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ツッコミ!【第12回】信楽は一念で獲得

第12回がアップされました。
 ↓↓↓
【第12回】信楽は一念で獲得
http://shinjin.info/2008/09/261006150.html

弥陀が『本願文』で誓われている「信楽を獲る」に就いて、釈迦は『成就文』で、
「其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり」
と解説されている。これによって、以下の三つのことが明らかになった。

(1)「信楽」(信心歓喜)を獲るのは、阿弥陀仏が完成された『名号』を聞(頂いて)いて、であるということ。
(2)その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる”ということ。
(3)「信楽を獲て信心歓喜」するのは、全く阿弥陀仏のお力であるということ。

第一の「信楽」(信心歓喜)を獲るのは、弥陀が完成された『名号』を聞いて(頂いて)であることと、「信楽」(信心歓喜)とはどんなことか、「信楽」(信心歓喜)を獲ればどうなるのか、などは已に述べた。



あ~ん?

これまで、以下のチ●ーリップ企画の誤りにツッコミました。

1,「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠を出さ(せ)ないにも関わらず、そのことを前提に議論を進めていること。しかも関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってそのことを誤魔化そうとしていること。

2,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるのに、そのことを理解できてないまま議論を進めていること。

3,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作していること。しかも、ドグマに併せて覚如上人の『執持抄』の超重要な箇所を、ヘンテコな形で切り取って引用し資料を捏造していること。

4,衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、極楽浄土に往生することは確定しないことが『教行信証』で明らかにされている。それにも関わらず、「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が本願文で誓ったことにして、全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定してしまっているために、見事な「十劫安心」に陥っていること。


※「後出しジャンケン」で指摘されてから(ゴマカシながら)訂正した部分は除く。


このツッコミに対して、
チ●ーリップ企画が何も答えられてないのは、
とりあえず「ハッキリ」してます(苦笑)


そんでもって、ツッコミに何も答えられないことを誤魔化すため、
以下のように議論に関係ないことを沢山書いて、
論点を拡散しているわけですね(苦笑)。

次に第二の、その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる”ということに就いて明らかにしよう。
釈迦は『成就文』に「信楽を獲る」のは、「信心歓喜せんこと乃至一念せん」と、「一念」であると鮮明に説かれている。では「一念」とは何か、親鸞聖人にお聞きしたいと思う。

この『成就文』の「一念」を、法然上人は「行の一念」とされているのに、親鸞聖人は「信の一念」と説き、それを「時尅の一念」と「信相の一念」で教えられている。(両聖人の違いについては後日、述べよう)

先ず、「時尅の一念」に就いてであるが、聖人はこう仰っている。

「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり、一念とは信楽開発の時尅之極促を顕はし、広大難思の慶心を彰すなり」 (教行信証)

ここで親鸞聖人の仰せになっていることを、易しく言うと次のようなことだ。

「阿弥陀仏の本願の『信楽』を、釈迦は成就文に『信心歓喜せんこと乃至一念せん』と説かれているのは、本師本仏と仰ぐ弥陀の本願の最も尊く優れているのは、一念の救いである」と言われているのである。

「一念の救い」とは、先ず、弥陀の救いは極めて速いということ。「名号」を聞即信と頂き破闇満願し、広大難思の慶心の身に救われるのは、分秒にかからぬ速さである。
だから聖人は「極速円融の真詮」とも弥陀の救いを言い、聞即信の一念だから「極速」、一念で大満足させられるから「円融の真詮」と仰っている。

なぜ、弥陀の救いは、こんなに速いのか。覚如上人は『口伝抄』に、その訳をこう記される。

「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」

平易に言うと、常に阿弥陀仏の救いの相手は、直前に死が迫っている無常迅速の人(十方衆生)だからである。もし三刹那かかる弥陀の救いだとすれば、一刹那後に死ぬ人を救うことはできないだろう。
だから阿弥陀仏の本願の最も優れて尊く大切なのは、「一念の救い」であり、「一念の救い」こそが、弥陀の本願の肝要であり至極の教えであると、釈迦や親鸞聖人は言われているのだと、覚如上人は仰っているのである。

中国の曇鸞大師という人は『浄土論註』に、
「譬えば、千歳の闇室に光もし暫く至れば、すなわち明朗なるが如し。闇あに室に在ること千歳にして去らず、と言うことを得んや」
と、例えで明来闇去 闇去明来、明かりが来たのが先か、闇が晴れたのが先か、弥陀の一念の救いの速さを教えていられる。

だから真実の信心(一念の救い)には、信楽開発した一念がある。信楽が開発したとは、一念で弥陀の本願に疑い晴れ、往生一定と極楽往き間違いなしと、大安心大満足の心になったことをいう。
例えれば、生来、目が見えなかった人が名医の手術で開眼した一刹那とでもいうか、地獄より行き場のない者と知らされたと同時に、私一人を助けんがための弥陀のご本願でありましたと驚天動地する、不可称不可説不可思議の一念である。



だから何?(苦笑)

私のツッコミに資料をあげて反証しない限り、
どんだけ関係ない書き込みをしても、
無駄ですよ~ん(苦笑)。

共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。

http://shinjin.info/2008/08/010830131.html
 ↑
自分の言ったことなんだから、忘れちゃ嫌よ
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ツッコミ!【第11回】覚如・蓮如上人の信楽の教え

第11回がアップされました。
 ↓↓↓
【第11回】覚如・蓮如上人の信楽の教え
http://shinjin.info/2008/09/211210149.html

あいかわらず議論の本質に迫ら(れ)ない内容ですな(苦笑)。
懇切丁寧に教えてあげたのに、理解が追いついてないですね(苦笑)。

破闇満願の働きのある南無阿弥陀仏の『名号』を阿弥陀仏から頂いて、無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされたことを、『本願文』では「信楽」と説かれ、『成就文』では「信心歓喜」と言われている。


あ~ん?←いきなりだよ(苦笑)。

「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)


このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。
 ↑
せっかく教えてあげてるんだから、そろそろ理解してよね(苦笑)。

★しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。『教行信証』証巻

「往相回向の心行を獲れば」→「即のときに大乗正定聚の数に入るなり」

 ↑
これも理解できなかったかのかな?(苦笑)
「往相回向の心行を獲れば(=信楽になったならば)」→「即のときに大乗正定聚の数に入るなり」
ですから、

「無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされたこと」=「信楽」
というチ●ーリップ企画の主張がどんだけおかしい理解であるかってのは、
日本語読解力に致命的な問題がない限り理解できると思いますけど(苦笑)。

ここまで書いてあげないとわからないのですかね~。
ちょっと基礎学力に問題があるのではないかと心配になります(苦笑)。

その「信楽」(信心歓喜)の身になるとは、どんなことか、前回、親鸞聖人のお言葉で一端を明らかにした。

親鸞聖人のお聖教は、すべて『本願文』では「信楽」、『成就文』では「信心歓喜」と説かれている世界のことばかりであるから、一々提示する暇がないが、身近な『正信偈』のお言葉で一つ「信心歓喜」の世界を挙げておこう。

「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」

分かり易く言えば『名号』のお力によって「信心歓喜」の身になった者(廻入)は、万川(衆水)が海に流れ込むと塩辛い一味の水になるように、凡夫も聖者も五逆の罪人も仏法を謗っている大罪人も、平等一味になる世界が「信楽」であると明示されているご教示である。


あ~ん?
前回わかったことは、チ●ーリップ企画が、
1)「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、本願文の根拠は出せなかった。
2)根拠を出さ(せ)ずに、関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってゴマカシをしようとしていた。
ということだけですがね(苦笑)。

そんでもって、

あくまでも、「信楽」=「信心歓喜」の身になった者が、
【万川(衆水)が海に流れ込むと塩辛い一味の水になるように、凡夫も聖者も五逆の罪人も仏法を謗っている大罪人も、平等一味になる】
ということを理解しなきゃだめだよん。

間違っても、【】にくくった境地を「信楽」と言っちゃだめだよん(苦笑)。
上であんだけ丁寧に教えてあげたんだから、そろそろもうわかってよね(苦笑)。

では次に、覚如上人の教えを聞いてみよう。

『執持抄』に覚如上人は、

「現在、私の喜んでいることは、阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり、人生が光明の広海と転じ変わり、人界受生の本懐が果たされ、いつでも弥陀の浄土へ往ける身になったことである」

と、こう仰っている。

「われ已に本願の名号を持念す、往生の業すでに成辨することを喜ぶべし」



だから何?(苦笑)

★根機つたなしとて卑下すべからず、仏に下根をすくふ大悲あり。行業おろそかなりとて疑ふべからず、『経』(大経・下)に「乃至一念」の文あり。仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし。『執持抄』五

これは、仏に「下根をすくふ大悲」があり、阿弥陀仏の本願が間違いないものであるから、
阿弥陀仏の「不思議力」によって「名号」が、
「正定業」=「往生の業まさしく定まる」ものになるから、
「根機つたなしとて卑下すべからず」「行業おろそかなりとて疑ふべからず」であり、
「すでに本願の名号を持念す」る人は、「往生の業すでに成弁することをよろこぶべし」
と言っているだけのことであって、

「阿弥陀仏より賜った名号によって信楽(破闇満願)の身になり」ということは書かれてないし、
ましてや「阿弥陀仏が信楽にさせることを誓っている」という根拠にはなりませんな。

ほんまに「だから何?」って感じですな(苦笑)。


ただ、「いつでも弥陀の浄土へ往ける身になった」と、
僕に教えてもらったことを反映して取って付けたように書いたことだけは、
ほんのちょっぴりの成長と言えるかもね。
ちゃんとお礼が言えないのはあいかわらずだけど(苦笑)。


続いて、このように弥陀に救われた身は、阿弥陀仏の本願に相応し、『本願文』三十六字全体が誠であったと体で知らされ、南無阿弥陀仏の名号と一体となり、私が南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏が私となるから、

『「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」という』  (執持抄)

と「信楽」の世界を喝破されている。


あ~ん?

