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生兵法は大怪我の元

「生兵法は大怪我の元」

なまはんかな武術の心得に頼って事を起こすと、身を守るどころか、かえって大怪我をするということ。中途半端な知識や技術を振り回すと大失敗をするという戒め。
(創拓社『文芸作品例解 故事ことわざ活用辞典』より引用)を更に無断転載


ほんまやね~(苦笑)。
 ↓

清森問答 投稿:N田講師の間違いについて

静かな劇場
http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/a5699a55af60ed9c2d26e1da3fd1fbd5

> また、地震などの災害に巻き込まれて大怪我した場合、それも本人の業力のしからしむところと言われますが、なぜ業力というものは、未来に起きる地震の場所をまるで予測したかのように自分をそこへ引きずり出せるのか?悪因悪果といっても、少しも科学的、合理的な説明になってないではないかと感ずるのでしょう。


 地震や災害に巻き込まれて大怪我したのも、その人の業力のせいだと説明し、それを科学的、合理的に説明してみせると意気込んていました。これに対し、どんな説明ができるのかと楽しみに見ていましたが、結局愚にも付かない屁理屈を述べるばかりで、予想通りの結果でした。
 ただ、科学的知識の浅い人が読むと、騙される人も出てくるのではないかと心配なので、科学的見地からN田講師の主張を検証したいと思います。


 まず、ニュートン力学の見地から言えば、親鸞会で説くような因果の道理は絶対にありえません!!
 地震が起きる場所を予測して、そこに行くなどという芸当は、地質的なデータを全て知っていたとしても難しいことです。それを何も知らない私が、悪いことをやっただけで地震の起きる場所が正確に分かり、そこに行ってしまうなんて絶対に無いことです。
 また、親鸞会で説くように、悪業を持っている人めがけて、トラックの積み荷が落ちてきて事故に遭うなどということも、絶対にありえません!!
 荷物は、運動方程式に基づいて正確に運動するため、どんな悪いことをやった人が近づいてきても、それによって結果が変わることは無いのです。

 そこで、N田講師はニュートン力学の否定に入ったわけですね。

 まず、最初に持ち出したのが「人生は夢である」という説。もし人生が夢ならば、何でもアリですね。夢の中なら空でも飛べます。
 そういうわけで、悪いことを夢の中でやっていると、地震が起きる夢を見たり、トラックの積み荷が落ちてくる夢を見る。
 一応、理論的にはあり得ます……

 しかし、これを正当化すると、布教する意味なんてないですよね。自分が話している相手は実在せず、心が生み出した幻なのですから。どんなに頑張っても誰も救われません。
 N田講師は、相手が実在すると思うからブログなんて書いているんじゃないですかね。夢の中で書いたブログなんて、誰も読めませんよ。

 こういうわけで、人生は夢であるという説は、意味が無いです。
 N田講師も、この説はあとのエントリで否定しています。


 次に、量子力学の観測問題。
 コペンハーゲン派の解釈に基づけば、私たちの認識、すなわち心によって世界が生み出されるという考え方は一応可能です。ただし、これは原子レベルの話を言っているのであって、日常レベルの大きさの物質に当てはめることは普通しません。
 日常レベルの物質も、原子で構成されているのだから当てはまるのだと拡大解釈しているのでしょうけど、無理があります。

 しかし、ここは百歩譲って、N田講師の仮説がすべて正しいとします。

 量子力学で、どんな世界が生み出されるか(正確には、物質の位置がどこに決まるか)は、確率によってのみ決定されます。ここに過去の事象は関与しません(詳細な説明はしませんが、アスペの実験により確認されています)。
 つまり、良いことをやっていた人には良い世界が生み出されたり、悪いことをやっていた人には悪い世界が生み出されることは、絶対に無いということです。

 N田講師、墓穴掘っちゃいましたね。

 量子力学を根拠に、世界は心が生み出すのだから、と主張すると、過去の行為と無関係に運命が決まることになりますよ!

 また、量子力学の考えでは「不確定性原理」により、未来の正確な予想は絶対に不可能です。これを日常レベルに持ち込むなら、地震の起きる場所を予測して引きずっていくなんて有り得ないことが分かります。

 もともと、量子力学は原子レベルの運動を扱うので、これを日常レベルに当てはめることに無理があるのですが、それを当てはめた結果分かることは、親鸞会の因果の道理は絶対に間違っているということです。

 最後にモナド論!
 物質世界は存在せず、それぞれの心で、お互いに共通した夢を見ている、とでも言ったら良いでしょうか。最初に挙げた、夢の中で布教しても意味がない、という欠点を補う形の主張ですね。

 このモナド論によると、それぞれ別の夢を見ていますが、共通の法則に基づいた夢を見ています。Aさんの見る夢では物体は下に落ち、Bさんの見る夢では物体は上に落ちる、ということはありません。同じように物体が下に落ちているように見えるから、共通認識が保てるのです。

 では、この共通の法則とは何でしょうか?
 これは先ほど挙げたニュートン力学や量子力学といった物理法則です。
 つまり、モナド論においても、物理法則に反するような事象は起きないということです。

 親鸞会の因果の道理は、すでに説明した通り、物理法則と合いませんので、モナド論を持ち込んでも、結果は一緒です。あんなことはあり得ません。残念でした。

 親鸞会の因果の道理を正当化するには、摩訶不思議なパワーが存在し、物理法則さえも曲げることができ、そのパワーが、良いことを行ったひとには良い結果をあたえ、悪いことを行った人には事故や災難を与える。こう考えるしかありません。

 だけど、この「パワー」を「神」と書きかえれば、親鸞会の人が忌み嫌う「神信心」と同じです。

 信仰するのは自由です。神社に賽銭を投げれば御利益があると信じるのを非難するつもりはありません。
 しかし、論理的には、それと同レベルの「親鸞会の因果の道理」を、さも科学的であるかのように装うのは、詐欺に近いと思いますので、このように申し上げました。

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メモ「仏教における善悪」

用管窺天記 「仏教における善悪」 より無断転載
 ↓ ↓ ↓

仏教における善悪

10 月 20th, 2008
講義録から引文

仏教で善悪と言うのはどういう事かと言うと、善悪というのは行為の倫理的な価値判断の言葉です。
その行為が良い行為であるか悪い行為であるかというので善悪という言葉を使う訳です。

行いの倫理的な価値判断を善悪と言う訳です。行いの事を仏教ではカルマンとかカルマという言葉を使います。翻訳して業と言います。それは行いという事です。自らの自由な意志によって決断をして身体で口で心である行為を行う。そういう行為を業という言葉で顕わしております。

その行為の倫理的な価値判断の言葉が善悪という言葉です。精密に言いますともう一つあります。善・悪・無記というのです。無記というのは善とも悪とも判定できない行為の事を無記という言葉で言います。そこで正確に言いますと善・悪・無記という三つの倫理的な性質というので、これを三性という言葉で顕わします。行為の倫理的性質の事です。

善というのは何かと言ったら、その行いによって自他の上に安らかな状況を作り上げていくような行いを善と言うのだ。善というのは安穏なる結果をもたらす行為です。安穏というのは安らかな穏やかなという事で、その行為の結果、自分も人も安らかな穏やかな生き方ができるような行為の事を善と呼ぶのです。

それに対して悪というのは非安穏なる結果です。この非安穏なる結果とは何かと言ったら苦悩です。安穏なる結果というのは苦悩に対して楽です。だから非安穏なる結果、つまり苦悩を生み出していくような行為を悪と呼ぶ訳です。だから悪というのは苦果を招くもの、善というのは楽果を招くものと昔から言うのです。

苦とか楽というのは結果なのです。行いによってもたらされる結果なのです。苦とか楽というのは善でも悪でもないのです。苦楽は善でも悪でもありません。苦は悪ではありません。楽は善ではありません。善・悪というのはそういう状況を造り出していく行いの事に名付けるのです。これは非常に精密な言葉です。

例えば地獄というのは苦しみの一番最たるものですが、地獄は悪ではないのです。あれは悪によって造り出していく結果であって地獄そのものは無記なのです。善でも悪でもない。幸せな状況というものも善でも悪でもない。それも無記な状況です。

だから地獄においては善を造る事もできる。天上界という楽なる所において悪を造る事もできる訳です。ですから善悪というのは私達の行為に対して倫理的に判断した言葉が善悪という言葉で、これは精密に言葉を使わないと意味をなしません。

この行為の事を仏教では業と言います、業という言葉はどうも誤解がありますので使いません。誤解する言葉は使わない方が良いのです。だから行為としておきます。それで良いのです。カルマという事は行為という事です。行為というのは何かと言うと、先ず行為の主体は自由な意志を持った者です。自由な意志を持った者でなかったら行為はできません。物が動いてるという事と行為とは別です。行為というのは必ず自由な意志によって決断して行っていく事です。意志によって決断して行っていく事を行為と言う訳です。意志的なはたらきの事です。従ってそういう意志的な決断によって行った行為の結果についての責任は自分が持たねばならないという事です。反対に自分の行為によって行った結果でないものに対しては責任を持つ必要はありません。これはハッキリしております。何に対して責任を持つか、何に対して責任を持たなくて良いのか、これは仏教はハッキリさせています。郵便ポストが赤いのも私のせいでございます。そんな事を言いはしません。

自分が自由なる意志の決断によって行った結果、その結果に対して自分が責任を持つのです。ただし自分が決断すべき事を決断しなかったという事も勿論自分の責任になります。だけど責任というのは意志的な決断によって行為をし、それによって受ける結果に対して責任を持つという事です。全く自由な意志がはたらかない状況において生み出していった結果に対しては責任を持つ必要はないのです。だから例えば心身喪失の状態で行った犯罪に対しては、その責任は問わないという事です。これは当然です。それは自由なる意志によって決断した行為ではないのですから。逆に意志的に決断して行った行為に対する責任は絶対逃れてはいけない、逃げようとしてはいけないという事です。そういう点が非常にキッチリした事を語る訳です。

・・善=安穏なる結果(楽)をもたらす行為
三性・・悪=非安穏なる結果(苦悩)をもたらす行為
・・無記=善とも悪とも判定できない行為

そこで話を元へ戻しますが、善と悪と無記というのはこういう事です。自分と及び人に対して安穏なる結果をもたらすような行為を善と言い、自分と人に対して非安穏なる結果をもたらすような、苦しみの結果をもたらすような行為を悪と言うのだという風に定義をしております。

そうしますと悪い事をするという事は何かと言うと、自分と人と苦しめるという事です。自他を苦しめていく、そういう状況を悪と言う訳です。だから悪をなす者というのは一番惨めな者だという事です。憐れむべき存在であるという事です。善なる行為を行っておるという事は、それは称讃されるべき者である。自分自身ものびのびとした安らかな生き方ができるし、また称讃に値する人である。

だけど自ら悪を造って苦しみの中に沈んでいく人は当然非難されるべき存在です。これは当然の事です。これが善悪という言葉の持つ意味です。だから仏様が悪人を救うと言ったら。この悪人をどうする事なのかと言いますと、ちょうどお医者さんが病人の病気を治して健康にしていくように、もう悪に染まる事のない者に仕上げていくという事が救いなのです。

ダンマパタ
67 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
68 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。  

(再・再掲載)ちび●さんのおかげでわかりました!!五願開示もパクってた?!

腐海の蟲への制裁処置につき再・再掲載(笑)。



※とりあえず、これは読んでおいてね!!

以下、ちび●さんのおかげでわかりました!!

この親●会講師試験の問題&解答は、
元親●会講師部のメル友からもらったものなんですが、

 ↓ ↓ ↓

~親●会 平成4年度後期・講師試験問題より~

問4 十八願の心は五つの願にあらわすことができるが、その五つの願を
   示し、その五願を本願文と対比せよ。

答4 ◎十一願・十二願・十三願・十七願・十八願

   ○十一願……若不生者
   ○十二願……至心信
   ○十三願……楽欲生我国
   ○十七願……乃至十念

~親●会 平成4年度後期・講師試験 11月22日実施 問題 より~



親切なちび●さんが、上記の解答の間違いを指摘して、
丁寧に五願開示を解説してくれました~。
 ↓ ↓ ↓

生きる意味を知って幸せな人生を ゲストブック

ikiruimiwositte 2009/2/2(月) 午後 7:05
(略)
 それと、この答え違ってません?
 十二、十三願が「至心信楽欲生我国」?

五願開示をもう一度勉強されたほうがよろしいかと思います。



五願開示とは(そんなにわかりにくいかね?)

