スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Q&A(24)蓮如上人は阿弥陀仏の絵像・木像を焼いたのか??

Q。(真偽検証さんの質問)
回答して頂き、ありがとうございますm(__)m

苦笑さんの仰る通り、私達が南無阿弥陀仏を受け取るか受け取らないかが大事です。
親鸞会は、「親鸞聖人のお名前で付加価値をつけないと愚衆どもが有難がらないし、御法礼・御報謝にひびくからに他ありません」という意図が見えます。

また、阿弥陀仏の御心が全く分かっていないから、阿弥陀仏の尊い絵像・木像本尊をお風呂の度毎に焼いていたと、蓮如上人に無実の罪を着せるわけです。(K学友部長談)
蓮如上人の御一代記聞書の「あまた御流に背き候本尊以下、御風呂の度毎に焼かせられ候」は、阿弥陀仏以外の本尊を焼かれたということで、阿弥陀仏の絵像・木像を焼かれたということではないと思いますが如何でしょうか。


更に、【当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号」というなり(御一代記聞書)】というお言葉は比較であって、絵像木像がダメということではありません。
阿弥陀仏が名号を完成され、十劫以来お立ちずくめで、名号を与えて私と久遠の親子名乗りをあげようとされ続けている、それが絵像・木像のお姿で表されています。
その絵像・木像のお姿を通して私達が南無阿弥陀仏の六字のこころを知ることが大事ではないかと思います。


※『蓮如上人御一代記聞書』(221)
一 善如上人・綽如上人両御代のこと、前住上人(実如)仰せられ候ふこと、両御代は威儀を本に御沙汰候ひしよし仰せられし。しかれば、いまに御影に御入り候ふよし仰せられ候ふ。黄袈裟・黄衣にて候ふ。しかれば、前々住上人の御時、あまた御流にそむき候ふ本尊以下、御風呂のたびごとに焼かせられ候ふ。この二幅の御影をも焼かせらるべきにて御取りいだし候ひつるが、いかが思し召し候ひつるやらん、表紙に書付を「よし・わろし」とあそばされて、とりておかせられ候ふ。このことをいま御思案候へば、御代のうちさへかやうに御違ひ候ふ。ましていはんやわれら式のものは違ひたるべきあひだ、一大事と存じつつしめよとの御ことに候ふ。いま思し召しあはせられ候ふよし 仰せられ候ふなり。また「よし・わろし」とあそばされ候ふこと、わろしとばかりあそばし候へば、先代の御ことにて候へばと思し召し、かやうにあそばされ候ふことに候ふと仰せられ候ふ。また前々住上人(蓮如)の御時、あまた昵近のかたがた違ひまうすこと候ふ。いよいよ一大事の仏法のことをば、心をとどめて細々人に問ひ心得まうすべきのよし仰せられ候ふ。



A。

最初にお願いですが、清森さんと同じく私へのご質問もなるべくメールでください。
(特に意味はないですけどねw)

私も蓮如上人が、阿弥陀仏の絵像・木像を焼いていないと思います。

詳しくは、以下の無断転載論文を御覧ください。
 ↓
真宗の本尊について

超詳細かつ明晰で、私の解説より一億倍勉強になると思います。
というか、親●会でこの論文を読んだことのある人っているんでしょうかね~?
スポンサーサイト

Q&A(23)親●会のコラージュ本尊をどう思うか?

Q。(真偽検証さんの質問)
ご存知のように、親鸞会の本尊は南無阿弥陀仏の左に「親鸞」と合成複写してあります。これは改邪鈔本の【七・本尊聖教に知識と号する者の名を記すまじき事】に反するように思います。しかし、親鸞会では
・改邪鈔のお言葉は悪知識について言われたもの(つまり親鸞会には当たらないというのでしょう)
・親鸞聖人ご真筆の名号ということで「親鸞」と載せているだけ
だといいます。

そこで上の改邪鈔の意味と、この件に関する苦笑さんの見解を教えて頂ければと思います。既に示されている所がありましたらリンク先を教えて下さい。よろしくお願いします。


一 本尊ならびに聖教の外題のしたに、願主の名字をさしおきて、知識と号 するやからの名字をのせおく、しかるべからざる事。
 この条、おなじく前段の篇目にあひおなじきものか。大師聖人(親鸞)の御自筆をもつて諸人に書き与へわたしまします聖教をみたてまつるに、みな願主の名をあそばされたり。いまの新義のごとくならば、もつとも聖人の御名をのせらるべきか。しかるにその義なきうへは、これまた非義たるべし。これを案ずるに、知識の所存に同行あひそむかんとき、「わが名字をのせたれば」とて、せめかへさん料のはかりごとか。世間の財宝を沙汰するに似たり。もつとも停止すべし。
(『改邪鈔』)




A。
コラージュ本尊そのものより、
コラージュ本尊を作ろうとする心根が問題やと思いますな(苦笑)。


このようなコラージュ本尊を作ってしまう根底には、

「親●聖人のお名前をコラージュして付加価値を付ける」

ちゅう思考回路があって、

そういう考えでもって、本尊を見ているちゅうのが、
一番大きな問題やと思いますな(苦笑)。



阿弥陀仏がお作りになられた「南無阿弥陀仏」を、
受け取るか受け取らないかで、我々の後生が確定するっちゅうのが、
浄土真宗の御法義であり、

その「南無阿弥陀仏」に、
我々が常に親しみ近づくことができるように、
具体化されたものが「南無阿弥陀仏」の名号本尊なわけですわ。

せやから、そこに何かでもって付加価値を付けようとするような、
「南無阿弥陀仏」がわかってないくせに、金儲けに長けた、
インチキ宗教ビジネス野郎の発想に踊らされてはあきません。


※参考

やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命
やさしい浄土真宗の教え §10 南無阿弥陀仏(2) 勅命にしたがひて召しにかなふ


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因

(再掲載)Q&A(10)ネット対策員にどう対処するか?

腐海の蟲への制裁処置につき再掲載(笑)。



Q。
某巨大掲示板に、苦笑さんを名指しで批判する書き込みがされていますが、
苦笑さんはご覧になられましたでしょうか?

親●会の教義や反社会的行為を取り上げる掲示板に、
そのような書き込みをするのは不適切であると思いますが、
繰り返し書き込みがされるので非常に迷惑しております。

そのようなネット対策員に、どのように対処したら良いか?
何かよいアイデアがあればアドバイスよろしくお願いします。



A。
全く迷惑な話ですよね(苦笑)。

私に意見があるなら、このブログのコメント覧やメールで、
直接私に言ってくればいいのに、沢山の方が利用する掲示板に書き込みするのは、
全く、自己中で非常識で迷惑千万な話だと思いますよ(苦笑)。

そのような輩は基本的に「シカト」するのが一番だと思いますが、
放置しておくと、また勝手に勝利宣言して超ウザイので、
話題にしてほしくないであろう、過去の失態を晒し者にして、
黙らせるのも有効かと思います。

教義上の話をしても、どうせまたぐちゃぐちゃ言ってきますので、
彼の書き込みが、高●先生のパクリ損ないを暴くことになってしまった、
親●会のネット対策員として蒸し返してほしくないような以下の話題を、
もう一回蒸し返してあげちゃうってのが、有効なんじゃないかと思います。
 ↓
とりあえず、これは読んでおいてね!!
ちび●さんのおかげでわかりました!!五願開示もパクってた?!

私のブログでも再掲載しておきましたので、
またぐちゃぐちゃウザかったら、蒸し返して黙らせてください。

(再掲載)Q&A(9)これが「伝統と己証」と言えるのでしょうか?

腐海の蟲への制裁処置につき再掲載(笑)。

Q。
いつもお世話になっております。
先日の「異安心」を認定する際のガイドラインをお示し頂きましたが、同じ日に、以下のような記事を拝見しました。

伝統と己証
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/27193249.html

_______________________________________
親鸞聖人は、伝統的に「念仏往生の願」と言われていた阿弥陀仏の王本願である十八願を

「本願三心の願」「至心信楽の願」「往相信心の願」と言われて

死後の浄土往生を十一願に配当し、

「十八願は、『信心を与える』というお約束である」と仏意を明らかにされた。

これが親鸞聖人の御己証、教行信証の五願開示の真髄である。

伝統的解釈の真意を開き、表されたから一願該摂と五願開示は開合の関係であり

伝統と親鸞聖人の御己証には全く違いはない。

「親鸞、私無し」の常の仰せのとおり。



若不生者のちかひゆゑ (わがちかいをしんぜんもの、もしうまれずは、ほとけにならじと
            ちかいたまえるなり)

信楽まことにときいたり(ねがう。こんごうのしんじんなり。このたりきこんごうのしんじんさだまる
            とき、あみだ仏のおんこころにかなうとしるべし。)

一念慶喜するひとは(しんをえてのちよろこぶとなり。)

往生かならずさだまりぬ


「若不生者」等の左訓「もしうまれずば」というは、第十八の願一願にかぎる。

余の願は「若不爾者」「若不如是者」等とあり。

「生者」とは十八の一願のみなり。

「不生者」、これ極楽に生まれずばというにはあらず、

もし信心が生ぜずばと誓いたもうことなり、故に左訓も云々。

そのちかいゆえに信楽のときいたり一念慶喜のありさまとなるなり。(相伝義書浄土和讃分科)
_______________________________________

このように、例えば『相伝義書浄土和讃分科』に基づいた見解を、
「伝統と己証」と言うことは可能なのでしょうか?



