーリップ企画ドグマどっぷりの児●さんも、
全く同じヘンテコドグマを主張して、学生さんにボコボコにされてます(苦笑)。
↓ ↓ ↓

若不生者の「生」は、なぜ「信楽に生まれる」なのか 18-2

児玉先生は、
「本願文36文字全体の解説が成就文である」という根拠に、

『横超とはすなわち願成就一実円満の真教真宗これなり』
のお言葉を出されました。

このお言葉について、児玉先生は、

1、横超=弥陀の本願
2、横超=本願成就文

この2つを主張されました。


まず1つ目の、「横超=弥陀の本願」については、

『二には横超、選択本願・真実報土・即得往生也。』
を根拠として出されました。

僕は、この文章だけでは、親鸞聖人が何を仰ろうとされたのか、断定することは出来ないと思ってます。

「横超」という単語の後に、「選択本願」「真実報土」「即得往生」の3つが並べられていますが、これらが「横超」とどのような関係にあるのか、これだけではハッキリしません。

ところが、児玉先生は「横超」の後に、「とは」という助詞を勝手に追加され、さらに「選択本願」の後に「なり」という助動詞も追加されました。

そして、「真実報土・即得往生」の二語を勝手に削除され、「横超とは選択本願なり」という、新しい言葉を作成されました。


ところが、児玉先生に習って、僕が「横超とは真実報土なり」「横超とは即得往生なり」という言葉を作ったところ、

> ★君は親鸞聖人のお言葉を自分の都合のよいように
>
> 勝ってに、書き換えてしまっています。

このように注意されます。
これは自己矛盾ではないでしょうか?


さらに、「横超=選択本願」だと仰るなら、当然「横超=真実報土」「横超=即得往生」も成り立つはずなのに、それを認めようとされないのは何故でしょうか?

これが成り立つなら「選択本願」=「真実報土」=「即得往生」となり、意味不明です。
だから、最初から「横超=選択本願」の解釈が間違いだと考えるのが自然なのです。

しかし、こんな議論を続けても話が進まないので、とりあえず「児玉先生を信じることにしますが」と書いただけで、到底納得できる話ではありません。


次に2つ目の、「横超=本願成就文」について、

「横超」の意味については、教行信証等を拝読すると、いくつかの意味があるように思いました。
しかし、一番スッキリとした解釈は、以下のものだと思います。

【唯信鈔文意】
この一心は横超の信心なり。
「横」は、よこさまという。
「超」はこえてという。
よろずの法にすぐれて、速にとく生死の大海をこえて、無上覚にいたる故に、「超」と申すなり。
これ即ち如来大悲の誓願力なるが故なり。

【尊号真像銘文】
「横超」というは、「横」は如来の願力・他力を申すなり、「超」は生死の大海を易くこえて無上大涅槃のみやこに入るなり。

【教行信証信巻】
大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の傾、速やかに疾く無上正真道を超証す、故に「横超」と曰うなり。


つまり、

横=阿弥陀仏の本願力によって、
超=仏のさとりを開くこと

ですから、
横超=「阿弥陀仏の本願力によって、仏のさとりを開くこと」になります。


もちろん、

阿弥陀仏の本願=「必ず仏にしてみせるという誓い」=横超

という意味で、本願=横超だ、と言われるなら理解できますが、どこにも「信楽にしてみせる」という意味は出てきません。


特に今回、問題になっているのは次の御文です。

【教行信証信巻】
「横超」とは、即ち願成就一実円満之真教・真宗是れなり。亦復「横出」有り、即ち三輩・九品・定散之教、化土・懈慢、迂廻之善なり。大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の傾、速やかに疾く無上正真道を超証す、故に「横超」と曰うなり。

「横超」に他の意味もあるかも知れませんが、ここで親鸞聖人が「横超」と仰っているのは、「本願力によって、仏のさとりを開くこと」という意味であることは明白だと思います。

この横超(本願力によって、仏のさとりを開くこと)が、本願成就文とイコールだとすると、「本願成就文には、死後のことは一切説かれていない」と親鸞会で教わってきたことが、間違いだということになります。



ははは(笑)。
児●さんのボケと学生さんのツッコミのおかげで、
チ●ーリップ企画(=親●会)宿題がまた増えましたな(笑)。
 ↓↓↓

73,『教行信証』信巻において親鸞聖人が「横超」と仰っているのは、「本願力によって、仏のさとりを開くこと」という意味であり、「信楽にしてみせる」という意味がないことは明白である。

74,さらに「横超」(本願力によって、仏のさとりを開くこと)が、本願成就文とイコールだとすると、「本願成就文には、死後のことは一切説かれていない」という親●会ドグマが間違いということになってしまう。

75,したがって、【横超(=弥陀の本願)=願成就(=願成就文)】という主張は、親鸞聖人の教えとは全く関係のない、チ●ーリップ企画(=親●会)に限定されたヘンテコドグマである。


さてさて。こんだけボコボコにされても、
親●会関係者のみなさまは、

★横超(=弥陀の本願)=願成就(=願成就文)
 ↑
この残念なヘンテコドグマを、
これからも主張し続けるんですか?(苦笑)

ツッコミ!!【第34回】「若不生者」の『成就文』による解釈

第34回が更新されました。
 ↓ ↓ ↓
【第34回】「若不生者」の『成就文』による解釈

今日も、復習からいくよん。
まず、この三つを三回ずつ読んでね♪
 ↓ ↓ ↓

★「若不生者」の「生」は、「極楽に生まれる」じゃなきゃだめ!!
★「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う
★「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)の関係

特に今日は、これを更にもう一回読んでおいてね~♪
 ↓

▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
653 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:00:34 ID:eu09B6u2
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に極楽に生まれること」』
> これと
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に必ず
> 極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」』
> この2つには区別が立つというのが本稿での主張です。

> 後者の表現の場合、この「生」は極楽ではなく、

いや、あくまで「生」を「極楽に生まれる」と解釈するからこそ、
前者から後者の意味が派生するのです。

>「死んでから後に必ず極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」とは
> 法の深信で、機の深信の同時に立たない二種一具の深信はないのだから、
> 正にこれこそが、「信楽」の一心の相状を顕すのです。

そもそも「信楽を獲た人は」という大前提があるのを忘れています。
この人の主張によれば、本願の内容は
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
となります。これでは同義語反復であって、何も誓われていないのと同じことになります。

本願の内容はあくまで
「信楽を獲た人を極楽に生まれさせる」
です。(親鸞聖人自身が、あちこちで何度も仰っていますから間違いありません。)
そして、この意味から
「信楽を獲た人は極楽往生が確定する」
という意味が派生し、さらに「極楽往生が確定する」ことを「不体失往生」と定義することにより、
「信楽を獲た人は、その一念で不体失往生する」
という意味も出てきます。(実際、成就文はそういう内容になっています。)
ですから、本願文を深読みすれば、ここまでの意味を導くのはセ-フです。


656 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:13:05 ID:eu09B6u2
>>653の続き

しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、
あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
という同義語反復になってしまいます。
ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。



658 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:28:21 ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。

なお、田中氏は「即得往生」に該当する箇所を本願文では「至心信楽」だと言いましたが、
それは時間的に同じ部分はそこしかないという意味で言ったのだと拝察します。
実際、田中氏は、「即得往生」と「至心信楽」が「同じ意味だ」という言い方はどこにもしていません。



698 名前:神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 23:49:14 ID:eu09B6u2

法論の参考までに。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/23kgaku.html
703 名前:神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 07:32:25 ID:EFeh3d8c
>>698

このことからまず、「若不生者」が当益なのは昔から当然とされていることが分かります。
(だいたい、「至心信楽欲生【我国】の者を生まれさせる」なのだから、
普通に読めば「【我国】に生まれさせる」なのは当然だし、
実際、親鸞聖人がそのように当然な解釈をされたお言葉が複数存在するのですから論ずるまでもありません。
「親鸞学徒」ならば、親鸞聖人のお言葉を、書かれている通りに素直に読むべきなのに、
山田氏は何をごちゃごちゃ捏ねくり回してるんだかと思います。)

それと、伝統的には「即得往生」も当益と解釈されていたことが分かります。
これも「願生【彼国】即得往生」ですから普通に読めば「往生【彼国】」です。
ですから、伝統的には「若不生者」も「即得往生」もともに【当益として】対応していました。
(ちなみにこの場合、「即」は「異時即」です。)

ところが親鸞聖人が初めて「即得往生」を現益に読み替えられたのです。
ただしこれにも2通りあって、聞信の一念で即、「往生彼国の保障を得る」というのが1つめの読み替えです。
つまり、往生そのものは当益だがその保障を得るのは現世においてだからということで、
「即得往生」全体としては現益だという解釈です。
2つめの読み替えはもっと大胆に、「往生」そのものを「心は浄土に遊ぶなり」の意味に解釈するものです。

いずれにしても、親鸞聖人は「即得往生」を現益と解釈されました。

705 名前:神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 08:30:11 ID:EFeh3d8c
>>703の続き

山田氏も田中氏も親鸞聖人の解釈に従う立場のようですから、
「即得往生」は現益であるという認識で一致しています。
この点は何も問題ありません。
ところが、親鸞聖人が「即得往生」を現益に読み替えた以上、
(少なくとも直接的には)「若不生者」との対応関係が失われました。
それなのに、読み替え前に成立していた対応関係を拡大解釈して、読み替え後にも成り立つと思い込み、
それによって「若不生者」までもが現益だというように話を展開するつもりのようです。
これは全くの本末転倒です!

あるいは対応関係をそのまま利用するのではなく、
「即得往生」を現益に読み替えた方法論をうまく真似することによって、
「若不生者」までも現益に読み替えようと試みるかもしれません。
しかし、「即得往生」を現益に読み替えることができたのは、
本願で当益が誓われ、それが成就したという前提の上でのことです。
もし本願で当益が誓われていなければ、
「往生彼国の保障を得る」こともありえませんし、
「心は浄土に遊ぶなり」もありえません。(未来が明るくなってこそ現在が明るくなるのですから。)
ですから、もし「若不生者」までも現益に読み替えてしまったら、全ての土台が崩れ、
当益はもちろん現益もなくなり、全くの「無益」になってしまうのです。
ゆえに、「若不生者」の現益への読み替えは絶対に不可能です!

まあ、本願文の本来の意味を踏まえた上で(つまり土台を崩さずに)、
あくまで【仮想的に】成就文と同じように【味わう】ことによって、
「若不生者」を現益に解釈するというのならギリギリセーフかもしれません。
ただしその場合でも、【信楽を獲れば】という前提条件は除去できません。
(つまり、「信楽を獲れば、不体失往生する」という解釈でなければなりません。)

ところがさらにこれを「不体失往生」=「信楽を獲る」と誤解し、
「十方衆生を信楽に生まれさせる」というのが本願だと主張するのであれば、
それはもう、むちゃくちゃな解釈になってしまいます。

706 名前:神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 08:56:45 ID:EFeh3d8c
>>705の続き

法蔵菩薩は「本願が成就しなければ正覚を取らない」と言われ、十劫の昔に阿弥陀仏と成られました。
ですから、十劫の昔に本願が成就したのは間違いありません。
つまり、お約束は既に果たされたのです。
ですから、お約束の内容が、もし「十方衆生を信楽に生まれさせる」であるならば、
十方衆生は十劫の昔に信心獲得していなければなりません。
しかし、これは事実に反します。

そこでこの矛盾をごまかすために、親鸞会では、
「法蔵菩薩は十劫の昔に成仏されたが、本願はまだ成就していない」ということにして、
「不取正覚」を「一旦取った正覚を捨てる」というように解釈するのです。
根本的な誤りのしわ寄せが、こんなところにも表れているのです!

