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やさしい浄土真宗の教え §ラスト まとめ

§ラスト まとめ

これまでのまとめを掲載して、「やさしい浄土真宗の教え」を一区切りさせとくよん。
レクチャーをしっかり吸収して、「浄土真宗の教え」をちゃんと理解してね。


【浄土真宗の基本的システムに関する話】

§1 「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」
 1、「仏教の目的」は「成仏」である。
 2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
  「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
 3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
 4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
 「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。

§2 極楽浄土に生まれるためのシステム
 1、阿弥陀仏がマニフェスト(48項目)の第十八番目(第十八願文)は、「本願を信じた人を極楽浄土に生まれさせる」システムを作ることである。
 2、阿弥陀仏はマニフェストを実現したから、西方極楽浄土で仏様になっている。
 3、阿弥陀仏がマニフェストを実現して完成してくれたシステムによって、衆生は極楽浄土に往生することができる。

§3 阿弥陀仏の救いは平生から
 1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムで救われるのは「平生」である。
 2、そのことは法然上人が明かにしてくださった。
 3、親鸞聖人は「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見ることにより、
  「信楽」を得たその瞬間に、「往生」が確定して「成仏」も確定することを明かにした。
 4、浄土真宗では、このことを「不体失往生」と言う。
 5、したがって、「不体失往生」の根拠は「願成就文」の「即得往生住不退転」でなければならない。

§4 「信楽」と「正定聚」の関係
 1、「信楽」は「阿弥陀仏の本願に対する信心」、「正定聚」は「完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地」である。
 2、この二つは、因果関係にあって密接に関係している。
 3、しかし、この二つをイコールにしてしまうと、親●会のヘンテコドグマのように、様々な問題が発生してしまう。
 4、「信楽」は「プラサーダ」であって、「バクティ」や「思考停止」ではない。
 5、 極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」ではなく「プラサーダ」を目指さなければならない。

§5 何の力によって信心を得るか?
1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じなければ衆生は救われない。
 2、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに必要なのは、「信心」(=信楽、プラサーダ)である。
 3、本願の解釈を「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている」としたら、事実上「十劫安心」を肯定することになる。

§6 「名号」と「光明」
 1、阿弥陀仏が作ってくださった、「名号」が因、「光明」が縁となって私達は「信心」を得ることができる。
 2、「信心を得た!」ということは、阿弥陀仏が与えてくれる「信心」の体である「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」ということである。
 3、「名号」を受け取らなかったら「信心」とはならない。
 4、私達が「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は「光明」で働きかけてくれている。
 5、しかし、私達が「名号」を受け取って「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。


【浄土真宗の「聴聞」に関する話】

§7 聴聞(何を「聞く」のか?)
 1、浄土真宗の「信心」は、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
  疑いが完全に晴れた「信心」である。
 2、その「信心」になることによって、
  阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗ずることができる。
 3、「聴聞」によって、その「信心」は得られる。
 4、その「信心」は「一念」で得られるものであるが、
  それを獲得するまでの期間は、人によって様々である。

§8 なかなか信心獲得できない人のために・・
 1、なかなか「信心」を得られない人も、
  時間がかかっても、必ず「信心」を得られる時は来る。
 2、その時まで諦めずに「聴聞」を続けることが大事である。
 3、「聴聞」で「信心」を得られるように、
  自ら積極的に環境を整えていくことが大事である。
 4、それができなくなるような教えを説く、
  自称「善知識」から「聴聞」をしてはいけない。


【「南無阿弥陀仏」と信心に関する話】

§9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
 1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
 2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
 3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
 「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
 ★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」という【勅命】、
 ★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
 ★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」という【選択本願】、
  として解釈されている。
 4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
  衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
  人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
 5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
 「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
 【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。

§10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ
 1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
 「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
 ★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
  【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
 ★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
  【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
 ★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
  【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
  として解釈されている。
 2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
  善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
 3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
  永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
 4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。

補講
Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について
Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因


§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)
 1、様々な「信心」の中でも特別な、
  「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
 2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」
  になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、
  二つの角度から明らかにしたものである。
 3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
 4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
 5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
 6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
  いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
  「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。

§12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン
 1、「異安心」は浄土真宗の異端思想である。
 2、「異安心」は法然上人や親鸞聖人と異なる信心であり、
   この信心では法然上人や親鸞聖人と同じ浄土へ往生できない。
 3、他人の心の中が「真実信心」であるかどうかを判定することはできない。
 4、しかし、「教え」が明かに善知識方に反する場合は、
  「異安心」である可能性も濃厚である。
 4、「異安心」認定は慎重なプロセスを踏まなければならず、
   無責任な「異安心」認定を行った者は言語空間から抹殺される。

§13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル
 1、古来より現代まで様々な「異安心」があるが、
  いずれも浄土真宗の信心である「二種深信」と異なった信心である。
 2、「特殊文化」でもって「異安心」を認定することはできない。
 3、「特殊文化」でもって「異安心」認定を行って憚らない人の「信心」は、
  「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の「異安心」の可能性が高い。


【浄土真宗における「念仏」の位置づけに関する話】

§14 「信心」と「念仏」
 1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
 2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
 3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
 4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
 5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
 6、上記は法然上人のみならず、 親鸞聖人も教えておられることである。
 7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、
  このコンテキストで解釈していかなければならない。
 8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、
 「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。

§15 所謂「信前の念仏」について
 1、法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人(=信前の人)に対し、「念仏」を勧めておられる。
 2、同じく法然上人は、信前の人が「我が心をも護り信心をも催す」ために、「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられる。
 3、親鸞聖人も、「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
 「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」(信後の人)におとらないように、
「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる。
 4、親鸞聖人は法然上人の教えを忠実に継承された弟子であり、
 「法然上人の教え」に抵触する「親鸞聖人の教え」の解釈は、親鸞聖人ご自身の御心に反する。
 5、したがって、「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」という教えは、
  法然上人や親鸞聖人の教えとは異なる教えである。


【「三願転入」の位置づけに関する話】

§16 所謂「三願転入」について
 1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
 2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
 3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。

§17 阿弥陀仏の本願の行
 1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
   阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
   阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
   親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。
 2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
   この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。
 3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である
   十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。
 4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
  「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。
 5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
   それができなくなるような環境からは脱出すべきである。

§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義
 1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
   阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
   セーフティーとして立てられたのが十九願である。
 2、極楽浄土に往生しようと思っている人
  (=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
   極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
   阿弥陀仏の本願を無視することになる。
 3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
  「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。
 4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
  (=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
  この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。
 5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
  「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。
 6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
  「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
  「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。

§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?
 1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、
  「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。
 2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」
  というのが本音である。
 3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
  「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。
 4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
  などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。

補講
Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?
 1、「三願転入」を「教え」として「全員がやらなきゃダメ!」というのは、間違い。
 2、「三願転入」を、過去世も含めて「全員がそういう道を通ってきた」というのはOK。
 3、既に阿弥陀仏の本願に出会っている人に対して、
 「宿善ポイントを貯めないとだめ!」みたいなことを言うのはおかしい。
 4、宿善ポイントを貯めるようなことができない私逹のために、
  阿弥陀仏が本願を立て、釈尊が教えを説いている。


【「浄土真宗」以外の教えの位置づけ】

§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ
 1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
  能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。
 2、それを否定するのは、
  法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。
 3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。
 4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
  悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
  仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。
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やさしい浄土真宗の教え §20 「浄土門以外の教え」の位置づけ

§20 「浄土門以外の教え」の位置づけ

※今回も、ダチ(元親●会講師)との質疑応答形式です。


【ダチ】(その1)

とりあえず分かりました。

 とりあえず、と言いますのは、諸善を実際やらないと心から納得できないよ~という人は、浄土門以外の教えを聞かねばならないのか。

 つまり、浄土門以外の教えを説く人も、(機によっては)必要ということになるのでしょうか。

 まあ、必要だから釈尊が浄土門以外の教えも説かれたのかも知れませんが。


【苦笑】(その1)

必要な人がいるから、やっぱそういう教えを説く人もいるんでしょうね~。

成仏したくなくて、天国に行きたい人(他宗教の人)とか、
極楽浄土に往生したくない人とか、自分でこの世で成仏したいと思う人(他宗の人)とか、
極楽浄土に往生したいけど、そのために念仏以外の行をしたいと思う人(往生浄土を求める異解異修の人)もいるから、

そういう人のために、そういう人にあった教えを説く人ちゅうものやっぱ必要だし、
それはそれで意味があるから、存在してるんだと思いますよ。

限りなく可能性は少ないけど、能力さえあれば救われる可能性は0じゃないわけですからね~。(注1)

それを否定するのは、法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてもアウトでしょうし、(注2)(注3)
「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトやと思います。(注4)


【ダチ】(その2)

私としても、他宗を謗るという考えは、仏教に合わないと思います。
機に応じて、必要があって説かれたものですから。

だけど、親●会は仏教でもないし、常識の範囲で許される宗教でもないから、容認は出来ませんね…
カテゴリーとしては、悪徳商法か暴力団に近いように思っています。


【苦笑】(その2)

全く同感です(苦笑)。

親●会独自のヘンテコドグマを、
「ドグマ」として説くのであれば別にとやかく言うつもりはありませんが、
それを「仏教」とか「親鸞聖人の教え」と詐称するならば、
「違うよ!」と言うしかないでしょうね~。

ダンマパダ所収の以下の釈尊の言葉を読んだら、
「一刻も早く、親●会から脱出してもらわな」と思ってしまいますよ(苦笑)。
↓ ↓ ↓
116 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。
善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。
悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。

118 人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。
善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。

119 まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。
しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。

120 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。
しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。

121 「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。
水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でももたされるのである。
愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、
やがてわざわいに満たされる。

122 「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、善を軽んじるな。
水が一滴じつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。
気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、
やがて福徳に満たされる。

123 同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、
また生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。

124 もしも手に傷がないならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。
傷のない人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪が及ぶことがない。

125 汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、
そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。
風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

126 ある人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墮ち、
行いの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎ(=涅槃)に入る。

127 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、
およそ世界のどこにいても、悪業から逃れることのできる場所は無い。

128 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、
およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所はない。

(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば 』(岩波文庫) より)



【今日のまとめ】
 1、「浄土門以外の教え」も、限りなく可能性は少ないが、
  能力さえあれば救われる可能性が「0」であるとは言えない。
 2、それを否定するのは、
  法然上人・親鸞聖人・蓮如上人の教えとしてアウトである。
 3、もちろん、「仏教」という大きな枠組みとしてもアウトである。
 4、ただし、仏教でもなく常識の範囲で許される宗教でもない、
  悪徳商法か暴力団に近いようなドグマは、
  仏教徒としても人間としても、容認すべきではない。

※次回は、これまでの「まとめ」だよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 『選択集』八章、『観経疏』散善義に以下の記述がある。

●諸仏の教行、数、塵沙に越え、稟識の機縁、隨情一に非ず。
譬えば世間の人の、眼に見つべく信ずべきごときは、
明能く闇を破し、空能く有を含み、地は能く載養し、
水は能く生潤し、火は能く成壊するがごとし。
かくのごとき等の事、ことごとく待対の法と名づく。
目に即して見つべし。千差万別なり。
何にいわんや仏法不思議の力、あに種種の益無からんや。
隨って一門を出ずれば、すなわち一煩悩門を出ず。
随って一門に入れば、すなわち一解脱智慧門に入る。
これに為って縁に随って行を起して、各解脱を求む。
汝何を以てか、すなわち有縁に非ざる要行を将て、我を障惑するや。
然るに我が愛する所は、すなわちこれ我が有縁の行なり。
すなわち汝が求むる所に非ず。
汝が愛する所は、すなわちこれ汝が有縁の行なり。
また我求める所に非ず。
この故に各楽う所に随って、その行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり。
行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、
凡より聖に至り、乃至仏果まで、一切無礙に、皆学することを得よ。
もし行を学せんと欲せば、必ず有縁の法に籍れ。
少し功労を用いるに、多く益を得るなり。

(訳)
多くの仏の教えと修業の方法は、塵や砂の数ほどに多く、
それを受ける人たちの素質も能力もさまざまで、
それぞれの心にふさわしい教えも、また多い。
たとえば、光が闇を照らし、大空が何ものをも受け入れ、
大地が草木を育て、水がうるおって生長をうながし、
火がものをつくったり焼いて破壞したりすることは、
誰もが自分の目で見て確め信じることができる。
これは光と闇、空と有、水と火というように
相対的にはたらく不思議な作用をもっているので
待対の法と名付けなれているが、いずれも目で見て確かめることのできるもので、
その現象はさまざまである。
ましてや、仏法の考えもおよばない力にどうしてさまざまな利益がないのだろうか。
そのようなはずはあるまい。
仏の教えは八万四千もあるといわれ、煩悩も限りなくある。
したがって教えの一つの門を出れば迷いの一つの門を出ることになり、
教えの一つの門を入れば迷いや苦しみを離れた智恵の門に入ることになる。
いずれにせよ、縁のあるままにつとめ、
自分に最も適した教えによって、悟りを求めるようにせよ。
それにもかかわらず、そなたたちは、たとえそれが重要な修業の一つであっても、
縁遠いものをもってきて修業をすすめ、我われをまどわしさまたげようとするのか。
今、我われが願い求めているのは、我われに最もふさわしい修業法であり、
そなたたちが求めようとしているものではない。
そなたが願い求めているのは、そなたにとって最もふさわしいものであろうが、
我々が求めているものではない。
誰もが、それぞれ願うところにしたがい、最も自分にふさわしい修業をすれば、
必ず早く迷いの世界を出て、悟りを得ることができる。
仏の道を歩もうとする修業者は、このことをよく知ってほしい。
もし、教えを学ぼうとするならば、凡夫の立場から聖者の境地に至り、
さらに悟りを得て仏になるまで、自由自在に誰にもさまたげられることなく学ぶように。
また修業したいと思うなら、あれもこれもと試みることなく、
最もふさわしいものを一つ選んで修業せよ。
こうした方法をとれば、多少の苦労はあっても、大きな利益を得ることができよう。


注2 以下参照

●法然上人『七箇条起請文』

一、別解別行の人に対して、愚痴偏執の心をもて、本業を棄置せよと称して、あながちにこれをきらひわらふ事を停止すべき事。」(学問及び修行の違っている人に向かって、愚かにして偏屈な心で、『自分自身の宗の教えに勤めているのを捨てよ』と言って、むやみに馬鹿にしたり、あざわらったりすることをやめなさい。)

 しかもこれは「起請文」であり、仏に対する誓いであり、仏に対する誓いと異なる真意などというものが法然上人には断じて存在しない。


●親鸞聖人は『御消息』6(『末灯鈔』2)

 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。

●蓮如上人『御文章』

 以下のように、他宗や他の宗教への誹謗や批判を厳重に戒められている。

 そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。
 まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。

 そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まづ八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、「自法愛染故毀呰他人法雖持戒行人不免地獄苦」といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(1帖14通、※以下1-14と表記)

 あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、身中にふかくをさめおきて、他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、おろかにすべからず。
(2-1)

 他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。
(2-3)

 それ、当流に定むるところの掟をよく守るといふは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもって本意とするなり。しかりにちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもってわが宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人(親鸞)の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。
(2-13)

 そもそも、当流門徒中において、この六箇条の篇目のむねをよく存知して、仏法を内心にふかく信じて、外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。しかればこのごろ当流念仏者において、わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらはすこと、もつてのほかのあやまりなり。所詮向後この題目の次第をまもりて、仏法をば修行すべし。もしこのむねをそむかん輩は、ながく門徒中の一列たるべからざるものなり。
一、神社をかろしむることあるべからず。
一、諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。
一、諸宗・諸法を誹謗すべからず。
一、守護・地頭を疎略にすべからず。
一、国の仏法の次第非義たるあひだ、正義におもむくべき事。
一、当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。

 一つには、一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。これすなはち「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のをはり」(止観)といへるはこのこころなり。されば今の世の衆生、仏法を信じ念仏をも申さん人をば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆゑに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆゑなり。

 二つには、諸仏・菩薩と申すは、神明の本地なれば、今の時の衆生は阿弥陀如来を信じ念仏申せば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいはれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆゑに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀仏一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆゑに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も弥陀一体に帰せずといふことなきいはれなればなりとしるべし。

 三つには、諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。そのいはれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。

 四つには、守護・地頭においてはかぎりある年貢所当をねんごろに沙汰し、そのほか仁義をもつて本とすべし。

 五つには、国の仏法の次第当流の正義にあらざるあひだ、かつは邪見にみえたり。所詮自今以後においては、当流真実の正義をききて、日ごろの悪心をひるがへして、善心におもむくべきものなり。

 六つには、当流真実の念仏者といふは、開山(親鸞)の定めおきたまへる正義をよく存知して、造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。それ一流の安心の正義のおもむきといふは、なにのやうもなく、阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、われはあさましき悪業煩悩の身なれども、かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、一念も疑心なく、おもふこころだにも堅固なれば、かならず弥陀は無碍の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。かやうに信心決定したらんひとは、十人は十人ながらみなことごとく報土に往生すべし。このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。
(3-10)

 しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。
 ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。
(4-1)

※なお、高森氏が所謂「思想先行型」の解釈を行い、これらの教えを意図的に無視していることに関しては、以下参照。

「文献学」と「思想先行型文献学」


注3 特に親鸞聖人が、聖道門を修している方を、「既に覚って仏になられた仏や菩薩が、
私達を導くために現れてくださった方」と位置づけられていることは注目に値する。

● 聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、
 われらがこころをすすめんがために、
 仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。
 仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。
 これみな聖道門なり。
 権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、
 かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。
『親鸞聖人御消息』(1)

(訳)
「聖道門」の教えというのは、すでに仏になられた方が、
 私達を導くために示してくださった、
 仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗の至極の教である。
 仏心宗とっは、世間に広まっている禅宗のことである。
 また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教や、小乗等の教も、
 これらは全て「聖道門」の教えである。
「権教」というのは、既に覚って仏になられた仏や菩薩が、
 仮にさまざまな姿を現して私達を導いてくださっているから、
「権」というのである。


注4 最古の仏典と言われているスッタニパータに以下の記述がある。

 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、
 これらに依存して他の説を蔑視し、
 自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、
「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。(887)

 かれは過った妄見を以てみたされ、
 驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、
 みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。(889)

 自分の道を堅くたもって論じているが、
 ここに他の何びとを愚者であるとみることができようぞ
 他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、
 かれはみずから確執をもたらすであろう。(893)

 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、
 さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
 一切の哲学的断定を捨てたならば、
 人は世の中で確執を起こすことがない。(894)

 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、
 ―かれらはすべて他人からの非難を招く。
 また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。(895)

 たとい称賛を得たとしてもそれは僅かなものであって、
 平安を得ることはできない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、
 とわたしは説く。
 この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、
 論争をしてはならない。(896)

(中村元訳『ブッタのことば』岩波文庫)

やさしい浄土真宗の教え §19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?

§19 『教行信証』化身土巻は「プロセスだからやらなきゃダメ!」なのか?

※今回も「ダチ」との質疑応答形式です。


【ダチ】
セーフティーネットというのは分かりやすいですね。
最終的には、自力修善では仏になれない、弥陀の願力によらねばならないというのが結論になると思います。

阿弥陀仏のお仕事というのは、よく分かるのですが、浄土門の教えを説く人の仕事ではないというのは、「説く必要が無い」ということになるのでしょうか?

教行信証の化身土巻は、19願の解説であり、聖教の引用の多くは観無量寿経疏であり、特に散善義は多いです。

観無量寿経の中には定散善が説かれていますが、特に散善については一般的な仏教で言う修善に当たると思います。

これは、念仏に導く方便とは思いますが、方便である修善についても浄土三部経で触れられているということは、浄土門に19願の教えもあると解釈はできないでしょうか?

もし浄土門で説かないなら、教行信証化身土巻は書く必要がなかったという気がしますし…

もちろん、某会のように「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」などという意味ではなく、対機として、有りうるのではないかという疑問です。


【苦笑】
う~ん。
『教行信証』化身土巻は、

「これじゃあアカンよ」
「こういう思いで浄土往生を求めていたら、それは自力の信心だよ」
「これは法然上人や私と同じ信心じゃないから、気をつけなさいよ」

という位置づけで書かれたものであり、
実際、十八願に基づいて往生しようとしている人の中に、
そういう人がいっぱいいるから、気をつけましょうね。

という位置づけで書かれたものであって、
確かにそこにいる人にとってはプロセスなわけだけど、

それは、一刻もはやく「抜けなきゃいけないプロセス」なわけですから、
「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で、
説いていかなければならないものだと思います。(注1)

『選択集』の四章で説かれる、廃・助・傍の三義も最終的に、
善導大師解釈=法然上人の本音でいうと、
「諸行は廃のために説く!」なわけですし、 (注2)
第十二章でも、念仏は立てるために説いて、定散は廃するために説く。
というのが結論になってますしね。 (注3)(注4)

そういうことを「説く」のであれば、大いに説いたらいいと思います。
ただ、そういう見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
「諸行に励め!!」と説いてしまうのは、少なくとも、
法然上人や親鸞聖人の門下の教えではないと思います。


>「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
 ↑
まあ、これは論外ですけどね(苦笑)。(注5)


【今日のまとめ】
 1、『教行信証』化身土巻は、「抜けなきゃいけないプロセス」を説いたものであり、
  「それをせえ!」ではなくて「それじゃだめよ!」という意味で説かねばならない。
 2、善導大師・法然上人も、「諸行は廃のために説く」「定散は廃するために説く」
  というのが本音である。
 3、上記のような見通しなしで、往生のためのプロセスとして、
  「諸行に励め!!」と説くのは、法然上人や親鸞聖人の門下の教えではない。
 4、まして、「お前らは全員19願なのだから、宿善を積むために金を出せ!」
  などと言う教えは、浄土真宗でも仏教でもない。

※次回は、「浄土門以外の教え」の位置づけに関して説明するよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 「それをせえ!」ではなく「それじゃだめよ!」という意味であることは、以下の親鸞聖人の言葉を読めば明白である。 

●まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
 悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。
 みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。
 おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。
 かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
『教行信証』化身土巻

(訳)
 いま、まことに知ることができた。念仏を専ら修していても、雑心(自力が混じった心)なものには大きな喜びの心を得ることができない。だから善導大師は『往生礼讃』で、「
(雑心の者は)仏の恩に報いようという思いがなく、行を修めても驕慢の心がおきる。いつも名誉や利益を求めているために、その人は「私」というとらわれの心に(自力)に覆われて、同行の人や善知識に親しみ近づくことがなく、進んで雑縁に近いて、極楽浄土に往生するための行を自ら妨げ、人を妨げるのである」と仰った。
 悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、他力の信心を伴った念仏を自力の行でもって補い助けようという気持ちが混入し(助正間雑し)、自力の定散の行でもって極楽浄土に往生しようという心が起きるため(定散心雑する)、迷いの世界から離れることができないのである。
 自分の力で流転輪廻を渡ろうとするならば、どれほど限りなく長い時を経ても、阿弥陀仏の本願力に帰して、信心の大海に入ることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。
 大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人と呼ばれる人逹も、阿弥陀仏が与えてくださった本願の名号を自分の力で作った功徳として称えてしまうために、他力の信心を生ずることができず、阿弥陀仏の仏智を知ることができないのである。
 阿弥陀仏が衆生が極楽浄土に往生するための因をお作りになられたことを知ることができないので、真実報土に往生することができないのである。

注2 §18の注2参照。

注3 善導大師は『観経疏』において以下のように述べておらえる。

●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
 確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)

 法然上人は上記の善導大師の言葉を『選択集』(第12章)に引用されている。

注4 さらに法然上人には、以下のような言葉もある。

 念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住して発し給ひたる事なれば、
 人を、きらうことは、候(そうら)はぬなり。
 佛の御心は、慈悲をもて体とすることにて候ふなり。
 されば『観無量寿経』には、
「仏心というは、大慈悲これなり」と説かれて候。

 善導和尚この文を受けて、
「この平等の慈悲をもっては、普く一切を摂す」と釈し給へり。
 一切の言、広くして、もるる人候ふべからず。
 されば、念仏往生の願は、これ弥陀如来の本地の誓願なり。
 世の種々の行は本地の誓いにあらず。

 釈迦も、世に出で給ふ事は、
 弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
 衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
 これ随機の法なり。 佛の、自らの御心の底には候はず。
 されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
 余の種々の行には、似ず候うなり。

『勅伝』巻二十八、「津戸三郎へつかはす御返事」(昭法全五七二頁)

(訳)
 念仏を申すことによって極楽浄土に往生することができるという、
 阿弥陀仏の誓願は、
 全ての人を平等に救うという慈悲の心から起こされたものであるから、
「あの人は救わない」というように人を選んだりするものではない。
 仏の御心というものは、慈悲がその中心となるものなのである。
 だから『観無量寿経』には、
「仏の心というのは、大きな慈悲のことなのである」と説かれているのである。

 善導大師は、この文を受けて、
「この平等である慈悲をもって、普く全ての人々を救い取る」と解釈している。
「一切」という言葉は、広くという意味であって、
 この救いにもれる人がいるはずがない。
 だから、念仏を申すことによって極楽浄土に往生することができるという、
 阿弥陀仏の誓願は、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、
 お建てになられた誓願なのである。
 念仏以外の行は、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に、
 お誓いになられた行ではないのである。
 釈尊がこの世に現れたというのは、
 阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
 人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
 しかしそれは人々の能力に応じたのであって、
 決して釈尊の本心によるものではなかった。

 だから念仏は、
 阿弥陀仏のとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
 お釈迦様にとっては、それをひろめることが
 この世にお出ましになられた真の目的だったのである。
 それが、念仏以外の行との違いなのである。


注5 これに関しては§8の注5で述べたが、再掲載しておく。

『歎異抄』第18章には、施入物の大小を云々することが誤りであり、宝物を仏前になげたり、師匠にものを施したりすることによって救いが決まることはないということが述べられている。

一 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。
かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


また、蓮如上人も、財施によって救いがあるかのように教えることの間違いを指摘しておられる。

●これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
『御文章』1帖11通

やさしい浄土真宗の教え §18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義

§18 阿弥陀仏が十九願を立てられた意義

※原稿を読んでくれたダチ(元親●会講師)との質疑応答形式になってます。


【ダチ】

19願とか修善は方便なのだから、対機なのであって、すべての人に勧められたとは思わないのですが、少なくとも必要な人に対しては、修善の勧めがあったわけで、それは否定されるべきものなのでしょうか?(苦笑さんが否定しているという意味ではなくて、一般論的にどうなんでしょう)

 つまり、19願の教えが必要な機に対して、そこで知らされるべきものを、まだ得ていない人に対しても、「一刻も早くそこから出るべき」と言えるのかどうかが疑問です。

「一刻も早く出ろ」と言っても出られない機だから、方便としての修善が勧められているのであって、そういう機に対しては、修善を勧めることが結果的に「一刻も早くそこから出よ」と言うことになると思うのですが、どう思われますか?


