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宿題チェ~ック!!【第24回】田中氏のメールの検証

今回も宿題は一つも解決してませんね(苦笑)。
 ↓↓↓
ツッコミ!【第24回】田中氏のメールの検証

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!
→ ×× また同じ間違え~!超残念!

5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!
→ ×× また同じ間違え~!超残念!

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

21,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」という善知識の教えに抵触している。しかもそのことをチ●ーリップ企画(=親●会)が自分で論証してしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

22,古典文法&親鸞聖人の教えがわかっていないから、親鸞聖人の和讚をまともに解釈することができない。しかも文法上の誤りを指摘されても「間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と居直り、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」という蓮如上人の教えに反している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

23,「生るべからざるものを生れさせたれば」を現益に解釈しても当益に解釈しても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する根拠とはならない。しかし「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、そのことが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

24,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら「生まるべからざるもの」ならないという当然の論理的思考ができてない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

25,チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマに抵触しないように、『御文章』の文章を恣意的な形に省略して加工している。そのため「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」になるために、善知識が「弥陀の本願信ずべし」と教えられている部分も省略されている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

26,苦笑に詳細な解説をしてもらったにも関わらず、未だに「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を正確に理解していないため、田中氏が指摘する問題点の重大さが未だにわかっていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

27,「浄土真宗・親鸞聖人の教えは現当二益の法門であることは明々白々」ことを解説することによって、「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を理解していないチ●ーリップ企画(親●会)ドグマの誤りを自ら証明している。ただし「正定聚不退転の身(信楽)」という記述は、論拠に基づか(け)ないドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

28,「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」という「正信偈」の言葉を、「この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである」と訳し、勝手に「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という新しいドグマを捏造している。しかもこのドグマを根拠に自説の正しさを証明しようとしている。もちろん勝手に捏造したドグマは根拠にはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

29,「往生」と「成仏」の間に時間を介在しないとしても、両者は全く別の概念である。したがって、【十一願の「必至滅度の願」が成就しているから極楽浄土に往生した人が間違いなく成仏できる】ということが、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張が正しいことの根拠とはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

30,「等覚を成り大涅槃を証する」と、明らかに「死後のこと」が書かれている『教行信証』の一文を引用し、【『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても】という以前の自説が誤りであることを自ら証明していながら、自説の撤回も謝罪もない。あるいは「正信偈」が『教行信証』に収録されていることを知らないで引用している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

31,サンスクリット文を読むように勧める進言を無視したため、「本願の解釈を誤る」という教義上致命的な誤りに気づけなかった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!


※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】

弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、【第20回】他



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

32,ヘンテコドグマに矛盾しない、新たに捏造したヘンテコドグマを「親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方のご教示」と詐称する虚偽の発言をしている。

33,田中氏が言っていないことを言ったかのように捏造している。更にそのことは既に論拠に基づき指摘されているにも関わらず、無視している。

34,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、親鸞聖人が時間軸上の別の時点に配置されている「この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり」と「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり」を、勝手に同時点に配置している。

35,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、「信楽すべしとすすめたまえる御ちかい」と親鸞聖人が解釈しているものを、【弥陀の正覚は「この世、信楽に生まれさせる」ことに懸けられている】と解釈している。



あと、教義上の問題点がたっぷり指摘されるんだから、
もう田中さんの主張を捏造するだけじゃだめよ(苦笑)。

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ツッコミ!【第24回】田中氏のメールの検証

第24回がアップされました。
 ↓↓↓
【第24回】田中氏のメールの検証
http://shinjin.info/2008/11/290800162.html

今日は、やたら早い時間に更新ですね~。
夕方ぐらいだろうと、油断してたよ(苦笑)。

ここまでは、田中氏の提起された阿弥陀仏の『本願文』の「若不生者」の「生」に関する、親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方のご教示の概略を述べてきた。

あ~ん(苦笑)。

チ●ーリップ企画(=親●会)ヘンテコドグマに矛盾しない、
新たなヘンテコドグマを捏造してるのはよくわかりましたが、
それを、「親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方のご教示」
とは言うのはおもいっきり、虚偽でっせ(苦笑)。

こういう発言は、ツッコミを入れられている、
三十一項目に答えてからにして頂きたいものですな(苦笑)。
 ↓
宿題チェック【第23回】現当二益の法門
無量寿経・阿弥陀経の梵語原典テキストも読んでちょ!


というわけで、

32,ヘンテコドグマに矛盾しない、新たに捏造したヘンテコドグマを「親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人方のご教示」と詐称する虚偽の発言をしている。


そこでこれからは、具体的に田中氏からのメールを提示して、これら善知識方の教えを定規に検証してみることにしたい。

あ~ん?(苦笑)

「チ●ーリップ企画(=親●会)ドグマを定規に検証」は、
「善知識方の教えを定規に検証」とは言いません(苦笑)。
ウソを言ってもらっては困りますな~(苦笑)。



論点は一貫して、『本願文』の「若不生者」の「生」一つである。弥陀が「生まれさせる」と正覚の命を懸けて誓われている願意を、田中氏は「死後、極楽に生まれることだけ」と主張し、我々は「この世、信楽に生まれさせること」と主張してきた。
このような見解の相違は、両者の『成就文』の理解が根本的に異なることが原因である。

我々は、釈迦の『成就文』は『本願文』三十六文字すべての解説である、と理解する。
田中氏は、『成就文』は『本願文』の一部の解説であり、「若不生者不取正覚」の八字は抜けている、と主張する。
どちらが正しい親鸞聖人の教えなのか、聖人のお言葉を挙げて説明した。

あ~ん?(苦笑)

>田中氏は、『成就文』は『本願文』の一部の解説であり、「若不生者不取正覚」の八字は抜けている、と主張する。

田中さんが言ってないことを捏造するのはやめてよね(苦笑)。

というか、
チ●ーリップ企画が田中さんの主張を捏造していることは、
既におもいっきり証明済みでっせ。

 ↓
ツッコミ!【第4回】田中氏の主張メール(1)
なめとんか!チューリップ企画の捏造記事にツッコミ
ツッコミ!【第5回】田中氏の主張メール(2)
「田中氏のメール」→「田中氏の問題のメール」
ツッコミ!【第6回】かくて判明した根本的相異点

====忘れてもらっちゃ困りますな~====
×田中氏の主張は、一貫して『本願成就文』は『本願文』の一部「至心信楽欲生我国」の釈尊の解説であって、『本願文』すべての解説ではない、という理解であることが明白である。

田中氏の主張を
「一貫して『本願成就文』は『本願文』の一部「至心信楽欲生我国」の釈尊の解説であって、『本願文』すべての解説ではない、という理解である」
ということにして、
教義上の誤りを隠蔽することにチ●ーリップ企画の意図があることは、明白である。
====忘れてもらっちゃ困りますな~====

あんだけ丁寧に指摘してあげたのに、
忘れてもらっちゃ困りますな~(苦笑)。
このサイトを読んでる、親●会関係者も、
おそらく苦笑していると思いまっせ(苦笑)。


というわけで、

33,田中氏が言っていないことを言ったかのように捏造している。更にそのことは既に論拠に基づき指摘されているにも関わらず、無視している。


繰り返すが、『成就文』は親鸞聖人が「一実円満の真教真宗」と言われている教えである。もし『成就文』が『本願文』の一部の解説であるなら、「一実円満の真教」とは言われないだろう。それは「円満(完全)な教え」でも「真実の教え」でもないからである。
しかも、田中氏が「『成就文』に解説がない」と言われるのは、「若不生者不取正覚」の八字である。弥陀が命を懸けられている「若不生者」の「生まれさせる」を、釈迦は『成就文』に解説されていない、というのが田中氏の意見である。
これでは聖人のご著書はどれも正しく読めないだろう。

あ~ん?(苦笑)

捏造した田中さんの主張に反論しても意味はありまへん(苦笑)。

このような議論の進め方は「ワラ人形論法」なわけですが、
これが典型的なインチキであることは指摘済みでっせ(苦笑)



件の『尊号真像銘文』を誤解された原因も、ここにあるのではなかろうか。
田中氏のメールを挙げてみよう。

◆平成19年10月20日のメール
尊号真像銘文には
『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり』
『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり』
と記述されています。
いずれも、「至心信楽をえた」者が極楽に生まれなければ仏に成らないという意味ですから、「若不生者」は、極楽に生まれなければ、という意味になります。

このように田中氏は、この『尊号真像銘文』を根拠として、「若不生者」は「死後だけのこと」と言われるのだが、親鸞聖人の教えは『成就文』の教え以外になく、『成就文』に死後のことは説かれていないことがお分かりになれば、このような誤解も解けるのではないだろうか。

では、これらの御文の真意は何であろうか。同じく『銘文』に親鸞聖人は、
「真実の信心(信楽)をえたる人のみ、本願の実報土によく入ると知るべし」
と明言され、「死後、極楽に生まれられる」のは、「この世、信楽に生まれた(不体失往生)」人のみである、といわれている。だから弥陀の命は「不体失往生」に懸けられている、と開顕されているのが、釈迦の『成就文』であり、親鸞聖人の教えである。

提示の『尊号真像銘文』も、この『成就文』の教え以外になく、「この世、信楽に生まれた人」だけが「死後、極楽に生まれられる」のだから、弥陀の正覚は「この世、信楽に生まれさせる」ことに懸けられている、と言わんとされているのである。

\( ̄ー ̄#)なんでやねん!