「たとひわれ仏を得たらんに、

十方の衆生、至心に信楽してわが国に生れんと欲ひて、

乃至十念せん。

もし生れざれば、正覚を取らじと。

ただ五逆と誹謗正法を除く」(十八願)

これに五願の意があると開かれたのが教行信証の「五願開示」といいます。

行巻に「乃至十念」......十七願

信巻に「至心信楽欲生我国」......十八願

証巻に「若不生者」.......十一願

真仏土巻に「(不取)正覚」......十二、十三願


>信巻に「至心信楽欲生我国」......『十八願』→ここに明らかにされた十八願がある。

これが親鸞聖人の御己証。

往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あ
り。乃至。
真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
 若不生者(→この『生』には「浄土に生まれさせる」という意味がない)
 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

>若不生者(→この『生』には「浄土に生まれさせる」という意味がない)

なぜなら「正定と滅度」は11願に誓われているから。
またこの11願を「難思議往生」と証巻に表されています。

以下文証。

 往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あ
り。
 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無
量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」
 真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲
生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」
 真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果
の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必
至滅度者 不取正覚」
 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。
 この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。 (如来二種回向文)




なんで親●会の模範解答が間違ってるんだろ~?
というわけで・・

元親●会講師のメル友に聞いてみました~♪
 ↓ ↓ ↓

苦笑ちゃんが貰ったメール

頂きましたご質問についてですが、講師試験の答えが発表の後、確か平成4年の教学講義で、ある人の質問で五願開示について、18願との対応関係が、なぜそうなるかを聞かれた人がありましたが、その時の高●先生(※注 苦笑が伏せ字にしました)の答えは、知らなくてもいい、というような答えで、誤魔化された感じがしました。

12願が至心信、13願が楽欲生我国に当てはめるのは、一般の真宗の学者では、大沼法龍氏しか私は知りません。何冊かの真宗学者の書いた本では、12願、13願は、正覚に対応する、とあったのを読んだことがあります。




というわけで、大沼先生の本から引用~!!
 ↓ ↓ ↓ 

●『法界』(昭和36年)p.344 
 その名号を領受した相を第十八願では信楽と言い、成就の文では信心歓喜と仰せられたのである。光明無量の智慧が届けば疑いの雲は晴れるから信、寿命無量の慈悲が届けば往生の願いが満足するから楽、衆生は疑いの惑いの為に業を造り、業を造るから苦しむ、苦しむから増々惑うのであるが、我等の疑いの惑いも光明に照らされ、仏智満入すれば疑雲は消除されるけれども貪愛の煩悩はよく見える、見えるから機の懺悔となり、慎みとなり俗諦の形儀となるのである。(以下略)

●『法界』(昭和36年)p.367
 その光明無量寿命無量の念力が私に届けば信楽の二文字となり、開けば信心歓喜となり、曇鸞大師は破闇満願と教え、道綽禅師は罪悪観と無常観で説き、善導大師は信機信法で示して居られるのだ。(以下略)

●『八万の法蔵は聞の一字に摂まる』(昭和50年)p.240

         ┌光明無量─空間的無辺─十方─智慧──信心
宇宙の真理─名号─│                     (中略)
         └寿命無量─時間的無辺─三世─慈悲──歓喜

 弥陀の名号を称え、真理と一体になれば、光明無量の智慧によって疑いが晴れたから信となり、信心となる。寿命無量の慈悲を頂くから楽となり、歓喜となる。(以下略)




これを高●先生はそのまんまパクってま~す!!
 ↓ ↓ ↓ 

●『会報』vol.2 p.185 信忍(10) 昭和58年
 阿弥陀佛の名号には光明無量と寿命无量の全徳がある。
 その光明無量の智慧が我々衆生に届けばツユチリ程の疑心も晴れ亘るから、本願の文では信となり、成就の文では信心と教えられた。
 寿命无量の慈悲が衆生に届けば无量永劫生きぬく力が与えられるから本願の文では楽となり、成就文では歓喜と説かれている。

●『顕真』昭和59年5月・6月号
 邪見驕慢の極悪人が、自分であることに驚き、必死に聞法求道さされた人が、助かる望みが絶ちきられたときと、仏智の不思議に助けられたときとは同時であって、まさに不可称・不可説・不可思議の境地です。(これを信楽という)
 光明無量で、無明の闇が晴れた相が「信」。
 寿命無量で、志願が満足できた相が「楽」。
 盲人の眼が開けたときの慶び。心眼の開かれたこの境地は、「心も言葉も絶えたれば……」と、聖人も、ご述懐の通り、驚天動地、人知の想像のつくものではありません。



なるほど!!これで、

 光明無量(十二願)→信
 寿命無量(十三願)→楽

となるわけね~。


そんでもって、聞くところによると親●会では、

 至心  =大安心=信
 欲生我国=大満足=楽

と教えられてるみたいだから、


  ○十一願……若不生者
  ○十二願……至心信
  ○十三願……楽欲生我国
  ○十七願……乃至十念

   ↑
五願開示がこういう解答になって、
ちび●さんに「違う!」と叱られちゃうわけだ!

お~!
なんで講師試験の解答が間違えたのかわかったぞ!!(笑)




ちび●さんのおかげでわかりました!!
結局これもパクリだったのだ!!

これに触れて欲しくなかったから、
高●先生は五願開示を使わなかったのね(笑)。

ありがと~!
名義詐称野郎とか言ってごめんね~!




追記1

 以下、ちび●さんにお知らせし、お礼を申し上げておきました♪

生きる意味を知ってー仏教を知りたいひとのために ゲストブック

苦笑(本人) 削除 2009/2/4(水) 午後 9:19

ikiruimiwositte様へ

先日は私の質問に回答&丁寧な解説を頂きありがとうございました。
おかげで高●先生のパクリに基づく間違いがハッキリわかりました。
 ↓↓↓
ちび●のおかげでわかりました!!結局これもパクリだったのだ!!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-181.html

これに触れて欲しくなかったから、チ●ーリップ企画(=高●先生)は、
五願開示を使わなかったのかもしれませんが、
貴方のおかげで、高●先生のパクリに基づく間違いを明らかにすることができました。

ありがとうございます。心から感謝いたします。
今まで「名義詐称野郎」とか罵倒して申し訳ありませんでした。

勝手ながら、こちらのサイトへのリンクを貼らせて頂きます。
よろしければ相互リンクで、今後もよろしくお願い申し上げます。

苦笑拝




追記2

喜んで頂けたようで、嬉しいですね~。
 ↓

ikiruimiwositte  2009/2/5(木) 午前 0:55

大沼氏は学者ですから、そういう説があるということで勉強になりました。
祖師聖人は御文と願を対比されてませんからそういう解釈もあるのでしょうね。


苦笑(本人)   2009/2/5(木) 午前 9:10
喜んで頂けたようで私も嬉しいです。
今回は、私にとってもよい勉強の機会になりました。
今後もよろしくお願いします。

相互リンク方もご検討頂けたら幸いです。

コメントまで捏造してんじゃね~よ!!

Hiroshi Makino氏には、以前のやり取りでめちゃガッカリさせられましたが、
ここまで卑怯・卑劣な野郎とはびっくら仰天ですな(苦笑)。

この野郎!!コメントまで捏造してんじゃね~よ!!
 ↓ ↓ ↓

清森問答 投稿:「辛口!真宗時評」管理人様 より

 ある方から、投稿を頂きました。

 以下のサイトの管理人はmakino hiroshi氏だと聞いていますが、もしこれが親鸞会の牧野講師であったら、非常に残念なことだと思います。

 他人のコメントを勝手に改変して、都合の悪いところを削除して掲載するなどということは、管理人としてやってはならないことです。

 親鸞会では、お聖教の言葉の一部を改変したり、削除するということがよく行われていましたから、それを真似てしまったのかも知れません。

 もし、makino氏がこのサイトを読んでおられるなら、コメントを改変したり、隠したりせずに、正々堂々と議論することを、強くお勧めします。


        *        *        *

 辛口!真宗時評(10月5日)
 http://sinshu.blog.shinobi.jp/Entry/577/
 
 
 [こういう自己流の解釈を説法と呼べるのか]
 ラジオ法話「みほとけとともに 西本願寺の時間」では、
 登尾唯信氏の「挫折もまた人生」でした。
 
 (中略)
 
 上記のラジオ法話は、とても、その御一流からは大きくかけ
 はなれたと、言わざるを得ません。

        *        *        *

 この記事に対して10月7日、淀川コナンのHNで以下のコメントをしました。


私も、自己流の解釈をする布教師を知っています。
例えば、親鸞聖人のご和讃の
若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生かならずさだまりぬ
の解釈を
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心になれる時が必ず来るんだ
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈しています。
管理人様ならご存知だと思いますが、このご和讃は
若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
一念の信心を喜んでいる人は
死ねば極楽往生間違いないんだ
と解釈されます。
ご自分の味わいとしてならば、宜しいとはおもいますが....。 


 それに対して管理人(M氏)は以下の返信がありました。


コメント有り難うございます。
お尋ねしますが、
A「若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
 信楽の心になれる時が必ず来るんだ
 一念の信心を喜んでいる人は
 死ねば極楽往生間違いないんだ」
B「若不生者と誓われた阿弥陀仏のご本願があるから
 信楽の心にまことに時至って(信楽の心を阿弥陀仏から頂いて)
 一念の信心を喜んでいる人は
 死ねば極楽往生間違いないんだ」
AとBとは、どこが違うのでしょうか。
誰が聞いても分かるような、決定的な違いを、聞かせてください。
 

 それに対して私は10月9日夜に、


管理人様。返信遅くなりました。
聡明な管理人様ならばお解りだと思ったのですが…。
Aの解釈ならば、「若不生者のちかいゆえ」は「信楽まことにときいたり」に係ります。つまり「若不生者」の生は「信楽」の心に生まれさせる、という解釈ですね。
Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は「往生かならずさだまりぬ」に係ります。つまり「若不生者」の生は「極楽」に生まれさせる、という解釈です。
また、その布教師は「一切衆生必堕無間と経典に書かれています」と言っていますが私はそんな経典を知りません。
管理人様はご存知ですか?


 というコメントを「管理人様」というタイトルでしました。
 しかし、タイトルは「無題」に変えられ内容は削られました。
 以下が、実際にブログに掲載されたコメントです。


管理人様。返信遅くなりました。
Aの解釈ならば、「若不生者のちかいゆえ」は「信楽まことにときいたり」に係ります。つまり「若不生者」の生は「信楽」の心に生まれさせる、という解釈ですね。

Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は「往生かならずさだまりぬ」に係ります。つまり「若不生者」の生は「極楽」に生まれさせる、という解釈です。


 そして、その改変されたコメントに対する管理人のコメントが以下の通りです。


>「Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は
>「往生かならずさだまりぬ」に係ります。
>つまり「若不生者」の生は「極楽」に生ま
>れさせる、という解釈です。」
では、信楽に生まれさせるのは何の力ですか?

 そのコメントに対して10月10日の夜に以下のコメントをしました。(ネットカフェでコメントしたのでテキストが残っていないので正確ではありませんが内容はこんな内容です)


タイトル「断章しないで下さい」

管理人様へ
私のコメントを断章しないで下さい。
承認制なので不掲載は仕方ないですが、断章されたら私の意見が読む人に伝わりません。
あなたの行為は仏法者としてというよりも人間として恥ずべき行為です。
私の知っている布教師も断章が得意ですが。
また勝手にタイトルを無題にしないで下さい。
お尋ねの件ですが、私が問題にしているのは若不生者の生が何をどう生まれさせるか、その事を親鸞聖人はどう仰っているか、です。
何の力で信楽に生まれさせるか、は別の問題です。
親鸞聖人のみ教えを学ぶ者として、誠意ある回答をお願いします。


 その私のコメントを掲載せずに、管理人が10月11日夜中に以下のコメントがありました。


> Bの解釈は、「若不生者のちかいゆえ」は
>「往生かならずさだまりぬ」に係ります。
>つまり「若不生者」の生は「極楽」に
>生まれさせる、という解釈です。
「往生かならずさだまりぬ」にも係っていて、
これは「報土往生が定まる」ことですが、では、
「報土往生定まる」のは、平生ですか。死後ですか。
「報土往生する(極楽に生まれる)」のは、平生ですか。死後ですか。
(先の「信楽に生まれさせるのは何の力ですか」にもまだお答えを頂いていません)


 ここまでが、現時点での経緯です。


「阿弥陀仏の本願」も勉強し直した方がいいんじゃね?(苦笑)

親●会ドグマに染まっている諸君は、
「阿弥陀仏の本願」も勉強し直した方がいいんじゃね?(苦笑)
 ↓ ↓ ↓

清森問答 質疑応答180 より

【質問】


 清森問答で、以下のように教えていただきましたが、親鸞聖人の教えは三願転入ですから、十九願の善として財施も勧められているのではないでしょうか。よろしくお願いします。


> また、親鸞会に対する「財施」を、信心決定と結びつけて教えられることも問題だと思います。親鸞聖人は、「信心決定のために、財施に励め」などとは、どこにも教えられていません。



【回答】


 結論から言いますと、親鸞会では十九願の善は勧められていません。親鸞聖人は、十八願に入るために十九願の善を実践せよとは仰っていないからです。

 十九願では、諸々の功徳を修めた者を、臨終に救う(化土往生させる)と誓われています。臨終の救い(化土往生)を求めて、善を修めることを十九願の善というのです。信心決定を求めて、善を修めることを十九願の善とは言いません。

 十八願では、信楽の者を必ず浄土往生させると誓われています。信楽になるのは聞即信の一念であって、そのために善を修めなければならないとは教えられていません。

 つまり、十九願と十八願では、まったく方向性が違うのです。親鸞会の教え方では、十九願を進んだ先に十八願があるように誤解させます。

 親鸞聖人の三願転入の御文も、十九願ではダメだった、二十願でもダメだった、十八願では救われた、ということであって、十九願を進んだ先に二十願があり、二十願を進んだ先に十八願がある、という意味ではありません。

 今の親鸞会は、十九願の理解も、十八願の理解も間違っています。

 信心決定を求めて善を修めるのは十九願だと思っているのも間違いならば、十八願の救いに遇うために善に励むのも間違いです。

 このように書くと、「親鸞会で、『善をすれば信心決定できる』などと言ったことは無い」と反論が来るでしょう。

 しかし、親鸞会の会員さんに、「何のために活動に頑張っているのか?」「何のために御報謝を出しているのか?」と尋ねたら、どう答えるでしょう。

 当然、「信心決定のため」と答えるでしょうね。講師部員でも同じだと思います。

 この現状が、何よりも親鸞会の間違いを物語っています。





初心者のためのとってもよいサイトが出来たから、
ドグマを注入された諸君もこれを読んで勉強してね。
 ↓ ↓ ↓

やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)

本当の善知識は無条件服従を強要せえへんのや!!

本当の善知識は無条件服従を強要せえへんのや!!

いい年した大人が、「腕の一本や二本へし折る!」とか脅されて、
間違った教えを説いてる、自称善知識に無条件服従してんじゃね~よ!!