【苦笑】

いい質問ですね。

「修善をしなきゃアカン!」という人に対して・・

★阿弥陀仏が修善を勧めた。

ということじゃなくて、

★その人がシステムから外れないように、
 セーフティーネットとして、十九願を立てた。

ということがポイントになると思います。


「修善をしなきゃアカン!」というのは、カス野郎な自分の力が、
極楽浄土に往生するのに何か役立つかのように思う「自力」の心であり、
こんなものがいくらあって頑張っても、
極楽浄土に往生することには役にも立ちません。

それでも、そういう人もいずれそういう思いからリタイヤして、
十八願の世界に入るようにセーフティーをかけているのが、
十九願の意義ということになります。(注1)

これは阿弥陀仏の仕事であって、浄土門の教えを説く人の仕事ではありません。


したがって、極楽浄土に往生しようと思っている人
(=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
阿弥陀仏の本願を無視することになりますので、
法然上人や親鸞聖人の流れを汲む浄土門の教えとしてはアウトです。 (注2)

ましてや、どっかの親●会のように、
「極楽浄土への往生」目的でもなく、
「信心決定」目的で「諸善」を勧めちゃうのは、
「諸行往生」にすらならない、完全にセーフティーのかからない、
「ヘンテコドグマ」ということになりますね(苦笑)。 (注3)

ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
(=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
極楽浄土に往生する目的ではなく、この世で成仏する目的で諸善を勧め、
そこからリタイヤして、「極楽浄土に往生しよう」と思ってもらう。
というのは「あり」です。(注4)


あと、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」生きる努力をするものですから、
できる限り頑張ってしたらいいと思いますし、(注5)

阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことですが、
「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰ってませんね。(注6)


【今日のまとめ】
 1、「修善をしなきゃアカン!」という人を、
   阿弥陀仏が十八願に基づいて構築したシステムに導くために、
   セーフティーとして立てられたのが十九願である。
 2、極楽浄土に往生しようと思っている人
  (=この世で成仏することにリタイアした人)に対して、
   極楽浄土に往生する目的で諸善を勧めることは、
   阿弥陀仏の本願を無視することになる。
 3、まして、「信心決定」目的で「諸善」を勧めるのは、
  「諸行往生」にすらならない、完全な「ヘンテコドグマ」である。
 4、ただし、極楽浄土に往生しようと思っていない人
  (=この世で成仏することにリタイアしていない人)に対しては、
  この世で成仏する目的で諸善を勧めるのは「あり」である。
 5、念仏をセンターに置いた上での「諸善」は、
  「堪へんに随いて」「弥陀が喜ぶように」できる限りやるべきである。
 6、阿弥陀仏を泣かせまくっている私達が、
  「これ以上阿弥陀仏を泣かせない」生き方を心がけるのは当然なことであるが、
  「これをしなきゃダメ!!」と阿弥陀仏は仰っていない。

※次回は、「『教行信証』化身土巻の内容はプロセスだからやらなきゃダメ!」
 という考え方について考察するで!!   

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 親鸞聖人が編纂された法然上人の遺文集である『西方指南抄』所収の法語、「十七箇条御法語」には、

「第十九の願は諸行之人を引入して念仏之願に帰せしめむと也」(昭法全 p.470)

とある。


注2 『無量寿経』において釈尊は、極楽浄土へ往生するための行として、念仏と諸行の両方をお説きになっておられる(三輩段)。
 この念仏と諸行の関係について法然上人は『選択集』四章において、

・廃立・・衆生に諸行を廃して念仏を拠り所とさせるため。
・助正・・諸行を念仏の助けにするため。
・傍正・・念仏にも諸行にも上中下三段階を立てるため。

この三つの解釈が可能であると述べ、

 ただしこれ等の三義、殿最知り難し。
 請う、諸の学者、取捨心に在るべし。

(和訳) 
 ただしこれらの三義の、優劣は知りがたいものである。
 どうか、これを学ぶ多くの人たちは、
 自分自身の判断で、取捨しなさい。

と述べた上で、

 今もし善導に依らば、初めを以って正と為すのみ。

(和訳)
 ただし、今もし善導大師の教えに依ってあえて言うならば、
 初めの廃立を正しい解釈とするのみである。

と述べておられるので、これが法然上人の本音であると言える。


注3 某所に、とてもよい問題が掲載されていた。

~~以下引用~~

535 :神も仏も名無しさん:2009/06/30(火) 12:21:35 ID:aFbNIyl5
今回の講師試験の問題

Q、「諸行往生」とはどんなことか、一言で書け。また、それは正しいか、間違いか、答えよ。

A、諸善をすれば善のできない自分が知らされて救われるということで、間違い。
  例として、
  親鸞聖人の20年間の比叡山での御修行で、機の深信が知らされたという邪義。
  19願の入り口にも入っていない講師部員や、30年、40年求めたくらいでは分からないと教えられ、
  親●会の会員は、この世では救われないから、親●会の求道は遠生の結縁と考えている邪義など。

  この世で救うという18願ではないので、明らかな間違い。

  参考までに、
  精一杯の財施をしなければならない、とか、善知識に絶対服従せよなどは、諸行往生でもない、カルトの教え。

~~以上引用~~

また、以下のコメントも秀逸だった。

~~以下引用~~

569 :神も仏も名無しさん:2009/07/01(水) 07:06:46 ID:y/2OT4/i
>>535

(中略)

親鸞会は体失往生ですから、諸行往生なのですね。
19願の善を実践して、善のできない自分であったと知らされることがいつあるのか?
19願の善を実践させるということは、長い長い時間が当然必要ですので、不体失往生ではないですよ。

諸行往生は間違い、と教えながら、諸行往生を目指していることを、会員は知るべきでしょう。

会長のトリックは巧妙なのです。

570 :神も仏も名無しさん:2009/07/01(水) 07:16:09 ID:y/2OT4/i

(中略)

これは、諸行往生の教えから派生した会長独自の教えです。

善のできない自分であったと知らされる財施とは、全財産を親鸞会に差し出せ、ということです。しかし、全財産を差し出して
善のできない自分であると知らされると思いますか?

会長に絶対服従するには、人間をやめなければなりません。余りにも理不尽で、方向が頻繁に変更されますので、どの
指示に服従するのでしょうか?犯罪も厭わない指示がこれまでいくつもありました。
全ての指示に服従するには、人間をやめるか、超人にでもならなければ無理です。

金集めと会長への絶対服従が、会員を苦しめ、不体失往生を妨げている最大の原因です。

~~以上引用~~


注4 以下の法然上人の言葉を参照。

●釈迦も、世に出で給ふ事は、弥陀の本願を、説かんと思しめす御心にて候へども、
衆生の機縁に随い給う日は、余の種々の行をも説き給うは、
これ随機の法なり。 佛の、自らの御心の底には候はず。
されば、念仏は、弥陀にも利生の本願、釈迦にも出世の本懐なり。
余の種々の行には、似ず候うなり。 『津戸三郎へつかはす御返事』

(訳)
釈尊がこの世に現れたというのは、阿弥陀仏の本願を、説こうと思う御心からであったのだが、
人々の気質の違いや状況に応じて、種々の行をお説きになられた。
しかしそれは人々の能力に応じたのであって、 決して釈尊の本心によるものではなかった。
だから念仏は、 阿弥陀仏にとっては、人々を漏れなく救うための本願であり、
釈尊にとっては、それをひろめることがこの世にお出ましになられた真の目的だったのである。
他の念仏以外の行とは、全く違うのである。


注5 以下の法然上人の言葉を参照。

●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
  女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。


注6 以下の法然上人の言葉を参照。

●念仏して往生するに不足無しといいて、悪業をも憚らず、行ずべき慈悲をも行ぜず、念仏をも励まさざらん事は、仏教の掟に相違するなり。
 例えば、父母の慈悲は、良き子をも悪しき子をも育むめども、よき子をば喜び悪しき子をば嘆くが如し。
 仏は一切衆生を哀れみて、良きをも悪しきをも渡し給えども、善人を見ては喜び、悪人を見ては悲しみ給えるなり。
 良き地に、良き種を、まくかんが如し。構えて、善人にして、しかも念仏を修すべし。これを真実に、仏教に従うものという也。
「念佛往生義」

(訳)
念仏申せば極楽浄土に往生できる!ということで、
やってはいけない悪いことを平気でやって、
やらなくてはならないことをまったくやらないで、
念仏も頑張って申さないというのは、
仏教のあるべき掟に反することなのである。

たとえば、父母が子どもにかける慈悲の気持ちというのは、
よい子であっても悪い子であっても、
あたたかく見守ってなんとか育てようとするものであるが、
我が子がよりよく育ってくれたら喜ぶし、
我が子が悪いことをするようなら嘆いてしまうようなものである。

ちょうどそのように、阿弥陀仏は一切衆生を憐れんで、
よい人であっても、悪い人であっても、
へだてなく極楽浄土へと救いとるが、
衆生がよい人になってくれたら喜ぶし、
悪い人になってしまったら悲しんでしまうものである。

だから、よい土地によい種をまくように、
しっかり心に決めてぜひとも、よい人になろうとして、
さらに念仏申すべきである。

それが、本当に、仏の教にしたがう者と言えるのである。

やさしい浄土真宗の教え §17 阿弥陀仏の本願の行

§17 阿弥陀仏の本願の行

ここで大切なことを確認しておくけど、

親鸞聖人の所謂「三願転入」のうちで、
「万行諸善」「要門」に当たる『観無量寿経』において、
最終的に釈尊がお勧めになられたのが「念仏」で、(注1)

されにそれを善導大師が解釈されて、

 阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、
 釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、
 衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。

と述べられ、(注2)

その教えを法然上人も受け継いでおられるちゅうことは、
忘れてもらっちゃアキマヘンね~。(注3)

そして、法然上人が『選択集』最後の十六章に書かれた、
実践的結論と言える、

 速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば・・

1)「聖道門」「浄土門」という二種の優れた法門の中で、「浄土門」を選んで入る。
2)「正行」と「雑行」の二行の中で、「正行」を選んで実践していく。
3)「正定の業」と「助業」の中で、「正定の業」(阿弥陀仏の名号を称えること)を專らに実践していく。

という言葉は、(注4)
親鸞聖人も主著『教行信証』の行文類に引用され、

  あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。
  大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

とコメントされておりまっから、
浄土真宗においても従わなきゃアキマヘンわね。(注5)


そんじゃあ、
なんで阿弥陀仏は十九願&二十願を立てられたのか?
ってことになるんやけど、

★阿弥陀仏の十八願を信じようとしない人を導いて、
 十八願の世界に入れるため。

に決まってますわね。

いかなる行も及ばない末代の衆生のために、
阿弥陀仏が名号を作ってくださって、
それを受け取った人を必ず救うと言ってくださっているのに、(注6)
それを信用しないで、

「何かせなアカンやろ!」

と思ってしまう、阿弥陀仏の御心がわからない衆生・・。

そんな衆生にも心を向けて、なんとか十八願の世界に導きいれようとした、
「巧みな手段」(方便)の願が、十九願&二十願なわけですわ!!(注7)

せやから「本意の願」である十八願の世界に、
一刻も早く入れるようにせなアカンのですよん。(注8)

そのために善知識がお勧めになられているのは、
聴聞&信前の念仏なわけやから、
それを最優先にしてよね。(注9)

それが、できなくなるような環境なら、
速攻で脱出せなアキマヘンで~!(注10)(注11)


【今日のまとめ】
 1、釈尊・善導大師・法然上人が共通して、
   阿弥陀仏の本願の行でない「諸行」ではなく、
   阿弥陀仏の本願の行である「念仏」をお勧めになられており、
   親鸞聖人もその教えを受け継いでおられる。
 2、親鸞聖人は「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。
   この「他力の信心」と「念仏」は切り離されないものである。
 3、十九願&二十願は、衆生「本意の願」である
   十八願に入らせるための阿弥陀仏の巧みな手段である。
 4、したがって、衆生は一刻も早くそこから出て、
  「本意の願」である十八願に入ろうとしなければならない。
 5、そのために勧められている聴聞&信前の念仏を行うべきであり、
   それができなくなるような環境からは脱出すべきである。


※次回から、「まだ納得できない人」のために、
 質疑応答形式で更に掘り下げた解説しちゃうよん。
 脊髄反射でショウモナイコメントしたら、恥ずかしいことになるで~(笑)。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 詳しくは以下参照。

『観無量寿経』において、釈尊は定散二善を述べた終わった後、流通分において阿難に、

●汝好く是の語を持て、是の語を持てとは、即ち是れ無量寿仏の名を持てとなり。

(訳)
あなたはこの語をよくたもちなさい。
「この語をたもて」というのは、無量寿仏の名号をたもてということである。

と仰っている。


注2 詳しくは以下参照。

 善導大師は『観経疏』において、上記の釈尊の教えを以下のように解釈されている。

●「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

(訳)
「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく釈尊が阿弥陀仏の名号を授けて、遥か後の代まで伝えようとしていることを明らかにしているのである。
 確かにこの『観無量寿経』では、ここまで、精神統一をした状態で極楽浄土を観察する善行(定善)や、心が散乱した状態で行う様々な善行(散善)の利益を説いてきたが、阿弥陀仏の本願を念頭に置くならば、釈尊が、この『観無量寿経』をお説きになったのは意図は、衆生に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあったのである。
(『観経疏』散善義)


注3 法然上人は上記の善導大師の言葉を『選択集』(第12章)に引用され、また同じく『選択集』で以下のように述べておられる。

 もし仏像を造ることや堂塔を建立することを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 お金のない貧しい者は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、裕福な人は少なく、貧しい人は甚だ多い。

 もし智慧にすぐれ才能に溢れていることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 愚かで智慧のない人は、きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、智慧のある人は少なく、愚かな人は甚だ多い。

 もしお経に書かれた教えを、沢山見たり聞いたりすることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 少ししか見たり聞いたりしていない人は、
 きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、沢山聞いた人は少なく、
 少ししか聞いていない人は甚だ多い。

 もし戒や律をきちんと守ることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 戒を破ってしまったり、もともと戒のない人は、
 きっと往生の希望を失ってしまうであろう。
 しかし現実には、戒を守れる人は少なく、戒を破ってしまう人は甚だ多い。

 この他の念仏以外の諸行に関しても、これに準じて知るべきである。
 以上のことから、これらの念仏以外の諸行をすることを、
 極楽浄土に往生しようとする人に、阿弥陀仏が願ったのであれば、
 往生できる人は少なく、往生できない人は多いだろう。

 だからこそ、阿弥陀仏は過去において法蔵比丘であった時に、
 平等の慈悲にうながされて、あまねく全ての人々を救うために、
 仏像を造り堂塔を建立する等の念仏以外の諸行を、
 極楽浄土に往生するための本願にせずに、
 ただ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す一行だけを本願とされたのである。
(第三章)


注4 『選択集』十六章

1)
 それ速やかに生死を離れんと思わば、
 二種の勝法の中に、
 しばらく聖道門を閣(さしお)きて、選びて、淨土門に入(い)れ。

(訳)
 速やかに輪廻を繰り返す迷いの世界から離れようと思うならば、
 二種の優れた法門の中で、
 しばらく聖道門をとどめておいて、浄土門を選んでそれに入りなさい。

2)
 浄土門に入(い)らんと思わば、
 正雑二行の中に、
 しばらく諸々の雑行を抛(なげす)てて、選びて正行に帰すべし。

(訳)
 浄土門に入ろうと思うのであれば、
 正行と雑行の二行の中で、
 しばらくさまざまな雑行をなげうって、正行を選んでそれに帰しなさい。

3)
 正行を修せんと思わば、
 正助二業の中に、なお助業を傍(かたわら)にして、選びて正定を專(もっぱら)にすべし。

 正定の業というは、すなはち、これ佛の御名(みな)を称するなり。
 名を称すれば必ず生まるることを得(う)。
 佛の本願によるが故に。
『勅伝』巻十八、「選択集」第十六章(昭法全三四七頁)

(訳)
 正行を行おうと思うならば、
 正定の業と助業の中で、さらに助業をわきにおいて、正定の業を選んで專らに行うべきである。

 正定の業とは、すなわち阿弥陀仏の名号を称えることである。
 阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず極楽浄土に往生することができる。
 それは、阿弥陀仏の本願によるからである。


注5 親鸞聖人は、「浄土三部経の要になるのは他力の信心」であると仰っておられる。

 三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。
 ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。
 いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。
 真心はすなはちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。
 なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、
 仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、
 願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。
 いままさに一心一異の義を談ぜんとす、まさにこの意なるべしと。
 三経一心の義、答へをはんぬ。
(『教行信証』化身土巻)

しかし、この「他力の信心」と善導大師・法然上人・親鸞聖人がお説きになられている「念仏」が切り離して考えられないものであることは、既に述べた通りである。

詳しくは、§14「信心」と「念仏」参照。


注6 例えば以下の法然上人の言葉を参照。
 
 酬因感果(しゅういんかんか)の理(ことわり)を、
 大慈大悲の御心のうちに思惟して、
 年序そらにつもりて、星霜五劫におよべり。
 しかるに善巧方便(ぜんぎょうほうべん)を巡らして、思惟し給えり。
 しかも、我別願をもて浄土に居(こ)して、
 薄地低下(はくじていげ)の、衆生を引導すべし。
 その衆生の業力によりて生まるるといわば、かたかるべし。
 我、すべからく、衆生のために永劫(ようごう)の修行をおくり、
 僧祇(そうぎ)の苦行を巡らして、万行万善の果徳円満し、
 自覚覚他の覚行窮満(かくぎょうぐうまん)して、
 その成就せんところの、万徳無漏の一切の功徳をもて、
 我が名号として、衆生に称えしめん。
 衆生もしこれにおいて、信をいたして称念せば、
 我が願にこたえて、生まるる事を得べし。
『勅伝』巻三十二、「登山状」(昭法全四二七頁)

(訳)
 阿弥陀仏は、「どうすれば仏になることができるだろうか」という理論を、
 大いなる慈悲の御心でもって考えているうちに、
 年月はいつの間にか過ぎていき、五劫という途方もない時間が過ぎた。
 そして衆生の能力や理解を判断して、巧みに教え導こうとお考えになられた。
「この私は、私だけの特別の願を立てて浄土に住して、
 何の取り柄もなくもがき苦しんでいる衆生を、導いていこう。
 もしも、そのような愚かな衆生が、自分で行ったよい行いの力によって、
 極楽浄土に生まれるというのであれば、それは難しいであろう。
 だからこそ私は、当然のこととして衆生のために、
 果てしない時間修行を行い、無数の苦行を積んで、
 ありとあらゆる修行・善行の結果として得られる功徳を獲得し、
 自ら覚り、他を覚らせるための仏道を極めて、
 その結果完成した、ありとあらゆるけがれなき全ての功徳を、
 私の名号に込めて、衆生に称えさせよう。
 だからもしも衆生が、私のこの本願を信じて、私の名号を称えたならば、
 私の誓願の通りに、極楽浄土に生まれることができるであろう。 」


注7 「方便」(UpAya.ウパーヤ)は、「近づく」「到達する」という意味の動詞から派生した名詞で、「仏の覚った真理に近づく手段・方法」のことである。
 仏の覚ったものは「真理」であるが、その真理に人々を導こうとして説かれる教えや方法は、それ自体「真理」そのものではない。
 なお、「自分の目的実現のためには他人にうそをつくことも仕方ない」という意味で、「うそも方便」という言葉があるが、「方便」は本来、仏教語であり、そこには「嘘」とか「虚妄」という意味は存在しない。


注8 親鸞聖人が編纂された法然上人の遺文集である『西方指南抄』所収の法語である「十七箇条御法語」には、以下の記述がある。

●第十九の願は諸行之人を引入して念仏之願に帰せしめむとなり。
『昭法全』 p.470

また、『安心決定鈔』の冒頭に以下の記述がある。

●浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。
 弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。
 余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。

この書物は著者は不明であるが、第8代宗主蓮如上人の指南によって本願寺派では聖教とみなされている。


注9 聴聞、信前の念仏については、それぞれ以下の記事を参照。

・聴聞について・・
 §7 聴聞(何を「聞く」のか?)
 §8 なかなか信心獲得できない人のために・・

・信前の念仏について・・
 §15 所謂「信前の念仏」について


注10 以下の法然上人の言葉を、勝手に改変しないでそのまま受け取るべきである。

 現世を過ぐべき様は、念仏の申されんかたによりてすぐべし。
 念仏の障りになりぬべからん亊をば、厭い捨つべし。
 一所にて申されずば、修行して申すべし。
 修行して申されずば、一所に住して申すべし。
 ひじりて申しされずば、在家になりて申すべし。
 在家にて申されされずば、遁世して申すべし。
 ひとり籠もり居て申されずば、同行と共行(ぐぎょう)して申すべし。
 共行して申すされずば、ひとり籠もり居て申すべし。
 衣食(えじき)適(かな)わずして申されずば、他人に助けられて申すべし。
 他人の助けにて申されずば、自力にて申すべし。
 妻子も従類も、自身助けられて念仏申さん為なり。
 念仏の障りになるべくば、ゆめゆめ持つべからず。
 所知所領(しょちしょりょう)も、念仏の助業ならば大切なり。
 妨げにならば、持つべからず。
『勅伝』巻四十五、「十二問答」


(訳)
 この世を生きていく方法は、お念仏が申せるように過ごしなさい。
 お念仏の妨げになると思われることは、やめなさい。

 一カ所に定住しながらでは念仏が申せないのであれば、諸国を行脚しながら申しなさい。
 諸国を行脚しながらでは念仏が申せないのであれば、一カ所に定住して申しなさい。

 出家者だから念仏が申せないというのであれば、在家者になって申しなさい。
 在家者だから念仏が申せないというのであれば、世俗を離れて申しなさい。

 一人でひきこもってでは念仏が申せないというのであれば、
 志を同じにする仲間(同行)と一緒に申しなさい。
 人と一緒では念仏が申せないというのであれば、一人でひきこもって申しなさい。

 衣食などの生計が立ちゆかなくなって念仏が申せないというのであれば、
 他の人に助けてもらいながら申しなさい。
 他の人に助けてもらっていては念仏が申せないというのであれば、
 自分で生計を立てて申しなさい。

 妻や子がいることも、一族や家来、付き従う者がいるということも、
 自分がその人たちに支えられながら、念仏を申すためなのである。
 それが念仏申すことの妨げになるのであれば、決して持ってはいけない。

 領地を修めるということも、それが念仏申すことの助けになるのであれば大切である。
 念仏を申すことの妨げになるのであれば、領地を持つべきではない。


この御法語は、

「死後、極楽浄土に往生することに関しては、
 阿弥陀様の本願を信じてお念仏申せば、間違いなく往生できるとわかりましたが、
 この世で生きている間はどのように生きたらよろしいのでしょうか?」

という質問に法然上人がお答えになったものである。


注11 なお、法然上人が「持戒の行」「孝養の行」を勧めておられる言葉があるが、「持戒の行」「孝養の行」は「阿弥陀仏の本願でない行」であり、自分の能力でできる限り守り勤めるものであるのに対して、「念仏の行」は「阿弥陀仏の本願の行」なので最優先に勤めるべきものである、と教えておられていることに注意しなければならない。

●念仏の行はかの仏の本願の行にてそうろう。持戒誦経誦呪理観等の行はかの仏の本願にあらぬ行にてそうらえば、極楽を欣わん人はまず必ず本願の念仏の行を勤めての上に、もし異行をも念仏にし加えそうらわんと思いそうらわんと思いそうらわば、さも仕りそうろう。
 またただ本願の念仏ばかりにてもそうろうべき。念仏をつかまつりそうらわで、ただ異行ばかりをして極楽を欣いそうろう人は、極楽へも、え生まれそうらわぬ(※)亊にてそうろう由、善導和尚の仰せられてそうらえば、但念仏が決定往生の業にてはそうろうなり。善導和尚は阿弥陀仏の化身にておわしましそうらえば、それこそは一定にてそうらえと申しそうろうにそうろう。
 また女犯とそうろうは不婬戒の亊にこそそうろうなり。また御君逹どもの勘当とそうろうは不瞋恚戒の亊にこそそうろうなれ。されば持戒の行は仏の本願にあらぬ行なれば、堪えたらんに随いて持たせたまうべくそうろう。孝養の行も仏の本願にあらず、堪へんに随いて勤めさせおはしますべくそうろう。『熊谷入道へ遣わす御返事』(浄土宗聖典vol.4p.544)

※「え生まれそうらわぬ」・・生まれることができない
「え」・・下に打ち消しの表現を伴って不可能の意味を表す

(訳)
 念仏の行は阿弥陀仏の本願の行である。持戒・誦経・誦呪・理観等の行は阿弥陀仏の本願の行でない行であるから、極楽へ往生することを欣求する人は、まず必ず本願の行である念仏の行を勤めた上で、もしもそれ以外の行もして念仏に付け加えようと思うのであれば、それもよいであろう。また、ただ本願の念仏の行だけであってもよいであろう。
 念仏を申さないで、ただ念仏以外の行だけをして極楽へ往生することを欣求する人は、極楽へ生まれることができない、という理由は善導和尚が仰っておられることであるから、但念仏が決定往生(間違いなく極楽浄土に往生することができる)の業なのである。
 善導和尚は阿弥陀仏の化身なのであるから、その方が仰ったことは間違いないと申している。
  女犯というのは不邪婬戒に該当する亊をしてしまうということである。また御子息たちを勘当するというのは不瞋恚戒に該当することをしてしまうということである。
 だから持戒の行は阿弥陀仏の本願でない行なので、自分の能力でできる限り守るべきであろう。孝養の行も阿弥陀仏の本願の行ではないので、自分の能力でできる限り勤めるべきであろう。

やさしい浄土真宗の教え §16 所謂「三願転入」について

§16 所謂「三願転入」について

前回のレクチャーで「信前の念仏」を、
親鸞聖人も勧めておられることを証明したわけやけど、

  親鸞聖人は「三願転入」をお説きになっておられるから、
 「信前の念仏」は二十願のプロセスの人に説かれたもので、
  十九願のプロセスにある人には「諸行」が勧められているんじゃい!!