A。
だめですね(苦笑)。
「いつからの伝統やねん!」「だれの己証やねん!」と言ってやりたくなります(苦笑)。

繰り返しますが、正しい「安心」の基準となるテキストは以下の通りです。
 ↓ ↓ ↓
b)正しい「安心」の基準となるテキスト

「異安心」であることを認定するためには、
正しい「安心」がいかなるものであるかを知らなければなりません。
これらの資料が浄土真宗における正しい「信心」の判定基準になりますので、
必ず用意しましょう。

ただしこのテキストは、a)の立ち位置に応じて、
以下のように使い分けられます。

(b-1)浄土真宗内で、異安心を論じる場合は、
   「浄土三部経・七高祖・親鸞聖人」までを基準にする。
(b-2)東西本願寺派における覚如上人・蓮如上人、高田派における真慧上人など、
   浄土真宗でも、特定の派にのみ権威を認められている文献は、
   判定基準としては、参照程度の扱いであり、(b-1)に抵触しない場合のみ、
   参照することができる。
(b-3)親鸞聖人を宗祖と仰ぐ「浄土真宗」以外の、
   法然上人を宗祖と仰ぐ浄土門の教義を判定する際は、
  「浄土三部経・善導大師・法然上人」を基準とする。
    cf. 法然上人の「偏依善導一師」の立場に関しては『選択集』16章参照
 ↑ ↑ ↑


『相伝義書浄土和讃分科』を基準に、
「伝統」とか「己証」とか言えちゃうって言うなら、
自分の都合の良い資料をどっかから持ってきたりして、
結局なんでもありになっちゃいますよ(苦笑)。

というかこの方は、
自分の脳内にある「ドグマ」に都合のいい資料なら、
今まで批判していた団体の資料でも「伝統」とか「己証」で、
「ドグマ」に都合の悪い資料は、例えば存覚上人のお書きになられたものでも、
「これは違う!」と言い出す人ですから、
あんまり言うことを真剣に考える必要はないと思いますよ~。

以下の記事を最低十回ぐらい熟読するようにお伝えください。
 ↓
やさしい浄土真宗の教え §12 「異安心」(1)「異安心」を認定する際のガイドライン

Q&A(22)「衆生」の意味と親●会ドグマの関係

Q。
苦笑さん、質問お願いします。
親○会さんドグマの『一切衆生必墮無間』ですが、
『衆生』の仏教での本来の意味は『生きとし生けるものすべて』ですから、
『一切衆生必墮無間』はおかしいのではないでしょうか?

この言葉どおりなら『六道』や『極楽浄土』は存在せず、
『無間地獄』だけの世界観になってしまうと思います。
もし、これからも親○会さんがこのドグマにこだわるなら、
今後は『一切凡夫必墮無間』または『一切人間必墮無間』がまだ意味が通ずると思います。

そうじゃないと親○会ドグマだけでは、
『無間地獄』だけの世界観になって、
『六道』や『極楽浄土』は存在せず、
浄土真宗どころか仏教でもない高森○徹教になってしまうと思います。
苦笑いさんはどのように考察されますか?


A。
まず衆生(Skt. sattva, Pali. satta )の基本的な意味ですが、

●衆生(satta)と言われるのは、なぜ衆生と言われるのか?
色(受・想・行・識)において、欲望があり、貪りがあり、喜びがあり、渇愛があり、執著し、とらわれているが故に、衆生と言われる。
(SN. XXIII-2)

と釈尊が定義されているように、

物質(色)・感受作用(受)・表象作用(想)・意志・形成作用(行)・認識作用(識)の「五蘊」に対して、
「欲望があり、貪りがあり、喜びがあり、渇愛があり、執著し、とらわれている」存在は全て「衆生」ですので、
「人間」のみならず、「六道」全ての生物が「衆生」の範疇に入ります。
(インドでは「植物」は「衆生」の範疇に含まれません。)

この「衆生」には、「凡夫」(プリタック・ジャナ、輪廻するもの)のみならず、「菩薩」も含まれることになります。

「菩薩」(Skt. bodhi-sattva, Pali. bodhi-satta )という名称は、
後に、覚りを求めて修行し最終的に成仏を目指す人を「菩薩」と呼ぶようになりましたが、
元々は覚って仏になる前の釈尊に対する名称で、「覚りを獲得する衆生」の意味です。

したがって、「覚って仏になる前の釈尊」=「覚りを獲得する衆生」=「菩薩」も、
もちろん「衆生」の範疇なわけですから、
「一切衆生必墮無間」という親●会ドグマでは、
この「覚って仏になる前の釈尊」=「覚りを獲得する衆生」=「菩薩」も、
当然「必墮無間」ということになってしまいます。

仏教のことを何も知らない人物が捏造した、
呆れるほどとんでもない、ヘンテコドグマですね(苦笑)。

Q&A(21)人間界<修羅界<畜生界<地獄界と衆生の数が増えるのか?

Q。
親●会理論で、

人間界<<<修羅界<<<畜生界<<<地獄界

という風に衆生の数が増えると聞きますが、
これに関してお釈迦様はどのように言われているのでしょうか?


A。
その「親●会理論」が、何に基づく説か存じませんが、
『涅槃経』に基づく以下ものであれば、既にツッコミが入っております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
教学聖典(2)

問(1)地獄へ堕つる者は多く、人間に生まれる者は極めて少ないことを教えられた経文と根拠を示せ。

答(1)

○地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
 人間に生れる者は爪の上の土の如し
 (涅槃経)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


※高森先生の親鸞会教学を検証する 「高森先生ほどの方が、涅槃経を読まれたことがなかったのでしょうか」 
※苦笑の独り言 『涅槃経』なんて読んでるわけないじゃん(苦笑)。

~~以下引用~~

(涅槃経巻第三十三・迦葉菩薩品第十二の一)

爾の時に世尊、地の少土を取りて之を爪上に置き、迦葉に告げて言はく、
「是の土多きや、十方世界の地の土多きや。」
迦葉菩薩、佛に白して言さく、
「世尊、爪上の土は十方の所有の土に比せざるなり。」
「善男子、人の身を捨てて還て人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くるを得、
諸根完具して中國に生れ、正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已りて能く解脱を得、
解脱を得已りて能く涅槃に入る有るは、爪上の土の如く、
人身を捨て已りて三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、
諸根具せず、辺地に生じ、邪倒の見を信じ、邪道を修習し、解脱、常・楽・涅槃を得ざるは、
十方界の所有の地土の如し。
善男子、禁戒を護持して精勤して惰らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧祇物を用ひず、
一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは、爪上の土の如し。
毀戒懈怠、四重禁を犯し、五逆罪作り、僧祇物を用ひ、一闡提と作り、諸の善根を断じ、
是の経を信ぜざるは、十方界の所有の地土の如し。
善男子、如来は善く衆生の是の如き上・中・下根を知りたまふ。
是の故に佛は知根力を具すと称す。」

(口語訳)

その時に釈尊が大地の少しの砂を取って、これを爪の上に置いて、迦葉菩薩に告げて、
「この土が多いか、十方世界の地の土が多いか」と言った。
迦葉菩薩は釈尊に「世尊よ、爪の上の土の少なさは十方にある土の多さに比べられません」と申し上げた。
「善男子よ、人が死んだ後、再び人身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、人身を受けることを得て、
もろもろの感覚器官が完全に具わって、仏法の中心地に生まれ、正しい信心を具足して、
道を習得し、道を習得しおわって、なかでも正しい道を修行し、正しい道を修行しおわって解脱を得て、
解脱を得おわって涅槃に入ることは爪上の土のように少ないのである。
人が死んで後、三悪道の身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、再び三悪道の身を得て、
もろもろの感覚器官が具わらず、仏法の中心地から遠い辺地に生まれ、邪(よこしま)で傾倒した思想を信じ、
邪な道を修得し、解脱を得ず常楽の涅槃を得ないことは十方世界にある地上の土のように多いのである。
善男子よ、戒律を護り、精進し、四重の罪を犯さず、五逆罪を犯さず、教団に属する財物・物資を勝手に使わず、
闡提とならず、善根を断たずに、経典を信じる者は、爪の上の土のようなものである。
懈怠であり、四重の罪を犯し、五逆罪を犯し、教団の財物を用い、闡提となり、善根を断じて、
経典を信じない者は、十方世界の土のようなものである。
善男子よ、如来はよく衆生にこのように上・中・下があることを知っている。
だからこそ仏は知根力を具えていると言うのだ」

