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ツッコミ!【第19回】『成就文』の即得往生の正意

第19回がアップされました。
 ↓↓↓
【第19回】『成就文』の即得往生の正意
http://shinjin.info/2008/10/311211157.html

いや~。今日はなぜか更新早かったですね~。
夕方だと思って油断してたよ(笑)。

前回、親鸞聖人が「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち、正定聚の数に入る) 即得往生は、後念即生なり(即時に必定に入る。また必定の菩薩と名くる也)」と説かれている意味を明らかにした。


は~ん(苦笑)。

前回明かになったのは、以下の三点ね。

★親鸞聖人の言葉に基く限り、「即得往生 住不退転」と「若不生者 不取正覚」は時間軸上別の時点に配置されるものであり、「即得往生 住不退転」=「若不生者 不取正覚」はチ●ーリップ企画(=親●会)だけのヘンテコドグマであるということ。

★親鸞聖人の言葉に基づく限り、「信受本願」と「即得往生 住不退転」は時間的には同時であるが、明確に因果関係にあるために、「信楽」=「即得往生 住不退転」はチ●ーリップ企画(=親●会)だけのヘンテコドグマであるということ。

★上記ヘンテコドグマを前提に行う解説はヘンテコ解説であり、ヘンテコ解説によって導き出された、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】という結論はヘンテコドグマであること。


つまりチ●ーリップ企画(=親●会)は、
ヘンテコドグマを前提に論を構築しているわけで、
以下の解説も、ヘンテコドグマを前提にしますので、
当然ヘンテコ解説ということになります(苦笑)。
 ↓

「弥陀の本願を信受した」一念に、心が「死んで、生まれる」という、「信受本願・前念命終 即得往生・後念即生」の親鸞聖人の教えを、次に覚如上人から聞いてみることにしよう。

「平生のとき、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」 (執持抄)

「平生のとき」とは「死んでからではない」ということ。「帰命の一念を発得せば」とは
「本願を信受した」ときのことである。
「娑婆のおわり臨終とおもうべし」とは、この世の終わりで、それまで存在していた心が死ぬ。まさに『愚禿抄』の「前念命終」のことである。


だから何?(苦笑)。

これは別に、
【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、
「平生に信楽に生まれる」ことである】
というチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマの根拠にはなりませんね~(苦笑)。

それより問題なのは、
チ●ーリップ企画が挙げている『執持抄』の前後を見ると、

★平生のとき期するところの約束、もしたがはば、往生ののぞみむなしかるべし。しかれば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、かなふべからず。平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、そのときをもつて娑婆のをはり、臨終とおもふべし。
そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分)と釈したまへり。また殺生罪をつくるとき、地獄の定業を結ぶも、臨終にかさねてつくらざれども、平生の業にひかれて地獄にかならずおつべし。念仏もまたかくのごとし。本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まるなりとしるべし。『執持抄』


「平生の一念によりて往生の得否は定まれる」
「本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まる」

と書いてありまっせ。

「往生の得否が定まる」「往生は定まる」ということは、
その時点では「往生することが確定した」ということであって、
「往生した」ということではありませんわね。

つまり、この『執持抄』の文において「往生」は、
「死後に極楽浄土に往生すること」を意味していているのよね。

そんでもって、「娑婆のおわり臨終とおもうべし」というのは、
「死後に極楽浄土に往生する」という時点ではなくて、
「往生の得が定まる」「かならず往生は定まる」という時点なわけよ。

これを前回の時間軸に配置すると、

=前念(因) 介在時間0  =後念(果)     
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」    「若不生者 不取正覚」
    ↓          ↓                ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
    |          |                |      
   平生の一念 →  往生の得が定まる  →・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
   本願を信じる→  かならず往生は定まる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
  (名号をとなふ)
 帰命の一念を発得→ 「娑婆のおわり臨終」 →・・・・→極楽浄土へ往生→成仏

となるわけで、

チューリップ企画の挙げた根拠が、
「若不生者 不取正覚」の時点の話でないことは明かですね~。
ドグマに都合のよい形に途中で切断しちゃだめよん(苦笑)。

というわけで、

17,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『執持抄』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「娑婆のおわり臨終」とされた時点が「往生が定まる」時点であり、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。


また『改邪鈔』には、こうも詳説されている。
『この娑婆生死の五蘊所成の肉身、未だやぶれずといえども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力を捨てて他力に帰する」とも名け、また「即得往生」ともならいはんべれ』

「娑婆生死の五蘊所成の肉身、未だやぶれずといえども」とは、「肉体は健全で、まだ死んではいないが」ということである。
「共発金剛心の一念にやぶれて」とは、「本願を信受した一念に死ぬ(命終)」ということだ。
その「死ぬ心」を、「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情(迷いの心)」といわれている。

「知識伝持の仏語に帰属する」とは、「本願を信受した」ことの換言である。「自力を捨てて他力に帰する」とは、『愚禿抄』に「前念命終なり、後念即生なり」と言われている聞即信の一念のことで、「信楽」(不体失往生)に生まれることである。

「信楽」に「生まれる」ことを、「自力を捨てて他力に帰する」とも、また「即得往生」とも言うのである、と仰っているお言葉である。



だから何?(苦笑)。

これも別に、
【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、
「平生に信楽に生まれる」ことである】
というチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマの根拠にはなりませんね~(苦笑)。

それより問題なのは、
チ●ーリップ企画が挙げている『改邪鈔』の前後を見ると、

★しかれば、凡夫不成の迷情に令諸衆生の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、願入弥陀界の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」(正信偈)とも、「不断煩悩得涅槃」(同)とも、「入正定聚之数」とも、「住不退転」とも、聖人釈しましませり。これすなはち「即得往生」の時分なり。この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」ともならひはんべれ。『改邪鈔』

とありまっせ~。

「願入弥陀界の往生の正業成ずるとき」というのは、
極楽浄土に往生するための正しい行為が完成し、
極楽浄土に往生することが確定したということだよね。

だからこの時点が、
「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」
という時点で、
「入正定聚之数」=「住不退転」=「即得往生」の時分(←これ大事!!)なわけ。

そんでもってこの「時分」は、
「自力をすてて他力に帰する」「即得往生」の「時分」なわけだけど、
「極楽浄土に往生」する「時分」とは異なっていて、
ここに「若不生者不取正覚」を配当する根拠はどこにもありゃしませんね(苦笑)。

またまたこれも、さっきの図に配置すると、

=前念(因) 介在時間0  =後念(果)     
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」    「若不生者 不取正覚」
    ↓          ↓                ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
    |          |                |      
   平生の一念 →  往生の得が定まる  →・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
   本願を信じる→  かならず往生は定まる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
  (名号をとなふ)
 帰命の一念を発得→ 「娑婆のおわり臨終」 →・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
      ↓       ↓ 
    【時間的に同時の「時分」】
「願入弥陀界の往生の正業成ずる」の「時分」
 =「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」の「時分」
 =「自力をすてて他力に帰する」の「時分」
 (「この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれず」の「時分」)
 (「生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、
  知識伝持の仏語に帰属する」の「時分」)
 =「即得往生」になった「時分」


となるわけですわ。

「自力をすてて他力に帰する」の「時分」が、
「若不生者 不取正覚」と異なるのわかったかな~?(苦笑)

というわけで、

18,根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提にし、しかも『改邪鈔』を途中で切断して解説を行っているために、覚如上人が「自力をすてて他力に帰する」と仰った「時分」が、「若不生者 不取正覚」とは時間軸上の別の時点に配置されることが理解できていない。



というわけで、

以下は根拠に基づか(け)ない解説~(苦笑)。
 ↓

『成就文』に「即得往生」と説かれている正意を、「平生のときーー娑婆のおわり臨終(死ぬ)」とか、「肉身はやぶれない(平生)でーー自力の心は一念にやぶれてーー信楽(不体失往生)の身に生まれることである」と、親鸞聖人の教えを覚如上人は明快に喝破されている。

いずれもいずれも、「死ぬ」のも「生まれる」のも、肉体のことではなく心のことであり、弥陀の本願の救いは、死後ではなく平生のことであることを懇ろに覚如上人も徹底される。無論これみな『成就文』の開顕であり、これ以外に、一実・円満の真教、真宗の教えはないからである。



以下は、根拠に基づか(け)ない解説によって導き出された、
ヘンテコドグマ~(苦笑)。
 ↓

あくまでも釈迦の『成就文』の「即得往生、住不退転」を根拠として、弥陀の『本願文』の「若不生者」の「生」は、「死んで極楽へ生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことであることを明らかにするために、法友と体失不体失往生の大諍論までなされ、弥陀の本願真実の開闡に、九十年の生涯を捧げられたのが親鸞聖人であったのである。



\( ̄ー ̄#)なんでやねん!

