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【ツッコミ依頼】三輩の話をするなら、『選択集』ぐらい読めよ(苦笑)

【依頼者】

2月号『顕真』の「巻頭言」がUPされ、飛雲さんがツッコミを入れてました。

※飛雲 知識の仕分けと会員の一揆
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-16c4.html

最近サボりまくりの苦笑さんも、頑張ってツッコミ入れてください。



【苦笑】

「サボりまくり」で、ごめんごめん(苦笑)。

オイラなら以下の赤字のポイントにツッコミいれますな。

● 人間の仕分けと逆謗の一機

阿弥陀仏が五劫思惟の徹底調査の末、
全人類(十方衆生)は助かる縁なき逆謗の一機と診断なされ、
その逆謗を助ける十八願を建てられたのだが、
自惚れ強い人類は自分が助かる縁なき極悪人とはユメにも思っていないのだ。

そんな我々を見抜いた弥陀が、自惚れ心を打ち砕き真実の機を知らせるために
建てられたのが十九願である、と親鸞聖人は教えられる。
その弥陀の十九の願意を開顕するために、
全人類(十方衆生)をはじめは八十一種類(八十一品)に分けられた釈迦が
『観無量寿経』では、「定善の一機」と「散善の九機」(上品上生、上品中生、
上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生)
の十種類に要約されている。
『大無量寿経』にはそれをまた、上輩者・中輩者・下輩者の三種類にまとめ、
遂には弥陀が見抜いた逆謗の一機を知らせるために
種々に方便なされているのが一切経である。

自惚れ強い人類に頭から「お前たちは、みな助かる縁なき逆謗だよ」と
どれだけ教えても聞く耳全く持たないから、
全人類を八十一種類に分類したり九種類になされたり三種類に分けたりされたのは、 十方衆生は逆謗の一機である真実を知らせるための、
釈迦弥陀の善巧方便の人間の仕分けであったのである。



ふ~(苦笑)。

九品=三輩は、まあいいけど。


> 十方衆生は逆謗の一機である真実を知らせるため
 ↑
こ~んな目的で三輩も九品も説かれてまへんて(苦笑)。

少なくとも『選択集』を読んでれば、
こういうヘンテコな発言はありえまへんわ(苦笑)。
 ↓
法然上人『選択本願念仏集』

※三輩は4章、九品は12章を読んでね。

とりあえず、三輩の位置づけに関して、
『選択集』四章を簡単に概要だけまとめておいてあげるし、
後は自分で勉強してね。
 ↓ ↓ ↓

~~~~~『選択集』四章の概要~~~~~

§ タイトル
三輩すべてが念仏によって往生すると説く文

§ 『無量寿経』下巻、三輩段の引用
●十方世界から極楽に生まれる三種の衆生(三輩)がある。

●上輩
[修行]1)出家 2)菩提心を発す 3)一向に専ら無量寿仏を念ず
   4)諸の功徳を修す 5)彼の国に生ぜんと願ず
[果報]臨終の聖衆、蓮華化生、住不退転、神通自在

●中輩
[修行]1)菩提心を発す 2)一向に専ら無量寿仏を念ず 3)多少に善を修す
   4)塔像を起立する 5)出家者に食を施す 
   6)絹の幡を懸け、灯明を点し、華を散らし、焼香する 
   7)これらをもって、彼の国に生ぜんと願ず
[果報]臨終の化仏、往生、住不退転、智徳は上輩に次ぐ

●下輩
[修行]1)菩提心を発す 2)一向に意を専らにして、ないし十念無量寿仏を念ず
   3)深法を聞いて歓喜信楽して疑惑を生ぜず
   4)ないし一念彼の仏を念じ、至誠心をもって、その国に生ぜんと願ず
[果報]臨終に阿弥陀仏を「夢に見る」、往生、智徳は中輩に次ぐ


§ 法然の私釈
Q 経文では念仏以外の行(余行=諸行)も往生のための行とされる。
  なぜこの章の表題では、ただ「念仏によって往生する」とのみいうのか?
A 善導によれば、教えを受ける側の衆生の能力、性向(根性)には上・中・下と様々あるが、仏はすべてに「専念無量寿仏名」を勧めておられる。
この解釈によって、三種の衆生とも「念仏によって往生する」というのである。

Q 答えになっていない。どうして余行を捨てて「念仏」とのみ言うのか?
A 往生のための行として念仏のみでなく諸行をも説いた目的は以下の三つの解釈がある。

一、衆生に諸行を廃して念仏を拠り所とさせるため(廃立)
「観経において釈迦は念仏以外の諸行(定散両門)の利益をも説かれているが、
 阿弥陀仏の本願を念頭に置けば、
 釈迦の意図は、衆生に専ら念仏させることにある」
という善導の解釈を、この三輩の文にも適用するべきである。

また「一向」とは他を兼ねない(念仏のみ行って他の行を行わない)
という意味であるから、経文は諸行を廃して念仏のみを用いていることになる。

二、諸行を念仏の助けとするため(助正)
念仏を助ける修行に同類の善根、異類の善根の二種がある。
・同類の善根・・五種正行のうちの助業四つ
・異類の善根・・出家、発菩提心、起立塔像、懸幡、燃灯、散華、焼香等

三、念仏にも諸行にも上中下三段階を立てるため(傍正)
三輩すべてに「一向専念無量寿仏」を説いて、念仏に三段階あることを明かし、
同じく三輩すべてに発菩提心などの諸行を説いて、諸行に三段階あることを明かす。(『往生要集』「念仏証拠門」および「諸行往生門」参照)

●三つの解釈とも一向念仏のために諸行を説くという立場に異なりはない。
いずれを採用すべきか知り難いが、善導によるなら第一がよい。

Q この三輩を展開したのが『観無量寿経』の「九品」であろう。
  ならば九品全てに念仏が説かれるべきなのに、
  なぜ下品のみに念仏が説かれているのか?
A 二つの解釈ができる。

一、三輩を展開したのが九品であるから、説かれていなくとも、道理からして九品すべてに念仏は含まれている。
(『往生要集』「尋常念相」参照)

二、『観経』は最初定散の諸行を説いて、後でそれを廃して念仏を勧める。これについては、後(第十二章)に詳しく述べるであろう。

●ゆえに「九品すべてが念仏によって往生できる」と言える。

~~~~~『選択集』四章の概要~~~~~

はい。

> 十方衆生は逆謗の一機である真実を知らせるため
  ↑
このために「三輩」が説かれたわけじゃありまへんね(苦笑)。


三輩の話をするなら、『選択集』ぐらい読めよ(苦笑)
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【ツッコミ依頼】嘘情報をグローバルに発信してんじゃね~よ!!

飲み会が忙しくて、ツッコミ依頼が入ってるのを忘れてました。汗

【依頼者】

こんばんは。いつもお世話になります。
S会講師のblogですが、法然聖人までは、自力の念仏と他力の念仏を区別されてなかったそうです…(;´Д`)

浄土真宗親鸞会 宇治金時にあこがれて 2009-11-09 電話座談会で報恩講
http://d.hatena.ne.jp/masatomo18/mobile?date=20091109#1257744492


>・念仏に3通り有り、それを自力の念仏と他力の念仏に分けられる、
法然上人までは分けられて居なかったのを、親鸞聖人が分けられたとお聴きしました。
>同時にこの聞法をグローバルで聞けるってすごいなと思いました。

お互い突撃して、シメてやりませんか??(´∀`)


【苦笑】

あ~ん?(苦笑)

●念仏の数を多く申す者をば自力を励むといふ事、これ又ものも覚えあさましきひが事なり。
ただ一念二念を唱ふとも、自力の心ならん人は、自力の念仏とすべし。
千遍万遍を唱え、百日千日夜昼励み努むとも、ひとへに願力を頼み他力を仰ぎたらん人の念仏は、声々念々、しかしながら他力の念仏にてあるべし。
されば三心をおこしたる人の念仏は、日々夜々、時々刻々に、唱ふれども、しかしながら願力を仰ぎ、他力を頼みたる心にて唱え居たれば、かけてもふれても、自力の念仏とはいふべからず。
『勅伝』巻二十一、「七箇條の起請文」(昭法p.811)

★自力の心ならん人の念仏=自力の念仏
★ひとへに願力を頼み他力を仰ぎたらん人の念仏=三心をおこしたる人の念仏=他力の念仏


法然上人は、「自力の念仏」と「他力の念仏」を、
しっかり区別されてるんだよ!!


法然上人の言葉を勉強したこともないくせに、
偉そうに法然上人について語るから、大恥ぶっこくんだよ。


嘘情報をグローバルに発信してんじゃね~よ!!

【ツッコミ依頼】「 M野氏ではないyo」をシメテください。

【依頼者】

いつもお世話になっております。
既にご存じかもしれませんが、以下のブログのコメント覧で、
「 M野氏ではないyo」を名乗る人物が、不当なアラシ行為を行っております。

スルーしてもいいのですが、鬱陶しいので一発ガツンとシメテください。

親鸞会教義の誤り 2009-10-09 お知らせ
http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-24.html



【苦笑】

おお!
卑怯・卑劣・インチキ・ヘタレ・捏造・論点スライド野郎が、そちらに現れましたか!

既にいろんな方のコメントでフルぼっこになってますので、
私がさらに付け加える必要はありませんが、
オシオキの意味で、過去に掲載されたいくつかの記事を再掲載しておきますね。
 ↓
(再掲載)Q&A(10)ネット対策員にどう対処するか?
(再・再掲載)ちび●さんのおかげでわかりました!!五願開示もパクってた?!
(再掲載)【お知らせ】「辛口!真宗時評」管理人様とのやりとり終了のお知らせ
(再掲載)Q&A(9)これが「伝統と己証」と言えるのでしょうか?

自身のエラーで親●会の誤りが浮き彫りになったやり取りを晒されるのが、
件の輩には、一番大きなダメージになりますからね(笑)。

まあ、腐海の蟲みたいなものですから、また忘れたころに現れるでしょうけど(苦笑)。


というか、
五願開示ネタのパクリを晒されて、


ikiruimiwositte  2009/2/5(木) 午前 0:55

大沼氏は学者ですから、そういう説があるということで勉強になりました。
祖師聖人は御文と願を対比されてませんからそういう解釈もあるのでしょうね。

 ↑
こ~んな苦しいことを言ってたのは、
どこの誰だったんでしょうかね~?(苦笑)




参考

卑怯・卑劣・インチキ・ヘタレ・捏造・論点スライド野郎が触れて欲しくない話題?!
 ↓
辛口!真宗時評での断章事件を追う(1) 管理者の正体を隠した布教と勧誘
辛口!真宗時評での断章事件を追う(2) 論点はどこか?
辛口!真宗時評での断章事件を追う(3) 不誠実な対応その1

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(ラスト)浄土真宗は、宿善ポイントをためないと救われない教えではありませ~ん!!

今回のシリーズのラストで~す。

【依頼者】

苦笑さん

こんにちは。続きです。


午後の休憩後からです。

至って堅きはという、固い石に、水で穴があく、そんな事は考えられない、だけれども、穴があいている石があるではないか。


そして蓮如上人の「如何に不信なりとも」の部分の話になりました。


不信の人とは、まだ方便が方便とわからない人、真仮を知らない人、これをいかに不信なりとも、と言われているんです。「聞其名号」の「聞」ときけない人も、ということです。

だから、蓮如上人も方便より真実、自力より他力にはいると言われているんです。

如何にまだ、強情我慢な石のような、すべてを撥ね付ける心を持っていても、どうすればいいって言われているのか?

「聴聞を心に入れて申さば」と言われています。

聴聞を心に入れてききなさい。

どうして聞けるのか?「御慈悲にて候間信をうべきなり」と言われています。

御慈悲とは、阿弥陀仏の慈悲、御慈悲によって信を獲られるんですよ。

阿弥陀仏のお慈悲とは何か?

この世界(縦の線の向こう)に出させてみせる。あの願いは18願ですよ。仏願とも言われていますけれど。

阿弥陀仏は48願をたてられているんですけれど、その中からただ一つ選びとられた目的の願、それが18願ですね。まず目的を明らかにせられたのが18願です。

その次に19の願を建てられ、20の願を建てられた。


この3つの願を衆生摂生の願と言われるんですね。

それで親鸞聖人は常に3願を教えておられるんですね。

その3つの願でも、まず18願にすべての人を絶対の幸福に助けると、約束されているんですね。


18願は「真」の世界、ここへ出してみせると約束されているのが18願なんですね。

死んだ方がましやと思うても生きなければならないのは、この世界に出る為なんです。

何の為に生まれてきたのか、何の為に生きているのか、まず目的をハッキリさせないといけない。

どんな手段があっつも、まず目的がわからなければならない。


阿弥陀仏が、オレが本願建てた目的は、すべての人を、十方諸仏が見捨てた極悪人を、絶対の幸福に助けるのが18願だ。

じゃあ、次にどうしたら絶対の幸福になれますか?と聞かれて勝手にお前行け、というんなら無責任ですよね。


諸仏の中の本師である阿弥陀仏がすべての人を絶対の幸福に救うといわれて、後はお前ら勝手にやれ。そんな目的出されて勝手に進めじゃぁ、どうしようもないでしょう。

そのお慈悲を蓮如上人あそこで、「如何に不信なりとも御慈悲にて候間」といわれているんです。あの「御慈悲」の中に、19願、20願となって現れとるんです。

阿弥陀仏のお慈悲わかってますか?阿弥陀仏のお慈悲があるから信が獲られるんです。


勝手にその道を行けといわれて、自力しか金輪際知らないものが他力世界に出ろといわれて、どうして出れますか?信を獲られるのは、阿弥陀仏のお慈悲によるんです。

そのお慈悲は何ですか?19願、20願となっているんです。


それで親鸞聖人は19願、20願を通って救われたと言われているんじゃないですか。教行信証には、3願転入以外説かれていないんです。


何で19願で善をやれと言われるのか?極悪人だとおっしゃっている阿弥陀仏が何で善をやれと仰るのか。

阿弥陀仏が本心で誓われている18願で、極悪人を救うと言われているから、あー悪いことやったら余計救ってくださるんだ、良いことせんでいいんや。2000畳いくと、良いことせーと余計に言うから行きたくないんや、という人もいる。そんな人どう思いますか?


私程悪いものいないんだ、といいながら腹底では全然思っていない。私は、そういう人には、極悪人と知らせる方法、他にあると思いますか?善を勧める他に、他に道ありますか?極悪人と知らせるのに、ある?ある?皆さん。そこがわかっていない。善を勧める他に、極悪人と知らせる方法ないんですよ。


仏願の生起を知らせる仕方は、善をやらせるしかないんです。一本道です。


阿弥陀仏が極悪人と十方衆生に知らせる方法、他にあるか、というんです。阿弥陀仏が19願建てられたのは本願の生起を知らせる為ですよ。20願を建てられたのも、本願の生起を知らせる為ですよ。目的は他にないんです。


19願、これは釈迦一代の教えです。20願、これは十方諸仏のお言葉、仏語ですよ。これは仏願の生起を知らせる為です。

それで、阿弥陀仏は勧めておられているんですよ。他に方法があれば、他(の願)を建てられているんですよ。

諸の善を真剣にやりなさい、これしか極悪人と知らせる方法ないんです。19願、20願は光に向かえという願でしょう。


教えに従わないというのは、19願20願に従わないからでしょう。

教えに従えば、外の雑縁さらになし、と親鸞聖人教えておられる。

「聞其名号」これは、1番話さなければならないことなんです。



最後はこんな風に終わりました。これで会長の誰でも参加出来た教学講義の内容は以上です。


よろしくお願いします。




【苦笑】

はいはい(苦笑)。

●一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、
心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、
御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。
ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。
『蓮如上人御一代記聞書』(193)

(訳)
「極めて固いものは石であり、極めて柔らかいものは水である。
しかしその柔らかい水が石に穴をあけることができるのである。
もしも心の底を徹していったならば、仏の覚りすら、
どうして成就することができないことがあろうか(いや絶対に成就する)」
という古い言葉すらある。

どれほど信心のないものであっても、聴聞を心に入れていくならば、
阿弥陀仏の慈悲が我が身に伝えられていくのであるから、
必ず信心を得ることができるのである。
ただひたすらに仏法は聴聞することに尽きるのである。
 
繰り返しになるけど、この言葉は、

★他力の救いは一念
★阿弥陀仏の慈悲が時間をかけて浸透してくる人もいる

この二つが全然矛盾してないことを示したものやで。



宿善ポイントをためないと救われない教えなら、

★他力の救いは一念
  ↑
こっちの方の教えとは、どのように整合性を取ればいいんですかいな(苦笑)。



~~~高●顕徹著『会●』第二集「信の一念(一)」より~~~

 先ず時尅の一念については『教行信証』信巻下の巻頭に
「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり。
 一念とは信楽開発の時尅の極促を顕わし、広大難思の慶心を彰すなり」即ち、真実の信仰には必ず一念がある。
 一念とは疑晴れて大満足の境地に開発したひとおもいをいい、盲者の開眼の一刹那地獄一定が極楽一定と転じた瞬間、煩悩具足が至徳具足と転じた一念、明来闇去闇去明来の一刹那、いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ亘った一念言説や思惟の及ぶところでない驚天動地、六種震動の一刹那をいう。
 しかし思慮分別を越えるといっても疑蓋無雑の信楽の開発する初起の信であるから無念無想なら開発とはいわれない。
 その自覚の初刹那を一念と説かれる。
 「本願一乗は頓極、頓速、円融、円満の教えなれば、絶対不二の教、一実真如の道なりとしるべし。
 専がなかの専なり、頓がなかの頓なり、真の中の真なり、円のなかの円なり」(『愚禿鈔』)頓ははやいこと、円は完全ということである。
 本願を信受した。
 とたんに完全に救われるということである。
 抜苦与楽、破闇満願は一念の信楽でたりるのだ。
 故にまた聖人は「極速円融の真詮」とも仰言って長い間かかって少しづつ諦得する信仰なら極速とはいわれないが聞即信の一念のはやわざだから極速といい、その一念で微盡の不足もなく大満足させられるから円融の真詮という。
 曇鸞大師は『論註』にこれを
「譬えば千歳の闇室に光若し暫らく至れば即ち明朗なるが如し。
 闇豈室になること千歳にして去らずと言うことを得ん耶」と教えている。
~~~高●顕徹著『会●』第二集「信の一念(一)」より~~~


~~~チ●ーリップ企画 【第12回】信楽は一念で獲得 より~~~
先ず、「時尅の一念」に就いてであるが、聖人はこう仰っている。

「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり、一念とは信楽開発の時尅之極促を顕はし、広大難思の慶心を彰すなり」 (教行信証)

ここで親鸞聖人の仰せになっていることを、易しく言うと次のようなことだ。

「阿弥陀仏の本願の『信楽』を、釈迦は成就文に『信心歓喜せんこと乃至一念せん』と説かれているのは、本師本仏と仰ぐ弥陀の本願の最も尊く優れているのは、一念の救いである」と言われているのである。

「一念の救い」とは、先ず、弥陀の救いは極めて速いということ。「名号」を聞即信と頂き破闇満願し、広大難思の慶心の身に救われるのは、分秒にかからぬ速さである。
だから聖人は「極速円融の真詮」とも弥陀の救いを言い、聞即信の一念だから「極速」、一念で大満足させられるから「円融の真詮」と仰っている。

なぜ、弥陀の救いは、こんなに速いのか。覚如上人は『口伝抄』に、その訳をこう記される。

「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」

平易に言うと、常に阿弥陀仏の救いの相手は、直前に死が迫っている無常迅速の人(十方衆生)だからである。もし三刹那かかる弥陀の救いだとすれば、一刹那後に死ぬ人を救うことはできないだろう。
だから阿弥陀仏の本願の最も優れて尊く大切なのは、「一念の救い」であり、「一念の救い」こそが、弥陀の本願の肝要であり至極の教えであると、釈迦や親鸞聖人は言われているのだと、覚如上人は仰っているのである。

中国の曇鸞大師という人は『浄土論註』に、
「譬えば、千歳の闇室に光もし暫く至れば、すなわち明朗なるが如し。闇あに室に在ること千歳にして去らず、と言うことを得んや」
と、例えで明来闇去 闇去明来、明かりが来たのが先か、闇が晴れたのが先か、弥陀の一念の救いの速さを教えていられる。
~~~チ●ーリップ企画 【第12回】信楽は一念で獲得 より~~~
 ↑ ↑ ↑
せっかく、昔は正しいこと【も】説いていたのに、
「宿善ポイントをためる」という「新教義」の導入で、
それも全く台無しになってしちゃいましたな(苦笑)。



浄土真宗は、宿善ポイントをためないと救われない教えではありませ~ん!!