★光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。
しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(礼讃)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず。
しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。
本願寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。これをたとふるに、日輪、須弥の半ばにめぐりて他州を照らすとき、このさかひ闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでに明くるがごとし。しかれば日輪の出づるによりて夜は明くるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜の明けて日輪出づと。いまいふところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて無明長夜の闇すでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなりとしるべし。『執持抄』四


僕が何度も教えてあげている『執持抄』の超重要な箇所を、
ヘンテコな形で切り取って引用するやめてくれません?(苦笑)

覚如上人に失礼だと思いませんか?(苦笑)

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』 【四・光明名号因縁の事】 (p.685) に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。

しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、
明確に区別しなければなりません。
第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、
全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。
これでは十劫安心になってしまいます。
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。
>>>

名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、
名号だけでOKみたいに印象操作しても無駄だよん(苦笑)。


 ↑
このツッコミを誤魔化すためにあわてて挿入した
のはバレバレですが、
笑っちゃうぐらい見事に墓穴を掘りましたね(苦笑)。

もっと言うと、
「報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり」
「報土にまさしく生るべき信心」
「行者の往生浄土のねがひ」
という、田中さんの主張の論拠を補強する言葉もありますな(苦笑)。

これを「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主になるというは、信心を獲る事なり」と教えられたのは蓮如上人である。



その蓮如上人はまた、『御文章』に古歌を引用されて、「信楽」(信心歓喜)の身になるとは、どんなことか、弥陀の救いを次のように詳述されている。

『「うれしさを昔はそでにつつみけり、こよいは身にも余りぬるかな」。「嬉しさを昔は袖に包む」といえる意は、昔は雑行・正行の分別もなく、「念仏だにも申せば往生する」とばかり思いつるこころなり。
「今宵は身にも余る」といえるは、正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定の上に、仏恩報尽の為に念仏申すこころは、おおきに各別なり。かるがゆえに、身の置きどころもなく、躍り上るほどに思うあいだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬると言えるこころなり』



『「嬉しさを昔は袖に包む」といえる意は、昔は雑行・正行の分別もなく、「念仏だにも申せば往生する」とばかり思いつるこころなり』

「昔」とは、『本願文』で「信楽」、『成就文』では「信心歓喜」の身になっていなかった、弥陀の救いにまだ遇っていない時のことである。

それが弥陀より名号を賜り、破闇満願の「信楽」(信心歓喜)の身になると、どうなるのか、を明らかに教えられているのが以下のお言葉である。

『「今宵は身にも余る」といえるは、正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定の上に、仏恩報尽の為に念仏申すこころは、おおきに各別なり。

かるがゆえに、身の置きどころもなく、躍り上るほどに思うあいだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬると言えるこころなり』

「今宵」とは、『本願文』の「信楽」、『成就文』の「信心歓喜」の世界に出てからのことを明らかになされた教述であるが、いずれの善知識も「信楽」(信心歓喜)の世界一つを開顕せられていることが解るのである。



だから何?(苦笑)
どんだけぐちゃぐちゃと書き込みをしても、
「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違うものであるし、
チ●ーリップ企画がそれを理解できてないのは、ゴマカシきれてません(苦笑)。

この文は、
「正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定」した人(=信楽になった人)が、
「身の置きどころもなく、躍り上るほどに思うあいだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬる」
という境地に達するということであって、
その「境地」そのものを「信楽」とは言わないわけですよ。

これまで「苦笑の独り言」を読んでくれたお友達はみ~んな理解しておりますよ。
チ●ーリップ企画は理解できてなさそうですけど(苦笑)。

というか、『教行信証』を読んだことないのですか?(苦笑)

★必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。『教行信証』行巻


★しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。『教行信証』信巻


「仏願の生起本末」、つまり阿弥陀仏が衆生救済の願を起こされた由来と、
その願が成就して現に衆生を救済しているということを、
「聞きて疑心あることなし」になったら、「本願力回向の信心」を獲得するから、
極楽浄土に往生することが確定する。

そんでもって、将来間違いなく極楽浄土に往生することができるから、
現在この身に「正定聚に入る益」があるのよね。


逆に言えば、「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、「本願力回向の信心」を獲得することができないから、
極楽浄土に往生することは確定しないのよ。

それなのに、
「聞きて疑心あることなし」になって「本願力回向の信心」を獲得することまで阿弥陀仏が誓ったのであれば、
全ての人が無条件で極楽浄土に往生することが確定しちゃいますから、
こりゃ~十劫安心と言うしかないですわね(苦笑)。

この致命的な欠陥に対するツッコミに、納得のいく説明は未だに頂けておりませんね~

今後も根拠を出さ(せ)ずに、怪しいドグマをまき散らすことと思いますが、
もう少し『教行信証』を丁寧に読んで、せめて『教行信証』に抵触しない範囲の発言してくれません?
(苦笑)

というか、

共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。

http://shinjin.info/2008/08/010830131.html
 ↑
と言ってたのはどこの誰でしたかね(苦笑)。

僕のツッコミをゴマカスのに精一杯なのはすげ~わかりますが、
議論の本質を見失わないでね(苦笑)。

ツッコミ!【第10回】名号を頂けばどうなるか

第10回がアップされましたね~。
 ↓↓↓
【第10回】名号を頂けばどうなるか
http://shinjin.info/2008/09/161303145.html

いや~「徹底予測」見事にハズされましたね~。
というか、僕に先に言われたので、軌道修正したんでしょう(笑)。

でも、この程度の小手先の軌道修正では、
この苦笑さんを誤魔化すことはできませんよ(苦笑)。
 ↓↓↓

では、『名号』の働きによって「無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされ」て、破闇満願の身になると私たちは、一体どう変わるのであろうか。まず、親鸞聖人の教えをお聞きしよう。
「難思の弘誓は、難度海を度する大船。無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」
(教行信証)
阿弥陀仏の本願によって造られた「破闇満願」の働きのある『名号』は、苦しみ悩みの波の絶えない人生の難度海を、明るく楽しく渡す大きな船である。



どか~ん!
「難度海」って「苦しみ悩みの波の絶えない人生」って程度のものじゃないんですけど(苦笑)。

★一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。『教行信証』信巻


というように、親鸞聖人は煩悩に穢れて清らかな心がなく、いつわりへつらう心ばかりで真実の心がない、
「一切苦悩の衆生」を「海」に喩えていて、それは、
はかりしれない昔から現在に至るまで(無始よりこのかた)
という問題なんだけど、
チ●ーリップ企画の理解している阿弥陀仏は、
今現在の人生の処世術程度しか考えないような、
親鸞聖人と比べるとスケールが小さい
感じですなあ(苦笑)。

それは、弥陀の光明(お力)は我々の苦しみ悩みの元凶である「無明の闇」の心を破る智慧の太陽であるからだと仰って、こう記されている。


どか~ん!
本願という設計図に基づいて作られた「船」である「名号」と、
その「船」に乘るのを妨げている「無明の闇」を破る働きを持つ、
「光明」の関係が全然わかってないんじゃないかな(苦笑)。


親切に教えてあげているんだから、ちゃんと読んで勉強してね。

>>>
「信楽の身」になるための働き

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』 【四・光明名号因縁の事】 (p.685) に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。

しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、
明確に区別しなければなりません。

第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、
全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。

これでは十劫安心になってしまいます
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。

>>>

名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、
名号だけでOKみたいに印象操作しても無駄だよん(苦笑)。


「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし。遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。ー乃至ー 誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」
(教行信証)

ああ親鸞はいま、多生にも遇えない弥陀の本願に遇うことができて、億劫にも獲難い真実の浄信を獲ることが出来た。どんなにこそ阿弥陀さまの、遠い過去からのお手回しがあったことやら。ただ感泣するばかりである。
誠であった、誠であった、「必ず、無明長夜の闇を破り衆生の志願を満たし、絶対の幸福に救うという阿弥陀仏のお約束、ウソではなかった。この唯一無二の弥陀の本願、みなみな聞き開いてもらいたい。
まさに親鸞聖人、魂の絶叫である。



どか~ん!
親鸞聖人の「摂取不捨の真言」という言葉が、
どうして「必ず、無明長夜の闇を破り衆生の志願を満たし、絶対の幸福に救うという親●会臭のする「お約束」になっちゃうんですかね~(苦笑)。

その親●会臭のする解釈の根拠こそが、この法論の一番大事な論点なのに、
その根拠を出さ(せ)ずに、関係ないことをぐちゃぐちゃ書くことによってゴマカシをしようとしてますね~(苦笑)。

もうバレバレですから、これ以上怪しいドグマをまき散らさないでよね(苦笑)。


ちなみに『教行信証』にも以下の言葉がありまっせ

★またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。『教行信証』化身土巻

阿弥陀仏の「摂取不捨」の働きっちゅうのは、
「信楽」を得た人を報土(極楽浄土)に往生させる働きなわけだから、
「信楽」が「報土の真因」と言われてる
のよね~(苦笑)。


また、こうも言われている。
「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静に、衆禍の波転ず」
(教行信証)
「罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし」
(高僧和讃)

「大悲の願船に乗じて」とは、名号を頂いて破闇満願し人界受生の本懐を果したことである。名号を頂けば暗く沈んでいた苦しみ悩みの人生が、明るい歓喜の人生に変わるから「光明の広海に浮びぬれば」と言われている。辛くとも、なぜ生きるのか。もっとも大事なことがわからず苦しんでいた暗い心が、「名号」を頂いて「破闇満願」と大安心・大満足の心になられた聖人の告白である。
『本願文』では「信楽」であり、『成就文』では「信心歓喜」のことである。



どか~ん!
★しかれば、大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。『教行信証』行巻

「すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」という、
仏教としても浄土門としても、すげ~大事な部分が抜けてるじゃあ~りませんか~!!

しつこいようだけど、「往生」そしてその後の「成仏」があるから、
「信楽」になることに宗教的意味があるんだよん。
「成仏」に至らない「信楽」を目指しているんですかいな(苦笑)。


次の「至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず」
とは、『名号』によって「無明長夜の闇が晴れ、衆生の志願を満たされる」と、喜びみなぎる明るい人生と変わり、変わらず押し寄せる千波万波の苦難の波も、みなみな懺悔と感謝の波と転化するから不思議だ。



どか~ん!
前々回、チ●ーリップ企画に以下のことを教えてあげました

>>>>

次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、「我々を絶対の幸福にして下さるのである」と親鸞聖人は仰っているのである。正に弥陀の本願成就の証言なのだ。



「衆生の志願をみてたまう」って・・。
衆生が志願するのを阿弥陀仏がみてたまう・・だよね?(苦笑)
そんでもって、名号&光明で衆生に働きかけてくれてるんだよ!