~~以上引用~~

●解脱を得おわって涅槃に入る→爪上の土のように少ない
○解脱を得ず常楽の涅槃を得ない→十方世界にある地上の土のように多い

●戒律を護り、精進し、四重の罪を犯さず、五逆罪を犯さず、教団に属する財物・物資を勝手に使わず、闡提とならず、善根を断たずに、経典を信じる者→爪上の土のように少ない
○懈怠であり、四重の罪を犯し、五逆罪を犯し、教団の財物を用い、闡提となり、善根を断じて、経典を信じない者→十方世界の土のように多い

ということは「釈尊の言葉」と言えますが、
親●会の教えのように、

・地獄に堕ちる者→十方世界の土のように多い
・人間に生れる者→爪の上の土のように少ない

を「釈尊の言葉」と言うことはできません(苦笑)。



一応、元・浄土真宗親●会西学友部関西ブロック所属学友部員君が挙げてくれてた、
『往生要集』の記述に基づいて、

●ゆゑに『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、
「人趣に生るるものは爪の上の土のごとし。 三途に堕つるものは十方の土のごとし」と。
(『往生要集 巻上』)

「源信僧都が受け取った釈尊の教え」として、

 人間界<<<三途(地獄+餓鬼+畜生)

ということは可能ですが、これにしても親●会の教えとは異なりますね。
親●会は、どちらの『涅槃経』に基づいて教えを説いているんでしょうかね(苦笑)。



まあ、「一切衆生必墮無間」が親●会ドグマであり、

★時間の経過とともに「地獄」の衆生の人数のみ増加する!!

というのが、親●会における当然の論理的帰結でござりますから、
「地獄」の衆生の人数が、他に比べて圧倒的に多くなきゃ困るんですよ。

親●会ではね(苦笑)。

Q&A(20)「回向」について、通仏教的な意味を教えてください。

Q。
「回向」について、通仏教的な意味を教えてください。


A。
「回向」(「廻向」)を理解するには、「業の理論」からお話する必要があります。

業の理論は、「善因楽果・悪因苦果」と「自業自得」という原則で成り立っていますが、
善因から楽果が生じ、悪因から苦果が生じるまでには、ある時間が介在します。

「盗みをして速攻で逮捕されてしまった」というように、
この介在する時間は、一瞬後かもしれないし、
あるいは時間がとても長く介在して、業の結果が及ぼされるのが現世ではなくて、
来世かもしれないし、次の次の生涯かもしれません。
そして前世やあるいはもっと前からの業の影響が現世に及んだ場合もあり、
その場合は「宿業」と言われます。


この善因が楽果に、悪因が苦果に、異熟して結果を出すまでのあいだ、
善因・悪因ともに、影響力を残します。

善因、すなわち善業(善い行為)が後に残す影響力を、プンニャ(功徳・福徳)といいます。
悪因、わなわち悪業(悪い行為)が後に残す影響力を、パーパ(罪)といいます。

善因=善業 → 功徳・福徳(時間の介在) ⇒ (異熟) ⇒ 楽果
悪因=悪業 → 罪    (時間の介在) ⇒ (異熟) ⇒ 苦果


「善因楽果・悪因苦果」と「自業自得」という業の原則は絶対ですから、
例外はないのですが、 仏教においては「これを超越できる」としています。

それが「廻向」です。

仏教においては、悪業をやっての「罪」は、廻し向けることはできません。
他人に自分の罪をもらってくれということはできないんですが、
功徳の方は、他人に向けることができます。

それを「廻向」と言います。

この「廻向」という考え方は、先祖供養という形で、
『増支部』「ジャーヌッソーニ章」(アングッタラニカーヤ、V269)にも存在しますから、
なにも大乗仏教に限らず存在した考え方です。
(藤本晃『功徳はなぜ廻向できるの?』国書刊行会参照)

ちなみに、阿弥陀仏の本願力は、阿弥陀仏から衆生に対する「廻向」なわけですが、
「廻向」を、この「他力廻向」だけに限定するのは浄土真宗だけに限定された文化です。

これをまず押さえておく必要があるでしょう。

Q&A(19)「悪人正機」は「全人類が五逆罪法謗罪」だからなのか?

Q。
苦笑さん

こんにちは。親鸞聖人が悪人正機といわれたことについて、私は以下のように理解していますが、間違っているでしょうか?


悪人といっても、仏様の眼で見られているものなので、無間業を作ったもの、十悪をつくったもの、仏様から見られたら偽善だけれども仏道修行をしているもの、と様々ある。

阿弥陀仏は、あくまで真実の修善が出来ない人を救うために誓われているのであって、全人類が極悪人だなんて決めつけられていない。

親鸞聖人も、全人類が五逆罪法謗罪のものなんて言われていない。


このように理解していますが、間違っているでしょうか?



親●会のある人からは、そんな解釈をしている善知識は誰もいないと言われました。

よろしくお願いします。



A。
はい。その解釈でOKです。

以前、教学講議にツッコミいれた時にも述べましたが、

●仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
 ゆゑに光明師(善導)のいはく(般舟讃)、「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」と。
『教行信証』信巻

「衆生の機」が「不同」であるために、「仏教多門にして八万四」であることは、
善導大師が仰っておられることで、親鸞聖人もそれを引用されています。


それに、これは以前清森さんが仰っておられたことですが、
「全人類が五逆罪法謗罪」だとしたら、

●善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。『親鸞聖人御消息』

という言葉に基づいて、無人島で暮らさなアカンようになってしまいますよ(苦笑)。

※清森問答質疑応答143


『歎異抄』の三章の文章は、
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」だけを読んで、
脳内のドグマに基づいた勝手な解釈してはいけません。

この後に続く文を読めば、
 ↓
______________________________________
 自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたる間、弥陀の本願にあらず。
 しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、
 真実報土の往生をとぐるなり。

 煩悩具足の我らは、いずれの行にても生死を離るることあるべからざるを、
 あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、
 他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。

 よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候ひき。
______________________________________


1)善人=自力作善の人=他力をたのむこころの欠けたる善人
2)悪人=煩悩具足で、いずれの行にも及ばない「我ら」=他力をたのみたてまつる悪人

ということであり、

1)「善人」とは、阿弥陀仏の救いに身を任せずに、自分の力で善を積んで往生しようとしている、 自力作善の人という意味の「善人」のこと。

2)「悪人」とは、煩悩具足であり自分の力では輪廻を離れることができないと自覚し、
阿弥陀仏の本願力をたのむことしかないと自覚した「悪人」のこと。

という意味で定義されていて、

阿弥陀仏の本願を頼むかどうかで「善人」「悪人」が定義されてはおりますが、
「全人類が五逆罪法謗罪」である必要は全くありません(苦笑)。



「そんな解釈をしている善知識は誰もいない」などと言ってる野郎に、
今度会った時に、以上のことをレクチャーしてあげてください。

Q&A(18)親●会は「諸行往生」にも値しません。

Q。
いつもお世話になっています。

>私に言わせれば、
>親●会教義は「諸行往生」でないのはもちろん、
>「善の勧め」でもなんでもない、
>カルト悪徳宗教ビジネス以外の何ものでもありませんけど(苦笑)。

と苦笑さんはコメントされていましたが、
親●会が「諸行往生」にも値しない理由を解説頂けないでしょうか?


A。
ご存じの通り、「諸行往生」は阿弥陀仏の第十九願に基づくものです。

●『大経』(上)の願(第十九願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、わが国に生ぜんと欲はん。寿終のときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」と。
(『教行信証』化身土巻所説の『無量寿経』十九願引用)

上記の文をご覧頂けば明かなように、

1)菩提心を発し
2)もろもろの功徳を修し
3)心を至し発願して
4)わが国に生ぜんと欲はん

上記の条件を満たした「十方の衆生」が、「寿終のとき」に阿弥陀仏の来迎によって、
「寿終のとき」に極楽浄土への往生が確定するのが、「諸行往生」です。

したがって、上記1)~4)を満たしてなければ、
「諸行往生」することはできません。

1)菩提心を発し
  ↓
「菩提心」とは、基本的に「覚りを求める心」ですが、
「仏教の目的は信心決定」と教えされている親●会会員の皆様は、
「覚りを求める心」を起こして、
「成仏したい!」と思ったことあるんでしょうか?