と反論される方もいるやろうと思います。(注1)

今回は、そういう人のためのレクチャーでござりまする。


そういう人は、親鸞聖人が『教行信証』化土巻で、
「以下の道程を歩まれた!」とお話されていることを、
根拠にしてはりますわね~。(注2)
 
1)【万行諸善の仮門】を出て、【双樹林下の往生】から離れた。
2)【善本徳本の真門】に入って、【難思往生】を願う心を起こした。
3)【選択本願の大海】に転入して、【難思議往生】を遂げようと欲する。

そんでもって、1)2)3)が、
本願で言うと、それぞれ十九願・二十願・十八願に対応して、
浄土三部経で言うと、それぞれ
『観経』『阿弥陀経』『大無量寿経』に対応するから、

         [三願] [三経][三門] [三往生]   
1)万行諸善   =十九願 =観経 =要門 →双樹林下の往生
2)善本徳本   =二十願 =小経 =真門 →難思往生
3)選択本願の大海=十八願 =大経 =弘願門→難思議往生

こういう構造になって、

「とりあえず1)からスタートせなアカン!」

ちゅうことで、

「お金を持ってきなさい!ただ働きしなさい!
 お友達を連れてきなさい!サークルを作って学生を誘いなさい!
 アニメを売りなさい!」

ちゅう「善(?)」に励んでいるわけですわね。(注3)

さてさて、このような「活動」が、
「万行諸善」と言えるかとりあえず置いておいて、
(オレ的には、言えないと思うけどw)


これが、親鸞聖人の「体験告白」であって、
親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。

ちゅうことは、きちんと踏まえておかなアキマヘンね~。(注4) (注5)


【今日のまとめ】
 1、親鸞聖人御自身は「三願転入」された。
 2、「三願転入」は親鸞聖人の「体験告白」である。
 3、親鸞聖人ご自身は「体験告白」を重視されなかった。


とりあえず今日はここまで確認しておいて、
話が長くなるので、また来週にしときますわ。

★仏が衆生に何を求めているか?←これが次回のポイントよw

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 例えば以下のような解説をしている「文化」に属する皆様が、このような反論をするのではないかと思われる。

~~以下引用~~
高森顕徹著『こんなことが知りたい』vol.4 pp.106-110

  二〇 三願転入とはどんなことか
 
問 三願転入と、よくききますが、三願転入とは、どんなことでしょうか。
 
答 大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、四十八のお約束があり
 ます。
 弥陀の四十八願といいます。
  その中で
 「あらゆる人を救う」
 と誓われた願が三つあります。十八、十九、二十願がそれです。
  十八願は、卒直に阿弥陀仏が
 「どんな人をも、必ず、絶対の幸福に救う」
 と、本心を誓われたものですから、王本願といいます。
  ところが、自惚れ強く、相対の幸福しか知らない私達を、絶対の幸福にまで導くこ
 とは大変で、種々の方便が必要だったのです。
  十九、二十の願は、その為に誓われたものです。
  十九願には、
 「十方の人々が、人生の苦しみの連続に驚いて、どうしたら平和な安楽な世界に生ま
 れることが出来るのか。
 それには、悪を慎み、善を励まなければならないと奮発心をおこし、あらゆる善を一
 生懸命実行して、その力で我国(浄土)に生まれたいと願う者は、臨終に諸仏菩薩に
 とりまかれて迎えにゆこう」
 と、約束なされています。
  因果の道理は宇宙の真理、善因善果、悪因悪果、自因自果には寸分の狂いもない。
 知っただけでは観念の遊戯に終わり、実行しなければ善果は得られない、と真面目に
 全力尽してやってみると、悪はやみ難く善は成し難い悪性ばかりが知らされて泣かざ
 るを得ません。
  二十願はそんな人に誓われた弥陀のお約束です。
 「十方の人々が、南無阿弥陀仏の名号を聞いて、念仏を称え、その功徳の力で、我国
 (浄土)に生まれたいと願う者は、必ず、思いを遂げさせてあげよう」
 と。
  そこで誠心誠意、一心不乱に念仏を称えようと、つとめればつとめる程、散乱粗動
 の心ばかりが見えて来て、こんな雑念で称えていてもよいのだろうか、こんな乱れた
 心で称えていても本当に助かるのだろうか、と不安な心が出て来ます。
  また悪い心や、悪い行為をしながら称えていても、功徳にならぬように思えるので、
 悪を慎み善を励んで、念仏しようとするのですが、見えて来るのは悪ばかり。
  励めば励むだけ、乱れる心はやまず、悪しか造れない自己が知らされ不安で苦しい
 から、こんな者でも死んだらお助け、と安心し喜ぼうとしますが、助かっていないか
 ら喜ばれる筈がありません。
  法の尊さに感激した時は、助かるようにも思いますが、悪性が現れると、こんあこ
 とでは助からんのではなかろうかと、堕ちるような気がする。
 念仏は称えているが、自分の心の善し悪しで、参ってみたり堕ちてみたり、つねに不
 安動乱がやまないのです。
  十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、次の十八願で絶対の
 幸福へ転入させようとするのが、弥陀の狙いなのです。
  後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、後生の一大事と聞いても驚かず、
 絶対の幸福といっても、ウンともスンともこたえず何のことかい、とせせら笑ってい
 るのが私達の本性です。
  親鸞聖人は、逆謗の屍といわれました。
  この屍を、絶対の幸福に生かし切らねば、命を投げ出すとお約束なされているのが
 弥陀の十八の誓願です。
  こうまできかされても、聞き切らぬ渋太い私であったのかと照らし出され、進むに
 進まれず、やめるにやめられず、にっちもさっちもならぬところを三定死といいます。
  一切の助かる望みが切れた時と、大慈悲心が徹到した時とは同時で、まことなるか
 な、弥陀の本願、己れ忘れて踊り上がり、ようこそ、ようこそ南無阿弥陀仏と噴き出
 るお念仏を仏恩報尽の念仏というのです。
  無辺の智恵と、無限の慈悲を体得しますから、底の知れない懺悔、高さの知れない
 歓喜、広さの知れない苦悩の晴れた味に、遠く宿縁を喜ばずにおれないのです。
  この十八願に誓われた絶対の幸福、無碍の一道に出るには、十九、二十願の道程を
 通らなければならないことを発見し、教導なされたのが親鸞聖人です。
  その体験を三願転入というのです。
~~以上引用~~


注2 『教行信証』化土巻より

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。

善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。

しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。

果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。

ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。


(苦笑ちゃん訳)
このようなわけで、愚禿釈の親鸞は、龍樹菩薩や天親菩薩のような論主の解釈を仰ぎ、曇鸞大師や善導大師のような祖師方の教えを受けることによって、久しくさまざまな行や諸善を修行する方便の要門【万行諸善の仮門】を出て、永く【双樹林下の往生】から離れた。

そして、自力の念仏の功徳を積む方便の真門【善本徳本の真門】に入って、ひとすじに【難思往生】を願う心を起こした。

しかしいまや、その方便の真門からも出て、【選択本願の大海】に転入した。速やかに難思往生
を願う心を離れて、【難思議往生】を遂げようと欲するのである。

阿弥陀仏が、必ず本願他力の真実に入らせようと第二十願をお立てになったのは、まことに意義深いことである。

ここに久しく、阿弥陀仏の本願の海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い御恩に報い感謝するために、真宗の教えの要となる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称えるのである。いよいよこれを喜び、つつしんでいただくのである。


注3 某巨大掲示板に、注1で紹介した「文化」の主張を端的にまとめた記述が掲載されていたが、非常に的を得ているのではないかと思う。

~~以下引用~~
400 :神も仏も名無しさん:2009/03/11(水) 20:58:36 ID:d3pLMFdy
親鸞会で言う「善」の基準ってなんだろうか?
彼らの主張によれば「極楽に行くための縁、手がかりになるもの」ということらしいが

・「阿弥陀仏は全人類を極楽に往生させるために18願をたてられた」
      ↓
・「18願まで導くための方便として19、20願を建立した」
      ↓
・「19願のこころを釈尊は一切経において廃悪修善として教えられた」
      ↓
・「廃悪修善を六度万行として要約された」
      ↓
・「六度万行の第一が布施である」
      ↓
・「布施とは、財施・法施である」
      ↓
・「財施とは真実の仏法、善知識のためにお金や労働力を提供することである。法施とは真実の仏法を人々に伝えることである」
      ↓
・「真実の仏法は親鸞会でしか教えていない。よって親鸞会にお金や労働力を提供し、親鸞会に多くの人を勧誘しなければならない」

結局、お金を持ってきなさい、ただ働きしなさい、お友達を連れてきなさい、サークルを作って学生を誘いなさい、アニメを売りなさい、それが「善」ですよ、ということ。
~~以上引用~~


注4 投稿文・三願転入「しなければ」助からないという、言い方の影響を考える 参照

~~以下引用~~
■三願転入の御文は、親鸞聖人の「体験告白」

親鸞聖人ご自身が阿弥陀仏に救われた体験告白をされたのが、三願転入の御文です。
三願転入の御文は、親鸞聖人の教行信証全6巻の化土巻に書かれているものです。

「ここを以て、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く雙樹林下の往生を離れ、善本・徳本の真門に廻入して、偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻)」

最初に「愚禿釈の鸞」とありますから、間違いなく「親鸞は」という、親鸞聖人ご自身の体験告白文です。親鸞聖人ご自身は、自身の救われた具体的な体験告白というものはほとんどされていません。ご自身の名前を出して「このようにして弥陀に救われた」と告白されている部分は、これ以外には

「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証)」

の他にはありません。

■「体験告白」は重視されなかった親鸞聖人

このことから分かることは、親鸞聖人ご自身が、救われた人の具体的な体験を書くことを重要視されていなかったと言うことです。「このようにして救われた」と書くと、それは「救われる方法」ということになり、「このようにすれば救われる」と聞く人が多いからです。

親鸞聖人の書かれた浄土真宗の根本聖典である教行信証は、阿弥陀仏の教、阿弥陀仏の行、阿弥陀仏の信、阿弥陀仏の証について書かれたものです。「私たちの」教・行・信・証を書かれたものではありません。親鸞聖人がもっとも力を入れて書かれたのは、教行信証の信巻です、その信巻とは、阿弥陀仏の本願に誓われた信心について書かれている者です。ですから、浄土真宗は「信心為本」の教えと言われ、阿弥陀仏から賜る信心一つで救われる教えです。

親鸞聖人の教えを、そのまま伝えられた蓮如上人は、親鸞聖人の教えについて、「聖人一流の章」では、一言で

「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候(御文章5帖目10通・聖人一流)」

と言われています。

阿弥陀仏から賜る他力の信心一つで救われるのが浄土真宗ですから、「私がこうしたから助かる」という言い方はできません。個人的な体験談を語るということは、聞いた人が、「私がこうしたら助かる」という方法(自力の行で助かる)があるように思ってしまうからです。

ご自身の体験談を書かれた「三願転入の御文」が、教行信証の化土巻末に書かれているのはそのためです。ことさら重要視されていなかったことは明確です。覚如上人や、蓮如上人が、ご自身が「このようにして救われた」という体験談を書かれなかったのも、自身の体験談を語ることの危険性を考えられた上でのことです。

「三願転入の御文」は体験談である以上、このような道を通って救われたとは書かれていますが、救われた後振り返って「すべて阿弥陀仏の願力の働きによって救われたのであって、自分の教、行、信、証は一つもなかった」ということを書かれたものです。

■三願転入「しなければ」救われない?

そのように書かれている三願転入の御文であっても、真実信心を獲得していない人にことさら強調して説けばどうなるでしょうか。まして三願転入「しなければ」救われないと言えば聞いた人はどう思うでしょうか?

『「三願転入の御文」にあるように私が行動しないと救われない』としか思えなくなるでしょう。
ここで大事なのは、三願とは、「阿弥陀仏の」18願、19願、20願の三願ですから、「阿弥陀仏の三願」の願力によって救われたと親鸞聖人が告白されているのであって、「親鸞が」こうして、こうして、こうなったから救われたと言われているのではないということです。

三願転入「しなければ」と聞けば、「私が」三願転入の御文の通りに行動しなければと大半の人が思うのではないでしょうか。
親鸞聖人が三願転入の御文で、告白されたのは、「阿弥陀仏の願力によって三願転入させられたから、現在弥陀に救われる事ができたのだ」と、救われた後振り返って知らされたことを、阿弥陀仏の願力からいわれたものです。ということは、阿弥陀仏に救われるまでは、阿弥陀仏の18願の願心も、19願の願力も、20願の果遂の誓いもハッキリ分かるものではないということです。

三願転入の御文の最後に言われているのはそのことです。

「選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の 誓、良に由有るかな。(教行信証化土巻・三願転入の御文)」

阿弥陀仏の18願の救いに一念で救われ、20願の往生の心を離れて、18願で誓われた報土往生を死ねば遂げる身になることができました。18願の世界に必ず出させてみせるという果遂の誓い(20願)は本当であった、といわれています。
18願の救いに救われて、20願は本当であったと振り返って言われいるのであって、救われる前に、自分は19願の願力に引っ張られているとか、20願の願力に引っ張られていると明確に分かるものではありません。

まして、「自分で」19願の行をして、20願の念仏を称えたから出られたとは言われていないのが、親鸞聖人の三願転入の体験告白なのです。

すべて阿弥陀仏の働きによって救われるのでありますから、「私が」三願転入(でいわれようなことを実行)しなければ助からないと思うのは間違いです。
~~以上引用~~


注5 近年は、親●会も個人の「体験告白」を「教え」として語ってはいけない教義にシフトしている。

~~清森問答 質疑応答162 より~~
機相…(語られていない)とは、

★何時、何処で、どのように獲信した、というような各人各様、違うことは、説かれていないと言うことです。

★また、あの人は獲信している、あれはしていないなどと言われていないことを言うのです。
~~清森問答 質疑応答162 より~~

やさしい浄土真宗の教え §15所謂「信前の念仏」について

§15所謂「信前の念仏」について

前回のレクチャーで、
「真実の信心」と「念仏」は切り離したらアカンことも、
「念仏はお礼だから、してもしなくてもいい」と絶対に言えへんことも、
流石にわかってもらったと思うけど、

こういう話をしても、
「念仏は信後に限る」ちゅう人が、
必ず出てくるのよね(苦笑)。 (注1)

今日は、ホンマニ「念仏は信後に限る」と言えるかどうか、
親鸞聖人の師匠の法然上人にお聞きしまっせ。


法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、
心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人に対し、
「功を積み徳を累ぬれば時々猛利の心も出で来るなり」と、
いずれの行よりも優れた功徳のある「念仏」を勧めてはります。(注2)

「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」の人は、もちろん「信前」です。

その「信前」の人に「念仏」を法然上人がお勧めになられているのに、
「念仏は信後に限る」とは口が裂けても言えまへんね~。


それに、「我が心をも護り信心をも催す(うながす、引き起こす)」ために、
「常に念仏してその心を励ませ」と仰ってはりますから、(注3)

「念仏は信後に限る」と言ったら、絶対にあきまへんわね~。



そんでもって親鸞聖人は、

 信心のひとにおとらじと
 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり
 称名念仏はげむべし
(『正像末和讃』66)

と仰っておられまする。(注4)

「往生を不定におぼしめさん人」
 =「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」
 =「信心の人」(信後の人)におとらないように、

「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」
と仰っておられるわけやから、

親鸞聖人が「信前の人」に、「称名念仏はげむべし」
と勧めておられることは絶対に否定できまへんな~。


あと、一応言っておくけど、
親鸞聖人は法然上人の教えを受け継がれた方なんやから、
当たり前の話やけど、親鸞聖人の言葉は、
法然上人の教えに抵触しない解釈をせなアキマヘンで。(注5)


【今日のまとめ】
 1、法然上人は、「念仏すれども心の猛利ならざる人」で、心の内に「弥陀を憑(たの)む心」の「なきにしもあらず」という人(=信前の人)に対し、「念仏」を勧めておられる。
 2、同じく法然上人は、信前の人が「我が心をも護り信心をも催す」ために、「常に念仏してその心を励ませ」と仰っておられる。
 3、親鸞聖人も、「往生を不定におぼしめさん人」=「疑心自力の行者」(信前の人)であっても、
 「わが身の往生、一定とおぼしめさんひと」=「信心の人」(信後の人)におとらないように、
「如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と仰っておられる。
 4、親鸞聖人は法然上人の教えを忠実に継承された弟子であり、
 「法然上人の教え」に抵触する「親鸞聖人の教え」の解釈は、親鸞聖人ご自身の御心に反する。
 5、したがって、「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」という教えは、
  法然上人や親鸞聖人の教えとは異なる教えである。

※「親鸞聖人は教え方が違うのや!」「親鸞聖人の教えは三願転入や!」と反論したくなった人は、脊髄反射しないで、次回の「三願転入の話」をじっくり読んでから反論してね♪



――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 例えば、以下のような発言。

真宗の教義の骨格は、「信心正因、称名報恩」であり、信心一つで助かるのであって、称名念仏は、すべて信後報謝に限るからです。
(『こんなことが知りたい』1p.126-127)


注2 『念仏往生義』浄土宗聖典 vol.4. pp.524-525

また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。
その心の内にまた弥陀を憑(たの)む心のなきにしもあらず。
譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。
いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、こころざしの験(しるし)なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。
始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒(いたずら)に暮れなん事、後悔先に立つべからず。


注3 『十二箇条問答』浄土宗聖典 vol.4. pp.445-446

問うていわく、かようの愚痴の身には聖教をも見ず悪縁のみ多し。
いかなる方法をもてか我が心をも護り信心をも催すべきや。

答えていわく、その様一つにあらず。
あるいは人の苦に遇うを見て三途の苦を思いやれ。
あるいは人の死ぬるを見て無常の理を解れ。
あるいは常に念仏してその心を励ませ。
あるいは常に善き友に遇いて心を恥しめられよ。
人の心は多く悪縁によりて悪しき心の起るなり。
されば悪縁をば去り、善縁には近づけなりといえり。
これらの方法一品ならず。時に随いて計らうべし。

つまり、

「我が心をも護り信心をも催す」ために、
1)人が苦しんでいる姿を見て、他人事と思わず、現世や来世で自らがやがて苦しむかもしれないこととして受けとめていく。
2)人が亡くなっていくのを見て、他人事と思わず、無常の空しさや恐ろしさと真正面から向き合って、後生の一大事の解決に取り組むきっかけとしていく。
3)常に念仏をお称えして、阿弥陀仏との関係を深めて、自らの心を勵ましていく。
4)善い法の友を持ち、互いに勵ましあいながら、その人たちに負けないように、その人たちの友として恥ずかしくないように、精一杯努力していく。

普段からこれを一つ一つ心がけていくことが、大切であると法然上人は仰っておられる。


注4 以下の言葉も信前の念仏を勧めたものである可能性がある。

往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼしめして、御念仏そうろうべし。
(『親鸞聖人御消息』25)

しかし、「往生を不定におぼしめさん人」(=信前の人)に対して、「まずわが身の往生をおぼしめして」とあるので、あくまでも「信後の念仏」のみを勧めた言葉である。と解釈することも不可能ではない。


注5 以下の親鸞聖人の言葉等に基づき、親●会においても「法然上人の教え=親鸞聖人の教え」という立場を取っている。この点に関しては素晴らしいことであると考える。
 親鸞聖人の言葉を法然上人の教えに抵触する意味に解釈し、「親鸞聖人の教えは法然上人の教えと異なる」「親鸞聖人の教えは法然上人の教えを超越している」と主張する態度は、親鸞聖人ご自身の御心を裏切る行為である。

●『高祖和讃』源空讃

 曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずば このたびむなしくすぎなまし

 阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ
 化縁すでにつきぬれば 浄土にかえりたまひにき

●『歎異抄』二章

 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、
 よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
 念仏は、まことに浄土に生まれるたねにてやはんべらん、
 また地獄におつべき業にてやはんべるらん、
 総じてもって存知せざるなり。
 たとひ法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、
 さらに後悔すべからず候ふ。

やさしい浄土真宗の教え §14「信心」と「念仏」(追記あり)

§14 「信心」と「念仏」

そんじゃ~約束通り、ここらで、
「信心」と「念仏」の関係について述べとくで。

これは、結論から先に言っちゃうけど、

★「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えちゃダメ!