しかも親鸞会ドグマでは、「信楽=絶対の幸福」なもんだから、

>「我々を絶対の幸福にして下さるのである」と親鸞聖人は仰っている

とか言うと、ドグマを注入された人は、「コロッ」と印象操作に引っ張られてしまう(苦笑)。

ヘンテコドグマを優先して、なんでもかんでもそれの都合に合わせて読むから、
こんなおかしなことになるんだよね~(苦笑)。
>>>

これを踏まえて、「衆生の志願を満たされる」とあわてて入れたんだと思うけど、
別に何かお礼とかしてもらわなくていいけど、
今まで間違ってたくせに、断りもなくコソコソ間違いを訂正するのは、
ちょっと見ていて気持ちのいいもんじゃないですわね(苦笑)。



その不思議さを、『高僧和讃』に聖人は、次のように教えられている。
「五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり」

阿弥陀仏のお誓い通り、無明の闇が破れて広大難思の慶心の「信楽」の身になれば、煩悩具足の身は微塵も変わらないけれども、焼けもせず流されもせず、盗まれもしない無上の幸せが、いつも全身に溢れる不思議さを、「不可称・不可説・不可思議の功徳は行者の身にみてり」と言われているのである。



どか~ん!
う~ん(苦笑)。
前回あんだけ丁寧に教えてあげたのに、
「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」との違いがまだわかってないですね~。

これがわかってないのは、もうチ●ーリップ企画さんだけかもよ(苦笑)。


もうシャアナイし、もうちょっと僕が教えてあげようかな(苦笑)。

★しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。『教行信証』証巻

「往相回向の心行を獲れば」→「即のときに大乗正定聚の数に入るなり」でっせ。
そんでもって、
最終的に「かならず滅度に至る」わけですよ。←これポイントよ!!

★「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。『教行信証』行巻

というように、めちゃめっちゃ早い時間だから「即」なわけだけど、
「信楽」と「正定聚」には「→(やじるし)」の関係があるわけで、
それはどう考えてもイコールじゃないのよね(苦笑)。

『本願文』では「信楽」と誓われ、『成就文』では「信心歓喜」と説かれている身になるとは、どんなことか、聖人の教えでその一端なりとも窺うことができよう。



まあ、今回も「信楽にさせる」「名号を与える」ことを誓った、
本願文の根拠は出せなかったですな(笑)。

むしろ「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば」「選択本願信ずれば」という言葉は、
「信楽をえれば」という前提条件付きだという、田中さんの主張を裏付けるものですな(苦笑)。


今回は僕が挙げたポイントを外して
ツッコミを防いで読者の印象を良くしようと思ったのかもしれないけど、
僕が教えてあげたことをちゃんと理解してないし、
全然基本がわかってないから、ツッコミ所満載でしたよん(苦笑)。


あと、人に何かを教えてもらった時はちゃんとお礼が言えるようになろうね!(苦笑)

ツッコミ!【第9回】名号のお働き

第9回がアップされました。
 ↓↓↓
【第9回】名号のお働き
http://shinjin.info/2008/09/111419144.html

前回チューリップ企画は、

以上、「其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり」の『成就文』の解説は、『本願文』の「信楽を獲る」について、「信楽」を「信心歓喜」と換言し、全く『名号』の「破闇満願」のお力によって「信楽を獲る」ことを開顕されて、しかもその「信楽」は「一念」であることを明言されている釈迦のお言葉であることを明らかにした。



ということで、いろいろ「明かにした」はずだったんですが、僕のツッコミで、
明かになってないことまで「明らかにした(と嘘ついている)」
ことがバレバレになったので、更にしつこく書く必要になってしまったみたいですね(苦笑)。

今回もヘンテコなことをいろいろ言ってるので、チクチクツッコミいれちゃいますよん!

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり。(御文章)

「南無阿弥陀仏」といえば、わずか六字だから、そんなに凄い力があるとは誰も思えないだろう。だが、この六字の中には、私たちを最高無上の幸せにする絶大な働きがあるのだ。その広くて大きなことは、天の際限のないようなものである、と蓮如上人は教示されている。

無上甚深の功徳が収まっている名号だから、親鸞聖人は「功徳の大宝海」と絶讃され、「本願の名号は正定の業なり」と道破なされている。



ここまではオッケーです。全部がヘンテコな発言じゃなくて、
まともな発言の中にヘンテコドグマをブレンドして、
あたかも全部がまともな発言であるかのように偽装するのが、
巧みに偽装をする人の常套手段です。
消費者は、油断しているとこういうのに、騙されちゃうってのは最近よくある話ですね(苦笑)。

さて、問題はこの後です。


「本願の名号」とは、本願に基づいて造られた名号ということである。阿弥陀仏が名号を造られた目的は、すべての人を「信楽」(破闇満願)にすると誓われた本願を果たす為だ。万人を信楽にせずばおかぬという本願を設計図として完成したのが名号であるから、「本願の名号」といわれている。

「正定の業」とは、「正定聚不退転にする働き」と言うことである。「正定聚不退転」とは、何か。さとりといっても五十二の位があり、最高のさとりを「仏」とか「無上覚」といわれる。正定聚不退転とは、五十一段目の、もう一段で「無上覚」の「仏覚」になれる位をいう。正定聚不退転の身になれば、永久に変わらない幸せな人になる。この正定聚不退転になった心を、『本願文』では「信楽」といわれ、『成就文』では「信心歓喜」と教えられているのである。

「本願の名号は正定の業なり」とは、弥陀の名号には、私たちを「正定聚不退転」(信楽)の身にする働きがある、との明言だ。



この文を見て「まとも」だと思う人は、騙されやすい人なので要注意(笑)。

弥陀仏が名号を造られた目的は、すべての人を「信楽」(破闇満願)にすると誓われた本願を果たす為だ。


どか~ん!
この発言の根拠は何でしょうかね?(苦笑)
「すべての人を「信楽」(破闇満願)にすると誓われた本願」
という「解釈」の根拠を聞いているのに、
それを前提にするというのは、おかしいでしょ(苦笑)。

前回ツッコミいれたのに、全然反省してませんね。全く(苦笑)。

あと、この根拠なしの怪しい解釈は、


 問うていはく、一切諸仏、三身おなじく証し、悲智果円にしてまた無二なるべし。方にしたがひて一仏を礼念し課称せんに、また生ずることを得べし。なんがゆゑぞ、ひとへに西方を嘆じてもつぱら礼念等を勧むる、なんの義かあるやと。
 答へていはく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し取むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽し、下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて往生を得易し。
『教行信証』行巻


阿弥陀仏が法蔵菩薩であった因位の時の深重の誓願を成就して、
光明と名号によって十方を導いて摂め取るから、
それを信じて念仏申せば、阿弥陀仏の本願力によって極楽浄土に往生できる。という、
親鸞聖人の主著である『教行信証』とは異なる教義のようですね(苦笑)。

むしろ喩えるなら、名号が薬で、薬を飲ませようとする働きが光明であり、
名号という薬と、飮ませようとする働きである光明が十劫の昔に出来上がったわけですが、
光明を無視して、
その薬を飲ませる働きまで薬の中にあるかのような記述をするのはおかしい。
ということができますね(苦笑)。



「正定の業」とは、「正定聚不退転にする働き」と言うことである。


どか~ん!
はい!法然上人や親鸞聖人の発言に抵触するドグマ発見!

====以下引用====
1)それ速やかに生死を離れんと思わば、
二種の勝法の中に、しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選びて、
淨土門に入(い)れ。

(訳)
速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば、二種の優れた法門の中で、しばらく聖道門をとどめておいて、浄土門を選んでそれに入りなさい。

2)浄土門に入(い)らんと思わば、正雑二行の中に、しばらく諸々の雑行を抛(なげす)てて、選びて正行に帰すべし。

(訳)
浄土門に入ろうと思うのであれば、正行と雑行の二行の中で、しばらくさまざまな雑行をなげうって、正行を選んでそれに帰しなさい。

3)正行を修せんと思わば、
正助二業の中に、なお助業を傍(かたわら)にして、選びて正定を專(もっぱら)にすべし。

正定の業というは、すなはち、これ佛の御名(みな)を称するなり。
名を称すれば必ず生まるることを得(う)。
佛の本願によるが故に。
『勅伝』巻十八、「選択集」第十六章(昭法全三四七頁)

(訳)
正行を行おうと思うならば、
正定の業と助業の中で、さらに助業をわきにおいて、正定の業を選んで專らに行うべきである。

正定の業とは、すなわち阿弥陀仏の名号を称えることである。
阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず極楽浄土に往生することができる。
それは、阿弥陀仏の本願によるからである。
>>>>

 これは、法然上人の唯一の著書である『選択集』最後の十六章に書かれた言葉であり、この文はその中でも実践的結論と言える部分です。

 この文は親鸞聖人も主著『教行信証』の行文類に引用され、

>>>>
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。
大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
(浄土真宗聖典pp.185-186)
>>>>

とコメントされております。
親鸞会教義の相対化・50


====以上引用====

「正定の業というは、すなはち、これ佛の御名を称するなり。」であって、
「名を称すれば必ず生まるることを得」だから、「正定の業」なんですよ(苦笑)。

せめて法然上人の主著『選択集』と親鸞聖人の主著『教行信証』ぐらいは読んで、
術語の用例を確認してから発言してほしかったですね(苦笑)。



この正定聚不退転になった心を、『本願文』では「信楽」といわれ、『成就文』では「信心歓喜」と教えられているのである。


どか~ん!
清森問答やこのブログや某大型掲示板を読んでるはずなんですから、
今更こんなマヌケな発言してもらっちゃ困りますね(苦笑)。

「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う

みんな少しずつ学習して賢くなってますから、
おいてきぼりにならないように、きちんと勉強しないとだめですよ~。


====以下引用====
656 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:13:05 ID:eu09B6u2
>>653の続き

しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、
あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
という同義語反復になってしまいます。
ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。



658 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:28:21 ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)


「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。

====以上引用====

チューリップ企画の山田さんも、これ読んで出直して来てくださいね



というわけで♪

×阿弥陀仏が、すべての人を「信楽」にすると誓われた本願を果たす為に造られたのが「名号」だから、「名号」には万人を「信楽」にする働きがあるのは、むしろ当然であろう。

阿弥陀仏が、すべての人を「信楽」にすると誓われたのが本願である
という親鸞会ドグマを認めさせるために
「名号」には万人を「信楽」にする働きがある
という新たなドグマを捏造したくなるというのは、むしろ当然であろう。

ですね(苦笑)。

「怪しいドグマを認めさせるために、更に怪しいドグマを捏造」
という、負のスパイラルみたいなの、
そろそろもういい加減やめにしたらどうです?(苦笑)




追記(2008.9.12)

『尊号真像銘文』に以下の記述がありました。

「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。

阿弥陀仏の本願があるから「正定の業因=仏名をとなふる」ことによって、
「安楽浄土に往生を得る」ことができ、そこで仏覚を得ることができるから、
「正定の因=かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」となるのよね。


「信楽=正定聚=絶対の幸福」というドグマにそまっているから、
親鸞聖人の書かれた文献を読んでも目にはいらないんだよね(苦笑)。

「信楽」「往生」「成仏」・・これ全部違う概念です。
「絶対の幸福」という「それらしい言葉」で混乱させられちゃだめだよん(苦笑)。

「当流は廃立肝要なり」は誰の言葉??