宿善ポイントをためれない私達のために、阿弥陀仏が本願をお立てになられ、
「南無阿弥陀仏」のお念仏を与えてくださっているんやから、
 ↓

●善根なければ、此の念仏を修して、無上の功徳を得んとす。
余の善根多くば、たとひ念仏せずとも、頼む方も有るべし。
しかれば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、
本願をたのみ、念仏せよと、勧め給ヘリ。
経に、一たび名号を称ふるに、大利を得とす。
又すなわち、無上の功徳を得と、とけり。
いかにいわんや、念々相続せんをや。
しかれば善根なければとて、念仏往生を疑うべからず。
法然上人『念仏往生義』

※現代語訳は、Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?参照


その「本願の生起本末」を「聞」しなきゃダメだよん(苦笑)。
 ↓

●経に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは本願力廻向の信心なり
『教行信証』信巻

●「南无阿弥陀仏と申す六字の体はいかなる意ぞ」というに、「阿弥陀如来を一向にたのめば、仏その衆生をよく知ろしめして、救いたまえる御すがたを、この南无阿弥陀仏の六字に現したまうまり」と思うべきなり。
しかれば「この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をば助かるべきぞ」なれば、何の煩いもなく、もろもろの雑行、雑善をなげ棄てて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、二心なく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明を放ちて、その光の中に摂め入れ置きたまうなり。
これを即ち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとは申すなり、また不捨の誓約ともこれを名くるなり。
『御文章』3帖4通



最後にもう一度・・

浄土真宗は、宿善ポイントをためないと救われない教えではありませ~ん!!


以上

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(10)どの「阿弥陀仏」がこんな活動を強要するんや??

【依頼者】

ここで、御文章2帖目8通が提示され、説明がありました。


苦しんでおる人みて、そのまま見過ごせないのが仏という存在なんです。可哀想やな何とかしてみたいけど何とかならんなぁと見過ごせないのが仏なんです。その仏様、大宇宙にたくさんおられるんです。それがみんな一度助けようとされて、あんまりにも私達の悪が強くって、それで諸仏は泣き泣き見捨てざるを得なかった。これお釈迦様が至るところに説いておられるんです。

それを蓮如上人が「諸仏に捨て果てられたる~」と言われているんです。

全力出されたけれど、手におえなかった。私達の自力で何とかなるなら、諸仏の力で何とかなる、見捨てられませんよ。

これが仏願の生起を疑っておる心なんです。

だけど私達の心は至りて堅きは石で、どれだけ聞いても聞いても石に水かけとるようなもの、こんな石に穴があくかと思うんです。


本人が自分の事わからないんだから、三世の諸仏に見捨てられたって蚊に刺された程にも感じない。これが仏願の生起を疑っておる心というんです。


ここまでが、午後の休憩までの会長の話です。


よろしくお願いします。




【苦笑】

●この阿弥陀仏と申すは、いかやうなるほとけぞ、またいかやうなる機の衆生をすくひたまふぞといふに、三世の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくはんといふ大願をおこしたまひて、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、それ衆生の罪においては、いかなる十悪・五逆、謗法・闡提の輩なりといふとも、すくはんと誓ひましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまひて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまへるを、すなはち阿弥陀仏とは申すなり。
『御文章』3-1

つまり、阿弥陀仏はこういう活動を強要しませ~ん(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.
 ↑ ↑ ↑
こ~んな活動を強要する「阿弥陀仏」は、
名称は同じなんだけど、
親鸞聖人や蓮如上人が帰依した「阿弥陀仏」とは、
全く別の「阿弥陀仏」なのかもね(苦笑)。



では、また明日!!

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(9)「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」ですわ~。

【依頼者】

うまれた時から真実の人、一人もいないんです。みんな方便から真実に入るんです。その自力から他力に入ったのを、其の名号を聞いたとき、と言われているんです。

釈尊が本願成就文で教えられているのが、こう教えられているから、親鸞聖人は「聞というは衆生仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし」と言われているんです。


どこまで聞けば助かるのか?きけ、きけ、と仰るが、どこまできけば聞いた事になるんですか?

どこまでいったら聞いたという事になるんですか?その決勝点はあるんですか?

そのために親鸞聖人は、これを「聞」というと決勝点をハッキリと仰っているんです。疑いの心あることなし、と。

だから、どこで終わるんやと、ハッキリここで終わると、親鸞聖人言われている。疑いの心がなくなったときと。


何に対するどんな疑いですか?

何に対するどんな疑いの心か、といったら、仏願の生起本末と言われている。仏願の生起本末をきいて、これを疑う心がなくなったら。

仏願の生起本末とは何か、わかりやすい言葉でいうと、すべての人は極悪人である、だから必ず助けるというお約束です。
阿弥陀仏の本願、約束とはどんなことか、それについて仏願の生起本末とは何ですか?

「生起」とは誰のためにどんなものの為に本願を建てられたのかという事です。

善人なら仏願はいらなかった。絶対に助からない極悪人だった、だから本願を建てられたんです。これが本願の「生起」です。

すべての人は極悪人で、もし私が助けなかったら永久に苦しまなければならない者達だった。

もし歯が悪い人67億の全人類に1人もいなかったら歯医者はいないですよ。1人として歯が悪い人いないなら、歯医者さんはいならいでしょ。

すべての人は極悪人、因果の道理で必ず地獄いき。これが阿弥陀仏の本願の「生起」「本(もと)」です。

阿弥陀仏の本願はなぜ起こされたのか?「生起」があるんです。「本」があるんです。




【苦笑】

あ~ん?(苦笑)

●仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
 ゆゑに光明師(善導)のいはく(般舟讃)、「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」と。
『教行信証』信巻

「衆生の機」が「不同」であるために、
「仏教多門にして八万四」なんですけどね(苦笑)。



すべての人は極悪人である、だから必ず助けるというお約束
 ↑
これが「仏願の生起本末」ですか・・(苦笑)。



●それ、当流の安心のすがたは如何ぞなれば、先ず「我が身は十悪五逆五障三従のいたずらものなり」と深く思いつめて、その上に思ふべきやうは、「かかる浅ましき機を、本と助けたまへる弥陀如来の不思議の本願力なり」と深く信じ奉りてすこしも疑心なければ、必ず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなわち他力真実の信心を得たすがたと云うべきなり。
『御文章』2帖15通

と蓮如上人も仰っておられるわけやから、
「すべての人は」じゃなくて、
「我が身は」にした方がええと思うで。



つづく

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(8)「仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり」ですよん。

ブレイクも終わって、昨日の続き!

【依頼者】

苦笑さん

こんばんは。以下は午後からの内容です。


少し前置きがあり、会長は以下のように言いました。


午前中申した通り、阿弥陀仏に救われるにはどうすればいいか、という事について、こうすればいいとお釈迦様が言われたのが「聞其名号」というお言葉です。

聞く一つで救うと教えられているので、蓮如上人はただ仏法は聴聞に極まると言われています。

「聴」という字、これはきくという字、「聞」という字これもきくという字ですけれど全く違うんですね。

この「聞」は一念で阿弥陀仏の呼び声をきいたときに、救われるんですよ、という「聞」です。

それで「聴」、阿弥陀仏に救われるまで、これを「仮(け)」というんですね。救われるまでは何をしていても「自力」というんですね。

そして、ここまで(救われるまで)は、すべて方便と言われるんですね。そして、一念突破した時に、「真(しん)」「他力」「真実」というんですね。


ここまでが方便です。ここで他力になる。ここまでは、方便なんです。

ここで真実になるんです。

自力と他力、方便と真実の水際、これを真仮の水際といわれるんです。


会長はこのような話をしました。

そして、親鸞聖人の「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」を提示しました。

真仮を知らない、わからない、何が真やら何が仮やらわからない、この「聞」で、この一念で「仮」はどういうものであるか、「真」はどういうものであるか、ここでわかるんです。

真を知らない人は自分は仮だということもわからない、夢見とるときに、自分が夢みとるとわからない。あーっ、夢やったな、とわかるのは夢覚めたときです。「真」がわかったときです。

だから、「仮」におる時は真がわからないんですから、他力はわからないんです、自力もわからないんです。

いや、私は自力は自力だとわかりますよ、と思うでしょ?

あなたが思っている事は自力じゃないんです。この一念で自力がわかるんです。

他力をわからんとって、自力わかるん?だから、わからんのです。自力も他力もわからない。

それをわかったような気になっとるでしょ、私自力くらいはわかっとるよ、と。他力わかって初めてわかるんです。


真実わかってないものが、初めてわかるんです。方便が方便と知らされるのは真実が知らされたとき。

方便なんかいらんとか、あれは方便だとか、何が真実で何が方便か、真仮がわからないからわからない。両方わからないんです。


だから、恩徳讃の気持ちもわからないんだよ、と親鸞聖人が仰っているんです。

阿弥陀仏に救われるのに、方便なんていらない、方便なしにどうやって真実に入るんです。

「従仮入真」と教えられとるんです。




【苦笑】

ふ~ん。

●今の真宗においては、専ら自力をすてて他力に帰するをもって宗の極致とする。
覚如上人『改邪鈔』

というように教えられているものが、

どうして、

>「従仮入真」と教えられとるんです。

になるのかわかりませんけど、

まあ、それはともかく、

●仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
『教行信証』信巻

と親鸞聖人が仰っておられますから、

「『従仮入真』と教えられとるん」人は、

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.
 ↑ ↑ ↑
こういう活動をしてる人が、
「聖道の諸機」「浄土の定散の機」なのかどうか、

たまには、ちょっと冷静に考えた方がええと思うで(苦笑)。



つづく

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(7)「雨垂れの説法」が教えていること

【依頼者】

そこで蓮如上人がそういう事を仰有っているお言葉が「至りて堅きは石なり、至りて柔らかなるは水なり~」です。


と会長は話をしました。


そして、音羽の明栓の雨垂れの説法の話が出てきました。


この話で、だいたい午前中は終わりました。


続きは、また明日お送りします。よろしくお願いします。


【苦笑追記】

「雨垂れの説法」が以下の親●会関係サイトに書かれてましたので、
引用しておきます。
 ↓
浄土真宗親●会 射水市周辺地区の紹介 雨垂れの説法

>>>
2009年06月28日 | Weblog
今日は、高森顕徹先生から「本願成就文」についての講義を聞かせて頂きました。

今日のブログは、皆さんの予想通り、今回の講義でとりあげられました、「雨垂れの説法」です(^^)

昔、明詮という僧が真剣に仏道修行をやっていたが、三年たっても一向に魂の解決のメドがつかなかったので、
「オレは駄目な人間なのかも知れない。無宿善力及ばずといわれる。今はこれまで」
と、決心して善知識に永遠のおいとまを願って出た。
師僧は残念に思ったが、余りにも明詮の決意の程が堅いので慰留をあきらめ、それを許した。
しかしさすが永年苦楽を共に修行した師や法友と別れるのはつらかった。明詮は泣きながら寺を出た。
ところがその時、俄かに大雨が降って来たので、止むなく山門の下に腰を下し、雨の晴れるのを待っていた。その時、何気なく山門の屋根から落ちる雨脚を見ていた明詮は、雨だれの下の石に大きな穴があいているのに気がついた。
 こんな堅い石に、どうして、こんな穴があいたのだろう。まぎれもない。それは雨滴の仕業ではないか。このやわらかい水滴が、この堅い石に穴をうがったのか。何という驚くべき事実であろう。
そうだ、自分は二年や三年の修行努力でへこたれて断念したが、この水にも恥ずべき横着者であった。仏法の重さを知らなかった。後生の一大事を軽くみていたのだ。たとえ、水のような力のない自分でも、根気よく求めてゆけば必ず魂の解決が出来るに違いない。
と奮然として、その場を立った明詮は、水から受けた大説法を師匠に話し、深く前非をわびて努力精進して、後に音羽の明詮といわれる大徳になったのである。

 私達も、雨垂れに負けず、聞法を重ね、信を獲るところまで進ませて頂きたいですね(^^)
>>>


【苦笑】

結局この説法は、

★他力の救いは一念
★阿弥陀仏の慈悲が時間をかけて浸透してくる人もいる

この二つが全然矛盾してないことを示した「説法」なんですわ。



※以下の蓮如上人の言葉参照。

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、
心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、
御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。
ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。
『蓮如上人御一代記聞書』(193)

(訳)
「極めて固いものは石であり、極めて柔らかいものは水である。
しかしその柔らかい水が石に穴をあけることができるのである。
もしも心の底を徹していったならば、仏の覚りすら、
どうして成就することができないことがあろうか(いや絶対に成就する)」
という古い言葉すらある。

どれほど信心のないものであっても、聴聞を心に入れていくならば、
阿弥陀仏の慈悲が我が身に伝えられていくのであるから、
必ず信心を得ることができるのである。
ただひたすらに仏法は聴聞することに尽きるのである。


せやから、「聴聞」で「信心」が得られるように、
自ら積極的に環境を整えていくことが、
とっても大事で、


「そもそも善知識の能といふは、
 一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、
 ひとをすすむべきばかりなり。」
by.蓮如上人(『御文章』2帖11「五重義章」)


間違っても、これに反すること教えている、
「自称善知識」から「聴聞」したらダメよん。


やさしい浄土真宗の教え §8 なかなか信心獲得できない人のために・・(特に注3~6) を最低3回は読もう!


ではまた明日!!

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(6)つまり「自他力廃立」に「この活動」はいらね~ということね(苦笑)。

【依頼者】

会長の話は続きます。

「聞」で私達救われるんです。聞いた一念で阿弥陀仏に救われるんです。


きいてさえしまえば、そのうちに(救われる)、そんなものではないんです。


「聞」は一念なんです。


親鸞聖人の教行信証の「一念というは時刻の~」が提示され、説明がありました。



其の名号を聞くというのは、一念です。

そういう一念こそが決勝点であり、すべての人が生まれてきた目的がここであり、すべての人が生きているのもここに向かってなんです。


政治、経済、医学も存在するのも、こけまで生かすため、この二千畳で話するのもここまで押し出すためであり、全人類のすべての営みは、ここを目指しておるんです。ここが「聞」です。(注:こことは、会長がよく書いている、縦と横の線の縦の線の部分を指します)


では、ここまで(縦の線)の道程があります。この道を「聴」と言われた。この道(横の線)を通ってあの世界(縦の線の向こう)にいくんですから、すぐのんで(南無阿弥陀仏の名号を飲む、一体になるという意味での発言)あそこには行けないんです。


初めから「聞」という人はいないんです。

「聞」ときかせるには、必ず「聴」がないといけないんです。これは阿弥陀仏のお計らいです。これを、仮より真というんです。


ここまでが自力です。ここで自力が廃って他力に入るんです。仮よりしか真に入れないんです。


生まれた時から、「真」という人はいないんです。


お釈迦様も七高僧方も、親鸞聖人も、みんな仮から真に入ったんです。これを自他力廃立というんです、と会長は話をしました。



自他力廃立の説明が少しありました。



ここに(縦の線の向こう)入ったら、ず~っと他力です。で、すぐさま「聞」に入れないんです。それを阿弥陀仏はわかっておられるんです。


如何に名号を「聞」ときかせるか、で阿弥陀仏のお力で「聴」をして「聞」と助けて下されるんです。これは阿弥陀仏のお仕事なんです。


「聴」も「聞」も同じきくだけれど、全然違うんです。仏法をきこうという気持ちが出てくるのは、阿弥陀仏のお力なんです。それで「聞」から「聴」が出てくるんです。




【苦笑注】

以下の親●会講師の方のブログに件の「図」がありましたので、引用しておきます。
 ↓ ↓ ↓
【朝のエクササイズ】仏教講師の千一夜(朝?)物語 [その394] 下の心に仏教を聞かせる より

昨日は「聴聞」の「聴」と「聞」は違うということだけを、最後に述べましたが、どのように違うのかと言いますと、

・「聴」は体の耳で、人(善知識…仏教を正しく教える先生)の言葉をキク
・「聞」は心の耳で、仏様の言葉(阿弥陀仏の呼び声)を「ハイ」とキク

ことなのです。

言葉を換えれば、耳できいて上の心が納得するのが「聴」。腹底に仏教をウンときかせたのが「聞」であります。

「聴」は重ねて重ねて何回もきかせて頂くことですが、「聞」は腹底できいた一念(アッと言う間もない時間の極まり)の早わざです。これを「聞即信の一念」(「信」とは“まことの心”を頂くこと)と言われ、このときに人生の目的が完成する(「平生業成」の「業成」)、達成するということなのです。


人 │聞     聴
生 │即
の法│信    ←私
目 ├───────
的鏡│の
達 │一
成 │念

(携帯で見ている人のために、昨日より横の線が短くてアンバランスですがお許し下さい)


