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メモ「三願転入派」

用管窺天記「三願転入派」より無断転載(赤字は苦笑の勝手な強調です)


浄土真宗を『教行証文類』の「化巻」に説かれている「三願転入」という概念で信仰のプロセスとして捉える者がいる。 ここでは、いまこれらの人々を三願転入派と呼ぶ。 三願転入という概念は、『大経』四十八願の中に、十方衆生と誓われた法蔵菩薩の願が三つある。

十八願 設我得仏 十方衆生 至心 信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法

十九願 設我得仏 十方衆生 発菩提心 修諸功徳 至心 発願 欲生我国 臨寿終時 仮令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚

二十願 設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国 不果遂者 不取正覚

読下し

十八願 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

十九願 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。

二十願 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。

現代語訳

十八願 わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

十九願 わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

二十願 わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

この、十八・十九・二十の三願を衆生往生の因願であるから「生因三願」と呼ぶ。 三願には「至心・信楽・欲生」、「至心・発願・欲生」、「至心・廻向・欲生」のそれぞれ三心がある。

生因三願中、如来の御本意の願は十八願であって、この事については三願転入派にも異論はない。

何故なら、下記の信楽釈にあるように、十八願の「至心・信楽・欲生」の三心を信楽一心に納めた信楽が往生成仏の真因であって、これを「信心正因」とするのが浄土真宗という教法であるからである。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。 {中略}
この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。「信楽の体相」p.234

(注) 三心一心についての詳しい解説は、『やさしい安心論題の話』灘本愛慈著 p26~←をクリックして参照されたい。

三願転入派は、この三願を信仰のプロセスであると誤解して(誤解させて)、十九願から二十願へ回入し、二十願から根本の十八願へ転入しなければならないと教えるのである。

如来の御本意の願は十八願であるが、本意でない願を通らなければ真実の願へは転入出来ないというのである(転入と回入は全く違う論理なのだが三願転入派には理解することが不可能な概念であろう)。

このような思考をする者達は、「三願転入」を、まるで一階から二階へ上がる階段のように思っているのであろう。 階段は一階の者が二階へ上がる為のものであり、階段を一歩一歩上がったところに二階があるというのである。

三願転入派は次のように言う。 階段を上がるという自力を尽くさなければ、どうして二階へ上がるという自力が廃るのであるか、と。
これは階段を途中まで上がって、そこで力尽きて一階へ落ちろ、そうすれば二階へ上がるという事が不可能だと判るのだと言っているのである。

階段から落ちる事を目的に階段を上がれというのだからまるで喜劇である。「自業自得の救済論」 でも述べたが、このような発想は、自力を尽くした彼方に他力があるという竪の論理である。

十八願は「信楽」であり、十九願は「発願」であり、二十願は「廻向」であって、願の内容のそれぞれの心が違っている。

十八願は、至心信楽の願(正定聚の機 難思議往生)*、
十九願は、至心発願の願(邪定聚の機 双樹林下往生)*であり、
二十願は、至心回向の願(不定聚の機 難思往生)*であって、
階段の例でいえば階段そのものが違うのである。

京都の本山へ行くのにニューヨーク行きの飛行機には乗らないし、ISS(International Space Station:国際宇宙ステーション)へ行くのに自転車に乗るなら馬鹿であろう。

親鸞聖人には「願海真仮論」があるが、これは三願はそれぞれ別の法門であり、御本意の願は十八願ひとつであって他の願に迷うのではありません、というお示しである。
如来の御本意である十八願と仮である十九・二十願を対判して、不本意の願に迷うのではないですよ、というのが親鸞聖人のお示しである。

三願転入というプロセスを説く三願転入派は、親鸞聖人が「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」「真仮対弁」p.372と仰られるように、如来の本願を疑い如来の広大な恩徳を迷失する事を奨めているのである。

階段は二階から見れば、二階が一階へ降りているのであり、一階にいるものを二階へ上げていくものが階段である。 まさに一階にいるままで、本願力回向の他力によって二階へ上げられるという教説が本願力回向という他力の教説である。

如来から回向される教説には、自らが救済に関与する選択肢はないのである。

もし、三願転入派が「光に向かって」などと奨めるならば、それは誘蛾灯が虫を誘引するようなもので光に飛び込んで焼け死ぬであろう。

光に向かう者に光はない。光に向かう者の背後には、返って求道しているという思いあがりと仏智疑惑の闇が拡がるのである。

光なき者にこそ、如来の大智大悲の光明は常に照らし、護り、摂取して下されるのである。


手をついて、あたまの下がらん、かえるかな (十九願)

水にいて、雨を求める、かえるかな (二十願)

釣瓶(つるべ)にて、汲み上げられたる、かえるかな (十八願)







参考

「やさしい浄土真宗の教え」【「三願転入」の位置づけに関する話】

§16 所謂「三願転入」について
 1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
 2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
 3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。

§17 阿弥陀仏の本願の行
 1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
   阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
   阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
   親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。
 2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
   この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。
 3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である
   十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。
 4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
  「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。
 5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
   それができなくなるような環境からは脱出すべきである。

§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義
 1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
   阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
   セーフティーとして立てられたのが十九願である。
 2、極楽浄土に往生しようと思っている人
  (=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
   極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
   阿弥陀仏の本願を無視することになる。
 3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
  「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。
 4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
  (=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
  この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。
 5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
  「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。
 6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
  「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
  「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。

§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?
 1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、
  「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。
 2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」
  というのが本音である。
 3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
  「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。
 4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
  などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。

補講
Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?
 1、「三願転入」を「教え」として「全員がやらなきゃダメ!」というのは、間違い。
 2、「三願転入」を、過去世も含めて「全員がそういう道を通ってきた」というのはOK。
 3、既に阿弥陀仏の本願に出会っている人に対して、
 「宿善ポイントを貯めないとだめ!」みたいなことを言うのはおかしい。
 4、宿善ポイントを貯めるようなことができない私逹のために、
  阿弥陀仏が本願を立て、釈尊が教えを説いている。
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親●会は「ガラポン宿善ポイント制」(ひろしさんのコメントより)

オイラも七つの質問に答えてみた。 コメント覽より

宿善ポイント

「宿善ポイント」と「今の救い」のダブルスタンダードについて、親鸞会会員がどう考えているか推測しました。
この時期歳末で「福引き」をあちこちで見かけます。
補助券を集めて「ガラポン」を回します。
1等賞は「ガラポン」を回す事で得られるので、補助券で得られるのではありません。
例えば、聴聞1日=1ポイント、献金1万円=1ポイント、入会者1人=10ポイント、勤行1回=0.01ポイント、とポイントを貯めます。
貯まったポイントを持って聴聞に臨みます。
「今の救い」を目指して「ガラポン」を回します。
しかし出てくる玉はハズレです。
ハズレてもポイントは減らないで聴聞のポイントがプラスされます。
ポイントが増えるに従って「当たり玉」の数が増えてきます。
商店街の福引きでも最初から1等賞が出たら困るので、1等賞は後からの方が出やすいと聞きますね。
ポイントが満額(宿善開発)になると「ガラポン」の中は全て「当たり玉」になります。
こんな感じでしょうか。

2009-12-18 : ひろし URL : edit




そうか!
親●会は「ガラポン宿善ポイント制」だったのか!!

ただし、「あたり玉」は最初から入ってません(苦笑)。
 ↓

同上 苦笑コメント

親●会の場合は「あたり」がでると、ポイントをためなくなっちゃうので、
ひろしさんの「ガラポン宿善ポイント制」より悪質で、

★最初から「あたり玉」は入ってません。
★したがって、どんだけポイントが増えても「あたり玉」は増えません。
★でも、会員さんは「あたり玉」が出る可能性が高いと思っています。
★そんでもって、最期(命終)の瞬間まで満額(宿善開発)になるかどうかわかりません。

みたいな感じになると思います(苦笑)。

ひろしさんのような良心的(?)なやり方なら、
もうちょい「獲信者」がでると思います。


オイラも七つの質問に答えてみた。

近藤さんが、七つの質問に代わりに勝手に答えちゃったね。
 ↓

『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える①
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える②
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える③
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える④
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える⑤
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える⑥
『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える⑦


なんつ~か、質問がショウモナすぎて恥ずいのよね(苦笑)。

ちなみにオイラやったら、以下のように答えますわ。

『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える①

要約
1)獲信とよい関係にある修善をすすめることは、間違いか。
2)過去に今生は、はいらないのか。

獲信のために金集め&人集めを勧める「宿善ポイント制」を批判してんのに、
論点スライドしてんじゃね~よ(苦笑)。



『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える②

要約
1)「いわない」ということは、「ならない」ということか。
2)ただ言葉遣いだけの問題なのか。

だから「宿善ポイント制」の根拠を出せよ!
唐突に論点スライドしてんじゃね~よ(苦笑)。


『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える③

要約
1)本願寺の破邪顕正は諸善に入るが、親鸞会のは入らぬということか。
2)本願寺へ財施すれば修善になるが、親鸞会にしてもならぬということか。

ヘンテコドグマの布教は「悪」やし、ヘンテコドグマを布教する団体に資金を与えるのは「悪」やね。
もう、それでわかるやろ(苦笑)。



『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える④

要約
1)この世で、宿善は厚くなれないのか。
2)聞法をすすめることと、宿善開発は、関係ないのか。

だから、「宿善ポイント制」ドグマに基づいた話はエエっちゅうねん(苦笑)。
ちなみに、ヘンテコドグマを注入されると「宿善開発」の邪魔になる。
という「関係」は指摘できますわ。



『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える⑤

要約
1)宿善と聴聞は、関係あるのか、ないのか。
2)あれば、どんな関係か。

ヘンテコドグマを注入されることに時間と労力を浪費することは、
「阿弥陀仏の独用」の邪魔になると思いますわ(苦笑)。



『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える⑥

要約
1)三願転入の教えと、獲信とは、無関係なのか。

怪しいドグマにはお付き合いでけまへんな(苦笑)。
「やさしい浄土真宗の教え」の§16-19を読んで勉強してから出直してきてね。


『本願寺 なぜ 答えぬ』を読んで④ 七つの質問に代わりに勝手に答える⑦

要約
1)地獄に堕ちることは、一大事ではないのか。
2)一大事とは、いえないことか。
3)領解文の「一大事」も、地獄に堕ちることといったら、間違いか。

以下を読んでから出直してきてね(苦笑)。

地球人にガミラス星人の「文化」は適応されない
やさしい浄土真宗の教え §13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル
Q&A(12)後生のー大事について
「貴方は必堕無間の後生の一大事がわかっていないのです!」←これは「二種深信の機の深信」と「罪悪観」とを混同してる人のドグマやねん。

以上

メモ「顕彰隠密」

用管窺天記 「顕彰隠密」より無断転載


御開山聖人は「化身土巻」で顕彰隠密として、『観経』には顕著に説かれている教義と隠微にあらわされている教義があるとおっしゃる。
いま、「化身土巻」の十三文例の即便について少しく窺ってみよう。

下記の『観経』で、 即便往生という語についての御開山のお示しである。

もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし。なんらをか三つとする。一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗の方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。『観経』P.108

なお、参照用に漢文では
「若有衆生 願生彼国者 発三種心 即便往生 何等為三 一者至誠心二者深心三者廻向発願心 具三心者必生彼国 復有三種衆生 当得往生 何等為三 一者慈心不殺具諸戒行二者読誦大乗方等経典三者修行六念廻向 発願願生彼国」
である。

十三文例

「発三種心即便往生」といへり。
また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。「仮巻」p.383

この「三種心」とは、「至誠心、深心、回向発願心」の三つの心であるが、御開山はこれを三種の衆生が発す三種類の心の彰の義と見られた。

そして、三輩を「三種衆生」とし、浄土願生者を「大経』の弘願の三心、『観経』の定の三心・散の三心の、それぞれの三心を発す者とされたことは以下の文で判る。

機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。また二種の三心あり。
また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心はすなはち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。即往生とはすなはちこれ報土化生なり。「仮巻」p.392

「二種の三心あり」とし、「二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。」とあることから、三種の三心の中に弘願の三心を含めておられる事が判る。

また、『観経』の三心の中に、『大経』の「至心・信楽・欲生」、「至心・発願・欲生」、「至心・廻向・欲生」のそれぞれの往生の三種類の三信が読み込まれている、と見られたとする事もできよう。

「二種の往生あり」とは、即便を「即」と「便」に分けて、「即」という報土往生と「便」という化土往生に分けられる。

これが、

「二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。」

の顕彰隠密である。

このように、即便を「即」と「便」に分けられたことは『愚禿鈔 (下)』の末尾の文からも解かる。

また二種の往生あり。
一には即往生、       二には便往生なり。

ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を勧誘して三信に通入せしめんと欲ふなり。三信とは、これすなはち金剛の真心、不可思議の信心海なり。また「即往生」とは、これすなはち難思議往生、真の報土なり。「便往生」とは、すなはちこれ諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界、双樹林下往生なり、また難思往生なりと、知るべし。『愚禿鈔 (下)』p.541

「親鸞会教義の誤り」というブログの、高森親鸞会の『本願寺なぜ答えぬ』によれば、

十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する、十方衆生の道程と、みておられることが、よくわかる。

と、あり、会員にプロセスとしての三願転入を勧めているそうである。

しかし、このような誤解・錯覚を防ぐ為に、「即」という報土往生と「便」という化土往生を分判され、得るべき果を示し化土を願うのではなく報土往生を願え、といわれている事はあきらかである。

そもそも、「化巻」冒頭の「総釈」に、

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。「仮巻」p.375

と、仮の浄土である「化身土」という果を先に出しておられることからも判るように、御開山の勧化は第十八願であることは当然であろう。

また、十八願の別名に「選択本願」を挙げられておられる。
この選択という語は、取捨の義といわれるように、真実報土往生の十八願を選び取り、十九願・二十願を選び捨てているのである。

御開山は三願転入を述べられる直前に、

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。「仮巻」P.412

と、要門・真門の自力の行者を厳しく誡め、如来の選択したもうた弘願の十八願をお勧め下さっている事はいうまでもない。

そもそも、仏教の目的は成仏であって悟りを得る事である。
仏教とは、
仏説教(仏が説く教え)
説仏教(仏を説く教え)
成仏教(仏に成る教え)
まとめれば、仏教とは、仏が、仏について説く教えを拠り所として、自らが仏になる教えである。

『観経』に説かれる定善・散善のような有漏の善では、まさに「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし」である。
第十八願の本願力回向の行信に依らなければ、どうして罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔から迷い続け、これからも迷い続け、迷いの世界を離れる手がかりのない者が浄土に往生し即成仏するなどという事があり得ようか。ましてや、電光朝露の至極短命の機である者に三願転入などというプロセスを経ている時間などないのである。

浄土真宗の十八願の教説は、今晩聴いて今晩助かる、頓教中の頓である横超のご法義であって、三願転入をしろというような教説ではないのである。

自業自得の救済論でも述べたが、高森親鸞会では三願転入の論理を聖道門の自業自得の因果論によって解釈し、十八願へのプロセスとして「願海真仮論」を誤用し会員に善(世俗の善)を奨め(主として人集め金集め)奨めることは十八願直入の道を遮蔽しているのである。

なお先哲は、御開山の「化巻」撰述の動機を、白紙の上に一点の墨を落とすことによって、いよいよ十八願の真意が明らかになると言われている。

また、全宗教を、真(十八願の浄土門)・仮(偽を仏教に誘引する聖道門)・偽(煩悩を助長する邪義)の三分類で顕わし、雄大な教義体系によって、誓願一仏乗といわれる大乗至極の浄土真宗の法門を顕わされたのである。

親●会は浄土真宗のミー●ホープだったんやね。

なるほど~。

「阿弥陀仏の救い」に「信仰がすすむ」を混入させて、
会員さんに金集め&人集めを強要してたわけですな。

親●会は浄土真宗のミー●ホープだったんやね。
 ↓ ↓ ↓

安心問答 2009-11-23 「信仰が進む」は浄土真宗にはない親鸞会独自の教義です より

顕真11月号に
「善をしてゆけば、そのうちに助かる」は甚だしい聞き誤り
という、信心の沙汰を紹介した記事が載っていました。その中に、
『「善をしなければ信仰は進みませんよ」と教えていただきますので、「善をしていけば信仰が進み、やがて助かるようになる」と聞き誤りやすいのだと思います。』とか、
『「今、助ける」本願が常に説き切られているのに、「善の積み重ねで助かる」とか「そのうち助かる」と聞くのは、とんでもない誤りではないか。』とあります。
そこで、思ったのですが、
「善をしなければ信仰は進みませんよ」というのは、「善をしていけば信仰が進む」という意味でなく、
「(本当の)善ができれば信仰が進むかもしれないが、できないのだから、信仰が進むということは金輪際ない(助かる縁はない)」という意味だととればそのとおりなのではないでしょうか?どう思われますでしょうか?(Kさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091021/1256129656#c1258905196
回答します。その発想は無かった、と思いました。

Kさんの書かれるような意味で話をするということは今まで聞いたことがなかったからです。

そうなりますと、コメントにある顕真の言葉を一部借りますと

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と教えていただきますので、「善をしていけば信仰が進み、やがて助かるようになる」と聞き誤りやすいのだと思います。(顕真11月号より)
は、以下のような意味だということになります。

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と教えていただきますので、善をして阿弥陀仏に救われると言うことは金輪際ないのだから、ただ今弥陀に救われなさい。

この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。(教行信証信巻)
私たちのする善をもって往生浄土しようにもそれはできないことだと言われているとおりになります。

ただそうなると、余計に「信仰が進む」という言葉の意味がわからなくなります。

何度もコメントの文面を読んで分かったことは3つあります。

「阿弥陀仏に救われる」と「信仰が進む」は全く別の言葉
「善をして阿弥陀仏に救われる」ことはない
「善をしなければ信仰は進まない」→「善をすれば信仰が進む」
この顕真でわかることは、親鸞会では、「阿弥陀仏の救い」と「信仰が進む」ということの2つを勧めているということです。しかも、その2つは別物だということです。

しかも、「信仰が進む」という言葉は、親鸞会内で使われる意味合いからすれば、親鸞会オリジナルの教義といえます。いわば造語です。

ただ「信仰が進む」は、他宗教で普通に使われる言葉なので、真宗にはない親鸞会独自の造語であるということがわかりにくいのです。

そうなりますと、親鸞会では、浄土真宗の教えと、浄土真宗にない教えの二つを混ぜて教えているということになります。

かつて本願寺から、「善をして助かるという教義は真宗にない」という批判に対して、「そんなことは一言も言っていていない」と突っぱねた理由は、ここにあったのだとわかりました。

たしかに一言もいってないはずです。

「信仰が進む」ために善をすすめていたのですから。しかも「信仰が進む」というのは、親鸞会独自の教義だったからです。浄土真宗本願寺派から批判されても、まったく的外れになるのは当然といえます。

「信心決定あれかし」といいながら、「信仰が進むあれかし」と勧めているのですから、聞いている人も、「信心決定したい」のか「信仰がすすむようにしたい」のか、頭の中で混乱します。

浄土真宗を伝えるというのであれば、オリジナル教義の「信仰がすすむ」は言ってはならない言葉です。それでは、仏教だけでなく他宗教の教えをいろいろ取り入れる新興宗教団体と何も変わりません。

「信仰がすすむ」と「阿弥陀仏の救い」の2つを勧めるのが親鸞会の現状のようです。

オリジナル教義の「信仰がすすむ」をしたい人は、親鸞会に残られるでしょうが、「ただ今阿弥陀仏に救われたい」という人は出ていくのが現在の親鸞会の現状だと思います。

私たちの人生は長くはありません。ただ今の阿弥陀仏の救いを求めながら、さらに平行して「善をしなければ信仰は進まない」と一生懸命「信仰がすすむ」ことをやっている時間も体力もありません。

阿弥陀仏の救いはただ今ですから、まず阿弥陀仏に救われる事が大事です。

長らく考えていた「信仰は進まない」という言葉の意味が、Kさんの言葉をきっかけに、「親鸞会独自の言葉」だとよく分かりました。Kさん有り難うございました。真宗に関係ある言葉だという意識がありましたが、全く関係なかったのです。





参考 wikipedia ミー●ホープ より

牛肉ミンチの品質表示偽装事件

2002年、元工場長の告発により北海道新聞に食品偽装事件が掲載された(ミートホープの名は出ていない)が、公的機関は動かなかった。ミートホープの常務だった赤羽喜六氏は行政指導によって改善しようと、保健所、役所に告発するが断られ、遂に逮捕を覚悟で警察に訴えるが被害届がないことから確認が難しく、このような難件にさく人員はいないと受け入れられなかった。
2006年4月、赤羽氏は食品偽装を告発するため、ミートホープを退社し、後に数名の幹部が退社し、この告発メンバーに加わった。彼等はテレビ局にも告発文を送ったが食品偽装は立証できないという事で報道されなかった。
しかし2007年春に事態は一変する。告発を行った新聞社のDNA検査によって牛か豚が調べた結果、偽装が立証される。2007年6月20日、北海道加ト吉(加ト吉の連結子会社)が製造した「COOP牛肉コロッケ」から豚肉が検出されたことが報道された。加ト吉が事実確認を行ったところ、北海道加ト吉には原料の取り扱いミスはなく、ミートホープの責任者は加ト吉に「納入している牛肉に豚肉が混ざっていた」と報告した[1]。第一報を伝えた朝日新聞の取材にも社長は「故意ではなく、過失」であったと強調していた。
この件に対し、記者会見で当初同社社長は否定していたが、元社員らが社長自ら指示し関与しているとの報道がされると取締役である社長の長男に促され、記者会見で社長が関与を認めた。尚、社長はどのように肉を混ぜるのかという単価計算のされた紙を持っていた。
その後、牛肉100%の挽肉の中に豚肉、鶏肉、パンの切れ端などの異物を混入させて水増しを図ったほか、色味を調整するために血液を混ぜたり、味を調整するためにうま味調味料を混ぜたことなどが明らかになった。
さらに、消費期限が切れたものをラベルを変えて出荷したり、腐りかけて悪臭を放っている肉を細切れにして少しずつ混ぜたりするなどの不正行為も明らかになった。これらは創業間もなくから始まり、後に常態化したと見られている。
牛肉以外にも、ブラジルから輸入した鶏肉を国産の鶏肉と偽って自衛隊などに販売していたことや、サルモネラ菌が検出されたソーセージをデータを改ざんした上で小中学校向け学校給食に納入していたことも明らかになっている。
6月24日、北海道警察と苫小牧署は不正競争防止法違反(虚偽表示)容疑で本社など10箇所の家宅捜索を行った。
ミートホープ社長はマスコミの取材や裁判に於いて「半額セールで喜ぶ消費者にも問題がある」「取引先が値上げ交渉に応じないので取引の継続を選んだ(コストダウンのため異物を混入させた)」など他者に責任を転嫁する発言を繰り返し、消費者に謝罪するような発言をすることはなかったという。
一方で、6月24日に北海道加ト吉の工場長が本来捨てるべきであるコロッケをミートホープ社に販売して20~30万円の利益を不正に受け取っていたことも明らかになった。この収益は会社の利益に計上せず社内の懇親目的に使用していたといい、この工場長は同日付で解任された。これに絡み、加ト吉創業者の加藤義和は経団連理事の他、社外の公職をすべて退いた。
また、ミート社元幹部が実名を明かして2006年春に農林水産省北海道農政事務所に不正挽肉の現物を持参して調査を依頼したが、同事務所はこれを受け取らず、実質的に指導も行わなかった。農水省は「北海道内の業者と認識したため、道に対応を依頼した」としているが、北海道庁は「そのような記録は無い」とした。なお、2006年時点でミート社は東京事務所を開設しているため、管轄は農水省にあったという。 その後、この幹部は朝日新聞社に告発し、偽装事件の第一報となった。
これら一連の情報は内部告発が発端となったもので、公益通報のあり方に一石を投じる事件でもあった。
その後、社長は逮捕・起訴され、2008年3月19日に不正競争防止法違反(虚偽表示)と詐欺の罪で懲役4年の実刑判決を受けた。社長は「早く罪を償いたい」と控訴せず、判決は確定している。


真宗の本尊について

~以下、親●会でも超有名な、『現代の教学問題――派外からの論議について――』(宗義問題研究会)所収の山田行雄「真宗の本尊について」より無断転載~

真宗の本尊について

山田 行雄


はじめに

 宗教において信者の礼拝の対象としての本尊は重要な意義をもつ。その本尊が偶像化するか否かは、その本尊が正当た教義に裏づけられているか否かに関わるものである。しかし、いかに純正な教義にもとづく本尊であっても、礼拝者がその教義を正しく領解しないで、自己の欲望を満たすために祈願の対象として礼拝したり、また単なる儀礼的対象とのみ見るならば、これまた偶像化への轍を歩むものである。
 真宗において、礼拝の対象となる本尊は阿弥陀仏の名号であり、形像である。
しかるに近年、高森親鸞会は、浄土真宗の本尊は名号本尊でなければならぬ。
阿弥陀仏の形像を本尊とすることは、親鸞聖人・蓮如上人の依用されないものであって、現在の浄土真宗の本山・末寺並びに門徒は形像本尊を依用している。
これは外道邪教徒であって浄土真宗ではないと論断するのである。
 もちろん、このような非難は真宗教義の無理解、あるいは歴史的事実の無視からくるものであって、正当な論議ではない。
 また高森親鸞会は、本願寺派と教団を異にしているので、どのように主張されようが異義でもなければ異安心でもない。異義異安心とは、基本的には同一教団内における異端についての名目である。だが、われわれがこれを問題としなければならなくなったのは、宗祖が同じ、聖教量が同じであり、しかも本願寺に対しての強烈な非難であり、外道邪教徒とまでの罵倒である。そこでこの高森親鸞会よりの非難を機縁として、その批判という形を取りながらも、単にそれのみに止まるのではなく、真宗本尊の本義について述べてみる。

一、高森親鸞会の主張について

 いま絵像・木像というような形に表顕されている本尊を形像本尊といい、名号を本尊とするのを名号本尊という。真宗では形像本尊も名号本尊も共に礼拝の対象としていることは承知の事実である。この事実を批判して高森親鸞会は「顕正新聞」に号外を出し、更には『どちらがウソか』(高森親鸞会篇)を出版して次のごとく論難している。

  もし、本願寺の言うように、親鸞聖人や蓮如上人が、名号でもよし、絵像
  でもよし、木像でもよし、一つに固執してはいけないと教えられたのが正
  しいとすれば、『改邪砂』に「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず、必ず
  名号を本尊とせられた」と書かれてありますが、覚如上人はウソを書かれ
  たことになります。
  また存覚上人の『弁述名体鈔』にも「親鸞聖人はいつも名号を本尊とされ
  た」ことが書いてありますが、これもウソになります。また、慈俊の『慕
  帰絵詞』第四巻には、「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず名号ばかりを
  本尊としていられた」と記してありますが、これもウソッパチになります。
  いずれも名号のみを御本尊とせられたと記録されているからです。
  また、親鸞聖人がそれまで寺院などで本尊としていた弥陀三尊の絵画など
  を、すべて捨て去り、ただ名号を御本尊となされた、その重大な意味も全
  く踏みにじられてしまいます。
  それだけではありません。蓮如上人の御教示にも明らかに違反することに
  なります。
  蓮如上人は『御一代記聞書』に「他流では、名号よりは絵像、絵像よりは、
  木像というなり。真宗においては、木像よりは絵像、絵像よりは名号とい
  うなり」と仰言って、浄土真宗の正しい御本尊は名号であることを明示さ
  れています。
  この蓮如上人のお言葉は、本願寺の主張するように、名号も絵像も木像も、
  どれでも同じことだと言うことでしょうか。だからどれを本尊にしてもよ
  ろしい、という意味なのでしょうか。若し、そのように解釈しているとす
  れば、現今の本願寺は真実信心は勿論、易しい文章の解読力まで失ってし
  まったといわなければなりません。
  言うまでもなく、真実の仏法の判らない他流の者達の教える本尊と、親鸞
  聖人の勧められた御本尊との相違をハッキリさせる為に蓮如上人が比較対
  照して御教示になったもので、同じく阿弥陀如来を本尊としている浄土門
  の人でも、木像を本尊としている者は他流であり、浄土真宗は名号を本尊
  とすべきであることを教えられたものであることは明々白々であります。

