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久々に「若不生者」関連議論 その2

 ※前回→久々に「若不生者」関連議論(追記あり)

まだ議論は続いております。
 ↓ ↓
またも「誰でもお浄土」と説く これが真宗? より


●(管理人→さぶろう氏)

さぶろう様へ 語句の意味の確認
さぶろう様へ
 どうも今一つしっくりしないので、最初から往復のコメントを読み直し、
分かりました。
 あなたは「本願が成就した」ということを、
「本願に、十方衆生が一人残らず救われたこと」だとお考えのようですが、
そうではありません。
「十方衆生を一人残らず救うために、受け取る一つで信楽に救われる、
名号を完成されたこと」です。

 この間の消息を親鸞聖人は『教行信証』信巻に「一切の羣生海、
無始より已来乃至今日今時に至るまで穢悪汚染にして清浄の心なく、
虚仮諂偽にして真実の心無し、是を以って如来、一切苦悩の衆生海を
悲憫して不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、
三業の所修、一念一刹那も清浄ならざる無く真心ならざる無し。
 如来清浄の真心を以て円融、無碍、不可思議、不可称、不可説の
至徳を成就したまえり。如来の至心を以って諸有の一切煩悩、
悪業邪智の群生海に廻施したまえり」と讃嘆なされています。

 譬えて言えば、全人類のかかっている重い病を「必ず治す」と
崇高な願いを立てた医師があったとします。
その医師が、長年の
苦心の末、飲めば病が全快する妙薬を完成させました。
 これで、医師は、自らの立てた願いを成就しました。医師として
為すべきことは、成したわけです。
 あとは、全人類がその薬を飲むか、どうかです。

 ところが、薬の効能を信じない者、疑う者、飲ませようとしても
嫌がる者など、全人類の反応はさまざまです。そこで、医師は、
その薬の効能を説明し、納得を得られるように、説得をします。
 しかし、あくまで、自因自果は、因果の道理であり、宇宙の真理です。
患者本人が、薬を飲まねば、病気は治りません。いくらなんでも、
患者の首根っこ抑えて、無理やり口を開けて、薬をねじ込むような
ことはできません。
 されば、その説得には、時間がかかるでしょう。一朝一夕には
いきません。しかし、それは医師の責任だとは言えないでしょう。
 薬を飲むか、飲まぬかは、あくまで患者自身だからです。

 譬えが長くなりましたが、法蔵菩薩は崇高な四十八願を立て、
兆載永劫のご修行の末、本願を成就せられ、
十劫の昔に、すでに
阿弥陀仏となられました。
 救いの法は、すでに完成しているのです。
 しかし、その本願を疑い、名号を信受しないから、助からない。
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」(正信偈)
(生死輪転の家に還来することは、決するに疑情をもって止まる所と為す)

 ゆえに「仏智疑う罪深し」と親鸞聖人は仰せであります。
 いよいよ「一日も片時も急ぎて信心決定して」と仰せられた御心を
かみ締めたいと思います。
管理人 2009/05/16(Sat)01:46:45 編集


●●(さぶろう氏→管理人)

今は矛盾は感じていません
ご丁寧に補足していただいて、ありがとうございます。

> これで、医師は、自らの立てた願いを成就しました。医師として
>為すべきことは、成したわけです。
> あとは、全人類がその薬を飲むか、どうかです。

前回も確認させて頂きましたが、

18願は、「受持すれば信楽になれる名号を成就する」という誓いであって、「名号を受持させる(信心決定させる)」という誓いではないと教えて頂きました。

だから、何の矛盾も感じておりません。

ところが、18願を「信心決定させる(信楽にさせる)」誓いだと間違って教えている人もあるので、私もそのように勘違いしておりました。

そのため、成就していないのではないかという疑問が起きたのです。
お陰様で疑問が晴れました。ありがとうございました。
さぶろう 2009/05/16(Sat)11:52:11 編集


●(管理人→さぶろう氏)

結びに
さぶろう様

 長い間、おつきあいくださり、有り難うございました。
 結びとして、確認しておきます。

★阿弥陀如来の名号には、私たちを一念で信楽に救う力がある。

★その名号は十劫の昔、既に完成しており、私たちが受け取る一つで、
 正定聚不退転、即ち死ぬと同時に浄土へ往生できる身になれる。

★本願を疑い、計らって、今生で名号を受持せぬまま終われば、
 浄土往生はできない。永く苦患に沈むことになる。

★そこで、一日も片時も急いで、信心決定(信心獲得、名号を受持
 すること)を急ぎなさい、と教えられる。

★だから「もう既にみんな助かっているんだから、死ねば皆、浄土に
 往生できるんだよ」と教えているのは、間違いである。

以上です。
管理人 2009/05/16(Sat)20:05:53 編集


●●(さぶろう氏→管理人)

これもお願いいたします
分かりやすいまとめ、ありがとうございました。

何回も確認させていただいた、肝心なところが抜けていたと思いますので、以下の内容も追加してください。

どうぞよろしくお願いいたします。

★18願は、「受持すれば信楽になれる名号を成就する」という誓いであって、「名号を受持させる(信心決定させる)」という誓いではない。
さぶろう 2009/05/16(Sat)20:50:09 編集


●(管理人→さぶろう氏)

結び(追加あり)
さぶろう様

 その件を追加調整して、再掲します。

 結びとして、確認です。

★王本願といわれる十八願は「すべての人を一念で信楽、即ち
正定聚不退転の身に必ず救う」というお約束です。

★その約束を果たすため、信楽即ち正定聚に救う力のある名号を
作ると約束されたのが、十七願です。

★阿弥陀如来の名号には、私たちを一念で信楽に救う力があります。
 即ち無明の闇を破し、願いを満たすはたらきがあります。これを
 称名破満といわれます。

★その名号は十劫の昔、既に完成しており、私たちが受け取る一つで、
 正定聚不退転、即ち死ぬと同時に浄土へ往生できる身になれます。

★本願を疑い、計らって、今生で名号を受持せぬまま終われば、
 浄土往生はできません。永く苦患に沈むことになります。

★そこで、一日も片時も急いで、信心決定(信心獲得、名号を受持
 すること)を急ぎなさい、と教えられています。

★だから「もう既にみんな助かっているんだから、死ねば皆、浄土に
 往生できるんだよ」と教えているのは、間違いであります。

以上です。
管理人 2009/05/16(Sat)23:21:46 編集


●●(さぶろう氏→管理人)
誤解を招かぬよう
文章を直されているようでしたが、

★18願は、「受持すれば信楽になれる名号を成就する」という誓いであって、「名号を受持させる(信心決定させる)」という誓いではない。

この文章の、どこか間違いがありましたでしょうか?

何回も管理人様に確認させて頂いた内容です。
今さら間違っていると言われても困りますが…


>★王本願といわれる十八願は「すべての人を一念で信楽、即ち
>正定聚不退転の身に必ず救う」というお約束です。

このように書くと、18願は「名号を受持させる」という意味になってしまうので誤解を与えると思います。書き間違いでしょうか?

もし、仮に

17願…薬を作る
18願…薬を飲ませる

こういう本願だとすると、17願は成就しているが、18願は成就していない、ということになります。
だから、18願を「薬を飲ませる」と解釈するのは間違いです。(このように今まで管理人様から教わってきました)

今回のように、「信楽に必ず救う」と書いてしまうと、信楽になるのは薬を飲んだ時ですから、薬を飲ませる本願になってしまいます。


管理人様は、「おくりびと」に対して、「この文脈だと、重要なところがハッキリしないのです。」と批判されています。
しかし、管理人様の18願の説明では、重要なところを、大変誤解する書き方になっていると思います。

曖昧ではいけませんので、ハッキリとさせて頂けないでしょうか?

1、18願は、名号を作るという約束であり、名号を受持(信心決定)させるという約束ではない。
2、18願は、名号を作るだけでなく、名号を受持(信心決定)させることまで約束されている。

どちらでしょうか?
さぶろう 2009/05/17(Sun)10:16:00 編集


●(管理人→さぶろう氏)

再掲します
さぶろう様へ
 今回急に直したのではなく、貴方の文章の中で不適切なところは
「それは間違い」と指摘するかわりに、正しく書き直して、当方の
返信の中にその都度書いておきました。
 それでもなお、今回のお尋ねですので、再掲します。なお、余りに
長文ですので、手短にいたします。

>★18願は、「受持すれば信楽になれる名号を成就する」という
>誓いであって、「名号を受持させる(信心決定させる)」という
>誓いではない。
>
>この文章の、どこか間違いがありましたでしょうか?

「名号を成就する」は十七願です。

>★王本願といわれる十八願は「すべての人を一念で信楽、即ち
>正定聚不退転の身に必ず救う」というお約束です。

>このように書くと、18願は「名号を受持させる」という意味に
>なってしまうので誤解を与えると思います。書き間違いでしょうか?

 本願成就文に「至心に廻向せしめたまえり」とおっしゃっています。
 阿弥陀如来が作られた南無阿弥陀仏を、十方衆生に廻向して助けて
くだされると、釈尊は教えておられます。
 この廻向について、親鸞聖人は『証文』に
「廻向は本願の名号をもって十方衆生に
あたへたまう御のりなり」
と説かれ、蓮如上人は『御文章』三帖目第八通に、
「阿弥陀如来の凡夫の為に御身労ありて此の廻向(名号)を我らに
与えんが為に廻向成就したまいて」
とあるように阿弥陀仏の本願は、成就完成した名号を一切衆生に
与えて救わんとせられたこと以外にはなかったのであります。
だから、名号を受持させる、で、誤解ではありません。

 ところが、与えようとしておられるのに、疑って受け取らない、
だから、救われないのです。その疑いを「疑情」とか「疑網」と
言われるのです。

>もし、仮に
>
>17願…薬を作る
>18願…薬を飲ませる
>
>こういう本願だとすると、17願は成就しているが、18願は
>成就していない、ということになります。

「成就」の誤解、語用については、前に書いた通りです。
 本願が成就した、とは、十方衆生が一人残らず救われた、という
ことではありません。詳しくは、三つ前のもの「語句の意味を確認」
を、再読してください。

 それ以下の部分は、この「成就」の誤解に由来していますので、
省略します。
管理人 2009/05/17(Sun)23:24:19 編集




あ~ん?(苦笑)←久々w


阿弥陀仏が「名号」を「至心に廻向せしめたまえり」してくれてるのに、「聞」せ~へん人がいるから、「易往而無人」なんでっせ。

それなのに、「十八願」の内容が「名号を受持させる、で、誤解ではありません。」やったら、
「名号を受持してへん人がいるから、極楽は易往而無人」っちゅう、
『無量寿経』の記述に矛盾してしまいますやん(苦笑)。

 ↑
これを、件のサイトのコメント覧に投稿してみましたけど、
どういうリアクションがあるか楽しみ♪

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久々に「若不生者」関連議論(追記あり)

久々に「若不生者」関連議論がありました。
 ↓↓↓
辛口!真宗時評
またも「誰でもお浄土」と説く これが真宗
?  より

【本文】

 「みほとけとともに ~西本願寺の時間~」で、藤 大慶氏
が『「おくりびと」が教えてくれたもの』と題して、次のように
話をされていました。

「おくりびとは、亡くなった人の最期を、心をこめてお送りする
 と言っているのです。これは、どんな人も阿弥陀如来の本願に
 抱き取られて、間違いなくお浄土に参らせていただくというこ
 とが大前提となっています」

 さて、この文脈だと、重要なところがハッキリしないのです。

まず、
(1)どんな人でも、お浄土に参らせていただける
(2)阿弥陀如来の本願に抱き取られた人だけが、間違いなく
   お浄土へ参らせていただける

この二つでいえば、(1)ではないのは、明らかです。(2)こそ
が、宗祖の教えになります。

では、
(3)すべての人は、既に阿弥陀如来の本願に抱き取られている
(4)阿弥陀如来の本願に既に抱きとられた人と、未だ抱きとら
   れていない人とがある
そのいずれなのでしょう。

前述の藤氏の文章では、「どんな人も」と最初にあるものだから、
(3)の意味にとられかねません。(違うならば、そうコメント
をいただきたく思います)
 しかし、親鸞聖人や、覚如上人、蓮如上人のお言葉を拝読する
と、(4)であることは、明らかです。

 蓮如上人は、有名な御正忌の御文に、
「この御正忌のうちに、参詣をいたし、志をはこび、報恩謝徳を
 なさんと思いて、聖人の御前に参らん人のなかにおいて、信心
 を獲得せしめたる人もあるべし、また不信心のともがらもある
 べし。もってのほかの大事なり。その故は、信心を決定せずば、
 今度の報土の往生は不定なり」
と仰せです。
 親鸞聖人報恩講に参詣された方の中に、弥陀の本願に抱き取ら
れた(信心を獲得した)人と、そうでない(不信心の)人とがある。
 「もってのほかの大事だ」と言われています。
 なぜなら、信心獲得(信心決定)していない人、即ち弥陀の本願
に抱き取られていない人は、お浄土には往生できないからだ、と
いうことです。

 その「もってのほかの大事」といわれる部分が、藤氏のお話では、
ボンヤリとしたまま、もしかしたら、そういうところは曖昧にした
ままで、何しろ「死ねば、誰でも、お浄土だ」という(1)の意味
のままで、聞いてもらえたらいいな、という意図なのか、とさえ
思えるのです。

 蓮如上人が「もってのほかの大事」といわれたところを、あえて
ボンヤリと、曖昧にしてしまうのは、なぜなのか。
 「信」「不信」の違い目を、明らかにすることが、できないから
ではなかろうかと、勘ぐりたくもなるのです。
 いかがですか。

【コメント欄】

●(さぶろう氏→管理人)

素朴な疑問

阿弥陀如来は、全ての人を必ず抱き取ると約束されているのですから、未だ抱き取られていない人がいるとすれば、本願が成就していないことになります。

ですから、(3)は正しいのではないでしょうか?

さぶろう 2009/05/09(Sat)19:40:50


●(管理人→さぶろう氏)

薬は完成しても飲まなけりゃ・・・

さぶろう様、コメント有り難うございます。
親鸞聖人は、
「本願名号正定業 至心信楽願為因」(正信偈)
  本願の名号は正定の業なり 至心信楽の願を因と為す
 すべての人を、この世で「正定聚」に救う力のある本願の名号、
即ち「南無阿弥陀仏」は、十劫の昔に、すでに完成している。
 これは、至心信楽の願が因となって出来たものだ、と仰せです。
 すなわち、私たちを救う力のある名号は、すでに成就しているのです。

 そして覚如上人が、
「我すでに本願の名号を持念す。
 往生の業すでに成弁することを喜ぶ」(執持抄)
とおっしゃっていますように、名号を受持すれば、報土往生できるのです。
 問題は、名号を受持したか、どうかです。

 たとえて申せば、薬は完成していても、それを飲めば病は完治しますが、
薬の効能を疑って服用しなければ、病気は治りません。
 大切なのは、薬を飲むか、どうかです。

 すでに成就された本願の名号を、受持したかどうか。そこが、最も
大切なのです。

 ということをふまえて、本文を再読していただけば、問題点が
お分かりいただけるのではないかと思います。

管理人 2009/05/10(Sun)23:58:46


●(さぶろう氏→管理人)

無題

お返事ありがとうございます。

「我すでに本願の名号を持念す。
 往生の業すでに成弁することを喜ぶ」(執持抄)
とおっしゃっていますように、名号を受持すれば、報土往生できるのです。

これを読むと、名号の働きは、報土往生させることのようですね。


至心信楽の願が因となって出来たのが名号ですから、
至心信楽の願というのは、「報土往生させる」という願なのですね。

今まで勘違いしておりました。
どうも有難うございました。

さぶろう 2009/05/11(Mon)00:32:00


●(管理人→さぶろう氏)

この世で正定聚 死ねば報土往生

さぶろう様へ
さっそく御覧いただき、有り難うございます。
「本願の名号は正定の業なり」(正信偈)
名号には、私たちをこの世で正定聚不退転に救うはたらきがあります。
 それは、全ての人をこの世で正定聚に救う、と誓われている弥陀の
十八願(至心信楽の願)が、因であります。
 そのために、十七願には、全ての人をこの世で正定聚に救う力のある
南無阿弥陀仏の名号を成就すると誓われています。
 その名号は既に完成していますから、これを受持すれば、この世で
正定聚になれます。
 さらに、
「成等覚証大涅槃
 必至滅度願成就」(正信偈)
この世で等覚(正定聚)になった者を必ず極楽に生まれさせる、と
誓われた十一願(必至滅度の願)が成就していますから、この世で
正定聚に救われた人は、死ぬと同時に報土往生できるのです。
つまり
 ・十七願で、名号を成就された
 ・十八願で、名号を受持する一つでこの世で正定聚に生まれる、
そうなった人は、
 ・十一願で、死ぬと同時に報土往生できる、
そして
 ・その名号を受持するところまで、私たちを導かれるための方便に
  建てられたのが、十九願と二十願である

親鸞聖人は、これを教行信証に、詳しく明らかにしてくださっています。

短いコメント欄では、説明が尽くせませんが以上、補足しておきます。
管理人 2009/05/11(Mon)07:01:06
たびたびすみません
すみませんが、理解が混乱しております。

>「本願名号正定業 至心信楽願為因」(正信偈)
>  本願の名号は正定の業なり 至心信楽の願を因と為す
> すべての人を、この世で「正定聚」に救う力のある本願の名号、
>即ち「南無阿弥陀仏」は、十劫の昔に、すでに完成している。
> これは、至心信楽の願が因となって出来たものだ、と仰せです。
> すなわち、私たちを救う力のある名号は、すでに成就しているのです。

前回は、このように教えて頂きましたが、
これを読みますと、十八願が因となって、名号が成就したことになります。

>・十七願で、名号を成就された
>・十八願で、名号を受持する一つでこの世で正定聚に生まれる、

今回は、名号を成就するのは十七願だと教えていただきました。

十八願は、「名号を成就する」という本願でしょうか?
それとも、「名号を受持させる」という本願でしょうか?