ところが、下の心にウンと聞かせるのは、大変なことです。
そもそも、下の心があること自体、私たちにはなかなか分かりません。
ちょうど、何枚も布団をかぶってしまっているようなものだとたとえられます。
これは、仏教を真面目に聴かないと、見えてこない心なのです。

重ねて聴聞をしていきますと、無常(主には死の問題)と罪悪(自分の心にある欲・怒り・愚痴など)が知らされてきます。
「人間の実相」のたとえ話で述べたようなことが、“なるほどなるほど、言われてみればその通りだなぁ”と知らされてくるということです。

ところが、そのように知らされてくると、同時に「ああは言われるけど、頭では一応納得できるけど、ホントかなぁ」と疑う心や、「そんなはずはない」と反発する心。無常を無常と思わず、罪悪を罪悪と思わない心が見えてきます。
これが下の心と言われるものです。

その心が、「仏説まことでございました」と聞くのは、本当に大変なことです。




【苦笑】

つまり「自他力廃立」に「この活動」はいらね~ということね(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓
「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


「聞即信の一念」めざして、
これを読んで「南無阿弥陀仏」の意味を知った上で、
聴聞&念仏してね♪
 ↓ ↓ ↓
やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ


※聴聞、信前の念仏については、それぞれ以下の記事を参照。

・聴聞について・・
 §7 聴聞(何を「聞く」のか?)
 §8 なかなか信心獲得できない人のために・・

・信前の念仏について・・
 §15 所謂「信前の念仏」について


あと、「こういう話」は「聴聞」になりませんから~。
 ↓ ↓

【悲願の法城(親鸞会の集金ビデオ)再掲】より

~~~~以下引用~~~~
それねぇ、人にこう、あの、お金でもモノでもあげると、
人のもんになる風に思うでしょ?
これ全然違うんです。
あげた者のモノになるんですよ。
だから絶対損にならないんです。
ドンッ、ドン、あげたらいいんですよ。
ゼッッタイに、あの、損しないから。
だから喜んで捨てなさい、喜んであげなさいちゅうことで
喜捨と言われるんですよ。
喜ばにゃならんのですよ?
人に物をあげる。特に仏法に布施をする。
これはもう、イッチバンの善ですから、
だからその、もう喜ばにゃならんことなんですよ。

あの人は、あんだけしか出されんのに、私あの人よりも
何で余計出さにゃならんやろ、って
トンデモない話ですよ!そりゃ
喜んで・・・・出さなければならない。
みんな自分の物になるんですよ?
絶対、人のモンにならないんですよ。
で、それが自因自果ということですから、その、やはり
自因自果という因果の道理がワカランところから
食堂なんか行ったらね、千円でも二千円でも、安いね
ここの店は、って出しても、仏法のためになら
千円出すときに、あの人、五百しか出してらんのに、
私、ナンデ千円出さんな・・・
まるで損するように思うでしょ?
これ、ゼンッゼン因果の道理がワカッテナイ
っちゅうことですよ、仏法ワカッテナイっていうことですよ。
その人の信仰はその程度や、っちゅうことですよ。
絶・・・対、損にならないですよ。
その喜捨した、何ジュウ倍戻ってくるからっ。
私なんか、何百倍戻ってくるとりますよ。
そんなちょっとやそっとじゃないですよ。だから、
ヨロコンデ・・・あげればいいんですよ。
ヨロコンデあげなきゃならんことですよ。
ヨロコンデ捨てる・・・仏法のために
これが中々ワカランのやね。因果の道理が、
あの、ワカラナイ、ワカッテないから。
絶・・・対に損しないんですよ。布施をして。

もちろん、その布施をする相手ぇ間違ったらダメですよ。
これ、いつも、皆さん、あの、お聞きのとおり。
ちゃんとお釈迦様は、どーゆう相手に布施を、せよ
と教えておられるから。
こりゃいつも聞いておられるとおりですから。

だから・・・そのうえでですよ、布施をして施して
損ということは、絶対ないですよ。

家も田んぼも畑もゼンブ売って、仏法に布施してでも、
絶対に損はないです。
明日からどこで住めば、
そりゃアパートへ入りゃいいんです。
絶対に損はないです。

だから喜んでさせてもらわなければならないこと
なんですから、喜捨と言われるんですが
まるでね、税金かなんかとられるようなこと思っとったらね、
ゼンゼンそりゃ布施と違うんですよ。
これは、あの、喜捨でないんですよ。
税金ちゅうのは国家権力が、ね、無理やりに・・・・
奪い取っていくんですから、もし税金払わんものあったら
こりゃもう、酷い目に会わんにゃならんのやから、
それが嫌ややで、仕方っ無しに出しとんのが税金なんだで。
布施というのは喜捨というのはそんなもんでないんですよ
・・・・・・・・・なっ、国家権力っというもの、そういうものに
恐れて出すんのと違うんだから。わが身のために出すんですから
自分が、けっ、自分がよい結果を得るために
種を蒔くんですから・・・・種蒔くところが無かったらね、
大根もニンジンもできてこないんやからね、
畑へ感謝しなきゃならないですよ?
いくら大根の種持っとったってね
蒔く畑が無かったらね、大根とれねぇんだから・・・・・
私たちは最高の仏法という宝も、タカッ、
仏法というハタケ持っとるんでしょ?
その仏法というハタケに種を蒔くんですよ。
・・・・そしてそのハタケからできてきたものゼンンンブ、
自分のもんになるでしょ
ハタケのもんにならないんですよ
・・・・・・・・・・ここがまるでね、ハタケへ種蒔くと、
その、種も、その種からできてくる大根もニンジンも
みんなハタケのもんになるように思っ、思うからね。
・・・こりゃ、全く間違いで、因果の道理、いわゆる自因自果
・・・これがゼンゼンわかってない、信じられてない、ということですよ。
・・・絶対損はないですから
・・・・ドンドン、ドンドン、仏法のために財施、喜捨すれば
するっ、ほどいいんです。大変に幸せなことなんです。
得するヒトは、ね、幸せになるヒトは、そうするヒトなんです。
これが善因善果自因自果。
その逆が悪因悪果自因自果ですよ。
欲ばっかりして、ね、出すのは、仏法のために・・・
舌出すのもイヤやと。そんんなことしとるから
ダンダン、ダンダンお金も来ないし、物にも恵まれないし、
全部詰まってくるんですよ。
お金にも物にも恵まれたかったならば・・・ドンッドンッ、
喜捨をすることです。布施をすることです。
そうすれば全てに恵まれるから。
それをね、もう、出来るっだけ仏法のために
出さんように、出さんように、ね
それで、なにもかも恵まれないんですよ。・・・・・・・・・・・・・
その考え方を、ね、ヒックリ返さなかったらっ。
・・・・・・・・・それがそのね、仏法の根幹である
因果の道理をどれだけ、あの、わかっているか、
信じているか、ということなんですよ。
だから信仰が進めば、必ず、進めば進むほどそうなるんですよ。


まぁ、この方だけのあれに答えておられませんから。
「御喜捨の心掛けと因果の道理について、聞きたい、今一度聞きたい」
ということで、今こう話しとるんですよ。

「収入に対して計画を立てなかなか喜び喜びさせていただくことが」
これね、計算しとったらもう絶対出せないですよ、仏法に。
・・・・これだけ出したら、あとこうなってこうなって、こりゃ足らんぞ。
これだけ余ると、余っただけで大体こうかと

そんんなの、アカンですよ。

何しろね、そういう計算を捨てるの!
計算を捨てさせんの。
そして、因果の道理のみを信じるわけ。

こんな計算しとるからね、絶対ダメなんだ。
余って出るはずねぇもん。
余ったら全部銀行やっちょる。(聴衆笑い)
銀行はこれで持ってくるならもういわんからね集めたろうかね。
んなもん、どうして仏法出すカネが出てくるんや
計算しとったら。
そんなことないドンドン、御喜捨しなさい。ドンドン、
あの、布施をしなさい。
それはだぁ~れのモノにもならないんです。
アンタのモンになるんです。結果は。

あのぉ~、みなさんが財施をせられたのは
ワタシのもんになるなんかってね、
クダラン心配しなさんな。(聴衆笑い)
私は倍にして出しとるから。
みん~な、出したアンタのモノになります。
私が布施をしたらワタシのモノになるんです。結果は。
アンタらの布施したモノを私が拾ったれっていうたら、
私がね、ヒン、貧乏になるだけです。
出す人が豊かになるんです。
出せば出すっほど豊かになっていくんです、し、
幸福になるんです。
そこ入れりゃ、入れるっほど不幸になるんです。
そういうことです因果の道理ってのは。

だから「収入に対して計画を立てる」

立てなさんなこんなモン(聴衆爆笑)

なにしろ、喜んで出しなさいっ、ねっ。アンタね、
幸せを欲しかったら出しなさいっ
ということです。

私はね、世間のヒト見とっと、ほんとにね、
なんと気の毒というか、ね、ちょっ、大根が出ん大根が出んっちゅうに。おい、蒔いたか種?(聴衆笑い)
ゼンッゼン、大根の種、蒔いた、蒔かんとって、
大根が出ん、大根が出ん、言うとんねん

キチガイかい!ってオマエ

畑行ってね、まだ大根が出ん、まだ大根が出ん、
言うとんねん
何時タネ蒔いたんやオマエ、何も蒔いとらん
蒔かんモンが出るかっちゅうの!
蒔きなさい、必ず出てくるから。人に施しなさい。
人に親切しなさい、必ず恵まれるから。
逆にはならんのだから。アンタのために蒔くんだで。
アンタのため、自身のために出すんだて。
そういうことがね。あの因果の道理ということです。

いくらそういうてもね、ん~、なこと言うたって中々ちょっ、
計画を立てんとおれるかとそん~なこと言う、思っとる
もんバッカリだから、貧乏なもんバッカリなんだわ。
苦しんどるもんバッカリなんだわ。
私の言うとぉ~りにやってごらん。
因果の道理に・・・従ってやっててごらん。
みんな幸福になるんです。
それ、やるかやらんかダケです。
信ずるか信じないかのダケです
信じて実行するかしないかダケです。
私はやっただけっす。そら私のためです。ね
~~~~以上引用~~~~


残念!!

つづく

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(5)仏教では「聞」と「信」は違う意味です。

昨日のつづき

【依頼者】

苦笑さん

こんばんは、昨日の続きです。


蓮如上人御一代記書の「至りて堅きは石なり、至りて柔らかなるは水なり。水よく石を穿つ。

途中省略します。

只仏法は聴聞に極まるものなり。」

のお言葉が根拠に出て来て、会長の話は続きました。



只仏法は聴聞に極まるこれは、親鸞聖人も教えておられますし、遡れば、お釈迦様の其の名号を聞いて、が根拠です。


聞く一つだ、「聞」の一字、聞くという一字でハッキリ教えられているんです。


正信偈でいうんなら親鸞聖人どこに仰っているか。

聞信如来弘誓願、ここに仰っています。

説明がありましたが、会長の特に怪しい発言が出てきました、以下です。

仏教では「聞」も「信」も同じ意味です。




【苦笑】

あ~ん?(苦笑)

仏教では「聞」と「信」は違う意味です。
(もちろん密接な関係はあるけどね)

 ↓ ↓ ↓

●サンスクリット文『無量寿経』願成就文

ye kecit sattvAs tasya 'mitAbhasya tathAgatasya nAmadheyaM
Sr.n.vanti,

SrutvA cAntaSa ekacittotpAdam apy adhyASayena prasAdasahagatam
utpAdayanti,

sarve te 'vaivarttikatAyAM saMtis.t.hante 'nuttarAyAH samyaksaMbodheH.

(訳)およそいかなる衆生であっても、彼のアミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。


●『無量寿経』の願成就文

本願成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。 かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。
(『教行信証』信巻に引用された『無量寿経』の願成就文)


●『無量寿如来会』の願成就文

『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志訳]「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。
(『教行信証』信巻に引用された『無量寿如来会』の願成就文)


これを、親鸞聖人は【「聞」→「信心」】と解説されてます

●経に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは本願力廻向の信心なり
『教行信証』信巻

「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり、また「きく」というは、信心をあらわす御法なり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。
『一念多念証文』


「信受本願(信楽を獲る)」【因】と 「即得往生(不体失往生)」【果】の関係と同じで、
親●会は時間を介在しない因果関係を勝手にイコールにする傾向があるのよね(苦笑)。

ちゃんと【「聞」→「信心」】なってるものは、
勝手に【「聞」=「信心」】にしちゃだ~め(苦笑)。



つづく

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(4)だから聴聞&念仏しろよ!!

【依頼者】

南無阿弥陀仏についての説明が続きました。


大宇宙の数えきれない仏様がいや~すごい南無阿弥陀仏だと誉められる、南無阿弥陀仏であったな、と聞いた時です。そう聞いた時を「其名号」というんです。本当だったなぁと聞いた名号。それを「其名号」というんです。

と会長は言いました。


今度は「聞」という事をよく知らねばならないんです、と話は続きます。


この、其名号を聞けという「聞く」というところから聴聞に極るという教えが出てくるんだというのは、この前お話したんです。



まだまだ続きますが、続きは明日お送りします。


【苦笑】

だから聴聞&念仏しろよ!!

そんでもって、やっぱこういう活動は特にせんでもエエね(苦笑)。
 ↓
「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


あと、日々の「南無阿弥陀仏」のお念仏一つをとってみても、
単に「お礼」といわれるだけで、
「お礼」でもないのに、毎日漫然と称えていたものと、

「南無阿弥陀仏」を口にする、一声一声に、
阿弥陀仏に帰依していこうとする「私」と、
私に常に働きかけてくださっている阿弥陀仏を感じていこうとするお念仏では、
同じ「南無阿弥陀仏」の一声でも、大きな違いがあるんやから、

これを読んで「南無阿弥陀仏」の意味を知った上で、
聴聞&念仏してよね。
 ↓ ↓ ↓
やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ





※聴聞、信前の念仏については、それぞれ以下の記事を参照。

・聴聞について・・
 §7 聴聞(何を「聞く」のか?)
 §8 なかなか信心獲得できない人のために・・

・信前の念仏について・・
 §15 所謂「信前の念仏」について



では、また明日!!

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(3)だから宿善ポイントはいらね~んだろ!!

【依頼者】

そこから、阿弥陀仏の本願の説明になりました。

すべての人は極悪人だけれど、必ず絶対の幸福に助けるというお言葉です。ところが、どうしたら助かるのか?がどこ読んでもわからんのです。

阿弥陀仏がどうしたら助かると仰っているのかがハッキリわからない。その事について、お釈迦様が、こうすれば助かるよ、と仰っているよ、と私達に教えておられるのが、本願成就文なんです。

と会長は言いました。


そこから、お釈迦様が阿弥陀仏がどうすれば助けると言われているのかについて教えられたのが「聞其名号」です、という話になりました。


「其名号」とはいいますのは、南無阿弥陀仏の事です。漢字六字ですから、六字の名号と言われます。

御文章の5帖目13通の根拠が出てきて、そんな尊い素晴らしい宝と思えないだろう。お釈迦様が一生涯教えられた素晴らしいものだとは思えんだろう。

実は、南無阿弥陀仏の素晴らしさ一つを解かれたのがお釈迦様なんです。


あれっ、さっきは阿弥陀仏の本願一つを教えられたと言わなかったかと思うかもしれません。

実はイコールなんです。阿弥陀仏の本願=南無阿弥陀仏なんです。

唯説弥陀本願海と、唯説南無阿弥陀仏と書かれても意味は全く一緒なんです。これ一つ覚えて下さい。




【苦笑】

だから宿善ポイントはいらね~んだろ!!

オイラが解説した通りでOKなわけや!!
 ↓ ↓ ↓
やさしい浄土真宗の教え §17 阿弥陀仏の本願の行
Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?


これを読んで「南無阿弥陀仏」が何かを勉強して、聴聞&念仏してね。
 ↓ ↓ ↓
やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ


そんでもって、こういう活動は特にせんでもエエで(苦笑)。
 ↓
「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


つづく

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(2)それは、『正信偈』からは言えませ~ん(苦笑)。

【依頼者】

ここで阿弥陀仏とお釈迦様の違いの説明がありました。


その中で、会長は、お釈迦様が阿弥陀仏の弟子であるとわかる親鸞聖人のお言葉を提示しました。

正信偈の「如実所以興出世唯説弥陀本願海」です。

そして、お釈迦様が弟子でなければ、阿弥陀仏の本願一つ教え続けられる事は考えられない事ですから。

弟子は先生の心を伝える事が仕事ですから、ハッキリて釈迦は阿弥陀仏の弟子だったとわかります。

と会長は言いました。


【苦笑】

あ~ん?(苦笑)

●「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」といふは、釈尊出世の元意は、ただ弥陀の本願を説きましまさんがために世に出でたまへり。五濁悪世界の衆生、一向に弥陀の本願を信じたてまつれといへるこころなり。
『正信偈大意』

と蓮如上人が解説してくださっているように、
挙げてくれた『正信偈』の言葉は、
釈尊の出世の本懐が「阿弥陀仏の本願を説くこと」であったことはわかるけど、


>お釈迦様が阿弥陀仏の弟子であるとわかる親鸞聖人のお言葉

わかりませ~ん(苦笑)。


つづく

【ツッコミ依頼】教学講議(2009/06/28)にツッコミ!(1)本願成就文は本願文の解説じゃね~よ!!

【依頼者】

苦笑さん

こんばんは。今日の教学講義は、以下の質問についてでした。

前回の教学講義で、本願成就文の「聞其名号」の「聞」から聴聞がでてくると教えて頂きました。これは、「聴」は「聞」からでてくるということは、どうしたら救われるのか教えられた三願転入の教えは「聞」から出てくる、という事で宜しいでしょうか?

という質問からでした。

これ一つに1日話がありました。

会長は以下のように始めました。

質問がわからなければ、答えてもわかるはずがありませんので、まず、この人はどんな事を尋ねていますか?