★「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、 至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
by.親鸞聖人『尊号真像銘文』


★「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。
by.親鸞聖人『尊号真像銘文』


★「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。
by.親鸞聖人『唯信鈔文意』



親鸞聖人が『本願文』の「若不生者」の「生」を、
「わが浄土にもし生まれずは」
「本願の実報土に生れずは」
「穢土をすてて真実報土にきたらしむ」
と解釈されてるのに、

それを完全に無視して、
「若不生者」の「生」を「平生に信楽に生まれること」
とヘンテコ解釈しちゃうのが、
チ●ーリップ企画(=親●会)ドグマなわけで、
そんなの「親鸞聖人の教え」とは言えませんよ(苦笑)。

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よい子のみんなは、もうわかってると思うけど・・

最近のチ●ーリップ企画の更新は、だいたい5日に一回ペースなんで、
明日がとっても楽しみです♪

今日は、更新直前の意地悪企画だよ~(笑)。

よい子のみんなは、もうわかってると思うけど、

「若不生者不取正覚」の「生」は
「死んで極楽に生まれる」ことではなく、
「平生に信楽に生まれる」ことである、
と教えられているのが親鸞聖人であることは明らかであろう。


このチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマの根拠として、
以下のものが挙げられても騙されちゃだめだよん。
だって、もう既に論破されてるんだも~ん♪


 ↓ ↓ ↓

1)「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」『浄土和讚』

【チ●ーリップ企画の解釈】

当方が先のメールで申しあげたのは、良く読んで頂けば分かると思いますが、『その「信楽をえる」には、「若不生者」の誓いなくしては絶対にできないと教えられたのが親鸞聖人』と申しあげたはずです。

 それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。

 ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。


【親●会公式HPより】

大宇宙最高の仏であり、十方諸仏の指導者であられる阿弥陀如来は、その本願に、「若不生者不取正覚」(若し生まれずは、正覚を取らじ)と誓われている。もし苦悩の根元の無明の闇をぶち破り、晴れて大満足の「信楽(しんぎょう)」の身に生まれさせることができなければ、この弥陀は、正覚(仏の命)を捨てましょう、とのお約束なのだ。

本師本仏が命を懸けた「若不生者の誓い」があるから、この世で、「信楽」と一念慶喜する時が、必ずある。同時に、いつ死んでも浄土往生間違いない身にハッキリ定まるのである。


【田中さんの反論】

>それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。


 少しでも古文の知識があれば、読み間違えるはずのない文章だと思いますが、なぜ間違われたか不思議です。


 これは、阿弥陀仏が「若不生者」と誓われているから、「信楽まことにときいたり、一念慶喜する」人は、「(死んで)往生かならず定まりぬ」ということです。信楽になる時が至り、一念で慶喜する身になった人は、死んで必ず極楽に往生させると誓われたのが、弥陀の十八願だという意味です。

 貴方は「ときいたり」で文章を切って理解しておられるようですが、ここで切るならば、終止形の「いたる」(過去形なら「いたりき」)とならねばなりません。親鸞聖人が、こんな文法のミスをされるはずが無いと思います。

 また、これは十八願の解説ですから、親鸞聖人の解釈を元に読まねばなりません。

 尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。


 つまり、文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。



>ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。


「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。


【清森さんの補足説明】

 「若不生者のちかいゆえ」の御和讃については、「時至り」の解釈が問題になると思いますが、古文の文法については、詳しく知りませんので、古文を教えている知り合いに、文法的な意味を教えてもらいました。

 以下に引用させて頂きましたが、やはり、「若不生者と誓われているから、信楽がまことに時至るのだ」とは読めないようです。

        *      *      *

>  さて、ご質問の件ですが、“至り”という単語は、古語ではラ行四段活用になり、
>
> 語幹 -至
> 未然形-ら
> 連用形-り
> 終止形-る
> 連体形-る
> 已然形-れ
> 命令形-れ
>
>  このように活用します。“至り”は連用形ということです。
>  連用形には、4通りの使い方があります。
>
> 1、用言が続く(連用法)
> 2、文を一旦区切って、そのまま次に続ける(中止法)
> 3、名詞に転じる
> 4、助動詞、助詞が付く
>
>  ご質問の文章では、“至り”で止めてありますので、2か3の用法です。
>
> 2は、現代語で分かりやすく言えば、“酒を飲み(連用形)、酔っぱらって帰った”というような使い方です。
> 3は、例えば“遊び”という“遊ぶ”の連用形が、名詞のように使われている場合です。(ちなみに古語では“演奏”という意味です)
>
>  ご質問の文章では、名詞的に使われていませんので、2の用法になります。
>  ですから、御返答としましては、
>
> “信楽まことに時至り”で切ることはできませんので、“信楽まことに時至り、一念慶喜する人”を、一つの言葉として、訳してください。
>
        *      *      *

 上記の説明からも、この御和讃は、

阿弥陀仏が、若不生者と誓われているから、
『信楽にさせていただける時がまこと至って、一念慶喜する身になった人』は、
必ず浄土往生できると定まるのだ。

と理解するのが正しいと思います。



→古典文法&親鸞聖人の教えがわかれば騙されません!!


あと、

「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。
貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。

 ↑
もちろんこれもアウトね(苦笑)。

親鸞会教義の相対化・73(投稿)より
(89)
一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。

(中略)

 また、親鸞会ドグマに基づく親鸞聖人の言葉の解釈を、田中氏に古典文法の間違いや親鸞聖人の言葉との矛盾から指摘されたにも関わらず、

>>>
「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。
貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。
>>>

などと居直るチューリップ企画の山田氏も、明かにこの蓮如上人の教えに反していると思います。



『蓮如上人御一代記聞書』所収の蓮如上人の言葉だったら、
流石に親●会関係者にも権威があるでしょう(苦笑)。


2)『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」

【チ●ーリップ企画の解釈】

「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。

だが、その「信楽」という高校に合格するのは、大変難しいと親鸞聖人は「信楽受持すること甚だ以て難し」(正信偈)と教えられています。それは、釈尊も、親鸞聖人も、蓮如上人も同じです。そのように「信楽をえる」ことが難しいから、「浄土」に生まれる人は少ない、と、善知識方は仰っているのです。そんな難しい「高校」に、どうして我々は合格できるのか。本願力(若不生者の念力)によってか、どうか、が今論じられているのです。

それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。

「本願力」(若不生者の念力)によらねば、絶対に「信楽をうる」ことはできないことは、貴方も認めていることですが、「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。

「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」という可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。



【田中さんの解説】

この改邪抄の記述は、少し前の部分の「仏、願力の不思議をもって無善造悪の凡夫を摂取不捨したまう時は」の解説です。つまり、「生まるべからざるもの」とは「無善造悪の凡夫」のことであり、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のことを表しています。

「摂取不捨したまう時」とは、歎異抄一章に『「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめ給ふなり。』と記述されている通りです。

この 「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、という部分は、本願文の「至心信楽欲生我国」に当たります。根拠は既出ですが、

『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。』

さらに、この摂取不捨の利益にあづかった人が、極楽浄土に生まれなければ仏にならないと誓われたのが「若不生者」だと、記述されています。

『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

このように、親鸞聖人の記述から、改邪抄の「生まれさせた」は、生きている間であり、「若不生者」の「生」は死後であることが明らかです。



【上記チ●ーリップ企画の解釈に対する田中さんのツッコミ】

>「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。

貴方の主張は、「阿弥陀仏が、必ず極楽に生まれさせると誓われなくても、信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」ということですか?

>それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。

『その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。』

上記は、貴方の言葉ですが、何に全力を尽くすのですか?

>「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。

「阿弥陀仏が、必ず信楽に生まれさせると誓っておられるから、必然的に信楽になれる」と主張されているのは、貴方ではありませんか?

必然的に信楽になれるのなら、なぜ「難し」と言われるのでしょう。

上記の根拠は、貴方の主張が間違っている証拠です。

>「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」いう可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。

つまり、「若不生者」は「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」という意味だと、認めたということですか?

※苦笑注 次ぎのメールで田中さんの質問をチ●ーリップ企画はオール無視!!(苦笑)



→「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら、
 「生まるべからざるもの」になりましぇ~ん(苦笑)。


【Bさんの解説】

今、一番の問題となっているのは覚如上人の
「生るべからざるものを生れさせたればこそ」
というお言葉が現益・当益のどちらを言われたものか、という点です。あの後、調べてみたら、その文の前にある「往生浄土の器もの」という言葉を受けて、実際に当益と解釈している本が見つかりました。私はその説を支持します。あなたが「現益だ」と主張されるのであれば、その理由を明確に述べてください。

>「生まれさせたればこそ」が当益ならば「生まるべからざるもの」とは何ですか。
> 正定衆の菩薩が死んで仏に生まれても、何の不思議ですか?

信楽を獲た人は、法徳から言えば「正定衆の菩薩」ですが、機相から言えば「煩悩具足の凡夫」のままですから、「生まるべからざるもの」であることに変わりはありません。「生まれさせたればこそ」が当益であると仮定しても何も矛盾しませんよ。

(略)

その進道の階次をいうとき、ただおなじき座席なり。しかるうえは、かならずしも俗の二種をしりぞけて、道の二種をすすましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちいる条、本形としては、往生浄土のうつわものにきらわれたるににたり。ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。


『浄土に生まれ、順序を言う時は、いずれも同じ座席についているのである。こうした訳だから、俗の二種を低く押し退けて、僧の二種を高く押し進ませる必要はないのに、婦人や在俗のものが、強いて法名を用いるのは、いかにもそのままの形では、浄土に生まれる器ではないと、嫌われているかのようである。ただ男女・善悪の愚かな人に、さかしらな才能を働かせない生地のままの姿において、本願の不思議な働きによって、浄土に生まれることが出来ないものをも生まれさせたからこそ、「いつの世にも超え勝れた願」と名づけたり、「一足とびにさとることの出来る捷径」ともいわれる訳である。この一章は、ことに曾祖師、並びに祖師以来、相伝え、受け継いできた眼目であって、強いてかりそめに扱ってはならないものである。』

(【改邪抄】親鸞述 石田瑞磨訳 平凡社)




3)「「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)」『愚禿抄』

これはもういいよね?(苦笑)

ツッコミ!【第18回】親鸞聖人の即得往生の解説


既に論破されているものを、
忘れた頃にまた出すのはインチキですから、
それが二度とできないように、
晒しものにしておきますよん(苦笑)。

宿題チェ~ック!!【第18回】親鸞聖人の即得往生の解説

今回も、ツッコミが多くておまけコーナーに書くスペースがなかった(笑)。

ツッコミ!【第18回】親鸞聖人の即得往生の解説

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めている。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作している。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,そもそも「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。
→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!


※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。
→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】




※以下は、今回新たに加わったチ●ーリップ企画(=親●会)の間違い。次回の宿題には、これに解答することも加えられる。

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している。

15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。

ツッコミ!【第18回】親鸞聖人の即得往生の解説

第18回がアップされました。
 ↓↓↓
【第18回】親鸞聖人の即得往生の解説
http://shinjin.info/2008/10/261639156.html

サーバーメンテナンスの都合で、更新が遅れてごめんごめん。汗

弥陀の「若不生者、不取正覚」の仏意を、釈迦は『成就文』に「即得往生、住不退転」の八文字で解説された。

あ~ん?
毎度毎度、親鸞聖人の言葉に基づいて丁寧に教えてあげているんだから、
親鸞聖人の教えに基づいて論を構築してね(苦笑)。

↓↓↓

【若不生者 不取正覚】
★「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
『尊号真像銘文』(1)

★「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。
『尊号真像銘文』(10)


至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる!
ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる!


