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ツッコミ!【第7回】田中氏の「成就文」の領解

抱腹絶倒のCMを用意してたんだけど(嘘w)、
その前に第7回がアップされましたね~。
 ↓↓↓
【第7回】田中氏の「成就文」の領解
http://shinjin.info/2008/08/301522142.html

どうやら、
都合の良い形に捏造した田中氏の主張を繰り返し提示し、
批判しやすい形に相手の主張を改変して攻撃する、
得意のワラ人形論法を行って、
アニメの間違いと親●会ドグマの問題を隠蔽する、
予想通りの作戦のようですね~。

でも、その陳腐な作戦は、もう既にバレバレでっせ(苦笑)。

作戦がバレバレなんですから、そんなことをいくらやっても、
インチキ論法を暴かれて晒し者にされるだけですわ(笑)。


>弥陀の『本願文』三十六文字すべてを、釈迦が解説したのが『本願成就文』というチューリップ企画の領解に対して、田中氏は次のように異議を唱える。

チ●ーリップ企画のアニメの間違い&親●会ドグマの問題は、
これだけじゃないですやん(苦笑)。

というか、また捏造した「田中氏の主張」を繰り返して印象操作ですか(苦笑)。


◆平成20年4月2日のメール
もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。

繰り返しますが、これはチューリップ企画が田中さんにボコボコにされて抗議された部分であって、
こんなものを何度出しても、「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という主張を田中さんがしたことにはなりません。
前回のものが捏造であることを暴かれたから、更にもう一回トライしたのかな(苦笑)。


>『本願成就文』で開顕されているのは、本願文の「至心信楽欲生我国」の八字だけのことですか。それとも『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ですか。お尋ね致します。
 
 
 もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。
 
 貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?
 異論がなければ、そのように受け取ります。
 
 
 
>また貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と仰っていますが、その文証を示して下さい。
>今まで貴方の挙げられた文証は、『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない』という根拠にはならないことは、先便で縷々明らかにした通りです。
 
 
 すみませんが、どこの部分のことでしょうか?
 そのような文章は、どこにも見当たりませんでした。
 
 前回のメールで、極楽浄土に生まれる以外の意味がないことは、誰にでも分かるように明らかにしました。それに対する、何の反論もありません。
 
 すでに貴方は、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない』と認められたのですから、今さら何を仰るのかと思います。
 
 
 
>また返答がないと言われているが、当方は「若不生者不取正覚」の「生」に不体失往生の意味もあることを、「本願文」では「若不生者不取正覚」にあり、「本願成就文」では「名号」の働き「即得往生住不退転」で示し、だから『願成就』には、死後のことは説かれてないことや、その外「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」など、親鸞聖人のお言葉ばかりを提示してきたのに、なにを今更おっしゃるのだと言いたいことです。
 
 
 私は3月16日に以下のように書きました。
 
>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>> 
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>> 
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。
 
 
 これに対して、「有る」とも「無い」とも、まったく返答がありませんでした。
 つまり、これは「無い」という返答です。
 こんな最近のやりとりを、もう忘れられたのですか?
 
 もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
 議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
 仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?
 
 
 
>だが貴方は、それらの根拠は「若不生者」が「信楽を獲られる」という意味となるという根拠にならないと、論証してきたと仰った。いつ何処で、どのように論証されたのでしょうか。大切なところですから愚鈍な者にも分かるように、もう一度お手間かけたいと思います。論証して下さい。
 
 
 何回でも論証いたしましょう。
 
 しかし、貴方も同意された通り、今は双方の主張を確認する作業を優先して進めております。
 
 まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?
 
 貴方の主張が明らかになりましたら、一つ一つ、改めて論証いたしましょう。
 
 
 
>いまだに貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と主張されますが、
>「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証)
>「真に知らされた! いま弥勒菩薩と同格(信楽)になれたのは、弥陀の誓願不思議によってのほかはない。弥勒は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりが得られぬのに、私は死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」と、親鸞聖人は慶喜されていますが、「真に知んぬ」と知らされたのは、「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってではありませんか。これを弥陀の本願の現益というのでしょう。
 
 
 親鸞聖人が「まこと」と知らされた「本願」の内容は、まさに「私が死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」という内容です。
 
 つまり、これは、「若不生者不取正覚」によって、死ぬと同時に仏のさとりが得られるということであって、私の主張を裏付ける根拠です。
 
 
 
>「今生は、正定聚に生まれさせ」「死んでは、極楽に生まれさせる」のが、「若不生者」の誓いではありませんか。「死んで極楽に往生させる」ことのできるものが、なぜ「今生で往生させる」ことができないのか。「死んで極楽に生まれさせる」ことができるのなら、「今生で生まれさせる」ことができるのが当然でしょう。
> 
>「若不生者のちかい」によって、浄土へ生まれる(体失往生)は結果です。信楽に生まれる(不体失往生)という原因なくして、浄土往生という結果は絶対にないのです。
>「若不生者不取正覚」の本願力が、「信楽に生まれさせる」ことに懸かっていないという主張は、浄土往生の正因が「信楽」であると言う、親鸞聖人の「信心正因」の教えを否定することになるのです。
 
 
 「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?
 
 あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?
 
 
 
>> これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
>> 
>> 異論がなければ、上記の意味だと判断します。
 
 
 なお、上記については、異論がありませんでしたので、貴方の主張は、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」だと明確になりました。
 
 
 
>> 貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
>> 
>> そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
>> その点、貴方の主張を確認いたします。
 
 
 これも異論がありませんでしたので、貴方の主張では、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだということが明確になりました。



◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
※この部分は、後ろに分断されて提示されていました。
◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとは、どういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。

これも繰り返しになりますが、田中さんの文を変な所で分断してまで、
ヘンテコなものに印象操作したい気持ちは十分伝わってくるのですが、
「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という主張を田中さんがしたことにはなりません。

更に、今度は僕のツッコミを反映して一つのメールを分断して提示ですか?(苦笑)
こんなインチキで安易な印象操作は、まともに文章を読んでる人にはバレバレで、
まじめな会員の方や読者はあきれるだけですよ(苦笑)。


>(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
>   かれている処」がありますか。
 
 名号に、死後、極楽に生まれさせる働きがありますので、無関係ではありませんが、『本願成就文』そのものには、死後のことは説かれていないと考えて良いと思います。
 
 
 
>(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
>   の主張の文証を挙げて下さい。
 
 
「私の主張」は、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証は存在しない、という主張です。
 
 まず、私の主張をよく理解してください。
 
 それ以外のことを、私の主張だと思っておられるなら、上記が私の主張ですので、よくよく覚えておいて頂きたく思います。
 
 私が「若不生者」の「生」を「極楽往生のみ」と言っているのは、親鸞聖人が解釈されている文章が、「極楽浄土」しか見当たらないという意味です。
 
 ですから、教行信証のどこにも、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証が存在しないということが、私の主張を裏付ける文証です。
 
 
 
>(3)先便で貴方は、『「本願成就文」を、
>   「本願文」三十六文字の総てを解説さ
>   れたものという考えには反対です』
>   と仰った。
>   それでは『本願成就文』は、「本願
>   文」のどこまでの解説で、「本願文」の
>   どの部分が解説に入らないのか、とお
>   尋ねしています。
 
 
 何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
 
 本願成就文は、信心をえるとはどういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対だという意味です。



◆平成20年3月24日のメール
本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を、釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

しかしどうしてこれが、「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」になるんですかね~(苦笑)。
というか、チ●ーリップ企画の主張の問題部分を指摘した文章でっせ。これは(苦笑)。


>その肝心の「信楽を獲る」ことが、「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(正信偈)と、これ以上難しいことはないと、釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も教えられている文証は、すでに挙げてある通りです。そんな「信楽」が、どうして獲られるのでしょうか。「本願文」で示して下さい。

上記の質問は、2月2日に、以下のように返答済みです。

>>「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
>> だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

>当方は幾度も、我々に「信楽が獲られる」のは、「本願文」では「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってであり、「本願成就文」では「名号」の「破闇満願」の働きであり、親鸞聖人は、それを「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」で詳説されていることを繰り返し述べてきたことは、過去のメールを見れば明白です。

貴方の出された根拠は、「若不生者」が「信楽が獲られる」という意味となるという根拠にならないことは、すでに論証してきた通りです。

しかし、今は、双方の主張を確認する作業をしているわけですから、その妥当性を議論するのは、後まわしでしたね。

上記の文章では、どの部分が主張で、どの根拠が対応しているのか判りません。明確にして頂きたく思います。

>無論、弥陀の十八願の「若不生者不取正覚」の約束が「誠だった」と「仏願の生起本末に疑心あることなし」となるのは、「信楽をえた時」ですよ。

質問をすり替えないで頂きたく思います。

これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?

異論がなければ、上記の意味だと判断します。

>ところが貴方は今度の返信でも、『「即得往生住不退転」は不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです』と仰った。
>それでは「本願成就文」は「弥陀の本願」の開闡ではないのですか。お尋ね致します。

貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。

そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
その点、貴方の主張を確認いたします。

あと「開闡」を、どのような意味で使っておられますか?
一般公開しているのですから、現代語で質問して頂くようお願いします。

>弥陀は「極楽浄土に生まれさせる」ために、難中之難無過斯の「信楽に生まれさせる」ことに、「若不生者」と「正覚」を懸けられているのではありませんか。
>その「若不生者不取正覚」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』でしょう。だから親鸞聖人は『本願成就文』を「一実・円満の真教、真宗これなり」と言われているのです。

本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

>親鸞聖人の何処に「若不生者は、極楽に生まれることだけ」という教えがありますか、あれば根拠を教えて下さい。

すでに提示してあります文章は、すべて上記の根拠です。

親鸞聖人が「若不生者」を説明された文章は、すべて「極楽往生」の意味で教えられています。それを、不体失往生で教えられた文章は、一つもないことは、貴方も認められた通りです。

極楽に生まれる以外の意味があるのなら、「極楽に生まれるという意味もある」と書かれるはずでしょう。

貴方は、部下にボールペンを買いに行かせるときに、「ボールペンだけ買ってこい」と言われるのですか?

貴方の会社では、「ボールペンを買ってこい」と言われたら、肉まんも買ってよいという意味になるのですか?

親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されているということは、それ以外の意味ではないのは明白です。



以上、あいかわらずのインチキぶりを暴いて晒し者にしました。
親●会のやり方が昔から変わらないことは、既に明らかになっているわけですが、

親鸞会は本当に本願寺に勝ったのか
2.歪曲された「本願寺の非難」

こんだけ晒し者にされても、懲りずに同じことを繰り返す人の、
良識と知性、センスを疑いますね~(苦笑)。

これまでも、相手の主張を都合の良い形に捏造・操作して議論を進める、
チ●ーリップ企画(=親●会)のやり方は、悪質な反則だと思っていましたが、
ここまでくると、犯罪レベルですな(苦笑)。
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かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(前半)

チューリップ企画が主張する「かくて判明した根本的相異点」が、
悪質な論点スライド&問題隠蔽であることが明かになったので、

代わりに、これまでに明らかになった「根本的相違点」を挙げておきたいと思います。

ちなみにこの「根本的相違点」は、
「(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相違点」です。

親鸞会教義の相対化・40

>>>
「善恵房殿、それは、『若不生者不取正覚』の御文で明かです」
「親鸞殿、何か勘違いされておられぬか。その御文は、『若し生まれずば正覚を取らじ』と弥陀が誓われたお言葉です。一度死なねば生まれることはできませんから、それこそ、『死んだら助ける』の証ではありませんか」
勝ち誇ったように叫ぶ善恵房。
 しかしその時、すかさず聖人の言葉が四方を圧した。
「善恵房殿、あなたの誤りは実にそこにあるのです。『若不生者』の生まれさせると誓われたのは、この肉体ではないのです。魂なのです。心なのです。暗い心を明るい心に、不安な心を大安心に、苦悩渦巻く心を歓喜の泉に生まれさせると誓っておられるのです。人間でさえ、腹痛で苦しんでいる人に、『この世では止められるが死んだら治してやろう』という医者はありません。濁流に溺れて苦しんでいる人に、『今は救ってやれないが土左衛門になったら助けてやる』という人がありましょうか。まして況や、大慈大悲の阿弥陀仏が、『この世の苦悩はどうにもできぬ。苦しくても我慢しなさい。死んだら助けてやる』と誓われる道理がないじゃありませんか」
鋭い聖人の追求に善恵房すでに顔色なく、一言の返答もできなかった。これを、「体失不体失往生の諍論」という。
>>>

 チューリップ企画と田中さんの法論で話題の「体失不体失往生の諍論」の話題です。本書も、チューリップ企画のビデオと同内容であり、いずれも高森先生の『こんなことが知りたい』(2)pp.74-78「(21)親鸞聖人の三大諍論とは、どんなことか」から受け継いだ内容であると思われます。

>>>>
*不体失往生の根拠として「若不生者」を出したことがそもそも口伝抄の記述と異なる。
*親鸞聖人自身、「若不生者」を明確に当益で解釈されたのに、当益で解釈するのを「誤りだ」と親鸞聖人自身に言わせているのは矛盾している。
*百歩譲って、仮に「若不生者」に現益・当益の両方の意味があるとしても、その場合、体失往生か不体失往生かの決着を付ける言葉としては用をなさないので、やはり不適切。
>>>>

 これはチューリップ企画と田中さんの法論を掲載したブログで、親鸞会員と思われるAさんと場外乱闘をしていたBさんがまとめておられたことですが、高森先生の『こんなことが知りたい』、アニメ、そして本書は、共通して上記三点の批判を避けることはできません。



*不体失往生の根拠として「若不生者」を出したことがそもそも口伝抄の記述と異なる。
*親鸞聖人自身、「若不生者」を明確に当益で解釈されたのに、当益で解釈するのを「誤りだ」と親鸞聖人自身に言わせているのは矛盾している。
*百歩譲って、仮に「若不生者」に現益・当益の両方の意味があるとしても、その場合、体失往生か不体失往生かの決着を付ける言葉としては用をなさないので、やはり不適切。


チ●ーリップ企画の山田さんの発言をずっと読んでますが、
この指摘に対して答えられるような発言は全然出てきてません。

それがつまり、「(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相違点」ということになるわけですね~。

ちなみに、この問題に関してBさんと場外乱闘してたAさんは、
いつのまにかフェードアウトしてしまいました。
いちおう会話が成立する人なので応援してたんですけどね~(苦笑)。

場外乱闘現場より

Bさんは他にも鋭いツッコミを入れてましたので、
以下にまとめておきますね。

「現益(信楽)を獲た人に必ず当益を与える」と誓われたのが本願文です。それが成就したのですから、あとは「現益を獲させる事」に焦点が移るのは当然です。そしてその部分を明らかにされたのが成就文です。ですから、本願文と成就文の内容は同一ではありません。本願文の内容をそのまま解釈されたのが成就文、という認識を改めるべきです。親鸞聖人は、
「若不生者」を当益のみで解釈され、
「即得往生」を現益のみで解釈されました。
これは紛れもない事実です。歴史上いろいろな解釈はあったでしょうが、親鸞聖人のなされた解釈に忠実でなければ「親鸞学徒」とは言えません。親鸞聖人の解釈に従うならば、
「即得往生」≠「若不生者」は明らかです。それなのに勝手に
「即得往生」=「若不生者」だろうと計らって、
「若不生者」に現益の意味もあると主張するのは親鸞聖人の教えに反しています。(あなたがそう「味わう」だけなら自由ですが。)



親鸞聖人以前は「不体失往生」という概念はなく、
「往生」と言えばいわゆる「体失往生」に決まっていました。
その意味で、「即得往生」と「若不生者」とが対応していました。ところが、親鸞聖人が初めて「即得往生」を現益に読み替えられたのです。その結果、「若不生者」は当益なのに「即得往生」は現益ということで、「即得往生」≠「若不生者」という恰好になりました。だから私はわざわざ「親鸞聖人の解釈に従うならば」と前置きをしたのです。
では、「若不生者」も現益に読み替え可能ではないかと思うかもしれませんが、成就文の「即得往生」を現益に読み替えることができたのは、あくまで当益を誓われた本願が土台にあるからです。もしその本願文の「若不生者」までも現益に読み替えてしまったら、当益がどこにも誓われていないことになります。しかも、「当益が得られることが現世において確定したこと」を「現益」というのですから、当益が無いならば現益も無くなって、結局「無益」になってしまうのです。ですから「若不生者」を現益に読み替えることは原理的に不可能です。
まあ、理屈はどうであれ、「若不生者」を明確に現益で解釈された親鸞聖人のお言葉を未だに山田氏は出すことができないでいます。この事実だけで山田氏の敗北を結論付けるのに十分です。議論がいろいろな方向に拡散していますが、この法論は本質的に終わっています。



仏教の目的は成仏です。阿弥陀仏のお力によって、凡夫が仏覚に到達するまでの全行程を「横超の直道」と言います。「本願を信受した一念で51段高飛びして、凡夫が正定聚」も素晴らしいことですが、それはまだ通過点であって、一番すごいのは、正定聚になった人が阿弥陀仏の本願力によって仏覚に到達することです。
「51段から52段へはあと1段だから簡単なこと」と思っていませんか?
---------------------------------
弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるが故に、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大槃涅槃を超証す(教行信証)
---------------------------------
この親鸞聖人のお言葉から分かるとおり、弥勒菩薩が自力で51段から52段に到達するのに56億7千万年かかるのですから、「あと1段」がいかに大変なことか分かるでしょう。「大関になるのも大変だけど、大関が横綱になるのはもっと大変。(魁皇を見なさい。)」という喩えを聞いたことはありませんか? それに対し、【横超】の金剛心を窮めた人は、次の生ですぐに仏覚に到達するのですから、これは大変なことです。ゆえに、当益にこそ【横超】の真価があると言えます。まずは現益を獲ることが先決ですから私達が現益を重視するのは当然ですが、仏教の究極の目的は何かという、大局的観点を見失ってはなりません。



「横超」とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
(教行信証信巻)

「横超」とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなわち真宗なり。
(教行信証化土巻)

これらは、当益と対比して「【横超】とは現益だ」と言われたわけではありません。(そういう意図でここだけをピックアップするとそう思えるでしょうが、これっていわゆる「断章主義」ですね。)
「竪超」「竪出」「横出」と対比して「横超」の特徴を言われたものです。「願力廻向の信楽」を獲ること、「本願を憶念して自力の心を離る」ことは、いずれも「横超」を特徴付ける重要なプロセスですからね。

繰り返しますが、仏教の目的は成仏です。凡夫が仏覚に到達するまでの道程を大きく4つに分けられた中の1つが「横超」です。ですから、「横超」が仏覚への途中の段階までを意味するということはありえません。ただ、例えば4通りの登山道がある場合に、その中の1つを他の道と区別しようとしたら、通過点を指定するしかありません。(スタートとゴールは同じなのですから。)信楽を獲て正定聚に住するという段階を経ることが、「横超」が他の3つの道程と決定的に異なる点ですから、それによって「横超」の特徴づけをなされたのは当然です。


「超世の悲願」を聞けば現益を獲るというのは、その通りです。
だからといって、なぜ「超世の悲願」の内容が「全ての人を信楽に生まれさせる」ということになるんですか?