ぶっちゃけ、「信心決定したい!」だけで、
「成仏したい」なんて思ってないでしょ?(苦笑)

2)もろもろの功徳を修し
  ↓
親●会得意の「宿善ポイントシステム」が、
「もろもろの功徳を修し」に該当してるんでしょうかね~(苦笑)。

清森さんがこんなこと言ってはりましたよ(苦笑)。
 ↓
~~質疑応答17~~

どんなに頑張っても「間違った心がけ」じゃ、
「宿善ポイント」すらたまりまへん(苦笑)。

3)心を至し発願して
4)わが国に生ぜんと欲はん
  ↓
これは素朴な疑問なんやけど、
親●会の人って「極楽浄土へ往生したい!」って思ってます?

どんだけ「信心決定したい!」と思っても、
この条件を満たすことはできません。

本気で「諸行往生」したいなら、
「極楽浄土へ往生したい!」と思わないとダメなんですよ(苦笑)。


以上で、親●会が「諸行往生」にも値しないのが、
十二分におわかり頂けたと思います。

Q&A(17)財施の解説をお願いします。(その3)「餓死事件」が起きるような「財施」を勧める野郎は「本願の宮仕い」じゃね~んだよ!!

つづき~。

これまでの解答

  Q&A(15)財施の解説をお願いします。(その1)「三輪清浄」
  Q&A(16)財施の解説をお願いします。(その2)宿善ポイントを貯めるために財施を勧める野郎は要注意!!
  

A。(その3)

最後に、浄土真宗において「財施」がどのように位置づけられ、
どのように教えられるべきであるかを、
親鸞聖人のお師匠様である法然上人からレクチャー頂こうと思います。
  ↓ ↓ ↓
 極楽を願い、念仏を申さん人をば、
 塵刹の外なりとも、父母の慈悲に、おとらず思し食(め)すべきなり。
 今生の財宝ともしからん人をば、力をくわえさせ給うべし。
 もし少しも、念仏に心をかけ候はん人をば、いよいよ御すすめ候うべし。
 これも彌陀如来の、本願の宮仕い(みやづかい)と思し食し候ふべし。
『勅伝』巻二十五、「鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事」

(訳)
 極楽に生まれたいと願ってお念仏を申す人に対しては、
 たとえ遠い外国の人であろうとも、父母の慈悲にもおとらないほど、
 いとおしく思わなくてならない。
 また、今現在貧しくて困っている人がいたならば、
 力をかしてあげるべきである。

 もしも少しでも念仏を申そうとする人がいたならば、
 いっそう念仏を申すように勧めるべきである。
 これも阿弥陀如来の本願に対する宮仕えと思わなくてはならない。


これは、法然上人が「鎌倉の二位の禅尼」=北条政子(源頼朝の奥さん)
に送った手紙の一節なんやけど、浄土真宗における「財施」は、
こういう気持ちでの「財施」じゃなきゃアカンと思います。

せやから、

~~心よりお悔やみ申し上げます。より~~

>・激しい募財活動のため、餓死した母子
 
これも今から14年程前、京都の会員さんですね。
母子家庭で娘さんは障害があったと聞いています。
アニメ頒布の報奨金を当てにして、担当講師から無理やり莫大なご報謝を予約させられた、と聞いています。

~~心よりお悔やみ申し上げます。より~~
 ↑
このような方にも、「財施」はせなアカンと思うし、

「餓死事件」が起きるような「財施」の勧めなんて、言語道断ですわね。
 ↓
苦笑できません。。参照


機会があれば、私のレクチャーに基づいて、

★「餓死事件」が起きるような「財施」を勧める野郎は、
 「本願の宮仕い」じゃね~んだよ!!

と、件の野郎どもに言ってやってください。


以上です。

Q&A(16)財施の解説をお願いします。(その2)宿善ポイントを貯めるために財施を勧める野郎は要注意!!

つづき~。

 その1 Q&A(15)財施の解説をお願いします。(その1)「三輪清浄」


A。(その2)
次に、このブログで何度も申し上げているように、

浄土真宗は、宿善ポイントをためないと救われない教えではありませ~ん!!

これはOKですよね?


したがって浄土真宗において、

★宿善ポイントを貯めるための財施を勧める!

なんてことは、絶対にあってはいけないわけですわ(苦笑)。

これに関しては、前に紹介した『歎異抄』や『御文章』の言葉を見ても明かですわね。
 ↓ ↓ ↓
~~§8 なかなか信心獲得できない人のために・・ 注5より~~

 『歎異抄』第18章には、施入物の大小を云々することが誤りであり、宝物を仏前になげたり、師匠にものを施したりすることによって救いが決まることはないということが述べられている。

一 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。
まづ、仏に大小の分量を定めんこと、あるべからず候ふか。かの安養浄土の教主(阿弥陀仏)の御身量を説かれて候ふも、それは方便報身のかたちなり。法性のさとりをひらいて、長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒のいろをもはなれなば、なにをもつてか大小を定むべきや。念仏申すに、化仏をみたてまつるといふことの候ふなるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」(大集経・意)といへるが、もしこのことわりなんどにばし、ひきかけられ候ふやらん。
かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。


また、蓮如上人も、財施によって救いがあるかのように教えることの間違いを指摘しておられる。

●これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。
『御文章』1帖11通

~~§8 なかなか信心獲得できない人のために・・ 注5より~~

まあ、これらの「浄土真宗の教え」に反することを教えているような、
自称「浄土真宗の善知識」や自称「浄土真宗の団体」は、
「浄土真宗の善知識」でも「浄土真宗の団体」でもなんでもない、
「なんちゃって善知識」「インチキ浄土真宗団体」ですから、

そんなもんが、「福田」としての機能を持たないのは、明かですわね(苦笑)。


★宿善ポイントを貯めるために財施を勧める野郎は要注意!!
 ↑
これ超大事ですよ!!

つづく

Q&A(15)財施の解説をお願いします。(その1)「三輪清浄」

Q。
いつもお世話になります。
以前、壁画の財施に参加しなかった人に対して、
教学講義の受講資格を失う、と脅されたことがありました。
現在はF館の財施について、親●会では推進されています。

本来の財施について教えてください。

親●会では、財施について以下のように教えています。
まず、財施をする相手としていわれるのが、三田です。
三田とは、
・敬田
・恩田
・悲田
です。
これらの人に対しての財施は、功徳があるというのです。

財施の心構えとして、三輪空といわれます。
三輪空とは、
・私が
・誰誰に
・何々を
この三つを忘れなさいといいます。

また、人それぞれ精一杯の財施をしなさい、と勧めます。
財施は、したくない私たちに善をさせるための勝縁であると親●会ではいいます。

カルダイ尊者と欲深ばあさんの話を通して、私たちに精一杯の財施をしなければならないと教えています。

だから、親●会で勧める募財にはすべて参加して当然というのです。
これが親●会の教える財施です。

そもそも会長や親●会が三田にあたるかどうかも大いなる疑問です。
また財施は喜捨といわれますが、親●会では喜捨になっていません。
度重なる訳の分からない”勝縁”に無理やり参加を迫ります。
だから悲捨、怒捨になる場合も多いです。

仏教で教えられる財施とはどういうものでしょうか。


A。(その1)
まず「布施」をする際の基本的な心構えである、「三輪清浄」から説明します。

「三輪清浄」は以下のような心構えです。

※以前、ちょっと残念な人にレクチャーしたものを転載します。
 ↓ ↓ ↓
●『大乘本生心地觀經』「三輪清浄偈」(T. vol.3 p296b)
 能施所施及施物  能施と所施及び施物は
 於三世中無所得  三世の中において無所得なり
 我等安住最勝心  我等、最勝心に安住して
 供養一切十方佛  一切の十方の仏を供養したてまつる

(訳)
 与える者(能施)・与えられる者(所施)・与えられる物」(施物)は、
 過去・現在・未来の三世を通して、
 とらわれのないもの(無所得=空)である。
 私達は、このような最も優れた心に達しながら、
 ありとあらゆる十方の諸仏を供養したてまつる。


このように、

 ●与える者(能施)
 ●与えられる者(所施)
 ●与えられる物(施物)

これらが、「とらわれのないもの(無所得=空)」
という思いじゃなきゃだめなんです。

だから、布施をする時に、布施をする人の心の中に、
「こんないいものをあげる」とか「こんなにしてあげる」とかいう、
施物とか、行為に対する執着が取れない状態で布施をしても、
布施をしたことになりません。