>「真実の信心(信楽)をえたる人のみ、本願の実報土によく入ると知るべし」
と明言され、「死後、極楽に生まれられる」のは、「この世、信楽に生まれた(不体失往生)」人のみである、といわれている。
 ↑
これを根拠に、
どうして、こういう解釈になるのよ?(苦笑)
 ↓

>だから弥陀の命は「不体失往生」に懸けられている、と開顕されているのが、釈迦の『成就文』であり、親鸞聖人の教えである。

繰り返しになるけど、
阿弥陀仏の本願の対象は「十方衆生」でっせ。
「十方衆生」が「信楽」になることを阿弥陀仏が誓い、
その誓いが成就しているなら、
「十方衆生」全てが「信楽」になって、
誰も迷いの世界に留まってないことになるんやで(苦笑)。


 参照→宿題4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。

そんでもって、親鸞聖人が、
「即得往生 住不退転」と「若不生者 不取正覚」を、
時間軸上別の時点に配置されていて、
この両者をイコールにするのが、
親鸞聖人の教えに抵触するっていうのも、
既に指摘済みでっせ(苦笑)。


 参照→宿題13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。


というか、
今回も自分逹のドグマに抵触しないように、
『尊号真像銘文』の都合の悪い箇所を、
意図的に省略しましたね(苦笑)。


★「至心信楽」というは、至心は、真実ともうすなり。真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし。濁悪邪見のゆえなり。信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。「乃至十念」ともうすは、如来のちかいの名号をとなえんことをすすめたまうに、遍数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかいたまえるなり。如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。『尊号真像銘文』

====結論出てるやん!====
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

----------------------------------------------------------------------
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
----------------------------------------------------------------------
※さすがに「平生業成」「現生不退」の意味を補っておられることに注目!
本願成就文の内容もちゃんと踏まえて本願文を解釈されていることが拝察されます。

----------------------------------------------------------------------
「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
----------------------------------------------------------------------
※それでもなお、「若不生者」を「【わが浄土に】もし生まれずは」としか解釈されていません。

『尊号真像銘文』は親鸞聖人83歳の時の著作ですから『教行信証』よりも後であり、
当然、主著である『教行信証』の内容を十分に踏まえた上で書かれたはずです。
何もかも承知の上で親鸞聖人自身が本願文36字を全部解釈されたこの文章のどこにも、
「信楽に生まれさせる」とは書かれていません。この事実だけで十分すぎるほど十分です。
議論する余地など初めから何もないのです。

もし「信楽に生まれさせる」という意味も本当はあるのに親鸞聖人が書き忘れた
とでも言うのなら、それは親鸞聖人に対する冒涜以外の何物でもなく、
そんな暴言を吐く輩は断じて「親鸞学徒」ではなく、「高森学徒」です!
====結論出てるやん!====
 ↑
この解説を踏まえて、
『尊号真像銘文』の親鸞聖人の解釈を、
時間軸上に配置するならば、


★この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。→1)の時点

★至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。→2)の時点

                                  第十一の願の
=前念(因) 介在時間0  =後念(果)     2)       必至滅度の願
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」「若不生者 不取正覚」成就
    ↓           ↓            ↓       ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・→極楽浄土へ往生→成 仏
    |           |           |      |
  十八願の真実の       |           |     等正覚にいたり
   信心をうれば→すなはち正定聚に住す        |     大涅槃を証する
           (この土の益)          |     (かの土の益)
      ↓       ↓              ↓      ↓ 
    【時間的に同時の「時分」】          【一念須臾のあひだ】
     1)

こうなることが、よい子のみんなはわかるよね?(苦笑)

というわけで、

34,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、親鸞聖人が時間軸上の別の時点に配置されている「この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり」と「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり」を、勝手に同時点に配置している。


それに「信楽すべしとすすめたまえる御ちかい」
と親鸞聖人が仰っているのに、


>弥陀の正覚は「この世、信楽に生まれさせる」ことに懸けられている

と解釈するのは、
誰がどう考えてもおかしいですわね(苦笑)。


というわけで、

35,『尊号真像銘文』の文を意図的に省略して解釈しているため、「信楽すべしとすすめたまえる御ちかい」と親鸞聖人が解釈しているものを、【弥陀の正覚は「この世、信楽に生まれさせる」ことに懸けられている】と解釈している。



田中氏のメールを、続けて検証していこう。

そうですか~?

こっちもチ●ーリップ企画のサイトを続けて検証しま~す♪
田中さんの主張を捏造するインチキ法論も暴くし、
親鸞聖人の教えに抵触するヘンテコドグマも晒します。


今からでも撤退した方がいいかもね?(苦笑)

宿題チェック【第23回】現当二益の法門

宿題に答えるのは、もう諦めたのかいな(苦笑)。
 ↓↓↓
ツッコミ!【第23回】現当二益の法門

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

21,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」という善知識の教えに抵触している。しかもそのことをチ●ーリップ企画(=親●会)が自分で論証してしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

22,古典文法&親鸞聖人の教えがわかっていないから、親鸞聖人の和讚をまともに解釈することができない。しかも文法上の誤りを指摘されても「間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と居直り、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」という蓮如上人の教えに反している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

23,「生るべからざるものを生れさせたれば」を現益に解釈しても当益に解釈しても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する根拠とはならない。しかし「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、そのことが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

24,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら「生まるべからざるもの」ならないという当然の論理的思考ができてない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

25,チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマに抵触しないように、『御文章』の文章を恣意的な形に省略して加工している。そのため「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」になるために、善知識が「弥陀の本願信ずべし」と教えられている部分も省略されている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!


※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】

弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、【第20回】他



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

26,苦笑に詳細な解説をしてもらったにも関わらず、未だに「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を正確に理解していないため、田中氏が指摘する問題点の重大さが未だにわかっていない。

27,「浄土真宗・親鸞聖人の教えは現当二益の法門であることは明々白々」ことを解説することによって、「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を理解していないチ●ーリップ企画(親●会)ドグマの誤りを自ら証明している。ただし「正定聚不退転の身(信楽)」という記述は、論拠に基づか(け)ないドグマである。

28,「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」という「正信偈」の言葉を、「この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである」と訳し、勝手に「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という新しいドグマを捏造している。しかもこのドグマを根拠に自説の正しさを証明しようとしている。もちろん勝手に捏造したドグマは根拠にはならない。

29,「往生」と「成仏」の間に時間を介在しないとしても、両者は全く別の概念である。したがって、【十一願の「必至滅度の願」が成就しているから極楽浄土に往生した人が間違いなく成仏できる】ということが、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張が正しいことの根拠とはならない。

30,「等覚を成り大涅槃を証する」と、明らかに「死後のこと」が書かれている『教行信証』の一文を引用し、【『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても】という以前の自説が誤りであることを自ら証明していながら、自説の撤回も謝罪もない。あるいは「正信偈」が『教行信証』に収録されていることを知らないで引用している。


もう宿題に答えるのは無理ですかね~?(苦笑)

50年間教えてきたことを訂正するのは、
まあこりゃ無理かな(苦笑)。
訂正したら、むしろ逆に尊敬するのにね~。

というか、新しくドグマ作りすぎだし(苦笑)。

ツッコミ!【第23回】現当二益の法門

第23回がアップされました。
 ↓↓↓
【第23回】現当二益の法門
http://shinjin.info/2008/11/231324161.html


『本願文』の「若不生者」の「生」が『成就文』の「即得往生」であり、親鸞聖人の「信受本願・前念命終、即得往生・後念即生」の現益であるとすれば、浄土真宗の教えは一益法門になるではないか、と田中氏は非難されている。


あ~ん?