たびたび申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

さぶろう 2009/05/12(Tue)13:25:30


●(管理人→さぶろう氏)

病を治したい それには薬を作らねば

さぶろう様

 書き方が悪くて、分かりにくくなり、すみません。整理して書きましょう。

 弥陀の18願は「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と誓われました。

 譬えて言えば、「全人類の病を治してみせる」とのお約束です。

 しかし、それには、病を治す力のある薬を作らねばなりません。
「そういう薬を、作ってみせる」と誓われたのが弥陀の17願です。

 その17願によって、名号は成就しました。
 あとは、それを受け取る一つで、つまり薬を飲む一つで、病は
全快します。

 これでお分かりのように、「薬を作るぞ」という17願は、「病を
治すぞ」という18願が因となっております。

 逆にいえば、「病を治すぞ」という18願がなければ、「そのための
薬を作るぞ」いう17願も、出てこなかったのです。

 これを、
「本願の名号は、正定の業なり
 至心信楽の願を因と為す」
といわれているのです。

 名号には、どんな力があるのかを、親鸞聖人は、
「無碍光如来の名号と
   かの光明智相とは
   無明長夜の闇を破し
   衆生の志願をみてたもう」
南無阿弥陀仏には、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破るはたらきがある
全人類を永遠の幸福に救うという弥陀の願いが、私たちの上に満たされるのだ
と言われています。

 これを、名号には、「破闇満願」のはたらきがある、と言われるのです。 
 ゆえに、これを受持する一念で、全人類は救われるのです。

 くれぐれも間違ってはならないのは、阿弥陀如来のお手元に、十劫の昔に
南無阿弥陀仏が完成していても、それを私たちが受け取らなければ、助から
ない、ということです。
 名号が成就したこと、つまり薬が完成したことと、病が治ったこととは、
全く違うのです。
 薬が出来たことと、病が治ったことを勘違いした誤りが、十劫安心の
異安心といわれ、厳しく戒められていますから、よくよく注意したいと思います。

 それを戒められた蓮如上人のお言葉を、最後に挙げておきます。

◆『十劫正覚の初めより、我らが往生を定めたまえる、弥陀の御恩を
 忘れぬが信心ぞ』といえり、これ大いなる過なり、そも弥陀如来の
 正覚を成りたまえる謂を、知りたるというとも、我らが往生すべき
 他力の信心という謂を知らずば徒事なり」     (『御文章』一帖十三通)

◆『十劫正覚の初より、我らが往生を弥陀如来の、定めましまし
 たまえることを、忘れぬが即ち信心のすがたなり。』といえり。
 これさらに弥陀に帰命して、他力の信心を獲たる分なし、されば、
 いかに十劫正覚の初より、われらが往生を定めたまえることを知り
 たりというとも、われらが往生すべき他力の信心の謂をよく知らず
 ば、極楽には往生すべからざるなり」     (『御文章』二帖十一通)

◆『夫れ弥陀如来は、すでに十劫正覚の初より我らが往生を定め
 たまえる事を、今に忘れず疑わざるが即ち信心なり』とばかり
 心得て、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくば、報土往生
 すべからず、されば、そばさまなる悪き心得なり」     
           (『御文章』三帖八通)

管理人 2009/05/12(Tue)14:28:19


●(さぶろう氏→管理人)

ありがとうございました。

ご解答ありがとうございました。

>弥陀の18願は「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と誓われました。

この18願が成就しているのであれば、全ての人がこの世で信楽の身に救われますから、浄土往生できない人は存在しないことになります。


>これでお分かりのように、「薬を作るぞ」という17願は、「病を
>治すぞ」という18願が因となっております。

「薬を作るぞ」という17願が成就していることは分かりましたが、
「病を治すぞ」という18願は、成就しているのでしょうか?

重ね重ね申し訳ありませんが、お願いいたします。

さぶろう 2009/05/13(Wed)18:17:17


●(管理人→さぶろう氏)

十八願成就文

さぶろう様
 さっそく見ていただけたようで、有り難うございます。
 お尋ねの内容は、まさに浄土真宗、親鸞聖人の教えの核心に、
迫りつつあります。

 親鸞聖人は、
「横超とは即ち願成就一実円満の真教真宗これなり」(教行信証)
とおっしゃって、願成就の教えこそ、唯一の真実であり、完全無欠
の教えであり、真実の教えであり、真実の宗教であって、真宗とは
まさにこれである、と教えられています。
 三代目の覚如上人は、
「かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の信心歓喜乃至一念
等の文をもって依?とす。このほかいまだ聞かず」
とおっしゃって、願成就の教え以外、親鸞聖人からお聞きしたこと
はない、と断言されています。
 つまり、願成就の教えに反するものは、親鸞聖人の教えではないし、
願成就の教えに反する信心は、真実の信心でもない、ということです。

 これで明らかなように、願成就の教え以外に、親鸞聖人の教えは
ありません。
 それほど重要な、十八願成就文とは、何か。それは、弥陀の
十八願を、釈尊が私たちに解説してくだされたお言葉です。
 そこには、こう教えておられます。

「諸有衆生 聞其名号
 信心歓喜 乃至一念
 至心回向 願生彼国
 即得往生 住不退転
 唯除五逆 誹謗正法」

その名号を聞く、即ち名号を受持する一念で、信心歓喜と救われる
のだ、と釈尊は、教えておられます。
 これが、十八願成就文の教えです。

ですから、成就しているというのは、決して「既にみな救われている」
ということではないのです。

「金剛堅固の信心の
 さだまるときをまちえてぞ
 弥陀の心光摂護して
 ながく生死をへだてける」(親鸞聖人)
 信心さだまる時(一念)、即ち名号を受持した一念で、弥陀の
心光に摂取されて、永遠に生死をはなれることができる、すなわち、
救われると仰せです。

 ですから、再三申しますように、あとは私たちが名号を受持する
一つにかかっているのです。

 もし、十八願は成就しているから、既にみな報土往生が決定して
いるのだ、ということになれば、願成就文に、
「その名号を聞いて救われるのだ」
と教えられた釈尊のご教導に反します。

 ここから先は、十八願成就文の、極めて重要な内容になりますので、
どうぞ善き師を求めて、直接、ご教導を仰いでくださいますよう、
お願いします。

管理人 2009/05/13(Wed)21:46:08


●(さぶろう氏→管理人)

たびたびありがとうございます

何度もありがとうございます。

> もし、十八願は成就しているから、既にみな報土往生が決定して
>いるのだ、ということになれば、願成就文に、
>「その名号を聞いて救われるのだ」
>と教えられた釈尊のご教導に反します。


もし十八願が、「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」という誓いであるならば、信楽の人は、必ず報土往生できるのですから、すべての人の報土往生が決定していることになります。

十八願を「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と解釈することは、願成就文に反すると思いますが、どうでしょうか?


さぶろう 2009/05/13(Wed)22:40:41

●(管理人→さぶろう氏)

本願の名号を受持する一つ

さぶろう様
 さっそく見ていただいたようで有り難うございます。
「名号を受け取る一つで救われる」ように、成就している、ということです。
 そこまでは、阿弥陀如来が成就してくだされました。
 あとは私たちが、その名号を、受持する一つなのです。

 ところが、親鸞聖人が
「生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしずめるわれら」
と仰せのように、なぜ私たちに苦しみ悩みが絶えないかといえば、
いまだ本願の名号を受持していないからなのです。
 つまり、この世でまだ信楽の身に救われていないからです。
 だからこそ、
「あわれあわれ、存命のうちに、みなみな信心決定あれかしと
 朝夕思いはんべり」(ご遺言)
とおっしゃって、一日も早く、本願の名号を受持(信心決定)せよと、
すすめていかれたのでした。

 繰り返しになりますが、十八願がどのように成就されているかといえば、
「本願の名号を受け取る一つで救われる」ようになされているのです。
 あとは、あなたが受け取る一つなのです。

 本願の名号を受持した一念で、弥陀のご苦労が知らされ、親鸞聖人は
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
 されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんとおぼしめしたちける、
本願のかたじけなさよ」(歎異抄)
と、五劫兆載永劫のご苦労に感泣し、そのご恩を感謝なされて、
「如来大悲の恩徳は
   身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
   骨を砕きても謝すべし」(恩徳讃)
と、命がけのご恩報謝に突き進まれたのです。
 どうか、一日も早く、本願の名号を信受させていただきましょう。

管理人 2009/05/14(Thu)10:17:12


●(さぶろう氏→管理人)

確認です

読解力が乏しいようで、肝心なところが不明なので、確認させてください。

>「名号を受け取る一つで救われる」ように、成就している、ということです。
> そこまでは、阿弥陀如来が成就してくだされました。
> あとは私たちが、その名号を、受持する一つなのです。

つまり、十八願では、「受け取る一つで救われる働きのある名号を作る」ということが誓われているのであって、「その名号を受持させる」ということは誓われていない、ということですね。

誤解があってはいけませんので、よろしくお願い致します。

さぶろう 2009/05/14(Thu)10:26:49


●(管理人→さぶろう氏)

繰り返しますが

さぶろう様へ

 繰り返しになりますが
十七願に「名号を完成させる」と誓われ、
十八願に「その名号を受け取る一つで信楽に救う」と誓われています。
(このことは、もう幾たびも書いてきたことですので、よろしく)

 親鸞聖人は、こう書かれています。

「もしこのたび、疑網に覆蔽せられなば
 かえりてまた曠劫を逕歴せん」(教行信証)

 残念ながら、今生で本願に疑いが晴れぬ(名号を受持せぬ)まま、
ということは、救われぬまま終わる人もありましょう。そうなれば、
曠劫を逕歴せねば(永く苦患に沈まねば)なりません。
 これを後生の一大事といわれます。

 しかし、阿弥陀如来のご念力は、十方衆生が救われるまで、休まれる
ことはありません。
 未来、再び人間に生まれたときに、何とか名号を受け取らせようと、
全力あげてくださっています。その時でもだめならば、その次、三度、
人間界に生を受けたときにでも、と。

「三恒河沙の諸仏の
   出世のみもとにありしとき
   大菩提心おこせども
   自力かなわで流転せり」(親鸞聖人)

 私たちは、過去幾億兆の生死を繰り返し、何度も仏縁にあい、仏法を
聞き求めてきながら、名号を受持するところまで求めきれないで、迷い
を繰り返してきたのです。
 親鸞聖人も、自分もそうだったと、述懐なされたお言葉です。

 果てしなく六道を回り続けてきた私たち。
 今生こそは、本願の名号を受持(信心獲得)するところまで、
聞きぬかせていただきましょう。

管理人 2009/05/14(Thu)13:27:06


●(さぶろう氏→管理人)

誤解が解けました
誤解の余地の無いよう、明快にご解答いただき、ありがとうございました。

>十八願に「その名号を受け取る一つで信楽に救う」と誓われています。

十八願は、無条件で信楽に救うのではなく、「名号を受け取った人だけを信楽に救う」と誓われているのですね。よく分かりました。


> 残念ながら、今生で本願に疑いが晴れぬ(名号を受持せぬ)まま、
>ということは、救われぬまま終わる人もありましょう。そうなれば、
>曠劫を逕歴せねば(永く苦患に沈まねば)なりません。

十八願は、「名号を受持させる」とは誓われていないので、名号を受持せぬまま死ぬ人もあるのですね。よく分かりました。

結論としては、

「名号を受持すれば信楽に救われるが、名号を受持させるとは誓われていないので、信楽に救われずに死ぬ人もある。
 だから、すべての人が浄土に参らせていただけるのではない。」

これでよろしいですね。
間違いがあればご指摘ください。
さぶろう 2009/05/14(Thu)13:53:10 編集


●(管理人→さぶろう氏)

果遂の誓い

さぶろう様へ

「誤解がとけました」とのコメント、有り難うございました。
 一点だけ、誤解を解いておきます。

>「名号を受持すれば信楽に救われるが、名号を受持させるとは
>誓われていないので、信楽に救われずに死ぬ人もある。
> だから、すべての人が浄土に参らせていただけるのではない。」

「誤解」といったのは、十方衆生が名号を受持するところまで、即ち
信心決定するまで、阿弥陀如来は何もなされていない、何も誓って
おられない、というのは、誤りだということです。

 何とか、信楽の身に救われるところまで、即ち十八願の救いにあう
ところまで、十方衆生を導こうとしておられるのが、弥陀の十九願と
二十願の、方便の二願なのです。

 名号を受けとる一つで救う、しかし、そこまではお前たちの力で
求めて来い、と言われても、私たちには、求める手立てがありません。
 そこで、阿弥陀如来は、聞く一つで救われるところまで、どのように
求めていけばよいのか、その道程も教えてくださっています。
 それが、十九願と二十願です。
 よって、十八願を真実(真)の願といい、十九願と二十願を方便(仮)の願といいます。
「願海につきて、真あり、仮あり」(教行信証)
とは、そのことを言われているのです。
 「従仮入真」といわれるように、仮よりしか真には入れません。
 方便がなければ、一人として、真実の世界には入れないのです。
 宗祖親鸞聖人は、『教行信証』に、この親鸞も、十九願、二十願の
弥陀のお力によって、十八願の世界、即ち、選択の願海に入ったぞ、
と仰せです。
 長くなりますが、その有名な三願転入のお言葉を挙げておきましょう。

「ここをもって愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、
久しく、万行諸善の仮門(十九願)を出でて、永く雙樹林下の往生を
離れ、善本徳本の真門(二十願)に廻入して、偏に、難思往生の心を
発しき。
 然るに今、特に、方便の真門(二十願)を出でて、選択の願海(十八願)
に転入し、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。
果遂の誓、良に由あるかな。
 ここに久しく願海(十八願)に入りて、深く仏恩を知れり。」(教行信証)
 
 まず、阿弥陀仏の本願に、真実(真)と、方便(仮)のあることを
判定し、十八願を真実、十九・二十の二願を、方便と断定されています。
 真実とは、本心のこと。
 十八願には、弥陀の本心(どんな人をも、必ず信楽=絶対の幸福
に救いとる)が、誓われているから、真実といわれます。
 方便は、方法便宜の省略で、目的を果たす、方法手段をいいます。

「十九・二十の二願は、弥陀が目的(十八願)を果たす、方法手段に
誓われたもの。
 従って、三願は、無関係に孤立したものではない」

 これが、親鸞聖人の見解であり、宣言であります。

「十九・二十の二願は、弥陀が
目的(十八願)を果たす、方法手段に誓われたもの」なのです。
 この点を、よくよく知っていただきたいと思います。

 余りに長くなりましたので、これまでと致します。
管理人 2009/05/14(Thu)17:25:32 編集


●(さぶろう氏→管理人)

そうしますと…

ご丁寧な解説、ありがとうございました。

十九願、二十願のお導きはありますが、
十八願において、「今生で名号を受持させる」と誓われているわけではないことが、明らかになりました。

だから、力及ばずで、信楽に救われずに死ぬ人があることも分かりました。


そうなりますと、以前に教えていただいた、

>弥陀の18願は「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と誓われました。

というのは不適切ということでしょうか?
さぶろう 2009/05/14(Thu)22:38:58 編集


 ↑↑↑
これで、親●会ドグマの論理崩壊で、
完全にチェックメイトですわね(苦笑)。

なんかぐちゃぐちゃ言い訳してるけど、
親●会ドグマのヘンテコさは誤魔化せてまへんな(笑)。
 ↓↓↓

●(管理人→さぶろう氏)

願わくは深く無常を念じ

さぶろう様
 だからこそ、親鸞聖人は、『教行信証行巻』に、
「呼吸のあいだ即ちこれ来生なり。
 ひとたび人身を失いぬれば万劫にもかえらず。
 この時さとらざれば、仏、衆生をいかがしたまわん。
 願わくは深く無常を念じ、いたずらに後悔を残すことなかれ」
と、ご教導くださり、蓮如上人も『御文章一帖』に、
「命のうちに、不審(本願を疑う心)もとくとく晴れられ候わでは、
 定めて後悔のみにて候わんずるぞ。御心得あるべく候」
と、教誨くださっているのです。
 一日も片時も急いで、信心決定せよと、両聖人はお勧めになっているのです。

 とはいえ、蓮如上人もご遺言に仰せの通り、すべては、
「まことに宿善まかせ」(御文章五帖)
であります。救われるかどうか、宿善まかせとまでおっしゃっています。
 それは、両聖人の独断ではなく、
「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れり」(御文章三帖)
あらゆる経典やお聖教に、明らかなことなのです。
 さらに、
「無宿善の機にいたりては、力及ばず」(御文章四帖)
「無宿善の機は、信心をとり難し」(御文章三帖)
宿善の無い人は助からないのだ、と仰せです。
 宿善がいかに重要な問題か、お分かりでしょう。
 だからこそ、親鸞聖人は、
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(教行信証)
とおっしゃり、信心獲得(名号を受持)したならば、遠く宿縁を慶ばずには
おれない、と述懐しておられるのです。
 蓮如上人も
「宿善有り難し」(御一代記聞書)
とおっしゃっています。


 さて、最初のさぶろうさんの疑問に戻るならば、
「すでに救われている人と、いまだ救われていない人がいる」のは、なぜか。
それは、ひとえに宿善の相違によるのです。
 最後に、それを教えられた蓮如上人のお言葉をお示ししましょう。

「陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は早く開くなり。
 陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。
 かように宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。
 弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もある。
 とにかくに信・不信ともに、仏法に心を入れて聴聞すべきなり」
(蓮如上人御一代記聞書309)

管理人 2009/05/15(Fri)11:05:22 編集




追記

ぐちゃぐちゃした言い訳は全く通用せず、
親●会ドグマのヘンテコさは、
管理人氏によって見事に証明してくれました。
 ↓↓↓

●(さぶろう氏→管理人)

感謝です

毎回、懇切丁寧なお返事、ありがとうございます。
管理人様の誠実で真摯なお人柄が、文章を通して伝わってくるようです。

弥陀の18願を「全ての人をこの世で信楽の身に一念で救う」と解釈するのは不適切であり、だからこそ、両聖人が「一日も片時も急いで信心決定せよ」とお勧めになっているのだと分かりました。

確かに、この世で信心決定させることまで誓われていて、それが成就しているならば、急いで信心決定を求める必要はないですからね。

非常に納得しました。

ところが、世の中には、「すべての人を信楽に救う」という願が成就していると、間違って教えている人もあります。私もそれを聞いて信じていました。

管理人様のお陰で、間違いが分かりました。心から感謝を申し上げます。
さぶろう 2009/05/15(Fri)13:42:57 編集




管理人氏のおかげで、
親●会ドグマの間違いがわかってよかったね。

ちび●墓穴!(再掲)

うだうだ言ってるおじさんがいるので、再掲載しておきますわ。
おじさんは、みんなにボコボコにされたことを忘れている上に、
名義詐称をしてるみたいだけどね(苦笑)


以前ボコボコにされたことは、なかったことにして、
某巨大掲示板に、ちび●が登場しましたね。


636 :ちび丸:2008/09/06(土) 08:42:10 ID:QrmaZT+1
>若不生者の「生」に、現益やまして信楽の身に生まれるの意味があると書かれた聖人の著書はない。

親鸞聖人の著書には十八願全部を解説されたところはない?