間違いを認めて訂正すれば、全てがストレートに解釈できてスッキリするのにねぇ…。
本願に関してこんな歪んだ解釈をする人の話で本当に救われるんでしょうかね?
△ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △


それでは、以上を踏まえて見てみましょう♪
 ↓ ↓ ↓

「若不生者」は「極楽に生まれさせる」ことだけであり、死後に限ると、田中氏は一貫して主張される。

◆平成20年1月8日のメール
親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

いくら「明らかです」と言い張ろうと、『成就文』に根拠がなければ、聖人の教えにならない。
親鸞聖人は本願を一実・円満の真教『成就文』に忠実に解釈されたのだから、聖人が「若不生者」をどう解釈されたか知るには、『成就文』の正しい理解が必須である。

その『成就文』には現在の救いのみ説示され、死後のことは一切、説かれていない。だから聖人が「若不生者」は「死後、極楽に生まれること」だけと解釈されたご文など、あるはずがないのだ。
聖人のお言葉は、「若不生者」は死後に限るという田中氏の誤りを正されたものばかりである。

あ~ん?(苦笑)

~2008 1/8(火) 20:18 田中さんのメール~
 話を戻しますが、貴方は、私が「不体失往生」を否定しているかのような書き方ばかりされますね。

 私は最初から、この世で「信楽」に「生まれた」者だけが、死んで「極楽浄土」に「生まれる」ことが出来ると主張し続けております。

 そのことを、親鸞聖人は

「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。

 このように記述されています。他にも、何箇所も「若不生者の生は、極楽浄土に生まれることだ」と書かれています。

 逆に、貴方のように「若不生者の生は、信楽に生まれることだ」と書かれているところは一箇所もありません。


 親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

 もし、「極楽浄土に生まれる」という意味だけしかない、ということに異論があるのであれば、親鸞聖人の御言葉を示してください。

 私は何回も根拠を示していますが、貴社からは、いまだに一つの根拠も出てきません。

~2008 1/8(火) 20:18 田中さんのメール~

チ●ーリップ企画(=親●会)のヘンテコドグマが、
親鸞聖人の言葉に抵触することが、
田中さんにバッツリ指摘されているわけですが、
都合の悪い親鸞聖人の言葉はキッチリカットですか?(苦笑)


もう、反論しやすい形に捏造した意見にしか、
反論することもできないんやね(苦笑)。


というわけで、

69,チ●ーリップ企画(=親●会)のヘンテコドグマが、親鸞聖人の言葉に抵触することが田中氏によって既に指摘されていることは明かである。(2008 1/8(火) 20:18 田中さんのメール)

70,しかしチ●ーリップ企画(=親●会)は、根拠となる親鸞聖人の言葉の部分を削除することによって、田中氏の主張を反論しやすい形に捏造し、捏造した意見に反論することによって、反論ができているかのような印象操作を行っている。



『成就文』には「若不生者」の真意を「即得往生住不退転」と解説され、弥陀が「必ず生まれさせてみせる」と命を懸けられたのは、「生きている時、信楽に生まれる」不体失往生であることを明示されている。
だから親鸞聖人は『愚禿鈔』で、「若不生者」の「生」は、『成就文』の「即得往生」であり、信楽の心に生まれることだと細説されていることは、すでに述べた。

『信受本願 前念命終 即得往生 後念即生』(愚禿鈔)

弥陀に救われた一念に迷いの心が死ぬ(前念命終)と同時に、「即得往生」と信楽の心にする(後念即生)。ここでも聖人は、「若不生者」と命を懸けられたのは、心が死んで生まれる現在の往生(即得往生)だと明言されている。まさしく『成就文』に合致した聖人のお言葉である。

なお、田中氏は平成20年6月28日のメールで、この『愚禿鈔』のお言葉は『「若不生者」については触れられていません』とも主張されているが、「信受本願」とは弥陀の本願まことだったと、本願三十六文字にツユチリほどの疑心もなくなり、本願と私が一つになったことである。「若不生者」を抜いた本願の一部に疑い晴れたことでは決してない。
本願と一体になった一念に、心の臨終と誕生の同時体験をさせられたと仰有っているのだから、本願のこの部分には「触れられていません」などという理屈が通るはずがなかろう。
「触れられていない」どころか、「若不生者」は「死後、極楽に生まれる」意味しかないという、現代もある根深い謬見を正されたお言葉なのである。

あ~ん?(苦笑)

~ 2008 6/28(土) 20:40 田中さんのメール ~
★ 貴方が「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈されたことに、親鸞聖人の根拠が有るのか。無いのか。
 
 
 これ1つを、繰り返し、繰り返し、質問してきました。今回、この質問に対して、ようやく以下の返答を頂きました。
 
 
>『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
>即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
 
 
 この返答で、貴方の主張には、結局、根拠が無いことが、明白になりました。
 
----------------------------------------------------------
 
★「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。
 
 
 尊号真像銘文には、以下のように記述されています。
 
『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。』
 
 
 つまり、「本願を信受する」=「至心信楽をえる」ということです。
 
 貴方の根拠は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、
「若不生者」については触れられていません。
 
 
 さらに、尊号真像銘文は、以下のように続きます。
 
『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』
 
 
 至心信楽をえた人、イコール「即得往生」した人が、死んで極楽浄土に生まれるのが、「若不生者」の「生」だと断定されています。
 
 当然、「即得往生」=「若不生者」は成り立ちません。
 
 
 貴方が主張するように、「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになり、上記の親鸞聖人の記述は間違いということになります。
 
 
 つまり、貴方の提示された根拠では、「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈することは出来ません。

~ 2008 6/28(土) 20:40 田中さんのメール ~

あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。
 ↑
ですっごい前に晒し者にされているわけだけど、
チ●ーリップ企画(=親●会)が挙げた唯一の根拠は、
速攻でボコボコにされちゃっているんでっせ~(苦笑)。


いくら都合が悪いからって、
ボコボコにされた記事を捏造するとは、
呆れてものが言えませんな(苦笑)。


というわけで、

71,チ●ーリップ企画(=親●会)のヘンテコドグマの根拠としてあげた親鸞聖人の言葉が、全く根拠になっていないことは、既に田中氏によって証明されている。(2008 6/28(土) 20:40 田中さんのメール)

72,しかしチ●ーリップ企画(=親●会)は、根拠となる親鸞聖人の言葉の部分も田中氏の解説もほとんど全て削除することによって、田中氏の主張を反論しやすい形に捏造し、捏造した意見に反論することによって、反論ができているかのような印象操作を行っている


もう、いつまでもやってたらいいですよ。
ず~と笑いものにしたるから(苦笑)。

「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)の関係

清森問答 親鸞会教義の相対化・78(投稿)より

 今回は「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)について、通仏教的な立場から解説してみたいと思います。(※注)


【1】「プラサーダ」(信楽)の対象は様々

●SraddhA cetasaH prasAdaH. (AKBh 55, 6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

と世親菩薩が『倶舎論』で定義されているように、「プラサーダ」は仏教における代表的な「信」であり、阿弥陀仏信仰に限定されたものではありません。

その証拠に、

●athi kho no Avuso satthari pasAdo, atthi dhamme pasAdo. (MN. I.
11)
(訳)友よ、我々には師に対するプラサーダ、法に対するプラサーダがある。

というように、パーリのマッジマ・ニカーヤ(中部)のような所謂「小乘経典」にも「プラサーダ」は説かれていますし、同じくパーリのサムユッタ・ニカーヤ(相応部)には、

●pasAdehi KokAlika SAriputta-MogggallAnesu cittaM. (SN. VI, 9)
(訳)コーカーリカよ、サーリプッタとモッガーラーナに対してお前は心をプラサーダにせよ。

というように、サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラーナ(目連)に対する心の「プラサーダ」が勧められています。

 したがって、仏教において「プラサーダ」の対象は一様ではありません。したがって、ある人が「プラサーダ」を起こした際に、その「プラサーダ」が何を対象とした「プラサーダ」であるが問題となるのです。



【2】「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)


 これに関連して、サンスクリット文『無量寿経』願成就文を見ますと、

※親鸞会教義の相対化・21(投稿3)参照
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-76.html

●ye kecit sattvAs tasya 'mitAbhasya tathAgatasya nAmadheyaM
Sr.n.vanti,
SrutvA cAntaSa ekacittotpAdam apy adhyASayena prasAdasahagatam
utpAdayanti,
sarve te 'vaivarttikatAyAM saMtis.t.hante 'nuttarAyAH samyaksaMbodheH.

(訳)およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

というように、

★「浄らかな信」(プラサーダ、信楽)を伴った心を起こした人が、
             ↓
★「完全な正覚より後退しない境地」(住不退転・正定聚)になる。

ということが述べられています。

ここで大切はポイントとなるのは、

★「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。

★阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。

ということです。

 既に述べたように、プラサーダの対象は様々であり、舎利弗や目連に対してプラサーダを起こしても、「住不退転」(正定聚)になることはありません。あくまでも阿弥陀仏の本願に対してプラサーダを起こした人が「住不退転」(正定聚)になるのです。


【3】阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こした人が、どうして「住不退転」(正定聚)になるのか?

 これはもちろん阿弥陀仏の力によってですが、

★「プラサーダ」(信楽)を起こした人が、極楽浄土に往生することが確定することによって、現世で「住不退転」(正定聚)になる。

ということが非常に大切なポイントになります。

●「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。『尊号真像銘文』(1)

●「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。『尊号真像銘文』(10)

と親鸞聖人が述べられているように、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」ということが、阿弥陀仏の本願によって誓われています。

 この阿弥陀仏の本願が実現しているから、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」というシステムが完成しており、阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こした人が極楽浄土に往生することができます。

 そして、このようなシステムが阿弥陀仏によって完成されているので、

●必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。『教行信証』行巻

●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。『教行信証』信巻

というように、「仏願の生起本末」つまり阿弥陀仏が衆生救済の願を起こされた由来と、その願が成就して現に衆生を救済しているということを、「聞きて疑心あることなし」になり「本願力回向の信心」(プラサーダ)を起こしたならば、極楽浄土に往生することが確定します。
 そして、将来間違いなく極楽浄土に往生することができるから、現在この身に「正定聚に入る益」があるのです。


【4】まとめ

いろいろ述べましたので、まとめておきます。

1,「プラサーダ」(信楽)の対象は様々である。
2,「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。
3,阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。
4,阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になるのは、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」ということが、阿弥陀仏の本願によって誓われ、そのシステムが完成しているからである。
5,つまり現在この身に「正定聚に入る益」があるのは、阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こし、将来間違いなく極楽浄土に往生することが確定するからである。


※注

「プラサーダ」に関しては、清森問答においても何度か取り上げられております。

~~おうさんのコメントより~~
中村元著「東洋人の思惟方法」第一部一八九頁

「仏教における信仰の観念は、また極めて古い時代からprasadaと云う語を以て表示される。それはまた「澄浄」とも「喜」とも訳された。すなわち仏教における信仰は、仏の法を信じて、心がすっかりしづまり澄み切って、しづかな喜びの感ぜられる心境をいうのである。従ってちょうどprasadaに相当する語を、西洋の言語のうちに見出すことは困難である。仏教の信の心境は、しづかな、おちついたものであって、熱狂的、狂信的な信仰からは、およそかけはなれたものである。……」


~~親鸞会教義の相対化・24~~
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-83.html
 先日、清森さんの依頼で『無量寿経』本願成就文のサンスクリット文を紹介させて頂きましたが、

 現世で不退転に達する(=信心決定する)ためには、阿弥陀仏の名号を聞いた後、最低一度、浄らかな信を伴った(prasAdasahagata)心(citta)を起こす必要があります。

「浄らかな信」(prasAda、プラサーダ)は、「しずめる」「浄化する」「喜悦する」「滿足する」という意味をあらわす動詞、pra-√sadから作られた名詞であり、「心が澄みきって清らかとなり、静かな喜びや滿足の感じられる心境」のことであって、

「誰かに教えられたことを無条件に信じ込む」ような、「思考停止」とは全く異なります。


~~親鸞会教義の相対化・30~~
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-97.html

ちなみに私は、

●本人がプラサーダ(浄らかな信)を伴った心を起こしたかどうか?
=本人が三心を具足したことを自覚したかどうか?