暴力を振るわれても、毅然と師匠の誤りを正した法然上人を見習えよ!!
 ↓ ↓ ↓

清森問答 親鸞会教義の相対化・83 より

 以前、親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠としてあげているものが、何れも根拠になっていないことを解説しましたが、(*1)
最近、別のサイトでも親鸞会のこの教義への批判がなされています。(*2)

 よい機会ですので、法然上人が師弟関係をどのように捉えておられていたか、法然上人の言葉に基づいて解説しておきたいと思います。

 法然上人には師である叡空上人と教義論争を行い一歩も譲らず、最終的には叡空上人が誤りを認めたというエピソードがあり、(*3)

 また、この論争は口論にとどまらず、叡空上人による暴力沙汰にまで発展しましたが、法然上人は一歩も讓っておりません。(*4)

 ここで、法然上人が叡空上人と論争された際に、阿弥陀仏の化身であり、釈尊の言葉と同じ価値のある、(*5)「善導大師の言葉」という「聖教」に基づいて経典解釈を行い、
たとえ師匠であっても「さきにこそむまれ給たれ」だけであり、「師匠が仰せになっていたから」ということが、経典解釈の上で全く根拠にならないということを、
法然上人が明確にされていることを、きちんと押さえておく必要があるでしょう。

 ご存じのように、『大乗涅槃経』において釈尊は、
「依法不依人(法に依りて人に依らざれ)」と仰になりました。

 仏教徒は、釈尊のお説きになられた「法(教え)」に基づいて仏教を学ぶべきであり、
法然上人の教えに従う者は、更に善導大師の言葉を仏説と同じように尊び、(*5)
そこに個人的な見解を勝手に混入することは避けなければなりません。

 ところで、親鸞会では以下の『歎異抄』における言葉を拡大解釈することにより、高森先生に対する無条件服従が強要されているようです。(*6)


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、
また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからず候ふ。
(『歎異抄』二章)


しかし、この親鸞聖人の言葉は、

★親鸞聖人の法然上人に対する姿勢

を表明したものあって、先に述べたように、

★法然上人に親鸞聖人が強要された

ものではありません。

親鸞聖人が法然上人に絶対の信頼を置かれたのは、
あくまで、法然上人が釈尊や善導大師の言葉という「聖教」に基づいて、
教えを説かれた方だからこそであり、絶対の信頼を置く根拠が存在します。

しかし、高森先生の教えが、釈尊や善導大師の「聖教」や、
それらに基づくことによって根拠を持つ法然上人や親鸞聖人の「教え」に抵触した場合は、高森先生の教えを信頼することの根拠は全くありません。(*7)

講師の方や熱心な会員さんが、
「高森先生にならだまされて地獄に堕ちてもかまわない!」
という姿勢を貫かれるであれば、
その方に対して、私から申し上げることは何もありませんが、
このことは、はっきりさせておく必要があるでしょう。

以上


*1 以下の記事参照

1,「琵琶湖を一人で埋めなさい」と仰せになって「かしこまりました」と言う態度を蓮如上人が要求してはいない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-240.html

2,『法華経』の「善知識者是大因縁」という言葉は、親鸞会で使われるような意味では使われていない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-106.html

3,釈尊と阿弥陀仏という二尊の御心を無視し、浄土門の教えを求める者に、「求法太子の求道姿勢」を強要する人物は、法然上人の教えを受け継ぐ者ではい。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-107.html

4,親鸞会が高森先生への絶対無条件服従を強要する根拠として挙げる『般舟三昧経』に記述は、「現在諸佛の面前に立つ三昧」(=般舟三昧)に至るために不可欠なプロセスであり、浄土門における信心獲得のためのプロセスではない。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-108.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-119.html

*2 以下の記事参照

親鸞会教義の誤り 善知識には無条件服従しなければならないのか1
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-15.html

同 善知識には無条件服従しなければならないのか2
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-16.html

*3
ある時上人往生の業には、称名にすぎたる行、あるべからずと申さるるを、
慈眼房は、観佛すぐれたるよしをの給ければ、
称名は、本願の行なるゆへに、まさるべきよしをたて申たまふに、
慈眼房又先師良忍上人も、観佛すぐれたりとこそおほせられしか、
との給けるに、
上人、良忍上人も、さきにこそむまれ給たれ、と申されけるとき、
慈眼房腹立したまひければ、
善導和尚も、上来雖説定散両門之益望佛本願意在衆生一向専称彌陀佛名、と釈したまへり、
称名すぐれたりといふこと、あきらかなり。
聖教をば、よくよく御覧じ給はでとぞ申されける。
(『四十八巻伝』巻6)

*4
弥陀如来、称名を本願とたて給へる上には、往生の業におきては、
称名にすぐるる行あるべからずと、上人たて給う時、
師範叡空上人、観仏はすぐれ称名はおとれる也との給ふを、
上人、なほ念仏勝たる義をたて給うに、
叡空上人立腹して、こぶしをにぎりて上人のせなかをうちて、
先師良忍上人もさきにこそ生まれ給ひたれと、上人申されける時、
叡空上人いよいよ腹をたてて沓ぬぎにおりて、あしだを取りて又うち給へば、
聖教をよくよく御覧候はでとぞ申されける哀れなりし亊なり。
(『九巻伝』巻第一下)

*5
静かにおもんみれば、善導の観経の疏は、是れ西方の指南、行者の目足なり。
しかればすなはち、西方の行人、かならず、すべからく珍敬すべし。
就中(なかんづく)毎夜(まいや)の夢の中(うち)に、僧ありて玄義を指授せり。
僧といふは、おそらくはこれ彌陀の応現なり。
しからばいふべし、この疏は彌陀の伝説なりと。
いかにいはんや、大唐に相伝していはく、善導はこれ彌陀の化身なりと。
しからばいふべし、この文はこれ彌陀の直説(ぢきせつ)なりと。
すでに、写さんとおもはんものは、もはら経法のごとくせよといへり。
此のことば、まことなるかな。
仰ぎて本地(ほんぢ)をたづぬれば、四十八願の法王なり。
十劫正覚のとなへ、念佛にたのみあり。
ふして垂迹(すいじゃく)をと訪(とぶら)へば、専修念佛の導師なり。
三昧正受のことば、往生に疑いなし。
本迹(ほんじゃく)ことなりといへども化導これ一(いつ)なり。
(『選択集』第十六章)

*6
 親鸞会の我々には今、二つの目的がある。一つには自身の信心決定であり、二つには真宗の流れを変えることの二つである。いずれも世間のどんな難事業よりも至難な大事業であり、どれだけ心身を砕いて精進してもし足りないが、二大目的の達成は、善知識に無条件服従できるか否かにかかっているといえよう。
 このことは歴代の善知識が明らかにしておられることだが、事実我々はどうであろうか。
 自己の理性を基に正邪を判断し、愛憎違順する我々に、無条件服従は極めて難しい事である。
 理性が満足せねば、善知識の仰せに対し、本会の種々の指示に対し、「なぜですか」「どうしてですか」「納得できないからやれません」等々疑い、不信、反抗の鎌首をところかまわずもちあげる始末、
 それでもまだ足りず、自らの怠惰な求道を棚に上げ、「もう少し早く進める方法はないか」と善知識の御指導に不平を漏らし、法謗の徒と化す根性。この心こそが曠劫流転の親玉であり、正しい判断できると自惚れている心が仏心を受けつけぬ元凶であることを知らねばならない。
 仏法に対しては全く狂った考えしかないから無条件服従が必要なのであり、善知識は信心決定への全因縁といわれる理由があるのである。
 蓮如上人が親鸞聖人のことをある人に尋ねられた時、「我も知らぬことなり。何事も何事も知らぬことも開山のめされ候ように御沙汰候」と仰せになっている。これは「私も判らぬ、しかし何事も何事も親鸞聖人のなされたようにするのがよろしい」という意味で蓮如上人の親鸞聖人に対する無条件服従の姿勢を明らかになされたものである。
 我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。
 この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。
(「顕正新聞」昭和54年8月)

*7 親鸞会の教義上の誤りを指摘しているサイトには、以下のもの等がある。

清森問答
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/

苦笑の独り言
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

安心問答
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/

高森先生の親鸞会教学を検証する
http://atamagaokasiku.blog34.fc2.com/

21世紀の浄土真宗を考える会
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/

親鸞会教義の誤り
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/

昔は「不得外現賢善精進之相」をこのように解釈してたのにね。。(『こ●なことが知りたい』より)

~高●顕徹著『こ●なことが知りたい』vol. 3 より~

(22)誰もなされなかった親鸞聖人の読み方や、解釈はどんなものか(二)

(中略)

 また『観無量寿経』の中で善導大師が、
「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」(外に賢善精進の相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ)
と記されている文章を親鸞聖人は、
「外に現賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」(教行信証信巻)と読み替えられ、これまた意味をひっくり返しておられます。
 善導大師の仰っているのは、
「外面は賢善精進の立派な相をしておっても、内心にうそ偽りの醜い心を持っていてはなりませんよ」
と、外と内の不一致をいましめられたお言葉です。
 ところがそれを、
「外に現賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり」
と読み替えられて、
「どうせみんな内心は、うそ偽りばかりしか懐いてはいないのだから、賢そうな善人らしい精進の見せかけなんかするな」
と、親鸞聖人は意味を逆転してしまわれました。
「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もされになし」
「外義のすがたはひとごとに、賢善精進現ぜしむ、貪瞋邪偽おおきゆえ奸詐ももはし身にみてり」
「悪性されにやめがたし、心は蛇蝎のごとくなり、修善も雑毒なるゆえに、虚仮の行とぞなづけたる」
「小慈小悲もなき身にて、有情利益はおもうまじ、如来の願舩いまさずは、苦海をいかでかわたるべき」
「蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなふまじ 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん」(以上悲歎述懐和讚)
 あますところなく自己の実相を、弥陀の心光に照破された親鸞聖人は、善導大師の文章をこのように色読せずにはおられなかったのでしょう。

( pp.107-109)



昔は「不得外現賢善精進之相」をこのように解釈してたのにね。。
今はなかったことになってるのかな?(苦笑)

「阿弥陀如来の本願」がわかってなかったのね。。

高森先生の親鸞会教学を検証する 阿弥陀如来の本願 より

教学聖典(2)

問(16)『阿弥陀如来の本願(誓願)』を記せ。
また、この願を何と言うか。

答(16)

設我得仏十方衆生 設い我仏を得んに、十方の衆生、
至心信楽欲生我国 至心に信楽して我が国に生れん
乃至十念     と欲うて乃至十念せん。
若不生者不取正覚 若し生れずば、正覚を取らじ
唯除五逆誹謗正法 唯五逆と正法を誹謗せんことを除かん。

○また、至心信楽の願とも言う。



はいはい。
間違いだらけですね~、親鸞会の説明は。
なんでかわかります?
高森先生の18願の説明聞いて、
明らかに総ておかしいと今ならわかりますよね。
ね、高森先生!

今回は指摘する箇所が多すぎるのでかなり手抜きです。

それじゃあ一つ一つ、簡単に説明しましょうか?
いちいち長文で解説してたらきりがないので、
わからないところがあったら、質問してください。


設我得仏十方衆生 設い我仏を得んに、十方の衆生、

→親鸞会の法話では、
「阿弥陀仏は既に仏になったので、これは関係ありません」
と言われますが、違います。
阿弥陀仏は現に法蔵菩薩の姿をとって、
私達に働きかけておられます。
くわしくは教行信証証巻を参照。

→親鸞会は口では十方の衆生を対象と言っていますが
口先だけですね。
ではなぜ退会者・除名者を口汚く罵り、
あいつは地獄行きだ、とか言うんですか?
(例)支部長「U田の話を聞くと地獄行きですよ!!!」
これは例ですが、実際に言われたことだと聞きました。
本当に十方衆生が救済の対象なら、そんなこと言い切れないはず。
どうしてそんなこと言うのでしょう?


至心信楽欲生我国 至心に信楽して我が国に生れん
乃至十念     と欲うて乃至十念せん。

→はい、親鸞会の説明では全然意味が説明されていません。
だいたい、「大安心大満足の境地になれる」って、
仏法をこの世を明るく楽しく渡る道具程度にしか思ってないの?
ていうか、説く高森先生にも至心なんてカケラもないし、
聞く親鸞会会員にも欲生我国の心なんて微塵もないよね。
乃至十念の解釈も適当すぎるし。


若不生者不取正覚 若し生れずば、正覚を取らじ

→出ました。「生まれるに当益の意味は全く無い」ですか?
親鸞聖人のお言葉をあげておきます。

「若不生者 不取正覚」というは、
若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。
このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、
わが浄土にもしうまれずは、仏にならじと
ちかいたまえる御のりなり。


唯除五逆誹謗正法 唯五逆と正法を誹謗せんことを除かん。

→「全人類は逆謗と見抜かれた」ですか?
んなわけねーじゃん!
高森先生、本当に真宗学を勉強したの?
抑止門と摂取門を知らないわけじゃないよね?

以下、教行信証信巻より。

光明寺の和尚(善導)いはく(散善義)、
「問うていはく、四十八願のなかのごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて、往生を得しめず。いまこの『観経』の下品下生のなかには、誹謗を簡ひて五逆を摂せるは、なんの意かあるやと。
 答へていはく、この義、仰いで抑止門のなかについて解す。四十八願のなかのごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、ただちに阿鼻に入りて歴劫周章して、出づべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。またこれ摂せざるにはあらざるなり。
また下品下生のなかに五逆を取りて謗法を除くとは、それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は、いまだ為らざれば、また止めて〈もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得じ〉とのたまふ。これは未造業について解するなり。もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。


うん、18願の解説すべてが、親鸞会はおかしいんだね。
よーくわかりました。
50年聞いても、18願の説明が狂っていては、
誰も救われないわけです。




そっか。。
「阿弥陀如来の本願」がわかってなかったのね。。

聖道門の理論を無理やり浄土門にあてはめちゃだめよ。

メル友が絶賛してたので、このブログでも以下の記事を紹介しておきます。
 ↓ ↓ ↓
21世紀の浄土真宗を考える会 歎異抄第2章を読む その2

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。

関東から命がけで京都まで訪ねてきた門弟たちに親鸞聖人がおっしゃったと言われる言葉です。
ここで、「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」とはどういうことなのでしょうか。
考えてみましょう。
ここでは
「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し」と
「また法文等をもしりたるらん」の
2つのことについて門弟たちが疑問を持っていたということが分かります。
2つ目の「また法文等をもしりたるらん」は、親鸞聖人御消息集の「さては慈信が法文のやうゆゑに、常陸・下野の人々、念仏申させたまひ候ふことの、としごろうけたまはりたるやうには、みなかはりあうておはしますときこえ候ふ。かへすがへすこころうくあさましくおぼえ候ふ。」などからも分かりますように、慈信房善鸞の言いだした法文を指しています。
では、1つ目の「しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し」はどういったことを表しているのでしょうか。
この主語は親鸞聖人ですから、「この親鸞が念仏以外の道を知っており・・・」と親鸞聖人がおっしゃったのですが、なぜ親鸞聖人がこのようにおっしゃったのかということです。
この親鸞聖人の言葉から類推できることは、誰かが「念仏以外に往生の道があるぞ」と言い出したというものでしょう。
その「誰か」とは誰なのか?
念仏以外の往生の道とは何なのか?
題目を唱えて極楽往生できると教えた人はいませんので、これは違います。
すると、この1つ目もやはり慈信房善鸞のことを指していると考えるのが自然です。
御消息には
「第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり。 」
と善鸞の行状について書いておられますように、善鸞は念仏(第十八願)だけでは助からないと言いだしたのではないかと思います。
このことは同じく御消息の「笠間の念仏者の疑ひとはれたる事」の内容とも関連します。