でたらめ教学では、結局そう言うしかないよね。
その結果
「覚如上人、存覚上人、蓮如上人の三師は祖師に背いた解釈をした」
「祖師聖人の解釈に七高僧からの相伝はない」
「十八願は成就してない」
という結論になるのはFWM氏とのやりとり以降であきらかにした通り。
「若不生者」と書かれてなければ根拠にならないという
ばかな不勉強教学の結論だよ。

「生」は往生。
それ以外の解釈はない。



でも、速攻で潰されてるし(苦笑)。

654 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 11:19:18 ID:SSHL9SRG
>>636

> 親鸞聖人の著書には十八願全部を解説されたところはない?

唯一あるのが、尊号真像銘文です。その中で、現益の意味を補っておられながらも、
「若不生者」に関してはあくまでも当益で解釈しておられます。
何度も同じことを言わせないで下さい。

>「十八願は成就してない」

そんなこと誰が言いましたか? 十八願はもちろん成就しています。
(成就しなければ正覚を取らじと誓われて、法蔵菩薩は阿弥陀仏と成られたのですから、
もし成就していなければ、阿弥陀仏は嘘つきということになってしまいますよ。
そもそも、本願が成就したからこそ釈尊が「本願成就文」を説かれたんじゃないですか。)

ちび丸や、清森問答のコメント欄にヒステリックなカキコをしている人物は、
第18願に「全ての人を信楽にする」と誓われている、と言いたいがために、
あの手この手で強引にいろんな文章を引用していますが、
では、仮にその主張が正しいとした場合、
十方衆生は十劫の昔に信楽の身になっているはずですね?
「本願が成就した」とは「約束が果たされた」ということです。
「全ての人を信楽にする」が約束の内容であるならば、
その約束が十劫の昔に果たされたということは
「全ての人が信楽になった」ということでなければなりません。
これは事実に反します。

この矛盾を私は今までに何度も指摘していますが、
この点に関してはまだ誰からも反論がありません。
この矛盾点をクリアーしないままで、
第18願は「全ての人を信楽にする」という約束だ、
と主張すればするほど、矛盾点が鮮明になって墓穴を掘るだけだということに
気付かないのだろうか?



そんでもって、ぐちゃぐちゃ余計ないいわけしてもんだから・・。

673 :ちび丸:2008/09/06(土) 16:46:05 ID:drVEm3vB
>>654

>何度も同じことを言わせないで下さい。

こっちが言いたい。
お気に召さねば「御本典に十八願全文の解説はない」と言い換えましょうか。

>尊号真像銘文

一願該摂の御文ですが、何の根拠なんですか?
何度も言わせないでください。


674 :ちび丸:2008/09/06(土) 16:50:13 ID:drVEm3vB
>>654
>そんなこと誰が言いましたか?

成就文がなければ成就してないのです。
王本願が成就していれば欣慕の願の成就は問題ではありませんが
その反対は言えません。
田中氏は「若不生者」の成就はない、という立場でしたね。
名無しさん。

675 :ちび丸:2008/09/06(土) 16:59:34 ID:drVEm3vB
>その約束が十劫の昔に果たされたということは
「全ての人が信楽になった」ということでなければなりません。
これは事実に反します。

(笑)
ほんとに幼稚園児だったんですね。

阿弥陀仏の本願は「すべてのひとを救う」という本願ではなかったという主張らしい。

>十八願はもちろん成就しています。

それとも十劫安心か。
お相手はごめん被ります。

では今日はここまで。


678 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:21:20 ID:/nmFEKvb
ちょっと時間が余った。よく読め。

>一願該摂と五願開示

一願該摂というのは四十八願の解釈の方法で
法然上人が主にされたんですが親鸞聖人も書かれています。
十八願が選択本願で他の四十七願は欣慕の願という扱いですね。

しかし親鸞聖人は十八願を開いて五願に配当されて意を明らかに
されたんです。これが五願開示。

どちらが正しいということでなく、開合の違いといいます。

679 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:23:15 ID:/nmFEKvb
>一願該摂というのは四十八願の解釈の方法で
法然上人が主にされたんですが親鸞聖人も書かれています。
十八願が選択本願で他の四十七願は欣慕の願という扱いですね。

正信偈や田中氏が根拠に出した唯信鈔文意の「選択本願」は十八願を指しているから
この一願該摂の法門に当たる。

本師源空は、仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
  真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。(正信偈)


 「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。
  (唯信鈔文意)


だが祖師聖人はこれだけではないんだよ。


680 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:24:21 ID:/nmFEKvb
如来二種回向文には十七、十八、十一願をあげて
「これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。」と
十七願、十一願も選択本願とされている。

往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 
称我名者 不取正覚」

 真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

 真実証果といふは、必至滅度の悲願にあらはれたり。証果の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」

 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。

この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)


681 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:26:37 ID:qtbNF16F
十八願の信楽によって十一願の証果を得るのが難思議往生。

分相になったときには十八願は純粋に「信楽を与える」という願になって

「滅度を得る」という意味は無くなるから、信巻の最初は[正定聚の機] になる。

「念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。」

分相の法門において滅度は十八願の結果ではない。


これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。
現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土にいたる。
これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。
これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、
また難思議往生と申すなり。(浄土三経往生文類)

682 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:27:32 ID:qtbNF16F
往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願にあらはれたり。
称名の悲願、『大無量寿経』にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 
称我名者 不取正覚」

 真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」

 真実証果といふは、必至滅度の悲願にあらはれたり。証果の悲願、『大経』にのたまはく、
「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」

 これらの本誓悲願を選択本願と申すなり。

この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)

さきに出した回向文。回向とは「与える」ということ。

他力の行を与えるという誓願が十七願。

他力の信を与えるのが十八願。

他力の証果を与えるのが十一願。

ちゃんと書いてあるだろ。


683 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:28:35 ID:wp+JR0yG
この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
 (如来二種回向文)

正定聚の位につくのも十一願による。
十八願で信楽を獲たひとは正定聚の機になるのと
十七願の名号をいただいたひとがつく位だから
本来は十一願で獲る位だが
十一願と共通するので信巻巻頭に書かれている。

成等覚証大涅槃(正信偈)も意は同じ。

純粋な意味で十八願は「信楽を与える」という意味になる。

相伝義書で「若し信心生まれずは」という口伝になっているのは
少なくともその部分は相伝義書は正しいということ。

684 :ちび丸 :2008/09/06(土) 17:32:57 ID:wp+JR0yG
学者の解説がほしければまた後日。



見事に墓穴を掘って、
・田中氏の主張が正しいこと。
・親鸞会の主張が誤っていること。
を証明してしまいましたとさ(苦笑)。


688 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 18:21:22 ID:SSHL9SRG

●●● 墓穴を掘ったちび丸 ●●●

 ちび丸の説によると…

    ┌至心信楽 ─ 18願 ─ 信楽を与える
18願─┼若不生者 ─ 11願 ─ 信楽の者を、浄土往生させる
    └その他

> 分相になったときには十八願は純粋に「信楽を与える」という願になって

分相の18願は、「信楽を与える」という約束
分相の11願は、「信楽の者を、浄土往生させる」という約束

だから、18願は「信楽を与える」という約束、とは一応言える。

しかし!!

分相の18願に対応するのは、「至心信楽」
分相の11願に対応するのは、「若不生者」

なので、一願該摂で「信楽を与える」に対応するのは「至心信楽」でなければならない!!!

田中氏の「不体失往生の根拠は、至心信楽だ」という主張を、全面的に認めたわけだ。


689 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 18:31:11 ID:SSHL9SRG

ちび丸も元会員を自称するからには、

五願開示で、

分相の18願→至心信楽
分相の11願→若不生者

だということは、知っているだろうな。

親鸞会の教学解説書(かなり古いものだが…)にも載っていたし、
講師試験に出たこともある。

というより、浄土真宗の常識だ。



分相の18願が「必ず信楽にさせる」と認めたということは、
  「必ず信楽にさせる根拠」は「至心信楽」だと認めたわけだ。

分相の11願が「必ず浄土往生させる」と認めたということは、
  「必ず浄土往生させる根拠」は「若不生者」だと認めたわけだ。

 チューリップの間違いと、田中氏の主張の根拠を、同時に教えてくれて有難う。




690 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 19:44:01 ID:GFgl1Rj+
>689

田中さんが、不体失往生の根拠は「信楽」だと言われていましたが、理由が分かりました。
ありがとうございました。


692 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 20:19:28 ID:lrMY6LrS
>>688

ちび丸涙目w



結局、証拠十分で有罪が確定している人の弁護
みたいなことをすると、喋れば喋る程ぼろが出ちゃうのよね(苦笑)。


ところで、この議論はこれだけで終わんなくて、
もっとおもろい論点が出されました。

とてもおもろいネタなので、次回に続く!

※続きはこちら

「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う(再掲)

みんながこれを理解できたのは、
忘れっぽいおじさんのおかげなんだよね~。
本人はまだわかってない(わかってはいけない?)みたいだけど(苦笑)。


ちび●墓穴!の副産物で、
「信楽=正定聚」という親●会ドグマの誤りが明確になりました。

693 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:37:18 ID:SSHL9SRG

(補足)

> この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、
> すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。
>  (如来二種回向文)


このように、11願は、「真実信楽をえたらん人」は「すなはち正定聚の位に住せしめん」とも解釈できる。

しかし、決して「信楽をえさせる」誓いでないことは明らか。

「信楽をえさせる」のは分相の18願のみ。

「正定聚の位に住せしめん」というのは、仏になる身にさせるということ。
必ず浄土に生まれさせる、というのを、正定聚になると解釈されたのであろう。


つまり

分相の18願= 至心信楽 =信楽をえさせる
分相の11願= 若不生者 =信楽の者を、(正定聚にさせ)浄土往生させる

チューリップ山田氏が、「若不生者」を、

信楽に「生」まれさせ、浄土に「生」まれさせる

と解釈したのは、明らかに誤り。



694 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:42:14 ID:SSHL9SRG
しかし…
「不体失往生」=「正定聚」と取るならば、

若不生者は、「信楽の者を、必ず不体失往生させる」と読める。

不体失往生の根拠として、「若不生者」の挙げることも出来る。

アニメ2部だけなら、問題なかったかも。

その後の、山田氏のフォロウがまずかった。


本願成就文の「信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」

ここに教えられているのも、「信心歓喜(信楽)した者が、即得往生(入正定聚)できる」と説かれている。

本願成就文を基準に読むなら、「信楽のものを、正定聚に生まれさせる」のが、「若不生者」の意味。

親鸞会の人は、最初から「信楽」=「正定聚」と勘違いしているから、間違えるんだよ。


信楽した者に、現益(正定聚)と、当益(成仏)の、両方を与えるのが弥陀の本願。

間違っても、「若不生者」を「信楽に生まれさせる」などと読んではならない。

本願成就文の破壊だよ。これは。

695 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:46:39 ID:SSHL9SRG

分相の18願は、「弥陀のお力によって、信楽になれる」とは説かれているが、

「若不生者」の生は、「正定聚」と「成仏」のみなので、

「信楽に生まれさせる」という表現は、絶対に出てこない。

「もし信楽に生まれさせずば、正覚を取らじ」などとは誓われていない。

親鸞聖人は、そのような書き方はされていない。



表現には、気をつけるべし。

教行信証信巻を、よく読まれたらよい。



696 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:56:58 ID:mBCVh9VS
>695

高森先生は、信楽と正定聚の関係が分かっておられないのでしょうか?



697 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 21:58:38 ID:L/AgIQqE
>>693-695
ありがとうございます。
とてもわかりやすい説明で、納得できました。

そういえば最近、親鸞会の会員の財施や活動に対するモチベーションが、
非常に低下しているというようなことを聞いているのですが、
その辺の背景にはやはりこの法論の結果や、
脱税疑惑なんかが影を落としているのでしょうね。

698 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:07:29 ID:SSHL9SRG
>>695
>
> 高森先生は、信楽と正定聚の関係が分かっておられないのでしょうか?


そういうこと。
全然分かってない。

本願は  「信楽した者を、浄土往生させる」
本願成就文「信心歓喜(信楽)した者を、正定聚にさせる」

この関係だよ。


親鸞聖人は、「浄土往生できる」ことを、「正定聚になれる」と言い換えられた。
どちらも、「信楽すれば…、という条件つき」

信楽すれば、正定聚になれる。だから「信楽」=「正定聚」だと思ったのだろうか?

だから、正定聚を信楽と言い換えて、「信楽すれば、信楽になれる」となった。

これでは訳わからないから、「信楽すれば」を削っちゃったんだろう。

そうだとすれば、頭わるすぎ…


だいたい、「信楽」と「正定聚」は違う意味なんだから、普通に仏教の勉強をしていれば、こんな間違いはしないんだよ。

同じなら、「信楽の者を正定聚にする」などと、無意味なことは言われない。



699 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:12:53 ID:SSHL9SRG

>
> 若不生者は、「信楽の者を、必ず不体失往生させる」と読める。
>
> 不体失往生の根拠として、「若不生者」の挙げることも出来る。
>
> アニメ2部だけなら、問題なかったかも。


このように一応書いたが、

親鸞聖人が弥陀の本願を、現当二益と解釈されたのは、あくまで本願成就文が根拠。

本願文には、直接的には現益は示されていない。


だから、親鸞聖人が不体失往生の根拠とされたのは、本願成就文。

やはりアニメに描くのは「即得往生 住不退転」が適当であった。


親鸞聖人が、何を根拠に不体失往生を論じられたか、分かっていないから、このようなミスをするんだろう。



「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は明らかに違います。
親●会ドグマが注入された人には、なかなかわかりにくいことだけどね(苦笑)。


そして、解説は更に進わけでございます。

701 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:16:43 ID:iBZWtYDV
>>698
なるほど。ということは、十八願を

どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に

と言い換えるのは間違い、ということ?

702 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:29:04 ID:SSHL9SRG
>>701
> なるほど。ということは、十八願を
>
> どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に
>
> と言い換えるのは間違い、ということ?


「どんな人も 信楽すれば 必ず助ける 絶対の幸福(正定聚という意味なら)に」なら、いいんじゃないの?


問題は、必ず信楽になれると言ってよいか。

> 分相の18願は、「信楽を与える」という約束

と、ちび丸に合わせて、このように書いたが、聖教には、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」としか書かれていない。


これを、「どんな人でも かならず信楽にする」と書き換えて良いか?

どこかに親鸞聖人が「必ず信楽にする約束」と書かれていれば分かり易いが、今のところ私は、見つけていない。

間違い無いのは、「阿弥陀仏のお力で信楽になれる」。これだけ。


誰か、「どんな人も、必ず信楽にさせると 約束されている」と書かれている根拠があれば教えてください。

それが見つかれば、「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」もOKだと思う。

703 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:39:13 ID:NEkveLHU
なるほど。
弥陀の十八願はそういう約束だったのか。

704 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:50:55 ID:T0XwJH3K
どんな人でもっていうのは、十方衆生のことだとは聞いたな。

705 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:52:38 ID:SSHL9SRG

アニメは高森氏の製作では無いと言い出す人がいそうだから、
高森氏の著作から、間違いを指摘する。


もとよりこれは阿弥陀佛の本願に「十方の衆生を信楽の一心に救わずば吾れ正覚を取らじ」と約束なされた通りになった相であるから、まさに本願に相応したわけである。【会報2集・信の一念5】


「十方の衆生が、信楽の一心を得たのに、浄土往生せずば吾れ正覚を取らじ」と書くのが正しい。

現益で解釈しても、

「十方の衆生が、信楽の一心を得たのに、正定聚に救わずば吾れ正覚を取らじ」と書くのが正しい。

と書くのが限界。


「信楽の一心に救う」というのは、18願が全然分かってないから、こんな表現になる。




706 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 22:54:34 ID:SSHL9SRG

> 「十方の衆生が、信楽の一心を得たのに、正定聚に救わずば吾れ正覚を取らじ」と書くのが正しい。

失礼。

「と書くのが正しい」は余計。



「どうしたら信楽になれるか?」に関する解説もありましたね。

707 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:10:30 ID:NEkveLHU
信楽にはどうしたらなれますか?

708 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:18:25 ID:SSHL9SRG
>>707


誰かが書いていたが、光明の働きだからね。
我々がどうかした結果、信楽になれるわけではない


光明名号の因縁ということあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきわなからん」とちかいたまえり。これすなわち念仏の衆生を摂取のためなり。
かの願、すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって、十方微塵世界をてらしたまいて、衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあう衆生、
ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき、まさしく報土にうまるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。
しかれば、名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとえに光明にもよおさるるによりてなり。


信楽になる = 名号を頂く

1.無明の昏闇うすくなり
2.宿善のたね萌す

これが必要なようだ。



得意の後出しジャンケンも、ボコボコいかれましたな(苦笑)。

709 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:24:15 ID:NEkveLHU
>>699
アニメで願成就文を出すと、難しくなりすぎて、縁の浅い人は分かりにくいから…
という説明は当時からなされていましたよ。

配慮であって、間違われたわけではありません。

710 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:25:12 ID:L/AgIQqE
>>709
それなら田中氏との法論でも最初からそういうべきだったのではないかと思いました。

711 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:37:09 ID:SSHL9SRG
>>709

> アニメで願成就文を出すと、難しくなりすぎて、縁の浅い人は分かりにくいから…
> という説明は当時からなされていましたよ。


僕は、アニメより、高森氏が自著で「十方の衆生を信楽の一心に救わずば吾れ正覚を取らじ」と教えていることが、もっと問題だと思う。

アニメは言い訳のしようもあるが、この文章は言い訳の余地がない。



712 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:42:50 ID:SSHL9SRG
>>709

そもそも、弥陀の救いが、現在か、死後かの論争だったんでしょ。

要するに、「若不生者」の「生」が、現在か、死後かという論争。

だから「若不生者」の「生」を現益と解釈できる、お経の根拠は何か、が問題になってるわけ。



ここに「若不生者 不取正覚」を出してどうするの??