というのである。右の文章は、浄土真宗の礼拝の対象は名号のみであって、形像本尊を礼拝の対象とすることは浄土門の異流であると論定するのである。そしてそれら形像本尊の礼拝者たちは外道邪教徒に他ならぬとする。その論証の内容を分析すれば、およそ次の三点に要約されるであろう。

(1)宗祖自身の礼拝の対象は名号本尊のみであり、形像本尊は一切否定された。
(2)(1)の問題についての証文として、『改邪鈔』・『弁述名体鈔』・『慕帰絵詞』の文を挙げていること。
(3)更に決定的には『蓮如上人御一代記聞書』の文をもってしていること。
 この三点より、宗祖以来蓮如上人に至るまで一貫して真宗の本尊は名号本尊であり、形像本尊は全てこれを依用されなかったとするのである。そこで、まずこの三点を綿密に検討せねばたらぬ。


二、 『改邪鈔』の文について

 まず高森親鸞会より提言された三点を考えるについて、論考の便宜上、三点の順序を(2)・(3)・(1)の順で考えてみたい。
 (2)の問題は、宗祖自身は名号本尊のみであって、形像本尊は依用されたかったとする証文を挙げるのであるが、それと並んで、その証文の著者、すなわち覚如上人・存覚上人においても、その本尊は名号本尊のみであったとする意味をも含み、後に問題とする蓮如上人の本尊論においても同様であって、宗祖より蓮如上人に至るまで、礼拝の対象は名号本尊のみであって形像はこれを本尊とせられなかったとするのである。
 高森親鸞会が証文として挙げた覚如上人の『改邪砂』の文として「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず、必ず名号を本尊とせられた」とあるというのは、『改邪砂』の次の文を指すのであろう。

  本尊なをもて『観経』所説の十三定善の第八像観よりいでたる丈六八尺随
  機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず、天親論主の礼拝門
  の論文、すなはち「帰命尽十方無尋光如来」をもて真宗の御本尊とあがめ
  ましましき。(『真聖全』三ー六六~六七)

とある。
この『改邪砂』の文は、
 一、絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事。(『真聖全』三ー六六)
の条下に述ぺるものである。すなわち覚如上人時代、念仏行者のなかに絵系図と称して、道俗男女の形体を面々各々図絵して所持していたことの非を論難されたのである。具体的には仏光寺派了源による絵系図の流行を誠めた一項であるとされている。そしてこの絵系図を否定することに付して真宗の本尊に言及され、「本尊なをもて『観経』所説の十三定善の第八の像観よりいでたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず」とするのである。
 高森親鸞会は、この「あながち……にあらず」を、「全て……ではない」と完全否定として解釈し、 「宗祖は形像本尊を全て御依用にならなかった」とするのであり、逆論すれば、「宗祖は必ず名号本尊のみであった」とするのである。
 この「あながち……にあらず」の国語学的用法は、「あながち」+「ず」であって、 「あながち」自体を否定することを意味する。だから「必ずしも……でない」とか「一概には……でない」と解釈すべきであり、いわゆる部分否定である。よって『改邪鈔』の「祖師あながち御庶幾御依用にあらず」とは、「宗祖は必ずしも御庶幾御依用ではなかった」との意であり、高森親鸞会の主張のごとく「宗祖は必ず御庶幾御依用ではなかった」と完全否定の解釈はなり立たない。『改邪鈔』のこの条での完全否定は、「その余の人形」を礼拝の対象とすることである。
 更に覚如上人自身は、はたして名号本尊のみを勧められて、形像本尊の依用を禁じられたのであろうか。この問題については、同じく『改邪砂』に、

  いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の
  極致とするうへに、三業のなかには口業をもつて他力のむねをのぶるとき、
  意業の憶念帰命の一念おこれば、身業礼拝のために、渇仰のあまり、瞻仰
  のために絵像・木像の本尊をあるいは彫刻しあるいは画図す。しかのみな
  らず、仏法示誨の恩徳を恋慕し仰崇せんがために、三国伝来の祖師・先徳
  の尊像を図絵し安置すること、これまたつねのことなり。(『真聖全』三ー六六)

と述べられてある。すなわち他力信心を獲得したうえから、渇仰のあまり、瞻仰のために、絵像・木像の本尊を画図し彫刻し「身業礼拝の対象とすること、更に仏法示誨の恩徳を仰崇して七高祖の尊像等を図絵して安置することは常套のことであると示されているのである。三業のなか、身業礼拝の所対が形像であって悪いはずはなく、大切なことは覚如上人自身「真宗においては、もはら自力をすてて、他力に帰するをもて宗の極致とする」と明示していられることである。形像本尊を安置する意趣について大瀛師はその著『本尊義』に、

  形尊の来由唯報恩身業所対となすなり。若し口業称名は行住坐臥を論ぜず、
  故に仏像を境とするに非ず。若し意業帰命は名号を所聞の境とし、仏智(即
  名義三心)を所信の境として直ちに真身を所帰の境とす。故に亦形像を仮
  らず。但、礼拝に至りては形像に対せざれば施し難し。是れ身業なるが故
  に。形像を安立する意唯此にあり。

と述べてある。一義として参考にすべき説であると思われる。

 また、覚如上人自身が形像本尊を門弟に下付されていた事実を示すものとして、顕誓師の『反故裏書』には、
  覚如上人の御時乗専法師(中略)覚如上人にしたがひ奉り、絵像の本尊・『報
  恩講式』・『口伝砂』・『改邪砂』・『安心決定砂』等の聖教をのぞみ申され、
  真俗につけてたぐひなき御門弟なり。丹波六人部に毫摂寺といふ寺をはじ
  め給ひ、すなはちかの御影像をすへ奉り云々(『真聖全』一一九八○)
と記録されているのである。

三、 『弁述名体鈔』と『慕帰絵詞』の文について

 次に、高森親鸞会が示した『弁述名体鈔』の文について考えてみることにする。存覚上人の著『弁述名体鈔』に、「親鸞聖人はいつも名号を本尊となされた」との指摘は、

  高祖親鸞聖人御在生のとき、末代の門弟等、安置のためにさだめおかるる
  本尊あまたあり、いわゆる六字の名号、不可思議光如来、无碍光仏等なり。
  梵漢ことなれども、みな弥陀一仏の尊号なり。(『真聖全』五ー二三五)

の文を指すのであろうと推測される。この文も明らかに名号を本尊とされ、形像本尊を否定されたものなのであろうか。存覚上人は同じく『弁述名体鈔』に、

  絵像にかき、木像につくれるは、ちいさくかけばちいさきかたち、おほき
  くつくればおほきなるすがたなり。ただその分をまもるがゆへに真実にあ
  らず、不可思議光如来とも、无碍光如来ともいひて、文字にあらはせると
  きは、すなはち分量をささざるゆへに、これ浄土の真実の仏体をあらはせ
  るなり。しかれども、凡夫はまどひふかく、さとりすくなきゆへに、あさ
  きによらずば、ふかきをしるべからず。方便をはなれては、真実をさとる
  べからざれば、ふかきもあさきも、みな如来の善巧、真実も方便も、とも
  に行者の依枯なり。このゆへに、あるひは形像を図し、あるひは文字をあ
  らはして、真仮ともにしめし、梵漢ならべて存するなり。いづれも弥陀一
  仏の体なりとしりて、ふかく帰敬したてまつるべきなり。(『真聖全五ー二三
  九~二四〇)

と示されてある。存覚上人は覚如上人と形像本尊の論じ方が異なってはいるが、名号も形像も共に「弥陀一仏の体なりとして、ふかく帰敬したてまつるべきなり」と帰依恭敬する旨を示されるのであって、決して名号本尊のみを礼拝の対象とすべきであるとの論述ではないのである。
 更に高森親鸞会が挙げた従覚師の『慕帰絵詞』の文について論ぜねばならぬ。
高森親鸞会がいう「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず名号ばかりを本尊としていられた」とはどのような文を指すのであろうか。高森親鸞会は『慕帰絵詞』第四巻に述べてある文であると指示している。そこでいま同巻を検読するに、
  他の本尊をばもちいず、無碍光如来の名号ばかりをかけて、一心に念仏せ
  られけるとぞ。(『真聖全』三-七八二)
とある。この文を指すようである。これは、慈信房善鸞の件についての記述であって、宗祖のことではない。 「他の本尊をばもちゐず、無碍光如来の名号ばかりをかけて」とあるが、無碍光秘事でもあったといわれる善鸞にとって、無碍光如来の名号のみを礼拝の対象としていたことは理解に難くなく、「他の本尊」とは、帰命尽十方無碍光如来以外の他のすべての本尊、すなわち、形像本尊、名号本尊の中、南無阿弥陀仏、南無不可思議光仏(如来)等をも否定して、これを用いなかったと解釈できる。いずれにしても善鸞の行儀を示す文をもって、宗祖の本尊に関する証文として挙げても、これは確たる証文とはならないのである。

四、 『蓮如上人御一代記聞書』の文について

 次に(3)の問題であるが、高森親鸞会が名号本尊でなければならぬとする証文のなかで、最も強力な証文とするのは『蓮如上人御一代記聞書』の文である。
その文とは、

  他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり、当流には、木像
  よりはゑざふ、絵像よりは名号といふなり。(『真聖全』三ー五四九)

とある。他流とは、浄土門のなか、浄土真宗を当流というのに対してそれ以外を指すのであり、具体的には浄土宗西山派、鎮西派等を他流、もしくは異流と呼称するのである。
 さて、それでは「他流においては名号よりは絵像、絵像よりは木像」になっているのか否か、この問題より検討する必要があろう。
 まず浄土宗の開祖法然上人は『法然上人御説法事』に、

  およそ仏像を造画するに種々の相あり。あるひは説法講堂の像あり。ある
  ひは池水沐浴の像あり。あるひは菩提樹下、成等覚の像あり。あるいは光
  明遍照摂取不捨の像あり。かくのごとき形像を、もしはつくり、もしは画
  したてまつる。みな往生の業なれど、来迎引接の形像は、なほその便宜を
  えたるなり。(中略)しかればふかく往生極楽のこころざしあらむ人は、来迎
  ものなり。をつくりたてまつりて、すなはち来迎引接の誓願をあおぐべき
  ものなり。

と、来迎引接の阿弥陀仏の形像を本尊として勧められているのである。更に法然上人自身が礼拝の対象とせられた本尊として、『没後遺戒文』に「本尊・三尺立像・弥陀定朝」と記されてあり、形像本尊であったことは事実である。わが国においてこの弥陀来迎の立像を本尊とするのは、すでに源信和尚にまで遡ることができる。『往生要集』臨終行儀の条下に、

  其の堂の中に一の立像を置けり、金薄をもて之に塗り、面を西方に向けた
  り。其の像の右の手は挙げ、左の手の中には、一の五綵の幡の脚を垂れて
  地に曳けるをあおぐ。(『真聖舎一-八五四)

とある。この立像とは『兵範記』に「三尺阿弥陀仏一体立像也、件御佛存日造立供養日来奉居枕上、引五色糸臨終念仏本尊也」とあり、来迎の阿弥陀仏の立像であったことは明白である。
 鎮西の聖光上人は『西宗要』(『浄土宗要集』)に「本尊本経安置すべき事」の条を設けて、
  住処住房ある人に付て道場を建立し、本尊を安置せよといふなり。(中略)在
  家の人も道場を建立し、本尊を安置すべきたり。
と述べ、本尊の必要性を強調されるのである。そしてその本尊とは、同じく『西宗要』に、
  釈迦弥陀二尊を以て、浄土宗本尊とすること其の意快く覚ゆ。
と、釈迦・弥陀二尊を本尊と定められたようである。
 西山の証空上人は、『西山上人縁起』に依れば、「身づから弥陀如来の像一体をきざみ持念の本尊」とされたとも、「弥陀三尊の像を安置」されたとも伝え、更には「釈迦弥陀二尊を安置」とも記されてあり一定していない。しかし来迎の形像本尊であることには相違ない。しかも「像一体をきざみ」とか「安置」とあるからには絵像ではなく木像が主であったことは容易に想像できるところであろう。
 このように、浄土門の他流においては、形像本尊であったことは確定的であり、それも木像が主流をなしていたことは、「形像をつくりたてまつり」・「本尊を安置せよ」・「像一体をきざみ持念の本尊」等とあることからも明らかである。現在、浄土宗においても名号本尊を依用されているが、これは室町末期頃よりのことであるようである。
 次に「当流には木像よりはゑざふ、絵像よりは名号」といわれた蓮如上人の真意を窺わねばならぬ。高森親鸞会の主張は、この文をもって「浄土真宗は名号を本尊とすべきである」というのである。なるほど蓮如上人ほど多く名号を染筆された方は他に類をみない。だからといって、蓮如上人は名号のみを本尊とされたかといえば、決してそうではない。

五、蓮如上人の本尊について

 蓮如上人の本尊は、具体的には、蓮如上人が発願建立された山科本願寺の阿弥陀堂の本尊であろう。
 文明十五年八月二十八日のご文に、

  阿弥陀堂の仏壇(中略)いくほどなくして出来せり。則まづ本尊を六月十五
  日にはすえ奉りけり。(『真聖全』五-四〇六)

と述べられ、山科本願寺の阿弥陀堂の本尊は文明十四年六月十五日に「すえ奉」られたとある。平尾興栄氏も注意されたごとく、このすえ奉られた本尊が形像本尊であったか名号本尊であったかは、「据える」とある表現からも推察されるが、実悟師の『山科御坊之事並其時代事』に阿弥陀堂の荘厳を記するに、

  本尊木像安阿作 如今。左方北太子絵像讃如常蓮如御筆・六高僧御影。右南法然聖人
  一尊御影讃如常蓮如御筆両方共に三具足・燈台あり。(『真聖舎五ー六二九~六三〇)

とあり、ここに本尊木像(安阿作)とある。明らかに蓮如上人は形像本尊を礼拝の対象として安置されていたことは歴史的事実である。
 更に蓮如上人は形像本尊の下付もなされていた事実がある。その事実のなか、二、三挙げてみよう。

(一)京都府北桑田郡美山町南 福正寺蔵
            大谷本願寺 釈 蓮如(華押)
       長享三歳乙酉四月二十八日
方便法身尊形丹波国桑田群知井里南村
           願主 釈 浄頓
(二)岐阜市 茜部町 浄性寺蔵

            釈 蓮如(華押
 方便法
 ロロロ身尊形美濃□□池□慶祐門従
        願主 釈 □□

(三)岐阜 河野六坊蔵

          大谷本願寺 釈 蓮如(華押)
      文明十八年丙午九月十二日
方便法身尊形尾州葉栗群上津間庄 本庄郷河野惣道場
             願主 釈 善性

 右のごとき事実を踏まえたとき、『蓮如上人御一代記聞書』の文は、蓮如上人が名号本尊のみを勧められたものと見ることは、はたして妥当であろうか。
問題は、自ら木像の本尊を礼拝の対象とされ、また絵像の本尊をも下付されている蓮如上人が、なぜ「他流には、名号よりも絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりはゑざう、絵像よりは名号といふなり」といわれたのかを改めて問わねばならぬ。
 この問題については、既に古今の学者が種々論考されるところである。しかし、先に見てきたように、他流の本尊安置の理由は、「往生極楽のこころざしあらむ人は、来迎引接の形像をつくりたてまつる」ところにあったことは明白である。
 広く法然門下においての親鸞教学の特質は、この臨終来迎の否定であり、現生正定聚の主張であったことは周知のことである。そして宗祖の臨終来迎否定、現生正定聚論の基盤は名号大行説にある。よって『蓮如上人御一代記聞書』の文は、形像を本尊として臨終来迎を願い求めることに対する安心の立場よりの訓誠であって、起行門における礼拝の対象を論じたものではないと窺うのが適切であろう。もし起行門からいうならば、名号本尊・形像本尊は共に方便法身としての顕現態として礼拝の対象とすべきであり、両者の間に優劣可否を論ずべきではないと思われるのである。

六、宗祖の本尊について

 次に(一)の問題であった宗祖の礼拝の対象としての本尊を考えてみるのに、現在確認されている資料では名号本尊のみしか残っていないことは学者の指摘するところである。そこで、現存する宗祖の名号本尊を挙げると次の七幅である。(入力者註 讃等は省略)

1. 六字名号 本派本願寺蔵
南无阿彌陀佛(蓮台)

2. 八字名号 高田派専修寺蔵
南无不可思議光佛(蓮台)

3. 十字名号 高田派専修寺蔵
帰命尽十方无碍光如来(蓮台)

4. 十字名号 岡崎 妙源寺(高田派)蔵
帰命尽十方无碍光如来(蓮台)

5. 十字名号(籠文字) 高田派専修寺蔵
帰命尽十方无碍光如来(蓮台)

6.十字名号(籠文字) 高田派専修寺蔵
帰命尽十方无碍光如来(蓮台)

7. 十字名号 高田派専修寺蔵
南无尽十方无碍光如来(蓮台なし)


右の七幅を宮崎圓遵博士の指摘を参考にして類別してみると
(一)(1)~(4)までのものは、中央の名号も、上下の銘文も全て宗祖の真筆であること。
(二)(1)~(6)まで、すなわち(7)を除いては全ての名号の下に蓮台が描かれていること。しかも、(3)・(4)のごときは、明らかに下部の添紙をづぎ合わせた後に蓮台が描かれていることより推察すると、蓮台は添紙後に描かれたものであると
考えることができる。

 (三)(1)~(5)の全てのものには「愚禿親鸞敬信尊号」とあり、年齢または年紀が記されてあること。
 (四)(1)~(4)までのものには裏書に「方便法身尊号」と、年月日があること。なお、この裏書は最初は別紙の小形の細長い紙であり、表装の折に裏に添付されたもめであろう。
 (五)(5)(6)の籠文字のものは、籠文字そのものは宗祖の真筆ではないが、上下
の銘文が宗祖の真筆であること。
(6)の一幅は、蓮台も銘文等もなく、いわゆる名号本尊としては未完成のものであろう。

 以上、種々の分類を試みたが、ここで更に重要な問題は、(イ)宗祖の名号本尊御染筆の年代が同年代に集中していて、そのほとんどが真宗高田派に蔵せられていること。同名号には、「愚禿親鸞敬信尊号」とあり、裏書は「方便法身尊号」とある二点であろう。
 (イ)の問題は、善鸞義絶の問題と、それに伴う下野高田門弟の上洛とに関係する広範囲の問題となると思う。しかし紙数の関係で、詳しく述べることができないので、問題解決の方向性を指摘するに止めておく。

  七、名号本尊について

 (ロ)の御染筆の名号に蓮台があり、「愚禿親鸞敬信尊号」と筆され、裏書に「方便法身尊号」とあることは、宗祖が名号を本尊とされた実証である。
 名号をもって本尊とすることは、宗祖をもって最初とする。もっとも、仏名をもって礼拝の対象とした形態は、中国・日本にも古くから行われた。そのことは、『仏名経』が存在すること。また宮崎博士の指摘のごとく、密教の種子曼茶羅、奈良元興寺極楽坊で先年発見された笹塔婆には多く南無阿弥陀仏の名号が記されてあり、広島安国寺の善光寺型阿弥陀三尊の胎内より出た文書には、南無阿弥陀仏の名号を書き、しかもその下に蓮台が描かれたものもある。真言・天台等では早くから仏名を礼拝の対象としたことは知られ、極楽坊・安国寺等のものは、やはり鎌倉時代のものであるが、名号を礼拝の対象とはしても、本尊そのものにしたか否かは即断できないとのことである。一遍上人は『一遍聖絵』によると、「六字名号をとどめて、五濁常没の本尊とし給へり」とか、「かくところの文字の名号は行者の本尊たるなり」といい、南無阿弥陀仏の六字名号の下に蓮台が描かれている。しかし一遍上人は宗祖より六十年ほど後の人である。

 名号本尊の最初は宗祖であり、宗祖は名号を本尊とされた事実は明瞭である。
だからといって、高森親鸞会の主張するごとく、

親鸞聖人がそれまで寺院などで本尊としていた弥陀三尊の絵図などを、すべて捨て去り、ただ名号りみを本尊となされた。

との断定は、論理の飛躍と暴言であって、歴史的考察の無視である。

 義門師は『尊号真像銘文講説』に、
  祖師御時代には、専ら九字・十字・六字のであったことは勿論なれども、
  絵像や木像は一体も無かったたとは云ふべからず。木辺の本山の縁起をみ
  れば、祖師聖人木仏御安置あり、又京西洞院松原大善寺に踏出の弥陀と申
  して、片足先へ出して在す弥陀あり、これも聖人の御安置なり。

と述べているが、もちろん木辺の縁起も、大善寺のそれも、歴史的考証を欠き信愚するに足りるものではない。しかし、すでに注意されているごとく、常陸稲田の草庵の本尊は聖徳太子であったとされ、下野高田は現に一光三尊の阿弥陀仏像が安置されている如来堂である。宗祖が寄寓されていた場所に、すでに安置されていた本尊を排捨して、名号本尊をもってされたとは推考できない。
更にいえば、恩師法然上人の礼拝の対象とされていた形像本尊を宗祖は礼拝されなかったとは想像し難いことである。ただ明確にいえることは、宗祖が安置された礼拝の対象としての本尊は名号本尊であり、門弟に下附された本尊も現存の資料からでは、やはり名号本尊であったことは確かである。しかし、この名号本尊は先に資料を挙げたごとく、いずれも宗祖晩年に依用されたものであり、先にも一言したごとく歴史的背景を考慮に入れて考えねならぬ問題である。
だから、これをもって宗祖は形像本尊を否定されたと即断することはできぬ。
なぜなら名号本尊も形像本尊も共に「方便法身」の尊号であり尊像であるからである。名号が仏心の表象であれば、形像もまた仏心の顕現に他ならぬのであ両者の間に優劣・可否を論ずるものではない。


八、真宗教義と本尊について

 真宗において、礼拝の対象とする本尊は、既に名号であり、阿弥陀仏の形像である旨を述べた。その形像本尊のお姿は、『観経』に説く住立空中尊であるとする。だが浄土異流(他流)と異なって真宗における形像本尊は、観想の対象とするものでもなく、また来迎を要請するためでもない。真宗は聞名の宗教であって、観法の宗教でないことは論を待たない。また往生の因は信の一念に決定し、臨終来迎を要期せぬ宗教である。
 ここで注意せねばならぬのは、来迎を要期することと、来迎仏を礼拝の対象とすることは意味が異なることである。臨終に来迎を要請することは、自己の往生のとき、乱心をおさめて正念に住するために如来の来迎を願い求めるものである。宗祖は往生決定は信の一念にありとする本願のおぼしめしに立たれて、臨終来迎を願い求めることを否定されためであって来迎の弥陀それ自体を否定されたことではないことである。
 真宗の本尊を論ずる場合に注意すべきことは、救済論と本尊論とを混同してはならぬこと。また教義安心と無関係に本尊論を考えることはできぬことである。その理由は最初に述べておいた。かつて真宗本尊論史上、宗義安心と本尊の形相とは無関係であると述べて(大谷派宝厳)問題を起こした事がある。造形美術の面より形像仏を問題にするのならともかくとして、本尊として礼拝の対象となる形像を論ずる場合に、宗義安心と無関係に論ずることはできない。また教義安心の面のみに走れば、その論の趣くところ、いつのまにか救済論に変貌する恐れがある。
 真宗教義上、礼拝の対象となる本尊はいかなるものか。ーーそのことは、そのまま礼拝の対象である本尊が真宗教義の上から正当であるか否かの問題であるがーーを問題にするのが、いま直接の課題である。

 九、仏体と名号について

『観経』に説かれる住立空中尊とは、
  仏、阿難及び章提希に告げたまわく、諦かに聴け諦かに聴け。善くこれを
  思念せよ。仏まさに汝が為に苦悩を除くの法を分別し解説すべし。汝等憶
  持して、広く大衆のために、分別し解説せよ。この語を説きたもう時、無
  量寿仏、空中に住立したもう。観世音・大勢至、この二大士左右に侍立せ
  り。光明熾盛にして、つぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も、比と
  なすことをえず。(『真聖舎一-五四)
とあり、ここに阿弥陀仏が、二菩薩を伴つて空中に住立したもう姿が説示されている。
 ここに真宗教学上、種々の問題がある。いま特に必要な二点について考えてみる。
 (一)真宗本尊の形像を『観経』に依ったことの問題である。宗祖は『教行信証』教巻に「夫れ真実の経を顕わさば大無量寿経これなり」(『真聖全』二ー二)と示され、浄土三部経のなか『大経』こそが真実の経であるとされた。そして『大経』には阿難及び四衆が見てたてまつった大光明を放った阿弥陀仏の姿が説かれている。それが真宗の形像本尊の依りどころであって、隠顕の両義のある『観経』を依拠とするのは、法門上許されることでないという。この『大経』説か『観経』説かで論諍を起こしたのが、真宗教学史上、三大法論の一つ「明和の法論」である。現在では『観経』説が妥当であろうとされている。明和の法論の論讃の内容に,ついては、(イ)報身応身の問題、(ロ)脇士有無の問題、(ハ)の大悲顕現の問題、(二)立像坐像の問題の四点に集約されよう。
 (イ)『観経』華座観の所説のなか、釈尊が韋提希に対して「苦悩を除く法」を説かれようとした時、突然に阿弥陀仏が住立したもうた。「苦悩を除く法」とは教法であり、阿弥陀仏は仏身である。釈尊が教法を説こうとされたとき、仏身で対応されたことは、教法対仏身という矛盾が起きないだろうかの問題である。
 これについて、善導大師は『定善義』に住立空中尊を解釈して自問自答されている。

  弥陀空に在りて立したもうは、但廻心し正念にして我国に生ぜんと願ずれ
  ば、立どころに即ち生ずることを得しむることを明かすなり。
  問て曰く。仏徳尊高なり、輒然として軽挙すべからず。既に能く本願を捨
  てずして来りて大悲に応う者、何が故ぞ端坐して機に赴かざるや。
  答て曰く。此れ如来別に密意ましますことを明かす。ただ以んみれば娑婆
  は苦界なり。雑悪同じく居して八苦あい焼く、動もすれば違返を成じ詐り
  親みて笑みを含む、六賊常に随いて三悪の火こう臨臨として入りなんと欲す。
  若し足を挙げて以って迷いを救わずんば、業繋の牢、何に由ってか免がる
  ことを得ん。斯の義の為の故に、立ちながら撮りて即ち行き、端坐して以
  て機に赴くに及ばざるなり。(『真聖全』一ー五一四)