このように読むと、次の「南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば・・・」と続く文も意味が分かります。
ここからは、承元の法難の直接のきっかけとなった興福寺奏状、また、少し前の延暦寺奏状(延暦寺大衆解)が思い出されます。

興福寺奏状は下記のものです。

元久2年(1205年)、南都の興福寺の僧徒から、吉水教団に対する九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止を訴える。
「興福寺奏状」
興福寺僧網大法師等誠惶誠恐謹言
殊に天裁を蒙り、永く沙門源空勧むるところの専修念仏の宗義を糺改せられんことを請ふの状右、謹んで案内を考ふるに一の沙門あり、世に法然と号す。念仏の宗を立てて、専修の行を勧む。その詞古師に似たりと雖もその心、多く本説に乖けり。ほぼその過を勘ふるに、略して九ヶ条あり。
九箇条の失の事
第一新宗を立つる失
第ニ新像を図する失
第三釋尊を軽んずる失
第四不善を妨ぐる失
第五霊神に背く失
第六浄土に暗き失
第七念仏を誤る失
第八釋衆を損ずる失
第九国土を乱る失

この中の第6の「浄土に暗き失」とは何でしょうか。
他の8項目は理解しやすいですが、この6番目の非難はどういうことでしょうか。
私がかつて読んだことのある本を調べてみましたが、どういうわけか、この6番目だけが抜けていました。
なぜでしょうか?
それにしても、聖道門の人が浄土門の人を非難するのに、「浄土に暗き失=浄土の教えを知らない」とは奇異な感じです。
これはどういうことかというと、
法然上人が諸行往生(観無量寿経に説かれてある定善、散善による往生)を否定され、下品下生の悪人に教えられた念仏一行をとって、念仏往生を勧められたからです。
それは、聖道門の人たちからは、観無量寿経そのもの、ひいては大無量寿経の三輩の往生までをも否定しているように見えたのです。

そして、法然たちの説いていることは、廃悪修善、自業自得の因果の道理を無視し、仏法を破壊するものだと言っているのです。
その根拠としているのが、
 諸悪莫作
 諸善奉行
 自淨其意
 是諸仏教
の七仏通戒偈だったのです。

つまり、解脱貞慶上人たちは、聖道門の理論を無理やり浄土門にあてはめようとしたことが分かります。
これではすべての人を平等に救うという阿弥陀仏の本願を理解できるはずがありません。

法然上人は西方指南鈔(親鸞聖人筆)に次のように仰っています。
問。極楽ニ九品ノ差別ノ候事ハ。阿彌陀佛ノカマヘタマヘル事ニテ候ヤラム
答。極楽ノ九品ハ。彌陀ノ本願ニアラス。四十八願ノ中ニナシ。コレハ釋尊ノ巧言ナリ。善人悪人一處ニムマルトイハハ。悪業ノモノトモ慢心ヲオコスヘキカユヘニ。品位差別ヲアラセテ。善人ハ上品ニススミ。悪人ハ下品ニクタルナリト。トキタマフナリ。イソキマカリテシルヘシ云云

話を元に戻しましょう。
慈信房善鸞は何を唱えたのでしょうか?
それは
「第十八の願に説かれている念仏の救いだけではいけない。諸善万行もしなければならない。」
といったようなものであったのでしょう。
そうすれば、歎異抄第2章の前半は無理なく理解できます。

もちろん、善鸞は、
・余の人々を利用しようとした
・神に仕える者ののまねをした
などもしていますが、関東の門弟たちが命がけで聞きに行かねば、分からないことではありません。
また、歎異抄第2章には「念仏無間」を唱えた日蓮宗を意識しての言葉もないことはないですが、長い人で20年以上親鸞聖人から教えを受けていた門弟たちが迷うようなことでもないと思います。
(日蓮が鎌倉で念仏無間を唱えたのは親鸞聖人が80歳を過ぎてからで、それがそんな短期間に関東一円まで広まり、門弟たちを動揺させたとも考えにくいことです)




聖道門の理論を無理やり浄土門にあてはめちゃだめよ。

「一切衆生必墮無間」ドグマの不当な罪業観で人々を苦しめ、
念仏を否定することにより浄土門の宗教的平等性を破壞しやがる、
「なんちゃって諸行往生」な某会の皆様は、
以下の記事と合わせて、よ~く勉強しておいてね。
 ↓ ↓ ↓ 

親鸞会教義の相対化・66
親鸞会教義の相対化・67
親鸞会教義の相対化・68

Q&A(18)親●会は「諸行往生」にも値しません。

とりあえず、これは読んでおいてね!!(再掲載)

せっかくちび●さんが解説してくれたので、
これは読んでおいてね!!
 ↓ ↓ ↓


五願開示とは(そんなにわかりにくいかね?)

「たとひわれ仏を得たらんに、

十方の衆生、至心に信楽してわが国に生れんと欲ひて、

乃至十念せん。

もし生れざれば、正覚を取らじと。

ただ五逆と誹謗正法を除く」(十八願)

これに五願の意があると開かれたのが教行信証の「五願開示」といいます。

行巻に「乃至十念」......十七願

信巻に「至心信楽欲生我国」......十八願

証巻に「若不生者」.......十一願

真仏土巻に「(不取)正覚」......十二、十三願


>信巻に「至心信楽欲生我国」......『十八願』→ここに明らかにされた十八願がある。

これが親鸞聖人の御己証。

往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あ
り。乃至。
真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
 若不生者(→この『生』には「浄土に生まれさせる」という意味がない)
 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

>若不生者(→この『生』には「浄土に生まれさせる」という意味がない)

なぜなら「正定と滅度」は11願に誓われているから。
またこの11願を「難思議往生」と証巻に表されています。

以下文証。

 往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あ
り。
 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無
量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」
 真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲
生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」
 真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果
の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必
至滅度者 不取正覚」
 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。
 この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。 (如来二種回向文)



五願開示(まだわからない人のために)

尊号真像銘文の本願文の解釈を一願該摂といいます。

十八願のそれぞれの御文が11、12、13、17、18願のそれぞれの願意を表している、

という解釈です。

「十八願の『至心信楽欲生我国」が18願の意を表している」とはどういうことでしょうか。

十八願と18願が同じものなら、意味のないことになってしまいます。

>18願の意を表している

この18願が親鸞聖人が教行信証信巻に明らかにされた「(純粋な)18願」の意味です。

「(純粋な)18願」は「信心を廻向する」という意味であり

「死んで浄土に生まれさせる」という意味はありません。

「尊号真像銘文」と「如来二種回向文」を読み比べればよくわかります。



「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを
至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見の
ゆゑなり。「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなく
ふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち
十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひ
の至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」といふは、他力
の至心信楽のこころをもつて、安楽浄土に生れんとおもへとなり。(18願意)

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の
定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼし
めして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。如来より御ち
かひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。(17願意)

この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。
「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり。
「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころは、すなはち至心
信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは、仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
(11、12、13願意)

(尊号真像銘文)


 往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第17願)にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏
 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」

 真実信心といふは、念仏往生の悲願(第18願)にあらはれたり。信楽
の悲願、『大経』にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲
生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

 真実証果といふは、必至滅度の悲願(第11願)にあらはれたり。証果
の悲願、『大経』にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」
 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。
 この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。 (如来二種回向文)




ちなみに、以上の文章を書いた方は、
某チャンネルに「デカ丸」を名乗って書き込みしてた人です。
 ↓ ↓ ↓
【本人の証言】

ikiruimiwositte
2009/2/2(月) 午後 6:48

デカ丸名で書いたのは私ですから、書いてもらって結構ですよ。
2chはあまり雑な議論が続いたので失礼させていただきました。




そんでもって、この人は名義詐称野郎で、
以前は「ちび丸」を名乗って書き込みしてました。
 ↓ ↓ ↓

【本人の証言&周囲のツッコミ】

685 :神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 23:32:15 ID:AClwmmwV
>>678,681,684
苦笑のコメント覧に書けよ。

687 :神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 23:37:10 ID:AClwmmwV
というか、

チビ丸法戦記
浄土真宗における「でたらめ教学」との論議を残しておきます。
http://tibimaru7.blog7.fc2.com/
 ↑
このブログに書き込みしろよw
全く更新してないじゃんww

689 :デカ丸:2009/01/30(金) 23:50:36 ID:OSG5RnqU
>チビ丸法戦記

よく見つけたね。
あんまり相手の言ってることがくだらんのでやめたんだよ。
パスワード忘れて削除できん。

690 :神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 23:51:08 ID:tQ6inL9b
やっぱ本人wwwwww

694 :神も仏も名無しさん:2009/01/30(金) 23:59:47 ID:hfUafQ2C
>>689
チビ丸君のウソがまた一つ明らかになりました。


  294 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2009/01/27(火) 20:13:09 ID:q8L+czKh
  実はちび丸って聖道門と浄土門を完全に混同しているな(笑)

  297 名前:デカ丸[sage] 投稿日:2009/01/27(火) 20:21:55 ID:pWSouuOz
  >実はちび丸って

  私はデカ丸だよ。チビ丸に勝ったんだよ。私はえらい。

  392 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2009/01/28(水) 17:51:47 ID:Sfbl+zqP
  チビ丸君へ

  君は反論できなくなると、その度にコピペで荒らして逃げる悪癖があります。
  そして他人には謝罪を要求しますが、自分のウソがバレ、
  間違っていたときはダンマリで逃げてしまいます。
  どうか今回はそんなことが無いようお願いいたします。

  396 名前:デカ丸[sage] 投稿日:2009/01/28(水) 18:00:39 ID:f5W9NqTP
  >君は反論できなくなると

  チビ丸っていうのは悪いやつだね。
  私はちゃんと答えたよ。
  じゃね。


 ↑ ↑ ↑
とりあえず、これは読んでおいてね。



これを読んだから、必ずこれも読んでね。
 ↓ ↓ ↓
ちび●のおかげでわかりました!!結局これもパクリだったのだ!!

だれでもお浄土へ往けるのか どうか 明確にしましょう(追記)

辛口!真宗時評
だれでもお浄土へ往けるのか どうか 明確にしましょう より


今、本派が力を入れているビハーラ活動の理念について、以下の
ように書かれています。
本願寺社会部 ビハーラ活動の理念

<親鸞聖人における死の受けとめ方

  親鸞聖人のみ教えは、浄土教の伝統を受け継いでいますが、
 阿弥陀仏の臨終来迎を期待するものではありません。ご消息
 には、次のように記されています。

 「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。
  このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
  信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまた
  ず。」(『注釈版聖典』七三五頁)

  ここに親鸞聖人は、臨終の瞬間にみ仏の救いを待つ必要は
 なく、平生においてすでにみ仏に摂取不捨されているという
 救いを明らかにされています。それは、死に直面している人々
 の寂しさや不安を軽視したのではなく、いまここで、すでに
 み仏に抱きとられ護られていることを明らかにすることによ
 って、どのような最期を迎えても、必ずお浄土に往生すると
 いうことを説かれたのです。>

 さてここで、重大な一文が抜け落ちていることに、賢明な皆さんは
お気づきでしょう。
 宗祖は、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに正定聚に住す」
とおっしゃっているのであって、上記の解説文では「真実信心の行人
は」という部分が、抜けています。あたかも、真実信心の人も、未信
の人も、すべて死ねばお浄土に往ける、と言われていませんか。
 
 これは、この部分だけでなく、あらゆる法座、文書伝道、ラジオ、
ネット上で、発信されていることにも、共通しています。
 「あなたは、すでに救われているのですよ」と言っても、「えっ?
私が・・・。ホントですか?信じられないなあ」「いや、気づいて
いないだけで、救われているんですよ」「ふーん?」で、終わりに
なってしまう、これじゃ話が進みません。

 真実信心の人は、お浄土へ行けるのですよ
 じゃあ、どうすれば、その身になれるのですか

というところから、聞法が始まるのではないしょうか。
そこを説くのが布教であり、そこを聞くのが聞法ではないでしょうか。
そうなってこそ、宗門が、活発化すると思います。いかがでしょう。



その通り!!ナイスツッコミ!!

これは、阿弥陀仏の本願の解釈を、

 阿弥陀仏が信心を与えてくれる
 =衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている

なんてことにしちゃって、
事実上、所謂「十劫安心」を肯定しちゃってる、
某浄土真宗系新宗教団体を、
批判してはるんですよね!!


全く仰る通り!!ナイスツッコミ!!
これからも親●会批判頑張ってね�j�R���




おまけ 

やさしい浄土真宗の教え §5 何の力によって信心を得るか? より

注3 以下のCさんのツッコミが素晴らしい。

かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(後半) より

もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!




追記

上記の記事にコメントを入れてみました。
さて、このコメントは承認してもらえますかね~♪
 ↓

その通り!!
全く仰る通りです!!

勝手ながら、私のブログでこちらの記事を紹介させて頂きました。
 ↓
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-276.html

ありがとうございました。


ツッコミ番外編!みんなまとめて・・だから何?(苦笑)

ちび●ちゃんが頑張って書いてくれてます。
 ↓
浄土真宗と浄土宗の違い1
浄土真宗と浄土宗の違い2
浄土真宗と浄土宗の違い3
浄土真宗と浄土宗の違い4
浄土真宗と浄土宗の違い5
念仏は信楽を獲るための条件ではない
 ↑
みんなまとめて・・だから何?(苦笑)


「念仏」と「信心」を切り離して考えるのが、
親●会クオリティーなんだよ(苦笑)。

浄土真宗の親鸞聖人だけじゃなくて、
親鸞聖人の師匠の法然上人も、浄土宗二祖の聖光上人も、
「信心を伴った念仏」を奨めてまっせ。
不勉強なちび●ちゃんが知らないだけで、
清森問答を読んでるお友達はみんな知っているのよ(苦笑)。
 ↓

親鸞会教義の相対化・3(質疑応答44)



「念仏を奨める」=「信心を奨めない」
       ↑↑↑
これが、親●会が捏造したヘンテコドグマやねん~(苦笑)。

せっかくいろいろ教えてあげてるんだから、
親●会頭をちょっとは相対化して書かなきゃダメよん(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

質疑応答164
親鸞会教義の相対化・76(投稿)
親鸞会教義の相対化・26


あと、こんなことをいくら頑張って書いても、
親●会が念仏よりも財施を強烈に奨めて無駄遣いしたり、
クリーニング屋を造ることの根拠にはなりまへん~(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

次はクリーニング屋かよ。。
大切な浄財を無駄遣いしてんじゃね~よ!