「薬を飲めば病気が治る」ということから、なぜ、「薬の中に『全ての患者に必ずその薬を飲ませてみせる』という働きが込められている」という命題が導けるのですか?



> 若不生者の「生」は不体失往生であることを、聖人は
>「即得往生は後念即生なり」(一念で、信楽に生まれるのだ)と
> おっしゃり

「即得往生は後念即生なり」は「即得往生」の解釈なのに、
なぜそれが「若不生者」の解釈になるんですか?
「若不生者」と「即得往生」がイコールかどうかを問題にしているのに、それを前提として話を進めるのは循環論法ですよ。

> 覚如上人は「本願の不思議をもって生るべからざるものを
> (信楽に)生れさせたればこそ、(18願を)超世の悲願というのだ」
>とおっしゃっています。

勝手に「(信楽に)」と補っていますが、その理由は何ですか?

(略)

今、一番の問題となっているのは覚如上人の
「生るべからざるものを生れさせたればこそ」
というお言葉が現益・当益のどちらを言われたものか、という点です。あの後、調べてみたら、その文の前にある「往生浄土の器もの」という言葉を受けて、実際に当益と解釈している本が見つかりました。私はその説を支持します。あなたが「現益だ」と主張されるのであれば、その理由を明確に述べてください。

>「生まれさせたればこそ」が当益ならば「生まるべからざるもの」とは何ですか。
> 正定衆の菩薩が死んで仏に生まれても、何の不思議ですか?

信楽を獲た人は、法徳から言えば「正定衆の菩薩」ですが、機相から言えば「煩悩具足の凡夫」のままですから、「生まるべからざるもの」であることに変わりはありません。「生まれさせたればこそ」が当益であると仮定しても何も矛盾しませんよ。

(略)

その進道の階次をいうとき、ただおなじき座席なり。しかるうえは、かならずしも俗の二種をしりぞけて、道の二種をすすましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちいる条、本形としては、往生浄土のうつわものにきらわれたるににたり。ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。


『浄土に生まれ、順序を言う時は、いずれも同じ座席についているのである。こうした訳だから、俗の二種を低く押し退けて、僧の二種を高く押し進ませる必要はないのに、婦人や在俗のものが、強いて法名を用いるのは、いかにもそのままの形では、浄土に生まれる器ではないと、嫌われているかのようである。ただ男女・善悪の愚かな人に、さかしらな才能を働かせない生地のままの姿において、本願の不思議な働きによって、浄土に生まれることが出来ないものをも生まれさせたからこそ、「いつの世にも超え勝れた願」と名づけたり、「一足とびにさとることの出来る捷径」ともいわれる訳である。この一章は、ことに曾祖師、並びに祖師以来、相伝え、受け継いできた眼目であって、強いてかりそめに扱ってはならないものである。』

(【改邪抄】親鸞述 石田瑞磨訳 平凡社)



CMに続く!

地球人にガミラス星人の「文化」は適応されない

親●会関係者と思われる人が、私に対する攻撃として、
何度か、こんな攻撃をしてきました。

必堕無間の後生の一大事も分かってない人がこの問答を見ても、若不生者が何やら当益・現益が何やら訳が分からないはずですが。
最低限、内容を理解してから批判して欲しいです。


苦笑さん、貴方は後生、どちらへ行かれるおつもりですか?
(中略)
必堕無間の後生の一大事を否定するなど、仏教が全く始まっていません。
(中略)
このような「必堕無間の後生の一大事」を真っ向から否定する貴方が、弥陀の本願の「若不生者」の「生」を、あれこれ論じることに、どんな意味や目的がおありなのでしょう。
 必堕無間の一大事を、「特定の文化の枠組み」のお話、としか思っていない貴方が、弥陀がその一大事を解決してみせる=「必ず生まれさせる」と、命を懸けて誓われている「若不生者」の「生」を、なぜ論じていらっしゃるのですか? 



>必堕無間の後生の一大事
 ↑
これって、清森氏や浄土宗の人によって、限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」であることが既に証明済みなんだよね(苦笑)。

質疑応答82

「化土往生する人」を親鸞聖人がお説きになられていますが、
獲信した人以外は無間地獄なんでしょうかね~?(苦笑)

それから「昿劫を逕歴」=「無間地獄に堕在」とする根拠ってないよね(苦笑)。

質疑応答83

>親鸞聖人が「全人類は逆謗である」という説き方をされていませんので、必堕無間の根拠には、ならないと思います。

>五悪段につきましても、必堕無間とは、どこにも説かれていません。すべて三悪道として教えられています。無間地獄ならば、寿命が短いということはありません。

>つまり、五悪段で説かれていることは、悪人は三悪道に堕ちる、ということであって、「一切衆生必堕無間」の根拠にはなりません。

だそうです。

「一切衆生必堕無間」というドグマはどっから導き出されるんでしょうかね~(苦笑)。

質疑応答84

>まして、化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説くことを否定するのは、善知識方の説き方を否定することになるので、間違いだと思います。

だそうです。

それでも「一切衆生必堕無間」というドグマを優先するのは勝手だけど、
化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説いている善知識とは、
別の「文化」であることは自覚する必要がありますな(苦笑)。

親鸞会教義の相対化・28

「一切衆生必堕無間」は、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとも抵触するドグマのようですね。

私は、親鸞聖人も蓮如上人も、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えを受け継いだ方だと思っておりますが、
「一切衆生必堕無間」をドグマとする「文化」は、
そのドグマと曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとの間に、
どのように整合性を付けるつもりなのでしょうかね~(苦笑)。

日蓮聖人の思想との整合性は、なんとかつきそうな気がしますけどね(苦笑)。


あと、こんなのもありましたね。

「地獄に堕ちるわよ~!」は、
仏様でもない人が他人に対して言っちゃダメ
みたいですよ(苦笑)。

親鸞会教義の相対化・26

まず、以下の記述を見ていただきたいと思います。

若佛子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪過。教人説罪過。
罪過因罪過縁罪過法罪過業。
而菩薩聞外道惡人及二乘惡人説佛法中非法非律。常生悲心教化是惡人輩。
令生大乘善信。
而菩薩反更自説佛法中罪過者。是菩薩波羅夷罪
(『梵網経』大正蔵経vol.24.p.1004c.)

(訳)
仏の子よ。
もしも出家や在家の菩薩や、比丘・比丘尼の罪過を自ら説き、他の人に教えて罪過を説かせたならば、それは罪過の原因となり、罪過の条件となり、罪過の法(教え)となり、罪過の業となる。

だから、菩薩は外道である悪人、さらに二乗である悪人が、仏法の中において法でないものや律でないものを説いているのを聞いたならば、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化して、大乗の善なる信心を生じさせなさい。

それなのに、菩薩がかえって更に自ら仏法の中における罪過を説いたならば、これは菩薩としては教団追放に値する罪なのである。

これは、釈尊が「仏の子」すなわち仏弟子に仰った言葉です。

釈尊は、出家者・在家者を問わず、仏弟子が他の人の罪過を、自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることは、

それはその行為が、新たな罪過の原因となり条件となり、罪過となる教えとなり、罪過となる行為になるのでしてはいけない。

そのように禁じておられます。


つまり仏教者は、他の人に

「地獄に堕ちるわよ!」

と言ってはいけないのです。

それはなぜでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得が仏教の業報思想ですが、現在行った行為の果報が、必ず来世に得られるものであるかどうかは、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないし、その行為が、本当に地獄に堕ちるような果報をもたらすものであるかどうかも、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないからです。

それなのに、他の人に「地獄に堕ちるわよ!」と言って、その人が地獄に堕ちることがなかったらどうなるでしょうか?

そうです。

「地獄に堕ちるわよ!」と言った人こそが、妄語の罪を犯し、その罪過をうけなければならなくなるのです。

だから釈尊は、仏弟子が、他の人の罪過を自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることを禁じられたのです。

仏弟子が、罪過を犯した人に対する時は、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化し、大乗の善なる信心を生じさせるように、ひたすら導いていかなければならないのです。

それでは多くの仏典で、地獄や地獄行きの業が説かれているのはなぜでしょうか?

それは、釈尊が三明・六神通(※)という仏智でもって、どのような悪業を作った人が地獄に行くかを知り、そのような悪業を犯さないように、仏弟子逹に教えてくださっているからなのです。


一方、私達は三明・六神通からはほど遠い罪悪生死の凡夫です。

その私達が、罪業とその業果を論じる場合は、釈尊が、三明・六神通でご覧になったものをお説きになった経典に基き、「釈尊が『こういう業にはこういう果報がある』と仰っていた」という形でしか論じることはできないのです。


三明六神通を獲得してもいないのにも関わらず、凡夫のはからいで、

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

と言う人は、仏教徒でも仏弟子ではありません。



親鸞会教義の相対化・30

>これは私あてではないが真宗の同行として納得できない。

 私の言葉足らずで、納得していだけなかったのではないかと思います。
 若干でありますが、補足説明をさせて頂きます。


>親鸞会は(一切衆生)必墮無間だけしか言わんのでおかしいのです。
>必墮無間と叱りつける人が仏弟子ではないとは私は思わない。
>(「一切衆生必墮無間」という言葉や概念はおかしいでしょう。)

Nobodyさんの仰りたいこと、よくわかっているつもりです。

 創造主である神の、絶対的な「神の律法」が人間の倫理を支えている、キリスト教などを代表するセム系一神教に対して、仏教では、「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」の業思想=「因果の道理」が人間の倫理を支えているわけですから、人間のどのような行為が原因になって、どのような結果を受けることになるのか、それを説かなければ、仏弟子は倫理を説くことができないことになります。


そのために、仏教では古来より、

★過去世でどのような行為をした人が、現世でどのような果報を受けたのか?
★現世でどのような行為をした人が、来世でどのような果報を受けるのか?

 これを、釈尊が仏智でもってご覧になったことをお話しになった話を経典や律典から抜粋して、業報の実例集、業報説話集と言える、“アヴァダーナ文献”というものが編纂されたのです。
 これに基づいて仏弟子逹は、釈尊の言葉に基づき、どのような業因によって、いかなる果報を受けるかを話していったのです。

したがってNobodyさんの以下の言葉は、

>理解した上で、他の人に必墮無間と叱りつけることが
>あってもよいのではないのかな。

正確には、

==========================
仏弟子は、三明六神通を獲得した仏の言葉に基づいて、
必墮無間の人を「必墮無間」と叱りつけなければならない。
==========================

ということになると思います。

 蓮如上人に関しては、恐らく上記の範囲内での発言であり、「一切衆生必墮無間」という経典にない言葉を捏造したわけではありませんし、kkhate(=kkk)さんのように、「私の後生は必定地獄らしい」という自分の問題を、根拠もなく「全ての人」に一方的に当てはめ、「そうだろうなあ」と仰っているわけではないので、仏弟子であると言えます。


 最後に、“アヴァダーナ文献”の代表的なものである“ディヴィヤ・アヴァダーナ”が、この度、世界で初めて全訳されましたので紹介させて頂きます。

平岡聡『ブッダが謎解く三世の物語』上下(大蔵出版)

 これなどを読んで頂いて、釈尊がお説きになった業報の実例に基づいて、必墮無間の人に対して「必墮無間」と叱りつけるならば、何の問題もありません。

 凡夫のはからいで、仏弟子にあるまじき行為をすることもなくなります。




強い放射線の中でしか生きられないガミラス星人
がその「文化」を地球人に押しつけて、
地球人に「放射線は必要だよね!」と言うのはおかしいでしょ?(苦笑)

限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」を、
議論の前提にするなんてのは全くもって不当ですわ(苦笑)。


>分かってない
 ↑
特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
まあ納得ですけどね(笑)。

ツッコミ!【第6回】かくて判明した根本的相異点

第6回がアップされました。
 ↓↓↓
【第6回】かくて判明した根本的相異点
http://shinjin.info/2008/08/250830141.html

予想はできてましたが、悪質な論点スライド&問題隠蔽ですね(苦笑)。

その間、約十ヵ月、メール交換120通余、明らかになったことは種々あるが、田中氏とチューリップ企画の見解に根本的な相異点が判明したことが何よりの収穫であったと思われる。それは肝心の『弥陀の本願』と『本願成就文』についての見解が、全く異るところにあったのである。



「田中氏にチューリップ企画のアニメの問題を指摘されたけど、
論点スライド&問題隠蔽する糸口が見つかった
のが何よりの収穫であったと思われる。」

と書くべきなんじゃないですかね~(苦笑)。

チューリップ企画の『本願成就文』は、『本願文』のすべての解説である、という領解に対して、田中氏は全く異なっていた。
『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではないというのが田中氏の見解であった。



「『本願成就文』は、『本願文』のすべての解説である」とチューリップ企画が考えるのは勝手だけど、
田中さんは「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という位置づけにはしてないんですけどね~(苦笑)。

そういう枠組みに田中さんを当てはめて、ぐちゃぐちゃ攻撃するつもりなんだろうけど、
まともに文章を読んでる人には通容せ~へんし(苦笑)。

以下、チューリップ企画の印象操作を破折しま~す♪


◆平成20年3月24日
本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

これがどうして、「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」になるねん(苦笑)。

>その肝心の「信楽を獲る」ことが、「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(正信偈)と、これ以上難しいことはないと、釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も教えられている文証は、すでに挙げてある通りです。そんな「信楽」が、どうして獲られるのでしょうか。「本願文」で示して下さい。

上記の質問は、2月2日に、以下のように返答済みです。

>>「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
>> だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

>当方は幾度も、我々に「信楽が獲られる」のは、「本願文」では「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってであり、「本願成就文」では「名号」の「破闇満願」の働きであり、親鸞聖人は、それを「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」で詳説されていることを繰り返し述べてきたことは、過去のメールを見れば明白です。

貴方の出された根拠は、「若不生者」が「信楽が獲られる」という意味となるという根拠にならないことは、すでに論証してきた通りです。

しかし、今は、双方の主張を確認する作業をしているわけですから、その妥当性を議論するのは、後まわしでしたね。

上記の文章では、どの部分が主張で、どの根拠が対応しているのか判りません。明確にして頂きたく思います。

>無論、弥陀の十八願の「若不生者不取正覚」の約束が「誠だった」と「仏願の生起本末に疑心あることなし」となるのは、「信楽をえた時」ですよ。

質問をすり替えないで頂きたく思います。

これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?

異論がなければ、上記の意味だと判断します。

>ところが貴方は今度の返信でも、『「即得往生住不退転」は不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです』と仰った。
>それでは「本願成就文」は「弥陀の本願」の開闡ではないのですか。お尋ね致します。

貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。

そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
その点、貴方の主張を確認いたします。

あと「開闡」を、どのような意味で使っておられますか?
一般公開しているのですから、現代語で質問して頂くようお願いします。

>弥陀は「極楽浄土に生まれさせる」ために、難中之難無過斯の「信楽に生まれさせる」ことに、「若不生者」と「正覚」を懸けられているのではありませんか。
>その「若不生者不取正覚」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』でしょう。だから親鸞聖人は『本願成就文』を「一実・円満の真教、真宗これなり」と言われているのです。

本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

>親鸞聖人の何処に「若不生者は、極楽に生まれることだけ」という教えがありますか、あれば根拠を教えて下さい。

すでに提示してあります文章は、すべて上記の根拠です。

親鸞聖人が「若不生者」を説明された文章は、すべて「極楽往生」の意味で教えられています。それを、不体失往生で教えられた文章は、一つもないことは、貴方も認められた通りです。

極楽に生まれる以外の意味があるのなら、「極楽に生まれるという意味もある」と書かれるはずでしょう。

貴方は、部下にボールペンを買いに行かせるときに、「ボールペンだけ買ってこい」と言われるのですか?

貴方の会社では、「ボールペンを買ってこい」と言われたら、肉まんも買ってよいという意味になるのですか?

親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されているということは、それ以外の意味ではないのは明白です。



◆平成20年4月2日のメール
もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。

これも、チューリップ企画が田中さんにボコボコにされて抗議された部分ですが、
「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という主張を田中さんがしたことにはなりませんやん(苦笑)。


>『本願成就文』で開顕されているのは、本願文の「至心信楽欲生我国」の八字だけのことですか。それとも『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ですか。お尋ね致します。
 
 
 もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。
 
 貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?
 異論がなければ、そのように受け取ります。
 
 
 
>また貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と仰っていますが、その文証を示して下さい。
>今まで貴方の挙げられた文証は、『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない』という根拠にはならないことは、先便で縷々明らかにした通りです。
 
 
 すみませんが、どこの部分のことでしょうか?
 そのような文章は、どこにも見当たりませんでした。
 
 前回のメールで、極楽浄土に生まれる以外の意味がないことは、誰にでも分かるように明らかにしました。それに対する、何の反論もありません。
 
 すでに貴方は、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない』と認められたのですから、今さら何を仰るのかと思います。
 
 
 
>また返答がないと言われているが、当方は「若不生者不取正覚」の「生」に不体失往生の意味もあることを、「本願文」では「若不生者不取正覚」にあり、「本願成就文」では「名号」の働き「即得往生住不退転」で示し、だから『願成就』には、死後のことは説かれてないことや、その外「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」など、親鸞聖人のお言葉ばかりを提示してきたのに、なにを今更おっしゃるのだと言いたいことです。
 
 
 私は3月16日に以下のように書きました。
 
>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>> 
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>> 
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。
 
 
 これに対して、「有る」とも「無い」とも、まったく返答がありませんでした。
 つまり、これは「無い」という返答です。
 こんな最近のやりとりを、もう忘れられたのですか?
 
 もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
 議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
 仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?
 
 
 
>だが貴方は、それらの根拠は「若不生者」が「信楽を獲られる」という意味となるという根拠にならないと、論証してきたと仰った。いつ何処で、どのように論証されたのでしょうか。大切なところですから愚鈍な者にも分かるように、もう一度お手間かけたいと思います。論証して下さい。
 
 
 何回でも論証いたしましょう。
 
 しかし、貴方も同意された通り、今は双方の主張を確認する作業を優先して進めております。
 
 まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?
 