と。すなわち阿弥陀仏の「立つ」姿は「来たりて大悲に応う」のであり、三悪の火こうに堕しくいく苦悩の衆生を救済して止まぬ大悲の表象である。「撮る」とは大悲の活動を示すものであり、大悲の活動とは具体的には招喚の勅命である。このように考えてくるとき、釈尊が名号法(除苦悩法)を説こうとされたと同時に、阿弥陀仏が住立したもうたのは、矛盾どころか当然といわねばならぬ。
すなわち、韋提希が仏説を聞くに臨んで、声に応じて「苦悩を除く法」とは我なりと、阿弥陀仏が現身したもうたのである。よって、名号即仏体であり、仏体即名号である。名の他に体があるのではなく、また名の他に体を求むるものではないのである。
 阿弥陀仏は自利利他が不二一体に成就したもう覚体であるから、如来の正覚を全うじて衆生往生の行となり、名号は仏体の徳を全うじて衆生に聞信せしめたもうのである。すなわち如来の徳の全体が名号の内容であり、仏体と名号は不二である。
 しかし、所信をいえば、名体不二の名号をもって真宗のすわりとするのである。その理由は、本願成就文に「聞其名号信心歓喜」とあるからである。
 だからといって、名号を信ずるのであって、阿弥陀仏(仏体)を信ずるのではないとはいわない。礼拝の対象とする本尊は名号のみであって、形像は礼拝の対象とせぬという論は成立しない。なぜなら、仏体と名号とは不二であるからである。この名体不二論をふまえずして、本尊論を語るところに、高森親鸞会のような偏見が生ずるのであり、また宗祖が名号本尊の裏書きに「方便法身尊号」と記された深意を無視する結果にもたる。この偏見の行きつくところ、たとい名号を本尊として礼拝の対象としていても、その名号を本尊とする意義すら理解できぬため、名号本尊をも偶像化する危険がありはしないだろうか。

十、方便法身について

 真宗における礼拝の対象としての名号本尊の裏書に「方便法身尊号」とあり、形像本尊の裏書には「方便法身尊形」と記され、共に方便法身とある。
 方便法身の語を最初に出すのは、曇鸞大師の『往生論註』であるが、そこにま、法性法身と方便法身の二種の法身を出し、その関係を「由生由出」と示してある。宗祖はこの二種法身を解釈されて『一念多念文意』には、
  一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまひて、无碍のち
  かひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆへに報身如
  来とまふすなり。これを尽十方无碍光仏となづけたてまつれるなり、この
  如来を南无不可思議光仏ともまふすなり。この如来を方便法身とはまふす
  なり。方便とまふすは、かたちをあらわし、御名をしめして、衆生にしら
  しめたまふをまふすなり。すなわち阿弥陀仏なり。(『真聖全』二ー六一六)

と述べられている。すなわち「かたちをあらわし、御名をしめして、衆生にしらしめたまふ」のが方便法身である。
 宗祖は名号を「方便法身の尊号」として敬信せられたのであるが、その「方便法身の尊号」と意義において変わることのない「方便法身の尊形」を本尊としても、宗義の上から何の問題もないことである。
 形像本尊は宗義に反するものと断定するようなことは、方便法身の無理解からくるものであって、それらの人々は、たとい名号本尊を礼拝の対象としていても、安置されている名号本尊の意義すら理解されていないのではなかろうか。


十一、形像本尊について

 真宗の本尊は、名号本尊のみに固執すべきものでなく形像本尊でも義において変わるところがないことを論じてきた。換言すれば、名号本尊・形像本尊の教学的背景を考え、真宗本尊の正当性を概説したのである。そしてそのなか、名号本尊については具体的に説明したのであるが、形像本尊においては、また具体的説明を残している。
 形像本尊は、先にも述べたように『観経』の住立空中尊を模したものである。
しかし、『観経』の住立空中尊は、観音・勢至の脇士があるが、真宗の形像本尊は立像の弥陀一仏である。その理由は、韋提希の見仏の意に準拠するのである。 『観経』には章提希の獲忍を述べて、

  時に章提希、無量寿仏を見たてまつり已りて、接足作礼して云々。(『真聖全』一-五四)

とある。すなわち韋提希の見仏は、聞見一致の真実弘願に帰したのであるから、三尊を見るままが、弥陀一仏の帰依であるためである。
 その立像の阿弥陀仏に光明があるが、光道は四十八光道が一般的である。この光道の数の基本は如来の十二の光徳である。十二光を二周すれば二十四光道、三周すれば三十六光道、四周すれば四十八光道となり、阿弥陀仏の四十八願と数が合致するので、四十八光道にしてあるのだと思われる。
 その如来が蓮の華台に立らていられるのはなぜか。これは『観経』にも華座が説かれているが、龍樹菩薩の『智度論』には、
  梵天王は蓮華上に坐す。是の故に諸仏は世俗に随う。
と述べてある。すなわち如来が蓮華台上に立たれるのは、世俗の大王といわれる梵天王が蓮華台上に坐しているため、われ等に理解し易いようにするためであるとされている。
 しかし、蓮華であれば、白色か桃色であろうに、如来の蓮台は多く青蓮華になっているのはなぜであろうか。これについても同じく『智度論』に、  一切の蓮華の中、青蓮を第一となす。
とあるが、この説に依るのであろう。しかし木像には金蓮華台・白蓮華台もあり一概に論ずることはできない。
 立像の木像には、更に幾重かの高座がある。坐像であれば高座があって不思議ではたいが、立像になぜ高座があるのだろうか。この問題については、『浄土真宗本尊義記』に、
  木像に高座をもちゐるととは、坐像の高座をかりて恭敬す。
と述べ、更にその高座の種々を挙げ、最高は九重あると詳しく解説してある。
 また木像には船御光があるが、これは如来の光明が雲に映じている姿を表現せんとしたのであろう。しかし,実際には火焔の船御光もあり、未だ明確ではない。この問題を『真宗故実伝来鈔』に、
  仏像の光明に、光り御光、船御光とて二あり。爾るに当家には、光り御光
  を用ひ玉ふは如何ぞ。答、光明は本体なし、日輪の影の如し、故に其の勢
  をしらせん為に、船の形の如く其の相を顕し、又遍照の理をしらせん為に、
  光の御光を示す。画像は表具一ばいに光明を画すれども、木像は限りあり。
  笠の如くに作りなす。爾れば当家にひかり御光を用ること、しひて故ある
  には非ず、唯古来用ひ来れる故実たり。
と述べられてあるが、やはり確答はできず「唯古来用ひ来れる故実」であるとする。

 阿弥陀仏の印相については、古来より右手を挙げられているのは招喚、左手を垂れていられるのは摂取を示すもので、招喚・摂取の印といわれている。
 形像の阿弥陀仏が全て金色になっていられることについては、『漢語灯録』に、

  諸色の中へ白色を本と為す、諸仏何の為ぞ白色を須いざる。謂く白は異変
  す、唯黄金の色のみ変ぜず。諸仏皆常住不変の相を顕んと欲す。是の故に
  黄金の色を現じたまふ。(『真聖全』四-四二九)
と解説されてある。すなわち如来の常住不変を顕わすには、色のなか変色しない金色をもってしたのであるとする。更に加えていえば、阿弥陀仏は「無碍光如来」「不可思議光仏」等と光明で表現されるのであって、これを色に表わせば当然金色が最もふさわしく思われる。
 形像本尊がいつの頃から下付されたかについては「歴史的資料が乏しく明確ではないが、『浄土真宗本尊義記』には、

  絵像の裏書を閲するに、大品の絵像は、実如上人已来の御免許たり。その
  表補の大縁は高麗綾なり。小縁は綾地の印金なり。軸は桜の木なり。百代
  二百代等と称するも、その時分の御礼銭の員数につゐていひならはせり。
  絵表料はこの外にあり。金欄縁金軸は後代のことたり。しかれば証如上人
  はじめて、在家に小絵像を御免ありしことなるべし。

と述べてある。この調査によると、寺院への絵像の下付は実如上人(本願寺第九代一四五八~一五二五)時代であるとする。その実例を挙げれば、

(一)碧南市鷲塚町 願随寺蔵
       大谷本願寺 釈実如(華押)
       永正十一年甲戌十一月廿六日
方便法身尊像
      参州幡豆郡志貴庄
          願主 釈恵性

(二)碧南市鷲塚町 願随寺蔵
       大谷本願寺 釈実如(華押)
        永正十六年己卯七月廿八日
              三河国
方便法身尊像
         幡頭郡 志貴庄
         鷲塚口道場物也

等とある。
 なお、現在でも、免物絵像の大きさを百代二百代等と呼称しているが、これま「卸礼銭の員数」であるとしている。この礼銭とは、絵像の身の文と等しく銭を積み上げたものと推測されている。


あとがき

 以上、高森親鸞会の真宗本尊に関する本願寺への非難が、教義的にも歴史的にも、妥当性を欠くものであることを論証し、真宗の本尊の本義を述べたのである。しかし、問題が教義的歴史的広範囲に亘り、紙数的に詳細な論考を割愛せざるをえなかったことは残念であるが、大綱は論じたつもりでいる。
 なお、光明本尊について論及しなかったことを釈明しておきたい。光明本尊に関しては、存覚上人の『弁述名体鈔』に、

  天竺・農旦の高祖、あるひは吾朝血脈の先徳等、をのおの真影をあらはさ
  れたり。これによりて、面々の本尊、一々の真像等を、一鋪のうちに図絵
  して、これを光明本となづく。けだし、これ当流の覚者のなかに、たくみ
  いだされたるところなり。(『真聖全』五ー二三五)

と紹介されている。これによると、光明本尊とは元来は「光明本」といわれていたもので本尊と絵系図を一つにしたようなものである。しかも「これ当流の覚者のなかに、たくみいだされる」ものであったとされている。「光明本」は「光明品」とも記されているが、「光明本尊」との呼称は近世になってからのことである。よって真宗の礼拝の対象として正当なものでなく、真宗本尊論として取り扱うべきものではないと考えたからである。

メモ「自業自得の救済論」

用管窺天記 「自業自得の救済論」 より無断転載
 ↓ ↓ ↓ ↓

高森親鸞会という浄土真宗を名乗る新興宗教の団体がある。
この団体は、かって本願寺派紅楳英顕氏との間で宿善について論争したことがある。
紅楳氏の「破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示して欲しいとの主張を、「真宗に善をすすめる文証などあろうはずがない」と、紅楳氏の主張を歪曲し非難した過去がある。

その論争の中で真宗における善の勧めの根拠として高森親鸞会から提示されたのが「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」という七仏通誠偈であった。

この、七仏通誠偈をもって真宗に善の勧めがある、と高森親鸞会は主張するのである。
本願寺派では、あまりにも浄土真宗の基礎を知らない幼稚な主張にあきれはてて放置しておいたのだろうが、これをもって高森親鸞会内部では本願寺を論破した稀代の善知識として会員獲得のスローガンになっているらしい。

また、
「善因善果 悪因悪果 自因自果」の厳然たる因果の道理を知らされた者は、必ず「廃悪修善」の心が起きる。
高森親鸞会HP

と、主張し、「廃悪修善」を勧めていることは周知の事実である。
同様に、高森親鸞会では「善の勧めはなぜなのか」と自問し、

「十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。
要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。
実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。」
同上

と主張している。

親鸞聖人には「願界真仮論」があるが、高森親鸞会では、この三願転入の論理を聖道門の自業自得の因果論によって解釈し、会員に善を勧め(主として人集め金集め)十八願直入の道を遮蔽しているのである。

十八願は阿弥陀如来の本意の願であり、十九願二十願は不本意の願である事は親鸞聖人の「願界真仮論」によって顕かである。何故に会員に阿弥陀如来の不本意の十九願二十願を勧め、ましてや六度万行(六波羅蜜)という法蔵菩薩の五劫兆歳永劫の修行を会員に奨励するのであろうか。

本願寺派勧学梯實圓和上は自著『顕浄土方便化身土文類講讃』で以下のように述べられている。

真仮論の救済論的意義ー自業自得の救済論
阿弥陀仏の本願のなかに真実と方便を分判し、浄土三部経にも真実教と方便教があるといわれた親鸞聖人は、そのように真仮を分判しなければならないのは「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」るからであるといわれていた。逆にいえば、真仮を分判することによって、はじめて如来の救いの真相が明らかになるというのであった。その意味で真仮論は、聖人の救済論の根幹にかかわることがらだったのである。

真仮論とは、浄土教を、さらに広くいえば仏教を、二つのタイブの救済観に分けることであった。第一は、自業自得の因果論に立った救済観であり、それは論功行賞的な発想による救済観であった。
第二は、大悲の必然として救いが恵まれるとする自然法爾の救済観であって、それは医療に似た救済観であった。
自業自得の因果論に立脚した救済観というのは「誠疑讃」に

自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける

といわれているような、自力の行信因果をもって救済を考えていく思想をいう。
それは浄土教というよりも、むしろ仏教に一般的に共通した思考形態であったといえよう.
有名な七仏通誠の偈とよばれる詩句がある。

諸悪莫作(もろもろの悪は作すことなかれ)
衆善奉行(もろもろの善は奉行せよ)
自浄其意(自らその意を浄くす)
是諸仏教(これ諸仏の教えなり)

というのである。悪を廃して善を行じ、無明煩悩を断じて、自心を浄化し、安らかな涅槃の境地に至ることを教えるのが、すべての仏陀の教えであるというのである。

このように廃悪修善によって涅槃の果徳を実現しようとする自業自得の修道の因果論が、七仏通誠といわれるように、仏教理解の基本的な枠組みであった。
このような自業自得の因果論の延長線上に浄土教の救済を見るのが第一の立場であった。

法然聖人を論難した『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」によれば、諸行往生を認めない法然は『観経』等の浄土経典や、曇鸞、道綽、善導にも背く妄説をもって人々を誤るものであるといっている。
すなわち『観経』には、三福九品の諸行による凡聖の往生が説かれているが、彼等が往生するとき、仏はその先世の徳行の高下に応じて上々から下々に至る九品の階級を授けられていく、それが自業自得の道理の必然だからである。
たとえば帝王が天に代わって官を授くるのに賢愚の品に随い、功績に応ずるようなものである。しかるに専修のものは、下々の悪人が、上々の賢善者と倶に生ずるように主張しているが、「偏へに仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚痴の過」を犯していると非難している。

これは明らかに自業自得、廃悪修善の因果論をもって、法然教学を批判しているもので、『興福寺奏状』の起草者、解脱上人貞慶からみれば法然聖人の浄土教は、仏教の基本的な枠をはみ出した異端でしかなかったのである。
『顕浄土方便化身土文類講讃』(梯實圓著)P61~

高森親鸞会のHP「承元の法難」には何故か『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」が意図的に省かれている。同上

参考の為に意図的に省略された『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」の部分を提示しておく。興福寺奏状

これは、前掲の梯實圓和上の説にもあるように、高森親鸞会の主張する「廃悪修善」「自業自得の因果論」にとって都合の悪いものであるから意図的に省いたのであろう。

承元の法難では『興福寺奏状』に説かれる論理によって、法然聖人の門弟四人の死罪、法然聖人と親鸞聖人など中心的な門弟七人が流罪に処さるという未曾有の念仏弾圧が行われた。

高森親鸞会では、同じような廃悪修善の因果論の論理によって、まさに法然・親鸞という両聖人が説かれた選択本願念仏という宗義を破壊し毀損しているとしか思えないのである。

親鸞聖人は、

西路を指授せしかども
 自障障他せしほどに
 曠劫以来もいたづらに
 むなしくこそはすぎにけれ

と、自らが迷い人を惑わせることを自障障他と言われているが、高森親鸞会の講師の方々に言いたい。
自らが迷うなら、それこそ自らの属する高森親鸞会の信条である「自因自果」であるが、どうか他者である会員を惑わせないで頂きたい。


ものすごく納得がいく、スマナサーラ長老の因果論

テーラワーダ仏教ゴータミー精舎日記より
http://gotami.j-theravada.net/

質問者への長老の回答
 ↓ ↓ ↓

質問3 結局のところ、お釈迦様が説かれた「自業自得」とは、(1)「自分に起る幸不幸の出来事は"すべて"自分の責任である」ということなのでしょうか? あるいは、(2)「自分に起る幸不幸の出来事は自分"にも"責任がある」ということなのでしょうか? あるいはもっと適切な理解の仕方があるのでしょうか? 個人的には、(2)ならば、まぁ納得できます。だって「全部社会や周りのせい」も極端ですし、「全部自分のせい」も極端じゃないですか? 同じ境遇でも幸福に感じるか、不幸に感じるかは人によって違います。そういうところは「自業自得(自分で何とかできることだから)」かもしれませんけど、「これは自分の責任ではない、社会の問題だから、社会で解決してもらわなくては」と、社会を変えるように頑張ったほうが、公共の福祉(たくさんの人の幸福)に繋がる場合 だってあると思います。

答え  正確に言えば、「起こる出来事」は自業自得ではないのです。純粋な出来事、という意味では自業自得の面もあり、他業自得の面もあり、まとめて言えば多業多得です。自分、他人、社会情勢、自然環境といったさまざまな因縁が重なり合って複雜な現象が成り立つのです。唯識思想ではあるまいし、初期仏教では現象としての外界の存在をきちんと認めています。それをすべて無視して自業自得というのは、極論であり邪見です。

  社会というのは単なる現象ですから、無常・苦・無我であって、因縁関係の流れであって、それ自体は究極的には無価値なのです。無知な人間が作った社会で、仮に作られた約束事にもとづいて、争って苦しんでいます。人間の身体とおなじく、国家も社会もメンテナンスしなければおかしくなってしまう。だから、構成員一人ひとりが、社会をよりましな現象の流れに変えていくように頑張るしかないのです。しかし、そこに完璧な正解というものも成り立たない。つねに試行錯誤しながら、社会を構成している生命が幸せでありますように、という慈しみの動機付けをもって、理性的に社会と関わる中道的な生き方をするということが答えなのです。

 多くの因縁で構成された「出来事」を個人レベルの自業自得に還元することは行き過ぎです。ましてや他人を差別したり不正を正当化したりするために使うなどもっての外です。しかし、個人が出来事に直面した時に成り立つ「幸不幸」は主観的なものですから、あくまで自業自得なのです。ある「出来事」を幸福と感じるのも自分、不幸と感じるものも自分、だからです。同じ現象の流れに対して、自分がどう向き合うか、どうはたらきかけるか、というのは自分で決めるしかありません。また過去においても自分で決めてきたのです。このように、複雜な因縁の絡まりあいである現象に対する反応がすなわち自業であって、その自業が次の自分をつくっていく(自得)という意味で、自業自得です。先ほど述べたように、現象に対する反応(感受=心)の流れが輪廻であって、輪廻の見方からすれば、自業自得しか成り立たないのです。そのように厳密な真理として自業自得を認めることで、人は向上への道を歩むことができるようになります。(終わり)




上記に対する、オイラのお友達(♀)の感想
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ものすごく明晰。
「出来事」と「出来事の結果おのおのが抱く心情」をごちゃまぜのままに、他人に対して「あんたの業のせいである~。」などと言ってはいけないのだ。
とってもスッキリした。

嫁いだ家のお寺にお上人がおらず、仏縁の薄いところへ嫁いだのが私の業なのではなく、その状況を幸せに思うか不幸せに思うかということが私の業に左右されるのである。
高校を出た若者は進学するにも就職するにも地元をはなれて都市部に出て行かなければどうしようもない田舎で、若者はどんどんへり、年寄りばかりが取り残されている。親が死んだって、葬式のためにちょこっともどってくるだけだ。年寄りが死んでしまうとそれで地元のその家は絶えてしまい、門徒の数はどんどん減って行く。お寺さんだって、そんな田舎に常住の人員を配置するより、都市部に手厚く配置しておいた方がお金的に有効性を生むので、そうするのである。
業の深い人間が田舎に生まれて仏縁から遠のくのではない。
田舎がさびれゆくのは、田舎の事をかえりみず、どんどん切り捨てて行った国政の責任によるところが大きい。
個人の業のせいならば、業の深いモンがじゃかすか田舎に生まれ落ちて、今頃田舎は大盛況であるだろう。






流石や~。 この「業」理解が仏教の正統やね。

「環境」に基づいて「楽」「苦」を感じる「オレ」と、
それ自体は「楽」でも「苦」でもない「環境」をごっちゃにして、
それにまで「オレ」の責任を当てはめると、
とんでもない差別思想になっちゃうねん!!
 
ヘンテコドグマ野郎(※)は、これは最低四十八回熟読せよ!!

※こいつ。
 ↓
静かな劇場 因と縁
http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/d05e56dce8576055cd0c909f00bd3ac6

韋提希夫人は散善もやってへんし、やろうともしてへんぞ!!

韋提希夫人は散善もやってへんし、やろうともしてへんぞ!!
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21世紀の浄土真宗を考える会 観無量寿経のこころ その2 散善 より

定善と散善について、善導大師は『観経疏 玄義分』に
定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。
と書かれています。
定善は韋提希の請によって説かれましたが、散善は釈尊の自説です。
(唯請定善・自開散善、散善は不請の法)
定善ができる人となると限られていますので、凡夫のために自ら説かれたのが散善なのです。
その散善も
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
と観無量寿経に書かれていますように、成仏の行であり、基本的には聖道門の行なのです。
観無量寿経の真意は、定善どころか散善さえもできない悪人のために本願力回向の念仏・信心をあきらかにすることであったのです。
ですから、定善と同様、韋提希は散善をやってはいませんし、やろうともしていません。




やっぱし、『観無量寿経』を読んでみた方がええで(苦笑)。
思考停止してても、現代語訳ならなんとか読めるでしょ(笑)。
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WikiArc 現代語 観無量寿経

韋提希夫人は定善をやってへんし、やろうともしてへんぞ!!

韋提希夫人は定善をやってへんし、やろうともしてへんぞ!!
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21世紀の浄土真宗を考える会 観無量寿経のこころ その1 より

さて、
「韋提希夫人は定善をやった」
あるいは
「韋提希夫人は定善をやろうとした」
と思っている人がいますが、
韋提希夫人は定善をやってもいませんし、やろうともしていません。

【理由】
1.韋提希夫人は釈尊に「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」とお願いして、その答えとして釈尊は定善を説かれました。
 つまり「私はお釈迦様のおかげで浄土を見ることができましが、未来の衆生はどうすれば見ることができるのでしょうか」と質問しているのですから、既に浄土を見た韋提希夫人にとって、定善をする必要はありません。
2.そもそも、韋提希夫人には定善はできません。
 日想観をやろうとしてできなかった韋提希夫人に水想観、地想観・・・と順番に易しくして導かれたと勘違いしている人がいますが、上に述べたように、定善十三観の中心は第九真身観です。
 日想観は雑想観とともに一番易しい方に入ります。
 もし韋提希夫人がやろうとしてできないために、他の定善をすすめられたとするならば、それはちょうど、4段の跳び箱を飛べない子供に、「では5段をやってみなさい」「そうかできないか、では6段をやってみなさい」「では7段」「8段」・・・と言う体育の先生のようなもので、いるはずがないのです。

 世の中にはやってみなけらば分からないことと、やらなくても分かることがあります。
 たとえば、ハーバード大学に入学するということはやってみなければ分からないとも言えます。
 しかし、国際宇宙ステーションに歩いて行くことは、それがどこにあるかを聞けば、やってみなくてもできないことは分かります。
 定善がどういうものか聞けば、できないことは分かります。



同 コメント覧 より

獲信したら定善が出来るようになる
という人がいましたが本当でしょうか?
[2009/10/13 18:36] URL | ヒロ

ということは、親鸞会が作成した王舎城の悲劇のアニメの内容は間違っているということでしょうか。
高森会長は知らずに作ってしまったのでしょうか。それとも、あえて何かを意図して、誤った内容を作製したのでしょうか。もし、そうだとすると、何を伝えたかったのでしょうか。
[2009/10/13 21:48] URL | 元会員A

親鸞会発行のアニメって、買ったんですけど、やっぱり間違ってる?と思います。どうみても、イダイケ夫人は「やったから」救われた、と描かれています。やっぱり、おかしいですね。
やったから、なんて。
[2009/10/13 23:10] URL | 明石

>ヒロ様
出鱈目ですね。
また、そのようなことは聞いたことがありません。

>元会員A様
はい。間違っています。
製作意図などについては、申し訳ありませんが、私は高森氏ではありませんので分かりません。
[2009/10/13 23:12] URL | 近藤智史



バイアスがたっぷりかかった、
ヘンテコドグマ注入アニメだけじゃなく、
最低一回は、現代語訳でもいいので、
『観無量寿経』を読んでみた方がええと思いますな(苦笑)。
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WikiArc 現代語 観無量寿経

【再掲載】勝手に西阿を破門すんなよ!

いまだに、おマヌケなこと言ってる野郎がいるので、
再掲載しておきますわ。

もう、二度とマヌケなこと言っちゃだめよん(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

親●会は、別の問題で盛り上がっているようですが、
オイラは引き続きヘンテコ教義を晒してみましょうかね~。


親鸞会教義の相対化・16(質疑応答70)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-71.html

【2】流刑と西阿の破門

ビデオ三巻に、法然上人・親鸞聖人の流刑と、それに伴って、西阿が法然上人に説法を控えるように進言して、破門されるエピソードが書かれています。

ところで、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1,
門弟等なげきあへる中に、法蓮房申されけるは、住蓮安楽はすでに罪科せられぬ。
上人の流罪はたゞ一向専修興行の故と(云云)
しかるに老邁の御身、遼遠の海波におもむきましまさば、御命安全ならじ。
我等恩顔を拝し厳旨をうけ給ことあるべからず。
又師匠流刑の罪にふしたまはゞ、のこりとゞまる門弟面目あらんや。
かつは勅命なり、一向専修の興行とゞむべきよしを奏したまひて、内々御化導有べくや侍らんと申されけるに、一座の門弟おほくこの義に同じけるに、

上人の給はく、流刑さらにうらみとすべからず、そのゆへは、齢すでに八旬にせまりぬ。
たとひ師弟おなじみやこに住すとも、娑婆の離別ちかきにあるべし。
たとひ山海をへだつとも、浄土の再会なんぞうたがはん。
又いとふといへども存するは人の身なり。なんぞかならずしもところによらんや。
しかのみならず念佛の興行、洛陽にして年ひさし、辺鄙におもむきて、田夫野人をすゝめん事年来の本意なり。
しかれども時いたずらして、素意いまだはたさず、いま事の縁によりて、年来の本意をとげん事、すこぶる朝恩ともいふべし。
此法の弘通は、人をとゞめんとすとも、法さらにとゞまるべからず。
諸佛済度のちかひふかく、冥衆護持の約ねんごろなり。
しかればなんぞ世間の機嫌をはゞかりて、経釈の素意をかくすべきや。
たゞしいたむところは、源空が興ずる浄土の法門は、濁世末代の衆生の決定出離の要道なるがゆゑに、常随守護の神祇冥道、さだめて無道の障難をとがめ給はんか、命あらんともがら、因果のむなしからざる事をおもひあはすべし。
因縁つきずば、なんぞ今生の再会なからんやとぞおほせられける。


2,
まだ一人の弟子に対して、一向専修の義をのべ給に、御弟子西阿彌陀佛推参して、かくのごとくの御義ゆめゆめ有べからず候、をのをの御返事を申給べからずと申ければ、

上人のたまはく、汝経釈の文を見ずやと、

西阿申さく、経釈の文はしかりといへども、世間の機嫌を存するばかりなりと、

上人又の給はく、われたとひ死刑にをこなはるとも、この事いはずばあるべからずと、
至誠のいろもとも切なり。見たてまつる人、みな涙をぞおとしける。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


以上が、法然上人の伝記でも一番代表的な『四十八巻伝』の三十三巻で、住蓮・安楽が死罪になった際のエピソードです。

專修念仏の布教を控えるように進言する西阿に対し、
「我、たとい死刑に行なわるとも、この事いわずばあるべからず」
とお答えになられ、專修念仏を広めるためには、自らの命をも惜しまなかった法然上人ですが(2)、

専修念仏を控えるように進言したのは、西阿だけに限らず法蓮房も進言されています(1)。
そして、それに対してその苦難さえも、喜びにかえられ、浄土での再会が間違いのないものであることを弟子逹に説いて、力強くも優しさに溢れた法然上人がそこにいます。

この『四十八巻伝』の伝承のうち、法蓮房のエピソードは『琳阿本』『古徳伝』『九巻伝』『十六門記』といった、別の法然上人の伝記にも共通部分が存在しますし、西阿のエピソードは上記の諸伝記に加え『醍醐本』にも存在しています。

しかし、これらの伝記類のどこを見ても、法然上人が西阿を「立ち去れ!」と破門したというエピソードは存在しません。

いったい、このエピソードの典拠はどこにあるのでしょうか?