あ!あとこれなんだけど、
 ↓

念仏は信楽を獲るための条件ではない

『十二箇条問答』における「三心を獲れば往生できる」云々の話は、前提として「極楽浄土に往生することを願う人も多く、念仏する人も多いなかで」という条件が入っている。

とは言ったけど、

「念仏は信楽を獲るための条件」なんて言ってないよ。

またまた得意のワラ人形論法で、
捏造した意見に反論しちゃダメよ(苦笑)。

あと、親●会に財施することもクリーニング屋を作ることも、
信楽を獲るための条件じゃないことも、
ちゃんと言っておいた方がエエよね(苦笑)。

へ~違うんや~!

今朝の記事に、
 ↓
なんや!意見が一致してたんかいな!

ちび●ちゃんが早速コメントしてくれました。
 ↓
生きる意味を知ってー仏教を知りたいひとのために ゲストブック


ikiruimiwositte
2009/2/19(木) 午後 7:39
>意見が一致してたんですね

ありがちな浄土宗的解釈ですが的外れですね。
では記事のところで浄土真宗と浄土宗の違いでもやりましょうか。

へ~違うんや~!

まあ、お互いの意見を確認するために確認したわけだから、
違うなら違うでいいだけどね~。

というわけで、二人の意見は以下のようになりました。。
 ↓ ↓ ↓ ↓

【1】釈尊が『観無量寿経』をお説きになった意図
【1-1】苦笑の見解
阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が『観無量寿経』をお説きになった意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにある、と善導大師は解釈しており、法然上人もそれをうけておられる。
(根拠)
●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。(善導大師『観経疏』法然上人『選択集』第12章)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-191.html

【1-2】ちび●の見解
上記の見解はありがちな浄土宗的解釈だが的外れ
(根拠)
 不明


【2】『十二箇条問答』における「三心を獲れば往生できる」云々の話
【2-1】苦笑の見解
『十二箇条問答』における「三心を獲れば往生できる」云々の話は、前提として「極楽浄土に往生することを願う人も多く、念仏する人も多いなかで」という条件が入っている。
(根拠)
●問いていわく、これ程に易く往生せば念仏する程の人はみな往生すべきに、願う者も多く念ずる者も多き中に、往生する者の希なるは何の故とか思いそうろうべき。
答えていわく、人の心は、ほかにはあらわるることなければ、その邪正さだめがたしといえども、経には「三心を具して往生す」と見えて候めり。この心を具せざるが故に、念仏すれども往生をえざる也。三心と申すは、(中略)
次に廻向発願心というは、わが修するところの行を廻向して、極楽にうまれんとねがう心なり。わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとは思わず、ほとけの願力のいみじくおわしますによりて、うまるべくもなき者もうまるべしと信じて
いのちおわらば仏かならず来りて迎えたまえと思う心を、金剛の一切のものにやぶられざるがごとく、この心深く信じて、臨終までもとおりぬれば、十人は十人ながらうまれ百人は百人ながら生まるるなり。(十二箇条問答)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-194.html

【2-2】ちび●の見解
上記はありがちな浄土宗的解釈だが的外れ
(根拠)
 不明


【3】「持戒の行」「孝養の行」と「念仏の行」の位置づけ
【3-1】苦笑の見解
「持戒の行」「孝養の行」は「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、「念仏の行」は「阿弥陀仏の本願の行」なので最優先に勤めるべきものである、と法然上人は教えておられる。
(根拠)
●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
  女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-191.html

【3-2】ちび●の見解
上記はありがちな浄土宗的解釈だが的外れ
(根拠)
 不明
 ↑ ↑ ↑ ↑
ちび●さんご自身の見解の確認と、
挙げれるなら根拠の提示もよろしくね♪





以下、ちび●ちゃんのご意見&質問に対する解答
 ↓ 

苦笑氏のブログは読みにくい。
わざと読み間違いをさそっているようで.....


【苦笑の解答】
ごめんね~。
あと、ひょっとして携帯で見てる?
パソコンだと、引用の部分が線で囲んであったり、
文字のでかさが変えてあって、ちょっとは読みやすいんだけど、
携帯からだと囲み線も文字のでかさの違いもなくなっちゃうのよ。

できたらパソコンから見てね。お願い


私がどの発言を削除したのか、お答え願えますか?

>やっぱ速攻で削除されるかな?


【苦笑の解答】
いや~。ごめん!ごめん!

結論出てるやん!(追記あり)
こんなサイト見つけました!!(追記あり)
 ↑
親●会関係者がやってはる(と思われる)
これらのサイトにコメントしたら、
他の人のコメントは掲載されるのに、
オイラのコメントだけ掲載されないのよね。

だから、てっきりちび●ちゃんも削除すると思ったわけですわ。

いや~削除されなくてすげ~嬉しかったですよ~。
気分を悪くさせちゃってごめんなさいね~。




追記

ちび●ちゃんに報告しました!!

苦笑(本人)
2009/2/19(木) 午後 9:42
コメントありがとうございます!
いや~見解は一致してなかったんですね~。
確認してよかったですよ。

お互いの意見をまとめ直しましたので、
再確認よろしくお願いしま~す。
 ↓
へ~違うんや~!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-197.html


あと、いろいろ気分を害させてごめんね~。
なるべく気をつけるよ。俺も。うん。


なんや!意見が一致してたんかいな!

先日の記事に、
 ↓
ちび●ちゃん!またまた「断章取義」っすね。(追記あり)

ちび●ちゃんがコメントくれました。
 ↓
生きる意味を知ってー仏教を知りたいひとのために ゲストブック

> 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
> 念仏する人も多いなかで、

「念仏しても」って書きましたが、何か。
よく読んでくださいね。
隠顕がわからないと行信論は無理ですよ。

なんや!意見が一致してたんかいな!

オイラの文章読解力に問題が有るのか、
ちび●ちゃんの表現様式に難点が有るのか、
オイラの読解力とちび●ちゃんの表現様式の相性が悪いのか、
いずれかの原因で、
ちび●ちゃんの文章がオイラの意見と違うものに感じたんでしょうね~。

とりあえず、これまでのやり取りで
意見が一致した所を整理しておくんで、
確認よろしくお願いしま~す!
 ↓

~ちび●ちゃんと苦笑ちゃんで意見が一致したもの~

【1】阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が『観無量寿経』をお説きになった意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにある、と善導大師は解釈しており、法然上人もそれをうけておられる。

(根拠)
●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。(善導大師『観経疏』法然上人『選択集』第12章)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-191.html


【2】『十二箇条問答』における「三心を獲れば往生できる」云々の話は、前提として「極楽浄土に往生することを願う人も多く、念仏する人も多いなかで」という条件が入っている。

(根拠)
●問いていわく、これ程に易く往生せば念仏する程の人はみな往生すべきに、願う者も多く念ずる者も多き中に、往生する者の希なるは何の故とか思いそうろうべき。
答えていわく、人の心は、ほかにはあらわるることなければ、その邪正さだめがたしといえども、経には「三心を具して往生す」と見えて候めり。この心を具せざるが故に、念仏すれども往生をえざる也。三心と申すは、(中略)
次に廻向発願心というは、わが修するところの行を廻向して、極楽にうまれんとねがう心なり。わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとは思わず、ほとけの願力のいみじくおわしますによりて、うまるべくもなき者もうまるべしと信じて
いのちおわらば仏かならず来りて迎えたまえと思う心を、金剛の一切のものにやぶられざるがごとく、この心深く信じて、臨終までもとおりぬれば、十人は十人ながらうまれ百人は百人ながら生まるるなり。(十二箇条問答)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-194.html


【3】「持戒の行」「孝養の行」は「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、「念仏の行」は「阿弥陀仏の本願の行」なので最優先に勤めるべきものである、と法然上人は教えておられる。

(根拠)
●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
  女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-191.html
~ちび●ちゃんと苦笑ちゃんで意見が一致したもの~
 ↑
とりあえず、この三点は意見が一致したということでいいですよね?


以下に関しては、上記三点を確認頂いてからやね~。
 ↓

ikiruimiwositte
2009/2/18(水) 午後 11:24

「善にもすすむべき」が「善をすすめられた根拠ではない」という
苦笑氏の話も、よくある間違いですね。
観経疏にある隠顕の扱いとか勉強されたらいかがでしょうか?
ずいぶんわかりやすく書いたつもりですが。
手取り足取りというわけにもいきません。

http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23493928.html

http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23499023.html





もちろんこれも、ちび●ちゃんに報告したよん。
 ↓

苦笑(本人)
2009/2/19(木) 午前 8:43
コメントありがとうございます!
なんや!意見が一致してたんですね(笑)。

これまで意見が一致した所を三点まとめてみたんで確認お願いします。
 ↓
なんや!意見が一致してたんかいな!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-196.html





追記

某巨大掲示板に紹介されました♪

93 :神も仏も名無しさん:2009/02/18(水) 23:09:48 ID:WILhEaT6
>>91
ID:FwCNgjXt=ちび丸=偽デカ丸なら、
こんなとこ荒らしてないで、自分のブログを更新しろよ。

ツッコミ入ってるぞw
ちび●ちゃん!またまた「断章取義」っすね。(追記あり)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-194.html

103 :神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 01:54:28 ID:k1rOw/KA
苦笑すげえ。オレは苦笑シンパだ。

116 :神も仏も名無しさん:2009/02/19(木) 10:02:24 ID:EzZ1E/Nq
「苦笑の独り言」がまた更新されていましたよ。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/

M野子牛、ちゃんと答えてよ。あなたは、いつも相手の意見に対して捏造、改竄、
断章取義のオンパレードだからね。すぐにわかるのよ。

ビルでしっかりカキコしてね。



壞れたテレコみたいに同じことばっか言ってる、
チ●ーリップ企画より話しててオモロイし、

ちび●ちゃんが何か書いてくれる度に、
こうやって紹介してもらえてアクセス数もガンガン上がるから、
ホンマニ感謝してまっせ~。

ちび●ちゃん!またまた「断章取義」っすね。(追記あり)

ちび●ちゃんのブログ 念仏しても往生を遂げず(法然上人) より

法然上人のほうが「善のすすめ」は多いことをご存知ないようですね。


「人間の心は外から判断できないので邪正を決めることは難しいが

経典には「三心を獲れば往生できる」とある。

この心を獲ていないから「念仏しても往生することができない」のである。

三心のひとつ、廻向発願心というのは自分の修めた善根を廻向して

極楽浄土に生まれたいと願う心である。」


人の心は、ほかにはあらわるることなければ、その邪正さだめがたしといえども
経には「三心を具して往生す」と見えて候めり。この心を具せざるが故に、
念仏すれども往生をえざる也。乃至。
次に廻向発願心というは、わが修するところの行を廻向して、極楽にうまれんとねがう心なり。わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとは思わず、ほとけの願力のいみじくおわしますによりて、うまるべくもなき者もうまるべしと信じて
いのちおわらば仏かならず来りて迎えたまえと思う心を、金剛の一切のものにやぶられざるがごとく、この心深く信じて、臨終までもとおりぬれば、十人は十人ながらうまれ百人は百人ながら生まるるなり。(十二箇条問答)

あ~ん?(苦笑)

問いていわく、これ程に易く往生せば念仏する程の人はみな往生すべきに、願う者も多く念ずる者も多き中に、往生する者の希なるは何の故とか思いそうろうべき。
答えていわく、人の心は、ほかにはあらわるることなければ、その邪正さだめがたしといえども、経には「三心を具して往生す」と見えて候めり。この心を具せざるが故に、念仏すれども往生をえざる也。三心と申すは、(中略)
次に廻向発願心というは、わが修するところの行を廻向して、極楽にうまれんとねがう心なり。わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとは思わず、ほとけの願力のいみじくおわしますによりて、うまるべくもなき者もうまるべしと信じて
いのちおわらば仏かならず来りて迎えたまえと思う心を、金剛の一切のものにやぶられざるがごとく、この心深く信じて、臨終までもとおりぬれば、十人は十人ながらうまれ百人は百人ながら生まるるなり。(十二箇条問答)


「これほどに容易に往生するのであれば、
 念仏するような人はみな往生すべきなのに、
 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
 念仏する人も多いなかで、
 往生する者がまれなのはどうしてだと思うべきでしょうか?」
  ↑
ちび●ちゃんが挙げてくれた法然上人のこの言葉は、
こういう質問に対して法然上人がお答えになったものだよん。



ちび●ちゃんはなぜか無視しているけど、
「三心を獲れば往生できる」云々の前提として、


 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
 念仏する人も多いなかで、
   ↑
こういう条件が入ってますね~。

はいはい。
またバレバレの「断章取義」でした(苦笑)。
ちゃんちゃん。




追記

例によって、ちび●ちゃんご本人に報告して来ました~。
 ↓
生きる意味を知ってー仏教を知りたいひとのために ゲストブック

苦笑(本人)
2009/2/17(火) 午後 7:25
こんにちは!

念仏しても往生を遂げず(法然上人)
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23820250.html
 ↑
ツッコミいれました!!

★ちび●ちゃん!またまた「断章取義」っすね。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-194.html

「これほどに容易に往生するのであれば、
 念仏するような人はみな往生すべきなのに、
 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
 念仏する人も多いなかで、
 往生する者がまれなのはどうしてだと思うべきでしょうか?」
  ↑
挙げてくれた法然上人のこの言葉は、
こういう質問に対して法然上人がお答えになったものです。

なぜか無視しているけど、
「三心を獲れば往生できる」云々の前提として、

 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
 念仏する人も多いなかで、
   ↑
こういう条件が入っておりますね。

これも、お得意の「断章取義」ではないかと思いますが、
ぶっちゃけ、ツッコミ入れ



上記のコメント覧

すみません。汗
文章途中で切れました。。

「ぶっちゃけ、ツッコミ入れ・・」

最後のこいつに以下追加です。

「ぶっちゃけ、ツッコミ入れられるのも計算済みですよね?」
2009/2/17(火) 午後 7:29 [ 苦笑(本人) ]




一言メッセージ 親鸞会の人は読まないほうがいいだろ

 ↑
こんなこと書いてるけど、
本当は僕にツッコミを入れさせながら、
親●会の間違いを浮き彫りにしようとしてるんだよね?

オッケー!オッケー!これからも協力するよん!!