ここで、会長は弘宣部長に話をふり、少しイジメていました(笑)


聞其名号は、本願成就文というものの中に出ています。本願成就文といったら何?阿弥陀仏の本願のわからない事を解説されたのが、本願成就文のお釈迦様のお言葉です。



【苦笑】

>阿弥陀仏の本願のわからない事を解説されたのが、本願成就文のお釈迦様のお言葉です。

でた~!
親●会でしか通容しない、ヘンテコドグマ~!!(苦笑)

もう何回もレクチャーしてることやから、改めて繰り返さへんけど、
元親鸞会西学友部員君(飮み友達)がツッコミ入れてくれてるから、
これを読んで勉強して、二度と寝ぼけたヘンテコドグマをまき散らさないでね(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓
十八願成就文は十八願の解説?(1)やさしい浄土真宗の教え §2 極楽浄土に生まれるためのシステム(特に注3)
→基本、「願成就文・・・仏の本願の成就したことを説いている経文」だよね(苦笑)。

十八願成就文は十八願の解説?(2)やさしい浄土真宗の教え §1 「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」(特に注3)
→得意の断章取義で「横超」の意味を捏造しちゃダメよん(苦笑)。

十八願成就文は十八願の解説?(3)
→「どうすれば助かるのか?」は、本願文でわかるっちゅうねん!!(苦笑)

十八願成就文は十八願の解説?(4)「本願成就文」で「わかる?」「わからない?」(苦笑)
→「至心に廻向したまへり」と読まはったのは、親鸞聖人からですから、
 『こんなことが知りたい3』に基づいて、『教学聖典』を修正してよね(苦笑)。

十八願成就文は十八願の解説?(5)
→「至極」が「解説」って意味にはならじゃん!!

十八願成就文は十八願の解説?(6)
→「信心」と「名号」を切り離して考えちゃダメなんだよ!!

十八願成就文は十八願の解説?(7)
→「若不生者不取正覚」の「生」が「浄土に生まれる」ちゅうのは、
 もうわかってくれたよね(苦笑)。



あと、『尊号真像銘文』を読みますと、
「本願成就文は本願文の解説」というヘンテコドグマに基づく、
親●会の更なるヘンテコドグマの大間違いが一発でわかります(笑)。
 ↓ ↓ ↓
~~十八願成就文は十八願の解説?(7)コメント覧より~~
4つのことは、全部、「尊号真像銘文」の親鸞聖人の解説を読めば、分かると思います。

○どうすれば助かるのか判らぬ。
→この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。

○自分でおこす信心か、他力より賜るものか判らぬ。
→この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。

○信心が正因か念仏が正因か判らぬ。或いはその二つか。
→如来より御ちかひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。

○若不生者の「生れる」の意味がわからぬ。
→「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。
~~十八願成就文は十八願の解説?(7)コメント覧より~~


とりあえず『尊号真像銘文』は読んでよね(苦笑)。


つづく

【ツッコミ依頼】降誕会2日目にツッコミ!(4)「本願招喚の勅命」に従おうよ・・。

【依頼者】

最後に会長は以下のように言いました。


阿弥陀仏がすべての人を極悪人と見抜いて、それを助けると誓われている。ところが私はそう思えないから、「願」に相応しないんです。

それでお釈迦様は廃悪修善を勧められる、これは出来ないと知らされて教に従うんです。


最後に「仏語」ですが、これは諸仏が私達に、阿弥陀仏の本願まことだぞ~、聞けよ、それだけです。阿弥陀仏に間違いないぞ、と言われている、諸仏方の仰るのはこれしかないんです。


会長の説法はこんな流れでした。

今回は依頼したい部分が長いです。会長の発言をなぞらえて書いていますが、もし昨日のように記録・タイプミス等を気付かれた方がありましたら、訂正のコメントをお願いします。

その際には、苦笑さんにはご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。



【苦笑】

こんな話はもうエエし、
ぐちゃぐちゃ言わんと、
「本願招喚の勅命」に従おうよ・・。
 ↓

やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ


どんだけ、「廃悪修善」に励んでも、
それは絶対に「本願の行」じゃありまへん。

「南無阿弥陀仏」せえへんかったら、
「本願招喚の勅命」に従うことになりませんから、
どんだけ「聞けよ!」と言われてもアキマヘン。

しつこく繰り返すけど、
「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」せ~へんかったら、
永久に「南無阿弥陀仏」せえへんようになっちゃうからね(苦笑)。


というか、会長先生が、
「本願招喚の勅命」に従うように、
ちゃんと仰ったことってあります?

こんなことばっかお勧めしてはりません?(苦笑)
 ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


蓮如上人のお言葉にしたがって、
善知識はシッカリ選んだ方がエエで(苦笑)。
 ↓

●そもそも、善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、
ひとをすすむべきばかりなり。『御文章』2-11



おしまい�O�[�I

【ツッコミ依頼】降誕会2日目にツッコミ!(3)釈尊の出世の本懐は・・。

【依頼者】

また、この後、教とはお釈迦様の教え、お釈迦様が仏の覚りを開かれてそれを説かれたのが仏教、というような話の流れがはいり、以下のような会長の発言が出てきました。


お釈迦様が仏の覚りを開かれてから亡くなられるまで、45年間説かれたことを書き残されたもの、全部記録されたものが一切経となって今日残っています

その仏教の根幹、それは因果の通理です。一切経を貫いている仏教の根幹、これを因果の通理といいます。因果の通理を知らなければ、教えに従うこては出来ません。


ここで因果の通理の説明が入ります。


そして、以下また会長の発言です。


ここから(因果の通理から)出てくるのは、どういう教えかというと廃悪修善という教えです。

この仏教の廃悪修善の教えは、「白道燃ゆ」という本にこういう話がのっています。読んでください。


鳥の巣禅師と白楽天のはなしが入ります。そこから、以下のような会長の発言になります。


さっき因果の通理の話終わっていったら、みんな思っとったやろ。結局は廃悪修善、仏教はそんなもんか、倫理道徳に毛が生えたようなものか。わしゃよく知っとる。一回聞いたら、もう(聞き)に来んでもいいや。

三歳の子供でもこれを知るが百歳の翁でも行うことは難し。

みんな聞けゃわかる。けど、知ってはおるけれども出来るか?

そんな事(廃悪修善)くらい出来るわ、とみんな思っとるんです。

自分の事馬鹿や思って、自分で口に出して馬鹿と言っとっても、人から言われると腹が立つ。

実際悪が止まるのか。本当に今まで仏の眼にあったような真の善をした事があったのか?これを実際やった親鸞聖人が、歎異抄に「いづれの行も及ばなき身なれば、とても地獄は一定すみかぜかし」と言われているんです。教行信証にも至るところに言われておるんですけれど。これは、歎異抄のお言葉です。

親鸞聖人の地毛国堕ちるに間違いない親鸞だったという告白ですよ。

すべての人は、悪人だ。どれだけ悪を止めよと言われても、悪の止まない、善い結果が来るからと、どれだけ善を勧めても善の出来ないもの。


弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人を助けんがためなりけり(歎異抄)

阿弥陀仏の本願が、すべての人間は悪人だぞ、親鸞お前は悪人だぞ、と阿弥陀仏が見抜いて約束されているのに、親鸞しらなんだ。それが知らされて、こう言われているんです。

私達1人1人が私1人の本願でしたとなった時が願に相応したときなんです。

助かる縁手がかりがないものが、私でした、と如何に知らせるか?これがお釈迦様の教えなんです。

一度聞いたら、あ~わかったというものでは絶対にないんです。

すべての人の本願の姿を知らせるために、お釈迦様は廃悪修善を徹底的に教えておられるんです。

「教」に従うとは、廃悪修善をやってみて知らされるのは、出来ない自分。極悪人であったと知らせるかために、お釈迦様の教えがあるんですよ。


だから、悪人正機とこの言葉の説明がありました。



【苦笑】

はいはい(苦笑)。

●「与仏教相応」といふは、この『浄土論』のこころは、
釈尊の教勅、弥陀の誓願にあひかなへりとなり。『尊号真像銘文』

と親鸞聖人が仰っておられるように、

★「釈尊の教勅、弥陀の誓願にあひかなへり」=「与仏教相応」

なわけやけど、

★釈尊の教勅=弥陀の誓願に「あひかなへり」

でなければ、浄土真宗においては「与仏教相応」とは言えまへ~ん。


そんでもって、釈尊が一番お説きになりたかった、
「出世の本懐」は何かっちゅうことに関して、
法然上人は以下のように仰っておられます。
 ↓

●釈迦も、世に出で給ふ事は、弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。 佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。 『津戸三郎へつかはす御返事』

(訳)
釈尊がこの世に現れたというのは、阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
しかしそれは人々の能力に応じたのであって、 決して釈尊の本心によるものではなかった。 
だから念仏は、 阿弥陀仏にとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
釈尊にとっては、それをひろめることがこの世にお出ましになられた真の目的だったのである。
他の念仏以外の行とは、全く違うのである。


釈尊がこの世にあらわれて「仏教」をお説きになられたのは、
「弥陀の本願を、説かんと思しめす御心」のためであって、

「廃悪修善」の「余の種々の行」は「随機の法」で、
「自らの御心の底には候はず」でござりまする~。

せやから、

「弥陀にも利生の本願」「釈迦にも出世の本懐」である「念仏」を申して、
「釈尊の教勅、弥陀の誓願にあひかなへり」=「与仏教相応」になろうね。


しつこいようやけど、これは阿弥陀仏の「本願の行」じゃないから、
無理してしなくてもええよん(苦笑)。
 ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


つづく

【ツッコミ依頼】降誕会2日目にツッコミ!(2)これも昨日教えてあげたよね?(苦笑)

【依頼者】

以下からは今日の突っ込み依頼の内容です。

利他の信楽うるひとは~の御和讃より、願・教・仏語の3つの言葉を黒板に書きました。以下は会長の発言です。



「願」というのは、阿弥陀仏の本願、阿弥陀仏の願い、お約束です。「教」とはお釈迦様の教えをいうんです。

(少し間があります)

阿弥陀仏、釈迦、諸仏のは3仏に従って初めて「外の雑縁さらになし」という身になれるんです。

相応とは、一つになるという事です。阿弥陀仏の救いの通りになるという事です。

その阿弥陀仏の本願とは、「すべての人は悪人である、必ず絶対の幸福に救いとる」(←黒板に書いた言葉です)これを願と親鸞聖人言われているんです。

すべての人は極悪人と見抜いておられるんです。その極悪人を絶対の幸福に救いとる、と言われているんです。

相応するというのは、絶対の幸福になったことをいうんです。

時間ないんで、申し訳ないが急ぎます。



以上は、会長の発言の流れです。



【苦笑】

これも昨日教えてあげたよね?(苦笑)

会員さんが「苦笑の独り言」を読むのは、
しっかり禁止しておきながら、
自分はちゃっかり読んでくれてるんでしょ?
 ↓

【ツッコミ依頼】降誕会2日目にツッコミ!(1)苦笑の独り言は読んでくれてるんだね♪


だったら、僕が昨日教えてあげたことは、
翌日の御法話にちゃんと反映してよね。
 ↓

【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(3)「願に相応して教と仏語にしたがう身」になろう!!


根拠となる法然上人の言葉は繰り返さないけど、
「願に相応して教と仏語にしたがう身」になるために、
阿弥陀仏の「本願の行」である、「念仏の行」を行いましょうね♪

そんでもって、これは阿弥陀仏の「本願の行」じゃないから、
無理してしなくてもええよん(苦笑)。
 ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.


つづく

【ツッコミ依頼】降誕会2日目にツッコミ!(1)苦笑の独り言は読んでくれてるんだね♪

【依頼者】

苦笑さん

昨日は、最速の突っ込みありがとうございました。

今日の会長の発言で、突っ込みを反映したような話し方がありました。

まず「利他の信楽うるひとは」の御和讃についての発言です。

皆さん先程勤行されたと思いますが、勤行の本にも載っている、「利他の信楽うるひとは~」を通して話をしております。

というような会長の発言です、早速訂正されましたね、さすがです。


つぎに「あはれあはれ存命のうちに皆々信心決定あれかしと朝夕おもいはんべり」という蓮如上人のお言葉に関して、会長は以下のような感じに触れました。

生きておる間に、みなみな信心決定あれかしと言われ、お亡くなりになったお言葉を私は讃題にしてきました。


あやふやに誤魔化されています。さすが会長ですね。



【苦笑】
おお!
苦笑の独り言は読んでくれてるんだね♪
 ↓

【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(1)『正信偈』≠『高僧和讚』
【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(2)「あはれ、あはれ、存命のうちに・・」


でも、(1)はともかく、
(2)は誤魔化しきれたないと思うよ(苦笑)。

今日は【投稿】&【投稿追記】も入ったしね。
 ↓

【投稿】4ヶ月以上の期間があるのに「遺言」と言えるのか?
【投稿追記】「亡くなる直前に仰った」とか「この世の最後のお言葉」とは言えない。


つづく

【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(3)「願に相応して教と仏語にしたがう身」になろう!!

【ツッコミ依頼】(3)

三つ目は、今日の最後の会長の言葉です。

利他の信楽うるには、どうしたらなれるのか聞きたいでしょ。それが朝晩の勤行の最後にあるんです。

願に相応して教と仏語にしたがう身となれば、外の雑縁さらになくなります。


以上会長の言葉です。

ぶつ切りですが、 よろしくお願いします。



【ツッコミ】(3)

はい!その通り!

いいこと言いますね~!

「願に相応して教と仏語にしたがう身」になるために、
阿弥陀仏の「本願の行」である、「念仏の行」を行いましょう!!
 ↓ ↓ ↓

念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。


ちなみにこんなのは、阿弥陀仏の「本願の行」じゃないから、
無理してしなくてもええよん(苦笑)。
 ↓

「お金を持ってきなさい!」「ただ働きしなさい!」
「お友達を連れてきなさい!」「サークルを作って学生を誘いなさい!」
「アニメを売りなさい!」etc.

【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(2)「あはれ、あはれ、存命のうちに・・」

【ツッコミ依頼】(2)

次にこれは、午前中、中休み後に会長は、阿弥陀仏に救われたという意味の親鸞聖人のお言葉(信心獲得、獲信等)の説明後に以下のように言いました。

これを信心決定ともいいます。「あわれあわれ存命のうちに、皆々信心決定朝夕おもいはんべり、誠に述懐のこころ、しばらくも止むことなし」蓮如上人の、このお言葉の中に出てきます。

このお言葉は、蓮如上人がなくなる直前に仰られた御遺言です。この世の最後のお言葉です。

これを私は60年間、話をする前に、讚題としてあげてきた訳です。

あわれだなぁ、あわれだなぁ、皆さん信心決定してもらいたい、これ一つ、これが御遺言です。

生きとる間に、死んでから間に合わんだ、みんなの人信心決定してもらいたい。朝から晩、晩から朝まで、1日中思い続けている。

私達朝から晩、晩から朝まで思い続けていることありますか?


以上が会長の言葉、こういう流れでした。この蓮如上人のお言葉の説明は正しいのでしょうか?



【ツッコミ】(2)
う~ん。そうですね~。

この言葉は、自分の死期を感じられた蓮如上人が、

 「自分が存命中に、なんとか皆さんに信心決定してもらいたい!
  私は、そのことを朝から夕方まで思っている」

ということで残された言葉ですね。
 ↓
●しかれば愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本復のすがたこれなし。
つひには当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。
あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。
『御文章』5-15

(訳)
しかし、私も今年の夏ごろから病気になり、今にいたっても回復する兆しがない。
とうとう今年の寒い間には、必ず極楽浄土へ往生するという本来の志を遂げることになるのは、間違いないと思われる。
ああ、ああ、私が存命である間に、みんながみんな信心決定してほしいものだと、朝から夕まで思っている。

※あはれ・・感動詞、感嘆・嘆美・悲哀・哀愍・同情・愛着・驚嘆などの感動を表す。「ああ」「ほんとうに」


会長先生の解釈は、「あはれ、あはれ、存命のうちに・・」
の文法&コンテキスト(文脈)が、
めちゃくちゃじゃありません?(苦笑)

【ツッコミ依頼】降誕会1日目にツッコミ!(1)『正信偈』≠『高僧和讚』

【ツッコミ依頼】(1)

苦笑さん

今日は降誕会1日目でした。私の最後の聴聞になる可能性が高いですので、気になった点に関して質問の意味も込めて、会長の説法内容を送ります。

今日は、「利他の信楽うるひとは願に相応するゆえに教と仏語にしたがえば外の雑縁さらになし」が演題でした。


親鸞会の勤行の本は、最初が真宗宗歌、次に親鸞聖人の書かれた正信偈、その後に、親鸞聖人の書かれた御和讃から高森会長が選んだものが6首あり、この順番で勤行になります。


会長は、午後の最初の方に以下のように言いました。

皆さんは先ほど勤行をせられたと思いますが、その勤行の最後のお言葉、正信偈の親鸞聖人の教えの最後のお言葉について話をしています。



以上、を言ったあとに、「利他の信楽うるひとは~」のお言葉について、話が始まりました。

また、午前説法開始すぐにも、似たような発言がありましたが、正確にはわかりません。


会長先生は、ボケてきていらっしゃるのかもしれません。軽~くジャブをお願いします。



【ツッコミ】(1)

あ~ん?(苦笑)

 利他の信楽うるひとは
 願に相応するゆえに
 教と仏語にしたがえば
 外の雑縁さらになし
『高僧和讚』善導讚

これは、『正信偈』の言葉じゃありまへんね(苦笑)。


『正信偈』≠『高僧和讚』です。
はいはい。

【ツッコミ依頼】青年大会にツッコミ!!

メル友(現役会員)からツッコミの依頼がありました。


【ツッコミ依頼】

こんばんは。先日の青年大会における、会長のお言葉を送らせて頂きます。

「 人身受け難し今已に受く」に関して、人間に生まれることは有難いことであり、
「ありがとう」というのは、「有ることが難しい」というところから来ている、
という話から、以下のお言葉を仰せになられました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私は今はちょっとなまくら(怠け)しておりますが、昔は何か人から頂くと、葉書を送っていました。

その葉書の最後に、有難く思います、有難く存じます、と書いていました。

これはハッキリ申しますと、あなたみたいな欲深い、出すのはイヤ、出すのは主人を刑務所から出すのも嫌というぐらい欲深いあなたが、私にこんなものを下さるなんて、有難いことだ、という意味で書いてたんですね。

葉書を受け取られた方が、どう思われていたかわかりませんが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

すべて、会員のことを一番に考える、偉大なる会長先生のお言葉です。
さすが善知識、仰ることが、一味も二味も違いますね。
ぜひツッコミをお願いします。



【ツッコミ!】

あ~ん?(苦笑)

『蓮如上人御一代記聞書』を読んだことがないのか?


●『蓮如上人御一代記聞書』(297)
一 前々住上人(蓮如)は御門徒の進上物をば、御衣のしたにて御拝み候ふ。また仏の物と思し召し候へば、御自身の召し物までも、御足にあたり候へば、御いただき候ふ。御門徒の進上物、すなはち聖人(親鸞)よりの御あたへと思し召し候ふと仰せられ候ふと[云々]。

(訳)
蓮如上人は、ご門徒からの進物をお衣の下で手を合わせて拝まれた。
また、頂いた進物は全て仏様から頂いた物と思っておられたので、
ご自身がお召しになったお着物までも、万一踏みつけてしまわないように押し戴かれた。
「ご門徒からの進上の物は、そのまま親鸞聖人がお与えくださったものと思われる」
と仰せになられたのことである。



蓮如上人が、「全て仏様から頂いた物」
「親鸞聖人がお与えくださったもの」
とお思いになって手を合わせて拝まれた、
「ご門徒から頂いたもの」を、

「主人を刑務所から出すのも嫌というぐらい欲深いあなた」
がくれたもの・・ぐらいに思ってやがったのか!