によってしか、信心を判定することはできないと思っています。

一方「思考停止しているかどうか?」は、その人の言動から、ある程度推測することが可能なのではないかと思います。


===================================
※参考思考停止とは(はてなダイアリー)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%D7%B9%CD%C4%E4%BB%DF

【意味】
考えるのをやめること。あるいは、あることに対する判断を放棄して、既成の判断を無批判に受け入れること。

「短絡的な反応」「脊髄反射」「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのまま当てはめる」状態を指し、議論において極めて批判的に用いられる。

【使われる場面】
 基本的に、きちんと論証する手間を省いて「自分は正しく、相手は間違っている」ということを簡潔に訴えるために使われる手抜きのための用語。「相手の異論は絶対、間違いであるのに対して、自分は絶対、正論である。つまり自分や相手が、一般常識と世間から見て論理的で無く矛盾した発言をしているのに、ただ感情的に正論と、物事をきちんと判断できない人達を指す時に使用する」
 簡単に言えば「ダメ。ゼッタイ」「絶対、儲かる」「絶対、崇拝しろ」と主張したい人が使う。

 また、左翼・右翼・保守・革新・革命・ネットワークビジネス・法令順守などの立場からの発言ばかりだ、とレッテルを貼って反対意見を馬鹿にするためにも駆使される。

 この言葉を使うこと自体、往々にして、相手の発言を読み取らずに「反~何とか」というレッテルを貼るだけに終わってしまう。すなわち「思考停止」という絶対主義の論理である。
===================================

 なお、kkhate(=kkk)さんご自身が、プラサーダ(浄らかな信)を得ていないと仰っておられたので、

>今後は、「思考停止」ではなく「プラサーダ(浄信)」を求めて頂きたいと思います。

とアドバイスさせて頂きました。


以上



参考1 「若不生者」の「生」は、「極楽に生まれる」じゃなきゃだめ!!
参考2 「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う より

653 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:00:34 ID:eu09B6u2
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に極楽に生まれること」』
> これと
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に必ず
> 極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」』
> この2つには区別が立つというのが本稿での主張です。

> 後者の表現の場合、この「生」は極楽ではなく、

いや、あくまで「生」を「極楽に生まれる」と解釈するからこそ、
前者から後者の意味が派生するのです。

>「死んでから後に必ず極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」とは
> 法の深信で、機の深信の同時に立たない二種一具の深信はないのだから、
> 正にこれこそが、「信楽」の一心の相状を顕すのです。

そもそも「信楽を獲た人は」という大前提があるのを忘れています。
この人の主張によれば、本願の内容は
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
となります。これでは同義語反復であって、何も誓われていないのと同じことになります。

本願の内容はあくまで
「信楽を獲た人を極楽に生まれさせる」
です。(親鸞聖人自身が、あちこちで何度も仰っていますから間違いありません。)
そして、この意味から
「信楽を獲た人は極楽往生が確定する」
という意味が派生し、さらに「極楽往生が確定する」ことを「不体失往生」と定義することにより、
「信楽を獲た人は、その一念で不体失往生する」
という意味も出てきます。(実際、成就文はそういう内容になっています。)
ですから、本願文を深読みすれば、ここまでの意味を導くのはセ-フです。


656 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:13:05 ID:eu09B6u2
>>653の続き

しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、
あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
という同義語反復になってしまいます。
ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。



658 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:28:21 ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。

なお、田中氏は「即得往生」に該当する箇所を本願文では「至心信楽」だと言いましたが、
それは時間的に同じ部分はそこしかないという意味で言ったのだと拝察します。
実際、田中氏は、「即得往生」と「至心信楽」が「同じ意味だ」という言い方はどこにもしていません。




そろそろ、これも浸透してきたんじゃないかな~(苦笑)。
 ↓↓↓
ツッコミ!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する より~
★親鸞聖人の言葉に基づき「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることを証明し、【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを論証しました。

★親鸞聖人の言葉に基づき「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであることを証明し、「信楽=正定聚」とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、「信楽の者→正定聚」とお説きになられている親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを証明しました。

ツッコミ!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する より~


これまで注入されたものが強固だから、
解除するにも相当時間がかかるのね(苦笑)。

宿題チェック!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する

ツッコミ!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
※更にまた間違える!※またまた間違える!!※懲りずに間違える!
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。
※更にまた間違える!
※またまた間違える!!※懲りずに間違える!
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

21,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」という善知識の教えに抵触している。しかもそのことをチ●ーリップ企画(=親●会)が自分で論証してしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

22,古典文法&親鸞聖人の教えがわかっていないから、親鸞聖人の和讚をまともに解釈することができない。しかも文法上の誤りを指摘されても「間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と居直り、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」という蓮如上人の教えに反している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

23,「生るべからざるものを生れさせたれば」を現益に解釈しても当益に解釈しても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する根拠とはならない。しかし「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、そのことが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

24,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら「生まるべからざるもの」ならないという当然の論理的思考ができてない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

25,チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマに抵触しないように、『御文章』の文章を恣意的な形に省略して加工している。そのため「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」になるために、善知識が「弥陀の本願信ずべし」と教えられている部分も省略されている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

26,苦笑に詳細な解説をしてもらったにも関わらず、未だに「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を正確に理解していないため、田中氏が指摘する問題点の重大さが未だにわかっていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

27,「浄土真宗・親鸞聖人の教えは現当二益の法門であることは明々白々」ことを解説することによって、「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を理解していないチ●ーリップ企画(親●会)ドグマの誤りを自ら証明している。ただし「正定聚不退転の身(信楽)」という記述は、論拠に基づか(け)ないドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

28,「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」という「正信偈」の言葉を、「この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである」と訳し、勝手に「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という新しいドグマを捏造している。しかもこのドグマを根拠に自説の正しさを証明しようとしている。もちろん勝手に捏造したドグマは根拠にはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

29,「往生」と「成仏」の間に時間を介在しないとしても、両者は全く別の概念である。したがって、【十一願の「必至滅度の願」が成就しているから極楽浄土に往生した人が間違いなく成仏できる】ということが、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張が正しいことの根拠とはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

30,「等覚を成り大涅槃を証する」と、明らかに「死後のこと」が書かれている『教行信証』の一文を引用し、【『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても】という以前の自説が誤りであることを自ら証明していながら、自説の撤回も謝罪もない。あるいは「正信偈」が『教行信証』に収録されていることを知らないで引用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

31,サンスクリット文を読むように勧める進言を無視したため、「本願の解釈を誤る」という教義上致命的な誤りに気づけなかった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

32,ヘンテコドグマに矛盾しない、新たに捏造したヘンテコドグマを「親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方のご教示」と詐称する虚偽の発言をしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

33,田中氏が言っていないことを言ったかのように捏造している。更にそのことは既に論拠に基づき指摘されているにも関わらず、無視している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

34,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、親鸞聖人が時間軸上の別の時点に配置されている「この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり」と「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり」を、勝手に同時点に配置している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

35,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、「信楽すべしとすすめたまえる御ちかい」と親鸞聖人が解釈しているものを、【弥陀の正覚は「この世、信楽に生まれさせる」ことに懸けられている】と解釈している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

36,苦笑に詳細に解説してもらっているにも関わらず、「信楽」と「極楽浄土への往生」と「正定聚に入る益」の関係が未だにわかっておらず、「信楽」=「二種深信」がわかっていないので、親鸞聖人のお書きになられた『唯信鈔文意』を正確に読むことができていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

37,蓮如上人が、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」「自分勝手な解釈をすることは決してしてはならない」と教えられているのを無視して、自分勝手な解釈を行っている。それにも関わらず、その勝手な解釈に基づいて、親鸞聖人の言葉に基づいて語っている田中氏の解釈を批判するという暴挙を行っていることに気づいていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

38,田中氏の【チ●ーリップ企画(=親●会)の論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに真っ向から反する主張】を、【『成就文』に、真っ向から反する主張】というように虚偽の主張をしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

39,「信楽をえた」ことと「極楽に生まれる」ことが「不離の関係」であると断った上で、両者が異なった概念であるとしている田中氏の主張を、「不体失往生」と「体失往生」が「全く無関係の別物」であるかのように印象操作を行い、反論しやすい形に捏造した主張に対して反論するワラ人形論法を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

40,ドグマの都合に合わせて『教行信証』の言葉をヘンテコな形でカットして引用し新たなドグマを捏造し、それを親鸞聖人の言葉と詐称して使用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

41,ドグマの都合に合わせて『口伝鈔』の言葉をヘンテコな形でカットして引用し新たなドグマを捏造し、それを覚如上人の言葉と詐称して使用している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

42,【はたして「若不生者」と「信楽」は、全く関係ない、切り離せるものなのか。】という問題設定が不当であることは、既に、田中氏の言葉に基づいて指摘済みである。それにも関わらず、同じ発言を繰り返し捏造した田中氏の主張に反論し、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張のヘンテコさを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

43,田中氏のメールから【「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。】という言葉を意図的に省略して、田中氏の主張を反論しやすい形に捏造して議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

44,田中氏が親鸞聖人の言葉に基づいて自説を述べている部分を無視して、【「若不生者」から、密接不離な「信楽」を切り離して、「死んで極楽に生まれることだけ」と繰り返す】と田中氏の主張を繰り返し捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

45,宿題28で、チ●ーリップ企画(=親●会)が新しいドグマを捏造したことを突っ込んだが、これに関してチ●ーリップ企画(=親●会)は、「混乱や誤解は全くない」完全な「確信犯」であった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

46,何度も懇切丁寧なレクチャーを受けていながら、信楽と不体失往生、体失往生の関係がいまだにわかってないから、いまだに【この世で信楽に生まれる「不体失往生」】というヘンテコ主張に基づいてヘンテコ問題設定をして、ヘンテコ議論を懲りずに展開している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

47,親鸞聖人が「かならず定まりぬ」とお書きになられたのは、まだ極楽浄土に往生していないからである。また、「一念慶喜する」人が必ず極楽浄土に往生できるのは、阿弥陀仏が「若不生者不取正覚」と誓われているからだ、と解説されている。そのことが田中氏によって指摘されているにも関わらず、チ●ーリップ企画(=親●会)はその部分を意図的に削除し、田中氏の主張のみならず親鸞聖人の教えをも捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

48,間違って【高●先生が長年教えてこられてきた親●会ドグマに立って拝読すれば、】と書くべき部分に、【『成就文』の教導に立って拝読すれば、】と書いている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

49,チ●ーリップ企画(=親●会)が田中さんの主張を捏造し、捏造した見解に基づき、田中さんを批判していることは既に証明済みであるにも関わらず、反論(言い訳?)もなく同じ主著を壞れたテープレコーダの如く繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

50,チ●ーリップ企画(親●会)が、独自のヘンテコドグマを「親鸞聖人の教え」と詐称した結果、四十八項目のツッコミを入れられたにも関わらず、そのツッコミに一切解答しないまま、詐称行為を繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

51,チ●ーリップ企画(=親●会)が主張するように「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになるが、これは親鸞聖人の『尊号真像銘文』の記述に反するヘンテコドグマである。ということが既に田中氏に指摘されている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

52,捏造した田中氏の主張に反論することによって、親●会独自のドグマを親鸞聖人の教えであると印象付けようとしている。またチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、田中氏にボコボコに論破されていることを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

53,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

54,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマであるが、「かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず」という善導大師の『観経疏』所説の「二種深信」の記述に抵触する。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

55,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマであるが、「阿弥陀仏の本願」によって「すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」ことを明かにしている親鸞聖人の『教行信証』の記述にも抵触する。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

56,親●会では、「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」の「三十六文字」が、「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」の「十六文字」に言い換えて教えられているようだが、これも根拠に基づか(け)ない、独自のドグマである。しかもこのことは既に指摘済みである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

57,自分にとって都合の悪い田中氏や苦笑のツッコミも無視しながら、矛盾していない田中氏の主張に矛盾があるかのように虚偽の主張を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

58,親鸞聖人の教えに基づいて語る田中氏のメールから、故意に親鸞聖人の教えの部分を削除して田中氏の主張を捏造し、田中氏が間違っているかのように印象操作を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

59,チ●ーリップ企画のサイトには、過去のメールのやり取りも掲載され読者が読めるのにも関わらず、露骨な捏造行為を行うのは読者を愚弄する行為である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

60,親鸞聖人は『尊号真像銘文』において、「至心信楽」を「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、 「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」と解釈されている。しかし、その解釈はチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマにとって都合が悪いので、親鸞聖人の言葉を故意に削除した形に田中氏のメールを捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

61,証空上人の教義を全く知らないまま、証空上人の思想を語っているため、浄土真宗(それも覚如上人~蓮如上人の系列)に限定された「伝承」と理解すべき法論を「歴史的事実」として、間違った情報をまき散らしてしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