これまで明かにしてきたように、

『本願文』の「若不生者」→当益(極楽浄土へ往生→成仏)
『成就文』の「即得往生」→現益(正定聚のくらいにさだまる)

というように、この二つは時間軸上異なった時点を扱ってます。
もちろんこの二つは密接な「関係」にあるわけやけど、
絶対にイーコールにはならへんわね(苦笑)。

まあ、これだけでも大間違いなんだけど、
チ●ーリップ企画(親鸞会)のドグマの最大の問題は、
当益にも現益にも絶対に必要な「条件」である「信楽」を、
勝手に現益ということにしちゃって、
阿弥陀仏の本願の内容を改変しちゃっていることですわ(苦笑)。

超優しい苦笑先生が、困ったちゃんな落第生にもわかるように、
ウルトラわかりやすい図で教えてあげたのに、
まだわかってないんかいな(苦笑)。


====エエ加減にせえよ!!====

=前念(因) 介在時間0  =後念(果)     
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」    「若不生者 不取正覚」
    ↓          ↓                ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
      ↓       ↓ 
    【時間的に同時の「時分」】

====エエ加減にせえよ!!====

というわけで、

26,苦笑に詳細な解説をしてもらったにも関わらず、未だに「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を正確に理解していないため、田中氏が指摘する問題点の重大さが未だにわかっていない。


浄土真宗・親鸞聖人の教えは、現当二益の法門であることは周知の事実である。
「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」    (教行信証)

『和讃』には、

「五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし」              (正像末和讃)

「真実信心うるひとは
すなわち定聚のかずにいる
不退の位にいりぬれば
かならず滅度にいたらしむ」              (浄土和讃)

親鸞、明らかに知らされた。現在、等覚の位にいる弥勒菩薩が仏覚を開くのは五十六億七千万年後であるけれど、「若不生者不取正覚」の弥陀の本願力によって、今生で他力金剛の信心(信楽)に生まれている者は、正定聚不退転の菩薩となり、肉体の命終と同時に無上の仏果を得るのである。

『浄土和讃』では、真実信心を獲た人は、正定聚不退転の身となる。正定聚不退転になっている人は、必ず死ねば浄土へ往き仏覚が得られるのである(滅度にいたらしむ)、と阿弥陀仏の救いに二益あることを鮮明に説かれている。

蓮如上人も、こう詳述される。
「一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば二益なりと思うべきものなり」  (御文章)

「若不生者不取正覚」の誓いによって、一念発起のときに正定聚(信楽)に生まれるのである。これは此の娑婆世界でのことである。
正定聚不退転の身(信楽)に生まれた人が仏覚を開くのは、極楽浄土へ往ったときのことである。だから親鸞聖人の教えは二益法門であることを知らねばならない。

これらの文証でも明らかなように、浄土真宗・親鸞聖人の教えは現当二益の法門であることは明々白々である。


だから何?(苦笑)

>「浄土真宗・親鸞聖人の教えは現当二益の法門であることは明々白々」
  ↑
こんなことは、オタクのサイトを見ている人は、
み~んな知ってっちゅうねん(苦笑)。

あと、

>正定聚不退転の身(信楽)
  ↑
こういう風に、さりげなくヘンテコドグマを混入するのは、
もうそろそろやめてくれませんかね~(苦笑)。

まあ、

それなのに、『本願文』の「若不生者」の解説が『成就文』の「即得往生」であり、その「即得往生」が「信楽に生まれる」ことだとすると、『本願成就文』以外説かれなかった親鸞聖人の教えは現益のみの一益法門になるではないか、と思われる方があるかも知れぬ。

事実、田中氏も、それでは親鸞聖人や蓮如上人の現当二益の法門にはならない、とチューリップ企画の主張を繰り返し激しく非難され一方的に論戦を打ち切っていられる。

と自分で言っているように、
ヘンテコドグマを混入した部分を除けば、

「浄土真宗・親鸞聖人の教えは
現当二益の法門であることは明々白々」
であることを解説したさっきの部分は、
「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を理解していない
チ●ーリップ企画(親●会)ドグマのヘンテコさを、
頼みもしないのに自分で証明しちゃっているんだけどね(笑)。


というわけで、

27,「浄土真宗・親鸞聖人の教えは現当二益の法門であることは明々白々」ことを解説することによって、「信楽」「現益」「当益」が意味している概念を理解していないチ●ーリップ企画(親●会)ドグマの誤りを自ら証明している。ただし「正定聚不退転の身(信楽)」という記述は、論拠に基づか(け)ないドグマである。



だが、その非難は全くあたらないのである。第十八願「若不生者のちかい」は選択の本願であり、今生で信楽(正定聚不退転)に生まれている人が必ず往生し仏になれるのは、十一願の「必至滅度の願」が成就しているからであると、親鸞聖人は次のように仰っている。

「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」 (正信偈)
意味は、この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである、と断言されている。

阿弥陀仏の第十一願には、次のように誓われているから「必至滅度の願」と言われる。
「設我得仏 国中人天 不住定聚
必至滅度者 不取正覚」
分かり易くすると、こうなる。
「設ひ我仏を得んに、国の中の人天、
定聚にも住し、必ず滅度に至らずば、
正覚を取らじ」

この弥陀の『十一願』を、釈迦は『十一願成就文』に、こう解説されている。
「其れ衆生有りて、彼の国に生まるる者は、
皆悉く正定之聚に住す。所以は何ん、彼の
仏国の中には、諸の邪聚及び不定聚無けれ
ばなり」

親鸞聖人は、『本願成就文』の「即得往生住不退転」を根拠に、「国の中の人天」を「信心歓喜乃至一念で国の中の人天」(十八願の人)になるのだと断定し、「生彼國者」を 「彼の国に生まるる者は」と読まれたのだ。それは邪定聚(十九願の人)や不定聚(二十願の人)は、この娑婆にいるのであって彼の極楽浄土にはいないからである。

必至滅度の願 難思議往生
「謹んで真実證を顕はさば、則ち是れ、利他
円満の妙位、無上涅槃の極果なり」
「則ち是れ、『必至滅度の願』より出でたり、
亦『證大涅槃の願』と名くるなり」
(教行信証證巻)


\( ̄ー ̄#)なんでやねん!


十一願の「必至滅度の願」が成就しているから、
極楽浄土に往生した人が間違いなく成仏できるのは確かだけど、

>「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」 (正信偈)
 ↑
どのような回路でこれが、

>意味は、この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、
>必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである、
 ↑
こういう意味になるんですかいな(苦笑)。

「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という意味は、
どう考えても「正信偈」からは導き出せません。新たなドグマを捏造ですか?(苦笑)

どんだけ新しいドグマを捏造しても、
チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマが、
正しいという根拠には全然なりまへんで(苦笑)。


というわけで、

28,「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」という「正信偈」の言葉を、「この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである」と訳し、勝手に「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という新しいドグマを捏造している。しかもこのドグマを根拠に自説の正しさを証明しようとしている。もちろん勝手に捏造したドグマは根拠にはならない。



更に言うと、「信楽」「現益」「当益」
それぞれが意味している概念をまるで理解していない、
チ●ーリップ企画(親●会)ドグマの間違は、


★本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願(第十八願)を因とす。
等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。
『教行信証』行巻「正信偈」

親鸞聖人のこの言葉に対する、
蓮如上人の以下の解説からも証明できまっせ(苦笑)。

★「本願名号正定業」といふは、第十七の願のこころなり。十方の諸仏にわが名をほめられんと誓ひましまして、すでにその願成就したまへるすがたは、すなはちいまの本願の名号の体なり。これすなはち、われらが往生をとぐべき行体なりとしるべし。
 「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。『和讃』(高僧和讃・二〇)にいはく、「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり」といへり。これをもつてこころうべし。
『正信偈大意』


赤字に注目してや!