「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。
『唯信鈔文意』


若不生者のちかひ=穢土をすてて真実報土にきたらしむ!


【即得往生、住不退転】
★「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。
『唯信抄文意』


信心をうれば→すなわち往生す=不退転に住す=正定聚の位に定まる=成等正覚=即得往生


そんでもって『尊号真像銘文』の(1)の方を読むと、
「若不生者 不取正覚」よりも時間的に前の時点で、

真実信心をえんとき→摂取不捨の心光にいる→定聚のくらいにさだまる

とあるわけよ。


★如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
『尊号真像銘文』



つまり「即得往生、住不退転」と「若不生者 不取正覚」を時間軸上に配置すると、

 真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
             ↑                ↑
          「即得往生、住不退転」      「若不生者 不取正覚」

となるわけですわ。


「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」とは、
まともな知能があれば、絶対に言えませんわね(苦笑)。


親鸞聖人が、「若不生者、不取正覚」=「即得往生、住不退転」じゃなく、
両者を全く別ものとして取り扱ってるおられるのに、
それを全く無視するっていうのはどうよ(苦笑)。

というわけで、

13,相変わらず「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というドグマをまき散らしているが、この二つは、時間軸上別の時点に配置されるものであり、それをイコールにするヘンテコドグマは、親鸞聖人の教えと著しく異なっている。




しかも、このヘンテコドグマのために、
===★「死後の往生」を否定するチューリップ企画===
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。(6月19日)
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
 
 
『親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
 
 
 
『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)
 
 
『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)
 
 
『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
===★「死後の往生」を否定するチューリップ企画===
 ↑↑↑
こういう新たなヘンテコドグマも作ってるわけです(苦笑)。

というわけで、

14,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」というヘンテコドグマを主張するチ●ーリップ企画(=親●会)は、同時に「死後の往生」を否定するという、新たなドグマをも主張している。




あと、この問題に関しては、何回も教えてあげてるんだから、
もうそろそろ理解してくれませんかね(苦笑)。
 ↓↓
====あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。====
★「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。
 
  尊号真像銘文には、以下のように記述されています。
 
『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。』
 
 
 つまり、「本願を信受する」=「至心信楽をえる」ということです。
 
 貴方の根拠は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません。
====あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。====

====そろそろわかってよね====
「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)


このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。
 
====そろそろわかってよね====


ここで、もう一回さっきの時間軸上に配置した図に戻るんだけど、

 1)      2)                3) 
 真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
   ↑          ↑                ↑
 「信受本願」    「即得往生、住不退転」      「若不生者 不取正覚」
  =前念(因)     =後念(果)     


ということが、よい子のみんなはわかるよね??


★しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。『教行信証』証巻

とあるように、1)と2)は「即のとき」というように、
時間を介在しないから同時なわけだけど、
明確に因果関係にあるわけで、
こいつをイコールにしちゃ絶対だめだよん(苦笑)。

>正定聚不退転(信楽)
 ↑
何度も言うけど、こういうことを書いてるだけで、
親鸞聖人の教えが全くわかってないことが、一発でわかっちゃうのよね(苦笑)。

しかもチ●ーリップ企画は、2)と3)までイコールだっていうんだから、
そのヘンテコさには、もう苦笑するしかないですわね(苦笑)。

チ●ーリップ企画の主張は、1)の「真実信心を得る」ことと、
3)の「極楽浄土へ往生」することの区別がついてないとしか思えませんな(苦笑)。

ますますヘンテコドグマにターボかかってますよ(苦笑)。
本当にこんなこと言ってていいの?(苦笑)


15,ヘンテコドグマを主張し続けているために、「真実信心」を得ることと「極楽浄土への往生」の区別がつかなくなっている。




・・というわけで・・。
以下はヘンテコドグマに基づく解説(苦笑)。
 ↓

その「即得往生、住不退転」の釈迦の教えを、親鸞聖人は『愚禿抄』に、次のように解明されている。

「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)
他力金剛心也と、応に知るべし。
便ち弥勒菩薩に同じ、自力金剛心也と、応に知るべし。『大経』には次如弥勒と言へり」

先ず、「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る)
即得往生は、後念即生なり(即時に必定に 入る。又必定の菩薩と名くる也)」
の意味からお聞きしよう。

これは一体、どんなことを仰っているのだろうか。
「本願を信受する」とは当然、漢字三十六文字の阿弥陀仏の本願を「信受する」ことである。決して「若不生者不取正覚」の抜けた、二十八文字の本願でない。
その三十六文字の弥陀の本願を「信受する」とは、どういうことだろう。

「信受する」とは、まことであったと明らかに知ることであり、ツユチリほども疑いのなくなったことをいう。釈迦や親鸞聖人、蓮如上人は、明信とか、真知、明知と言われていることだ。

弥陀の誓いの三十六文字にツユチリほどの疑いもなくなったことを「本願を信受する」と言われているのである。
親鸞聖人のお言葉で一例を挙げれば、
「まことなるかなや、攝取不捨の真言、超世希有の正法」 (教行信証)

「攝取不捨の真言」も「超世希有の正法」も同じく弥陀の本願のことであるから、本願三十六文字の誓いに「ウソはなかった」「まことだった」と仰っているお言葉である。
決してこれは、「若不生者不取正覚」の八字を抜いた、弥陀の本願のことではないのだ。

されば「ウソではなかった、まことだった」親鸞聖人のお叫びは、「若不生者不取正覚」のお約束「まことだった」と仰っていることは明白である。

「若不生者、不取正覚」とは、「必ず生まれさせる、若し、生まれずは正覚を取らぬ」ということだから、「生まれていない」者には「若不生者」の誓い「まことだった」とは言えない。いま「生まれた」から言えたのだ。死んでからのことなら、生きているときには言えないことである。

だが「死なねば」「生まれる」ということはないから、親鸞聖人は「本願を信受した」とき死ぬのだと、「心(前念)が、死ぬ(命終)」と仰っている。
「本願を信受するは、前念命終なり」が、そのお言葉である。

「心(前念)が死ぬ(命終)」と同時(後念)に、「若し、生まれずは正覚を取らぬ」の誓い通り、「信楽(不体失往生)」に生まれると仰っている。
これを『愚禿抄』には「後念即生なり」と言われている。「即生」とは、本願を信受した一念に「死んで生まれる」心の誕生(信楽に生まれる)を言う。

親鸞聖人は『愚禿抄』で、『成就文』で釈迦が「即得往生」(即ち往生を得る)と言われているのは、「即得往生住不退転」(不体失往生を得て、不退転に住す)することだと説き、正定聚不退転(信楽)の身になることだと鮮明にされている。

名号を聞信した一念に、弥勒菩薩と同等の正定聚(必定)の菩薩にしてみせる、というお約束が「若不生者不取正覚」の誓いであると仰っているのが、『愚禿抄』の「即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又、必定の菩薩と名くる也)他力金剛心也と、応に知るべし。便ち弥勒菩薩に同じ」のお言葉である。



以下はヘンテコ解説に基づくドグマ(苦笑)。
 ↓

これらによっても分かるように、「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである、と教えられているのが親鸞聖人であることは明らかであろう。



あのさ~。

 論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提→ヘンテコドグマに基いて解説→ヘンテコ解説に基づいてヘンテコドグマを立証→論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提→ヘンテコドグマに基いて解説→ヘンテコ解説に基づいてヘンテコドグマを立証→・・以下果てしなくつづく・・

こういう愚劣極まりない蛸壺循環論法をいくらやっても、
論証責任を果たしたことには全くなりません。

論証責任を果たさ(せ)ないヘンテコドグマが問題なのに、
論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマを前提に、
ヘンテコ解説で自説を立証するのはおかしいでしょ(苦笑)。

こんなの、ヘンテコドグマを注入された、
思考停止ロボコンにしか通容しないよ(苦笑)。


というわけで、

16,「即得往生、住不退転」=「若不生者 不取正覚」という論拠に基づか(け)ないヘンテコドグマに基づきヘンテコ解説を行い、ヘンテコ解説に基づいて、【「若不生者不取正覚」の「生」は「死んで極楽に生まれる」ことではなく、「平生に信楽に生まれる」ことである】というヘンテコドグマを立証している。これは循環論法であり、論証責任を果たしたことにはならない。

宿題チェ~ック!!【第17回】若不生者は、死後か平生か

今回は、ツッコミどころが多すぎて、
おまけコーナーのスペースからハミダシちゃったよ(笑)。

ツッコミ!【第17回】若不生者は、死後か平生か

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めていること。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作していること。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。

→  やった~!!
  さりげなく訂正!!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)



6,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

8,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

9,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

10,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

※「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正した部分は除く。


一項目減ってよかったね(笑)。

というわけで【第18回】の宿題は、
以下の十二項目ですのでよろしく~!!
 ↓

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めていること。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。


2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作していること。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。


5,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。

6,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。

7,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。

8,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。

9,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。

10,「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。

11,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。

12,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。


※以下は、「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正したもの。

A,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。

→さりげなく訂正!!でも謝罪なし!(苦笑)

弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、(以下略)【第17回】



B,『高僧和讃』の「衆生の志願をみてたまう」の「志願」は、「衆生が志願」するのを「阿弥陀仏がみてたまう」という意味であるのに、「弥陀の志願(望み)」と解釈している。

→さりげなく訂正!!でも謝罪なし!(苦笑)

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、(以下略)【第10回】



C,親鸞聖人が『尊号真像銘文』で「正定の業因=仏名をとなふる」「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」と解釈しているのに、「正定之業」を「正定聚不退転にする働き」と親●会ドグマに基づいて勝手に解釈した。

→さりげなく訂正!!でも謝罪なし!(苦笑)

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」【第11回】


ツッコミ!【第17回】若不生者は、死後か平生か

第17回がアップされました。
 ↓↓↓
【第17回】若不生者は、死後か平生か

前回までで、田中と名乗る人の問題提起で、弥陀の本願文の「信楽」について、釈迦や親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉で明らかにしてきた。

だが、最初に記したように、そもそも田中氏との論戦の発端は、弥陀の「本願文」に誓われている「若不生者不取正覚」(若し、生まれずは正覚を取らぬ)の八文字の「生」が、「死んで極楽に生まれる」ことか、「いま信楽に生まれる」ことかの違いであった。

田中氏は始終「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれる」ことだと言い張り、チューリップ企画は「信楽に生まれる」ことだとその主張は一貫している。どちらが弥陀の仏意か、これからが本論検証の本番なのである。

なにしろ、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(正信偈)と親鸞聖人が、釈迦の出世の本懐は弥陀の本願唯一を説くためであったと断言されている。その本願文の「若不生者」のことである。

中でも「若し、生まれずは、私は正覚を取らぬ」と弥陀が命(正覚)を懸けて誓われている、他に見られぬ「若不生者不取正覚」の八文字についてのことだ。
親鸞聖人が特に「若不生者のちかい」(和讃)とまで仰っている本願のことである。決してウヤムヤにしておけることではない。

果たして「若不生者」の「生」は、田中氏の言うように「死んで極楽へ生まれる」ことなのか、チューリップ企画の主張するように「平生に信楽に生まれる」ことなのか、先ず釈尊のご教導を聞いてみよう。


あ~ん?