どうやら、親鸞聖人の言葉でも蓮如上人の言葉でもないようですね(苦笑)。

やっぱし、高●先生の言葉??
別にそれでもいいけど、それなら僕には権威ナッシングですね(笑)。

清森問答 質疑応答145


【質問】


 親鸞会関係者の方のHPを見ると、「当流は廃立肝要なり」という言葉が、「親鸞聖人・御遺言鈔」という出典ということでよく引用されているのですが、ネットや浄土真宗聖典・検索システム(http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/kensaku/)で「廃立」を調べましたが、結局該当する言葉を見つけることができませんでした。

 もしも、「親鸞聖人・御遺言鈔」という文献がどのような文献で、そのどこにこの言葉が記載されているかご存じでしたら、教えていただけたらと思います。というか、そもそもこのような文献が存在するのでしょうか?

 ついでにお聞きしたいのですが、清森問答の質疑応答の87で、「三重廃立」が浄土真宗の伝統的な概念でないという話がされていましたが、(http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-100.html#comment_area)そのコメント覧に「ああさん」が書いていた、

>当流は廃立肝要なり(蓮如上人)

という言葉も、同様に検索してたのですが見つけることができませんでした。これに関しても、典拠をご存じでしたら教えていただけたらと思います。



【回答】


 私も、今まで真宗に関する本を、色々読んでいますが、「御遺言鈔」という文献については、一度も見かけたことがありません。

 念のために、本願寺司教の方にも確認しましたが、「御遺言鈔」という文献は存在しないとの回答でした。

 親鸞会で、何を根拠に「御遺言鈔」と教えられているのか分かりませんが、存在しないか、存在したとしても一般に認められていない聖教だと思います。


 また、

>当流は廃立肝要なり(蓮如上人)

 これは、(親鸞聖人)の記載ミスだと思います。




ここでも、的確なコメントが入っている一方で、

No title
 親鸞会の捏造行為は珍しくないので、またか、という感があるが、まさか聖教自体を捏造しているとは思わなかった。

 私も廃立という単語を検索してみたが、親鸞聖人の著作の中に「廃立」の2字は一箇所も見つからなかった。

 これは、廃立を旗頭に、他宗教の徹底否定を行っている親鸞会には、非常に都合の悪い事実だ。

 自らの活動の正当性を示すために、このような聖教をデッチ上げたと見るべきであろう。

2008年09月09日 | また捏造発覚ですか? URL [編集]

ありがとうございました!
解答ありがとうございました!

一つ一つ典拠の確認を行う作業は、地味で手間の掛かるものですが、とても重要な基礎工事であると思います。
独断や思想先行にならないためにも、不可欠なものだと思います。

今後もよろしくお願いします。
2008年09月09日 | 質問者 URL [編集]



「いかにも!」って感じな、悪質コメントが入ってましたね(苦笑)。

No title
937 神も仏も名無しさん [] Date:2008/09/10(水) 09:05:17 ID:zCa+5wm6 Be:
>>897

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/
質疑応答145

御遺言鈔は知らんけどね、廃立はあるっしょ。

「この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。」(改邪鈔)
「真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。」(改邪鈔)
「方便をわろしといふことはあるまじきなり。
方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。」(御一代記聞書)


『清森問答の質疑応答の87で、「三重廃立」が
浄土真宗の伝統的な概念でないという話がされていました』

だからさ、清森教学はムチャクチャなんだって。
教行信証化土巻は、真仮廃立、聖浄廃立、内外廃立の順に教えられてある。
三重廃立の概念は真宗そのもの。
2008年09月10日 | URL [編集]



質問者とKさんのシンクロ攻撃で速攻でツブされて、
醜態をさらしてましたけど(苦笑)。


No title
質疑応答87
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-100.html

↑これをもう一度よく読んでください。
親鸞聖人が三重廃立の内容を説かれたことを、清森氏は否定していませんし、
それどころか、学者の本の中からそれに相当する内容を紹介してくださっています。
ただ、「三重廃立」という用語については、親鸞会外部で使われている例を知らない
という意味のことを仰っているだけです。
2008年09月10日 | K URL [編集]

No title
>御遺言鈔は知らんけどね、廃立はあるっしょ。

私は清森さんに、「当流は廃立肝要なり」という言葉や「親鸞聖人・御遺言鈔」という文献が存在するかどうかを質問しました。

浄土真宗において「廃立」という言葉が使われていることは、清森さんに質問する前に既に検索システムを使用して確認済みです。

読解力に問題があるのか、わざとやっているのか不明ですが勝手に論点をスライドしないでください。


==参考「廃立」の検索結果==

21 口伝鈔

891-14
和尚の御こころによるに、すでに報身・報土の廃立をもつて規模とす。しかれ
ば、「観彼世界相 勝過三界道」(浄土論 二九)の論文をもつておもふに、三界

1件
22 改邪鈔

931-7
ども聖道門の此土の得道といふ教相にかはらんために、他土の往生といふ廃
立をしばらく定むるばかりなり。和会するときは、此土・他土一異に凡聖不二

931-10
るか。しかれども、廃立の初門にかへりて、いくたびも為凡をさきとして、道
場となづけてこれをかまへ、本尊を安置したてまつるにてこそあれ、これは行

936-2
要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺
訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりと

937-3
性相に異する自宗の廃立、これをもつて規とす。しかるに往生の信心の沙汰
をば手がけもせずして、没後葬礼の助成扶持の一段を当流の肝要とするやう

940-7
 それ自宗の正依経たる三経所説の廃立においては、ことしげきによりてし
ばらくさしおく。八宗の高祖とあがめたてまつる龍樹菩薩の所造『十住毘婆

941-8
いくたびも廃立をさきとせり。「廃」といふは、捨なりと釈す。聖道門の此土
の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道を捨てよと

941-13
宗とす。しかるに風聞の邪義のごとくんば、廃立の一途をすてて、此土・他
土をわけず浄・穢を分別せず、此土をもつて浄土と称し、凡形の知識をもつて

7件
34 蓮如上人御一代記聞書

1286-7
便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識
の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

1件
2008年09月10日 | 質問者 URL [編集]

補足
> 御遺言鈔は知らんけどね、廃立はあるっしょ。

今ここでは『御遺言鈔』という書物が存在するかどうかの話をしているんです。
清森氏が廃立の教えを否定しているかのように論点スライド&印象操作するのはやめていただきたいものです。
2008年09月10日 | K URL [編集]

シンクロ?
質問者さんのカキコを見る前にさっきのカキコをしました。
内容的に重複してしまってすみません。
でも、私と同じことを思った人がいるのを確認できて良かったです。
2008年09月10日 | K URL [編集]

No title
>Kさん

発言がシンクロしましたね。汗
悪質な論点スライド&印象操作は、見ていて苦笑いですよねw
2008年09月10日 | 質問者 URL [編集]




だから、「船●吉●やミート●ープみたいなことはやめろ!」
ってアドバイスしてあげてるのにね~。

赤●とか白●恋人は、潔く出直したから今でもみんなに愛されているのよ(苦笑)



※追記1(2008.9.10)

山も山さんのブログのコメント覧に、この言葉の典拠について質問してみました。
丁寧かつ誠実な文章で、親●会を懸命に擁護されている方ですので、
どのような解答を頂けるのか楽しみです。

「こうしたらいつか救われる」は自力の信心

苦笑(本物) 2008/09/10 19:43

はじめまして!
山も山さんがいろんな方の質問に誠実にお答えになられているのを、
いつもこっそり読ませていただいております。

早速ですが、一点質問よろしいでしょうか?

>当流は廃立肝要なり。(親鸞聖人・御遺言鈔)

とのことでしたが、「親鸞聖人・御遺言鈔」という文献がどのような文献で、そのどの部分にこの言葉が記載されているのでしょうか?

私も自分なりに調べましたが見つけることができず、元親鸞会講師の方もこの文献に関してはご存じないようです。

「当流は廃立肝要なり」は誰の言葉??
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-53.html

山も山さんは教学に明るいようですし、この文章を引用されておられますので、もしもご存じでしたらぜひ教えていただきたい思います。

よろしくお願いします。
「こうしたらいつか救われる」は自力の信心




※追記2(2008.9.11)

山も山さんから、正直で潔い解答を頂きました。

今まで、親●会関係者の不誠実で卑劣な対応に失望していましたが、
山も山さんのようなきちんとした人もいることがわかって大変嬉しく思います。

【山も山さんと苦笑のやり取り】

山も山 2008/09/10 20:48
苦笑(本物)さんへ
ご指摘頂き有り難うございました。
基本的に、親鸞会発行の教学聖典に載っているものが、皆さんにも分かりやすいと思い優先して根拠として出しております。
改めて調べてみましたが、私の手元の法蔵館発行真宗聖典には掲載されていませんでした。
ネットの検索でも確かに見つかりません。

ブログに掲載する場合は、事前に調べて、前回のことに関しては、覚如上人の「当流は廃立肝要なり」と書くべきでした。

教学勉強も、まだまだ到らないところばかりですので、またお気づきの点があれば教えていただきたく思います。宜しくお願いいたします。

苦笑(本物) 2008/09/10 23:11
>山も山さん
解答ありがとうございました!
まだ不明な点がありますので、もう少し質問させていただいてよろしいでしょうか?