まして、布施を受けた側が、心の中が施物に対する執着で汚れた状態で、
布施を受けたら、布施を受けたことにならないのは当然ですわね(苦笑)。

それに、施物が不正な手段で手に入れた物である場合も、
布施が成立しません。

せやから、

「マネーロンダリング(資金洗浄)」と「三輪清浄」は違います(苦笑)。
「欲にまみれた金」という気持ちでの布施は「三輪清浄」になりません(苦笑)。

ということになるわけですわね(苦笑)。

というか、「財施」に関して、蓮如上人と違う認識をしている、
自称「浄土真宗の善知識」が、「福田」としての機能を持つかどうか、
甚だ疑問ですけどね(苦笑)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私は今はちょっとなまくら(怠け)しておりますが、昔は何か人から頂くと、葉書を送っていました。

その葉書の最後に、有難く思います、有難く存じます、と書いていました。

これはハッキリ申しますと、あなたみたいな欲深い、出すのはイヤ、出すのは主人を刑務所から出すのも嫌というぐらい欲深いあなたが、私にこんなものを下さるなんて、有難いことだ、という意味で書いてたんですね。

葉書を受け取られた方が、どう思われていたかわかりませんが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ↑
スタンスが違い過ぎでしょ?(苦笑)
  ↓

●『蓮如上人御一代記聞書』(297)
一 前々住上人(蓮如)は御門徒の進上物をば、御衣のしたにて御拝み候ふ。また仏の物と思し召し候へば、御自身の召し物までも、御足にあたり候へば、御いただき候ふ。御門徒の進上物、すなはち聖人(親鸞)よりの御あたへと思し召し候ふと仰せられ候ふと[云々]。

(訳)
蓮如上人は、ご門徒からの進物をお衣の下で手を合わせて拝まれた。
また、頂いた進物は全て仏様から頂いた物と思っておられたので、
ご自身がお召しになったお着物までも、万一踏みつけてしまわないように押し戴かれた。
「ご門徒からの進上の物は、そのまま親鸞聖人がお与えくださったものと思われる」
と仰せになられたのことである。


つづく

Q&A(15)なぜ親●会は『法蔵館』の『浄土真宗聖典』を使うのか?

更に質問を頂いたので、解答しました~。
 ↓ ↓ ↓

Q。
有難うございます。

質問した者です。丁寧な解説有難うございました。苦笑いさんのお墨付きを頂けたので、さらに自信がつきました。ちなみに、まだ読まれてない方は『本願寺出版社』の『浄土真宗聖典‐注釈版 第二版‐』は、ジュンク堂やブックファースト等の大型書店で売ってあるので、立ち読みでもいいので『法蔵館』の『真宗聖典』と読み比べてみて下さい。読みやすさ、分かりやすさがハッキリすると思います。苦笑いさん、もう一つ質問よろしいでしょうか?親鸞会が『法蔵館』のにこだわるのは、メンツもあると思いますが、『本願寺出版社』のは読みやすいので、自分で勉強してしまって、自分の頭で思考する、または教義の矛盾を知られるのが恐ろしいのではないでしょうか?苦笑いさんはどう思われますか?


A。
いや~。
私の「お墨付き」なんて、何の権威もありませんよ(笑)。

ご質問の件ですが、ご指摘の、

 ★読みやすく自分で勉強しやすいので、自分で思考し教義の矛盾がバレないように。

という要素も、ひょっとするとあるのかもしれませんが、

私はもっと単純に、

 ★高●先生が、使っているのが、法●館のだから。

という理由だけだと思いますよ(苦笑)。


そんでもって、

 ★高●先生が教学講議や法話で使う場所は、いつも決まっているから、
  改めて勉強する必要なし!
    ↓
 ★だから、もっと読みやすいものが出ても切り替える必要がないので、
  高●先生はず~っと法●館のを使い続ける。
    ↓
 ★高●先生にしたがって、親●会もず~っと法●館のを使い続ける。

ということになるんだと思います(苦笑)。

どうです?わかりやすいでしょ?(笑)

Q&A(14)『法蔵館』の『浄土真宗聖典』はどうよ?

元会員さんの質問にお答えしま~す。

Q。
質問お願いします。

聖教を読むについてですが、親鸞会では『法蔵館』の『浄土真宗聖典』を用いられていますが、私は断然『本願寺出版社』の『浄土真宗聖典‐注釈版 第二版‐』の方が読みやすくて優れていると思います。私は親鸞会をやめた後、読み比べて驚きました。苦笑いさんはどう思われますか?


A。
私も断然、本願寺出版社の『浄土真宗聖典‐注釈版 第二版』です。
というか、法蔵館のヤツを持ってません(笑)。

お勧めポイントは沢山ありますが、

1)最新の書籍で、テキストの校訂がしっかりしている。

2)詳細な注釈が備わっており、辞書をほとんど使わないで読むことができる。

3)祖師方が経典を引用している場合、しっかり典拠を調査しているので、
 本当は『般舟三昧経』に書いてないものを、「般舟三昧経には~」と喋って、
 赤っ恥をかく心配がなくなる。

 ※『涅槃経』なんて読んでるわけないじゃん(苦笑)。 参照

4)『浄土真宗聖典』オンライン検索に対応しているので、
 祖師方の言葉を簡単に検索できるので、速攻で用例を調べることができる。
 断章取義野郎も秒殺できちゃう。

 ※『浄土真宗聖典』オンライン検索 参照

これらの、素晴らしいメリットがあります。はい。



一方、法●館のヤツを使うメリットは、

あ)高●先生が使っているから、親●会員もほとんどの人が持っている。

い)元親●会講師の人は、使いなれた法●館のヤツを使って話をするので、
 その話を聞く時に便利である。

う)高●先生の御法話&教学講議で挙げられた言葉の部分に線が引いてあるから、
 持ってるだけで、なんか勉強しているような気になれる。

ということぐらいなのかなと思いますね(苦笑)。



私の所に話を聞きに来る方には、
元講師の方にでも元一般会員の方にでも、
使いなれた法●館のヤツではなく、
本願寺出版社のヤツを使うように激しくお勧めしております。

これは上記1)~4)の理由もあるんですが、
それ以上に、高●先生の御法話&教学講議で線を引いた部分しか読ま(め)ず、
無意識に資料を断章取義して、
バイアスのかかった思考をする「クセ」がついてますので、
まずは、それをやめて頂くことからスタートする必要があるんですよ。


あと、「お!」と思った箇所には、
付せんをペタペタ貼る勉強法をお勧めしております。

むやみやたらに線を引くと、
断章取義&バイアス思考の原因になっちゃいますので、
やめた方がええと思います。

「お!」と思った箇所も、前後もちゃんと読んで、
コンテキストを理解した上で理解せなあきませんからね。



やっぱし、親●会思考から完全に脱却するには、
親●会の手垢のついたテキストや、勉強方から脱却するのが、
すっごい近道やと思いますね~。

Q&A(13)結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教えるのは間違いなのか?

Q。
結局、「三願転入」を「全人類」に当てはめて教える、
親●会は間違いということでしょうか?


A。
「三願転入」は、あくまでも親鸞聖人における「個人の体験」ですので、
「教え」として「全員がやらなきゃダメ!」というのは、間違いですね。

ただし、

「過去世の善行の結果として、現在人間とし生まれ、
更には、仏法に出会え、阿弥陀仏の本願にも出会えた!」

という意味で、過去世も含めて「全員がそういう道を通ってきた」
というのは言ってもOKだと思います。(注1)

でも、既に阿弥陀仏の本願に出会っている人に対して、
「宿善ポイントをためないと阿弥陀仏の本願に出会えない!」とか、
「宿善ポイントをためないと阿弥陀仏の本願を信じることはできない!」
みたいなことを言うのはおかしいですね。

私達が、宿善ポイントを貯めるようなことができないことをご存じで、
阿弥陀仏は本願をお立てになられて、釈尊が教えを説いているわけであり、
だからこそ、阿弥陀仏の本願のままにお念仏申す人になることが、
勧められているわけですからね。(注2)

【まとめ】
 1、「三願転入」を「教え」として「全員がやらなきゃダメ!」というのは、間違い。
 2、「三願転入」を、過去世も含めて「全員がそういう道を通ってきた」というのはOK。
 3、既に阿弥陀仏の本願に出会っている人に対して、
 「宿善ポイントを貯めないとだめ!」みたいなことを言うのはおかしい。
 4、善ポイントを貯めるようなことができない私逹のために、
  阿弥陀仏が本願を立て、釈尊が教えを説いている。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

注1 法然上人「登山状」

我が朝に、仏法の流布せし事も、欽明天皇、雨の下をしろしめて十三年、
みづのえ申の歳、冬十月一日初めて仏法渡り給いし。
其れより先には、如来の教法も流布せざりしかば、菩提の覚路、未だ聞かず。
ここに我ら、いかなる宿縁にこたえ、いかなる善業によりてか、
仏法流布の時に生まれて、生死解脱の道を、聞くことを得たる。
しかるを今、会いがたくして、会うことを得たり。