これ超重要やで。

法然上人は、

「名号を聞いても、信じなければ聞いてないのと同じや!
信じたっちゅうても、念仏申さなかったら信じたことにならへん!
念仏せえ!」

と仰ってはって、(注1)
その教えを受け継いでいる親鸞聖人も、
ちゃ~んと、信じることと念仏申すことをセットにしてはります。(注2)(注3)

「親鸞聖人の教えで大事なのは信の一念だけや!」
とか言って、

「行の一念」を軽んじる輩もいるようやけど、

親鸞聖人が、

「信を離れた行はあらへん!
行の一念を離れた信の一念もあらへん!」

と仰っておられるんやから、(注4)
そんなんじゃ~あきまへんで。

そして、所謂「信行両座の法論」も、
「真実の信心」と「念仏」を分離しないという、
法然上人や親鸞聖人の教えに、
抵触しない解釈じゃなきゃアカンわけね。(注5)


それと、「信」の立場からは、

★「一念」で往生できると「信じる」。

わけやけど、

「行」の立場からは、

★生涯できる限り念仏申していく。

ことが大切でっせ~。

これは法然上人が仰っておられることやけど、(注6)
親鸞聖人もちゃ~んと受け継いでおられます。(注7)(注8)

覚如上人や蓮如上人の言葉も、
このコンテクストで読まないと、

「お礼だから、してもしなくてもいい」

みたいな、念仏申すことを軽視する、
ヘンテコドグマになっちゃいまっせ(苦笑)。(注9)(注10)

まあ、「南無阿弥陀仏」についてかなり詳細にレクチャーしたから、
そんなヘンテコドグマ野郎は、もうおらへんと思うけどね(苦笑)。(注11)


【今日のまとめ】
 1、「真実の信心」と「念仏」は切り離して考えられるものではない。
 2、「信」を離れた「行」はなく、「行の一念」を離れた「信の一念」もない。
 3、所謂「信行両座の法論」もこれに抵触しない解釈をしなければならない。
 4、「信」の立場からは、「一念」で往生できると信じる。
 5、「行」の立場からは、生涯できる限り念仏申していく。
 6、上記は法然上人のみならず、 親鸞聖人も教えておられることである。
 7、したがって、覚如上人や蓮如上人の言葉は、
  このコンテキストで解釈していかなければならない。
 8、「南無阿弥陀仏」の意味がわかっていれば、
 「お礼だから、してもしなくてもいい」とは、口が裂けても言えない。

※次回は、「信前の念仏」のお話をするで。
「念仏は総て信後、報謝の念仏に限る」ドグマと対決や!!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 法然上人には以下の言葉がある。

名号を聞くといえども、これを信ぜずば、これを聞かざるがごとし。
これを信ずといえども、これを唱えずば、これを信ぜざるがごとし。
ただつねに念仏すべし。
(「四巻伝」三、「九巻伝」二)


注2 親鸞聖人はお手紙の中で、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、
ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。
また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。
されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、
疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。
本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。
このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
『親鸞聖人御消息』

とお答えになられていて、「本願を信じて念仏申す」がきちんとセットになっている。


注3 上記の親鸞聖人の立場は、主著『教行信証』においても同様である。

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、
その意これ一つなり。なにをもつてのゆえに、
三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。
これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。
(『教行信証』信巻)

というように、疑う心のまったく混ざらないのが、 「真実の一心」=「金剛の信心」=「真実の信心」であるとした上で、

真実の信心はかならず名号を具す。
名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。

と述べて、必ずその「真実の信心」が「名号(=念仏)」を具えていることが明らかにされている。

そして同じく『教行信証』の行巻に、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。

とあり、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、
よく衆生の一切の志願を満てたまふ。
称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。
正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

とあるように、この「真実の信心」が具えている「名号(=念仏)」が、「衆生の一切の無明を破し」「よく衆生の一切の志願を満てたまふ」「最勝真妙の正業」であると明らかにされている。


注4 以下参照。

信の一念・行の一念ふたつなれども、
信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、
ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。
この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、
信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、
行をはなれたる信はなしとききて候ふ。
また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
『親鸞聖人御消息』(7)


注5 したがって「信行両座の法論」の意義は以下のように解釈できる。

この法論を「信心 vs 念仏」と解釈してしまうと、「真実の信心」と「念仏」を分離してしまう、法然上人や親鸞聖人の教えに抵触した解釈になってしまう。
したがって、「真実の信心」が「念仏」を具すものとした上で、「どのタイミングで阿弥陀仏の救いを得るか?」という法論であったと解釈すべきである。
例えば『歎異抄』の第一条には、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

とあり、「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」に、 阿弥陀仏の「摂取不捨の利益」を受けるとある。

これはつまり、

「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」

の時点で、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になったということであり、 この瞬間に信心決定した人となり、間違いなく極楽浄土に往生する人になるということである。

もちろん「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」わけであるから、この後にこの人は、まもなくお念仏を申すわけであるが、
その最初の一声が出る前に、地球が滅びる等の何らかアクシデントがあったとしても、この人は阿弥陀仏の本願を信じて念仏申す人になっていて、間違いなく極楽浄土に往生できるわけである。

その阿弥陀仏の摂取を受ける瞬間が「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」か、その後に出される一声の念仏の後かという問題が、
この「信行両座の法論」で問題になるべきポイントであると、解釈すべきなのではないかと思われる。


注6 法然上人には以下のような言葉がある。

●行は一念十念なお虚しからずと信じて、無間に修すべし。
一念なお生る、況や多念をや。
(『一紙小消息』)

(訳)
行に関して言うならば、「一回の念仏、十回の念仏でも往生のためになる」と信じて、
間を置かずに申し続けるべきである。
一回の念仏でも往生できる。まして多くの念仏で往生できることはいうまでもない。


●一念十念に往生をすといへばとて、念佛を疎相に申すは、
信が行をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定におもふは、行が信をさまたぐるなり。
信をば一念にむまると信じ、行をば一形にはげむべし。
又一念を不定に思ふは、念々の念佛ごとに不信の念佛になるなり。
其故は、阿彌陀佛は、一念に一度の往生をあておき給へる願なれば、
念ごとに往生の業となるなり。
(「勅伝」21、「つねに仰せられける御詞」)

(訳)
一念十念の念仏だけでも往生できるからと言って、
念仏をいい加減に申すならば、それは信が行を妨げることになる。
逆に「一瞬一瞬、常にこれを続けるということ」と述べられているからと言って、
一念では往生できるかどうかわからないと思うならば、それは行が信を妨げることになる。
また「一念の念仏で往生できるかどうかわからない」と思うのであれば、
一念一念繰り返し念仏申すごとに、往生できるかどうか疑う念仏になってしまう。
そのわけは、阿弥陀仏は、一念のお念仏によって、一度極楽浄土へ往生ができることを、
本願で定めておられるのであるから、
一念一念お念仏を申すごとに、それが極楽浄土に往生することができる行為になるのである。


注7 親鸞聖人の『一念多念証文』は、上記の法然上人の教えを詳しく述べたものである。詳しくは以下の全文を参照。

親鸞聖人『一念多念証文』全文


注8 これは参考までにであるが、聖覚法印の『唯信鈔』にも以下の言葉があり、上記の法然上人の教えは、法然門下に共通したものであることは明かである。

つぎに念仏を信ずる人のいはく、
「往生浄土のみちは、信心をさきとす。
信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。
『経』(大経・下)にすでに〈乃至一念〉と説けり。
このゆゑに一念にてたれりとす。遍数をかさねんとするは、
かへりて仏の願を信ぜざるなり。念仏を信ぜざる人とて
おほきにあざけりふかくそしる」と。

まづ専修念仏というて、もろもろの大乗の修行をすてて、
つぎに一念の義をたてて、みづから念仏の行をやめつ。
まことにこれ魔界たよりを得て、末世の衆生をたぶろかすなり。

この説ともに得失あり。往生の業、一念にたれりといふは、
その理まことにしかるべしといふとも、遍数をかさぬるは不信なりといふ、
すこぶるそのことばすぎたりとす。
一念をすくなしとおもひて、遍数をかさねずは往生しがたしとおもはば、
まことに不信なりといふべし。往生の業は一念にたれりといへども、
いたづらにあかし、いたづらにくらすに、
いよいよ功をかさねんこと要にあらずやとおもうて、
これをとなへば、終日にとなへ、よもすがらとなふとも、
いよいよ功徳をそへ、ますます業因決定すべし。

善導和尚は、「ちからの尽きざるほどはつねに称念す」といへり。
これを不信の人とやはせん。ひとへにこれをあざけるも、
またしかるべからず。一念といへるは、すでに『経』(大経・下)の文なり。
これを信ぜずは、仏語を信ぜざるなり。このゆゑに、一念決定しぬと信じて、
しかも一生おこたりなく申すべきなり。これ正義とすべし。
念仏の要義おほしといへども、略してのぶることかくのごとし。


注9 覚如上人の『口伝鈔』には、以下の言葉がある。

一 一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事。
このこと、多念も一念もともに本願の文なり。
いはゆる、「上尽 一形下至一念」(礼讃・意)と等釈せらる、これその文なり。
しかれども、「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、
「上尽一形」は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。
そのこころ、経釈顕然なるを、
一念も多念もともに往生のための正因たるやうにこころえみだす条、
すこぶる経釈に違せるものか。
さればいくたびも先達よりうけたまはり伝へしがごとくに、
他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、
そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし。
これすなはち「上尽一形」の釈にかなへり。


注10 蓮如上人の『御文章』二帖三通には、以下の言葉がある。

一 開山親鸞聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、
もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、
本願を信楽する体とす。
されば先達より承りつたへしがごとく、弥陀如来の真実信心をば、
いくたびも他力よりさづけらるるところの仏智の不思議なりとこころえて、
一念をもつては往生治定の時剋と定めて、
そのときの命のぶれば自然と多念におよぶ道理なり。
これによりて、平生のとき一念往生治定のうへの
仏恩報尽の多念の称名とならふところなり。
しかれば祖師聖人(親鸞)御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。
これをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて真宗のしるしとす。


注11 以下の記事参照。

§9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
§10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ
§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)
Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について
Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ
Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」




追記

以下の法論は、今回の内容を理解するのに有効です。

 ★【幻の法論!】渡海さんvsM.H氏

 ★渡海さんvsM.H氏を全部読みたい方はこちら!

やさしい浄土真宗の教え §13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル

§13 「異安心」(2)「異安心」のサンプル

ほんじゃ~前回の「ガイドライン」を踏まえて、
今日は具体的に「異安心」のサンプルを見ておこうね。

まず浄土真宗の伝統的な「異安心」に関して、
山も山さんがサクッと解説してくれてたのを、
以下に引用しておくよん。
 ↓ ↓ ↓
~~2008-08-28 弥陀に救われたら何がハッキリするか2より引用~~

異安心と言ってもいろいろありますが、長くなるので、代表的なものを今回は書きます。

土蔵秘事→これは有名ですが、親鸞聖人の長子善鸞がはじめたものと言われていますが、儀式によって信心を授けるものをいいます。知識がそれでよいと認定したり、信心をいただいた年月日時を覚えていなければならないというものです。

十劫安心→阿弥陀仏が十劫の昔、本願を建てられたときに、すでに私たちは助かってしまっている、だから今は分からないだけで死んだら極楽なのだというものです。

地獄秘事→地獄行き間違いないと(自分で)ハッキリしたのが救われたことだと思っているもの

機決定→自分でこれでよいと決めた異安心

またおいおい書いていきますが、いづれも特長は、「自分でこれで間違いないと決めている信心」が、すべて異安心です。

また、「こうしておけばいつかは助かるだろう」と思っているのも異安心です。

親鸞聖人が

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証総序)

と仰有り、蓮如上人が

「他力の信心ということをば、今既に獲たり。」
「弥陀如来他力の大信心ということは、今こそ明かに知られたり。」(御文章2帖目13通)

と言われたのと異なり、「いつかは」とか「○○だから大丈夫だろう」「○○だから間違いない」という安心は、すべて異安心です。(真実信心ではないという意味で)

~~2008-08-28 弥陀に救われたら何がハッキリするか2より引用~~


「異安心」はこれだけじゃなくて、
「現代の新しい異安心」もあるんで、
こういう「異安心」にもならへんように気をつけてね♪
 ↓ ↓ ↓
~~現代の新しい「異安心」より~~

某所より

510 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 03:33:48 ID:t6+HHvif
浄土真宗親鸞真会 狂学性典(7)

問(32)

異安心の名を十あげよ。

答(32)

○十講安心
○十燈正因
○不倫秘事
○盗作づのり
○断章決定
○タイヤキ覚知
○脱税邪義
○華光秘事
○高森だのみ
○ドメイン往生

511 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 03:42:14 ID:t6+HHvif
問(33)

十講安心とはどんな異安心か。
何をどう間違ったものか、喩えで示せ。

答(33)

○十講制度が出来た昔にすでに我々は保身できてしまっているのだから、
今さら謝罪することも釈明することもいらぬという人達のこと。

○組織のでき上がったのを、免罪符をもらったことと早合点した間違い。
局長になっていても不倫すれば組織のガンは治らない。
(こんなことさえ判らぬ人達)

512 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 03:45:49 ID:t6+HHvif
問(37)

十燈正因の異安心とは、どんなことか。

答(37)

○高額財施さえしていれば助かる、と信じている人達。

513 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 03:53:54 ID:t6+HHvif
問(38)

不倫秘事の異安心の特色を六つあげよ。

答(38)

○絶対に秘密を守れと言う。
○夜中に秘事を授ける。
○本会の二代目善知識から「気持ちよい」と具合が認可される。
○不倫によって地位を貰う。
○証拠写真を撮った年月日時に覚えがなければならぬ、とやかましく言う。
○証拠ビデオがアップされた後は、会員がいなくなる。

518 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 04:27:39 ID:t6+HHvif
問(39)

断章決定とは、どんな異安心か。

答(39)

前後を無視し、自分でここがよいと思った部分の言葉だけを使う。

519 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 04:31:35 ID:t6+HHvif
問(40)

タイヤキ覚知とは、どんな異安心か。

答(40)

○おごられたタイヤキのことを覚えておらねばならぬ、
覚えておらねば生かしてはおかぬ、という異安心

520 :神も仏も名無しさん:2009/02/11(水) 04:33:04 ID:t6+HHvif
問(42)

ドメイン往生とは、どんな異安心か。

答(42)

阿弥陀如来の本願はさておきドメインに御報謝しているままで助かる、という異安心。

~~現代の新しい「異安心」より~~


いずれにしても、

★浄土真宗の信心である、「二種深信」と異なった信心

は「異安心」や。(注1)


そして、

>「必堕無間の後生の一大事」がわからないと、
>阿弥陀仏の本願はわからないのでございます!

と言うような「特殊文化」でもって、
「異安心」を認定することはでけへんで(苦笑)。(注2)

このように不当な「異安心」認定をするような人の「信心」は、
「プラサーダ」(信楽)=「二種深信」とはほど遠い、
「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の、(注3)(注4)
一種の「異安心」のようなものの可能性高いと思うで(苦笑)。


【今日のまとめ】
 1、古来より現代まで様々な「異安心」があるが、
  いずれも浄土真宗の信心である「二種深信」と異なった信心である。
 2、「特殊文化」でもって「異安心」を認定することはできない。
 3、「特殊文化」でもって「異安心」認定を行って憚らない人の「信心」は、
  「思考停止」とか「分かってない安心」といった類の「異安心」の可能性が高い。


※次回は、「信心」と「念仏」の関係についてレクチャーするで~。
親●会ドグマは「念仏」を軽視する方向性があるから、修正せなアカン!(苦笑)

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 詳しくは、§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)参照。

注2 詳しくは、【地球人にガミラス星人の「文化」は適応されない】参照。

~~以下引用~~
>必堕無間の後生の一大事

これって、清森氏や浄土宗の人によって、限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」であることが既に証明済みなんだよね(苦笑)。

【質疑応答82】

「化土往生する人」を親鸞聖人がお説きになられていますが、
獲信した人以外は無間地獄なんでしょうかね~?(苦笑)

それから「昿劫を逕歴」=「無間地獄に堕在」とする根拠ってないよね(苦笑)。

【質疑応答83】

>親鸞聖人が「全人類は逆謗である」という説き方をされていませんので、必堕無間の根拠には、ならないと思います。

>五悪段につきましても、必堕無間とは、どこにも説かれていません。すべて三悪道として教えられています。無間地獄ならば、寿命が短いということはありません。

>つまり、五悪段で説かれていることは、悪人は三悪道に堕ちる、ということであって、「一切衆生必堕無間」の根拠にはなりません。

だそうです。

「一切衆生必堕無間」というドグマはどっから導き出されるんでしょうかね~(苦笑)。

【質疑応答84】

>まして、化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説くことを否定するのは、善知識方の説き方を否定することになるので、間違いだと思います。

だそうです。

それでも「一切衆生必堕無間」というドグマを優先するのは勝手だけど、
化土往生を説いたり、後生の一大事を六道輪廻と説いている善知識とは、
別の「文化」であることは自覚する必要がありますな(苦笑)。

【親鸞会教義の相対化・28】

「一切衆生必堕無間」は、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとも抵触するドグマのようですね。

私は、親鸞聖人も蓮如上人も、曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えを受け継いだ方だと思っておりますが、
「一切衆生必堕無間」をドグマとする「文化」は、
そのドグマと曇鸞大師・善導大師・法然上人の教えとの間に、
どのように整合性を付けるつもりなのでしょうかね~(苦笑)。

日蓮聖人の思想との整合性は、なんとかつきそうな気がしますけどね(苦笑)。


あと、こんなのもありましたね。

「地獄に堕ちるわよ~!」は、
仏様でもない人が他人に対して言っちゃダメみたいですよ(苦笑)。

【親鸞会教義の相対化・26】
まず、以下の記述を見ていただきたいと思います。

若佛子。自説出家在家菩薩比丘比丘尼罪過。教人説罪過。
罪過因罪過縁罪過法罪過業。
而菩薩聞外道惡人及二乘惡人説佛法中非法非律。常生悲心教化是惡人輩。
令生大乘善信。
而菩薩反更自説佛法中罪過者。是菩薩波羅夷罪
(『梵網経』大正蔵経vol.24.p.1004c.)

(訳)
仏の子よ。
もしも出家や在家の菩薩や、比丘・比丘尼の罪過を自ら説き、他の人に教えて罪過を説かせたならば、それは罪過の原因となり、罪過の条件となり、罪過の法(教え)となり、罪過の業となる。

だから、菩薩は外道である悪人、さらに二乗である悪人が、仏法の中において法でないものや律でないものを説いているのを聞いたならば、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化して、大乗の善なる信心を生じさせなさい。

それなのに、菩薩がかえって更に自ら仏法の中における罪過を説いたならば、これは菩薩としては教団追放に値する罪なのである。

これは、釈尊が「仏の子」すなわち仏弟子に仰った言葉です。

釈尊は、出家者・在家者を問わず、仏弟子が他の人の罪過を、自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることは、

それはその行為が、新たな罪過の原因となり条件となり、罪過となる教えとなり、罪過となる行為になるのでしてはいけない。

そのように禁じておられます。


つまり仏教者は、他の人に

「地獄に堕ちるわよ!」

と言ってはいけないのです。

それはなぜでしょうか?

善因楽果、悪因苦果、自業自得が仏教の業報思想ですが、現在行った行為の果報が、必ず来世に得られるものであるかどうかは、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないし、その行為が、本当に地獄に堕ちるような果報をもたらすものであるかどうかも、仏智を獲得した仏陀でなければ、わからないからです。

それなのに、他の人に「地獄に堕ちるわよ!」と言って、その人が地獄に堕ちることがなかったらどうなるでしょうか?

そうです。

「地獄に堕ちるわよ!」と言った人こそが、妄語の罪を犯し、その罪過をうけなければならなくなるのです。

だから釈尊は、仏弟子が、他の人の罪過を自ら説いたり、他の人に教えて説かせたりすることを禁じられたのです。

仏弟子が、罪過を犯した人に対する時は、常に慈しみの心を生じて、この悪人を教化し、大乗の善なる信心を生じさせるように、ひたすら導いていかなければならないのです。

それでは多くの仏典で、地獄や地獄行きの業が説かれているのはなぜでしょうか?

それは、釈尊が三明・六神通(※)という仏智でもって、どのような悪業を作った人が地獄に行くかを知り、そのような悪業を犯さないように、仏弟子逹に教えてくださっているからなのです。


一方、私達は三明・六神通からはほど遠い罪悪生死の凡夫です。

その私達が、罪業とその業果を論じる場合は、釈尊が、三明・六神通でご覧になったものをお説きになった経典に基き、「釈尊が『こういう業にはこういう果報がある』と仰っていた」という形でしか論じることはできないのです。


三明六神通を獲得してもいないのにも関わらず、凡夫のはからいで、

「あなた地獄に堕ちるわよ!」

と言う人は、仏教徒でも仏弟子ではありません。


【親鸞会教義の相対化・30】
>これは私あてではないが真宗の同行として納得できない。

私の言葉足らずで、納得していだけなかったのではないかと思います。
若干でありますが、補足説明をさせて頂きます。


>親鸞会は(一切衆生)必墮無間だけしか言わんのでおかしいのです。
>必墮無間と叱りつける人が仏弟子ではないとは私は思わない。
>(「一切衆生必墮無間」という言葉や概念はおかしいでしょう。)

Nobodyさんの仰りたいこと、よくわかっているつもりです。

創造主である神の、絶対的な「神の律法」が人間の倫理を支えている、キリスト教などを代表するセム系一神教に対して、仏教では、「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」の業思想=「因果の道理」が人間の倫理を支えているわけですから、人間のどのような行為が原因になって、どのような結果を受けることになるのか、それを説かなければ、仏弟子は倫理を説くことができないことになります。


そのために、仏教では古来より、

★過去世でどのような行為をした人が、現世でどのような果報を受けたのか?
★現世でどのような行為をした人が、来世でどのような果報を受けるのか?

これを、釈尊が仏智でもってご覧になったことをお話しになった話を経典や律典から抜粋して、業報の実例集、業報説話集と言える、“アヴァダーナ文献”というものが編纂されたのです。
これに基づいて仏弟子逹は、釈尊の言葉に基づき、どのような業因によって、いかなる果報を受けるかを話していったのです。

したがってNobodyさんの以下の言葉は、

>理解した上で、他の人に必墮無間と叱りつけることが
>あってもよいのではないのかな。

正確には、

==========================
仏弟子は、三明六神通を獲得した仏の言葉に基づいて、
必墮無間の人を「必墮無間」と叱りつけなければならない。
==========================

ということになると思います。

蓮如上人に関しては、恐らく上記の範囲内での発言であり、「一切衆生必墮無間」という経典にない言葉を捏造したわけではありませんし、kkhate(=kkk)さんのように、「私の後生は必定地獄らしい」という自分の問題を、根拠もなく「全ての人」に一方的に当てはめ、「そうだろうなあ」と仰っているわけではないので、仏弟子であると言えます。


最後に、“アヴァダーナ文献”の代表的なものである“ディヴィヤ・アヴァダーナ”が、この度、世界で初めて全訳されましたので紹介させて頂きます。

平岡聡『ブッダが謎解く三世の物語』上下(大蔵出版)

これなどを読んで頂いて、釈尊がお説きになった業報の実例に基づいて、必墮無間の人に対して「必墮無間」と叱りつけるならば、何の問題もありません。

凡夫のはからいで、仏弟子にあるまじき行為をすることもなくなります。



強い放射線の中でしか生きられないガミラス星人
がその「文化」を地球人に押しつけて、
地球人に「放射線は必要だよね!」と言うのはおかしいでしょ?(苦笑)

限られた範囲でしか通容しない特殊な「文化」を、
議論の前提にするなんてのは全くもって不当ですわ(苦笑)。


>分かってない

特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
まあ納得ですけどね(笑)。
~~以上引用~~


(注3)「プラサーダ」と「バクティ」と「思考停止」の違いに関しては、§4の注4参照。

(注4)「分かってない安心」を、元親●会講師のメル友が以下のように解説くださった。

~~以下、メル友の解説~~

> >分かってない
> ↑
> 特殊な「文化」に「染まってない」だったら、
> まあ納得ですけどね(笑)。

この「分かってない」「わかっとらん」は、親鸞会ではよく使われる言葉です。
いわゆる「親鸞会定義の異安心者」に対して、会の講師が、会員にいうとき使われます。

【用例】
会員「○○さんって、最近みないけどどうしたのでしょうか?」
講師「○○さんは、親鸞会をやめてしまった。彼は分かってなかった。」
「○○さんも、わかってなかったということです」
「あんな者のいうことを信じるなんて、わかってない」
「彼らは異安心だからわかってないんです」

会員「なぜこんな建物が必要なのですか?」「なぜ○○(会の財施や、人集めなどの方針」なのですか?」
講師「そんなことをいうものは、わかっていない」

というように、「わかっていない」の主語がハッキリしないために、聞かされた方は、自分で起こした疑問について全否定されるので、「自分は分かってない→自分では理解できない→自分は考える力がない→考えないでおこう」とだんだんと、思考停止のスパイラルに陥っていきます。

この「分かってない」も、いってみれば異安心といってもいいでしょう。

・分かってない安心→会員に「わかってない」「全然わかってない」ということによって、会員を思考停止にして安心する異安心

~~以上、メル友の解説~~

やさしい浄土真宗の教え §12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン

§12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン

浄土真宗の信心が「二種深信」であるというお話をしたんで、
所謂「異安心」についても、ちょっと触れとくね。

「異安心」っちゅうのは、
浄土真宗の異端思想のことなんやけど、

法然上人とも親鸞聖人とも異なる信心じゃ、
法然上人や親鸞聖人と同じ極楽浄土に行けへんわけやから、(注1)
自分の信心が「異安心」にならないためにも、
「異安心」について知っておく必要がありますねん。

ところで、浄土真宗において「異安心」であることは、
その人やその「教え」に従う団体にとっても致命的なことやから、
「異安心」かどうかを認定するためには、
慎重に検証を加えならなければなりまへん。

ところが、きちんとした検証を加えることもなく、
特定の個人や団体を一方的に「異安心」呼ばわりする野郎がいるのは、
とても危険で嘆かわしいことやね。 (注2)

・・というわけで、今日は「異安心」と認定するために、
最低限どのような手続きを踏まなけりゃならんかっちゅう、
ガイドラインを作ってみたんで、よく読んでおいてね~♪

↓ ↓ ↓ ↓

▽ ▽ ▽ ▽ ▽

【「異安心」を認定する際のガイドライン 】

★はじめに

いかなる人にも、他人の心の中は見えません。
したがって、ある人の信心が「真実信心」かどうかは、
本人と阿弥陀仏にしかわかるものではありません。

しかし、ある人によって説かれている「教え」が、
善知識方の「教え」に明らかに反するものの場合、
その人の信心は「異安心」である可能性が極めて濃厚です。

したがって、このガイドラインは、
ある人によって説かれている「教え」を検討することによって、
その人の信心が「異安心」であるかどうかを認定するためのものです。


★事前に準備するもの

ある特定の個人や団体を「異安心」と認定するために、
事前に準備しておかなければならないものを、
列挙しておきますので、まずはこれを入手しましょう。

a)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料

どのような「信心」であるかを知らなければ、
「異安心」かどうかは、わかりませんので、
必ずきちんとした資料を収集しましょう。

所謂「うわさ話」や、批判サイトや批判書での発言等は、
事実誤認があったり、捏造された資料である可能性がありますので、
資料としては認められません。

b)正しい「安心」の基準となるテキスト

「異安心」であることを認定するためには、
正しい「安心」がいかなるものであるかを知らなければなりません。
これらの資料が浄土真宗における正しい「信心」の判定基準になりますので、
必ず用意しましょう。

ただしこのテキストは、a)の立ち位置に応じて、
以下のように使い分けられます。

(b-1)浄土真宗内で、異安心を論じる場合は、
   「浄土三部経・七高祖・親鸞聖人」までを基準にする。
(b-2)東西本願寺派における覚如上人・蓮如上人、高田派における真慧上人など、
   浄土真宗でも、特定の派にのみ権威を認められている文献は、
   判定基準としては、参照程度の扱いであり、(b-1)に抵触しない場合のみ、
   参照することができる。
(b-3)親鸞聖人を宗祖と仰ぐ「浄土真宗」以外の、
   法然上人を宗祖と仰ぐ浄土門の教義を判定する際は、
  「浄土三部経・善導大師・法然上人」を基準とする。
    cf. 法然上人の「偏依善導一師」の立場に関しては『選択集』16章参照

c)浄土真宗で、正しい「信心」がいかなるものであるかを説明したテキスト。

  例・・灘本愛慈『やさしい安心論題の話』(西本願寺)
     山田行雄『やさしい真宗信心のQ&A』(西本願寺)