親鸞会の教義に会わせて、新しく作ったエピソードを、歴史的事実のように語っているとしたら、非常に問題があるのではないかと思います。

私は部外者なので、率直に申し上げますが、高森先生を法然上人に投影して頂くのは別にかまいませんが、高森先生の人柄を法然上人に投影し、法然上人を不寛容で排他的な人物像にするのは、私のように、日頃より法然上人の言葉にも伝記にも親しんでいる者から言わせれば、はなはだ迷惑であり、絶対に許し難いものがあります。

信憑性のある資料に基づいて語られる、より史実に近い法然上人は、親鸞会の映画のような不寛容で排他的な人物でないことは、この機会に、はっきりお断りしておきたいと思います。



親鸞会教義の相対化・24
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-83.html

常識的に考えて、AさんがBさんを泥棒の罪で訴えた場合、Aさんに「Bさんが泥棒をした」ことを証明する義務があります。
立証責任を果たさないままAさんが、「Bさんが泥棒をした」と主張するならば、Aさんは、「虚偽・捏造を行った人物である」と言われても反論できません。

同様に、「西阿が法然上人に破門された」ことを裏付ける資料がないにも関わらず、ある人物や団体が、「西阿が法然上人に破門された」と主張した場合は、その人物や団体は、「虚偽・捏造を行った」と言われても反論できませんね。



親鸞会教義の相対化・32
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-104.html

【4】『会報』vol.4p.79~善知識(17)

>>>

上人流刑の命を受けて、まさに京都を出発される際も、一人の門弟に対して一向専念の説法を諄々となされていた。
その時、西阿という弟子が、おこしにとりすがって「もしお師匠さま、この際のことでございますから、たヾ一言雑行を許すと仰有って下さることは出来ますまいか」と申し上げると上人は、「汝、経釈を見ずや」と叱りとばされている。重ねて西阿が「なる程、経釈はその通りでございますが、世間の機嫌を思うばかりでございます。」と申し上げると上人は何時になく激怒なされて「われ、たとい死刑になるとも更に変わるべからず、若し雑行を許すならば、法然一身の安楽の為に如来大悲の御苦労を水の泡には出来ぬ。釈尊の一切経を反古にはせぬぞ。駛路はこれ聖者の行くところなり。謫所はまた権化の住処なり。愁とするに及ばず。辺鄙の群衆を化せんこと莫大の利生なり」と喝破なされ、遠流に処せられたという。

>>>

これはちょっと細かいことなのですが、『会報』では法然上人が西阿を厳しく叱ってはいますが、「立ち去れ!」と破門したとは書かれていませんね。これなら問題はありません。

ただその場合は、「親鸞会教義の相対化・16(質疑応答70)」で指摘したようなエピソードが、なぜアニメ製作の段階で捏造されたのかが、問題になります。

高森先生がアニメの脚本を書かれたのであれば、高森先生の中に何らかの思想変遷があったことになりますし、別の方によって脚本が書かれたのであれば、高森先生の『会報』にもないエピソードを、その方が新たに捏造したことになりますね。

この謎の解明は門外漢の私では不可能ですので、何かご存じの方がいれば、ぜひ教えて頂きたいと思いますね。




親鸞会教義の相対化・41
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-156.html

【上巻p.113~】西阿の破門

 高森先生の『会報』では法然上人が西阿を厳しく叱ってはいますが、「立ち去れ!」と破門したとは書かれていないにも関わらず、アニメでは西阿が破門されたことになっていることは、既に述べた通りです。

※「親鸞会教義の相対化・16(質疑応答70)」「親鸞会教義の相対化32」参照

 本書では、本文中には西阿が破門されたことを裏付けるような記述はありませんが、なぜか「◆西阿の破門◆」という見出しが書かれております。非常に不自然です。





これもひどい捏造だよね(苦笑)。

私見ですが、

1,会報の段階ではきちんと資料に基づいて記述。
2,アニメ製作で親●会らしいエピソード挿入
3,それがそのままドグマ化

というプロセスを踏まえて、「破門(=除名)」を正当化・肯定してしまうような、
新しい法然上人のエピソードが誕生したんでしょうかね~(苦笑)。

親●会文化がどんなものであっても、それは自由なんで別にどうこういわないけど、
法然上人のヘンテコなエピソードを捏造
するのはやめてよね(苦笑)。



あと、この問題に関連して、こういう逆ギレ思考停止ロボコンが、
次々と生産されてしまうという弊害も指摘しとくね(苦笑)。

一例は文末の西阿の件ですが、「西阿が破門された根拠が無いではないか?捏造だ」等と仰っておられるようですが、本来貴方が「西阿が破門されていない事」をあなたが証明するべきではないでしょうか。
門外漢と仰っているのにその件に関して「捏造」等と記載するのはいかがなものでしょう。



この人は、例えば「親●会に百万円だまし取られた!」とオイラが訴えた時に、
「だまし取っていない」ことの論証責任が親●会にあるとでも言うんでしょうかね~。

そんな馬鹿な話ありませんやんね~(苦笑)。

しかしながら、こうも思うのです。ここで西阿が破門されたかどうか自体重要な問題でしょうか?
我々の救いと何か関係がありますでしょうか?



関係ないなら、そんなエピソード作らんでえんやんけ!!(苦笑)

むしろ法然上人が死刑になっても曲げてはいけない事が仏法であると
ハッキリ仰っている事の方がより重要に思われますが・・・?



それだけでエエはずなのに、新しいエピソードを捏造したわけですね(苦笑)。

西阿が破門されたかどうかはそこまで重要な問題でしょうか。
それよりも「救われる為の教え」が正しいか否かが重要ではないですか!



法然上人にも西阿にも不名誉なエピソードを捏造しておいて、
この言い方ってないんじゃない?(苦笑)

法然上人よりも親●会で捏造されたドグマの方が重要なんですわ。

結局、この人逹はね(苦笑)。

【再掲載】「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に(「不得外現賢善精進之相」の解釈)

元親●会講師の清森さんが親●会ドグマにツッコミいれてたのを、
以前紹介してたのを思い出したので再掲載しときます。
(2008.10.09.)

元弟子にツッコミ入れられてるのに、
平気でHPに掲載してる厚かましさだけはすげ~ですわ(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

~~ここから~~

そうそう!
煩雑になるから、前回のツッコミでは言わなかったんだけど、
チ●ーリップ企画以下の文は、親鸞聖人の言葉を、
明かにヘンテコな所で切断していますね~。
 ↓

また『唯信鈔文意』には、
『しかれば善人にもあらず、賢人にもあらず、精進の心もなし。懈怠の心のみにして内は空しくいつわりへつらう心のみ常にして、まことなる心なき身と知るべし』

「このような親鸞だから、善人でもなければ賢人でもない。怠け心一杯で立派な人になろうと努める心もない。心は空虚で常に他人の評価ばかりを気にしている、ウソ偽りの名人である。まことの心のない永久に救われぬ身であることだけが知らされる」


●「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆゑは「内懐虚仮」なればなり。「内」はうちといふ、こころのうちに煩悩を具せるゆゑに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならぬなり、「仮」はかりにして真ならぬなり。このこころは上にあらはせり。この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつはらず、へつらはず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし、懈怠のこころのみにして、うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみつねにして、まことなるこころなき身なりとしるべしとなり。「斟酌すべし」(唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがうて、はからふべしといふことばなり。『唯信鈔文意』


おまけに親鸞聖人が「知るべし!」と仰っているのを、
「知らされる」に書き換えるのは、なんでかね~。

と思ってたら、清森問答で解説されてました。
 ↓ ↓ ↓
清森問答 質疑応答101

『不得外現賢善精進之相内懐虚仮』という言葉についての解釈は、浄土宗と浄土真宗で異なります。

 文法的には、浄土宗の解釈の方が常識的な読み方ですが、親鸞聖人は、あえて別の読み方をされていますので、その両方を説明いたします。


 まず、浄土宗の読み方ですと、

「外に賢善精進之相を現じて内に虚仮を懐くことを得ざれ」となります。

 これは、「外」と「内」の不一致を戒められたお言葉です。

 外の姿だけ賢善精進の格好をして、内に虚仮を懐いていてはいけませんよ、ということです。

 この人は、内が虚仮ですから、外の「賢善精進」は格好だけです。だから「相を現じる」という表現を取られていると考えられます。

 ここで問題にされているのは、内の虚仮であって、結論としては「心を真実にしなさい」ということになります。

 このお言葉は、外は「賢善精進」の格好だけやっている人に対して言われているお言葉ですから、その人に「もっと賢善精進の格好をしなさい」と教えられるはずがありません。

 そんなことをすれば、内と外の不一致が、ますます大きくなります。あくまで、内の虚仮を戒め、心を真実にしなさいということです。

 なお、文法的に考えても、「外には賢善精進の相を現じなさい」という読み方は出来ません。この読み方は、とりあえず外を一生懸命やればよい、という誤解を招く、危険な解釈です。

 今の親鸞会の目標制度は、参詣者数、入会者数という、まさに形を問題にし、内の虚仮が殆ど問題にされていないように思います。

 善導大師のお言葉を、正しく読めば、このような弊害を防ぐことが出来たのではないかと思われてなりません。



 次に親鸞聖人の解釈ですが、聖人はこの善導大師のお言葉を、「外に賢善精進之相を現じることを得ざれ。内に虚仮を懐けばなり。」と読まれています。

 文法的には、このように読めないのですが、親鸞会のような誤りを防ぐために、このように読まれたのではないかと、拝察せずにおれません。

 これは、「外に賢善精進の格好をするな。内は虚仮なのだから」ということになります。意訳すれば、「カッコつけず、心の通り振る舞いなさい」とも読めるかも知れません。


 まず気をつけて頂きたいのは、「身業・口業の善をするな」という意味ではない、ということです。


●外儀のすがたは、ひとごとに 賢善精進現ぜしむ
 貪瞋邪義おおきゆえ 奸詐ももはし身にみてり(悲嘆述懐和讃)


 親鸞聖人は、賢善精進を現じている人を、悲嘆されています。貪瞋邪義が多く、奸詐が身に満ちている人が、身業口業の善に励んでいるとは考えられません。


●賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。 愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(愚禿抄)


 賢者(仏様)は、内は賢であるが、外は愚かである。私は内は愚なのに、外は賢である、と仰っています。仏様でさえ、外に賢善精進の相を現じてはおられないようです。


 このようなことから、親鸞聖人は、「賢善精進之相を現じる」という言葉を、「身業口業の善に励む」という意味で使っておられないことが分かります。

 ですから、「内は虚仮ばかりなのに、外を取り繕って、賢善精進の格好をするな」という意味になります。



 ところが親鸞会では、これは信後のことを仰ったお言葉で、信前のことではない、とお聞きしたように記憶しています。

 これについては、具体的に、親鸞聖人がどのように教えられているか、根拠を示したいと思います。



 まず、親鸞聖人が、拝読を勧められていた「唯信抄」には、以下のように書かれています。


●その三心というは、ひとつには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おおよそ、仏道にいるには、まずまことのこころをおこすべし。そのこころまことならずは、そのみちすすみがたし。
(乃至)
まことにふかく浄土をねがうこころなきを、人におうては、ふかくねがうよしをいい、内心にはふかく今生の名利に着しながら、外相にはよをいとうよしをもてなし、ほかには善心あり、とうときよしをあらわして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり。
(乃至)
善導の釈にいわく、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」といえり。


 そして、この唯信抄を解説された「唯信抄文意」には、以下のように教えられています。


●『観経』の三心は、定散二機の心なり。定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心としるべし。
(乃至)
「不得外現 賢善精進之相」というは、あらわに、かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆえは、内懐虚仮なればなり。



 唯信抄では、「仏道に入るには、まず、まことのこころをおこすべし。」と教えられ、その「まことのこころ」=「至誠心」を起こすために、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」と、教えられています。

 仏道のスタートですから、信後の世界のことではありません。

 さらに、その解説の「唯信抄文意」では、「『大経』の三信をえんとねがう方便の深心と至誠心」だと書かれています。

 ここに「方便の至誠心」とありますから、信前であることは明らかです。

 その至誠心の解説の中で、「かしこきすがた、善人のかたちを、あらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」と仰っているのですから、当然、信前の人に対して説かれた言葉、ということになります。



 私には、御報謝の額で表彰状をもらったり、活動の成果で講師部のランクが上がったりする、今の親鸞会のあり方を批判されたお言葉のように思えるのですが、如何でしょうか?

 そんなに、立派な求道者と思われることが大事なのでしょうか?

「立派な求道者と思われる必要は無い、心が大事だ」というのであれば、表彰状もランク分けも要らないはずです。

 そういうやり方で、仮に親鸞会の皆さんが頑張られたとしても、親鸞聖人は決して喜ばれないと思います。


どうやら、親●会ドグマに都合の良い形に、
「仏道のスタート」「方便の至誠心」を、
「信後の世界」にしちゃったようですね(苦笑)。



というわけで、チ●ーリップ企画のエラーは更に一項目プラスですね。
 ↓
6,親●会ドグマと矛盾しないように、『唯信鈔文意』に説かれる「仏道のスタート」「方便の至誠心」を「信後の世界」に勝手に改変しドグマ化している。

阿弥陀仏は、「神社に行ったら一発アウト」のような、けちくさい仏様じゃありません。

阿弥陀仏は、「神社に行ったら一発アウト」のような、
けちくさい仏様じゃありません。

「ショウモナイ人間の価値判断を阿弥陀仏に投影するなよ!」
と言ってやりたくなりますな(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

安心問答 2009-07-21 子供が神社の祭りに行かねばならないときはどうするか? より

フーテンの虎さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

実はわたしには小学一年の息子がいます。
年一回、地元で神社主催の祭りがあり、それに出なければ友達からいじめにあうかも知れません。どうすればいいでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090719/1248003174#c1248060401

結論からいいますと、行事に参加するかしないかは、自由です。

理由は、平太郎の熊野参りと同じです。

一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり(御伝鈔)
と、親鸞聖人は、熊野へ行くかどうかを訪ねた平太郎にいわれました。

あくまでも私たちが、阿弥陀仏に救われ、浄土に往生するかどうかは、一向専念無量寿仏以外にはありません。外の諸仏や菩薩や諸神の力によって、浄土往生できるのではありません。

小学一年生の息子さんですから、どこまで仏法のことを理解されているかわかりませんが、今回のことをご縁に、阿弥陀仏と、神社の神の違いを話されたらよいのではないかと思います。

問題は心のことです。体が一度でも、地元の祭りに参加したら阿弥陀仏に救われる事はないというのであれば、仏法とご縁がある前に地元の祭りで御輿を担いだり、初詣で神社に賽銭を投げたことのある人は二度と助からないということになります。

地元の子供がみな参加する行事ならば、その地域の子供はみな今後も阿弥陀仏に救われる事はないということになります。しかし、そういうことは阿弥陀仏の救いには関係ありません。

助ける力が阿弥陀仏以外にない、ということと、阿弥陀仏以外に向いたことの有る者を阿弥陀仏は助けてくれないということとは違います。

自身も知人も、ご利益があるから神社へ行け、諸仏に参ってこいと勧めているのではありません。神社や、諸仏に参拝することは、阿弥陀仏の救いと無関係なので、積極的に勧める必要はありません。

阿弥陀仏の救いの足しにしようという心で、祭りに出たり、賽銭をなげるということならば、これは雑行でありますから、やってはならないことです。

私たちを助ける働きがあるのは、阿弥陀仏以外にないのですから、一向専念無量寿仏は往生の肝腑であることを、親子で話をするご縁にすればよいのではないかと思います。

体が神社の祭りに参加したら、息子さんが阿弥陀仏に助けてもらえなくなると思われての心配ならご無用です。そんな阿弥陀仏なら、十方衆生は救えませんし、親鸞聖人も平太郎に熊野行きを許可されません。

大事なのは心です。一向専念無量寿仏が親鸞聖人の教えですから、阿弥陀仏一仏に向かって下さい。


「諸行往生は本願にあらず」(親●会HPより)

「諸行往生は本願にあらず」(親●会HPより)

光に向かって進むものは栄え、闇に向いて走るものは滅ぶ。

 光に向かって善を勧める親鸞会に、「諸行往生ではないか」と非難する声があるらしい。諸行往生とはどういうことか、分かってのことなのだろうか。



ふ~ん。
どれどれ解説頂こうか~。
 


 諸行往生とは、「諸善をしたら助かる」ということ、これは間違いである。それでは、自力の善の積み重ねで助かることになるからだ。
「一切の自力を捨てて、他力に帰せよ」これ以外に親鸞聖人の教えはないことを、覚如上人は次のように断言されている。

「今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする」(改邪鈔)

 親鸞聖人の、この捨自帰他のみ教えの徹底に専心する親鸞会は、未だかつて、「諸善をすれば助かる」などと主張したことは一度もない。
 当然である。

 また諸行往生は、死ぬまで助かったということがない。
 体失不体失往生の諍論で、親鸞聖人に論破された法友・善慧房証空の主張を、法然上人はこう評されている。

「善慧房の体失して往生するよし述ぶるは、諸行往生の機なればなり」(口伝鈔)

 肉体を失わなければ(体失)助からぬという善慧房の主張は諸行往生であり、「諸行往生は本願にあらず」とまで言い切られている。

 阿弥陀仏が本心を誓われた十八願には、平生の一念にいつ死んでも極楽往生間違いない身に救い摂る、と約束されているからだ。

 だから親鸞聖人のみ教えは、平生業成、現生不退。現在ただ今、肉体あるままの不体失往生を90年間、強調されたのである。

 ↑
これはまあ、ええね~。
そんで結論は、これなのね(苦笑)。
 ↓

善の勧めはなぜなのか

 高森先生もまた、この信仰の決勝点、一念の弥陀の救いを、常に黒板に縦の線で示され、親鸞聖人の平生業成のみ教えを一貫して説き続けられているのは世間周知のこと。
 その親鸞会に対する「諸行往生」の非難が、いかに的外れであるかは明らかであろう。

 では、善の勧めはなぜなのか。
 阿弥陀仏が、本心を誓われた十八願に導くために、十九の願(修諸功徳の願)で、諸善を勧めていられるからである。

 十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。

 要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。
 実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。



\( ̄ー ̄#)なんでやねん!

上の文と下の文が、全然関係ないやん(苦笑)。

メンドクサイから、もう繰り返さないけど、
以下のレクチャーを最低五回は読み直して、
浄土真宗を一から勉強し直してくださいませ(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

§17 阿弥陀仏の本願の行
§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義 
§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?


あと、シツコイようだけど、
「この活動」が「光に向かう」根拠はないんじゃね?(苦笑)

「この活動」
 ↓ ↓ ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.

『涅槃経』なんて読んでるわけないじゃん(苦笑)。

高森先生の親鸞会教学を検証する 「高森先生ほどの方が、涅槃経を読まれたことがなかったのでしょうか」 より

教学聖典(2)

問(1)地獄へ堕つる者は多く、人間に生まれる者は極めて少ないことを教えられた経文と根拠を示せ。

答(1)

○地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
 人間に生れる者は爪の上の土の如し
 (涅槃経)


はぁ。涅槃経のどこにそんな御文があるのでしょうか?
ぜひとも涅槃経の現物を持ってきて、示して頂きたいのですが。
あるいは大きな図書館に行って、涅槃経の何品にこの御文があるのか教えてください。

これは涅槃経を根拠としたものではないでしょうね。
おそらく高森先生は、源信僧都の往生要集のお言葉を勝手に改変して使ったのだと思います。

源信僧都は、往生要集の中で、涅槃経を意趣を汲み取って書き換えて使っておられます。
それが、以下のお言葉です。

ゆゑに『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、
「人趣に生るるものは爪の上の土のごとし。 三途に堕つるものは十方の土のごとし」と。
(『往生要集 巻上』)


はい、ここでしっかり、『涅槃経・意』とありますね。
ちなみに教学聖典には、根拠は『涅槃経』とありますが、ほんと涅槃経のどこにあるんですか、そんな言葉。

しかも、源信僧都のお言葉は、三途(三悪道)に堕ちる者はたくさんいる、ということであって、
地獄へ堕ちる者は十方世界の土の如しとはおっしゃっていません。
この時点で、悪質な改変が既にあります。

さらに、源信僧都が参考にされた涅槃経の原文を、私も市で一番大きな資料館に行って、
一切経のコーナーから探してきましたよ。
結果見つかりました。コピーが手元にありますから、欲しい人は言ってください。
かくして私は次のように思いました。

「高森先生、高森先生まで、そんな悲しいことを仰有るのですか。
高森先生ほどの方が、涅槃経を読まれたことがなかったのでしょうか」(声:玉日姫)

なぜか。ここから先を読んでもらえば判ります。

↓以下、涅槃経の御文

(涅槃経巻第三十三・迦葉菩薩品第十二の一)

爾の時に世尊、地の少土を取りて之を爪上に置き、迦葉に告げて言はく、
「是の土多きや、十方世界の地の土多きや。」
迦葉菩薩、佛に白して言さく、
「世尊、爪上の土は十方の所有の土に比せざるなり。」
「善男子、人の身を捨てて還て人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くるを得、
諸根完具して中國に生れ、正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已りて能く解脱を得、
解脱を得已りて能く涅槃に入る有るは、爪上の土の如く、
人身を捨て已りて三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、
諸根具せず、辺地に生じ、邪倒の見を信じ、邪道を修習し、解脱、常・楽・涅槃を得ざるは、
十方界の所有の地土の如し。
善男子、禁戒を護持して精勤して惰らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧祇物を用ひず、
一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは、爪上の土の如し。
毀戒懈怠、四重禁を犯し、五逆罪作り、僧祇物を用ひ、一闡提と作り、諸の善根を断じ、
是の経を信ぜざるは、十方界の所有の地土の如し。
善男子、如来は善く衆生の是の如き上・中・下根を知りたまふ。
是の故に佛は知根力を具すと称す。」

(口語訳)

その時に釈尊が大地の少しの砂を取って、これを爪の上に置いて、迦葉菩薩に告げて、
「この土が多いか、十方世界の地の土が多いか」と言った。
迦葉菩薩は釈尊に「世尊よ、爪の上の土の少なさは十方にある土の多さに比べられません」と申し上げた。
「善男子よ、人が死んだ後、再び人身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、人身を受けることを得て、
もろもろの感覚器官が完全に具わって、仏法の中心地に生まれ、正しい信心を具足して、
道を習得し、道を習得しおわって、なかでも正しい道を修行し、正しい道を修行しおわって解脱を得て、
解脱を得おわって涅槃に入ることは爪上の土のように少ないのである。
人が死んで後、三悪道の身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、再び三悪道の身を得て、
もろもろの感覚器官が具わらず、仏法の中心地から遠い辺地に生まれ、邪(よこしま)で傾倒した思想を信じ、
邪な道を修得し、解脱を得ず常楽の涅槃を得ないことは十方世界にある地上の土のように多いのである。
善男子よ、戒律を護り、精進し、四重の罪を犯さず、五逆罪を犯さず、教団に属する財物・物資を勝手に使わず、
闡提とならず、善根を断たずに、経典を信じる者は、爪の上の土のようなものである。
懈怠であり、四重の罪を犯し、五逆罪を犯し、教団の財物を用い、闡提となり、善根を断じて、
経典を信じない者は、十方世界の土のようなものである。
善男子よ、如来はよく衆生にこのように上・中・下があることを知っている。
だからこそ仏は知根力を具えていると言うのだ」


全然違うじゃないか~!!

涅槃に入る者は爪の上の土の如く、
涅槃に入れない者は十方世界の土の如し

が原文の意味じゃありませんか!


仏法を、親鸞聖人の教えを正しく伝えるのが使命といいつつ、
全然如来の教法と違うじゃありませんか。

高森先生!一体どこまでこんな悲しいことを仰有れば気が済むのですか!?