62,間違った情報を指摘してくれた相手に対して誠実に対応すべきにも関わらず、全く論証責任を果たさ(せ)ないままに間違った情報に基づいて相手の方を侮辱している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

63,「浄土宗を立てたのが、法然上人でなく、証空上人であると、間違っています」と十年以上も前に指摘されているにも関わらず、間違いを認めず恥知らずにも自分たちの著書にそれが指摘されたビラを紹介している。その間違いは未だに認めておらず、田中氏によって再び指摘されているが、全く間違いを改めようとしていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】

弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、【第20回】他



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

64,親鸞聖人の言葉に基づいて「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることが証明されているのに、チ●ーリップ企画(=親●会)はあいかわらず【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】という親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマを主張している。

65,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであり、親鸞聖人は「信楽の者→正定聚」とお説きになられていることが証明されているのに、チ●ーリップ企画(=親●会)はあいかわらず「信楽=正定聚」という親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマを主張している。

66,チ●ーリップ企画(=親●会)は、かつて【「弥陀の若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽」に「生まれさせ」「極楽浄土」に「生まれさせる」というのが、親鸞聖人の教えです。】というヘンテコドグマを主張していたが、いつのまにか【「若不生者不取正覚」には「極楽浄土に生まれさせる」という意味は無い】というヘンテコドグマに変更されている。どちらもヘンテコドグマなのであるが、主張を変更したのだから、そのことをきちんと報告する義務がある。

67,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作しようとしているチ●ーリップ企画(=親●会)は、覚如上人の『執持抄』をヘンテコな形で切り取って引用している。

68,覚如上人の『執持抄』に書かれている「報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり」「報土にまさしく生るべき信心」「行者の往生浄土のねがひ」という言葉は、田中氏の主張を裏付けるものである。しかし、チ●ーリップ企画(=親●会)はこの部分は引用せず、この言葉に対する解釈を述べていない。


ツッコミ所が多すぎて、
スクロールするだけで大変ですわ(苦笑)。

ツッコミ!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する

第33回が更新されました。
 ↓
【第33回】弥陀の救いは一念で完成する

復習だけど、苦笑ちゃんはこれまでに、

★親鸞聖人の言葉に基づき「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることを証明し、【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを論証しました。

★親鸞聖人の言葉に基づき「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであることを証明し、「信楽=正定聚」とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、「信楽の者→正定聚」とお説きになられている親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを証明しました。

★その成果が、この図になるわけですわ。
 ↓ ↓ ↓
                                  第十一の願の
=前念(因) 介在時間0  =後念(果)              必至滅度の願
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」「若不生者 不取正覚」成就
    ↓           ↓            ↓       ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・→極楽浄土へ往生→成 仏
    |           |           |      |
  十八願の真実の       |           |     等正覚にいたり
   信心をうれば→すなはち正定聚に住す        |     大涅槃を証する
           (この土の益)          |     (かの土の益)
      ↓       ↓              ↓      ↓ 
    【時間的に同時の「時分」】          【一念須臾のあひだ】
     【1】         【2】

★これは、「結論出てるやん!」を紹介した時から一貫してますわね。
 ↓ ↓ ↓
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31 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:22:19 ID:yFGdPQfg
『尊号真像銘文』から抜粋:

----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

----------------------------------------------------------------------
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
----------------------------------------------------------------------
※さすがに「平生業成」「現生不退」の意味を補っておられることに注目!
本願成就文の内容もちゃんと踏まえて本願文を解釈されていることが拝察されます。【1】

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「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
----------------------------------------------------------------------
※それでもなお、「若不生者」を「【わが浄土に】もし生まれずは」としか解釈されていません。【2】

232 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:23:58 ID:yFGdPQfg
>>231の続き

『尊号真像銘文』は親鸞聖人83歳の時の著作ですから『教行信証』よりも後であり、
当然、主著である『教行信証』の内容を十分に踏まえた上で書かれたはずです。
何もかも承知の上で親鸞聖人自身が本願文36字を全部解釈されたこの文章のどこにも、
「信楽に生まれさせる」とは書かれていません。この事実だけで十分すぎるほど十分です。
議論する余地など初めから何もないのです。

もし「信楽に生まれさせる」という意味も本当はあるのに親鸞聖人が書き忘れた
とでも言うのなら、それは親鸞聖人に対する冒涜以外の何物でもなく、
そんな暴言を吐く輩は断じて「親鸞学徒」ではなく、「高森学徒」です!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


よい子のみんなは、ここまでOKなわけですわ。

では、これを踏まえて以下の書き込みを見てみましょう♪
 ↓ ↓ ↓

田中氏の、「若不生者の誓」すなわち「弥陀の本願」の誤解は、次のメールに端的に示されている。

◆平成19年12月27日のメール
「信楽」に生まれた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」なのです。

これが、なぜ氏の誤解を端的に示す文章と言えるのか。
「信楽に生まれた」ということの意味が全く分かっておられないことが、ここには如実に出ているからである。
それは、「さらに」の3文字にある。

「信楽に生まれた」ということは、往生一定の決定心になったことで、いつ死んでも極楽往生間違いなし、の大安心大満足の身になった、ということである。正定聚とは、そういうことである。
蓮如上人の有名な『聖人一流の章』には、「信楽に生まれた」ことを、こう書かれている。
「不可思議の願力として、仏の方より、往生は治定せしめたまう。その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」
不可思議の願力(弥陀の本願力)によって、一念で往生が決定したことを、正定聚というのだと明らかにされている。

同様のことが『領解文』には、
「たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定」
と明記されている。

覚如上人の『執持鈔』には、
「平生の一念によりて、往生の得否は定まるものなり」
と、死後、極楽往生できるか否かは、平生の一念で決することが記されている。

この「信楽に生まれた一念」で「若不生者の誓まことだった」と『本願文』三十六文字すべてに疑い晴れることは、すでに繰り返し述べてきた。同時に『本願文』三十六文字と一体になるから、覚如上人は、
「本願や行者、行者や本願」(執持鈔)
とも言われている。
つまり、名号を頂いて「信楽に生まれた一念」に、弥陀の救いは成就完成しているのである。「信楽に生まれさせた力」とは別の力を「さらに」誓わなければ、極楽往生できないというものではない。

弥陀の救いを「極速円融」と親鸞聖人が仰るのも、一念で救いが完成するからこそである。それ以上加えなければならないものは、何ものもないのである。
この、弥陀の救いが一念で成就完成することを明らかにされたのが、ほかならぬ『成就文』ではないか。

田中氏のメールの「さらに」の三文字は、いかに田中氏が『本願文』を誤解しておられるか、『成就文』に無知であるかが象徴的に示されている、と言っても過言ではないだろう。

はいはい(苦笑)。

さっき復習したことがわかってないから、
こういうおマヌケな主張をするわけですね(苦笑)。

もう解説はエエよね?(苦笑)


一応言っておくけど、

●「不可思議の願力として、仏の方より、往生は治定せしめたまう。その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」

●「たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定」

●「平生の一念によりて、往生の得否は定まるものなり」

これらは、全~部上の図&『尊号真像銘文』の【1】の時点のことを言ってますからね~。
チ●ーリップ企画(=親●会)はわかってないみたいだけど(苦笑)。

というわけで、

64,親鸞聖人の言葉に基づいて「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることが証明されているのに、チ●ーリップ企画(=親●会)はあいかわらず【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】という親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマを主張している。

65,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであり、親鸞聖人は「信楽の者→正定聚」とお説きになられていることが証明されているのに、チ●ーリップ企画(=親●会)はあいかわらず「信楽=正定聚」という親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマを主張している。


こんだけわけわかってないと、
もう、怒るのもアホらしくなりますわ(苦笑)。




あ!!言うの忘れる所だった!!
これは前に Fuuさんがツッコミ入れてはったんだけど、
2月27日のチューリップ企画のメールには、


「弥陀の若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽」に「生まれさせ」「極楽浄土」に「生まれさせる」というのが、親鸞聖人の教えです。

  ↑
このようにバッチリ書かれているんですけど、
今回の書き込みとの整合性はどうなるんでしょうかね~(苦笑)。

>「さらに」の3文字
   ↑
これがポイントなんでっか??
ははは。片腹痛いですな(苦笑)。

ヘンテコドグマを主張するのはもうシャアナイけど、
せめて主張に一貫性を持たせてよね(苦笑)。


というわけで、

66,チ●ーリップ企画(=親●会)は、かつて【「弥陀の若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽」に「生まれさせ」「極楽浄土」に「生まれさせる」というのが、親鸞聖人の教えです。】というヘンテコドグマを主張していたが、いつのまにか【「若不生者不取正覚」には「極楽浄土に生まれさせる」という意味は無い】というヘンテコドグマに変更されている。どちらもヘンテコドグマなのであるが、主張を変更したのだから、そのことをきちんと報告する義務がある。


ドグマならドグマらしく、
きっちり固定しといてや(苦笑)。





追記

~ツッコミ!【第11回】覚如・蓮如上人の信楽の教えより~

続いて、このように弥陀に救われた身は、阿弥陀仏の本願に相応し、『本願文』三十六字全体が誠であったと体で知らされ、南無阿弥陀仏の名号と一体となり、私が南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏が私となるから、

『「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」という』  (執持抄)

と「信楽」の世界を喝破されている。


あ~ん?

★光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。
しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(礼讃)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず。
しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。
本願寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。これをたとふるに、日輪、須弥の半ばにめぐりて他州を照らすとき、このさかひ闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでに明くるがごとし。しかれば日輪の出づるによりて夜は明くるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜の明けて日輪出づと。いまいふところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて無明長夜の闇すでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなりとしるべし。『執持抄』四


僕が何度も教えてあげている『執持抄』の超重要な箇所を、
ヘンテコな形で切り取って引用するやめてくれません?(苦笑)

覚如上人に失礼だと思いませんか?(苦笑)

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』 【四・光明名号因縁の事】 (p.685) に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。

しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、
明確に区別しなければなりません。
第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、
全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。
これでは十劫安心になってしまいます。
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。
>>>

名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、
名号だけでOKみたいに印象操作しても無駄だよん(苦笑)。


 ↑
このツッコミを誤魔化すためにあわてて挿入した
のはバレバレですが、
笑っちゃうぐらい見事に墓穴を掘りましたね(苦笑)。

もっと言うと、
「報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり」
「報土にまさしく生るべき信心」
「行者の往生浄土のねがひ」
という、田中さんの主張の論拠を補強する言葉もありますな(苦笑)。

~ツッコミ!【第11回】覚如・蓮如上人の信楽の教えより~


この頃は、まだ宿題出してなかったから、
また同じ間違えをしちゃったのかな?