上記b)に基づいて、浄土真宗でいかなる「信心」が正しいものであるか、
解説したテキストは、「異安心」を認定するのに参考になります。

ただし、このテキストは特定の「文化」の影響を受けている恐れがありますので、
必ず同時にb)を参照して、b)と抵触していなことを確認した上で、
使用していかなければなりません。

d)過去にどういう信心が「異安心」と認定されたかがわかる資料。

  例・・中島覚亮『異安心史』(平楽寺書店)
     続真宗体系第18巻「異安心御教誡集」(真宗典籍刊行会)

過去の「異安心」の判例を知っておくと、
「異安心」認定が容易にできるようになります。

但し、これだけでは「異安心」認定はできません。
必ずb)を参照する必要があります。


★「異安心」認定までの手続き

準備ができたら、以下のプロセスで「異安心」を認定しましょう。

1)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料(a)から、
 「異安心」と思われる発言を典拠を挙げて抽出する。

2)上記の発言が、発言者の立ち位置に応じて、
 該当する(b)とどのような点で抵触するかを、典拠を挙げて説明する。

3)上記の説明が、自分独自の解釈や、
 自分の「文化」のみに固有の解釈でないことを、
 他の「文化」に属するテキスト(c)などからも証明できる場合は、
 それを指摘する。

4)さらにその発言が過去に「異安心」と認定されている場合は、
 それがわかる資料から(d)その判例を挙げておくのもいいでしょう。

だだし、その判例自体が誤っている可能性もありますので、
必ず、(b)を参照する必要があります。

そしてその判例が、(b)に抵触する場合は、
判例よりも、(b)を優先することは言うまでもありません。


★おわりに

カルトとは、

「誤謬・虚偽、詭弁・詭弁詐術満載の虚言・妄説を垂れ流した上、
その挙証・論証責任すら果たさ(せ)ず居直って憚らぬドグマ体系とその信奉者」

のことである。

と以前「カルト」を分かりやすく定義いたしましたが、

きちんとした「異安心」認定プロセスを踏まえず、
無責任に「異安心」というレッテルを貼って、
挙証・論証責任すら果たさ(せ)ず居直って憚らぬ輩は、
「カルト」と言われても仕方ありませんので、
「カルト」と言われないように、 気をつけましょう。

さもないと、良識を疑われて、誰にも相手にされなくなり、
やがては言語空間から抹殺されてしまうことになるでしょう。

△ △ △ △ △


どう?わかった?
来週までに、これを最低三回ぐらい読んでおいてや。


【今日のまとめ】
 1、「異安心」は浄土真宗の異端思想である。
 2、「異安心」は法然上人や親鸞聖人と異なる信心であり、
   この信心では法然上人や親鸞聖人と同じ浄土へ往生できない。
 3、他人の心の中が「真実信心」であるかどうかを判定することはできない。
 4、しかし、「教え」が明かに善知識方に反する場合は、
  「異安心」である可能性も濃厚である。
 4、「異安心」認定は慎重なプロセスを踏まなければならず、
   無責任な「異安心」認定を行った者は言語空間から抹殺される。

次回は、どんな「異安心」があるか具体的に紹介するよん。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 『御伝鈔』第七段 参照

上人[親鸞]のたまはく、いにしへわが大師聖人[源空]の御前に、正信房・勢観房・念仏房以下のひとびとおほかりしとき、はかりなき諍論をしはんべることありき。そのゆゑは、「聖人の御信心と善信(親鸞)が信心と、いささかもかはるところあるべからず、ただひとつなり」と申したりしに、このひとびととがめていはく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるることいはれなし、いかでかひとしかるべき」と。
善信申していはく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まつたくわたくしなし。しかれば聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、善信が信心も他力なり。かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり」と申しはんべりしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまはく、「信心のかはると申すは、自力の信にとりてのことなり。すなはち智慧各別なるゆゑに信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかはるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず、信心のかはりあうておはしまさんひとびとは、わがまゐらん浄土へはよもまゐりたまはじ。よくよくこころえらるべきことなり」と云々。ここに面面舌をまき、口を閉ぢてやみにけり。

 なお、『御伝鈔』に書かれていることを「史実」として扱ってよいかどうかに関しては、検討を要する。
  ただし、この「伝承」が伝えようとしている内容は浄土真宗の教義上、非常に重要である。


注2 例えば、以下のような論拠に基づか(け)ない異安心認定は極めて不当であり、このような不当な「異安心」認定を行って憚らない団体がどのように扱いを受けるかは、「ガイドライン」に述べた通りである。

~~某チャンネルより~~

見えぬ自惚れ

ちょっと変わったことが起きると、「これが獲信」と思い込み、信心という
極めて大切なことについて何の自制心もなく、「オレは信心獲得したぞ」と
触れ回る者がいる。自分の体験に合わせて親鸞聖人の教えを聞くようになり、
機に合わないところは聞かず、己の教学の不徹底に気づこうともしないから
反省もない。
そんな自分の実態が分からないから、「こんな獲信の近道、なぜ教えて
くれなかった」と大恩ある善知識にさえも謗法の刃を向ける。
自惚れの果ては、「こうすれば獲信できる」と、他人の信仰相談までやって
自他ともに信仰の奇形児になり果てているのだ。
親鸞聖人のみ教えを破壊している大罪の自覚など、全くないのである。

自惚れは 他人(ひと)に見えても 身に見えぬ

以上、顕正新聞 平成21年3月1日 三面「大喝」より引用
~~某チャンネルより~~


~~清森問答 投稿(親鸞会の不誠実な対応)その2より~~

(M支部長からBさんへのメールより抜粋)

 大沼法竜は「化土往生の安楽椅子」、Iは「三業安心の安楽椅子」を説いた親玉です。聞法者に安楽椅子を与えることは、仏法を説く知識の絶対に犯してはならない大罪ですよ。彼らは、親鸞聖人の本当の教えを、そのまま伝える人ではなかったのです。

 だから、IのつくったK会で救われたといっている人も、あの体たらくなのです。

 親鸞聖人や覚如上人や蓮如上人が、一切語られなかったようなことを、平気で放言し、書きまくり、ネットに流し、自分の体験を自慢しているのです。そして、親鸞会に対するうらみ、つらみ、のろいの言葉を撒き散らして、多くの人を惑わしているのです。

 あれが、まともな人の文章でしょうか。

 ある学徒の方は、「気持ち悪いですね。信心決定してあんなふうになるのなら、しないほうがいい」とまで言われました。

 本当に恐ろしいことです。

 慢心のかたまりとなって、自分がどんな大罪を犯しているか、まったく気づいてもいないのでしょう。

 可哀相な人だと思います。
~~清森問答 投稿(親鸞会の不誠実な対応)その2より~~

やさしい浄土真宗の教え §11 浄土真宗の「信心」(二種深信)

§11 浄土真宗の「信心」(二種深信)

「南無阿弥陀仏」の「名号」にどんな意味があるか?
前回までのレクチャーで、ちょっと詳しく解説しました。
今回は、これを踏まえて浄土真宗の「信心」についてレクチャーするで。

一口に「信心」と言っても、
いろんな「信心」があるわけやけど、(注1)

浄土真宗の「信心」は他の「信心」とは全く異なる特別なもんで、
「南無阿弥陀仏」の「名号」を受け取って、
阿弥陀仏がお作りになられたシステムに乗した人の「信心」だけが、
浄土真宗の「信心」になりますねん。(注2)

この様々な「信心」の中で特別な、
浄土真宗の「信心」の内容を明確に表したのが、
所謂「二種深信」ということになるわけですわ。(注3)



「二種深信」の内容に関しては、みんな知ってると思うけど、
一応、簡単におさらいしとくで。
   ↓
 深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。
 一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
 曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。
 二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、
 衆生を摂受したまう。疑なく慮無く、彼の願力に乗じて、定んで往生を得と信ず。

(訳)
 深心というのは、とりもなおさず深く信ずる心である。 これに二種ある。
1)一つには、自分は罪深い迷える凡夫であり、 はかり知れない昔から今にいたるまで、
 常に迷いの世界に沈み、常に流転して、 迷いから離れでる機会がないものである、
 と心に決めて深く信じたということである。
2)二つには、かの阿弥陀仏は、
 四十八願をもって衆生をおさめとって救われるのであるから、
 疑いなくためらうことなくかの本願の力に乗じて、
 まちがいなく浄土へ生まれることができる、 と心に決めて深く信じたということである。
 (『観経疏』散善義)

1)・・機の深信
2)・・法の深信

ちゅうことになるわけやけど、

ポイントは、

阿弥陀仏が、どのような衆生を対象にして、
救済するためのシステムを構築したか?
(本願の生起本末)

を聞いて、それがホンマのことやったと、
明らかに「知らされた」「わかった」になると、
(聞きて疑心あることなし)

この「オレ」っちゅうもんは、
はかり知れない昔から今にいたるまで、
自分の力じゃ絶対に迷いの世界から離れることができない、
どうしようもないカス野郎だ!・・1)機の深信

だっちゃうことと、

阿弥陀仏が、そんなカス野郎をお目当てに、
とんでもないご苦労をしてシステムを作り、
それを完成させてくれているから、
そのシステムに乗じることによって、
この「オレ」が絶対間違いなく極楽浄土に往生して、
迷いのない存在になれる(成仏できる)!!・・2)法の深信(注4)


ちゅうことが同時に「知らされた」「わかった」ことになるのよね。

これは、一つの「信心」を二つの角度から見たものだから、
どっちが先っちゅうことじゃなくて、
二つ同時に「知らされた」「わかった」になるもんやねん。


自分が絶対に救われないカス野郎だということが、
「知らされた」「わかった」から、(注5)
それを救うために阿弥陀仏が作ったシステムの凄さも、
同時に「知らされた」「わかった」わけやし、

阿弥陀仏の作ったシステムの凄さが「知らされた」「わかった」ら、
そこまでのシステムがなければ救われなかった、
自分のカス野郎加減も明らかに「知らされた」「わかった」になるわけや。


そういうわけで、
「南無阿弥陀仏」した人に、
「知らされた」「わかった」信心が「二種深信」やから、

「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
いつまでも「南無阿弥陀仏」せ~へん人(無帰命の人)には、
「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にあらへんで(苦笑)。

これは超大切なことやから、
ヘンテコドグマを注入されてる諸君に、
アドバイスしといたるで。

十分、気~つけてや!!(注6)


【今日のまとめ】
 1、様々な「信心」の中でも特別な、
  「浄土真宗の信心」の内容が「二種深信」である。
 2、「二種深信」は、「本願の生起本末」を「聞きて疑心あることなし」
  になることによって「知らされた」「わかった」一つの信心を、
  二つの角度から明らかにしたものである。
 3、「機の深信」は、自らが自分の力では、絶対に迷いの世界から離れられない存在であることが「知らされた」「わかった」ことである。
 4、「法の深信」は、自らが阿弥陀仏のシステムに乗じたならば、絶対極楽浄土に往生して迷いのない存在になれる(成仏できる)ことが「知らされた」「わかった」ことである。
 5、「機の深信」と「法の深信」は、同時に「知らされた」「わかった」になる。
 6、「南無」「帰命」を、「助けられた」「救われた」と解釈して、
  いつまでも「南無阿弥陀仏」しない人(無帰命の人)には、
  「二種深信」が「知らされる」ことは絶対にない。

※次回は、所謂「異安心」についてやで。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 「信心」(=プラサーダ、信楽)の対象は様々である。

●SraddhA cetasaH prasAdaH. (AKBh 55, 6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

と世親菩薩が『倶舎論』で定義されているように、「プラサーダ」は仏教における代表的な「信」であり、阿弥陀仏信仰に限定されたものではない。

 その証拠に、

●athi kho no Avuso satthari pasAdo, atthi dhamme pasAdo. (MN. I.
11)
(訳)友よ、我々には師に対するプラサーダ、法に対するプラサーダがある。

というように、パーリのマッジマ・ニカーヤ(中部)のような所謂「小乘経典」にも「プラサーダ」は説かれているし、同じくパーリのサムユッタ・ニカーヤ(相応部)には、

●pasAdehi KokAlika SAriputta-MogggallAnesu cittaM. (SN. VI, 9)
(訳)コーカーリカよ、サーリプッタとモッガーラーナに対してお前は心をプラサーダにせよ。

というように、サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラーナ(目連)に対する心の「プラサーダ」が勧められている。

 したがって、仏教において「プラサーダ」の対象は一様ではなく、ある人が「プラサーダ」を起こした際には、その「プラサーダ」が何を対象とした「プラサーダ」であるが問題となる。


注2 「信心」(=信楽、プラサーダ)を得たことが、イコール「南無阿弥陀仏」の六字の「名号」を受け取ったことであることは、§6において、『御文章』5帖13通に基づいて述べた。


注3 「真実の信心」=「二種深信」に関しては以下参照。

『教行信証』信巻の「三心一心問答」には、 第十八願の「至心・信楽・欲生我国」が「信楽」におさまり、それが「一心」であり「真実の信心」であると述べられている。

 ●今三心の字訓を按ずるに、
  真実の心にして虚仮雑ること無し、
  正直の心にして邪偽雑ること無し、
  真に知んぬ、
  疑蓋間雑無きが故に、是を「信楽」と名く。
  信楽は即ち是れ一心なり。
  一心は即ち是れ真実信心なり。

『教行信証』信巻「一心轉釈」には、「真実信心」=「深心」=「深信」=「金剛心」であることが述べられている。
 
 ●然れば、願成就の一念は即ち是れ専心なり。
  専心は即ち是れ深心なり。
  深心は即ち是れ深信なり、
  深信は即ち是れ堅固深信なり、
  堅固深信は即ち是れ決定心なり、
  決定心は即ち是れ無上上心なり、
  無上上心は即ち是れ真心なり、
  真心は即ち是れ相続心なり、
  相続心は即ち是れ淳心なり、
  淳心は即ち是れ憶念なり、
  憶念は即ち是れ真実の一心なり、
  真実の一心は即ち是れ大慶喜心なり、
  大慶喜心は即ち是れ真実信心なり、
  真実信心は即ち是れ金剛心なり、
  金剛心は即ち是れ願作仏心なり、
  願作仏心は即ち是れ度衆生心なり、
  度衆生心は即ち是れ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり、
  是の心は即ち是れ大菩提心なり、
  是の心は即ち是れ大慈悲心なり、
  是の心は即ち是れ無量光明慧に由りて生ずるが故に。
  願海平等なるが故に発心等し、発心等しきが故に道等し、
  道等しきが故に大慈悲等し、大慈悲は是れ仏道の正因なるが故なり。

『愚禿鈔』の「深心」にも、「深心」=「深信の心」=二種の深信=「他力の金剛心」であると述べられている。

  深心と言ふは即ち是れ深信之心なり。
  亦二種有り。
  『一には決定して、
   「自身は、現に是罪悪生死の凡夫、
    曠劫より已来常に没し常に流転して、
    出離の縁有る事無し」
   と深信す。
   二には決定して、
   「彼の阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受したまふこと、
    疑無く慮無く、彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」
   と深信す』と。
  今斯の深信は、他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

これらによって、「真実の信心」=「一心」=「信楽」=「二種の深信」であることは明らかであり、

「真実の信心かどうか?」 =「一心かどうか?」=「信楽かどうか?」=「二種の深信どうか?」

ということになる。


注4 親●会では、「救われる」という言葉は「信楽になる」という意味だけに使われているようである。
 しかし「法の深信」で知らされるのは、自らが阿弥陀仏のシステムに乗ずることによって間違いなく極楽浄土に往生して、迷いの世界から解放されるということである。
 これは、『観経疏』散善義の本文を読めば明かであり、そのようなシステム全体を、親鸞聖人が「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」と呼ばれたことは§1で既に述べた通りである。


注5 「凡夫」(プリタグ・ジャナ、異生)という言葉は、「輪廻を繰り返して種々の世界に生まれてしまうもの」という意味であり、単なる「愚かな者」「無知な者」ではない。自力では絶対に救われない存在を表す言葉である。


注6 この「ヘンテコドグマ」に関しては§10注4、並びに以下のQ&A参照。

Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来南無不可思議光」について

Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ

Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」

やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ

§10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ

『教行信証』の「南無阿弥陀仏」の解説が、

 ★「帰命」→「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」
  という【勅命】

 ★「発願回向」→「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
  という【発願・回向】

 ★「即是其行」→「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」
  という【選択本願】

という【阿弥陀仏が】を主語にしたもので、
全~部【阿弥陀仏が】作って与えてくださったものであることを、
前回ちょっと詳しく解説しました。


そんでもって、これを衆生の立場から言うと、
この【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、

すなわち、【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を、
【衆生が】獲得するということになる。

・・ちゅうことも、既に述べてきた通りでござりまする。(注1)


今回は、親鸞聖人のもう一つの「南無阿弥陀仏」の解釈を読むと、
このことが、超ウルトラスッキリよくわかるという話や。


さっそく、『尊号真像銘文』を読んでみましょう!!(注2)

 ★「帰命」  →【衆生が】勅命にしたがひて召しにかなふ    
 ★「発願回向」→【衆生が】召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう
 ★「即是其行」→【衆生が】安養浄土(へ往生すること)の正定の業因

ちゅうことで、
主語が【阿弥陀仏が】じゃなくて、
【衆生が】になっているちゅうことに注目!


★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》となり、

★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》となり、

★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
【衆生が】極楽浄土に百パーセント往生するための業因(正定の業因)にすると、
《即是其行》になるわけや。


というわけで、「南無阿弥陀仏」の働き一つで、
【阿弥陀仏が】構築してくれたシステムは完全に作動して、
オイラのような【衆生が】、
間違いなく極楽浄土に往生し最終的に成仏できるわけやね。

せやから「南無阿弥陀仏」が超大事なんやで!(注3)


これからは、阿弥陀仏のシステムに乗ずるために、
阿弥陀仏に関係のないようなショウモナイ話はエエし、
「南無阿弥陀仏」の「名号」を「聞」する、
浄土真宗の「聴聞」をしてや。


間違ってもどっかの親●会のように、
「南無」を「救われた」「助けられた」とか、
勝手にヘンテコな解釈しちゃだめよ(苦笑)。(注4)(注5)

「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」せ~へんかったら、
永久に「南無阿弥陀仏」せえへんようになるで(苦笑)。
こんなヘンテコドグマに従ったら、絶対アカンで!


【今日のまとめ】
 1、親鸞聖人は、『尊号真像銘文』においては、
 「南無阿弥陀仏」を【衆生が】を主語にして、
 ★【阿弥陀仏が】出された【勅命】に、
  【衆生が】「わかりました!」と従うのがそのまま《帰命》
 ★【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】に、
  【衆生が】従って「極楽浄土に生まれたい」と願うのが《発願回向》
 ★【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】を、
  【衆生が】「正定の業因」にすると《即是其行》になる、
  として解釈されている。
 2、「南無」を「救われた」「助けられた」とする解釈は、
  善導大師の教えにも親鸞聖人の教えにも反し、本人も認める「独自の解釈」である。
 3、もしも「救われた」「助けられた」になるまで「南無阿弥陀仏」しないとすれば、
  永久に「南無阿弥陀仏」しないことになってしまう。
 4、したがって、絶対に「南無」を「救われた」「助けられた」と解釈してはならない。


次回は、「南無阿弥陀仏」になった人の信心である、二種深信についてやで!!


――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 これに関しては§7で詳しく述べた。


注2 『尊号真像銘文』

●「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。
「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。

(訳)
「言南無者」というのは、すなわち「帰命」と言う言葉である。
「帰命」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の勅命にしたがって、招きに従って二尊の御心に適う」という言葉である。このようなわけで「即是帰命」と善導大師は仰っておられる。
「亦是発願回向之義」というのは、「釈尊と阿弥陀仏の二尊の招きに従って、極楽浄土へと生まれようと願う心」であると善導大師は仰っておられる。
「言阿弥陀仏者」というのは、「即是其行」と言われている。即是其行とは、阿弥陀仏の選択本願であると知るべきであり、これこそが衆生が極楽浄土へ間違いなく往生することが定まる業因(正定の業因)なのである。


注3 以下の『御文章』の言葉は、これまでに述べてきた内容を蓮如上人がわかりやすく解説したものばかりである。

●3帖2通(以下、3-2のように省略する)
さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。
されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。
かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。


●3-4
しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。
されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。

●3-5 全文

●3-6 全文

●3-7
そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。
しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。

●3-8 全文

●4-6
それ南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なりとおもふべし。そのゆゑは、「南無」といふは帰命なり。「即是帰命」といふは、われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。そのたのむこころといふは、すなはちこれ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して往還二種の回向を衆生にあたへましますこころなり。されば信心といふも別のこころにあらず。みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。ちかごろは、人の別のことのやうにおもへり。

●4-8
一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

●4-11 全文

●4-14 全文

●5-8
それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。
されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。

●5-9
当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。

●5-11
他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。

●5-13 全文

●5-22
されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。
さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。


注4 例えば『正信偈』冒頭を以下のサイトのように解釈するのは誤りである。

浄土真宗親鸞会 公式ホームページ 伝えたいことがある


「帰命無量寿如来
 南無不可思議光」

 無量寿如来も不可思議光も、本師本仏の阿弥陀如来の別名であるから、〝親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ〟と、これは叫ばれているのである。

※「このサイト文章は2008年の顕正新聞上に掲載されたものですが、高森会長の作文ではありません」(某メル友氏談)

親鸞会広島

親鸞会岩手

親鸞会三河

※この解釈に関する、某メル友A氏談(元親●会講師)
高森会長自身の名前が入った著作にはこの正信偈の表現はあえて書かないようです。
というのは、会長自身が以前講師部対象の講義で
「正信偈の最初の2行を、親鸞は救われたぞというのは、あれはわざといっているのだ。だから文章で書いてはならない」と言っていました。
そのため、10分間説法という原稿には記載はされていますが、これは一般の人が手に入らないものです。しかし、高森会長が常にそうやって話をしているので、親鸞会関係のサイトにはこの記述が多くあります。

※この解釈に関する、某メル友B氏談(元親●会講師)
あの解釈は毎月の法話で必ず高森会長もしくは
アシスタント(かつては私もしましたが)がする説明です。
高森会長は「南無や帰命をこのように説明するのは自分だけ」
と言っています。
六字釈そのものはほぼ間違いなく説明するのですが、
おもしろいことです。

※この解釈に関する、某メル友C氏談(元親●会講師)
これについては高森先生も、自分しか言わないことだと自覚しており、
突っ込まれることは極力、欠かない性格ですので、
説法では、何百回と聞いてきましたが、
直接、筆を持って書いたものはないと思います。


注5 蓮如上人著『正信偈大意』を読めば「阿弥陀如来に南無したてまつれ」と書かれており、注4で紹介したような解釈が浄土真宗から逸脱したものであることは明かである。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。

やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命

§9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命

ここらで、「南無阿弥陀仏」の六字の名号に、
どんな意味があるかを解説しとくで。(注1)

ちょっと長いし難しいけど、超ウルトラ大事な所やから、
頑張ってしっかり読んでおいてや!!

「南無阿弥陀仏」の六字の意味を、
はじめて明かにしたのは善導大師で、
以下のように解釈してはります。(注2)(注3)


  ★「南無」  →「帰命」
         →「発願回向」
  ★「阿弥陀仏」→「即是其行」



これを、親鸞聖人は『教行信証』で次のように解釈してはるわけやね。(注4)

  ★「帰命」  →「本願招喚の勅命」
  ★「発願回向」→「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」
  ★「即是其行」→「選択本願」

ここでポイントになるのは、

この『教行信証』の解釈が、「南無阿弥陀仏」の中身である、
「帰命」も「発願回向」も「即是」も、
その主語が全部【阿弥陀仏が】になってるちゅうことやね。


★「本願招喚の勅命」とは、
【阿弥陀仏が】オイラ逹に、
「ワシを信じるのじゃ!」と命令しているっちゅうことや。

オイラが極楽浄土に往生して最終的に成仏するためのシステムは、
【阿弥陀仏が】既に完成させてくださってて、
あとはオイラがそれを信じてシステムに乗ずるだけの段階になってる。

せやから【阿弥陀仏が】、
「ワシを信じて、このシステムに飛び込んでこい!!」
と「招き」「喚んで」「命令」してはるわけやね。


★「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」とは、
オイラが極楽浄土に往生して最終的に成仏するための「働き」である、
「行」ちゅうもんは、
全部【阿弥陀仏が】与えてくださったものである。
ちゅうことや。

【阿弥陀仏が】作ってくれた「働き」が、
オイラの所に届くことによって、オイラは極楽浄土に往生することができる。
でも、それが届かなかったら、往生することはでけへん。

せやから、【阿弥陀仏が】、
なんとかしてその「働き」をオイラに与えようとしているちゅうのが、
この「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心」なるんですわ。


★「選択本願」ちゅうのは、
オイラを極楽浄土に往生させて成仏させるために、
【阿弥陀仏が】、与えてくださった「働き」が、
他の誰でもなく、【阿弥陀仏が】自ら選びとってくださったもので(「選択」)、
【阿弥陀仏が】過去に誓った誓願を実現されて完成された(「本願」)ものである。
っちゅうことや。



このように、「南無阿弥陀仏」ちゅうものは、
オイラのような衆生の勝手な計らいでなされたものじゃなくて、

★「ワシを信じてワシが作ったシステムに乗っかれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【勅命】で、

★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」
ちゅう【阿弥陀仏が】出された【発願・回向】で、

★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!」
ちゅう【阿弥陀仏が】お作りになられた【選択本願】なわけや。

このように「南無阿弥陀仏」は、
全て【阿弥陀仏が】作ったものやから、

「南無阿弥陀仏」の六字の「名号」に、
オイラのようなカス野郎を極楽浄土に往生させて、
最終的に成仏までさせるような、
人間の常識を遥かに超えた、
阿弥陀仏の力(=「本願力」)が備わっているわけや。(注5)



せやから、
【阿弥陀仏が】作った、この「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
【衆生が】「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)
するちゅうことが、

即ち、【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる、
「信心」を【衆生が】獲得するちゅうことになるんやね。(注6)



このことは、『尊号真像銘文』における解釈を読むと、
ものすご~くよくわかるやけど、
ちょっと解説がちょっと長くなってきたんで、
また来週や!!