念仏より諸行を強調しちゃダメよ!!―自称デカ丸(実際はちび丸)の「断章取義」にツッコミ

清森問答 親鸞会教義の相対化・80(投稿)より

 前回、私が書いた文章を読まれた自称デカ丸(ご本人も認められているように、実際はちび丸)氏が、以下の記事をお書きになっておりました。


※前回の私の文章
親鸞会教義の相対化・79(投稿)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-280.html

※自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事
法然上人の善のすすめ(これが断章主義?)
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23340202.html



====以下、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事からの引用====
「法然上人の善のすすめ」を書きましたところ
『善にもすすむべき事』というお言葉だけでは断章主義であるとのお叱りを受けました。
理由はわかりませんが、一緒にあげた御文はあえて無視されたようですので再掲しておきます。
どのお言葉も全文をアップはできませんので御不審な方は原書をお読みください。
====以上、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事からの引用====

 とのことですので、以下、自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた文章にコメントを加えさせて頂きます。


※自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた文章は、読みにくい改行を消去した以外は原則そのまま掲載しております。


【1】

「いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、善の三業をば真実心の中になすべし」
とこそは釈し給ひたれ。
又「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、心のおよばん程はつみをもおそれ、『善にもすすむべき事』とこそは心えられたれ。」(浄土宗略抄)


★コメント★

 この引用では、この文章がいかなるコンテキスト(文脈)で語られたものであるかがわからないために、この文章の持つ意味を誤って受け取る可能性があります。
 既に述べたことなので繰り返しませんが、前回の私の文章をもう一度読んで頂きたいものです。

親鸞会教義の相対化・79(投稿)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-280.html



【2】
「持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、たへたらんにしたがいてたもち候べく候。孝養の行も仏の本願にあらず。たへんにしたがいて、つとめさせおはしますべく候。」
(熊谷直実入道蓮生へつかわすお返事)


★コメント★

●また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

(訳)
 女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。

・持戒の行=阿弥陀仏の本願でない行→自分の能力でできる限り守るべき
・孝養の行=阿弥陀仏の本願でない行→自分の能力でできる限り勤めるべき

という意味ですね。

それはそれでいいのですが、この文章の直前に書かれている部分がもっと重要です。


●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。


「持戒の行」「孝養の行」が、「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、極楽浄土へ往生することを欣求する人にとって「念仏」が最優先に行わなければならないことであることは明かです。

 法然上人が極楽浄土へ往生することを欣求する人に最優先で「念仏」を勧められたことが、自称デカ丸(実際はちび丸)氏にとって都合が悪いのかどうかは不明ですが、この引用でもコンテキスト(文脈)を無視した「断章主義」が行われていると私は思います。

 ちなみにこのお手紙は、嵯峨清涼寺に法然上人の真筆が残されております。文献学的な見地からもこの資料の持つ意義は非常に高いものとなっております。



【3】

念仏の行者四修の法を行用すべき文。
善導の『往生礼讃』にいはく、「また四修の法を勧行す。何者をか四となす。
一には恭敬修。乃至。
教とは『弥陀経』等を五色の袋に盛れて、みづから読み他を教へよ。(選択集)


★コメント★

これに関しては、以下の記事を読んで頂けば十分だと思います。

ツッコミ番外編(3)名義詐称野郎にツッコミ!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-169.html

~~上記から引用~~
四修の解釈は第一に善導大師の『往生礼讚』に従うべきだと思うけど、

恭敬修・・阿弥陀仏および聖衆を恭敬礼拝する
無余修・・專ら阿弥陀仏の名を称え、仏および聖衆等を想い礼讚して他の行を交えない
無間修・・恭敬礼拝・称名等を絶え間なく行う
煩悩を交えないようして、罪を造るごとに懺悔して間を置かない
長時修・・上の三つを、一生涯続ける
~~上記から引用~~

これも『選択集』のコンテキストを無視した「断章取義」であると言わざるを得ませんね。



【4】

いま『観経』の定散二善を説きたまふことは、
ただ韋提および仏滅後の五濁・五苦等の一切凡夫のために、
証して〈生ずることを得〉とのたまふ。(観経疏)


★コメント★

『観無量寿経』において、釈尊は定散二善を述べた終わった後、流通分において阿難に、

●汝好く是の語を持て、是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。

(訳)
あなたはこの語をよくたもちなさい。
「この語をたもて」というのは、無量寿仏の名号をたもてということである。

と仰っています。


 そして、善導大師『観経疏』において、この言葉を以下のように解釈され、その解釈を法然上人は『選択集』(第12章)に引用され継承されています。


●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
 確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)


 素朴な疑問ですが、自称デカ丸(実際はちび丸)氏は、本当に『観経疏』読んでいるのでしょうか?
 もしも読んだ上で、『観経疏』のこの箇所を意図的に挙げないというのであれば、やはりこれも『観経疏』が伝えようとしている内容を故意に歪曲している「断章取義」と言わざるを得ません。



 以上、自称デカ丸(実際はちび丸)氏の記事に若干のコメントを加えさせて頂きました。

 自称デカ丸(実際はちび丸)氏が挙げた資料の「原典」が、皆一様に最も強調して勧めているのが「念仏」であることは明かです。
 それを、自称デカ丸(実際はちび丸)氏は「断章取義」し「原典」のコンテキストから離れた意味を導き出そうとしました。

 私見ですが、今回のように、親鸞会関係者の挙げる「論拠」は露骨な「断章取義」が行われている危険があります。
 自称デカ丸(実際はちび丸)氏自身も「御不審な方は原書をお読みください」と仰っておられますので、親鸞会関係者の言葉は安易に信用しないで、各自が必ず「原典」に当たって再確認していく必要があるでしょう。


以上



ちび●さんのナイスボケのおかげで、
いろんなことがわかって良かったね♪



追記

今回も、ちび●さんに報告しました。

苦笑(本人) 削除
2009/2/14(土) 午前 11:55
ご無沙汰しております。先日はありがとうございました。

念仏より諸行を強調しちゃダメよ!!―自称デカ丸(実際はちび丸)の「断章取義」にツッコミ
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-191.html

ちび丸さんのナイスボケのおかげで、いろんなことがわかって良かったです。
感謝しています。ありがとうございました。

苦笑拝



五願開示に関する真宗学者の説

メル友が教えてくれました。
 ↓ ↓ ↓

五願開示について、資料が見つかりましたので、お知らせします。


【古来の五願開示】

 古来の学者は、どういう風に第十八願を五願に開いて、文字を配当せられたかというと、

「至心信楽」-より-第十八願(至心信楽の願)を開き、
「乃至十念」-より-第十七願(諸仏称名の願)を開き、
「若不生者」-より-第十一願(必至滅度の願)を開き、
「不取正覚」-より-第十二願(光明無量の願)第十三願(寿命無量の願)を開くのであるという。これが一般の定説になっております。

        【教行信証大系・第一巻 教の巻・稲垣瑞剣氏 p131】



やっぱ、ちび●さんの教えてくれた通りでした。
いや~ちび●さんはよく勉強しているよ。うんうん。

今度は高●先生にも教えてあげてね��-��
 ↓
ちび●さんのおかげでわかりました!!五願開示もパクってた?!

更にコメント!

コメントに反応して頂けましたので、更にコメント入れます!!

>これも「間違い」でしょうか?

六要の扱いは、2chにも書きましたが
「前々住上人、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の
候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ
候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと
仰せられ候ふなり。」(御一代記聞書158)
のお言葉に従うのがよろしいかと思います。
六要全体を認めておられるわけでもなさそうです。
御一代記聞書の意味がわからないようであれば勉強してみてください。



勉強してみました!

(訳)
蓮如上人の隠居所である南殿で、兼縁が、存覚上人のお作りになられた聖教に不審な所があるのを「これはどうでしょうか?」と蓮如上人にお見せになられたところ、蓮如上人が仰いました。
「名人がお作りになられたものであるから、そのまま理解しておくべきである。(不審がある所も)それがかえって名誉なことになるのである」と仰になられました。

という意味ですね。また、同じく『御一代記聞書』の89には、

(89)
一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。

とありますので、存覚上人の解釈をそのまま受け取る態度が、浄土真宗のあるべき姿勢なのではありませんか?


>この二つの益が得られるシステムが「横超」ということですよね?

一念の信心の所得として二益が獲られる、ということです。
「横超とは2」に御和讃もあげましたが、往還二回向をいただくのは一念です。
>これを回向となづけたり
と仰っている通り。



●問ていはく、正定と滅度とは一益とこゝろうぺきか、また二益とこゝろうぺきや。答ていはく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこゝろうぺきなり。されば二益なりとおもふぺきものなり。『御文章』1-4

この蓮如上人の言葉が間違いということでしょうか?


>・五願開示の場合、「若不生者」が十一願に対応する。

これは五願開示の場合、一願該摂の御文の「若不生者」が十一願に対応する、
という意味です。

それと、この答え違ってません?
 十二、十三願が「至心信楽欲生我国」?

五願開示をもう一度勉強されたほうがよろしいかと思います。



つまり、

 ・五願開示の場合でも一願該摂の場合でも、
 「若不生者」が「信楽に生まれる」と意味はない。

ということですね。

あと、私の手元の解答例が間違いということでしょうかね~。


※文字数の関係であのページのコメント覧に書くのが苦しいので、
この記事のリンクを張るので許してもらいました。
 ↓

苦笑(本人) 削除
2009/2/2(月) 午後 7:44
コメントありがとうございます!
更にコメントをいれましたので、よろしければご一読ください!
(文字数の関係で苦しいので私のブログのリンクを張ります。
簡潔な文章が書けなくてごめんなさい。汗)

更にコメント!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-179.html
コメント(0)


ん?!こ・これは?!

こんなサイトを見つけました。
 ↓
生きる意味を知ってー仏教を知りたいひとのために

ん?!こ・これは?!

どっかで見たようなことを仰っておられましたので、
【ツッコミ】じゃなくて、【コメント】を入れてみました♪

※記事に直接コメントを入れられないので、ゲストブックにコメントしました。

 ▽ ▽ ▽
横超とは1

「横超とは,すなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。

大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、

すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり。」(教行信証信巻)


「横超の中に、願成就とは、叡云く、本願及び成就なり、

『御鈔』には則ち『選択本願即得往生』と云うと、

珠云く、願成就とは次上の所釈の成就文を指す、

願成就をもって一経の至極と為すが故にと、

私に謂く、前説の相違釈と為すは穏かならず

後説の次上を指すと言うは好し」(教行信証摘解)


「阿弥陀仏の一念の救いは、イコール本願成就文

唯一の真実であり、完全無欠のまことの教え、これが真宗である」との仰せです。

「願成就」を「本願が成就したところの」と動詞的に訳しているものは間違い。

祖師聖人は送り仮名をつけておられません。

「願成就」とは「十八願成就文」のことです。


それについて三経の安心あり。そのなかに『大経』をもつて真実とせらる。

『大経』のなかには第十八の願をもつて本とす。

十八の願にとりては、また『願成就』をもつて至極とす。(改邪鈔)


苦笑ちゃんコメント

苦笑(本人) 削除
2009/2/2(月) 午後 1:49
横超とは1
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23050192.html

【コメント】
こんにちは。(^-^)

蓮如上人が高く評価されている存覚上人の『六要鈔』では、

●(御自釈)横超断四流と言うは、横超は、横とは竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。
竪超とは、大乗真実の教なり。竪出は大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。
横超とは、すなわち願成就したまえる一実円満の真教なり、真宗これなり。
また横出あり、すなわち三輩・九品・定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の頃に速やかに疾く無上正真道を超証す、かるがゆえに横超と曰うなり。

と書き下されていますが、これも「間違い」でしょうか?



横超とは2

「横超とは,すなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。乃至。

大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、

すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり。」(教行信証信巻)


「一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり」

とは、「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」と同意。


「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、

竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」(教行信証信巻)



なぜ、まだ死んで極楽往生してないのに「まことに知んぬ」と言われているのか。

往相回向と還相回向を一緒にいただいてしまっているからです。


弥陀の回向成就して 往相・還相ふたつなり

 これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ(高僧和讃)


「無上正真道を超証す」るのは一念の信心の所得として書かれているので

横超は、信の一念に51段高飛びして正定聚になったことを言います。


苦笑ちゃんコメント

苦笑(本人) 削除
2009/2/2(月) 午後 1:51
横超とは2
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23211088.html

【コメント】
こんにちは。(^-^)

 「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。『和讃』(高僧和讃・二〇)にいはく、「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなはち大悲をおこすなり これを回向となづけたり」といへり。これをもつてこころうべし。
『正信偈大意』

正定聚=不退の位なり・・この土の益
滅度=涅槃の位なり・・かの土の益

この二つの益が得られるシステムが「横超」ということですよね?



必至滅度の願

「証文類四
     必至滅度の願
     『難思議往生』

   顕浄土真実証文類 四

                           愚禿釈親鸞集

  つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。

  すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。

  しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、

  即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。」


五願開示された十八願は「信楽のこころに生まれさせる」というお約束であり

「死後、浄土へ生まれさせる」というお約束はありません。ではどこにあるのか。

親鸞聖人は

「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり」と仰っています。

必至滅度の願とは

「十八願で信楽を獲たひとは、 正定聚にしてみせる。

正定聚になった人は『死ねば浄土へ往生させて』滅度に至らせてみせる」というお約束で

あると『難思議往生』と証巻の表題に書かれています。

あくまで、純粋な十八願には「死後の往生」は誓われていない、というのが

親鸞聖人の五願開示です。


苦笑ちゃんコメント

必至滅度の願
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/23211875.html

【コメント】
こんにちは。(^-^)

以前、五願開示の場合、「若不生者」が十一願に対応するって教えてもらったんですが、

~親●会 平成4年度後期・講師試験問題より~

問4 十八願の心は五つの願にあらわすことができるが、その五つの願を
   示し、その五願を本願文と対比せよ。

答4 ◎十一願・十二願・十三願・十七願・十八願

   ○十一願……若不生者
   ○十二願……至心信
   ○十三願……楽欲生我国
   ○十七願……乃至十念

~親●会 平成4年度後期・講師試験 11月22日実施 問題 より~

そうなると、

 ・五願開示の場合、「若不生者」が十一願に対応する。
 ・一願該摂の場合は「生」は正定と滅度。これが対応する。

ということになりますよね?
そうすると、

 ・五願開示の場合でも一願該摂の場合でも、
 「若不生者」が「信楽に生まれる」という意味はない。

とい

【コメント覧】

とい→ということでOKですよね。

でお願いします。文字数の関係で切れました。汗
2009/2/2(月) 午後 2:00 [ 苦笑(本人) ]



苦笑ちゃんコメント

苦笑(本人) 削除
2009/2/2(月) 午後 1:55
挨拶がおくれましたが、疑問に思うことをコメントさせて頂きました。
以前同じことを書いている方がおられたのですが、
その方が行方不明になりましたので、代わりに解答いただけたら幸いです。


 △ △ △


やっぱ速攻で削除されるかな?(苦笑)

ツッコミ番外編(4)名義詐称野郎は答えられるかな?