 貴方の主張が明らかになりましたら、一つ一つ、改めて論証いたしましょう。
 
 
 
>いまだに貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と主張されますが、
>「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証)
>「真に知らされた! いま弥勒菩薩と同格(信楽)になれたのは、弥陀の誓願不思議によってのほかはない。弥勒は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりが得られぬのに、私は死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」と、親鸞聖人は慶喜されていますが、「真に知んぬ」と知らされたのは、「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってではありませんか。これを弥陀の本願の現益というのでしょう。
 
 
 親鸞聖人が「まこと」と知らされた「本願」の内容は、まさに「私が死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」という内容です。
 
 つまり、これは、「若不生者不取正覚」によって、死ぬと同時に仏のさとりが得られるということであって、私の主張を裏付ける根拠です。
 
 
 
>「今生は、正定聚に生まれさせ」「死んでは、極楽に生まれさせる」のが、「若不生者」の誓いではありませんか。「死んで極楽に往生させる」ことのできるものが、なぜ「今生で往生させる」ことができないのか。「死んで極楽に生まれさせる」ことができるのなら、「今生で生まれさせる」ことができるのが当然でしょう。
> 
>「若不生者のちかい」によって、浄土へ生まれる(体失往生)は結果です。信楽に生まれる(不体失往生)という原因なくして、浄土往生という結果は絶対にないのです。
>「若不生者不取正覚」の本願力が、「信楽に生まれさせる」ことに懸かっていないという主張は、浄土往生の正因が「信楽」であると言う、親鸞聖人の「信心正因」の教えを否定することになるのです。
 
 
 「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?
 
 あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?
 
 
 
>> これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
>> 
>> 異論がなければ、上記の意味だと判断します。
 
 
 なお、上記については、異論がありませんでしたので、貴方の主張は、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」だと明確になりました。
 
 
 
>> 貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
>> 
>> そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
>> その点、貴方の主張を確認いたします。
 
 
 これも異論がありませんでしたので、貴方の主張では、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだということが明確になりました。



◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとは、どういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。

田中さんの文を変な所で分断して、ヘンテコなものに印象操作しようとする気持ちはよくわかりますが、
「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という主張を田中さんがしたことにはなりませんな~(苦笑)。


>(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
>   かれている処」がありますか。
 
 名号に、死後、極楽に生まれさせる働きがありますので、無関係ではありませんが、『本願成就文』そのものには、死後のことは説かれていないと考えて良いと思います。
 
 
 
>(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
>   の主張の文証を挙げて下さい。
 
 
「私の主張」は、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証は存在しない、という主張です。
 
 まず、私の主張をよく理解してください。
 
 それ以外のことを、私の主張だと思っておられるなら、上記が私の主張ですので、よくよく覚えておいて頂きたく思います。
 
 私が「若不生者」の「生」を「極楽往生のみ」と言っているのは、親鸞聖人が解釈されている文章が、「極楽浄土」しか見当たらないという意味です。
 
 ですから、教行信証のどこにも、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証が存在しないということが、私の主張を裏付ける文証です。
 
 
 
>(3)先便で貴方は、『「本願成就文」を、
>   「本願文」三十六文字の総てを解説さ
>   れたものという考えには反対です』
>   と仰った。
>   それでは『本願成就文』は、「本願
>   文」のどこまでの解説で、「本願文」の
>   どの部分が解説に入らないのか、とお
>   尋ねしています。
 
 
 何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
 
 本願成就文は、信心をえるとはどういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対だという意味です。




◆平成20年5月25日のメール
親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

都合が悪いから、田中さんが親鸞聖人の言葉を根拠に挙げてチューリップ企画の誤りを論証している部分は、
しっかり削除してることはよくわかりましたが、
「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という主張を田中さんがしたことにはなりませんな~(苦笑)。


 そもそも貴社の誤りは、不体失往生の根拠として、「若不生者不取正覚」の八字を使ったことでした。
 
 親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは本願成就文の「即得往生住不退転」の八字です。
 
 ビデオの製作者は、本願成就文も、本願文も同じようなものだから、どちらでも良いだろうと思われたのかも知れません。
 
 もし私が製作者だったら、迷わず「即得往生住不退転」を使ったでしょう。
 
 
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠として、「若不生者」ではなく、「即得往生」を使われた文章を紹介します。
 
 
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。→唯信抄文意
 
 即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。→愚禿抄
 
 
 
 当然ながら、体失不体失往生の根拠とされる、口伝抄に描かれている法然上人のお言葉も「即得往生住不退転」の八字を出されており、「若不生者不取正覚」はどこにもありません。
 
 親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
 
 ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。
 
 
 
 確認事項に答えるまでもなく、貴方の返答から、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ということが、自ずと明らかになりました。
 
 しかし、仮に、「若不生者不取正覚」に不体失往生の意味があると誤解していたとしても、親鸞聖人の説き方を理解されていれば、迷わず、「即得往生住不退転」の八字をビデオで描いていたでしょう。
 
 親鸞聖人が不体失往生を論じられる時は、常に「即得往生住不退転」を根拠とされたのですから。
 
 
 
 この場面で、「即得往生住不退転」ではなく、「若不生者不取正覚」を思いついたというのは、ビデオ製作者の勉強不足であって、貴方の責任では無かったのかも知れません。
 
 貴方は、本願成就文の重要性は理解されているようですので、ビデオ製作者に伝えておいていただきたく思います。



◆平成20年6月4日のメール
私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。
◆平成20年年6月4日のメール
「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総べてを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。

前回のツッコミで、田中さんの主張をバラシテ分断して配置することに何らかの作為があるだろうと予測しましたが、予想がピッタリ当たりましたね(苦笑)。

「というわけで、チューリップ企画は間違いである」という部分を恣意的に削除したのはわかりましたが、
この文で、「『本願成就文』は『本願文』の一部の解説であって、すべての解説ではない」という主張を田中さんがしたことにはなりませんな~(苦笑)。


前回のメールで、私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。
 
 貴方の返信は、私の主張を全面的に支持する内容でしたので、ようやく結論が出たものと思います。
 
 
 
 貴方も認められたように、浄土真宗で「至極」と言われる教えは本願成就文しかありません。
 
 それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです。
 
 だから親鸞聖人は、不体失往生を語るとき、常に「本願成就文」を根拠とされ、「本願文」を根拠とされたことはありませんでした。
 
 
 
 ビデオ製作者の方は、その浄土真宗の常識を知らず、「若不生者不取正覚」を不体失往生の根拠としてしまうという誤りを犯されました。
 
 浄土宗の開祖を間違えられるような方ですから、不勉強だったのかも知れません。ビデオ製作のプロでも、仏教のプロとは限りませんから仕方ないことだと思います。
 
 貴方から、本願成就文の重要性を、そのビデオ担当者に、よくよくお伝え頂きたく思います。
 
 
 
 親鸞聖人は、「若不生者不取正覚」を当益として解釈されています。これは貴方も認められたことです。
 
 その、「若不生者不取正覚」に誓われた当益が、本願成就文のどこに説かれているかという御質問ですが、本願成就文に死後のこと(当益)が説かれているかという御質問には、4月17日に既にお答え致しました。
 
 
 
「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総てを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
 
 ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。
 
 
 
 いずれにしましても、私のお尋ねしたかったことには結論が出ましたので、この件は終わりにさせて頂きたいと思います。




というわけで、

×田中氏の主張は、一貫して『本願成就文』は『本願文』の一部「至心信楽欲生我国」の釈尊の解説であって、『本願文』すべての解説ではない、という理解であることが明白である。

田中氏の主張を
「一貫して『本願成就文』は『本願文』の一部「至心信楽欲生我国」の釈尊の解説であって、『本願文』すべての解説ではない、という理解である」
ということにして
教義上の誤りを隠蔽することにチューリップ企画の意図があることは、明白である。

ですね(苦笑)。

ホンマニいい加減にせんと、温厚な僕ちゃんでもしまいに怒りまっせ(苦笑)。

「田中氏のメール」→「田中氏の問題のメール」

チ●ーリップ企画の記事を見たら、微妙に表現がかわってましたね~。

【第5回】田中氏の主張メール(2)
http://shinjin.info/2008/08/180830140.html

(中略)

以上、田中氏の問題のメールを挙げてみた。




やっぱこれって、

>(株)チューリップ企画 サービス課 山田さんへ

またまたツッコミ入れてみましたので、ぜひ読んでください。

 ↓↓↓
ツッコミ!【第5回】田中氏の主張メール(2)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-33.html

×以上、田中氏のメールである。

○以上、チューリップ企画が都合のいいように操作した、田中氏のメールである。

ですよね??

言葉は正確に使いましょうね~(笑)。

投稿 苦笑(怒るでしかし!) | 2008年8月18日 (月) 22時43分


http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/2008_72_2243_509e.html


この僕の文を読んで、変更したということですかね~。
僕の文を読んでくれているなら有難いことですけど、
せっかく変更するなら、言葉は正確に使ってほしいものです(苦笑)。


×以上、田中氏の問題のメールを挙げてみた。

以上、田中氏がチューリップ企画の問題を指摘したメールから、
都合の悪い部分を削除したものを挙げてみた。


こういうことでしょ。

ね!山田さん!(苦笑)

ツッコミ!【第5回】田中氏の主張メール(2)

第5回がアップされました。
 ↓↓↓
【第5回】田中氏の主張メール(2)
http://shinjin.info/2008/08/180830140.html

・・・。

まあ、あいかわらずですね(苦笑)。

正直、いい加減めんどくさいんだけど、
放置しておくといろいろ害があるんで、
ボコボコいきまっせ(笑)。


◆平成20年4月2日のメール
もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。

やっぱ、田中さんにボコボコにされた部分は削除ですな(苦笑)。
というか、あんたは田中さんに抗議されてるんでっせ(苦笑)。


>『本願成就文』で開顕されているのは、本願文の「至心信楽欲生我国」の八字だけのことですか。それとも『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ですか。お尋ね致します。
 
 
 もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。
 
 貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?
 異論がなければ、そのように受け取ります。
 
 
 
>また貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と仰っていますが、その文証を示して下さい。
>今まで貴方の挙げられた文証は、『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない』という根拠にはならないことは、先便で縷々明らかにした通りです。
 
 
 すみませんが、どこの部分のことでしょうか?
 そのような文章は、どこにも見当たりませんでした。
 
 前回のメールで、極楽浄土に生まれる以外の意味がないことは、誰にでも分かるように明らかにしました。それに対する、何の反論もありません。
 
 すでに貴方は、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない』と認められたのですから、今さら何を仰るのかと思います。
 
 
 
>また返答がないと言われているが、当方は「若不生者不取正覚」の「生」に不体失往生の意味もあることを、「本願文」では「若不生者不取正覚」にあり、「本願成就文」では「名号」の働き「即得往生住不退転」で示し、だから『願成就』には、死後のことは説かれてないことや、その外「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」など、親鸞聖人のお言葉ばかりを提示してきたのに、なにを今更おっしゃるのだと言いたいことです。
 
 
 私は3月16日に以下のように書きました。
 
>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>> 
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>> 
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。
 
 
 これに対して、「有る」とも「無い」とも、まったく返答がありませんでした。
 つまり、これは「無い」という返答です。
 こんな最近のやりとりを、もう忘れられたのですか?
 
 もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
 議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
 仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?
 
 
 
>だが貴方は、それらの根拠は「若不生者」が「信楽を獲られる」という意味となるという根拠にならないと、論証してきたと仰った。いつ何処で、どのように論証されたのでしょうか。大切なところですから愚鈍な者にも分かるように、もう一度お手間かけたいと思います。論証して下さい。
 
 
 何回でも論証いたしましょう。
 
 しかし、貴方も同意された通り、今は双方の主張を確認する作業を優先して進めております。
 
 まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?
 
 貴方の主張が明らかになりましたら、一つ一つ、改めて論証いたしましょう。
 
 
 
>いまだに貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と主張されますが、
>「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証)
>「真に知らされた! いま弥勒菩薩と同格(信楽)になれたのは、弥陀の誓願不思議によってのほかはない。弥勒は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりが得られぬのに、私は死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」と、親鸞聖人は慶喜されていますが、「真に知んぬ」と知らされたのは、「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってではありませんか。これを弥陀の本願の現益というのでしょう。
 
 
 親鸞聖人が「まこと」と知らされた「本願」の内容は、まさに「私が死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」という内容です。
 
 つまり、これは、「若不生者不取正覚」によって、死ぬと同時に仏のさとりが得られるということであって、私の主張を裏付ける根拠です。
 
 
 
>「今生は、正定聚に生まれさせ」「死んでは、極楽に生まれさせる」のが、「若不生者」の誓いではありませんか。「死んで極楽に往生させる」ことのできるものが、なぜ「今生で往生させる」ことができないのか。「死んで極楽に生まれさせる」ことができるのなら、「今生で生まれさせる」ことができるのが当然でしょう。
> 
>「若不生者のちかい」によって、浄土へ生まれる(体失往生)は結果です。信楽に生まれる(不体失往生)という原因なくして、浄土往生という結果は絶対にないのです。
>「若不生者不取正覚」の本願力が、「信楽に生まれさせる」ことに懸かっていないという主張は、浄土往生の正因が「信楽」であると言う、親鸞聖人の「信心正因」の教えを否定することになるのです。
 
 
 「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?
 
 あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?
 
 
 
>> これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
>> 
>> 異論がなければ、上記の意味だと判断します。
 
 
 なお、上記については、異論がありませんでしたので、貴方の主張は、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」だと明確になりました。
 
 
 
>> 貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
>> 
>> そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
>> その点、貴方の主張を確認いたします。
 
 
 これも異論がありませんでしたので、貴方の主張では、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだということが明確になりました。




◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
◆平成20年4月17日のメール
教行信証のどこにも、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証が存在しないということが、私の主張を裏付ける文証です。
◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとはどういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。
◆平成20年4月17日のメール
『本願成就文』そのものには、死後のことは説かれていないと考えて良いと思います。
◆平成20年4月17日のメール
名号に、死後、極楽に生まれさせる働きがあります。

田中さんの文を変な所で分断するのやめてくれません(苦笑)。
田中さんの発言をヘンテコなものに印象操作するつもりやろ!こら!(苦笑)


>(1)『本願成就文』の中に「死後のことが説
>   かれている処」がありますか。
 
 名号に、死後、極楽に生まれさせる働きがありますので、無関係ではありませんが、『本願成就文』そのものには、死後のことは説かれていないと考えて良いと思います。
 
 
 
>(2)親鸞聖人の主著『教行信証』で、貴方
>   の主張の文証を挙げて下さい。
 
 
「私の主張」は、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証は存在しない、という主張です。
 
 まず、私の主張をよく理解してください。
 
 それ以外のことを、私の主張だと思っておられるなら、上記が私の主張ですので、よくよく覚えておいて頂きたく思います。
 
 私が「若不生者」の「生」を「極楽往生のみ」と言っているのは、親鸞聖人が解釈されている文章が、「極楽浄土」しか見当たらないという意味です。
 
 ですから、教行信証のどこにも、「若不生者」の「生」に「不体失往生」の意味もあると仰っている文証が存在しないということが、私の主張を裏付ける文証です。
 
 
 
>(3)先便で貴方は、『「本願成就文」を、
>   「本願文」三十六文字の総てを解説さ
>   れたものという考えには反対です』
>   と仰った。
>   それでは『本願成就文』は、「本願
>   文」のどこまでの解説で、「本願文」の
>   どの部分が解説に入らないのか、とお
>   尋ねしています。
 
 
 何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。
 
 本願成就文は、信心をえるとはどういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対だという意味です。



というか、あらためて無視された質問を列挙した所は、
最初からなかったことにしてますな(苦笑)。


>貴方の質問には、総てお答えしてきたはずです。なのに、何一つ質問に答えず無視していると貴方が仰るのは極めて心外です。どんな質問に答えていないのでしょうか、箇条書きにしてお知らせ下さい。重ねてお答え致します。
 
 
 本気で仰っておられるのでしょうか?
 殆どの質問を無視しておられながら、本当に自覚が無いのでしょうか?
 
 ついでですが、「何一つ」とは書いていません。
「メンタルテストです」という返答を頂いたことは、よく覚えています。
 
 私の書いたことを勝手に書き変えることも、何度も抗議しましたが、それも無視されているようです。
 
 
 
 貴方が箇条書きにせよと仰いますから、今まで無視された質問を列記しておきます。
 
 これは、直後の返信において無視されたものを列記しましたので、その後、催促して返答を頂いたものも、一部ですが含まれています。
 
 日付も明記してありますから、詳しい質問内容は、過去のメールで確認して頂ければと思います。
 
 これには、きちんと返答したと言われるなら、返信メールの何行目に書かれているか、明記してください。
 
 
 
 重複する質問もありますし、あまりに数が多いですから、1つずつ、お尋ねしたいと思います。

(中略)

※以下、過去のメールの引用
 
(11月21日)
すみませんが、このビデオは素人の集まりで作ったものなのでしょうか?私には、そのように思えませんが。
 
 
(11月24日)
1.不体失往生とは、至心信楽を「えた」ことである。
2.「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということである。
 上記2点については、異論が無いということで宜しいでしょうか?
 
 
(11月27日)
 「若不生者」の「生」とは、死んで極楽に「生まれる」ということに異論は無いということで宜しいでしょうか?
 
 
(11月28日)
「前提とされても結構です」と仰るのは、貴方としては認められないという意味にも取れますよ。なぜ「異論はありません」と書けないのですか?
 
 
(12月6日)
 つまり、貴社の見解は「若不生者の『生』には、生きている時に『信楽をえる』という意味もある」ということでしょうか?
 
 
(12月10日)
「死んで極楽に生まれることのみ」ということに異論があるということは、それ以外の解釈があるという御意見ですが、どんな解釈でしょうか?
 
 
(12月15日)
 私は、貴社の解説書は、御指摘した部分以外は、正しく記述されていると思っておりましたので、先便のメールのように書きましたが、実は何の根拠もなく書かれていたのでしょうか?
 