「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」と解釈する、
チ●ーリップ企画の解釈が親鸞聖人と異なっている!!
ということをが晒し者にされるのは、
これからが本番だったんですか?(苦笑)

 ↓
====ちゃんと読んでよね====
31 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:22:19 ID:yFGdPQfg
『尊号真像銘文』から抜粋:

----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

----------------------------------------------------------------------
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
----------------------------------------------------------------------
※さすがに「平生業成」「現生不退」の意味を補っておられることに注目!
本願成就文の内容もちゃんと踏まえて本願文を解釈されていることが拝察されます。

----------------------------------------------------------------------
「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
----------------------------------------------------------------------
※それでもなお、「若不生者」を「【わが浄土に】もし生まれずは」としか解釈されていません。

232 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:23:58 ID:yFGdPQfg
>>231の続き

『尊号真像銘文』は親鸞聖人83歳の時の著作ですから『教行信証』よりも後であり、
当然、主著である『教行信証』の内容を十分に踏まえた上で書かれたはずです。
何もかも承知の上で親鸞聖人自身が本願文36字を全部解釈されたこの文章のどこにも、
「信楽に生まれさせる」とは書かれていません。この事実だけで十分すぎるほど十分です。
議論する余地など初めから何もないのです。

もし「信楽に生まれさせる」という意味も本当はあるのに親鸞聖人が書き忘れた
とでも言うのなら、それは親鸞聖人に対する冒涜以外の何物でもなく、
そんな暴言を吐く輩は断じて「親鸞学徒」ではなく、「高森学徒」です!

====ちゃんと読んでよね====

ちゃんと読んだ?(苦笑)
「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」と解釈する、
チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマは、
どう考えても親鸞聖人の解釈とは違うよね(苦笑)。


というわけで。
 ↓
11,「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈するのは、親鸞聖人の『尊号真像銘文』と明らかに異なるチ●ーリップ企画(=親●会)独自のドグマである。


阿弥陀仏の本願の「若不生者不取正覚」を、釈迦は『成就文』で、どう解説されているかというと、『本願文』の「若不生者不取正覚」の八文字を、『成就文』の中では「即得往生、住不退転」の八文字で解明されている。

「即得往生、住不退転」とは、「即ち往生をさせ、不退転の身にする」と言うことだ。
即ち、「南無阿弥陀仏の名号を頂いた、聞即信の一念に、往生をさせ、不退転の身にする」というのが、弥陀の「若不生者不取正覚」のお誓いであると、『成就文』に鮮明に説かれているのである。

もっとわかり易く言えば、
弥陀の「若し、生まれずは、正覚を取らぬ」
の「生まれず」は、「死んで極楽へ生まれずは」ではなく、「いま往生させ、弥勒菩薩と同等の正定聚不退転の身に、生まれずは」の、不体失往生させることに正覚を懸けていられる弥陀の本願を『成就文』に鮮明になされているのである。

阿弥陀仏が「若不生者不取正覚」(必ず生まれさせる)と誓われているのは、死んでから「極楽に生まれさせる」ということではなく、「平生、信心歓喜する一念に往生させ、正定聚不退転の身に必ず生まれさせる。若し、生まれさせることが出来なければ、私は正覚を取らない」という弥陀のお約束であると、釈迦は明示なされているのだ。


あ~ん?

『教行信証』を読んだことないの?(苦笑)

★必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。『教行信証』行巻


★しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。『教行信証』信巻


「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。

つまり「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」になった衆生が、
「報土の真因決定」(極楽浄土に往生するのが決定)するのが、
「即」ということですよん。

そんでもって、極楽浄土に往生するのが決定しているから、
その人が「正定聚」になるということですやん(苦笑)。

このことは『唯信抄文意』でも、

★「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。『唯信抄文意』

信心をうれば→すなわち往生す=不退転に住す=正定聚の位に定まる=成等正覚=即得往生

と簡潔に解説されてるよ。

あ!もちろん「信心をうれば」という条件があるわけで、
「信心に生まれさせて」という、オートマチックじゃないんで、
間違えないようにしてよね。

ここ、すっごい大切だからちゃんと覚えておいてね(苦笑)。


ちなみにこの親鸞聖人の解釈は、
サンスクリット文の本願成就文とも一致するから、
これもちゃんと読んでおいてちょ~よ(苦笑)。
 ↓
====親鸞会教義の相対化・21(投稿3)====
tasyakhalupunarAnandabhagavato'mitAbhasyatathAgatasyadaSasudiks.
vekaikasyAMdiSigaNgAnadIvAlukAsames.ubuddhaks.etres.
ugaNgAnadIvAlukAsamAbuddhAbhagavantonAmadheyaMparikIrtayante,
varNaMbhAs.ante,yaSaHprakASayanti,guNamudIrayanti.

tatkasyaheto.yekecitsattvAstasya'mitAbhasyatathAgatasyanAmadheyaMSr.n.vanti,
SrutvAcAntaSaekacittotpAdamapyadhyASayenaprasAdasahagatamutpAdayanti,
sarvete'vaivarttikatAyAMsaMtis.t.hante'nuttarAyAHsamyaksaMbodheH.


(試訳)

実にまた、アーナンダよ、十方のそれぞれの方角にあるガンジス河の砂の数に等しい諸々の仏国土において、ガンジス河の砂の数に等しい諸仏・世尊逹は、かの世尊アミターバ如来の名前をほめ讚え、性質を語り、名声を説き、優れた特性を宣言する。

それはなぜであるかというと、およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。



サンスクリット文を読む限り、以下のことが言えます。

1)願成就文は、衆生が極楽浄土に生まれた後ではなく、現世で「この上ない完全な正覚より後退しない境地(不退転)」に達することができることを示した文である。

2)不退転に達するためには、アミターバ如来の名前を聞いた後、最低一度、浄らかな信を伴った(prasAdasahagata)心(citta)を起こす必要がある。

3)浄らかな信を伴った心は、名号を聞いた後、深い志(adhyASaya)によって起きる。

つまり、現世で不退転に達するためには、名号を聞いた後、「深い志」によって「浄らかな信を伴った心」を最低一度起こす必要があります。

====親鸞会教義の相対化・21(投稿3)====

というか、こんなことをいくら言っても、
「若不生者」の「生」を「信楽に生まれる」ことと解釈する、
根拠には全然ならないんだけどね(苦笑)。


というわけで、
 ↓
12,本願成就文の「即得往生、住不退転」に関して、親鸞聖人ともサンスクリット文とも異なった解釈を行っている。

あと、忘れてもらっちゃ困るんだけど、
田中さんは不体失往生を否定してないし、
チ●ーリップ企画が、不体失往生の根拠として出してのは、
「即得往生、住不退転」じゃなく「若不生者不取正覚」です。

せこい印象操作で、錯乱させようとしても無~駄!!(苦笑)

 ↓
====誤魔化しちゃ嫌よ====
 そもそも貴社の誤りは、不体失往生の根拠として、「若不生者不取正覚」の八字を使ったことでした。
 
 親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは本願成就文の「即得往生住不退転」の八字です。
 
 ビデオの製作者は、本願成就文も、本願文も同じようなものだから、どちらでも良いだろうと思われたのかも知れません。
 
 もし私が製作者だったら、迷わず「即得往生住不退転」を使ったでしょう。
 
 
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠として、「若不生者」ではなく、「即得往生」を使われた文章を紹介します。
 
 
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。→唯信抄文意
 
 即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。→愚禿抄
 
 
 
 当然ながら、体失不体失往生の根拠とされる、口伝抄に描かれている法然上人のお言葉も「即得往生住不退転」の八字を出されており、「若不生者不取正覚」はどこにもありません。
 
 親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
 
 ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。
 
 
 
 確認事項に答えるまでもなく、貴方の返答から、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ということが、自ずと明らかになりました。
 
 しかし、仮に、「若不生者不取正覚」に不体失往生の意味があると誤解していたとしても、親鸞聖人の説き方を理解されていれば、迷わず、「即得往生住不退転」の八字をビデオで描いていたでしょう。
 
 親鸞聖人が不体失往生を論じられる時は、常に「即得往生住不退転」を根拠とされたのですから。
 
 
 
 この場面で、「即得往生住不退転」ではなく、「若不生者不取正覚」を思いついたというのは、ビデオ製作者の勉強不足であって、貴方の責任では無かったのかも知れません。
 
 貴方は、本願成就文の重要性は理解されているようですので、ビデオ製作者に伝えておいていただきたく思います。

====誤魔化しちゃ嫌よ====

というわけで、
 ↓
13,そもそも不体失往生の根拠として、「即得往生住不退転」ではなく「若不生者不取正覚」の八字を使ったのがチ●ーリップ企画の誤り。それを誤魔化そうとしたため、更に大きな間違いがあることが明らかになった。


親鸞聖人は、釈迦のこの「即得往生、住不退転」の八文字の教えをもって、弥陀の「若不生者不取正覚」の誓いを、『愚禿抄』に次のように教述されている。

『本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又、必定の菩薩と名くる也)
他力金剛心也と、応に知るべし。
便ち弥勒菩薩に同じ、自力金剛心也と、応に知るべし。「大経」には次如弥勒と言へり』


ふ~ん?