(訳)
わが国に仏法が普及したのは、欽明天皇が統治されて十三年目、
みずのえさるの年、冬の十月一日に仏法が初めて伝来したからである。
それ以前には、釈尊の教えも布教していなかったので、
覚りを開くための道というのは、いまだに開かれていなかった。
今ここに私達は、どのような過去世からの因縁によって、
またどのような過去世における善い行いによって、
仏法が普及している時代に生まれて、
苦しみの世界から解脱することができる教えを、
聞くことができたのであろうか。
今、会いがたい仏法に会うことができた。


注2 法然上人「念仏往生義」

善根なければ、此の念仏を修して、無上の功徳を得んとす。
余の善根多くば、たとひ念仏せずとも、頼む方も有るべし。

しかれば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、
本願をたのみ、念仏せよと、勧め給ヘリ。

経に、一たび名号を称ふるに、大利を得とす。
又すなわち、無上の功徳を得と、とけり。

いかにいわんや、念々相続せんをや。
しかれば善根なければとて、念仏往生を疑うべからず。

(訳)
これまで様々な善根を積んでこなかったならば、
このお念仏を申して、この上ない功徳を得るべきなのである。
それに対して、お念仏以外の善根を沢山積んで来た人々は、
たとえお念仏を申さなくても極楽浄土へ往生できると、
自分の力で行った念仏以外の善根をあてにしてしまうものなのである。

だから善導大師は『往生礼讚』において、
「自分はこれまで善根をわずかしか積んでこなかった者であると信じて、
阿弥陀仏の本願を信じ念仏申しなさい」
とお勧めになられたのである。(※)

『無量寿経』には、
「ひとたび阿弥陀仏の名号を称えたならば、大いなる功徳を得る。
すなわち、この上ない功徳を得る」(※※)
と説かれている。

まして、一声一声のお念仏を絶やすことなく続けたならば、
その功徳がこの上ないものであることは言うまでもない。

だから、これまで善根を積んでこなかったからといって、
お念仏申した者が極楽浄土へ往生することができることを疑ってはならない。


※ 『往生礼讚』所説の「二種深信」を述べられたものである。

二には深心、すなわちこれ真実の信心なり。
自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして、三界に流転して、火宅を出でずと信知し、
今弥陀の本弘誓願、名号を称すこと、下、十声一声等に至るに及ぶまで、
定んで往生を得と信知して、乃至一念も疑心有ること無し。故に深心と名づく。

※※『無量寿経』流通分を述べられたものである。

Q&A(12)後生のー大事について

※質問者の立場を考え、一部を伏せ字にしました。


Q。
拝啓
突然のメールを失礼します。私は浄土真宗親●会の●●●●●●●と申します。苦笑いの独り言を大変興味深く拝見しました。高●顕徹先生は後生のー大事を無間地獄に墜ちるとおっしゃっています。ところが、清●元講師や近●元講師は、後生のー大事を無間地獄に墜ちるとは、間違いとおっしゃっています。私もご文章を拝読すると、後生のー大事を無間地獄に墜ちると書かれてはいないです。苦笑いさんは後生のー大事について何が正しいと思いますか。

A。
●●●●●●●さん

その問題に関する私の理解は、以下の記事に尽きます。

地球人にガミラス星人の「文化」は適応されない
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-41.html

親●会に限定されたドグマは、完全に特殊文化ですから、
「仏教徒」や「浄土真宗の門徒」がその影響を受ける必要は全くありません。




追記

というか、高●先生自身が既に教義をシフトしてるかもね(苦笑)。
 ↓
~~清森問答 親鸞会教義の相対化・38 より~~

【上巻p.66~】「後生の一大事」=「必墮無間」
親鸞聖人が、六角堂に百日間もこもられた目的は、「後世を祈る」ためであったと記されている。「後世を祈る」とは、「後生の一大事の解決の道を求めて」ということである。
「後生の一大事」とは、死後、無間地獄へ墮ちて、八万劫という長期間、苦しみ続けなければならぬ大事件をいう。釈尊は経典に「必墮無間」、すべての人間は、一息切れたら必ず無間地獄に墮つる、と説かれている。

★改めて「後生の一大事」=「必墮無間」というのは、高森先生に限らず、高森先生の影響を受けている方に共通する文化なんだと思いました。これが親鸞会という特殊な組織でしか通容しない「文化」であることは、既に私や清森さんによって証明済みです。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-91.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-92.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-93.html
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-94.html

一点追記しておくと、最新の高森先生の本では「後生の一大亊」の定義が異なっていますね。

>*生死の一大事
>永久に苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。
>高森顕徹著『歎異抄をひらく』(一万年堂出版)、P.53、P.163、P.225

>*後生の一大事
>永久に苦患に沈むか、永遠の楽果を得るか、の一大事をいう。
>同書、P.221

この定義であれば、問題はないと思います。誰かに誤りを指摘されることによって、正式に高森先生が自らの誤りを訂正されたのであれば、自浄作用が働いているということで、とても良いことであると思います。
そうではなく、「後生の一大亊」という重要な術語の意味が、一般向けの出版物と会員向けの出版物で異なるというのであれば、非常に悪質な二枚舌であり、卑劣なダブルスタンダードであると思います。

~~清森問答 親鸞会教義の相対化・38 より~~

Q&A(11)これは不当ではありませんか?

Q。
先日紹介したサイトに、今度は以下のような記事が投稿されていました。

「華光会が正しい信心を説いてる」って?
http://blogs.yahoo.co.jp/ikiruimiwositte/27535244.html

_______________________________________

過去に華光会の複数の人とお話したことがありますが

一番の問題点は

「信心を獲てもハッキリする人とハッキリしない人がいる」という点でしょうね。

私が話した方々が、どの程度の責任ある人かは知りませんから

「それは華光会の見解ではない」と言われるなら訂正陳謝いたしますが

たぶんその必要はないでしょう。

私自身は華光会には何の恩義もありませんので

あえて御名前をあげて立場を異にする者だということを明らかにしておきます。



「いまこそあきらかにしられたり。」(御文章)
_______________________________________

ある団体の「一番の問題点」などというものを、
このような不確かな情報に基づき指摘するのは、不当ではありませんか?


A。
はい。私もそう思います。
実名を挙げて特定の団体を語るには、あまりにも準備不足です。

私が作成したガイドラインを、しっかり学んで頂く必要がありますね。

 ↓ ↓ ↓
★事前に準備するもの

ある特定の個人や団体を「異安心」と認定するために、
事前に準備しておかなければならないものを、
列挙しておきますので、まずはこれを入手しましょう。

a)「異安心」疑惑のある個人や団体の著書や公式HPなどの資料

どのような「信心」であるかを知らなければ、
「異安心」かどうかは、わかりませんので、
必ずきちんとした資料を収集しましょう。

所謂「うわさ話」や、批判サイトや批判書での発言等は、
事実誤認があったり、捏造された資料である可能性がありますので、
資料としては認められません。
 ↑ ↑ ↑


なお、今回、華●会という団体が取り扱われていましたので、
「高●顕徹」という方が、その団体の創始者の方と、
非常によく似た文章をお書きになられていることを、
紹介頂いたサイトの管理人様にお知らせしておきました。
 ↓
~~~コメント覧に投稿した文章~~~
ご無沙汰しております。
この記事で扱っておられる団体の創始者がお書きになった文章と、
非常によく似た文章をお書きになられている方がいますが、
貴方はその方とも「立場を異にする」のでしょうか?

仏教は結果よりも原因をやかましくいう。於因説果といって、原因の中に結果を論ずる。
無常の嵐が吹いて、後生の一大事という結果が現れてしまっては万事休するのである。
未来の結果は、現在に作りつゝあるのだから、この現在当体の一念に、後生の大事いかんと反省していくのである。
(伊藤康善著『死を凝視して』 p45より)

仏法は結果よりも、原因をやかましくいう。於因説果といい、原因の中に結果をみる。
無常の嵐が吹いて、後生の一大事の結果が現れてしまっては、万事休すである。
早く、魂の解決を急がねばならぬ。
(結成三十五周年記念 顕真巻頭言集 p33より)

2009/6/4(木) 午前 1:20[ 苦笑(本物) ]
~~~コメント覧に投稿した文章~~~

※他の記事はコメントを受け付けていませんが、
 なぜかこの記事はコメントを受け付けているようです。

Q&A(8)「易往而無人」とは?

Q。
「易往而無人」は、どういうことだと理解しておられますか?