「第十八の真実の信心をうれば」→「すなはち正定聚に住す」
というように、明確に因果関係になっていて、
絶対にイコールじゃありまへん(苦笑)。

そんでもって、「すなはち正定聚に住す」になった人が、
最終的に「等正覚にいたり大涅槃を証する」(=成仏)になるのが、
「第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり」ということだけど、

「等正覚にいたり大涅槃を証する」(=成仏)前段階に、
「極楽浄土へ往生」があるわけで、
それが「若不生者 不取正覚」であることは、
よい子のみんなは、もうわかるよね?(苦笑)

親鸞聖人は「往生即成仏」を主張しておられるわけだけど、

★横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。『教行信証』信巻

「無上正真道を超証す」のは「大願清浄の報土」で、
「一念須臾のあひだに」
「すみやかに疾く無上正真道を超証す」とあるように、
「往生→成仏」の間に時間を介在しないわけだけど、
「往生=成仏」ということでは、決してありまへんで(苦笑)。


だから、

 信受本願      → 真実信心を得る
 即得往生、住不退転 → 正定聚のくらいにさだまる
 若不生者 不取正覚 → 極楽浄土へ往生
 必至滅度の願成就  → 成仏
 
これらは全部別の概念なんだから、
きちんと整理して理解しなきゃだめだよん(苦笑)。

僕ちゃんの印象としては、親●会っちゅうのは、
時間を介在しない因果関係を、
勝手にイコールにしちゃう傾向にあるけど、
「→」と「=」は違いますから、絶対に区別せなだめよ(苦笑)。



これもわかりやすく図にしてあげるから、ちゃんと理解してね

                                  第十一の願の
=前念(因) 介在時間0  =後念(果)              必至滅度の願
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」「若不生者 不取正覚」成就
    ↓           ↓            ↓       ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・→極楽浄土へ往生→成 仏
    |           |           |      |
  十八願の真実の       |           |     等正覚にいたり
   信心をうればすなはち正定聚に住す        |     大涅槃を証する
           (この土の益)          |     (かの土の益)
      ↓       ↓              ↓      ↓ 
    【時間的に同時の「時分」】          【一念須臾のあひだ】


というわけで、

29,「往生」と「成仏」の間に時間を介在しないとしても、両者は全く別の概念である。したがって、【十一願の「必至滅度の願」が成就しているから極楽浄土に往生した人が間違いなく成仏できる】ということが、チ●ーリップ企画(=親●会)の主張が正しいことの根拠とはならない。



最後に、

>『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、
(6月23日)


という発言がとんでもないマチガイなことを、
今回、自分でガッツリ証明してしまいましたね~(苦笑)。



>「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」 (正信偈)


「等覚を成り大涅槃を証する」って、
ガッツリ「死後のこと」ですやん(苦笑)。

それとも「正信偈」が『教行信証』に収録されてるの、
まさか知らなかったのでしょうかね~?(苦笑)


というわけで、

30,「等覚を成り大涅槃を証する」と、明らかに「死後のこと」が書かれている『教行信証』の一文を引用し、【『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても】という以前の自説が誤りであることを自ら証明していながら、自説の撤回も謝罪もない。あるいは「正信偈」が『教行信証』に収録されていることを知らないで引用している。


いつも言ってることだけど、
その場の思いつきで発言するから、
後になって困ることになるのよ(苦笑)。
発言には責任をもってちょんまげ(苦笑)。

宿題チェック【第22回】「若不生者」で「生まれさせられる」もの

宿題増えるだけでっせ。大丈夫かいな(苦笑)。
 ↓↓↓
ツッコミ!【第22回】「若不生者」で「生まれさせられる」もの

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」を「信後の世界」に勝手に改変している。">5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できず、死ぬ前には後生未来のことがわからない信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。">6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。">7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。">8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。">9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。">10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。">11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。">12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている扱っている。">13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している。">14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。">15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。">16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。">17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。">18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。">19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。">20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

21,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」という善知識の教えに抵触している。しかもそのことをチ●ーリップ企画(=親●会)が自分で論証してしまっている。">21,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」という善知識の教えに抵触している。しかもそのことをチ●ーリップ企画(=親●会)が自分で論証してしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!


※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

5,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになった。">A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】

弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、【第20回】他



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親鸞会ドグマに基づいて勝手に解釈した。">C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

22,古典文法&親鸞聖人の教えがわかっていないから、親鸞聖人の和讚をまともに解釈することができない。しかも文法上の誤りを指摘されても「間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と居直り、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」という蓮如上人の教えに反している。">22,古典文法&親鸞聖人の教えがわかっていないから、親鸞聖人の和讚をまともに解釈することができない。しかも文法上の誤りを指摘されても「間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と居直り、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」という蓮如上人の教えに反している。

23,「生るべからざるものを生れさせたれば」を現益に解釈しても当益に解釈しても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する根拠とはならない。しかし「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、そのことが理解できていない。">23,「生るべからざるものを生れさせたれば」を現益に解釈しても当益に解釈しても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する根拠とはならない。しかし「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、そのことが理解できていない。

24,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら「生まるべからざるもの」ならないという当然の論理的思考ができてない。">24,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら「生まるべからざるもの」ならないという当然の論理的思考ができてない。

25,チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマに抵触しないように、『御文章』の文章を恣意的な形に省略して加工している。そのため「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」になるために、善知識が「弥陀の本願信ずべし」と教えられている部分も省略されている。">25,チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマに抵触しないように、『御文章』の文章を恣意的な形に省略して加工している。そのため「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」になるために、善知識が「弥陀の本願信ずべし」と教えられている部分も省略されている。



一つアドバイスしてあげるけど、
チ●ーリップ企画(親●会)が更新するから、
ボコボコにツッコミ入れられるのよ(苦笑)。
ショウモナイ言い訳しなけりゃ、
こんな無様なことにならなかったのにね。

どんだけ醜態を晒すつもりなの?(苦笑)
もう、どうなっても知りまへんで~(苦笑)。

ツッコミ!【第22回】「若不生者」で「生まれさせられる」もの

第22回がアップされました。
 ↓↓↓
【第22回】「若不生者」で「生まれさせられる」もの
http://shinjin.info/2008/11/171401160.html

我々を、今までも、今も、今からも苦しめ続ける最も怖ろしい、親鸞聖人の「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とは何か。また「疑情」と言われているものは如何なるものか。それが「信受本願」の一念に死ぬと言われているものとは一体、どんな心であろうか。

世間では我々を苦しめているものは、欲や怒りや愚痴の煩悩だと思われているが、親鸞聖人は三世を貫いての苦悩の元凶は、そんな煩悩ではないことを教えられている。ではその元凶はなにか。

お聖教には種々の言葉で説かれている。已に挙げたように親鸞聖人は「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とも「疑情」とも言われている。また「本願疑惑心」とか、「仏智疑う心」とか、「無明長夜の闇」とも仰っている。

覚如上人は「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情」とか、「生まるべからざる心」と言い、蓮如上人は「往生不定の心」とか「二心」とか「雑行雑修自力の心」など種々教導なされているものである。

一言で言えば、「弥陀の本願」を疑っている心であり「死んだらどうなるかハッキリしない心」だ。いざ真面目に自分の死を凝視すると、「若存若亡」(ある時は助かるように思い、ある時は助からぬのではなかろうかと危ぶむ心)「往生不定の心」(浄土へゆけるかどうか、ハッキリしない心)「死んだらどうなるのだろう」「ひょっとしたら悪い処へゆくのでなかろうか」「このままでよいのだろうか」

「弥陀は本当に助けてくださるのだろうか」「俺の信心これでよいのであろうか」「ひょっとしたら間違っているのでなかろうか」などの心、総べてを言う。


だから何?(苦笑)

以上の解説は、以下のヘンテコドグマを誤魔化すための、
ブレンド隠蔽工作ですね(苦笑)。


この三世を徹して苦しめる元凶(三世の業障)を「必ず、一念で晴らし大安心の心(信楽)に生まれさせる。若し、生まれさせることができなかったら、正覚を取らぬ」と誓われているのが、「若不生者不取正覚」の弥陀の八文字なのである。


おいおい。。(苦笑)

このように主張することの根拠がないから、
ツッコミをボコボコ入れられているのに、
論拠に基づか(け)ないまま、
このドグマを前提に議論するのはおかしいって、
何度教えてあげたら、わかるんですかね~(苦笑)。

どんだけ誤魔化そうとしても、
論拠に基づか(け)ないことは明々白々でっせ(苦笑)。


この弥陀の誓い通り、本願を信受した一念に三世の業障が死(命終)んで、弥陀の浄土へ往生間違いなし(即生)と、本願に疑い晴れて大満足の心に生まれられた(不体失往生)のを親鸞聖人は、「まことなるかなや、攝取不捨の真言、超世希有の正法」と慶喜なされ、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことに時いたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」
と和讃なされているのである。