もう二度と間違えないように、宿題にしといてあげるね♪


67,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作しようとしているチ●ーリップ企画(=親●会)は、覚如上人の『執持抄』をヘンテコな形で切り取って引用している。

68,覚如上人の『執持抄』に書かれている「報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり」「報土にまさしく生るべき信心」「行者の往生浄土のねがひ」という言葉は、田中氏の主張を裏付けるものである。しかし、チ●ーリップ企画(=親●会)はこの部分は引用せず、この言葉に対する解釈を述べていない。


何か書くたびに墓穴を掘りますな(苦笑)。

昔から変わってないんだな~(苦笑)。

清森問答 親鸞会教義の相対化・77(投稿)より

 以下のものに関して私見を述べさせて頂きます。

★『法戦5』(浄土真宗親鸞会)pp.111-127.第5章
・相手浄土宗僧侶・伊藤信道
・邪義「体失不体失往生の諍論は歴史的事実ではない」
「善恵房証空は、『救いは死後』とは説いていない」

 伊藤氏は、アニメビデオ二巻における所謂「体失不体失往生の諍論」の場面に関して、以下の質問と抗議をされています。

~~以下引用~~
さて、これは、歴史上の事実かどうか、お尋ねします。また、これは真実かどうかお尋ねします。
おそらく、覚如の「口伝鈔」を用いられたのであろうと推測するのですが、このビデオを製作する根拠として、これが正しいものかどうか、検討されたのでしょうか?
続いて、証空上人が、救いは死後にあるということは、どこにも仰有ってられません。
「平生業成」「機法一体」など、重要な言葉は、いずれも証空上人の念仏思想から生まれたものでありますから、救いが死後などということは、絶対にありません。正しくないことを、このように一般に向かって伝えられることに、抗議いたします。
(pp.112-113)
~~以上引用~~

 私も清森問答で何度かこの話題を取り上げておりますが(注1)、この方の指摘は極めて妥当なものであり、アニメ制作者は誠実に対応する義務があると思います。

 しかし、親鸞聖人映画製作委員会の解答は以下のようなものでした。

~~以下引用~~
御抗議、確と受け取りました。
歴史上の事実であり、真実であることを、十分検討してあります。
証空上人が、どこに、いつ救われるとどのように、仰有っておられるか。
お手数ながら、根拠をご教示下さい。
(p.113)
~~以上引用~~

 このように、「歴史上の事実であり、真実である」根拠は全く示すことはなく、質問に対して質問で答えるという論点のすり替えを行っております。
 そして「生きて身をはちすの上にやどさずば念佛まうす甲斐やなからん」という証空上人の歌を紹介し、「不審ならば、西山上人の全集など資料を見て下さい」と更に抗議する伊藤氏の指摘を無視し、証空上人の言葉を一つも挙げないまま手紙のやり取りを行っております。
 そして手紙のやり取りは、以下の親鸞聖人映画製作委員会の返信で終わっております。

~~以下引用~~
気を見て森を見ず、森を見て山を見ず、と言われます。今、問題の山は、証空上人が、不体失往生を主張されたか、否かの歴史的事実なのです。
三世十方を貫く仏法の信奉者は、昔も今も変わらぬ事実を尊重します。証空上人が、不体失往生を説かなかったという歴史的事実は、八百年後の今日、不体失往生を説かない証空上人の信奉者によっても証明させている、これこそが最も重大な歴史的事実なのです。
証空上人が、全く完全にこれっぽっちも、不体失往生も体失往生も教えなかったとしたら、弥陀の本願を一切信ぜず、説きもしなかった人、それが証空上人となります。
無論、法然上人の弟子などと言えるものではありません。当然、親鸞聖人の破邪の対象になったのは必然です。くどく木にしがみつくと、ますます、森も見えず、山も見ることができませんよ。決して仏法者は、現象に囚われて、事の本質を見失ってはなりません。
証空上人の不体失往生を説かれた言葉があれば、お聞かせ下さい。
何年後でも結構です。
(pp.126-127)
~~以上引用~~

 この後、伊藤氏からの返信はないようですが、恐らく、あまりにも不誠実で会話が成立しない相手なので、呆れて返信するのをやめてしまったのだと思います。
 しかし、既に私が資料を挙げて論証しているように、証空上人が現世での救いをお説きになられていることは「歴史上の事実であり、真実である」ことであり、伊藤氏への対応が極めて不当なものであったことは明かです。

 なお、これは平成六年になされたやり取りで、この本が出版されたのは平成九年です。十年以上たった現在でも、親鸞会という組織には自浄作用というものが全く働いておらず、チューリップ企画が更なる教義上の脱線を行っていることは、清森問答をご覧の皆様もよくご存じの通りです(注2)。


(注1)

以下のサイトを参照。

★親鸞会教義の相対化・1(質疑応答33)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-35.html

これは、清森さんはご存知かもしれませんが、

聖光上人が親鸞聖人と同じ時期に法然上人の下にいなかったことは以前申しましたが、

体失・不体失往生の論争に関しても、
証空上人も、往生は平生に定まるという「即便往生」をお説きになられていますし、
ましてやアニメのような「念仏申していたら死後に往生できる」という主張は、
証空上人には全くありません。

もちろん、これは浄土真宗的には「伝統」なのかもしれませんが、今の時代に、つまらない宗我見に捉えられて縄張り争いするべきでないと思うし、
広く一般の人を相手に教えを説き広めていくというのであれば、まずはきちんとした事実に立つべきで、捏造した情報の上で、教えを説いていくようなことは、避けるべきなのではないかなと思いました。

そうしていかないと、きちんと文献に当たって確認された時に、信頼を著しく損なってしまうのではないかなと思います。


★親鸞会教義の相対化・26
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-85.html

私の友人が証空上人に言及したのは、アニメで証空上人が、


『皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』


という台詞を話すことによって、何も知らない方がご覧になった時に、その方が証空上人を誤解しないためです。

証空上人は、この世での救いを積極的にお説きになり、

生きて身をはちすの上にやどさずば念佛まうす甲斐やなからん

という歌を詠んでおられます。

しかもこれは、

問うて云く。
摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

答えて云く。
平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。
この三心具足しぬれば、必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。

かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、てらし給うなり。

平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。
故に不捨の誓約と申すなり。
「念佛往生要義抄」(昭法全六八七頁)

というように、「摂取の益は平生の時である」と、仰っておられる法然上人から学ばれたものであり、

>親鸞聖人に指摘されるまで、「往生」と言えば、
>「体失往生」しか知らなかった善恵房証空と、
>そっくりではないかと驚く人もあるでしょう。
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2007_1224_1233_5999.html

というように、親鸞聖人から学ばれたものではありません。

更に証空上人は、

三心発る時即便往生す、此時正しく仏も成仏し衆生も往生す。
『定散料簡義』

と仰せっていますから、「念仏さえ称えれば」などという台詞は、極めて不当なものであると思います。

私の友人は、証空上人に対する誤解を危惧して指摘しただけで、どこかの誰かさんのような、くだらない宗我見や宗派根性は持っておりません。

正確に情報を検討しようともせず、自分のつくりあげた幻の世界の正義感で、つくりあげた敵や悪と戦おうとするような、行為は慎みたいものです。


ついでなのでお勧めの本を紹介しておきましょう。

★浅井成海著『浄土教入門』(本願寺出版)

浅井先生は浄土真宗のお寺のご住職ですが、その学問の立場は、なるべく宗派意識を取り払い、法然上人と親鸞聖人、そしてその他の法然上人のお弟子達の教学を、なるべく客観的に見ていこうとする立場を取ってます。

この本は法然上人・親鸞聖人・弁長上人・証空上人の教えが、念仏とか本願とか信心とか人間観とかテーマ別に整理されていて便利です。
証空上人について語るのであれば、せめてこの本一冊ぐらいは読んでください。


★親鸞会教義の相対化・30
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-97.html

A『念佛往生要義抄』の記述から、法然上人に関して以下のことが言える。

1)信前(光明に摂取される前)と信後(光明に摂取された後)の区別をしていた。
2)「往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人=三心具足の念仏申す人かどうかで、信前・信後を区別していた。

B『定散料簡義』の記述から、証空上人に関して以下のことが言える。

1)現世における救いである「即便往生」(=不体失往生?)を説いていた。
2)「即便往生」は、三心が発ることによって起きる。

貴方が、私の提示した資料をまともに読んでいないことは凄くよくわかりました。
次に論点スライドする時は、もう少し私の挙げた資料を読んでからにしてください。


(注2)

以下のサイトを参照。

★チューリップ企画サイト「徹底検証親鸞聖人の教え」
http://shinjin.info/

★苦笑の独り言ツッコミ!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-category-3.html



(追記)

「浄土宗を立てたのが、法然上人でなく、証空上人であると、間違っています」とチューリップ企画製作のビデオが間違った記述をしていることを指摘しているビラを愛知県内で入手したことが、本書で書かれています。
十年以上も前に間違いを指摘されているにも関わらず、全く間違いを間違いと認識しておらず、最近、田中氏によって再度指摘を受けても全く間違いを改めない。
このような姿勢は、仏法者としても企業としても、極めて不当なものであると改めて感じました。

親鸞会教義の相対化・65参照
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-206.html


以上




親●会のやり方が、昔から全然変わってないのに
ちょっとビックリですわ(苦笑)。

おまけに、
「浄土宗を立てたのが、法然上人でなく、証空上人」
  ↑
これにも昔からツッコミ入れられていたのに、
恥じるどころか、自分逹の著書に公開するとは、
ちょっとビックラこきましたな(苦笑)。

これも宿題にしときますっせ。

 ↓↓↓
61,証空上人の教義を全く知らないまま、証空上人の思想を語っているため、浄土真宗(それも覚如上人~蓮如上人の系列)に限定された「伝承」と理解すべき法論を「歴史的事実」として、間違った情報をまき散らしてしまっている。

62,間違った情報を指摘してくれた相手に対して誠実に対応すべきにも関わらず、全く論証責任を果たさ(せ)ないままに間違った情報に基づいて相手の方を侮辱している。

63,「浄土宗を立てたのが、法然上人でなく、証空上人であると、間違っています」と十年以上も前に指摘されているにも関わらず、間違いを認めず恥知らずにも自分たちの著書にそれが指摘されたビラを紹介している。その間違いは未だに認めておらず、田中氏によって再び指摘されているが、全く間違いを改めようとしていない。

宿題チェック!【第32回】あくまでも本願を分断する田中氏

ツッコミ!!【第32回】あくまでも本願を分断する田中氏

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
※更にまた間違える!※またまた間違える!!※懲りずに間違える!
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。
※更にまた間違える!
※またまた間違える!!※懲りずに間違える!
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

21,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」という善知識の教えに抵触している。しかもそのことをチ●ーリップ企画(=親●会)が自分で論証してしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

22,古典文法&親鸞聖人の教えがわかっていないから、親鸞聖人の和讚をまともに解釈することができない。しかも文法上の誤りを指摘されても「間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と居直り、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」という蓮如上人の教えに反している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

23,「生るべからざるものを生れさせたれば」を現益に解釈しても当益に解釈しても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する根拠とはならない。しかし「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、そのことが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

24,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら「生まるべからざるもの」ならないという当然の論理的思考ができてない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

25,チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマに抵触しないように、『御文章』の文章を恣意的な形に省略して加工している。そのため「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」になるために、善知識が「弥陀の本願信ずべし」と教えられている部分も省略されている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

26,苦笑に詳細な解説をしてもらったにも関わらず、未だに「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を正確に理解していないため、田中氏が指摘する問題点の重大さが未だにわかっていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

27,「浄土真宗・親鸞聖人の教えは現当二益の法門であることは明々白々」ことを解説することによって、「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を理解していないチ●ーリップ企画(親●会)ドグマの誤りを自ら証明している。ただし「正定聚不退転の身(信楽)」という記述は、論拠に基づか(け)ないドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

28,「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」という「正信偈」の言葉を、「この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである」と訳し、勝手に「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という新しいドグマを捏造している。しかもこのドグマを根拠に自説の正しさを証明しようとしている。もちろん勝手に捏造したドグマは根拠にはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

29,「往生」と「成仏」の間に時間を介在しないとしても、両者は全く別の概念である。したがって、【十一願の「必至滅度の願」が成就しているから極楽浄土に往生した人が間違いなく成仏できる】ということが、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張が正しいことの根拠とはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

30,「等覚を成り大涅槃を証する」と、明らかに「死後のこと」が書かれている『教行信証』の一文を引用し、【『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても】という以前の自説が誤りであることを自ら証明していながら、自説の撤回も謝罪もない。あるいは「正信偈」が『教行信証』に収録されていることを知らないで引用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

31,サンスクリット文を読むように勧める進言を無視したため、「本願の解釈を誤る」という教義上致命的な誤りに気づけなかった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

32,ヘンテコドグマに矛盾しない、新たに捏造したヘンテコドグマを「親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方のご教示」と詐称する虚偽の発言をしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

33,田中氏が言っていないことを言ったかのように捏造している。更にそのことは既に論拠に基づき指摘されているにも関わらず、無視している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

34,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、親鸞聖人が時間軸上の別の時点に配置されている「この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり」と「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり」を、勝手に同時点に配置している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

35,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、「信楽すべしとすすめたまえる御ちかい」と親鸞聖人が解釈しているものを、【弥陀の正覚は「この世、信楽に生まれさせる」ことに懸けられている】と解釈している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

36,苦笑に詳細に解説してもらっているにも関わらず、「信楽」と「極楽浄土への往生」と「正定聚に入る益」の関係が未だにわかっておらず、「信楽」=「二種深信」がわかっていないので、親鸞聖人のお書きになられた『唯信鈔文意』を正確に読むことができていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