会員の皆さんが爪に火を灯す思いで、
精一杯「喜んで頂こう」と思ってくださったものを、
なんだと思ってるんだ!

こんな気持ちだから、平気で無駄遣いするんだよ!



この野郎!なめんじゃねえ!!(怒)

ツッコミ!【第39回】行の一念と信の一念

第39回が更新されました。
 ↓
【第39回】行の一念と信の一念

「弥陀の本願の『若不生者』の『生』は、この世のことではなく、死んでからの極楽往生のこと」と言う田中氏の見解が、いかに親鸞聖人のみ教えと異なるものであるかを、種々明らかにしてきた。

そもそも往生といえば死んでから、というのが仏教の常識であったが、「この世の往生がある」と明らかにされたのが親鸞聖人である。「不体失往生」「平生業成」「現生不退」こそが弥陀の救いであることを、生涯叫び続けられたのが親鸞聖人であり、当時の常識を覆す驚くべき聖人の教えの根拠は、釈迦の「本願成就文」であった。「成就文」の教え以外に親鸞聖人の教えはないのだから、「本願成就文」に反する田中氏の主張は、まったく親鸞聖人の教えではないのである。

はいはい(苦笑)。

根拠に基づか(け)ないドグマを垂れ流して、
これまでに85項目もツッコミいれられてますけどね(苦笑)。



そして、ついに垂れ流すネタもなくなって、
全く論点と関係ない話をブレンドね(苦笑)。
 ↓

親鸞聖人が、釈迦の「成就文」をもって弥陀の「本願文」を領解されたということが、いかに重大な意味を持つか。一つの例を示そう。
「本願成就文」には、弥陀の救いは「一念」であると説かれているのを、法然上人は「行の一念(念仏)」とされているが、親鸞聖人は「信の一念(信心)」と教えられている。
「本願成就文」の「一念」は「念仏」か「信心」か、両聖人の教えの違いはどこにあったのか、簡単に触れておきたい。

法然上人が『本願成就文』の「一念」を「念仏」とされたのは、『本願文』の「十念」の解説として領解されたからである。
『大無量寿経』の「成就文」には、ただ「一念」とあるので、「本願文」の「乃至十念」と同じように領解して「念仏」とも見ることができる。

それを親鸞聖人は「信心」と教えられたのは、異訳の『無量壽如来会』の十八願成就文をもって、『大無量寿経』の十八願成就文を見られたからである。
『大無量寿経』の「乃至一念」とあるところを異訳の『無量壽如来会』には、「一念の浄信」とあるから、凡夫に無い「如来から賜る清浄心(信心)」であることが明らかになる。

また『大無量寿経』の「成就文」の「一念」の文字は「信心」の下にあるが、『無量壽如来会』の「成就文」には「一念の浄信」と説き、「一念」の文字が「信心(浄信)」の上にあることにも親鸞聖人は着目なされた。そして『本願成就文』の「一念」を信心であることを明らかになされている。

だから何?(苦笑)

どんだけ論点に関係ない話を挿入しても、
チ●ーリップ企画(=親●会)のドグマのヘンテコさは、
全く揺るぎませ~ん(苦笑)。


かくて「若不生者 不取正覚」(必ず生まれさせる)と誓われた「弥陀の本願」の真意を、「成就文」から親鸞聖人は「一念で不体失往生できる」と説かれたのである。
親鸞聖人の大著『教行信証』六巻は、まさにこのこと一つを明らかにされたものであり、『教行信証』が「本願成就文」の解説書とも言われる所以だ。

「三経の安心あり。その中に大経をもって真実とせらる。大経の中には第十八の願をもって本とす。十八の願にとりてはまた、願成就をもって至極とす。『信心歓喜 乃至一念』をもって、他力の安心と思召めさるる故なり」
(改邪鈔)
覚如上人の仰せである。
仏教の至極(最も大事な御文)である「本願成就文」が分からずしては、親鸞聖人のみ教えは全く分からなくなることが、この一事からも知られよう。

はいはい(苦笑)。

もうハッキリ言うけど、
壞れたテープレコーダーのように同じ話ばっかで、
ツッコミいれても全然おもんないで。

まあ、こんな話を富山まで行って聞かされる人は、
もっと苦痛だろうけどね(苦笑)。

毎回、新しい角度からのツッコミネタを提供してくれる、
ちび●さんをちょっとは見習ってや(苦笑)。






おまけ1

★願成就文に対応するサンスクリット
ye 
kecit sattvās tasya 'mitābhasya tathāgatasya nāmadheyaṁ 
śṛṇvanti, śrutvā cāntaśa ekacittotpādam apy adhyāśayena 
prasādasahagatam utpādayanti, sarve te 'vaivarttikatāyāṁ 
saṁtiṣṭhante 'nuttarāyāḥ samyaksaṁbodheḥ.
およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。(親鸞会教義の相対化21より)

●信受本願(真実信心を得る)
 →アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば

●即得往生 住不退転(正定聚のくらいにさだまる)
 →この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまる

★『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志訳]「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。(『教行信証』信巻に引用された『無量寿如来会』の願成就文)

●信受本願(真実信心を得る)
 →無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば

●即得往生 住不退転(正定聚のくらいにさだまる)
 →願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと


ご覧のように『無量寿如来会』の「願成就文」は、
サンスクリット文にめちゃ一致するんやけど、
「信楽に生まれる」なんて解釈がヘンテコなのは、
これを見ても明々白々ですわね(苦笑)。

『無量寿如来会』の「願成就文」を読まれると、
都合が悪いからあえて挙げなかったんだと思うけど、
そういうやり方が余計怪しまれるんでっせ(苦笑)。


というわけで、

86,『無量寿如来会』の「願成就文」は、サンスクリット文に極めて似た内容になっているが、これを見ても「信楽に生まれる」という解釈がヘンテコなのは明々白々である。

87,しかしチ●ーリップ企画(=親●会)は『無量寿如来会』の「願成就文」に触れたら当然おきるその疑問に対する説明を行っておらず、重要な文にも関わらず本文引用すらしておらず、意図的に引用しなかった可能性すら疑われる。




おまけ2

●信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
 そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。『親鸞聖人御消息』(7)

「信の一念」と「行の一念」は切り離しちゃダメよん。
切り離して考える思考回路自体が、
全くもって親●会クオリティーで、
親鸞聖人の教えから離れてるもんやからね~(苦笑)。

これでも読んで勉強しなおしてや。
 ↓

清森問答 質疑応答164
親鸞会教義の相対化・76(投稿)

というわけで、

88,「信の一念」と「行の一念」を切り離して考える思考回路自体が、全くもって親●会クオリティーで、親鸞聖人の教えから離れたものである。

ツッコミ!!【第38回】「死後の往生を否定するのか」の疑難に答える

第38回が更新されました。
 ↓
【第38回】「死後の往生を否定するのか」の疑難に答える
http://shinjin.info/2009/02/100755176.html

田中氏は、「チューリップ企画は『死後の往生』を否定した」と以下のようにくり返し非難して幕引きを計られた。

◆平成20年6月23日のメール
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
チューリップ企画が、『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』と、死後の往生を否定したことは明白です。

当方は「死後の往生」を否定したことなど一度もない。それどころか、「現在の往生」した人だけが「死後の往生」を得るのだから、「現在の往生(不体失往生)」を急げ、と力説されている親鸞聖人の教えを、開顕してきたのである。120通のメールのやり取りをご覧になれば、明白であろう。

では、「本願文」総ての解説である「成就文」に、「死後のことが一切説かれていない」のなら、「死後の往生」は何処に誓われているのだろうか。
親鸞聖人はこの問いに、「十一願」とその「成就文」を挙げておられる。
「十一願」(必至滅度の願)には、
「設い我仏を得んに、国中の人天、定聚にも住し、必ず滅度に至らずば、正覚を取らじ」
と誓われている。その「成就文」には、
「其れ衆生有りて、彼の国に生まるる者は、皆悉く正定之聚に住す。所以は何ん、彼の仏国の中には、諸の邪聚及び不定聚無ければなり」
と説かれている。
十一願に「国中の人天」とあるのは、「この世で信の一念に国中の人天になる」と親鸞聖人は教えられる。

あ~ん?(苦笑)

前にレクチャーしてあげたことは、
ちゃんと押さえておかなダメだよん(苦笑)。

 ↓ ↓ ↓
●浄土文類聚鈔
証といふは、すなはち利他円満の妙果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づけ、また往相証果の願と名づくべし。すなはちこれ清浄真実・至極畢竟無生なり。
無上涅槃の願(第十一願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「それ衆生ありてかの国に生ずるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん、かの仏国中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり」と。
 またのたまはく(同・上)、「ただ余方に因順するがゆゑに、人・天の名あり。顔貌端正にして超世希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と。


釈尊は、極楽には「人・天」という名称はあるけど、
その「人・天」は、「顔貌端正にして超世希有なり」で、
「容色微妙にして、天にあらず人にあらず」で、
「みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と仰っていて、
親鸞聖人もそれを受けておられます。

>十一願に「国中の人天」とあるのは、「この世で信の一念に国中の人天になる」と親鸞聖人は教えられる。
 ↑
こんなこと教えてません(苦笑)。


というわけで、

86,釈尊は、極楽には「人・天」という名称はあるが、その「人・天」は「顔貌端正にして超世希有なり」で「容色微妙にして、天にあらず人にあらず」で「みな自然虚無の身、無極の体を受けたり」と仰っていて(『無量寿経』)、親鸞聖人もその教えを受けておられる(『浄土文類聚鈔』)。
 しかし、チ●ーリップ企画は(=親●会)は、『無量寿経』も親鸞聖人の言葉も読んでないので、【十一願に「国中の人天」とあるのは、「この世で信の一念に国中の人天になる」と親鸞聖人は教えられる。】などと、親鸞聖人が教えられていないことを教えられたかのように虚偽の発言をしている。




これらを、あと三回ぐらい読んで勉強しておいて欲しいですね~(苦笑)。
 ↓
「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)の関係
「どこに「死後」って書いてあるの?」→ちび●ボコボコ!!(再掲)

特に今日は、こいつを更に2回読んでおいてね。
よい子のみんなには、もう当たり前のことなんだけどね(苦笑)。
 ↓ ↓
ーーーーー エエこと書いてまっせ~ ーーーーー
396 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 21:53:42 ID:gLkvGm/1
そもそもなんで現益がでてくるのかと言えば、
信楽をえたら、摂取してはなさないからだよな
若不生者と誓ってるから。
だから、死後往生すると誓われたことについて
その前の段階として、往生するに定まった状態が生じてくるわけ。
これを正定聚の位に住すと言って、不退転に住すとも、即得往生とも言う。
当益がないと現益が出てこないのよ。

なのに親鸞会は、現益ということがないと当益がでてこないという顛倒した論理を唱えている。
アニメが得にそう。
生まれるということについて、
「死んだら助けるということはありえない」
だから、生まれるということは今世からのことであるっていうすり替えを行っている。

助けるっていう状態がなんなのかっていうと現世での小さな苦しみからの解放ではないよね
生死の苦しみからの解放なのに、
現世利益と同列に問題を論じるから、現益から当益への逆転が生まれる。
まるで、今世おもしろおかしく暮らせれば、来世も安泰だという思考をしている。
しかし、今が明るいからと言って、死も明るくなるとは限らない。

後生の一大事とは、流転への不安だし、死ぬことへの不安。
広義には、解決しなければ生きていても意味がないと思えるものの解決のことでもある。
そういう問題に対して、もし自分で解決することができない人が
来世の生が明るくなると誓ってくださる方に出会えば喜ぶ
来世極楽に生まれると信じて、死の問題を明るくするから、今世も明るくなる。
それは自明の論理であって証明はいらない。


399 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 22:49:36 ID:gLkvGm/1
当益がでてくれば、現益は必ずある。
二益と言われるから。
だから、逆説的に現益がない人間は、当益もないと判断できるわけ。
つまり、それはあなた、阿弥陀仏の死後往生を実は信じていないよ?と言われているわけです。
疑情が晴れないから、現益がでてこない。

しかし、現益欲しさに阿弥陀仏を拝んでる人がいればそれはちがう。
現益を解決すれば、死後がはっきりとするという人がいればそれはちがう。

「死んだら助ける」ということではない。
「死ぬまで助かるかどうか分からない」ということがないのです。
なぜなら、真実の信心は、破れることがないのだから
弥陀の言葉を疑うことがない、助かるに決まっているといただくからです。


402 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 00:30:27 ID:xF5TMITZ
至心信楽は現益ではないよ
信心うるから、現益、当益にあずかる

親鸞会の人は信心決定(=信心が一つに定まること=弥陀の真実信心をいただくこと)と
信心によって往生が決定すること(=正定聚に入ること=即得往生)
をごっちゃにしている人多いかもね。

なんせ人生の目的が信心決定だからねw
弥陀が聞いてくれと頭下げてるのに
財施すれば間に合うと思う心を捨てるには徹底的に財施するしかないという会の論理に動員されて
自分の信心をどうにかして、決定させようと日夜努力しているんだろうね。
そういう人には往生ということが分からなくてもしかたないかも
死後がハッキリすると言われ、信心決定したらそういう世界が開けるんだから
今は考えないでおこうと思っているんじゃないかしら
往生のぬけた信心をめざしているから、よく分からない信心というものにふりまわされているんじゃない?


409 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:29:17 ID:xF5TMITZ
まとめ

不体失往生て往生が決定している状態のことでしょ。ということは現益だよねぇ

なら、若不生者で現益「往生定まる位に生ぜずば」を誓われるのは
信楽を獲た衆生に対してのみということなら、問題はないことになるね。十劫安心にはならない。
でも、当益が前提でなければ現益もくずれる。
なぜなら、現益は、当益を約束された本願文を信じた人の心(信楽)が死を前にしても崩れないことを表しているから。
そういう意味では、当益に生まれるという意味でだけでうけとってても、現益がないとはならない。
祖師は本願文を死後だけの意味にしてて、成就文で現益を顕彰している。
宗学的に現益の根拠とするには弱いのでは?
でも異端でもない。

また若不生者で「信楽生ぜずば」と誓われるのは
信楽を獲た衆生に対して二度手間であり、意味不明。
さらに信楽を今えていない衆生がいれば正覚をえている事実に反している。
これこそ十劫安心と言える。
また、至心信楽には信楽をうけとりなさいという意味があると宗祖は説いてるので、
ここで信楽を与えると弥陀が約束していると言える。
でも、ちび丸の根拠によれば、三信生せずばという相伝があるらしいから、
これもひとりよがりの異端解釈とはいえなさそう。


410 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:30:41 ID:WAfdhZt6
>>396
> そもそもなんで現益がでてくるのかと言えば、
> 信楽をえたら、摂取してはなさないからだよな
> 若不生者と誓ってるから。
> だから、死後往生すると誓われたことについて
> その前の段階として、往生するに定まった状態が生じてくるわけ。
> これを正定聚の位に住すと言って、不退転に住すとも、即得往生とも言う。
> 当益がないと現益が出てこないのよ。

>>402
> 至心信楽は現益ではないよ
> 信心うるから、現益、当益にあずかる

以上2つの発言に激しく同意。

つまり、尊号真像銘文のお言葉の通り、本願文に誓われているのは、
「信心(信楽)を獲た人に当益を与える」が根本的な意味であり、そこから、
「信心を獲た時、現益(入正定聚)を獲る」という意味も派生し、実際、
尊号真像銘文で親鸞聖人はその意味も補って本願文を解釈されている。

411 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:44:50 ID:WAfdhZt6
>>410
では、その「信心(信楽)」を獲させることまでも、
第18願文に誓われているかというと「NO」である。
48願は全て十劫の昔に成就して、それ故、法蔵菩薩は阿弥陀仏と成られたのだから、
もし、信心を獲させることまでも第18願文に誓われているなら、
十劫の昔に十方衆生は信心獲得したはずであり、十劫安心を肯定することになってしまう。

以上のことを踏まえた上で、再度 >>231(私のカキコ)を読んで頂きたい。
これで完全に筋が通ります。

412 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 03:15:01 ID:WAfdhZt6
>>231より再掲
----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

ただし、上のお言葉の直後に親鸞聖人は
「凡夫自力のこころにはあらず。」と仰っています。
つまり、自力で起こす信心ではないが、第18願で「与える」と誓われたわけでもない
というのが実状です。
要するに「自力の信心」も「十劫安心」も共に間違いです。
では真実はどうかというと、それを明らかにされたのが善導大師の「両重の因縁」です。

http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/2008_625_0047_a8bd.html
------------------------------------
両重の因縁とは、

(因)名号(法体成就の機法一体)
(縁)光明(調熟の光明+破闇の光明)
(果)信心

(因)信心
(縁)名号(信念冥合の機法一体)
   +光明(摂護の光明)
(果)極楽往生

このような関係になっています。
------------------------------------
これは親鸞会の教学解説書にあった内容をどなたかが載せて下さったものですが、
これについては、全く問題ありません。

413 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 03:29:53 ID:WAfdhZt6
なお、名号は第17願で誓われ(その内容を第18願で誓われ)、
光明は第12願で誓われています。

48願がセットになっていて、それらが全て成就したことによって、
十方衆生を成仏まで導くシステムが完成したのです。
その内容を全て第18願に無理に収めようとするから話がおかしくなるのです。
ーーーーー エエこと書いてまっせ~ ーーーーー



そんでもって、以下が
ドグマに合わせて捏造されたドグマ~(苦笑)。
 ↓

その根拠は、「十八願成就文」の、
「即得往生住不退転」
である。聖人はこの「即」を、平生の聞信の一念だとされ、「時を隔てず処を隔てず即座に往生し正定聚に住するのだ」と教えていられる。
この「十八願成就文」に腰を据えて親鸞聖人は、十一願成就文の「生彼国者」を、「彼の国に生まるる者は」と読まれ、
「彼の国に生まるる者は、皆悉く正定之聚に住す」
の御文を、
「弥陀の浄土に生まるる者は、この娑婆世界で正定聚になっている者だけである」
と領解された。ゆえに「十一願」の「定聚」は「現生正定聚」である、と断定され、弥陀の「十一願」は、
「現生正定聚の人を、死後、必ず浄土で仏覚を開かせる」誓いである、と聖人は説示されたのである。