あ~ん?(苦笑)

この和讚に対する、チ●ーリップ企画(=親●会)の解釈が、
古典文法&親鸞聖人の教えがわかってないことに起因する、
とんでもヘンテコ解釈であることは、
既に晒し者にされてるんですけど、もうお忘れですか?(苦笑)


===古典文法&親鸞聖人の教えをもう一回勉強してね♪===
【田中さんの反論】
>それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。


 少しでも古文の知識があれば、読み間違えるはずのない文章だと思いますが、なぜ間違われたか不思議です。


 これは、阿弥陀仏が「若不生者」と誓われているから、「信楽まことにときいたり、一念慶喜する」人は、「(死んで)往生かならず定まりぬ」ということです。信楽になる時が至り、一念で慶喜する身になった人は、死んで必ず極楽に往生させると誓われたのが、弥陀の十八願だという意味です。

 貴方は「ときいたり」で文章を切って理解しておられるようですが、ここで切るならば、終止形の「いたる」(過去形なら「いたりき」)とならねばなりません。親鸞聖人が、こんな文法のミスをされるはずが無いと思います。

 また、これは十八願の解説ですから、親鸞聖人の解釈を元に読まねばなりません。

 尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。


 つまり、文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。



>ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。


「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。

【清森さんの補足説明】
「若不生者のちかいゆえ」の御和讃については、「時至り」の解釈が問題になると思いますが、古文の文法については、詳しく知りませんので、古文を教えている知り合いに、文法的な意味を教えてもらいました。

 以下に引用させて頂きましたが、やはり、「若不生者と誓われているから、信楽がまことに時至るのだ」とは読めないようです。

        *      *      *

>  さて、ご質問の件ですが、“至り”という単語は、古語ではラ行四段活用になり、
>
> 語幹 -至
> 未然形-ら
> 連用形-り
> 終止形-る
> 連体形-る
> 已然形-れ
> 命令形-れ
>
>  このように活用します。“至り”は連用形ということです。
>  連用形には、4通りの使い方があります。
>
> 1、用言が続く(連用法)
> 2、文を一旦区切って、そのまま次に続ける(中止法)
> 3、名詞に転じる
> 4、助動詞、助詞が付く
>
>  ご質問の文章では、“至り”で止めてありますので、2か3の用法です。
>
> 2は、現代語で分かりやすく言えば、“酒を飲み(連用形)、酔っぱらって帰った”というような使い方です。
> 3は、例えば“遊び”という“遊ぶ”の連用形が、名詞のように使われている場合です。(ちなみに古語では“演奏”という意味です)
>
>  ご質問の文章では、名詞的に使われていませんので、2の用法になります。
>  ですから、御返答としましては、
>
> “信楽まことに時至り”で切ることはできませんので、“信楽まことに時至り、一念慶喜する人”を、一つの言葉として、訳してください。
>
        *      *      *

 上記の説明からも、この御和讃は、

阿弥陀仏が、若不生者と誓われているから、
『信楽にさせていただける時がまこと至って、一念慶喜する身になった人』は、
必ず浄土往生できると定まるのだ。

と理解するのが正しいと思います。

「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。
貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。

 ↑
もちろんこれもアウトね(苦笑)。

親鸞会教義の相対化・73(投稿)より
(89)
一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。

===古典文法&親鸞聖人の教えをもう一回勉強してね♪===

というわけで、

22,古典文法&親鸞聖人の教えがわかっていないから、親鸞聖人の和讚をまともに解釈することができない。しかも文法上の誤りを指摘されても「間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか」と居直り、「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」という蓮如上人の教えに反している。


覚如上人は、この弥陀の本願の救いを『改邪鈔』に、『本願の不思議をもって、生るべからざるものを生れさせたればこそ、「超世の悲願」とも名け、「横超の直道」とも聞えはんべれ』
と教導なされている。

この「生るべからざるもの」が「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情」であり、「生まれさせた」が「信楽に生まれた」ことである。こんな不思議な弥陀の本願だから「本願の不思議をもって」と覚如上人は言われて、だからこそ弥陀の本願を「超世の悲願」とも「横超の直道」とも教示なされているのだ、と仰っているのである。


あ~ん?(苦笑)

覚如上人『改邪鈔』のこの「生るべからざるものを生れさせたれば」に対する、
チ●ーリップ企画(=親●会)の解釈に関しては、
現益と解釈した上で「信楽に生まれた」と解釈しない田中さんと、
当益にも解釈することができるため「信楽に生まれた」と解釈しないBさんの、
二つの反論が出されていますが、
チ●ーリップ企画(=親●会)は、何れに対しても答えていませんね~。

===これが目に入らぬか!!===
【田中さんの解説】
この改邪抄の記述は、少し前の部分の「仏、願力の不思議をもって無善造悪の凡夫を摂取不捨したまう時は」の解説です。つまり、「生まるべからざるもの」とは「無善造悪の凡夫」のことであり、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のことを表しています。

「摂取不捨したまう時」とは、歎異抄一章に『「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめ給ふなり。』と記述されている通りです。

この 「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、という部分は、本願文の「至心信楽欲生我国」に当たります。根拠は既出ですが、

『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。』

さらに、この摂取不捨の利益にあづかった人が、極楽浄土に生まれなければ仏にならないと誓われたのが「若不生者」だと、記述されています。

『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

このように、親鸞聖人の記述から、改邪抄の「生まれさせた」は、生きている間であり、「若不生者」の「生」は死後であることが明らかです。

【チ●ーリップ企画の解釈に対する田中さんのツッコミ】
>「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。

貴方の主張は、「阿弥陀仏が、必ず極楽に生まれさせると誓われなくても、信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」ということですか?

>それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。

『その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。』

上記は、貴方の言葉ですが、何に全力を尽くすのですか?

>「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。

「阿弥陀仏が、必ず信楽に生まれさせると誓っておられるから、必然的に信楽になれる」と主張されているのは、貴方ではありませんか?

必然的に信楽になれるのなら、なぜ「難し」と言われるのでしょう。

上記の根拠は、貴方の主張が間違っている証拠です。

>「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」いう可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。

つまり、「若不生者」は「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」という意味だと、認めたということですか?

※苦笑注 次ぎのメールで田中さんの質問をチ●ーリップ企画はオール無視!!(苦笑)


→「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら、
 「生まるべからざるもの」になりましぇ~ん(苦笑)。


【Bさんの解説】
今、一番の問題となっているのは覚如上人の
「生るべからざるものを生れさせたればこそ」
というお言葉が現益・当益のどちらを言われたものか、という点です。あの後、調べてみたら、その文の前にある「往生浄土の器もの」という言葉を受けて、実際に当益と解釈している本が見つかりました。私はその説を支持します。あなたが「現益だ」と主張されるのであれば、その理由を明確に述べてください。

>「生まれさせたればこそ」が当益ならば「生まるべからざるもの」とは何ですか。
> 正定衆の菩薩が死んで仏に生まれても、何の不思議ですか?

信楽を獲た人は、法徳から言えば「正定衆の菩薩」ですが、機相から言えば「煩悩具足の凡夫」のままですから、「生まるべからざるもの」であることに変わりはありません。「生まれさせたればこそ」が当益であると仮定しても何も矛盾しませんよ。

(略)

その進道の階次をいうとき、ただおなじき座席なり。しかるうえは、かならずしも俗の二種をしりぞけて、道の二種をすすましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちいる条、本形としては、往生浄土のうつわものにきらわれたるににたり。ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。


『浄土に生まれ、順序を言う時は、いずれも同じ座席についているのである。こうした訳だから、俗の二種を低く押し退けて、僧の二種を高く押し進ませる必要はないのに、婦人や在俗のものが、強いて法名を用いるのは、いかにもそのままの形では、浄土に生まれる器ではないと、嫌われているかのようである。ただ男女・善悪の愚かな人に、さかしらな才能を働かせない生地のままの姿において、本願の不思議な働きによって、浄土に生まれることが出来ないものをも生まれさせたからこそ、「いつの世にも超え勝れた願」と名づけたり、「一足とびにさとることの出来る捷径」ともいわれる訳である。この一章は、ことに曾祖師、並びに祖師以来、相伝え、受け継いできた眼目であって、強いてかりそめに扱ってはならないものである。』