37,蓮如上人が、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」「自分勝手な解釈をすることは決してしてはならない」と教えられているのを無視して、自分勝手な解釈を行っている。それにも関わらず、その勝手な解釈に基づいて、親鸞聖人の言葉に基づいて語っている田中氏の解釈を批判するという暴挙を行っていることに気づいていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

38,田中氏の【チ●ーリップ企画(=親●会)の論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに真っ向から反する主張】を、【『成就文』に、真っ向から反する主張】というように虚偽の主張をしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

39,「信楽をえた」ことと「極楽に生まれる」ことが「不離の関係」であると断った上で、両者が異なった概念であるとしている田中氏の主張を、「不体失往生」と「体失往生」が「全く無関係の別物」であるかのように印象操作を行い、反論しやすい形に捏造した主張に対して反論するワラ人形論法を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

40,ドグマの都合に合わせて『教行信証』の言葉をヘンテコな形でカットして引用し新たなドグマを捏造し、それを親鸞聖人の言葉と詐称して使用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

41,ドグマの都合に合わせて『口伝鈔』の言葉をヘンテコな形でカットして引用し新たなドグマを捏造し、それを覚如上人の言葉と詐称して使用している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

42,【はたして「若不生者」と「信楽」は、全く関係ない、切り離せるものなのか。】という問題設定が不当であることは、既に、田中氏の言葉に基づいて指摘済みである。それにも関わらず、同じ発言を繰り返し捏造した田中氏の主張に反論し、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張のヘンテコさを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

43,田中氏のメールから【「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。】という言葉を意図的に省略して、田中氏の主張を反論しやすい形に捏造して議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

44,田中氏が親鸞聖人の言葉に基づいて自説を述べている部分を無視して、【「若不生者」から、密接不離な「信楽」を切り離して、「死んで極楽に生まれることだけ」と繰り返す】と田中氏の主張を繰り返し捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

45,宿題28で、チ●ーリップ企画(=親●会)が新しいドグマを捏造したことを突っ込んだが、これに関してチ●ーリップ企画(=親●会)は、「混乱や誤解は全くない」完全な「確信犯」であった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

46,何度も懇切丁寧なレクチャーを受けていながら、信楽と不体失往生、体失往生の関係がいまだにわかってないから、いまだに【この世で信楽に生まれる「不体失往生」】というヘンテコ主張に基づいてヘンテコ問題設定をして、ヘンテコ議論を懲りずに展開している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

47,親鸞聖人が「かならず定まりぬ」とお書きになられたのは、まだ極楽浄土に往生していないからである。また、「一念慶喜する」人が必ず極楽浄土に往生できるのは、阿弥陀仏が「若不生者不取正覚」と誓われているからだ、と解説されている。そのことが田中氏によって指摘されているにも関わらず、チ●ーリップ企画(=親●会)はその部分を意図的に削除し、田中氏の主張のみならず親鸞聖人の教えをも捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

48,間違って【高●先生が長年教えてこられてきた親●会ドグマに立って拝読すれば、】と書くべき部分に、【『成就文』の教導に立って拝読すれば、】と書いている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

49,チ●ーリップ企画(=親●会)が田中さんの主張を捏造し、捏造した見解に基づき、田中さんを批判していることは既に証明済みであるにも関わらず、反論(言い訳?)もなく同じ主著を壞れたテープレコーダの如く繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

50,チ●ーリップ企画(親●会)が、独自のヘンテコドグマを「親鸞聖人の教え」と詐称した結果、四十八項目のツッコミを入れられたにも関わらず、そのツッコミに一切解答しないまま、詐称行為を繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

51,チ●ーリップ企画(=親●会)が主張するように「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになるが、これは親鸞聖人の『尊号真像銘文』の記述に反するヘンテコドグマである。ということが既に田中氏に指摘されている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

52,捏造した田中氏の主張に反論することによって、親●会独自のドグマを親鸞聖人の教えであると印象付けようとしている。またチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、田中氏にボコボコに論破されていることを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

53,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

54,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマであるが、「かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず」という善導大師の『観経疏』所説の「二種深信」の記述に抵触する。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

55,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマであるが、「阿弥陀仏の本願」によって「すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」ことを明かにしている親鸞聖人の『教行信証』の記述にも抵触する。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

56,親●会では、「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」の「三十六文字」が、「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」の「十六文字」に言い換えて教えられているようだが、これも根拠に基づか(け)ない、独自のドグマである。しかもこのことは既に指摘済みである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

57,自分にとって都合の悪い田中氏や苦笑のツッコミも無視しながら、矛盾していない田中氏の主張に矛盾があるかのように虚偽の主張を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】

弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、【第20回】他



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

58,親鸞聖人の教えに基づいて語る田中氏のメールから、故意に親鸞聖人の教えの部分を削除して田中氏の主張を捏造し、田中氏が間違っているかのように印象操作を行っている。

59,チ●ーリップ企画のサイトには、過去のメールのやり取りも掲載され読者が読めるのにも関わらず、露骨な捏造行為を行うのは読者を愚弄する行為である。

60,親鸞聖人は『尊号真像銘文』において、「至心信楽」を「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、 「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」と解釈されている。しかし、その解釈はチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマにとって都合が悪いので、親鸞聖人の言葉を故意に削除した形に田中氏のメールを捏造している。



田中さんの主張を捏造するより、
自分に課せられた宿題を解答する方を、
優先した方がいいんじゃない?(苦笑)

ツッコミ!!【第32回】あくまでも本願を分断する田中氏

第32回が更新されました。
 ↓
【第32回】あくまでも本願を分断する田中氏

さらに検証を続けよう。

◆平成19年12月26日のメール
十八願の「至心信楽」の誓いによって、信楽がえらえるのです。そして十八願の「若不生者」の誓いによって、極楽浄土に生まれられるのです。

繰り返し指摘してきたことだが、ここでも田中氏は、本願文を「至心信楽の誓」と「若不生者の誓」の二つに分断している。そして、「信楽が生まれる(不体失往生)」と「若不生者」を切り離しているのである。
「若不生者」は「死後だけ」という自説に、「本願文」をムリヤリ当てはめようとするからである。

「若不生者の誓」を「不体失往生」と鮮明にされた「成就文」の教えを知らねば、「本願文」を正しく領解することはできないと、いよいよ知られるであろう。「成就文」を「一実円満の真教」「至極」「依憑」と言われるゆえんである。

あ~ん?(苦笑)

===平成19年12月26日田中さんのメール===

>その「信楽」がえられるのは、どうしてえられるのですか。「若不生者の念力」によるのではありませんか、と山田は言っているのです。「そうでない」、と言われるのならば、どうして「信楽」をえられるのか。その根拠を、親鸞聖人のお言葉で示して下さい。


 何度も示しましたように、『この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。』と記述されています。十八願の「至心信楽」の誓いによって、信楽がえらえるのです。

 そして、『「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』と、十八願の「若不生者」の誓いによって、極楽浄土に生まれられるのです。

===平成19年12月26日田中さんのメール===


親鸞聖人の教えに基づいて語る田中さんのメールから、
親鸞聖人の教えの部分を削除するとは、
インチキ野郎丸出しですな(苦笑)。

チ●ーリップ企画のサイトには、
過去のメールのやり取りも掲載されてて、
読者がそっちも読めるのに、
こんな露骨なインチキをするっていうのは、
ちょっと読者をなめてるんじゃない?(苦笑)


というわけで、

58,親鸞聖人の教えに基づいて語る田中氏のメールから、故意に親鸞聖人の教えの部分を削除して田中氏の主張を捏造し、田中氏が間違っているかのように印象操作を行っている。

59,チ●ーリップ企画のサイトには、過去のメールのやり取りも掲載され読者が読めるのにも関わらず、露骨な捏造行為を行うのは読者を愚弄する行為である。




というか、

●『この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。』『尊号真像銘文』
 ↑
この親鸞聖人の言葉は、親●会にとって都合が悪いから、
読まなかったことにせなアカンのでしょうな~(苦笑)。


===結論出てるやん!===
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!
===結論出てるやん!===

 ↑
これも、だいぶ前に教えてあげたことだけど、
忘れてもらっちゃ嫌ですよ~。
それとも、読んでないことにしてるのかな?(苦笑)

いずれにしても、親鸞聖人の教えは、
親鸞聖人の言葉に基づいて語らないとね~。


というわけで、

60,親鸞聖人は『尊号真像銘文』において、「至心信楽」を「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、 「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」と解釈されている。しかし、その解釈はチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマにとって都合が悪いので、親鸞聖人の言葉を故意に削除した形に田中氏のメールを捏造している。


チ●ーリップ企画のインチキ法論に呆れて、
親●会を辞めた人と最近メル友になったんだけど、
相手の主張を捏造するインチキ丸出しやり方や、
親鸞聖人の教えすら無視する不誠実さに、
ほとほと呆れてはりましたで(苦笑)。

今後も恥知らずな更新を続けて、
会員を減らして、僕ちゃんのメル友を増やす気ですか?(苦笑)

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宿題チェック!!【第31回】「若不生者」に疑い晴れるのは平生

【第31回】「若不生者」に疑い晴れるのは平生

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
※更にまた間違える!※またまた間違える!!※懲りずに間違える!
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。
※更にまた間違える!
※またまた間違える!!※懲りずに間違える!
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

21,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」という善知識の教えに抵触している。しかもそのことをチ●ーリップ企画(=親●会)が自分で論証してしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

22,古典文法&親鸞聖人の教えがわかっていないから、親鸞聖人の和讚をまともに解釈することができない。しかも文法上の誤りを指摘されても「間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と居直り、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」という蓮如上人の教えに反している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

23,「生るべからざるものを生れさせたれば」を現益に解釈しても当益に解釈しても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する根拠とはならない。しかし「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、そのことが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

24,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら「生まるべからざるもの」ならないという当然の論理的思考ができてない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

25,チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマに抵触しないように、『御文章』の文章を恣意的な形に省略して加工している。そのため「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」になるために、善知識が「弥陀の本願信ずべし」と教えられている部分も省略されている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

26,苦笑に詳細な解説をしてもらったにも関わらず、未だに「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を正確に理解していないため、田中氏が指摘する問題点の重大さが未だにわかっていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

27,「浄土真宗・親鸞聖人の教えは現当二益の法門であることは明々白々」ことを解説することによって、「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を理解していないチ●ーリップ企画(親●会)ドグマの誤りを自ら証明している。ただし「正定聚不退転の身(信楽)」という記述は、論拠に基づか(け)ないドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

28,「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」という「正信偈」の言葉を、「この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである」と訳し、勝手に「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という新しいドグマを捏造している。しかもこのドグマを根拠に自説の正しさを証明しようとしている。もちろん勝手に捏造したドグマは根拠にはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

29,「往生」と「成仏」の間に時間を介在しないとしても、両者は全く別の概念である。したがって、【十一願の「必至滅度の願」が成就しているから極楽浄土に往生した人が間違いなく成仏できる】ということが、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張が正しいことの根拠とはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

30,「等覚を成り大涅槃を証する」と、明らかに「死後のこと」が書かれている『教行信証』の一文を引用し、【『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても】という以前の自説が誤りであることを自ら証明していながら、自説の撤回も謝罪もない。あるいは「正信偈」が『教行信証』に収録されていることを知らないで引用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

31,サンスクリット文を読むように勧める進言を無視したため、「本願の解釈を誤る」という教義上致命的な誤りに気づけなかった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

32,ヘンテコドグマに矛盾しない、新たに捏造したヘンテコドグマを「親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方のご教示」と詐称する虚偽の発言をしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

33,田中氏が言っていないことを言ったかのように捏造している。更にそのことは既に論拠に基づき指摘されているにも関わらず、無視している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

34,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、親鸞聖人が時間軸上の別の時点に配置されている「この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり」と「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり」を、勝手に同時点に配置している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

35,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、「信楽すべしとすすめたまえる御ちかい」と親鸞聖人が解釈しているものを、【弥陀の正覚は「この世、信楽に生まれさせる」ことに懸けられている】と解釈している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

36,苦笑に詳細に解説してもらっているにも関わらず、「信楽」と「極楽浄土への往生」と「正定聚に入る益」の関係が未だにわかっておらず、「信楽」=「二種深信」がわかっていないので、親鸞聖人のお書きになられた『唯信鈔文意』を正確に読むことができていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