あんだけボッコボコにされたのに、
名義詐称野郎がまだぐちゃぐちゃ言ってるらしいですね(苦笑)。

たぶん、「読みにくい」とかなんとか言って、
都合の悪い記述は見なかったことにしてるんでしょうな?(苦笑)

以下、名義詐称野郎が見なかったことにすると思う論点。


【その1】五願開示の場合、「若不生者」が十一願に対応するっちゅうことは、親●会でも教えてますよね?

~親●会 平成4年度後期・講師試験問題より~

問4 十八願の心は五つの願にあらわすことができるが、その五つの願を
   示し、その五願を本願文と対比せよ。

答4 ◎十一願・十二願・十三願・十七願・十八願

   ○十一願……若不生者
   ○十二願……至心信
   ○十三願……楽欲生我国
   ○十七願……乃至十念

~親●会 平成4年度後期・講師試験 11月22日実施 問題 より~


【その2】どうして赤字の所は省略したのですか?親鸞会教義に都合が悪いからわざと省略したのではありませんか?

心の善悪をも顧みず罪の軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば仏の誓によりて必ず往生するぞと決定の心を起こすべきなり。
その決定の心によりて往生の業は定まるなり。往生は不定に思えば不定なり、一定と思えば一定する亊なり。
せんじては仏の誓を憑みていかなるところをも嫌わず、一定迎えたまうぞと信じて疑う心のなきを深心とは申しそうろうなり。


いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、
善の三業をば真実心の中になすべし」 とこそは釈し給ひたれ。
また「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、
心のおよばん程はつみをもおそれ、善にもすすむべき事とこそは心えられたれ。

ただ弥陀の本誓の善悪をも嫌わず名号を称うれば必ず迎えたまうと信じ、
名号の功徳のいかなる過をも除滅して一念十念も必ず往生を得る亊のめでたき事を、
深く信じて疑う心一念もなかれという意なり。
『浄土宗略抄』

(苦笑ちゃん訳)
心の善悪を問題とせず罪の軽重いも問題にせず、「ただ口で南無阿弥陀仏と申したならば仏の誓によって必ず往生するのだ」という「決定の心」を起こすべきである。
その「決定の心」によって往生することができる行為(往生の業)が定まるのである。往生が定まっていない(不定)と思うならば往生は定まっていない。間違いなく確定している(一定)と思うならば間違いなく確定している。
結局は、仏の誓を憑んで、阿弥陀仏はどのような場所であっても嫌わずに間違いなく迎えてくださると信じて、疑う心がないことを「深心」と言うのである。

阿弥陀仏がどんな過ちを犯した人をも嫌わないからと言って、その教え(法)を自分の都合に合わせて受け取り勝手気ままに振る舞うべきではない。
それ故に善導大師も「善くない三業が起きた時は、真実心を持ちながらそれを捨てるべきである。善い三業は、真実心を持ちながらそれをなしていくべきである」と解釈されているのである。
また、「善い行い(善業)でなければ、敬ってこれから遠ざかるべきであり、それに随喜してはいけない」と解釈されているのだから、心の及ぶ限りは罪を犯すことを恐れ、善にすすむべきであると心得なさい。

ただ、阿弥陀仏の本来の誓願が人が善であろうと悪であろうと嫌わず、名号を称えれば必ず迎え取ってくださると信じ、
名号の功徳があらゆる過ちをも除き滅ぼして、一念でも十念でも必ず往生することができることの素晴らしいことを深く信じて、疑う心は一瞬もあってもならない、という意味である。



【その3】上記の『浄土宗略抄』の記述と、親●会における金集め&人集めの活動とに何の関係があるのですか?というか、貴方のやっていること(名義詐称etc.)は上記の『浄土宗略抄』に抵触しませんか?


【その4】どうして『選択集』を、ヘンテコな形に省略したのですか?

念仏の行者四修の法を行用すべきの文

善導の『往生礼讃』に云く、また勧めて四修の法を行ぜしむ。何者をか四とす。一には恭敬修。いわゆる彼の仏、および彼の一切の聖衆等を恭敬礼拝す。故に恭敬修と名づく。畢命を期として、誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。
二には無余修。いわゆる専ら彼の仏名を称して、彼の仏および一切の聖衆等を、専念し、専想し、専礼し、専讃して、余業を雑えず。故に無余修と名づく、畢命を期とし誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。
三には無間修。いわゆる相続して、恭敬礼拝し、称名讃歎し、憶念観察し、回向発願し、心心に相続して、余業を以て来し間えず、故に無間修と名づく。また貧瞋煩悩を以て来し間えず、隨犯隨懺して、念を隔て、時を隔て、日を隔てしめず。常に清浄ならしめるをまた無間修と名づく。畢命を期として、誓って中止せざる、すなわちこれ長時修なり。

『西方要決』に云く、ただ四修を修するを以て正業とす。一には長時修。初発心より乃至菩提まで、恒に浄因を作して、ついに退転ずること無し。二には恭敬修。これにまた五有り。一には有縁の聖人を敬う。謂く行住坐臥、西方に背かず、涕唾便痢、西方に向わず。二には有縁の像教を敬う。謂く西方の弥陀の像変を造る。広く作ること能はざれば、ただ一仏二菩薩を作るもまた得たり。
教とは『弥陀経』等を、五色の袋に盛れて、自ら読み他を教えてこの経像を室中に安置して、六時に礼懺し、香華供養して、特に尊重を生せ。三には有縁の善知識を敬う。謂く浄土の教を宣べる者は、もしは千由旬十由旬より巳来、ならびにすべからく敬重し親近し供養すべし。別学の者にも、すべて敬心を起し、己と同じからざるをも、ただ深く敬うことを知れ。もし軽慢を生ずれば、罪を得ること窮まり無し。故にすべからくすべて敬うべし。すなわち行障を除く。四には同縁の伴を敬う。謂く同修業の者なり。自ら障重くして、独業成ぜずといえども、要ず良朋に藉って、まさに能く行を作す。危うきを扶け厄を救い、力を助けて相い資く。同伴の善縁、深く相い保重せよ。五には三宝を敬う。同体別相、ならびに深く敬うべし。つぶさに録すること能わず。浅行の者の、依修することを果さざるに為ってなり。住持三宝とは、今の浅識の与に大因縁と作る。今ほぼ料簡せば、仏宝と言うは、謂く檀を雕り。綺に繍い。素質金容、玉を鏤め、(カトリ=糸+曾)に図し、石を磨き、土を削る、この霊像特に尊承すべし。暫爾、形を観れば、罪消じ福を増す。もし少慢を生ずれば、悪を長じ善亡ず。ただし尊容を想うこと、まさに真仏を見るがごとくすべし。法宝と言うは、三乗の教旨、法界所流の名句の所詮なり。能く解を生ずるの縁なり。故にすべからく珍仰すべし。慧を発するの基なるを以てなり。尊経を鈔写して、恒に浄室に安じ。箱篋に盛れ貯えて、ならびに厳敬すべし。読誦の時は、身手清潔にせよ。僧宝と言うは、聖僧と菩薩と破戒との流、等心に敬を起せ。慢想を生ずること勿れ。三には無間修。謂く常に念仏して、往生の心を作す。一切の時において、心に常に想巧すべし。譬えばもし人有って、他に抄掠せられて、身下賤と為って、つぶさに艱辛を受く。たちまち父母を思って、走って国に帰らんと欲すれども、行装いまだ弁ぜず。なお他郷に在って、日夜に思惟して、苦しみ堪え忍びず。時として暫くも捨てて、耶嬢を念ぜざること無し。計を為すことすでに成って、すなわち帰って達することを得て、父母に親近し、縦任に歓娯す。行者もまた然なり。往し煩悩に因って、善心を壊乱し、福智の珍財ならびに皆散失す。久しく生死に流れて、制するに自由ならず。恒に魔王の与に、僕使と作って、六道に駈馳せられて、身心を苦切す。今善縁に遇って、たちまち弥陀慈父の弘願に違せず。群生を済抜したまうを聞いて、日夜に驚忙し、発心して往くことを願ず。所以に精勤して倦まず、まさに仏恩を念じて、報の尽きるを期と為して、心に恒に計念すべし。四には無余修。謂く専ら極楽を求めて、弥陀を礼念す。ただ諸余の業行雑起せしめざれ。所作の業には、日別にすべからく念仏誦経を修して、余課を留めざるべし。『選択集』


【その5】善導大師の『往生礼讚』の四修解釈と、親●会における金集め&人集めの活動とに何の関係があるのですか?

恭敬修・・阿弥陀仏および聖衆を恭敬礼拝する
無余修・・專ら阿弥陀仏の名を称え、仏および聖衆等を想い礼讚して他の行を交えない
無間修・・恭敬礼拝・称名等を絶え間なく行う
     煩悩を交えないようして、罪を造るごとに懺悔して間を置かない
長時修・・上の三つを、一生涯続ける


【その6】「横超」に「無上正真道を超証す」意味があるのは明かですが、これが本願成就文とイコールだとすると、「本願成就文には、死後のことは一切説かれていない」と親鸞会で教わってきたことが、間違いだということになりませんか?

●「横超」とは、即ち願成就一実円満之真教・真宗是れなり。亦復「横出」有り、即ち三輩・九品・定散之教、化土・懈慢、迂廻之善なり。大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の傾、速やかに疾く無上正真道を超証す、故に「横超」と曰うなり。『教行信証』信巻



根拠も現代語訳もいらない簡単な質問だから、
すぐに答えられるでしょ?
出血大サービスで、
現代語訳までしてあげたんだから、
これぐらいは、答えてくれるよね?

ツッコミ番外編(2)某ちゃんねるより

某ちゃんねるより

272 :デカ丸:2009/01/27(火) 12:58:25 ID:O2kZwcAX
埋もれそうだからあげとくね。


>親鸞会では往生のために難行であるところの六度万行の実践を勧めているんですよね?

えー。法然上人のお話じゃなかったんですか?
親鸞会でどう教えられてるか知りませんよ。

>>262
>>264

これは何の根拠なんですか?

日本語読めるんなら以下の法然上人のお言葉を訳してみてください。
「心のおよばん程はつみをもおそれ、『善にもすすむべき事』とこそは心えられたれ。」とは
どういう意味か御教示願います。


「いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。

されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、善の三業をば真実心の中になすべし」

とこそは釈し給ひたれ。

又「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、

心のおよばん程はつみをもおそれ、『善にもすすむべき事』とこそは心えられたれ。」(浄土宗略抄)

あ~ん?(苦笑)

親●会が、往生のために金集め&人集めを勧めている根拠として、
法然上人の言葉を挙げてるみたいだけど、
実際に法然上人の言葉を見てみると。。
 ↓

●いかなるとがをもきらわねばとて、法にまかせてふるまうべきにはあらず。
されば善導も「不善の三業をば真実心の中にすつべし、善の三業をば真実心の中になすべし」 とこそは釈し給ひたれ。
また「善業にあらざるをば、うやまでこれをとほざかれ、又随喜せざれ」なんど釈し給ひたれば、 心のおよばん程はつみをもおそれ、「善にもすすむべき事」とこそは心えられたれ。
ただ弥陀の本誓の誓願をも嫌わぬ名号を称うれば必ず迎えたまうと信じ、名号の功徳のいかなる過をも除滅して一念十念も必ず往生を得る亊のめでたき事を、深く信じて疑う心もなかれという意なり。『浄土宗略抄』


やっぱりいつもの如く、
都合の悪い部分は意図的に削除されてるのよね(苦笑)。

★わざわざ悪いことはすんなよ!
★阿弥陀仏の本願に基づく名号の功徳を信じろ!

ということを言っている文章なのに、
これがどうして金集め&人集めの根拠になりますねん(苦笑)。

インチキ論客は、相手の根拠を読み直すと、
それだけで反論になるから、ほんま楽勝ですわ(苦笑)。

ツッコミ番外編(1)2009.01.25.教学講議より

最近メル友になった方から、メールを頂きました。
 ↓↓

こんばんは。

昨日の教学講義より、T氏の発言録です。ぜひBlogで突っ込んで下さい(笑)

本願成就文はよく願成就と言われます。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の書かれたものの中に、よく願成就と出て来ます。これは本願成就文のことです。これがわからないと読めませんから、よく知ってもらいたいと思います。


阿弥陀仏の十一願の、「国中の人天」は、それだけではこの世か極楽の人かわからない。十一願成就文によって、現世この世の人、娑婆の人のことだとわかる。

十一願成就文より
彼の仏国には邪定聚、不定聚はいない、この世にしかいないのです。

怪しい発言だけですが、よろしくお願いします。



了解です!!ボコボコいきます!!(笑)
 ↓↓

> 本願成就文はよく願成就と言われます。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の書かれたものの中に、よく願成就と出て来ます。これは本願成就文のことです。これがわからないと読めませんから、よく知ってもらいたいと思います。

あ~ん?(苦笑)

>>横超(=弥陀の本願)=願成就(=願成就文)??
  ↑
これが、親●会でしか通容しない超局地的なドグマで、
これに基づく親●会ドグマには、


73,『教行信証』信巻において親鸞聖人が「横超」と仰っているのは、「本願力によって、仏のさとりを開くこと」という意味であり、「信楽にしてみせる」という意味がないことは明白である。

74,さらに「横超」(本願力によって、仏のさとりを開くこと)が、本願成就文とイコールだとすると、「本願成就文には、死後のことは一切説かれていない」という親●会ドグマが間違いということになってしまう。

75,したがって、【横超(=弥陀の本願)=願成就(=願成就文)】という主張は、親鸞聖人の教えとは全く関係のない、チ●ーリップ企画(=親●会)に限定されたヘンテコドグマである。
 ↑
こんだけの、問題が出てくるっちゅうことを、
学生さんが児●さんに教えてあげたわけですけど、
児●さんは、T先生に教えてないんかいな?(苦笑)。

ホンマニ親鸞聖人の教えに従う気があるなら、
T先生にもちゃんと教えてあげるっちゅうのが、
児●さんの役目じゃないかと思いますけどね?(苦笑)





> 阿弥陀仏の十一願の、「国中の人天」は、それだけではこの世か極楽の人かわからない。十一願成就文によって、現世この世の人、娑婆の人のことだとわかる。
>
> 十一願成就文より
> 彼の仏国には邪定聚、不定聚はいない、この世にしかいないのです。

\( ̄ー ̄#)なんでやねん!