(【改邪抄】親鸞述 石田瑞磨訳 平凡社)
===これが目に入らぬか!!===

というか、
「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が、
違うものであることがわかっていれば、

この「生るべからざるものを生れさせたれば」を、
現益に解釈したとしても当益に解釈したとしても、
チ●ーリップ企画(=親●会)のように、
「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する、
根拠にしちゃうのがおかしいことは、
一発でわかるんだけどね(苦笑)。


というわけで、

23,「生るべからざるものを生れさせたれば」を現益に解釈しても当益に解釈しても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」と解釈する根拠とはならない。しかし「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、そのことが理解できていない。

24,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」が違うものであることがわかっていないため、「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら「生まるべからざるもの」ならないという当然の論理的思考ができてない。


蓮如上人は『御文章』に、
『「不可称・不可説・不可思議の功徳」ということは、数限りもなき大功徳のことなり。この大功徳を、一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に廻向しまします故に、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり』 と詳述される。


あ~ん(苦笑)

一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、『和讃』(正像末和讃・三一)に聖人(親鸞)のいはく、「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」。この和讃の心は、「五濁悪世の衆生」といふは一切われら女人悪人のことなり。さればかかるあさましき一生造悪の凡夫なれども、弥陀如来を一心一向にたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんものをば、かならずすくひましますべきこと、さらに疑ふべからず。かやうに弥陀をたのみまうすものには、不可称不可説不可思議の大功徳をあたへましますなり。「不可称不可説不可思議の功徳」といふことは、かずかぎりもなき大功徳のことなり。
この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。このこころをまた『和讃』(正像末和讃・一)にいはく、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり」(意)といへり。「摂取不捨」といふは、これも、一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を光明のなかにをさめとりて、信ずるこころだにもかはらねば、すてたまはずといふこころなり。
このほかにいろいろの法門どもありといへども、ただ一念に弥陀をたのむ衆生はみなことごとく報土に往生すべきこと、ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。『御文章』5ー6


赤字に注目!!

「一念に弥陀をたのみたてまつる」
「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば」
「弥陀如来を一心一向にたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さん」

これらは私達がしなけりゃいけないことで、
衆生がこれをすることによって、
「一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しまします」
「不可称・不可説・不可思議の功徳」を頂いて、
「過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり」
になるんでっせ~。

言い換えると、
「一念に弥陀をたのみまうす」でない「衆生」だったら、
「不可称・不可説・不可思議の功徳」は頂けないし、
「過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり」
にはなりませんってことですがな(苦笑)。

だからこそ、

「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな」

と善知識は教えておられるわけですよ(苦笑)。

ぶっちゃけ、親●会って、
「弥陀如来を一心一向にたのみまゐらせて、
後生たすけたまへと申さん」
ことの大切さをちゃんと教えてます??(苦笑)

高●先生に無条件服従して、
高●先生の話を聞いて親●会に財施するだけじゃ、
「不可称・不可説・不可思議の功徳」は頂けないし、
「過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり」
には絶対なれへんで!(苦笑)

「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」
を本当に目指してます?どう?大丈夫??(苦笑)


25,チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマに抵触しないように、『御文章』の文章を恣意的な形に省略して加工している。そのため「ただ一念に弥陀をたのむ衆生」になるために、善知識が「弥陀の本願信ずべし」と教えられている部分も省略されている。



これら善知識方が揃って『本願文』の「若不生者」の「生」は、釈迦の『成就文』の「即得往生」であり、親鸞聖人の仰せの通り「信受本願・前念命終・即得往生・後念即生」であることを、重ね重ね鮮明になされていることが知らされる。


そうですか~?

善知識方がそろって、チ●ーリップ企画(=親●会)ドグマのヘンテコさを、
重ね重ね鮮明になされていることが知らさせる。

の書き間違えだと思いますけどね~(苦笑)。

今後も見苦しい更新は続けるんですか?


ますます醜態を晒すことになりますけど、
本当にいいんですかね~?

ボコボコにしている僕が言うのも何ですが、
シャレになりませんで。もう(苦笑)。

宿題チェック【第21回】苦しみ悩み流転輪廻する真因

今回も、宿題が全然できてませんね(苦笑)。
 ↓
ツッコミ!【第21回】苦しみ悩み流転輪廻する真因

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!


※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】

弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、【第20回】他



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

21,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」という善知識の教えに抵触している。しかもそのことをチ●ーリップ企画(=親●会)が自分で論証してしまっている。

ツッコミ!【第21回】苦しみ悩み流転輪廻する真因

第21回がアップされました。
 ↓↓↓
【第21回】苦しみ悩み流転輪廻する真因
http://shinjin.info/2008/11/111757159.html

如何に我々が「信楽の身に生まれる」ことの難しいかを、先回、釈迦や親鸞聖人のお言葉で教えて頂いた。次に蓮如上人のご教導を聞いてみよう。

蓮如上人は『御文章』に、前掲の『大経』の「易往而無人」の釈迦のお言葉を、次のように詳説されている。
「これによりて『大経』には『易往而無人』とこれを説かれたり。この文の意は、『安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども、信心をとる人稀なれば浄土へは往き易くして人なし』と言えるはこの経文の意なり」
釈迦が『大無量寿経』に「易往而無人」と説かれている意味は、「信楽」の身に生まれた人は浄土へは往き易いが(安心を取りて弥陀を一向にたのめば浄土へは参り易けれども)、
「信楽」の身に生まれた人が稀にしかないので(信心をとる人稀なれば)、浄土へ往く人がないのだ(浄土へは往き易くして人なし)、と如何に「信楽」の身に生まれる人の少ないかを教示なされている。

このように、いずれの善知識方も等しく我々の「信楽」に生まれることの難しいことを強調していられる。
弥陀が名号を誠心誠意与えようとされているのに、なぜ、こんなに「信楽」を獲る人がないのであろうか。

それについて親鸞聖人は『教行信証』に、こう教誡なされている。
「悲しいかな、垢障の凡愚、無際より已来、助・正間雑し、定・散心雑わるが故に、出離その期無し。
自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。良に傷嗟すべし、深く悲嘆すべし」

折角、弥陀が「名号」を誠心誠意与えようとされているのに、それを拒絶しているから大信海に入れず、果てしない微塵劫の過去から今日今時まで、苦しみ続ける悲しい人とならねばならぬのである。原因は、偏に「助・正間雑し、定・散心雑わるが故に」と、断言されている。

また、『正信偈』には、こう教導されている。
「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す」
この意味は、私たちが果てしない過去から今日まで、車輪が果てしなく廻って終わりがないように、苦しみ悩みの迷いの世界を経めぐって終わりがないのは、全く「疑情」一つなのである、と断言されているお言葉だ。

また『高僧和讃』には、次のように教えていられる。
「真の知識にあうことは
難きがなかになを難し
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき」

これは、私たちが真実の仏法を伝える方に邂逅することは、千載一遇の難事の中の難の難事、滅多にないことなのである。真実の仏法を伝える方とは、我々が果てしない過去から今日今時まで、苦しみ悩みの迷いの世界を輪廻して終わりがないのは、全く弥陀の本願を疑う「疑情」一つであると教える人であると言われているお言葉である。



だから何?(苦笑)

というか今回の解説は、
チ●ーリップ企画(=親●会)のヘンテコドグマが、
めちゃくちゃ間違っていることを、
親鸞聖人や蓮如上人の言葉に基づいて、
自分で証明しちゃったということですかね?(苦笑)
 ↓
論拠に基づか(け)ないチューリップ企画(=親●会)のヘンテコドグマ(苦笑)

釈迦の『成就文』によって、弥陀の「若不生者」の「生」は「死んで極楽へ生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことであることが明らかになった。

言い換えれば、弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、「若し、極楽に生まれずは正覚を取らぬ」ではなく、「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」というお約束だということである。
されば弥陀が「若」の一字に正覚(命)を懸けていられるのは、まさしく「信楽」であることは明らかだろう。



今回チ●ーリップ企画(=親●会)が挙げた言葉は、
阿弥陀仏が本願を成就し、
十方衆生を救済するシステムが完成したのに、

「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」
「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」


ということを教えてくださっている言葉ですよん。

もしも、チ●ーリップ企画(親●会)が主張するように、
阿弥陀仏が「信楽」になることに、
「正覚(命)を懸けていられる」とするならば、

阿弥陀仏が「信楽」になることに、
「正覚(命)を懸けていられる」にも関わらず、
十方衆生に関して「信心をとる人は稀」とか
「疑情があるために輪廻してしまう」ということになり、
阿弥陀仏の本願はまだ成就しておらず、
阿弥陀仏はまだ仏になっていない。