【今日のまとめ】
 1、善導大師が「南無阿弥陀仏」の六字の意味をはじめて明かにされた。
 2、親鸞聖人はその善導大師の六字釈を継承されている。
 3、親鸞聖人は、『教行信証』においては、
 「南無阿弥陀仏」は、【阿弥陀仏が】を主語にして、
 ★「ワシを信じてシステムに乗っかれ!!」という【勅命】、
 ★「極楽浄土に往生するためのシステムを使ってくれ!!」という【発願・回向】、
 ★「ワシが選択して完成させたシステムやから間違いあらへん!!」という【選択本願】、
  として解釈されている。
 4、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」なので、
  衆生を極楽浄土に往生させて最終的に成仏させるような、
  人間の常識を遥かに超えた、阿弥陀仏の力(=「本願力」)がそなわっている。
 5、【阿弥陀仏が】作った、「南無阿弥陀仏」の「名号」を、
 「聞」(仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し)することが、
 【阿弥陀仏が】作ったシステムに乗ずる「信心」を【衆生が】獲得することになる。

※来週も大切やから、見逃しちゃダメよ!!

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注1 このことは、「六字釈義」として所謂「安心論題」でも取り扱われている。

 浄土真宗教学の「伝統」として蓄積されたものであり、非常によくまとまっているので、以下に参考までに挙げておく。

~~以下引用~~
六字釈義

〔題意〕
名号六字の義を窺い、名号は願行・悲智を円具して、よく衆生を往生成仏せしむる行体なることを明らかにする。
〔出拠〕
「玄義分」「今此の観経の中の十声の称佛は、即ち十願・十行有りて具足す。云何が具足する。南無と言ふは即ち是帰命なり、亦是発願回向の義なり。阿弥陀佛と言ふは即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得。」
「行文類」の六字釈に「しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、至なり、また帰説(よりたのむ)なり、説の字は、悦の音なり。また帰説(よりかかるなり)なり、説の字は、税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。命の言は、業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。ここをもつて帰命は本願招喚(まねくよばう) の勅命なり。発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。」
「尊号真像銘文」に「善導和尚云 「言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者 即是其行 以斯義故必得往生」(玄義分)文 「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。」「執持鈔」
「そもそも南無は帰命、帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分)と釈したまへり。」とあり。御文章四帖目十通・四帖目十四通などある。
〔釈名〕
「六字」とは南無阿弥陀仏のことで、今はこの名号に願行具足せる義を釈する。
〔義相〕
摂論家の人々が、『観経』下々品の十声の称名は唯願無行であって、往生別時意であるというのに対し、善導大師は、この称名には願行を具足しているから、順次の往生を得るのである旨を明らかにされた。すなわち、「南无」というのは帰命であるが、また発願回向の義もあり、「阿弥陀仏」というのはその行である。このように所称の名号に願行を具足しているから必ず往生を得るという。
宗祖はこの善導の釈を承けて、行文類には、名号六字の本質を「帰命」と「発願回向」と「即是其行」の三義で解釈され、三義をいずれも仏に約して、「発願回向」は能回の悲心(願)、「即是其行」は所回の智徳(行)とし、「帰命」をその回施の相状(本願招喚の勅命)とされる。そしてかかる悲智円具の名号を聞信する故、即時に仏因円満して正定聚に入る(「必得往生」の釈)と示されたのである。
『銘文』にあっては、六字の三義を衆生に約して、「帰命」を機受の心相、「発願回向」をその義別とし、「即是其行」を体徳とされている。
その他、『執持鈔』、『御文章』などそれぞれ釈相は異なるが、いずれも名号六字に衆生を往生成仏せしめる悲智、願行の徳が其足していることを明らかにされるのである。
〔結び〕
名号は、衆生の造作をからず、法体の独用をもってよく衆生を証果に到らしむる行体である。
~~以上引用~~

注2 『観経疏』玄義分

●いまこの観経の中の十声の称仏は、即ち十願十行ありて具足す。いかんが具足する。南無といふは、すなわちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなわちこれその行なり。この義をもっての故に必ず往生を得。

注3 この部分の解釈に関しては、以下の記述に問題はない。

~~以下 『会報』vol2.  南無阿弥陀佛とは(一)より~~

この尊高無比の名号、尊号、嘉号を善導大師は
『南無というは帰命、亦是、発願廻向の義なり、阿弥陀佛というは、即ち、その行なり、この義をもっての故に必ず往生することを得るといえり』と教えて、南無とはタノム機の方であり、阿弥陀佛とは助くる法の方である。
 タノム機の方までも十劫の昔に六字の中に成就してあることを明らかにしていられる。これを法体成就の機法一体と呼び、古今楷定の六字釈といわれるものである。
 善導大師が出世せられた時代は、各宗に高徳名僧が踵を接して輩出せられた中国佛教の全盛時代であった。
 当時、有名な天台、嘉祥淨影等の諸大師が競うて『観無量寿経』の講釈を試みていた時である。
 所謂、淨影の義疏、天台疏、嘉祥疏である。
 これらの方々にはともに観経の下三品に具足十念で即得往生すると説かれているが実際は、そんなウマイことはないのだ。
 何故かといえばいやしくも浄土に往生するには必ず願と行の二つの条件が具備せねばならない。
 然るに、この下々品の人間は無善造悪で、業に攻めぬかれ、苦逼失念で苦に追いたてられているのだから十念称名で願は有っても行がないから助かるはずはない。
 南無は帰命、帰命とは身命をなげ出して佛にお願いすることだから南無阿弥陀佛ということは阿弥陀佛さま、私をどうか助けて下さいと口でいって往生を願求するのみだから行はない。
 唯願無行だ。
 だから十念の称名念佛は諸善万行の成就する永劫の末でないと往生は出来ないのだ。
 今はただ遠生の結縁になるだけである。
 にもかかわらず今、それを即得往生すると説かれたのは怠惰な者を誘引して修行させるために外ならないとして下品往生をもって別時意趣と解釈したのである。
 別時意趣とは、無著菩薩の書かれた『攝大朱論』の中に、佛の説法に四悪趣といって、四通りの説き方があるとして、その一つに別時意趣というのがある。
 これは、勇猛精進に勤められぬ怠惰なものに対する説法に仕方である。
 諭えば一日一円の貯蓄で億万長者になれるぞと云えば、如何なる怠惰な者でも、その身になりたいと思って精進する心をおこすだろう。
 しかしこれは一日一円の始末で長者になるのではなく所謂、塵も積れば山となると言うのと同じで大変な長期間かかるわけである。
 それをあからさまに云うてしまえば怠惰なものは近づかないから、恰も即時に長者になれるように説法せられたのだ。
 だから南無阿弥陀佛だけで直に助かるのではなく、ただ遠生の結縁となって何れの時にか浮かぶ縁になるということである。
 しかし、これをあからさまにいうては近づかないから直ちに救われるように説かれたので別時意趣の方便説であるときめつけたのである。
 この様な別時意趣説は、ただに天台嘉祥、浄影のみではなく、それ以前にも多くあったのであるが、かかるさ中に善導大師が現われ、                   これらの迷妄誤解をゲキ破する為に
「今、我が延ぶるところ、佛の願意に叶いませば夢中に霊相を示し玉え」と日々、阿弥陀経を誦すること三遍、念佛三万遍相続され十方諸佛に証明を乞われたという。
 かくて夜毎に化佛来りて一々佛に指図のままに観経を解釈せられたのが有名な『観無量寿経疏』であり、「一字一句加減すべからず写さんと欲する者、一に経法の如くせよ」とまで仰せられている。
 この観経疏の中で、善導大師は諸師の誤謬を正して
「大体、観無量寿経は心想ルイ劣の韋提希夫人に対して説かれた説法ではないか。
 定散二善にたえない人を救うのが阿弥陀佛の目的でないか、散乱粗動の善導、苦逼失念の下三品の人が、どうして観念や修行が出来ようか、佛の慈悲は苦なるものにおいてす、岩上の者よりは溺れているものから救わねばならない。
 だからこそ付属の文には廃観立称してあるのだ。
 しかもその南無阿弥陀佛の名号は諸師の言われるような唯願無行では絶対にない。
 何故なら、南無というは帰命、亦是発願廻向の義なり、阿弥陀佛というは即ち是その行なり、如来既に発願して信順無疑、仰せに順うたと同時に其の人の行となる。
 願と行とが六字の中に、ととのえて有るから必ず往生が出来るのだ。
 願行具足といっても凡夫が願を起し、凡夫が行を修して行くのなら、凡夫の願行だから凡夫の世界にしか行けないぞ。
 仏の願行を機無、円成するが故に佛の世界に、行かれるのだ。
 だから遠生の結縁では絶対にない。
 帰命の一念に必得往生出来るのだ。」
 大信海化現の善導でなければ出来ない妙釈に、諸師は黙し、ここに十方衆生の救われる無碍の大道は開かれたのだ。 
~~以上 『会報』vol2.  南無阿弥陀佛とは(一)より~~


注4 『教行信証』行巻

●ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。

(訳)
こういうわけで「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願による勅命なのである。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って久遠の昔に、衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる心を言うのである。
「即是其行」とは、阿弥陀仏が発願し回向されたその行が、選択本願による行であることを表している。


注5 詳しくは§6で述べた通りである。

また『無量寿経』巻下 東方偈には、以下の記述がある。

●その阿弥陀仏の本願力によって、阿弥陀仏の名を聞いて極楽に往生しようと欲すれば、皆ことごとく彼の国に至って、自然と不退転に至る。


注6 これに関しては§7で詳しく述べた。

やさしい浄土真宗の教え §8 なかなか信心獲得できない人のために・・

§8 なかなか信心獲得できない人のために・・

歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、

この人はどうしたらええのか?

苦笑ちゃんはこの疑問を、
親鸞聖人の師匠である法然上人に尋ねてみました!!


法然上人は、

「時間がかかっても、必ず喜べる時が来るから、
それまで習いなさい!」

と教えてくださってはります。

歓喜する心、
「極楽浄土への往生は間違いない」の確信、
「自分の死後がどうなるか」の不安の解決、

これを求めて焦る人も、
必ず喜べる時は来るから、

★念仏申すことを続けることができるようになった人

を目指して、

それまで習うことが大事だし、
そのために「聴聞」し続けなアカンのよね。(注1)


なんちゅうか、

★他力の救いは一念
★阿弥陀仏の慈悲が時間をかけて浸透してくる人もいる

この二つは全然矛盾してないのに、
思考がデジタルで、これがわかんない人が多いのよ(苦笑)。


「疑いがバッチリ晴れる」なんちゅうことは、
確かに簡単にできないかもしれへんけど、

水がずっとずっと流れ続けていけば石ですら穴があくように、
石のように固く固くなった心にも、
阿弥陀仏の本願がいかなるものかを繰り返し聞くことによって、
少しずつ少しずつ、阿弥陀仏の慈悲が浸透していって、
やがて貫通して本願に対する疑いが晴れる時がくる!

ちゅうことは、蓮如上人も仰っておられるわけやから、
そういう考え方を否定して、変な脊髄反射しちゃダメよん。 (注2)


いずれにしても、
「聴聞」で「信心」が得られるように、
自ら積極的に環境を整えていくことが、
とっても大事なことですわ。(注3)


「そもそも善知識の能といふは、
 一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、
 ひとをすすむべきばかりなり。」
by.蓮如上人(『御文章』2帖11「五重義章」)


間違っても、これに反すること教えている、
「自称善知識」から「聴聞」したらアカンで!!(注4)(注5)(注6)


【今日のまとめ】
 1、なかなか「信心」を得られない人も、
  時間がかかっても、必ず「信心」を得られる時は来る。
 2、その時まで諦めずに「聴聞」を続けることが大事である。
 3、「聴聞」で「信心」を得られるように、
  自ら積極的に環境を整えていくことが大事である。
 4、それができなくなるような教えを説く、
  自称「善知識」から「聴聞」をしてはいけない。

※次回はいよいよ、「南無阿弥陀仏」の六字の名号に、
 どんな意味があるか解説するよ~。超大切やし、絶対読んでや�O�[�I

――――――――――――――――――――――――――――――――――


注1 以下の禅勝房が伝える法然上人の言葉を参照。

禅勝房のいわく、上人仰せられていわく、
今度の生に念仏して来迎に預からん嬉しさよと思いて、
踊躍歓喜の心の発りたらん人は、
自然に三心具足したりと知るべし。
念仏申しながら後世を嘆く程の人は三心不具の人なり。
もし歓喜する心いまだ起らずば漸漸(ぜんぜん)に喜び習うべし。
また念仏の相続せられん人は我三心具足したりと知るべし。
『諸人伝説のことば』(浄土宗聖典 vol.4 pp.485-486)

(訳)
禅勝房が伝え聞くところを言った、
「法然上人が仰ることには、
今この度の生涯において、念仏を申していて、
『阿弥陀仏に迎え取って頂くことができるのはんと嬉しいことだ』
と思うような、踊躍歓喜の心が起こった人は、
おのずから、三心(極楽浄土に往生する人が持つ三つの心)
を具えた人であると知るべきである。

念仏を申していながら、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人は、
三心をそなえていない人である。

もしも歓喜する心がまだ起きていないのであれば、
時間がかかっても必ず喜べる時が来るからそれまで習いなさい。

また念仏申すことを続けることができるようになった人は、
『私は三心を具えた』ということを知りなさい。


注2 以下の蓮如上人の言葉に基づく。

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、
心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、
御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。
ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。
『蓮如上人御一代記聞書』(193)

(訳)
「極めて固いものは石であり、極めて柔らかいものは水である。
しかしその柔らかい水が石に穴をあけることができるのである。
もしも心の底を徹していったならば、仏の覚りすら、
どうして成就することができないことがあろうか(いや絶対に成就する)」
という古い言葉すらある。

どれほど信心のないものであっても、聴聞を心に入れていくならば、
阿弥陀仏の慈悲が我が身に伝えられていくのであるから、
必ず信心を得ることができるのである。
ただひたすらに仏法は聴聞することに尽きるのである。


注3 以下の蓮如上人の言葉を参照。

一 人のこころえのとほり申されけるに、
わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、
仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、
やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、
前々住上人(蓮如)仰せられ 候ふ。
その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。

(訳)
ある人が自分の思いをありのままに語って、
「私の心は篭に水を入れるようなもので、
仏法のことを聞いている座ではありがたくも尊くも感じるのですが、
その場を離れると、すぐにもとの心に戻ってしまいます」と申し上げたところ、

蓮如上人は、
「その篭を水につけよ!篭である我が身を仏法の水にひたしておくのがよい!」
と仰せになられた。


注4 例えば以下のような記述参照。

こんなことでは後生の解決どころか、この世の事すら解決出来ないではないか、情けない。それどころか又、会費があがったとか、又お金を集めるとか、思ってはならぬ心がムクムクと出て来ます。財施をすれば凡て自分の宿善になるのだと知りながら悲しい心が出て来ます。
【顕正新聞昭和44年5月】

思えば我々親鸞会々員が今日こうして生まれ難き人間界に生を受け、聞き難き仏法を聞かせて頂いているのも阿弥陀仏、そして高森顕徹会長先生ましませばこそである。いわば世界中で最高の洪恩を蒙っている幸せ者である。ところが我々は、受けた恩徳は無量であるのに返す財施は限りあるどころか雀の涙ほども出来ない横着者であるこれでは助かりようがない。
【同紙昭和45年5月】

どうせくだらんところにしか使わない金だ。それらの金銭を真実の仏法を弘める為に布施をさせるのが仏法の重さを知らされた者の責任ではないか。酔生夢死の人生を過ごそうとしている人々に尊い仏縁を与える為に金の使い方を教えてあげる、これが真の仏法者の務めである。何不自由もない釈尊が一生涯托鉢乞食行をなされた精神は、くだらんところへ散在する金品を吸い上げ、召し上げて彼らに仏縁を結ばせる為ではなかったか。(中略)親鸞会に布施せられた財施のみが十方衆生を生かし末代の宝として生きかえるであろう。
【同紙昭和53年10月】

「もういい加減な求道はできません。何としても今生で信心決定するため、新本部財施に命をかけます」
【同紙昭和61年6月】

財施をするのは損をするということではなく、自分が徳をすることです。家や田んぼを売っても損はしないのです。計算して財施するというのは嫌々ながらやることです。そうではなく、喜んでお金を出す。それが喜捨なのです。家を売っても、アパートで生活すればいいのです。喜捨をしないのは親鸞学徒ではありません。(本部報恩講での高森顕徹会長の説法)
【米本和広著教祖逮捕p165】

金のある者には、大法の為にどんどん使うように勧めたらよい。
自損損他のアブクゼニを、大法の為に活かすよう仕向けるのは、大慈大悲である。
この精神を恥ずかしく思うのは、仏法の尊さがまだ分かっていないのだ。
法もまた財なり、財もまた法である。(巻頭言・高森顕徹会長の言葉として)
【顕真平成15年9月】

【悲願の法城(親鸞会の集金ビデオ)再掲】より

~~~~以下引用~~~~
それねぇ、人にこう、あの、お金でもモノでもあげると、
人のもんになる風に思うでしょ?
これ全然違うんです。
あげた者のモノになるんですよ。
だから絶対損にならないんです。
ドンッ、ドン、あげたらいいんですよ。
ゼッッタイに、あの、損しないから。
だから喜んで捨てなさい、喜んであげなさいちゅうことで
喜捨と言われるんですよ。
喜ばにゃならんのですよ?
人に物をあげる。特に仏法に布施をする。
これはもう、イッチバンの善ですから、
だからその、もう喜ばにゃならんことなんですよ。

あの人は、あんだけしか出されんのに、私あの人よりも
何で余計出さにゃならんやろ、って
トンデモない話ですよ!そりゃ
喜んで・・・・出さなければならない。
みんな自分の物になるんですよ?
絶対、人のモンにならないんですよ。
で、それが自因自果ということですから、その、やはり
自因自果という因果の道理がワカランところから
食堂なんか行ったらね、千円でも二千円でも、安いね
ここの店は、って出しても、仏法のためになら
千円出すときに、あの人、五百しか出してらんのに、
私、ナンデ千円出さんな・・・
まるで損するように思うでしょ?
これ、ゼンッゼン因果の道理がワカッテナイ
っちゅうことですよ、仏法ワカッテナイっていうことですよ。
その人の信仰はその程度や、っちゅうことですよ。
絶・・・対、損にならないですよ。
その喜捨した、何ジュウ倍戻ってくるからっ。
私なんか、何百倍戻ってくるとりますよ。
そんなちょっとやそっとじゃないですよ。だから、
ヨロコンデ・・・あげればいいんですよ。
ヨロコンデあげなきゃならんことですよ。
ヨロコンデ捨てる・・・仏法のために
これが中々ワカランのやね。因果の道理が、
あの、ワカラナイ、ワカッテないから。
絶・・・対に損しないんですよ。布施をして。

もちろん、その布施をする相手ぇ間違ったらダメですよ。
これ、いつも、皆さん、あの、お聞きのとおり。
ちゃんとお釈迦様は、どーゆう相手に布施を、せよ
と教えておられるから。
こりゃいつも聞いておられるとおりですから。

だから・・・そのうえでですよ、布施をして施して
損ということは、絶対ないですよ。

家も田んぼも畑もゼンブ売って、仏法に布施してでも、
絶対に損はないです。
明日からどこで住めば、
そりゃアパートへ入りゃいいんです。
絶対に損はないです。

だから喜んでさせてもらわなければならないこと
なんですから、喜捨と言われるんですが
まるでね、税金かなんかとられるようなこと思っとったらね、
ゼンゼンそりゃ布施と違うんですよ。
これは、あの、喜捨でないんですよ。
税金ちゅうのは国家権力が、ね、無理やりに・・・・
奪い取っていくんですから、もし税金払わんものあったら
こりゃもう、酷い目に会わんにゃならんのやから、
それが嫌ややで、仕方っ無しに出しとんのが税金なんだで。
布施というのは喜捨というのはそんなもんでないんですよ
・・・・・・・・・なっ、国家権力っというもの、そういうものに
恐れて出すんのと違うんだから。わが身のために出すんですから
自分が、けっ、自分がよい結果を得るために
種を蒔くんですから・・・・種蒔くところが無かったらね、
大根もニンジンもできてこないんやからね、
畑へ感謝しなきゃならないですよ?
いくら大根の種持っとったってね
蒔く畑が無かったらね、大根とれねぇんだから・・・・・
私たちは最高の仏法という宝も、タカッ、
仏法というハタケ持っとるんでしょ?
その仏法というハタケに種を蒔くんですよ。
・・・・そしてそのハタケからできてきたものゼンンンブ、
自分のもんになるでしょ
ハタケのもんにならないんですよ
・・・・・・・・・・ここがまるでね、ハタケへ種蒔くと、
その、種も、その種からできてくる大根もニンジンも
みんなハタケのもんになるように思っ、思うからね。
・・・こりゃ、全く間違いで、因果の道理、いわゆる自因自果
・・・これがゼンゼンわかってない、信じられてない、ということですよ。
・・・絶対損はないですから
・・・・ドンドン、ドンドン、仏法のために財施、喜捨すれば
するっ、ほどいいんです。大変に幸せなことなんです。
得するヒトは、ね、幸せになるヒトは、そうするヒトなんです。
これが善因善果自因自果。
その逆が悪因悪果自因自果ですよ。
欲ばっかりして、ね、出すのは、仏法のために・・・
舌出すのもイヤやと。そんんなことしとるから
ダンダン、ダンダンお金も来ないし、物にも恵まれないし、
全部詰まってくるんですよ。
お金にも物にも恵まれたかったならば・・・ドンッドンッ、
喜捨をすることです。布施をすることです。
そうすれば全てに恵まれるから。
それをね、もう、出来るっだけ仏法のために
出さんように、出さんように、ね
それで、なにもかも恵まれないんですよ。・・・・・・・・・・・・・
その考え方を、ね、ヒックリ返さなかったらっ。
・・・・・・・・・それがそのね、仏法の根幹である
因果の道理をどれだけ、あの、わかっているか、
信じているか、ということなんですよ。
だから信仰が進めば、必ず、進めば進むほどそうなるんですよ。


まぁ、この方だけのあれに答えておられませんから。
「御喜捨の心掛けと因果の道理について、聞きたい、今一度聞きたい」
ということで、今こう話しとるんですよ。

「収入に対して計画を立てなかなか喜び喜びさせていただくことが」
これね、計算しとったらもう絶対出せないですよ、仏法に。
・・・・これだけ出したら、あとこうなってこうなって、こりゃ足らんぞ。
これだけ余ると、余っただけで大体こうかと

そんんなの、アカンですよ。

何しろね、そういう計算を捨てるの!
計算を捨てさせんの。
そして、因果の道理のみを信じるわけ。

こんな計算しとるからね、絶対ダメなんだ。
余って出るはずねぇもん。
余ったら全部銀行やっちょる。(聴衆笑い)
銀行はこれで持ってくるならもういわんからね集めたろうかね。
んなもん、どうして仏法出すカネが出てくるんや
計算しとったら。
そんなことないドンドン、御喜捨しなさい。ドンドン、
あの、布施をしなさい。
それはだぁ~れのモノにもならないんです。
アンタのモンになるんです。結果は。

あのぉ~、みなさんが財施をせられたのは
ワタシのもんになるなんかってね、
クダラン心配しなさんな。(聴衆笑い)
私は倍にして出しとるから。
みん~な、出したアンタのモノになります。
私が布施をしたらワタシのモノになるんです。結果は。
アンタらの布施したモノを私が拾ったれっていうたら、
私がね、ヒン、貧乏になるだけです。
出す人が豊かになるんです。
出せば出すっほど豊かになっていくんです、し、
幸福になるんです。
そこ入れりゃ、入れるっほど不幸になるんです。
そういうことです因果の道理ってのは。

だから「収入に対して計画を立てる」

立てなさんなこんなモン(聴衆爆笑)

なにしろ、喜んで出しなさいっ、ねっ。アンタね、
幸せを欲しかったら出しなさいっ
ということです。

私はね、世間のヒト見とっと、ほんとにね、
なんと気の毒というか、ね、ちょっ、大根が出ん大根が出んっちゅうに。おい、蒔いたか種?(聴衆笑い)
ゼンッゼン、大根の種、蒔いた、蒔かんとって、
大根が出ん、大根が出ん、言うとんねん

キチガイかい!ってオマエ

畑行ってね、まだ大根が出ん、まだ大根が出ん、
言うとんねん
何時タネ蒔いたんやオマエ、何も蒔いとらん
蒔かんモンが出るかっちゅうの!
蒔きなさい、必ず出てくるから。人に施しなさい。
人に親切しなさい、必ず恵まれるから。
逆にはならんのだから。アンタのために蒔くんだで。
アンタのため、自身のために出すんだて。
そういうことがね。あの因果の道理ということです。

いくらそういうてもね、ん~、なこと言うたって中々ちょっ、
計画を立てんとおれるかとそん~なこと言う、思っとる
もんバッカリだから、貧乏なもんバッカリなんだわ。
苦しんどるもんバッカリなんだわ。
私の言うとぉ~りにやってごらん。
因果の道理に・・・従ってやっててごらん。
みんな幸福になるんです。
それ、やるかやらんかダケです。
信ずるか信じないかのダケです
信じて実行するかしないかダケです。
私はやっただけっす。そら私のためです。ね
~~~~以上引用~~~~


注5 『歎異抄』第18章には、施入物の大小を云々することが誤りであり、宝物を仏前になげたり、師匠にものを施したりすることによって救いが決まることはないということが述べられている。

一 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。
かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


また、蓮如上人も、財施によって救いがあるかのように教えることの間違いを指摘しておられる。

●これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
『御文章』1帖11通


注6 このことに関連して親鸞聖人は以下のように仰っておられる。

●善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。『親鸞聖人御消息』

この言葉が「全人類が五逆謗法だから、それを避けて無人島で暮らしなさい」という意味ではなく、「五逆謗法の人と、そうでない人がいるから、五逆謗法の人に近づくな」という意味であることは、既に清森氏が指摘済みである。

清森問答質疑応答143

もしも、「頭、変になられたんじゃないですか?」というように、釈尊を謗るような教えを説く自称「善知識」がいたならば、そのような「謗法の人」からは離れ、「同座」しないことが「親鸞聖人の教えに従う」ことになる。

清森問答 親鸞会教義の相対化・82

やさしい浄土真宗の教え §7 聴聞(何を「聞く」のか?)