まだ教学聖典は、1号と本願成就文がやっと終わったばかりなのに・・・




『涅槃経』なんて読んでるわけないじゃん(苦笑)。

ついでに『般舟三昧経』も絶対に読んでません。
 ↓ ↓ ↓

親鸞会教義の相対化・31 より

【5】『会報』vol.2p.161~信忍(4)

>>>
釈迦一代四十五年間の教えは、阿弥陀佛の本願を説くにあったことは、前号に於いてほぼ明らかにした。
故に、一切経は弥陀の本願におさまり、弥陀の本願によらねば一切の人々は救われることは絶対にないのだ。
釈迦はこのことを『般舟経』に於て、「三世諸佛、念弥陀三昧成等正覚」(三世の諸佛は弥陀三昧を念じて等正覚になる)と説いている。
三世の諸佛というのは一切の佛をいい、弥陀三昧を念じてとは、阿弥陀佛の御力によってということである。
等正覚に成るとは、佛になれたということだ。
つまり三世の諸佛でさえ弥陀三昧によって始めて成佛するのだから、一切の人々は阿弥陀佛の本願によらねば、絶対に助からんのは勿論である、と仰言るのである。
釈迦も三世の諸佛の中の一人であるから、釈迦の本意は弥陀の本願を説くにあったこともまた当然である。
>>>


残念ながら「三世諸佛、念弥陀三昧成等正覚」という言葉は、『般舟三昧経』にはありません。

おそらく、

また『般舟経』にのたまはく、「三世諸仏念弥陀三昧成等正覚」とも説けり。
『口伝鈔』浄土真宗聖典p.899

という覚如上人の言葉に基づいて、典拠を確認しないまま引用してしまったのではないかと思います。

余談ですが、西本願寺で出されている浄土真宗聖典では、「『般舟経』(意)」と書かれていて、覚如上人の引用の誤りがきちんと踏まえられています。


最後に、『般舟三昧経』の古層部分と言われている行品に対応するチベット訳の和訳を紹介させて頂きます。

バドラパーラよ、現在諸仏面前立三昧(般舟三昧)とは何であるか。
バドラパーラよ、比丘であれ、比丘尼であれ、優婆塞(在家の男信徒)、優婆夷(在家の女信徒)であれ、戒を完全に行じている者は、一人で閑静な所に行って座って、
「世に尊き(世尊)、如来、供養にあたいする(応供・阿羅漢)、正しく完全にさとられた(等正覚)かの阿弥陀(無量寿)仏はどの方向に住み、時を過ごし、とどまり、教えを説いておられるのか」
という思いを起こさねばならない。
彼はいままでに教えられたように、「この仏国土より西の方角に、百千コーティの仏国土を経たところにある、スカーヴァティー(極楽)という世界にかの世尊・如来・応供・等正覚なる阿弥陀仏が現在、菩薩たちの集まりに囲まれ、仕えられ、時を過ごし、とどまり、教えを説いておられる」と億念し、そして散乱しない心を如来に集中する。

バドラパーラよ、たとえば、男にせよ女にせよ、誰かが眠っている夢のなかで、物の形を見るとしよう、銀とか金とか、友人、同族、親戚、仲間、快いもの、愛ししもの、愉快なものなどを見て、彼は夢で彼らとともに遊び、喜び、娯楽し、話し、雑談する。
夢から覚めて、彼は[夢で]見たり、聞いたり、考えたり、知ったり、語ったり、雑談したりしたことを、他の人たちに告げる。
彼は夢の有り様を思いだして涙を流すであろう。

ちょうどそのように、バドラパーラよ、在家であれ出家であれ、菩薩は、ひとりで、閑静なところに行って座り、教えられたように、如来・応供・等正覚なる阿弥陀仏に心を集中する。
戒律の諸要素において過失なく、億念に乱れなく、一日一夜、二、三、四、五、六、七日七夜、心を注ぐ。
もし彼が七日七夜、心に散乱なく、阿弥陀仏を億念するならば、七日七夜を満たしたのちに世に尊き阿弥陀仏を見るのである。
たとえ彼が世尊を昼間に見ないとしても、眠って夢を見ているあいだに、世に尊き阿弥陀仏はその顔を彼に示すのである。
(浄土仏教の思想二pp.269-270)


「般舟三昧」の原サンスクリットは、『般舟三昧経』のチベット訳に記されている梵名から、

pratyutpanna(現在)-buddha(仏)-saMmukha(面前)-avasthita(立つ)-samAdhi(三昧)

であることがわかり、このサンスクリット複合語は、

1)「現在諸仏の面前に立つひと(行者・菩薩)の三昧」
2)「(菩薩あるいは行者の)面前に現在諸仏が立つ三昧」

という二つの読みができますが、いずれにしても、諸仏を面前にする三昧で所謂「見仏」であり、これによって「空」を感得し、最終的に覚りに至るのが『般舟三昧経』の中心テーマです。

高森先生がお書きになられたようなことは、『般舟三昧経』には書かれていません。



西本●寺の『浄土真宗聖典』は典拠を確認してるから、

「『大経』(大般涅槃経・意)」
「『般舟経』(意)」

って、丁寧に書いてあるのよね。

これを確認してれば、ツッコミいれられずにすんだのに、
残念やったね(笑)。



今からでも遅くないから、
西本●寺の『浄土真宗聖典』をチェックして、
間違いを訂正した方がええで(苦笑)。

「本願成就文」で「わかる?」「わからない?」

高森先生の親鸞会教義を検証する 十八願成就文は十八願の解説?(4)より

教学聖典(3)

問(34)

阿弥陀如来の本願よりも、『本願成就文』を至極とするのは何故か。
そのお聖教上の根拠を示せ。

答(34)

◎本願で判らぬことが成就文でハッキリするから。

○「横超」とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり。
                     (教行信証信巻)

○それについて三経の安心あり。その中に『大経』をもって
真実とせらる。『大経』の中には第十八の願をもって本とす。
十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす。
                        (改邪抄)

問(31)

凡夫の智恵では、阿弥陀如来の本願でハッキリ判らぬところが四つあるのを示せ。

答(31)

○どうすれば助かるのか判らぬ。
○自分でおこす信心か、他力より賜るものか判らぬ。
○信心が正因か念仏が正因か判らぬ。或いはその二つか。
○若不生者の「生れる」の意味がわからぬ。

問(33)

阿弥陀如来の本願でハッキリせぬ四つのことが、釈尊の『本願成就文』で
どのようにハッキリするかを示せ。

答(33)

○どうすれば助かるのか判らぬ―其の名号を聞きて
○自力か、他力か判らぬ―至心に廻向せしめたまえり
○信心が正因か念仏が正因か判らぬ―念仏がないから信心一つ
○若不生者の「生れる」の意味がわからぬ―その時往生を得て不退転に住す

【中略】

では、この「自分でおこす信心か、他力より賜るものか判らぬ」という疑問は、
本願成就文を読めばわかるのでしょうか?

結論:釈尊の本願成就文ではわかりません。

理由:高森先生著「こんなことが知りたい3」

二一 誰もなされなかった親鸞聖人の読み方や、解釈はどんなものか(一)

問 親鸞聖人の教えには、お聖教の読み方や解釈に、いままでの誰もなされなかった独
断的とも思われるようなものが、幾つかあると聞かされていますが、どんなところで
しょうか。お教え下されば幸甚と思います。(その一)

答 貴方の仰言る通り親鸞聖人にはいままで何人もなされなかった経典や、お聖教の読
み方や解釈をなされているところが幾つかあります。
「更に親鸞、珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ、人にも教へ聞かしむ
るばかりなり」
と常に仰言っておられた親鸞聖人ですが、仏意をより鮮明にするために一見、独断的、
違反的とも思われるような経典やお聖教の読み方や解釈が幾度かなされています。
少々煩瑣になるかも知れませんが、お尋ねに応じて、二、三を挙げて聖人の御意を
明らかにしたいと思います。
『大無量寿経』の下巻に、
「本願成就文」
といわれている大変重要な御文があります。
「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心廻向、願生彼国、即得往生、住不
退転」
この御文は、従来、
「あらゆる衆生、其の名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん。至心に廻向して、彼
の国に生まれんと願ずれば、即ち、往生を得て不退転に住せん」
と、読まれ、
「あらゆる衆生が、阿弥陀仏の名号を聞き、その本願を信じ喜ぶ心をただの一念でも
まことの心で阿弥陀仏にさしむけて、阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願うならば、必
ず不退転になれる」
と、解釈されていました。
ところが親鸞聖人は『教行信証』信巻末には、次のような読み方をなされ、解釈も
全く変えてしまっておられます。
「あらゆる衆生、其の名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん、至心に廻向せ
しめたまへり。彼の国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せん」
ここで最も指摘しておかねばならないことは、いままで誰もが、
「至心廻向」

「至心に廻向して」
と、読んで疑わなかったところを、敢て親鸞聖人は、
「至心に廻向せしめたまへり」
と読み変えて全く異なった解釈をなされているという点であります。
「至心」
とは
「まことの心」
と、いうことであり、
「廻向」
とは
「さしむける」「ささげる」
と、言うことです。
されば、
「至心廻向」
とは
「まことの心をさしむける」
と、いう意味になりますから、
「私達が私達の心をまことの心に磨きあげ、その心をまことの心で阿弥陀仏にささげ
る」
こととして
「至心に廻向して」
と、読まれておりました。
ところが親鸞聖人は、
「至心」
は、私達の心ではなく阿弥陀仏の御心である、だから
「至心廻向」
というのは、阿弥陀仏が御自身のまことの心を、まことの心で私達にさしむけてくだ
さるということなのだから、
「至心に廻向せしめたまへり」
と、読むべきであるとして、いままでの読み方も解釈もかえてしまわれました。
(中略)
親鸞聖人は、これらの文証や体験をふまえて、
「至心廻向」
の御文を
「至心に廻向して」
と、読まれるどころか、
「至心に廻向したまへり」
とも読まれずに
「至心に廻向せしめたまへり」
と、最も重い敬語を使用なされて、阿弥陀仏が、まことの心で私達に、まことの心を
さしむけておられるのだという、他力廻向の仏の正意を開闡して下されたのでありま
す。
「本願成就文」
を、このように色読し、このような解釈は親鸞聖人ならでは開顕することの出来なか
った一大達見であります。
私達が親鸞聖人を阿弥陀仏の化身と拝さずにおれぬ所以であります。



ということでして・・・つまり、釈尊の成就文では、自力か他力かわかりません。

親鸞聖人によって初めて、他力とハッキリする
、と高森先生は教えておられますが何か?



「本願成就文」で「わかる?」「わからない?」
結局どっちやねん?(苦笑)



そう言えば、前に以下のツッコミが入ってたんやけど、
『こんなことが知りたい3』って、
このツッコミの後で書いたわけじゃないよね?(苦笑)
 ↓

清森問答 親鸞会教義の相対化・31 より

【3】『会報』vol.2p.23~阿弥陀仏の本願(1)

>>>
第二にこの願成就の文によって、弥陀の本願の真意が信心正因、称名報恩なることが明らかになったが、その正因たる信心は自分で起こすものなのか、他力の賜りものであるのかが、本願のみでは我々にはハッキリしないが、成就文では「至心に廻向せしめたまへり」と説かれてあることから、この信心は佛の方より授けまします、他力廻向の大信心であることが明らかである。
>>>


はたして「明か」でしょうか?

この部分の直前に高森先生自身が引用されていますが、本願成就の文の原文は、

諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念至心廻向願生彼国即得往生住不退転唯除五逆誹謗正法

です。

通常の漢文のワードオーダーから考えると、「至心廻向」の主語は基本的には「諸有衆生」であり、

「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜して、ないし一念し、至心に廻向して彼の国に生まれんと願えば、すなわち往生を得・・」

と読むべきものです。これはサンスクリット文の本願成就文でも共通しております(※)。

※それはなぜであるかというと、およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。


親鸞聖人は、「至心廻向」を「至心に廻向せしめたまへり」と読み主語を置き換え、阿弥陀仏から賜る信心というものを明かにされたわけですが、それは親鸞聖人が受け取られた信心に基づき経文を読んだ結果得られた解釈です。

『無量寿経』から言えないことを、『無量寿経』から言えるかのように語るべきではないと思います。

もっと厳しいことを言うならば、高森先生が漢訳原文を引用していながら、実際には漢訳原文は読んでおらず、親鸞聖人の読み方を採用している浄土真宗系の「書き下し」に基づいて論じているから、このような初歩的な誤りをしてしまうのではないかと思います。



これはオイラの私見やけど、

1),『無量寿経』をちゃんと読ま(め)ないのに、『会報』を執筆!
2),1)に基づいて『教学聖典』を作成!
3),『無量寿経』をちゃんと読んでいる人の説に基づいて、『こんなことが知りたい3』を執筆!
4),1)&2)と3)は明らかに矛盾しているが、『無量寿経』をちゃんと読ま(め)ないまま記事を書いているので、御本人は矛盾に未だ気づかず!!
5),ひょっとすると矛盾に気づいた会員がいたかもしれないけど、「裸の王様」なので誰も忠告できず!!
6),遂にツッコミ入れられちゃいました!
 ↑
こういうプロセスで、イタイことになったんじゃないかな?(苦笑)


高●先生!
『無量寿経』を読ま(め)ないのも、
『無量寿経』を読ま(め)ないまま、
他の誰かの説を引っ張ってくるのも、
まあもうシャアナイからとやかく言わへんけど、

せめて、自分の書いた文章ぐらい、
整合性をちゃんと考えておいてよね(苦笑)。


まあ、『会報』は絶版で誤魔化せるやろうから、
とりあえず今からでも、『こんなことが知りたい3』に基づいて、
『教学聖典』を修正した方がええと思うで(苦笑)。

「親鸞会は『後生の一大事を知る』どころか正反対の解釈ですよ」だそうです。

高森先生の親鸞会教学を検証する
親鸞会は「後生の一大事を知る」どころか正反対の解釈ですよ より



教学聖典(1)

問(44)吸う息吐く息と触れ合っているのが「後生の一大事」だ、と教えられている『教行信証』のお言葉を記せ。

答(44)

○呼吸の頃すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ。



ついにでました、「後生の一大事」!

うん、これを特に検証したかったんですよ。
親鸞会の教えでもっとも重大でクリティカルな問題だから。
ここ一つで親鸞会に束縛されている人も多いと聞きますから。

で、「人身を失いぬれば万劫にも復らぬ」ことが「後生の一大事」だとおっしゃるわけですか?

ところで高森先生、この後生の一大事について、かつて本願寺と論争されましたね。
で、私は親鸞会の講師から、本願寺は後生の一大事を説いていないとか聞かされたんですが。

ちなみに、私の手元に、その本願寺の司教が出版した、親鸞会に対する論文があります。
そこでは、後生の一大事について、経典や善知識方のお聖教の根拠を出して、述べられておりますよ。

その中の後生の一大事に関する部分を、一部引用させて頂きましょう。

親鸞会の会員さんには(都合が悪いから)隠されている論文です。

※ちなみにこの論文を書いた紅楳英顕先生からは、引用の許可をちゃんと得ています。
(大沼さんからの引用を隠してる高森先生とは違います)

紅楳英顕さんは、ご自身も信心決定されて、教学力もあり、大変ご立派な方です。
親鸞会の人は、知らないだけですね。
どうして会った事も無い人を、あれだけ批判できるんでしょうか?


-------------------------------------------------------------------------------------


『派外からの異説について』(紅楳英顕氏・著)

(P36~)

 二、後生の一大事の問題

次に、後生の一大事の問題についてであるが、これについて、高森親鸞会は、

後生の一大事とは何か。人間は必ず一度は死なねばならない。では人間は死んだらどうなるのか。
釈尊は必堕無間と、四十五年間叫びつづけられた。「一切の人は死んだら必ず無間地獄におち
八万劫年の間大苦悩をうけねばならない」これを後生の一大事という。(『顕正新聞』第205号)

仏法を聞く目的は後生の一大事の解決に極まる…一大事というは取り返しのつかないことを言うが、
それは無間地獄に堕在するということである。曽無一善・一生造悪が我々の実相であるから、
因果の道理に順じて、必ず無間地獄へ堕ちる、これを経典には必堕無間と説かれている。(『白道燃ゆ』137頁)

親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示下された生死の一大事とは、どんなことかといいますと、
これは後生の一大事ともいわれていますように、総ての人間はやがて死んでゆきますが、
一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。
(『こんなことが知りたい1』6頁)

等と主張している。後生の一大事を「必ず無間地獄に堕ちる」という意に取り切り、しかも、
これによって恐怖心をあおり「非泣悶絶」の苦しみを経ねばならぬという、いわゆる機責めの傾向がうかがえるのである。
これに対して、私は疑義を呈し、論文で「後生の一大事ということは、往生浄土(極楽)の一大事、
あるいは往生浄土(極楽)出来るかどうかの一大事、という程度の意味」であるとの見解を示したわけである。
『本願寺の体質を問う』では、こうした私の見解に対する反論非難が行われているのであるが、これについても、
前の宿善論と同様、宗祖聖人や蓮如上人の上ではっきりした文証を挙げての反論ではないから、
私は反論とは認められないと考えている。
「後生」とは、文字通りの意味は「今生」に対する「後生」であろうから、必ずしも往生の意味だけではない。
しかし、論文や、高森親鸞会に対する返信(八月三日)で述べたように、『大経』に、

 後生無量寿仏国

とあって、後生の一大事の「後生」という語は、この「後に無量寿仏国に生まれる」が出拠と考えられる。
蓮如上人も、

されば、死出の山路のすえ三塗の大河を唯一人こそ行きなんずれ、これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、
またたのむべきは弥陀如来なり。(『御文章』1の11)
しかれば阿弥陀如来を何とようにたのみ、後生をばねがふべきぞというに…(『御文章』5の10)

等と教示されているように「後生」を往生浄土の意味で語られているのである。
また「一大事」についてであるが、「一大事」とか「大事」とかは、本来「転迷開悟」「生死出離」について
いわれるものである。したがって『法華経』出世本懐の文には、

 一大事因縁(『大正大蔵経』)

とあり、『称讃浄土経』には、

 利益安楽の大事因縁

とある。また、法然上人は、

往生程の大事をはげみて念仏申さん身をば、いかにもいかにもはぐくみたすくべし(『和語灯録』)

といわれ、宗祖聖人は、

 往生極楽の大事(『拾遺真蹟御消息』)

と仰せられており、さらに覚如上人も、

往生ほどの一大事をば如来にまかせたてまつり…(『口伝抄』)
往生ほどの一大事凡夫のはからうべきことにはあらず…(『執持抄』)

等と述べられている。いずれも「一大事(大事)」を往生にかけて語られている。
さらに蓮如上人も、

もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(『御文章』1の11)
この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽はまことにもてかなふべからず。(『御文章』2の10)
いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはなし。(帖外御文章50)

等と示されている。往生にかけて「一大事」を語っておられるのである。
高森親鸞会は、後に至って、後生の一大事に二つがあるといいだし、信後の後生の一大事は「往生浄土(極楽)の
一大事」のことであるが、信前の後生の一大事は「必ず無間地獄に堕ちる」ということであると、
あくまでも自説に固執するのである。

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…と、まあここまで紅楳先生に教えていただきましたので、
私から言うことはもはや何もないでしょう。

仏教は後生の一大事を知るところから始まる、と言いながら、
後生の一大事の意味さえ知らない親鸞会の会長、幹部、講師たち…
そんなむちゃくちゃな教義を教え続けて50年とか、
自慢できるどころか、恥さらし以外の何者でもないですよ。




・・だそうです。

高●先生&親●会講師君!
何か反論できることあります?

というか、親●会講師諸君は、
紅●先生の論文を読んだことないんちゃう?

オイラのダチの元講師さんは、みんな読んだことなくて、
オイラに借りてはじめて読まはったんやけど、
みんな「目から鱗」状態やったで(苦笑)。

【三乘=声聞乘+縁覚乘+菩薩乘(=大乘)】やぞ!!

高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?
【番外編】大乗と三乗の関係も知らないの【ある書込みより】 より

とある書き込みより。

「大乗の五逆は三乗の五逆を含みます。」

と言っておられる方がありました。

はい?親鸞会教学を擁護し過ぎて頭がおかしくなったんじゃないですか?

なぜ、大乗の五逆が、三乗の五逆を含むことになるのでしょうか?

そのように言える論拠はあるのでしょうか?

まず、正確な親鸞聖人のお言葉をあげた上で検証しましょう。


顕浄土真実教行証文類 信文類三(末) 逆謗摂取釈

「五逆」と言ふは、若し淄州に依らば、五逆に二つ有り。
一つには三乗の五逆なり。
いはく、一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するを以てのゆゑに、これを名づけて「逆」と為す。
此の逆を犯す者は、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕し、
一大劫のうちに無間の苦を受くれば、「無間業」と名づく。

また『倶舎論』の中に、五無間の同類の業有り。
かの頌にいはく、
母と無学尼とを汚す、母を殺す罪の同類、
住定の菩薩、父を殺す罪の同類、
及び有学聖者を殺す、羅漢を殺す同類、
僧の和合縁を奪ふ、僧を破する罪の同類、
卒都波を破壊す、仏身より血を出す、と。

二つには大乗の五逆なり。
『薩遮尼乾子経(さっしゃにけんじきょう)』に説くが如し。
「一つには塔寺を破壊し、経蔵を焚焼し、及び三宝の財物を盗用す。
二つには、三乗の法を謗りて「聖教に非ず」と言ひて、障破留難し、隠蔽覆蔵す。
三つには、一切の出家の人、若しは有戒・無戒・持戒・破戒に於いて、打罵し呵責し、
とがを説きて禁閉し、還俗せしめて駈使し、債調断命せしむ。
四つには、父を殺し、母を害し、佛身より血を出し、和合僧を破し、阿羅漢を殺す。
五つには、謗して因果を無みし、長夜に常に十不善業を行ず」と。

彼の『経』(『十輪経』)にいはく、
「一つには不善心を起して独覚を殺害する、是れ殺生なり。
二つには羅漢尼を婬する、是れ欲邪行なり。
三つには所施の三宝財物を侵損する、是れ不与取なり。
四つには倒見して和合僧衆を破する、是れ虚誑語なり」と。
略出す。

以上が、教行信証信巻末にある、五逆罪についての親鸞聖人の記述です。
簡単に分類すると、以下のようになります。


教行信証 信文類三(末) 逆謗摂取釈

淄州(ししゅう・中国法相宗第二祖慧沼のこと)によれば五逆罪に二種類ある。

《第一》三乗のすべての教えに通ずる五逆罪
 一.故思殺父: 故意に父を殺すこと
 二.故思殺母: 故意に母を殺すこと
 三.故思殺羅漢: 故意に阿羅漢を殺すこと
 四.倒見破和合僧: 間違った考えを起こして(倒見して)教団を乱すこと
 五.悪心出佛身血: 悪い心を抱いて佛身を傷つけて血を流すこと
これらは父母や仏や僧などから受けた恩にそむくから逆罪という。
この逆罪を犯したものは命終すれば無間地獄に堕ち、果てしない長い間、間断なく苦しみを受ける故、無間業という。

また、天親菩薩は「倶舎論」に無間地獄に墮ちる五逆罪と同類の行いをあげている。
すなはちその偈の文に
 一. 母や無学果の比丘尼を汚すことは母を殺すと同罪
  (無学果とは阿羅漢果と同じで煩悩を断じ尽くし、もはや学ぶべきものを遺していない境地のこと)
 二.無漏定に住する菩薩を殺すことは父を殺す罪と同罪
 三.有学果・無学果の聖者を殺すことは阿羅漢を殺す罪と同罪
 四.教団の和の縁となるものを奪うことは教団の和を乱す罪と同罪
 五.仏塔を壊すことは仏のからだを傷つけて血を流すことと同罪
といっている。

《第二》大乗の五逆罪(大薩遮尼乾子所説経にいう)
 一. 仏塔を壊し、経典を焼き、三宝を盗むこと
 二.声聞・縁覚・菩薩の教えを謗って仏教でないといい、仏教の流布を妨げ、危難を加え、仏法の光を覆い隠し広まらないようにする
 三.持戒・無戒・破戒にかかわらず、すべての出家した人に対して、ののしり打って苦しめ、過失を並べ立てて閉じ込め、還俗させて、かりたてて使い、重税を課してついには命を絶つまで追い込むこと
 四.父を殺し、母を害し、仏のからだを傷つけて血を流し、教団の和を乱し、阿羅漢を殺すこと
 五.因果の道理を否定して、常に十悪の罪を犯すこと
と説かれている。

《大方広十輪経》にはこのように説かれている。
 一.善くない心を起こして縁覚をころすこと。これは殺生である。
 二.阿羅漢のさとりを得た比丘尼を犯すこと。これは邪婬である.
 三.施された三宝の財物を横領すること.これは偸盗である。
 四.間違った考えを起こして教団の和を乱すこと。これは妄語である。

ここまで、わかっていただけましたでしょうか。

どうやら、高級スタジオ持ちのどこぞの年収何千万の経営者さんは、
「手取り足取り教える気はありません」だそうですから、
ちょっと解説を加えて見ました。

では、肝心な話にうつりますね。

大乗の五逆が、三乗の五逆を含むことになるのか?

いいえ、違います。その反対です。

三乗が大乗を含みます。

なぜか?

三乗の意味が判れば、自明です。

三乗とは・・・

三乗(yana-traya):三種の乗り物の意。
乗は衆生をさとりに導く教えをたとえて言う。
声聞乗・縁覚乗・菩薩乗をいい、
声聞乗・縁覚乗は小乗を、菩薩乗は大乗である。

わかります?

三乗の三つの中の一つが、大乗なんですよ。

だから、図にするとこんな感じ。

三乗───声聞乗
    ├─縁覚乗
    └─菩薩乗(=大乗)

ですから、三乗の五逆が先にあって、それを前提として示されているのが、
大乗の五逆です。

一部の人は認めたくないでしょうが、一般のみなさんはわかりますよね。



その通り!!

【三乘=声聞乘+縁覚乘+菩薩乘(=大乘)】

やね



いや、もしもさ、大乗の五逆の方を重要視するなら、
それなら余計に親鸞会は五逆をやりまくっている団体だと思うんですが・・・

だって、大乗の五逆は、
 一. 仏塔を壊し、経典を焼き、三宝を盗むこと
→はい。本願寺に放火しようとした高森先生はこれに当たります。

 二.声聞・縁覚・菩薩の教えを謗って仏教でないといい、仏教の流布を妨げ、危難を加え、仏法の光を覆い隠し広まらないようにする
→自分たち親鸞会以外の団体が仏教を広めようとすると、それらを仏教でないと言い、
外道邪教よばわりするか、挙句の果てには土蔵秘事の者扱いにする、
そして本願寺に座り込んだり、ネットで除名された布教使の悪口を言い、仏教の布教を妨げる、
おもいっきり該当します。

 三.持戒・無戒・破戒にかかわらず、すべての出家した人に対して、ののしり打って苦しめ、過失を並べ立てて閉じ込め、還俗させて、かりたてて使い、重税を課してついには命を絶つまで追い込むこと
→一般会員から講師部員になった人に対して、ののしり苦しめ、指摘会合で過失を並べ立てて、
本部会館に監禁し、除名し、貯金も強制的に御報謝させて、命を奪う寸前まで追い込むのは、
親鸞会の輝かしい異安心破邪の歴史ですよね。

 四.父を殺し、母を害し、仏のからだを傷つけて血を流し、教団の和を乱し、阿羅漢を殺すこと
→親鸞会の会員さんの親御さんは死ぬほどつらい思いをされてますが何か。
そういえば遠景寺の阿弥陀如来像の腕を折ったのは高森先生でしたか。
あと講師部員には和なんてないですよね。密告組織ですもんね。

 五.因果の道理を否定して、常に十悪の罪を犯すこと
→会員が減ったら、自分のせいじゃなくてネットのせいにする、
嘘や二枚舌は平気でするのが親鸞会クオリティです。

そんなわけだから、五逆に関しては、大乗の五逆でも、親鸞会は守れないし、
ましてや大乗の五逆は三乗の五逆を含みません。
よって三乗の五逆で理解しても、親鸞会は守れません。

三乗の五逆が大乗の五逆を含むわけですから、
高森先生も、その高森学徒のみなさんも、
六要とかも読んでから話に参加してください。

それから、

「苦笑氏は・・・」

と、無関係の苦笑さんを中傷しているのもやめてくださいね。
見苦しいですよ。

あの先生にしてこの弟子ありですね、
ほんと、頭がおかしくなったんじゃないですか?



またまたナイスツッコミ

超頼もしいぜ

勝手に「謗法罪」を拡大すんな!!

高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?
「謗法罪、ちゃんと意味分かってます?」より

教学聖典(1)

問(35)善知識をおろそかに思うことが謗法罪になる、と仰有った親鸞聖人のお言葉と根拠を示せ。

答(35)

○善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。(末灯抄)



あのー高森先生、このお言葉、どのような意味でご使用されていますか。

もちろん、このお言葉は親鸞聖人のお言葉です。

しかし、このお言葉に出てくる「善知識」とは、誰を指して言われているのか、
親鸞会ではどのように教えていますか?

どこぞのそらごとやたわごとしか書けない完全になめられとるブログでは、
親鸞聖人をカルト呼ばわりしていましたが、あれも謗法罪ですかねぇ?