このように、「死後の往生」を誓われた十一願(必至滅度の願)意を、「十八願成就文」を依憑として鮮明にされ、現当二益の弥陀の救いを開顕された方が親鸞聖人であった。

親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にないことが、いよいよ明らかに知られるではないか。

ははは(苦笑)。

宿題28,「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願、成就すればなり」という「正信偈」の言葉を、「この世で等覚(正定聚)の身に成っている人が、必ず浄土へ往って仏覚が得られるのは、弥陀の十一願が成就しているからである」と訳し、勝手に「極楽浄土に往生するのが、十一願が成就しているから」という新しいドグマを捏造している。しかもこのドグマを根拠に自説の正しさを証明しようとしている。もちろん勝手に捏造したドグマは根拠にはならない。
 ↑
こいつにツッコミを入れられたから、
微妙にドグマを修正して、
十一願に「極楽浄土に生まれさせる」意味を当てはめるのは、
流石にやめたみたいだけど、

【「若不生者不取正覚」には
「極楽浄土に生まれさせる」という意味は無い】

という、最近のドグマから考えると、
「極楽浄土に生まれさせる」のは、
結局、何の力によるんでしょうかね~(苦笑)。


というわけで、

87,「正信偈」の言葉を勝手に解釈して捏造したドグマにツッコミを入れられたので、微妙にドグマを修正して、十一願に「極楽浄土に生まれさせる」意味を当てはめるのをやめたが、【「若不生者不取正覚」には「極楽浄土に生まれさせる」という意味は無い】という最近のドグマから考えると、「極楽浄土に生まれさせる」のが何の力によるのかが不明である。



最後に、田中さんがツッコミいれた、
チ●ーリップ企画(=親●会)が
死後の往生を否定している根拠は、
今日、言い訳したものだけじゃありまへんで~。
まあ、言い訳になってない言い訳だったけど(笑)。

 ↓ ↓ ↓
~ ★「死後の往生」を否定するチューリップ企画 ~

★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆親鸞聖人の教えは、「本願成就文」以外にありません。(6月19日)
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
 
 
『親鸞聖人の教えは、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆「本願成就文」には、死後のことは一切説かれていません。(3月9日)
 
☆「本願成就文」の教えはイコール「本願文」(6月19日)
 
 
 
『「本願文」には、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆『本願成就文』にも『教行信証』にも、死後のことは説かれていなくても、(6月23日)
 
 
『「教行信証」にも、死後のことは一切説かれていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
 
 
----------------------------------------------------------
★「死後の往生」を否定するチューリップ企画
 
 
☆不体失往生した人が、体失往生できないということは絶対にないのだから、不体失往生に阿弥陀如来は、「若不生者」と正覚を懸けられているのだよ、という親鸞聖人の教えです。(6月23日)
 
 
『阿弥陀如来は、「死後の往生」に正覚を懸けていない』
 
というのが、チューリップ企画の主張です。
~ ★「死後の往生」を否定するチューリップ企画 ~



ふう。。

ず~と根拠に基づか(け)ない
ヘンテコドグマの誤魔化しの話ばっかで、
ツッコミいれるのも、かなり飽き飽きなんだけど、

こんな話を毎回聞かされる教学教義や御法話は、
もっとウンザリなんやろうね~(苦笑)。

こんな話しか聞けないなら、オイラは楽勝でいかへんで(苦笑)。

ツッコミ!【第37回】「若不生者」と「即得往生」の関係

第37回が更新されました。
 ↓
【第37回】「若不生者」と「即得往生」の関係

弥陀が「若不生者」と命を懸けられたのは、信楽に生まれる不体失往生だと、釈迦は成就文で「即得往生」と教えられている。これはこの世の救い(現益)である。

あ~ん?(苦笑)