へ~。

●それ衆生ありて、かの国に生るれば、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑんはいかん。かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。『無量寿経』第十一願成就の文

というように、「極楽には邪定聚が不定聚がいない」と成就文に書かれているから、

●たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。『無量寿経』第十一願、必至滅度の願文

この「国のうちの人」を「現世この世の人、娑婆の人のこと」と解釈しちゃうんだ~?

それちょっと、キツイんじゃね?(苦笑)

●浄土文類聚鈔
証といふは、すなはち利他円満の妙果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づけ、また往相証果の願と名づくべし。すなはちこれ清浄真実・至極畢竟無生なり。
無上涅槃の願(第十一願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「それ衆生ありてかの国に生ずるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん、かの仏国中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり」と。
 またのたまはく(同・上)、「ただ余方に因順するがゆゑに、人・天の名あり。顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と。


釈尊は、極楽には「人・天」という名称はあるけど、
その「人・天」は、「顔貌端正にして超世希有なり」で、
「容色微妙にして、天にあらず人にあらず」で、
「みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と仰っていて、
親鸞聖人も、それを受けておられるわけやけど、

『無量寿経』も親鸞聖人の言葉も読んでないから、

「極楽には「邪定聚、不定聚」がいないのに、
 「人・天」とあるからこの世のことなんだ~!」

と思っちゃったんでしょうね~(苦笑)。



====エエ加減にせえや!!====
親鸞会教義の相対化・73より
一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。
====エエ加減にせえや!!====

何度も言うけど、蓮如上人が、
「聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである」
「自分勝手な解釈をすることは決してしてはならない」
と教えてくださっているんだから、
「浄土真宗」を名乗るなら、その通りにしてちょうだいね。

もしもそうでないなら、
「浄土真宗」とか詐称せんといてや(苦笑)。



追記1

メル友が以下の文を追記してくれたんだけど、
 ↓↓
>親鸞聖人は教行信証に、十一願成就文の 生まるれば を 生まるるに と書かれていて、 生まるる、は未だ生まれてないという事だから、国は娑婆になるというような事も出て来ていました。

これってどこに書いてあるんでしょうね~?
『教行信証』読んだんですけど、どこにも書いてないんですけど。。

知ってる人だれか教えて!!


追記2

メル友が更にメールくれました。
 ↓↓

苦笑さんへ

講義録を確認せず、慌ててメールしたため、少し訂正して送り直します。

親鸞聖人までは、彼の国に生まるれば、と読まれていた。

親鸞聖人は、彼の国に生まるる者は と読まれた。(法蔵館の真宗聖典、教行信証証巻には、こう出ていました)

生まるる は、文法上、未だ極楽に生まれていない、これから生まれる、という意味になるから、国中の人天の国は娑婆のことを指す。

というような内容でした。ただ、前回の文章は、約9割発言通り、今回の文章は、講義中の発言をまとめた形になります。(集中力が持たなかったためです)

今回と前回のメールは、一人でも多くの会員に目を覚ましてもらうため苦笑さんにツッコミをお願いしました。

前回の内容だと、私の言葉足らずで苦笑さんが付け込まれてしまうと思いまして、メールしましたので、追記の判断はおまかせします。



う~ん。

>生まるる は、文法上、未だ極楽に生まれていない、これから生まれる、という意味になるから、国中の人天の国は娑婆のことを指す。
 ↑
こんな文法ってあるの?
古典文法の専門家じゃないからあんまり自信ないけど、

「生まるる者」・・「生まるる」(ら行下二段活用「生まる」の連体形)+「者」(名詞=体言)

だよね?

それに、オイラの手元にある西本願寺の『浄土真宗聖典第二版』では、
「生まるれば」になってるんだよね~(p.308)。

まあ、『教行信証』の現物を見てないので断言はできないけど、
校訂本としては新しいものを使うのが定石なんじゃないかな。

いずれにしても、文法上も『浄土文類聚鈔』との関係から考えても、
この「法蔵館の真宗聖典の読み」を根拠にした、
T先生の解釈を支持することはできないと思いますな。


追記3

さっきわかったんだけど、親鸞聖人は『教行信証』の証巻で、

●「かの国の衆生、もし【まさに生れんもの】、みなことごとく無上菩提を究竟し、涅槃の処に到らしめん。なにをもつてのゆゑに。もし邪定聚および不定聚は、かの因を建立せることを了知することあたはざるがゆゑなり」『如来会』(『無量寿経』の異訳)
 ↑
これを引用しているんだけど、

この「まさに生れんもの」の「生まれん」は、

「生まれ」(ら行下二段活用「生まる」の未然形)+「ん」(推量の助動詞「む」の連体形)+「者」(名詞=体言)

なわけで、「生まれるであろう者」と訳せるんだよね。

そして、その「まさに生まれるであろう者」は、
「まだ浄土に往生してない者」だけど「間違いなく浄土に往生する者」で、
浄土に往生したら、
「みなことごとく無上菩提を究竟し」「涅槃の処に到る」わけですわ。

そんでもって、「邪定聚および不定聚」は、
「かの因を建立せることを了知することあたはざる」
つまり、阿弥陀仏が浄土に往生するためのシステムを作ってくれたということを、
明らかに知ってないもんだから、
「間違いなく浄土に往生する者」じゃないっちゅうことなんですよ~。

というわけで、

★『無量寿経』十一願の【国のうちの人・天】は、極楽浄土で「自然虚無の身、無極の体を受けた」者
★『如来会』成就文の【まさに生れんもの】は、「まだ浄土に往生してない者」だけど「間違いなく浄土に往生する者」で、浄土に往生したら「みなことごとく無上菩提を究竟し」「涅槃の処に到る」者

ということになるんですね~。

ちなみに本●寺で出している『教行信証』の現代語訳でも、
ちゃんと、そんな感じに訳してます(p.332)。
流石やね~!

いや~勉強になった♪
T先生の解釈は違ってたみたいだけど(苦笑)。

祝「あんちくしょう」登場!!

このサイトにも遂に、
「あんちくしょう」(アンチ苦笑)登場!!
↓ ↓ ↓
恥知らずは人間ちゃう!!コメント覧

いや~。
この親父ギャグを言いたくて言いたくて、
首を長くして待ってたのよ~(笑)

放置プレーでもいいんだけど、今回は特別に、
タコ殴りにして あ・げ・る


一言

>あつかましいから何も感じないか?(苦笑)

おまえもなー(ちょと古いか?)

当然、このつっこみは想定内だろうね、ニガワライさん。

あ~ん?

2ちゃんねるに張り付いてるネット対策員ではないんで、
こんな2ちゃんねるなツッコミは知りませんがな~(苦笑)。←うそ(笑)


無慚無愧を痛切に告白されている、親鸞聖人の教えを仰ぐ者として、
すすんで晒されに出ているニガワライさんに、一応の敬意。

あ~ん?

この言葉は、父王を殺害したという
自らの罪の重さに苦悩する阿闍世に対し、
釈尊在世当時のインドの名医である
耆婆(ジーヴァカ)が言った言葉で、
自らの罪に苦悩する阿闍世には慚愧がある、
という文脈で書かれた言葉でっせ(苦笑)。


 そのときに大医あり、名づけて耆婆といふ。王のところに往至してまうしてまうさく、〈大王、いづくんぞ眠ることを得んや、いなや〉と。王、偈をもつて答へていはまく、{乃至}〈耆婆、われいま病重し。正法の王において悪逆害を興す。一切の良医・妙薬・呪術・善巧瞻病の治することあたはざるところなり。なにをもつてのゆゑに、わが父法王、法のごとく国を治む、実に辜咎なし。横に逆害を加す、魚の陸に処するがごとし。{乃至}
われ昔かつて智者の説きていひしことを聞きき。《身口意業、もし清浄ならずは、まさに知るべし、この人かならず地獄に堕せん》と。われまたかくのごとし。いかんぞまさに安穏に眠ることを得べきや。いまわれまた無上の大医なし、法薬を演説せんに、わが病苦を除きてんや〉と。耆婆答へていはく、〈善いかな善いかな、王罪をなすといへども、心に重悔を生じて慚愧を懐けり。大王、諸仏世尊つねにこの言を説きたまはく、二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。善きかな大王、つぶさに慚愧あり。


そんでもって、
阿闍世はこのように言われても納得できないから、
釈尊に教えを受けるですがね~(苦笑)。

親鸞聖人が「無慚無愧を痛切に告白されている」
のはその通りだけど、
それは阿弥陀仏の光明に照らされ、
自身の内面を深く見つめさせられた上での告白であって、
あつかもしくも「無慚無愧」に居直る
「畜生」な輩とは全然ちゃいますわ(苦笑)




しかしながら、未熟な信仰で法語を振り回す姿に、「子供にカミソリ」の諺を思い浮かべるのは、私だけではないだろう。
頭のよい人だろうから、論理はしっかりしてるけど、頭(=智恵)でいったら、釈迦や、弥陀には
かなわない。48願をよくよく眺めて、「若不生者」の「生」の意味を知りましょう。

仏法は、自分のわからないことを、教えて頂いて、わからないながらに受け入れて確かめてい
く道。わからないから、受け入れない、という態度では、信仰は進まない。

あ~ん?

一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。


蓮如上人の言葉を無視してもらっちゃ困りますな~(苦笑)。

私達凡夫はどこまで言っても「聖意難則」だから、
言葉に言い表せない阿弥陀仏の本願をギリギリの言葉を用いて言語化した、
釈尊・七高祖・親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人といった、
善知識方の教えに基づいて、阿弥陀仏の本願を解釈せなあきまへん。

それなのに、それらを完全に無視した勝手な解釈をしておいて、
何が「仏法」だと言うんでしょうかね(苦笑)。

ヘンテコドグマを、
「教えて頂いて」「わからないながらに受け入れて」
「進む」「信仰」は、
ヘンテコドグマに基づくヘンテコ信仰ですがな(苦笑)。


「子供」と見下す人の「カミソリ」に斬りつけされても、
全く反論できないヘンテコ信仰の教祖に、
三十七項目の宿題にちゃっちゃと解答するよう、
あんさんから伝えておいておくれやす(苦笑)。


〇森さんも、上〇さんも、〇生さんも、嶋〇さんも、わかるところまでで止まったままなのだね。
到底わかるはずのないこの世の宝を、受け取ってくれよと立ち尽くめの弥陀の願心。わからないから、受け入れない、とはあまりに勿体無い、ね。

あ~ん?

=====清森問答 親鸞会教義の相対化・30=====
>合点だけで喜んでいる学者さんには、到底分らない苦しみです。
>頭の理解だけで腹底が、ちっとも見えていない人には、いくら言っておわからない苦しみです。
>信仰が、学者さんより進んでいればこその悩みとお見受けします。

「学者さん」がどなたを指すのかはわかりませんが、貴方は自分と同じ思考回路を持っているかどうかで、「学者さん」の信心が貴方やkkhate(=kkk)さんより「進んでいない」と断定するのでしょうか?

ちなみに法然上人は、

人の心は外に現るる事なければその邪正定難しといえども、『経』には三心を具して往生すと見へてそうろうめり。
この心を具せざるが故に念仏すれども往生を得ざるなり。
(中略)
この心の発りたる事は我が身に知るべし。人は知るべからず。
『十二箇条の問答』の第六問答、浄土宗聖典4巻p.444

と仰っておられます。


往生のために必要な信心は三心ですが、人の心は外に現れるものではなく、この三心が具わっているかどうかは、本人だけがわかることであって第三者にはわからない。

というのが、法然上人の教えられるところであります。

 貴方が、思考停止の有無や、思考停止に至らないことを嘆くかどうかを基準に、「学者さん」の信心が貴方やkkhate(=kkk)さんより「進んでいない」と断定するのは勝手ですが、それは、法然上人の言葉に反することになりますね。


ちなみに私は、

●本人がプラサーダ(浄らかな信)を伴った心を起こしたかどうか?
=本人が三心を具足したことを自覚したかどうか?

によってしか、信心を判定することはできないと思っています。

 一方「思考停止しているかどうか?」は、その人の言動から、ある程度推測することが可能なのではないかと思います。


===================================
※参考 思考停止とは(はてなダイアリー)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%D7%B9%CD%C4%E4%BB%DF

【意味】
 考えるのをやめること。あるいは、あることに対する判断を放棄して、既成の判断を無批判に受け入れること。

「短絡的な反応」「脊髄反射」「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのまま当てはめる」状態を指し、議論において極めて批判的に用いられる。

【使われる場面】
 基本的に、きちんと論証する手間を省いて「自分は正しく、相手は間違っている」ということを簡潔に訴えるために使われる手抜きのための用語。「相手の異論は絶対、間違いであるのに対して、自分は絶対、正論である。つまり自分や相手が、一般常識と世間から見て論理的で無く矛盾した発言をしているのに、ただ感情的に正論と、物事をきちんと判断できない人達を指す時に使用する」
 簡単に言えば「ダメ。ゼッタイ」「絶対、儲かる」「絶対、崇拝しろ」と主張したい人が使う。

 また、左翼・右翼・保守・革新・革命・ネットワークビジネス・法令順守などの立場からの発言ばかりだ、とレッテルを貼って反対意見を馬鹿にするためにも駆使される。

 この言葉を使うこと自体、往々にして、相手の発言を読み取らずに「反~何とか」というレッテルを貼るだけに終わってしまう。すなわち「思考停止」という絶対主義の論理である。
=====清森問答 親鸞会教義の相対化・30=====

阿弥陀仏と本人にしかわからない信心を、
思考停止の有無で判定するのは、
親鸞聖人の師匠である法然上人の教えに抵触するけど、
その教えは誰の教えやねん?(苦笑)

親●会内にしか通容しないドグマを、
親●会外部の人に勝手に適応せんといてや(苦笑)。




記念すべき初「あんちくしょう」だったけど、
脊髄反射な書き込みじゃ、
ボコボコのタコ殴の刑やね(苦笑)。
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苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

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※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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