で、このお言葉の「善知識」とは、まさか「親鸞聖人がご自身のことをこう言われた」と
思っておられるわけではないですよね?ね?

いやぁ、偉大なる無二の大善知識高森先生ですから、このお言葉は、もしかして、

「高森先生をおろそかに思い、先生をそしる者をば、無間地獄なり」

と大胆な読み替えをされているのでしょうか。

そんなことだから、十分説法でも、高森先生の法話で居眠りしたら謗法罪!
とか言っているんですか?
居眠りして当たり前だと思いますが、毎回同じ話ばかりで。
だから謗法罪を造らないためにあんなにリポビタンDの自販機の前に行列ができるんでしょう?

そして、高森先生の話を難しいとか長いとか評価したらまた謗法罪!
とか言っているんですよね。
「日本一親鸞聖人の教えを分かりやすくお話して下さる先生」、っていう、
講師部員の説明も謗法ですかねぇ?
そう言うように布教講義で指示した先生も、人に謗法罪を造らせたドエライ方ですね。

話を本題に戻しましょう。

末灯抄で、親鸞聖人が善知識と言われているのは、「三毒を慎め」と教えられた方、です。

ゆえんはいかに?前後の文脈を読めばわかります。

まずこの末灯抄の題は、「三毒を慎むべき事」です。

そして、以下のような流れです。

善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。
おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。
されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信(親鸞)をやうやうに
そしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。
明法御房の往生のことをききながら、あとをおろかにせんひとびとは、
その同朋にあらず候ふべし。無明の酒に酔ひたる人にいよいよ酔ひをすすめ、
三毒をひさしく好みくらふひとにいよいよ毒をゆるして好めと申しあうて候ふらん、
不便のことに候ふ。無明の酒に酔ひたることをかなしみ、三毒を好みくうて、
いまだ毒も失せはてず、無明の酔ひもいまださめやらぬにおはしましあうて候ふぞかし。
よくよく御こころえ候ふべし。

つまりは善乗(善証)という門弟が、造悪無碍を主張して、聞かなかったわけです。
それで親鸞聖人は何度もお手紙でそれを戒められた。
だから三毒を好むことはあってはならないと教えておられます。
その教えは、「三毒を慎め」と教えられた、釈尊以下の善知識の教えです。
それを無視することが、謗法になるから、
親鸞聖人は冒頭のように仰っているわけです。

ここがわからないと、本当に仏教を誤解しますから、大事ですよ。
ていうか、ここがわかってない親鸞会のみなさんは、仏教を誤解していることになります。

そもそも謗法罪とはどういうことか、知ってるんですか、高森先生?

誤りを認めて正してもらえるなら一体謗法罪とはどういうことか、
教えますけれども・・・

教行信証に以下の記述があります。

問うて曰く、「なんらの相か是れ誹謗正法なるや」
答へて曰く、「『若し佛も無く佛の法も無し、菩薩も無く菩薩の法も無し』と言はん。
是の如き等の見をもって、若しは心に自らさとり、若しは他に従って受け、
其の心決定するを、皆『誹謗正法』と名づく。」
(教行信証信巻)

高森先生は教行信証をもう一度よく読んで勉強してね!

誰かが、御本典もろくに読んでないとか、不勉強で話にならないとか、言ってたけど
それって、自分の崇拝する善知識様に対してだったんだね☆

ほんとに高森先生は浄土三部経や教行信証など仏教の基礎からもう一度よく勉強してね。

なーんて、若造に言われてしまう程度の理解しかないのに、
自分のことを無二の善知識と呼ばせて御殿に住んでるなんて、

高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?




同 コメント覧より

No title
> で、このお言葉の「善知識」とは、まさか「親鸞聖人がご自身の
> ことをこう言われた」と思っておられるわけではないですよね?

親鸞聖人が善知識と言われる時は、常に釈尊と七高僧、特に法然上人ですね。

ただ、ここで「師をそしる者」と言われている「師」は、

> 善信(親鸞)をやうやうにそしり候ひしかば、

とあるので、親鸞聖人ご自身のことでしょう。

謗法罪の意味は教え(仏法)を謗る者、という意味ですが、
親鸞聖人は教えを説く人を謗る者も、仏法を謗ることになるから
謗法罪だと言われているのではないでしょうか。

問題は「仏法を謗るかどうか」であって、仏法と関係ないところで
謗っても、それは謗法罪にはならないと思います。

師匠である高森氏が会員に会計報告をしないのはいけない!と謗る
ことは、教えそのものを謗ってないので謗法罪ではないですね。
話が分かりにくいと言うのも、教えそのものを謗ってなければ
謗法罪にはならないと思います。また、内容に関して疑問を抱いたり
質問をしたりすることは、謗るわけではないので謗法罪ではない
でしょう。それができなければ「信心の沙汰」もできませんね。

そんな解釈でいかがでしょう。
2009-04-22 : URL : edit
名前無しさんへ
名前無しのコメント下さった方へ

なるほど、そのように解釈するとすっきりしますね。
とても適切な解釈だと思います。勉強になりました。
ありがとうございます。
2009-04-22 : くりいむれもん URL : edit




スッキリ「謗法罪」の意味がわかったぞ!!
親●会は勝手に「謗法罪」を拡大すんな!!

そんなに全人類を「謗法罪」にしたいなら、
お前ら全員、親鸞聖人の言葉に従って、
無人島でひっそり暮らせ!

その方が社会の皆様のためや。



 善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。
 おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、
 同座せざれと候ふなり。←ここポイント���ӏ���

by.親鸞聖人

「殺人」と「過失致死」は違うんだよ!!

清森問答 親鸞会教義の相対化・31より

『会報』vol.1p.89~真実の自己とは(5)

>>>
仏教では殺し方によって、自殺、他殺、随喜同業の三種に分けるが・・
(中略)
第三の随喜同業とは自分に関係のない人が殺生しているのを眺めて楽しみ、殺された生物の肉を食べて喜ぶ時は自殺、他殺と同様の殺生罪を造るといわれる。
>>>

私の知る限り、釈尊はこのようなことは仰っていません。
どなたがこのようなことを仰っているのでしょうか?

佛言。佛子。若自殺教人殺方便讃歎殺見作隨喜。乃至呪殺。殺因殺縁殺法殺業。乃至一切有命者不得故殺。
『梵網経』大正蔵経vol.24p.1004b

自分自身で殺すこと、人をそそのかして殺すこと、巧みな方法で殺すことを誉め讃えること、自分で手はくださなくても呪い殺すこと。
これらとともに「見作随喜」(殺生を作るのを見て随喜すること)がありますが、釈尊は、「殺された生物の肉を食べて喜ぶ時は自殺、他殺と同様の殺生罪を造る」とは仰っておられません。

これに関しては、仏教と仏教の「兄弟宗教」ともされるジャイナ教とを比較するとよくわかるのですが、「殺生」という悪業に関して、ジャイナ教は事実を重視して、仏教は動機を重視します。
ジャイナ教でも仏教でも殺生は戒められますが、その意味する内容はかなり違います。
ジャイナ教では、水中の小虫を吸わないように水を濾過して飲み、道を歩いて小虫を踏まないように掃きながら歩みます。
一方仏教は道ばたの虫を見て「踏み殺してやろう」と足を上げることがなくなり、虫を踏みそうな場所を避けてとおったり、足元の見えない状況での外出をひかえたりといったこころがけの改善がなされます。

これは人間の身業(身体的行為)・口業(言語的行為)・意業(精神活動の行為)のうち、ジャイナ教が身業を最も重んじたのに対し、仏教が意業を重要視したことに由来するのですが、「殺そう」とする意業(精神活動の行為)に通じるから「見作随喜」は「殺生」になるのであって、「殺された生物の肉を食べて喜ぶ時は自殺、他殺と同様の殺生罪を造る」とは言えません。

もちろん、私達が多くの命を頂いて生きていることは事実であり、私達が多くの殺生の上で生きていることは紛れもない事実です。
だから、食べ物を粗末にしていけないし、心して頂かないといけないと思います。

しかしながら、美味しい食べ物を喜ぶことは「殺生」とは言えませんね。



「殺人」と「過失致死」は違うんだよ!!

このように、仏教は「心のあり方」「動機」を問題にするわけやけど、
この「間違い」が「五逆」の解釈にも影響して、
(というか、この「間違い」を故意に適応して、)
更なるヘンテコドグマが出来上がっていることを、
くりいむれもんさんがツッコミ入れてくださいました。
 ↓ ↓ ↓
仏教の基礎も知らぬ高森先生

教学聖典(1)

問(33)五逆罪を列記せよ。

答(33)

(1)父殺し
(2)母殺し
(3)羅漢殺し
(4)和合僧を破る
(5)仏身より血を出す


はぁ?高森先生、これが五逆罪だとおっしゃるんですか?

あの~、教行信証読んでます??

親鸞聖人はこのようなことが五逆罪だとは教えておられませんよ!

たとえば、母を憎み呪って包丁で刺して殺したならば、
これは確かに親を殺した五逆罪です。

しかし、意図せず過失により親を死なせてしまった者は、どうなりますか?
親鸞会ではそのような人に対して、「お前は五逆罪だ!無間業だ!」
と言う訳ですか?

親鸞聖人のみ教えでは、以下のように五逆罪を定義しておりますが、
高森先生はいかがお考えでしょうか?

「『五逆』と言ふは、若し淄州に依らば、五逆に二有り。
一には三乗の五逆なり。
いはく、一には故(ことさら)に思うて父を殺す。
二には故(ことさら)に思うて母を殺す。
三には故(ことさら)に思うて羅漢を殺す。
四には倒見して和合僧を破す。
五には悪心をもつて佛身より血を出す。」
(教行信証信巻)←信巻の最後です、みなさん読んでね。

よーく読んでください。「ことさらに思うて」殺すのが、五逆ですよ。
つまり、故意に、意図的に、なのです。

高森先生はこのお言葉を抜かしてよく説法しておられるようですが、
それは親鸞聖人のみ教えではありません。

ましてや、「生まれて来なければ良かった」と思うことが、
なんで五逆罪になるわけ??

教行信証も適当にしか読んでない上に(若しくは悪意を持って都合よく利用?)、
五逆罪でもない人を、五逆罪と言って脅している善知識さま。

ほんと高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?



「故意に」「意図的に」が悪いのに、
それを抜かして説法するのは、
なんでやねん!!(苦笑)

事実無根の「五逆罪」の恐怖で、
純真な会員さんを脅かすなよ!こら!!

『無量寿経』を断章取義してドグマ捏造!!

高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?
大無量寿経の仏意を捻じ曲げた高森先生 より

教学聖典(1)

問(26)人間の身口意の三業の実相を説かれた『大無量寿経』の仏語を書け。

答(26)

心常念悪 心常に悪を念じ
口常言悪 口常に悪を言い
身常行悪 身常に悪を行じ
曽無一善 曽て一善無し



え~、あの、このテキストを作った高森先生は、
本当に大無量寿経を読んだことがあるのでしょうか?

いや、こういうお言葉を発見したので使ったということでなく、
ちゃんと通読しましたか?

このお言葉、大無量寿経下巻の五悪段の第五悪ですよね。
それはもちろんご存知ですよねぇ?

この仏語の前後、ちゃんと読みました?

大無量寿経には以下のように説かれています。

まず、五悪段(五悪訓戒)のはじめには、

(大無量寿経原文)

仏、弥勒に告げたまはく、
「なんぢらよくこの世にして、心を端しくし意を正しくして衆悪をなさざれば、
はなはだ至徳なりとす。十方世界にもつとも倫匹なけん。
ゆゑはいかん。諸仏の国土の天・人の類は、自然に善をなして大きに悪をなさざれば、
開化すべきこと易し。いまわれこの世間において仏になりて五悪・五痛・五焼のなかに
処すること、もつとも劇苦なりとす。
群生を教化して五悪を捨てしめ、五痛を去らしめ、五焼を離れしめ、
その意を降化して五善を持たしめて、その福徳・度世・長寿・泥?の道を獲しめん」と。
仏のたまはく、「なんらか五悪、なんらか五痛、なんらか五焼なる。
なんらか五悪を消化して五善を持たしめて、その福徳・度世・長寿・泥の道を獲しむる」と。

(口語訳)

師はマイトレ-ヤ(弥勒菩薩)にいわれた、
この世において心を正しくし、さまざまな悪をなさないのはきわめてよいことだ。
十方の世界に比類がないであろう。
それはなぜかというと、諸仏国土の天人や人間たちは自然に善をなして、
大きな悪事は決して犯さない。〔それゆえ、かれらを〕覚りに導くことは容易なのだ。
今、わたしはこの世間において〈目ざめた人〉となり、
五つの悪(五悪)、五つの現世の罪報(五痛)、五つの未来の悪報(五焼)の
ただ中に生きていることは最もひどい苦痛なのだ。
わたしは生きている者どもを教化して、五つの悪を捨てさせ、
五つの現世の罪報と五つの未来の悪報から離れさせ、かれらのこころを変えさせて、
五つの善を保持し、それによって、福徳や、完成や、長寿や、永遠の平安に
到達できるようにしてやりたいのだ。」と。
師はさらに言われた―「五つの悪とは何か、五つの現世の罪報とは何か、
五つの未来の悪報とは何か。五つの悪をなくし、五つの善を保持して、
福徳や、完成や、長寿や、永遠の平安に到達するとはどういうことなのか」と。

と、言われております。ここでもう気付いた方もあるでしょうが、
五悪を犯す人間、というのは、全人類のことではないわけですよ!
この世において心を正しくし、悪をなさない人もいるけれど、
五つの悪を犯している人々が多いので、まずそれらを捨てさせ、善をすすめて、
そののちに、覚りに導こうというのが、釈尊の導き方なのです。

だから、阿弥陀仏の極楽浄土へ行こうと思ったなら、
まず心を正しくしていくこと(廃悪修善)がファーストステップであり、
それを実践した人に初めて、覚りの道を説いて意味があるわけです。

親鸞会の教学では、「全人類は曽無一善」、みたいな言い方をされていますけど、
実際は全人類ではないわけです。
それは、大無量寿経の、第五悪を読めば、よりいっそう分かります。

(大無量寿経原文)

仏のたまはく、「その五つの悪とは、世間の人民、徙倚懈惰にして、
あへて善をなし身を治め業を修せずして、家室・眷属、飢寒困苦す。
父母、教誨すれば、目を瞋らし怒りてふ。

言令和らかならず。違戻し反逆すること、たとへば怨家のごとし。
子なきにしかず。取与に節なくして、衆ともに患ひ厭ふ。
恩に負き義に違して報償の心あることなし。貧窮困乏にしてまた得ることあたはず。
辜較縦奪してほしいままに遊散す。しばしばいたづらに得るに串ひて、
もつてみづから賑給す。酒に耽り、美きを嗜みて、飲食、度なし。

心をほしいままに蕩逸して魯扈牴突す。人の情を識らず、しひて抑制せんと欲ふ。
人の善あるを見て、憎嫉してこれを悪む。
義なく礼なくして〔わが身を〕顧み難るところなし。
みづからもつて職当して諫暁すべからず。
六親・眷属の所資の有無、憂念することあたはず。
父母の恩を惟はず、師友の義を存せず。
心につねに悪を念ひ、口につねに悪をいひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。
先聖・諸仏の経法を信ぜず、道を行じて度世を得べきことを信ぜず、
死してのちに神明さらに生ずることを信ぜず。
善をなせば善を得、悪をなせば悪を得ることを信ぜず。
真人を殺し、衆僧を闘乱せんと欲ひ、父母・兄弟・眷属を害せんと欲ふ。

六親、憎悪してそれをして死せしめんと願ふ。
かくのごときの世人、心意ともにしかなり。
愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、
死の趣向するところを知らず。
仁ならず、順ならず、天地に悪逆してそのなかにおいて僥倖を?望し、
長生を求めんと欲すれども、かならずまさに死に帰すべし。

(乃至)

人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端し、念を正しくして、
言行あひ副ひ、なすところ誠を至し、語るところ語のごとく、心口転ぜずして、
独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、
その福徳・度世・上天・泥?の道を獲ん。これを五つの大善とす」と。

(口語訳)

さらに釈尊が言葉をお続けになる。
「第五の悪とは次のようである。世間の人々は、おこたりなまけてばかりいて、
善い行いをし、身をつつしみ、自分の仕事に励もうとはいっこうにせず、
一家は飢えと寒さに困り果てる。親が諭しても、かえって目を怒らせ、
言葉も荒く口答えをする。その逆らう様子はまるでかたきを相手にするようであって、
こんな子ならむしろいない方がいいと思われるくらいである。
また物のやりとりにしまりがなくて、多くの人々に迷惑をかけ、恩義を忘れ、
報いる心がない。そのためますます貧困に陥って、取り返しのつかないようになる。
そこで、自分の得だけを考えて、他人のものまで奪い取り、好き放題に使ってしまう。
それが習慣となって、ひとり贅沢な生活をし、むやみに美食を好み美酒にふける。

そうして勝手気ままに振舞い、自分の愚かさは省みずに人と衝突する。相手の気持ちを
考えることなく、無理に人を押さえつけようとし、人が善いことをするのを見ては
ねたんで憎み、義理もなければ礼儀もなく、わが身を省みず、人にはばかるところがない。
それでいて自分は正しいものとうぬぼれているのであるから、戒め諭すこともできない。
親兄弟や妻子など、一家の暮らし向きがどうあろうと、そんなことには少しも気を配らない。
親の恩を思わず、師や友への義理もわきまえない。
心にはいつも悪い思いを抱き、口にはいつも悪い言葉をいい、
身にはいつも悪い行いをして、今まで何一つ善い行いをしたことがないのである。

またいにしえの聖者たちや仏がたの教えを信じない。修行により迷いの世界を離れて
さとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生まれ変わることを信じない。
善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果を招くことを信じない。
さらに心の中では、聖者を殺し、教団の和を乱し、親兄弟など一家の者を傷つけようとさえ
思っている。そのために身内のものから憎みきらわれて、そんな者は早く死ねばいいと
思われるほどである。

このような世間の人々の心はみな同じである。道理がわからず愚かでありながら、
自分は智慧があると思っているのであって、人がどこからこの世に生まれてきたか、
死ねばどこへ行くかということを知らない。また思いやりに欠け、人の言うことにも
耳を貸さない。このように道にはずれたものでありながら、得られるはずもない幸福を望み、
長生きしたいと思っている。しかし、やがては必ず死ぬのである。

もしこのような迷いの世界の中で、悪い心が起きないように努め、
身も心も正しくし、言行を一致させ、行いも言葉もすべて誠実で、思いと言葉が相違せず、
さまざまな善い行いをして悪を犯さなければ、その人は苦しみを逃れて功徳を得、
迷いの世界を離れて浄土に生まれ、さとりを得ることができるであろう。
これを第五の大善というのである」

以上でお分かりの通り、全人類の中には、悪を犯してばかりの者も居れば、
身も心も正しく努めている人もいる、そういうことが可能だという前提で、
釈尊は大無量寿経のこの部分を説かれているのです。
つまり全人類はどう頑張ってみても本質的に悪しかできない、
というのは親鸞会の高森先生だけでの解釈で、
「弥勒たちよ、きみたちは本来は、こんな悪人であっちゃいけませんよ」と、
悪い世間の人の例、反面教師を出されて、清らかな仏道に入ることを
勧められたお言葉なのです。
それを、
「会員たちよ、きみたちは悪しかできないんだぁー、助かりたければF館に御報謝せよ!」
と大無量寿経をねじまげて自分の都合よく解釈しているんですよね、高森先生?

それを、曽無一善の部分だけ切り取って、全人類はかつて一善無し、と言ったら、
仏説に反することになるんですよ、高森先生。

それ真実の教をあらわさば、大無量寿経これなり。(親鸞聖人)

高森先生は、大無量寿経もろくに読めないんですかね。

そんないい加減な断章主義の教学テキストを作っちゃうなんて、

高森先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?




『無量寿経』を断章取義してドグマ捏造!!
・・ですね(苦笑)。

自称「善知識」の高●先生も、
高●ドグマコピーの講師諸君も、
恥をかきたくなかったら、

とりあえず『無量寿経』は、
読んだ方が、エエと思うで(苦笑)。

おお!高●先生に「近づくな」だったのか!!

清森問答 親鸞会教義の相対化・82 より


●驚愕講義H21.3.15
http://kyougaku.at.webry.info/200903/article_1.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私たち。
えー!どうして!
おかしいじゃないのそれは。

お釈迦様、貴方どうかされたんじゃないですか?
頭、変になられたんじゃないですか?

という心が、グーッと出てくるでしょ。
これが出てこなかったら、始まらんのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 このサイトの音声は、以下のサイトから高森先生の教学講議のものであると思われます。

※苦笑の独り言ツッコミ番外編!2009.03.15.教学講議より
(追記あり)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-238.html



 ところで、最古の仏教経典と言われている『スッタニパータ』において、釈尊は以下のように述べておられます。

●悪口を言いまた悪意を起こして聖者をそしる者は、10万ニラッブッダと36ニラッブッダの間、また5アッブッダの間、地獄に堕ちる。(Sn.660)

※「ニラッブダ」「アッブッダ」とは何れも巨大な時間の単位であり、途方もなく長い期間地獄にいなければならないことを表しています。


 「一切衆生必墮無間」という言葉は釈尊の教えにはありませんが、釈尊の悪口を言い謗ったものが地獄に堕ちることは、『スッタニパータ』の記述から明かです。
 高森先生がどのような意図で上記のような発言をされたのかは、この録音だけではわかりませんが、もしも釈尊の悪口を言い、聖者である釈尊を謗ったのであれば、間違いなく地獄に堕ちてしまうことになります。

 以下、改めて申し上げるまでもありませんが、一応念のために申し上げておきます。


 清森問答をご覧の皆様は、釈尊の教えを信じ「地獄に堕ちたくない」と思っているならば、高森先生の言葉を鵜呑みにして「頭、変になられたんじゃないですか?」などと、釈尊を謗るようなことは絶対に思わないでください。ましてそのように思ったことを口に出して言うなど言語道断です。


 また親鸞聖人は以下のように仰っておられます。

●善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。『親鸞聖人御消息』


 この言葉が「全人類が五逆謗法だから、それを避けて無人島で暮らしなさい」という意味ではなく、「五逆謗法の人と、そうでない人がいるから、五逆謗法の人に近づくな」という意味であることは、既に清森さんがご指摘のことでありますが、

※清森問答質疑応答143
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-225.html

 もしも親鸞会で高森先生の仰ったように、「頭、変になられたんじゃないですか?」などと、釈尊を謗るようなこと他の方にも説くことを強制されるのであれば、それは「謗法」に当たる行為ですので、親鸞聖人の教えに従い一刻も早くそのような団体から遠ざかり、「地獄に堕ちる」リスクを回避してください。


 以上、老婆心ながら、清森問答をご覧の皆様(特に現在も親鸞会に留まっている方)に忠告させて頂きました。



おお!
親鸞聖人が「近づくな」と仰ったのは、
高●先生のことだったのか!!

昔から変わってないんだな~(苦笑)。

清森問答 親鸞会教義の相対化・77(投稿)より

 以下のものに関して私見を述べさせて頂きます。

★『法戦5』(浄土真宗親鸞会)pp.111-127.第5章
・相手浄土宗僧侶・伊藤信道
・邪義「体失不体失往生の諍論は歴史的事実ではない」
「善恵房証空は、『救いは死後』とは説いていない」

 伊藤氏は、アニメビデオ二巻における所謂「体失不体失往生の諍論」の場面に関して、以下の質問と抗議をされています。

~~以下引用~~
さて、これは、歴史上の事実かどうか、お尋ねします。また、これは真実かどうかお尋ねします。
おそらく、覚如の「口伝鈔」を用いられたのであろうと推測するのですが、このビデオを製作する根拠として、これが正しいものかどうか、検討されたのでしょうか?
続いて、証空上人が、救いは死後にあるということは、どこにも仰有ってられません。
「平生業成」「機法一体」など、重要な言葉は、いずれも証空上人の念仏思想から生まれたものでありますから、救いが死後などということは、絶対にありません。正しくないことを、このように一般に向かって伝えられることに、抗議いたします。
(pp.112-113)
~~以上引用~~

 私も清森問答で何度かこの話題を取り上げておりますが(注1)、この方の指摘は極めて妥当なものであり、アニメ制作者は誠実に対応する義務があると思います。

 しかし、親鸞聖人映画製作委員会の解答は以下のようなものでした。

~~以下引用~~
御抗議、確と受け取りました。
歴史上の事実であり、真実であることを、十分検討してあります。
証空上人が、どこに、いつ救われるとどのように、仰有っておられるか。
お手数ながら、根拠をご教示下さい。
(p.113)
~~以上引用~~

 このように、「歴史上の事実であり、真実である」根拠は全く示すことはなく、質問に対して質問で答えるという論点のすり替えを行っております。
 そして「生きて身をはちすの上にやどさずば念佛まうす甲斐やなからん」という証空上人の歌を紹介し、「不審ならば、西山上人の全集など資料を見て下さい」と更に抗議する伊藤氏の指摘を無視し、証空上人の言葉を一つも挙げないまま手紙のやり取りを行っております。
 そして手紙のやり取りは、以下の親鸞聖人映画製作委員会の返信で終わっております。

~~以下引用~~
気を見て森を見ず、森を見て山を見ず、と言われます。今、問題の山は、証空上人が、不体失往生を主張されたか、否かの歴史的事実なのです。
三世十方を貫く仏法の信奉者は、昔も今も変わらぬ事実を尊重します。証空上人が、不体失往生を説かなかったという歴史的事実は、八百年後の今日、不体失往生を説かない証空上人の信奉者によっても証明させている、これこそが最も重大な歴史的事実なのです。
証空上人が、全く完全にこれっぽっちも、不体失往生も体失往生も教えなかったとしたら、弥陀の本願を一切信ぜず、説きもしなかった人、それが証空上人となります。
無論、法然上人の弟子などと言えるものではありません。当然、親鸞聖人の破邪の対象になったのは必然です。くどく木にしがみつくと、ますます、森も見えず、山も見ることができませんよ。決して仏法者は、現象に囚われて、事の本質を見失ってはなりません。
証空上人の不体失往生を説かれた言葉があれば、お聞かせ下さい。
何年後でも結構です。
(pp.126-127)
~~以上引用~~

 この後、伊藤氏からの返信はないようですが、恐らく、あまりにも不誠実で会話が成立しない相手なので、呆れて返信するのをやめてしまったのだと思います。
 しかし、既に私が資料を挙げて論証しているように、証空上人が現世での救いをお説きになられていることは「歴史上の事実であり、真実である」ことであり、伊藤氏への対応が極めて不当なものであったことは明かです。

 なお、これは平成六年になされたやり取りで、この本が出版されたのは平成九年です。十年以上たった現在でも、親鸞会という組織には自浄作用というものが全く働いておらず、チューリップ企画が更なる教義上の脱線を行っていることは、清森問答をご覧の皆様もよくご存じの通りです(注2)。


(注1)

以下のサイトを参照。

★親鸞会教義の相対化・1(質疑応答33)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-35.html

これは、清森さんはご存知かもしれませんが、

聖光上人が親鸞聖人と同じ時期に法然上人の下にいなかったことは以前申しましたが、

体失・不体失往生の論争に関しても、
証空上人も、往生は平生に定まるという「即便往生」をお説きになられていますし、
ましてやアニメのような「念仏申していたら死後に往生できる」という主張は、
証空上人には全くありません。