>覚如上人の「当流は廃立肝要なり」と書くべきでした。

とのことですが、これに関しても私なりに調べたのですが見つけることができませんでした。
覚如上人の何という文献にこの記述があるのでしょうか?

ちなみに、『改邪鈔』には「真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。」(浄土真宗聖典注釈版 p.940)という記述がありますが、山も山さんが挙げられた記述とは異なります。


また、

>基本的に、親鸞会発行の教学聖典に載っているものが、皆さんにも分かりやすいと思い優先して根拠として出しております。

とのことですが、山も山さんのような方が聖教の捏造をされるとは思えませんので、「親鸞会発行の教学聖典」など、何等かしらの資料に基づいて、

>当流は廃立肝要なり。(親鸞聖人・御遺言鈔)

という記述をされたのではないかと思います。

具体的に如何なる資料に基づいて上記の記述をされたのでしょうか?またその資料には、「親鸞聖人・御遺言鈔」についての文献学的な解題などはされていないのでしょうか?

差し支えなければ、教えていただけたらと思います。

山も山 2008/09/10 23:48
苦笑(本物)さんへ

再びご指摘有難うございました。
>ちなみに、『改邪鈔』には「真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。」(浄土真宗聖典注釈版 p.940)という記述がありますが、

こちらを書こうと思って、書いたつもりになっていましたが、あとで読み返すと間違っておりました。すみませんでした。訂正し、お詫び申し上げます。

>具体的に如何なる資料に基づいて上記の記述をされたのでしょうか?またその資料には、「親鸞聖人・御遺言鈔」についての文献学的な解題などはされていないのでしょうか?

資料は、親鸞会発行の教学聖典です。この教学聖典には、(御遺言鈔)としかかいてないので、それ以上のことはわかりません。
基本的に私は、法蔵館発行の教学聖典で、お聖教を拝読しております。この法蔵館の真宗聖典に記載されていないお聖教に関しては、教行信証をはじめとしたお聖教を読むのが精一杯で、それ以外までまだ、手が回っておりません。現在も勉強中なので、またお気づきの点があればお知らせ下さい。

よろしくお願いいたします。

苦笑(本物) 2008/09/11 00:20
>山も山さん
解答ありがとうございました!
今回の山も山さんの解答には、私から更にお尋ねすることはありません。
誠実な解答ありがとうございました。
「御遺言鈔」についてまた何かわかりましたら、教えて頂けたらと思います。


それから、私は親鸞会の教義を扱ったblogをやっております。
ツッコミは得意ですが、教義に関して全くの素人がやっているblogですので、
山も山さんがご覧になってツッコミ所がありましたら、是非ご指定頂きたいと思います!



清●問答のコメント覧で、見苦しい印象操作を繰り返して苦笑させている、
どっかの誰かさんにも、山も山さんの爽やかさを見習ってほしいものです(苦笑)。

ツッコミ!【第8回】『本願文』の「信楽」は、『成就文』の「信心歓喜」

第8回がアップされましたね。
 ↓↓↓
【第8回】『本願文』の「信楽」は、『成就文』の「信心歓喜」
http://shinjin.info/2008/09/050830143.html

チ●ーリップ企画の作戦が、
田中さんの説を都合のよい形に捏造して攻撃する一方、
【本願成就文=本願文】を主張しておいて、
そのままどさくさにまぎれて、
【「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」】までも認めさせる作戦なのは、
完全にバレバレなわけですが、
そのための論の進め方が、なんともお粗末で苦笑いせざるを得ませんね(苦笑)。
↓↓↓

(1)は、「信楽」(信心歓喜)を獲るのは、阿弥陀仏が完成された『名号』を聞いて(頂いて)、であるということ。
(2)には、その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる”ということ。
(3)には、「信楽を獲て信心歓喜」するのは、全く阿弥陀仏のお力であるということである。

先ず(1)の、「信楽」(信心歓喜)を獲るのは、阿弥陀仏が完成された『名号』を聞いて(頂いて)であることから詳説しよう。
なぜ「名号」を聞けば(頂けば)「信楽を獲て」信心歓喜の身になれるのかと言えば、阿弥陀仏がすべての人を「信楽」(信心歓喜)にすると誓われた、自らの約束を果たす為に万人を「信楽」(信心歓喜)にする働きのある、南無阿弥陀仏の「名号」を成就(完成)されているからである。

親鸞聖人はそれを、次のように説かれている。
「故に知んぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑を除き証を獲しむる真理なり」
(教行信証)
「無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたまう」
(高僧和讃)

これは、阿弥陀仏の造られた南無阿弥陀仏の『名号』には、「無明長夜の闇を破する」働きと「衆生の志願を満足させる」お力があることを明らかにされたものである。



『高祖和讚』の「無明長夜の闇を破し衆生の志願をみてたまふ」という記述が、
「阿弥陀仏の本願力」ではなく、
「無礙光如来の名号」と「かの光明智相」をお説きになられたものであることは、
おそらく浄土宗の方に教えてもらったことであると思いますので、問題はありませんね。

でも、


>>なぜ「名号」を聞けば(頂けば)「信楽を獲て」信心歓喜の身になれるのかと言えば、阿弥陀仏がすべての人を「信楽」(信心歓喜)にすると誓われた、自らの約束を果たす為に万人を「信楽」(信心歓喜)にする働きのある、南無阿弥陀仏の「名号」を成就(完成)されているからである。

これって・・(苦笑)。

「阿弥陀仏がすべての人を「信楽」(信心歓喜)にすると誓われた」
という部分の根拠を論じているのに、
これを前提に論理を展開するのっておかしいんちゃいますかね(苦笑)。

そんでもって、
「他力」の解釈が狂って「十劫安心を肯定」
していることは、変わらないわけでござんすね(苦笑)。

かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(後半)


次に「衆生の志願をみてたまう」とは、南無阿弥陀仏の『名号』には「すべての人を絶対の幸福・無碍の一道に生かし、出世の本懐を遂げさせたい」という弥陀の志願(望み)を凡夫(人間)の身に実現させる力があるから、「我々を絶対の幸福にして下さるのである」と親鸞聖人は仰っているのである。正に弥陀の本願成就の証言なのだ。


「衆生の志願をみてたまう」って・・。
衆生が志願するのを阿弥陀仏がみてたまう・・だよね?(苦笑)
そんでもって、名号&光明で衆生に働きかけてくれてるんだよ!

しかも親鸞会ドグマでは、「信楽=絶対の幸福」なもんだから、

>「我々を絶対の幸福にして下さるのである」と親鸞聖人は仰っている

とか言うと、ドグマを注入された人は、「コロッ」と印象操作に引っ張られてしまう(苦笑)。

ヘンテコドグマを優先して、なんでもかんでもそれの都合に合わせて読むから、
こんなおかしなことになるんだよね~(苦笑)。


この「衆生の志願を満足させる」ことを『本願文』では「楽」と言い、『成就文』では「歓喜」と表現されているのである。



そんでもって、この発言には根拠はなく、
親鸞聖人の『尊号真像銘文』と異なった解釈であることは、既に論証済みね(苦笑)。

============
親鸞会教義の相対化・31
阿弥陀仏が「十方の衆生を必ず信楽の心にしてみせる」と約束していないことは、改めて説明する必要もないと思います。

それからこの解釈は、どなたの解釈なのでしょうか?
寡聞にして、この解釈がどなたの説に基づくのかわかりませんが、少なくとも親鸞聖人の解釈と異なることだけは明かだと思います。(※)


※「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。
煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。
『尊号真像銘文』
============
結論出てるやん!
31 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:22:19 ID:yFGdPQfg
『尊号真像銘文』から抜粋:

----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!
============


以上、「其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり」の『成就文』の解説は、『本願文』の「信楽を獲る」について、「信楽」を「信心歓喜」と換言し、全く『名号』の「破闇満願」のお力によって「信楽を獲る」ことを開顕されて、しかもその「信楽」は「一念」であることを明言されている釈迦のお言葉であることを明らかにした。



今回も丁寧にツッコミを入れて晒しものにしましたけど、
資料から「明らかに」できる以上のことは「明らかに」にしちゃダメだよん(苦笑)。

自分で地中に埋めた土器を、あたかも自分が発見したかのように装った某アマチュア考古学者のように、自分逹の教義に都合のよいエピソードを、資料に基づくことなく捏造する行為や、
それを指摘された場合に、素直に誤りを認め反省し訂正することもなく、論点スライドしたり、見苦しいいい訳をしたり、人格攻撃をする行為は、
知的誠実さのかけらもなく人文科学の根底を揺るがすような、卑劣極まりない行為であり、
このような行為を更に繰り返すならば、人物や団体としての良識を疑われ、信用を失墜し、言語空間から抹殺されてしまうことになると思います。
そして、そのような行為を行う人物や団体のために、法然上人の流れを受け継ぐ浄土門の教えが、世間から見放されてしまうような事態になることは、絶対に回避しなければならないと思っております。

親鸞会教義の相対化・24

言われちゃってますよ(苦笑)。

阿弥陀仏のマニフェストが四十八項目あるって知ってる??

これは昨日の続きね。

阿弥陀仏は「このマニフェストが実現しなければ仏にならない」という、
マニフェストを実現して、法蔵菩薩から阿弥陀仏になったわけだけど、
そのマニフェストに四十八項目あるって知ってる??

もちろん、マニフェストの十八番目が一番大事なんだけど、
他のマニフェストも不必要なもんじゃないのよね。
そういうことが、なんかイマイチわかってないんじゃないかな~(苦笑)。

「一番大事」っていうのを、「全部それに收められる」みたいな感じに、
「味わう」ぐらいならいいんだけど、それを固定的にドグマ化してしまったから、
こういうややこしい問題が出てきちゃったんじゃないかな~。

なんかよくわかんないけど、「味わい」まで硬直させてドグマ化しちゃう教義ってのは、
ちょっと、揺さぶられるとこんなにも脆いものなのよね(苦笑)。

というか、親●会の「阿弥陀仏」っていうのは、
「信楽に生まれさせるというマニフェストが実現しなかったら辞任する!」
というマニフェストを立てている「阿弥陀仏」だから、
ひょっとして、僕ちゃんが思っているのと別の阿弥陀仏なのかもしれないけどね(苦笑)。

「正覚を取らじ」は「命を捨てる」?