・・というとんでもないことになっちゃうやん(苦笑)。

しかし、実際には本願は成就されてて、
ちゃんと阿弥陀仏は仏になってるわけから、
阿弥陀仏の本願も親鸞聖人の解釈にも何の問題はなく、
ヘンテコはチ●ーリップ企画(=親●会)だけ(苦笑)。


というわけで、

21,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「信心をとる人が稀だから極楽に往生できる人が少ない」「衆生に疑情があるために輪廻してしまう」という善知識の教えに抵触している。しかもそのことをチ●ーリップ企画(=親●会)が自分で論証してしまっている。


幸福一つを求めて生きている我々を、果てしない過去から今日まで苦しめ続けてきた最も怖ろしいもの、それを親鸞聖人は「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とか「疑情」と言われている。
「助・正間雑し、定・散心雑わる心」とか「疑情」とは一体、どんなものなのだろうか。次に解明しなければならないであろう。


ふ~ん(苦笑)。

結局何がしたいのよ?(苦笑)
ヘンテコドグマを土台にして、
その上にどんだけぐちゃぐちゃ解説を積み重ねても、
聴衆を正しい方向に導くことはできませんがね(苦笑)。


★法にはあらめなるがわろし。世間には微細なるといへども、仏法には微細 に心をもち、こまかに心をはこぶべきよし仰せられ候ふ。『蓮如上人御一代記聞書』no.128

仏法のことに関しては、あらめ(大雑把)じゃアカン!
どんな細やかなことにでも心を配っていかなアカン!

蓮如上人が教えておられるように、
もうちょっと緻密に論を展開してちょうだいね(苦笑)。


宿題チェ~ック!!

さてさて、宿題はどないなってますやろな(苦笑)。

ツッコミ!【第20回】なぜ若不生者と誓われたのか

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】

弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、【第20回】他



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。

ツッコミ!【第20回】なぜ若不生者と誓われたのか

第20回がアップされました。
 ↓↓↓
【第20回】なぜ若不生者と誓われたのか
http://shinjin.info/2008/11/061012158.html

もう二度と更新しないのかと思ってたよ(笑)。

釈迦の『成就文』によって、弥陀の「若不生者」の「生」は「死んで極楽へ生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことであることが明らかになった。


あ~ん(苦笑)。

前回までに明らかになったのは、
認知バイアスが掛かっていて
親鸞聖人の言葉をまともに読ま(め)ず、

論証責任を果たさ(せ)ないまま
ヘンテコドグマをまき散らしている。

チ●ーリップ企画(親●会)が、
どういう団体かということだけですね~(苦笑)。



そんでもって以下のものが、何の論拠にも基づか(け)ない、
チ●ーリップ企画(=親●会)のヘンテコドグマですが、

 ↓↓↓

言い換えれば、弥陀が「若し、生まれずは私は正覚を取らぬ」と誓われているのは、「若し、極楽に生まれずは正覚を取らぬ」ではなく、「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」というお約束だということである。
されば弥陀が「若」の一字に正覚(命)を懸けていられるのは、まさしく「信楽」であることは明らかだろう。

前述したように、弥陀は我々を破闇満願(信楽)の身にする働きのある名号を完成され、「信楽」の身に救おうとして誠心誠意、その名号を我々に与えようとされている。
その弥陀が、なぜ「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」と、正覚(命)を懸けてまで誓われねばならなかったのか。そんな必要がどこにあったのであろうか。


上記ヘンテコドグマが、
以下の解説と矛盾していることが、
理解できませんかね~?(苦笑)

 ↓↓↓

その理由は、実に我々自身にあったのである。我々の心(自力)が弥陀の本願を疑い、誠心誠意与えようとされている名号(他力)を頑なに拒絶し、全く受け取る余地のない我々を見抜いてのことであったのである。

釈迦はその実態を『大無量寿経』に、こう説かれている。
「易往而無人」(弥陀の浄土へは、往き易いけれども、人なし)。
親鸞聖人は、この釈迦のお言葉を以下のように解説される。

『「易往而無人」というは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ往き易きなり、「無人」というは、ひとなしという、ひとなしというは、真実信心の人はありがたき故に実報土に生るる人稀なりとなり』 (尊号真像銘文)

「弥陀の浄土へは往き易い」と釈迦が言われているのは、「本願力に乗ずれば(信楽)本願の実報土に生るること疑なければ往き易きなり」といい、往き易いと仰っているのは、信楽の身になっている人のことである。

「ひとなし」と言われているのは、「真実信心(信楽)の人はありがたき故に、実報土に生るる人稀なりとなり」と仰って、「信楽に生まれた人」が稀だからである、と教えられている。

また、こうも仰っている。
「然るに常没の凡愚・流転の群生、無上妙果の成じ難きにはあらず、真実の信楽実に獲ること難し」 (教行信証)

総べての人は(常没の凡愚・流転の群生)、弥陀の浄土へ往って無上の仏覚を得ることが難しいのではないのだ。
難しいのは弥陀の浄土へ往ける身(信楽)に成ることなのだ、という教誡である。

釈迦や親鸞聖人のこれらのご教導は、いずれも我々が「信楽の身に生まれる」ことの如何に難しいかを教誡されたものだが、それはそのまま、いかに我々の心(雑行雑修自力)の迷心が深くて強いかを教示なされたものと言えよう。



というか、ず~と前に丁寧に教えてあげてるんですが、
完全無視ですか?(苦笑)
これはちょっと~無視しちゃアカンでしょ??(苦笑)

=====今度はちゃんと読んでよ!!=====
阿弥陀仏が信心を与えてくれる=衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている

ではないですわね(苦笑)。

●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。『教行信証』信巻

繰り返しになりますが、
「仏願の生起本末」を衆生が「聞きて疑心あることなし」になったら、
「本願力回向の信心」を獲得するから、極楽浄土に往生できることが確定すると、
親鸞聖人は述べておられます。

逆に言うなら、衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、
「本願力回向の信心」を獲得することができないから、
極楽浄土に往生することは確定しないことが明かですわ~ね。

そんでもって、

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。『尊号真像銘文』


阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、
衆生がそれを受け取らないもんだから、
残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるわけですわ~ね。

だからこそ、「ど真剣な聞法」を奨めるちゅうのが、
親●会の一番いい所だと思ってたんですけど、違ってました?(苦笑)

「火の中を、わけても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」
という蓮如上人の言葉でない言葉を、蓮如上人の言葉と捏造してまで、
「ど真剣な聞法」を奨めているくせに、

衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓ってたら
その真剣な聞法をなんでやってるんですか?(苦笑)


「ど真剣な聞法をしなければ信楽になれない!」
「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている!」


どう考えてもこの二つは矛盾してます。
これは私のような愚鈍なものでもわかりますわ(苦笑)。

親●会には一流大学を卒業されたような、
私なんかより遥かに賢い人が沢山いるはずですが、
パクリ損ないに由来するような、
ショウモナイドグマに固執しているために、
親●会のよい部分まで、まったく台無しにしているというのが、
何でわからないんでしょうかね~(苦笑)。

=====今度はちゃんと読んでよ!!=====

というわけで、

20,阿弥陀仏の本願が「若し、信楽に生まれずは正覚を取らぬ」であるとするチ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、「真実信心の人はありがたき」という親鸞聖人の言葉と完全に矛盾している。


もうハッキリ言っちゃうけど、
チ●ーリップ企画(=親●会)は、
自分の発言にきちんと責任を持たず、
いっつもその場の思いつきで発言しているから、
論理の一貫性が全くないのよね(苦笑)。

もうみ~んな気づいているのよ(苦笑)。

「本願」と「誓願」

清森問答 親鸞会教義の相対化・74(投稿) より

 今日は「本願」と「誓願」に関してお話させていただきます。

 親鸞会においては「本願」と「誓願」という二つの言葉が特に区別されずに同じように用いられているようですが、「誓願」の原語は「プラニダーナ」であり、「本願」の原語は「プールヴァ・プラニダーナ」であり、明確に区別されています。

「プールヴァ」は「以前の」「過去」という意味であり、「本願」とは「仏が過去に菩薩だった時に立てた誓願」という意味であり、「現在では既に実現している誓願」という意味になります。