田中さんに言われたことを忘れないでね(苦笑)。
 ↓
====あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。====
>『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
>即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
 
 
 この返答で、貴方の主張には、結局、根拠が無いことが、明白になりました。
 
----------------------------------------------------------
 
★「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。
 
 
 尊号真像銘文には、以下のように記述されています。
 
『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。』
 
 
 つまり、「本願を信受する」=「至心信楽をえる」ということです。
 
 貴方の根拠は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません。
 
 
 さらに、尊号真像銘文は、以下のように続きます。
 
『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』
 
 
 至心信楽をえた人、イコール「即得往生」した人が、死んで極楽浄土に生まれるのが、「若不生者」の「生」だと断定されています。
 
 当然、「即得往生」=「若不生者」は成り立ちません。
 
 
 貴方が主張するように、「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになり、上記の親鸞聖人の記述は間違いということになります。
 
 
 つまり、貴方の提示された根拠では、「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈することは出来ません。

====あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。====

あと、

!!「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。!!

これがまだ全然治ってないよ(苦笑)。

====そろそろわかってよね====
「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)


このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。
 ↑
せっかく教えてあげてるんだから、そろそろ理解してよね(苦笑)。

★しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。『教行信証』証巻

「往相回向の心行を獲れば」→「即のときに大乗正定聚の数に入るなり」

 ↑
これも理解できなかったかのかな?(苦笑)
「往相回向の心行を獲れば(=信楽になったならば)」→「即のときに大乗正定聚の数に入るなり」
ですから、

「無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされたこと」=「信楽」
というチ●ーリップ企画の主張がどんだけおかしい理解であるかってのは、
日本語読解力に致命的な問題がない限り理解できると思いますけど(苦笑)。

ここまで書いてあげないとわからないのですかね~。
ちょっと基礎学力に問題があるのではないかと心配になります(苦笑)。
====そろそろわかってよね====


というわけで、
今回もボッコボッコになりましたね(笑)。

ここで親鸞聖人が、「若不生者のちかい」をどのように明らかにされているか。次回から詳説したいと思う。

 
でも、性懲りもなく頑張るみたいですから、
次回も楽しみに待ってま~す(笑)。


今回は長くなったので、宿題チェックは次回にしときますわ(苦笑)。

「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」???(追記あり)

ボロカス言われてますな(笑)。

↓↓↓

親鸞会教義の相対化・65
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-206.html

最近、以下のHPにアップされた内容に、驚くべき記述がありました。

(株)チューリップ企画と田中一憲氏の論戦
http://shinjin.info/

>>>
ナレーター「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空も、そのあやまちを、この時、聖人に、徹底的に打ち破られたのであった。これは、今日、親鸞聖人の三大諍論の一つとして、『体失・不体失往生の諍論』と、伝えられている」
http://shinjin.info/oujyou
>>>


 これに関しては、20085/18(日)のメールで田中さんが以下のように指摘し、


>>>
ついでですから、申し上げておきますが、ビデオの中に「後に浄土宗を開いた程の善恵房証空も…」という台詞がありますが、これは「浄土宗西山派」の間違いですね。「浄土宗」を開いたのは法然上人です。
>>>


 2008 5/19(月)に山田さんは以下のように答え、


>>>
アニメの「浄土宗云々」につきましては、後日、改めてご挨拶する機会もあると思いますので、「確認」している事項を、もう一度挙げておきます。
>>>


 更に、20085/25(日)に田中さんが以下のように仰っておられます。


>>>
これについては、間違いを認めて下さったようですね。わざわざ御礼に来ていただくまでもありません。ビデオ製作者の勉強不足もあるようですので、貴方の責任ではないと思います。

これは教義とは関係のない、単純ミスと思われますから、次に改訂されることがあれば、その時にでも直されたら良いかと思います。
>>>


 それにも関わらずチューリップ企画は、間違いを全く訂正することもなく、インターネットという世界中に発信できるメディアに掲載し、誤った情報を垂れ流しています。

 既に田中さんが指摘してくださっているわけですが、私の方で資料を掲載し、改めてチューリップ企画の誤りを「ハッキリ」させておきたいと思います。


1)本人の証言

「我今浄土宗を立つる意趣は、凡夫の報土にむまるることを示さんがためなり」
(『勅伝』巻六、『一期物語』昭法全p.440、『浄土立宗の御詞』昭法全p.481)

と法然上人ご自身が述べておられます。

 法然上人が浄土宗を開宗するまで「浄土宗」というものはありませんでした。それまでなかった「浄土宗」を法然上人が新たに立てたのです。


2)同時代の批判

 法然上人が、それまで存在しなかった「浄土宗」を新たに立てたために、

「新宗を立つる失」
(貞慶『興福寺奏状』日本思想体系15「鎌倉旧仏教」pp.32-33)

「八宗九宗の外に浄土宗を立つる事、自由の条かな、と余宗の人の申し候をばいかが・・」
(「十二問答」聖典4巻p.433)

というように、法然上人は同時代の他宗の人から反発を受けています。


3)「宗」について

 チューリップ企画は、そもそも「宗」というものが指し示す概念を理解していません。

「宗」とは、「道理」「主張」「定説」を意味するもので、『倶舎論』においては「毘婆沙宗」(説一切有部の正統派)、「経部宗」(説一切有部の異端派)という形で使われます。

 最近は「教団」のことを「浄土宗」というように言う場合もありますが、本来「宗」は思想あるいは理論であって人の集団でも教団でもありませんでした、ただ「宗」を奉ずる集団や教団が「宗」に付随していたわけです。

 この「宗」(理論)および宗派(教団)の別れ目になったのが、「釈尊の教説をどう見るか」という聖典解釈です。

 釈尊は相手の能力に応じて、様々に教えを説いてこられました(対機説法)。これによって、八万四千の法門と呼ばれる様々な教えが出来きたのです。

 そして様々な教えがあるため、それぞれの教え同士に矛盾が出てきて、「どの教えが釈尊の真意であるか」ということが問題になったのです。

 部派仏教を例にするならば、「一切は皆苦なり」というのが真意だとするのが経部宗で、「受に三種あり。苦・楽・不苦不楽なり」というのが真意だとするのが毘婆沙宗でした。

 このように「宗」を立てるときには、「どの教えが釈尊の真意であるか」という「聖典解釈」がもっとも重要な別れ目となったわけです。

 釈尊亡きあと、その解釈は個々の仏教徒の手に委ねられることになり、それによって様々な宗派が立てられました。

 このことに関して法然上人は、「禅勝房に示されける御詞」において、

「宗を立つる事は更に仏説にはあらず、自ら学ぶ所の経論に付きて、その義を覚り極むるなり。諸宗の習い、皆もって此くの如し。」
(宗派を開くことは、もとより釈尊の教えにはない。その宗の祖師が自ら学んできた経典や論書についての理解を極めた結果である。それは各宗ともに開宗の常であり、いずれの宗派も皆、そのような由縁によっている。)
(昭法全p.697)

と述べ、「十二問答」においても、

「宗の名をたつることは仏説にはあらず、みずからこころざすところの経教につきて、存じたる義を学しきわめて、宗義を判ずることなり。諸宗のならい、みなかくのごとし。」
(昭法全p.632)

と述べておられます。


 膨大にある釈尊の教説の中で、

「すべては心であるとする説が真意」とする法相宗
「すべては空であるとする説が真意」とする三論宗
「華厳経の説が真意」とする華厳宗
「密教の教えが真意」とする真言宗
「法華経の説が真意」とする天台宗

これらと同じように、

「浄土三部経の説が真意である」とする浄土宗を、法然上人が初めて開かれたのです。

 わが国で、法然上人のような意味での「宗」を開いた人は他にはおらず、そこが法然上人の最も大きな思想史的意義であるとさえ仰る方もおられます。



4)「浄土宗」=「浄土真宗」

 以上を踏まえて以下の親鸞聖人の言葉をご覧いただきたいと思います。

「智慧光のちからより本師源空あらはれて浄土真宗をひらきつつ選択本願のべたまふ」
(『高僧和讃』浄土真宗聖典p.595)

 親鸞聖人は、法然上人がお立てになられた「宗」を「浄土真宗」と述べておられます。

 法然上人にとっての「浄土宗」と親鸞聖人にとっての「浄土真宗」は同じものであり、どちらも法然上人がお立てになられたものです。

「宗」が教団を意味せず、法然上人にとっての「浄土宗」を親鸞聖人が「浄土真宗」と位置づけているのですから、「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」としたチューリップ企画の誤りは極めて深刻なものです。




 チューリップ企画の誤りを、田中さんは「教義とは関係のない、単純ミス」と仰っておられました。
 しかし私に言わせれば、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙です。

 偽装問題などで企業のモラルがうるさく言われている昨今ですが、このような誠実さの欠片もないような企業が「浄土真宗の教え」を語ることにより、浄土門や仏教界全体の印象が著しく悪化することを、私は深く危惧します。

 せめて清森問答をご覧の方にだけでも、チューリップ企画が垂れ流している情報の誤りの深刻さをご理解いただければと思います。





これは僕のお友達が言ってたんだけど、

「以下の人物で、浄土宗を開いたのは誰か? 
A, 証空 B,日蓮 c, 法然 d, 慈円」

という問題に、チューリップ企画は「A」と解答して、
バツが付けられても、
全然反省してないってことなわけだよね(苦笑)。


ミスはまあ許すとしても、指摘されても改めない企業の姿勢が問題なわけなんだよね~。
今後も「いなおり」続ける限り、「おしおき」はやめれませんな~(苦笑)。

(以上、2008.08.11記)



追記(2008.10.18)

清森問答&苦笑の独り言でこの話題が出て、既に二ヶ月以上経過。

チ●ーリップ企画は未だに間違いを訂正せず、
あちらのサイトでは、未だにヘンテコドグマがまき散らされてます(苦笑)。

というわけで、これも追加しときますわ(苦笑)。
 ↓
10,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。

ツッコミ!【第16回】弥陀より賜る“信楽”

第16回がアップされました。
 ↓↓↓
【第16回】弥陀より賜る“信楽”
http://shinjin.info/2008/10/161652154.html

四連続敬遠で押し出し!失点一!を指摘されて反省したのか、
やっと議論の本線に復帰したようです(笑)。

今回はツッコミどころがバッチリあって、よかったですよ(笑)。


釈迦の『成就文』で明らかになった(1)(2)についての説明は、一応終わったので、次に、
(3)の「信楽を獲て信心歓喜」するのは、全く阿弥陀仏のお力であると、どうして明らかなのか、善知識方のご教導をお聞きしよう。

釈尊が「成就文」に、「至心に廻向せしめたまえり」と説かれているのが、その証である。
我々が「信楽を獲る」(信心歓喜する)のは、弥陀が誠心誠意で『名号』大功徳を「至心に廻向せしめたまう」からである、と釈迦は教えていられる。

「至心」とは、「まことの心」ということ。
「廻向」とは、「差し向ける」「与える」ということ、「せしめたまえり」は最高敬語である。
阿弥陀仏が『名号』の大功徳を誠心誠意私たちに「廻向せしめたまえり」(お与え下される)からであると仰っているのである。


あ~ん?