某巨大掲示板サイトより

355 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/12(土) 12:39:48 ID:YYE+p5fC
>>350
現益も本願力(願力自然)でいただくのは、その通りです。
「現益をいただく」=「名号をいただく」です。
名号を与える働きが「光明」です。
光明無量を誓われたのが第十二願です。
ですから、「第十二願力によって名号が与えられ、現益が獲られる」という言い方もできます。
また、「三願転入で、第十八願の世界=当益が確約された世界=現益が獲られる」
という言い方もできます。(この場合、第十九願力と第二十願力で現益をいただく、
ということになります。)
つまり、「本願力」=「四十八願全体の力」と考えるのが自然であり、
なにも「第十八願力」に限ったことではありませんし、まして
「本願力」=「若不生者の念力」などど勝手な造語と結び付けるのは単なるこじつけです。
「本願力」=「四十八願全体の力」という意味で言うなら、
現益も当益も本願力でいただくというのは、まさしくその通りです。


376 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/12(土) 13:44:11 ID:YYE+p5fC
第十八願が四十八願の一番のメインであるのは確かですが、
本願力(阿弥陀仏のお力)を「第十八願力」に限定し、さらにそれを
「若不生者の願力」と勝手に言い換え、それを根拠に
「若不生者には現益の意味もある」と主張したい気持ちはよく分かりますが、
かなり論理に飛躍があり、やはり「初めに結論ありき」の「こじつけ」でしかないと感じます。
もっと明確に「若不生者には現益の意味もある」と仰った親鸞聖人のお言葉を
出してみなさいよ。明確に当益で解釈されたお言葉は複数あるのに、
それと同じくらい明確に現益で解釈されたお言葉が一つも出せないというのは
やっぱりおかしいですよ。

あと、素朴な疑問ですが、「若不生者」の「生」に
「信楽に生まれる」と「報土に生まれる」の2つの意味がもしあるなら、
それを補った上で、本願文をどのように書き下して読むのですか?

602 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/18(金) 21:09:37 ID:HA1V4xsT
本願文は「…欲生我国(乃至十念)若不生者…」ですから、
普通に読めば「若不生【我国】者」のはずです。つまり当益です。
成就文も「…願生彼国 即得往生…」ですから、
普通に読めば「即得往生【彼国】」のはずであり、「往生」の部分はやはり当益です。
この意味で、本願文と成就文はちゃんと対応していますよ。
しかし、当益を約束する本願が成就した結果、
名号を頂いた平生の一念ですぐに「彼国に往生できるという確約(保障)」が「得られる」のですから、
それはもう「往生したも同然」という意味で、
そのことを親鸞聖人が大胆に「不体失往生」と名付けたのではないでしょうか?
つまり、「当益を得ることが保障された状態になること」が現益なのですから、
当益と現益とは相反するものではありません。
(もちろん親鸞聖人は「背師自立」ではありません。)
おそらくこのような背景があって、親鸞聖人は「即得往生」を現益で解釈されたのだろうと
拝察されます。
しかし、その親鸞聖人が「若不生者」までも現益に読み替えられたお言葉は見つかりません。
(理由はともかく、この事実をまずは謙虚に厳粛に受け止めるべきです。)
成就文は本願が成就したという前提がある故に現益に読み替えることが可能だったのでしょうが、
もし本願の「若不生者」までも現益に読み替えてしまったら、
究極の目的である当益がどこにも誓われていないことになり、その結果、
「現益」もなくなり、「無益」になってしまうんです。
「現当ニ益」の教えの「本」は本願であることを忘れてはなりません。


605 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/18(金) 21:28:18 ID:HA1V4xsT
(602のつづき)
ただし、本願が成就したという前提の上で、成就文の立場から再び本願文を眺めれば、
「若不生者」も現益で「味わう」ことができるのかもしれません。
実際、大沼氏はそのように味わいました。
しかし、それはあくまで当益が本義であることを十分に踏まえた上でのことです。
ところが、高森氏は、その大沼氏の「味わい」を本義だと思い込み、
逆に、当益で解釈するのを「間違いだ」と主張し、
アニメでも親鸞聖人自身にそう言わせています。
これでは本末転倒でしょう。
「大沼氏のパクリ損ない」と言われる所以です。
(もっとも、田中氏から、親鸞聖人が当益で解釈された根拠を突き付けられた結果、
当益で解釈するのを「間違いだ」という主張は撤回し、
「現益と当益の2通りの意味がある」という主張に修正しましたが…。)




清森問答 質疑応答139コメント覧より

Bさんの解説

> ここは12願ではなく18願の「信楽」の解釈ですよ。

(17願で誓われた【名号】を)12願で誓われた【光明】によって阿弥陀仏が「回施」することで、18願の「信楽」が発起するということです。それで何か問題ありますか?

> 至心信楽の願を説明するのに「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせる
> というお約束だ」と言ってはなぜいけないのか。

それなら、
「至心発願の願」(19願)は「発願の心にしてみせるというお約束だ」、
「至心回向の願」(20願)は「回向の心にしてみせるというお約束だ」、
と言っていいんですか?
あなたの論法をそのまま応用すると、そういうことになりますよ。

・・・

質疑応答136より再掲。
-------------------------------------------------------------------------------------

19願「至心発願の願」
   =至心発願した人を、浄土往生させるという誓い

20願「至心回向の願」
   =至心回向した人を、浄土往生させるという誓い

ということを考えても、

18願「至心信楽の願」
   =至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い

であることは明白であり、『至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじ』と、親鸞聖人が仰った通りです。

・・・

「全ての人を信楽に生まれさせる」という約束が十劫の昔に成就した、というのが本当なら、いわゆる「十劫安心」を肯定するものであり、決して「枝葉末節」ではなく、重大な誤りですよ。

「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじ」という親鸞聖人のお言葉で初めから結論が出ているのに「重箱の隅をつつく」ようなことを言っているのはむしろ親鸞会側ですよ。(言われれば無視するわけにはいかないので応じているだけです。)

・・・

> 質疑応答141で結局、清森氏も『「信楽にする力」については、
> 光明が12願なので、18願だと断定するのには不安がありますが、
> 五願は18願に納まるという考え方からは、そのようにも言えると思います。』
> とお認めになりましたよ。

清森氏は、
「断定するのには不安がありますが」と前置きした上で、
「五願は18願に納まるという考え方からは」という条件付きで、
「そのように【も】言えると【思います】。」と言っているだけです。
「信楽にする力」は調熟・破闇の光明で、
「信楽になった人を浄土に往生させる力」は摂護の光明ですから、
ともに「阿弥陀仏のお力」であり、密接な関係にあることは私も否定しませんよ。
しかし、清森氏は、
----------------------------------------------
> お聖教には「十八願=信楽にする誓い」と直接的に書かれているところが無い以上は、
> 「十八願は信楽にしてみせるという誓い」という表現はすべきではない、ということで宜しいでしょうか。

そうですね。
----------------------------------------------
というように釘を刺しています。ここを無視して都合のいい部分だけを引用するのはやめていただきたいものです。

> 宗学の定規を当てないで字面だけを見て勝手なことをおっしゃられては困ります。
> 十九願は自力で二十願は半自半他、十八願は絶対他力です。

そんなことはもちろん分かっています。私はあくまで、
「あなたの論法をそのまま応用すると」と言ったじゃないですか。

> 至心信楽の願を説明するのに
>「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」
> と言ってはなぜいけないのか。
> 親鸞聖人は第十八願の主眼は信楽とみぬいて
> 『至心信楽の願』ともおっしゃっておられるのですよ。
というように、18願が「至心信楽の願」と名付けられていることを根拠に
「信楽の心にしてみせるというお約束だ」と、あなた自身が
「字面だけを見て勝手なことをおっしゃ」たわけですから、
仮にそういう論法が通用するなら19願・20願についても同じことが言えてしまうではないか、と言ったまでです。つまり、そういう論法は通用しないのです。

> 親鸞聖人が名付けられた『至心信楽の願』に
> 『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
> 諸有海に回施したまへり。』
> (顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)
> の定規を当てて
> 「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」
> と言ったのですよ。

第18願の「信楽」の心になれるのは阿弥陀仏のお力によってであることは誰も否定していませんよ。しかし、そのことと「第18願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」という主張には隔たりがあることが分かりませんか?

繰り返しますが、48願は全て十劫の昔に既に成就したのですよ。だからこそ、法蔵菩薩は正覚を取られたのだし、釈尊は「成就文」を説かれたんですよ。
もし、第18願に「全ての人を信楽に生まれさせる」と誓われていたとするならば、
十劫の昔に全ての人は信心獲得しているはずなんですよ。これは「十劫安心」以外の何物でもなく、とんでもない邪義です。
「十劫の昔に薬は完成したけれども、それを飲まなければ病気は治らない」
と、親鸞会でも説きますよね。それはその通りです。ところが、
「薬を飲む」=「名号を聞く」=「信心(信楽)を獲る」ですから、
「信楽の心にしてみせる」ことまで約束されてそれが成就したというのであれば、
「薬を作るだけでなく、薬を飲ませることまで約束して、それを果たした」ということと同じですから、これが「十劫安心」でなくて何でしょう。あくまで、
「薬が完成している」ということと「その薬を全ての人に飲ませようと阿弥陀仏は常に働きかけておられる」という事実があるのみです。これなら筋が通ります。

・・・

> B(本物)氏や清森氏は
> 「全ての人を信楽の心にさせ必ず報土往生させるシステムが十八願のお約束」
> と主張しているのですか?