こういう発言は、せめて以下の内容に反論してからね~(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

~~~ツッコミ!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する の復習~~~
復習だけど、苦笑ちゃんはこれまでに、

★親鸞聖人の言葉に基づき「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることを証明し、【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを論証しました。

★親鸞聖人の言葉に基づき「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであることを証明し、「信楽=正定聚」とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、「信楽の者→正定聚」とお説きになられている親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを証明しました。

★その成果が、この図になるわけですわ。
 ↓ ↓ ↓
                                  第十一の願の
=前念(因) 介在時間0  =後念(果)              必至滅度の願
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」「若不生者 不取正覚」成就
    ↓           ↓            ↓       ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・→極楽浄土へ往生→成 仏
    |           |           |      |
  十八願の真実の       |           |     等正覚にいたり
   信心をうれば→すなはち正定聚に住す        |     大涅槃を証する
           (この土の益)          |     (かの土の益)
      ↓       ↓              ↓      ↓ 
    【時間的に同時の「時分」】          【一念須臾のあひだ】
     【1】         【2】

★これは、「結論出てるやん!」を紹介した時から一貫してますわね。
 ↓ ↓ ↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
31 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:22:19 ID:yFGdPQfg
『尊号真像銘文』から抜粋:

----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

----------------------------------------------------------------------
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
----------------------------------------------------------------------
※さすがに「平生業成」「現生不退」の意味を補っておられることに注目!
本願成就文の内容もちゃんと踏まえて本願文を解釈されていることが拝察されます。【1】

----------------------------------------------------------------------
「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
----------------------------------------------------------------------
※それでもなお、「若不生者」を「【わが浄土に】もし生まれずは」としか解釈されていません。【2】

232 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:23:58 ID:yFGdPQfg
>>231の続き

『尊号真像銘文』は親鸞聖人83歳の時の著作ですから『教行信証』よりも後であり、
当然、主著である『教行信証』の内容を十分に踏まえた上で書かれたはずです。
何もかも承知の上で親鸞聖人自身が本願文36字を全部解釈されたこの文章のどこにも、
「信楽に生まれさせる」とは書かれていません。この事実だけで十分すぎるほど十分です。
議論する余地など初めから何もないのです。

もし「信楽に生まれさせる」という意味も本当はあるのに親鸞聖人が書き忘れた
とでも言うのなら、それは親鸞聖人に対する冒涜以外の何物でもなく、
そんな暴言を吐く輩は断じて「親鸞学徒」ではなく、「高森学徒」です!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


というわけで、

81,苦笑が、親鸞聖人の言葉に基づき「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることを証明し、【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを論証しているにも関わらず、それに何等反論することもないまま(できないまま)【弥陀が「若不生者」と命を懸けられたのは、信楽に生まれる不体失往生だと、釈迦は成就文で「即得往生」と教えられている。これはこの世の救い(現益)である。】というヘンテコドグマを壞れたテープレコーダの如く繰り返している。

82,苦笑が、親鸞聖人の言葉に基づき「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであることを証明し、「信楽=正定聚」とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、「信楽の者→正定聚」とお説きになられている親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを証明していいるにも関わらず、それに何等反論することもないまま(できないまま)【弥陀が「若不生者」と命を懸けられたのは、信楽に生まれる不体失往生だと、釈迦は成就文で「即得往生」と教えられている。これはこの世の救い(現益)である。】というヘンテコドグマを壞れたテープレコーダの如く繰り返している。

 ↑ ↑ ↑
これをちゃ~んと読んだ人には、
以下の書き込みは噴飯ものでっせ~(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓


だが田中氏は、「若不生者」は死後、極楽に生まれる当益だから、「即得往生」とは異なると主張される。

◆平成20年5月25日のメール
親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。
ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

「若不生者」と「即得往生」はイコールでない、これが田中氏の持論である。

おっと!!いけないっ!!

根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマをまき散らすだけでも、
十分害毒があるわけやけど、
読まれて困る田中さんの挙げた親鸞聖人の根拠を、
バッチリ抹消している、
卑劣なやり方もみんなに見てもらわないとね~(苦笑)。
 ↓ ↓ ↓

~~2008 5/25(日) 22:09 田中さんのメール~~
そもそも貴社の誤りは、不体失往生の根拠として、「若不生者不取正覚」の八字を使ったことでした。

親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは本願成就文の「即得往生住不退転」の八字です。

ビデオの製作者は、本願成就文も、本願文も同じようなものだから、どちらでも良いだろうと思われたのかも知れません。

もし私が製作者だったら、迷わず「即得往生住不退転」を使ったでしょう。

親鸞聖人が、不体失往生の根拠として、「若不生者」ではなく、「即得往生」を使われた文章を紹介します。

「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。→唯信抄文意

即得往生は、後念即生なり。即時に必定に入る。→愚禿抄

当然ながら、体失不体失往生の根拠とされる、口伝抄に描かれている法然上人のお言葉も「即得往生住不退転」の八字を出されており、「若不生者不取正覚」はどこにもありません。

親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、「即得往生住不退転」を現益として解釈されています。

ですから、どちらでも良い、という訳にはいかないのです。


親鸞聖人が、不体失往生の根拠とされたのは、「即得往生住不退転」であって、「若不生者不取正覚」では無かったのです。

確認事項に答えるまでもなく、貴方の返答から、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ということが、自ずと明らかになりました。

しかし、仮に、「若不生者不取正覚」に不体失往生の意味があると誤解していたとしても、親鸞聖人の説き方を理解されていれば、迷わず、「即得往生住不退転」の八字をビデオで描いていたでしょう。

親鸞聖人が不体失往生を論じられる時は、常に「即得往生住不退転」を根拠とされたのですから。

~~2008 5/25(日) 22:09 田中さんのメール~~

田中さんに、気持ちいいぐらいボコボコにされているけど、
なかったことにするのは、ちょっと無理だと思うで(苦笑)。


というわけで、

83,不体失往生の根拠として「若不生者不取正覚」を用いたチ●ーリップ企画のアニメの誤りを指摘し、『「若不生者不取正覚」の「生」に、不体失往生の意味もあることを仰った、親鸞聖人のお言葉は無い』ことを証明した田中氏のメールから、根拠となる親鸞聖人の言葉やチ●ーリップ企画にとって都合の悪い発言を削除している。


◆平成20年6月18日のメール
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。

成就文には不体失往生しか説かれていないから、田中氏の主張通りなら、成就文は「若不生者」抜きの不完全な解説になってしまう。たしかに田中氏の理解では、成就文は本願文すべての説明ではない。

あ~ん?(苦笑)

~~2008 6/18(水) 23:03 田中さんのメール~~
「即得往生住不退転」で不体失往生した人だけが、「若不生者不取正覚」と体失往生できますから、密接不離な関係がありますが、イコールではありません。
 
 貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか?イコールだと仰るなら、イコールだと仰った親鸞聖人の根拠を提示して下さい。
~~2008 6/18(水) 23:03 田中さんのメール~~

ははは(笑)。

★「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」
   ↑
これを証明する親鸞聖人の言葉が挙げれないから、
田中さんのメールを意図的に削除したわけね。

ちょっと、確認したらバレバレでっせ(苦笑)。


というわけで、

84,【「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」】というドグマを証明するための親鸞聖人の言葉を挙げることができないので、田中氏のメールから都合の悪い質問は意図的に削除している。



◆平成20年4月17日のメール
本願成就文は、信心をえるとは、どういうことかを解説された文章であって、本願文の何から何まで総てを解説したものだという貴方の考えには反対です。

では、本願のどこの解説か確認したところ、全く分からないと告白されている。

◆平成20年4月17日のメール
(『本願成就文』は、「本願文」のどこまでの解説で、「本願文」のどの部分が解説に入らないのか)、何文字目から何文字目というような、文字数で尋ねられても、私には分かりません。

これでは、「若不生者」と「即得往生」はイコールでないの断言は何だったのか危ぶまれる。根拠を示せないことは、本人も認められている。

◆平成20年6月21日のメール
「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールでないと仰った親鸞聖人の根拠があるかどうか、私は分かりません。

そんな田中氏が、本願で不体失往生を誓われたのは「若不生者」でないと言い張り、「至心信楽」と〝考えるべきでしょう〟と推測されるのだ。

あ~ん?

既に親鸞聖人の言葉に基づいて、
【「若不生者不取正覚」≠「即得往生住不退転」】
は証明済みだよ~ん。(ちゃんと復習してるのかな~?)

そんでもって、チ●ーリップ企画が主張する、
【「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」】
が根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマなことは、
田中氏の発言を削除して、根拠を挙げれないことを、
おもいっきり誤魔化していることからも明かですな(苦笑)。


というわけで、

85,既に親鸞聖人の言葉に基づいて、【「若不生者不取正覚」≠「即得往生住不退転」】
は証明済みである。一方で、チ●ーリップ企画が主張する【「若不生者不取正覚」=「即得往生住不退転」】が根拠に基づか(け)ないヘンテコドグマなことは、田中氏の発言を削除して、根拠を挙げれないことをおもいっきり誤魔化していることからも明かである。それにも関わらず、田中氏の主張に問題があるかのような書き方をするのは、全く不当でマヌケな発言である。



◆平成20年6月18日のメール
本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、この言葉(至心信楽)と考えるべきでしょう。

「でしょう」と憶測している人に、「若不生者」は不体失往生でないと断定できようか。これも、根拠無き発言が真相だった。

◆平成20年6月21日のメール
『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠でないと仰った、親鸞聖人の文章があるのかどうか、私は分かりません。

「若不生者」が不体失往生を誓われた根拠は、釈迦の成就文に聞くべきであろう。

\( ̄ー ̄#)なんでやねん!

もうわけわからん説明はエエし、
【「若不生者不取正覚」≠「即得往生住不退転」】
になにか反論してみてね(苦笑)。

ま、でけへんと思うけどね(苦笑)。




大沼法龍先生の教えは忠実にパクルくせに、
親鸞聖人の言葉には忠実じゃないし、
田中さんの言葉はバリバリ捏造するんやね(苦笑)。

あ!違うか?
「パクリ損ない」やったね(苦笑)。






おまけ

>◆平成20年6月18日のメール
>本願文で不体失往生に対応する部分を、あえて挙げよと言われるのであれば、
>この言葉(至心信楽)と考えるべきでしょう。
 ↑
これが正しいことは、優秀なちび●さんが証明してくれてますよ~。
 ↓
ちび●墓穴!(再掲)
「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う(再掲)

僕の解説や上のちび●さんの解説を読んでもわからなかったら、
この清森さんの解説も読んでね~。
 ↓
清森問答 質疑応答144

そんでもわかんなかったら、
ちび●さんにちゃんと教えてもらうしかないね(苦笑)。


ツッコミ!【第36回】「若不生者の誓、まことだった」の表明

第36回が更新されました。
 ↓
【第36回】「若不生者の誓、まことだった」の表明

田中氏は、また次のようにも言われている。

◆平成20年2月15日のメール
親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と親鸞聖人が『教行信証』の冒頭に仰っているのは、当然ながら生きているときである。
「摂取不捨の真言」も、「超世希有の正法」も、「弥陀の本願」すなわち「若不生者の誓」であるから、「若不生者の誓、まことだった」と親鸞聖人はここで仰っているのである。

ところが、「若不生者不取正覚」の「生」は、死んで極楽(本願の実報土)に生まれることだけだ、と思い込んでおられる田中氏は、親鸞聖人の「必ず生まれさせる、弥陀の本願まことだった」という感動的なお叫びも、その真意が正しく読めないのであろう。
「『若不生者不取正覚』という力によって『生まれさせられた』慶喜ではない」と平然と言い放たれる。

では、親鸞聖人の「弥陀の本願まことだった」の表明は、一体なんなのか。弥陀の本願三十六文字から、「若不生者不取正覚」の八文字だけを抜いた「残りの二十八文字だけがまことだった」という意味だとでも言われるのであろうか。
そんな田中氏は、こうも言われているではないか。

◆平成19年12月17日のメール
本願を信ずる心は、阿弥陀仏より賜る心ですから、本願文の一部を疑い、残りを信じるということは無いと思います。

そのとおりである。
本願文の一部「若不生者不取正覚」を疑い、残りを信じるということはありえないのだ。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」は、明らかに、弥陀の本願三十六文字すべてが「まことだった」という表明であり、それは「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」からに他ならない。それは、「死んで本願の実報土に生まれさせられた」慶喜ではもちろん無く、「生きているときに、信楽に生まれさせられた」慶喜であることも明白である。

まさに、「若不生者不取正覚」の八文字は、弥陀が「不体失往生」に正覚(仏のさとり)をかけておられるのだということを、親鸞聖人が自ら信知されて叫ばれたのが、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」ではないか。

まちがった思い込みから、田中氏がお聖教のお言葉も正しく読めなくなっておられる、これは一つの例証であろう。

あ~ん?(苦笑)

~~2008 2/15(金) 21:51 田中さんのメールより~~
 唯信鈔文意に『「来迎」というは、「来」は浄土へきたらしむという。これすなわち若不生者のちかいをあらわす御のりなり。穢土をすてて、真実報土へきたらしむとなり。』とあるように、「若不生者の誓」の「生」は「真実報土へ生まれる」の意味だということが記述されています。
 
 
 
>その、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」慶喜を親鸞聖人は、「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのではないですか。死んで極楽に生まれてから仰ったことではないでしょう。(※苦笑注 これは山田さんの主張を引用している部分ねw)
 
 
 親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と仰っているのは、死んで極楽に生まれてから仰ったことではありません。
 
 つまり、これは、「若不生者不取正覚」という力によって「生まれさせられた」、すなわち「本願の実報土に生まれさせられた」慶喜では無いということです。
 
 親鸞聖人が、尊号真像銘文に『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されている通りです。 
~~2008 2/15(金) 21:51 田中さんのメールより~~

田中さんは、親鸞聖人がお書きになられた、
『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』
に基づいて語っているわけだけど、
親●会ドグマにとって都合が悪いから、
カットしちゃうんですかいな(苦笑)。

あるいは、『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』の文章が、
書かれていても見えなくなっちゃうフィルターかなんかが、
親●会の人にはかかっているのかもね(苦笑)。

でもそのような姿勢を、

●ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。『唯信鈔文意』

と、八十五歳の時にお書きになられた親鸞聖人は、
どのように思われるでしょうね~。

「やすくこころえさせんとて、
 おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり」

してくださってるんでっせ~。

この言葉よりチ●ーリップ企画(=親●会)が
壞れたテープレコーダの如く繰り返す、
ドグマの方が大事なんですか?(苦笑)


というわけで、

79,親鸞聖人がお書きになられた『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』に基づいて語ってい自説を主張している田中氏のメールから、親●会ドグマにとって都合が悪い『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』の記述を意図的にカットしている。

80,あるいは、親●会ドグマにとって都合が悪い『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』の文章は、書かれても見えなくなるフィルターか何かが親●会の人にはかかっているのかもしれない。



チ●ーリップ企画に、
いちおう言っておいてあげるけど、
オイラが呆れてツッコミいれなくなるまで
だらだら更新する作戦なら、
逆効果だしやめといた方がええで。
あんたらがヘンテコ更新をする限り、
ず~とツッコミ続けるますからね(苦笑)。




追記

たしか清森さんが親●会を除名された理由に、
「七高祖の文献を読んだ」ちゅうのがあったけど、
今後は『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』を読んだら、
親●会を除名されるかもしれませんな。
だって、親●会ドグマに都合が悪いんだもん(苦笑)。
 ↓
除名の理由

 ある責任ある立場の講師部員から、清森さん除名の理由が明らかにされました。

(1)華光会の本を読んでいた。
(2)七祖聖教を読んでいた。
(3)西堀咲枝さんの話を聞いていた。
(4)上田祥広さんの味方をした。

ツッコミ!【第35回】「信楽」になる「本願文」の根拠

第35回が更新されました。
 ↓ ↓ ↓
【第35回】「信楽」になる「本願文」の根拠

今日も復習からいくよ~。
まずは、以下の記事を各自三回づつ読んでね。
 ↓↓↓

★「信楽の身」になるための働き
★阿弥陀仏のマニフェストが四十八項目あるって知ってる??

特に今回はこれが大事だから、これは更に二回読んでね。
 ↓↓↓

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
355 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/12(土) 12:39:48 ID:YYE+p5fC
>>350
現益も本願力(願力自然)でいただくのは、その通りです。
「現益をいただく」=「名号をいただく」です。
名号を与える働きが「光明」です。
光明無量を誓われたのが第十二願です。
ですから、「第十二願力によって名号が与えられ、現益が獲られる」という言い方もできます。
また、「三願転入で、第十八願の世界=当益が確約された世界=現益が獲られる」
という言い方もできます。(この場合、第十九願力と第二十願力で現益をいただく、
ということになります。)
つまり、「本願力」=「四十八願全体の力」と考えるのが自然であり、
なにも「第十八願力」に限ったことではありませんし、まして
「本願力」=「若不生者の念力」などど勝手な造語と結び付けるのは単なるこじつけです。
「本願力」=「四十八願全体の力」という意味で言うなら、
現益も当益も本願力でいただくというのは、まさしくその通りです。


376 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/12(土) 13:44:11 ID:YYE+p5fC
第十八願が四十八願の一番のメインであるのは確かですが、
本願力(阿弥陀仏のお力)を「第十八願力」に限定し、さらにそれを
「若不生者の願力」と勝手に言い換え、それを根拠に
「若不生者には現益の意味もある」と主張したい気持ちはよく分かりますが、
かなり論理に飛躍があり、やはり「初めに結論ありき」の「こじつけ」でしかないと感じます。
もっと明確に「若不生者には現益の意味もある」と仰った親鸞聖人のお言葉を
出してみなさいよ。明確に当益で解釈されたお言葉は複数あるのに、
それと同じくらい明確に現益で解釈されたお言葉が一つも出せないというのは
やっぱりおかしいですよ。

あと、素朴な疑問ですが、「若不生者」の「生」に
「信楽に生まれる」と「報土に生まれる」の2つの意味がもしあるなら、
それを補った上で、本願文をどのように書き下して読むのですか?

602 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/18(金) 21:09:37 ID:HA1V4xsT
本願文は「…欲生我国(乃至十念)若不生者…」ですから、
普通に読めば「若不生【我国】者」のはずです。つまり当益です。
成就文も「…願生彼国 即得往生…」ですから、
普通に読めば「即得往生【彼国】」のはずであり、「往生」の部分はやはり当益です。
この意味で、本願文と成就文はちゃんと対応していますよ。
しかし、当益を約束する本願が成就した結果、
名号を頂いた平生の一念ですぐに「彼国に往生できるという確約(保障)」が「得られる」のですから、
それはもう「往生したも同然」という意味で、
そのことを親鸞聖人が大胆に「不体失往生」と名付けたのではないでしょうか?
つまり、「当益を得ることが保障された状態になること」が現益なのですから、
当益と現益とは相反するものではありません。
(もちろん親鸞聖人は「背師自立」ではありません。)
おそらくこのような背景があって、親鸞聖人は「即得往生」を現益で解釈されたのだろうと
拝察されます。
しかし、その親鸞聖人が「若不生者」までも現益に読み替えられたお言葉は見つかりません。
(理由はともかく、この事実をまずは謙虚に厳粛に受け止めるべきです。)
成就文は本願が成就したという前提がある故に現益に読み替えることが可能だったのでしょうが、
もし本願の「若不生者」までも現益に読み替えてしまったら、
究極の目的である当益がどこにも誓われていないことになり、その結果、
「現益」もなくなり、「無益」になってしまうんです。
「現当ニ益」の教えの「本」は本願であることを忘れてはなりません。


605 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/18(金) 21:28:18 ID:HA1V4xsT
(602のつづき)
ただし、本願が成就したという前提の上で、成就文の立場から再び本願文を眺めれば、
「若不生者」も現益で「味わう」ことができるのかもしれません。
実際、大沼氏はそのように味わいました。
しかし、それはあくまで当益が本義であることを十分に踏まえた上でのことです。
ところが、高森氏は、その大沼氏の「味わい」を本義だと思い込み、
逆に、当益で解釈するのを「間違いだ」と主張し、
アニメでも親鸞聖人自身にそう言わせています。
これでは本末転倒でしょう。
「大沼氏のパクリ損ない」と言われる所以です。
(もっとも、田中氏から、親鸞聖人が当益で解釈された根拠を突き付けられた結果、
当益で解釈するのを「間違いだ」という主張は撤回し、
「現益と当益の2通りの意味がある」という主張に修正しましたが…。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

結局、高●先生個人の「味わい」を硬直してドグマ化するから、
「味わい」に合わせて聖教を、
「初めに結論ありき」の「こじつけ」で、
強引に読まなアカンようになるのよね(苦笑)。


とりあえず、何をぐちゃぐちゃ言っても、

★本願文=本願成就文
★「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」
★「信楽」=「正定聚・不退転」

これらの主張は根拠に基づか(け)ない、
親●会でしか通じないヘンテコドグマですわね(苦笑)。



さて、以上を踏まえてこいつを読んでやってくださいね~。
 ↓

この論戦の争点は、一貫している。
私達を「信楽」にするのは、「何の力」か、ただ一つである。

あ~ん?(苦笑)

【第1回】論戦の発端

共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。

 ↑
このように言ってたのはどこの誰でしたかね(苦笑)。

ぶっちゃけ、ボロボロなことがわかっているから、
論点スライドしようとしてるんだよね?(苦笑)

その魂胆は、田中さんにも見破られていたわけだけど、
 ↓

~~2008 7/1(火) 23:19 田中さんのメール~~
 信楽をえさせるのは、何方のどんなお力かとお尋ねですが、阿弥陀仏の調熟・破闇光明の働きです。
 
 この程度のことも、ご存知ないのでしょうか?
 
 本題と関係ないことを、質問しないで頂きたく思います。
~~2008 7/1(火) 23:19 田中さんのメール~~

ほとぼりが冷めたと思っているわけ?(苦笑)
全く呆れたもんですな(苦笑)。


というわけで、

76,流石にこのままだと法論に敗北することがわかってきたので、それまで【共に明らかにせんとしたのは唯一つ、偏に、弥陀の本願の「若不生者不取正覚」の正意であり、親鸞聖人の真の教えに外ならない。】と言っていたのに、【この論戦の争点は、一貫している。
私達を「信楽」にするのは、「何の力」か、ただ一つである。】と露骨な論点スライドを行っている。


77,そのような論点スライドが不当なことは既に田中氏によって指摘されている。しかし田中氏からの反論がないことをいいことに、平気で露骨な論点スライドを行っている。


それについての田中氏の見解は、こうである。

◆平成20年1月14日のメール
私達が信楽に生まれるのは、「弥陀の本願力」によるものだということに異論はありません。

「信楽が生まれる」のは「弥陀の本願力」によることを、認めておられる。
ところが、同じ田中氏が、次のようにも言われるのである。

◆平成20年2月2日のメール
「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「いつ生まれるのか」ということは、本願文には明示されておりません。

「信楽が生まれる」根拠は、「弥陀の本願文にない」、との断言である。
こうも言われている。

◆平成20年2月8日のメール
(「信楽」は「どうして生まれるのか」「なんの力で生まれるのか」「いつ生まれるのか」、)私は「本願文での根拠」は知りません。

本願の肝要をお尋ねしているのに、「本願文での根拠は知りません」。

これが田中氏の、「本願」の領解なのである。

「信楽にする」と誓われていない本願に、どうして我々を「信楽にする」力があろうか。
「根拠を知らない」田中氏が、どうして「『信楽が生まれる』のは『弥陀の本願力』による」と、明言できたのだろうか。

先の「平成20年2月2日のメール」では、

だからこそ、釈迦が本願成就文で説明されたのです。

と、田中氏は続けられる。では尋ねたい。
弥陀が「本願文」に誓われていないことを、釈迦は「成就文」に説かれた、とでも言われるのだろうか。釈迦が説かれたことは、「本願文」に「根拠のない」ことなのだろうか。そんな「成就文」を、親鸞聖人が「横超とは即ち願成就」とか、「一実円満の真教真宗」と仰る筈がないではないか。

この点を糾したのが、当方の次の質問である。
◇平成20年6月29日
貴方は、平成20年2月2日のメールで、
『「信楽」は「どうして生まれるのか」、「なんの力で生まれるのか」、「本願文」には明示されておりません』
と言われています。
「本願文に明示されていない」と言うことは、弥陀が説かれていないと言うことですか。弥陀が説かれてないことを、釈迦は説かれたのですか。

これも、未だにお答え頂いていない。
「本願文」と「成就文」の関係を、正しく知られないからであろう。

弥陀が「本願文」に「若不生者」と明示されている「生」の願意を、「死後ではない、現在、信楽に生まれさせる」「不体失往生」と、鮮明に説かれたのが、釈迦の「成就文」であり、親鸞聖人なのである。

はいはい(苦笑)。

★本願文=本願成就文
★「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」
★「信楽」=「正定聚・不退転」

これらの主張が、根拠に基づか(け)ない、
親●会でしか通じない「ヘンテコドグマ」なことが、
よいこのみんなにはバレバレなわけですが、

こんな「ヘンテコドグマ」を前提に、
何をぐちゃぐちゃ言ってもらっても、
そんなのは「ヘンテコ解説」以外の何者でもありまへんで(苦笑)。



論点スライド目的の記事にツッコムのは、
流石にめんどくさ過ぎるから、
もう繰り返さないけど、
今日の復習を読んでもらったら、
論点スライドしてもヘンテコドグマなのが
本当によ~わかりますわ(苦笑)。


というわけで、

78,【本願文=本願成就文】【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】【「信楽」=「正定聚・不退転」】という「ヘンテコドグマ」を前提に、「ヘンテコ解説」をおこなっているので、論点スライドした内容まで「ヘンテコドグマ」である。



はあ・・めんどくせえ(苦笑)。

ツッコミ!!【第34回】「若不生者」の『成就文』による解釈

第34回が更新されました。
 ↓ ↓ ↓
【第34回】「若不生者」の『成就文』による解釈

今日も、復習からいくよん。
まず、この三つを三回ずつ読んでね♪
 ↓ ↓ ↓

★「若不生者」の「生」は、「極楽に生まれる」じゃなきゃだめ!!
★「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う
★「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)の関係

特に今日は、これを更にもう一回読んでおいてね~♪
 ↓

▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
653 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:00:34 ID:eu09B6u2
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に極楽に生まれること」』
> これと
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に必ず
> 極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」』
> この2つには区別が立つというのが本稿での主張です。