理屈から考えてもおかしい。




親鸞聖人が「生」を現益と解釈された根拠は「即得往生 住不退転」しか有り得ない。

分かりやすいとか、分かりにくい、の問題ではない。

根本的に、アニメ製作者が、教えを分かっていないのが問題なんだよ。



713 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:50:59 ID:DdIlnfvT
>>711

貴方のお陰で、高森会長がなぜ本願の解釈を間違えたか、よく分かりました。
感謝いたします。



714 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:52:19 ID:plsqetV/

ちび丸にも感謝w



みんなが納得できる見解が出されてよかったですね

715 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 00:06:21 ID:LmZCYc0B
>>712
本当に分かっていなかったか、
あるいは分かっていながらわざとそういう教義にしたかったのかもね。

「阿弥陀仏は命掛けなのに、お前たち会員はそうなってない」

「情けない・恥ずかしいと思わないのか」

「だったらお前たちも命掛けで組織に布施をして貢げ」

こうやって罪悪感を植えつけて組織の奴隷を作り上げる。
そういう構造を作り上げたかったんだろうね。

そもそも親鸞聖人の教えは人々の心を解き放つものだったのに、
親鸞会では恐怖と罪の意識で縛り付けることしかしない。
この歴然として差は、まさにこの本願の読み違いに起因しているように思う。

716 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 00:08:59 ID:0j2TvL7h
失礼、訂正。
この歴然として差は→この歴然とした差は

717 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 00:21:03 ID:zsT20bKo

今回の議論で、色々な疑問が解けた。
ちび丸氏の「若不生者」が現益というのも、間違いではなかったわけだ。
しかし、現益が信楽だと思い込んでいたから、しっくり来なかったんだ。



718 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 00:37:49 ID:/lPljhF1
なるほど、現益とは正定聚になることか。「信楽を得たら」「必ず」「正定聚」になると読むわけか。

結局、この「必ず」は「信楽を得る」にはかからないということ・・・凄い分かりやすかった。


723 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 08:02:22 ID:mr53OP0P
>>698
なるほど。とても解りやすかったです。ありがとうございます。
そういえば「入正定聚の益」ですものね。

>だいたい、「信楽」と「正定聚」は違う意味なんだから、普通に仏教の勉強をしていれば、こんな間違いはしないんだよ。

普通に仏教の勉強をしないで親鸞会の教学を学んでしまった自分は、
ほかにもたくさん間違った理解をしてるんだろうな。恐ろしいことです。



予防線も張られたし、準備も万端ですな(苦笑)。

737 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 16:13:05 ID:ODO4NQvv
>SSHL9SRG

とりあえず、ちび丸の反論を予測して前もって書いておくけど
真宗相伝義書の論註講記には、三心生ぜずばとよむ相伝があると書かれている。自分も調べてみた。
本願寺東西分裂後すぐの人物から聞いたことをまとめた書のようで怪しさがただようとすればそこだが
ちび丸は正統な相伝だと証明しようと今必死にほかの根拠も探していると思う。
まあ、そこにしか根拠がなかったとしても、一応は本願寺の中に若不生者を信楽生まれずばと
解釈する人がいたということからすれば、私的にはこの解釈もありだとは思う。
しかし、親鸞聖人の著作に忠実であろうとすれば認めるべきでないし、
真宗の一般的な解釈からほどとおいものとして、秘密の法門めいて教えるべき教義ではないという意見。

ちび丸は相伝義書と銘うたれた書籍の一引用文献という理由で、
これが親鸞聖人の密かに伝えられてきた真実で、信心決定者なら感得できる本願解釈だと論陣を
はってくるだろうが、惑わされる人がいないことを願います。


742 :神も仏も名無しさん:2008/09/07(日) 18:31:42 ID:5XAn0pfb
>>712
> 親鸞聖人が「生」を現益と解釈された根拠は「即得往生 住不退転」しか有り得ない。

というか、
「【信楽を獲た人は現益も獲られる】ということの根拠は
「即得往生住不退転」しか有り得ない。」
と言うほうが、より正確な表現ですね。
あくまで「若不生者」の「生」は「わが浄土に…」です。

阿弥陀仏が直接誓われたのは、
「信楽を獲た人に当益を与える」です。
そして、この本願が成就したことにより、
「信楽を獲た瞬間に、当益が保障される」というシステムができあがりました。
そして「当益が保障される」のは現世においてですから、
「当益が保障されること(入正定聚)」を「現益」と定義したわけです。ゆえに、
「信楽を獲た一念で、現益が獲られる」ことになったのであり、それを釈尊は成就文に、
「信心歓喜乃至一念…即得往生住不退転」と説かれたわけです。
ですから、本願が成就した現段階においては、本願の内容は
「信楽を獲た人に現当二益を与える」だと見なしても差し支えありません。
(実際、親鸞聖人は現益の意味を補って本願文を解釈されています。)

このように、当益である「若不生者」から副産物として現益が派生したのは確かです。
だからといって、
「「若不生者」を親鸞聖人が現益と解釈された」とまで言うのは言いすぎだと思います。
(当益と解釈されたからこそ現益が派生したのであって、その逆はありえません。)

いずれにせよ、これらのことは全て、「信楽を獲れば」という前提の上での話であって、
「信楽を獲させる」とはどこにも誓われていません。
もちろん、四十八願が成就した時から今もなお、
【光明】を十方衆生に降り注いでくださっていて、
信楽を獲させよう(名号を受け取らせよう)と働きかけておられるのは事実です。




まあ、この問題はこのブログでも述べていることなのですが、
論拠もしっかりして、わっかりやすい解説ですので最後に挙げておきますね~(苦笑)。


653 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:00:34 ID:eu09B6u2
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に極楽に生まれること」』
> これと
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に必ず
> 極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」』
> この2つには区別が立つというのが本稿での主張です。

> 後者の表現の場合、この「生」は極楽ではなく、

いや、あくまで「生」を「極楽に生まれる」と解釈するからこそ、
前者から後者の意味が派生するのです。

>「死んでから後に必ず極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」とは
> 法の深信で、機の深信の同時に立たない二種一具の深信はないのだから、
> 正にこれこそが、「信楽」の一心の相状を顕すのです。

そもそも「信楽を獲た人は」という大前提があるのを忘れています。
この人の主張によれば、本願の内容は
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
となります。これでは同義語反復であって、何も誓われていないのと同じことになります。

本願の内容はあくまで
「信楽を獲た人を極楽に生まれさせる」
です。(親鸞聖人自身が、あちこちで何度も仰っていますから間違いありません。)
そして、この意味から
「信楽を獲た人は極楽往生が確定する」
という意味が派生し、さらに「極楽往生が確定する」ことを「不体失往生」と定義することにより、
「信楽を獲た人は、その一念で不体失往生する」
という意味も出てきます。(実際、成就文はそういう内容になっています。)
ですから、本願文を深読みすれば、ここまでの意味を導くのはセ-フです。


656 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:13:05 ID:eu09B6u2
>>653の続き

しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、
あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
という同義語反復になってしまいます。
ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。



658 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:28:21 ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。

なお、田中氏は「即得往生」に該当する箇所を本願文では「至心信楽」だと言いましたが、
それは時間的に同じ部分はそこしかないという意味で言ったのだと拝察します。
実際、田中氏は、「即得往生」と「至心信楽」が「同じ意味だ」という言い方はどこにもしていません。




ちび●君の墓穴で、いろいろわかってよかったね

「どこに「死後」って書いてあるの?」→ちび●ボコボコ!!(再掲)

これもついでに再掲載しておきます。
「来週」はまだ来てないけど(苦笑)。


山田さんが「無視」し続けている『尊号真像銘文』に、
代わりにちび●さんが、コメントしてくれてました。

↓↓↓

379 名前:ちび丸:2008/07/11(金) 15:46:13 ID:nvyQRXVb
>まじめな話、ちび丸さんのせいでご縁の遠のいた学徒がいるのでいい加減にしてほしいです。

ではアンチ諸君に歓迎されてるということなので書き込みを続けます。

再掲
>『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。
不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。
このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、
仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

死後の報土往生は当然。誰も否定してない。
現益と当益の関係を聞いてるんだよ。

これのどこに「死後」って書いてあるの?
お答え願えますか?

これに関しては「書いてないから根拠にならない」ということで決定しました。
以後話しを蒸し返さないでください。

380 名前:ちび丸:2008/07/11(金) 15:49:21 ID:nvyQRXVb
「現益」をあげて「難思議往生」と言われているところは多い。

また『論』にいはく、「〈荘厳清浄功徳成就は、偈に
《観彼世界相 勝過三界道》とのたまへるがゆゑに〉と。これいかんぞ不思議なる
や。凡夫人の煩悩成就せるあつて、またかの浄土に生を得るに、三界の繋業
畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃の分を得。いづくんぞ
思議すべきや」。
 この阿弥陀如来の往相回向の選択本願をみたてまつるなり。これを難思
議往生と申す。これをこころえて、他力には義なきを義とすとしるべし。

如来の二種の回向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚
の位に住するがゆゑに他力と申すなり。しかれば、『無量寿経優婆提舎願生
偈』にいはく、「いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずし
て、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たま
へるがゆゑに」とのたまへり。
 これは『大無量寿経』の宗致としたまへり。これを難思議往生と申すなり。
(浄土三経往生文類)

現益をあげて難思議往生と言われていることも確認しておいてください。
ではまた来週。





総攻撃を受けてボコボコにされて、
「来週」は未だに来てませんけど(笑)。

↓↓↓

393 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 19:17:09 ID:7w5a+IHU
>>379

>これのどこに「死後」って書いてあるの

「死後」という語が書いてあるかどうかを尋ねるのはナンセンス。
だって与えられたご文には「死後」って語が出てこないのは明白なのだから。

要は、ちび丸氏は、「このご文は彼土滅度という意味に解することができるの?」
という意味で尋ねている、ということになる。

>『このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、
仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

命題「(現在において)至心信楽をえたるひとが、わが浄土にもしうまれなかったならば
仏にならじとちかいたまえる」
 つまり、「人が至心信楽を獲る(現生正定聚)→わが浄土に生まれる(彼土滅度)」
という現当二益が説かれていると解すべき。

この浄土は彼土滅度、つまり当益(ちび丸氏のことばでいえば「死後」)
を意味すると理解するべきであって、両者を現益と理解することは文脈的に無理。


394 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 19:33:08 ID:7w5a+IHU
>>393
続き

「この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず、待ちまいらせ候べし」(末灯鈔十二)

今はどうか知らないが、以前は、末灯鈔十二における「浄土」は彼土滅度のことを
意味すると、親鸞会では解釈していたはず。
因みに「定めて先立ちて往生し候わんずれば」は必至滅度の願を意識して書かれたのは
明白であり、彼土滅度の当益を意味する。

蓮如上人でいえば、「このこころは」以下は、ほとんど下記と同義になる。
「問うていわく、正定と滅度とは、一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。
答えていわく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもうべきものなり。 」
『御文章』二ノ四通

存覚師の『六要鈔』にも、
「問、定聚。滅度是二益歟、又一益歟。答、是二益也。」 とあり、
真宗では此土において滅度の果を証得するとは解しない。

396 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 21:53:42 ID:gLkvGm/1
そもそもなんで現益がでてくるのかと言えば、
信楽をえたら、摂取してはなさないからだよな
若不生者と誓ってるから。
だから、死後往生すると誓われたことについて
その前の段階として、往生するに定まった状態が生じてくるわけ。
これを正定聚の位に住すと言って、不退転に住すとも、即得往生とも言う。
当益がないと現益が出てこないのよ。

なのに親鸞会は、現益ということがないと当益がでてこないという顛倒した論理を唱えている。
アニメが得にそう。
生まれるということについて、
「死んだら助けるということはありえない」
だから、生まれるということは今世からのことであるっていうすり替えを行っている。

助けるっていう状態がなんなのかっていうと現世での小さな苦しみからの解放ではないよね
生死の苦しみからの解放なのに、
現世利益と同列に問題を論じるから、現益から当益への逆転が生まれる。
まるで、今世おもしろおかしく暮らせれば、来世も安泰だという思考をしている。
しかし、今が明るいからと言って、死も明るくなるとは限らない。

後生の一大事とは、流転への不安だし、死ぬことへの不安。
広義には、解決しなければ生きていても意味がないと思えるものの解決のことでもある。
そういう問題に対して、もし自分で解決することができない人が
来世の生が明るくなると誓ってくださる方に出会えば喜ぶ
来世極楽に生まれると信じて、死の問題を明るくするから、今世も明るくなる。
それは自明の論理であって証明はいらない。


399 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/11(金) 22:49:36 ID:gLkvGm/1
当益がでてくれば、現益は必ずある。
二益と言われるから。
だから、逆説的に現益がない人間は、当益もないと判断できるわけ。
つまり、それはあなた、阿弥陀仏の死後往生を実は信じていないよ?と言われているわけです。
疑情が晴れないから、現益がでてこない。

しかし、現益欲しさに阿弥陀仏を拝んでる人がいればそれはちがう。
現益を解決すれば、死後がはっきりとするという人がいればそれはちがう。

「死んだら助ける」ということではない。
「死ぬまで助かるかどうか分からない」ということがないのです。
なぜなら、真実の信心は、破れることがないのだから
弥陀の言葉を疑うことがない、助かるに決まっているといただくからです。


402 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 00:30:27 ID:xF5TMITZ
至心信楽は現益ではないよ
信心うるから、現益、当益にあずかる

親鸞会の人は信心決定(=信心が一つに定まること=弥陀の真実信心をいただくこと)と
信心によって往生が決定すること(=正定聚に入ること=即得往生)
をごっちゃにしている人多いかもね。

なんせ人生の目的が信心決定だからねw
弥陀が聞いてくれと頭下げてるのに
財施すれば間に合うと思う心を捨てるには徹底的に財施するしかないという会の論理に動員されて
自分の信心をどうにかして、決定させようと日夜努力しているんだろうね。
そういう人には往生ということが分からなくてもしかたないかも
死後がハッキリすると言われ、信心決定したらそういう世界が開けるんだから
今は考えないでおこうと思っているんじゃないかしら
往生のぬけた信心をめざしているから、よく分からない信心というものにふりまわされているんじゃない?


409 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:29:17 ID:xF5TMITZ
まとめ

不体失往生て往生が決定している状態のことでしょ。ということは現益だよねぇ

なら、若不生者で現益「往生定まる位に生ぜずば」を誓われるのは
信楽を獲た衆生に対してのみということなら、問題はないことになるね。十劫安心にはならない。
でも、当益が前提でなければ現益もくずれる。
なぜなら、現益は、当益を約束された本願文を信じた人の心(信楽)が死を前にしても崩れないことを表しているから。
そういう意味では、当益に生まれるという意味でだけでうけとってても、現益がないとはならない。
祖師は本願文を死後だけの意味にしてて、成就文で現益を顕彰している。
宗学的に現益の根拠とするには弱いのでは?
でも異端でもない。

また若不生者で「信楽生ぜずば」と誓われるのは
信楽を獲た衆生に対して二度手間であり、意味不明。
さらに信楽を今えていない衆生がいれば正覚をえている事実に反している。
これこそ十劫安心と言える。
また、至心信楽には信楽をうけとりなさいという意味があると宗祖は説いてるので、
ここで信楽を与えると弥陀が約束していると言える。
でも、ちび丸の根拠によれば、三信生せずばという相伝があるらしいから、
これもひとりよがりの異端解釈とはいえなさそう。


410 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:30:41 ID:WAfdhZt6
>>396
> そもそもなんで現益がでてくるのかと言えば、
> 信楽をえたら、摂取してはなさないからだよな
> 若不生者と誓ってるから。
> だから、死後往生すると誓われたことについて
> その前の段階として、往生するに定まった状態が生じてくるわけ。
> これを正定聚の位に住すと言って、不退転に住すとも、即得往生とも言う。
> 当益がないと現益が出てこないのよ。

>>402
> 至心信楽は現益ではないよ
> 信心うるから、現益、当益にあずかる

以上2つの発言に激しく同意。

つまり、尊号真像銘文のお言葉の通り、本願文に誓われているのは、
「信心(信楽)を獲た人に当益を与える」が根本的な意味であり、そこから、
「信心を獲た時、現益(入正定聚)を獲る」という意味も派生し、実際、
尊号真像銘文で親鸞聖人はその意味も補って本願文を解釈されている。

411 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 02:44:50 ID:WAfdhZt6
>>410
では、その「信心(信楽)」を獲させることまでも、
第18願文に誓われているかというと「NO」である。
48願は全て十劫の昔に成就して、それ故、法蔵菩薩は阿弥陀仏と成られたのだから、
もし、信心を獲させることまでも第18願文に誓われているなら、
十劫の昔に十方衆生は信心獲得したはずであり、十劫安心を肯定することになってしまう。

以上のことを踏まえた上で、再度 >>231(私のカキコ)を読んで頂きたい。
これで完全に筋が通ります。

412 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 03:15:01 ID:WAfdhZt6
>>231より再掲
----------------------------------------------------------------------
この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を
信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。
----------------------------------------------------------------------
※「信楽に生まれさせる御ちかい」でなく、
「信楽【すべしとすすめたまえる】御ちかい」であることに注目!

ただし、上のお言葉の直後に親鸞聖人は
「凡夫自力のこころにはあらず。」と仰っています。
つまり、自力で起こす信心ではないが、第18願で「与える」と誓われたわけでもない
というのが実状です。
要するに「自力の信心」も「十劫安心」も共に間違いです。
では真実はどうかというと、それを明らかにされたのが善導大師の「両重の因縁」です。

http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/2008_625_0047_a8bd.html
------------------------------------
両重の因縁とは、

(因)名号(法体成就の機法一体)
(縁)光明(調熟の光明+破闇の光明)
(果)信心

(因)信心
(縁)名号(信念冥合の機法一体)
   +光明(摂護の光明)
(果)極楽往生

このような関係になっています。
------------------------------------
これは親鸞会の教学解説書にあった内容をどなたかが載せて下さったものですが、
これについては、全く問題ありません。

413 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 03:29:53 ID:WAfdhZt6
なお、名号は第17願で誓われ(その内容を第18願で誓われ)、
光明は第12願で誓われています。

48願がセットになっていて、それらが全て成就したことによって、
十方衆生を成仏まで導くシステムが完成したのです。
その内容を全て第18願に無理に収めようとするから話がおかしくなるのです。


415 名前:神も仏も名無しさん:2008/07/12(土) 04:03:55 ID:WAfdhZt6
>>380
ひょっとして、
「煩悩を断ぜずして涅槃の分を得」=難思議往生、
「正定聚の位に住する」=難思議往生、
と仰りたいのでしょうか?
あなたがイコールで結び付けたいと思っている言葉がたまたま近くにあるのは事実ですが、
かなり強引で無理のある解釈(要するに「思想先行型」)ではないでしょうか?