もちろん、これは浄土真宗的には「伝統」なのかもしれませんが、今の時代に、つまらない宗我見に捉えられて縄張り争いするべきでないと思うし、
広く一般の人を相手に教えを説き広めていくというのであれば、まずはきちんとした事実に立つべきで、捏造した情報の上で、教えを説いていくようなことは、避けるべきなのではないかなと思いました。

そうしていかないと、きちんと文献に当たって確認された時に、信頼を著しく損なってしまうのではないかなと思います。


★親鸞会教義の相対化・26
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-85.html

私の友人が証空上人に言及したのは、アニメで証空上人が、


『皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』


という台詞を話すことによって、何も知らない方がご覧になった時に、その方が証空上人を誤解しないためです。

証空上人は、この世での救いを積極的にお説きになり、

生きて身をはちすの上にやどさずば念佛まうす甲斐やなからん

という歌を詠んでおられます。

しかもこれは、

問うて云く。
摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

答えて云く。
平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。
この三心具足しぬれば、必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。

かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、てらし給うなり。

平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。
故に不捨の誓約と申すなり。
「念佛往生要義抄」(昭法全六八七頁)

というように、「摂取の益は平生の時である」と、仰っておられる法然上人から学ばれたものであり、

>親鸞聖人に指摘されるまで、「往生」と言えば、
>「体失往生」しか知らなかった善恵房証空と、
>そっくりではないかと驚く人もあるでしょう。
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2007_1224_1233_5999.html

というように、親鸞聖人から学ばれたものではありません。

更に証空上人は、

三心発る時即便往生す、此時正しく仏も成仏し衆生も往生す。
『定散料簡義』

と仰せっていますから、「念仏さえ称えれば」などという台詞は、極めて不当なものであると思います。

私の友人は、証空上人に対する誤解を危惧して指摘しただけで、どこかの誰かさんのような、くだらない宗我見や宗派根性は持っておりません。

正確に情報を検討しようともせず、自分のつくりあげた幻の世界の正義感で、つくりあげた敵や悪と戦おうとするような、行為は慎みたいものです。


ついでなのでお勧めの本を紹介しておきましょう。

★浅井成海著『浄土教入門』(本願寺出版)

浅井先生は浄土真宗のお寺のご住職ですが、その学問の立場は、なるべく宗派意識を取り払い、法然上人と親鸞聖人、そしてその他の法然上人のお弟子達の教学を、なるべく客観的に見ていこうとする立場を取ってます。

この本は法然上人・親鸞聖人・弁長上人・証空上人の教えが、念仏とか本願とか信心とか人間観とかテーマ別に整理されていて便利です。
証空上人について語るのであれば、せめてこの本一冊ぐらいは読んでください。


★親鸞会教義の相対化・30
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-97.html

A『念佛往生要義抄』の記述から、法然上人に関して以下のことが言える。

1)信前(光明に摂取される前)と信後(光明に摂取された後)の区別をしていた。
2)「往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人=三心具足の念仏申す人かどうかで、信前・信後を区別していた。

B『定散料簡義』の記述から、証空上人に関して以下のことが言える。

1)現世における救いである「即便往生」(=不体失往生?)を説いていた。
2)「即便往生」は、三心が発ることによって起きる。

貴方が、私の提示した資料をまともに読んでいないことは凄くよくわかりました。
次に論点スライドする時は、もう少し私の挙げた資料を読んでからにしてください。


(注2)

以下のサイトを参照。

★チューリップ企画サイト「徹底検証親鸞聖人の教え」
http://shinjin.info/

★苦笑の独り言ツッコミ!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-category-3.html



(追記)

「浄土宗を立てたのが、法然上人でなく、証空上人であると、間違っています」とチューリップ企画製作のビデオが間違った記述をしていることを指摘しているビラを愛知県内で入手したことが、本書で書かれています。
十年以上も前に間違いを指摘されているにも関わらず、全く間違いを間違いと認識しておらず、最近、田中氏によって再度指摘を受けても全く間違いを改めない。
このような姿勢は、仏法者としても企業としても、極めて不当なものであると改めて感じました。

親鸞会教義の相対化・65参照
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-206.html


以上




親●会のやり方が、昔から全然変わってないのに
ちょっとビックリですわ(苦笑)。

おまけに、
「浄土宗を立てたのが、法然上人でなく、証空上人」
  ↑
これにも昔からツッコミ入れられていたのに、
恥じるどころか、自分逹の著書に公開するとは、
ちょっとビックラこきましたな(苦笑)。

これも宿題にしときますっせ。

 ↓↓↓
61,証空上人の教義を全く知らないまま、証空上人の思想を語っているため、浄土真宗(それも覚如上人~蓮如上人の系列)に限定された「伝承」と理解すべき法論を「歴史的事実」として、間違った情報をまき散らしてしまっている。

62,間違った情報を指摘してくれた相手に対して誠実に対応すべきにも関わらず、全く論証責任を果たさ(せ)ないままに間違った情報に基づいて相手の方を侮辱している。

63,「浄土宗を立てたのが、法然上人でなく、証空上人であると、間違っています」と十年以上も前に指摘されているにも関わらず、間違いを認めず恥知らずにも自分たちの著書にそれが指摘されたビラを紹介している。その間違いは未だに認めておらず、田中氏によって再び指摘されているが、全く間違いを改めようとしていない。

「本願」と「誓願」

清森問答 親鸞会教義の相対化・74(投稿) より

 今日は「本願」と「誓願」に関してお話させていただきます。

 親鸞会においては「本願」と「誓願」という二つの言葉が特に区別されずに同じように用いられているようですが、「誓願」の原語は「プラニダーナ」であり、「本願」の原語は「プールヴァ・プラニダーナ」であり、明確に区別されています。

「プールヴァ」は「以前の」「過去」という意味であり、「本願」とは「仏が過去に菩薩だった時に立てた誓願」という意味であり、「現在では既に実現している誓願」という意味になります。

 このことを法然上人は以下のように述べておられます。

===================================
 本願と云うことは、もとのねがいと訓ずるなり。もとのねがいと云うは、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を、一声の称名のちからをもって、称してむ衆生を、我が国に生ぜしめんと云うことなり。かるがゆえに本願というなり。『四箇条問答』昭法全p.700

(訳)
 本願とは「もと(過去)の願い」と訓ずるものである。
「もと(過去)の願い」というのは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった昔に、「迷いの世界から抜け出せずにいる衆生を、わずか一遍でも称えた念仏の功徳によってわが浄土に往生させよう」
と誓ったものである。そういうわけで本願というのである。
===================================

 また、『選択集』の第三章において、

Q 法蔵菩薩の四十八願は成就されたのか?
A 『無量寿経』の願成就の文を読めば、四十八願の一々が達成されていることは明らかである。第十八の念仏往生願の達成のみを疑う必要はない。
 また、四十八願のそれぞれの末尾に、「願が達成されなければ仏にはなるまい」と誓っておられ、しかも阿弥陀仏は成仏以来、十劫を経ている。

という問答を設けられており、阿弥陀仏の誓願が成就して「本願」つまり、「過去の誓願」「完成した誓願」となっていることが証明されています。

===================================

 問うて曰く、一切の菩薩、その願を立といえども、あるいはすでに成就せる有り。また今だ成就せざる有り。未審し、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就したまうとやせん、はたいまだ成就したまわずとやせん。

 答えて曰く、法蔵の誓願一一に成就したまえり。何となれば、極楽界中にすでに三悪趣無し。まさに知るべし。これすなわち無三悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文にまた地獄、餓鬼、畜生諸難の趣無しと云えるこれなり。また彼の国の人天寿終って後、三悪趣に更ること無し。まさに知るべし、これすなわち不更悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文に、また彼の菩薩乃至成仏まで悪趣に更らずと云えるこれなり。

(中略)

 第十八の念仏往生の願、あに孤り以て成就したまわざらんや。然ればすなわち念仏の人皆以て往生す。何を以てか知ることを得たる。
 すなわち念仏往生の願成就の文に、「諸有る衆生その名号を聞いて信心歓喜して、乃至一念至心に回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と云えるこれなり。

 およそ四十八願、浄土を荘厳す。華池宝閣、願力に非ずということ無し。何ぞその中において独り念仏往生の願を疑惑すべきや。如之、一一の願の終わりに、もし爾らずば正覚を取らじと云えり。而るに阿弥陀仏成仏したまいてより已来、今において十劫なり。成仏の誓いすでに以て成就せり。まさに知るべし、一一の願虚しく設くべからず。故に善導の云く、「彼の仏今現に世に在して成仏したまえり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからず、衆生称念ずれば必ず往生を得。」已上

===================================

「信じて念仏申したものを極楽浄土に救い取る、それができなければ私は仏にはならない」と過去において、仏になる前の阿弥陀仏が誓願を立てたわけですが、現在、その誓願が実現し「本願」になっているから、阿弥陀仏は、西方極楽浄土で仏となっているのです。

 そして誓願が実現していることが『無量寿経』において釈尊によって説かれ証明されているから、阿弥陀仏が過去に誓った誓願が嘘ではなく、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申したならば間違いなく往生することができるのです。

このことを善導大師は、

===================================

 もし我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずば、正覚を取らじ。彼の仏、今現に世に在(ましま)して成仏し給へり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生
を得と。『往生礼讚』

(訳)
 もし私が仏になっても、十方の衆生が、私の名前を称えること、少ないもので十声の者に至るまで、もしも往生できなかったならば、私は仏にならない。そう誓った阿弥陀仏は、現在に西方極楽浄土におられて仏になっておられる。だから、仏が昔に誓った重要な誓願が嘘ではなく、人々が「南無阿弥陀仏」とお念仏申せば、必ず往生できる。ということを、よく知るべきである。
===================================

とお説きになられています。この文は『選択集』の先の文の後にも引用され、親鸞聖人が『教行信証』の後序において、

===================================
 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
 同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。
 同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生」(礼讃)の真文とを書かしめたまふ。
===================================

と述べておられることからも、浄土真宗においても非常に重要な文であることは明かです。



 ところで、既に様々な角度から論拠に基づき誤りを指摘されながら、チューリップ企画(=親鸞会)は未だに、

>「若不生者不取正覚」の「生」は
>「死んで極楽に生まれる」ことではなく、
>「平生に信楽に生まれる」ことである、
>と教えられているのが親鸞聖人であることは明らかであろう。

というドグマをまき散らしておりますが、「本願」は以上述べたように「既に実現している過去の誓願」ということですから、

★未だに実現していない「本願」は絶対に存在しない。

ということは明らかであり、この原則からも上記チューリップ企画(=親鸞会)のドグマが誤りであることは明かです。

 なぜならば、十方衆生が「平生に信楽に生まれる」ことまでも、阿弥陀仏が誓願として立て、その誓願が成就されて現在阿弥陀仏という仏になっており、その誓願が「既に実現している過去の誓願」「本願」となっているならば、阿弥陀仏が仏になった時点で十方衆生が全て信楽になっていることになり、現在迷っている衆生が全く存在していないことになってしまいます。

 しかし実際には、阿弥陀仏の本願を信じることなく迷っている衆生が存在しており、チューリップ企画(=親鸞会)のドグマが誤っていることは明かです。


===========苦笑の独り言より引用===========
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/category5-1.html

阿弥陀仏が信心を与えてくれる=衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている

ではないですわね(苦笑)。


●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。『教行信証』信巻

繰り返しになりますが、
「仏願の生起本末」を衆生が「聞きて疑心あることなし」になったら、
「本願力回向の信心」を獲得するから、極楽浄土に往生できることが確定すると、
親鸞聖人は述べておられます。

逆に言うなら、衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなかったら、
「本願力回向の信心」を獲得することができないから、
極楽浄土に往生することは確定しないことが明かですわ~ね。

そんでもって、

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力
に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人は
ありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。『尊号真像銘文』

阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、
衆生がそれを受け取らないもんだから、
残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるわけですわ~ね。

だからこそ、「ど真剣な聞法」を奨めるちゅうのが、
親●会の一番いい所だと思ってたんですけど、違ってました?(苦笑)

「火の中を、わけても法は聞くべきに、雨風雪はもののかずかは」
という蓮如上人の言葉でない言葉を、蓮如上人の言葉と捏造してまで、
「ど真剣な聞法」を奨めているくせに、

衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓ってたら、
その真剣な聞法をなんでやってるんですか?(苦笑)


「ど真剣な聞法をしなければ信楽になれない!」
「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている!」


どう考えてもこの二つは矛盾してます。
これは私のような愚鈍なものでもわかりますわ(苦笑)。
===========苦笑の独り言より引用===========


 このように苦笑氏が述べておられますが、全く同感です。

 さらに「本願」の解釈の誤りから派生して、チューリップ企画(=親鸞会)は、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈されているようですが、これも苦笑氏の言うとおり明かに誤りです。

※「正覚を取らじ」は「命を捨てる」??(追記あり)
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-11.html

 親鸞会のドグマは、「本願」の原語から見ても間違いであり、親鸞会の優れた特色をも損なうことにさえなっているのですから、一刻も早く訂正すべきだと思います。


 親鸞会関係者の方であれば、おそらく皆さんご存じであろうと思いますが、

阿弥陀にはまことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生をのみぞたすくる

と一休禅師が送られた歌に対し、蓮如上人は、

阿弥陀には隔つる心はなけれども
蓋ある水に月は宿らじ

と返されたそうです。

 蓮如上人がこのお歌で伝えようとしているものを、きちんと考えて頂きたいと思います。

以上



チ●ーリップ企画(=親●会)が、
未だに実現していない「十方衆生が信楽になる」ことを、
阿弥陀仏の「本願」の中身にしているのは、
結局「本願」の意味がわかってないからなのよね(苦笑)。

あと、一応言っておくけど、
「サンスクリットと漢訳は違う」という言い訳は通容しないよ。

だって、善導大師も法然上人も親鸞聖人もご存じなんだも~ん。
間違えたのは、チ●ーリップ企画(=親●会)だけよ(苦笑)。


というわけで、

19,「本願」が「現在では既に実現している誓願」を意味していることがわかってないため、未だに実現していない内容を「本願」の中身にしている。このような解釈は善導大師・法然上人・親鸞聖人と継承されている「本願」の解釈に著しく抵触している。

「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」???(追記あり)

ボロカス言われてますな(笑)。

↓↓↓

親鸞会教義の相対化・65
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-206.html

最近、以下のHPにアップされた内容に、驚くべき記述がありました。

(株)チューリップ企画と田中一憲氏の論戦
http://shinjin.info/

>>>
ナレーター「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空も、そのあやまちを、この時、聖人に、徹底的に打ち破られたのであった。これは、今日、親鸞聖人の三大諍論の一つとして、『体失・不体失往生の諍論』と、伝えられている」
http://shinjin.info/oujyou
>>>


 これに関しては、20085/18(日)のメールで田中さんが以下のように指摘し、


>>>
ついでですから、申し上げておきますが、ビデオの中に「後に浄土宗を開いた程の善恵房証空も…」という台詞がありますが、これは「浄土宗西山派」の間違いですね。「浄土宗」を開いたのは法然上人です。
>>>


 2008 5/19(月)に山田さんは以下のように答え、


>>>
アニメの「浄土宗云々」につきましては、後日、改めてご挨拶する機会もあると思いますので、「確認」している事項を、もう一度挙げておきます。
>>>


 更に、20085/25(日)に田中さんが以下のように仰っておられます。


>>>
これについては、間違いを認めて下さったようですね。わざわざ御礼に来ていただくまでもありません。ビデオ製作者の勉強不足もあるようですので、貴方の責任ではないと思います。

これは教義とは関係のない、単純ミスと思われますから、次に改訂されることがあれば、その時にでも直されたら良いかと思います。
>>>


 それにも関わらずチューリップ企画は、間違いを全く訂正することもなく、インターネットという世界中に発信できるメディアに掲載し、誤った情報を垂れ流しています。

 既に田中さんが指摘してくださっているわけですが、私の方で資料を掲載し、改めてチューリップ企画の誤りを「ハッキリ」させておきたいと思います。


1)本人の証言

「我今浄土宗を立つる意趣は、凡夫の報土にむまるることを示さんがためなり」
(『勅伝』巻六、『一期物語』昭法全p.440、『浄土立宗の御詞』昭法全p.481)

と法然上人ご自身が述べておられます。

 法然上人が浄土宗を開宗するまで「浄土宗」というものはありませんでした。それまでなかった「浄土宗」を法然上人が新たに立てたのです。


2)同時代の批判

 法然上人が、それまで存在しなかった「浄土宗」を新たに立てたために、

「新宗を立つる失」
(貞慶『興福寺奏状』日本思想体系15「鎌倉旧仏教」pp.32-33)

「八宗九宗の外に浄土宗を立つる事、自由の条かな、と余宗の人の申し候をばいかが・・」
(「十二問答」聖典4巻p.433)

というように、法然上人は同時代の他宗の人から反発を受けています。


3)「宗」について

 チューリップ企画は、そもそも「宗」というものが指し示す概念を理解していません。

「宗」とは、「道理」「主張」「定説」を意味するもので、『倶舎論』においては「毘婆沙宗」(説一切有部の正統派)、「経部宗」(説一切有部の異端派)という形で使われます。

 最近は「教団」のことを「浄土宗」というように言う場合もありますが、本来「宗」は思想あるいは理論であって人の集団でも教団でもありませんでした、ただ「宗」を奉ずる集団や教団が「宗」に付随していたわけです。

 この「宗」(理論)および宗派(教団)の別れ目になったのが、「釈尊の教説をどう見るか」という聖典解釈です。

 釈尊は相手の能力に応じて、様々に教えを説いてこられました(対機説法)。これによって、八万四千の法門と呼ばれる様々な教えが出来きたのです。

 そして様々な教えがあるため、それぞれの教え同士に矛盾が出てきて、「どの教えが釈尊の真意であるか」ということが問題になったのです。

 部派仏教を例にするならば、「一切は皆苦なり」というのが真意だとするのが経部宗で、「受に三種あり。苦・楽・不苦不楽なり」というのが真意だとするのが毘婆沙宗でした。

 このように「宗」を立てるときには、「どの教えが釈尊の真意であるか」という「聖典解釈」がもっとも重要な別れ目となったわけです。

 釈尊亡きあと、その解釈は個々の仏教徒の手に委ねられることになり、それによって様々な宗派が立てられました。

 このことに関して法然上人は、「禅勝房に示されける御詞」において、

「宗を立つる事は更に仏説にはあらず、自ら学ぶ所の経論に付きて、その義を覚り極むるなり。諸宗の習い、皆もって此くの如し。」
(宗派を開くことは、もとより釈尊の教えにはない。その宗の祖師が自ら学んできた経典や論書についての理解を極めた結果である。それは各宗ともに開宗の常であり、いずれの宗派も皆、そのような由縁によっている。)
(昭法全p.697)

と述べ、「十二問答」においても、

「宗の名をたつることは仏説にはあらず、みずからこころざすところの経教につきて、存じたる義を学しきわめて、宗義を判ずることなり。諸宗のならい、みなかくのごとし。」
(昭法全p.632)

と述べておられます。


 膨大にある釈尊の教説の中で、

「すべては心であるとする説が真意」とする法相宗
「すべては空であるとする説が真意」とする三論宗
「華厳経の説が真意」とする華厳宗
「密教の教えが真意」とする真言宗
「法華経の説が真意」とする天台宗

これらと同じように、

「浄土三部経の説が真意である」とする浄土宗を、法然上人が初めて開かれたのです。

 わが国で、法然上人のような意味での「宗」を開いた人は他にはおらず、そこが法然上人の最も大きな思想史的意義であるとさえ仰る方もおられます。



4)「浄土宗」=「浄土真宗」

 以上を踏まえて以下の親鸞聖人の言葉をご覧いただきたいと思います。

「智慧光のちからより本師源空あらはれて浄土真宗をひらきつつ選択本願のべたまふ」
(『高僧和讃』浄土真宗聖典p.595)

 親鸞聖人は、法然上人がお立てになられた「宗」を「浄土真宗」と述べておられます。

 法然上人にとっての「浄土宗」と親鸞聖人にとっての「浄土真宗」は同じものであり、どちらも法然上人がお立てになられたものです。

「宗」が教団を意味せず、法然上人にとっての「浄土宗」を親鸞聖人が「浄土真宗」と位置づけているのですから、「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」としたチューリップ企画の誤りは極めて深刻なものです。




 チューリップ企画の誤りを、田中さんは「教義とは関係のない、単純ミス」と仰っておられました。
 しかし私に言わせれば、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙です。

 偽装問題などで企業のモラルがうるさく言われている昨今ですが、このような誠実さの欠片もないような企業が「浄土真宗の教え」を語ることにより、浄土門や仏教界全体の印象が著しく悪化することを、私は深く危惧します。

 せめて清森問答をご覧の方にだけでも、チューリップ企画が垂れ流している情報の誤りの深刻さをご理解いただければと思います。





これは僕のお友達が言ってたんだけど、

「以下の人物で、浄土宗を開いたのは誰か? 
A, 証空 B,日蓮 c, 法然 d, 慈円」

という問題に、チューリップ企画は「A」と解答して、
バツが付けられても、
全然反省してないってことなわけだよね(苦笑)。


ミスはまあ許すとしても、指摘されても改めない企業の姿勢が問題なわけなんだよね~。
今後も「いなおり」続ける限り、「おしおき」はやめれませんな~(苦笑)。

(以上、2008.08.11記)



追記(2008.10.18)

清森問答&苦笑の独り言でこの話題が出て、既に二ヶ月以上経過。

チ●ーリップ企画は未だに間違いを訂正せず、
あちらのサイトでは、未だにヘンテコドグマがまき散らされてます(苦笑)。

というわけで、これも追加しときますわ(苦笑)。
 ↓
10,「のちに、浄土宗を開いたほどの、善恵房証空」と間違った内容を伝えるアニメを製作し、間違いを指摘されても改めず、更にネット上で世界中に間違った内容を発信している。しかもこれは「単純ミス」で済まされるようなものではなく、法然上人の思想的意義が全く理解できていない上に、法然上人のご苦労や親鸞聖人の思いを無にするような、許し難き暴挙である。

「正覚を取らじ」は「命を捨てる」??(追記あり)

なんだ!
件のチューリップ企画のサイトは毎日更新じゃないのか!
(2008/08/02/20:38の時点で第二回は更新されず。。)

仕事でやっているくせに、結構怠慢なもんだな。
オイラなんて、完全に趣味でやってるのに更新はマメだぞ
まあ、すぐ飽きるかもしれないけど(笑)。

というわけで、チューリップ企画のサイトが更新されるまで、
ヘンテコ教義をチクチク晒していこうかなっと


今日はこれね
 ↓↓↓
http://shinjin.info/2008/07/052003131.html

ここで、あまり仏教に馴染みのない方のために、この度、問題になった阿弥陀如来の本願の「若不生者不取正覚」とは何か、に就いて少し説明しておかなければならないであろう。
「若不生者不取正覚」とは、阿弥陀仏の本願のお言葉で、「若し生まれずは、正覚を取らじ」と読む。「正覚」とは「仏覚(仏のさとり)」のこ と、「仏のさとり」は仏の「命」。「若し生まれさせることができなければ、命を捨てる」という、まさに、この八字は阿弥陀仏が命を懸けて誓われている極め て重要なお言葉であるから、親鸞聖人は「弥陀の本願」を「若不生者の誓」と仰っている。




「若不生者不取正覚」を「若し生まれずは、正覚を取らじ」と読むのはいいけど、
それがどうして「若し生まれさせることができなければ、命を捨てる」になるねん!!

まあ、別に個人が勝手に思うのは自由だから、それはそれで別にどうでもいいんだけど、
そのヘンテコな解釈は、親鸞聖人の解釈とは違うんだから、
「親鸞聖人の解釈」って言っちゃだめだよん(笑)。

せっかく親切に教えてあげてるんだから、チューリップ企画の山田さんも、
『尊号真像銘文』をちゃんと読んでよね
 ↓
結論出てるやん!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-6.html

「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
『尊号真像銘文』




ついでに浄土宗の方が挙げてくれたサンスクリット文の本願文を見ても、
 ↓
親鸞会教義の相対化・28
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

世尊よ、私が覚りに到達したとき、無量で数えきれない仏国土でわたしの名前を聞いて、

その私の仏国土に生まれたいという心をおこし、もろもろの善根を振り向ける衆生たちが、

もしも十度までも心をおこしても、彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら、

そのあいだは、私はこの上ない完全な覚りを完成させることがないであろう

ただし、直ちにその報を受けなければならない程の極悪な行為をした衆生や、正法を誹謗するという覆いにおおわれている衆生は除いてである。



「そのあいだは、私はこの上ない完全な覚りを完成させることがないであろう」とあって、
「若し生まれずは、正覚を取らじ」と言う漢訳はオッケーだけど、
「若し生まれさせることができなければ、命を捨てる」なんてゼッテーならね~よ(苦笑)。


山田氏:書かれていますとも! 本当は書かれているのに凡夫の知恵ではそう読めないだけです。お慈悲な阿弥陀様が「全ての人を信楽に生まれさせる」と誓われなかったはずがないじゃありませんか! 体験すれば分かります。
田中氏:誤りはそこです。あなたの誤りは実にそこにあるのです!
山田氏:なっ、なんですと?
田中氏:もし全ての人を信心獲得させるという本願ならば、十劫の昔に全ての人が信心獲得したはずじゃないですか! 本願は十劫の昔に成就したのですから。あなたの説は十劫安心と同じです。
山田氏:いやいや、本願はまだ成就していないのです。
田中氏:法蔵菩薩は十劫の昔に成仏し、阿弥陀仏となられたではありませんか?
山田氏:いやいや、成仏はされましたが本願はまだ成就していません。
田中氏:もし約束が果たせなければ正覚を取らない、と書かれているではありませんか。約束を果たさないままで成仏されたのなら、阿弥陀仏は嘘つきということになるではありませんか?
山田氏:「不取正覚」というのは「正覚を取らない」ということではありません。一旦成仏された阿弥陀仏が「正覚を捨てる」と言われたお言葉です。
田中氏:普通に読めば「正覚を取らない」としか読めません。どうして「正覚を捨てる」という意味になるんですか?
シンパ:善知識高森顕徹会長先生がそのように解釈なさっているからです。善知識のお言葉に絶対無条件服従しなければ信心獲得できませんよ。信心獲得しなければ必堕無間なのです! 阿弥陀仏が「正覚」という命を懸けておられるのですから、私達も命を懸けなれば火花が散りません。
苦笑氏:それは親鸞会という特殊な文化の中でしか通用しない論理でありドグマです。第三者にも分かるように言わなければ説得力がありません。
山田氏:善知識の解釈にケチを付けるような辻斬り強盗のようなまねはやめていただきたい。謗法罪ですぞ!
シンパ:後生の一大事も分からない部外者が、弥陀の本願をあれこれ論ずる資格はありません!


http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-4.html

 ↑
これを投稿したZさんは、「パロディー」のつもりで書いたはずなんだけど、
こんだけそのまんまだと、「パロディー」じゃなくて「予言」みたいだね~(笑)。

それじゃあ、「予言」に従って僕も言わせてもらおうかな?