37,蓮如上人が、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」「自分勝手な解釈をすることは決してしてはならない」と教えられているのを無視して、自分勝手な解釈を行っている。それにも関わらず、その勝手な解釈に基づいて、親鸞聖人の言葉に基づいて語っている田中氏の解釈を批判するという暴挙を行っていることに気づいていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

38,田中氏の【チ●ーリップ企画(=親●会)の論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに真っ向から反する主張】を、【『成就文』に、真っ向から反する主張】というように虚偽の主張をしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

39,「信楽をえた」ことと「極楽に生まれる」ことが「不離の関係」であると断った上で、両者が異なった概念であるとしている田中氏の主張を、「不体失往生」と「体失往生」が「全く無関係の別物」であるかのように印象操作を行い、反論しやすい形に捏造した主張に対して反論するワラ人形論法を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

40,ドグマの都合に合わせて『教行信証』の言葉をヘンテコな形でカットして引用し新たなドグマを捏造し、それを親鸞聖人の言葉と詐称して使用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

41,ドグマの都合に合わせて『口伝鈔』の言葉をヘンテコな形でカットして引用し新たなドグマを捏造し、それを覚如上人の言葉と詐称して使用している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

42,【はたして「若不生者」と「信楽」は、全く関係ない、切り離せるものなのか。】という問題設定が不当であることは、既に、田中氏の言葉に基づいて指摘済みである。それにも関わらず、同じ発言を繰り返し捏造した田中氏の主張に反論し、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張のヘンテコさを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

43,田中氏のメールから【「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。】という言葉を意図的に省略して、田中氏の主張を反論しやすい形に捏造して議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

44,田中氏が親鸞聖人の言葉に基づいて自説を述べている部分を無視して、【「若不生者」から、密接不離な「信楽」を切り離して、「死んで極楽に生まれることだけ」と繰り返す】と田中氏の主張を繰り返し捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

45,宿題28で、チ●ーリップ企画(=親●会)が新しいドグマを捏造したことを突っ込んだが、これに関してチ●ーリップ企画(=親●会)は、「混乱や誤解は全くない」完全な「確信犯」であった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

46,何度も懇切丁寧なレクチャーを受けていながら、信楽と不体失往生、体失往生の関係がいまだにわかってないから、いまだに【この世で信楽に生まれる「不体失往生」】というヘンテコ主張に基づいてヘンテコ問題設定をして、ヘンテコ議論を懲りずに展開している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

47,親鸞聖人が「かならず定まりぬ」とお書きになられたのは、まだ極楽浄土に往生していないからである。また、「一念慶喜する」人が必ず極楽浄土に往生できるのは、阿弥陀仏が「若不生者不取正覚」と誓われているからだ、と解説されている。そのことが田中氏によって指摘されているにも関わらず、チ●ーリップ企画(=親●会)はその部分を意図的に削除し、田中氏の主張のみならず親鸞聖人の教えをも捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

48,間違って【高●先生が長年教えてこられてきた親●会ドグマに立って拝読すれば、】と書くべき部分に、【『成就文』の教導に立って拝読すれば、】と書いている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

49,チ●ーリップ企画(=親●会)が田中さんの主張を捏造し、捏造した見解に基づき、田中さんを批判していることは既に証明済みであるにも関わらず、反論(言い訳?)もなく同じ主著を壞れたテープレコーダの如く繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

50,チ●ーリップ企画(親●会)が、独自のヘンテコドグマを「親鸞聖人の教え」と詐称した結果、四十八項目のツッコミを入れられたにも関わらず、そのツッコミに一切解答しないまま、詐称行為を繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

51,チ●ーリップ企画(=親●会)が主張するように「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになるが、これは親鸞聖人の『尊号真像銘文』の記述に反するヘンテコドグマである。ということが既に田中氏に指摘されている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!
→ × また同じ間違え~!超残念!

52,捏造した田中氏の主張に反論することによって、親●会独自のドグマを親鸞聖人の教えであると印象付けようとしている。またチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、田中氏にボコボコに論破されていることを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!
→ × また同じ間違え~!超残念!



※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】

弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、【第20回】他



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

53,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマである。

54,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマであるが、「かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず」という善導大師の『観経疏』所説の「二種深信」の記述に抵触する。

55,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマであるが、「阿弥陀仏の本願」によって「すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」ことを明かにしている親鸞聖人の『教行信証』の記述にも抵触する。

56,親●会では、「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」の「三十六文字」が、「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」の「十六文字」に言い換えて教えられているようだが、これも根拠に基づか(け)ない、独自のドグマである。しかもこのことは既に指摘済みである。

57,自分にとって都合の悪い田中氏や苦笑のツッコミも無視しながら、矛盾していない田中氏の主張に矛盾があるかのように虚偽の主張を行っている。



チ●ーリップ企画は、いったい誰のために更新してるんやろね~。
まともな読解力のある会員の人は呆れるだけだろうし、
僕ちゃんのツッコミを読まれたらすごいヤバイし、
本当、ただの自己満足なんだよね(苦笑)。

まあ、ツッコミを入れる僕の方は、
ファンも友達もいっぱい増えたから、いいんだけどね(笑)。

ツッコミ!!【第31回】「若不生者」に疑い晴れるのは平生

第31回が更新されました。
 ↓
【第31回】「若不生者」に疑い晴れるのは平生


親鸞聖人が『尊号真像銘文』に「信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり」と仰せの通り、弥陀の本願にツユチリほどの疑いも無くなった心を「信楽」という。
本願を信ずる心(信楽)が生まれたとは、本願三十六文字すべてに疑い晴れたことであり、本願の一部を疑って、残りを信ずることは無いと前回、明らかにした。

あ~ん?(苦笑)

これは前に教えてあげたことなんだけど、
阿弥陀仏の本願に疑いが晴れた親鸞聖人が、

●しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。『教行信証』行巻

と仰っておられるように、「阿弥陀仏の本願」っていうのは、

「すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」

と、自分の力では仏になれない僕ちゃん逹を、
極楽浄土に往生させて最終的に成仏させてくれる、
阿弥陀仏が構築したシステム全体のことなんでっせ~。

その証拠に、

●「二には深心」と。「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。『観経疏』

と善導大師も仰っておられますわね。

だから、

★弥陀の本願にツユチリほどの疑いも無くなった心=「信楽」

というのは、まあいいんだけど、

★本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと

というのは、

阿弥陀仏の本願を、

●設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法『無量寿経』
 ↑
この「三十六文字」に限定したかのような言い方で、
全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマであるのはもちろん、
上記の善導大師の『観経疏』の記述や
親鸞聖人の『教行信証』の記述にも、
明らかに抵触しちゃうトンデモヘンテコドグマなのよね(苦笑)。



というわけで、

53,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマである。

54,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマであるが、「かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず」という善導大師の『観経疏』所説の「二種深信」の記述に抵触する。

55,【本願を信じる心(信楽)が生まれたこと=本願三十六文字すべてに疑い晴れたこと】というチ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、阿弥陀仏の本願を「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」だけに限定したかのような解釈である。この解釈は全く根拠に基づか(け)ない独自のドグマであるが、「阿弥陀仏の本願」によって「すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」ことを明かにしている親鸞聖人の『教行信証』の記述にも抵触する。



あと、ついでだから言っておくけど、

親●会では、

●設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法『無量寿経』

の「三十六文字」が、

●どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に

の「十六文字」に言い換えて教えられているようですが、
これも根拠に基づか(け)ない、独自のドグマであることは、
既に指摘されてて、これも紹介済みですな(苦笑)。
 ↓

===「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う===

701 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:16:43 ID:iBZWtYDV
>>698
なるほど。ということは、十八願を

どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に

と言い換えるのは間違い、ということ?

702 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:29:04 ID:SSHL9SRG
>>701
> なるほど。ということは、十八願を
>
> どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に
>
> と言い換えるのは間違い、ということ?


「どんな人も 信楽すれば 必ず助ける 絶対の幸福(正定聚という意味なら)に」なら、いいんじゃないの?


問題は、必ず信楽になれると言ってよいか。

> 分相の18願は、「信楽を与える」という約束

と、ちび丸に合わせて、このように書いたが、聖教には、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」としか書かれていない。


これを、「どんな人でも かならず信楽にする」と書き換えて良いか?

どこかに親鸞聖人が「必ず信楽にする約束」と書かれていれば分かり易いが、今のところ私は、見つけていない。

間違い無いのは、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」。これだけ。


誰か、「どんな人も、必ず信楽にさせると 約束されている」と書かれている根拠があれば教えてください。

それが見つかれば、「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」もOKだと思う。

703 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:39:13 ID:NEkveLHU
なるほど。
弥陀の十八願はそういう約束だったのか。

704 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:50:55 ID:T0XwJH3K
どんな人でもっていうのは、十方衆生のことだとは聞いたな。

705 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:52:38 ID:SSHL9SRG

アニメは高森氏の製作では無いと言い出す人がいそうだから、
高森氏の著作から、間違いを指摘する。


もとよりこれは阿弥陀佛の本願に「十方の衆生を信楽の一心に救わずば吾れ正覚を取らじ」と約束なされた通りになった相であるから、まさに本願に相応したわけである。【会報2集・信の一念5】


「十方の衆生が、信楽の一心を得たのに、浄土往生せずば吾れ正覚を取らじ」と書くのが正しい。

現益で解釈しても、

「十方の衆生が、信楽の一心を得たのに、正定聚に救わずば吾れ正覚を取らじ」と書くのが正しい。

と書くのが限界。


「信楽の一心に救う」というのは、18願が全然分かってないから、こんな表現になる。




706 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:54:34 ID:SSHL9SRG

> 「十方の衆生が、信楽の一心を得たのに、正定聚に救わずば吾れ正覚を取らじ」と書くのが正しい。

失礼。

「と書くのが正しい」は余計。

===「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う===

というわけで、

56,親●会では、「設我得佛 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」の「三十六文字」が、「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」の「十六文字」に言い換えて教えられているようだが、これも根拠に基づか(け)ない、独自のドグマである。しかもこのことは既に指摘済みである。




いっつも、こ~んな感じで、
まず根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを提示し、
そのヘンテコドグマに基づいてヘンテコ解説をし、
そのヘンテコ解説と矛盾するということで、
田中さんの主張を批判して勝手に勝利宣言するのが、
チ●ーリップ企画(=親●会)の
インチキ法論の定石なわけですが、



この苦笑ちゃんが、
前提となるヘンテコドグマにツッコミを入れて、
ヘンテコさ加減を晒し者にしてしまった後で、
↓こういう書き込みを見ると・・

それなのに田中氏は、「信楽に生まれる」にあたるのは「至心信楽欲生我国」だけと限定し、あとの「若不生者不取正覚」は「浄土に生まれる」ことだと主張される。

◆平成19年12月22日のメール
「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者の誓」の「至心信楽欲生我国」の部分に当たります。「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です。

もし、田中氏が言われるように、「若不生者」は〝死後、浄土に生まれることだけ〟とすれば、「若不生者」の誓いまことかどうか、死んでみなければハッキリしない。「信楽」に生まれても、本願の一部に疑心が残ることになる。

こんな自己矛盾が生じたのも、一実円満の真教『成就文』を誤読したからであろう。
『成就文』では「若不生者不取正覚」の真意を「即得往生住不退転」と解説され、死んだ後ではない、平生の一念に不退転の心(信楽)に生まれる「不体失往生」だと説示されている。
田中氏が繰り返された『「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です』という説明は、どこにもない。
「信楽」に必ず生まれさせてみせると、弥陀が不体失往生に命を懸けられたお言葉が「若不生者」だから、誓願通り信楽に生まれたとき、「若不生者」の誓いまことだったと、三十六文字と一体になるのである。

はいはい(苦笑)。

さ~てツッコミた~いむ~♪
どんなツッコミが入か、
読者のみんなには予想が出来てるかもよ(笑)。


読んでなかったみたいだから、改めて教えてあげたのに、
まだ読んでなかったのね(苦笑)。
 ↓↓↓

あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。
 ↓
<チューリップ企画山田さんの主張>
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/2008_628_1057_8158.html
★『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか。
勿論、ある。
親鸞聖人のお言葉は、
『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)』
★貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか。
イコールでなければ「一実・円満の真教」と言われるはずがないじゃありませんか。
親鸞聖人のお言葉は、
『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)』