そもそも、『浄土三経往生文類』は、
「双樹林下往生」と「難思往生」がともに化土往生であることと対比して、
「難思議往生」の特長を明らかにされた文章ですから、
むしろ報土往生のことを言われているはずです。
三願転入のお言葉でも「難思議往生を【遂げんと欲す】」ですから、
親鸞聖人は「選択の願海に転入」した時点ではまだ「難思議往生」を遂げておられません。

「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)の関係

清森問答 親鸞会教義の相対化・78(投稿)より

 今回は「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)について、通仏教的な立場から解説してみたいと思います。(※注)


【1】「プラサーダ」(信楽)の対象は様々

●SraddhA cetasaH prasAdaH. (AKBh 55, 6)
(訳)信とはプラサーダのことである。

と世親菩薩が『倶舎論』で定義されているように、「プラサーダ」は仏教における代表的な「信」であり、阿弥陀仏信仰に限定されたものではありません。

その証拠に、

●athi kho no Avuso satthari pasAdo, atthi dhamme pasAdo. (MN. I.
11)
(訳)友よ、我々には師に対するプラサーダ、法に対するプラサーダがある。

というように、パーリのマッジマ・ニカーヤ(中部)のような所謂「小乘経典」にも「プラサーダ」は説かれていますし、同じくパーリのサムユッタ・ニカーヤ(相応部)には、

●pasAdehi KokAlika SAriputta-MogggallAnesu cittaM. (SN. VI, 9)
(訳)コーカーリカよ、サーリプッタとモッガーラーナに対してお前は心をプラサーダにせよ。

というように、サーリプッタ(舎利弗)とモッガーラーナ(目連)に対する心の「プラサーダ」が勧められています。

 したがって、仏教において「プラサーダ」の対象は一様ではありません。したがって、ある人が「プラサーダ」を起こした際に、その「プラサーダ」が何を対象とした「プラサーダ」であるが問題となるのです。



【2】「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)


 これに関連して、サンスクリット文『無量寿経』願成就文を見ますと、

※親鸞会教義の相対化・21(投稿3)参照
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-76.html

●ye kecit sattvAs tasya 'mitAbhasya tathAgatasya nAmadheyaM
Sr.n.vanti,
SrutvA cAntaSa ekacittotpAdam apy adhyASayena prasAdasahagatam
utpAdayanti,
sarve te 'vaivarttikatAyAM saMtis.t.hante 'nuttarAyAH samyaksaMbodheH.

(訳)およそいかなる衆生であっても、アミターバ如来の名前を聞き、そして聞いてから、深い志によって、たとえ一度でも、浄らかな信を伴った心を起こすならば、彼ら全ては、この上ない完全な正覚より後退しない境地にとどまるのである。

というように、

★「浄らかな信」(プラサーダ、信楽)を伴った心を起こした人が、
             ↓
★「完全な正覚より後退しない境地」(住不退転・正定聚)になる。

ということが述べられています。

ここで大切はポイントとなるのは、

★「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。

★阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。

ということです。

 既に述べたように、プラサーダの対象は様々であり、舎利弗や目連に対してプラサーダを起こしても、「住不退転」(正定聚)になることはありません。あくまでも阿弥陀仏の本願に対してプラサーダを起こした人が「住不退転」(正定聚)になるのです。


【3】阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こした人が、どうして「住不退転」(正定聚)になるのか?

 これはもちろん阿弥陀仏の力によってですが、

★「プラサーダ」(信楽)を起こした人が、極楽浄土に往生することが確定することによって、現世で「住不退転」(正定聚)になる。

ということが非常に大切なポイントになります。

●「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生まれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。『尊号真像銘文』(1)

●「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。『尊号真像銘文』(10)

と親鸞聖人が述べられているように、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」ということが、阿弥陀仏の本願によって誓われています。

 この阿弥陀仏の本願が実現しているから、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」というシステムが完成しており、阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こした人が極楽浄土に往生することができます。

 そして、このようなシステムが阿弥陀仏によって完成されているので、

●必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。『教行信証』行巻

●しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。『教行信証』信巻

というように、「仏願の生起本末」つまり阿弥陀仏が衆生救済の願を起こされた由来と、その願が成就して現に衆生を救済しているということを、「聞きて疑心あることなし」になり「本願力回向の信心」(プラサーダ)を起こしたならば、極楽浄土に往生することが確定します。
 そして、将来間違いなく極楽浄土に往生することができるから、現在この身に「正定聚に入る益」があるのです。


【4】まとめ

いろいろ述べましたので、まとめておきます。

1,「プラサーダ」(信楽)の対象は様々である。
2,「プラサーダ」(信楽)と「住不退転」(正定聚)はイコールではない。
3,阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になる。
4,阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)になった人が、「住不退転」(正定聚)になるのは、「至心信楽をえたるひと→わが浄土に生まれる」「ちかひを信じたる人→本願の実報土に生れる」ということが、阿弥陀仏の本願によって誓われ、そのシステムが完成しているからである。
5,つまり現在この身に「正定聚に入る益」があるのは、阿弥陀仏の本願に対して「プラサーダ」(信楽)を起こし、将来間違いなく極楽浄土に往生することが確定するからである。


※注

「プラサーダ」に関しては、清森問答においても何度か取り上げられております。

~~おうさんのコメントより~~
中村元著「東洋人の思惟方法」第一部一八九頁

「仏教における信仰の観念は、また極めて古い時代からprasadaと云う語を以て表示される。それはまた「澄浄」とも「喜」とも訳された。すなわち仏教における信仰は、仏の法を信じて、心がすっかりしづまり澄み切って、しづかな喜びの感ぜられる心境をいうのである。従ってちょうどprasadaに相当する語を、西洋の言語のうちに見出すことは困難である。仏教の信の心境は、しづかな、おちついたものであって、熱狂的、狂信的な信仰からは、およそかけはなれたものである。……」


~~親鸞会教義の相対化・24~~
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-83.html
 先日、清森さんの依頼で『無量寿経』本願成就文のサンスクリット文を紹介させて頂きましたが、

 現世で不退転に達する(=信心決定する)ためには、阿弥陀仏の名号を聞いた後、最低一度、浄らかな信を伴った(prasAdasahagata)心(citta)を起こす必要があります。

「浄らかな信」(prasAda、プラサーダ)は、「しずめる」「浄化する」「喜悦する」「滿足する」という意味をあらわす動詞、pra-√sadから作られた名詞であり、「心が澄みきって清らかとなり、静かな喜びや滿足の感じられる心境」のことであって、

「誰かに教えられたことを無条件に信じ込む」ような、「思考停止」とは全く異なります。


~~親鸞会教義の相対化・30~~
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-97.html

ちなみに私は、

●本人がプラサーダ(浄らかな信)を伴った心を起こしたかどうか?
=本人が三心を具足したことを自覚したかどうか?

によってしか、信心を判定することはできないと思っています。

一方「思考停止しているかどうか?」は、その人の言動から、ある程度推測することが可能なのではないかと思います。


===================================
※参考思考停止とは(はてなダイアリー)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%D7%B9%CD%C4%E4%BB%DF

【意味】
考えるのをやめること。あるいは、あることに対する判断を放棄して、既成の判断を無批判に受け入れること。

「短絡的な反応」「脊髄反射」「固定観念に基づく判断の枠組みを超えていない」「状況の変化にもかかわらず、以前の方針をそのまま当てはめる」状態を指し、議論において極めて批判的に用いられる。

【使われる場面】
 基本的に、きちんと論証する手間を省いて「自分は正しく、相手は間違っている」ということを簡潔に訴えるために使われる手抜きのための用語。「相手の異論は絶対、間違いであるのに対して、自分は絶対、正論である。つまり自分や相手が、一般常識と世間から見て論理的で無く矛盾した発言をしているのに、ただ感情的に正論と、物事をきちんと判断できない人達を指す時に使用する」
 簡単に言えば「ダメ。ゼッタイ」「絶対、儲かる」「絶対、崇拝しろ」と主張したい人が使う。

 また、左翼・右翼・保守・革新・革命・ネットワークビジネス・法令順守などの立場からの発言ばかりだ、とレッテルを貼って反対意見を馬鹿にするためにも駆使される。

 この言葉を使うこと自体、往々にして、相手の発言を読み取らずに「反~何とか」というレッテルを貼るだけに終わってしまう。すなわち「思考停止」という絶対主義の論理である。
===================================

 なお、kkhate(=kkk)さんご自身が、プラサーダ(浄らかな信)を得ていないと仰っておられたので、

>今後は、「思考停止」ではなく「プラサーダ(浄信)」を求めて頂きたいと思います。

とアドバイスさせて頂きました。


以上



参考1 「若不生者」の「生」は、「極楽に生まれる」じゃなきゃだめ!!
参考2 「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は違う より

653 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:00:34 ID:eu09B6u2
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に極楽に生まれること」』
> これと
>『「若不生者」の「生」は、「死んでから後に必ず
> 極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」』
> この2つには区別が立つというのが本稿での主張です。

> 後者の表現の場合、この「生」は極楽ではなく、

いや、あくまで「生」を「極楽に生まれる」と解釈するからこそ、
前者から後者の意味が派生するのです。

>「死んでから後に必ず極楽に生まれられると生きている今疑いが晴れること」とは
> 法の深信で、機の深信の同時に立たない二種一具の深信はないのだから、
> 正にこれこそが、「信楽」の一心の相状を顕すのです。

そもそも「信楽を獲た人は」という大前提があるのを忘れています。
この人の主張によれば、本願の内容は
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
となります。これでは同義語反復であって、何も誓われていないのと同じことになります。

本願の内容はあくまで
「信楽を獲た人を極楽に生まれさせる」
です。(親鸞聖人自身が、あちこちで何度も仰っていますから間違いありません。)
そして、この意味から
「信楽を獲た人は極楽往生が確定する」
という意味が派生し、さらに「極楽往生が確定する」ことを「不体失往生」と定義することにより、
「信楽を獲た人は、その一念で不体失往生する」
という意味も出てきます。(実際、成就文はそういう内容になっています。)
ですから、本願文を深読みすれば、ここまでの意味を導くのはセ-フです。


656 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:13:05 ID:eu09B6u2
>>653の続き

しかし、「信楽を獲ること」と「不体失往生」とは一念同時ですが、
あくまでも因果関係にあるのであって、同じ意味ではありません。
つまり、「信楽を獲る」と同時に、その結果として「不体失往生」するのです。
それを初めから「不体失往生」=「信楽を獲る」だとしてしまったら、
「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる」
という同義語反復になってしまいます。
ところが「信楽を獲た人を」という大前提を意図的に省くことによって
「(十方衆生を)信楽に生まれさせる」というのが本願だという主張を導いてしまったわけです。

私はこの論法の誤謬を見抜きました。



658 :神も仏も名無しさん:2008/06/27(金) 09:28:21 ID:eu09B6u2
>>656の続き

「信受本願 前念命終
即得往生 後念即生」(愚禿抄)

「前念は後念のために因となる」(教行信証行巻、p.283)

このことから、
「信受本願(信楽を獲る)」が【因】で、
「即得往生(不体失往生)」が【果】であることが、鮮やかに分かります。

仏教では、「因果同時」「因果倶時」というのはよくあることです。

なお、田中氏は「即得往生」に該当する箇所を本願文では「至心信楽」だと言いましたが、
それは時間的に同じ部分はそこしかないという意味で言ったのだと拝察します。
実際、田中氏は、「即得往生」と「至心信楽」が「同じ意味だ」という言い方はどこにもしていません。




そろそろ、これも浸透してきたんじゃないかな~(苦笑)。
 ↓↓↓
ツッコミ!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する より~
★親鸞聖人の言葉に基づき「若不生者 不取正覚」と「即得往生、住不退転」が時間軸上別の時点に配置されることを証明し、【「若不生者 不取正覚」=「即得往生、住不退転」】とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを論証しました。

★親鸞聖人の言葉に基づき「信楽の者→正定聚」と「信楽=正定聚」は全く違うものであることを証明し、「信楽=正定聚」とするチ●ーリップ企画(=親●会)の主張が、「信楽の者→正定聚」とお説きになられている親鸞聖人の教えと異なるヘンテコドグマであることを証明しました。

ツッコミ!!【第33回】弥陀の救いは一念で完成する より~


これまで注入されたものが強固だから、
解除するにも相当時間がかかるのね(苦笑)。

よい子のみんなは、もうわかってると思うけど・・

最近のチ●ーリップ企画の更新は、だいたい5日に一回ペースなんで、
明日がとっても楽しみです♪

今日は、更新直前の意地悪企画だよ~(笑)。

よい子のみんなは、もうわかってると思うけど、

「若不生者不取正覚」の「生」は
「死んで極楽に生まれる」ことではなく、
「平生に信楽に生まれる」ことである、
と教えられているのが親鸞聖人であることは明らかであろう。


このチ●ーリップ企画(=親●会)ドグマの根拠として、
以下のものが挙げられても騙されちゃだめだよん。
だって、もう既に論破されてるんだも~ん♪


 ↓ ↓ ↓

1)「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」『浄土和讚』

【チ●ーリップ企画の解釈】

当方が先のメールで申しあげたのは、良く読んで頂けば分かると思いますが、『その「信楽をえる」には、「若不生者」の誓いなくしては絶対にできないと教えられたのが親鸞聖人』と申しあげたはずです。

 それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。

 ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。


【親●会公式HPより】

大宇宙最高の仏であり、十方諸仏の指導者であられる阿弥陀如来は、その本願に、「若不生者不取正覚」(若し生まれずは、正覚を取らじ)と誓われている。もし苦悩の根元の無明の闇をぶち破り、晴れて大満足の「信楽(しんぎょう)」の身に生まれさせることができなければ、この弥陀は、正覚(仏の命)を捨てましょう、とのお約束なのだ。

本師本仏が命を懸けた「若不生者の誓い」があるから、この世で、「信楽」と一念慶喜する時が、必ずある。同時に、いつ死んでも浄土往生間違いない身にハッキリ定まるのである。


【田中さんの反論】

>それは、「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜する人は 往生かならず定まりぬ」と、親鸞聖人がおっしゃっているからです。


 少しでも古文の知識があれば、読み間違えるはずのない文章だと思いますが、なぜ間違われたか不思議です。


 これは、阿弥陀仏が「若不生者」と誓われているから、「信楽まことにときいたり、一念慶喜する」人は、「(死んで)往生かならず定まりぬ」ということです。信楽になる時が至り、一念で慶喜する身になった人は、死んで必ず極楽に往生させると誓われたのが、弥陀の十八願だという意味です。

 貴方は「ときいたり」で文章を切って理解しておられるようですが、ここで切るならば、終止形の「いたる」(過去形なら「いたりき」)とならねばなりません。親鸞聖人が、こんな文法のミスをされるはずが無いと思います。

 また、これは十八願の解説ですから、親鸞聖人の解釈を元に読まねばなりません。

 尊号真像銘文には『「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。』

『「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。』と記述されています。


 つまり、文法的に見ても、親鸞聖人の解釈から見ても、この文章は「若不生者と誓われているから、信楽をえた人は、死んで往生することが、かならず定まるのだ」という意味になります。



>ですから、「若不生者」と「信楽をえる」は、不離の関係があると前にも申しあげました。それなのに田中様は、どう勘違いされたのか、この度、「信楽をえる」と「若不生者」は全く違う、とおっしゃっています。どうして、この二つは全く違うのでしょうか。お尋ねします。


「関係」という言葉は、違うものをつなげる言葉です。違うものだからこそ「関係がある」と言えるのです。「若不生者」と極楽に生まれられるのは、「信楽をえた」人だけです。だから、不離の関係があるのです。しかし、「極楽に生まれる」ことと「信楽をえた」ことは、全く違います。


【清森さんの補足説明】

 「若不生者のちかいゆえ」の御和讃については、「時至り」の解釈が問題になると思いますが、古文の文法については、詳しく知りませんので、古文を教えている知り合いに、文法的な意味を教えてもらいました。

 以下に引用させて頂きましたが、やはり、「若不生者と誓われているから、信楽がまことに時至るのだ」とは読めないようです。

        *      *      *

>  さて、ご質問の件ですが、“至り”という単語は、古語ではラ行四段活用になり、
>
> 語幹 -至
> 未然形-ら
> 連用形-り
> 終止形-る
> 連体形-る
> 已然形-れ
> 命令形-れ
>
>  このように活用します。“至り”は連用形ということです。
>  連用形には、4通りの使い方があります。
>
> 1、用言が続く(連用法)
> 2、文を一旦区切って、そのまま次に続ける(中止法)
> 3、名詞に転じる
> 4、助動詞、助詞が付く
>
>  ご質問の文章では、“至り”で止めてありますので、2か3の用法です。
>
> 2は、現代語で分かりやすく言えば、“酒を飲み(連用形)、酔っぱらって帰った”というような使い方です。
> 3は、例えば“遊び”という“遊ぶ”の連用形が、名詞のように使われている場合です。(ちなみに古語では“演奏”という意味です)
>
>  ご質問の文章では、名詞的に使われていませんので、2の用法になります。
>  ですから、御返答としましては、
>
> “信楽まことに時至り”で切ることはできませんので、“信楽まことに時至り、一念慶喜する人”を、一つの言葉として、訳してください。
>
        *      *      *

 上記の説明からも、この御和讃は、

阿弥陀仏が、若不生者と誓われているから、
『信楽にさせていただける時がまこと至って、一念慶喜する身になった人』は、
必ず浄土往生できると定まるのだ。

と理解するのが正しいと思います。



→古典文法&親鸞聖人の教えがわかれば騙されません!!