 
(12月15日)
 一度も尋ねられた覚えはありませんが、私は「信楽をえた」身ではありません。山田様は、いかがですか?私はお答えしましたから、山田様もお答えください。
 
 
(12月20日)
 しかし、私は、貴社から「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、という根拠を、いただいておりません。親鸞聖人の御言葉でお示しください。
 
 
 
(12月21日)
>次に、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のこと、と言われている「摂取不捨したもう」とは、「無善造悪の凡夫」の、どこが、どう変わるのか、何も変わらないのでしょうか、お尋ね致します。
 
 これは、「信楽をえた」山田様が、「信楽をえていない」私に教授しなければならない内容と思います。どうぞ御解説ください。
 
 
(12月21日)
「若不生者」は、「死んで極楽に生まれるということだけのことである」という記述が無ければ、「死んで極楽に生まれるという以外の解釈がある」という意味になるのですか?
 
 親鸞聖人が「強盗をしてはならない」と書かれていなければ、強盗をしても構わない、という意味になるのですか?
 
「リンゴ」と書かれたダンボールを見て、「リンゴだけ」と書いていないから、ミカンも入っていると考えるのでしょうか?
 
 
(12月21日)
>「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、親鸞聖人のお言葉を、まだいただいておりません、と田中様は言われていますが、既に、提示してはいるのですが、本願を疑っていられる方には届かないのかもしれません。しかし、その内、必ず分かって頂けるものと強く期待しています。
 
 再度、貴社からのメールを読み直しましたが、どこにも見当たりませんでした。申し訳ありませんが、親鸞聖人のお言葉の部分だけを、再度、ご提示ください。
 
 
(12月24日)
 貴社からのメールは、私の書いたものを全く無視しておられるから、返信する気が失せると、再三、申し上げていますが、わざと無視しておられるのですか?
 
 
(12月24日)
 親鸞聖人は、信楽をえた人が、極楽浄土に生まれることが「若不生者」の「生」だと教えられています。「若不生者」の「生」に、それ以外の意味があると主張されたいなら、その根拠をお示しください。
 
 
(12月24日)
 再三再四、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」以外に解釈された根拠をお尋ねしているのに、無視ではないということは、「根拠が無いので答えられない」ということですね?
 
 
(12月26日)
>次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。
 
 つまり、上記のような疑問を起こされている山田様の心を、自力の心と言うのですね。
 
 
(12月26日)
>『「若不生者」の「生」は、「死んで極楽に生まれる」ことだけだと思っている心』も、みな「自力の心」というのですよ。分からなければ最も大事なことですから何度でも答えましょう。
 
 このようなことを親鸞聖人が、どこに教えられているでしょうか?
 根拠を示してください。
 
 
(12月27日)
>「至心信楽の誓」とは、「雑行雑修自力の心」を切り捨てて、「至心信楽」に生まれさせることができなければ、この弥陀は正覚を取らぬ、という誓です。
 
 根拠の無い、独自の解釈ですね。そんなことを、親鸞聖人がどこに書かれていますか?
 
 
(1月8日)
 もし、「極楽浄土に生まれる」という意味だけしかない、ということに異論があるのであれば、親鸞聖人の御言葉を示してください。
 
 
(1月14日)
「若不生者の念力」という言葉は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?貴方の作った言葉でしょうか?
 
 
(1月14日)
「死んで極楽に生まれる」ことができるのは、「信楽をえた人だけ」でしょうか?
 それとも、「信楽をえていない人も含めて全員」でしょうか?
 
 
(1月17日)
>「若不生者の念力」によってのみ「信楽」が「生まれ」、「信楽」が「生まれた人のみ」が「死んで極楽に生まれる」ことが出来る。これが親鸞聖人の教えではありませんか。
 
 そんなことを、親鸞聖人が、どこに書かれていますか?
 
 
(1月19日)
あなたは、必然的に極楽に生まれられるから、正覚をかける必要は無いと言いたいのですか?
 
 
(1月19日)
 弥陀が「信楽に生まれられる」と正覚をかけておられるなら、「必然的に信楽に生まれられる」ことになりますが、必然的に信楽になれるのに、なぜ「獲ること難し」を言われているのですか?
 
 
(1月20日)
 私が、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違うと、いつ書きましたか?
 貴方の作った言葉の意味など、私が知るはずもありません。
 ですから、同じとも、違うとも書いた覚えはありませんが、何月何日のメールのことか、お示しください。
 
 
(1月22日)
 貴方の主張は、「阿弥陀仏が、必ず極楽に生まれさせると誓われなくても、信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」ということですか?
 
 
(1月22日)
『その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。』
 上記は、貴方の言葉ですが、何に全力を尽くすのですか?
 
 
(1月22日) 
「阿弥陀仏が、必ず信楽に生まれさせると誓っておられるから、必然的に信楽になれる」と主張されているのは、貴方ではありませんか?
 
 必然的に信楽になれるのなら、なぜ「難し」と言われるのでしょう。
 
 
(1月22日)
 つまり、「若不生者」は「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」という意味だと、認めたということですか?
 
 
(1月22日)
 私が、「弥陀の本願力」と「若不生者の念力」とは違う、と言ったという根拠を、早く示してください。
 
 
(1月25日)
親鸞聖人が、「若不生者」の「生」は「信楽をえる」ことだと言われた文章を示してください。
 
 
(1月29日)
 貴方は「信楽をえた」と自称されますが、仮にそうだとすれば、信楽を得られるまでは、弥陀の本願を疑っていたはずです。貴方は、信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従っていなかったのでしょうか?
 
(1月29日)
 信楽を得られるまで、親鸞聖人のお言葉に従う必要がないのなら、誰に対して、親鸞聖人は教えを説かれたのでしょうか?
 
 
(1月29日)
 親鸞聖人の書かれた文章に対して、「間違った文法も、へちまもあるはずない」と仰るのですか?

(1月29日)
貴方が、「若不生者の念力」という単語を知っておられるなら、どの聖教に書かれている言葉か、教えて下さい。

(2月2日)
「若不生者」の「生まれる」の解釈について、「親鸞聖人のお言葉に従う」と書いたのが、いつの間に「親鸞聖人の教えに信順する」に変わったのですか?
 
 
(2月2日)
 つまり、貴方の意見だと、信楽をえた人以外は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と言ってはならないということですね。
 
 
(2月8日)
 その前に、貴方の立場を確認させて頂きますが、貴方は「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだという主張で宜しいですね?
 
 
(2月8日)
>「本願文」に「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だとハッキリ誓われているではありませんか。
 どこにハッキリと誓われていますか?
 
 
(2月8日)
 私が、いつ『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と書いたでしょうか?
 
 
(2月8日)
 この文章を、どのように理解したら、『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』に、なるのでしょうか?
 
 
(2月8日)
「本願文での根拠」についても、わざわざ尋ねられる程ですから、根拠をお持ちのはずです。
 特に、私は「本願文での根拠」は知りませんので、あるなら教えて頂きたく思います。
 
 
(2月15日)
 貴方は、「親鸞聖人のお言葉に従う」と「親鸞聖人の教えに信順する」は違うという認識なのですね。
 
 
(2月15日)
 私の主張を、勝手に変更したことは認められたようですが、何の反省も、謝罪も無いのでしょうか?
 
 
(2月15日)
 親鸞聖人が、どこに「我々が不体失往生できるのも、現生に不退転の身になれるのも、平生に業事成弁できるのも」、「若不生者という力」であると記述されているでしょうか?
 
 
(2月15日)
 私が『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だと思います』と何月何日に書いたか、根拠を挙げて頂きたく思います。
 
 
(2月15日)
 また、「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、貴方の返答を頂いておりません。
  
 なぜ、無視し続けられるのですか?
 貴方が作った質問ですよ?
 分からないのなら、「分かりません」と答えるべきだと思います。
 
 
(3月8日)
このように、相手の主張を摩り替えるやり方にも、何回も抗議してきたと思いますが、改善するお気持ちはないのでしょうか?
 
 
(3月8日)
『「若不生者不取正覚」の「生」の意味は、』という主語を、何のために削除されたのでしょうか。この部分があると、何か都合が悪いのでしょうか?
 
 
(3月8日)
「若不生者不取正覚」の「生」に、「信楽」に「生まれさせる」という意味があるのですか?
 
 
(3月8日)
「若不生者不取正覚」の「生」は、「極楽浄土」であって、「極楽浄土」に生まれさせるためには、信楽をえる必要があるから、結果的に、信楽にも生まれられると仰いたいのですか?
 
 
(3月8日)
『「若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽をえる」という意味だ』という意味の内容を明言された親鸞聖人のお言葉は…

(3月16日)
 私は2月15日に、「若不生者不取正覚という力」と書き換えることを、明確に否定しました(以下に引用)。にも関わらず、何度も「若不生者不取正覚という力」と、こだわるのは何故でしょう。私の文章を、読んでおられないのでしょうか?
 
 
(3月16日)
「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていないから、「若不生者」は生きている間だと言われたいのでしょうか?
 だとすれば、「若不生者」の「生」には、死後のことは一切含まれないということになりますが、そういう主張ですか?
 
 
(3月16日)
「若不生者」は「信楽に生まれさせる」という意味だと、どこにも説かれていないからです。あったらお示し下さい。
 
 
(3月16日)
 弥陀の十八願の約束が果されるのは、「信楽をえた時」ですか?「極楽往生した時」ですか?
 
 
(3月16日)
 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
 有るのか、無いのかだけで結構です。
 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
 
 
(3月24日)
 上記の文章では、どの部分が主張で、どの根拠が対応しているのか判りません。明確にして頂きたく思います。
 
 
(3月24日)
 これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
 
 
(3月24日)
 貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
 
 
(3月24日)
 あと「開闡」を、どのような意味で使っておられますか?
 
 
(3月24日)
 貴方は、部下にボールペンを買いに行かせるときに、「ボールペンだけ買ってこい」と言われるのですか?
 貴方の会社では、「ボールペンを買ってこい」と言われたら、肉まんも買ってよいという意味になるのですか?
 
 
(4月2日)
 貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?
 
 
(4月2日)
 もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
 議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
 仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?
 
 
(4月2日)
 まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?
 
 
(4月2日)
 「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?
 
 
(4月2日)
 あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?



◆平成20年5月25日のメール
親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

田中さんが親鸞聖人の言葉を根拠に挙げて論証している部分は、
しっかり削除してますね(苦笑)。
よほど都合が悪いんでしょうね~(苦笑)。


 そもそも貴社の誤りは、不体失往生の根拠として、「若不生者不取正覚」の八字を使ったことでした。
 
 親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは本願成就文の「即得往生住不退転」の八字です。
 
 ビデオの製作者は、本願成就文も、本願文も同じようなものだから、どちらでも良いだろうと思われたのかも知れません。
 
 もし私が製作者だったら、迷わず「即得往生住不退転」を使ったでしょう。
 
 
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠として、「若不生者」ではなく、「即得往生」を使われた文章を紹介します。
 
 
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。→唯信抄文意
 
 即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。→愚禿抄
 
 
 
 当然ながら、体失不体失往生の根拠とされる、口伝抄に描かれている法然上人のお言葉も「即得往生住不退転」の八字を出されており、「若不生者不取正覚」はどこにもありません。
 
 親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
 
 ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。
 
 
 
 確認事項に答えるまでもなく、貴方の返答から、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ということが、自ずと明らかになりました。
 
 しかし、仮に、「若不生者不取正覚」に不体失往生の意味があると誤解していたとしても、親鸞聖人の説き方を理解されていれば、迷わず、「即得往生住不退転」の八字をビデオで描いていたでしょう。
 
 親鸞聖人が不体失往生を論じられる時は、常に「即得往生住不退転」を根拠とされたのですから。
 
 
 
 この場面で、「即得往生住不退転」ではなく、「若不生者不取正覚」を思いついたというのは、ビデオ製作者の勉強不足であって、貴方の責任では無かったのかも知れません。
 
 貴方は、本願成就文の重要性は理解されているようですので、ビデオ製作者に伝えておいていただきたく思います。




◆平成20年6月4日のメール
私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。
◆平成20年6月4日のメール
浄土真宗で「至極」と言われる教えは本願成就文しかありません。それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです。

「というわけで、チューリップ企画は間違いである」
と言われている部分は削除ですね(苦笑)


あと、チューリップ企画は、以下の文章を、
上記と離した場所(下から二番目)に配置していました。
田中さんは一つの論理展開として文章を書いているのに、
それをぶつ切りにしたものを「田中氏の主張」として挙げるのって、
何か作為があるとしか思えないんですけどね~(苦笑)。


◆平成20年6月4日のメール
「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総べてを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。

前回のメールで、私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。
 
 貴方の返信は、私の主張を全面的に支持する内容でしたので、ようやく結論が出たものと思います。
 
 
 
 貴方も認められたように、浄土真宗で「至極」と言われる教えは本願成就文しかありません。
 
 それは、本願成就文によらねば、不体失往生の教えを明らかにすることが出来ないからです。
 
 だから親鸞聖人は、不体失往生を語るとき、常に「本願成就文」を根拠とされ、「本願文」を根拠とされたことはありませんでした。
 
 
 
 ビデオ製作者の方は、その浄土真宗の常識を知らず、「若不生者不取正覚」を不体失往生の根拠としてしまうという誤りを犯されました。
 
 浄土宗の開祖を間違えられるような方ですから、不勉強だったのかも知れません。ビデオ製作のプロでも、仏教のプロとは限りませんから仕方ないことだと思います。
 
 貴方から、本願成就文の重要性を、そのビデオ担当者に、よくよくお伝え頂きたく思います。
 
 
 
 親鸞聖人は、「若不生者不取正覚」を当益として解釈されています。これは貴方も認められたことです。
 
 その、「若不生者不取正覚」に誓われた当益が、本願成就文のどこに説かれているかという御質問ですが、本願成就文に死後のこと(当益)が説かれているかという御質問には、4月17日に既にお答え致しました。
 
 
 
「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総てを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
 
 ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。
 
 
 
 いずれにしましても、私のお尋ねしたかったことには結論が出ましたので、この件は終わりにさせて頂きたいと思います。




◆平成20年6月18日のメール
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。
◆平成20年6月18日のメール
なお、口伝抄では、不体失往生の根拠として「至心信楽」が使われています。本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、この言葉と考えるべきでしょう。

田中さんに「すり替え」を見破られてボコボコにいかれた部分はカットですね(苦笑)。
結局根拠を挙げれなかった部分もカットですね(苦笑)。


★すり替えですか?
 
 
>「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と、貴方は仰った。
>では、「不体失往生」の根拠は「本願文」にはないのですか。親鸞聖人の教えは「本願文」に根拠はないのですか。
 
 
☆不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではない。
 
 これがどうして、
 
☆親鸞聖人の教えは「本願文」に根拠はない
 
 
 このように変わってしまうのでしょうか?
 
---------------------------------------------------------- 
★以下は、反論がありませんでしたので、認められたのですね?
 
 
>>「本願成就文」は「本願文」三十六文字の総てを解説されたものだという貴方の主張に基づけば、本願成就文にも死後のこと(当益)が説かれていなければなりません。
 
>> ところが、貴方は、本願成就文は「この世の救い」以外に説かれていないと断言されました。仰っていることが矛盾しています。
  
----------------------------------------------------------
★以下は、返答がありませんでしたので、根拠なしと判断します。
 
 
>> 次に、善慧房証空が、「念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていく」と説いていた根拠についてもお聞きしたく思いますが、仕事は忙しさを増すばかりで、今までのように長々と議論をするつもりはありません。
 
>> 根拠があるなら、その根拠をストレートに挙げてください、無いなら無いと答えて下さい。曖昧な返答や、質問を質問で返すような返答の場合は、「無い」という返答だと判断して、それ以上議論するつもりはありませんので、悪しからずご了承ください。
 
----------------------------------------------------------
★以下は本文
 
 
>「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と、貴方は仰った。
>では、「不体失往生」の根拠は「本願文」にはないのですか。親鸞聖人の教えは「本願文」に根拠はないのですか。
 
 
 これは私が貴方に、何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、質問しても、貴方が最後の最後まで返答を断固として拒絶し、無視し続けられた質問です。
 
 親鸞聖人が『即得往生住不退転』を不体失往生の根拠とされたことは、反論の余地がないでしょう。
 
 では、『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか?
 
 
 まず、「ある」「ない」の2字で答えて下さい。
 あるならば、その文章も挙げて下さい。
 
 
 なお、口伝抄では、不体失往生の根拠として「至心信楽」が使われています。本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、この言葉と考えるべきでしょう。
 
 
 
>一体、『本願文』の「若不生者不取正覚」と、『本願成就文』の「即得往生住不退転」とは、どんな関係ですか、違った意味ですか。お尋ね致します。
 
 
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。
 
 貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。



◆平成20年6月20日のメール
不体失往生の根拠は「即得往生住不退転」と答えるのが適当ですが、あえて「本願文」で挙げよと言われた場合、「至心信楽」以外の言葉は見当たりません。

例によって、田中さんが『口伝抄』を根拠に発言していることはカットですね(苦笑)。

>この度、貴方は、
>『親鸞聖人の不体失往生の根拠を「本願文」で、あえて挙げよと言われるのであれば、口伝抄に、不体失往生の根拠として「至心信楽」が使われています。このお言葉と考えるべきでしょう』
>と答えられた。口伝抄の根拠を示して下さい。
 
 
 ビデオを製作する際に、口伝抄は読まれなかったのでしょうか?
 
『至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか。』
 
 
 何度も申し上げましたように、不体失往生の根拠は「即得往生住不退転」と答えるのが適当ですが、あえて「本願文」で挙げよと言われた場合、「至心信楽」以外の言葉は見当たりません。



◆平成20年6月28日のメール
「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。
◆平成20年6月28日のメール
貴方の根拠(「信受本願 前念命終(即入正定聚之数)即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)」『愚禿鈔』)は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません。

田中さんは『尊号真像銘文』を根拠に挙げて、ボコボコに論破してますやん(苦笑)。
これって、それがわからないようにする、せこい印象操作ですかいな(苦笑)。
やるなら、もうちょい上手にしてよ。バレバレでっせ(笑)。


★「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。
 
 
 尊号真像銘文には、以下のように記述されています。
 
『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。』
 
 
 つまり、「本願を信受する」=「至心信楽をえる」ということです。
 
 貴方の根拠は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません。
 
 
 さらに、尊号真像銘文は、以下のように続きます。
 
『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』
 
 
 至心信楽をえた人、イコール「即得往生」した人が、死んで極楽浄土に生まれるのが、「若不生者」の「生」だと断定されています。
 
 当然、「即得往生」=「若不生者」は成り立ちません。
 
 
 貴方が主張するように、「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになり、上記の親鸞聖人の記述は間違いということになります。
 
 
 つまり、貴方の提示された根拠では、「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈することは出来ません。




◆平成20年7月1日のメール
信楽をえさせるのは、何方のどんなお力かとお尋ねですが、阿弥陀仏の調熟・破闇光明の働きです。
◆平成20年7月1日のメール
親鸞聖人は、上記(「若不生者 不取正覚」というは、…」『尊号真像銘文』)のように、至心信楽をえた人(即得往生した人)が、死んで極楽往生するのが「若不生者」だと断定されています。

田中さんがチューリップ企画のロジックの矛盾をついた発言は、
当然ながらしっかりカットですね(苦笑)。

 

★今回いただいたメールでも、貴方の提示された根拠が「若不生者」を解説されたものではない、とお認めになられましたね。
 
 つまり、根拠は無かったと、お認めになったということです。
 
 
 
『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』
 
 
 貴方は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」することも、お認めになられました。
 
 親鸞聖人は、上記のように、至心信楽をえた人(即得往生した人)が、死んで極楽往生するのが「若不生者」だと断定されています。
 
★つまり、「即得往生」と「若不生者」はイコールでないことも、お認めになったということです。
 
★「本願文」は、「本願成就文」とイコールであり、死後のことは一切説かれていないという貴方の主張が、いかに間違っているか、この親鸞聖人の記述からも明白です。
 
 
 
 信楽をえさせるのは、何方のどんなお力かとお尋ねですが、阿弥陀仏の調熟・破闇光明の働きです。
 
 この程度のことも、ご存知ないのでしょうか?
 