しかも、速攻でボコボコにされてるし(笑)。
 ↓
<田中さんのボコボコ攻撃>
>『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
>即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
 
 
 この返答で、貴方の主張には、結局、根拠が無いことが、明白になりました。
 
----------------------------------------------------------
 
★「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。
 
 
 尊号真像銘文には、以下のように記述されています。
 
『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。』
 
 
 つまり、「本願を信受する」=「至心信楽をえる」ということです。
 
 貴方の根拠は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません。
 
 
 さらに、尊号真像銘文は、以下のように続きます。
 
『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』
 
 
 至心信楽をえた人、イコール「即得往生」した人が、死んで極楽浄土に生まれるのが、「若不生者」の「生」だと断定されています。
 
 当然、「即得往生」=「若不生者」は成り立ちません。
 
 
 貴方が主張するように、「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになり、上記の親鸞聖人の記述は間違いということになります。
 
 
 つまり、貴方の提示された根拠では、「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈することは出来ません。
あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。

そんでもってこれが、前回のツッコミね。
 ↓↓↓

 宿題51,チ●ーリップ企画(=親●会)が主張するように「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになるが、これは親鸞聖人の『尊号真像銘文』の記述に反するヘンテコドグマである。ということが既に田中氏に指摘されている。

 宿題52,捏造した田中氏の主張に反論することによって、親●会独自のドグマを親鸞聖人の教えであると印象付けようとしている。またチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、田中氏にボコボコに論破されていることを誤魔化そうとしている。


今回のチ●ーリップ企画の書き込みは、
田中さんや僕ちゃんのツッコミを読んでたら、
絶対にありえない書き込みなわけだけど、
自分にとって都合の悪い発言はなかったことにして、
厚かましく書いちゃうわけですな~(苦笑)。


というわけで、

57,自分にとって都合の悪い田中氏や苦笑のツッコミも無視しながら、矛盾していない田中氏の主張に矛盾があるかのように虚偽の主張を行っている。



「信楽が生まれること」と「若不生者」を分断する田中氏の主張を、引き続き『成就文』に基づいて検証しよう。

はいはい(苦笑)。

めんどくさいけど、
ボコボコにツッコミいれてあげるよ



こんなことをしてたら、
チ●ーリップ企画(=親●会)ドグマの
ヘンテコさが明らかになり、
インチキ論法の醜悪さも明かになりますが、
これじゃあ誰も納得しまへんし、
呆れられるだけだけどね(苦笑)。




追記(2009.01.05.18:36)

これは既に述べたことだけど、極楽浄土に往生した人が成仏できるのは、
必至滅度の願(第十一願)が成就してるからだよ~。

 ↓↓↓
★本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願(第十八願)を因とす。
等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。
『教行信証』行巻「正信偈」

★「本願名号正定業」といふは、第十七の願のこころなり。十方の諸仏にわが名をほめられんと誓ひましまして、すでにその願成就したまへるすがたは、すなはちいまの本願の名号の体なり。これすなはち、われらが往生をとぐべき行体なりとしるべし。
 「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。『和讃』(高僧和讃・二〇)にいはく、「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり」といへり。これをもつてこころうべし。『正信偈大意』



わかりやすく図にしてあげてるんだから、ちゃんと理解してね

                                  第十一の願の
=前念(因) 介在時間0  =後念(果)              必至滅度の願
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」「若不生者 不取正覚」成就
    ↓           ↓            ↓       ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・→極楽浄土へ往生→成 仏
    |           |           |      |
  十八願の真実の       |           |     等正覚にいたり
   信心をうればすなはち正定聚に住す        |     大涅槃を証する
           (この土の益)          |     (かの土の益)
      ↓       ↓              ↓      ↓ 
    【時間的に同時の「時分」】          【一念須臾のあひだ】


まあ、チ●ーリップ企画(=親●会)の解釈は、
親鸞聖人や蓮如上人とは全然違うんだけどね(苦笑)。
 ↓

 宿題28,「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」という「正信偈」の言葉を、「この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである」と訳し、勝手に「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という新しいドグマを捏造している。しかもこのドグマを根拠に自説の正しさを証明しようとしている。もちろん勝手に捏造したドグマは根拠にはならない。

 宿題29,「往生」と「成仏」の間に時間を介在しないとしても、両者は全く別の概念である。したがって、【十一願の「必至滅度の願」が成就しているから極楽浄土に往生した人が間違いなく成仏できる】ということが、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張が正しいことの根拠とはならない。

宿題チェック!!【第30回】本願を信受する時

ツッコミ!【第30回】本願を信受する時

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
※更にまた間違える!※またまた間違える!!※懲りずに間違える!
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。
※更にまた間違える!
※またまた間違える!!※懲りずに間違える!
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

21,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」という善知識の教えに抵触している。しかもそのことをチ●ーリップ企画(=親●会)が自分で論証してしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

22,古典文法&親鸞聖人の教えがわかっていないから、親鸞聖人の和讚をまともに解釈することができない。しかも文法上の誤りを指摘されても「間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と居直り、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」という蓮如上人の教えに反している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

23,「生るべからざるものを生れさせたれば」を現益に解釈しても当益に解釈しても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する根拠とはならない。しかし「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、そのことが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

24,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら「生まるべからざるもの」ならないという当然の論理的思考ができてない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

25,チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマに抵触しないように、『御文章』の文章を恣意的な形に省略して加工している。そのため「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」になるために、善知識が「弥陀の本願信ずべし」と教えられている部分も省略されている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

26,苦笑に詳細な解説をしてもらったにも関わらず、未だに「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を正確に理解していないため、田中氏が指摘する問題点の重大さが未だにわかっていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

27,「浄土真宗・親鸞聖人の教えは現当二益の法門であることは明々白々」ことを解説することによって、「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を理解していないチ●ーリップ企画(親●会)ドグマの誤りを自ら証明している。ただし「正定聚不退転の身(信楽)」という記述は、論拠に基づか(け)ないドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

28,「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」という「正信偈」の言葉を、「この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである」と訳し、勝手に「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という新しいドグマを捏造している。しかもこのドグマを根拠に自説の正しさを証明しようとしている。もちろん勝手に捏造したドグマは根拠にはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

29,「往生」と「成仏」の間に時間を介在しないとしても、両者は全く別の概念である。したがって、【十一願の「必至滅度の願」が成就しているから極楽浄土に往生した人が間違いなく成仏できる】ということが、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張が正しいことの根拠とはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

30,「等覚を成り大涅槃を証する」と、明らかに「死後のこと」が書かれている『教行信証』の一文を引用し、【『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても】という以前の自説が誤りであることを自ら証明していながら、自説の撤回も謝罪もない。あるいは「正信偈」が『教行信証』に収録されていることを知らないで引用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

31,サンスクリット文を読むように勧める進言を無視したため、「本願の解釈を誤る」という教義上致命的な誤りに気づけなかった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

32,ヘンテコドグマに矛盾しない、新たに捏造したヘンテコドグマを「親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方のご教示」と詐称する虚偽の発言をしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

33,田中氏が言っていないことを言ったかのように捏造している。更にそのことは既に論拠に基づき指摘されているにも関わらず、無視している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

34,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、親鸞聖人が時間軸上の別の時点に配置されている「この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり」と「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり」を、勝手に同時点に配置している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

35,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、「信楽すべしとすすめたまえる御ちかい」と親鸞聖人が解釈しているものを、【弥陀の正覚は「この世、信楽に生まれさせる」ことに懸けられている】と解釈している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

36,苦笑に詳細に解説してもらっているにも関わらず、「信楽」と「極楽浄土への往生」と「正定聚に入る益」の関係が未だにわかっておらず、「信楽」=「二種深信」がわかっていないので、親鸞聖人のお書きになられた『唯信鈔文意』を正確に読むことができていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

37,蓮如上人が、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」「自分勝手な解釈をすることは決してしてはならない」と教えられているのを無視して、自分勝手な解釈を行っている。それにも関わらず、その勝手な解釈に基づいて、親鸞聖人の言葉に基づいて語っている田中氏の解釈を批判するという暴挙を行っていることに気づいていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

38,田中氏の【チ●ーリップ企画(=親●会)の論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに真っ向から反する主張】を、【『成就文』に、真っ向から反する主張】というように虚偽の主張をしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

39,「信楽をえた」ことと「極楽に生まれる」ことが「不離の関係」であると断った上で、両者が異なった概念であるとしている田中氏の主張を、「不体失往生」と「体失往生」が「全く無関係の別物」であるかのように印象操作を行い、反論しやすい形に捏造した主張に対して反論するワラ人形論法を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

40,ドグマの都合に合わせて『教行信証』の言葉をヘンテコな形でカットして引用し新たなドグマを捏造し、それを親鸞聖人の言葉と詐称して使用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

41,ドグマの都合に合わせて『口伝鈔』の言葉をヘンテコな形でカットして引用し新たなドグマを捏造し、それを覚如上人の言葉と詐称して使用している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

42,【はたして「若不生者」と「信楽」は、全く関係ない、切り離せるものなのか。】という問題設定が不当であることは、既に、田中氏の言葉に基づいて指摘済みである。それにも関わらず、同じ発言を繰り返し捏造した田中氏の主張に反論し、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張のヘンテコさを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

43,田中氏のメールから【「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。】という言葉を意図的に省略して、田中氏の主張を反論しやすい形に捏造して議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

44,田中氏が親鸞聖人の言葉に基づいて自説を述べている部分を無視して、【「若不生者」から、密接不離な「信楽」を切り離して、「死んで極楽に生まれることだけ」と繰り返す】と田中氏の主張を繰り返し捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

45,宿題28で、チ●ーリップ企画(=親●会)が新しいドグマを捏造したことを突っ込んだが、これに関してチ●ーリップ企画(=親●会)は、「混乱や誤解は全くない」完全な「確信犯」であった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

46,何度も懇切丁寧なレクチャーを受けていながら、信楽と不体失往生、体失往生の関係がいまだにわかってないから、いまだに【この世で信楽に生まれる「不体失往生」】というヘンテコ主張に基づいてヘンテコ問題設定をして、ヘンテコ議論を懲りずに展開している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

47,親鸞聖人が「かならず定まりぬ」とお書きになられたのは、まだ極楽浄土に往生していないからである。また、「一念慶喜する」人が必ず極楽浄土に往生できるのは、阿弥陀仏が「若不生者不取正覚」と誓われているからだ、と解説されている。そのことが田中氏によって指摘されているにも関わらず、チ●ーリップ企画(=親●会)はその部分を意図的に削除し、田中氏の主張のみならず親鸞聖人の教えをも捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

48,間違って【高●先生が長年教えてこられてきた親●会ドグマに立って拝読すれば、】と書くべき部分に、【『成就文』の教導に立って拝読すれば、】と書いている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!





※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】

弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、【第20回】他



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

49,チ●ーリップ企画(=親●会)が田中さんの主張を捏造し、捏造した見解に基づき、田中さんを批判していることは既に証明済みであるにも関わらず、反論(言い訳?)もなく同じ主著を壞れたテープレコーダの如く繰り返している。

50,チ●ーリップ企画(親●会)が、独自のヘンテコドグマを「親鸞聖人の教え」と詐称した結果、四十八項目のツッコミを入れられたにも関わらず、そのツッコミに一切解答しないまま、詐称行為を繰り返している。

51,チ●ーリップ企画(=親●会)が主張するように「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになるが、これは親鸞聖人の『尊号真像銘文』の記述に反するヘンテコドグマである。ということが既に田中氏に指摘されている。

52,捏造した田中氏の主張に反論することによって、親●会独自のドグマを親鸞聖人の教えであると印象付けようとしている。またチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、田中氏にボコボコに論破されていることを誤魔化そうとしている。



今年は、いきなり沢山の方に声援を頂いたし、
もっともっと頑張っていきまっせ~!!



ところで、チ●ーリップ企画(=親●会)を応援する人って、
誰かおらへんのかな~?

おるなら、ぜひとも代わりにこの宿題に解答してほしいわ(苦笑)。
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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