 このことを法然上人は以下のように述べておられます。

===================================
 本願と云うことは、もとのねがいと訓ずるなり。もとのねがいと云うは、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を、一声の称名のちからをもって、称してむ衆生を、我が国に生ぜしめんと云うことなり。かるがゆえに本願というなり。『四箇条問答』昭法全p.700

(訳)
 本願とは「もと(過去)の願い」と訓ずるものである。
「もと(過去)の願い」というのは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった昔に、「迷いの世界から抜け出せずにいる衆生を、わずか一遍でも称えた念仏の功徳によってわが浄土に往生させよう」
と誓ったものである。そういうわけで本願というのである。
===================================

 また、『選択集』の第三章において、

Q 法蔵菩薩の四十八願は成就されたのか?
A 『無量寿経』の願成就の文を読めば、四十八願の一々が達成されていることは明らかである。第十八の念仏往生願の達成のみを疑う必要はない。
 また、四十八願のそれぞれの末尾に、「願が達成されなければ仏にはなるまい」と誓っておられ、しかも阿弥陀仏は成仏以来、十劫を経ている。

という問答を設けられており、阿弥陀仏の誓願が成就して「本願」つまり、「過去の誓願」「完成した誓願」となっていることが証明されています。

===================================

 問うて曰く、一切の菩薩、その願を立といえども、あるいはすでに成就せる有り。また今だ成就せざる有り。未審し、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就したまうとやせん、はたいまだ成就したまわずとやせん。

 答えて曰く、法蔵の誓願一一に成就したまえり。何となれば、極楽界中にすでに三悪趣無し。まさに知るべし。これすなわち無三悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文にまた地獄、餓鬼、畜生諸難の趣無しと云えるこれなり。また彼の国の人天寿終って後、三悪趣に更ること無し。まさに知るべし、これすなわち不更悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文に、また彼の菩薩乃至成仏まで悪趣に更らずと云えるこれなり。

(中略)

 第十八の念仏往生の願、あに孤り以て成就したまわざらんや。然ればすなわち念仏の人皆以て往生す。何を以てか知ることを得たる。
 すなわち念仏往生の願成就の文に、「諸有る衆生その名号を聞いて信心歓喜して、乃至一念至心に回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と云えるこれなり。

 およそ四十八願、浄土を荘厳す。華池宝閣、願力に非ずということ無し。何ぞその中において独り念仏往生の願を疑惑すべきや。如之、一一の願の終わりに、もし爾らずば正覚を取らじと云えり。而るに阿弥陀仏成仏したまいてより已来、今において十劫なり。成仏の誓いすでに以て成就せり。まさに知るべし、一一の願虚しく設くべからず。故に善導の云く、「彼の仏今現に世に在して成仏したまえり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからず、衆生称念ずれば必ず往生を得。」已上

===================================

「信じて念仏申したものを極楽浄土に救い取る、それができなければ私は仏にはならない」と過去において、仏になる前の阿弥陀仏が誓願を立てたわけですが、現在、その誓願が実現し「本願」になっているから、阿弥陀仏は、西方極楽浄土で仏となっているのです。

 そして誓願が実現していることが『無量寿経』において釈尊によって説かれ証明されているから、阿弥陀仏が過去に誓った誓願が嘘ではなく、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申したならば間違いなく往生することができるのです。

このことを善導大師は、

===================================

 もし我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずば、正覚を取らじ。彼の仏、今現に世に在(ましま)して成仏し給へり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生
を得と。『往生礼讚』

(訳)
 もし私が仏になっても、十方の衆生が、私の名前を称えること、少ないもので十声の者に至るまで、もしも往生できなかったならば、私は仏にならない。そう誓った阿弥陀仏は、現在に西方極楽浄土におられて仏になっておられる。だから、仏が昔に誓った重要な誓願が嘘ではなく、人々が「南無阿弥陀仏」とお念仏申せば、必ず往生できる。ということを、よく知るべきである。
===================================

とお説きになられています。この文は『選択集』の先の文の後にも引用され、親鸞聖人が『教行信証』の後序において、

===================================
 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
 同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。
 同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生」(礼讃)の真文とを書かしめたまふ。
===================================

と述べておられることからも、浄土真宗においても非常に重要な文であることは明かです。



 ところで、既に様々な角度から論拠に基づき誤りを指摘されながら、チューリップ企画(=親鸞会)は未だに、

>「若不生者不取正覚」の「生」は
>「死んで極楽に生まれる」ことではなく、
>「平生に信楽に生まれる」ことである、
>と教えられているのが親鸞聖人であることは明らかであろう。

というドグマをまき散らしておりますが、「本願」は以上述べたように「既に実現している過去の誓願」ということですから、

★未だに実現していない「本願」は絶対に存在しない。

ということは明らかであり、この原則からも上記チューリップ企画(=親鸞会)のドグマが誤りであることは明かです。

 なぜならば、十方衆生が「平生に信楽に生まれる」ことまでも、阿弥陀仏が誓願として立て、その誓願が成就されて現在阿弥陀仏という仏になっており、その誓願が「既に実現している過去の誓願」「本願」となっているならば、阿弥陀仏が仏になった時点で十方衆生が全て信楽になっていることになり、現在迷っている衆生が全く存在していないことになってしまいます。

 しかし実際には、阿弥陀仏の本願を信じることなく迷っている衆生が存在しており、チューリップ企画(=親鸞会)のドグマが誤っていることは明かです。


===========苦笑の独り言より引用===========
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/category5-1.html

阿弥陀仏が信心を与えてくれる=衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている

ではないですわね(苦笑)。


●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。『教行信証』信巻

繰り返しになりますが、
「仏願の生起本末」を衆生が「聞きて疑心あることなし」になったら、
「本願力回向の信心」を獲得するから、極楽浄土に往生できることが確定すると、
親鸞聖人は述べておられます。

逆に言うなら、衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、
「本願力回向の信心」を獲得することができないから、
極楽浄土に往生することは確定しないことが明かですわ~ね。

そんでもって、

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力
に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人は
ありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。『尊号真像銘文』

阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、
衆生がそれを受け取らないもんだから、
残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるわけですわ~ね。

だからこそ、「ど真剣な聞法」を奨めるちゅうのが、
親●会の一番いい所だと思ってたんですけど、違ってました?(苦笑)

「火の中を、わけても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」
という蓮如上人の言葉でない言葉を、蓮如上人の言葉と捏造してまで、
「ど真剣な聞法」を奨めているくせに、

衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓ってたら、
その真剣な聞法をなんでやってるんですか?(苦笑)


「ど真剣な聞法をしなければ信楽になれない!」
「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている!」


どう考えてもこの二つは矛盾してます。
これは私のような愚鈍なものでもわかりますわ(苦笑)。
===========苦笑の独り言より引用===========


 このように苦笑氏が述べておられますが、全く同感です。

 さらに「本願」の解釈の誤りから派生して、チューリップ企画(=親鸞会)は、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈されているようですが、これも苦笑氏の言うとおり明かに誤りです。

※「正覚を取らじ」は「命を捨てる」??(追記あり)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-11.html

 親鸞会のドグマは、「本願」の原語から見ても間違いであり、親鸞会の優れた特色をも損なうことにさえなっているのですから、一刻も早く訂正すべきだと思います。


 親鸞会関係者の方であれば、おそらく皆さんご存じであろうと思いますが、

阿弥陀にはまことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生をのみぞたすくる

と一休禅師が送られた歌に対し、蓮如上人は、

阿弥陀には隔つる心はなけれども
蓋ある水に月は宿らじ

と返されたそうです。

 蓮如上人がこのお歌で伝えようとしているものを、きちんと考えて頂きたいと思います。

以上



チ●ーリップ企画(=親●会)が、
未だに実現していない「十方衆生が信楽になる」ことを、
阿弥陀仏の「本願」の中身にしているのは、
結局「本願」の意味がわかってないからなのよね(苦笑)。

あと、一応言っておくけど、
「サンスクリットと漢訳は違う」という言い訳は通容しないよ。

だって、善導大師も法然上人も親鸞聖人もご存じなんだも~ん。
間違えたのは、チ●ーリップ企画(=親●会)だけよ(苦笑)。


というわけで、

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。

宿題チェ~ック!!【第19回】『成就文』の即得往生の正意

宿題かなりたまってますよ~ん(苦笑)。

ツッコミ!【第19回】『成就文』の即得往生の正意

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。


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苦笑(本物)

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「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
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※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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