====親鸞会教義の相対化・31より引用====
【3】『会報』vol.2p.23~阿弥陀仏の本願(1)

>>>
第二にこの願成就の文によって、弥陀の本願の真意が信心正因、称名報恩なることが明らかになったが、その正因たる信心は自分で起こすものなのか、他力の賜りものであるのかが、本願のみでは我々にはハッキリしないが、成就文では「至心に廻向せしめたまへり」と説かれてあることから、この信心は佛の方より授けまします、他力廻向の大信心であることが明らかである。
>>>


はたして「明か」でしょうか?

この部分の直前に高森先生自身が引用されていますが、本願成就の文の原文は、

諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念至心廻向願生彼国即得往生住不退転唯除五逆誹謗正法

です。

通常の漢文のワードオーダーから考えると、「至心廻向」の主語は基本的には「諸有衆生」であり、

「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜して、ないし一念し、至心に廻向して彼の国に生まれんと願えば、すなわち往生を得・・」

と読むべきものです。これはサンスクリット文の本願成就文でも共通しております(※)。

※それはなぜであるかというと、およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。


親鸞聖人は、「至心廻向」を「至心に廻向せしめたまへり」と読み主語を置き換え、阿弥陀仏から賜る信心というものを明かにされたわけですが、それは親鸞聖人が受け取られた信心に基づき経文を読んだ結果得られた解釈です。

『無量寿経』から言えないことを、『無量寿経』から言えるかのように語るべきではないと思います。

もっと厳しいことを言うならば、高森先生が漢訳原文を引用していながら、実際には漢訳原文は読んでおらず、親鸞聖人の読み方を採用している浄土真宗系の「書き下し」に基づいて論じているから、このような初歩的な誤りをしてしまうのではないかと思います。
====親鸞会教義の相対化・31より引用====

そうそう!『無量寿経』から言えないことを、
『無量寿経』から言えるかのように語るべきではないですよん。

ここで言えることは、

●親鸞聖人は、「至心廻向」を「至心に廻向せしめたまへり」と読み主語を置き換え、阿弥陀仏から賜る信心というものを明かにされた。

ということだけであって、

釈尊が「成就文」に、「至心に廻向せしめたまえり」と説かれているのが、その証である。

 ↑
こんなことは、ここでは全然言えないんですよ。

サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、
親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて、
論を展開しちゃっているから、こういうヘンテコな発言になるのよね(苦笑)。

こんだけ丁寧に教えてもらっているんだから、同じ間違いを繰り返さないでね(苦笑)。

というわけで、これ追加ね。
 ↓
8,サンスクリット文や漢訳原文を読ま(め)ないで、親鸞聖人の読み方を採用した「書き下し」に基づいて論を展開したために、『無量寿経』の願成就文から言えないことを言えるかのように誤って語ってしまっている。さらに、既にその誤りは指摘されているのにも関わらず、同じ誤りを繰り返している。

阿弥陀仏の『重誓偈』のお言葉で示せば、
「我無量劫に於て、大施主と為りて、普く諸の貧苦を済わずは、誓いて正覚を成ぜじ」。
「衆の為に法蔵を開き、広く功徳の宝(名号)を施し」
と誓われている。

これらのご文でも明白なように、弥陀が『名号』(功徳の宝)を造られたのは、苦しみ悩める私たちに与えて「破闇満願」「信心歓喜」の絶対の幸福に助けるためであったのである。

親鸞聖人は、この弥陀の大慈悲を『教行信証』に、こう詳述されている。
「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり」 (教行信証)

「すべての人は、はるか遠い昔から今日まで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、まことの心は、まったくない。かかる苦しみ悩む一切の人びとを弥陀は憐れみ悲しみ、何とか助けようと気の遠くなる永いあいだ、心も口も体も常に浄らかに保ち、その清浄なまことの心で、全身全霊、ご修行なされて、完全無欠の不可称・不可説・不可思議の無上の功徳(南無阿弥陀仏)を、私たちに与えるために完成されたのである」

これを簡潔に『ご和讃』に親鸞聖人は、こう説かれている。
「如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心(名号)をば成就せり」
(正像末和讃)
『一念多念証文』では、
『「廻向」は、本願の名号をもって十方の衆生に与えたまう御法なり』
とも仰っている。

蓮如上人は『御文章』に、
「阿弥陀如来の、凡夫の為に御身労ありて、この廻向(名号)を我等に与えんが為に、廻向成就したまいて」
とか、
「不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたもう」
など、枚挙に暇がない。

よくぞ生まれ難い人界に生を受け、聞き難い弥陀の本願に遇い、「無明長夜の闇が破られ、志願が満たされて」絶対の幸福に救い摂られたものか。これは全く弥陀が南無阿弥陀仏の『名号』をお与え下されたなればこそであったのである。

その弥陀の本願の救いの尊さを釈迦は、「成就文」に「至心廻向」と解明下されたのである。故に「信楽(信心歓喜)を獲る」のは、全く弥陀のお力だから「他力の信心」といわれる。「信心を獲る」「信心獲得する」という言葉が使われるのも、自分で起こす信心ではなく弥陀から賜る信心であるからである。


あ~ん?
阿弥陀仏が衆生に名号を与えようとしているのは確かだけど、
「阿弥陀仏が名号を与えることを誓っている」とは言えませんね(苦笑)。

というか、こう書いてくるのは既に予想済みでして、
あらかじめツッコミ入れておいたんですが、
まだ読んでなかったの?(苦笑)

もうシャアナイし、もう一回書いておいてあげるね



====今度はちゃんと読んでね~====
阿弥陀仏が信心を与えてくれる=衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている

ではないですわね(苦笑)。

●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。『教行信証』信巻

繰り返しになりますが、
「仏願の生起本末」を衆生が「聞きて疑心あることなし」になったら、
「本願力回向の信心」を獲得するから、極楽浄土に往生できることが確定すると、
親鸞聖人は述べておられます。

逆に言うなら、衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、
「本願力回向の信心」を獲得することができないから、
極楽浄土に往生することは確定しないことが明かですわ~ね。

そんでもって、

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。『尊号真像銘文』


阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、
衆生がそれを受け取らないもんだから、
残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるわけですわ~ね。

だからこそ、「ど真剣な聞法」を奨めるちゅうのが、
親●会の一番いい所だと思ってたんですけど、違ってました?(苦笑)

「火の中を、わけても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」
という蓮如上人の言葉でない言葉を、蓮如上人の言葉と捏造してまで、
「ど真剣な聞法」を奨めているくせに、

衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓ってたら
その真剣な聞法をなんでやってるんですか?(苦笑)


「ど真剣な聞法をしなければ信楽になれない!」
「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている!」


どう考えてもこの二つは矛盾してます。
これは私のような愚鈍なものでもわかりますわ(苦笑)。

親●会には一流大学を卒業されたような、
私なんかより遥かに賢い人が沢山いるはずですが、
パクリ損ないに由来するような、
ショウモナイドグマに固執しているために、
親●会のよい部分まで、まったく台無しにしているというのが、
何でわからないんでしょうかね~(苦笑)。
====今度はちゃんと読んでね~====

というわけで、これが追加になっちゃいました(苦笑)。
 ↓
9,「阿弥陀仏が名号を与える」ことと「衆生が名号を受け取る」ことの関係の説明が曖昧である。そのために「真剣な聞法を勧めている」親●会の優れた特色まで曖昧になってしまっている。


今回も、「阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っている」という、
チ●ーリップ企画(=親●会)の主張を裏付ける根拠は提示されず、
ツッコミを入れられて笑われるだけでしたね(苦笑)。



おまけコーナー 宿題チェ~ック!!

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めていること。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作していること。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

7,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

※「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正した部分は除く。

ツッコミ!【第15回】法の深信とは

第15回がアップされました。
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【第15回】法の深信とは
http://shinjin.info/2008/10/110940153.html

次に、「法の深信」でハッキリ知らされたことを善導大師は、こう述べられる。
『二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す』
この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという弥陀の本願、まことだったとハッキリ知らされた、と仰っているお言葉である。

親鸞聖人のお言葉からも聞いてみよう。
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
若しまたこの廻、疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」
(教行信証)

ああ、親鸞は今、生まれ変わり死に変わりしてきた果てしなき過去からも、遇うことの出来なかった不可思議な弥陀の本願に遇わせて頂き、億劫にも獲がたい真実の信心を獲得することが出来た。
どんな遠い過去からの、阿弥陀仏のお手回しがあったことやら、深く喜ばずにおれない。 もし、いま救われなかったら永久に親鸞、流転の苦しみから抜け出ることは出来なかったであろう。危ないところを救われたものだ。
誠であった、誠であった、必ず救う弥陀のお誓いにウソはなかった。みんな聞いて貰いたい。

『教行信証』の冒頭に、深信せる「弥陀の本願真実」をこのように書き記し、末尾に、
「慶ばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
これによりて真宗の詮を鈔し、浄土の要をひろう。唯、仏恩の深きことを念じて人倫の嘲を恥じず。
若し、この書を見聞せん者は信順を因と為し、疑謗を縁と為し、信楽を願力に彰し妙果を安養に顕さん」 (教行信証)
と、『教行信証』を擱筆していられる。