§7 聴聞(何を「聞く」のか?)

これまでのレクチャーで、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じるのに、
「信心」(=信楽、プラサーダ)が必要なことも、
それが何の力によって得られるかも明かになりました~。

ところで、浄土真宗においては、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
疑いがバッチリ晴れた「信心」が、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムに
乗ずるための「信心」ということになりますな。

そんでもって、その「信心」を獲得するために、
「聴聞」が勧められるわけですわ。(注1)


ところでこの「信心」は、
超ウルトラ速やかに「あっ」という間もないままに獲得できるから、
「時尅の一念」と言われるわけやね。(注2)

でも、その「信心」を獲得するまでの期間ちゅうものは、
人によっていろいろで、
みんな一緒っちゅうわけじゃないのよね。(注3)


もちろん「あっ」という間に、
信心獲得できるまでの期間が短い方がええんやけど、
全ての人がそういう人というわけじゃなくて、

頑張って聴聞もしてるんだけど

歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、

そんな人はどうしたらよいか?

という疑問も出てくるわけですわ。普通。


どう?親●会でこんなこと他の人に相談できました?
「後ろ向き発言禁止!」とかじゃ無理だったんじゃありまへんか?(注4)
あるいは、「宿善が足りない!」とか怒られてたんちゃう?(苦笑)

苦笑ちゃんは、そういう人の悩みにも、
ちゃんと向き合っていきまっせ!!

というか、そういう相談ができる雰囲気は超大切やで。(注5)


【今日のまとめ】
 1、浄土真宗の「信心」は、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに対して、
 疑いが完全に晴れた「信心」である。
 2、その「信心」になることによって、
 阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗ずることができる。
 3、「聴聞」によって、その「信心」は得られる。
 4、その「信心」は「一念」で得られるものであるが、
 それを獲得するまでの期間は、人によって様々である。


※次回は、

歓喜する心がまだ起きていない人、
「極楽浄土への往生は間違いない」と確信できない人、
自分の死後がどうなるか不安で嘆いている人、
 ↑
この人がどうしたらええか解説するで!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 願成就文を親鸞聖人は以下のように解説されている。

・経に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは本願力廻向の信心なり
『教行信証』信巻

・「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。「きく」というは、本願をききて疑う心なきを聞というなり、また「きく」というは、信心をあらわす御法なり。
『一念多念証文』


また、親鸞聖人の教えを受けて蓮如上人は以下のように述べておられる。

・かるが故に、阿弥陀仏のむかし法蔵比丘たりしとき「衆生、仏に成らずば我も正覚ならじ」と誓いまします時、その正覚已に成じたまいしすがたこそ、今の南无阿弥陀仏なりと心得べし。
これ即ち、我らが往生の定まりたる証拠なり。されば、他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
『御文章』4帖8通


・他力の信心を獲るというも、これしかしながら、南无阿弥陀仏の六字のこころなり。この故に一切の聖教というも、ただ南无阿弥陀仏の六字を信じせしめんがためなり
『御文章』5帖

・阿弥陀如来の仰せられけるようは、「末代の凡夫、罪悪の我らたらん者、罪はいかほど深くとも、我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし」と仰せられたり。
『御文章』4帖

・されば、「南无阿弥陀仏と申す六字の体はいかなる意ぞ」というに、「阿弥陀如来を一向にたのめば、仏その衆生をよく知ろしめして、救いたまえる御すがたを、この南无阿弥陀仏の六字に現したまうまり」と思うべきなり。
しかれば「この阿弥陀如来をば、いかがして信じまいらせて、後生の一大事をば助かるべきぞ」なれば、何の煩いもなく、もろもろの雑行、雑善をなげ棄てて、一心一向に弥陀如来をたのみまいらせて、二心なく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を、光明を放ちて、その光の中に摂め入れ置きたまうなり。
これを即ち、弥陀如来の摂取の光益にあずかるとは申すなり、また不捨の誓約ともこれを名くるなり。
『御文章』3帖4通

・それ、当流の安心のすがたは如何ぞなれば、先ず「我が身は十悪五逆五障三従のいたずらものなり」と深く思いつめて、その上に思ふべきやうは、「かかる浅ましき機を、本と助けたまへる弥陀如来の不思議の本願力なり」と深く信じ奉りてすこしも疑心なければ、必ず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなわち他力真実の信心を得たすがたと云うべきなり。
『御文章』2帖15通


注2 このことの解説に関しては、以下の記述に問題はない。

チ●ーリップ企画 【第12回】信楽は一念で獲得 より

~~以下引用~~
次に第二の、その「信楽」(信心歓喜)は「一念」で“獲られる”ということに就いて明らかにしよう。
釈迦は『成就文』に「信楽を獲る」のは、「信心歓喜せんこと乃至一念せん」と、「一念」であると鮮明に説かれている。では「一念」とは何か、親鸞聖人にお聞きしたいと思う。

この『成就文』の「一念」を、法然上人は「行の一念」とされているのに、親鸞聖人は「信の一念」と説き、それを「時尅の一念」と「信相の一念」で教えられている。(両聖人の違いについては後日、述べよう)

先ず、「時尅の一念」に就いてであるが、聖人はこう仰っている。

「夫れ、真実の信楽を按ずるに信楽に一念あり、一念とは信楽開発の時尅之極促を顕はし、広大難思の慶心を彰すなり」 (教行信証)

ここで親鸞聖人の仰せになっていることを、易しく言うと次のようなことだ。

「阿弥陀仏の本願の『信楽』を、釈迦は成就文に『信心歓喜せんこと乃至一念せん』と説かれているのは、本師本仏と仰ぐ弥陀の本願の最も尊く優れているのは、一念の救いである」と言われているのである。

「一念の救い」とは、先ず、弥陀の救いは極めて速いということ。「名号」を聞即信と頂き破闇満願し、広大難思の慶心の身に救われるのは、分秒にかからぬ速さである。
だから聖人は「極速円融の真詮」とも弥陀の救いを言い、聞即信の一念だから「極速」、一念で大満足させられるから「円融の真詮」と仰っている。

なぜ、弥陀の救いは、こんなに速いのか。覚如上人は『口伝抄』に、その訳をこう記される。

「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」

平易に言うと、常に阿弥陀仏の救いの相手は、直前に死が迫っている無常迅速の人(十方衆生)だからである。もし三刹那かかる弥陀の救いだとすれば、一刹那後に死ぬ人を救うことはできないだろう。
だから阿弥陀仏の本願の最も優れて尊く大切なのは、「一念の救い」であり、「一念の救い」こそが、弥陀の本願の肝要であり至極の教えであると、釈迦や親鸞聖人は言われているのだと、覚如上人は仰っているのである。

中国の曇鸞大師という人は『浄土論註』に、
「譬えば、千歳の闇室に光もし暫く至れば、すなわち明朗なるが如し。闇あに室に在ること千歳にして去らず、と言うことを得んや」
と、例えで明来闇去 闇去明来、明かりが来たのが先か、闇が晴れたのが先か、弥陀の一念の救いの速さを教えていられる。

だから真実の信心(一念の救い)には、信楽開発した一念がある。信楽が開発したとは、一念で弥陀の本願に疑い晴れ、往生一定と極楽往き間違いなしと、大安心大満足の心になったことをいう。
例えれば、生来、目が見えなかった人が名医の手術で開眼した一刹那とでもいうか、地獄より行き場のない者と知らされたと同時に、私一人を助けんがための弥陀のご本願でありましたと驚天動地する、不可称不可説不可思議の一念である。
~~以上引用~~


注3 法然上人には、以下の言葉がある。

人の心は頓機漸機とて二品に候なり。
頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。
物詣なんどをし候に、足はやき人は一時にまいりつくところへ、
足おそきものは日晩しにかなわぬ様には候えども、
まいる心だにも候えば、ついにはとげ候ように、
ねごう御心だにわたらせ給い候わねば、
年月をかさねても御信心もふかくならせおわしますべきにて候。
『往生浄土用心』昭法全p.562

(訳)
人の心には頓機、漸機という二つがある。
頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、
漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。
たとえば神社仏閣へ参詣するにしても、
足の速い人は、わずかな時間でそこまでたどりつくことができるのに、
足の遅い人は一日かけても着くことができないようなものである。
しかし、そこに行こうという心があれば、
最後には必ずお参りすることができるのと同じように、
浄土に往生したいと願う気持ちさえあるならば、
時間はかかっても御信心は深くなっていくに違いない。

ところで『会報』vol.3p.55~宿善(2)には、

~~以下引用~~
よって宿善の厚薄は、また聞法心の強弱によって知ることが出来る。仏教では宿善深厚の人を頓機といい、宿善薄弱な人を漸機といわれる。頓機の者は一度の法筵に遇っても信を獲るが、漸機の人は法筵を重ねて、漸く信を獲得するのである。丁度、枯松葉と青松葉のようなものである。枯松葉はマッチ一本ですぐに火がつくけれども、青松葉に火をつけようとしても、プスープスー水をはじいて、中々火はつきにくい。それと同様に頓機は御慈悲の火がつきやすい状態になっている人だから、すぐにも仏凡一体と燃え上るが、漸機は今日もカラボコ、今日も落第どう聞けばよいのか、どれだけ聞けばわかるのかと、ブスブス小言ばかりいって、流転しているのである。しかも漸機の者は圧倒的に多く、頓機は稀なのである。
記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子の中では、わが親鸞聖人と蓮生房と耳四郎の三人のみが頓機である。
聖人の門下では明法房、ただ一人である。その外にもあったであろうが甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に頓機の者は少なく、漸機の者は多しと仰せられている。
~~以上引用~~

とあるが、この解説は、『和語灯録』所収の上記の法然上人の言葉には基づいていないようである。


注4 親鸞会教義の相対化・46参照

<禁止事項>
【後ろ向きな発言・顔(表情)・姿勢・文章】

【発言】
※自分だけでなく、周囲の人のやる気を削ぐような発言はしない。
1)できません。
2)無理です。
3)わたしのような者はダメです。
4)感謝の心がでてきません。
5)こんなやり方にはついてゆけません。
6)そんなことを言われても困ります。
7)少しも悪いと思えません。
8)辛いです。苦しいです。

【顔(表情)】
※額にシワをよせた表情はしない。
1)泣くと、その涙でなお悲しくなる。
※『ベッピンも 笑顔忘れりゃ 五割引き』

【姿勢】
※腰を押されるようにして、堂々と歩く。

【文章】
※後ろ向き発言と同じ文章は書かない。


注5 『蓮如上人御一代記聞書』(86)に以下の記述がある。

一 蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。

(訳)
蓮如上人は「素直に自分の心の中にあるものを言いなさい。ものを言わないで黙っているものは恐ろしいことである」と仰った。
「信心のある者も、信心のない者も、包み隠さず心の中にあるものを言いなさい。心の中にあるものを言うからこそ、他の人に心の奥底で思っていることがわかり、人に直してもらうこともできるのである。だから包み隠さずにものを言いなさい」と仰った。

やさしい浄土真宗の教え §6 「名号」と「光明」

§6 「名号」と「光明」

前回の続き!

私達が何の力によって信心を得るか?

それは、「名号」が因、「光明」が縁となって、
私達は阿弥陀仏の本願に対する「信心」が獲られますのや。
これも私逹を救うために、
阿弥陀仏が作ってくださったシステムであることは、
言うまでもありまへん。(注1)

阿弥陀仏によって与えられる「信心」は、
阿弥陀仏が作った名号(至徳の尊号)を「体」としてます。(注2)

そんでもって、
「南無阿弥陀仏」という「名号」ちゅうものは、
「悪を転じて徳を成す正智」そのもので、(注3)
すげ~すげ~広大な海に喩えられるぐらい、
ありとあらゆる善根功徳が詰め込まれてるから、
それを受け取って「信ずる」人になったら、
阿弥陀仏のシステムに乗じて、
絶対に生死を繰り返す輪廻の世界にはとどまらへんのよね。(注4)

せやから、

★「信心(=信楽、プラサーダ)を得た!」

っちゅうことは、

★「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」

ちゅうことになりますねん。(注5)


せやけど、阿弥陀仏が「名号」を完成させてくれたからって、
この「オレ」が、その「名号」を受け取らなかったら、
「信心」とはならへんし、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムも作動せんちゅうことは、
本願の解釈を間違って「十劫安心」っぽい信心に陥っている(?)、(注6)
「あの」高●先生でも言っておられることです。(注7)


しつこいようやけど、
私達が、信心の体である「名号」を受け取るために、
阿弥陀仏は、「光明」でもって働きかけてくれてるわけやけど、
私達が「名号」を受け取って、
「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っておりまへん。(注8)

ほっといても「信心」が得られるなら、
何のために「聴聞」するかわからへんようになりまっせ。(注9)


【今日のまとめ】
 1、阿弥陀仏が作ってくださった、「名号」が因、「光明」が縁となって私達は「信心」を得ることができる。
 2、「信心を得た!」ということは、阿弥陀仏が与えてくれる「信心」の体である「南無阿弥陀仏」の六字の「名号を受け取った!」ということである。
 3、「名号」を受け取らなかったら「信心」とはならない。
 4、私達が「名号」を受け取るために、阿弥陀仏は「光明」で働きかけてくれている。
 5、しかし、私達が「名号」を受け取って「信心」にすることまで阿弥陀仏は誓っていない。

※次回は、「聴聞」についてやで!!

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 詳しくは、以下の解説参照。

「信楽の身」になるための働き より

清森問答 質疑応答138コメント覧より

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』 【四・光明名号因縁の事】 (p.685) に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。

しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、
明確に区別しなければなりません。
第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、
全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。
これでは十劫安心になってしまいます。
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。


清森問答 質疑応答139コメント覧より

B(本物)さんの解説

第18願の内容は、直接的には
「信心を獲た人に当益を与える」ですが、この願が成就したことによって、
信心を獲た一念で、当益が得られることが確定し、副産物として現益も獲られます。
ですから、成就文には現益が説かれていますし、親鸞聖人も『尊号真像銘文』(p.586)に、「乃至十念」と「若不生者」の解釈の間に現益の意味を挿入しておられます:
「この真実信心を得む時、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まると見えたり。」
ですから、結果的には現当二益が誓われていると理解できます。

ただし、その「現益」も、真実信心を獲得することによって獲られるものであって、
「信心」と「現益」とは因果関係にあります。
一念同時ではありますが、決して同じ概念ではありません。

「信心を獲た人に現当二益を与える」と誓われた、という理解は正しいですが、
「全ての人に信心を与える」と第18願で誓われた、ということにはなりません。


●光明名号の因縁といふことあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。
しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(礼讃)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず。
しかれば信心をおこして往生を求願するとき、名号もとなへられ光明もこれを摂取するなり。されば名号につきて信心をおこす行者なくは、弥陀如来摂取不捨のちかひ成ずべからず。弥陀如来の摂取不捨の御ちかひなくは、また行者の往生浄土のねがひ、なにによりてか成ぜん。されば本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願といふ、このいはれなり。
本願寺の聖人(親鸞)の御釈『教行信証』(行巻)にのたまはく、「徳号の慈父ましまさずは、能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは、所生の縁乖きなん。光明・名号の父母、これすなはち外縁とす。真実信の業識、これすなはち内因とす。内外因縁和合して報土の真身を得証す」とみえたり。これをたとふるに、日輪、須弥の半ばにめぐりて他州を照らすとき、このさかひ闇冥たり。他州よりこの南州にちかづくとき、夜すでに明くるがごとし。しかれば日輪の出づるによりて夜は明くるものなり。世のひとつねにおもへらく、夜の明けて日輪出づと。いまいふところはしからざるなり。弥陀仏日の照触によりて無明長夜の闇すでにはれて、安養往生の業因たる名号の宝珠をばうるなりとしるべし。『執持抄』四

注2 以下の記述に基づく。

●如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無礙・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心を以て、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に廻施したまえり。
 すなわちこれ利他の真心をあらわすが故に、疑蓋まじわること無し。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体と為せるなり。
『教行信証』信巻

注3 以下の資料に基づく。

●円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なり。『教行信証』総序


注4 以下の資料に基づく。

● 『浄土論』にいはく、「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とのたまへり。
この文のこころは、「仏の本願力を観ずるに、まうあうてむなしくすぐるひとなし、よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」とのたまへり。「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり。
「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり。「無」はなしといふ、「空」はむなしくといふ、「過」はすぐるといふ、「者」はひとといふ。むなしくすぐるひとなしといふは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。
「能」はよくといふ、「令」はせしむといふ、よしといふ、「速」はすみやかにといふ、疾きことといふなり、「満」はみつといふ、「足」はたりぬといふ。「功徳」と申すは名号なり、「大宝海」はよろづの善根功徳満ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらずもとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに大宝海とたとへたるなり。
『一念多念証文』


注5 以下の資料に基づく。

●それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
 そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。
この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。かかる殊勝の道理あるがゆゑに、ふかく信じたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
『御文章』5帖13通


注6 前回の§5参照。


注7 以下参照。

 真宗の骨格
                                
 阿弥陀佛によって完成された南無阿弥陀佛の名号には一切衆生の苦悩を抜き、無上の安楽を与える働きがあることは、すでに述べて来た通りであるが、これは、丁度肉体の病苦を癒し健康の慶びを与えてくれる良薬のようなものであるから、法然上人も、この阿弥陀佛の名号を妙薬に喩えわが親鸞聖人もまた、「如来誓願の薬は能く智愚の毒を滅す」と弥陀の尊号を良薬に喩えていわれるのはまことに適切な譬喩といわねばならぬ。
 このように味ってみれば薬の調合はすでに了ったわけである。
 今や正しく病人がこの薬を呑む場合に臨んでいる。
 浄土真宗、親鸞聖人の御教では、六字が阿弥陀佛の手元にある時は、名号といい、その名号が吾々の心中に与えられ佛心と凡心が一体となったところを信心といい、六字が口に声となって称えられた時は、有難うございましたという佛恩報謝の念佛というのが定判である。
 蓮如上人は、これを
「この佛心(名号)を凡夫の方に授けましますとき信心とは名づくるなり」
「されば南無阿弥陀佛と称ふる心は如何ぞなれば、阿弥陀如来の御助ありつることの有難さ尊さよと思ひて、それを慶び申すこころなり」と教えていられるのでも明らかである。 薬はいくら完成されていても、また如何にそも薬に特効があろうとも吾々が呑まなければ、何んにもならないように、十劫の昔から名号は成就していても吾々が受け取らなければ、何んにもならない。
 誠に呑む人がなければ折角調合せられた薬も、その甲斐がない。
 単に甲斐がないというよりも薬そのものの存在意義がないからである。
 吾々がこの名号、大功徳を受けとらねば弥陀の五劫の思惟も永劫の苦行も水泡に帰し名号は画餅に等しくなってしまう。
 故に、如来が我々凡夫にこの大功徳宝を与えてやりたいとの真心を名号の南無の二字にこめてあるからこれを発願廻向という。
 『証文』には
「廻向は本願の名号をもって十方衆生にあたへたまう御のりなり」と説き、蓮如上人は御文章三帖八通に
 「阿弥陀如来の凡夫の為に御身労ありて此の廻向(名号)を我らに与へんが為に廻向成就したまいて」、とあるように阿弥陀佛の本願は成就完成した名号を一切衆生に与えて救わんとせられたこと以外にはなかったのである。
 吾々がこの弥陀の本願を聞信し名号を受領し佛凡一体となった時を信心決定というので、この時に名号大功徳が我ものとなり佛智全領するから破闇満願、抜苦与楽に救われるのである。
 故にいくら名号が成就されていても吾々が受け取って吾らの信心とならねば救われない。真宗は信心正因であって名号正因といわないのは、その為である。
 『正信偈』に「本願名号正定業」とは仰有ってあるが如来の手元にある名号では吾々は救われないから正因とはいわれないのだ。
 吾々が名号を受けとれば破闇満願、抜苦与楽の力有のあることを正定之業といわれたのだが受け取らずに向うに眺めているだけでは、出来上がった話をきいているだけでは、出来上った話をきいているだけでは、救われないから正因とはいわれないのである。
 御馳走が出来ていても食べねば、腹はふくれません。
 御飯の室に入っていても食べねば餓死します。
 御馳走は名号であり食べて満腹したのが信心である。
 隣にどんな美人が居ても結婚するまでは関係がない。
 結婚するまでは隣の娘といい、一緒になれば妻と変るように、娘は名号であり、妻となったのが信心である。
 故に信心獲得したか、どうかが真宗の眼目であり肝要なのだ。
 これを蓮如上人は、御文章のいたるところに強調なされているが、二帖二通には
「開山聖人の御一流には、それ信心ということをもって先とせられたり。
 この信心を獲得せずば極楽には、往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」とか二帖、三通には
「然れば祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心一つに限れり、これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす」とか、五帖十一通には
 「当流には信心の方をもって先とせられたる。その故をよく知らずば徒事なり」等、とあるは、このことである。
 『法事讃』上に有名な「謗法闡提廻心皆往」とあるのは、廻心されたものは謗法も闡提もみな救われるが廻心されねば必堕無間なのだ。
 廻心されたかどうか、名号を受けとったかどうかが皆往となるか必堕となるかの分岐点となるのだ。
 にもかかわらず、真宗の布教師の中には「囮事の一声自己を識得す」という禅宗の言葉で真宗の信心を語る者があるが、これは絶対間違いである。
 囮事の一声とは、たとえば、お婆さんが財布を自分が持ちながら忘れて財布を探している時「あんたの手にもっているじゃないか」と注意されて「ハー」と気のついた時発する声であるが真宗の信心も丁度このように吾々にはもとより助かっているのだがそれを知らないだけで迷うているのだから、それを知ったのが信心だというのである。
 こんな説教が実に多いが十劫安心の親玉である。
 これは「本来もっていたものに自覚する」という考え方が基礎になっているから、真宗の絶対他力廻向の弥陀の本願に反する邪義である。
 親鸞聖人は「教行信証」信巻に
「真実信心は、我ら凡夫には本来法爾として所有していないから如来が円成して我ら煩悩悪業邪智の心中に廻施して下さるものだ」と述べ、いたるところに「真実信心をうる」とか、「獲得すれば」とか、「和讃」には、「真実報土の正因を二尊のみことにたまわりて」とか、あくまでも如来よりたまわる信心であることを明示され、覚如上人も
「三経の中に観経の至誠心、深心等の三心をば凡夫のおこすところの自力の三心ぞと定め大経所説の至心、信楽欲生等の三心をば他力よりさずけらるるところの佛智とわけられたり」と邪義のつけいる余地のない明説がなされているのだから充分注意せねばならない。
(『会報』vol.2 pp. 64-68)


注8 これに関しては、§5で詳しく述べた通りである。


注9 これに関しては、次回詳しく述べる予定である。

やさしい浄土真宗の教え §5 何の力によって信心を得るか?

§5 何の力によって信心を得るか?

ここまでレクチャーしてきたように、
衆生が極楽浄土に往生し、最終的に成仏するためのシステムを
阿弥陀仏が作ってくださったわけやけど、
衆生がそのシステムに乗じなきゃ、
その阿弥陀仏のシステムは作動することができまへん。(注1)

そんでもって、このシステムの乗ずるのに必要なのが、
「信心」(=信楽、プラサーダ)だっちゅうことは、
よい子のみんなは、わかっているよね?(注2)

それなのに、どっかの親●会ドグマは、
本願の解釈を、

 阿弥陀仏が信心を与えてくれる=衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている

なんてことにしちゃっているから、

事実上、所謂「十劫安心」を肯定しちゃうことになるんですわ(苦笑)。(注3)

これがどんだけヘンテコドグマかっちゅうことは、
これまでのツッコミを読んでくれたお友達は、
よ~わかってくれてると思います(苦笑)。(注4)


それでは、私達が何の力によって信心を得るか?

これは、ちょっと話が長くなりそうだし来週につ・づ・く♪



【今日のまとめ】
 1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに乗じなければ衆生は救われない。
 2、阿弥陀仏の作ってくれたシステムに必要なのは、「信心」(=信楽、プラサーダ)である。
 3、本願の解釈を「衆生が信楽になることまで阿弥陀仏が誓っている」としたら、事実上「十劫安心」を肯定することになる。



※次回、「何の力によって信心を得るか?」をレクチャーするで!!