あと、

「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。
貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。

 ↑
もちろんこれもアウトね(苦笑)。

親鸞会教義の相対化・73(投稿)より
(89)
一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(訳)
 聖教を拝読していても、注意せずにぼんやりと読んでいてはそのかいがない。蓮如上人は「もっぱら聖教を繰り返し繰り返し読みなさい」と仰せになられた。
 また百遍繰り返して読めば、その意味がおのずから理解できるということがあるから、それを心に留めておかなければならない。聖教は、文字に書かれている文面の通りに理解するべきである。その上で師匠からの伝承や口伝えの解釈というものがあるのである。自分勝手な解釈をすることは決してしてはならないのである。

(中略)

 また、親鸞会ドグマに基づく親鸞聖人の言葉の解釈を、田中氏に古典文法の間違いや親鸞聖人の言葉との矛盾から指摘されたにも関わらず、

>>>
「文法を無視してではなく、文法の通用しないことだ」ということです。不可称、不可説の言葉にかからない境地の表現だから、間違った文法も、へちまも、あるはずないではないか、と言っているのです。
貴方は、文法の通用しないものを、文法の常識で読もうとしているから解釈を間違えてしまうのだと思います。
>>>

などと居直るチューリップ企画の山田氏も、明かにこの蓮如上人の教えに反していると思います。



『蓮如上人御一代記聞書』所収の蓮如上人の言葉だったら、
流石に親●会関係者にも権威があるでしょう(苦笑)。


2)『改邪鈔』の「生まるべからざるもの」

【チ●ーリップ企画の解釈】

「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。

だが、その「信楽」という高校に合格するのは、大変難しいと親鸞聖人は「信楽受持すること甚だ以て難し」(正信偈)と教えられています。それは、釈尊も、親鸞聖人も、蓮如上人も同じです。そのように「信楽をえる」ことが難しいから、「浄土」に生まれる人は少ない、と、善知識方は仰っているのです。そんな難しい「高校」に、どうして我々は合格できるのか。本願力(若不生者の念力)によってか、どうか、が今論じられているのです。

それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。

「本願力」(若不生者の念力)によらねば、絶対に「信楽をうる」ことはできないことは、貴方も認めていることですが、「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。

「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」という可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。



【田中さんの解説】

この改邪抄の記述は、少し前の部分の「仏、願力の不思議をもって無善造悪の凡夫を摂取不捨したまう時は」の解説です。つまり、「生まるべからざるもの」とは「無善造悪の凡夫」のことであり、「生まれさせた」とは「摂取不捨したまう時」のことを表しています。

「摂取不捨したまう時」とは、歎異抄一章に『「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめ給ふなり。』と記述されている通りです。

この 「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて、という部分は、本願文の「至心信楽欲生我国」に当たります。根拠は既出ですが、

『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえるなり。』

さらに、この摂取不捨の利益にあづかった人が、極楽浄土に生まれなければ仏にならないと誓われたのが「若不生者」だと、記述されています。

『この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらいにさだまるとみえたり。「若不生者不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』

このように、親鸞聖人の記述から、改邪抄の「生まれさせた」は、生きている間であり、「若不生者」の「生」は死後であることが明らかです。



【上記チ●ーリップ企画の解釈に対する田中さんのツッコミ】

>「高校の合格」に例えたのは、「必ず好きな大学に入れる」とハッキリしたことであり、「信楽」という高校に合格したのに、「極楽」という大学に入れないことは絶対にないということです。

貴方の主張は、「阿弥陀仏が、必ず極楽に生まれさせると誓われなくても、信楽をえた人は、必ず極楽に生まれられる」ということですか?

>それに対して貴方は、「阿弥陀仏が、必ず高校に合格させると誓われているのなら、高校受験に全力を尽くすことは要りませんね」と皮肉り、「じゃ、なんのために勉強するのでしょうか」と、高校受験の努力の必要性をほのめかされている。それでは、我々の努力が「信楽をえる」のに間にあうかのように取りかねませんよ。

『その「高校」にさえ合格出来れば、必然的に好きな「大学」へ行けることがハッキリしているのですから、高校受験に全力を尽くすでしょう。』

上記は、貴方の言葉ですが、何に全力を尽くすのですか?

>「本願力」によるのだから「信楽をうる」のは易しいことだと貴方が言うなら、釈尊の「浄土へは往き易いけれども、人なし」も、親鸞聖人の「仏願力には帰し難く、大信海(信楽)に入り難し」も、「真実の信楽、実に獲ること難し」も、蓮如上人の「真実信心(信楽)の人は、ありがたきゆえに、実報土に生まるる人稀なり」の聖語もみな無視する、浄土真宗の教えになりません。

「阿弥陀仏が、必ず信楽に生まれさせると誓っておられるから、必然的に信楽になれる」と主張されているのは、貴方ではありませんか?

必然的に信楽になれるのなら、なぜ「難し」と言われるのでしょう。

上記の根拠は、貴方の主張が間違っている証拠です。

>「若不生者」の念力で、「信楽に生まれさせられた人」が「極楽に行けない」いう可能性があるとすれば、阿弥陀仏が「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」と誓われている、大前提が崩れると言っているのです。

つまり、「若不生者」は「信楽に生まれさせた人を、必ず極楽に生まれさせる」という意味だと、認めたということですか?

※苦笑注 次ぎのメールで田中さんの質問をチ●ーリップ企画はオール無視!!(苦笑)



→「信楽に生まれる」ことを阿弥陀仏が誓ってたら、
 「生まるべからざるもの」になりましぇ~ん(苦笑)。


【Bさんの解説】

今、一番の問題となっているのは覚如上人の
「生るべからざるものを生れさせたればこそ」
というお言葉が現益・当益のどちらを言われたものか、という点です。あの後、調べてみたら、その文の前にある「往生浄土の器もの」という言葉を受けて、実際に当益と解釈している本が見つかりました。私はその説を支持します。あなたが「現益だ」と主張されるのであれば、その理由を明確に述べてください。

>「生まれさせたればこそ」が当益ならば「生まるべからざるもの」とは何ですか。
> 正定衆の菩薩が死んで仏に生まれても、何の不思議ですか?

信楽を獲た人は、法徳から言えば「正定衆の菩薩」ですが、機相から言えば「煩悩具足の凡夫」のままですから、「生まるべからざるもの」であることに変わりはありません。「生まれさせたればこそ」が当益であると仮定しても何も矛盾しませんよ。

(略)

その進道の階次をいうとき、ただおなじき座席なり。しかるうえは、かならずしも俗の二種をしりぞけて、道の二種をすすましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちいる条、本形としては、往生浄土のうつわものにきらわれたるににたり。ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。


『浄土に生まれ、順序を言う時は、いずれも同じ座席についているのである。こうした訳だから、俗の二種を低く押し退けて、僧の二種を高く押し進ませる必要はないのに、婦人や在俗のものが、強いて法名を用いるのは、いかにもそのままの形では、浄土に生まれる器ではないと、嫌われているかのようである。ただ男女・善悪の愚かな人に、さかしらな才能を働かせない生地のままの姿において、本願の不思議な働きによって、浄土に生まれることが出来ないものをも生まれさせたからこそ、「いつの世にも超え勝れた願」と名づけたり、「一足とびにさとることの出来る捷径」ともいわれる訳である。この一章は、ことに曾祖師、並びに祖師以来、相伝え、受け継いできた眼目であって、強いてかりそめに扱ってはならないものである。』

(【改邪抄】親鸞述 石田瑞磨訳 平凡社)




3)「「本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)」『愚禿抄』

これはもういいよね?(苦笑)

ツッコミ!【第18回】親鸞聖人の即得往生の解説


既に論破されているものを、
忘れた頃にまた出すのはインチキですから、
それが二度とできないように、
晒しものにしておきますよん(苦笑)。

阿弥陀仏のマニフェストが四十八項目あるって知ってる??

これは昨日の続きね。

阿弥陀仏は「このマニフェストが実現しなければ仏にならない」という、
マニフェストを実現して、法蔵菩薩から阿弥陀仏になったわけだけど、
そのマニフェストに四十八項目あるって知ってる??

もちろん、マニフェストの十八番目が一番大事なんだけど、
他のマニフェストも不必要なもんじゃないのよね。
そういうことが、なんかイマイチわかってないんじゃないかな~(苦笑)。

「一番大事」っていうのを、「全部それに收められる」みたいな感じに、
「味わう」ぐらいならいいんだけど、それを固定的にドグマ化してしまったから、
こういうややこしい問題が出てきちゃったんじゃないかな~。

なんかよくわかんないけど、「味わい」まで硬直させてドグマ化しちゃう教義ってのは、
ちょっと、揺さぶられるとこんなにも脆いものなのよね(苦笑)。

というか、親●会の「阿弥陀仏」っていうのは、
「信楽に生まれさせるというマニフェストが実現しなかったら辞任する!」
というマニフェストを立てている「阿弥陀仏」だから、
ひょっとして、僕ちゃんが思っているのと別の阿弥陀仏なのかもしれないけどね(苦笑)。

「正覚を取らじ」は「命を捨てる」?

某巨大掲示板サイトより

355 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/12(土) 12:39:48 ID:YYE+p5fC
>>350
現益も本願力(願力自然)でいただくのは、その通りです。
「現益をいただく」=「名号をいただく」です。
名号を与える働きが「光明」です。
光明無量を誓われたのが第十二願です。
ですから、「第十二願力によって名号が与えられ、現益が獲られる」という言い方もできます。
また、「三願転入で、第十八願の世界=当益が確約された世界=現益が獲られる」
という言い方もできます。(この場合、第十九願力と第二十願力で現益をいただく、
ということになります。)
つまり、「本願力」=「四十八願全体の力」と考えるのが自然であり、
なにも「第十八願力」に限ったことではありませんし、まして
「本願力」=「若不生者の念力」などど勝手な造語と結び付けるのは単なるこじつけです。
「本願力」=「四十八願全体の力」という意味で言うなら、
現益も当益も本願力でいただくというのは、まさしくその通りです。


376 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/12(土) 13:44:11 ID:YYE+p5fC
第十八願が四十八願の一番のメインであるのは確かですが、
本願力(阿弥陀仏のお力)を「第十八願力」に限定し、さらにそれを
「若不生者の願力」と勝手に言い換え、それを根拠に
「若不生者には現益の意味もある」と主張したい気持ちはよく分かりますが、
かなり論理に飛躍があり、やはり「初めに結論ありき」の「こじつけ」でしかないと感じます。
もっと明確に「若不生者には現益の意味もある」と仰った親鸞聖人のお言葉を
出してみなさいよ。明確に当益で解釈されたお言葉は複数あるのに、
それと同じくらい明確に現益で解釈されたお言葉が一つも出せないというのは
やっぱりおかしいですよ。

あと、素朴な疑問ですが、「若不生者」の「生」に
「信楽に生まれる」と「報土に生まれる」の2つの意味がもしあるなら、
それを補った上で、本願文をどのように書き下して読むのですか?

602 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/18(金) 21:09:37 ID:HA1V4xsT
本願文は「…欲生我国(乃至十念)若不生者…」ですから、
普通に読めば「若不生【我国】者」のはずです。つまり当益です。
成就文も「…願生彼国 即得往生…」ですから、
普通に読めば「即得往生【彼国】」のはずであり、「往生」の部分はやはり当益です。
この意味で、本願文と成就文はちゃんと対応していますよ。
しかし、当益を約束する本願が成就した結果、
名号を頂いた平生の一念ですぐに「彼国に往生できるという確約(保障)」が「得られる」のですから、
それはもう「往生したも同然」という意味で、
そのことを親鸞聖人が大胆に「不体失往生」と名付けたのではないでしょうか?
つまり、「当益を得ることが保障された状態になること」が現益なのですから、
当益と現益とは相反するものではありません。
(もちろん親鸞聖人は「背師自立」ではありません。)
おそらくこのような背景があって、親鸞聖人は「即得往生」を現益で解釈されたのだろうと
拝察されます。
しかし、その親鸞聖人が「若不生者」までも現益に読み替えられたお言葉は見つかりません。
(理由はともかく、この事実をまずは謙虚に厳粛に受け止めるべきです。)
成就文は本願が成就したという前提がある故に現益に読み替えることが可能だったのでしょうが、
もし本願の「若不生者」までも現益に読み替えてしまったら、
究極の目的である当益がどこにも誓われていないことになり、その結果、
「現益」もなくなり、「無益」になってしまうんです。
「現当ニ益」の教えの「本」は本願であることを忘れてはなりません。


605 :神も仏も名無しさん[]:2008/04/18(金) 21:28:18 ID:HA1V4xsT
(602のつづき)
ただし、本願が成就したという前提の上で、成就文の立場から再び本願文を眺めれば、
「若不生者」も現益で「味わう」ことができるのかもしれません。
実際、大沼氏はそのように味わいました。
しかし、それはあくまで当益が本義であることを十分に踏まえた上でのことです。
ところが、高森氏は、その大沼氏の「味わい」を本義だと思い込み、
逆に、当益で解釈するのを「間違いだ」と主張し、
アニメでも親鸞聖人自身にそう言わせています。
これでは本末転倒でしょう。
「大沼氏のパクリ損ない」と言われる所以です。
(もっとも、田中氏から、親鸞聖人が当益で解釈された根拠を突き付けられた結果、
当益で解釈するのを「間違いだ」という主張は撤回し、
「現益と当益の2通りの意味がある」という主張に修正しましたが…。)




清森問答 質疑応答139コメント覧より

Bさんの解説

> ここは12願ではなく18願の「信楽」の解釈ですよ。

(17願で誓われた【名号】を)12願で誓われた【光明】によって阿弥陀仏が「回施」することで、18願の「信楽」が発起するということです。それで何か問題ありますか?

> 至心信楽の願を説明するのに「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせる
> というお約束だ」と言ってはなぜいけないのか。

それなら、
「至心発願の願」(19願)は「発願の心にしてみせるというお約束だ」、
「至心回向の願」(20願)は「回向の心にしてみせるというお約束だ」、
と言っていいんですか?
あなたの論法をそのまま応用すると、そういうことになりますよ。

・・・

質疑応答136より再掲。
-------------------------------------------------------------------------------------

19願「至心発願の願」
   =至心発願した人を、浄土往生させるという誓い

20願「至心回向の願」
   =至心回向した人を、浄土往生させるという誓い

ということを考えても、

18願「至心信楽の願」
   =至心信楽した人を、浄土往生させるという誓い

であることは明白であり、『至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじ』と、親鸞聖人が仰った通りです。

・・・

「全ての人を信楽に生まれさせる」という約束が十劫の昔に成就した、というのが本当なら、いわゆる「十劫安心」を肯定するものであり、決して「枝葉末節」ではなく、重大な誤りですよ。

「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじ」という親鸞聖人のお言葉で初めから結論が出ているのに「重箱の隅をつつく」ようなことを言っているのはむしろ親鸞会側ですよ。(言われれば無視するわけにはいかないので応じているだけです。)

・・・

> 質疑応答141で結局、清森氏も『「信楽にする力」については、
> 光明が12願なので、18願だと断定するのには不安がありますが、
> 五願は18願に納まるという考え方からは、そのようにも言えると思います。』
> とお認めになりましたよ。

清森氏は、
「断定するのには不安がありますが」と前置きした上で、
「五願は18願に納まるという考え方からは」という条件付きで、
「そのように【も】言えると【思います】。」と言っているだけです。
「信楽にする力」は調熟・破闇の光明で、
「信楽になった人を浄土に往生させる力」は摂護の光明ですから、
ともに「阿弥陀仏のお力」であり、密接な関係にあることは私も否定しませんよ。
しかし、清森氏は、
----------------------------------------------
> お聖教には「十八願=信楽にする誓い」と直接的に書かれているところが無い以上は、
> 「十八願は信楽にしてみせるという誓い」という表現はすべきではない、ということで宜しいでしょうか。

そうですね。
----------------------------------------------
というように釘を刺しています。ここを無視して都合のいい部分だけを引用するのはやめていただきたいものです。

> 宗学の定規を当てないで字面だけを見て勝手なことをおっしゃられては困ります。
> 十九願は自力で二十願は半自半他、十八願は絶対他力です。

そんなことはもちろん分かっています。私はあくまで、
「あなたの論法をそのまま応用すると」と言ったじゃないですか。

> 至心信楽の願を説明するのに
>「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」
> と言ってはなぜいけないのか。
> 親鸞聖人は第十八願の主眼は信楽とみぬいて
> 『至心信楽の願』ともおっしゃっておられるのですよ。
というように、18願が「至心信楽の願」と名付けられていることを根拠に
「信楽の心にしてみせるというお約束だ」と、あなた自身が
「字面だけを見て勝手なことをおっしゃ」たわけですから、
仮にそういう論法が通用するなら19願・20願についても同じことが言えてしまうではないか、と言ったまでです。つまり、そういう論法は通用しないのです。

> 親鸞聖人が名付けられた『至心信楽の願』に
> 『如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて
> 諸有海に回施したまへり。』
> (顕浄土真実教行証文類 信文類 信楽釈)
> の定規を当てて
> 「阿弥陀仏の本願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」
> と言ったのですよ。

第18願の「信楽」の心になれるのは阿弥陀仏のお力によってであることは誰も否定していませんよ。しかし、そのことと「第18願とは、信楽の心にしてみせるというお約束だ」という主張には隔たりがあることが分かりませんか?

繰り返しますが、48願は全て十劫の昔に既に成就したのですよ。だからこそ、法蔵菩薩は正覚を取られたのだし、釈尊は「成就文」を説かれたんですよ。
もし、第18願に「全ての人を信楽に生まれさせる」と誓われていたとするならば、
十劫の昔に全ての人は信心獲得しているはずなんですよ。これは「十劫安心」以外の何物でもなく、とんでもない邪義です。
「十劫の昔に薬は完成したけれども、それを飲まなければ病気は治らない」
と、親鸞会でも説きますよね。それはその通りです。ところが、
「薬を飲む」=「名号を聞く」=「信心(信楽)を獲る」ですから、
「信楽の心にしてみせる」ことまで約束されてそれが成就したというのであれば、
「薬を作るだけでなく、薬を飲ませることまで約束して、それを果たした」ということと同じですから、これが「十劫安心」でなくて何でしょう。あくまで、
「薬が完成している」ということと「その薬を全ての人に飲ませようと阿弥陀仏は常に働きかけておられる」という事実があるのみです。これなら筋が通ります。

・・・

> B(本物)氏や清森氏は
> 「全ての人を信楽の心にさせ必ず報土往生させるシステムが十八願のお約束」
> と主張しているのですか?