> 後者の表現の場合、この「生」は極楽ではなく、

いや、あくまで「生」を「極楽に生まれる」と解釈するからこそ、
前者から後者の意味が派生するのです。

>「死んでから後に必ず極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」とは
> 法の深信で、機の深信の同時に立たない二種一具の深信はないのだから、
> 正にこれこそが、「信楽」の一心の相状を顕すのです。

そもそも「信楽を獲た人は」という大前提があるのを忘れています。
この人の主張によれば、本願の内容は
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
となります。これでは同義語反復であって、何も誓われていないのと同じことになります。

本願の内容はあくまで
「信楽を獲た人を極楽に生まれさせる」
です。(親鸞聖人自身が、あちこちで何度も仰っていますから間違いありません。)
そして、この意味から
「信楽を獲た人は極楽往生が確定する」
という意味が派生し、さらに「極楽往生が確定する」ことを「不体失往生」と定義することにより、
「信楽を獲た人は、その一念で不体失往生する」
という意味も出てきます。(実際、成就文はそういう内容になっています。)
ですから、本願文を深読みすれば、ここまでの意味を導くのはセ-フです。


656 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:13:05 ID:eu09B6u2
>>653の続き

しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、
あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
という同義語反復になってしまいます。
ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。



658 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:28:21 ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。

なお、田中氏は「即得往生」に該当する箇所を本願文では「至心信楽」だと言いましたが、
それは時間的に同じ部分はそこしかないという意味で言ったのだと拝察します。
実際、田中氏は、「即得往生」と「至心信楽」が「同じ意味だ」という言い方はどこにもしていません。



698 名前:神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 23:49:14 ID:eu09B6u2

法論の参考までに。

http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/23kgaku.html
703 名前:神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 07:32:25 ID:EFeh3d8c
>>698

このことからまず、「若不生者」が当益なのは昔から当然とされていることが分かります。
(だいたい、「至心信楽欲生【我国】の者を生まれさせる」なのだから、
普通に読めば「【我国】に生まれさせる」なのは当然だし、
実際、親鸞聖人がそのように当然な解釈をされたお言葉が複数存在するのですから論ずるまでもありません。
「親鸞学徒」ならば、親鸞聖人のお言葉を、書かれている通りに素直に読むべきなのに、
山田氏は何をごちゃごちゃ捏ねくり回してるんだかと思います。)

それと、伝統的には「即得往生」も当益と解釈されていたことが分かります。
これも「願生【彼国】即得往生」ですから普通に読めば「往生【彼国】」です。
ですから、伝統的には「若不生者」も「即得往生」もともに【当益として】対応していました。
(ちなみにこの場合、「即」は「異時即」です。)

ところが親鸞聖人が初めて「即得往生」を現益に読み替えられたのです。
ただしこれにも2通りあって、聞信の一念で即、「往生彼国の保障を得る」というのが1つめの読み替えです。
つまり、往生そのものは当益だがその保障を得るのは現世においてだからということで、
「即得往生」全体としては現益だという解釈です。
2つめの読み替えはもっと大胆に、「往生」そのものを「心は浄土に遊ぶなり」の意味に解釈するものです。

いずれにしても、親鸞聖人は「即得往生」を現益と解釈されました。

705 名前:神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 08:30:11 ID:EFeh3d8c
>>703の続き

山田氏も田中氏も親鸞聖人の解釈に従う立場のようですから、
「即得往生」は現益であるという認識で一致しています。
この点は何も問題ありません。
ところが、親鸞聖人が「即得往生」を現益に読み替えた以上、
(少なくとも直接的には)「若不生者」との対応関係が失われました。
それなのに、読み替え前に成立していた対応関係を拡大解釈して、読み替え後にも成り立つと思い込み、
それによって「若不生者」までもが現益だというように話を展開するつもりのようです。
これは全くの本末転倒です!

あるいは対応関係をそのまま利用するのではなく、
「即得往生」を現益に読み替えた方法論をうまく真似することによって、
「若不生者」までも現益に読み替えようと試みるかもしれません。
しかし、「即得往生」を現益に読み替えることができたのは、
本願で当益が誓われ、それが成就したという前提の上でのことです。
もし本願で当益が誓われていなければ、
「往生彼国の保障を得る」こともありえませんし、
「心は浄土に遊ぶなり」もありえません。(未来が明るくなってこそ現在が明るくなるのですから。)
ですから、もし「若不生者」までも現益に読み替えてしまったら、全ての土台が崩れ、
当益はもちろん現益もなくなり、全くの「無益」になってしまうのです。
ゆえに、「若不生者」の現益への読み替えは絶対に不可能です!

まあ、本願文の本来の意味を踏まえた上で(つまり土台を崩さずに)、
あくまで【仮想的に】成就文と同じように【味わう】ことによって、
「若不生者」を現益に解釈するというのならギリギリセーフかもしれません。
ただしその場合でも、【信楽を獲れば】という前提条件は除去できません。
(つまり、「信楽を獲れば、不体失往生する」という解釈でなければなりません。)

ところがさらにこれを「不体失往生」=「信楽を獲る」と誤解し、
「十方衆生を信楽に生まれさせる」というのが本願だと主張するのであれば、
それはもう、むちゃくちゃな解釈になってしまいます。

706 名前:神も仏も名無しさん:2008/06/28(土) 08:56:45 ID:EFeh3d8c
>>705の続き

法蔵菩薩は「本願が成就しなければ正覚を取らない」と言われ、十劫の昔に阿弥陀仏と成られました。
ですから、十劫の昔に本願が成就したのは間違いありません。
つまり、お約束は既に果たされたのです。
ですから、お約束の内容が、もし「十方衆生を信楽に生まれさせる」であるならば、
十方衆生は十劫の昔に信心獲得していなければなりません。
しかし、これは事実に反します。

そこでこの矛盾をごまかすために、親鸞会では、
「法蔵菩薩は十劫の昔に成仏されたが、本願はまだ成就していない」ということにして、
「不取正覚」を「一旦取った正覚を捨てる」というように解釈するのです。
根本的な誤りのしわ寄せが、こんなところにも表れているのです!

間違いを認めて訂正すれば、全てがストレートに解釈できてスッキリするのにねぇ…。
本願に関してこんな歪んだ解釈をする人の話で本当に救われるんでしょうかね?
△ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △


それでは、以上を踏まえて見てみましょう♪
 ↓ ↓ ↓

「若不生者」は「極楽に生まれさせる」ことだけであり、死後に限ると、田中氏は一貫して主張される。

◆平成20年1月8日のメール
親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

いくら「明らかです」と言い張ろうと、『成就文』に根拠がなければ、聖人の教えにならない。
親鸞聖人は本願を一実・円満の真教『成就文』に忠実に解釈されたのだから、聖人が「若不生者」をどう解釈されたか知るには、『成就文』の正しい理解が必須である。

その『成就文』には現在の救いのみ説示され、死後のことは一切、説かれていない。だから聖人が「若不生者」は「死後、極楽に生まれること」だけと解釈されたご文など、あるはずがないのだ。
聖人のお言葉は、「若不生者」は死後に限るという田中氏の誤りを正されたものばかりである。

あ~ん?(苦笑)

~2008 1/8(火) 20:18 田中さんのメール~
 話を戻しますが、貴方は、私が「不体失往生」を否定しているかのような書き方ばかりされますね。

 私は最初から、この世で「信楽」に「生まれた」者だけが、死んで「極楽浄土」に「生まれる」ことが出来ると主張し続けております。

 そのことを、親鸞聖人は

「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。

 このように記述されています。他にも、何箇所も「若不生者の生は、極楽浄土に生まれることだ」と書かれています。

 逆に、貴方のように「若不生者の生は、信楽に生まれることだ」と書かれているところは一箇所もありません。


 親鸞聖人は、「若不生者」の「生」を「極楽浄土に生まれる」という解釈以外されていないのは明らかです。

 もし、「極楽浄土に生まれる」という意味だけしかない、ということに異論があるのであれば、親鸞聖人の御言葉を示してください。

 私は何回も根拠を示していますが、貴社からは、いまだに一つの根拠も出てきません。

~2008 1/8(火) 20:18 田中さんのメール~

チ●ーリップ企画(=親●会)のヘンテコドグマが、
親鸞聖人の言葉に抵触することが、
田中さんにバッツリ指摘されているわけですが、
都合の悪い親鸞聖人の言葉はキッチリカットですか?(苦笑)


もう、反論しやすい形に捏造した意見にしか、
反論することもできないんやね(苦笑)。


というわけで、

69,チ●ーリップ企画(=親●会)のヘンテコドグマが、親鸞聖人の言葉に抵触することが田中氏によって既に指摘されていることは明かである。(2008 1/8(火) 20:18 田中さんのメール)

70,しかしチ●ーリップ企画(=親●会)は、根拠となる親鸞聖人の言葉の部分を削除することによって、田中氏の主張を反論しやすい形に捏造し、捏造した意見に反論することによって、反論ができているかのような印象操作を行っている。



『成就文』には「若不生者」の真意を「即得往生住不退転」と解説され、弥陀が「必ず生まれさせてみせる」と命を懸けられたのは、「生きている時、信楽に生まれる」不体失往生であることを明示されている。
だから親鸞聖人は『愚禿鈔』で、「若不生者」の「生」は、『成就文』の「即得往生」であり、信楽の心に生まれることだと細説されていることは、すでに述べた。

『信受本願 前念命終 即得往生 後念即生』(愚禿鈔)

弥陀に救われた一念に迷いの心が死ぬ(前念命終)と同時に、「即得往生」と信楽の心にする(後念即生)。ここでも聖人は、「若不生者」と命を懸けられたのは、心が死んで生まれる現在の往生(即得往生)だと明言されている。まさしく『成就文』に合致した聖人のお言葉である。

なお、田中氏は平成20年6月28日のメールで、この『愚禿鈔』のお言葉は『「若不生者」については触れられていません』とも主張されているが、「信受本願」とは弥陀の本願まことだったと、本願三十六文字にツユチリほどの疑心もなくなり、本願と私が一つになったことである。「若不生者」を抜いた本願の一部に疑い晴れたことでは決してない。
本願と一体になった一念に、心の臨終と誕生の同時体験をさせられたと仰有っているのだから、本願のこの部分には「触れられていません」などという理屈が通るはずがなかろう。
「触れられていない」どころか、「若不生者」は「死後、極楽に生まれる」意味しかないという、現代もある根深い謬見を正されたお言葉なのである。

あ~ん?(苦笑)

~ 2008 6/28(土) 20:40 田中さんのメール ~
★ 貴方が「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈されたことに、親鸞聖人の根拠が有るのか。無いのか。
 
 
 これ1つを、繰り返し、繰り返し、質問してきました。今回、この質問に対して、ようやく以下の返答を頂きました。
 
 
>『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
>即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
 
 
 この返答で、貴方の主張には、結局、根拠が無いことが、明白になりました。
 
----------------------------------------------------------
 
★「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。
 
 
 尊号真像銘文には、以下のように記述されています。
 
『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。』
 
 
 つまり、「本願を信受する」=「至心信楽をえる」ということです。
 
 貴方の根拠は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、
「若不生者」については触れられていません。
 
 
 さらに、尊号真像銘文は、以下のように続きます。
 
『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』
 
 
 至心信楽をえた人、イコール「即得往生」した人が、死んで極楽浄土に生まれるのが、「若不生者」の「生」だと断定されています。
 
 当然、「即得往生」=「若不生者」は成り立ちません。
 
 
 貴方が主張するように、「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになり、上記の親鸞聖人の記述は間違いということになります。
 
 
 つまり、貴方の提示された根拠では、「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈することは出来ません。

~ 2008 6/28(土) 20:40 田中さんのメール ~

あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。
 ↑
ですっごい前に晒し者にされているわけだけど、
チ●ーリップ企画(=親●会)が挙げた唯一の根拠は、
速攻でボコボコにされちゃっているんでっせ~(苦笑)。


いくら都合が悪いからって、
ボコボコにされた記事を捏造するとは、
呆れてものが言えませんな(苦笑)。


というわけで、

71,チ●ーリップ企画(=親●会)のヘンテコドグマの根拠としてあげた親鸞聖人の言葉が、全く根拠になっていないことは、既に田中氏によって証明されている。(2008 6/28(土) 20:40 田中さんのメール)

72,しかしチ●ーリップ企画(=親●会)は、根拠となる親鸞聖人の言葉の部分も田中氏の解説もほとんど全て削除することによって、田中氏の主張を反論しやすい形に捏造し、捏造した意見に反論することによって、反論ができているかのような印象操作を行っている


もう、いつまでもやってたらいいですよ。
ず~と笑いものにしたるから(苦笑)。

ツッコミ!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する

第33回が更新されました。
 ↓
【第33回】弥陀の救いは一念で完成する

復習だけど、苦笑ちゃんはこれまでに、

★親鸞聖人の言葉に基づき「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることを証明し、【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを論証しました。

★親鸞聖人の言葉に基づき「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであることを証明し、「信楽=正定聚」とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、「信楽の者→正定聚」とお説きになられている親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを証明しました。

★その成果が、この図になるわけですわ。
 ↓ ↓ ↓
                                  第十一の願の
=前念(因) 介在時間0  =後念(果)              必至滅度の願
「信受本願」【←即の時→】「即得往生、住不退転」「若不生者 不取正覚」成就
    ↓           ↓            ↓       ↓
  真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・→極楽浄土へ往生→成 仏
    |           |           |      |
  十八願の真実の       |           |     等正覚にいたり
   信心をうれば→すなはち正定聚に住す        |     大涅槃を証する
           (この土の益)          |     (かの土の益)
      ↓       ↓              ↓      ↓ 
    【時間的に同時の「時分」】          【一念須臾のあひだ】
     【1】         【2】

★これは、「結論出てるやん!」を紹介した時から一貫してますわね。
 ↓ ↓ ↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
31 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:22:19 ID:yFGdPQfg
『尊号真像銘文』から抜粋:

----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

----------------------------------------------------------------------
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
----------------------------------------------------------------------
※さすがに「平生業成」「現生不退」の意味を補っておられることに注目!
本願成就文の内容もちゃんと踏まえて本願文を解釈されていることが拝察されます。【1】

----------------------------------------------------------------------
「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
----------------------------------------------------------------------
※それでもなお、「若不生者」を「【わが浄土に】もし生まれずは」としか解釈されていません。【2】

232 :神も仏も名無しさん:2008/07/08(火) 14:23:58 ID:yFGdPQfg
>>231の続き

『尊号真像銘文』は親鸞聖人83歳の時の著作ですから『教行信証』よりも後であり、
当然、主著である『教行信証』の内容を十分に踏まえた上で書かれたはずです。
何もかも承知の上で親鸞聖人自身が本願文36字を全部解釈されたこの文章のどこにも、
「信楽に生まれさせる」とは書かれていません。この事実だけで十分すぎるほど十分です。
議論する余地など初めから何もないのです。

もし「信楽に生まれさせる」という意味も本当はあるのに親鸞聖人が書き忘れた
とでも言うのなら、それは親鸞聖人に対する冒涜以外の何物でもなく、
そんな暴言を吐く輩は断じて「親鸞学徒」ではなく、「高森学徒」です!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


よい子のみんなは、ここまでOKなわけですわ。

では、これを踏まえて以下の書き込みを見てみましょう♪
 ↓ ↓ ↓

田中氏の、「若不生者の誓」すなわち「弥陀の本願」の誤解は、次のメールに端的に示されている。

◆平成19年12月27日のメール
「信楽」に生まれた人を、さらに「極楽に生まれさせる」と誓われているのが、「若不生者」なのです。

これが、なぜ氏の誤解を端的に示す文章と言えるのか。
「信楽に生まれた」ということの意味が全く分かっておられないことが、ここには如実に出ているからである。
それは、「さらに」の3文字にある。

「信楽に生まれた」ということは、往生一定の決定心になったことで、いつ死んでも極楽往生間違いなし、の大安心大満足の身になった、ということである。正定聚とは、そういうことである。
蓮如上人の有名な『聖人一流の章』には、「信楽に生まれた」ことを、こう書かれている。
「不可思議の願力として、仏の方より、往生は治定せしめたまう。その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」
不可思議の願力(弥陀の本願力)によって、一念で往生が決定したことを、正定聚というのだと明らかにされている。

同様のことが『領解文』には、
「たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定」
と明記されている。

覚如上人の『執持鈔』には、
「平生の一念によりて、往生の得否は定まるものなり」
と、死後、極楽往生できるか否かは、平生の一念で決することが記されている。

この「信楽に生まれた一念」で「若不生者の誓まことだった」と『本願文』三十六文字すべてに疑い晴れることは、すでに繰り返し述べてきた。同時に『本願文』三十六文字と一体になるから、覚如上人は、
「本願や行者、行者や本願」(執持鈔)
とも言われている。
つまり、名号を頂いて「信楽に生まれた一念」に、弥陀の救いは成就完成しているのである。「信楽に生まれさせた力」とは別の力を「さらに」誓わなければ、極楽往生できないというものではない。

弥陀の救いを「極速円融」と親鸞聖人が仰るのも、一念で救いが完成するからこそである。それ以上加えなければならないものは、何ものもないのである。
この、弥陀の救いが一念で成就完成することを明らかにされたのが、ほかならぬ『成就文』ではないか。

田中氏のメールの「さらに」の三文字は、いかに田中氏が『本願文』を誤解しておられるか、『成就文』に無知であるかが象徴的に示されている、と言っても過言ではないだろう。

はいはい(苦笑)。

さっき復習したことがわかってないから、
こういうおマヌケな主張をするわけですね(苦笑)。

もう解説はエエよね?(苦笑)


一応言っておくけど、

●「不可思議の願力として、仏の方より、往生は治定せしめたまう。その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」

●「たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定」

●「平生の一念によりて、往生の得否は定まるものなり」

これらは、全~部上の図&『尊号真像銘文』の【1】の時点のことを言ってますからね~。
チ●ーリップ企画(=親●会)はわかってないみたいだけど(苦笑)。

というわけで、

64,親鸞聖人の言葉に基づいて「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることが証明されているのに、チ●ーリップ企画(=親●会)はあいかわらず【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】という親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマを主張している。

65,「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであり、親鸞聖人は「信楽の者→正定聚」とお説きになられていることが証明されているのに、チ●ーリップ企画(=親●会)はあいかわらず「信楽=正定聚」という親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマを主張している。


こんだけわけわかってないと、
もう、怒るのもアホらしくなりますわ(苦笑)。




あ!!言うの忘れる所だった!!
これは前に Fuuさんがツッコミ入れてはったんだけど、
2月27日のチューリップ企画のメールには、


「弥陀の若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽」に「生まれさせ」「極楽浄土」に「生まれさせる」というのが、親鸞聖人の教えです。

  ↑
このようにバッチリ書かれているんですけど、
今回の書き込みとの整合性はどうなるんでしょうかね~(苦笑)。

>「さらに」の3文字
   ↑
これがポイントなんでっか??
ははは。片腹痛いですな(苦笑)。

ヘンテコドグマを主張するのはもうシャアナイけど、
せめて主張に一貫性を持たせてよね(苦笑)。


というわけで、

66,チ●ーリップ企画(=親●会)は、かつて【「弥陀の若不生者不取正覚」の「生」は、「信楽」に「生まれさせ」「極楽浄土」に「生まれさせる」というのが、親鸞聖人の教えです。】というヘンテコドグマを主張していたが、いつのまにか【「若不生者不取正覚」には「極楽浄土に生まれさせる」という意味は無い】というヘンテコドグマに変更されている。どちらもヘンテコドグマなのであるが、主張を変更したのだから、そのことをきちんと報告する義務がある。


ドグマならドグマらしく、
きっちり固定しといてや(苦笑)。





追記

~ツッコミ!【第11回】覚如・蓮如上人の信楽の教えより~

続いて、このように弥陀に救われた身は、阿弥陀仏の本願に相応し、『本願文』三十六字全体が誠であったと体で知らされ、南無阿弥陀仏の名号と一体となり、私が南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏が私となるから、

『「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」という』  (執持抄)

と「信楽」の世界を喝破されている。


あ~ん?

★光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。
しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(礼讃)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず。
しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。
本願寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。これをたとふるに、日輪、須弥の半ばにめぐりて他州を照らすとき、このさかひ闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでに明くるがごとし。しかれば日輪の出づるによりて夜は明くるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜の明けて日輪出づと。いまいふところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて無明長夜の闇すでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなりとしるべし。『執持抄』四


僕が何度も教えてあげている『執持抄』の超重要な箇所を、
ヘンテコな形で切り取って引用するやめてくれません?(苦笑)

覚如上人に失礼だと思いませんか?(苦笑)

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』 【四・光明名号因縁の事】 (p.685) に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。

しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、
明確に区別しなければなりません。
第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、
全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。
これでは十劫安心になってしまいます。
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。
>>>

名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、
名号だけでOKみたいに印象操作しても無駄だよん(苦笑)。


 ↑
このツッコミを誤魔化すためにあわてて挿入した
のはバレバレですが、
笑っちゃうぐらい見事に墓穴を掘りましたね(苦笑)。

もっと言うと、
「報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり」
「報土にまさしく生るべき信心」
「行者の往生浄土のねがひ」
という、田中さんの主張の論拠を補強する言葉もありますな(苦笑)。

~ツッコミ!【第11回】覚如・蓮如上人の信楽の教えより~


この頃は、まだ宿題出してなかったから、
また同じ間違えをしちゃったのかな?

もう二度と間違えないように、宿題にしといてあげるね♪


67,名号と光明が合わさってはじめて信心がえられるのに、名号だけでOKみたいに印象操作しようとしているチ●ーリップ企画(=親●会)は、覚如上人の『執持抄』をヘンテコな形で切り取って引用している。

68,覚如上人の『執持抄』に書かれている「報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり」「報土にまさしく生るべき信心」「行者の往生浄土のねがひ」という言葉は、田中氏の主張を裏付けるものである。しかし、チ●ーリップ企画(=親●会)はこの部分は引用せず、この言葉に対する解釈を述べていない。


何か書くたびに墓穴を掘りますな(苦笑)。

ツッコミ!!【第32回】あくまでも本願を分断する田中氏

第32回が更新されました。
 ↓
【第32回】あくまでも本願を分断する田中氏

さらに検証を続けよう。

◆平成19年12月26日のメール
十八願の「至心信楽」の誓いによって、信楽がえらえるのです。そして十八願の「若不生者」の誓いによって、極楽浄土に生まれられるのです。

繰り返し指摘してきたことだが、ここでも田中氏は、本願文を「至心信楽の誓」と「若不生者の誓」の二つに分断している。そして、「信楽が生まれる(不体失往生)」と「若不生者」を切り離しているのである。
「若不生者」は「死後だけ」という自説に、「本願文」をムリヤリ当てはめようとするからである。

「若不生者の誓」を「不体失往生」と鮮明にされた「成就文」の教えを知らねば、「本願文」を正しく領解することはできないと、いよいよ知られるであろう。「成就文」を「一実円満の真教」「至極」「依憑」と言われるゆえんである。

あ~ん?(苦笑)

===平成19年12月26日田中さんのメール===

>その「信楽」がえられるのは、どうしてえられるのですか。「若不生者の念力」によるのではありませんか、と山田は言っているのです。「そうでない」、と言われるのならば、どうして「信楽」をえられるのか。その根拠を、親鸞聖人のお言葉で示して下さい。


 何度も示しましたように、『この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。』と記述されています。十八願の「至心信楽」の誓いによって、信楽がえらえるのです。

 そして、『「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』と、十八願の「若不生者」の誓いによって、極楽浄土に生まれられるのです。

===平成19年12月26日田中さんのメール===


親鸞聖人の教えに基づいて語る田中さんのメールから、
親鸞聖人の教えの部分を削除するとは、
インチキ野郎丸出しですな(苦笑)。

チ●ーリップ企画のサイトには、
過去のメールのやり取りも掲載されてて、
読者がそっちも読めるのに、
こんな露骨なインチキをするっていうのは、
ちょっと読者をなめてるんじゃない?(苦笑)


というわけで、

58,親鸞聖人の教えに基づいて語る田中氏のメールから、故意に親鸞聖人の教えの部分を削除して田中氏の主張を捏造し、田中氏が間違っているかのように印象操作を行っている。

59,チ●ーリップ企画のサイトには、過去のメールのやり取りも掲載され読者が読めるのにも関わらず、露骨な捏造行為を行うのは読者を愚弄する行為である。




というか、

●『この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。』『尊号真像銘文』
 ↑
この親鸞聖人の言葉は、親●会にとって都合が悪いから、
読まなかったことにせなアカンのでしょうな~(苦笑)。


===結論出てるやん!===
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!
===結論出てるやん!===

 ↑
これも、だいぶ前に教えてあげたことだけど、
忘れてもらっちゃ嫌ですよ~。
それとも、読んでないことにしてるのかな?(苦笑)

いずれにしても、親鸞聖人の教えは、
親鸞聖人の言葉に基づいて語らないとね~。


というわけで、

60,親鸞聖人は『尊号真像銘文』において、「至心信楽」を「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、 「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」と解釈されている。しかし、その解釈はチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマにとって都合が悪いので、親鸞聖人の言葉を故意に削除した形に田中氏のメールを捏造している。


チ●ーリップ企画のインチキ法論に呆れて、
親●会を辞めた人と最近メル友になったんだけど、
相手の主張を捏造するインチキ丸出しやり方や、
親鸞聖人の教えすら無視する不誠実さに、
ほとほと呆れてはりましたで(苦笑)。

今後も恥知らずな更新を続けて、
会員を減らして、僕ちゃんのメル友を増やす気ですか?(苦笑)
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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