親鸞、こんな不可称不可説不可思議の絶対の幸福に救いとられたのは、全く阿弥陀如来の本願力であった、とハッキリ知らされた。 そして喜ばずにおれないのは、この弥陀の本願を親鸞に伝えて下された善知識方のご恩である。

これらの仏恩と師恩に、なんとか報いたいと思う心は日々に高まるが、九牛の一毛も報いきれない身を知らされ悲泣せずにおれない。
如来と知識の最もお喜びになることは何か。それは弥陀の本願力不思議の真実を、一人でも多く正確にお伝えするしかない。そう知らされて、この教行信証を書いているのである。

この書を読んだ人には肯定的な人もあろうが、否定的な方もあるだろう。喜んでくださる人はこの書を縁として、どうか無碍の一道へ出て頂きたい。
気にいらず誹謗される人は謗ることを縁として、やがて弥陀の本願に遇われることを偏に念ずるばかりである。

親鸞、このような幸せな身に救い給うた阿弥陀如来の広大な御恩をおもえば、どんな非難中傷を受けても、なんの苦にもならない。甘んじてお受けするつもりである。

「絶対、助からぬ私」と「絶対、助かる私」にツユチリほどの疑いも無くなった親鸞、助かる助からぬに全く用事がない。
機法ともに疑蓋無雑、信順無疑、二心なく必定、決定の大安心を「信相の一念」と教えていられるのである。



だから何?(苦笑)

というか、ホンマニやる気あんの?(苦笑)

共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。

 ↑
完全にお忘れのようですが、これは貴方の発言でっせ(苦笑)。

オイラ(苦笑)のツッコミを警戒するのはよくわかりますが、
これじゃあインチキドグマ混入隠蔽工作になってません。
【12】【13】【14】【15】の四連続敬遠で、
逃げまくりで押し出し!失点一!
ですわ(苦笑)。
インチキ法論も、もう限界ですか?(苦笑)。

オイラはおもろいからツッコミ続けますが、
もうそろそろいい加減にしないと、
読者や会員に、完全に愛想つかされるで
(苦笑)。


おまけコーナー 苦笑の宿題チェ~ック!!

四連続敬遠じゃ全然ダメですわ(苦笑)

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めていること。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!


2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作していること。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

6,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

※「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正した部分は除く。


今回も「イタイ」発言を繰り返してますが、
長期戦で更に醜態を晒すとますます困りますよん(苦笑)。


(以上、2008.10.11.01:39pm記)






追記(2008.10.11.07:59pm)

次に、「法の深信」でハッキリ知らされたことを善導大師は、こう述べられる。
『二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す』
この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという弥陀の本願、まことだったとハッキリ知らされた、と仰っているお言葉である。



あ~ん?←久しぶり(笑)

●二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。『観経疏』散善義

これは、阿弥陀仏の四十八願が衆生を摂め取って救うと、
疑いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力に乗じたならば、
間違いなく極楽浄土に往生する、
と深く信じるということでっせ。

そんでもって、これは前に教えてあげたことだけど、

●必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。『教行信証』行巻

●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。『教行信証』信巻


「仏願の生起本末」、つまり阿弥陀仏が
衆生救済の願を起こされた由来と、
その願が成就して現に衆生を救済しているということを、
「聞きて疑心あることなし」になったら、
「本願力回向の信心」を獲得するから、
極楽浄土に往生することが確定(報土の真因決定)
するんでしょうがね。

そんでもって、将来間違いなく極楽浄土に往生できるから、
現在この身に「正定聚に入る益」があるんだよ。

そういうわけで、信楽=二種深信を獲得した人は、
極楽浄土への往生が「ハッキリ」するのよ。

ところが、
信楽=二種深信を獲得していない人は、
極楽浄土への往生が「ハッキリ」しないから、

「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。(2007.12.14 山田氏発言)

 ↑
こういうヘンテコ発言をして、
「メンタルテストです」とか、
後で苦しい言い訳すんのよね(苦笑)。

信楽と本願の関係がわかってないから、
法の深信を正確に解釈できてない
のね(苦笑)


というわけで・・。

7,信楽と本願の関係がわかってないから、法の深信が正確に解釈できておらず、将来間違いなく極楽浄土に往生する身になれず、現在「正定聚に入る益」もない。そのため「信楽の身」を自称しながら「死ぬ前には後生未来のことがわからない」信心になっている。これは「メンタルテスト」と言い訳しても誤魔化せない致命的な誤りである。

これも追加しておきますよ(苦笑)

ツッコミ!【第14回】機法二種深信とは

第14回がアップされました。
 ↓↓↓
【第14回】機法二種深信とは
http://shinjin.info/2008/10/061647152.html

「信相の一念」とは、弥陀の本願に全く疑心がなくなったことである。それは、二つのことがハッキリすることだ。
 真実の自己の「実機」と、弥陀の本願の「真法」とである。
 真実の自己の「実機」をハッキリ知らされたのを「機の深信」といい、弥陀の本願の「真法」をハッキリ知らされたのを「法の深信」という。
 真実の信楽には、この二つの「深信」が同時にあるから「二種一具の深信」と言われることを先回明らかにした。

 そこで先ず、「機の深信」でハッキリ知らされる真実の自己とは、どんな者か。善導大師は、こう仰っている。
『一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す』  いままでも、いまも、いまからも、救われることの絶対にない極悪最下の私であった、とハッキリ知らされた、と仰っているお言葉である。  

親鸞聖人のお言葉も、二、三あげておこう。
『悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず。恥ずべし傷むべし』  (教行信証信巻)

「ああ、情けない親鸞だなぁ。果てしない愛欲の広海に溺れ、大きな山のような名誉欲と利益欲とに阻まれて、極楽浄土へ往ける身(定聚の数)になったことを喜ぶ心もなければ、一夜明ければ一夜だけ、弥陀の浄土に近づいているのに、それも愉しむ心のない親鸞。
どこどこまでも痺れきった、絶対助からぬ奴である。恥ずかしいことよ、悲しいことだ」

『一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し』
(教行信証)
「すべての人は、始めなき昔から今日まで、全心が邪悪に汚染されていて、清浄の心は全くなく、そらごと、たわごとばかりで、真実の心は微塵もない」

また『唯信鈔文意』には、
『しかれば善人にもあらず、賢人にもあらず、精進の心もなし。懈怠の心のみにして内は空しくいつわりへつらう心のみ常にして、まことなる心なき身と知るべし』

「このような親鸞だから、善人でもなければ賢人でもない。怠け心一杯で立派な人になろうと努める心もない。心は空虚で常に他人の評価ばかりを気にしている、ウソ偽りの名人である。まことの心のない永久に救われぬ身であることだけが知らされる」

あの『歎異抄』では、こう仰っている。
『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし』
『さるべき業縁の催せば、如何なる振る舞いもすべし』
いずれも地獄は必定、永久に助かる縁なき身の表白である。

醜い欲が露わに見えたり、怒りが爆発して恐ろしい心が出たりすると、悪い所へ行くのではないだろうかと不安になる。
妬み、そねみ、うらみ、憎むイヤな心がウロウロすると、こんなことでは助からんのではなかろうかと心配になる。
ある時は極楽へ往けるようにも思えるのだが、ある時は地獄へ堕ちるのではなかろうかと不安になる。こんな若存若亡の信心は、絶対助からぬ自己と知る「機の深信」が抜けているのである。

聞名の一念に仏智満入し、「地獄往き間違いなし」の「機の深信」が徹底していれば、堕ちて当然、助かりゃ不思議と喜べるのだが、このような若存若亡の信心は「二種深信」でも、二心無き「信相の一念」でも、「清浄報土の真因」でもないのである。


だから何?(苦笑)

共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。

 ↑
御自分で言ったことを、忘れちゃ困りますよ(苦笑)。
議論の目的を完全に見失っているんですかね(苦笑)。

今後も得意の論点拡散・スライド工作ならびに、
ブレンド工法によるインチキドグマの混入隠蔽工作を、
呆れるぐらい果てしなく継続するんだと思いますが、

インチキ法論まるだしがバレバレです(苦笑)。


どれだけ関係のない書き込みをしても、
最終的に自説の論証ができないのであれば、
資源とエネルギーの無駄ですから、
こんな茶番はやめにしたらどうです?(苦笑)。




おまけコーナー 苦笑の宿題チェ~ック!!

今日は宿題は忘れずやってこれたかな~?
チェックいくよ~ん!!

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めていること。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!


2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!


3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作していること。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造している。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

5,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになっている。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

※「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正した部分は除く。


このように「イタイ」発言を繰り返すと、
更に醜態を晒すことになりますよ(苦笑)。

「正覚を取らじ」は「命を捨てる」??(追記あり)

なんだ!
件のチューリップ企画のサイトは毎日更新じゃないのか!
(2008/08/02/20:38の時点で第二回は更新されず。。)

仕事でやっているくせに、結構怠慢なもんだな。
オイラなんて、完全に趣味でやってるのに更新はマメだぞ
まあ、すぐ飽きるかもしれないけど(笑)。

というわけで、チューリップ企画のサイトが更新されるまで、
ヘンテコ教義をチクチク晒していこうかなっと


今日はこれね
 ↓↓↓
http://shinjin.info/2008/07/052003131.html

ここで、あまり仏教に馴染みのない方のために、この度、問題になった阿弥陀如来の本願の「若不生者不取正覚」とは何か、に就いて少し説明しておかなければならないであろう。
「若不生者不取正覚」とは、阿弥陀仏の本願のお言葉で、「若し生まれずは、正覚を取らじ」と読む。「正覚」とは「仏覚(仏のさとり)」のこ と、「仏のさとり」は仏の「命」。「若し生まれさせることができなければ、命を捨てる」という、まさに、この八字は阿弥陀仏が命を懸けて誓われている極め て重要なお言葉であるから、親鸞聖人は「弥陀の本願」を「若不生者の誓」と仰っている。




「若不生者不取正覚」を「若し生まれずは、正覚を取らじ」と読むのはいいけど、
それがどうして「若し生まれさせることができなければ、命を捨てる」になるねん!!