それは親鸞会という特殊な文化の中でしか通用しない論理でありドグマです。第三者にも分かるように言わなければ説得力がありません。

by.苦笑(笑)
(以上、2008.08.02記)


追記1(2008.10.06)

これもチ●ーリップ企画(=親●会=高●先生)の致命的な誤りですわな(苦笑)。

・阿弥陀仏が信楽に生まれさせることを誓っているのに、
 現実に信楽になっていない衆生がいる。
  ↓
・そうなると阿弥陀仏の誓願が成就していないことになるから、
 阿弥陀仏は阿弥陀仏になっていないことになってしまう。
  ↓
・その矛盾を誤魔化すために、
 「誓願を成就して仏になった阿弥陀仏が、正覚を捨てる!」
 という新たなドグマを捏造!

という流れでございましょうかね(苦笑)。

「一つ嘘つくと、その嘘を誤魔化すために更に嘘を重ねることになる」
とは、誰の明言でしたかね。

「ボタンを一つかけ間違えると、めちゃくちゃヤバイことになる」
と、こないだ僕のお友達がいってましたが、
まさにこれでござりますな(苦笑)。

というわけで、前回までの四項目にさらに一項目プラスしますわ。
 ↓
5,ヘンテコドグマの矛盾を誤魔化すために、「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈。結果、サンスクリット文、漢文、親鸞聖人の解釈、いずれとも異なる新たなヘンテコドグマを捏造しまき散らすことになった。




追記2(2008.10.06)

これだけ丁寧に教えてあげているにも関わらず、
いまだに親●会では、このヘンテコドグマを性懲りもなく、
まき散らしておるようですね(苦笑)。
 ↓

 弥陀の本願文には、「若不生者 不取正覚」(若し生まれずは、正覚を取らじ)と誓われている。
「正覚」とは「仏覚(仏のさとり)」のこと、仏にとっては命である。
「若し生まれさせることができなければ、命を捨てる」という、まさに、この8字は、阿弥陀仏が命を懸けて誓われている極めて重要なお言葉であるから、親鸞聖人は「弥陀の本願」を「若不生者の誓」とおっしゃっている。

「生まれる」のは、いつだ 「若不生者 不取正覚」の真意 H20.9.22

「当流は廃立肝要なり」は誰の言葉??

どうやら、親鸞聖人の言葉でも蓮如上人の言葉でもないようですね(苦笑)。

やっぱし、高●先生の言葉??
別にそれでもいいけど、それなら僕には権威ナッシングですね(笑)。

清森問答 質疑応答145


【質問】


 親鸞会関係者の方のHPを見ると、「当流は廃立肝要なり」という言葉が、「親鸞聖人・御遺言鈔」という出典ということでよく引用されているのですが、ネットや浄土真宗聖典・検索システム(http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/kensaku/)で「廃立」を調べましたが、結局該当する言葉を見つけることができませんでした。

 もしも、「親鸞聖人・御遺言鈔」という文献がどのような文献で、そのどこにこの言葉が記載されているかご存じでしたら、教えていただけたらと思います。というか、そもそもこのような文献が存在するのでしょうか?

 ついでにお聞きしたいのですが、清森問答の質疑応答の87で、「三重廃立」が浄土真宗の伝統的な概念でないという話がされていましたが、(http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-100.html#comment_area)そのコメント覧に「ああさん」が書いていた、

>当流は廃立肝要なり(蓮如上人)

という言葉も、同様に検索してたのですが見つけることができませんでした。これに関しても、典拠をご存じでしたら教えていただけたらと思います。



【回答】


 私も、今まで真宗に関する本を、色々読んでいますが、「御遺言鈔」という文献については、一度も見かけたことがありません。

 念のために、本願寺司教の方にも確認しましたが、「御遺言鈔」という文献は存在しないとの回答でした。

 親鸞会で、何を根拠に「御遺言鈔」と教えられているのか分かりませんが、存在しないか、存在したとしても一般に認められていない聖教だと思います。


 また、

>当流は廃立肝要なり(蓮如上人)

 これは、(親鸞聖人)の記載ミスだと思います。




ここでも、的確なコメントが入っている一方で、

No title
 親鸞会の捏造行為は珍しくないので、またか、という感があるが、まさか聖教自体を捏造しているとは思わなかった。

 私も廃立という単語を検索してみたが、親鸞聖人の著作の中に「廃立」の2字は一箇所も見つからなかった。

 これは、廃立を旗頭に、他宗教の徹底否定を行っている親鸞会には、非常に都合の悪い事実だ。

 自らの活動の正当性を示すために、このような聖教をデッチ上げたと見るべきであろう。

2008年09月09日 | また捏造発覚ですか? URL [編集]

ありがとうございました!
解答ありがとうございました!

一つ一つ典拠の確認を行う作業は、地味で手間の掛かるものですが、とても重要な基礎工事であると思います。
独断や思想先行にならないためにも、不可欠なものだと思います。

今後もよろしくお願いします。
2008年09月09日 | 質問者 URL [編集]



「いかにも!」って感じな、悪質コメントが入ってましたね(苦笑)。

No title
937 神も仏も名無しさん [] Date:2008/09/10(水) 09:05:17 ID:zCa+5wm6 Be:
>>897

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/
質疑応答145

御遺言鈔は知らんけどね、廃立はあるっしょ。

「この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。」(改邪鈔)
「真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。」(改邪鈔)
「方便をわろしといふことはあるまじきなり。
方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。」(御一代記聞書)


『清森問答の質疑応答の87で、「三重廃立」が
浄土真宗の伝統的な概念でないという話がされていました』

だからさ、清森教学はムチャクチャなんだって。
教行信証化土巻は、真仮廃立、聖浄廃立、内外廃立の順に教えられてある。
三重廃立の概念は真宗そのもの。
2008年09月10日 | URL [編集]



質問者とKさんのシンクロ攻撃で速攻でツブされて、
醜態をさらしてましたけど(苦笑)。


No title
質疑応答87
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-100.html

↑これをもう一度よく読んでください。
親鸞聖人が三重廃立の内容を説かれたことを、清森氏は否定していませんし、
それどころか、学者の本の中からそれに相当する内容を紹介してくださっています。
ただ、「三重廃立」という用語については、親鸞会外部で使われている例を知らない
という意味のことを仰っているだけです。
2008年09月10日 | K URL [編集]

No title
>御遺言鈔は知らんけどね、廃立はあるっしょ。

私は清森さんに、「当流は廃立肝要なり」という言葉や「親鸞聖人・御遺言鈔」という文献が存在するかどうかを質問しました。

浄土真宗において「廃立」という言葉が使われていることは、清森さんに質問する前に既に検索システムを使用して確認済みです。

読解力に問題があるのか、わざとやっているのか不明ですが勝手に論点をスライドしないでください。


==参考「廃立」の検索結果==

21 口伝鈔

891-14
和尚の御こころによるに、すでに報身・報土の廃立をもつて規模とす。しかれ
ば、「観彼世界相 勝過三界道」(浄土論 二九)の論文をもつておもふに、三界

1件
22 改邪鈔

931-7
ども聖道門の此土の得道といふ教相にかはらんために、他土の往生といふ廃
立をしばらく定むるばかりなり。和会するときは、此土・他土一異に凡聖不二

931-10
るか。しかれども、廃立の初門にかへりて、いくたびも為凡をさきとして、道
場となづけてこれをかまへ、本尊を安置したてまつるにてこそあれ、これは行

936-2
要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺
訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりと

937-3
性相に異する自宗の廃立、これをもつて規とす。しかるに往生の信心の沙汰
をば手がけもせずして、没後葬礼の助成扶持の一段を当流の肝要とするやう

940-7
 それ自宗の正依経たる三経所説の廃立においては、ことしげきによりてし
ばらくさしおく。八宗の高祖とあがめたてまつる龍樹菩薩の所造『十住毘婆

941-8
いくたびも廃立をさきとせり。「廃」といふは、捨なりと釈す。聖道門の此土
の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道を捨てよと

941-13
宗とす。しかるに風聞の邪義のごとくんば、廃立の一途をすてて、此土・他
土をわけず浄・穢を分別せず、此土をもつて浄土と称し、凡形の知識をもつて

7件
34 蓮如上人御一代記聞書

1286-7
便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識
の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

1件
2008年09月10日 | 質問者 URL [編集]

補足
> 御遺言鈔は知らんけどね、廃立はあるっしょ。

今ここでは『御遺言鈔』という書物が存在するかどうかの話をしているんです。
清森氏が廃立の教えを否定しているかのように論点スライド&印象操作するのはやめていただきたいものです。
2008年09月10日 | K URL [編集]

シンクロ?
質問者さんのカキコを見る前にさっきのカキコをしました。
内容的に重複してしまってすみません。
でも、私と同じことを思った人がいるのを確認できて良かったです。
2008年09月10日 | K URL [編集]

No title
>Kさん

発言がシンクロしましたね。汗
悪質な論点スライド&印象操作は、見ていて苦笑いですよねw
2008年09月10日 | 質問者 URL [編集]




だから、「船●吉●やミート●ープみたいなことはやめろ!」
ってアドバイスしてあげてるのにね~。

赤●とか白●恋人は、潔く出直したから今でもみんなに愛されているのよ(苦笑)



※追記1(2008.9.10)

山も山さんのブログのコメント覧に、この言葉の典拠について質問してみました。
丁寧かつ誠実な文章で、親●会を懸命に擁護されている方ですので、
どのような解答を頂けるのか楽しみです。

「こうしたらいつか救われる」は自力の信心

苦笑(本物) 2008/09/10 19:43

はじめまして!
山も山さんがいろんな方の質問に誠実にお答えになられているのを、
いつもこっそり読ませていただいております。

早速ですが、一点質問よろしいでしょうか?

>当流は廃立肝要なり。(親鸞聖人・御遺言鈔)

とのことでしたが、「親鸞聖人・御遺言鈔」という文献がどのような文献で、そのどの部分にこの言葉が記載されているのでしょうか?

私も自分なりに調べましたが見つけることができず、元親鸞会講師の方もこの文献に関してはご存じないようです。

「当流は廃立肝要なり」は誰の言葉??
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-53.html

山も山さんは教学に明るいようですし、この文章を引用されておられますので、もしもご存じでしたらぜひ教えていただきたい思います。

よろしくお願いします。
「こうしたらいつか救われる」は自力の信心




※追記2(2008.9.11)

山も山さんから、正直で潔い解答を頂きました。

今まで、親●会関係者の不誠実で卑劣な対応に失望していましたが、
山も山さんのようなきちんとした人もいることがわかって大変嬉しく思います。

【山も山さんと苦笑のやり取り】

山も山 2008/09/10 20:48
苦笑(本物)さんへ
ご指摘頂き有り難うございました。
基本的に、親鸞会発行の教学聖典に載っているものが、皆さんにも分かりやすいと思い優先して根拠として出しております。
改めて調べてみましたが、私の手元の法蔵館発行真宗聖典には掲載されていませんでした。
ネットの検索でも確かに見つかりません。

ブログに掲載する場合は、事前に調べて、前回のことに関しては、覚如上人の「当流は廃立肝要なり」と書くべきでした。

教学勉強も、まだまだ到らないところばかりですので、またお気づきの点があれば教えていただきたく思います。宜しくお願いいたします。

苦笑(本物) 2008/09/10 23:11
>山も山さん
解答ありがとうございました!
まだ不明な点がありますので、もう少し質問させていただいてよろしいでしょうか?


>覚如上人の「当流は廃立肝要なり」と書くべきでした。

とのことですが、これに関しても私なりに調べたのですが見つけることができませんでした。
覚如上人の何という文献にこの記述があるのでしょうか?

ちなみに、『改邪鈔』には「真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。」(浄土真宗聖典注釈版 p.940)という記述がありますが、山も山さんが挙げられた記述とは異なります。


また、

>基本的に、親鸞会発行の教学聖典に載っているものが、皆さんにも分かりやすいと思い優先して根拠として出しております。

とのことですが、山も山さんのような方が聖教の捏造をされるとは思えませんので、「親鸞会発行の教学聖典」など、何等かしらの資料に基づいて、

>当流は廃立肝要なり。(親鸞聖人・御遺言鈔)

という記述をされたのではないかと思います。

具体的に如何なる資料に基づいて上記の記述をされたのでしょうか?またその資料には、「親鸞聖人・御遺言鈔」についての文献学的な解題などはされていないのでしょうか?

差し支えなければ、教えていただけたらと思います。

山も山 2008/09/10 23:48
苦笑(本物)さんへ

再びご指摘有難うございました。
>ちなみに、『改邪鈔』には「真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。」(浄土真宗聖典注釈版 p.940)という記述がありますが、

こちらを書こうと思って、書いたつもりになっていましたが、あとで読み返すと間違っておりました。すみませんでした。訂正し、お詫び申し上げます。

>具体的に如何なる資料に基づいて上記の記述をされたのでしょうか?またその資料には、「親鸞聖人・御遺言鈔」についての文献学的な解題などはされていないのでしょうか?

資料は、親鸞会発行の教学聖典です。この教学聖典には、(御遺言鈔)としかかいてないので、それ以上のことはわかりません。
基本的に私は、法蔵館発行の教学聖典で、お聖教を拝読しております。この法蔵館の真宗聖典に記載されていないお聖教に関しては、教行信証をはじめとしたお聖教を読むのが精一杯で、それ以外までまだ、手が回っておりません。現在も勉強中なので、またお気づきの点があればお知らせ下さい。

よろしくお願いいたします。

苦笑(本物) 2008/09/11 00:20
>山も山さん
解答ありがとうございました!
今回の山も山さんの解答には、私から更にお尋ねすることはありません。
誠実な解答ありがとうございました。
「御遺言鈔」についてまた何かわかりましたら、教えて頂けたらと思います。


それから、私は親鸞会の教義を扱ったblogをやっております。
ツッコミは得意ですが、教義に関して全くの素人がやっているblogですので、
山も山さんがご覧になってツッコミ所がありましたら、是非ご指定頂きたいと思います!



清●問答のコメント覧で、見苦しい印象操作を繰り返して苦笑させている、
どっかの誰かさんにも、山も山さんの爽やかさを見習ってほしいものです(苦笑)。

地球人にガミラス星人の「文化」は適応されない

親●会関係者と思われる人が、私に対する攻撃として、
何度か、こんな攻撃をしてきました。

必堕無間の後生の一大事も分かってない人がこの問答を見ても、若不生者が何やら当益・現益が何やら訳が分からないはずですが。
最低限、内容を理解してから批判して欲しいです。


苦笑さん、貴方は後生、どちらへ行かれるおつもりですか?
(中略)
必堕無間の後生の一大事を否定するなど、仏教が全く始まっていません。
(中略)
このような「必堕無間の後生の一大事」を真っ向から否定する貴方が、弥陀の本願の「若不生者」の「生」を、あれこれ論じることに、どんな意味や目的がおありなのでしょう。
 必堕無間の一大事を、「特定の文化の枠組み」のお話、としか思っていない貴方が、弥陀がその一大事を解決してみせる=「必ず生まれさせる」と、命を懸けて誓われている「若不生者」の「生」を、なぜ論じていらっしゃるのですか? 



>必堕無間の後生の一大事
 ↑
これって、清森氏や浄土宗の人によって、限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」であることが既に証明済みなんだよね(苦笑)。

質疑応答82

「化土往生する人」を親鸞聖人がお説きになられていますが、
獲信した人以外は無間地獄なんでしょうかね~?(苦笑)

それから「昿劫を逕歴」=「無間地獄に堕在」とする根拠ってないよね(苦笑)。

質疑応答83

>親鸞聖人が「全人類は逆謗である」という説き方をされていませんので、必堕無間の根拠には、ならないと思います。

>五悪段につきましても、必堕無間とは、どこにも説かれていません。すべて三悪道として教えられています。無間地獄ならば、寿命が短いということはありません。

>つまり、五悪段で説かれていることは、悪人は三悪道に堕ちる、ということであって、「一切衆生必堕無間」の根拠にはなりません。

だそうです。

「一切衆生必堕無間」というドグマはどっから導き出されるんでしょうかね~(苦笑)。

質疑応答84

>まして、化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説くことを否定するのは、善知識方の説き方を否定することになるので、間違いだと思います。

だそうです。

それでも「一切衆生必堕無間」というドグマを優先するのは勝手だけど、
化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説いている善知識とは、
別の「文化」であることは自覚する必要がありますな(苦笑)。

親鸞会教義の相対化・28

「一切衆生必堕無間」は、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとも抵触するドグマのようですね。

私は、親鸞聖人も蓮如上人も、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えを受け継いだ方だと思っておりますが、
「一切衆生必堕無間」をドグマとする「文化」は、
そのドグマと曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとの間に、
どのように整合性を付けるつもりなのでしょうかね~(苦笑)。

日蓮聖人の思想との整合性は、なんとかつきそうな気がしますけどね(苦笑)。


あと、こんなのもありましたね。

「地獄に堕ちるわよ~!」は、
仏様でもない人が他人に対して言っちゃダメ
みたいですよ(苦笑)。

親鸞会教義の相対化・26

まず、以下の記述を見ていただきたいと思います。

若佛子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪過。教人説罪過。
罪過因罪過縁罪過法罪過業。
而菩薩聞外道惡人及二乘惡人説佛法中非法非律。常生悲心教化是惡人輩。
令生大乘善信。
而菩薩反更自説佛法中罪過者。是菩薩波羅夷罪
(『梵網経』大正蔵経vol.24.p.1004c.)

(訳)
仏の子よ。
もしも出家や在家の菩薩や、比丘・比丘尼の罪過を自ら説き、他の人に教えて罪過を説かせたならば、それは罪過の原因となり、罪過の条件となり、罪過の法(教え)となり、罪過の業となる。

だから、菩薩は外道である悪人、さらに二乗である悪人が、仏法の中において法でないものや律でないものを説いているのを聞いたならば、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化して、大乗の善なる信心を生じさせなさい。

それなのに、菩薩がかえって更に自ら仏法の中における罪過を説いたならば、これは菩薩としては教団追放に値する罪なのである。

これは、釈尊が「仏の子」すなわち仏弟子に仰った言葉です。

釈尊は、出家者・在家者を問わず、仏弟子が他の人の罪過を、自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることは、

それはその行為が、新たな罪過の原因となり条件となり、罪過となる教えとなり、罪過となる行為になるのでしてはいけない。

そのように禁じておられます。


つまり仏教者は、他の人に

「地獄に堕ちるわよ!」

と言ってはいけないのです。

それはなぜでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得が仏教の業報思想ですが、現在行った行為の果報が、必ず来世に得られるものであるかどうかは、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないし、その行為が、本当に地獄に堕ちるような果報をもたらすものであるかどうかも、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないからです。

それなのに、他の人に「地獄に堕ちるわよ!」と言って、その人が地獄に堕ちることがなかったらどうなるでしょうか?

そうです。

「地獄に堕ちるわよ!」と言った人こそが、妄語の罪を犯し、その罪過をうけなければならなくなるのです。

だから釈尊は、仏弟子が、他の人の罪過を自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることを禁じられたのです。

仏弟子が、罪過を犯した人に対する時は、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化し、大乗の善なる信心を生じさせるように、ひたすら導いていかなければならないのです。

それでは多くの仏典で、地獄や地獄行きの業が説かれているのはなぜでしょうか?

それは、釈尊が三明・六神通(※)という仏智でもって、どのような悪業を作った人が地獄に行くかを知り、そのような悪業を犯さないように、仏弟子逹に教えてくださっているからなのです。


一方、私達は三明・六神通からはほど遠い罪悪生死の凡夫です。

その私達が、罪業とその業果を論じる場合は、釈尊が、三明・六神通でご覧になったものをお説きになった経典に基き、「釈尊が『こういう業にはこういう果報がある』と仰っていた」という形でしか論じることはできないのです。


三明六神通を獲得してもいないのにも関わらず、凡夫のはからいで、

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

と言う人は、仏教徒でも仏弟子ではありません。



親鸞会教義の相対化・30

>これは私あてではないが真宗の同行として納得できない。

 私の言葉足らずで、納得していだけなかったのではないかと思います。
 若干でありますが、補足説明をさせて頂きます。


>親鸞会は(一切衆生)必墮無間だけしか言わんのでおかしいのです。
>必墮無間と叱りつける人が仏弟子ではないとは私は思わない。
>(「一切衆生必墮無間」という言葉や概念はおかしいでしょう。)

Nobodyさんの仰りたいこと、よくわかっているつもりです。

 創造主である神の、絶対的な「神の律法」が人間の倫理を支えている、キリスト教などを代表するセム系一神教に対して、仏教では、「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」の業思想=「因果の道理」が人間の倫理を支えているわけですから、人間のどのような行為が原因になって、どのような結果を受けることになるのか、それを説かなければ、仏弟子は倫理を説くことができないことになります。


そのために、仏教では古来より、

★過去世でどのような行為をした人が、現世でどのような果報を受けたのか?
★現世でどのような行為をした人が、来世でどのような果報を受けるのか?

 これを、釈尊が仏智でもってご覧になったことをお話しになった話を経典や律典から抜粋して、業報の実例集、業報説話集と言える、“アヴァダーナ文献”というものが編纂されたのです。
 これに基づいて仏弟子逹は、釈尊の言葉に基づき、どのような業因によって、いかなる果報を受けるかを話していったのです。

したがってNobodyさんの以下の言葉は、

>理解した上で、他の人に必墮無間と叱りつけることが
>あってもよいのではないのかな。

正確には、

==========================
仏弟子は、三明六神通を獲得した仏の言葉に基づいて、
必墮無間の人を「必墮無間」と叱りつけなければならない。
==========================

ということになると思います。

 蓮如上人に関しては、恐らく上記の範囲内での発言であり、「一切衆生必墮無間」という経典にない言葉を捏造したわけではありませんし、kkhate(=kkk)さんのように、「私の後生は必定地獄らしい」という自分の問題を、根拠もなく「全ての人」に一方的に当てはめ、「そうだろうなあ」と仰っているわけではないので、仏弟子であると言えます。


 最後に、“アヴァダーナ文献”の代表的なものである“ディヴィヤ・アヴァダーナ”が、この度、世界で初めて全訳されましたので紹介させて頂きます。

平岡聡『ブッダが謎解く三世の物語』上下(大蔵出版)

 これなどを読んで頂いて、釈尊がお説きになった業報の実例に基づいて、必墮無間の人に対して「必墮無間」と叱りつけるならば、何の問題もありません。

 凡夫のはからいで、仏弟子にあるまじき行為をすることもなくなります。




強い放射線の中でしか生きられないガミラス星人
がその「文化」を地球人に押しつけて、
地球人に「放射線は必要だよね!」と言うのはおかしいでしょ?(苦笑)

限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」を、
議論の前提にするなんてのは全くもって不当ですわ(苦笑)。


>分かってない
 ↑
特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
まあ納得ですけどね(笑)。

★「死後の往生」を否定するチューリップ企画

チューリップ企画の論理展開だと、どう考えてもこの問題が発生するのよね(苦笑)。
とんでもない「邪義」じゃん(笑)。

↓↓↓

★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。(6月19日)
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
 
 
『親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
 
 
 
『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)
 
 
『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)
 
 
『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。


http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/2008_628_0032_8af2.html

「責任者出て来い!!」善恵房証空上人の教え

浄土宗の方が指摘してはったけど、チューリップ企画(=親●会)は、
善恵房証空上人の教えについて何もわかってないんだな(苦笑)。

僕はとやかく言う立場ではないから別にかまわないけど、
善恵房証空上人を派祖としてはる、浄土宗西山派の方とかが見たら、
「責任者出てこい!!」って、怒られまっせ(苦笑)。

↓↓↓

あとこれは、清森さんはご存知かもしれませんが、

聖光上人が親鸞聖人と同じ時期に法然上人の下にいなかったことは以前申しましたが、

体失・不体失往生の論争に関しても、
証空上人も、往生は平生に定まるという「即便往生」をお説きになられていますし、
ましてやアニメのような「念仏申していたら死後に往生できる」という主張は、
証空上人には全くありません。

もちろん、これは浄土真宗的には「伝統」なのかもしれませんが、
今の時代に、つまらない宗我見に捉えられて縄張り争いするべきでないと思うし、
広く一般の人を相手に教えを説き広めていくというのであれば、
まずはきちんとした事実に立つべきで、捏造した情報の上で、
教えを説いていくようなことは、避けるべきなのではないかなと思いました。

そうしていかないと、きちんと文献に当たって確認された時に、
信頼を著しく損なってしまうのではないかなと思います。


http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-35.html

私の友人が証空上人に言及したのは、アニメで証空上人が、


『皆さん。釈尊が、この世にお生まれになったのは、阿弥陀如来の本願1つを説かれるためでした。どんな人でも、念仏さえ称えれば、死ねば必ず極楽浄土に連れていくという、ありがたいお約束です。』


という台詞を話すことによって、何も知らない方がご覧になった時に、その方が証空上人を誤解しないためです。

証空上人は、この世での救いを積極的にお説きになり、

 生きて身をはちすの上にやどさずば念佛まうす甲斐やなからん

という歌を詠んでおられます。

しかもこれは、

問うて云く。
摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

答えて云く。
平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。
この三心具足しぬれば、必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。

かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、てらし給うなり。

平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。
故に不捨の誓約と申すなり。
「念佛往生要義抄」(昭法全六八七頁)

というように、「摂取の益は平生の時である」と、仰っておられる法然上人から学ばれたものであり、

>親鸞聖人に指摘されるまで、「往生」と言えば、
>「体失往生」しか知らなかった善恵房証空と、
>そっくりではないかと驚く人もあるでしょう。
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/2007_1224_1233_5999.html

というように、親鸞聖人から学ばれたものではありません。

更に証空上人は、

三心発る時即便往生す、此時正しく仏も成仏し衆生も往生す。
『定散料簡義』

と仰せっていますから、「念仏さえ称えれば」などという台詞は、極めて不当なものであると思います。

私の友人は、証空上人に対する誤解を危惧して指摘しただけで、どこかの誰かさんのような、くだらない宗我見や宗派根性は持っておりません。

正確に情報を検討しようともせず、自分のつくりあげた幻の世界の正義感で、つくりあげた敵や悪と戦おうとするような、行為は慎みたいものです。


ついでなのでお勧めの本を紹介しておきましょう。

★浅井成海著『浄土教入門』(本願寺出版)

浅井先生は浄土真宗のお寺のご住職ですが、その学問の立場は、なるべく宗派意識を取り払い、法然上人と親鸞聖人、そしてその他の法然上人のお弟子達の教学を、なるべく客観的に見ていこうとする立場を取ってます。

この本は法然上人・親鸞聖人・弁長上人・証空上人の教えが、念仏とか本願とか信心とか人間観とかテーマ別に整理されていて便利です。
証空上人について語るのであれば、せめてこの本一冊ぐらいは読んでください。


http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-85.html



A『念佛往生要義抄』の記述から、法然上人に関して以下のことが言える。

1)信前(光明に摂取される前)と信後(光明に摂取された後)の区別をしていた。
2)「往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人=三心具足の念仏申す人かどうかで、信前・信後を区別していた。

B『定散料簡義』の記述から、証空上人に関して以下のことが言える。

1)現世における救いである「即便往生」(=不体失往生?)を説いていた。
2)「即便往生」は、三心が発ることによって起きる。

 貴方が、私の提示した資料をまともに読んでいないことは凄くよくわかりました。
 次に論点スライドする時は、もう少し私の挙げた資料を読んでからにしてください。


http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-97.html
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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