私は「全ての人を信楽の心にさせ」なんて主張していません。
とんでもない読み間違い(意図的な曲解?)ですね。
私が質疑応答138で書いたのは以下の通りです。
----------------------------------------------
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。


「信楽の身」になるための働き

これを読んだら、「若不生者の念力」とか、怪しいドグマは必要ないことがわかります(苦笑)。

清森問答 質疑応答138コメント覧より

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』 【四・光明名号因縁の事】 (p.685) に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。

しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、
明確に区別しなければなりません。
第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、
全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。
これでは十劫安心になってしまいます。
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。



清森問答 質疑応答139コメント覧より

B(本物)さんの解説

第18願の内容は、直接的には
「信心を獲た人に当益を与える」ですが、この願が成就したことによって、
信心を獲た一念で、当益が得られることが確定し、副産物として現益も獲られます。
ですから、成就文には現益が説かれていますし、親鸞聖人も『尊号真像銘文』(p.586)に、「乃至十念」と「若不生者」の解釈の間に現益の意味を挿入しておられます:
「この真実信心を得む時、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まると見えたり。」
ですから、結果的には現当二益が誓われていると理解できます。

ただし、その「現益」も、真実信心を獲得することによって獲られるものであって、
「信心」と「現益」とは因果関係にあります。
一念同時ではありますが、決して同じ概念ではありません。

「信心を獲た人に現当二益を与える」と誓われた、という理解は正しいですが、
「全ての人に信心を与える」と第18願で誓われた、ということにはなりません。



清森問答 質疑応答140より

清森さんの解説

●難思の弘誓は難度海を度する大船

「難思の弘誓」とは、弥陀の18願のことです。
「難度海を度する大船」とは、この娑婆世界から、浄土まで渡して下さる船という意味です。

 ですから、これは「18願は、必ず浄土に連れていく誓いである」と親鸞聖人が仰ったお言葉です。


●無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり

「無碍の光明」は阿弥陀仏のお力のことです。
「無明の闇を破する」とは、信楽になることです。

 ですから、「阿弥陀仏のお力によって信楽になれる」と仰ったお言葉です。


 では、これを、「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる約束」と言い換えて良いでしょうか?

 光明を誓われたのは12願ですが、どこを探しても「必ず信楽にさせる」とは誓われていません。12願をそのように解釈されている善知識も1人もありません。

 また、これを五願開示に当てはめて、「信」の働きと、言えないことはありませんが、12願にさえ「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる」と誓われていませんので、まして18願を「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる」と解釈するのは無理があると思います。


 喩えにつきましては、「Aならば、必ずBにする」という文章と、「必ずAにする」という文章は、決してイコールにならない、ということを示すためです。

 何でも、かんでも当てはめないで頂きたく思います。私が、何を喩えているかという、本質を分かって頂けば、このような誤解は無かったと思いますが、文章力不足をお詫び致します。

 もちろん、「Aの力によって、Bになる」という文章と、「Aは必ずBにすると誓っている」という文章も、イコールではありません。

 この辺りを、混同して考えている方が、多いように思います。



 私も、長年信じてきた、「命をかけて、必ず信楽にしてみせる」という解釈が、間違っているとは思いたくありません。

 どこかに、そのような根拠は無いかと、徹底的に探しました。

 皆さんから質問されるような内容は、すべて検討済みのものばかりです。

 しかし、残念なことに、調べれば調べるほど、明らかになるのは「必ず浄土に生まれさせる」という解釈以外は有り得ない、ということです。



 皆さんが、何とか18願を、「必ず信楽にしてみせる」と解釈したいという気持ちは、痛いほどよく分かりますが、釈尊も、善知識方も「必ず浄土に生まれさせる」としか解釈されていないという歴史的事実は曲げようがありません。


 高森先生は、おそらく個人的な味わいで「信楽に生まれさせる」と言われているのだと思います。

 ですから、「釈尊、善知識方とは違う、個人的な味わい」ということを、よく踏まえた上で、聴聞されたら良いと思います。



かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(後半)

CMではなくて、臨時でインチキ暴きが入りましたが、
気を取り直して、それでは後半行ってみよう!!

親鸞会教義の相対化・42

【下巻p.149~】他力

>>>
「他力」というと、「他人のふんどしで相撲をとる」ことのように考え、力のない人間が力のある人間に助けを求める依存心だと思っている人が多い。新聞なども堂々と「他力本願ではいけない。自力更生でなければならぬ」と書きたてている。
では、他力とは一体どんな意味なのか。親鸞聖人が『教行信証』に明示されているように、阿弥陀仏の本願力のみを他力というのである。他力の語源は仏教なのだから、仏教の意味にしたがわなければならない。他力の他は阿弥陀仏のことに限るのである。
>>>

ここまでの解説は素晴らしいと思います。全くその通りです。

>>>
では阿弥陀仏の本願力とは、どんなお力なのか。親鸞聖人は『和讚』に、「無明長夜の闇を破し、衆生の志願を滿てたまう」力であると鮮明に教えられている。
阿弥陀仏の本願力とは、我我の暗い心(苦悩のたえない心)を打ち破って日本晴れの大安心にするお力であり、衆生の一切の志願を滿たして大満足心で生きぬけるようにしてくださるお力である。
>>>

ただし、この部分には賛成できません。

無礙光如来の名号とかの光明智相とは
無明長夜の闇を破し衆生の志願をみてたまふ
『高祖和讚』曇鸞讚

とあるように、「無明長夜の闇を破し衆生の志願をみてたまふ」
働きがあるのは、「無礙光如来の名号」と「かの光明智相」です。

『高祖和讚』から引用するのであれば、むしろ、

本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし
『高祖和讚』天親讚

天親論主は一心に無礙光に帰命す
本願力に乘ずれば報土にいたるとのべたまう
『高祖和讚』天親讚

煩惱具足と信知して本願力に乗ずれば
すなわち穢身すてはてて法性常楽証せしむ
『高祖和讚』善導讚

などを引用すべきだと思います。「本願力」と書かれているのですから当然ですね。


その阿弥陀仏の本願力によって、阿弥陀仏の名を聞いて極楽に往生しようと欲すれば、皆ことごとく彼の国に至って、自然と不退転に至る。
(『無量寿経』巻下東方偈)

と釈尊が述べ、

我が力にて生死を離れ亊励み難くして、偏に他力の弥陀の本願を憑(たの)むなり。
『要義問答』(昭法全六一九頁)

(訳)
自分の力で輪廻を離れようとすることが難しいから、ひとえに他力である阿弥陀仏の本願を頼りにするのである。

と法然上人が述べておられるように、阿弥陀仏の本願を信じるものを極楽浄土に往生させ、輪廻を離れさせるのが、「他力」(=阿弥陀仏の本願力)の「仏教の意味」です。

>>>
もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!
>>>

 これはチューリップ企画と田中さんの法論を掲載したブログで、親鸞会員と思われる方と場外乱闘をしていたCさんが仰った言葉ですが、非常に的を得ていると思います。
 本書の「他力」の解釈は、チューリップ企画の山田さんと同じ誤りを犯しています。



「他力」の解釈が狂って「十劫安心を肯定」
はヤバイっしょ(苦笑)。

ついでなので、Cさんの活躍する場外乱闘をダイジェストで挙げておきますよん。

> 阿弥陀仏は十八願において
>「すべての人を、信楽の心に生まれさせる。」
> と誓われ、

これこそが、証明すべき命題なのに、これを前提に話を進めているのは循環論法です。

> ところが田中氏は、故意か見落としなのか「真実の信心をえ
> たひとは」などのお言葉を抜かして、「当益の意味だ」とい
> う思い込みで自分に都合よく解釈するから、

田中氏は一貫して「信楽を獲た人を浄土に生まれさせる」という意味に解釈していますよ。あなたが勝手に田中氏の主張を歪曲しているだけです。
論点は、「信楽を獲た人を浄土に生まれさせる」ということから、「全ての人を信楽に生まれさせる」という意味が導けるかどうかです。

名号を薬に喩えるなら、本願文は効能書きです。
効能書きには「この薬を飲んだ人は浄土に生まれる」と書かれています。あなたの主張は「薬を飲ませようとする働き」も効能書きに書かれているというものです。「薬を飲ませようとする働き」がその薬自体にあるわけないじゃないですか。その薬を作った医者である阿弥陀仏が私達にその薬を飲ませようとしておられるというのはその通りです。

名号を船に喩えるなら、本願文は設計図です。
設計図には「この船は乗組員を浄土へ連れて行く船だ」と書かれています。あなたの主張は「船に乗せようとようとする働き」も設計図に書かれているというものです。「船に乗せようとする働き」がその船自体にあるわけないじゃないですか。その船の船長である阿弥陀仏が私達をその船に乗せようとしておられるというのはその通りです。

田中氏はあくまで本願文(第18願文)に書かれている内容だけを問題にしているのです。阿弥陀仏の御心は第18願文だけで全て言い尽くされているわけではありません。だからこそ、本願が成就した後、釈尊が、名号を与えてくださるのも阿弥陀仏のお力であり、名号を受け取った一念で浄土往生が確定するということを、本願成就文で教えてくださったのです。

何だかんだいっても、書かれていない内容は書かれていないのです。本願文に書かれていない阿弥陀仏の御心が成就文で分かるのは事実ですが、だからといって、それが本願文に書かれていることにはなりません。書かれているのなら釈尊が成就文を説かれる必要はなかったのです。



> 本願に書かれているのに、私たちが読んでも分からない点を、
> 成就文で教えられているのです。

たぶんそう言うと思ってましたよ。
では聞きますが、漢文であるという点は同じなのに、
なぜ成就文ならば私たちが読んで分かるのですか?
私たちに分かりやすく説く能力が、阿弥陀仏よりも釈尊のほうが
優れているとでも言うのですか?

まあ、あなたは「表面的には書かれていないが、本質的には書かれている」と言いたいんでしょうね。そう言う前提でも、私の出した「薬」や「船」の喩えは有効ですから、それについてのあなたの見解を聞かせてください。特に、十劫安心になるという私の指摘にあなたがどう反論するのか楽しみです。

もし本願文が「書かれているのに、私たちが読んでも分からない」
ようなお言葉であるならば、なおさら、
「初めから成就文を出していれば良かったのに」
ということになり、T社の誤りが浮き彫りになるだけです。

もっと言えば、阿弥陀仏ご自身が初めから成就文のような
「私たちが読んで分かる」表現で本願を建立されれば良かったというような、
阿弥陀仏の言語表現にケチをつけるような発想につながりますよ。
とんでもないことです。
本願の内容は、あの36文字で書かれている以上でも以下でもないのです。

とにかく、親鸞聖人が本願文を
「全ての人を信楽に生ませさせ、そして浄土に生まれさせる」
という意味に解釈されたお言葉を出してください。

「表面的には書かれていないが、本質的には書かれている」内容が、あなたに分かるのなら、
親鸞聖人ならなおさら分かられたはずで、当然それを書き残されたはずですよね?