まあ、別に個人が勝手に思うのは自由だから、それはそれで別にどうでもいいんだけど、
そのヘンテコな解釈は、親鸞聖人の解釈とは違うんだから、
「親鸞聖人の解釈」って言っちゃだめだよん(笑)。

せっかく親切に教えてあげてるんだから、チューリップ企画の山田さんも、
『尊号真像銘文』をちゃんと読んでよね
 ↓
結論出てるやん!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-6.html

「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
『尊号真像銘文』




ついでに浄土宗の方が挙げてくれたサンスクリット文の本願文を見ても、
 ↓
親鸞会教義の相対化・28
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

世尊よ、私が覚りに到達したとき、無量で数えきれない仏国土でわたしの名前を聞いて、

その私の仏国土に生まれたいという心をおこし、もろもろの善根を振り向ける衆生たちが、

もしも十度までも心をおこしても、彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら、

そのあいだは、私はこの上ない完全な覚りを完成させることがないであろう

ただし、直ちにその報を受けなければならない程の極悪な行為をした衆生や、正法を誹謗するという覆いにおおわれている衆生は除いてである。



「そのあいだは、私はこの上ない完全な覚りを完成させることがないであろう」とあって、
「若し生まれずは、正覚を取らじ」と言う漢訳はオッケーだけど、
「若し生まれさせることができなければ、命を捨てる」なんてゼッテーならね~よ(苦笑)。


山田氏:書かれていますとも! 本当は書かれているのに凡夫の知恵ではそう読めないだけです。お慈悲な阿弥陀様が「全ての人を信楽に生まれさせる」と誓われなかったはずがないじゃありませんか! 体験すれば分かります。
田中氏:誤りはそこです。あなたの誤りは実にそこにあるのです!
山田氏:なっ、なんですと?
田中氏:もし全ての人を信心獲得させるという本願ならば、十劫の昔に全ての人が信心獲得したはずじゃないですか! 本願は十劫の昔に成就したのですから。あなたの説は十劫安心と同じです。
山田氏:いやいや、本願はまだ成就していないのです。
田中氏:法蔵菩薩は十劫の昔に成仏し、阿弥陀仏となられたではありませんか?
山田氏:いやいや、成仏はされましたが本願はまだ成就していません。
田中氏:もし約束が果たせなければ正覚を取らない、と書かれているではありませんか。約束を果たさないままで成仏されたのなら、阿弥陀仏は嘘つきということになるではありませんか?
山田氏:「不取正覚」というのは「正覚を取らない」ということではありません。一旦成仏された阿弥陀仏が「正覚を捨てる」と言われたお言葉です。
田中氏:普通に読めば「正覚を取らない」としか読めません。どうして「正覚を捨てる」という意味になるんですか?
シンパ:善知識高森顕徹会長先生がそのように解釈なさっているからです。善知識のお言葉に絶対無条件服従しなければ信心獲得できませんよ。信心獲得しなければ必堕無間なのです! 阿弥陀仏が「正覚」という命を懸けておられるのですから、私達も命を懸けなれば火花が散りません。
苦笑氏:それは親鸞会という特殊な文化の中でしか通用しない論理でありドグマです。第三者にも分かるように言わなければ説得力がありません。
山田氏:善知識の解釈にケチを付けるような辻斬り強盗のようなまねはやめていただきたい。謗法罪ですぞ!
シンパ:後生の一大事も分からない部外者が、弥陀の本願をあれこれ論ずる資格はありません!


http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-4.html

 ↑
これを投稿したZさんは、「パロディー」のつもりで書いたはずなんだけど、
こんだけそのまんまだと、「パロディー」じゃなくて「予言」みたいだね~(笑)。

それじゃあ、「予言」に従って僕も言わせてもらおうかな?


それは親鸞会という特殊な文化の中でしか通用しない論理でありドグマです。第三者にも分かるように言わなければ説得力がありません。

by.苦笑(笑)
(以上、2008.08.02記)


追記1(2008.10.06)

これもチ●ーリップ企画(=親●会=高●先生)の致命的な誤りですわな(苦笑)。

・阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っているのに、
 現実に信楽になっていない衆生がいる。
  ↓
・そうなると阿弥陀仏の誓願が成就していないことになるから、
 阿弥陀仏は阿弥陀仏になっていないことになってしまう。
  ↓
・その矛盾を誤魔化すために、
 「誓願を成就して仏になった阿弥陀仏が、正覚を捨てる!」
 という新たなドグマを捏造!

という流れでございましょうかね(苦笑)。

「一つ嘘つくと、その嘘を誤魔化すために更に嘘を重ねることになる」
とは、誰の明言でしたかね。

「ボタンを一つかけ間違えると、めちゃくちゃヤバイことになる」
と、こないだ僕のお友達がいってましたが、
まさにこれでござりますな(苦笑)。

というわけで、前回までの四項目にさらに一項目プラスしますわ。
 ↓
5,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになった。




追記2(2008.10.06)

これだけ丁寧に教えてあげているにも関わらず、
いまだに親●会では、このヘンテコドグマを性懲りもなく、
まき散らしておるようですね(苦笑)。
 ↓

 弥陀の本願文には、「若不生者 不取正覚」(若し生まれずは、正覚を取らじ)と誓われている。
「正覚」とは「仏覚(仏のさとり)」のこと、仏にとっては命である。
「若し生まれさせることができなければ、命を捨てる」という、まさに、この8字は、阿弥陀仏が命を懸けて誓われている極めて重要なお言葉であるから、親鸞聖人は「弥陀の本願」を「若不生者の誓」とおっしゃっている。

「生まれる」のは、いつだ 「若不生者 不取正覚」の真意 H20.9.22

ツッコミ!【第13回】一念は真実信心の信相

第13回がアップされました。
 ↓↓↓
【第13回】一念は真実信心の信相
http://shinjin.info/2008/10/021600151.html

先回に続いて「時尅の一念」について、覚如上人や蓮如上人のお言葉を少し挙げておこう。 
覚如上人は『改邪鈔』に「時尅の一念」を、こうも教えていられる。
「凡夫往生の得否は、乃至一念発起の時分なり。・・・乃至・・・然れば祖師聖人御相承弘通の一流の肝要これにあり。これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって御門弟のしるしとす」
『執持抄』には、
「平生の一念によりて、往生の得否は定まるものなり。平生のとき不定の念に住せばかなうべからず」

蓮如上人は『御文章』に、
「一念をもって往生治定の時尅とさだめて、その時の命のぶれば自然と多念に及ぶ道理なり」
「もろもろの聖教をよみ、物を知りたりというとも、一念の信心の謂を知らざる人は徒事なりと知るべし」
「一念に弥陀をたのみ申す我ら衆生に廻向しまします故に過去、未来、現在の三世の業障一時に罪消えて・・・」
「この一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと更に疑なし」
『御一代記聞書』には、
「聖人の御流は、たのむ一念のところ肝要なり」と、ズバリ仰っている。

以上で分かるように、これら善知識方はみな、この「一念」こそが自力と他力の分岐点であり、地獄と極楽の別れ目であり、弥陀の本願の極意であり、釈迦出世の本懐であり、宗の淵源であり、凡夫往生の枢要であり、如何に浄土真宗の肝腑であるかを力説されているかが知られよう。         

次に聖人は、「信相の一念」についてこう教えられている。
「一念と言うは、信心二心無きが故に一念と曰う、是を一心と名づく、一心は則ち清浄報土の真因なり」 (教行信証)
この意味は、「信相の一念」とは「二心無きこと」とも「一心」とも言い、「清浄報土の真因」である、と聖人は云われている。
即ち「信相の一念」とは「二心」のなくなったことだ、と教えていられるのである。
では、「二心」とは何か。

弥陀の本願に対する「二心」であり「本願の疑惑心」のことである。故に「信相の一念」とは、弥陀の本願にツユチリほどの疑心も無くなったことを云う。
弥陀の本願に疑心がなくなれば、弥陀が救わんとなされた者(真実の自己)とはどんな者か、ということと、そんな者を必ず救うと誓われた弥陀の本願真実が、ハッキリと知らされる。

ハッキリ知らされたことを「深信」といわれるから、弥陀の本願に全く疑心がなくなれば、「真実の自己」と「弥陀の本願真実」の二つが同時にハッキリ知らされるのである。これを「二種深信」といわれる。
これでお分かりのように、「信相の一念」とは「二種深信」のことである。
仏法では自己のことを「機」といい、真実の自己を「実機」という。弥陀の本願は真実の「法」だから「真法」とも言う。
「二種深信」とは「真実の自己」の「実機」と、「弥陀の本願」の「真法」がハッキリしたことだから、「機法二種深信」とも言われる。然もこれが、同時にあるから「機法二種一具の深信」とも言われるのである。

以上で明らかなように「信相の一念」とは、弥陀の本願に全く疑心がなくなったことであり、「真実の自己」の「実機」と、「弥陀の本願」の「真法」とが同時にハッキリする「二種一具の深信」のことであると、聖人は仰っているのである。


だから何?(苦笑)

一昨日、牽制攻撃をしておいたせいか、
今回も「だから何?」と言いたくなるような、
議論の本質に迫ら(れ)ない、
時間稼ぎのような内容でしたね(苦笑)。


共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。

http://shinjin.info/2008/08/010830131.html

これは誰の台詞でしたかね?(苦笑)

まあこれは、得意の論点拡散・スライド工作であり、
ブレンド工法によるインチキドグマの偽装工作ですから、
インチキ法論の定石通りです(苦笑)。


ただこれは、見抜かれてない場合は有効だけど、
見抜かれてバレバレな場合は、
すっごい「イタイ」ですよ(苦笑)。





おまけコーナー 苦笑の宿題チェ~ック!!

前回のツッコミ並びに昨日の記事で、
チ●ーリップ企画(=親●会=高●先生)の間違いを、
具体的に箇条書きで指摘してあげたわけだけど、
その指摘に反論できたかどうかチェックしてあげるね。

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めていること。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしていること。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めていること。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作していること。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造していること。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っていること。

→ × 訂正も言い訳も反論もなし!残念!

※「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正した部分は除く。



どんだけ論点スライドしても、この指摘に反論できない限り、
いつまでも「イタイ」状態が続くよ~(苦笑)。
これとっても重要な宿題なわけだから、
ちゃんと反論できたかどうか毎回チェックしてあげるね

プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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