 本題と関係ないことを、質問しないで頂きたく思います。




◆平成20年6月23日のメール
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
チューリップ企画が、『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』と、死後の往生を否定したことは明白です。

田中さんが、『「死後の往生」を否定するチューリップ企画』を論証したものなら、
更にいろんな根拠が挙げられている、6月28日のメールの方が適当ですよ(笑)。

というか、ボロボロですやん(苦笑)。


★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。(6月19日)
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
 
 
『親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
 
 
 
『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)
 
 
『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)
 
 
『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。





×以上、田中氏のメールである。

○以上、チューリップ企画が都合のいいように操作した、田中氏のメールである。

ですよね?(笑)

チューリップ企画さん!
言葉は正確に使わなアキマヘンで~(苦笑)。

なめとんか!チューリップ企画の捏造記事にツッコミ

昨日の続き。
あまりにも悪質なんで、徹底的にボコボコいったりますわ(苦笑)。

昨日の記事はこちら。

ツッコミ!【第4回】田中氏の主張メール(1)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-30.html


問題のチューリップ企画の記事はこれですわ。

◆平成20年3月25日のメール
『親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されている。それ以外の意味ではないのは明白です』



とりあえず昨日は、

田中氏からチューリップ企画へ送った「平成20年3月25日のメール」は存在せず!!(苦笑)

とだけ書いておきましたが、今日はもう少しツッコミます。


チューリップ企画が「平成20年3月25日のメール」として提示しているのは以下の記事です。

2008 3/25(火) 13:49

田中様

(中略) 

いまだに貴方は、
『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と主張されますが、
「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証)
「真に知らされた! いま弥勒菩薩と同格(信楽)になれたのは、弥陀の誓願不思議によってのほかはない。弥勒は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりが得られぬのに、私は死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」と、親鸞聖人は慶喜されていますが、「真に知んぬ」と知らされたのは、「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってではありませんか。これを弥陀の本願の現益というのでしょう。

(中略)

チューリップ企画 サービス課 山田


http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/2008_325_1349_159d.html

2008 3/25(火) 13:49 ?チューリップ企画より田中氏へ

田中様

(中略) 

いまだに貴方は、
『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と主張されますが、
「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証)
「真に知らされた! いま弥勒菩薩と同格(信楽)になれたのは、弥陀の誓願不思議によってのほかはない。弥勒は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりが得られぬのに、私は死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」と、親鸞聖人は慶喜されていますが、「真に知んぬ」と知らされたのは、「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってではありませんか。これを弥陀の本願の現益というのでしょう。

(中略)

チューリップ企画 サービス課 山田


http://shinjin.info/2008/03/25134987.html


このように、
田中氏からチューリップ企画へ送った「平成20年3月25日のメール」は存在せず。
チューリップ企画が勝手に言ったことを田中さんの意見として提示しています。



しかもこれに関しては、田中さんが「2008 4/2(水) 00:17」のメールで、
チューリップ企画の発言が不当であることを指摘しています。


>『本願成就文』で開顕されているのは、本願文の「至心信楽欲生我国」の八字だけのことですか。それとも『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ですか。お尋ね致します。
 
 
 もし貴方が、『本願成就文』を、『本願文』漢字三十六字の総てを解説されたものだと理解されているのであれば、その考え方には反対です。
 
 貴方の主張は、『本願文』漢字三十六字、総ての開顕ということで宜しいですか?
 異論がなければ、そのように受け取ります。
 
 
 
>また貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と仰っていますが、その文証を示して下さい。
>今まで貴方の挙げられた文証は、『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない』という根拠にはならないことは、先便で縷々明らかにした通りです。
 
 
 すみませんが、どこの部分のことでしょうか?
 そのような文章は、どこにも見当たりませんでした。
 
 前回のメールで、極楽浄土に生まれる以外の意味がないことは、誰にでも分かるように明らかにしました。それに対する、何の反論もありません。
 
 すでに貴方は、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない』と認められたのですから、今さら何を仰るのかと思います。
 
 
 
>また返答がないと言われているが、当方は「若不生者不取正覚」の「生」に不体失往生の意味もあることを、「本願文」では「若不生者不取正覚」にあり、「本願成就文」では「名号」の働き「即得往生住不退転」で示し、だから『願成就』には、死後のことは説かれてないことや、その外「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」など、親鸞聖人のお言葉ばかりを提示してきたのに、なにを今更おっしゃるのだと言いたいことです。
 
 
 私は3月16日に以下のように書きました。
 
>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>> 
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>> 
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。
 
 
 これに対して、「有る」とも「無い」とも、まったく返答がありませんでした。
 つまり、これは「無い」という返答です。
 こんな最近のやりとりを、もう忘れられたのですか?
 
 もし「有る」と言われるなら、なぜ無視されたのですか?
 議論するに於いて、相手の質問を無視するという手段は、許されるのですか?
 仏教以前の、人間の常識として、どう思われますか?
 
 
 
>だが貴方は、それらの根拠は「若不生者」が「信楽を獲られる」という意味となるという根拠にならないと、論証してきたと仰った。いつ何処で、どのように論証されたのでしょうか。大切なところですから愚鈍な者にも分かるように、もう一度お手間かけたいと思います。論証して下さい。
 
 
 何回でも論証いたしましょう。
 
 しかし、貴方も同意された通り、今は双方の主張を確認する作業を優先して進めております。
 
 まず、貴方が根拠とされる文章を、今一度、列記してください。前回のメールで、そのようにお願いしましたが、無視されたのは、なぜでしょうか?
 
 貴方の主張が明らかになりましたら、一つ一つ、改めて論証いたしましょう。
 
 
 
>いまだに貴方は、
>『親鸞聖人が、「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ、それ以外に意味はない」と断言されている』と主張されますが、
>「真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、龍華三会の暁、まさに無上覚位をきわむべし。念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証)
>「真に知らされた! いま弥勒菩薩と同格(信楽)になれたのは、弥陀の誓願不思議によってのほかはない。弥勒は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりが得られぬのに、私は死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」と、親鸞聖人は慶喜されていますが、「真に知んぬ」と知らされたのは、「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってではありませんか。これを弥陀の本願の現益というのでしょう。
 
 
 親鸞聖人が「まこと」と知らされた「本願」の内容は、まさに「私が死ぬと同時に仏のさとりが得られるのだ」という内容です。
 
 つまり、これは、「若不生者不取正覚」によって、死ぬと同時に仏のさとりが得られるということであって、私の主張を裏付ける根拠です。
 
 
 
>「今生は、正定聚に生まれさせ」「死んでは、極楽に生まれさせる」のが、「若不生者」の誓いではありませんか。「死んで極楽に往生させる」ことのできるものが、なぜ「今生で往生させる」ことができないのか。「死んで極楽に生まれさせる」ことができるのなら、「今生で生まれさせる」ことができるのが当然でしょう。
> 
>「若不生者のちかい」によって、浄土へ生まれる(体失往生)は結果です。信楽に生まれる(不体失往生)という原因なくして、浄土往生という結果は絶対にないのです。
>「若不生者不取正覚」の本願力が、「信楽に生まれさせる」ことに懸かっていないという主張は、浄土往生の正因が「信楽」であると言う、親鸞聖人の「信心正因」の教えを否定することになるのです。
 
 
 「信楽に生まれさせる」のは「本願力」によると、1月14日に書いたはずですが、なぜ私の文章を無視されるのですか?
 
 あなたは、本願力を「若不生者不取正覚」の8字に限定して考えておられるようですが、「本願」は「若不生者不取正覚」の8字しか無いのですか?
 
 
 
>> これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?
>> 
>> 異論がなければ、上記の意味だと判断します。
 
 
 なお、上記については、異論がありませんでしたので、貴方の主張は、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」だと明確になりました。
 
 
 
>> 貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。
>> 
>> そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
>> その点、貴方の主張を確認いたします。
 
 
 これも異論がありませんでしたので、貴方の主張では、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだということが明確になりました。




おいこら!なめとんか!(苦笑)

どうやらチューリップ企画も、
僕にからんできた誰かさんと同じように、

脳内に発生した被害妄想が、
思わず言語表現化されてしまう特殊な癖があって、
自分の脳内で作った相手の意見と、
実際の相手の意見との区別がついてないようですね(苦笑)。


誰かさんに僕が贈った言葉をチューリップ企画にも贈らせてもらいますわ。

現代日本語で対話している相手の発言すら、
まともに把握できない人が、
不可称不可説の弥陀の本願を、
なんとかして言語で表現しようとされた親鸞聖人の言葉を、
とてもまともに把握できているとは思えませんね(苦笑)。

ツッコミ!【第4回】田中氏の主張メール(1)

第4回がアップされました。

 ↓↓↓

【第4回】田中氏の主張メール(1)
http://shinjin.info/2008/08/150830139.html

双方、それなりに時間と体力を費やして、阿弥陀仏の『本願』や釈迦の『本願成就文』、親鸞聖人の『教え』に就いての、田中氏の領解が明らかになった。以下、田中氏のメールを紹介することにする。

・・・

(次回に続く)




どうやら、意図的に操作した内容を「田中氏の主張」ということにして、

★田中さんの主張で的を得ている部分をなかったことにする。
★山田さんがボコボコに論破された部分をなかったことにする。

という、僕(苦笑)の予想通りの作戦のようですね(苦笑)。

でも、そういうことは頭の●い人や特殊な思考回路の人にしか通容しませんで~(笑)。
以下、チ●ーリップ企画がどういう卑劣な作業を行っているかを晒しますです



◆平成19年10月20日のメール
尊号真像銘文には
『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり』
と記述されています。
いずれも、「至心信楽をえた」者が極楽に生まれなければ仏に成らないという意味ですから、「若不生者」は、極楽に生まれなければ、という意味になります。
◆平成19年10月20日
また、唯信鈔文意には、
『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり』
と記述されています。
これも同様に、親鸞聖人は、若不生者を真実報土に生まれることと解釈されています。
本願についての解釈が親鸞聖人と異なってはならないと考えます。

親鸞聖人が不体失往生を主張されたことは口伝抄に明らかです。しかしながら、不体失往生とは、「至心信楽をえた」ということであって、「極楽に往生した」という意味ではありません

尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。

いずれも、「至心信楽をえた」者が極楽に生まれなければ仏に成らないという意味ですから、「若不生者」は、極楽に生まれなければ、という意味になります。

また、唯信鈔文意には『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』と記述されています。

これも、同様に、親鸞聖人は、若不生者を真実報土に生まれることと解釈されています。

ビデオにおける件の部分は、現生での救いを強調するための表現だと拝察しておりますが、本願についての解釈が親鸞聖人と異なってはならないと考えます。



「信楽」=「絶対の幸福」というヘンテコドグマを指摘されるのは都合が悪いのかな(苦笑)。
あと「死後の往生を否定する」もツッコマレルと困りますか(苦笑)。


◆平成19年12月2日
私が、いつ(「若不生者」の「生」を)、「死後、極楽へ生まれることだけ」と断定しましたでしょうか?

> 当方が何を聞いているのか、サッパリ分かりません、と仰いますので、いま一度申し上げます。
> 田中様が、「若不生者」の「生」は、死んで極楽に「生まれる」ことだと、死後、極楽へ生まれることだけに断定されていますので、「死んで、極楽へ生まれることのみのことでしょうか」、とお尋ねしたのです。
> まだ、ご理解頂けなければ、何度でも説明させて頂きます。


 相変わらず、こちらからの問いかけには無視でしょうか?
 立派なビデオを作っておられながら、担当の方がこのような非常識な態度を取り続けられることに、少々失望しております。


 上記のご質問については、最初に差し上げたメールに、以下のようにお書きした通りです。


>不勉強のためか、この若不生者の『生』を、この世で生まれると解釈している学説を聞いたことがございません。どのような根拠に基づいて、このような解釈をされたのか、お示し頂きたく思います。


 私が、いつ「死後、極楽へ生まれることだけ」と断定しましたでしょうか?

 少なくとも私は「生は極楽に生まれる」という学説しか聞いたことがありません。私が不勉強で知らないだけかもしれませんから、それ以外の学説なり根拠が存在するなら、お示し頂きたいと最初からお書きしている通りです

 失礼ですが、私の文章は、きちんと読んでいらっしゃるのでしょうか?
 無視されることが多すぎて、お返事を差し上げる気も失せて参ります。



山田さんの質問無視を指摘してる内容ですやん(苦笑)。
へんな所で文章を切らないでくださいよ(苦笑)。



◆平成19年12月4日のメール
貴社の一番の問題は、浄土真宗で「生まれる」といっても二通りの意味があることを理解しておらず、混同しておられることです。ここで「生」と「往生」は、ほぼ同じ意味と受け取って頂いて結構です。
一つ目の「生」は、ビデオの内容で言えば「不体失往生」であり、生きている時に「信楽をえる」ことを「生」と言います。十八願では、「至心信楽欲生我国」に当たります。
二つ目の「生」は、死んで真実報土に生まれることを言います。十八願では、「若不生者」に当たります。
同じ「生」の字を使っていても、意味は全く違います。

> このたび、「若不生者」の「生」が、「この世で生まれる」と説かれる根拠があれば示せ、と言われていますが、一例を挙げれば、「本願の不思議をもって、生るべからざるものを、生れさせたればこそ、〝超世の悲願〟とも名け、〝横超の直道〟とも聞えはんべれ」と「改邪鈔」にありますが、この「生まるべからざるもの」を「生まれさせた」とは、これは「真実報土に生まれさせた」ということでしょうか。死後のことでしょうか。お聞かせ頂きたく思います。どうぞよろしくお願い致します。


「生るべからざるものを、生れさせたればこそ」の「生まれる」の意味が分かられないというご質問ですが、このご質問を読ませて頂いて、貴社の間違いの原因が判明した気が致します。

 貴社の一番の問題は、浄土真宗で「生まれる」といっても二通りの意味があることを理解しておらず、混同しておられることです。ここで「生」と「往生」は、ほぼ同じ意味と受け取って頂いて結構です。

 一つ目の「生」は、ビデオの内容で言えば「不体失往生」であり、生きている時に「信楽をえる」ことを「生」と言います。十八願では、「至心信楽欲生我国」に当たります。

 二つ目の「生」は、死んで真実報土に生まれることを言います。十八願では、「若不生者」に当たります。
 同じ「生」の字を使っていても、意味は全く違います。

 お尋ねの「生れさせたればこそ」の「生」は、「信楽をえる」ことであり、「不体失往生」のことですから、「若不生者」の「生」とは異なります。

 貴社では、これを「若不生者」の「生」と混同してしまわれたのではないでしょうか?

 「生まれる」の二通りの意味を知らねば、「若不生者」の「生」なのか、「不体失往生」の「生」なのか、間違えてしまいます。

 おそらく、「生まれる」という言葉にとらわれて、「生」と書いてあるものは、すべて「若不生者」の「生」と同じなのだと勘違いしてしまわれたのでしょう。それで、「若不生者」を、「不体失往生」の根拠として挙げてしまうという間違いを犯してしまわれたのだと拝察致します。

 これで、ご理解いただけましたでしょうか?



間違いを指摘してもらったことはなかったことにしますね(苦笑)。


◆平成19年12月15日のメール
「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。
しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。
◆平成19年12月15日のメール
文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章(「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は
往生必ず定まりぬ」『浄土和讃』)は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。

>『その「信楽をえる」には、「若不生者」の誓いなくしては絶対にできないと教えられたのが親鸞聖人』と申しあげたはずです。


「若不生者」の誓い、すなわち十八願の中で「信楽をえる」に対応するのは「至心信楽欲生我国乃至十念」です。「若不生者」は「死んで極楽に生まれる」に対応します。



>それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。


 少しでも古文の知識があれば、読み間違えるはずのない文章だと思いますが、なぜ間違われたか不思議です。


 これは、阿弥陀仏が「若不生者」と誓われているから、「信楽まことにときいたり、一念慶喜する」人は、「(死んで)往生かならず定まりぬ」ということです。信楽になる時が至り、一念で慶喜する身になった人は、死んで必ず極楽に往生させると誓われたのが、弥陀の十八願だという意味です。

 貴方は「ときいたり」で文章を切って理解しておられるようですが、ここで切るならば、終止形の「いたる」(過去形なら「いたりき」)とならねばなりません。親鸞聖人が、こんな文法のミスをされるはずが無いと思います。

 また、これは十八願の解説ですから、親鸞聖人の解釈を元に読まねばなりません。

 尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています


 つまり、文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。



>ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。


「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。



> 次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。


 貴社のビデオの解説書に書いてありました。しかし、貴方の疑問を読ませて頂くと、自分達でも疑問に思うことを、解説書に書かれていたことになります。

 私は、貴社の解説書は、御指摘した部分以外は、正しく記述されていると思っておりましたので、先便のメールのように書きましたが、実は何の根拠もなく書かれていたのでしょうか?