A。
以下の親鸞聖人の理解と同じ理解です。

●「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。
『尊号真像銘文』

阿弥陀仏が信心を与えようと様々な形で働きかけているにも関わらず、衆生がそれを受け取らないために、残念ながら極楽浄土に往生できない人が出てくるのです。

この理解は、『無量寿経』をまともにと読んでいれば当然の理解です。
 ↓
Q&A(2)『無量寿経』所説の「易往而無人」
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-252.html

どなたかのように「お釈迦様、貴方どうかされたんじゃないですか?」「頭、変になられたんじゃないですか?」と思う必要は全くありませんね。
 ↓
おお!高●先生に「近づくな」だったのか!!
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-251.html#cm

Q&A(7)「名号を受持」とは?

Q。
「名号を受持」を、どういう意味で使っておられますか?

A。
「名号を受持」という言葉は貴方がお使いになっている言葉をそのまま使用しただけですので、釈尊や親鸞聖人や蓮如上人がこの言葉をどのような意味でお使いになられているかは知りません。
しかし、以下の親鸞聖人や蓮如上人の言葉から、【衆生が阿弥陀仏が与えてくださった「名号」を受け取って「真実信心=信楽=プラサーダ」になること】だろうと思われます。
貴方は違うのですか?

●弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。
『教行信証』行巻 正信偈

●あきらかに知んぬ、二尊の大悲によりて、一心の仏因を獲たり。まさに知るべし、この人は希有人なり、最勝人なりと。しかるに流転の愚夫、輪廻の群生、信心起ることなし。真心起ることなし。
 ここをもつて『経』(大経・下)にのたまはく、「もしこの経を聞きて、信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎたる難なし」と。また「一切世間極難信法」(称讃浄土経)と説きたまへり。
『浄土文類聚鈔』

●この信心をえがたきことを、『経』(称讃浄土経)には、「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』(下)には、「若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難」とをしへたまへり。この文のこころは、「もしこの『経』を聞きて信ずること、難きがなかに難し、これにすぎて難きことなし」とのたまへる御のりなり。釈迦牟尼如来は、五濁悪世に出でてこの難信の法を行じて無上涅槃にいたると説きたまふ。さて、この智慧の名号を濁悪の衆生にあたへたまふとのたまへり。十方諸仏の証誠、恒沙如来の護念、ひとへに真実信心のひとのためなり。釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。
『唯信鈔文意』

● 「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」といふは、弥陀如来の本願の念仏をば、邪見のものと驕慢のものと悪人とは、真実に信じたてまつること難きがなかに難きこと、これに過ぎたるはなしといへるこころなり。
『正信偈大意』

Q&A(6)「成就」とは?

Q。
「成就」を、どういう意味で使っておられますか?

A。
親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も、「成就」という言葉は、阿弥陀仏の本願に関しては「完成」という意味で使っておられますので、私もその意味で使っております。

●〈成就〉とは、いはく自利満足せるなり。
『教行信証』行巻(『往生論註』引用文)

●〈成就〉とは、いはく回向の因をもつて教化地の果を証す。もしは因、もしは
果、一事として利他にあたはざることあることなきなり。
同上

●〈不虚作住持功徳成就〉とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。いままさに略して虚作の相の住持にあたはざるを示して、もつてかの不虚作住持の義を顕す。{乃至}いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ。
同上

●弘誓一乗海は、無碍無辺最勝深妙不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。なにをもつてのゆゑに。誓願不可思議なるがゆゑに。
『教行信証』行巻

●しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。
『教行信証』信巻

●ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。
同上

●次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。
すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。
しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
同上

●それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。
『教行信証』証巻

●選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。
『教行信証』真仏土巻

●「証大涅槃」と申すは、必至滅度の願(第十一願)成就のゆゑにかならず大般涅槃をさとるとしるべし。「滅度」と申すは、大涅槃なり。
『尊号真像銘文』

● おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり。
『唯信鈔文意』

●第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。このゆゑに、よきあしき人をきらはず、煩悩のこころをえらばず、へだてずして、往生はかならずするなりとしるべしとなり。
『親鸞聖人御消息』

●弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり。これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。
『執持鈔』

● 「本願名号正定業」といふは、第十七の願のこころなり。十方の諸仏にわが名をほめられんと誓ひましまして、すでにその願成就したまへるすがたは、すなはちいまの本願の名号の体なり。これすなはち、われらが往生をとぐべき行体なりとしるべし。
『正信偈大意』

● 「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。滅度といふは涅槃の位なり、これはかの土の益なりとしるべし。
同上

●「光明名号顕因縁」といふは、弥陀如来の四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり、これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就してあまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。
同上

●この阿弥陀仏と申すは、いかやうなるほとけぞ、またいかやうなる機の衆生をすくひたまふぞといふに、三世の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくはんといふ大願をおこしたまひて、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、それ衆生の罪においては、いかなる十悪・五逆、謗法・闡提の輩なりといふとも、すくはんと誓ひましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまひて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまへるを、すなはち阿弥陀仏とは申すなり。
『御文章』3-1

●ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。
『御文章』3-2

●阿弥陀如来の因中においてわれら凡夫の往生の行を定めたまふとき、凡夫のなすところの回向は自力なるがゆゑに成就しがたきによりて、阿弥陀如来の凡夫のために御身労ありて、この回向をわれらにあたへんがために回向成就したまひて、一念南無と帰命するところにて、この回向をわれら凡夫にあたへましますなり。かるがゆゑに、凡夫の方よりなさぬ回向なるがゆゑに、これをもつて如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。このいはれあるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり、また発願回向のこころなり。
『御文章』3-8

Q&A(5)浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」

Q。
いつもありがとうございます。
今回はちょっと内容が難しく、特に親●会で長年聴聞している人にはわかりにくい気がしました。
もうすこしわかりやすく、浄土真宗の「南無阿弥陀仏」と親●会の「南無阿弥陀仏」の違いについてまとめて頂けませんか?


A。
そんなに難しかったですか?
親●会関係者じゃない方には、
すんなりわかってもらえたんですけどね~(苦笑)。

繰り返しになりますが、
浄土真宗の「南無阿弥陀仏」は、
この身を阿弥陀仏におまかせして「南無」し、
阿弥陀仏の「本願招喚の勅命」に「したがひて召しにかなふ」ものであり、
衆生が、阿弥陀仏が与えてくださった行を受け取り、
阿弥陀仏の「召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう」ものであり、
阿弥陀仏の「選択本願」であり、
衆生が間違いなく、極楽浄土に往生する「正定の業因」です。

「帰命無量寿如来」も、「阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり」
と蓮如上人が解釈されていますから、全く同じ意味です。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。


わかりやすく図にしてみました。
    ↓


     《善導大師》        《親鸞聖人》    
     『観経疏』   『教行信証』      『尊号真像銘文』

     【願行具足】 【阿弥陀仏の立場】     【衆生の立場】 
南無 ──「帰命」  → 本願招喚の勅命  ── 勅命にしたがひて召しにかなふ  
   │ 
   └ 「発願回向」→ 発願して衆生の行を── 召しにしたがうて
             回施したまふの心    安楽浄土に生れんとねがう
 
阿弥陀仏─「即是其行」→  選択本願    ── 安養浄土(へ往生すること)の
                         正定の業因



一方、親●会の「南無阿弥陀仏」は、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」を、
「親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ」
と解釈していることから明かなように、
「救われた」「助けられた」後に限定されたものです。

したがって、「救われた」「助けられた」状態になるまで、
「南無阿弥陀仏」しませんので、
衆生が、「本願招喚の勅命」に「したがひて召しにかなふ」こともなく、
阿弥陀仏が与えてくださった行を受け取り、
阿弥陀仏の「召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがう」こともありません。

そして、そのような衆生が、阿弥陀仏の「選択本願」によって、
極楽浄土に往生することはありませんので、
親●会の「南無阿弥陀仏」は、
衆生が永久に「救われた」「助けられた」にはなれない「南無阿弥陀仏」です。

これは、明らかに善導大師や親鸞聖人や蓮如上人と異なった「南無阿弥陀仏」であり、
浄土真宗の「南無阿弥陀仏」ではありません。


こんなもんで、よろしゅうございますでしょうか?

Q&A(4)阿弥陀仏に「南無」するということ

Q。
今回は根拠が豊富で、壮観ですね。反論の余地のない論文という感想です。
今回のところは、会員にとって、耳にたこができる程、聞かされた内容で、根拠も
知っているものが多いのですが、『教行信証』『尊号真像銘文』については、知らず、
目から鱗の感じになると思います。

ただ、「南無」を「助かった」「救われた」と直訳するのはおかしいことはわかりますが、
「意訳であっても間違いだろうか?」という疑問は残るのではと思います。

いかがでしょうか?