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 以下のエピソードが、このことを端的に表しているであろう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ある時、一休禅師が蓮如上人に歌を送った。


 阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり
 たのむ衆生を のみぞたすくる 

(訳)
 阿弥陀仏には、本当の慈悲がないのではないか?
 阿弥陀仏をたのむ衆生だけを救うと言っているではないか!


これに対し、蓮如上人は以下のような歌を返されたそうである。


 阿弥陀には 隔つる心はなけれども
 蓋ある水に 月は宿らじ

(訳)
 阿弥陀仏には、衆生を別け隔てするような心はないが、
 蓋をしてしまった水面に月を写すことができないように、
 阿弥陀仏の本願を疑い阿弥陀仏の救いを拒む人を、
 阿弥陀仏は救うことができないのである!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


注2 以下の親鸞聖人の言葉を参照。

●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。『教行信証』信巻

 これは、「仏願の生起本末」を衆生が「聞きて疑心あることなし」になれば、「本願力回向の信心」を獲得するので、極楽浄土に往生することが確定するということである。
 逆に言えば、衆生が「聞きて疑心あることなし」になれなければ、「本願力回向の信心」を獲得することができず、極楽浄土に往生することも確定しないということである。

 そして、

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。『尊号真像銘文』

 とあるように、阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、衆生がそれを受け取らないために、残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるのである。


注3 以下のCさんのツッコミが素晴らしい。

かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(後半) より

もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!


注4 ツッコミ!参照

やさしい浄土真宗の教え §4 「信楽」と「正定聚」の関係

§4 「信楽」と「正定聚」の関係

阿弥陀仏の本願に対して「信楽」を得た瞬間に、
「正定聚」になることを、「不体失往生」と言うわけやけど、

 ★「信楽」・・阿弥陀仏の本願に対する信心
 ★「正定聚」・・完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地

ということは、
仏教の常識として知っておいた方がええで。(注1)

この二つは、因果関係にあって密接に関係してわけやけど、(注2)
この二つをイコールにしちゃうと、
これまでツッコミ入れてきた親●会ドグマみたいに、
いろいろ問題が出るしね~(苦笑)。(注3)

あと、「信楽」は「プラサーダ」であって、
「バクティ」とか「思考停止」じゃないことも、
キッチリ理解しとかなアカンし、(注4)

極楽浄土に往生することを願うなら、
「バクティ」や「思考停止」じゃなくて、
「プラサーダ」を目指さなきゃダメよ。(注5)


【今日のまとめ】
 1、「信楽」は「阿弥陀仏の本願に対する信心」、「正定聚」は「完全な正覚より後退しない(=間違いなく成仏する)境地」である。
 2、この二つは、因果関係にあって密接に関係している。
 3、しかし、この二つをイコールにしてしまうと、親●会のヘンテコドグマのように、様々な問題が発生してしまう。
 4、「信楽」は「プラサーダ」であって、「バクティ」や「思考停止」ではない。
 5、 極楽浄土に往生することを願う者は、「バクティ」や「思考停止」ではなく「プラサーダ」を目指さなければならない。

※次回は、「何の力によって信心を得るか?」だよ。




――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 サンスクリット文『無量寿経』願成就文には、

●およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

というように、

 ★「浄らかな信」(プラサーダ、信楽)を伴った心を起こした人が、
             ↓
 ★「完全な正覚より後退しない境地」(住不退転・正定聚)になる。

ということが述べられているが、

 ★「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。

 ★阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。

これは、『無量寿如来会』の願成就文も共通である。

●『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志訳]「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。(『教行信証』信巻に引用された『無量寿如来会』の願成就文)

 ★信受本願(真実信心を得る)
 →無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば

 ★即得往生 住不退転(正定聚のくらいにさだまる)
 →願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと


注2 親鸞聖人の言葉に基づいた、以下の解説がわかりやすい。

~~~以下引用~~~
656 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:13:05 ID:eu09B6u2
>>653の続き

しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、
あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
という同義語反復になってしまいます。
ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。

658 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:28:21 ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。 
~~~以上引用~~~

また、「信受本願」「即得往生 住不退転」「若不生者 不取正覚」を図にすると、以下のようになる。

 1)      2)                3) 
 真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
   ↑          ↑                ↑
 「信受本願」    「即得往生、住不退転」      「若不生者 不取正覚」
  =前念(因)     =後念(果)     

 なお、

●しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。『教行信証』証巻

とあるように、1)と2)は「即のとき」というように、時間を介在しないから同時であるが、明確に因果関係にあるので、これをイコールにすることはできない。   


注3 更に詳しくは以下を参照。

参照「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)の関係
参照 ちび●墓穴!(再掲)
参照「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う(再掲)
参照「どこに「死後」って書いてあるの?」→ちび●ボコボコ!!(再掲)


注4 「プラサーダ」と「バクティ」と「思考停止」の違いは以下の通り。

【プラサーダ】
 仏教における信仰の観念は、また極めて古い時代からプラサーダと云う語を以て表示される。それはまた「澄浄」とも「喜」とも訳された。すなわち仏教における信仰は、仏の法を信じて、心がすっかりしづまり澄み切って、しづかな喜びの感ぜられる心境をいうのである。
 従ってちょうどプラサーダに相当する語を、西洋の言語のうちに見出すことは困難である。仏教の信の心境は、しづかな、おちついたものであって、熱狂的、狂信的な信仰からは、およそかけはなれたものである。
(中村元『東洋人の思惟方法』第一部 p.189)

【バクティ】
 後代のヒンドゥー教信仰において、シュラッダーに代わって最重要の概念となるものはバクティである。√bhajという語根に由来するこの語の原義は、分割あるいは参与である。それがいわば最高神への参入という意味に転じ、結局、最高神に対する真摯熱烈な絶対帰依としての信仰・崇拝を指す語として、シヴァ教、ヴィシュヌ教諸派の間で近代に至るまで弘く用いられるようになっていったのである。
 バクティはつねに人格神に対する熱烈な情愛を伴うものであり、その点でインドの他の信仰形態と趣を異にしている。人間が最終的解脱に至る最重要の及至は唯一の道がバクティであると考えられることが多く、その意味でバクティこそヒンドゥー教信仰のかなめであるということができる。
(『岩波哲学・思想辞典』 pp. 815-816 「信仰」)

【参考思考停止】
●意味
考えるのをやめること。あるいは、あることに対する判断を放棄して、既成の判断を無批判に受け入れること。
「短絡的な反応」「脊髄反射」「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのまま当てはめる」状態を指し、議論において極めて批判的に用いられる。
●使われる場面
 基本的に、きちんと論証する手間を省いて「自分は正しく、相手は間違っている」ということを簡潔に訴えるために使われる手抜きのための用語。「相手の異論は絶対、間違いであるのに対して、自分は絶対、正論である。つまり自分や相手が、一般常識と世間から見て論理的で無く矛盾した発言をしているのに、ただ感情的に正論と、物事をきちんと判断できない人達を指す時に使用する」
 簡単に言えば「ダメ。ゼッタイ」「絶対、儲かる」「絶対、崇拝しろ」と主張したい人が使う。
(「参考思考停止とは」はてなダイアリーより)


注5

●世親菩薩『倶舎論』
SraddhA cetasaH prasAdaH. (AKBh 55, 6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

●梵文『無量寿経』願成就文
ye kecit sattvAs tasya 'mitAbhasya tathAgatasya nAmadheyaM
Sr.n.vanti,
SrutvA cAntaSa ekacittotpAdam apy adhyASayena prasAdasahagatam
utpAdayanti,
sarve te 'vaivarttikatAyAM saMtis.t.hante 'nuttarAyAH samyaksaMbodheH.
(訳)およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、プラサーダ(浄らかな信)を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

とあるように、仏教における「信」は「プラサーダ」であり、極楽浄土に往生することを願う人が起こすべき心も「プラサーダ」である。
 「プラサーダ」(浄らかな信)は、「しずめる」「浄化する」「喜悦する」「滿足する」という意味をあらわす動詞、pra-√sadから作られた名詞であり、「心が澄みきって清らかとなり、静かな喜びや滿足の感じられる心境」のことであり、「バクティ」とも「思考停止」とも、全く異なるものである。

やさしい浄土真宗の教え §3 阿弥陀仏の救いは平生から

§3 阿弥陀仏の救いは平生から

前回までのレクチャーで、
阿弥陀仏の作ってくれたシステムが、
衆生を極楽浄土に「往生」させて、
最終的に「成仏」させてくれることは、
よい子のみんなは、わかってもらったと思います。

ところで、このシステムによって衆生が救われるのが、
「死後」じゃなくて「平生」だっちゅうことを、
法然上人が明かにしてくださっています。(注1)

親鸞聖人はこれを踏まえて、
「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見たならば、(注2)

★衆生が「信楽」を得たその瞬間に、
「往生」が確定して「成仏」も確定する。

ことを明らかにしてされているわけですわ。(注3)

浄土真宗では、これを「不体失往生」と言います。(注4)

せやから、「不体失往生」の根拠は、
「願成就文」の「即得往生住不退転」じゃなきゃアカンのですわ。(注5)


【今日のまとめ】
 1、阿弥陀仏の作ってくれたシステムで救われるのは「平生」である。
 2、そのことは法然上人が明かにしてくださった。
 3、親鸞聖人は「願成就文」に基づいて阿弥陀仏の本願を見ることにより、
  「信楽」を得たその瞬間に、「往生」が確定して「成仏」も確定することを明かにした。
 4、浄土真宗では、このことを「不体失往生」と言う。
 5、したがって、「不体失往生」の根拠は「願成就文」の「即得往生住不退転」でなければならない。

※次回は、「信楽」と「正定聚」の関係ね♪



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 以下の文参照。

問うて云く。
摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

答えて云く。
平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。
この三心具足しぬれば、必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。

かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、てらし給うなり。

平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。
故に不捨の誓約と申すなり。
「念佛往生要義抄」(昭法全六八七頁)

なお、善慧房証空上人も「この世での救い」を積極的にお説きになられていることは、晄かである。

参照 親鸞会教義の相対化・77(投稿)


注2 参考までに、サンスクリット文『無量寿経』願成就文は以下の通り

●およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

 ★「浄らかな信」(プラサーダ、信楽)を伴った心を起こした人が、
             ↓
 ★「完全な正覚より後退しない境地」(住不退転・正定聚)になる。

ということが述べられている。



注3 親鸞聖人が「若不生者」を「極楽浄土への往生」と解釈されながら、本願成就文の内容を踏まえて「平生業成」「現生不退」の意味を十八願に補っておられることは、『尊号真像銘文』を見れば明かである。

『尊号真像銘文』から抜粋:

----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

----------------------------------------------------------------------
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
----------------------------------------------------------------------
※さすがに「平生業成」「現生不退」の意味を補っておられることに注目!
本願成就文の内容もちゃんと踏まえて本願文を解釈されていることが拝察されます。

----------------------------------------------------------------------
「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
----------------------------------------------------------------------
※それでもなお、「若不生者」を「【わが浄土に】もし生まれずは」としか解釈されていません。


注4 『口伝鈔』参照
 上人[親鸞]のたまはく、先師聖人[源空]の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信(親鸞)は、「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」といふ。小坂の善恵房[証空]は、「体失してこそ往生はとぐれ」と[云々]。この相論なり。
 ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人[源空]の御前に参じて申されていはく、「善信御房と善恵御房と法文諍論のことはんべり」とて、かみくだんのおもむきを一々にのべまうさるるところに、大師聖人[源空]の仰せにのたまはく、善信房の体失せずして往生すとたてらるる条は、やがて「さぞ」と御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれとたてらるるも、またやがて「さぞ」と仰せあり。
 これによりて両方の是非わきまへがたきあひだ、そのむねを衆中よりかさねてたづねまうすところに、仰せにのたまはく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり」。



注5 親鸞聖人の言葉の用例から、【若不生者 不取正覚】と【即得往生 住不退転】を時間軸上の配置すると以下のようになる。

【若不生者 不取正覚】
★「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
『尊号真像銘文』(1)

★「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。
『尊号真像銘文』(10)

至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる!
ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる!


「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。
『唯信鈔文意』

若不生者のちかひ=穢土をすてて真実報土にきたらしむ!


【即得往生、住不退転】
★「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという、「すなわち往生す」というは、不退転に住するをいう。「不退転に住す」というは、即ち正定聚の位に定まるなり、「成等正覚」ともいえり、これを「即得往生」というなり。
『唯信抄文意』

信心をうれば→すなわち往生す=不退転に住す=正定聚の位に定まる=成等正覚=即得往生


そんでもって『尊号真像銘文』の(1)の方を読むと、
「若不生者 不取正覚」よりも時間的に前の時点で、

真実信心をえんとき→摂取不捨の心光にいる→定聚のくらいにさだまる

とある。

★如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。
『尊号真像銘文』


つまり「即得往生 住不退転」と「若不生者 不取正覚」を時間軸上に配置すると、

 真実信心を得る→正定聚のくらいにさだまる→・・・・→極楽浄土へ往生→成仏
             ↑                ↑
          「即得往生、住不退転」      「若不生者 不取正覚」

となる。

やさしい浄土真宗の教え §2 極楽浄土に生まれるためのシステム

§2 極楽浄土に生まれるためのシステム

前回のお話で、よいこのみんなは、

 1、「仏教の目的」は「成仏」である。
 2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
  「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
 3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
 4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
 「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。

これがわかりました~♪

ところで「浄土真宗」の教えは、
最終的には、「成仏」を目指すけれども、
直接的には、極楽浄土に「往生」することを目指すから、

 ★何によって極楽浄土に生まれるか?

がすごい大事になるのよね。

そんでもって、これを明かにしたのが、

 ★「阿弥陀仏の十八願文」なんですよん。(注1)

その内容は、わかりやすい言葉で言えば、

 ★阿弥陀仏の本願に対する疑いが晴れ、
  念仏申す心のおき、たとえ何回でも念仏申した人を、
  間違いなく極楽浄土に生まれさせよう。
  それができないなら、私は仏にならない!!

という内容で、(注2)

阿弥陀仏がこのマニフェストに基づいてすっごい実践をして、
このマニフェストが実現していて、(注3)(注4)
極楽浄土に往生させるためのシステムを完成させてくれてるから、

オイラ逹が、そのシステムに乗っかれば、
マチガイナク極楽浄土に往生できるんやで!!

間違っても、「極楽浄土に生まれる」ことなしの、
本願文解釈とかしたらアキマヘンで~!!

【今日のまとめ】
 1、阿弥陀仏がマニフェスト(48項目)の第十八番目(第十八願文)は、「本願を信じた人を極楽浄土に生まれさせる」システムを作ることである。
 2、阿弥陀仏はマニフェストを実現したから、西方極楽浄土で仏様になっている。
 3、阿弥陀仏がマニフェストを実現して完成してくれたシステムによって、衆生は極楽浄土に往生することができる。


※次回は、「阿弥陀仏の救いは平生から」のお話だよ!



――――――――――――――――――――――――――――――――――
注1 『無量寿経』所説の十八願文は以下の通り。

●たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

 なお、wikiArcでは以下のように現代語訳されている

●わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。


注2 十八願の「若不生者」が「極楽浄土へ生まれる」ことを意味しているのは、言語の構造上、単語の格関係が明確であるサンスクリット文を見ても明々白々である。

●世尊よ、私が覚りに到達したとき、無量で数えきれない仏国土でわたしの名前を聞いて、その私の仏国土に生まれたいという心をおこし、もろもろの善根を振り向ける衆生たちが、もしも十度までも心をおこしても、彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら、そのあいだは、私はこの上ない完全な覚りを完成させることがないであろう。
ただし、直ちにその報を受けなければならない程の極悪な行為をした衆生や、正法を誹謗するという覆いにおおわれている衆生は除いてである。
『無量寿経』十八願に対応するサンスクリット和訳(親鸞会教義の相対化21より)

 ★若不生者 不取正覚(極楽浄土へ往生)
 →彼らがその仏国土に生まれることがないようであったら

 また、サンスクリットが読めなくても、親鸞聖人の解釈をきちんと知っているならば、解釈を間違うことはない。

●「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。
『尊号真像銘文』


注3 「本願」は既に実現しているから「本願」である。

 「誓願」の原語は「プラニダーナ」であり、「本願」の原語は「プールヴァ・プラニダーナ」であり、明確に区別されている。
 「プールヴァ」は「以前の」「過去」という意味であり、「本願」とは「仏が過去に菩薩だった時に立てた誓願」という意味であり、「現在では既に実現している誓願」という意味になる。

 このことを法然上人は以下のように述べておられる。

●本願と云うことは、もとのねがいと訓ずるなり。もとのねがいと云うは、法蔵菩薩の昔、常没の衆生を、一声の称名のちからをもって、称してむ衆生を、我が国に生ぜしめんと云うことなり。かるがゆえに本願というなり。『四箇条問答』昭法全p.700

(訳)
 本願とは「もと(過去)の願い」と訓ずるものである。
「もと(過去)の願い」というのは、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった昔に、「迷いの世界から抜け出せずにいる衆生を、わずか一遍でも称えた念仏の功徳によってわが浄土に往生させよう」
と誓ったものである。そういうわけで本願というのである。


 また、『選択集』の第三章において、

Q 法蔵菩薩の四十八願は成就されたのか?
A 『無量寿経』の願成就の文を読めば、四十八願の一々が達成されていることは明らかである。第十八の念仏往生願の達成のみを疑う必要はない。
 また、四十八願のそれぞれの末尾に、「願が達成されなければ仏にはなるまい」と誓っておられ、しかも阿弥陀仏は成仏以来、十劫を経ている。

という問答が設けられており、阿弥陀仏の誓願が成就して「本願」つまり、「過去の誓願」「完成した誓願」となっていることが証明されている。

●問うて曰く、一切の菩薩、その願を立といえども、あるいはすでに成就せる有り。また今だ成就せざる有り。未審し、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就したまうとやせん、はたいまだ成就したまわずとやせん。

 答えて曰く、法蔵の誓願一一に成就したまえり。何となれば、極楽界中にすでに三悪趣無し。まさに知るべし。これすなわち無三悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文にまた地獄、餓鬼、畜生諸難の趣無しと云えるこれなり。また彼の国の人天寿終って後、三悪趣に更ること無し。まさに知るべし、これすなわち不更悪趣の願を成就するなり。何を以てか知ることを得たる。すなわち願成就の文に、また彼の菩薩乃至成仏まで悪趣に更らずと云えるこれなり。

(中略)

 第十八の念仏往生の願、あに孤り以て成就したまわざらんや。然ればすなわち念仏の人皆以て往生す。何を以てか知ることを得たる。
 すなわち念仏往生の願成就の文に、「諸有る衆生その名号を聞いて信心歓喜して、乃至一念至心に回向して、彼の国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す」と云えるこれなり。

 およそ四十八願、浄土を荘厳す。華池宝閣、願力に非ずということ無し。何ぞその中において独り念仏往生の願を疑惑すべきや。如之、一一の願の終わりに、もし爾らずば正覚を取らじと云えり。而るに阿弥陀仏成仏したまいてより已来、今において十劫なり。成仏の誓いすでに以て成就せり。まさに知るべし、一一の願虚しく設くべからず。故に善導の云く、「彼の仏今現に世に在して成仏したまえり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからず、衆生称念ずれば必ず往生を得。」已上


 「信じて念仏申したものを極楽浄土に救い取る、それができなければ私は仏にはならない」と過去において、仏になる前の阿弥陀仏が誓願を立てたわけであるが、現在、その誓願が実現し「本願」になっているから、阿弥陀仏は、西方極楽浄土で仏となっている。

 そして誓願が実現していることが『無量寿経』において釈尊によって説かれ証明されているから、阿弥陀仏が過去に誓った誓願が嘘ではなく、阿弥陀仏の本願を信じて念仏申したならば間違いなく往生することができるのである。

 このことを善導大師は、

●もし我れ成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずば、正覚を取らじ。彼の仏、今現に世に在(ましま)して成仏し給へり。まさに知るべし、本誓の重願虚しからざることを。衆生称念すれば、必ず往生
を得と。『往生礼讚』

(訳)
 もし私が仏になっても、十方の衆生が、私の名前を称えること、少ないもので十声の者に至るまで、もしも往生できなかったならば、私は仏にならない。そう誓った阿弥陀仏は、現在に西方極楽浄土におられて仏になっておられる。だから、仏が昔に誓った重要な誓願が嘘ではなく、人々が「南無阿弥陀仏」とお念仏申せば、必ず往生できる。ということを、よく知るべきである。

とお説きになられている。この文は『選択集』の先の文の後にも引用され、親鸞聖人が『教行信証』の後序において、

 元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。
 同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
 同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。
 同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生」(礼讃)の真文とを書かしめたまふ。

と述べておられることからも、浄土真宗においても非常に重要な文であることは明かである。



注4 「正覚を取らじ」を「命を捨てる」と解釈するのは、「本願」が何であるかを全く理解してないことに起因する誤りである。

参照 「正覚を取らじ」は「命を捨てる」??(追記あり)

やさしい浄土真宗の教え §1 「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」

チ●ーリップ企画もトンズラしちゃったようなので、
かわりにおいらが、親鸞聖人の教えをできるだけやさしく解説してあげるね。
この解説を読んだら、もうヘンテコ教義には騙されないよ(笑)。



§1 「仏教の目的」「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」

ズバリ言っちゅうけど、

★「仏教の目的」は「成仏」である。

だよ。

仏教の「八万四千の法門」は、全てこれを目的にしていて、
「成仏を目的にしない仏教」は「仏教」とは言えませ~ん。

これは、

★極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する。

「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」でも変わることはありまへんな~。

極楽浄土は「成仏」するための場所であって、(注1)
阿弥陀仏の本願は、
最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムや。(注2)

そんでもって「横超」というのは、
そのシステムを明かにした
「願成就一実円満の真教」=「真宗」を意味してるんやで。(注3)


【今日のまとめ】
 1、「仏教の目的」は「成仏」である。
 2、極楽浄土に往生して、そこで「成仏」する、
  「浄土門の目的」「浄土真宗の目的」も「成仏」である。
 3、極楽浄土は「成仏」するための場所である。
 4、最終的に衆生を「成仏」まで導くシステムを明かにしたのが、
 「横超」=「願成就一実円満の真教」=「真宗」である。


※次回は、「極楽浄土に生まれるためのシステム」のお話だよ!



――――――――――――――――――――――――――――――――――
※本文は超ウルトラ簡単に書くので、詳しい資料や解説は以下の注を読んでね

注1 『無量寿経』において極楽浄土は、仏にまみえて菩提をきわめつくし成仏する場所である。

●実にまた、アーナンダよ、かの国に生まれた菩薩たちはすべて、仏にまみえることと法を聞くことから遠のかず、菩提をきわめつくすまで、(地獄などの悪い境界に)墮落することのないものである。また、彼らはすべて、そのときから以後、(前)生のことを記憶していないものとはけっしてならないであろう。ただしかし、ちょうど私がいま(現にここにあらわれて)いるように諸仏・世尊が世間にあらわれれるとき、五つの濁りが起こっているそのようなカルパの乱れのなかに(生まれたいと)、かつて立てた誓願(によってそれを誓った菩薩たち)は別として、である。
『無量寿経』サンスクリット文和訳


注2 極楽浄土に往生した人が成仏するためのシステムは以下のようになっている。

1)世尊よ、もしも私の仏国土に生まれるであろう衆生逹の全てが、大いなる涅槃にいたるまで、正しい状態にあることに決定したものとならないようであったら、その間は、私はこの上ない完全な正覚を覚ることはないであろう。
『無量寿経』第11願サンスクリット文和訳

 私(=阿弥陀仏)の仏国土(=極楽浄土)に生まれる「全ての衆生」が、大いなる涅槃(=成仏)に至るまで、正しい状態にあることに決定(=正定聚)したものにならなければ、阿弥陀仏は仏にならないと誓っている。

2)実にまた、アーナンダよ。かの国(極楽)に既に生まれ、現に生まれ、やがて生まれるであろう衆生逹の全てが、涅槃にいたるまで正しい状態にあることが決定している。
それはなぜかと言うと、そこにおいては、いまだ(覚りに至ることが)決定していないものと、邪な状態にいたることが決定しているものの二つの集まりが、存在しているということもないし、仮に示されることもないからである。
『無量寿経』第11願成就文 サンスクリット文和訳

 そして、その本願が実現して、極楽に生まれる「衆生逹の全て」が、「涅槃」にいたるまで正しい状態にあることが決定している。
 さらに、極楽においては、覚りに至ることが決定しないものと、邪な状態にいたることが決定しているものは、存在しないことも示されている。

 1)は阿弥陀仏の誓願。2)は阿弥陀仏の誓願が実現したことを証明する釈尊の言葉であり、 いずれも極楽浄土に往生する「全ての衆生」が、大いなる涅槃(=成仏)に至ることが、決定していることを証明する文である。


注3 『教行信証』信巻参照

●横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。『教行信証』信巻

ここに書かれている内容を簡単にまとめると、

【聖道門】【方便】「竪出」・・大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教
     【真実】「竪超」・・大乗真実の教
【浄土門】【方便】「横出」・・三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善
     【真実】「横超」・・願成就一実円満の真教、真宗

ということになり、

【聖道門】【方便】である「竪出」、
【聖道門】【真実】である「竪超」、
【浄土門】の中でも【方便】である「横出」、

これらに対して、

【浄土門】【真実】である「横超」が、
「一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証」するシステムである、
「願成就一実円満の真教」=「真宗」を明かにしている。
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

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