文法説明も親鸞聖人の言葉も説明してはるのに、そこは都合が悪いので削除ですね(苦笑)。


◆平成19年12月17日のメール
本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思います。

>「本願に、ツユチリほどの疑いがあっても、往生できない」と教えられていますが、この度、田中様は、私はまだ「信楽をえた身ではありません」と言われ、弥陀の本願に疑いがある身とおっしゃいました。
>「本願文」のどこに疑心があるのでしょうか。お尋ね致します。


 信楽をえていない人は、本願文の一部分に疑いが有り、残りの部分には疑いが無いと解釈しておられるのですね。そうでなければ、「どこに疑心があるのでしょうか?」という質問が出てくるはずがありません。

 本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思いますが、いかがでしょう。



>「信楽をえて」いない、「本願」に疑いのある方ならば、『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」も分からないし、「生まれさせた」と言われているものも分からない、と言うことになりますが、そのように理解してもよろしいでしょうか。お尋ねします。


 分からないからこそ、親鸞聖人のお言葉に従わねばならないと思います。親鸞聖人が、「若不生者」の「生」は、極楽浄土に生まれることだと、何回も明記されていますので、私は親鸞聖人のお言葉に従います。



>「信楽をえて」いない者が、「若不生者」は「死んで極楽に生まれると言うことだけでしょうか」などと、田中様にお聞きすることは、おそらくないのではないでしょうか。


 「信楽をえて」いる方が、「若不生者」は「死んで極楽に生まれると言うことだけでしょうか」などと、聞いてこられるはずがないと思います。

 親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を、「死んで極楽に生まれる」という意味以外に解釈されていません。少なくとも、親鸞聖人と違う信心の方だと思います。



山田さんのミステイクに対するツッコミは、しっかり削除しておられますね(苦笑)。

平成19年12月22日のメール
「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者の誓」の「至心信楽欲生我国」の部分に当たります。「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です。

>前回、田中様が提示された親鸞聖人のお言葉は、「若不生者は、死後のみのことである」という御文になっていません。
>それよりも、「若不生者」のちかい、がなければ「信楽」は「生まれず」、「信楽」が「生まれる」のは「若不生者」の誓によるのだと言う、「信楽」と「若不生者」の関係を教えられているお言葉です。よくお読み下さい。


『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』


 この記述を、どのように解釈したら、山田様のような理解になるのでしょうか?
「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者の誓」の「至心信楽欲生我国」の部分に当たります。「若不生者不取正覚」に当たるのは、「浄土に生まれる」です。

「信楽」に「生まれる」ことと、「浄土に生まれる」ことは、違います。何度も説明している通りです。古文法も余り知られないようですし、ご自身も「教えに昏いところがある」と書かれているので、仕方ないことかも知れませんが。



ここでも根拠は削除ですね(苦笑)。

◆平成19年12月26日のメール
十八願の「至心信楽」の誓いによって、信楽がえらえるのです。そして十八願の「若不生者」の誓いによって、極楽浄土に生まれられるのです。

>その「信楽」がえられるのは、どうしてえられるのですか。「若不生者の念力」によるのではありませんか、と山田は言っているのです。「そうでない」、と言われるのならば、どうして「信楽」をえられるのか。その根拠を、親鸞聖人のお言葉で示して下さい。


 何度も示しましたように、『この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。』と記述されています。十八願の「至心信楽」の誓いによって、信楽がえらえるのです。

 そして、『「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』と、十八願の「若不生者」の誓いによって、極楽浄土に生まれられるのです



根拠を挙げている通り、「わが真実なる誓願を信楽すべしすすめたまへる御ちかひ」ですやん(苦笑)。

何を操作してようとしてるねん!!(苦笑)

◆平成19年12月27日のメール
「信楽」に生まれた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」なのです。

>われわれを「浄土に生まれさせるために」弥陀が正覚をかけてのお誓いなのです。だからこそ「至心信楽の願」と言われるのです。


「至心信楽」に生まれた人を、「浄土に生まれさせる」が「若不生者」なので、この「生」は死後に限られるのです。



田中さんの見解を捏造してもらっては困りますね~。
山田さんの見解にスライドするための準備ですかいな(苦笑)。


◆平成20年1月8日のメール
親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

 話を戻しますが、貴方は、私が「不体失往生」を否定しているかのような書き方ばかりされますね。

 私は最初から、この世で「信楽」に「生まれた」者だけが、死んで「極楽浄土」に「生まれる」ことが出来ると主張し続けております。

 そのことを、親鸞聖人は

「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。

 このように記述されています。他にも、何箇所も「若不生者の生は、極楽浄土に生まれることだ」と書かれています。

 逆に、貴方のように「若不生者の生は、信楽に生まれることだ」と書かれているところは一箇所もありません。

 親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

 もし、「極楽浄土に生まれる」という意味だけしかない、ということに異論があるのであれば、親鸞聖人の御言葉を示してください。

 私は何回も根拠を示していますが、貴社からは、いまだに一つの根拠も出てきません。



親鸞聖人の言葉に従って解釈しているだけですやん(苦笑)。


◆平成20年1月14日のメール
私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありません。

>ところが、その「真実信心(信楽)に生まるる人は稀である」と、極難信の「信楽」と教えられています。そんな極難の真実信心(信楽)が、私たちにどうして「生まれる」のでしょう。貴方も仰っている通り、全く、弥陀の本願力(若不生者の念力)によるしかないと教えられています。

>されば、「信楽」が私たちに「生まれる」のは、偏に、「若し、生まれずは、正覚をとらぬ」と、弥陀が生命をかけて誓われている、「若不生者の念力」によることは明白です。

>『「若不生者の念力」なくして、「信楽」が私たちに「生まれる」ことがあるのか、ないのか』が、いま問われていることなのです。

 私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありませんが、「若不生者の念力」という言葉は、親鸞聖人の書かれた言葉でしょうか?貴方の作った言葉でしょうか?



ポイントは、「若不生者の念力」という怪しい言葉にツッコミ入れることですよ(苦笑)。

◆平成20年2月2日のメール
「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

>貴方が、今まで挙げられた根拠の総ては、「信楽に生まれたら、極楽に生まれる」ことの根拠ばかりです。それは充分、了解のこと。その「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、答えて頂きたいと思います。
 
 
 
「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
 
 だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。
 
「どうして生まれるのか」 →「聞其名号」
「なんの力で生まれるのか」→「名号」
「いつ生まれるのか」   →「乃至一念即得往生」
 
 
「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています。



田中さんの解説は無視ですか(苦笑)。


◆平成20年2月8日のメール
(「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、)私は「本願文での根拠」は知りません。

>今度のメールで貴方が言われた、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』と、『「若不生者不取正覚」という力』とは、どこが違うのでしょうか。明示して頂きたい。

>また、『「若不生者不取正覚」という力』とか、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』とか、そんな言葉は、「浄土真宗のデータベース」にありませんが、そんな言葉を根拠にして、議論を進めてはならないと言われているのは貴方です。親鸞聖人、どこに仰っているお言葉でしょうか。根拠を教えて下さい。

『「若不生者不取正覚」という力』とか、『「若不生者不取正覚」という力の納まっている「名号」』などという言葉を、私がいつ、使いましたでしょうか?

確かに、『必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています。』とは、書きました。

「必ず極楽浄土に往生させる」の部分を削除し、さらに括弧も外して作った言葉でしょうか?

一字一句違わず引用して欲しいとは言いませんが、これは常識の範囲外だと思います。

私が(若不生者不取正覚)と付け加えたのは、「必ず極楽浄土に往生させる」という誓いの根拠を示すためです。

貴方は、「若不生者不取正覚」を「極楽浄土に生まれる意味だけ」ということには同意されていませんが、「極楽浄土に生まれる」と親鸞聖人が教えられていることには同意されているはずです。

だから、「必ず極楽浄土に往生させる」という誓いの根拠として、(若不生者不取正覚)と付け加えることに、問題はないだろうと思って書いただけです。

括弧内だけを抜き出されて、新しい言葉を作り、私が書いたかのように議論を進められるのは、やめて頂きたく思います。

>「親鸞聖人のお言葉に従う」とは言ったが、「親鸞聖人の教えに信順する」とは言ったことがない、と不満を漏らされている。それでは貴方にとって、「親鸞聖人のお言葉に従う」ということと、「親鸞聖人の教えに信順する」とは、どこがどう違うのですか。

貴方が「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだと主張されるなら、その違いを説明しましょう。

その前に、貴方の立場を確認させて頂きますが、貴方は「親鸞聖人のお言葉に従う」と、「親鸞聖人の教えに信順する」は同じだという主張で宜しいですね?

>またまた、何度、「本願力」と「若不生者の念力」との違いを聞かれても、「同じ」とも「違う」とも言えない、とおっしゃった。その理由は、「説明のしようがない」からだと。

私は、『そもそも「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから、「同じ」とも「違う」とも、説明のしようがありません。』と書きました。

「同じ」とも「違う」とも言えない理由は、誰が読んでも、『「若不生者の念力」という言葉が造語なのですから』です。

私の主張を、勝手に変更しないで頂きたく思います。

>最近どうしてか、意味が同じでも言葉を変えると、貴方はごねられる。当方は意味が変わらない限り、自由な表現を受け入れます。

「意味が同じでも」という点に、異論を申しております。

>特に「若不生者の念力」について貴方は、恥も外聞もお構いなしで、「データベース」まで持ち出し滑稽なほどに必死である。

貴方が「若不生者の念力」という言葉を、無理やりに私に認めさせようとしました。

>貴方の言った「本願力」に関することなのだから、「意味が違うから」、「嫌いな言葉だから」、「どちらか言えば後で困るから」とか、なんとか言って然るべきと思うのだが、その拒みようは尋常ではありません。

ところが、「根拠を示してほしい」と尋ねたところ、造語であることが分かりました。今度は、まるで私が好き嫌いで拒んだように書かれます。
造語を根拠に、議論を進めようとするのを拒むのは、当然ではないでしょうか?

>しかもだ、己の都合の悪い返答を求めるのは「法論と、かけ離れたやり方」と言われては、またなにをか言わんや、と言わざるをえません。

私が「法論と、かけ離れたやり方」と書いたのは、造語を根拠に議論を進めるやり方のことです。よく読んでください。

>「若不生者不取正覚」という力によって成就した「名号」に、「若不生者不取正覚」という力が納まっているのは当然です。

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』という意味で仰っておられるならば同意です。

>だから「信楽」が「生まれる」のは、「若不生者」の力ではありませんかと言っているのです。

このように主張するためには、「若不生者」の「生」が「信楽が生まれる」という意味だ、という根拠が必要です。その根拠が、まだ示されていません。

>「本願文」に「信楽」に「生まれさせる」のは、「若不生者不取正覚」という力だとハッキリ誓われているではありませんか。

どこにハッキリと誓われていますか?
何回も同じことをお尋ねしています。

>『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と貴方は仰った。
>「思います」では貴方の説です。「法論において、己の思いや造語は根拠とならない」「根拠のない説は親鸞聖人の教えとは言えない」と言ったのも貴方です。もっと自己の発言には自覚を持って頂きたいものである。『「信楽」に「生まれさせる」のは「名号」だ』の、「根拠」を明示して下さい。

私が、いつ『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』と書いたでしょうか?

前回の貴方の質問と、私の返答は、以下の通りです。

『その「願成就」の教えに「若不生者は、極楽浄土に生まれることだ」と、どこに説かれていますか。「本願成就文」のお言葉で示して下さい。』

『先に示したように「名号」が、それに当たると思います。』

この文章を、どのように理解したら、『「信楽」に「生まれさせる」のは、「名号」だと思います』に、なるのでしょうか?

相手の主張を捏造して、議論を進めるということは、法論では以ての外と思います。

>その「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、それに就いて「本願文での根拠」はどこか、「願成就文での御文」は何か、答えて頂きたいと思います。

この質問について、私は返答しましたが、貴方の答えを頂いておりません。
「本願文での根拠」についても、わざわざ尋ねられる程ですから、根拠をお持ちのはずです。
特に、私は「本願文での根拠」は知りませんので、あるなら教えて頂きたく思います。



田中さんの抗議は全文カット・・(苦笑)。
さらに不当質問に対する解答なのに、文章を改変して印象操作ですか(苦笑)。

●平成20年2月15日のメール
親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。

>その、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」慶喜を親鸞聖人は、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのではないですか。死んで極楽に生まれてから仰ったことではないでしょう。
 
 
 親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
 
 つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。
 
 親鸞聖人が、尊号真像銘文に『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されている通りです。



またまた根拠はバッサリカットですね(苦笑)。

◆平成20年3月16日のメール
「即得往生住不退転」は、不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです。
◆平成20年3月16日のメール
「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていないから、「若不生者」は生きている間だと言われたいのでしょうか?
だとすれば、「若不生者」の「生」には、死後のことは一切含まれないということになりますが、そういう主張ですか?

今回も、私の問いかけに対しては、殆ど無視されました。私のメールを、本当に読まれているのか、甚だ疑問です。

>(1)
>「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」という当方>の質問に、
>貴方は、「本願文には明示されていない」と答えられています(2月2日のメール)。今回も、繰返されています。

>当方は初めから、「若不生者不取正覚」の念力で「信楽は生まれる」と主張してきたことは過去のメールで明らかです。それを貴方の文章を読んで気づいたかのように勘違いされていますが、全くの誤解です。

私の文章を読めば分かられると思いますが、「私が貴方に教えた内容」というのは、「信楽」は「どうして生まれるのか」に就いて「願成就文での御文」は何か、という貴方の質問に対して、「聞其名号」と答えたことです。

このことは、貴方が、それまで一度も書かれていない内容です。

「若不生者不取正覚」の念力で「信楽は生まれる」というようなことは、私は一度も申したことがございませんので、そもそも「私が貴方に教えた内容」のはずがありません。

私の文章を、しっかり読んでいれば、貴方のような返答にならないと思います。

>しかも貴方は、
>『「名号」は「阿弥陀仏の本願」によって成就されたものですから、
>「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力が納まっています』と明言されています(同じく2月2日のメール)。

>ところが今回「若不生者不取正覚という力」という言葉は使っていない、と言われるのは事実に反します。

私は2月15日に、「若不生者不取正覚という力」と書き換えることを、明確に否定しました(以下に引用)。にも関わらず、何度も「若不生者不取正覚という力」と、こだわるのは何故でしょう。私の文章を、読んでおられないのでしょうか?

今後、『「必ず極楽浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」という力』と、正確に引用されることを要請します。

(2月15日メール)
>> 貴方は、その私の言葉のメインの部分を削り、括弧まで外して、「若不生者不取正覚という力」という単語を作り、「そんな言葉を、親鸞聖人がどこに仰っているか」と尋ねてこられました。
>>
「必ず極楽浄土に往生させる」というのは現代語ですから、そのまま聖教に無いのは当然ですし、その根拠として(若不生者不取正覚)と書いたことは、前回述べた通りです。
>>
>> 他人の言葉を改変し、その改変した言葉を根拠に非難されても困ると、申し上げているのです。

>本願を詳説された「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。あったら教えて下さい。

「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていないから、「若不生者」は生きている間だと言われたいのでしょうか?

だとすれば、「若不生者」の「生」には、死後のことは一切含まれないということになりますが、そういう主張ですか?

>当然ながら、「若不生者」は「死後、極楽に生まれさせる」だけという教えなど全くありません。これもあったらお示し下さい。

「若不生者」は「信楽に生まれさせる」という意味だと、どこにも説かれていないからです。あったらお示し下さい。

>何度も心を鎮めて、ご自分の書かれたものをよくよくお読みになれば、お分かりになるはずです。当方には、貴方の主張を故意に曲げて論じたことは一度たりともありません。

既に示した通り、今回の貴方のメールも、私の主張を歪曲したものでした。

>「若不生者不取正覚」の誓いが、死んでからだけのことではなく、この世で「信楽に生まれさせ」、死んで「極楽に生まれさせる」ことであることも、浄土和讃でお示ししました。

貴方の解釈は、文法的に誤っていることは、既に示した通りです。

>仏教の至極であり、弥陀の願意を釈尊が明らかにされた「本願成就文」には、弥陀の本願の「若不生者」の真意が、「即得往生住不退転」と明らかにされています。

「即得往生住不退転」は、不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです。

>この親鸞聖人の教えを知れば、「弥陀が命をかけられているのは、死後だけのこと」というような主張は、絶対に出てこないのです。重ねて申しますが、この世で「信楽に生まれ」なければ、死後、「極楽に生まれる」ことは絶対に不可能なのですから「信楽に生まれさせる」ことにこそ、弥陀の命がかかるのは当然のことでしょう。そうでなければ、弥陀は「若不生者の誓い」を果たせないからです。

弥陀の十八願の約束が果されるのは、「信楽をえた時」ですか?「極楽往生した時」ですか?
お答え頂きたく思います。

>お互い忙しい中、論じ合っているのは、阿弥陀仏の本願の「若不生者不取正覚」の「生」の仏意一つでしょう。

私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。

有るのか、無いのかだけで結構です。
他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。

明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。

なお、重ねて申し上げますが、「その外に親鸞聖人の教えはない」では返答になっていません。このような返答を認めていては、「親鸞聖人は念仏無間と教えた方だ。根拠はその外に親鸞聖人の教えはないからだ」という滅茶苦茶な理論も通ってしまいます。

「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを明確に仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかということです。

無ければ無いとして、なぜ、そのように解釈されたかは、改めてお尋ねしますので、ご心配なくお答え下さい。これは、貴方の主張を正しく知るための質問ですので。



ボコボコに論破されている部分は、やっぱり全文カットですね(苦笑)。

◆平成20年3月24日
本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

>> 私がお尋ねしているのは、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉が有るのか、無いのかです。
>>
>> 有るのか、無いのかだけで結構です。
>> 他の内容は後回しにされても結構ですから、この点だけは明確に御返答ください。
>>
>> 明確なご返答がなければ、無いと返答されたものと判断いたします。

前回、このように質問しましたが、ご返答がありませんでしたので、「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は存在しない、ということが明確になりました。

後になって、そんなつもりは無かったと言い訳をされないよう、くれぐれもお願いいたします。

>その肝心の「信楽を獲る」ことが、「信楽受持甚以難 難中之難無過斯」(正信偈)と、これ以上難しいことはないと、釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も教えられている文証は、すでに挙げてある通りです。そんな「信楽」が、どうして獲られるのでしょうか。「本願文」で示して下さい。

上記の質問は、2月2日に、以下のように返答済みです。

>>「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。
>> だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

>当方は幾度も、我々に「信楽が獲られる」のは、「本願文」では「若不生者不取正覚」の不可思議の願力によってであり、「本願成就文」では「名号」の「破闇満願」の働きであり、親鸞聖人は、それを「愚禿鈔」や「浄土和讃」や「高僧和讃」で詳説されていることを繰り返し述べてきたことは、過去のメールを見れば明白です。

貴方の出された根拠は、「若不生者」が「信楽が獲られる」という意味となるという根拠にならないことは、すでに論証してきた通りです。

しかし、今は、双方の主張を確認する作業をしているわけですから、その妥当性を議論するのは、後まわしでしたね。

上記の文章では、どの部分が主張で、どの根拠が対応しているのか判りません。明確にして頂きたく思います。

>無論、弥陀の十八願の「若不生者不取正覚」の約束が「誠だった」と「仏願の生起本末に疑心あることなし」となるのは、「信楽をえた時」ですよ。

質問をすり替えないで頂きたく思います。

これは、「若不生者不取正覚」の約束が果たされたのは、「信楽をえた時」という意味ですか?