A。
間違いです(苦笑)。

「南無」の元になるサンスクリット語“namas”は、
「腰をかがめる」「おじぎをする」という意味の動詞“√nam”から派生した言葉で、
そこから相手に対して自分を「お任せする」「帰依する」という意味が出てきます。

浄土真宗では所謂「報恩感謝の念仏」が言われていますが、
これを阿弥陀仏に対する「お礼」などと言うのは全くおこがましい話です。

この身を阿弥陀仏におまかせして「南無」し続け、
自らの口から出る「本願招喚の勅命」の念仏を聞きながら、
「勅命にしたがひて召しにかなふ」生き方をし、
間違いなく極楽浄土に往生し成仏することこそが、
何もすることができない私達が、
阿弥陀仏の御恩に報いる最高の「報恩感謝」です。

阿弥陀仏の本願を無駄にしないこと以上の、
「報恩感謝」は存在しません。

§10の注3であげた蓮如上人『御文章』の言葉は、
全てそのような意味の言葉です。

既に、親●会における念仏不要論に対する批判がなされていますが(※)、
そういう点でも、親●会ドグマは二重三重に複雑に、
沢山の間違いを積み重ねているような気がします。

また後で、浄土真宗の大行論、念仏の位置づけの話で、
このことに関しては詳しく解説する予定ですが、
§10の注3で挙げた蓮如上人の言葉は、
とても大切ですので、しっかり何度も読んでください。


※以下の記事を参照

 清森問答 質疑応答164

 同 親鸞会教義の相対化・76(投稿)

Q&A(3)「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について

Q。
いつもありがとうございます。

「南無阿弥陀仏」の意味について教えて頂きましたが、
結局、高●先生の「南無阿弥陀仏」の理解が、間違っていたのでしょうか?


A。
高●先生の話を直接聞いておりませんし、直接確認をしたわけではありませんが、
少なくとも、公式HPやその記事の元になる「顕正新聞」に書かれた、
「正信偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」を、
「親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ」
と解釈する理解は、明かに親鸞聖人や蓮如上人とは異なったものです。

繰り返しますが、蓮如上人著『正信偈大意』を読めば、
「阿弥陀如来に南無したてまつれ」と書かれております。

●「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。

高●先生のような解釈は、どこまでも個人的な「味わい」なわけであり、
「あじわい」と断った上で述べるのであればギリギリセーフですが、
この「味わい」は既にドグマ化され、会員さんに徹底されてしまってますので、
問題は大変深刻だと思います。

Q&A(2)『無量寿経』所説の「易往而無人」

Q。
釈尊のたった五文字だけを取り出して、頭おかしくなったんじゃないですか?と思えと会長から言われて大変な違和感がありました。

しっかり大無量寿経を読むと釈尊は、易徃而無人の前に、どうしてそうなるか解説して下さっているように読めました。

苦笑さん時間があれば、その意訳をお願いします。

※ おお!高●先生に「近づくな」だったのか!! より


A。
了解です!

まず、『無量寿経』において「易往而無人」が説かれている箇所を、
前後のコンテクストがわかる範囲で抜き出してみます。
 ↓
●仏、弥勒菩薩ともろもろの天・人等に告げたまはく、「無量寿国の声聞・菩薩の功徳・智慧は、称説すべからず。またその国土は、微妙安楽にして清浄なることかくのごとし。なんぞつとめて善をなして、道の自然なるを念じて、上下なく洞達して辺際なきことを著さざらん。よろしくおのおのつとめて精進して、つとめてみづからこれを求むべし。かならず〔迷ひの世界を〕超絶して去つることを得て安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ、道に昇るに窮極なからん。
〔安養国は〕往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり。なんぞ世事を棄てて勤行して道徳を求めざらん。極長の生を獲て、寿の楽しみ極まりあることなかるべし。 しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ。この劇悪極苦のなかにして、身の営務を勤めてもつてみづから給済す。尊となく卑となく、貧となく富となく、少長・男女ともに銭財を憂ふ。有無同然にして憂思まさに等し。屏営として愁苦し、念を累ね、慮りを積みて、〔欲〕心のために走り使はれて、安きときあることなし。
田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。(以下略)
(『無量寿経』巻下)

 
私が訳してもOKですが、
本●寺出版の現代語訳がありますので、
紹介も兼ねて、それを挙げてみましょう。
 ↓
釈尊は弥勒菩薩と天人や人々などに仰せになった。
  「 無量寿仏の国の声聞や菩薩たちの功徳や智慧がすぐれていることは、言葉に表し尽せない。またその国土が美しくて心安らぎ清らかであることも、すでに述べた通りである。
 それなのにどうして人々は、つとめて善い行いをし、この道が仏の願いにかなっていることを信じて、上下の別なくさとりを得、きわまりない功徳を身にそなえようとしないのだろうか。それぞれに努め励んで、すすんでこの国に生れようと願うがよい。そうすれば必ずこの世を超え離れて無量寿仏の国に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界にもどることなく、この上ないさとりを開くことができる。無量寿仏の国は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。しかしその国は、間違いなく仏の願いのままにすべての人々を受け入れてくださる。人々は、なぜ世俗のことをふり捨てて、つとめてさとりの功徳を求めようとしないのか。求めたなら、限りない命を得て、いつまでもきわまりない楽しみが得られるだろう。
 ところが世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。
 田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。(以下略)
(『浄土三部経(現代語版)初版』本●寺出版社発行)


仰るように、釈尊はちゃ~んと解説してくださってますね。
はい。

ここまで書いたら、これ以上の解説はいいですよね?(苦笑)

そうです。
「易往而無人」を、釈尊はちゃんと根拠も挙げて解説しているのに、
高●先生は、その釈尊の言葉を断章取義して捏造し、

「頭、変になられたんじゃないですか?」

などと誹謗されたんです。
全く、とんでもないことです(怒)。

もし、「そうでない」と言うならば、
『無量寿経』をまともに読ま(め)ないまま、
「易往而無人」という一部だけ取り出して、
いい加減な思いつきの解説をされたっちゅうことになります(苦笑)。

いずれにしても、どうしようもないですね(苦笑)。

こんな人物に従って、
「聖者」であり「善知識」釈尊を誹謗してはいけませんよ!

どうぞ、親鸞聖人に従って、
こんな人物が教えを説いている親●会からは、
速攻で脱出してください!

悪いことはいいませんから、さっさと脱出しちゃってください!




追記

なお、親●会では本●寺を悪く言うのが習慣化されているようですが、
『無量寿経』をちゃんと読んで、きちんと現代語訳して出版していますし、
釈尊に対して「頭、変になられたんじゃないですか?」などと言う方もいなそうですし、

少なくとも、『無量寿経』をまともに読んでおらず、
親鸞聖人に「遠ざかれ!」と言われるようなことを教えている、
自称「善知識」よりは、遥かにちゃんとしていると思います。

Q&A(1)『十二箇条問答』の現代語訳

頂いた質問に解答したものを、他の人にもお裾分けしま~す。
ひょっとしたら同じ疑問を持っている人もいるかもしれないしね。


Q。以下の部分の意味を教えてください。難しくてわかんないです。

●わが行のちから、わが心のいみじくて往生すべしとは思わず、ほとけの願力のいみじくおわしますによりて、うまるべくもなき者もうまるべしと信じて
いのちおわらば仏かならず来りて迎えたまえと思う心を、金剛の一切のものにやぶられざるがごとく、この心深く信じて、臨終までもとおりぬれば、十人は十人ながらうまれ百人は百人ながら生まるるなり。 『十二箇条問答』


A。以下のように訳してみました。

【自分の行の力、自分の心が素晴らしくて極楽浄土に往生できるとは思わないで、仏の本願力が素晴らしいから、自分の力では極楽浄土に往生できることがない者であっても極楽浄土に往生できると信じて、この命が終わる時には阿弥陀仏に必ず迎え取ってくださいと思う心を、ダイヤモンドのようにどんなものにも破られないようにして】、この心を深く信じて死の瞬間まで継続したならば、十人中十人が極楽浄土に生まれ、百人中百人が極楽浄土に生まれることができるのである。

こういう意味になります。
【】で括った部分が所謂「他力の信心」なわけですが、
これを死の瞬間まで継続したら百パーセント往生できる、ってことを言った文章ですね。


しつこいようですが、この法然上人の言葉は、

「これほどに容易に往生するのであれば、
 念仏するような人はみな往生すべきなのに、
 極楽浄土に往生することを願う人も多く、
 念仏する人も多いなかで、
 往生する者がまれなのはどうしてだと思うべきでしょうか?」

という質問に対するものですから、
極楽浄土に往生することを願わないで、念仏も申さない人には、
この言葉は適応されません。
プロフィール

苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

みんなの人気者(?)苦笑が言いたい放題暴れます。
賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
nigawaraihonmono@gmail.com

※私にメールで質問してもエエけど、
 解答はQ&Aでみんなにシェアするかもしれません。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
FC2ブログランキング

FC2Blog Ranking

検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。