私は「全ての人を信楽の心にさせ」なんて主張していません。
とんでもない読み間違い(意図的な曲解?)ですね。
私が質疑応答138で書いたのは以下の通りです。
----------------------------------------------
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。


「信楽の身」になるための働き

これを読んだら、「若不生者の念力」とか、怪しいドグマは必要ないことがわかります(苦笑)。

清森問答 質疑応答138コメント覧より

B(本物)さんの解説

あなたは善導大師の「両重の因縁」を知らないのですか?
(親鸞会の教学聖典にもありますよ。)
その中で、名号が因、光明が縁となって、信心が獲られると教えられています。
つまり、信心の体は名号であり、それを与えようとする働きが光明(調熟の光明、破闇の光明)です。

名号は第17願で誓われていますし、
光明は第12願で誓われています。

(私の説明が「ぶっきらぼう」でも、『執持鈔』 【四・光明名号因縁の事】 (p.685) に丁寧に書かれていますから、それを読めばよく分かりますよ。)

ですから、私達が信心(信楽)を獲得するのは阿弥陀仏のお力であることに間違いありません。「第何願か?」については、第12願と第17願と言えます。

しかし、
「阿弥陀仏のお力によって信楽を獲得する」ということと、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」ということとは、
明確に区別しなければなりません。
第18願(のみならず48願全体)は十劫の昔に成就したのですから、
「『全ての人を信楽にする』と第18願に誓われている」が正しいならば、
全ての人は十劫の昔に信心獲得しているはずですよ。
これでは十劫安心になってしまいます。
第18願が成就したというのは「信心を獲た人を浄土に往生させる」というシステムが名号となって十劫の昔に完成したということであって、その名号を与えるために阿弥陀仏は今もずっと光明を私達に降り注いでくださっています。
これで完全に筋が通ります。



清森問答 質疑応答139コメント覧より

B(本物)さんの解説

第18願の内容は、直接的には
「信心を獲た人に当益を与える」ですが、この願が成就したことによって、
信心を獲た一念で、当益が得られることが確定し、副産物として現益も獲られます。
ですから、成就文には現益が説かれていますし、親鸞聖人も『尊号真像銘文』(p.586)に、「乃至十念」と「若不生者」の解釈の間に現益の意味を挿入しておられます:
「この真実信心を得む時、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まると見えたり。」
ですから、結果的には現当二益が誓われていると理解できます。

ただし、その「現益」も、真実信心を獲得することによって獲られるものであって、
「信心」と「現益」とは因果関係にあります。
一念同時ではありますが、決して同じ概念ではありません。

「信心を獲た人に現当二益を与える」と誓われた、という理解は正しいですが、
「全ての人に信心を与える」と第18願で誓われた、ということにはなりません。



清森問答 質疑応答140より

清森さんの解説

●難思の弘誓は難度海を度する大船

「難思の弘誓」とは、弥陀の18願のことです。
「難度海を度する大船」とは、この娑婆世界から、浄土まで渡して下さる船という意味です。

 ですから、これは「18願は、必ず浄土に連れていく誓いである」と親鸞聖人が仰ったお言葉です。


●無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり

「無碍の光明」は阿弥陀仏のお力のことです。
「無明の闇を破する」とは、信楽になることです。

 ですから、「阿弥陀仏のお力によって信楽になれる」と仰ったお言葉です。


 では、これを、「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる約束」と言い換えて良いでしょうか?

 光明を誓われたのは12願ですが、どこを探しても「必ず信楽にさせる」とは誓われていません。12願をそのように解釈されている善知識も1人もありません。

 また、これを五願開示に当てはめて、「信」の働きと、言えないことはありませんが、12願にさえ「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる」と誓われていませんので、まして18願を「命をかけて、必ず信楽にさせてみせる」と解釈するのは無理があると思います。


 喩えにつきましては、「Aならば、必ずBにする」という文章と、「必ずAにする」という文章は、決してイコールにならない、ということを示すためです。

 何でも、かんでも当てはめないで頂きたく思います。私が、何を喩えているかという、本質を分かって頂けば、このような誤解は無かったと思いますが、文章力不足をお詫び致します。

 もちろん、「Aの力によって、Bになる」という文章と、「Aは必ずBにすると誓っている」という文章も、イコールではありません。

 この辺りを、混同して考えている方が、多いように思います。



 私も、長年信じてきた、「命をかけて、必ず信楽にしてみせる」という解釈が、間違っているとは思いたくありません。

 どこかに、そのような根拠は無いかと、徹底的に探しました。

 皆さんから質問されるような内容は、すべて検討済みのものばかりです。

 しかし、残念なことに、調べれば調べるほど、明らかになるのは「必ず浄土に生まれさせる」という解釈以外は有り得ない、ということです。



 皆さんが、何とか18願を、「必ず信楽にしてみせる」と解釈したいという気持ちは、痛いほどよく分かりますが、釈尊も、善知識方も「必ず浄土に生まれさせる」としか解釈されていないという歴史的事実は曲げようがありません。


 高森先生は、おそらく個人的な味わいで「信楽に生まれさせる」と言われているのだと思います。

 ですから、「釈尊、善知識方とは違う、個人的な味わい」ということを、よく踏まえた上で、聴聞されたら良いと思います。



かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(後半)

CMではなくて、臨時でインチキ暴きが入りましたが、
気を取り直して、それでは後半行ってみよう!!

親鸞会教義の相対化・42

【下巻p.149~】他力

>>>
「他力」というと、「他人のふんどしで相撲をとる」ことのように考え、力のない人間が力のある人間に助けを求める依存心だと思っている人が多い。新聞なども堂々と「他力本願ではいけない。自力更生でなければならぬ」と書きたてている。
では、他力とは一体どんな意味なのか。親鸞聖人が『教行信証』に明示されているように、阿弥陀仏の本願力のみを他力というのである。他力の語源は仏教なのだから、仏教の意味にしたがわなければならない。他力の他は阿弥陀仏のことに限るのである。
>>>

ここまでの解説は素晴らしいと思います。全くその通りです。

>>>
では阿弥陀仏の本願力とは、どんなお力なのか。親鸞聖人は『和讚』に、「無明長夜の闇を破し、衆生の志願を滿てたまう」力であると鮮明に教えられている。
阿弥陀仏の本願力とは、我我の暗い心(苦悩のたえない心)を打ち破って日本晴れの大安心にするお力であり、衆生の一切の志願を滿たして大満足心で生きぬけるようにしてくださるお力である。
>>>

ただし、この部分には賛成できません。

無礙光如来の名号とかの光明智相とは
無明長夜の闇を破し衆生の志願をみてたまふ
『高祖和讚』曇鸞讚

とあるように、「無明長夜の闇を破し衆生の志願をみてたまふ」
働きがあるのは、「無礙光如来の名号」と「かの光明智相」です。

『高祖和讚』から引用するのであれば、むしろ、

本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて煩悩の濁水へだてなし
『高祖和讚』天親讚

天親論主は一心に無礙光に帰命す
本願力に乘ずれば報土にいたるとのべたまう
『高祖和讚』天親讚

煩惱具足と信知して本願力に乗ずれば
すなわち穢身すてはてて法性常楽証せしむ
『高祖和讚』善導讚

などを引用すべきだと思います。「本願力」と書かれているのですから当然ですね。


その阿弥陀仏の本願力によって、阿弥陀仏の名を聞いて極楽に往生しようと欲すれば、皆ことごとく彼の国に至って、自然と不退転に至る。
(『無量寿経』巻下東方偈)

と釈尊が述べ、

我が力にて生死を離れ亊励み難くして、偏に他力の弥陀の本願を憑(たの)むなり。
『要義問答』(昭法全六一九頁)

(訳)
自分の力で輪廻を離れようとすることが難しいから、ひとえに他力である阿弥陀仏の本願を頼りにするのである。

と法然上人が述べておられるように、阿弥陀仏の本願を信じるものを極楽浄土に往生させ、輪廻を離れさせるのが、「他力」(=阿弥陀仏の本願力)の「仏教の意味」です。

>>>
もし、名号を与えようとする働きが名号自体に込められていて、
そのことが本願文に誓われているのなら、
本願が成就した時点、すなわち名号が完成した時点(十劫の昔)で、
十方衆生にその名号が与えられ、十方衆生は信楽を獲て、
十方衆生はとっくの昔に浄土往生を遂げているはずです。
つまり、山田氏の主張は十劫安心そのものになるんですよ。
「名号という薬が完成したこととその薬を飲んだこととは違う」
という説明で親鸞会は十劫安心を破邪していますが、
もし「薬を飲ませること」まで本願に誓われているのなら、
本願が成就した時点で十方衆生は救われているはずなのですから、
十劫安心を肯定することになるんですよ。
これは重大な誤りです!
>>>

 これはチューリップ企画と田中さんの法論を掲載したブログで、親鸞会員と思われる方と場外乱闘をしていたCさんが仰った言葉ですが、非常に的を得ていると思います。
 本書の「他力」の解釈は、チューリップ企画の山田さんと同じ誤りを犯しています。



「他力」の解釈が狂って「十劫安心を肯定」
はヤバイっしょ(苦笑)。

ついでなので、Cさんの活躍する場外乱闘をダイジェストで挙げておきますよん。

> 阿弥陀仏は十八願において
>「すべての人を、信楽の心に生まれさせる。」
> と誓われ、

これこそが、証明すべき命題なのに、これを前提に話を進めているのは循環論法です。

> ところが田中氏は、故意か見落としなのか「真実の信心をえ
> たひとは」などのお言葉を抜かして、「当益の意味だ」とい
> う思い込みで自分に都合よく解釈するから、

田中氏は一貫して「信楽を獲た人を浄土に生まれさせる」という意味に解釈していますよ。あなたが勝手に田中氏の主張を歪曲しているだけです。
論点は、「信楽を獲た人を浄土に生まれさせる」ということから、「全ての人を信楽に生まれさせる」という意味が導けるかどうかです。

名号を薬に喩えるなら、本願文は効能書きです。
効能書きには「この薬を飲んだ人は浄土に生まれる」と書かれています。あなたの主張は「薬を飲ませようとする働き」も効能書きに書かれているというものです。「薬を飲ませようとする働き」がその薬自体にあるわけないじゃないですか。その薬を作った医者である阿弥陀仏が私達にその薬を飲ませようとしておられるというのはその通りです。

名号を船に喩えるなら、本願文は設計図です。
設計図には「この船は乗組員を浄土へ連れて行く船だ」と書かれています。あなたの主張は「船に乗せようとようとする働き」も設計図に書かれているというものです。「船に乗せようとする働き」がその船自体にあるわけないじゃないですか。その船の船長である阿弥陀仏が私達をその船に乗せようとしておられるというのはその通りです。

田中氏はあくまで本願文(第18願文)に書かれている内容だけを問題にしているのです。阿弥陀仏の御心は第18願文だけで全て言い尽くされているわけではありません。だからこそ、本願が成就した後、釈尊が、名号を与えてくださるのも阿弥陀仏のお力であり、名号を受け取った一念で浄土往生が確定するということを、本願成就文で教えてくださったのです。

何だかんだいっても、書かれていない内容は書かれていないのです。本願文に書かれていない阿弥陀仏の御心が成就文で分かるのは事実ですが、だからといって、それが本願文に書かれていることにはなりません。書かれているのなら釈尊が成就文を説かれる必要はなかったのです。



> 本願に書かれているのに、私たちが読んでも分からない点を、
> 成就文で教えられているのです。

たぶんそう言うと思ってましたよ。
では聞きますが、漢文であるという点は同じなのに、
なぜ成就文ならば私たちが読んで分かるのですか?
私たちに分かりやすく説く能力が、阿弥陀仏よりも釈尊のほうが
優れているとでも言うのですか?

まあ、あなたは「表面的には書かれていないが、本質的には書かれている」と言いたいんでしょうね。そう言う前提でも、私の出した「薬」や「船」の喩えは有効ですから、それについてのあなたの見解を聞かせてください。特に、十劫安心になるという私の指摘にあなたがどう反論するのか楽しみです。

もし本願文が「書かれているのに、私たちが読んでも分からない」
ようなお言葉であるならば、なおさら、
「初めから成就文を出していれば良かったのに」
ということになり、T社の誤りが浮き彫りになるだけです。

もっと言えば、阿弥陀仏ご自身が初めから成就文のような
「私たちが読んで分かる」表現で本願を建立されれば良かったというような、
阿弥陀仏の言語表現にケチをつけるような発想につながりますよ。
とんでもないことです。
本願の内容は、あの36文字で書かれている以上でも以下でもないのです。

とにかく、親鸞聖人が本願文を
「全ての人を信楽に生ませさせ、そして浄土に生まれさせる」
という意味に解釈されたお言葉を出してください。

「表面的には書かれていないが、本質的には書かれている」内容が、あなたに分かるのなら、
親鸞聖人ならなおさら分かられたはずで、当然それを書き残されたはずですよね?

それとも、親鸞聖人でさえも分かられなかったことが、あなたには分かるのですか?
仮にそうだとしても、それを言ったら「親鸞学徒」ではありませんよ。

・・・

訂正:「生ませさせ」→「生まれさせ」

あと、法論で形勢が不利になると「文底秘沈」みたいなことを言い出すのって、よくある逃げ口上ですね。




ちなみに、「Cさんへさん」と「二歩訂さん」がヘンテコな反論をしてきましたが、
Cさんが登場する前に、速攻でオミットされてしまいました(笑)。

Cさんへ

>私たちに分かりやすく説く能力が、
>阿弥陀仏よりも釈尊のほうが
>優れているとでも言うのですか?

 いいえ。お釈迦様は阿弥陀仏のお弟子ですから、先生である弥陀の御心を伝えるのが使命なのです。その使命を果たされたのが成就文です。

>十劫安心になるという私の指摘にあなたが
>どう反論するのか楽しみです

「若不生者」と、必ず生まれさせると誓われているから、必ず信楽に生まれる時が来るのです。何か問題がありますか?
 なぜあなたのように、すべての人が、十劫の昔から、信楽に生まれたことになるのですか?

投稿 Cさんへ | 2008年6月 2日 (月) 23時33分



>>「若不生者」と、必ず生まれさせると誓われているから、
>>必ず信楽に生まれる時が来るのです。何か問題がありますか?

だから、その命題が真かどうかが議論になっているわけでしょ。
頭大丈夫?

信楽をえた人を必ず極楽に往生させると誓われているから
といって、その本願文だけでは、
「必ず信楽に生まれさせる」という命題をどうやって導き
出せるのですか?
あなたの根本的な間違いは、
結論ありきで物事を語るところですよ。
ちび丸さん!

投稿 え? | 2008年6月 2日 (月) 23時52分

>お釈迦様は阿弥陀仏のお弟子ですから、先生である弥陀の御心を伝えるのが使命なのです。その使命を果たされたのが成就文です。
 ↑
だから、本願成就文を根拠にしなかったチ●ーリップ企画のエラーは深刻ですよね(苦笑)。


>>「若不生者」と、必ず生まれさせると誓われているから、必ず信楽に生まれる時が来るのです。何か問題がありますか?
 ↑
こういうのを「思想先行」と言います。
貴方が注入された結論に都合の良い資料解釈をしているにすぎません(笑)。

清●問答に浄土宗の学者氏が書いてますよん(苦笑)。

http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-129.html

投稿 苦笑(本物) | 2008年6月 3日 (火) 00時02分

Cさん
(RE:2008年6月 2日 (月) 13時53分)
(RE:2008年6月 2日 (月) 21時13分)


>> 阿弥陀仏は十八願において
>>「すべての人を、信楽の心に生まれさせる。」
>>と誓われ、

>これこそが、証明すべき命題なのに、これを前提に話を進
>めているのは循環論法です。

十八願文に「設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国」
と仰っている通り、特に証明するまでもないことです。これ
については、ちゃんと田中氏も認めていますよ。
(2007 12/4(火) 参照)


>田中氏は一貫して「信楽を獲た人を浄土に生まれさせる」
>という意味に解釈していますよ。

>論点は、「信楽を獲た人を浄土に生まれさせる」というこ
>とから、「全ての人を信楽に生まれさせる」という意味が
>導けるかどうかです。

田中氏と貴方たち支持派の根本的誤謬は、

 ●本願と本願成就文の関係を正しく理解していない。
  (他にも指摘されている方がありましたが。)

 ●「信楽を獲た」という言葉は使っていても、その意味を
  頭だけでも正しく分かっていない。

だから、
>>親鸞聖人は「若不生者不取正覚」を当益として、
解釈されているとしか思えないのです。

上記のことを正しく理解すれば、
>とにかく、親鸞聖人が本願文を
>「全ての人を信楽に生ませさせ、そして浄土に生まれさせ
>る」
>という意味に解釈されたお言葉を出してください。
などという質問は、出てきようがありません。もっとも、そ
れしか追求点がないから、執拗に追求し続けているのでしょ
うが。

それにしても、『「全ての人を信楽に生まれさせる」という
意味が導けるかどうか』とは、不可解なことを仰いますね。
弥陀の本願は「誰のために・何のために」建てられた誓願な
のですか?それを分かっていないことの証左です。


ここでは『三経往生文類』のお言葉を挙げておきます。

「大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、こ
れを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、
必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、か
ならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因
なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』
の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と
申すなり。」

「真実の信楽をえたる人は、すなはち正定聚の位に住せしめ
んと誓ひたまへるなり。」

親鸞聖人は、十八願の往生を「大経往生」とも呼ばれ、
「念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。」
と、大経往生とは「念仏往生の願因」によって、「必至滅度
の願果」をうることであると仰っています。因果の道理は大
宇宙の真理、原因があってこそ結果が生ずるのです。

「現生に正定聚の位に住し」「真実の信楽をえたる人は、す
なはち正定聚の位に住せしめん」
これが「念仏往生の願因」であり、「現生での往生」です。
念仏往生の願は、十方衆生を相手に建てられた誓願であるこ
とは、言うまでもありません。

その「念仏往生の願因」があってこそ、
「かならず真実報土に至る」「無上涅槃のさとりをひらく」
という証果を得るのです。これが「必至滅度の願果」であり
「来生での往生」です。

つまり、親鸞聖人は「大経往生」には、
  「念仏往生の願因」(現生での往生)
  「必至滅度の願果」(来生での往生)
という、二つの往生があることを顕かにされているのです。
また田中氏も、往生に二つの意味があることを、前述の
「2007 12/4(火) 」の記事で自ら述べています。
(「若不生者」の「生」は、「往生」の意味であることも、
論をまたないことです。)

それを知っているにも拘らず、このお言葉だけでなく田中氏
が自説の根拠としている『尊号真像銘文』や『唯信鈔文意』
のご文にしても、二つの往生について述べられているのです
が、「若不生者不取正覚は、当益の意味だ!」と思い込んで
いるから、理解できないのでしょう。
投稿 二歩訂 | 2008年6月18日 (水) 02時53分

おう!久々ですね~!

さっそくロジックの矛盾を指摘しましょうかね。


>>>>>>
>> 阿弥陀仏は十八願において
>>「すべての人を、信楽の心に生まれさせる。」
>>と誓われ、

>これこそが、証明すべき命題なのに、これを前提に話を進
>めているのは循環論法です。

十八願文に「設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国」
と仰っている通り、特に証明するまでもないことです。これ
については、ちゃんと田中氏も認めていますよ。
(2007 12/4(火) 参照)
>>>>>>

田中さんはT社の主張がおかしいことを指摘しただけですがな(苦笑)。

★★田中さんの2007 12/4(火) の主張★★
「生るべからざるものを、生れさせたればこそ」の「生まれる」の意味が分かられないというご質問ですが、このご質問を読ませて頂いて、貴社の間違いの原因が判明した気が致します。

 貴社の一番の問題は、浄土真宗で「生まれる」といっても二通りの意味があることを理解しておらず、混同しておられることです。ここで「生」と「往生」は、ほぼ同じ意味と受け取って頂いて結構です。

 一つ目の「生」は、ビデオの内容で言えば「不体失往生」であり、生きている時に「信楽をえる」ことを「生」と言います。十八願では、「至心信楽欲生我国」に当たります。

 二つ目の「生」は、死んで真実報土に生まれることを言います。十八願では、「若不生者」に当たります。
 同じ「生」の字を使っていても、意味は全く違います。

 お尋ねの「生れさせたればこそ」の「生」は、「信楽をえる」ことであり、「不体失往生」のことですから、「若不生者」の「生」とは異なります。

 貴社では、これを「若不生者」の「生」と混同してしまわれたのではないでしょうか?