異論がなければ、上記の意味だと判断します。

>ところが貴方は今度の返信でも、『「即得往生住不退転」は不体失往生であり、「若不生者」は極楽往生ですから、この2つを同じだと考えるのは誤りです』と仰った。
>それでは「本願成就文」は「弥陀の本願」の開闡ではないのですか。お尋ね致します。

貴方は、「即得往生住不退転」の不体失往生と、「若不生者」は、同じだと考えておられるのですね。

そうでなければ、上記のような異論が起きるはずがありません。
その点、貴方の主張を確認いたします。

あと「開闡」を、どのような意味で使っておられますか?
一般公開しているのですから、現代語で質問して頂くようお願いします。

>弥陀は「極楽浄土に生まれさせる」ために、難中之難無過斯の「信楽に生まれさせる」ことに、「若不生者」と「正覚」を懸けられているのではありませんか。
>その「若不生者不取正覚」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』でしょう。だから親鸞聖人は『本願成就文』を「一実・円満の真教、真宗これなり」と言われているのです。

本願文の「至心信楽欲生我国」の真意を釈尊が開顕されたのが『本願成就文』ではありませんか。

>親鸞聖人の何処に「若不生者は、極楽に生まれることだけ」という教えがありますか、あれば根拠を教えて下さい。

すでに提示してあります文章は、すべて上記の根拠です。

親鸞聖人が「若不生者」を説明された文章は、すべて「極楽往生」の意味で教えられています。それを、不体失往生で教えられた文章は、一つもないことは、貴方も認められた通りです。

極楽に生まれる以外の意味があるのなら、「極楽に生まれるという意味もある」と書かれるはずでしょう。

貴方は、部下にボールペンを買いに行かせるときに、「ボールペンだけ買ってこい」と言われるのですか?

貴方の会社では、「ボールペンを買ってこい」と言われたら、肉まんも買ってよいという意味になるのですか?

親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されているということは、それ以外の意味ではないのは明白です。



ははは(笑)。
田中さんにも、僕とツッコミを入れられておりましたね(苦笑)。

◆平成20年3月25日のメール
『親鸞聖人が「若不生者の生」は「極楽浄土に生まれることだ」と断言されている。それ以外の意味ではないのは明白です』

田中氏からチューリップ企画へ送った「平成20年3月25日のメール」は存在せず!!(苦笑)


まあ、こんだけツッコミ所がたっぷりだったんだけど、
さらにチューリップ企画は、「田中氏の主張メール」で都合の特に都合の悪いヤツは、
なかったことにしているようですね(苦笑)。

でももう、そのせこい手口はバレバレでっせ(苦笑)。

「なかったこと」になっている「田中氏の主張」(苦笑)
↓↓

2007 12/20(木) 00:16

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様


>「本願文の一部を疑い、残りは信ずる、ということは絶対にありません」
>田中様の仰る通りです。絶対にあり得ないことです。

 この点は、分かって頂けたようですね。
「本願文」のどこに疑心があるのでしょうか、という質問が出てくること自体、教えが分かっていないということなのです。



>『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」とは「何を」言われたのでしょうか。「生るべからざるもの」の正体はなんでしょうか。
>また、その後の、「生まれさせた」と言われているのは、何を、どのように「生まれさせた」と言うことでしょうか。お尋ね致します。


 この改邪抄の記述は、少し前の部分の「仏、願力の不思議をもって無善造悪の凡夫を摂取不捨したまう時は」の解説です。つまり、「生まるべからざるもの」とは「無善造悪の凡夫」のことであり、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のことを表しています。

「摂取不捨したまう時」とは、歎異抄一章に『「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめ給ふなり。』と記述されている通りです。


 この 「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、という部分は、本願文の「至心信楽欲生我国」に当たります。根拠は既出ですが、

『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。』


 さらに、この摂取不捨の利益にあづかった人が、極楽浄土に生まれなければ仏にならないと誓われたのが「若不生者」だと、記述されています。

『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

 このように、親鸞聖人の記述から、改邪抄の「生まれさせた」は、生きている間であり、「若不生者」の「生」は死後であることが明らかです。



>もし、田中様が、そんな生きている時のことではない、そんなこととは無関係だよ、と仰るのなら、「若不生者」は、そんなことではない、そんなこととは無関係だ、と言われている親鸞聖人でも覚如上人でも結構です、そのお言葉をお聞かせ下さい。


 私は、最初から「生まれさせた」は、生きている時であると主張し続けてきました。「良く読まれて文章の理解力を取り戻して下さい。」と私をお叱りになる前に、山田様こそ、良く読まれて文章の理解力を取り戻したほうが、良いのではないでしょうか?

 私が、改邪抄の「生まれさせた」は、死後だと主張した文章があれば、指摘してください。



>聖人が「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っているか、否かは、いま問われていることです。田中様の、これについての意見は充分に受け賜って存知していますのでご心配なさらないで下さい。


 しかし、私は、貴社から「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、という根拠を、いただいておりません。親鸞聖人の御言葉でお示しください。



>「信楽をえて」いないものが、山田のようなことを聞けるはずもないし、聞く筈がないじゃないか、とお答えしたのです。
>これでも答えていないと仰るなら、何度でもお答え致します。良く読まれて文章
の理解力を取り戻して下さい。


 では、もう一度お願いします。「信楽をえた」「信楽をえていない」の、どちらかでお答えください。それ以外の説明は書かないでください。




2007 12/21(金) 00:14

(株)チューリップ企画 サービス課 山田様


> 私は「信楽をえて」いますが、今度、田中様にお叱りをうけたように、教えに昏いところがあるかもしれませんが、その点は、宜しくご教授ください。


 山田様は「信楽をえた」おつもりかも知れませんが、親鸞聖人の御信心とは、異なる方のようです。例えば、山田様は、以下のような疑問を尋ねてこられました。


> 次にこの度、「生きている時」に「死んで極楽に生まれられる」という未来のことに疑いが晴れるのです、とおっしゃっていますが、まだ死んでもいないのに今、そんなにハッキリと後生未来のことが分かるのでしょうか。


 今さら、これは本心では無かったと言い訳しても、通じないと思います。あなたは、疑いが晴れていない信心なのです。



>「願力の不思議をもって」「生まれさせた」と言われる、「生まるべからざる、無善造悪の凡夫」とは、いかなる者でしょうか。田中様に「生まるべからざる者」の自覚がおありですか。願力の不思議を疑っていられる田中様にお聞きするのは、無理なことでしょうが、できたらお示し下さい。

>次に、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のこと、と言われている「摂取不捨したもう」とは、「無善造悪の凡夫」の、どこが、どう変わるのか、何も変わらないのでしょうか、お尋ね致します。


 これは、「信楽をえた」山田様が、「信楽をえていない」私に教授しなければならない内容と思います。どうぞ御解説ください。



>どこにも、「若不生者」は、「死んで極楽に生まれるということだけのことである」と、仰せになっていると思われるご文は見あたりません。文章の理解力が無いためかもしれませんので、具体的に、そのご文を提示して頂きたくお願いします。


「若不生者」は、「死んで極楽に生まれるということだけのことである」という記述が無ければ、「死んで極楽に生まれるという以外の解釈がある」という意味になるのですか?

 親鸞聖人が「強盗をしてはならない」と書かれていなければ、強盗をしても構わない、という意味になるのですか?

「リンゴ」と書かれたダンボールを見て、「リンゴだけ」と書いていないから、ミカンも入っていると考えるのでしょうか?

 貴社のような誤解をする人は、まず有り得ないことですので、親鸞聖人は、わざわざ「極楽に生まれることだけ」と、念を押す必要が無かったのだと拝察いたします。親鸞聖人としては、想定外の誤解だったのでしょう。

 貴社の理屈から言えば、「死んで地獄へ生まれること」とも解釈できるかも知れませんね。どこにも「地獄ではない」と書かれていませんから。



>「若不生者」の「生」を「死んで極楽に生まれる」という以外の意味に仰っている、親鸞聖人のお言葉を、まだいただいておりません、と田中様は言われていますが、既に、提示してはいるのですが、本願を疑っていられる方には届かないのかもしれません。しかし、その内、必ず分かって頂けるものと強く期待しています。


 再度、貴社からのメールを読み直しましたが、どこにも見当たりませんでした。申し訳ありませんが、親鸞聖人のお言葉の部分だけを、再度、ご提示ください。





以上、とても卑劣な手口を使っていることを晒しものにしたわけですが、
次は、どんな手口を使ってくるんでしょうかね~(苦笑)。

チ●ーリップ企画に羞恥心ちょうもんが少しでも残っていて、
次は、卑劣な手口を使わないことを期待したいと思います。

というか、「前回は失礼しました」をまず言うべきですね(苦笑)。

ツッコミ!【第3回】覚如・蓮如上人のお言葉で

第3回がアップされてましたね。

 ↓↓↓

【第3回】覚如・蓮如上人のお言葉で
http://shinjin.info/2008/08/090805138.html

覚如上人は『改邪鈔』に、こう述べていられる。
「それについて三経の安心あり。その中に『大経』をもって真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」

阿弥陀仏の救いは、浄土三部経(『観無量壽経』『阿弥陀経』『大無量寿経』)ともに説かれてはいるが、中でも親鸞聖人は『大無量寿経』のみを真実の教と言われ、その『大無量寿経』でも弥陀の四十八願中、特に第十八の願を根本とせられた。更に、この十八願の真意を開顕せられた、釈迦の『本願成就文』をもって『至極』の教えである、と親鸞聖人は御教示くだされた。

親鸞聖人は、『本願』は『根本』ではあるが『至極』ではない。『至極』は『本願成就文』の教えであると言われている。
「至極」とは、「一実であり、円満であり、真の教であり、真宗であり、これ以上、肝要な教えはない」ということである。

また、覚如上人はこうも言われている。
「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず」

親鸞聖人は、「信心歓喜乃至一念」と説かれている『本願成就文』四十字の教えを、浄土真宗の安心であると断定し、真実の信心(心行)獲得したか、どうかの物差しとされた。
今まで『本願成就文』以外の教えを聖人から、この覚如はお聞きしたことがない。

いかに親鸞聖人が『本願成就文』の教え以外に教えられなかったか。覚如上人の「このほか未だ聞かず」とまで言われていることでも明らかであろう。

蓮如上人の『御文章』もまた同じである。
『これによりて、「南無阿弥陀仏」という六字は、偏に我等が往生すべき他力信心の謂をあらわしたまえる御名なりと見えたり。この故に、願成就の文には、「聞其名号・信心歓喜」と説かれたり。
この文の意は「其の名号を聞きて信心歓喜す」といえり。「其の名号を聞く」というは、ただおおように聞くにあらず。善知識にあいて、南無阿弥陀仏の六の字の謂をよく聞き開きぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりと心得られたり』 (三帖目六通)

『そもそも、当流に立つる所の他力の三信というは、第十八の願に「至心・信楽・欲生我国」といえり。これ即ち三信とはいえども、唯弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。その故は如何というに、宿善開発の行者、一念弥陀に帰命せんと思う心の一念発るきざみ、仏の心光、かの一念帰命の行者を摂取したまう。その時節を指して、「至心・信楽・欲生」の三信とも言い、又この意を願成就の文には「即得往生・住不退転」と説けり』 (四帖目一通)

『願成就の文には、「聞其名号・信心歓喜」と説かれたり。この文の意は「其の名号を聞きて信心歓喜す」といえり』(三帖目六通)『この意を願成就の文には「即得往生・住不退転」と説けり』 (四帖目一通)。
など、蓮如上人も『弥陀の本願』を常に『本願成就文』の教えで、一貫して説かれていることが知られる。

これらの親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人のお言葉など、『本願成就文』以外に親鸞聖人の教えのないことが明示されている。






もう見え見えだと思うんだけど、チューリップ企画がやろうとしているのは、

とりあえず、【本願成就文=親鸞聖人の教えの全て】を印象づけて、
「本願文」も、当然その「親鸞聖人の教え」の中に当然含まれるということから、
【本願成就文=本願文】を主張しておいて、

そのままどさくさにまぎれて

【「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」】
を認めさせようとしてるんでしょうね~(苦笑)。

でも、チューリップ企画が提示している資料は、

【本願成就文≠本願文】
【「若不生者不取正覚」≠「即得往生住不退転」】

を証明する
要素しかないんちゃいますかね~(苦笑)。



覚如上人は『改邪鈔』に、こう述べていられる。
「それについて三経の安心あり。その中に『大経』をもって真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」


 ↓
「本」=「至極」
「十八の願」=願成就

じゃなくて、

「本」<「至極」
「十八の願」<願成就

でしょ?(笑)


「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず」

親鸞聖人は、「信心歓喜乃至一念」と説かれている『本願成就文』四十字の教えを、浄土真宗の安心であると断定し、真実の信心(心行)獲得したか、どうかの物差しとされた。


 ↓
じゃあ、「本願文」の「若不生者不取正覚」で決着はおかしいよね?(苦笑)



もっと言わせもらうと、以下の文とかって、
明らかに蓮如上人の言葉を都合に合わせて途中で切ってるよね?

『願成就の文には、「聞其名号・信心歓喜」と説かれたり。この文の意は「其の名号を聞きて信心歓喜す」といえり』(三帖目六通)『この意を願成就の文には「即得往生・住不退転」と説けり』 (四帖目一通)。
など、蓮如上人も『弥陀の本願』を常に『本願成就文』の教えで、一貫して説かれていることが知られる。



これによりて「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。かるがゆゑに、「信心歓喜」といふは、すなはち信心定まりぬれば、浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころなり。このゆゑに弥陀如来の五劫兆載永劫の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまふことのありがたさ、たふとさをおもへばなかなか申すもおろかなり。
(三帖目六通)

善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば
 ↓
報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり
 ↓
かるがゆゑに
 ↓
「浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころ」=「信心歓喜」

でっせ。

報土に往生することが確定する→浄土の往生が疑いなく思う→不体失往生

ちゃいますか~??(笑)


そもそも当流にたつるところの他力の三信といふは、第十八の願「至心信楽欲生我国」といへり。これすなはち三信とはいへども、ただ弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。
そのゆゑはいかんといふに、宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。
(四帖目一通)

まず、【「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」】ではないよね?(笑)


そんでもって、

宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、
 ↓
仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。
 ↓
その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、

ということであって、
この「摂取」を受けた=至心・信楽・欲生の三信を持った人が、
「即得往生住不退転」という境地に達するということで、
その人が、「真実信心の行人」=「宿因深厚の行者」=「平生業成の人」なわけだよね?

ほんなら、「真実信心の行人」=「宿因深厚の行者」=「平生業成の人」とイコールな、
「即得往生住不退転」という境地に達した人=不体失往生した人
の根拠として、「本願文」の「若不生者不取正覚」じゃおかしいですよ(苦笑)。


チューリップ企画さん!
自分の都合に合わせて資料を変な所で裁断せんといてね~!
それでなくても「断章取義」とか「捏造」とかの評判(?)が高いんですからね~!

★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

チューリップ企画の論理展開だと、どう考えてもこの問題が発生するのよね(苦笑)。
とんでもない「邪義」じゃん(笑)。

↓↓↓

★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。(6月19日)
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
 
 
『親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
 
 
 
『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)
 
 
『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)
 
 
『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。


http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/2008_628_0032_8af2.html

ツッコミ!【第二回】なぜ見解が分かれたか

待ってたよ

親鸞聖人の主著『教行信証』には、こう記されている。
『「横超」(弥陀の本願)とは、すなわち願成就一実・円満の真教、真宗これなり』
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を正しく明らかに知るには、釈迦が、弥陀の本願の願意を徹底して解説された『本願成就文』の外にはないと、『成就文』の教えを「一実・円満の真教、真宗これなり」(大宇宙唯一の、完全無欠の教えであり、真実の教である)と仰っている。
だから『本願成就文』の教え以外に、親鸞聖人の教えはないのである。



http://shinjin.info/2008/08/050830137.html

これはつまり「本願成就文」を根拠にしなかった、
チューリップ企画のアニメが間違いということですよね?(笑)


田中さんの「結論」を受けて、山田さんは以下のように言っていました。

『「横超」とは、すなわち願成就一実・円満の真教・真宗これなり』 
         (教行信証信巻)
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願の願意を明らかにするのは、釈迦の説かれた『本願成就文』しかないと、『本願成就文』の教えを、「一実・円満の真教・真宗これなり」と言われています。
貴方は、その『本願成就文』の中に、弥陀の「若不生者不取正覚」のことは説かれていない、と仰る。
ならば『本願成就文』以外の、「一実・円満の真教・真宗」の教えを示して下さい。

貴方の仰るような「若不生者不取正覚」抜きの『本願成就文』ならば、親鸞聖人は「一実・円満の真教・真宗これなり」とは言われなかったでしょう。
親鸞聖人は「教行信証」はじめ、『本願成就文』以外はどこにも説かれていません。
「一実・円満の真教」以上の教えがあれば、ご教示下さい。

『それについて三経の安心あり。その中に「大経」をもって真実とせらる。「大経」の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす』
 (改邪鈔)

覚如上人も、『本願』は「本」ではあるが、「至極」は『本願成就文』の教えである、と教えられていますが、その『本願成就文』に「若不生者不取正覚」が説かれていないと、貴方は仰る。そんな『本願成就文』なら「至極」の教えと覚如上人が言われるはずがないでしょう。
「至極」以上の教えを示して下さい。

『かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」等の文をもって依憑とす、このほか未だ聞かず』         (改邪鈔)

また、覚如上人は『本願成就文』の教えのみが真実信心獲得の依憑であると教え、「このほか未だ聞かず」と仰っています。『本願成就文』の教え以外説かれなかった親鸞聖人だから当然でしょうが、貴方はどんな教えを聞いていられる方ですか。


http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_671d.html

そんでもって、田中さんとも意見が一致したわけですよね?(笑)。

 前回のメールで、私は、「親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは『若不生者不取正覚』ではなく、『即得往生住不退転』であった」と結論づけました。
 
 貴方の返信は、私の主張を全面的に支持する内容でしたので、ようやく結論が出たものと思います。


http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/2008_64_2343_16c6.html


まあ、これは高●先生も教えておられたことですからね(笑)。

http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-16.html


こんだけ意見が一致してんなら、もう何も「検証」する必要ないんじゃない??(苦笑)

こう言えばよかったのよ!