それとも、親鸞聖人でさえも分かられなかったことが、あなたには分かるのですか?
仮にそうだとしても、それを言ったら「親鸞学徒」ではありませんよ。

・・・

訂正:「生ませさせ」→「生まれさせ」

あと、法論で形勢が不利になると「文底秘沈」みたいなことを言い出すのって、よくある逃げ口上ですね。




ちなみに、「Cさんへさん」と「二歩訂さん」がヘンテコな反論をしてきましたが、
Cさんが登場する前に、速攻でオミットされてしまいました(笑)。

Cさんへ

>私たちに分かりやすく説く能力が、
>阿弥陀仏よりも釈尊のほうが
>優れているとでも言うのですか?

 いいえ。お釈迦様は阿弥陀仏のお弟子ですから、先生である弥陀の御心を伝えるのが使命なのです。その使命を果たされたのが成就文です。

>十劫安心になるという私の指摘にあなたが
>どう反論するのか楽しみです

「若不生者」と、必ず生まれさせると誓われているから、必ず信楽に生まれる時が来るのです。何か問題がありますか?
 なぜあなたのように、すべての人が、十劫の昔から、信楽に生まれたことになるのですか?

投稿 Cさんへ | 2008年6月 2日 (月) 23時33分



>>「若不生者」と、必ず生まれさせると誓われているから、
>>必ず信楽に生まれる時が来るのです。何か問題がありますか?

だから、その命題が真かどうかが議論になっているわけでしょ。
頭大丈夫?

信楽をえた人を必ず極楽に往生させると誓われているから
といって、その本願文だけでは、
「必ず信楽に生まれさせる」という命題をどうやって導き
出せるのですか?
あなたの根本的な間違いは、
結論ありきで物事を語るところですよ。
ちび丸さん!

投稿 え? | 2008年6月 2日 (月) 23時52分

>お釈迦様は阿弥陀仏のお弟子ですから、先生である弥陀の御心を伝えるのが使命なのです。その使命を果たされたのが成就文です。
 ↑
だから、本願成就文を根拠にしなかったチ●ーリップ企画のエラーは深刻ですよね(苦笑)。


>>「若不生者」と、必ず生まれさせると誓われているから、必ず信楽に生まれる時が来るのです。何か問題がありますか?
 ↑
こういうのを「思想先行」と言います。
貴方が注入された結論に都合の良い資料解釈をしているにすぎません(笑)。

清●問答に浄土宗の学者氏が書いてますよん(苦笑)。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-129.html

投稿 苦笑(本物) | 2008年6月 3日 (火) 00時02分

Cさん
(RE:2008年6月 2日 (月) 13時53分)
(RE:2008年6月 2日 (月) 21時13分)


>> 阿弥陀仏は十八願において
>>「すべての人を、信楽の心に生まれさせる。」
>>と誓われ、

>これこそが、証明すべき命題なのに、これを前提に話を進
>めているのは循環論法です。

十八願文に「設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国」
と仰っている通り、特に証明するまでもないことです。これ
については、ちゃんと田中氏も認めていますよ。
(2007 12/4(火) 参照)


>田中氏は一貫して「信楽を獲た人を浄土に生まれさせる」
>という意味に解釈していますよ。

>論点は、「信楽を獲た人を浄土に生まれさせる」というこ
>とから、「全ての人を信楽に生まれさせる」という意味が
>導けるかどうかです。

田中氏と貴方たち支持派の根本的誤謬は、

 ●本願と本願成就文の関係を正しく理解していない。
  (他にも指摘されている方がありましたが。)

 ●「信楽を獲た」という言葉は使っていても、その意味を
  頭だけでも正しく分かっていない。

だから、
>>親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、
解釈されているとしか思えないのです。

上記のことを正しく理解すれば、
>とにかく、親鸞聖人が本願文を
>「全ての人を信楽に生ませさせ、そして浄土に生まれさせ
>る」
>という意味に解釈されたお言葉を出してください。
などという質問は、出てきようがありません。もっとも、そ
れしか追求点がないから、執拗に追求し続けているのでしょ
うが。

それにしても、『「全ての人を信楽に生まれさせる」という
意味が導けるかどうか』とは、不可解なことを仰いますね。
弥陀の本願は「誰のために・何のために」建てられた誓願な
のですか?それを分かっていないことの証左です。


ここでは『三経往生文類』のお言葉を挙げておきます。

「大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、こ
れを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、
必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、か
ならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因
なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』
の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と
申すなり。」

「真実の信楽をえたる人は、すなはち正定聚の位に住せしめ
んと誓ひたまへるなり。」

親鸞聖人は、十八願の往生を「大経往生」とも呼ばれ、
「念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。」
と、大経往生とは「念仏往生の願因」によって、「必至滅度
の願果」をうることであると仰っています。因果の道理は大
宇宙の真理、原因があってこそ結果が生ずるのです。

「現生に正定聚の位に住し」「真実の信楽をえたる人は、す
なはち正定聚の位に住せしめん」
これが「念仏往生の願因」であり、「現生での往生」です。
念仏往生の願は、十方衆生を相手に建てられた誓願であるこ
とは、言うまでもありません。

その「念仏往生の願因」があってこそ、
「かならず真実報土に至る」「無上涅槃のさとりをひらく」
という証果を得るのです。これが「必至滅度の願果」であり
「来生での往生」です。

つまり、親鸞聖人は「大経往生」には、
  「念仏往生の願因」(現生での往生)
  「必至滅度の願果」(来生での往生)
という、二つの往生があることを顕かにされているのです。
また田中氏も、往生に二つの意味があることを、前述の
「2007 12/4(火) 」の記事で自ら述べています。
(「若不生者」の「生」は、「往生」の意味であることも、
論をまたないことです。)

それを知っているにも拘らず、このお言葉だけでなく田中氏
が自説の根拠としている『尊号真像銘文』や『唯信鈔文意』
のご文にしても、二つの往生について述べられているのです
が、「若不生者不取正覚は、当益の意味だ!」と思い込んで
いるから、理解できないのでしょう。
投稿 二歩訂 | 2008年6月18日 (水) 02時53分

おう!久々ですね~!

さっそくロジックの矛盾を指摘しましょうかね。


>>>>>>
>> 阿弥陀仏は十八願において
>>「すべての人を、信楽の心に生まれさせる。」
>>と誓われ、

>これこそが、証明すべき命題なのに、これを前提に話を進
>めているのは循環論法です。

十八願文に「設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国」
と仰っている通り、特に証明するまでもないことです。これ
については、ちゃんと田中氏も認めていますよ。
(2007 12/4(火) 参照)
>>>>>>

田中さんはT社の主張がおかしいことを指摘しただけですがな(苦笑)。

★★田中さんの2007 12/4(火) の主張★★
「生るべからざるものを、生れさせたればこそ」の「生まれる」の意味が分かられないというご質問ですが、このご質問を読ませて頂いて、貴社の間違いの原因が判明した気が致します。

 貴社の一番の問題は、浄土真宗で「生まれる」といっても二通りの意味があることを理解しておらず、混同しておられることです。ここで「生」と「往生」は、ほぼ同じ意味と受け取って頂いて結構です。

 一つ目の「生」は、ビデオの内容で言えば「不体失往生」であり、生きている時に「信楽をえる」ことを「生」と言います。十八願では、「至心信楽欲生我国」に当たります。

 二つ目の「生」は、死んで真実報土に生まれることを言います。十八願では、「若不生者」に当たります。
 同じ「生」の字を使っていても、意味は全く違います。

 お尋ねの「生れさせたればこそ」の「生」は、「信楽をえる」ことであり、「不体失往生」のことですから、「若不生者」の「生」とは異なります。

 貴社では、これを「若不生者」の「生」と混同してしまわれたのではないでしょうか?

 「生まれる」の二通りの意味を知らねば、「若不生者」の「生」なのか、「不体失往生」の「生」なのか、間違えてしまいます。

 おそらく、「生まれる」という言葉にとらわれて、「生」と書いてあるものは、すべて「若不生者」の「生」と同じなのだと勘違いしてしまわれたのでしょう。それで、「若不生者」を、「不体失往生」の根拠として挙げてしまうという間違いを犯してしまわれたのだと拝察致します。
★★田中さんの2007 12/4(火) の主張★
投稿 苦笑(久ぶり!) | 2008年6月18日 (水) 11時16分

そういえば清●問答で、親●会で使われる「往生」の定義がおかしいことが指摘されていましたね~。

客観的な「資料」よりも高●先生の「味わい」を優先するから、
どんどん怪しいドグマができてきちゃうんですよ(苦笑)。

>>>
【上巻p.91~】往生について

(中略)

親鸞会教義の相対化・39
>>>

投稿 苦笑(久しぶり!) | 2008年6月18日 (水) 11時23分

【親●会おける、善知識の教えの位置づけ】


たてまえ)
釈尊=善導大師=法然上人=親鸞聖人=蓮如上人=高●先生

ほんね)
釈尊<善導大師<法然上人<親鸞聖人<蓮如上人<高●先生


たてまえでは釈尊や法然上人や親鸞聖人を権威付けに利用しながら、
ほんねでは、高●先生の言葉が一番大事なんでしょうがね(苦笑)。

別にそれでもかまわないけど、
高●先生のドグマを法然上人や親鸞聖人の責任にしないでほしいですね(苦笑)。

投稿 苦笑(久しぶり!) | 2008年6月18日 (水) 11時28分




さて、これを読まれたチ●ーリップ企画はどう出るでしょうかね~。
やっぱ得意の「無視」ですかね(苦笑)。


繰り返しますが、以下が(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点でっせ。

*不体失往生の根拠として「若不生者」を出したことがそもそも口伝抄の記述と異なる。
*親鸞聖人自身、「若不生者」を明確に当益で解釈されたのに、当益で解釈するのを「誤りだ」と親鸞聖人自身に言わせているのは矛盾している。
*百歩譲って、仮に「若不生者」に現益・当益の両方の意味があるとしても、その場合、体失往生か不体失往生かの決着を付ける言葉としては用をなさないので、やはり不適切。

「他力」の解釈が狂って「十劫安心を肯定」。

捏造した見解の基づいて論点をスライドしてもらっちゃ困りますね~(苦笑)。
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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