 「生まれる」の二通りの意味を知らねば、「若不生者」の「生」なのか、「不体失往生」の「生」なのか、間違えてしまいます。

 おそらく、「生まれる」という言葉にとらわれて、「生」と書いてあるものは、すべて「若不生者」の「生」と同じなのだと勘違いしてしまわれたのでしょう。それで、「若不生者」を、「不体失往生」の根拠として挙げてしまうという間違いを犯してしまわれたのだと拝察致します。
★★田中さんの2007 12/4(火) の主張★
投稿 苦笑(久ぶり!) | 2008年6月18日 (水) 11時16分

そういえば清●問答で、親●会で使われる「往生」の定義がおかしいことが指摘されていましたね~。

客観的な「資料」よりも高●先生の「味わい」を優先するから、
どんどん怪しいドグマができてきちゃうんですよ(苦笑)。

>>>
【上巻p.91~】往生について

(中略)

親鸞会教義の相対化・39
>>>

投稿 苦笑(久しぶり!) | 2008年6月18日 (水) 11時23分

【親●会おける、善知識の教えの位置づけ】


たてまえ)
釈尊=善導大師=法然上人=親鸞聖人=蓮如上人=高●先生

ほんね)
釈尊<善導大師<法然上人<親鸞聖人<蓮如上人<高●先生


たてまえでは釈尊や法然上人や親鸞聖人を権威付けに利用しながら、
ほんねでは、高●先生の言葉が一番大事なんでしょうがね(苦笑)。

別にそれでもかまわないけど、
高●先生のドグマを法然上人や親鸞聖人の責任にしないでほしいですね(苦笑)。

投稿 苦笑(久しぶり!) | 2008年6月18日 (水) 11時28分




さて、これを読まれたチ●ーリップ企画はどう出るでしょうかね~。
やっぱ得意の「無視」ですかね(苦笑)。


繰り返しますが、以下が(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点でっせ。

*不体失往生の根拠として「若不生者」を出したことがそもそも口伝抄の記述と異なる。
*親鸞聖人自身、「若不生者」を明確に当益で解釈されたのに、当益で解釈するのを「誤りだ」と親鸞聖人自身に言わせているのは矛盾している。
*百歩譲って、仮に「若不生者」に現益・当益の両方の意味があるとしても、その場合、体失往生か不体失往生かの決着を付ける言葉としては用をなさないので、やはり不適切。

「他力」の解釈が狂って「十劫安心を肯定」。

捏造した見解の基づいて論点をスライドしてもらっちゃ困りますね~(苦笑)。

かくて判明した(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相異点(前半)

チューリップ企画が主張する「かくて判明した根本的相異点」が、
悪質な論点スライド&問題隠蔽であることが明かになったので、

代わりに、これまでに明らかになった「根本的相違点」を挙げておきたいと思います。

ちなみにこの「根本的相違点」は、
「(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相違点」です。

親鸞会教義の相対化・40

>>>
「善恵房殿、それは、『若不生者不取正覚』の御文で明かです」
「親鸞殿、何か勘違いされておられぬか。その御文は、『若し生まれずば正覚を取らじ』と弥陀が誓われたお言葉です。一度死なねば生まれることはできませんから、それこそ、『死んだら助ける』の証ではありませんか」
勝ち誇ったように叫ぶ善恵房。
 しかしその時、すかさず聖人の言葉が四方を圧した。
「善恵房殿、あなたの誤りは実にそこにあるのです。『若不生者』の生まれさせると誓われたのは、この肉体ではないのです。魂なのです。心なのです。暗い心を明るい心に、不安な心を大安心に、苦悩渦巻く心を歓喜の泉に生まれさせると誓っておられるのです。人間でさえ、腹痛で苦しんでいる人に、『この世では止められるが死んだら治してやろう』という医者はありません。濁流に溺れて苦しんでいる人に、『今は救ってやれないが土左衛門になったら助けてやる』という人がありましょうか。まして況や、大慈大悲の阿弥陀仏が、『この世の苦悩はどうにもできぬ。苦しくても我慢しなさい。死んだら助けてやる』と誓われる道理がないじゃありませんか」
鋭い聖人の追求に善恵房すでに顔色なく、一言の返答もできなかった。これを、「体失不体失往生の諍論」という。
>>>

 チューリップ企画と田中さんの法論で話題の「体失不体失往生の諍論」の話題です。本書も、チューリップ企画のビデオと同内容であり、いずれも高森先生の『こんなことが知りたい』(2)pp.74-78「(21)親鸞聖人の三大諍論とは、どんなことか」から受け継いだ内容であると思われます。

>>>>
*不体失往生の根拠として「若不生者」を出したことがそもそも口伝抄の記述と異なる。
*親鸞聖人自身、「若不生者」を明確に当益で解釈されたのに、当益で解釈するのを「誤りだ」と親鸞聖人自身に言わせているのは矛盾している。
*百歩譲って、仮に「若不生者」に現益・当益の両方の意味があるとしても、その場合、体失往生か不体失往生かの決着を付ける言葉としては用をなさないので、やはり不適切。
>>>>

 これはチューリップ企画と田中さんの法論を掲載したブログで、親鸞会員と思われるAさんと場外乱闘をしていたBさんがまとめておられたことですが、高森先生の『こんなことが知りたい』、アニメ、そして本書は、共通して上記三点の批判を避けることはできません。



*不体失往生の根拠として「若不生者」を出したことがそもそも口伝抄の記述と異なる。
*親鸞聖人自身、「若不生者」を明確に当益で解釈されたのに、当益で解釈するのを「誤りだ」と親鸞聖人自身に言わせているのは矛盾している。
*百歩譲って、仮に「若不生者」に現益・当益の両方の意味があるとしても、その場合、体失往生か不体失往生かの決着を付ける言葉としては用をなさないので、やはり不適切。


チ●ーリップ企画の山田さんの発言をずっと読んでますが、
この指摘に対して答えられるような発言は全然出てきてません。

それがつまり、「(親鸞聖人の教えと親●会ドグマの)根本的相違点」ということになるわけですね~。

ちなみに、この問題に関してBさんと場外乱闘してたAさんは、
いつのまにかフェードアウトしてしまいました。
いちおう会話が成立する人なので応援してたんですけどね~(苦笑)。

場外乱闘現場より

Bさんは他にも鋭いツッコミを入れてましたので、
以下にまとめておきますね。

「現益(信楽)を獲た人に必ず当益を与える」と誓われたのが本願文です。それが成就したのですから、あとは「現益を獲させる事」に焦点が移るのは当然です。そしてその部分を明らかにされたのが成就文です。ですから、本願文と成就文の内容は同一ではありません。本願文の内容をそのまま解釈されたのが成就文、という認識を改めるべきです。親鸞聖人は、
「若不生者」を当益のみで解釈され、
「即得往生」を現益のみで解釈されました。
これは紛れもない事実です。歴史上いろいろな解釈はあったでしょうが、親鸞聖人のなされた解釈に忠実でなければ「親鸞学徒」とは言えません。親鸞聖人の解釈に従うならば、
「即得往生」≠「若不生者」は明らかです。それなのに勝手に
「即得往生」=「若不生者」だろうと計らって、
「若不生者」に現益の意味もあると主張するのは親鸞聖人の教えに反しています。(あなたがそう「味わう」だけなら自由ですが。)



親鸞聖人以前は「不体失往生」という概念はなく、
「往生」と言えばいわゆる「体失往生」に決まっていました。
その意味で、「即得往生」と「若不生者」とが対応していました。ところが、親鸞聖人が初めて「即得往生」を現益に読み替えられたのです。その結果、「若不生者」は当益なのに「即得往生」は現益ということで、「即得往生」≠「若不生者」という恰好になりました。だから私はわざわざ「親鸞聖人の解釈に従うならば」と前置きをしたのです。
では、「若不生者」も現益に読み替え可能ではないかと思うかもしれませんが、成就文の「即得往生」を現益に読み替えることができたのは、あくまで当益を誓われた本願が土台にあるからです。もしその本願文の「若不生者」までも現益に読み替えてしまったら、当益がどこにも誓われていないことになります。しかも、「当益が得られることが現世において確定したこと」を「現益」というのですから、当益が無いならば現益も無くなって、結局「無益」になってしまうのです。ですから「若不生者」を現益に読み替えることは原理的に不可能です。
まあ、理屈はどうであれ、「若不生者」を明確に現益で解釈された親鸞聖人のお言葉を未だに山田氏は出すことができないでいます。この事実だけで山田氏の敗北を結論付けるのに十分です。議論がいろいろな方向に拡散していますが、この法論は本質的に終わっています。



仏教の目的は成仏です。阿弥陀仏のお力によって、凡夫が仏覚に到達するまでの全行程を「横超の直道」と言います。「本願を信受した一念で51段高飛びして、凡夫が正定聚」も素晴らしいことですが、それはまだ通過点であって、一番すごいのは、正定聚になった人が阿弥陀仏の本願力によって仏覚に到達することです。
「51段から52段へはあと1段だから簡単なこと」と思っていませんか?
---------------------------------
弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるが故に、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大槃涅槃を超証す(教行信証)
---------------------------------
この親鸞聖人のお言葉から分かるとおり、弥勒菩薩が自力で51段から52段に到達するのに56億7千万年かかるのですから、「あと1段」がいかに大変なことか分かるでしょう。「大関になるのも大変だけど、大関が横綱になるのはもっと大変。(魁皇を見なさい。)」という喩えを聞いたことはありませんか? それに対し、【横超】の金剛心を窮めた人は、次の生ですぐに仏覚に到達するのですから、これは大変なことです。ゆえに、当益にこそ【横超】の真価があると言えます。まずは現益を獲ることが先決ですから私達が現益を重視するのは当然ですが、仏教の究極の目的は何かという、大局的観点を見失ってはなりません。



「横超」とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
(教行信証信巻)

「横超」とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなわち真宗なり。
(教行信証化土巻)

これらは、当益と対比して「【横超】とは現益だ」と言われたわけではありません。(そういう意図でここだけをピックアップするとそう思えるでしょうが、これっていわゆる「断章主義」ですね。)
「竪超」「竪出」「横出」と対比して「横超」の特徴を言われたものです。「願力廻向の信楽」を獲ること、「本願を憶念して自力の心を離る」ことは、いずれも「横超」を特徴付ける重要なプロセスですからね。

繰り返しますが、仏教の目的は成仏です。凡夫が仏覚に到達するまでの道程を大きく4つに分けられた中の1つが「横超」です。ですから、「横超」が仏覚への途中の段階までを意味するということはありえません。ただ、例えば4通りの登山道がある場合に、その中の1つを他の道と区別しようとしたら、通過点を指定するしかありません。(スタートとゴールは同じなのですから。)信楽を獲て正定聚に住するという段階を経ることが、「横超」が他の3つの道程と決定的に異なる点ですから、それによって「横超」の特徴づけをなされたのは当然です。


「超世の悲願」を聞けば現益を獲るというのは、その通りです。
だからといって、なぜ「超世の悲願」の内容が「全ての人を信楽に生まれさせる」ということになるんですか?

「薬を飲めば病気が治る」ということから、なぜ、「薬の中に『全ての患者に必ずその薬を飲ませてみせる』という働きが込められている」という命題が導けるのですか?



> 若不生者の「生」は不体失往生であることを、聖人は
>「即得往生は後念即生なり」(一念で、信楽に生まれるのだ)と
> おっしゃり

「即得往生は後念即生なり」は「即得往生」の解釈なのに、
なぜそれが「若不生者」の解釈になるんですか?
「若不生者」と「即得往生」がイコールかどうかを問題にしているのに、それを前提として話を進めるのは循環論法ですよ。

> 覚如上人は「本願の不思議をもって生るべからざるものを
> (信楽に)生れさせたればこそ、(18願を)超世の悲願というのだ」
>とおっしゃっています。

勝手に「(信楽に)」と補っていますが、その理由は何ですか?

(略)

今、一番の問題となっているのは覚如上人の
「生るべからざるものを生れさせたればこそ」
というお言葉が現益・当益のどちらを言われたものか、という点です。あの後、調べてみたら、その文の前にある「往生浄土の器もの」という言葉を受けて、実際に当益と解釈している本が見つかりました。私はその説を支持します。あなたが「現益だ」と主張されるのであれば、その理由を明確に述べてください。

>「生まれさせたればこそ」が当益ならば「生まるべからざるもの」とは何ですか。
> 正定衆の菩薩が死んで仏に生まれても、何の不思議ですか?

信楽を獲た人は、法徳から言えば「正定衆の菩薩」ですが、機相から言えば「煩悩具足の凡夫」のままですから、「生まるべからざるもの」であることに変わりはありません。「生まれさせたればこそ」が当益であると仮定しても何も矛盾しませんよ。

(略)

その進道の階次をいうとき、ただおなじき座席なり。しかるうえは、かならずしも俗の二種をしりぞけて、道の二種をすすましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちいる条、本形としては、往生浄土のうつわものにきらわれたるににたり。ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。


『浄土に生まれ、順序を言う時は、いずれも同じ座席についているのである。こうした訳だから、俗の二種を低く押し退けて、僧の二種を高く押し進ませる必要はないのに、婦人や在俗のものが、強いて法名を用いるのは、いかにもそのままの形では、浄土に生まれる器ではないと、嫌われているかのようである。ただ男女・善悪の愚かな人に、さかしらな才能を働かせない生地のままの姿において、本願の不思議な働きによって、浄土に生まれることが出来ないものをも生まれさせたからこそ、「いつの世にも超え勝れた願」と名づけたり、「一足とびにさとることの出来る捷径」ともいわれる訳である。この一章は、ことに曾祖師、並びに祖師以来、相伝え、受け継いできた眼目であって、強いてかりそめに扱ってはならないものである。』

(【改邪抄】親鸞述 石田瑞磨訳 平凡社)



CMに続く!

こう言えばよかったのよ!

これだったらいいんだよね~。
http://nigawaraihonmono.blog59.fc2.com/blog-entry-16.html

こういう事情があったわけなんだし、
田中さんからの最初のメールに、浄土宗の方が言ってはるように、
チューリップ企画は以下のように答えていたらよかったのにね~(苦笑)。

↓↓↓

これは友人が言っていたことですが、田中さんから指摘があった最初の段階で、山田さんが

「本願成就文を根拠にすべきでした、すみません。ただ、本願成就文の上から、十八願をこのように味わうこともできたと思います。けれども、これは明文上にない、個人の味わいに過ぎぬことですね。ご指摘いただいたことをしっかり受けとめ、本願成就文を根拠に、ますます現生からの救いの道に邁進したいと思います。」


というように対応しておられたら、田中さんもこれほど大きな問題にはしなかったでしょうし、私のような他宗の人間をあきれさせるようなことにもならなかったと思います。

 誠意のない対応や自浄作用の欠如から倒産に至った某高級料亭を反面教師にして、親鸞会がこれ以上の醜態を晒さないことを願います。
親鸞会教義の相対化・40
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-155.html



その願いも虚しく、残念ながら白い●人や赤●ではなくて、
船●吉●やミー●ホープの道を選んでしまっているようですけど(苦笑)。

あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。

あれだけもったいぶって、これかよ(苦笑)。
 ↓
<チューリップ企画山田さんの主張>
http://tulip-tanaka.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/2008_628_1057_8158.html

★『若不生者不取正覚』が不体失往生の根拠だと仰った、親鸞聖人の文章がありますか。
勿論、ある。
親鸞聖人のお言葉は、
『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)』
★貴方は「若不生者不取正覚」と「即得往生住不退転」はイコールだと仰るのですか。
イコールでなければ「一実・円満の真教」と言われるはずがないじゃありませんか。
親鸞聖人のお言葉は、
『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
本願を信受するは、前念命終なり。(即ち正定聚の数に入る。)
即得往生は、後念即生なり。(即時に必定に入る。又必定の菩薩と名くる也)』




しかも、速攻でボコボコにされてるし(笑)。
 ↓
<田中さんのボコボコ攻撃>

>『信受本願 前念命終(即入正定聚之数)
>即得往生 後念即生(即時入必定、又名必定菩薩也)
 
 
 この返答で、貴方の主張には、結局、根拠が無いことが、明白になりました。
 
----------------------------------------------------------
 
★「本願を信受する」とは、「本願に疑いが晴れる」ということです。
 
 
 尊号真像銘文には、以下のように記述されています。
 
『信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり。この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり。』
 
 
 つまり、「本願を信受する」=「至心信楽をえる」ということです。
 
 貴方の根拠は、「至心信楽をえる」と同時に「即得往生」するということが書かれているだけで、「若不生者」については触れられていません。
 
 
 さらに、尊号真像銘文は、以下のように続きます。
 
『「若不生者 不取正覚」というは、若不生者は、もしうまれずは、というみことなり。不取正覚は、仏にならじとちかいたまえるみのりなり。このこころはすなわち、至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり。』
 
 
 至心信楽をえた人、イコール「即得往生」した人が、死んで極楽浄土に生まれるのが、「若不生者」の「生」だと断定されています。
 
 当然、「即得往生」=「若不生者」は成り立ちません。
 
 
 貴方が主張するように、「即得往生」=「若不生者」であるならば、「若不生者」は「生きている間のみ」ということになり、上記の親鸞聖人の記述は間違いということになります。
 
 
 つまり、貴方の提示された根拠では、「若不生者」の「生」を、「信楽に生まれる」と解釈することは出来ません。




負け犬の遠吠え?(笑)
 ↓
「正しい親鸞聖人の教えが知りたいと熱望されている方々のために、継続して当ブログで、田中氏の主張を、8月1日から徹底検証したいと思っています。」
http://shinjin.info/2008/07/052002130.html
 ↑
この上、どんだけ恥の上塗りをするんでしょうかね(苦笑)。

まあ、僕も山田さんの主張を「検証」してあげますよ。
「徹底」する程の価値があるかどうかもわかんないけど(笑)。
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苦笑(本物)

Author:苦笑(本物)
「後生の一大事がわかってない」
「秋葉原の連続殺人犯を思わせる」
「どす黒い、蛇のような心」(これは後に撤回)

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賛成でも反対でもコメントは大歓迎!
放置プレイにするか、愛(?)を込めて返事を書くかは、
その時の気分しだいだけどね(笑)。

メル友慕賞中!!
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※私にメールで質問してもエエけど、
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