これだったらいいんだよね~。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-16.html

こういう事情があったわけなんだし、
田中さんからの最初のメールに、浄土宗の方が言ってはるように、
チューリップ企画は以下のように答えていたらよかったのにね~(苦笑)。

↓↓↓

これは友人が言っていたことですが、田中さんから指摘があった最初の段階で、山田さんが

「本願成就文を根拠にすべきでした、すみません。ただ、本願成就文の上から、十八願をこのように味わうこともできたと思います。けれども、これは明文上にない、個人の味わいに過ぎぬことですね。ご指摘いただいたことをしっかり受けとめ、本願成就文を根拠に、ますます現生からの救いの道に邁進したいと思います。」


というように対応しておられたら、田中さんもこれほど大きな問題にはしなかったでしょうし、私のような他宗の人間をあきれさせるようなことにもならなかったと思います。

 誠意のない対応や自浄作用の欠如から倒産に至った某高級料亭を反面教師にして、親鸞会がこれ以上の醜態を晒さないことを願います。
親鸞会教義の相対化・40
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-155.html



その願いも虚しく、残念ながら白い●人や赤●ではなくて、
船●吉●やミー●ホープの道を選んでしまっているようですけど(苦笑)。

「責任者出て来い!!」善恵房証空上人の教え

浄土宗の方が指摘してはったけど、チューリップ企画(=親●会)は、
善恵房証空上人の教えについて何もわかってないんだな(苦笑)。

僕はとやかく言う立場ではないから別にかまわないけど、
善恵房証空上人を派祖としてはる、浄土宗西山派の方とかが見たら、
「責任者出てこい!!」って、怒られまっせ(苦笑)。

↓↓↓

あとこれは、清森さんはご存知かもしれませんが、

聖光上人が親鸞聖人と同じ時期に法然上人の下にいなかったことは以前申しましたが、

体失・不体失往生の論争に関しても、
証空上人も、往生は平生に定まるという「即便往生」をお説きになられていますし、
ましてやアニメのような「念仏申していたら死後に往生できる」という主張は、
証空上人には全くありません。

もちろん、これは浄土真宗的には「伝統」なのかもしれませんが、
今の時代に、つまらない宗我見に捉えられて縄張り争いするべきでないと思うし、
広く一般の人を相手に教えを説き広めていくというのであれば、
まずはきちんとした事実に立つべきで、捏造した情報の上で、
教えを説いていくようなことは、避けるべきなのではないかなと思いました。

そうしていかないと、きちんと文献に当たって確認された時に、
信頼を著しく損なってしまうのではないかなと思います。


http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-35.html

私の友人が証空上人に言及したのは、アニメで証空上人が、


『皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』


という台詞を話すことによって、何も知らない方がご覧になった時に、その方が証空上人を誤解しないためです。

証空上人は、この世での救いを積極的にお説きになり、

 生きて身をはちすの上にやどさずば念佛まうす甲斐やなからん

という歌を詠んでおられます。

しかもこれは、

問うて云く。
摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

答えて云く。
平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。
この三心具足しぬれば、必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。

かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、てらし給うなり。

平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。
故に不捨の誓約と申すなり。
「念佛往生要義抄」(昭法全六八七頁)

というように、「摂取の益は平生の時である」と、仰っておられる法然上人から学ばれたものであり、

>親鸞聖人に指摘されるまで、「往生」と言えば、
>「体失往生」しか知らなかった善恵房証空と、
>そっくりではないかと驚く人もあるでしょう。
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2007_1224_1233_5999.html

というように、親鸞聖人から学ばれたものではありません。

更に証空上人は、

三心発る時即便往生す、此時正しく仏も成仏し衆生も往生す。
『定散料簡義』

と仰せっていますから、「念仏さえ称えれば」などという台詞は、極めて不当なものであると思います。

私の友人は、証空上人に対する誤解を危惧して指摘しただけで、どこかの誰かさんのような、くだらない宗我見や宗派根性は持っておりません。

正確に情報を検討しようともせず、自分のつくりあげた幻の世界の正義感で、つくりあげた敵や悪と戦おうとするような、行為は慎みたいものです。


ついでなのでお勧めの本を紹介しておきましょう。

★浅井成海著『浄土教入門』(本願寺出版)

浅井先生は浄土真宗のお寺のご住職ですが、その学問の立場は、なるべく宗派意識を取り払い、法然上人と親鸞聖人、そしてその他の法然上人のお弟子達の教学を、なるべく客観的に見ていこうとする立場を取ってます。

この本は法然上人・親鸞聖人・弁長上人・証空上人の教えが、念仏とか本願とか信心とか人間観とかテーマ別に整理されていて便利です。
証空上人について語るのであれば、せめてこの本一冊ぐらいは読んでください。


http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-85.html



A『念佛往生要義抄』の記述から、法然上人に関して以下のことが言える。

1)信前(光明に摂取される前)と信後(光明に摂取された後)の区別をしていた。
2)「往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人=三心具足の念仏申す人かどうかで、信前・信後を区別していた。

B『定散料簡義』の記述から、証空上人に関して以下のことが言える。

1)現世における救いである「即便往生」(=不体失往生?)を説いていた。
2)「即便往生」は、三心が発ることによって起きる。

 貴方が、私の提示した資料をまともに読んでいないことは凄くよくわかりました。
 次に論点スライドする時は、もう少し私の挙げた資料を読んでからにしてください。


http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-97.html

「共に明らかにせんとしたのは唯一」って誰が決めたん??

<チューリップ企画の発言>

共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。


http://shinjin.info/2008/07/052003131.html

「共に明らかにせんとしたのは唯一」って・・。
こんなん、いつ誰が決めたんだよ??(苦笑)

おいおい!
いつの間にか、田中さんが送ったもう一つの質問がなかったことになってません?(苦笑)
 ↓↓↓

 体失不体失往生のじょう論において、善恵房に以下のような台詞があります。


『皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』


 しかし、聖教に基づけば、善恵房は、このような説法はしていなかったのではないでしょうか?

 口伝抄によれば、『小坂の善恵房証空は、体失してこそ往生はとぐれと云々。』と記述されていますから、「死ななければ往生はできない」と説いていたことになります。

 どこにも、「念仏さえ称えれば」とは書いていないように思われます。どのような根拠に基づいて「念仏さえ称えれば」と説法していたと判断されたのか、お示し頂けないでしょうか?


http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2007_818_1840_07a5.html

「小坂の善恵房証空は、体失してこそ往生はとぐれと云々」

これは、「死ななければ(極楽)往生は出来ない」という意味であることは明らかですが、ここに「念仏さえ称えれば」と付け加えてよいかが問題だと思います。

口伝抄の続きには、『善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。』とありますように、善恵房の説は諸行往生であったと考えられます。

諸行往生については、執持抄に『臨終をまち、来迎をたのむことは諸行往生をちかいまします第十九の願のこころなり。』と記述されているように、弥陀の十九願の往生ですから「念仏さえ称えれば」という意味にはなりません。

また、法然上人のお弟子であった聖覚法印は、唯信抄に『諸行往生というは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがうなり。』と記述されています。つまり、法然上人は諸行往生について、このように説法されていたと推定されます。

つまり、『どんな人でも、良い行いに励んでいれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』と表現すべき内容だと思います。

念仏も善行の一つだと言えないことはありませんが、これを、『念仏さえ称えれば』と表現しては、意味が変わってしまいます。

現今の浄土真宗の寺院において、称名正因の説を唱えている僧侶が少なくないことに対する警鐘の意味で描かれたものだと拝察しておりますが、少なくとも善恵房の責任ではありませんし、事実とも異なってしまいますので、このような表現は不適当ではないかと考えます。


http://shinjin.info/2007/10/2014486.html


田中さんは改めて尋ねてますけど、一方的に無視してるやん(苦笑)。
 ↓↓↓

 次に、善慧房証空が、「念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていく」と説いていた根拠についてもお聞きしたく思いますが、仕事は忙しさを増すばかりで、今までのように長々と議論をするつもりはありません。
 
 根拠があるなら、その根拠をストレートに挙げてください、無いなら無いと答えて下さい。曖昧な返答や、質問を質問で返すような返答の場合は、「無い」という返答だと判断して、それ以上議論するつもりはありませんので、悪しからずご了承ください。


http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/2008_64_2343_16c6.html


チューリップ企画得意の質問無視!(苦笑)
 ↓↓↓
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/2008_65_1504_7f2d.html



やっぱ、こっちは絶対勝ち目がないから、
「勝てる!」と思った「若不生者」で勝負したのかなあ?

むしろこっちで「ごめんちゃい」しておいた方が、
「浄土真宗ではこう受け取っている!」とかなんとか言い訳できるし、
ダメージ少なかったかもしれなかったかもしれないね。

まあ、今となっては後のカーニバルだけど(苦笑)。

ツッコミ!【第一回】論戦の発端

チューリップ企画の「徹底検証親鸞聖人の教え」始まりましたね~。
いや~待ってましたよ~(苦笑)。

これからボコボコ、ツッコミ入れまっせ~!

ただ、一度にあんまりいっぱいツッコミ入れると、
頭のキャパシティーに不自由しているロボコンがわけわかめになっちゃうから、
一回につき、一番「おいおい!」と思う所にしぼってツッコミ入れることにするね(笑)。


それではいきまっせ~!
 ↓↓↓
【第1回】論戦の発端
http://shinjin.info/2008/07/052003131.html

長期に亘る多くのメール交換によって、双方の「若不生者」の「生」に就いての見解の相異点が明白になった。
田中氏は「死んで、極楽に生まれさせることだけ」だと主張し、チューリップ企画は、「この世、信楽(絶対の幸せ)に生まれさせ、死後、極楽に生まれさせる」という誓いであると、主張する。故に弊社のアニメには、そのように描かれているのである。




ツッコミ1

「田中さんは根拠を挙げて自説を論証しているのに、チューリップ企画は論破されている」
というのを言い忘れてるやん!(苦笑)

<田中さんの根拠>
1)2007 10/20(土) 14:48
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_2ae4.html

親鸞聖人が不体失往生を主張されたことは口伝抄に明らかです。しかしながら、不体失往生とは、「至心信楽をえた」ということであって、「極楽に往生した」という意味ではありません。

尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。

いずれも、「至心信楽をえた」者が極楽に生まれなければ仏に成らないという意味ですから、「若不生者」は、極楽に生まれなければ、という意味になります。

また、唯信鈔文意には『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』と記述されています。

これも、同様に、親鸞聖人は、若不生者を真実報土に生まれることと解釈されています。

ビデオにおける件の部分は、現生での救いを強調するための表現だと拝察しておりますが、本願についての解釈が親鸞聖人と異なってはならないと考えます。



2)2008 5/25(日) 22:09
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/2008_525_2209_58e0.html

 そもそも貴社の誤りは、不体失往生の根拠として、「若不生者不取正覚」の八字を使ったことでした。
 
 親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは本願成就文の「即得往生住不退転」の八字です。
 
 ビデオの製作者は、本願成就文も、本願文も同じようなものだから、どちらでも良いだろうと思われたのかも知れません。
 
 もし私が製作者だったら、迷わず「即得往生住不退転」を使ったでしょう。
 
 
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠として、「若不生者」ではなく、「即得往生」を使われた文章を紹介します。
 
 
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。→唯信抄文意
 
 即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。→愚禿抄
 
 
 
 当然ながら、体失不体失往生の根拠とされる、口伝抄に描かれている法然上人のお言葉も「即得往生住不退転」の八字を出されており、「若不生者不取正覚」はどこにもありません。
 
 親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
 
 ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。
 
 親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。
 
 
 
 確認事項に答えるまでもなく、貴方の返答から、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ということが、自ずと明らかになりました。
 
 しかし、仮に、「若不生者不取正覚」に不体失往生の意味があると誤解していたとしても、親鸞聖人の説き方を理解されていれば、迷わず、「即得往生住不退転」の八字をビデオで描いていたでしょう。
 
 親鸞聖人が不体失往生を論じられる時は、常に「即得往生住不退転」を根拠とされたのですから。
 
 
 
 この場面で、「即得往生住不退転」ではなく、「若不生者不取正覚」を思いついたというのは、ビデオ製作者の勉強不足であって、貴方の責任では無かったのかも知れません。
 
 貴方は、本願成就文の重要性は理解されているようですので、ビデオ製作者に伝えておいていただきたく思います。



<山田さんボコボコにされる>
以下参照(笑)
 ↓
あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-7.html



ツッコミ2

「信楽(絶対の幸せ)」ってなんだよ!(苦笑)
浄土宗の人でも、『尊号真像銘文』は読んでるぞ!(苦笑)
 ↓
親鸞会教義の相対化・31
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-103.html

【4】『会報』vol.2p.135~喜忍(1)

>>>
これは何も聖人の体験ばかりの独断ではない。阿弥陀佛の御本願に誓われていることなのだ。
即ち、第十八願のお言葉で示せば「十方の衆生を必ず信楽の心にしてみせる」と約束なされている信楽の楽の心が大慶喜心となるのだ。
楽は惱み苦しみの反対で、本当の幸福であり喜びをいう。
>>>


阿弥陀仏が「十方の衆生を必ず信楽の心にしてみせる」と約束していないことは、改めて説明する必要もないと思います。

それからこの解釈は、どなたの解釈なのでしょうか?
寡聞にして、この解釈がどなたの説に基づくのかわかりませんが、少なくとも親鸞聖人の解釈と異なることだけは明かだと思います。(※)


※「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。
煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。
『尊号真像銘文』




というか、このドグマって創●学会のパクリ??(苦笑)
 ↓
親鸞会教義の相対化・63
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-202.html
親鸞会教義の相対化・64
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-203.html

ツッコミ!(山田さんへ)

<以下山田さんのコメント>

田中様へ

突然の「受信拒否」の通告を受け、昨年の12月29日の公開宣言直前の、貴方の警告メールを想起せずにおれませんでした。
『「真宗学の基本も知らぬ会社」と烙印を押されてしまうことでしょう。お逃げになるなら、今のうちですよ』
あの大自信が今でもおありなら、当方は「受信拒否」など致しませんので、反論・反問、質問・追及、何時でも気軽に申し出て下さい。お待ちしています。

投稿 (株)チューリップ企画 サービス課 山田 | 2008年7月 3日 (木) 13時32分


http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/2008_72_2243_509e.html
 ↑
山田さんがわざわざ登場してくれたんで、勇気を出して山田さんに話かけたんだけど、
思いっきりシカトされちった(苦笑)。

アニメの「視聴者」であり、法論の熱心な「読者」でもある僕を無視するっていうのは、
企業としてどんなもんなんですかね~(苦笑)。


<以下、シカトされたコメント>

(株)チューリップ企画 サービス課 山田さん

はじめまして!熱心な読者の苦笑です!
いつも楽しく拝見させていただいております!

さっそくで恐縮なんですが、私が山田さんの七月二日のメールにツッコミを入れました以下の文に関してはどのように思っておられますか?

せっかくこちらに登場してくださったので、ぜひ山田さんご自身の意見を聞かせていただきたいと思います。

ちなみに私は、貴社のアニメを全巻持っており、おりおりにお友達にもすすめたりしちゃうぐらい熱心なファンです


↓↓↓↓
チューリップ企画の解答を見てビックリ(苦笑)。
 ↓
http://shinjin.info/2008/07/021514128.html


田中さんがメール受信を強く拒否したのに、メールを送りつけるのは、ストーカーですやん(苦笑)。

しかも、僕ちゃんが事前に釘を刺しておいたにもかかわらず、そのまんまの発言だし(苦笑×2)。

以下、苦笑ちゃんの鋭いつっこみ八連発(笑)

>>☆「読まれた方の判断で良い」
(賛同します)。
 ↓
つっこみ1
だったらしつこくメール送らんでええやん!
(苦笑)。

>>☆「まだ、書きたいことがあるのか」
(書きたいことだらけです)。
 ↓
つっこみ2
だったら田中さんに質問せんでも、自分で体系的にまとめんかい!(苦笑)。

>>☆『貴方の提示された根拠が「若不生者」を解説したものではないと認められましたね』
(とんでもない貴方の誤解です。認めていません。ここに〝こう書いているではないか〟と、あれば指摘して下さい)。
 ↓
つっこみ3
直後に、自分の後出しジャンケンだって言ってるやん!(苦笑)
 ↓
>>☆『「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」することも、お認めになられましたね』
(当方の主張ですから、勿論のことです)。

>>☆『親鸞聖人は、上記のように、至心信楽をえた人(即得往生した人)が、死んで極楽往生するのが「若不生者」だと断定されている』
(それだけと「断定」されてはいません)。
 ↓
つっこみ4
「牛乳買ってきて!」と頼んだら、牛乳とあんパン買ってくるような人を雇って大丈夫なんかいな。この会社は!(苦笑)。

>>☆「信楽をえさせるのは、阿弥陀仏の調熟・破闇の光明の働きです」
(その根拠は、『本願文』の何処ですか)。
 ↓
つっこみ5
阿弥陀仏の本願が十八願オンリーだと思っているんかいな!(苦笑)。
阿弥陀仏の本願は、四十八(『無量寿経』の場合)やんけ!(苦笑)。

>>☆「本題と関係ないことを、質問しないで頂きたい」
(本題が『若不生者不取正覚』ではありませんか。『若不生者』と関係のないことは、一切質問していません。しかも貴方の発言についての質問ばかりです。貴方はメールを拒否できる立場ではないのです)。
 ↓
つっこみ6

田中さんの質問=些末な質問で答える必要もありません!
山田さんの論点スライド=関係あるじゃないですか!

こんなもん通容するかいな!(苦笑)

>>☆「貴方に無視された質問が、数十ありましたが、それは結構です」
(そんなご遠慮は全く無用。答えなかったら、どんどん重ねて質問、追及して下さい。大いに歓迎です)。
 ↓
つっこみ7
はは~ん。田中さんからもうメールが来ないと思ってるやろ!(苦笑)。
今まで質問無視しまくってたくせに、どの口が言ってんね~ん!(苦笑)

>>☆「貴社に対して非礼な表現があったかも知れませんが……」
(非礼な表現はお互いさま、サラサラお気になさらないで下さい。それよりも貴方が、「ご自分の発言に就いての質問に答えない非礼」のほうが、一番の不愉快です)。
 ↓
つっこみ8
答えてないのはアンタやんけ!(苦笑)。

プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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